「れんだいこが読み解く『アンデルセンの裸の王様』論」

 (最新見直し2012.10.04日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ネット検索で、「アンデルセンと『裸の王様』」、「ウィキペディア(Wikipedia)の『裸の王様』」が出てくるのでこれを参照する。「裸の王様」の英語名は「The Emperor's New Suit 」でこれを直訳すれば「皇帝の新しい服」となる。著者は、ハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen)で、「大久保ゆう訳のはだかの王さま」が公開されている。

 以下、アンデルセン童話の名作中の傑作「裸の王様」を現代風に解析してみた。ここでは日共党中央の不破を「裸の王様」と見立てて風刺しているが、対象は小ネズミ首相でも誰でも良い。各自が、対象とする者に当て嵌(は)めて考えてみれば良かろう。

 2006.5.28日 れんだいこ拝


Re:「裸の王様」考 投稿者:れんだいこ (2001.10.9日 )

 アンデルセンについて童話作品以外のことについて何も知らないが、戯画調寓話「裸の王様」はなかなかに意味深であり傑作品ではないかと思っている。が、実のところ最寄の書店で手に入る童話絵本でしか知らず、その内容も各書で微妙に違ったものになっているのが気になっている。ぜひ原文原意を正確に知りたいと思っているが私には手だてがない。どなたか正確な全体文をご紹介頂ければ幸いです。それにしても、安易な原文改竄はイヤなことだ。

 私が「裸の王様」に着目する理由は、これがかなりに痛烈な社会時評であるように思われるからである。その出来映えはイソップ物語の警句にも劣らない。話の概要は、ある時代のある国の王様が催眠術のようなものをかけられ、豪華衣装を着ていると思わせられる。取り巻きの者はお追従するばかりで、「さすがに王様にはお似合いの立派な衣装でございます」とおべんちゃらを云う。王様はすっかりその気になり、ステテコパンツ一枚着た半裸の姿のまま、得意満面の様子で町中を物見遊山することになる。取り巻きの臣下がうやうやしく従い、見守る群衆もお追従するばかりの中、王様の行進は進む。ところが、一人の少年が不逞な発言をすることになる。「王様は裸だ」と率直に見たままを語り、その姿を笑う。これがきっかけとなり集団催眠術が解かれ、無様な王様の姿と臣民のごますり癖が白日の下に暴かれた、という展開となっている。

 この話が作り話であることは容易に見て取れる。なぜなら、王様が裸であるのなら白欧のこととて寒い筈であるし、暑い盛りであれば汗をかく筈であるし、気候に関係なくても行進中に埃をかぶる筈であり、物語のような展開は実際には無理がある。問題は、そういうフィクションを通じてアンデルセンが何を語ろうとしていたのかということになる。我々に何を警句としているのかと云うことになるであろう。という関心から、「裸の王様」を私流で読解して見たいと思う。

 既にお気づきの方もあろうかと思われるが、「裸の王様」は宮廷権力者へのあてこすりが痛快に描かれており、現党中央不破執行部の赤裸々な姿が二重写しにされることになる。これほどまでにピッタリの教材は珍しい。ここまでの記述につき既に不愉快を感ぜられる方にはあらかじめ以下の文章は読み進めないようご忠言申し上げておく。構成を次のようにしたいが、長文化するので簡略にエッセイ風にまとめることにする。

その1  なぜ、王様は裸で市中行進を為しえたのか
その2  なぜ、取り巻きは王様の裸を裸とみなし得なかったのか
その3  なぜ、大衆は王様の裸を裸とみなし得なかったのか
その4  なぜ、少年が王様の裸を裸とみなし得たのか
その5  後日談の推測

 「或る国に或る王様がいたとさ」。

 この王様は現実の王様である必要はない。王様に仮託されているものこそが推測されねばならない。普通に史上の権力者一般でも良いし、庶民のはかなき夢が権化した存在と想定しても良い。この王様にも悩みがあったとしよう。例えば租税収入が伸びないとか、臣下の能力が低いとか、領土.領民の拡大が停滞しているとか理由は何でも良い。王様自体一つの仮託であるので、われらが日頃渇望せしめている願望でも良い。民主連合政府樹立構想なぞも考えられる。ここでは、王様が単に着物好きだったか又は皮膚病のようなものがあったとして、着疲れし易い悩みがあったとしよう。

