評論考、読解考(評論能力読者能力考) |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).10.14日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「評論考(評論能力読者能力考)」をものしておく。れんだいこ思いつくままに以下記しておき、好日にあらためて検討して見ようと思う。 2010.6.11日 れんだいこ拝 |
【れんだいこの評論考その1】 | ||||||
評論というものについて、れんだいこは常々次のようなことを考えている。解説文の場合も然りであり、報道のメディア責任にも当てはまることかも知れない。これまで無数の評論が為されているが、正鵠を射た試しはない。当らず触らずの周辺を堂々廻りしているようなものが多い。「真相は藪の中」という名言もあることだからして、ある程度は仕方ない。中には全く頓珍漢解説しているようなこともある。あるいは意図的に真相と異なるような見解へ誤誘導しているようなものもある(これが結構多い)。あるいは叉福音書中の「イエスの垂訓」のように意図的故意に邪文を挿入し混乱させるという手もある。全ての箇所がそうではない。よりによって重要な箇所でそういう捻じ曲げに出くわすことが多い。これは一体何なんだと思う。 滑稽なことに、そういう類の評論ほど傾向的に著作権壁囲いに熱中する気配がある。「良きにせよ悪しきにせよ類は友を呼ぶ」という法理があるので、悪評論と強権著作権論はよほどウマが合うのだろう。現実的実際的には、役立たずの彼らの論に著作権壁囲いされても何の痛痒もない。ここが滑稽なところである。問題は、優秀なる原作、評論を他の者、他の社が著作権囲いをし、市場流通を阻む悪癖である。著作権問題の本質、真髄はここにある。著作権者の生活権益保護はお題目に過ぎない。このことが分からない分かろうとしない著作権野郎野女が多い。 ところで、未考察課題のガイドブック的なものにこれをやられると却って傍迷惑するという程度の煩わしさがある。これについては、我らが同人による無著作権域の拡大運動により追々排斥されていくだろう。イタチゴッコになる感があるが、良貨が悪貨を駆逐することを信じたい。これは本当のことで、「悪貨が良貨を駆逐する」は流布された通説であるが、悪貨は基準にならない。「良貨が悪貨を駆逐する」の方が歴史の蓋然性が高い。要するに基準がなければ定まらず、悪貨は基準にならず良貨はなる故に「良貨が悪貨を駆逐する」訳である。「悪貨が良貨を駆逐する」のは、その過程での派生現象でしかない。と云う訳で、「悪貨が良貨を駆逐する」は愚説である、と私は思う。 ところで、評論(家)ほど気安いように見えて実は難しいものはない。これを説明する。気安さとは、評論は原作(者)の執筆の苦労よりは気安いだろうという意味である。ところが評論に真面目に取り組むとなると、気安くできるようなものではない。それを気安く評論しているところに拙さがある。難しさとは、内容的に原作よりも優れていなければ、少なくとも同等の眼力を持ち合わせていなければ評論に値しないという意味になるであろう。この難しさの壁に挑戦する評論士はそうはいない。みんなこの間を適当にうろちょろしているのだろう。 これを仮に囲碁将棋の段級手合いで考えれば分かり易い。解説者は打ち手と手合いが釣り合っているのが望ましい。仮に打ち手をアマの県代表レベルの天下六段とすると、解説者もそれに近いものの方が的確な理解になるだろう。よって、初段程度の解説者が天下六段の打ち手の手を貶すのは聞き苦しいだけだろう。天下8段以上レベルのプロが解説すれば、自ずと初段程度のものや天下六段のものに比べて成るほどの評論になるのは当然だろう。これが原則だが、巷間の評論(家)はわざわざに初段程度の者を呼んでおり、その者を高給優遇して買弁させ、周りの者が先生先生と持ち上げているから馬鹿馬鹿しい。 評論の出来(以下、「デキ」と記す)具合を解析すると、原文の字句及び文意の解釈から始まる。これを仮に第一次評論と命名する。これは当たり前の段階であろうが、既にここら辺りで粗雑な評論も目にする。論外であり下の下でしかなかろう。しかし、この種のものが結構多い。 次に、第一次評論を正確に踏まえて後に、原文の文意の背景事情を解析して、原文の真意を伝えようとする評論がある。これを仮に第二次評論と命名する。