単純な話、読解力の問題で、インテリぶる者の非インテリ度考

 (最新見直し2008.3.20日)

Re:れんだいこのカンテラ時評その35 れんだいこ 2005/04/02
 【読解力不足によるあてこすり批判考】

 れんだいこがインターネット界に自前サイトを持って登場したのが2000.2.11日を期してである。もう5年になる。その間気づいたこととして、議論があちこちで為されているが、往々にして読解力不足の例が見られるということである。

 れんだいこの立論に何人かがいちゃもんつけてきたが、その多くが曲解的な批判であった。そういう御仁がいっぱしのインテリサヨぶっている姿がさもしく、れんだいこは正面からの遣り取りを忌避した。逆恨みされては叶わんという思いからであった。この姿勢は今も変わらない。議論つうのは、し甲斐のある相手とやるに限る。大人が小学生の子供をいたぶっても面白くもおかしくも無いからである。

 しかし、ある程度は火の粉を拭っておかねばならない。れんだいこが相手にしないことによって成り立っている曖昧さが、れんだいこの立論にも非があるというどっちもどっち的に処理されてしまうのは迷惑至極だからである。

 武士の情けで許容しているのに過ぎないだけで、是非の白黒付けようとすればそれは造作も無いことなのだということを時には知らしめておく必要がある。普通なら気にかけないのだが、このところの体調不良がれんだいこの堪忍袋を切れやすくしており従来の曖昧さを質す方向に向ってしまう。

 ここでは、宮顕の芥川論におけるピッケル問題を取り上げる。主として猛獣文士氏の「善隣学生会館事件HPの掲示板」(http://www.konansoft.com/cgibin/zenrin_wforum.cgi)で遣り取りされたのだが、ある時、大阪の人なる御仁が、れんだいこの「宮顕式芥川文学論批判」にいちゃもんつけてきた。

 その内容は、宮顕が「敗北の文学」文中で「氏の文学に向かって、ツルハシをうち下ろさねばならない」と述べている件りに対して、れんだいこが何とも宮顕らしい無慈悲な観点よと批判していたところ、大阪の人なる御仁が、「何かね。宮本顕治さんの『「敗北」の文学』を読んで若き宮本氏が芥川竜之介の頭部にピッケルをふりおろせと殺人を扇動したと誤読したれんだいこさん」なる批判言辞を書きつけた。

 これに対して、れんだいこは、れんだいこが誤読なのか、大阪の人の方が誤読なのか、白黒付けようかと提案した。「宮顕の芥川論におけるピッケル記述問題」は、読解力さえあれば解ける問題である。

 れんだいこはその後、「果たして『野蛮』の読みそこないか」、「大阪の人はんの中傷に駁す。(2003.2.21日)」(miyamotoron/miyamotoron_2.htm)で立論している。「善隣学生会館事件HPの掲示板」で決着つけようと管理人氏の猛獣文士氏が配慮された。

 大阪の人氏は登場しないままに「梁山泊掲示板」に次のような一文を書き付けている。
 「猛獣さんは私に彼のHPに戻ってきて、彼のヨタ話に付きあえと口説いているようです。何かね。宮本顕治さんの『「敗北」の文学』を読んで若き宮本氏が芥川竜之介の頭部にピッケルをふりおろせと殺人を扇動したと誤読したれんだいこさんに調子を合わせて『私もそう読む』とか猛獣さんが書いていたのをBBSで読んで、暗澹としまして、もう猛獣さんやれんだいこさんのHPから得るものは何もないな、と思ったので、おいとま致しました」。

 これによると、大阪の人氏は曰く、れんだいこの誤読に調子を合わせて「私もそう読む」と相槌するような管理人氏のところには出入りしないという方便で、議論を避けていることを合理化せんとしていることになる。

 しかしこれはおかしな手品ではある。大阪の人氏の方から振ってきた問題であり、猛獣氏はならば議論の場を提供しようとしているのだからして、大阪の人氏は据え膳を蹴っていることになる。本来なら、大阪の人氏は、猛獣氏が設営した掲示板でれんだいこの立論に反論せねばならない。これが大人の議論の嗜みであろうに。

 結局、大阪の人氏は現在に至るまで頬被りし続けている。氏はそのことで氏の信用を毀損せしめられていることに何とも痛痒を感ぜず、相変わらずの厚顔無恥さでインターネット掲示板界を世渡りし続けている。宮顕・不破系日共理論を賛美し万歳論を伝道し続けている。れんだいこにはかような劣性人士によってしか支持されない日共のブザマさが分かり興味深い。

