陰謀論考(陰謀論批判の陰謀的観点を駁す)(「シオンの議定書」の歴史的位置付けを廻って、陰謀論批判の批判) |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.1.15日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで陰謀論を考察する。 2006.10.29日 れんだいこ拝 |
【A面B面陰謀論考】 |
ここで陰謀論を考察する。私の見るところ、陰謀派に属する者が頻りに陰謀論を否定し、政治党派の与野党問わずの殆どがこれを受け入れている。これを仮に「陰謀派の陰謀論否定陰謀論」と命名する。この命名はややこしいので簡略な名称を考案すると、仮にレコードのA面B面的識別により、陰謀派の陰謀を暴く陰謀論をA面陰謀論、そのA面陰謀論を否定する陰謀論をB面陰謀論とする。この識別をしないと陰謀論議論が噛み合わず互いの云い得云い逃げのすれ違いのまま推移することになる。世の主流はB面陰謀論の方である。世に必要なのはA面陰謀論の方である。ところが、この方面の立論がからきしできていないか弱過ぎる状況にある。本稿はこの軟弱を撃つ試論である。 驚くことに(よく考えると驚く事でもないのだが)、B面陰謀論を最も生硬に唱えるのはマルクス主義系サヨ派である。れんだいこの察するところ、その主張はこうである。即ち、A面陰謀論はマルクス主義的歴史法則を弁えずに特定の陰謀集団が歴史を動かしているとしている。このような見方は非マルクス主義的でありまじめに検討するに値しないものである云々。この立場に立つマルクス主義系サヨ派に限って不思議というか当り前というべきか、西欧史ではユダヤ人迫害史に注目し、「哀しき流浪の民ユダヤ人」に同情し、返す刀でナチス批判に向かい、ヒトラー及びその取り巻き要人たちを狂人扱いし、ホロコースト批判を繰り広げる。我が日本史に目を転ずれば、大東亜戦争批判、戦前軍部批判、天皇制批判に向かい、南京大虐殺批判、それに纏わる諸事件のフレームアップを弁舌する。戦後史では、中近東に於けるイスラエル建国を賛美し、大イスラエル主義の下でのイスラムの民排撃史を正当化している。興味深いことに、彼らは概ね著作権強権化、その全域全方位拡大というスタンスで共通しているように見える。 こうなると、明らかに政治的意図を持って登場している訳で、A面陰謀論派は、単にA面陰謀論を述べるだけでなく、B面陰謀論批判をもせねばならない。その社会的背景を考察せねばなるまい。そういう訳でここにサイトを設けることにした。サイト名を「陰謀論批判の陰謀的観点を駁す」とする。 |
【「シオンの議定書」をどう見るのか】 | |
いわゆる「歴史的ユダヤ世界裏政府の世界征服支配的陰謀論」について論評する。れんだいこが気づいたことに、陰謀論と云う表題の受け取りようが真反対から為されており、どちらも通用しているという不思議さを見せており、為に混乱している。と云うか混乱させられている。そこで以下、その紐をほどいておこうと思う。 どういうことかと云うと、或る人は、陰謀論と聞けば、荒唐無稽の作り話のように受け止めている。別の或る人は、陰謀団体の存在、その危険性を指摘し警鐘している。ならば、どちらが正しいのか議論されれば良いのに、正面切っての論争にしようとしない。これって不思議なことではなかろうか。陰謀論の指摘する事象が存在するのかしないのか、荒唐無稽なのかはっきりさせれば良いだけのことなのに、なぜ議論がそう進まないのだろうか。おかしなことである。 この疑問を決着つける意味で、「シオンの議定書論」の占める史的意義が高い。陰謀団体否定の為の陰謀論を唱える者は、世界裏政府の存在を否定し、「シオンの議定書偽書論」に立つ。陰謀団体の存在を指摘し陰謀論を唱える者は、世界裏政府の存在を肯定し、「シオンの議定書実書論」に立つ。そういう意味で、「シオンの議定書論」は、陰謀否定論と陰謀実在論のリトマス試験紙的分水嶺となっている。 実書論の立場に立つれんだいこは次のように認識している。
かく認識するれんだいこには、「シオンの議定書」を読解することは、これが世に現れて以降の政治家には必須の素養文献であると思われる。だがしかし、そのようには扱われてこなかった。ネオシオニズムがこれを掣肘するのは当然としても、養豚されたサヨ勢力によっても偽書プロパガンダされ極力隠蔽され続けることになった。その歪みが現代政治に大きな影響を与えている、と見るのがれんだいこ史観である。 2006.10.27日 れんだいこ拝、 |
