学問三系考、学者バカ考、学ぶことによりバカになる仕掛け考 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.12.11日
別章【学んで却ってバカになるダボス派学問考】
Re:れんだいこのカンテラ時評284 | れんだいこ | 2007/04/24 | |||||
【れんだいこの学問分別論】
れんだいこは齢50半ば過ぎにして漸くある疑問が解けた。これまでは、「人は、学んでなぜ馬鹿になるのか」の理由がわからなかった。人は、やがて訪れる痴呆域に入るまでは、努力さえすれば年齢を重ねると共に経験的智恵が増し、次第に賢くなると思ってきた。それには、論語の「学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」の教えが影響している。我々東洋人は、これを祖法としているので、深く学び且つ思うほどより賢者になると想定している。いわゆる「人の上に立つ者」はこの修行により練磨された人士であり、故に一角(ひとかど)の者とか先生と呼ばれて尊崇される仕組みに概ねなっている、暗黙のうちにかく了解している。 しかし、昨今論語の教えが通用しない事象に遭遇している。白痴専門家が大勢跋扈し始めており、彼らが、本来期待されている専門性とは真反対の痴愚見識を披瀝しており、為に人民大衆が当惑させられ不利益を蒙っている。近頃やけに目につく国会議事堂の醜態やテレビに登場する自称知識人の阿呆面と言行の無能さを思えばよい。連中は、せんでも良いことばかりに夢中になっている。あるいは専門的知識を駆使して逆の結論を奏でている。なしてこうなるのか。この現象を如何に理解せんか。これが疑問であった。今回禅問答式考案を得たのでこれを公にしておく。 思うに、学ぶということを何の為にするのか。国家が義務教育として巨額の費用をかけているからにはよほどの有益な理由がなければなるまい。これにつき、れんだいこは然りと考える。「読み書きそろばん」は人が生きていくうえでの必須だから。ところが、学問をその先へ進めると、学べば学ぶほど余計にバカになると云う珍しい人種が生まれてくることになる。れんだいこは、本来有益な学問を学んでバカになるからには元がよほどバカなんだろうとも思う。そういう連中には漬ける薬がないというべきだ。あるいは単に地位と名誉と金に目がくらんで好んで馬鹿になっているのかも知れない。これが事実だとすると、連中の学問に向かう魂胆の底の浅さが透けて見えてくる。 ここまでなら、各自の生き方だからまだ許せる。問題は、そういう連中がよりによって当方を説教しに来ることである。来ないまでもマスコミ電波でしゃべりまくるから堪らない。れんだいこはテレビは見ない方だが、朝方の出勤前に何となく音声を聞く。芸能ごとには興味がないので社会面政治面にチャンネルを合わせる。聞けば、互いに目先を変えただけの害悪極まる御用見解を披瀝しあっている。見解がまるで陳列された商品であり、我々にはそのうちの任意の見解商品を受け入れるよう仕掛けられている。多くの者はほんまかいなぁと思いながらも分別のないままに受け入れてしまうというようなことになっているのではなかろうか。そういう心配までさせられる。 このところの内閣支持率の高さは異常であるが、こうした電波公害によってもたらされているのではなかろうか。もっとも、内閣支持率を引き出す仕組みそのものが問題だ。百人や千人の調査で何が分かると云うのだろう。要するに、ある見解を流布させたいが為に、その根拠づけに百人や千人の無作為選出調査なるものをダシにしているだけだろう。エエカゲンニセンカイと思う。マスコミは喧伝する以上、情報の正確さを論証せねばなるまい。「あるある事件」とは違うという公正さを説明して見よ。 一般に、学ができすぎると、御用理論プロパガンダに向うらしい。彼らにはその見返りに富と地位と権威権限とサムマネーが与えられるようである。全国各地何処へ行っても先生先生と呼ばれるのが快感で、いたく満足という仕掛けらしい。天下り云々批判しているが、手前達も結構天下っているのではないのか。あれこれ思うと、早く電波公害に代わる日本版アルジャジーラを立ち上げねばなるまい。今は恐らく言論の自由という意味では戦前より酷いのではなかろうか。 もとへ。学問には、正学と虚学がある。この識別が大事だ。普通には、正学は実践的に役に立つ学問であり、虚学は逆の意味で理解すればよい。この場合の正学とは、「読み書きソロバン」及びその発展系の体感、経験、智恵に列なるものの総体と思えばよい。正学をこう理解すると、虚学は実践に試されると役に立たない虚飾学ということになる。この弁えを仮に第一公理とする。この認識が最初に必要となる分別である。 思えば、田中角栄の見識は正学の極みであった。下手に高等教育機関へ行かなかったから却って良かったのかも知れない。彼ほどの人物は史上でもそうは居るまい。れんだいこは、角栄につき、歴史学的に見て原日本を治めていた出雲王朝系の頭脳遺伝子を持った人物であり、その能力のほどは現代に蘇った大国主の命と見立てている。 問題は、現代学問を論ずるのに、そういう第一公理的了解だけでは解決し得ないところにある。というのは、虚学は普通には役に立たないのだが、実際には処世法上にのみ役に立つような虚学があるということである。そして、今やそういう虚学が主流化しているように思われる。こうなると、第一公理の正学虚学観だけでは解けないことになる。第一公理は余りにも杓子定規で、複雑怪奇な学問界を理解するには子供段階の認識に過ぎないということになる。 第一公理観からすれば、「役に立つ虚学」とは背理であるが、何故にこの公理が成り立つのか。ここを思案せねばならない。思えば、第一公理の「役に立つ」が問題で、漠然とし過ぎている。「役に立つ」は、「5W1H手法」をリトマスして精査されねばならないのに、「5W1H手法を抜きにしたまま役に立つ」を抽象的に通用させているところに問題がある。公理がまだ練れていないということになる。実際には、「役に立つ」は、「誰が、何の為に、どのようにして」という手法とセットで問われねばならない。これを欠落させた「役に立つ」は空疎である。 とすると、正学とは、究極的に見て世の中全般に実践的に役に立つ学問であり、虚学は、反対に究極的に見て私的ないしは特定党派の利益にのみ役に立つような学問とでも規定し直した方が良いのではなかろうか。これを仮に第二公理とする。「私的ないしは特定党派の利益にのみ役に立つ学問」なぞある訳がないと思うのは、東洋的学問理解に偏り過ぎている。もっとも、「私的ないしは特定党派の利益にのみ役に立つ学問」というのは程度問題であって、百%そうだというのではない。例えて云えば、第一公理的な「正学5割、虚学5割」を標準とすれば、「正学2割、虚学8割」という風に虚学に異常偏向している学問と理解した方が正確であろう。故に、カルト学であろう。 では、「究極的に見て世の中全般に実践的に役に立つ学問」が何ゆえ正学で逆は虚学なのか。これは、最も根本的な分別なので容易には解けない。れんだいこは、東洋的叡智思想である「身の内と身の外世界の相似現象論」を媒介させることにより識別したいと思う。それによれば、我々の心身機能は互いに共生的に補足しあってネットワーク化している。これの具合で健康になったり病気に陥ったりする。外界は、この身の内の理の相似象をしており、外界と云えども共生的であることが望まれている。いわば、両者は、身の内小宇宙、外界大宇宙として相互に通行している。これが望まれている姿であり、正学は望まれている通りに学問するので学べば学ぶほど有益で、故に正学と云う。虚学は、逆であるので虚学と云う。こう分別する必要がある。 西欧史を学べば、第二公理的正学と虚学の闘いの連綿史であることが分かる。