 ここで問題をもう一度整理する。宮顕の原文はこうである。
 「だが、我々はいかなる時も、芥川氏の文学を批判し切る野蛮な情熱を持たねばならない。『敗北』の文学を――そしてその階級的土壌を我々は踏み越えて往かなければならない」。
 「それ故にこそ一層、氏を再批判する必要があるだろう。いつの間にか、日本のパルナッスの山頂で、世紀末的な偶像に化しつつある氏の文学に向かって、ツルハシをうち下ろさねばならない」。

 この文章をどう読解すべきか、これが問われている。大阪の人氏のれんだいこ誤読説から推理すれば、氏はどうやら、「ツルハシをうち下ろさねばならない」を山登りの際に打ち下ろすピッケルの意に捉えているのだろう。そのように芥川文学を乗り越えるのだという意味に理解しようとしていることになる。そういう風に読解する者は他にも居るので、大阪の人氏独りの理解の仕方という訳ではない。

 しかしだ、「日本のパルナッスの山頂で」とあるからには「ツルハシをうち下ろさねばならない」とは、脳天にバールを打ち下ろせの意であって、山登りの際に打ち下ろすピッケルの意では無かろう。

 大阪の人氏がどうしてもそのように理解したいというのは勝手である。しかし、その勝手な持論の為に「れんだいこの誤読」をあちこちで吹聴されるとなるとれんだいこには迷惑な話である。この際決着付けようとの配慮を無視して相変わらず「若き宮本氏が芥川竜之介の頭部にピッケルをふりおろせと殺人を扇動したと誤読したれんだいこさん」と逃げながら鉄砲撃つ芸当だけは忘れない。

 れんだいこと大阪の人氏との絡みはこれだけである。直接議論したことは無い。仮にしたとしても、こういう風に読解力が基本的に欠けている者との間には有益なものは生まれないだろう。

 他にに記せばキリが無い。その都度大阪の人並みの残骸が上がるのが避けられない。それはれんだいこの趣味ではないのでここではこれぐらいにしておき、必要の発生次第に記しておくことにする。

 問題は、サヨ圏に棲息する者の「読解力不足によるあてこすり批判」が常態化していることにある。当人は自称インテリしているが、この程度の読解ができないインテリなぞあって良い訳が無かろう。そういうことになる。

 2005.4.2日、2006.10.5日再編集 れんだいこ 拝

Re:れんだいこのカンテラ時評その155 れんだいこ 2006/04/05
 【できあい、いいなりの仕事、学問、政治からの決別考】

 読解力の話ではないが、学問の姿勢に関する底の浅さを批判した好文を手にしたので書きつけておく。太田龍・氏が、ジョン・コールマン著「ワンワールド」の後書き解説で、次のような一文を紹介している。それによると、「日本人の脳」で有名な東京医科歯科大学名誉教授・角田忠信氏が、「脳の発生ー脳の中の小宇宙」(大修館、1960年初版)の中で次のように述べている。
 「数年前に言語学の指導的立場にいる方に、言語学とはしょせんファッションであって、欧米の新しいことを消化して紹介するのが本道である、オリジナルなことを研究すると損をすると云われたことがあった。それが今でも日本の社会科学に限らず諸科学の姿勢であるのかもしれない」。

 太田氏は、これを受け次のように述べている。
 「この『(日本)言語学の指導的立場にいる方』なる人物の、まさに身も蓋もないあけっぴろげな本音。しかしここで、『欧米の新しいことを紹介する』という、その『新しいこと』とはそもそもいかなるものなのか。

 近代西洋言語学は、アルファベット表音文字を、人類の文字進化の最高段階である、という。そしてその中でも、ヨーロッパ諸国がローマ帝国から継承した文化遺産としてのローマ字こそ、その頂点であると断言する。

 明治初年以来、日本の西洋かぶれインテリは、一も二も無くこの独断(ドグマ)的仮説を、古今東西に普遍する金科玉条として鵜呑みにしてきた。それでどうなるか。必然的に、漢字は表意文字である。従って、原始未開野蛮人の文字である。日本は、これを断然、捨てなければならない。野蛮な漢字を投げ捨てて人類文明の精華たる表音文字、先進西洋文明国の全てが使用している超高級なローマ字を国字として採用すべきである。となるであろう」。

 続いて、次のように歴史解説する。
 「いわゆる岩倉使節団帰国直後、日本の国家民族の主体と独立を堅持せんとする愛国者西郷隆盛と、西洋に全面降伏投降せんとする売国奴国賊大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文らが正面衝突して遂に西郷が破れた。その後、大久保一味がでっち上げたニセ日本国は、ユダヤイルミナティーの手先として日本型文明を抹殺するために全力を傾注した。