【「シオンの議定書」のその後のバージョンアップ過程】 | |
その「シオンの議定書」も今日では古典になってしまった。現在ますます盛んなネオシオニズムは、「シオンの議定書」をより精緻にした「現代版シオンの議定書」の策定に入っていると考えられる。「季刊・真相の真相第3号」に注目すべき論文が紹介されている。1982.2月、世界シオニスト機構の機関評論誌「キヴー二ム(指針)、ユダヤ主義とシオニズムに関する評論」に掲載された「1980年代のイスラエルの戦略」がそれである。この論文の執筆者は不明であるが、翻訳者はエルサレムのヘブライ大学の有機化学教授にしてイスラエル人権市民同盟議長のシャハク教授ということである。 「1980年代のイスラエルの戦略」の内容は、次のように説明されている。
このように立論する時決まって「サヨ派による陰謀論批判」が頭を掠める。しかし、連中は一体何を根拠に「陰謀論批判」しているのだろうか。れんだいこに云わせれば、連中の「陰謀論批判」こそ宗教ではないのか。そうでないと云うのなら、「陰謀論批判」の根拠を開陳せねばなるまい。根拠を述べずに批判だけするのは、盲信が批判に代わっているだけの批判宗教ではないのか。最近「ホロコースト真理教」という造語に出くわした。それをもじれば「陰謀論批判真理教」と命名すべきかもしれない。 れんだいこの見るところ読むところ睨むところ、ユダヤ教パリサイ派によるネオシオニズム原理主義運動は、この間数千年に亙って歴史を動かしている実在力である。これに疑問があるなら議論すれば良い。丹念にすればするほど良い。れんだいこに云わせれば、これをそれとして認めて科学するのが本来の学問であろうが、これを隠蔽する役割を果たすエセ科学が流行っている。仮に「ネオシオニズム・テキスト」と命名すれば、「ネオシオニズム・テキスト」の習熟度が博士号の基準になっているかの如くである。 しかし、「ネオシオニズム・テキスト」というエセ学問をいくら学問してもすればするほど却って馬鹿になる。実際に元々の馬鹿がこの学問に近づく。これが為、エセ学問することによって更に馬鹿になった手合いが多い。このことに気づかない者は、連中の肩書きに騙されているだけのことである。この馬鹿がしたり顔して、ネオシオニスタン政府の御用提灯役を引き受けている。これをエピゴーネンと云う。エピゴーネンが今や、我が国の政財官学報司警軍の八者機関上層部に巣食っている。この連中がネオシオニズム教理を信奉し売国政治に加担している。 連中は口先では愛国的愛民族的言辞を弄す。しかし、云うことよりも為す事を見れば瞭然である。国富の外資売りであり、国家中枢機関の民営化という名目での機密情報漏洩である。そして、軍事危機を叫ぶ程度にあわせた財政支出による国家累積債務の天文学化である。分かりやすく云えば、国の売渡しである。 我々は、これらに抗する為の理論と実践を創立せねばならない。その手始めが、「陰謀論批判の批判」である。「陰謀論批判の批判」にはそういう重要性がある。 2006.10.27日 れんだいこ拝、 |
【「見えざる世界政府 ロックフェラー帝国の陰謀」 考】 | |||
「見えざる世界政府 ロックフェラー帝国の陰謀」が次のように述べている。
|
【ケネディー大統領暗殺に絡む『陰の政府』考】 | ||
「影の政府」その他を参照する。 アメリカ太平洋艦隊総司令部に情報将校として勤務していたウィリアム・クーパー氏は次のように証言している。(「アメリカ政府文書 オペレーション・マジョリテイ、グラッジ・ブルーブック・レポート#13」参照) ちなみに、ウィリアム・クーパー氏は殺害されている。
|
【陰謀史観批判を批判する】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「陰謀史観(コンスピラシー・セオリー)の虚実」なるサイトに出くわした。これを検証する。執筆者(以下、仮にAとする)の他の論考から察するのに悪意はないようであるが、「ユダヤ人問題」に関するとなると途端に腰が引ける一般的傾向を見せている。題下に「陰謀史観はハッタリ、でも陰謀はそこらじゅうに存在している」と付してあり、そのスタンスが分かる。では、Aはどのように「陰謀史観はハッタリ」と云いなしているのだろうか。(読み易くするために、れんだいこ文法に則り編集替えする) Aは、「1.陰謀史観とは」で、陰謀史観を次のように規定している。