この段階まで来ればなかなかの「デキ」栄えということになるのであろうか。興味深いことは、第一次評論の「デキ」が良くないのに、第二次評論となるや生き生きとしている場合がある。逆の場合もある。何がしか取り柄があるということになろう。 しかし、第一次評論、第二次評論の「デキ」が良くても、れんだいこはそれでは納得しない。その文意の真意つまり裏の意図として作者が本当は何を云おうとしているのか、それを詮索し汲み取る必要がある。その上で対話せねばならない。これを仮に第三次評論と命名する。この段階、水準に迫らねば本当の意味での評論になり得ないと思う。これができると結構楽しいのではないかとも思う。 れんだいこが評論に接して思うことはいつも、この第三次評論的アプローチがなさ過ぎるということである。分かりやすく云えば、「HOW TO」ものまではあっても、それもかなり粗雑なものが多いのだが、「WHY」まで問う姿勢のものがないということになる。「WHY」の姿勢のなさが評論の扁平さを生んでいるように思われる。 驚くべきはこれからである。第一次評論、第二次評論の「デキ」が悪くても良くても、第三次評論辺りで急カーブして、原文原意と抵触する叉は牽強付会なこじつけ叉は真反対の解釈を押し付ける評論に出くわすことがある。これを仮に悪評論と命名する。そういう悪評論がはびこり過ぎている。誰しも思い当たるであろう。この手合いの評論を学ぶと、次第に原文の原意から遠くなるという生優しいものではなく、この種の評論を幾ら学んでも為にならないことになる。それどころか却って馬鹿、阿呆にされてしまう。 現代に於いては、この種のものが滅法多い。だから、現代自称知識人の中には下手に学び過ぎて却って馬鹿、阿呆になった手合いが多い。その結果、旗本退屈ならぬ偏屈男や偏狭女になった者が多い。しかしこれはオカシな話しだ。学んで阿呆に成るからには、元々がよほどの阿呆なのではないのか。その種の評論家は、己の甲羅と器量に合わせて己の理解し易いように評論するという妙な癖を持っている。驚くべきは、例えば人物評論の場合、史上の偉人に対して偉人の立場に迫って評するのではなく、己の背丈の低さに合わせて偉人の背丈を低くして褒めたり貶したりあらぬ罵倒をしている手合いが多いと云うことである。昔の人が「馬鹿に漬ける薬はない」との名言を残しているが、良くぞ云ってくれたという気がしないでもない。 この種の評論が評者の低能によるのならまだしも許される。他意はないのだから。問題は、時流が喜びそうな事を察知して迎合売文している評論が多いことである。この場合、生活の為ならまだしも多少は許される。許されないのは、意図的故意の悪意で筆を曲げている場合である。彼らには手本とするテキストがあり、そのテキスト通りの結論に導くよう評論すれば褒賞なり立身出世できるとかの世過ぎ身過ぎの道が用意されていると思える節がある。この手合いとは言には言で闘うしかないではないか。 そういう事情を知るにつけ、思いつくことはこういうことである。我々は、下手に評論されたものを聞かされとうない。それよりも、原文の生の声、文言の正確な翻訳こそを欲している。原文を聞かされる方がはるかに為になる。れんだいこが、評論に持つ拘りはそういうところにある。インターネットが普及したからといっても、この種の翻訳―評論はまだまだ隠されている気がしてならない。これを採り上げアップせねばなるまい。当然、無著作権で公開せねばなるまい。「デキ」の良い評論と無著作権は、これ叉妙にウマが合うとしたもんだ。 ところで、面白い話しを聞いた。評論にせよ営業、仕事にせよ、いわゆる「デキる奴、普通の奴、駄目な奴」の違いはどこにあるのだろう。結論は次の通り。
してみれば、「難しい事柄もやさしく語り、やさしい話しはやさしく語る」ことの上デキな人間を名人と云うのだろう。何やらホトトギスの話を髣髴とさせるが内容が違うか。 2003.7.26日、2010.6.11日再編集 れんだいこ拝 |
【れんだいこの評論考その2】 |