儒教的東洋人あるいは日本古神道的日本人の大方には、この厳しい西欧社会の相克史が理解されていない。儒教的東洋人あるいは日本古神道的日本人が、第一公理的学問観のままに西欧学を学ぼうとすると、正学史と虚学史の識別ができていない為に、両者を混合させたまま漫然と資料の羅列研究で事足りることになる。しかし、それでは座りが悪い。どこかの段階で統一的に理解したがることになる。そこでどうなるかというと、多くの者は、虚学史の方を正学史と勝手に懸想して鵜呑みにする始末となる。なぜなら、現代世界を牛耳る勢力が虚学史の方をプロパガンダし続けており、権威を授与しているからである。 ここまで云えばお分かりであろうが、虚学とは、「歴史的ユダ邪学」のことを念頭に置いている。実際には「歴史的ユダ邪学」にも正学志向と虚学志向があろうから、「ロスチャイルド派系虚学ネオシオニズム」と変成しつつ近現代に至っている、この系の学と明確に言い切った方がより正確であろう。ロスチャイルド派は「シオン長老の議定書」を古典マニュフェストとしているので、「シオン長老の議定書派」とも言い換えることができる。そして、この連中こそは、かの昔イエスともっとも激しく論争しイエスを死刑に追いやった歴史的パリサイ派の流れを汲む者でもあるので、現代パリサイ派と呼ぶこともできる。 現代パリサイ派が現代世界を牛耳っており、世界を彼らの意に染まるよう改造中である。彼らこそ史上の正真正銘の革命派と云えるかも知れない。革命にはそういう怖さがあることが次第に判ってきた。ところが、連中の理論と実践が虚学となっている。利益にさとい者がこれに群がっている。この虚学が膨大な学的体系を構築しており、ウヨサヨの二本建てになっている。これを渉猟通覧しようとすれば寿命が幾らあっても足りない。 正学と虚学の違いは次の点に認められる。究極的に見て、正学がよろづに於いてフェアトレードを旨としているのに対し、虚学はアンフェアトレードの虜(とりこ)となっている。正学はかって、シルクロード交易を生み出したが、虚学は、シルクロード交易を狙い撃ちにする盗賊を生んだ。その連中が近代になって世界の植民地化を生んだ。彼らが触手を伸ばした至るところで侵略と収奪が発生し、文化が破壊され、黒人奴隷が移植された。これらは皆な虚学が引き起こしたものである。 正学と虚学にはそういう違いがある。仮に思えば良い。世界中の諸民族のうち、異民族同士が遭遇したとして、平和を望まぬ者があろうか。れんだいこは、僅かの経験からこのことを確信している。多くの諸民族は、礼節を尽くして待遇した事例を遺している。戦争でさえそうだ。誰が好んで相手の殺戮を望もうか。多くの戦史は、無駄な殺生を避けた事例を遺している。これが世の実際だ。異民族同士が遭遇した時、相手方を一網打尽せんと考えを廻らすのは異例だ。戦争で相手側を虫けらのごとく扱い無差別殺生を好むのは異例だ。諸国民は願わくばと云う限定であるが真に平和と交流を望んでいる。これが実際だ。スポーツの国際交流はこれを例証している。 虚学は昔より拝金蓄財を旨としており、高利貸し金融を得意として勢力を扶植してきた。彼らは、手前達が虐げられている時はヒューマニズムを喧伝し、革命理論を弄び、手前達が権力を掌握するや独裁と悪法を好む。その間彼らは富める国に寄生し、その養分を吸い取るや他の富める国を求めて転移する。跡に残された国は往時の勢いを失い、大概の場合再起不能にされてきた。そういう事例は、歴史に枚挙の暇ない。 顕著な違いは次の点に認められる。正学が概ね共生を旨としているのに対し、虚学は強制の虜(とりこ)となっている。虚学は戦争と革命と収奪を飯の種としてきた。各国政府の財政を赤字にさせ、金融コントロールしてきた。正学が、祖国の伝統と歴史を尊ぶ在地型を旨として国造りし、然る後に願うらくは国際的協調に向かおうとするのに対し、虚学は、国際主義を旨として在地型の歴史と伝統の否定に向かう。その癖、手前達は誰よりも強い内向きの同胞主義と選良主義に浸っており、異民族を勝手に畜生ゴイムと蔑視し、ゴイムに対しては国際主義をプロパガンダすると云う二枚舌を駆使している。ゴイムに対し、第二、第三選良として生き延びるよう説教し、彼らの理想とする秩序に服するよう説き続けている。 現代パリサイ派は、そのような得手勝手なご都合主義的な独善な唯我独尊的な虚学を好み、全てを金儲けの資にしてしまう。皆なそれぞれ寿命があろうに一生を平然と悪事に費やして恥じない。その狂気を正学としてプロパガンダし続けている。現代政治と経済と学問と文化の虚学体系を構築しており、そのテキストが配信配布され続けている。これを洗脳教育と云う。逆に、正学のテキストは焚書坑儒され続けている。これが歴史の実際である。中世から近世、近世から現代への過程は、この事象の強化史である。 そういう状況下であるからして、日本人を含む儒教的東洋人が学問する場合、「政治と経済と学問と文化の虚学体系」を正学とみなして洗脳されるのも致し方ない面もある。しかし、この虚学体系は、「世のため人の為に成る正学」を抑圧した上に成り立っているので、学べば学ぶほど「世の為人の為にならない」ようになっている。我々の体で云えば、身体機能が助け合いネットワークしているのに、その理法に反して抑圧と対立と分裂を強いている。現代のストレス病のその多くは、この虚学体系が生み出しているように思える。 我々が、そういう虚学を受け入れて、現代パリサイ派に奉仕してみても、使い捨てにされるまでの間を栄耀栄華されるだけでしかない。権力者はそういう空虚の基盤の上に成立している。俗に云う飼い殺し状態にある。これを長年煩うとどうなるかである。漸く結論に辿り着いた。そういう訳で、「議事堂やテレビで自称知識人の阿呆さ加減」を目にするようになるという仕掛けである。これにつき、後日もっと論証していくことにする。 れんだいこは、幕末維新、明治維新の検証過程で、ネオシオニズム学の導入時の様子を示す情報を得た。まだ論としては纏めていないが、資料的に「フリーメーソン日本史」、「グラバー考」、「フルベッキ考」に記した。それによれば、明治維新政府が文明開化の名の下で進めた教育、研究機関のその大元の枠組が、フリーメーソン系お雇い外国人によって造られたということを知った。つまり、この時よりネオシオニズム虚学が学問的権威で押しつけられ、これに疑問を湧かさず学び得た者が優秀者とのお墨つきを得たというだけの話である。無能学者の原点がここにある。 ネオシオニズム虚学は一見精緻に見えるが、共生志向できないという点でそもそも学問の根本が狂っている。それと、そういう訳で本音と建前の二艘建てにしており、一般には建前の方のみ学ばされるので、実践的に役立たないと云うことになる。故に、学べば学ぶほど陳腐な且つ本来の学問に値しない偏狭な知識を植えつけられるに過ぎず、要するに馬鹿になる。「人は、学んでなぜ馬鹿になるのか」の理由がここにある。れんだいこが、マルクス主義からの出藍を決意した理由もここにある。 学問の構図がかく見えてきた。そうと判れば解決法も容易い。我々は、根本に立ち戻って学問を東洋的正学に転回せねばならない。西欧的にはイエス学の地平で学問し直さねばならない。パリサイ派に汚染されない前のエジプト、バビロニア、ギリシャ、ローマ学、イソップ童話、各国の伝統的古典を識別し、これらを学問せねばならない。そして融合せねばならない。パリサイ派学問を駆逐し、真の意味での正学を再興せねばならない。そういう意味で夜明け前である。以上、れんだいこの現時点での認識の到達段階を記しておく。 2007.3.22日、2007.4.24日再編集 れんだいこ拝 |