Aは、陰謀史観が醸成される背景を次のように説明している。
Aは、「2.陰謀史観あれこれ」で、陰謀史観の論拠を次のように紹介している。
Aは、続いて次のように付け加える。
Aは、続いて次のように付け加える。
Aは、「 3.陰謀史観の背景」で、陰謀史観の背景を次のように紹介している。
Aは、「 4.陰謀は存在しないのか」で、陰謀史観批判論者論拠を次のように紹介している。
Aは、続いて次のように問う。
Aは、続いて次のように問う。
Aは、続いて次のように問う。
Aは、続いて次のように問う。
Aは、「 5.強力な集団に陰謀など必要ない」で、Aは次のように述べている。
Aは、続いて次のように問う。
Aは、続いて次のようなベクトル図を示している。 Aは、「6.陰謀史観の危険性と陰謀が存在することの現実性」で、Aは、ナチスの犯罪について次のように述べている。
Aは、続いて次のように云う。
|
【木村愛二氏の偽イスラエル政治神話論】 | ||||||||||||
木村愛二氏の「(その31)へ 『偽イスラエル政治神話』一括リンクへ」の「世界操る国際金融 これからのシナリオ(1)」を転載しておく。
木村愛二氏の「(その31)へ 『偽イスラエル政治神話』一括リンクへ」の「世界操る国際金融 これからのシナリオ(2)」を転載しておく。
木村愛二氏の「(その31)へ 『偽イスラエル政治神話』一括リンクへ」の「世界操る国際金融 これからのシナリオ(3)」を転載しておく。
|
れんだいこのカンテラ時評bP185 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年11月11日 |
戦国期の研究を通じての陰謀論考 戦国武将家伝書考をしながらふと気づいたことを記しておく。その最たる例は本能寺の変であるが、明智光秀軍の叛旗をどう読み取るかで諸説が入り乱れている。れんだいこは、これを当時の歴史状況に照らしてバテレン陰謀説を採る。これは自然に見えてくる見立てである。バテレン陰謀説を採らない諸説に愚昧を感じ無駄な推理遊びとぞ思う。 ここで興味深いことを確認する。陰謀説は一般に、これを批判する側から「こじつけ」、「うがち過ぎ」の由を聞く。しかしながら、本能寺の変の推理で分かるように、陰謀説のほうが素直な読み取りであり、これを採らずにあれこれの推理をする側の方にこそ「こじつけ」、「うがち過ぎ」の評がふさわしい。つまり、陰謀説批判は、手前の方が「こじつけ」、「うがち過ぎ」であるのに、陰謀説に対して手前が受けるべき批判を先回りして相手方に投げつけていることになる。これも悪質論法の一つである。この論法は案外あちこちで多用されている。 未だ陰謀説は学説と成り得ていない。しかしながら、このことは、陰謀説が学説になるに足らないのではなく、学説の方が陰謀説を排除する特殊な政治主義に牽引誘導されている為ではなかろうか。近現代史は、れんだいこ式陰謀説が捉えるところの国際金融資本帝国主義ネオシオニズム派の権力により支配されている。最近になってこれを簡略に「国際ユダ邪」と命名している。これに照らせば、「国際ユダ邪」の許容しない研究は学説にさせないとされているだけのことではなかろうか。政治経済文化精神のみならず学問といえども「勝者の官軍論理」に導かれている。勝者側は勝者側に不都合な学問は許容しない。これが陰謀論批判の社会学的根拠ではなかろうか。 戦国史の研究をしながら、こういうことに気付いた次第である。ここでは本能寺の変を挙げたが、13代足利将軍・義輝刺殺事件も臭い。千利休切腹事件も臭い。あれは石田光成を長とする特捜調査団により本能寺の変の黒子としての動かぬ証拠を突きつけられて切腹に追い込まれたと考えれば疑問が解ける。かの時代の枢要な事件においてバテレン派の黒幕性を見て取ることができる。仮に、だとするなら、同じ目線で現代史を捉え返す必要があるのではなかろうか。という具合に関係してきて、それ故にそういう本当のことを言うのが一番いけないこととして、それだけは言うな、ほかのことなら何でも許すという囲いの中で知の遊びをしているのではなかろうか。 所詮、学問といっても、この程度のものではなかろうか。よって、許され囲われた知恵遊びの空間の中で難しそうに賢こげに言う者がいたら眉唾してきた、れんだいこのカンは当たりだったと改めて思う次第である。こういうこともいつか言っておきたかった。 |
