人生論の根本命題考 |
(最新見直し2013.10.25日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「人生論の根本命題考」をものしておく。 2013.10.25日 れんだいこ拝 |
【人生論の根本命題考】 |
「人生論の哲学上の根本命題考」をしておく。この問いかけに東洋と西洋で差があるとは思わなかったが、無視ではない差があると思うようになった。これを確認しておく。日本に伝わる西欧哲学、と云っても後述するようにそれはフリーメーソン哲学のことを云うのだが、そこでは「生きる意味は何か。人はどこから来てどこへ行くのか」と問うと了解している。れんだいこは、この問い方が臭いと思うようになった。これを説き明かしてみる。 前段の「生きる意味は何か」は万国共通であるからして良い。後段の「人はどこから来てどこへ行くのか」が臭い。こういう問いかけの仕方が何となくフリーメーソン的なのではないかと判じている。フリーメーソン哲学以外では、「人はどこから来て」も「どこへ行くのか」も分からないままに何となく了解して敢えては問わない。フリーメーソン哲学にして始めてこう問う癖があると見なすべきではなかろうか。そういう意味で、フリーメーソン特有の問いかけ方ではなかろうかと思っている。フリーメーソン的教説ではどういう「解」を用意しているのか分からないが、問いかけ方そのものが。フリーメーソン的であることが了解刺さればよい。 フリーメーソン以外の世界の哲学、なかでも東洋哲学では、「人生論の哲学上の根本命題考」につき、「生きる意味は何か。人はどう生きるべきなのか」と問う。してみれば、東洋哲学で「人はどう生きるべきなのか」を問うところが、フリーメーソン哲学では「人はどこから来てどこへ行くのか」とすり替えられていることになる。実は、この差が大きいと見なすのがれんだいこ史観である。解説不要とも思われるが確認しておく。 「生きる意味は何か」は東洋でも西欧でも世界共通の問いである。且つ「解」を見出すのに四苦八苦しており今後とも同様と思われるので、ここでは問わない。問題は、東洋哲学の「人はどう生きるべきなのか」とフリーメーソン哲学の「人はどこから来てどこへ行くのか」の差にある。この差は何を意味しているのだろうか。漠然と東洋と西洋、東洋とフリーメーソンの差として見逃してよいことだろうか。れんだいこ史観は意味のある差ではないかと思い始めた。以下、思うところを記しておく。 東洋哲学は、「人はどう生きるべきなのか」を真剣に問うところに特徴が認められる。これにより様々の規範、道徳、倫理、宗教が編み出されている。本来は西欧哲学でも同様の知見があったであろうが、西欧哲学がフリーメーソン哲学に侵されて以降、こういう問いをしなくなったのではなかろうか。それは、西欧のみならず近現代史に於いて世界中がフリーメーソン哲学に侵されて以降、こういう傾向を強めつつあるように思われる。れんだいこは、世界がフリーメーソン哲学に席巻されるにつれて、「人はどう生きるべきなのか」を問う規範、道徳、倫理、宗教が弱まり始めたと思っている。この状況を、そろそろ歴史的に客観化させ対峙せねばならぬのではなかろうか。 以上の問題意識から、フリーメーソン哲学では何故に「人はどう生きるべきなのか」を真剣に問わないのかを解明する必要がある。もう一つ、「人はどう生きるべきなのか」に於ける日本的解を知る必要がある。そして、両者が見事な対照、徹頭徹尾逆の知見を得ていることに気づく必要がある。以下、これを概述してみたい。(ひとまず、ここまでを記しておくことにする) 2013.10.23日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)