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現代世界を牛耳る国際ユダ邪は、あらゆる分野に虚学テキストを作成しており、読み書きそろばん後の学問に於いては、そのテキストを学ばせることを教育、学問の使命としている。この教育システムから生まれて来る優等生は当然のことながら虚学テキストの優秀性であり、これを鵜呑みにする程度が強ければ強いほど「学んで却って馬鹿になる」手合いとなる。現代世界を牛耳る国際ユダ邪は、「学んで却って馬鹿になる」手合いの中から比較的使えそうな者を見いだして登用する。文系理系問わずそのネットワークを形成し、世界を操作する。この仕方で世界各国をコントロールしている。これが、現代世界に登用された「上に立つ者の間抜け顔」の秘密である。であるが故に軍人の肩や胸に付ける勲章同様の肩書が必要となる。それがなければ通用しないからである。 「上に立つ者の間抜け顔」が特に多い界がある。これを見分けるのは、能力以上に優遇されている業種としての界、その界内のトップないしは上級職を見つければ良い。国際ユダ邪は、現代世界を牛耳る為に必要な手立てを講じており、その界にエージェントを送り込み、彼らにとって有益な仕事をさせる。その見返りとして高給与、名誉、地位、その他の物欲を与えている。しかしながら、その仕事は「国際ユダ邪が現代世界を牛耳る為に必要な労働」であって、正学が持つ労働の喜びの真反対に作用するものである。これを永らく続けると精神がスポイルされ、虚学特有の「上に立つ者の間抜け顔」症状になる。国際ユダ邪が重視する界になればなるほど、そういう御仁が送り込まれ、跋扈し始め、遂に特有の腐敗痴態を繰り広げるようになる。(とりあえずメモ書き) |
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Re:れんだいこのカンテラ時評その147 | れんだいこ | 2006/02/28 |
【学問考から始まって話は著作権論へ、更に現代シオニスタン政治批判へ】
理系学問の場合、良くは分からないが少なくとも文系のそれに比べて学問が積み立て式になっているのではなかろうか。いや実は、理系学問も奥に入れば同じことですという指摘もあり得そうだが、門外漢なので良く分からない。 文系学問の場合は断言できる。政治、宗教、哲学系の領域に於いては特に際立って、理系ほどには積み立て式にはなっていない。共認共有できるものは読み書き水準と基礎知識ぐらいまでで、それから先の更なる知識、観点、史観ともなると相互に対立するものが乱立している。それらが互いに精査されていないので、どれが真実なのか分からない。銘々がそれらの中から任意にお気に入りのものを抽出し、論を組み立てる以外にない。 お山の大将式に論証抜きに言及されたものが商品の如くに陳列されており、良し悪しを支えるものが権威のみであり、その権威を頼りに思想や観点が買われるという作法が通用しているように思える。れんだいこの見立てるところ、生意気なようだが、ろくなものがありゃしない。 これらの場合、同じ文字、文章を読むというのに、同じ資料を前提にしているというのに、それを解析する打ったての初手から違う事例も多い。当然、解釈ないし結論が正反対から記述されることになる。これに応じて学閥なるものが形成されている。 例を挙げてみれば、邪馬台国所在地論争がその筆頭であろう。九州説、大和説、その他説の三系が議論を逞しくしてきた。ロッキードー事件も代表的事例である。前首相・田中角栄有罪説、無罪説、冤罪説の三系が議論を逞しくしてきた。他にも多々有りすぎるのでこれ以上列挙しない。 こうなると、学問するといっても、新参入者は何をどう学ぶのか大いに困惑を余儀なくされる。この際に疑問を沸かすことなく学べる者は幸いである。れんだいこもあやかりたいが、性分が邪魔してそうはならない。付言すれば、諸説もその奥行きを深めていけば、どこかで更に分岐する三系に分かれ、そういう岐路が延々と続く。その選択の仕方で個性が出てくる。最初から最後まで一貫して説が同じというのは有り得ない。これが、れんだいこの掴んだ学び感覚である。 れんだいこは、折にふれ書を読むが、殆どの場合、上述の理由から情報的資料価値をいただくだけのことが多い。折角良い資料を披瀝しているというのに、その解釈的なことになると合点できないケースが多いからである。あるところまでは納得するが、途中から辟易させられることが多い。 この場合、れんだいこが受け入れられない解釈的な箇所を削除し、史的に実と認められる資料のみ抽出することにしている。その上で、れんだいこ推理による判断を生み出し、提示されている解釈との対話を経てれんだいこ文章を生み出す。こうしないと却ってれんだいこの理解が纏まらないからである。そういう作業なしに学べる者は幸いである。れんだいこもあやかりたいがそうはならない。 誰かが、れんだいこがして来たやり方と同じような作業をして、今度はれんだいこ文を下敷きにして新たな文章を書く。れんだいこはそれで良いと思っている。考察とはかくあるべきだと思っている。この方法こそが試論が試論を呼び、次第に高次になる弁証法的対話著作術ではないかと思っている。学問が字義通り「学び」と「問い」を中心的二要素にしているなら、この方法こそが学問的なのではなかろうか。 誰が、この当然の学び方を掣肘せしめるのだろうか。これにつき疑惑せねばなるまい。「党中央の云う事はその通り」などと云う学び方など有り得て良いことだろうか。それは、カラスが白いと親分が云えば黒いものが白くなる式のイエスマン方式とどこが違うのだろう。 この構図の上で、これが絶対正しいとか真理だ真実だなどと大仰に叫べば叫ぶほど忠義とでも思ってか、パフォーマンス士が徘徊し始めるが、れんだいこは群れない。そういう門徒にはなりたくない。自分が精査した上で通暁したことに命を賭けることにはやぶさかではないけれども。 厄介なことは、最近の著作権である。最新式の全方位全域著作権論は、弁証法的対話著作術手法の壁となって立ちはだかっている。断りなしに引用、転載は罷りならぬと。中にはリンクまで了承要すとする手合いも居る。これを学問の世界に身を置く者に率先してやられたら堪らない。恐らく彼は、社会的負託というものが分かっていない。普通、これを餓鬼子供と云う。そういう餓鬼子供学者が増えてきている。この子供染みた手法が蔓延しているということは、我々が気づかないうちにそれだけ大人の知の背丈が低くなったのかも知れない。 滑稽なことは、元来、自身が作成した文章でもない例えば判例のようなものがサイトアップされておるからして、それを見つけて後日の学習材料にしようとして転載していたものでさえ、盗用呼ばわりされお叱りを受けることである。若干のコメントをしているらしいが、それを頼りに批判するのは俗に云う難癖であろう。 インターネットを通じて情報を取捨選択した場合、例えば或る人が他の人の文章を引用転載していたものを見つけ、れんだいこがこれは使えそうな文章だからして取り込んだとする。この場合、本来の作者でもないのにその指弾者は次のように云う。「それをサイトアップした際の手間隙とか編集の著作権があるので、勝手な利用罷りならぬ」。 この論は更に次のように進みそうな気配である。俺が或る著作物を発掘して俺流に組み合わせている以上、俺には発掘著作権と編集著作権とでも呼べるようなものがあるのだ。俺の文章ではないが、俺が見つけた文章だから俺にも著作権が発生しているのだ。その俺のサイトから無断転載した以上、俺の著作権を侵害していることになる。故に、謝罪を要請する云々。こうなるともはや、あの手この手で他人文に著作権を被せることがいとも簡単にできることになる。 れんだいこは馬鹿げていると思うのだが、虚学に嵌まり過ぎて、そういう学を変につけ過ぎると、それを強度に主張するようになるらしい。その種の指弾者の言い分の方が受けが良く、マナー遵守者として合点されるようである。