【歴史論見直し派の台頭必然性考】 | |||
ここで「歴史論見直し派の台頭必然性考」をものしておく。目的は、歴史論見直し派の歴史検証に対して、国際ユダ屋の息のかかった御用学派による罵詈雑言を斬り返す為である。契機は、「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK163 >」の赤かぶ氏の2014.3.23日付け投稿「安倍首相への批判の言葉「歴史修正主義」とは?(THE PAGE)」を目にしたことによる。転載元は「安倍首相への批判の言葉「歴史修正主義」とは?」のようである。これを参照する。
2014年3月頃の時節柄、「安倍首相の歴史認識について海外メディアの批判が相次いでいる」。その多くの批判記事のなかで「歴史修正主義」という批判が為されている。例えば、米ニューヨーク・タイムズは、「安倍氏の危険な歴史修正主義」と題する社説を掲載し、英フィナンシャル・タイムスも「歴史修正主義者」と批判している。米議会調査局が2月下旬に公表した日米関係に関する情勢分析の報告書にも、「安倍首相は(略)歴史修正主義者の視点を持っている」と書かれている。この言葉を使って安倍首相を批判する海外メディアが多い。 それでは、「歴史修正主義」とはいったいどういうものなのか。これに対しての解説が全く恣意的であるので、れんだいこが訂正しておく。次のように解説されている。
この解説の不正なところは、「歴史修正主義が“歴史的事実”に対して異議を唱えている」としているところにある。ここには二つの詐術がある。一つは、「歴史の見直し(リビジョン)派」を「歴史修正主義」と言い換えていることである。「見直し」を「修正」と言い換えていることになるが、勝手に言い換えぬ方が良かろう。「見直し(リビジョン)」を「再検証」と訳すのなら良い。「修正」と言い換えるのは、論理学的に見て、批判し易いように前提を加工していることになろう。次に「“歴史的事実”」なる記述が臭い。「“勝者の歴史的事実”」と表記するのならまだしも良い。単に「“歴史的事実”」と書けば確定したものになり、そもそも検証、議論の余地がない。こういう悪作法は国際ユダ屋ネオシオニズムの得意とするものである。
ここで、「歴史の見直し(リビジョン)派」がナチス・ドイツによるホロコースト(大虐殺)の否定をしていることが明らかにされている。その「歴史の見直し(リビジョン)派」が自らを「歴史修正主義者」と名乗ったと解説しているが解せない。「歴史の見直し(リビジョン)派」に対して、「国際ユダ邪ネオシオニズム派」が浴びせる罵言が、「歴史史実に対する修正」という悪意の念を込めて「歴史修正主義者」と命名しているのではなかろうかと思われる。実際に「歴史の見直し(リビジョン)派」が自らを「歴史修正主義者」と名乗っているとしたら、語彙感覚が乏しいことになる。この辺りは翻訳が絡んでいるので、原文を確認し適訳すべきであろう。補足しておけば、2006.2月にドイツの歴史家・作家デイヴィッド・アーヴィングがホロコースト否定を理由にオーストリアで有罪判決を受けた時、イギリスのニュースメディアはアーヴィングに対して「修正主義者」という用語を頻繁に使用した。
ここで窺うべきは、流浪の民ユダヤ人が、かっての悲劇を受ける立場から逆転して、ホロコースト否定論、ひいてはユダヤ人批判を許さない法律を作り取り締まっていることであろう。ホロコースト否定論等は「ヘイトスピーチの一種」と認識され、違法行為とされている。ここでは「ドイツやオーストリア、フランス、スイス、ベルギーなど」とあるので西欧諸国一帯にそういう法網が敷かれているのであろう。その際の批判の用語が「修正主義」なる言葉のようである。 問題は何事も度を過ぎてはいけないところにある。なるほどユダヤ人は祖国を持たない流浪の民として歴史的に生態して来た。しかしながら第二次世界大戦後はイスラエルを暴力的に建国し、今日では圧制の民として君臨している。その強権統治手法は「流浪の民としての悲劇」を何十倍にも裏返ししたものとなっている。「ユダヤの悲劇」は今や「パレスチナ難民の悲劇」となっているにも拘わらず、「ユダヤの悲劇論」でもって免責するのは公平ではなかろう。 |
(私論.私見)