情報解析論

 (最新見直し2011.05.07日)

【情報解析論】
 既に同種の論を手を替え品を替え論じているが、ここでは情報解析論と題して新たな視点から確認しておく。情報解析論とは、「あまたの情報から何を選びどう解析するかの論」と云う意味である。時は今、2011.3.11日発生の三陸巨大震災に伴う福島原発事故に関して原発推進御用学者の愚昧知見を嫌と云うほど聞かされた後であり、頃合いが丁度良い。我々は、御用学者の言から如何に学ぶべきか学ばざるべきか、反面教師として何を確認すべきか、これを問うことにする。

 現代世界は過去の時代のそれよりも巨万の情報洪水に溢れている。こういう時代だからこそ情報解析の必要が必至の時代となっている。このことに異存のある者は居るまい。問題は偏に情報洪水の中から如何に正しく知見を得るのかにある。知見の混乱が意図的故意に誘われているご時世でもあるので、我々はその手法を早急に見出すべきである。これなしには日常生活の知恵も学問的営為も少しも進展しない。ことほど左様に情報解析が重要な時代になっている。この知恵はどのようにして獲得できるのだろうか、以下これにつき愚考する。

 本稿を書き上げておこうと思ったのは、亀山幸三氏の「戦後日本共産党の二重帳簿」を読み、ある種の思いを抱いたことによる。これにより話が堅くなるのは致し方ない。以下の例証を通じて一般的な話に転換すればよいと思う。亀山氏は同書で、戦後日本共産党史の裏面を書き綴っている。この種の同類の著作として小山弘健氏の「戦後日本共産党史」、増山太助氏の「戦後期左翼人士群像」がある。いずれも、最高指導者ではないいわば小官僚の裏資料的戦後日本共産党史論と云うところに特徴が認められる。その功績は、指導者の戦後日本共産党史論が指導者故に表向き建前論に陥り易いのに比して、その建前から逃れているところに値打ちがある。問題は、そのでき映えにある。指導者の戦後日本共産党史論に比して、どこが有益でどこが貧相なのかを見極め、判断査定せよと云うことになる。何事も情報なり知識なり、こう問わなければ消化的摂取できないと心得るべきではなかろうか。

 れんだいこの結論は「群盲、象を撫でる」の感を深めている。なるほど三者三様の三書とも裏資料的価値に於いて貴重な情報を開示している。問題は、それらの情報をどのように位置づけ解析しているのかにある。この点で、そういう私論を提起したこと自体は良い企てであり、これを咎めるものではないにせよ甚だお粗末な私論の域を出ていないように思われる。その原因を訪ねるのに、三者三様の三書とも、そもそもに於いて戦後日本共産党論を語る場合に避けて通れない徳球派対宮顕派の根底的対立に対して宮顕派に位置していた人物であれ、ここにそもそもの狂いがあるのではないのか。この打ったての狂いから全てがねじ曲がっているのではないのか。三者とも後に宮顕派擁護的視点から決別して宮顕批判に転じており、その限りに於いて多少とも有益な内部証言をしていることで共通しているが、初手の徳球批判の見地の誤りから抜け出せておらず、その点で不十分な宮顕批判止まりになっているのも致し方あるまい。

 もとより徳球批判が間違っていたと云うのではない。人は誰しも神ではないのだから徳球政治にも間違いなり不十分さなり限界なりが認められるのは確かである。問題は、徳球政治の誤りは同志的批判の範疇で為し得るのに根底的批判に転じており、宮顕政治の批判の場合には根底的にせねばならぬのに同志的批判の範疇で為している逆さま性にある。この構えの錯誤により、幾ら資料を取り寄せ弁じても隔靴掻痒の感を免れ難いことになる。三者三様の三書の共通の誤りは共にこの傾向下にあることによると推断したい。

 戦後日本共産党史論を探せば他にもある。安東の「戦後日本共産党私記」、津田道夫氏著「思想課題としての日本共産党批判」、中野重治の「甲乙丙」等々。単なる愚痴綴りの日本共産党史論まで含めれば山ほどあると云って良かろう。しかし、幾らそれらの書物を渉猟しても、同様の観点の誤りを免れていない。而して、情報を幾ら寄せても情報処理の観点の誤りによって生彩を欠いていることになる。逆に、伊藤律の「伊藤律回想録―北京幽閉二七年」の方がそのまま腑に落ちる。当然このことは指導者の戦後日本共産党論にも当てはまる。徳球、宮顕、志賀、野坂、神山、春日(庄)のそれがあったとして、どちらの弁が腑に落ち腑に落ちないかと云うことになる。