2006年現在の現代は政治評論が無の時代である。無と云うのはこの場合、評論そのものがないという意味ではない。評論はあまたあるのだけれども評論に値するものがないという意味である。つまり、駄弁流行ということである。こう云い切れる格好の題材が「小沢民主党代表就任論」である。こたび小沢一郎が苦節二十余年にして野党第一党の民主党の代表になったが、これを論ずる政見が見当たらない。否、傾聴に値する政論が見当たらない。この現象をどう評すれば良いのだろうか。れんだいこは思う。現代の政治評論家は、評ずる視座を失っているのではなかろうか。否、視座は持っているが通用しないそれであり、為に評する自信を失っているのではなかろうか。故に、恥ずる気持ちのある者は沈黙を余儀なくされており、右顧左眄の籔にらみ状態にあるのではなかろうか。 かく貧困の時代になったのには理由がある。その理由を解析し解き解さねば、いつまでたっても「群盲象撫で論」に陥ってしまうだろう。それで良い場合もあるが、決着つけねばならない場合もある。決着つけねばならない対象には決着つけねばならない。往々に良くあるのは逆の事例で、どうでも良いことに目クジラさせ、どうでも良くないことにまぁまぁと分け入りすることである。れんだいこは、そういう作法はとらない。 2006.6.9日再編集 れんだいこ拝 |
【れんだいこの評論考その3】 |
評論でもう一つ確認すべきは、それが書評である場合、原文の著書の意を正しく解せず、評論者の頭脳空間で勝手に曲解し、あらぬ評論に耽っている事例がままあることである。これを論理学で云えば、前提の改竄による恣意的批判論法と云うことになる。これを如何せんか。これは当人の器量によると思われるので、根本的解決としては我々の評論能力を錬磨し、即座に看破り斬り捨てる以外になかろうか。 2012.5.15日再編集 れんだいこ拝 |
【れんだいこの評論考その4】 |
中曽根考の際の検索で出くわした論考の中で、私から見れば独特の「出雲族論」を吹聴するブログがあった。概ね許容できるところと我慢できない倒錯記述のところがあるので、私から見て倒錯記述のところを指摘し鬱憤を晴らしておく。 この論者は、日本古代史の解析において私と正反対の史観を形成している。中曽根康弘論に於いて中曽根を「出雲族」と見立てた上で批判している。戦前戦時中の海軍も「出雲族」で、創価学会も「出雲系」の宗教であり云々の「出雲系グループは悪の巣窟」史観を披瀝している。この御仁の出雲族史観は「第二次大戦で日本が負けたのは、やはり天皇 (大和族) に対する出雲族の裏切りが原因でした」なるサイト等々の影響を受けているらしい。私からすれば笑止千万なもので、「出雲族」を媒介することなく中曽根批判、あるいはその関連批判できるのになぜわざわざに偏狭に仕立てられた出雲族史観を振りかざすのだろうか、と云うことになる。 周知かどうか私の出雲王朝論は真逆である。これを開陳しておく。 愛すべき日本の古型は出雲王朝御代にできあがっており、その政治は人類史上驚くべき「上が下を思い、下が上を敬う和の絆」で結ばれる善政を敷いていた。この時点で神話の祖形も今に至る国旗も紋章も国歌も暦法も言語も文字も歌謡も舞踊も、宗教としての古神道も祭りも、諸々の生活作法も規範もできあがっていた。いわばこの時代が「日本の古里」として今日の日本まで連綿と続いている。この史観を確立することが大事である。これによれば、出雲王朝御代を「出雲族」なる概念で悪し様に言い、「出雲系グループは悪の巣窟」論に立つ史観ほど倒錯したものはない。 その豊葦原瑞穂の国の日本が外航族の渡来により数次の戦いを経て国譲りを余儀なくされた。仮にこれを紀元前後のこととする。この時点で、出雲王朝系は日本土着派になる。その日本土着派が大同団結式で結集して構築したのが邪馬台国連合国家だった。これが紀元3世紀頃の日本である。その邪馬台国連合国家も結局は外航渡来族により降伏せしめられた。この経緯をどう見立てるのかが次に問われる史観である。これを、私は次のように解く。 日本土着派と外航族の両者の戦闘は容易には決着しなかった。日本土着派が有能にして勇敢だったからである。但し、最終的には日本土着派はここらで和睦派と徹底抗戦派に分かれ、ここらで和睦派と外航渡来族は手打ちで和睦した。表向きは和睦派が恭順し、外航渡来族の王権化の下で両者共同で新王朝の樹立を目指し、これが大和王朝となった。これにより、それまでの日本を原日本、大和王朝以来の日本を新日本と見なすことができる。この時、日本土着派の徹底抗戦派は土地に留まって同化する者、山奥深いところに逃げ込み「鬼」化させられた者、邪馬台国連合国の主体であった西日本から次第に関東、東北、北海道へと北上を余儀なくされた者という具合に分離した。そして順次さみだれ式に先の和睦派と同様に恭順手打ちし新日本に取り込まれていくことになった。これが日本古代史の特徴である。 