こうして互いに互いの首を絞め窮屈を競い合うマナー論が横行し始めている。 れんだいこに云わせれば、互いに手間隙をかけ編集したものをあるいは苦労して発掘収録したものでも互いが利用しあえばお相子(あいこ)で、それで良いではないか。流通為さぬよりはより流通し易く促進せしめた方が互いに有益ではなかろうか。論というものは、誰がよりも、何がに重きを置いて評されるべきではなかろうか。と思うのだけれども、「飛んでいる矢は止まっている」式の論法でいろいろ難癖をつけてくる。 そういう御仁であるからして、否滑稽なことだがそういう御仁に限ってと云った方がより正確か、当人が思っているほどの価値の高い文章を創造できないとしたものだ。その腹いせかどうかそれともよほど閑なのだろうか、著作権防御壁を廻らすことに熱中する。普通、ネット検索で、自身のサイトが喧伝されているのを見るのは楽しいことなのに、よくも俺の文章をパクりやがったとばかりに盗用呼ばわりしてあちこちに喧伝して廻る。れんだいこは、この手合いとは口を利かない。なぜなら、反論することで、その反論が切れ味よければよいほど逆恨みでもされたら堪らないから。故に、何を云われようと相手にしないことにしている。 考えてみればよかろう。文字そのものが無著作権で利用されているのだろうが。長い歴史の中で人類が無著作権的に獲得したものでありませうが。更に、我々の学びの時代に於いて、我々は、無著作権時代の数多くの著作のお蔭を受けて知識素養を深めてきたのであろうが。例えて云えば親の無償の恩であり、その慈愛を受けて育ってきたのだろうが。そうして一人前の物書きになれた途端に、俺は貰ってきたが人にはやらぬという理屈が通用するだろうか。狭隘な精神のみが透けて見えてくる話ではないか。 れんだいこは思う。何でも商売の種にすれば良いというものではなかろう。商売の種にしてはいけないある種の分野だとかある種の限度とかの弁えがあってしかるべきではないのか。そういう識別のできない野蛮人が、あたかも文明人かのような口ぶりをこねつつ野蛮な作法を押し広げつつあるのではないのか。いわば、まじめな顔して黒の作業を白のそれだと云い含めているだけのことではないのか。そういう連中が道徳、倫理の説教をとりわけ好むので始末に終えない。 これを左派を自称する側が促進するから、れんだいこはめまいを覚えている。一体、左派精神というのはどういうものなのだろうか、原点に於いて考える必要がありはしないか。控えめに見ても、最新式の全方位全域著作権論はブルジョア的権利の最たるものではないか。それも、歴史的に見れば、これまでのブルジョアジーが抑制してきた文の分野のブルジョア権利化に向おうとしている。 思うに、未開だから開拓しようとしているのだろうが、聡明なる抑制で未開にされてきたものであるという分別ができないみたいである。左派が、そのようなものを振り回したからといって何の益するものがあろうぞ。一言で云って偏狭に過ぎる。そういう訳で、れんだいこは、この種の手合いをサヨと名付けている。このサヨ族が大手を振って闊歩しつつある。我々は故に、サヨが左翼的仮面を付けて「左」から攪拌する悪作用と闘わねばならない。誰しも正面の敵とは闘いやすいが、背後や横腹からの敵には無警戒な分足元をすくわれやすい。 この観点は、左派圏を更に分裂させようとして為に指摘しているのではない。始発の公理である「人民大衆の利益尊重擁護」を踏まえることなく、個人のブルジョア的権利を上に置こうとする精神を持つ者を左派とは認めない、という基準を敷くことの必要を述べているに過ぎない。最低限ここを踏まえないと左派運動そのものが成り立たないではないか。 と思うのだが、この自明なことに於いてさえ諸説流儀が混交しているのが実情で、だから何事も首尾よく進まない。れんだいこは、この当たり前のことに合意が形成されていない状況を寒いと感じる。 これを読む者がいたら、特に政党人の場合、その政党が著作権をどのように主張しているのか検証されたし。その愚昧さ加減を確認されれば宜しい。そういう政党は決まって、党史を晒さず、その他重要な決議を隠匿し、反論等でどうしても公開せざるを得ない場面では、歪曲、欺瞞、すり替えて平然として居直っている場合が多い。そこには事情を知らない者を誑かす流儀が見える。 最近もこの種の詭弁に出くわしたので書き付けておく。民主党はこたび「ライブドア社長ホリエモンによる武部幹事長の息子への3000万円振り込み指示メール事件騒動」でつまずいた。許せないほど稚拙な証拠調べであったようだが、更に酷いのはその後の方である。民主党執行部は、自らの責任を棚に上げ、汚名挽回、失地回復こそ真の責任の取り方である云々の言辞を弄している。 この論こそうんざりするほど臭い話ではないか。民主党よ、お前もかとなじりたい。この論をかざせば、執行部はどんな事態をも切り抜けられよう。無責任論、免責論の極みとでも云うべき重宝な理屈であろう。そういう御仁で固められた政党が何ゆえ体制腐敗批判できようぞ。最近この種の弁解にちょくちょく出くわす。嫌な時代だ。 れんだいこは思う。「3000万円振り込みメール騒動」経緯の真の罪は、結果的に小ネズミ政権の窮状を助け起こしたことにある。小ネズミ政権は、姉歯事件、米国産牛肉輸入解禁、皇室典範改正、ホリエモン逮捕、憲法改正、外交不良等々で行き詰まり、政権末期の死臭を漂わせ始めていた。それが、「3000万円振り込みメール騒動」で台風一過された感がある。ならば、「3000万円振り込みメール騒動」の仕掛け人を詮索するのが普通の感性だろう。 民主党執行部は疑似餌を掴まされたのではないのか。前原執行部は、疑似餌騒動に意図的に加担したのではないのか。若手有望株の一人であった永田寿康衆院議員に小ネズミ首相の贈収賄事件を問わせたのならともかくも、小ネズミにとっていつでも切れる痛くもかゆくもない武部幹事長のそれを突いたところからして解せない。これにより永田議員の将来の芽をも潰した。これらは果たして偶然か。れんだいこは、臭いと見立てている。今のところこのように見立てる論にお目にかからないが、何故なのか分からない。 最後に述べておく。3000万円振り込み指示の真実ががどうであろうが、そういうことを問題にするのなら、3000万円の千万倍も多額の数十兆円のムダガネをイラク戦争につぎ込み費消させた小ネズミ政権の責任を問うのが本筋ではないのか。これが問題にならない政治が理解できない。 民主党は、神学論争無意味論で憲法違反承知でイラクへ自衛隊を武装派兵させ、その撤退が議題に上り始めた今こそ、小ネズミ政権の失政責任を問わねばならない立場にある。ところが、最新情報によると、自衛隊が新たな悪策動に使われようとしていると云う。この緊急の政治的事件が取り上げられねばならないところ、民主党前原執行部は小ネズミ政権との阿吽の呼吸で目をそらさせようとしている。これが、「3000万円振り込みメール騒動」の罪である。それを思えば、元々から邪悪な企みを持って企画された騒動かも知れない。 結論。この国では政治が全く機能していない。政界上層部は与野党問わずシオニスタンに御されている。連中は何もしないと手持ち無沙汰になるから重箱の隅をつつくような話で空気抜きさせようとしている。その裏で悪巧みが進行しつつある。我々がそれを許すなら、今や一億寝たきりの痴呆の時代というべきであろう。 2006.2.28日 れんだいこ拝 |
【世の学問四系考】 |