 ここに、読み手の能力が問われている。つまり、情報解析が如何に重要かと云うことになる。れんだいこは、これが云いたい訳である。ならば、この正しい情報解析論の視点を如何に獲得すべきか。これを学問で得ようにも、書籍を含めた学問自体がある特定の観点の下に練られているからして同様傾向の書物を幾ら読み漁っても、真実の観点に辿り着くのが難しいと云うジレンマがある。ならば、いつどうやって真実の観点に辿り着くことができるのか、それが問題である。

 実のところ、真実の観点に辿り着く特効薬と云うものはない。あるのは、真実の観点に辿り着く処方箋のみである。これに早く気付き、その処方箋を手にするところから始めるのが良かろう。では、その処方箋とはどういうものか。以下、これを愚考する。普通には、こういうことは哲学的思弁的に語られる。何やらややこし過ぎるカント哲学、ヘーゲル哲学の域に踏み込まねばならないことになる。しかし、そういう西欧哲学の思弁が本当にどれだけ優れているのか、知るべきではあろうが疑問でもある。そこで、れんだいこは、慣れ親しんだ東洋的手法の特徴である実践躬行的知見で迫ることにする。正しい知見を得る為には、逆の知見に陥る可能性の仕掛けから抜け出さねばならない。その為には次のような手立てを講じる必要がある。

 一、理論なり指導力が実践で検証され、実践で不具合なものは理論が再点検され、指導部は責任を取る作法を確立することから始めねばならない。この逆は「居直り説教、捲土重来責任論」であり、これを許してはならない。重要案件に対する責任ケジメを作風として確立せねばならない。一兵卒たりとも、この観点から逸脱してはならない。
 一、時々の文書、会議録が極力精緻に遺され、公開され、原文の改訂は許されないとすべきである。これは常識であるが、邪な者はこれができない。一兵卒たりとも、これを要求すべきである。
 一、方針、論文の執筆者は誰であるのか特定されねばならない。委員会名による声明の場合でも、文責者を明示する作風が確立されねばならない。誰の手になるのか分からない秘密文書は怪しまねばならない。一兵卒たりとも、これを要求すべきである。
 一、過去の言説と違う新説への転換時には、弁明、自己批判を介在させねばならない。上手に口を廻し、過去の言説との齟齬を有耶無耶にしたままの路線転換は許されない、許してはならない。これが子供の政治と大人の政治との分水嶺である。
 一、意見、見解の相違を常態として相互に認め合い、議論の場を封じてはならない。挙党一致なり民主集中制なりはその後の話であって、異見、反対派の処遇を粗雑にしたうえでの一枚岩など有り得てはならない。
 一、党史編纂の場合には、党中央派の議案と反対派の対案の両論併記をした上での採決案の確認をせねばならない。党中央派による一方的な断罪弁論を許してはならない。

 いわば、以上の公理を確立すれば良いだけのことである。これができない者同士の政治闘争は猿芝居であり生産的なものにならない。いわゆる政治が遊び人の域に堕してしまう。是非論以前のこととして踏まえるべきであろう。さて、正しい知見はそれからのことである。かく構えても正しい知見が得られるかどうかは分からない。正しい知見がどこから由来するのかは分からない。永遠の未来にあると云えなくもない。例えそうであれ、以上に述べた逆の知見を封じる手当を施してからの旅路になるべきであろう。

 これが、亀山幸三氏の「戦後日本共産党の二重帳簿」読了後の感概である。このことを確認してから、亀山氏の貴重資料公開の置き土産(みやげ)を取りこませて貰おうと思う。最後に、本書をお借りさせていただいた山椒魚先輩に謝礼しておく。先日はどうも温かいもてなし有難うございました。これを持ちまして御礼の言葉とさせていただきます。

 2011.5.7日 れんだいこ拝







(私論.私見)