 「ある時、王様の趣味癖又は悩みを聞きつけた山師が接近してきた」。

 山師は単数でも複数でも良い。山師の接近は、今日的に云えばニッチなニーズに対するアプローチであったと考えればよい。王様と会見し得るからには、既に名声を得ていたものと思われる。

 会見の席上、山師の弁舌はそれは巧みで、王様を充分に堪能させた。

 「全く王様にこそ相応しい世にも稀な最高級の衣装を作らせて頂きたい」。

 とのたまわった。曰く、
 「重くもなく、暑くもなく、豪華絢爛なこの世の最高のものを仕立ててしんぜます。王様ならではお似合いのすぐれものでございます」。

 とくすぐった。

 実に良いことずくめの申し出であった。王様は山師の弁舌に引き込まれた。日頃の悩みの解消(願望の成就)につながるという現実的利害があったからである。こうした現実的利害が絡んでいなければ人は関心を持たない。

 「この最高級の衣装は愚者には見えず、賢者だけに見える特別製であり、賢者の証のふるい分けともなります」。

 と付け加えた

 ここの下りが詐術で、山師を山師せしめたるゆえんのテクニックと考えられる。世の中にはこういう自縛論理があふれており、自力で解きほぐす以外に方法がない。一般に良いことずくめの話には眉唾せねばならないとしたものだが、山師は、その警戒を溶く胡椒(こしょう)を振り掛けることを忘れなかった。この詐術論理をひとたび受け入れるとトンデモなことが可能になる。この胡椒が、山師の提案を受け入れた者をして自閉的に自縛させ、実に効果を発揮することになる。山師は、この自縛論理を振り回すことによりオールマイティー権を得ていくことになった。

 物語は、この論理が、天衣無縫とも云える広がりで満展開していくことに面白さがある。留意すべきは、この詐術論理は絶対的な命題であり、ここを疑うことは許されないものとして、あらゆる判断の前提となっていくよう仕掛けられていたことである。例えば、党の綱領路線のようなものであると思えばよい。あるいは「人民のため」という文句でも良いし、「民主化」、「民主集中制」、政敵に対する「反共」という文言でも良い。とにかく、そのこと自体吟味されることなく、絶対視されてローラー的基準で押しつけられていくものであれば良い。

 この「愚者には見えず」という論理は、本来王様にも適用されるはずであるが、王様には必ず見える筈であるという山師の太鼓判によって、王様はあらかじめ適用除外されるという御都合主義の恩恵に浴していた。君臨者に対する適用除外も又一つの仕掛けとみなせる。オーム真理教のグル麻原氏を思い浮かべればよい。自身はハーレムを拵えながら信者には禁欲を強いる、あるいは又自身は飽食しながら信者には粗食を強いるあの利己論理が最近の例である。

 という訳で、この論理は、実際には、臣下の能力識別を為す格好のリトマス試験紙として機能していくことになった。「有能人士の選別に一役買うことにも為ります」という「錦の御旗」が味つけされ、臣下の整風ができるという副次的効果が期待されることにもなった。この甘言が王様にいたく魅力的に作用したと思われる。

 王様は単に衣装に憧れたのではなく有能な臣下をも欲してもおり、このたびの山師の口上に拠れば一石二鳥の結構尽しであったということであろう。こうして王様は山師の口車に乗り、商談が成立することとなった。以後山師は本件事業達成執行の任に就くことになった。

 「山師は早速衣装作成に取りかかった。王様が仕事場を覗くと、山師は手分けしつつ織機の前でガタンゴトンと熱心に精を出していた」。

 本当は手つきだけのことではあったが、現実に機を織る真似をし始めたのである。つまり、山師達は決して口先三寸に終始していたのではなく、真空世界に向かってではあるが、実際にそれらしく活動したと云うことである。ここが肝心である。例え空中楼閣的世界であれ、ひたむきに精を出す姿がまやかしとなり、王様の心を捉えて行くことになるのである。こうした山師の仕草をみながら王様は次第に期待を膨らませ、早く着てみたいと願うこととなった。