「転向問題」について論じようとしていた際にふと気づいた。「毛沢東」に関する「ウィキペディア」の変調解説を見て思った。データに主観が混ぜられており毛沢東の実像に迫れない。一体、学問というのは、事の理非曲直を明らかにしようとして学が形成されているのだろうか、逆に事柄を錯綜せしめ、意図的に専門家以外には理解できない方向に誘導せんとて小難しく形成されようとしているのではなかろうか、あるいは事の真偽を逆に描き出すような謀略的な知の押し付けもあるのではなかろうか。 我々は、正確な知識を得るためには、市井の学問一般に対して、まずそこのところを問われねばならならず、必要な知と仕掛けられた知を峻別して取捨選択していかねばならないのではなかろうか。 世の学問には、真実に迫る学問と迫ろうとして迫れて居ない学問と迫らせないための詐術の三種類があるのではなかろうか。正確にはもう一派あり、その識別さえ為されずのんべんだらりとした単に記述式の博学識の誇り学問もあろう。やはりここでも三派ないし四派が存在するのではなかろうか。道理で、学べば学ぶほど暗愚に成る学者バカが存在する訳である。真の学問者とは、この仕掛けから抜け出し自他力で思惟の叡智を持つに至った者こそ云われるに相応しい。何時の世でもこれが滅法少ない。 もう少し述べておく。仮にの戦前日共党史論を学ぶとしよう。れんだいこは今、知識を欲し、書きつけつつある。その道中の感慨であるが、既成の解説書はほぼどれもれんだいこの意に叶わない。宮顕ー不破系編纂の党史なぞ全編評価を逆に描いている。その酷さは意図的な悪意で改竄しない限り有り得ない種のものである。こういう党史論をそれと知らず学ぶことを考えると、学べば学ぶほどバカに為ることが請け合いで、むしろ学ばないほうが判断が曇らず故に賢い。そういう意味のことが云いたい訳である。 ならばと、新左翼系の手になる戦前日共党史論を学ぶとしよう。少しはなるほどと思えるだろうか。れんだいこは残念ながらこちらにも首を横に振る。つまり双方合わせてろくなのがない訳である。そういう解説本を読んでいっぱしの事情通になったところで殆ど実践に役立たない。我々は、このことを深く思案せねばならない。 れんだいこには戦後左派理論の軽薄さが見えてきた。特に、反戦平和運動に於ける理論面のひ弱さが見えてきた。その種の理論に乗っかっているだけの者が、そのひ弱さと苦闘している者を掴まえてアホ呼ばわりしているのだが、反論するのも虚しいことである。れんだいこは、捩れた糸を一つづつ揉み解そうとしている。一朝一夕には行かないけれども。この営為を揶揄する者こそ恥を知るべきだろうが、ご丁寧なことに逆に恥論を説教してくれる昨今である。漬ける薬がないとはこのことだろう。 ここで、別の角度から分かりやすく例示しておく。学問には、実学と虚学と駄学の三種あるのではなかろうか。実学は、知れば知るほど為になる学問で、すればするほど真相に迫り熟練に役立つ学問である。「読み書きそろばん」の発展系と思えばよい。虚学は実学の逆で、知れば知るほど為にならない学問で、すればするほど真相から遠ざかり熟練に役立たない学問である。「学問バカ」の発展系と思えばよい。駄学は、実学でも虚学でもない何の為に学ぼうとしているのか意味目的を失念させたのんべんだらりの学問である。 問題は、このところの学問が実学を抑圧し、虚学を重視し、駄学を流行らせていることにある。これは意図的に持ち込まれているものであり、国策教育に於いてこれをやるので無視できない。概ね理系では真っ当なようだが、れんだいこは理系ではないので分からない。文系の場合は恐ろしいほど虚学、駄学教育が進んでいる。だから今では、国家関与の利かない学問を自分で学び取らない限り、受身ではますます阿呆にされてしまう。 以上、とりあえずの気づきをここに書き付けておき、後日の検討課題にする。 2004.11.23日、2007.2.12日再編集 れんだいこ拝 |
【「塩野七生 改革が衰退に結びつく時」】 | |
塩野七生氏の月間現代2005.3月号の「塩野七生 改革が衰退に結びつく時」は次のように述べている。
塩野氏のこの言はなかなか要領よく伝えている。要するに、作られた常識は疑わなければならず、そういう精神のない学問の薄っぺらさを疑惑すべきだろう。 |
れんだいこのカンテラ時評№1119 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 3月6日 |
学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別考 学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別解が漸く見えて来たので記しておく。学んでアホウになる学問とは、国際ユダ邪(国際金融資本帝国主義ネオシオニズム)が対ゴイム用に仕立てた学問テキストに基づく学問であることは既に指摘した。 それでは学んで為になる学問はどこにあるのか。見えて来たのは日本の古き学問及びその姿勢である。古きとは、大和王朝以前に遡る意味で使っている。れんだいこ推理によれば、日本は大和王朝以前に出雲王朝、邪馬台国を形成していた。これを「古き」としている。この時期までに形成されつつあった諸学問及び学問姿勢こそ学んで為になる学問である。そう思うようになった。 この観点から見れば、鮮やかなほど世に有益な業績を挙げたものが「古き学問」から生れていることが分かる。これを逆に云えば、ネオシオニズムテキストが生み出したものにはろくなもんがない。それは何も学問だけに限ったものではない。政治も経済も文化も精神も然りである。そういうことが見えて来た。 実際にはネオシオニズムテキスト系学問と上古代日本の学問が混在している訳で、そういう意味では見分けがつきにくい。しかしながら、見分けがつきにくいままに上古代日本の学問に向かったものは有益な果実を生み、ネオシオニズムテキスト系学問に向かったものは有害な空疎に至る。そういうことに気づいた。気づけば今からでも遅くない。気づいたときから始め実りのある営為に向かわねばならない。 この解により次にのべる一つの疑問が解けた。れんだいこの父母は、ここでは母を挙げるが、何故に知識が乏しいのに人として立派に生き通せたのか。ここで云う立派とは肩書きのことではない。母は4人の子を産み、父と睦まじく連れ添い、ほぼ死ぬまで働いて80歳余の寿命を終えた。生前云ってた通りに金も借金も残さなかった。朝に仏壇、神様、稲荷様にお供えし夕べに下げの繰り返しの日々だった。嫁に辛く当たるのでもなく死んだ時には兄嫁が心から涙を流していた。手前らは尋常高等小学校しか出ていなかったが、子供は高校、大学へと進学させた。れんだいこの奨学資金の返済は気づいたら母がしていた。 こういう生き方及び能力はどこから生まれたのだろうか。生み育てた子供の数でも親業(わざ)でも地域との交わりも世間評も、れんだいこよりしっかりしていると思う。しっかりと云う意味では、その昔に驚かされたのだが、れんだいこが学生生活に東京に出向いた際、手紙をくれたが、文章がしっかりしていた。末尾が何とかで「せう」としていたのを覚えており、これが気に入り、れんだいこも使っている。 要するに二宮尊徳的生き方をしていたのではなかろうか。その二宮尊徳は、三戸岡道夫著「二宮金次郎の一生」で教えてもらったが、「古き学問」出自の英才だったと思う。他の誰それも同じこと、極論すれば優秀な人は皆な「古き学問」出自の者である。おふくろも、そのはしくれだったと思う訳である。後はもう云うまい。 ronpyo/tetugakunote/gakusyabakaco.htm jinsei/ |
れんだいこのカンテラ時評№1120 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 3月10日 |