ここに認められるのは手打ちの和睦であり、勝者による敗者に対する徹底殲滅はない。これを仮に「和式」と命名すれば、この「和式」は今に至る日本のいわば遺伝子のようなものになって連綿継承されている。かくして日本の出雲王朝来の国體が維持され、万世一系が維持されることになった。これを世界史標準と対比させる時、日本国體の偉大なる特質と認めるべきであろう。 こうして、外航渡来族と日本土着派の二層国家としての大和王朝の歩みが始まった。但し、大和王朝内では絶えず外航渡来族と日本土着派が内部暗闘し続けており、にも拘わらず次第に新日本化していった。その大和王朝が7世紀頃、中国、朝鮮等の隣国との交流に於ける必要から外国に向けて日本の国體を明らかにする必要が生まれ、中国史書の書式に倣って古事記、日本書紀、風土記その他諸々の史書を編纂することになった。その際の史観が皇国史観と云われるもので、外航渡来族の正義を詠い上げるものとなった。これにより原日本の正義は押し込められ、その主軸であった出雲王朝王統派は敵性先行国家に位置づけられた。興味深いことは、この時の古事記、日本書紀の史観(以下、「記紀史観」と云う)が、外航渡来族の日本支配の正当化を図る意図で、原日本が拝戴していた高天原思想及びその最高神としての天照大御神の直伝勅許を得ての日本支配であるとするロジックを生み出していた。これにより、この「記紀史観」に整序されない側は賊軍とされた。この観点が日本歴史学の主流となり、幕末の水戸学を生み、明治維新以来の皇国史観を生み、戦後は国際ユダ邪の史観に替わったが、一部では今日まで続いている。もとへ。だがしかし、元々の日本土着の民たちが生み出した出雲王朝、邪馬台国の日本国體が滅んだ訳ではない。分かり易く云うと、外航渡来族派が新日本の表の支配権を握り、日本土着派は新日本の裏での生息を余儀なくされた。と云うか、その限りでの生存を認めさせ両者は共存することとなった。これが日本古代史の俯瞰図であろうと思われる。 この俯瞰図に於いて、「出雲族」の不正義なところは何もない。むしろ外航渡来族から見ても魅力的な生活圏を構築しており戦争的にも遂に滅ぼせなかった「出雲族」の秀逸さこそ注目されるべきである。「出雲族」が堪え難きを耐え忍び難しを忍び敢えて新日本作りに協力し続けてきた日本愛ほど尊いものはない。こう窺うべきではなかろうか。この見立てによれば、外航渡来族の神武東征譚を正義とするところから始まる皇国史観は全く表の飾りの史観であって応法の史観と受け止めるべきであろう。この観点に立てば、「出雲族」を汚らわしきものを見るような「睥睨(へいげい)出雲族史観」では日本史の筋道が全く見えてこない。そういう「睥睨(へいげい)出雲族史観」で日本史、世界史を論じるのは無謀と云うより危険愚昧過ぎる。これが云いたかった訳である。れんだいこ史観によれば、汚らわしきものは外航渡来族の皇国史観であり、それが戦後は国際ユダ邪なものに収斂しており、それと闘う拠点論として出雲王朝論が屹立している。そういう重要な役割を持つ出雲王朝論を国際ユダ邪と通底しているとする史観ほど悪質なものはない。 結論として、評論なり史観なりは、正しく悟れば便利な調理刃となるが、捻れた悟りをしていると振り回すと危険な包丁になる。その包丁で自分を傷つけるのならまだしも、人に手をかけたら掛けられたもんは堪ったもんではない。よって、評論なり史観は不断に正しく形成すべく磨かねばならない、人の安説教の尻馬に乗って意図的故意の誤誘導に乗ってはいけないということになる。件の論者は他の評論ではまずまずの見解を披瀝しており、その見解で首肯させた威勢を借りて、どこで仕入れてどう自分のものにしているのかは分からないが「睥睨(へいげい)出雲族史観」なるものを忍び込ませ如意棒化させようとしているように見える。仮にこの傾向をさらに進行させ続けるのなら、どちらが無知蒙昧なのか論争せねばならないと考える。 |
【れんだいこの評論考その5】 | ||||
戦前の日本共産党内で発生したスパイ摘発闘争過程での認識、評論、史観のズレ乃至は誤りによる取り返しのつかない悔恨を俎上に乗せて共認を得んとしておく。案外大事と心得るからである。(以下、後日) | ||||