 「二日、三日と経過したが、相変わらず山師は不眠不休で精出していた。気になる王様が仕事場を覗く度に、『順調に進んでいます』、『もう少しで出来上がります』、『良いのが出来上がりつつあります』と耳障りの良い調子で山師は答えた」。

 何事も、物事が成就するには熟成期間が要るということであろう。

 「やがて、王様が試着する日を迎えた。驚いたことに王様には『衣装が見えなかった』」。

 王様は内心慌てた。王様は賢者であるが故に必ず見えますという太鼓判を押されていただけに、自分が見えないなどとは夢疑わず安心しきっていたのだが、困ってしまった。一体どうしよう。王様が愚者であるということが判明させられてしまうではないか。これは具合の悪いことであった。

 「しかし、山師はさすがの役者である。自尊心を維持しようとして辛うじてたたずむ王様に対して、要領よく透明衣装を着せていった。語りかける山師の言葉を聞いているうちに次第に王様は『その気にさせられていった』」。

 催眠話法のようなものと思えばよい。

 ここからが肝心である。王様は何となく納得した気分になった。とはいえ、王様は山師の催眠術に単純に乗せられたのではなかった。王様は気になったのか、お忍びで仕事部屋に立ち寄り、あらためて我が目で衣装を確認しようと何度も努力した。党的文言で云えば、あくまで実践で検証しようとしたのである。しかし、王様にはどうしても見えなかった。しかし、それにしてはオカシイ。山師は名声に定評のある衣装デザイナーであることは調査済みであるし、現に山師は額に汗して働いているではないか。ガチャンゴトンと機を織る音が聞こえてくるではないか。こうなると見えない自分の方がどうかしているに違いないという気分に駆られたようでもある。

 「王様は幾分の不安を払拭しようとして、ソウダ、自分だけの判断では心許ない。臣下の反応を窺おうと思いたった。こうして重臣を連れて仕事場へ行くことにした。重臣も最初はギクッとした筈であるが、さすがに長年の宮仕えの役者であった。見えないのは愚者の証明(つまり学習不足とも考えられる)と聞かされていたので、できるだけ見えるようにしようと無理強いに努め、山師の弁舌に一々肯いた。その結果、『結構なものでございます、さぞ王様にはお似合いでしょう』」

 「いよぉ大統領」とまで阿諛し拍手したかどうかまでは知らないがお追従した。何人の重臣達が試されたのかは判らないが、異口同音にお追従した。この時点で王様には劇的な脳内変化が発生したようである。取り巻きの支持を得て『見えることを確信するようになった』と思われる。

 「こうして、王様はすっかりその気になってしまった」。

 このことも大事である。何事も本人自身がその気にならなければドラマは生まれない。

 ここまでで判ることは、王様は決して一人合点した訳ではないということである。自ら用意周到に仕事場を何度も覗き、重臣達にも確認させていることである。つまり、手順を踏んで確信を高めていったということになる。決して山師の口車だけに乗せられたのではない。それを受け入れようとする自身と、その受け入れを促す取り巻きの囃子が介在することによって、「みんなで渡れば恐くない」式気分が醸成されたということである。ここが大事である。一人では判断がつかないことも集団で確認すれば確信に至り、お追従が加わることによって相乗するということである。

 しかし、こうした手順を踏んでみても結果的には何の役にも立たなかったというのが実際でもあった。形式は形骸化するという好例であると思われる。なぜなら、重臣達にはあらかじめ手枷足枷が填(は)められていたからである。手枷足枷とは、見える見えないが賢者と愚者の識別となり、愚者と云うことが判明すれば無能の役立たずの烙印が押され、このことはリストラ(解職)の危機が迫られることが自明であったからである。つまり、臣下は何としてでも自らが愚者であると判明させられてはならない事情にあった。臣下には見えるようにしか判断できないような仕掛けが填(は)められていたと云うことである。

 こういう場合、人の判断をいくら仰いでも、あらかじめ敷かれたレールの結論と違える判断が為されることは難しい。相談が為されたとしても、相談そのものが追認しか為しえない儀式化されたものに転化しているからである。重臣達は何としてでも賢者に見せかける必要があった訳であり、その為には競っておべんちゃらを云うことが保身的に好ましかった。してみれば、「裸の王様」の「裸」とは、外見的な裸というばかりではなく、自らそういう仕掛けにしておきながらイエスマン臣下に取り囲まれている精神的孤独をも表象しているようにも思われる。