学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別考その2 学んで為になる学問と却ってアホウになる学問があることを確認し、それがどうやら前者に「古き学問」、後者に「ネオシオニズムテキスト」が関係していることが分かった。ただこの指摘だけではまだ漠然としているので、もう少し詳しく触れておく。 この違いが露骨に出てくるのが歴史学である。れんだいこの気づくところ、戦前の日本史学は皇国史観に彩られていた。これが戦後になるとネオシオニズム史観に基づいて書き直されている。これにより、戦前に正義とされていたものが戦後ではそうならず、不正義とされていたものが評価されると云うことになったのは衆知の通りである。と云うことは、ここに別の史学が登場し権威化した場合には歴史が書き換えられることを意味する。 これらは史観の為せる技である。そういう意味で史観は非常に重要である。史観の必要性は、歴史事象の何を重視して採り上げ、何を軽視するのかと云うことに関わっている。いわゆる歴史真実と云うものは史観上にトレースされているものであり客観中立的見立てと云うものはありそうでない。 ここを踏まえないと歴史真実の相対性が見えてこない。5W1Hにより確認されるのは個々の事象である。それさえ曖昧模糊にされるケースが多いので、まずはここをもっと厳しく精査するべきであるが、これを幾ら精査しても事象間の繫がりまでは語らない。事象間の繫がりを読みとるのに見立て、その見立てを裏付ける史観が必要になる。史観を通せば事象間の繫がりが生き生きと見えてくる。ここに史観の重要性、必要性がある。 その史観によって、学んで為になる学問となったりアホウになったりする。そういう意味で史観の吟味が必要になる。では、どのような史観に基づくべきかが問われる。れんだいこに見えて来たのは、「学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別考」で述べたように、「古き学問」のセンスを称揚したい。「古き学問」とは、大和王朝以前の出雲王朝、邪馬台国時代に形成されていた諸学問及び学問姿勢を指している。この時代の学問が如何に優秀なものであるのか。ここが問われていないが現在まで脈々と引き継がれていると思っている。 だがしかしそれは権威を持っていない。つまり御用学になっていない。つまり官制学校で教わることはない。いわゆる「在野史学」となっている。あるいは「巷間の伝承、口ずさみ」により伝承されている。そういう非権威、非御用学が御仕着せ学とは別途に世代に世代を継いで読誦され続け今日に至っている。それらには当り外れがあろうが耳を傾ければなかなか味わい深いものが多い。しかしてその質が高い。その理由が、「古き学問」に根ざしているからであるように思われる。 早くに社会に出て社会で泳ぎながら能力を鍛えた人士の中より傑物が生れることがあるが、彼らに共通しているのは「古き学問」を聞き分けしていることである。歴史の近いところで田中角栄なぞはその代表選手だろう。歴史上の有為の人物は殆どこの系譜であるように思われる。 ところで、「古き学問」から生れている史観には名称がない。れんだいこが勝手に唱えている「れんだいこ史観」はその一種である。「れんだいこ史観」の稀有性がここにある。名前はどうでも良い、「古き学問」から生み出された史観が、滅びた皇国史観、滅びゆくネオシオニズム史観に代わって表街道に出てくる日を待ちたい。これにより歴史を学ぶなら学ぶほど賢くなり逆は逆の気がする。「古き学問」の道に入れば世の有用なものと連動しており、皇国史学、ネオシオニズム史学の道に入れば世の邪悪なものに隣接しており且つ空虚である。これが、れんだいこが解いた「学んで賢くなる者と却ってアホウになる者の不思議」の解である。名答だろうか。 |
以下、補足しておく。日本史と云う軸を据えて、ここに於ける学んでためになる学問とアホウになる学問の仕分けをしておく。端的な基準は記紀記述である。これをどう読み解くかで、学んでためになる学問とアホウになる学問に分岐する。 学んでためになる学問は、記紀記述の御用性を見抜き、記紀記述が筆法として伝えている出雲王朝の御代を香ごうとする。あるいは出雲王朝以来の連綿とした皇統史を香ごうとする。これを仮に「古史古伝皇統史観」と命名する。 学んでアホウになる学問は、記紀記述を定規にして出雲王朝を排撃して樹立した大和王朝を称え、これよりの日本建国史を学ばそうとする。明治維新来の皇国史観はその最たるものである。これを仮に「記紀皇国史観」と命名する。 戦後、その皇国史観も排撃され、現在まで大手を振って罷り通っているのが国際ユダ邪系日本史である。これは、出雲王朝以来の連綿とした皇統史を否定し、皇国史観を否定し、暗愚粗野文明国家でしかなかった日本の文明開化啓蒙史観とでも呼べるものである。これを仮に「ネオシオニズム日本史観」と命名する。その変種として日ユ同祖論が唱えられ、その浸透域が次第に増幅しつつある。 ここまで構図化すればはっきりしようが、今後の日本が学んで賢くなるには、「記紀皇国史観」、「ネオシオニズム日本史観」を峻拒し、「古史古伝皇統史観」の道へ分け入らねばならない。この道が日本のみならず世界に通じるみちでもある。 2021.8.14日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№1121 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 3月11日 |
学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別考その3 「我が日本の古き学問」が如何に優秀なのか、これを確認しておく。結論から先に述べると学の始発の構えが素晴しい。それは、「共生助け合い的生き方、思想の開放的構造、自然摂理の聞き分け」の三原理に集約されるのではなかろうか。これをなべて「和の原理」としているように思われる。興味深いことは、そのことごとくがネオシオニズム学と対比的なことである。このことは、ネオシオニズム学の崩壊の後、「我が日本の古き学問」が見直され再興される可能性があることを示している。もとより、そのままの「我が日本の古き学問」の復権ではなく、皇国史観、ネオシオニズム学を咀嚼した後の「新たな我が日本の古き学問」の創造としてもたらされるだろう。これを正確な意味で「出藍」と云う。 選民主義と「自然を支配せよ」の命題で始まるネオシオニズム学の発展系が国際金融資本帝国主義を生み出し、彼らが悪魔科学が生み出し、その定向進化が地球環境の絶対的危機時代をもたらしている。これが万事を金権で測る拝金蓄財思想の結末である。こうした時代故に、ネオシオニズム学と真逆に位置する「我が日本の古き学問」が見直され、「出藍」が求められているように思われる。 れんだいこの知るところ、戦後思想家に於いて左翼圏から転戦してネオシオニズム学と対決し、「我が日本の古き学問」を称揚せんとする営為の端初をつけたのが大田龍ではなかったか。もとより大田龍の前に大田龍史観の下地となる様々な有益史観があったことは論をまたない。大田龍・氏は晩年、このような史学の確立へ向かおうとしていた。寿命が許さなかったが、健在なら大田龍史学が打ち立てられた可能性が強い。2.26事件の検証が晩年の企てだったが、そして田中角栄の復権の必要を説いていたが功績であろう。歴史にイフは禁物なので未練せず、残された我々がこの法灯を受け継がねばなるまい。 jinsei/ |
れんだいこのカンテラ時評№1122 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年3月11日 |
