縄文に帰れのすすめ |
(最新見直し2013.03.18日)
【縄文生活のすすめその一、TPP批判】 |
2013年3月現在、世は第二次安倍政権の下、TPPなる洋文字政策の受け入れを廻って喧騒している。これまでも日本の貴重な国家資源が順次個別撃破でやられているところ、こたびは農業、医薬その他諸々の産業圏に手を入れようとしていると云うことだろう。関税撤廃による自由競争が売りのようだが、価格に馴染まない安全基準、品質基準までも自由競争の渦に巻き込まれるとすれば無茶である。要するに国際金融資本から見て都合の良い分野が無関税自由化と云う名の下で優勝劣敗化させられるのだろう。 これを請け負っているのが米国のオバマ政権である。オバマは最初の大統領選ではチェンジと叫び何やら人気を拍したが、今となっては小泉の「聖域なき構造改革論」の雄叫びと何ら変わらない代物に過ぎなかったことが透けて見えてくる。通りで愛きょうのあるようでない、どこなく淋しさのある変な感じのオバマ印象が拭えない訳だ。日本は今、このオバマを手代として国際金融資本の仕掛ける経済の鉄火場に引き入れられようとしている。賭場(とば)だから稼ぐ者も出るだろうが、ばくち場そのものが細工されているので一番稼ぐのは胴元だろう。国際金融資本が一番儲かるようにできているのは自明だろう。 TPPなるものは要するに国際金融資本の新たなマネーゲームでしかない。金融マネーゲームに飽いたから、と云うか金融マネーもあらかた勝負がついて巻きあげてしまったので、次の稼ぎ口として実物経済に網を掛けようとしていることになる。連中のタルムードユダヤ頭脳は、どこまで云ってもマネーゲーム商法から抜け出せれない。各国の政財官学報司警軍の八者機関を押えているので、あごのしゃくり一つで何でもできると思いこんでいるのだろう。しかしなぁ、連中のすること為すこと、その余裕の裏で次から次と尻に火が付いているようにも見えるからお笑いだ。 もとへ。そういうことが云いたかったのではない。世がこういう「我さ良ければ」式の我利我利亡者社会になればなるほど、人は真逆のものに憧れると云う法理がある。れんだいこブログはこのところ日本古代史関連をものしている。これもTPPの影響ではなかろうか。純然たる学問的興味からアプローチしているのではなく、古代史探訪から透けて見えてくる縄文時代の社会を知り、この時代から始まり今日まで営々と築かれてきた生活規範に学ぶものがあることを知り、この方向に転進すべく調整しているのではなかろうか。実際は理屈ではなくむしろ感性的に「現代文明的欧化に対する飽き」を原因として縄文日本探求の旅に向かおうとしているのだろう。 福島原発事故の影響は実は思われている以上に大きい。被害はこれから本格化するが、最も重要なことは我々のライフスタイルの転換を促すのではなかろうか。国際金融資本に誘われる社会からの決別の意思は根強いものとなったのではなかろうか。連中の誘う社会が重度の病気的な文明であることが分かって来た。れんだいこ的には福島原発事故が止めを刺した観がある。我々は一刻も早くタルムードユダヤ頭脳の汚染から撤退し、我々の遺伝子が血肉化している縄文系伝来の生活に戻すべく歩み始めるのが賢明だろう。その溝が次第に非和解的になりつつある気がする。 2013.03.18日 れんだいこ拝 |
【縄文生活のすすめその二、縄文時代の暮らしぶりぶりに目覚める必要考】 |
無論、今さら全てを縄文時代に戻す訳にはいかない。現代生活に立脚しながら、縄文系伝来の生活の方に合理性があると認められるものを取り入れようとしている。そう気づいただけでも値打ちがあろう。 例えば食事。過度の肉食が良くないのは自明である。現下の肉食流行りは様々な病気を生むと思っている。魏志倭人伝、ホツマ伝え等から判明することは、我々の祖先は菜食を好んで来た。日本人の野菜好きはこれによる。体が野菜に慣れている以上これに従うのが良い。食事は海のもの山のもの野のものをバランスよく摂るのが良い。新鮮なものが良いのは当たり前である。近代農法の農薬付け作物には極力手を出さない。遺伝子組み換えのものも避けるに越したことはない。米は美味しいが縄文時代の主食ではない。時には縄文系の蕎麦を食べた方が良い。うどんは蕎麦の一種だろう。 縄文時代は雑穀類のものを麺か団子にして鍋料理にしていたのではないかと思っている。実に野菜のダシがおいしい。相撲取りのちゃんこ料理なぞは鍋料理の粋だろう。食前食後にはお茶も嗜む。最近は緑茶を茶人のようにして飲む。これに慣れると化学飲料系のものが舌をさして飲めなくなる。アルコールも同じ理屈である。洋酒も良かろうが日本酒が見直されるべきである。日本酒は全国各地に地酒があるので、口に合う酒を探せば良かろう。 服装も和装にしたい。下着はいつの間にかパンツになっている。子供の頃からのブリーフは締め付けが嫌でパンツの解放感が良い。寝る時の寝巻も上下一体の頭から被れるものにしている。パジャマ式のは臍(へそ)の辺りに違和感を感じて性に合わない。靴下も指股のものにするか足袋にしようと思っている。昨年あたりから夏場は下駄を履くように心がけている。これが実に爽快である。今年辺りは一枚下駄に挑戦してみようかと思っている。体のバランスを取ろうとして脳が活性化するのが面白い。踏みしめた感じが残る藁(わら)草履も良いだろうと思う。住についても南向き通風の良い木造家屋が良いだろうと思う。 2013.03.18日 れんだいこ拝 |
【縄文生活のすすめその二、縄文時代の生きかたぶりに目覚める必要考】 |
そういう衣食住を真似るだけでなく、縄文人の考え方、行い方をも合わそうとしている。欧米的な学問は伽藍(がらん)は立派だが中身が空疎な張りぼてのようなものではないかと云う気がしてきた。それを隠す為に入り口を小難しくしているだけで奥行きに深みがない。そういうものを幾ら学んでも実践に応用できない。否ますます離れる。学者バカが生れる所以である。まっ連中は、飯の種として煙巻き学問しているのであろうから、責めるのは野暮かも知れない。要するに職業と云うか商売なんだろう。我々には縄文時代から営々と伝承されてきた諺と格言の智恵がある。これを学ばぬ手はない。 学問で云えば、マルクス主義の階級闘争論もナンセンスと思うようになった。元々階級階層があっても、世の中つうのはほど良いところで助け合い構造になっているのではないのか。その折合いの合理性を求めて政治闘争があるのであって、そういう政治闘争は永遠に続くべきものであって、その辺りを見ずにブルジョアジーとプロレタリアートの最終の階級決戦で諸事解決されるなんて云う論の構図がナンセンスなのではなかろうか。アナーキズムの魅力も捨てがたいが、何もわざわざ西欧式のアナーキズムを学ばなくても、日本伝統の世直し世の立て替え一揆思想で十分と思うようになった。こう考えた方が性に合う。 こういうことを述べ始めたらキリがない。要するに縄文時代の暮らしぶり生きかたぶりに目覚める必要を感じている。それを我が身に実践してみて良かったら人様にもすすめたいと思っている。今のところ少しずつ取り入れ始めているが不便を感じることはない。むしろ清々しい。この生活作法を広めたい。と云うより既に猛烈な勢いで縄文回帰が始まっているように思える。何か根底のところで地殻変動が起り始めているような気がしている。政治のますますの欧化に反比例しているところが滑稽である。 2013.03.18日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)