 かくして、前出角田博士が言及されたごとき、みじめきわまるチンピラ『学者』もどきの道化師(ピエロ)が、日本の学界、教育界、官界、マスコミジャーナリズム界に充満する仕儀となったのである。続々と西洋欧米が繰り出してくる『新しい流行(ファッション)』としての思潮学説風俗芸術芸能文化現象など。これはなんとなく、自然に生まれてくるのか。冗談ではない」。

 そして、次のように云う。
 「要するに、これらの『主義者(イスト)』、『主義(イズム)』は、ファッション(流行)として、奥の院のご主人さまたちによって設計され、製作され、市場に供給されるだけの存在だったのだ。

 このからくり(手品のタネ明かし)は、あの有名な『シオン長老の議定書(プロトコール)』の中にある程度描かれている。しかし、この『シオン長老の議定書(プロトコール)』の真意を読み取るためには、かなり高度な次元の理論的思想的精神的能力を要求される。

 本書、ジョン・コールマン博士の『ワンワールドー人類家畜化計画』(ニュー・ワールド・オーダー)は、この極秘にされた『からくり』を、白日の下にさらけ出して見せてくれる。先入観と偏見を極力抑制して、素直に、コールマン博士の叙述を読み進めていくと、そこに驚くべき構図が展開されている」。

 上述の太田氏の指摘に納得しない向きの者に対して、太田氏は次のように述べている。
 「ゴミのようなガラクタ情報を小中高大学と詰め込まれた日本の自称エリート人間(実はこの種のゴミをひたすら暗記暗誦するだけの単なる白痴ロボット人間)にはとうてい受け入れられない。なぜか。なぜなら、そんな情報は学校で教えられなかったから、という。国を滅亡に導くこのド阿呆ども」。

 他にもいろいろ貴重な指摘をしているが、キリが無いのでやめる。以下、れんだいこが独白する。れんだいこは以前なら、何のことか理解できなかったが、今はかなり分かる。いずれにせよ、同一視点から書かれている書物を幾ら読んでも為にならないということになる。

 時には太田氏の指摘に耳を傾けたり、自身の史観で歴史を究明していかない限り、作られた常識一般によって丸め込まれてしまう。仕事でも学問でも政治でもいいなりの態度を執ることは楽ではあるが、その見地の上ではしゃぐ者も出る始末であるが、あたら惜しい命を燃やすのには不適切ではなかろうか。

 2006.4.5日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評220 れんだいこ 2006/10/05
 【食えない解説、食える解説考】

 月刊誌2006.11月号「正論」に、東北大学名誉教授・田中英道氏の「日本国憲法は共産革命の第一段階としてつくられた」が掲載されている。れんだいこは、田中教授の解説の下りには少しも同意しないが、ここに紹介された資料の方に滅法興味を覚えた。

 こうしたことが常である。思えば、日本の肩書きインテリの程度は、国内の幻資料発掘や外国文献の紹介に於いてのみ精彩を放っているのではなかろうか。これさえ出来れば、博士号や教授職に有りつくことが出来るのではなかろうか。それが良いとか悪いとか云うのではなく、そういうレベルにあるということを確認することが大事だ。

 このレベルの者は、せっかく国内の幻資料発掘や外国文献の紹介で功を為しているのだから、後は簡便な解説で済ませればよいのに、物足りなくなるのだろうか解釈評論に乗り出す。そのサマが良ければなお精彩を増すのだが、往々にしてチンプンカンプン牽強付会要するに下手糞な駄文に堕している。

 れんだいこはだから、彼らが紹介した資料のみを有り難く頂戴する。全文を転載することが時にあるのは、後日の検討を期してのものであることが多い。時にこのレベルを超して全文を頂くことが有る。そういう著者は稀であるが、れんだいこが知る限りに於いて数人存在する。こういう機会に出くわすと、啓発されたという気になる。有り難いことである。可能ならば、れんだいこも与える側になりたいと思う。

 2006.10.5日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評380 れんだいこ 2008/03/20
 【読解力考】

 次のようなことが云いたくなった。知の専門家と云われるいわゆる学識者、知識人の知の水準は大丈夫なのだろうか。れんだいこは、興味の赴くところ、いろんなところに首を突っ込んでいるが、その界隈で取り寄せた資料の中に妙な癖があることに気づいている。

 れんだいこにとって有り難い資料的価値を有するものでも、いただけるものは殆どが客観記述資料的なものに限られ、筆者が自己見解を表明したくだりになると何とも食えないものが多過ぎる。それが市井の普通の者の手になるものであるならともかくも、結構な肩書きを持ついわゆるインテリの労作だとすると首を傾(かし)げたくなる。