三陸巨大震災2周年れんだいこコメント 本稿の前に「学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別考」を書き上げた。今日は三陸巨大震災2周年に当るので、以下、「三陸巨大震災1周年れんだいこコメント」の続編として記す。 (ronpyo/tetugakunote/gakusyabakaco.htm) (jissen/tasukeaito/seimei/2012.11.11seimei.htm) れんだいこがこの時期に何故「学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別考」に関心を持ったのか。これを愚考するのに三陸巨大震災、福島原発事故対応に対する呆れ故ではなかろうか。今日で丁度二年を経過したことになるが、被災対応は史上例を見ないお粗末さなのではないのか。予算は既に充分に計上されている。人員も揃っており投入されている。にも拘わらず当局の打つ手打つ手が急所を外している。これはワザとそうしているのではなかろうかとさえ思う。 何でこうなるのか。れんだいこが見出すのはネオシオニズム学の悪影響である。我々は学んで少しも役立たぬような学問ばかりを仕込まれてきたのではなかろうか。それによりネオシオニズム奥の院の指令に唯々諾々する作風を身につけ過ぎているのではないのか。今日では政治にせよ経済にせよ専門の学者に舵取りさせてもうまく行かないのが相場になってしまっている。 しかしこれは考えたらオカシイことである。まともな学問をしていれば、素人よりも数段なるほどの舵取りするのが当たり前のことだろうに。囲碁の例で考えてみよう。プロがアマチュアより拙い手を打つなどと云うことがあり得るだろうか。頭脳がそういう按配だから政府が諮問委員会を幾つも設けて学者の知恵に期待しても決まって役立たずの結果になっている。そこで新たな委員会を設けるのだが結論は同じで要するに問題を先送りにしたに過ぎない。オカシナことではなかろうか。 三陸巨大震災対応につき今思いだしても不自然なことが多過ぎる。例えば、初動における被災民救援の遅れがイカガワシイ。がれき処理の異常な遅れが信じられない。海の者を山へ連れて行く発想、防波堤を山より高くする発想なぞはナンセンスの際みである。原発対応できぬさなかの原発続投表明なぞは狂気である。復興予算を組んだものの現地に使わず競って流用している痴態はモラルハザードを通り越している。これらが目ぼしいところだが個々の事例を挙げればキリがない。総てが逆対応であり真剣さがない。 そもそも復興は難しいものではない。必要なところを手当てすれば良い訳だからむしろ分かり易いと云うべきだろう。原爆が投下され廃墟となった広島の復興を見れば良い。時の政策者がまともな頭脳を持っていたのであろう、まずはメインコースの百メートル道路を中心に市街化整備が進められた。区画整理事業が始まり青写真通りの再生が進んだものと思われる。災害は、時の被災者には気の毒だが災い転じて福となすような力強い復興が始まるのが普通である。そういう特需景気が起るのが普通である。れんだいこの云う「我が日本の古き学問」に従えば必ず見事に再生するし再生してきた。 しかるに、三陸巨大震災、福島原発事故対応の場合、金も人も注ぎ込み掛け声だけはするが復興をワザと遅らせ、するにしても経済効果にわざわざ結びつかないよう仕掛けした対策を講じており、結局のところ予算のムダ使いばかりしている気がする。関東大震災、阪神大震災に比しても余りにもお粗末な対応が目立つ。この背後の事情にネオシオニズム学の悪影響を見て取るべきではなかろうか。これにより、人民大衆レベルでは「我が日本の古き学問」に従い絆を大事に助け合っているのに上の方の責任者は示し合わせて逆漕ぎばかりしているように見える。日本がネオシオニズムに捕捉される度合いに応じて万事に於いてお粗末になりつつあるように見える。 そういう事情によってとしか考えられないのだが、震災当初危惧されたように被災民の棄民化が進みつつある。それにしても菅政権下の被災民対応は犯罪的だった。被災民の移動にせよ居続けにせよ不可抗力では済まされない誤誘導が目立つ。これの検証もされていない。全権限を官邸に集中させた挙句のお粗末さであるから質が悪い。 原発廃炉対応の難しさ、原発後遺症はこれから本格的に露呈しそうである。その費用も天文学的になりそうである。災害復興計画のグランドデザインをまだ聞かない。提起されているのは既に述べたように逆漕ぎ政策ばかりである。そんなものが遅れても構わないが、れんだいこから見てまずまずの案が先延ばしされ続けている。災害当初は許されても二年も経過してこの調子となると批判の段階ではない弾劾の段階に突入していよう。 当事者能力を喪失している我が日本の政治を見るのは辛すぎる。民主党政権下の対応はデタラメだった。そういうこともあり自民党安倍政権が誕生したのだが、安倍政権が急いでいるのはTPP交渉であり消費税増税であり憲法改正である。軍事防衛予算は伸びている。他方で「復興の加速化」を云うには云うが口先だけの御題目でしかない。これは後継の政権でも同じだろう。この言が本当にそうだと判明した瞬間、被災民はこぞって政府との一揆的談判に入るべきだろう。そろそろ我慢の限界域を迎えつつあるのではなかろうか。ネオシオニズム学に汚染された者を退かせ、「我が日本の古き学問」で頭脳形成した叡智人を登用することでしか難局を打開できないのではなかろうか。これが云いたかった。 2013.3.11日 れんだいこ拝 jinsei/ |
れんだいこのカンテラ時評№1021 投稿者:れんだいこ 投稿日:2012年3月11日 |
【三陸巨大震災1周年れんだいこコメント】 今日は、2011年3月11日午後2時46分発生の三陸巨大震災1周日である。この日に当たり思うことを書き綴っておく。 最初に云いたいことは、この震災が自然災害にせよ人工地震にせよ初動に於ける不審が多過ぎることである。巷間、一部で人工地震が囁かれているが門外漢のれんだいこには物理科学的意味での詮索ができない。そういう訳で人工地震説に拘ることは止すが、人工災害と読めば容易に解ける不審が数々あることは事実である。 まず本件の災害情報の不自然な伝達が詮索されねばならない。こたびのような巨大津波の情報キャッチは逸早く伝達されねばならないところ意図的故意に伏せられ、あたかも通常程度の津波的に情報が伝えられている奇怪さが確認できる。ここに不自然さはなかったのだろうか。これにより多くの人命が意図的故意に失われたのではなかろうか。更に云えば、福島原発に於ける津波堤防の無対策ぶりも訝られねばならない。こたびのような高津波は予見できなかったと云うのは誤魔かしであり、正しくは対策を意図的故意に怠っていたと評するべきだろう。誰が何の為にと云う詮索になるが、そういう陰謀が存在していたと読みたい。なぜなら原発地域には超高の津波対策が講ぜられるのが自然であるからである。福島原発には自然でない堤防対策サボタージュが認められる。 次に、大震災発生、福島原発被災直後の対応が解せない。思い返そう。自衛隊十万人態勢、予備役招集の鳴りもの入りの動員となったが、従来の総務省指揮下の応援ではない。寧ろ自衛隊が主導し、総務省は逆に何もしえなかったと云う体制下で救援活動となった発事例ではなかろうか。費用も相当かかっている筈である。ならば、これは誰が指揮したのか。当時の総務相はこの奇怪さを明らかにせねばならない。片山善博が任に当たっていたが責任重大な任務放棄ではなかったか。 その自衛隊の為した救援方面の働きは一応良しとしておこう。問題は他方で治安維持的な観点からの交通網規制をしていたことである。高速道路を交通遮断した為に救援物資が届けられなかった奇怪さが伝えられたが、それは明らかに意図的故意の過剰規制であった。被災民に対する灯油、ガソリンの供給規制も思い出させられる。優先的に割り当てさせられるべきところ僅か5リットル何がしかの制限が課せられ、これにより自主的非難ができなくなった。そういう規制が何の為に必要であったのか、誰が指揮したのか、その責任を問わねばならない。 