翻訳考

 (最新見直し2012.5.14日)

 2012年4月頃、憑かれたように「新渡戸稲造 武士道」を読んでみたくなった。現代政治の無責任、無能力に辟易して、何やら昔の政治が恋したくなったのが誘因と思われる。「新渡戸稲造 武士道」は、日本人の新渡戸稲造が書いたものであるが、原文は「」の英文であり、新渡戸の日本文は存在しない。その英文が当時のベストセラーになった訳であるが、日本人が英文で記した書物にしてベストセラーになった第一号ではなかろうか。しかも、これに続く後がないと云う意味でも、今でも第一位の栄誉にあるのではなかろうか。しかも内容が武士道と銘打つものの、実際には日本文化論、日本精神論を展開しての西欧精神論、西欧文化論との比較対照と云うかなり高度なものである。これを能く為し得た新渡戸の功績はもっと賛辞されても良かろう。
 以上は前置きである。これから本題の翻訳論に入る。

 れんだいこは既に何典が翻訳している。その一覧表は「名著翻訳、発掘一覧」に公開している。(meibunhonyaku/) ここで、その秘法を明らかにしておく。れんだいこの腕前は、いきなり原書に接して訳文できるほどのものはない。まず訳文したくなった英文原書を前にする。これをサイト化し、章ごとに転載する。次に章ごとの一文を段落分けする。次に段落ごとの一文を分節ごとに仕分けする。この下に訳文をつけて行く。この際、既存の訳文を書きこむ。これを読み、意味が釈然としないところ、どこか引っかかるところをチェックする。語彙そのものが分からないところはネット辞書で確認する。こうして、れんだいこ文を紡ぎだす。これを2度3度繰り返して、別サイトの一括文のところに転写する。こうして訳文全体が出来上がる。これは誰でもできる方法であり参考にして貰いたいと思う。

 さて、これからが云いたいことである。この訳出過程で気づいたことがある。それは、既成の訳文にはかなりいい加減なものが多いと云うことである。翻訳は、まず原意に添って訳すのが鉄則ではなかろうか。これが正確にできていないものが多い。次に原文にはあるのに訳文にはないと云うことがある。これもオカシイ。次に、原文にはないのに訳文にはあると云うことがある。これもオカシイ。訳の正確と云う意味では、原文が単数のところを複数にしたり、これを逆にしたりしていることがままある。これもオカシイ。日本文の特性として単数複数拘りのない場合には構わないが、明らかにした方が意味がよく通じるのに明らかにしていなかったり逆にしている場合が多い。更には、原文が肯定しているところを否定していたり逆にしている場合がある。これは絶対にオカシイ。あるいは原文が強調しているのにその意を汲まなかったり、逆に強調していないのに強調文にしていたりすることがある。これもオカシイ。

 ここで補足しておきたいことは、既に「共産主義者の宣言」翻訳の際に判明したことだが、日共のそれに典型的なように極めて不自然な誤訳、意図的故意の歪曲意訳が横行していることである。幾ら読んでも理解できにくいようにしていたり、著者が簡潔に訴えているところに注を入れ文意を踏みにじっていたりする。つまり、世の中には意図的故意な誤訳拙訳なるものが存在すると云うことである。れんだいこは今、そのようなお粗末訳で、疑問を湧かさぬまま議論に耽っていた連中の頭脳に驚く。れんだいこは、意味が分からず、あるいは整合的に理解できず、途中止めにしてしまう方が多かったが、れんだいこのこの感性の方が素晴らしかったのだと、今頃になって知らされている次第である。

 次に訳文で気遣うことは、現代日本文で書き直すことである。わざわざ難しい語彙を使うべきではないと考える。難しい語彙は、その語彙でなければ意味が正確に伝わらなかったり文調に締りがなくなる場合に限られるべきだと思う。次に、意味内容からして段落替えした方が良いと思う場合には、原文は同じ段落であっても段落替えするようにしている。これは読み手により分かり易く読んでもらう為である。そういう何やかにやの工夫が要ることは確かである。

 結局は、訳者の日本文能力が問われていると考えている。その意味で、日本文能力の練磨こそが訳出の前提になっていると思う。英文では理解でき、日本文に転換できない日本人が居るのかどうか分からないが、仮にそうだとしたら英文理解の方も結構怪しいのではないかと疑っている。最近、英語の幼児教育が流行りつつある。そのこと自体は結構なことだと思うので反対はしないが、合せて日本語教育が為されるべきだと考える。将来日本語を捨てるのならともかく、今後も日本語を使用していくのが賢明と考えるので、非常に気にかかるところである。れんだいこが日本文を愛するのは、日本文こそ世界に冠たる国際共通語として育まれて行くに値する言語だと思っているからである。ここは日本語論ではないので省くが(日本語論は別のサイトで研究している)、日本語教育の徹底こそ外国語翻訳の近道と思っていることを主張しておきたい。まぁこうなところが翻訳考で言いたかったことである。

 以上が要旨であり、以下、もう少し述べてみることにする。(以下略)

 2012.5.14日 れんだいこ拝




(私論.私見)