「どっちもどっち論」について |
(最新見直し2006.10.31日)
「どっちもどっち」という判断留保的見解が披露されることがある。ここで、その論理の構造を解析してみたい。この用法は便宜理論であるからして排斥されるには及ばない。問題は正しい使われ方にある。包丁も使い方次第という観点と通底している。まずこのことが確認されなければならない。問題は、「どっちもどっち理論」が概ね正しくない使われ方をするところににある。 世の中には、真偽不明として判断留保せざるを得ない場合の「どっちもどっち」や、どちらでも通じるという意味でどちらでも良いのそう目くじら立てるに及ばないという意味での「どっちもどっち」の使われ方がある。この場合が、「どっちもどっち理論の正」の使われ方である。 ところが、真偽を分明にさせ白黒付けねばならないものに対して曖昧にさせる為の「どっちもどっち」や、この道を通じてしかその先へ通じないのに「どっちもどっち」で判断を濁す使われ方がある。この場合が、「どっちもどっち理論の負」の使われ方である。 問題は、「どっちもどっち理論」が、正の使われ方よりも負の使われ方で悪用されることにある。というか、白黒付けねばならない時に「どっちもどっち」と云い為して、白黒付けるに及ばないものに対して「正邪思想」で立ち向かうという愚を為すことが多い。これは、能力不足に原因が有る場合もあり、意図的に誤魔化されている場合もあろう。このあたりの見極めが肝心だ。 最近の例として、小泉首相が駆使した「どっちもどっち」について考えてみよう。この時、田中真紀子外相と外務省高官が「NGO参加拒否問題騒動」で、NGOの参加を認めていた外相と外相の意向に拘わらずその参加を制限した外務省高官の弁明のどちらかが嘘であるという局面になり、各種の情報からまさに外務省の高官の嘘が明確になった時に、小泉首相は「どっちもどっち」で喧嘩両成敗した。これなぞ明らかに不正な使われ方であろう。 権力者の使う「どっちもどっち理論」は大抵この場合が多い。 2005.2.21日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)