1933(昭和7).8.14日(「壊滅 赤旗地下配布委員の記録」では1932.8.15日とある)、有能な朝鮮人活動家・尹基協射殺事件が発生している。が、尹基協は当時「全協」(革命的労働組合・全日本労働組合協議会)土建本部の委員として積極的な活動をしており、全協員の30%を超える朝鮮人労働者の中で最も信望の厚い党員であった。当時、「全協」内では32年テーゼの「天皇制打倒」を労働組合でも掲げるべきかを廻って対立が生じていた。「高安らは猛反対したが、中央委員会は一票差で強行可決」されたとある。その半年後、特高は大弾圧に乗り出し、1年間に4千5百人が検挙され全協は壊滅的打撃をこうむる。「全協」は当時の精鋭的な革命的労働組合であり、尹基協はその闘士であった。ここに尹基協射殺事件の背景がある。尹基協がスパイMの発議に踊らされたスパイだと断定され、5月上旬処分が決定され、共青員東京キャップの村上多喜雄が右処分を担当した。党中央委員の紺野与次郎が射殺命令とピストルを渡して実行させたとされている。しかし、紺野にそのような権限があったのかどうか。その紺野に命令を下した者が誰なのか今日においても明らかにされていない。増山太助の「戦後期左翼人士群像」150Pは、「尹をスパイと断定して射殺させたのは、なんと党史上最大のほんもののスパイM―党内では松村、本命は飯塚盈延―であったという」と記している。 この村上多喜雄について、梅本竹馬太氏の「壊滅 赤旗地下配布委員の記録」で実像が明らかにされている。それによると、信州上諏訪の出身で、生前中の岩田義道が深く信頼していた人物で将来を嘱望されていた。当時の地下活動時代の要のような活動をしており、未遂に終わったが「佐野・鍋山その他獄中同士の奪還計画」の行動隊キャップであった。1932.8.15日に尹基協射殺事件で逮捕される。村上は捕らえられた獄中で事件の闇を探り、「尹は絶対にスパイではない」、「自分は取り返しのつかない誤りを冒した」、「党中央にはスパイがいるに違いない」と確信して煩悶し、「死を賭した叫び」を紺野に伝えるが反応なし、と伝えられている。 広瀬東氏の貴重証言として次の発言が遺されている。
村上は事情やむなく二審で転向声明し、1940.5.21日、超結核で死亡している(享年31歳)。増山太助の「戦後期左翼人士群像」によれば、戦後中央委員・政治局員となった白川晴一は次のような感慨を遺している。
補足すれば、紺野の党活動には胡散臭さが纏っている。戦後の党活動を通じて徳球執行部から宮顕執行部へのクーデタの経過を、他の徳球系幹部が放逐されたり冷や飯組にされた中をうまく立ち回り、政治局・書記局中枢に棲息し続けている。ちなみに60年ブント発生の直接の原因になった1958.6月の全学連大会代議員グループ会議で、学生たちに殴られたのがこの紺野である。 社会評論社の「検証内ゲバ」の栗木安延「内ゲバの主要因−新旧左翼の唯一前衛党論」に、この尹基協に関する次のような記述が為されている。
栗木氏のこの証言は貴重であるが、尹基協テロル事件を村上の早とちりによる為せる技としている点で軽薄にさせていよう。栗木氏に悪意はなかろうが、この種の事件は裏の闇に関心を向けねばならず、個人的な資質問題に還元させるのは如何かと思う。 私がこの事件を本稿でなぜ採りあげるのか。それは、認識、評論、史観間違いによる悲惨な実例として教訓足りえていると思うからである。この事件では、戦前の日本共産党の有能党員で将来を嘱望されていた村上多喜雄が、「全協」(革命的労働組合・全日本労働組合協議会)土建本部の委員として精力的に活動していたあった有能な朝鮮人活動家・尹基協を、スパイと断定する「不正な党指令」に基づいて射殺すると云う不本意な事件を起こし逮捕された。獄中下の村上は尹こそ自身と同様に真正な党員であり、その尹射殺指令を出した党指令こそスパイ派ではないのかと気づき、煩悶しながら獄中死を余儀なくされている。認識間違いと党指令に対する盲目的服従が招いた悲惨な事例である。本稿の評論考は、こういう取り返しのつかない事例を生まないための評論である。誰か合点せんか。 |
【れんだいこの評論考その6】 |
ここで、れんだいこの評論考その6として、前段中段で卓見を披瀝して信用させ、後段でそれまでの卓見と接続しない邪悪結論を出し、これを扇動する論法に触れておく。 |
【れんだいこの評論考その7】 |
ここで、れんだいこの評論考その7として、例えば日本古代史書のように互いに錯綜する記述を常態化させている場合に、どの記述を採りどの記述を排するのか、採用した記述をどう結びつけて歴史の真相にできるだけ近づこうとするのかにつき、要点を確認しておく。 |
(私論.私見)