 「そうこうしているうちに仕立てが終わり、山師は世にも珍しい新着衣装をうやうやしく王様に献上することとなった。王様はすっかり喜んだ。臣下も口々に立派な出来映えですと誉め称えた。王様は山師の云われるままの手順で衣装を身につけ、まずは宮廷内をこれ見よがしにのし歩いた。宮廷内からは口々に賞賛の声が沸き起こった」。

 誰もが愚者に見られたくない一心からの阿諛であったであろう。こうして結局のところ「愚者には見えず」というこの論理は、「有能人士の選別」に役立つことにはならず、「一層のイエスマンづくり」の方向にとてつもなく機能していくことになった。

 この辺りに無頓着なまますっかり気をよくした王様は最終的に“自信をつけた”。こうして宮廷内に一大マインドコントロール世界が現出することとなった。我々はあの“満場一致”世界を思い浮かべれば良い。

 「ここに至って王様はパフォーマンス男となり、豪華絢爛衣装を城下の大衆に見せることを思い立った。早速立ち札が立てられ、世界一豪華な賢者だけに見える特別衣装を着た王様のパレードが予告された」。

 果たして、このマインドコントロール世界が宮廷外にも通用するのであろうか。

 「その日がやってきた。すっかり自信満々の王様ご一行様は得意然として行進し始めた。山師がしきりと雰囲気を盛り上げていた。音楽隊のファンファーレが高らかに鳴り響いた。一種集団催眠の道具立てが座を盛り上げていった。人だかりの中を王様は蓄えた髭を一層際立たせながらゆっくりと進んでいった。王様の絢爛豪華衣装を一目見ようと大衆が人垣をつくり、わいわいガヤガヤざわめいた」。

 ここでも「あの論理」が強烈に作用した。大衆も又自身が賢者であると思われたい為に競って王様の立派な衣装を誉め、感応した。お調子者が我先にとゴマスリし始める例の世界を思えばよい。主流屋には居心地の良い一時となった。中には目をこする人もいたかも知れないが、そういう人はそっと仕草したに違いない。数分か数時間のことかわからないが王様の行進は続いていた。王様の行くところどこでも伊達酔狂がつらなかった。

 ところが、ここから話は急転直下する。

 「ある少年が、“王様の裸を笑った”。たゆまずあちこちから失笑が漏れた。たまらずあちこちから笑いの渦が沸き起こった」。

 催眠が解けた瞬間であった。この場合、アンデルセンはこの少年に何を仮託しているのだろうか。恐らく、少年とは、純粋無垢というか利害関係のない者且つ遠慮を知らない者、あるいは又真の忠言士という意味で解すればよいのであろうか。

 原作ではこの後どう書かれているのか知りたいが、後日談が不明である。不明という意味は、いろんな風に書かれており、どの記述が原作か分からないという意味である。そういうことは許されないと思うのだが、原作が改竄されている。しかし、容易に想像できよう。王様のパレードは引き続き続行したのか、散々な目に遭いほうほうのていで宮廷に戻ったのかどちらかであろう。

 「大久保ゆう訳のはだかの王さま」では次のように記されている。

 「ついに一人残らず、こうさけぶようになってしまいました。王さまは大弱りでした。王さまだってみんなの言うことが正しいと思ったからです。でも、『いまさら行進パレードをやめるわけにはいかない。』と思ったので、そのまま、今まで以上にもったいぶって歩きました。めしつかいはしかたなく、ありもしないすそを持ちつづけて王さまのあとを歩いていきましたとさ」。

 いずれにせよ、王様は一人臍をかんだことであろう。その後少年がどう待遇されたものやら、山師がどうなったのかについて各書に於いて記述が異なり原作が判らない。

 滑稽なことは次のことである。山師を厳しく罰することは必要ではあったであろうが、法廷にでも立たせようものなら、王様も含めて誰しも、触れられたくない部分が明るみにされることになるであろうが故に、お咎めなしとなったのではなかろうか。臭いものには蓋せざるを得ないことになったのではなかろうか、と推測し得る。