 その中でも、いわゆる読解力に欠けた評論がままある。こういう手合いが外国語を読めるとして、外国語を読んだからといってどうなるのだろう。外国語になると途端に読解力が高まるのだろうか。ということは有り得ないだろう。れんだいこは、辞書片手で無いと外国語が読めないので、一々彼らの読解間違いを指摘する余裕が無い。時間を掛けて捜すと、恐らく幾らでもあるだろうと思われる。

 世の中の学問水準がこういう程度だというのに、ご丁寧にも著作権網だけは次第に拡幅してきており、引用転載ご法度の不自由極まる社会に誘われつつある。そりゃぁ、不細工な論文を提起している者にとっては有り難い仕掛けではあろうが。

 例えばの話し、最近著作権法の推敲に忙しいれんだいこは、プラーゲ旋風の逆評価にたまげている。既に「れんだいこのカンテラ時評376、音楽著作権法に於けるプラーゲ旋風事件考」で私見を述べたが、世の識者は何と「ウィルヘルム・プラーゲ―日本の著作権の生みの親」、「著作権の父ウィルヘルム・プラーゲ博士」等々と評している。

 結果的に、プラーゲ「日本型著作権の生みの親、その限りでの日本著作権法の父」になったのは事実だが、それは反面教師的にだろう。ならば、言葉の使い方が違うだろうに。普通、「生みの親とか父」とか評するのは、彼の営為によって彼の企図したものが直接的に生み出された場合だろう。史実は、プラーゲ機関に対抗すべく日本音楽著作権団体が生み出され、同機関がプラーゲ機関的著作権活動を排撃したのだから、こういう場合には使わないだろう。

 もっとも、その後の日本著作権法の歩みは逆転し、かってのプラーゲ機関的活動を担い始めた。自己否定の道であるが、この道を随分掘り続けて今日に至っているので、今日の目線からは「生みの親とか父」とか云えない訳ではない。しかしそれにしても、単純に「生みの親とか父」とか云うには事態が捩れすぎているではないか。少なくとも反面教師的捉え方をする余地を残しておくべきではないか。「生みの親叉は父ウィルヘルム・プラーゲ、その反面教師伝説」とするなら幾分かはましだろうが。

 問題は、ストレートに「ウィルヘルム・プラーゲ―日本の著作権の生みの親」、「著作権の父ウィルヘルム・プラーゲ博士」と評する者の頭脳程度に係っている。人よりも著作権法を学んだ物知りが平気で「何の注釈も無く結果評価」する頭脳の資質が問われている。結果的に、知らぬ者を騙していよう。

 しかし、これが通説となり、「昭和の初年、周囲の無理解と圧力の中で、日本の近代文化のために著作権の確立を提唱し、当局と戦った一人のドイツ人、ウィルヘルム・プラーゲ」とか何やら左翼革命家の悲劇の闘士的伝説に合わせて祀り上げたら、それは違うのではないのか。ところが、どうやら、これが罷り通っている節がある。

 プラーゲ評価考は一例である。本来有り得てならない逆転評価が他にも世に五万とある。大正天皇然りである。田中角栄然りである。田中清玄然りである。この場合は善者知者が悪者愚者にされた。宮本顕治がそうである。この場合、悪者が善人にされている。昨年逝去したが、極めて有能な革命家であったと評されていたが馬鹿馬鹿しい事この上ない。野坂参三然りである。中曽根もナベツネも小泉もこっちの系譜だろう。

 人物評価ならまだしも事件の真相評価をこれをやられると、通説を学ぶ者は学ぶほど馬鹿になる。現代はこういう手合いが多い。このワナから抜け出すにはよほど幅広い実証主義以外に無い。その為には、資料と議論が肥やしになる。ところが、これに著作権法のバイアスが係り始めており、真相に辿り着くには容易でない。我々は、そういう仕組み、環境の中で生きている。このことを知らねばならない。

 学者、有識者、専門家の云う事が当てにならない時代に入った。政府発表で、戦後未曾有の最長不倒の好景気がまだ続いているのかどうか分からないが、小泉時代の指標に拠ればまだ続いているのだろう。後世は必ず馬鹿さ加減を笑うだろう。こういうことが続くのは、言論士が持説を平気で金で売るか、元々かなり低脳故に当局のプロパガンダをまともに受けるのが似合いだからだろう。それが彼らの商売だとすると、幾分かは割り引くが。

 問題は、人民大衆が彼らに洗脳される事にある。れんだいこが行きつけの喫茶店で、一言一句が彼らの言説の受け売りでしかない情報を教えてくれる有り難い人が居る。れんだいこは話をあわしているが、幾分かは可哀相とも思う。いずれにせよ、物言えば唇寒しとなる時代と付き合うのはごめん蒙りたい。

  単純な話、読解力の問題で、インテリぶる者の非インテリ度考
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/ronpyo/tetugakunote/dokkairyokuco.htm)




(私論.私見)