2009.05.27 「攘夷と皇国−幕末維新のネジレと明治国家の闇」

Re::れんだいこのカンテラ時評575 れんだいこ 2009/05/27
 【れんだいこ書評「攘夷と皇国−幕末維新のネジレと明治国家の闇」】

 2009.5.10日、備仲(びんなか)臣道氏と礫川(こいしかわ)全次氏の対談「攘夷と皇国−幕末維新のネジレと明治国家の闇」(批評社)が発刊された。れんだいこは新聞広告で知り、内容に対する興味以前に幕末維新という表記に注目した。幕末維新という概念がいつごろより使われだしたのか知らない。かなり珍しい使い方であり、れんだいこも既に「幕末維新(回天運動)の研究」名のサイトを設けている。幕末維新をどういう意味で使っているのだろうと興味を覚え、取り寄せ読了した。

 内容は、備仲(びんなか)氏と礫川(こいしかわ)氏の掛け合い対談形式で、幕末維新から明治維新の過程の様々な事件を通史として読み込んだものとなっており、明治維新が幕末維新の流れをネジレさせているという観点の披瀝を競っているところに特徴がある。これを論証する為に様々な資料を小出ししている。れんだいこには、この貴重情報が有難かった。著者に謝す。これを使って、当サイトも改良式に書き換えて行きたいと思う。

 圧巻は、司馬遼太郎史観を撫で斬りにしているところだろう。司馬史観は、戦前的な皇国史観、戦後的なマルクス主義史観、ネオシオニズム史観とも一味違う独自性で在野的にファンが多いところのものであるが、その総合するところの耽美的な司馬式明治維新論に対して、司馬をも汚染させている通俗性を暴き出し切り捨てている。司馬史観に欠けているところの「幕末維新のネジレと明治国家の闇」を切開せんと企図している。

 れんだいこは、この限りにおいて御意としたい。何より、歴史学に幕末維新という概念を堂々と持ち込んでいるところを好評したい。但し、全体的には未だ著者双方の独眼流的な史論には同意できる部分とできない部分が混在しており、賛辞するには遠い。なぜなら、太田龍史観的なネオシオニズム侵略論を全く持っていないからである。避けては通れないとすべきところの孝明天皇暗殺説、明治天皇すり替え説に対する見解が呈示されていないからである。その点が立論を色あせたものにしていると感じた。全く不言及なので、避けているのか、愚説として退けているのか、今後展開するのか、その辺りも分からない。

 それはともかく、幕末維新という流れを措定し、これを明治維新と判然と識別させ、明治維新が幕末維新の流れをネジレさせているという見方には全く同感である。問題は、どうネジレさせているかというより実質的な見立てにこそあるが、一度通読した限りでは呑み込めない。あるいはひょっとして、幕末維新の流れをネジレさせた明治維新という観点の打ち出しこそが十分な値打ちとしているのかも知れない。紙数の関係があったのかも知れない。

 既に述べたが、れんだいこは、これを御意とする。坂本竜馬論、江藤新平論、西郷隆盛論、その他いろんな人士が俎上に乗せられているが、どう切ったのか、読み進めているうちは良かったものの、読了してみてさてどう見立てているのかはっきりしない。これは対談形式の為せる双方が相手側に下駄を預ける技によるのだろうか。

 そう云えば、朝鮮史から見た近代日本史という観点からの独眼流的なものがしばしば語られていた。これも本書の値打ちのひとつであろう。日本史側からは征韓論を廻る様々な喧騒で口角泡を飛ばす箇所が重要視されるが、朝鮮史から見れば甲論乙論丙論その他もなべて朝鮮侵略の悪巧みの変化バージョンに過ぎないとする見立ては確かに新鮮ではある。幕末の相楽総三らの赤報隊使い捨て論も同様である。

 しかしいかんせん、総評としては、浮き上がってくる論旨が今ひとつ見えてこない。これは、様々な事件、事象、人物に言及し過ぎたせいだろうか。両著者の博識ぶりは、れんだいこが残りの人生を投じたとしても追いつけないほどの深い広いものである。その点においては敬服を惜しまない。各種貴重資料の開示も含めて、歴史好きが読みたくなる書であることは間違いない。書評に足りる書であることは請合う。

 が、多くの情報知識が必ずしも優れた見立てを呼び込まないこともままある。切れないものはそのままに、切れるものはスパッと切って見せねばならない時もある。この兼ね合いが難しいのではあるが。大田龍史観に分け入り、調合した次の果実を見てみたい。そうすれば、もっと切れるようになるのではなかろうか。そういう気がする。これを、れんだいこの所望として書評の結びとする。

 思うところを申し上げたが、サイトの自由性と思い寛恕を願う。

 2009.5.27日 れんだいこ拝




(私論.私見)