 以上が「裸の王様」の顛末であるが、意味深ではないだろうかと思い投稿させて頂いた。この寓話には、権力者一般にまつわる痛烈な阿諛追従風刺があるように思われる。何も現下党中央の動向に対してのみあるいは又民主連合政府構想をのみあてこすりしようとして文章化した訳ではない。菊のカーテンの世界にも、鶴のカーテンの世界にも、企業オーナー一般にも、身近なところでの得意者全般に通用する話である。

 具体的方法の提示のない批判は私の好みではないので、以下提言を申し上げることにする。一つは、王様の気まぐれ、山師の存在までも退けてはならないということ。そういうものがあったり居るからこそ世の中は面白く、こうした寓意が伝わることになるから。これは民主主義の基本である。問題は、どのようにして王様が臍をかまなくても良いように工夫するのかと云うことが肝心であろう。その為に、一つは、良いことずくめの話とか絶対的教条が現れたら、そのこと自体をしつこく議論せねばならないと云うこと。我々の思考を止めてはいけないということである。

 次に、寓話「裸の王様」の場合、絶対命題であった「この最高級の衣装は愚者には見えず、賢者だけに見える特別製であり、賢者の証のふるい分けともなります」という絶対基準論理が敷かれ、これが踏み絵となって際限のないイエスマン世界を現出させることになった。こうした踏み絵論理も精査されねばならないと云うことになろう。実際に踏み絵たり得るものであるかどうかを検証することが肝心で、我々はここを安易に思考停止してはならない。一つは、議論が為される場合には、生活権の剥奪の心配のない仕組みのところで自由な議論が許容されねばならないということであろう。この仕組みづくりのために内的闘争することこそ、組織員の一等の責務ではなかろうか。

 おしまいの付言は次のことである。「裸の王様」はあくまで童話であり、現実は苛酷である。不破党中央は、宮廷内に一大マインドコントロール世界を現出させたまま臆病にも市中行進をしないから笑われることもなくこのまま壊死するまで続くであろうということ。

 次に、仮にだが、裸の王様が宮廷内をのし歩いたときに何度も目をこすった臣下がいたとしよう。彼に待ち受けるものは例の「調査問責」である。彼の行為が問われるのではない。彼の心証の不逞ぶりがなじられるのである。この行為で彼の勤務評定欄にはチェックマークが一つ追加されることになる。こうしてイエスマンづくりが促進されるのが現実である。なお、目こすり派がたまたまにせよ二人寄って何やら会話しているのが目撃されたらどうなるかという問題もある。やはり二人分派になるのであろうか。この現場を見た者が報告を怠ったらどうなるか。ウーン何ともはや現実は凄惨であることだわ。

 アンデルセンの「裸の王様」は凡そ以上の様なメッセージをしていることになるが、重要なことを語っていない。それはアンデルセンが敢えて触れず後世に問いかけているように思われる。どういうことかというと、或る王様が失態として「裸の王様」になった一エピソードならともかくも、「裸の王様」的専制を好む常習犯であった場合に、これをどうやって引き摺り下ろすのかという問題である。これについては、銘々がひとたびは沈思黙考然る後喧々諤々そして共謀せねばなるまい。しかし今やこれが共謀罪に当る時代になりつつある。

 この王様が共謀罪を好み、共謀者の事前弾圧に乗り出したら、我々はどう共謀して立ち向かうのか。ここら辺りが問われている。戦後日本はこれまでは共謀罪の適用を認めていない。しかし、小ネズミ首相は、任期後僅かになって殊更に共謀罪を導入しようとしている。それを阻止することは無論であるが、「権力者の共謀罪導入の為の共謀」を取り締まる術があるのかないのか、弁明させて見なければなるまい。「大量破壊兵器の存在」を口実にイラクのフセイン政権打倒戦争に乗り出した米英ユ同盟及びそれの追従国に対して、「大量破壊兵器の不存在の場合の共謀責任」について弁明させて見なければなるまい。こういうところまで語るのが本来の「裸の王様論」になるべきではなかろうか。

 2001.10.9日、2008.7.29日再編集 れんだいこ拝





(私論.私見)