革命権、抵抗権考

 (最新見直し2006.6.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 今日、革命ないし革命家という概念が流行らない。しかしそれはナンセンスな話だ。史上の歩みは革命に貫かれているというのに。革命を首尾よく成功せしめた国々が歴史の中に生き残り、これに失敗した諸国と国民は歴史の舞台から抹殺されたというのに。何ゆえ、革命ないし革命家を排斥する必要があろうか。

 どうしても革命という用語が嫌いなら革新でも良い、改良でも良い。何らかの新陳代謝を想起すれば良い。これが要らないなんてことはないだろう。まず、このように認識すべきだ。それから後に、如何に如何なる方法でやり抜くのかこれを論議すればよい。

 その昔、れんだいこの高校時代の現代国語教科書(確か坂口安吾だと思うが題名は忘れた)に、「きのことふぐの話」が載っていた。その云うところによると、我々が今日きのこやふぐを食用している背後には、並々ならぬ研究と犠牲者のお陰であるということを知る必要がある云々というものであった。これは卓越した論であり、実にそうではないのか。それを思えば、革命ないし革命家という概念が流行らない時代のほうがどうかしているわさ。

 問題は、革命つうのは漫画のように正邪がはっきりしていて正義が悪を退治するというようなものではないということだ。全てにオマンマが関係しており、更に未来社会の青写真が争われているという本質上かなり高等な事業なのである。だから一朝一夕にはいかないし、優秀な頭脳を持つ指導者の登場をまって一挙に進展していくことになる。場合によっては、その革命自体が虚妄ということもある。だから難しい。しかし、時代のテーマを見据え、これに果敢に挑戦し、何らかの改良、革新、革命に成功した者達だけが時代をこじ開けていったことだけは確かである。

 今日、ソ連邦が崩壊しロシアに戻ったが、そのロシアにしても元々は西欧の辺境の後進国であった。そのロシアがロシア10月革命を通じて初めて急速に史上の雄国に台頭していったのは事実である。その後の建国革命に失敗したが、停滞を打ち破った功績は大きい。中国にしても然りである。元々戦前までは常に内戦状態で、海外列強の帝国主義的侵略に翻弄され続けていた。それが戦後のどさくさの過程で、毛沢東が率いる中共軍により独立革命に成功し、海外列強の帝国主義的侵略をはじきだした。その後の建国革命に失敗したが、それでも独立革命の功績が大きく、今日の隆盛の源をつくっている。

 革命の偉業とはこういうものである。何ぞしたり顔して革命を排斥することのあるらん。

 2003.10.19日 れんだいこ拝


【中国の古代史書「書経」の回天論】
 中国の古代史書「書経」の「大誓篇」に「天の視るは我が民に視るに自(したが)い、天の聴くは我が民に聴くに従う」という一節がある。「離婁章句」は逆の観点から次のように述べている。
 意訳概要「暴君の尭王の紂王が天下を失ったのは人民を失ったからであり、人民を失ったとは民心を失ったからである。天下を得る方法は一つしかない。それは人民を手に入れること、人民を手に入れるとは民心を手に入れること、これである。暴君に放伐(放逐、討伐)してもそれは反乱には当らない。なぜなら、仁を賊(そこ)なう者これを賊と云い、義を賊なう者をこれを残と云い、暴君とは『残賊の一夫』に過ぎないからである。『残賊の一夫』が放伐されるのは正義である。従って、湯が桀を放ち、武王、紂を伐(う)てるのも、残賊『一夫紂』を誅殺しただけで反逆ではない」。

【西欧の革命回天論】

 西欧でも、革命回天について種々に考察されている。ロックの「市民は抵抗権を持つ」という抵抗思想、ルソーの「社会契約論」、「エミール」等での「理性重視」思想がアメリカの独立宣言、フランス革命、人権宣言に繋がったことは周知の通りである。





(私論.私見)