震災直後から始まる用意周到な関東地方一体の停電規制も想起される。それは家庭用、業務用のみならず電車も止められる交通混乱を招くものであったが、何の為に必要だったのか。その後解除され今日に至っているが、かの時期に本当に必要な措置であったのか大いなる不審が残る。公共広告機構なる事業体の子宮がん検診を始めとする異常なコマーシャルを乱発したのも奇怪である。相当な費用を費やしたと思われるが、かの大混乱時期の宣伝としては異様である。この広告を誰が何の為に流したのか、これも詮索されねばならない。 ひとまず以上のことを云っておきたかった。初動からして解せない数々の変調さを見せた三陸巨大震災はその後の対応においても変調さのオンパレードである。小泉政治以来の官邸主導が如何なく発揮されたが、官邸が為したことで有益なことは何一つない。民間レベル、自治体レベルでは大いに奮闘努力し貢献しているが、官邸主導政治の為したことは正確な情報に対する隠蔽による悪行政ばかりであった。 特に福島原発対策の面で顕著になるが、実際のメルトダウンを誤魔化し大丈夫発言で被災民を釘づけにし続けた枝野官房長官のウソ云い続けが記憶に新しい。この御仁は今、経済産業相として日本のエネルギー政策、東電処理の方針を決める最高責任者の地位にある。こういうことが許されるのだろうか。本来であれば、大混乱が予想されようとも被災民を一刻も早くより遠くへ非難させねばならなかったところ10キロ、20キロ圏外辺りでの釘づけを逆指揮した。これを指揮した菅―枝野―時の閣僚責任者は犯罪者であり歴史法廷で罰せられてしかるべきであろう。 れんだいこは早くより全国各地温泉地旅館への非難を推奨した。民間的動きで一部実現したが、本来であれば政府の音頭指揮により国家を挙げて誘導すべきであったと思われる。政府が為したことは随分遅れての仮設住宅の建設であったが、温泉地避難との併用こそが望まれた政策であったと今も思う。費用的、ポランティア支援的にも効率が良かったと思われる。その仮設住宅建設も地元の建設業者が排除され大手建設業社数社に割り当てられている。その請負金額が適正なのかどうか、利権的にも詮索されねばならないのではなかろうか。 今日明らかなことは、官邸主導、それによる政府系の各種審議会の議事録不在である。慌ただしい中でのこと故に仕方なかった論では済まされない。国家の最重要権力機関内での会議の議事録不在は犯罪であり、この一事でも責任者は厳罰されるべきだろう。本当に存在しないのか、菅政権全体のデタラメの言動ぶりが明らかになるのを恐れて隠蔽しているのか今も分からない。 フランス系原発会社アルバがサルコジ大統領の肝煎りで来日したが、彼らが何を対策し、どう貢献し、その後幾らの費用を請求しているのか。数兆円の費用請求が囁かれたが、その後何の音沙汰もない。この真偽もせねばならない。首相官邸上層階に米側要人が陣取り、日本政府を指揮し続けていたことも暴露されたが、その要人は誰で、どういう資格で、何人で、官邸と何をどう打ちあわせ指揮していたのか、これも明らかにされねばならない。この情報そのものがウソなのかどうか真偽をはっきりさせねばならない。 そういうブザマな官邸政治が如何なく発揮されたのが実際である。菅首相の被災地視察の是非、東電乗り込みの武勇伝も精査されねばならない。これも議事録不在であろうが、菅首相の執った発言、行動が精査されねばならない。東電逃げ出し論の実際の内容も確認されねばならない。この間、原発事故対策に自身の生命の危険を顧みずのサムライ50の活躍も特記されねばならない。消防隊の活躍も光る。これも特記されねばならない。当然全国各地からのポランティアの貢献も光る。 さて、今現在何が問題なのか。一つはゴミ処理の不手際がある。本来であれば、野焼きを認めて全体量の半減化を為すべきところ通常の法規制限を厳格適用し続け、ゴミ処理の片付け、移転は為されたものの全体量が少しも減少していない。即ち莫大な費用負担のみが続いていると云う奇怪さにある。これは原発事故による放射能汚染の除染対策も然りである。もはやある意味で自然循環に任さねばならぬ割り切りが必要なところ天文学的な費用を投入し続けている。 今後の福島原発対策も一向に明らかでない。原発を封印するのか修理して再稼働させるのか、東電を国有化して乗り切るのか現下の民営化のまま救済を図るのか、今後の補償問題をどうするのか、今後のエネルギー政策をどうするのか、これらの観点の一切が不明なまま税金が投入し続けられている。福島原発のみならず全国各地の原発の今後の在り方を廻っても政治が指針をだしていないことによる混乱が続いている。原発維持派の論拠は電力不足論であり、ならば代替エネルギー、それも新エコエネ科学技術による転換が無理なのかどうか議論を尽くさねばならぬところおざなりにされている。 こたび程の大きな三陸巨大震災は本来であれば復興景気が表れるのが自然な経済現象であるところ皆目そういう動きにならない。これは政治の逆走によってそうなっているとしか考えられない。事故直後、震災復興に廻す為と云う名目で建築資材の出荷が止められ大混乱したが、これも市場経済を無視している。この命令を誰が指揮したのか、その責任者は誰なのか、これも明らかにされていない。そういう不自然さが付きまとっているのが三陸巨大震災対応である。 以上、思いつくままに述べたがまだまだある。被災現地では建築制限が課せられ復興の妨げになっている。これが区画整理事業等の都市計画による一時制限であるならともかく意図的故意の復興の妨げ政策の感がある。なぜなら復興計画青写真の作成が余りにも遅すぎるからである。故にこう窺う以外になかろう。行政されているのは漁民の山の手への移動誘導である。これも馬鹿げてよう。羹に懲りてなまず吹くの例えの愚策でしかなく、海の民は海の側で暮らすのが良いのは当たり前のことであろうに。必要なことは今後の災害時用の避難道路の整備と正確迅速な情報伝達策定だろう。海の民を山へ移動させるのを処方箋とするほど愚昧なものはない。 阪神大震災の場合、時の村山政権は災発生3日後に小里貞利震災担当相を責任者に立て全権限を与えた。小里震災担当相は、戦後行政における日本の総合開発計画を策定してきた建設省のドンにして田中角栄の懐刀の官僚プレーンの一人である元国土次官・下河辺淳氏を登用し成功裏に復興させた。これに比して三陸巨大震災の場合にはどう対応したのか。松本龍復なる者が震災担当相になり失笑を買ったのが記憶に残っている。ここでも逆走が確認できる。これは偶然なのか、意図的故意の悪政治なのではないのか、こう問いたい。 要するに万事においてデタラメである。デタラメと紛らわしい班目春樹(まだらめ はるき)が内閣府原子力安全委員会委員長(第8代)。防衛大学校長の五百旗頭真を「復興構想会議」の議長に据えたが最初の会議で発したのが「弔い合戦と増税論」と云う天然ボケを登用している。他にも原子力行政推進派のバカヅラがテレビに一斉登場し愚昧な専門的知識を弄んでいた不愉快な記憶が残る。 省庁再編行政改革と云いながら新官庁を作り続け会議に次ぐ会議をしているが議事録もない会議の為の会議を重ねている。この無駄ガネも合わせれば結構な金額になろう。もうこれぐらいで良いだろう。全てがバカバカし過ぎる。このバカバカしい政治が唯一しゃかりきになったのか陸山会事件を捏造しての小沢バッシングである。もうこうなるとあほらしい。 最後に。こたびの災害を奇貨として東北人は絆を保った。これは古来よりの日高見国の培っている歴史的伝統であり如何なく発揮されている。東北人のこの気質が今後の日本再生の力になりますよう頑張れ負けるなとエールしたい。今こそ助け合い共和国の創造に向けて邁進しよう。 2012.3.11日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)