「立花の執筆手法」について

 (最新見直し2015.08.04日)

 (れんだいこのショートメッセージ) 
 ここで、「「立花の執筆手法」について」をものしておく。

 2006.6.22日 れんだいこ拝


【「立花の執筆手法」について】

 立花隆の正体 “知の巨人”伝説を斬る」(朝倉喬司、リム出版新社は重要な指摘をしている。「角栄研究の取材・執筆」という項目で、立花氏の執筆動機、手法、経緯が次のように紹介されている。

 「開設されたばかりの大宅壮一文庫で角栄関連の資料を全部コピーしてきた。チョコチョコお目当ての物だけ利用するんじゃなくて、全部持ってくるような利用の仕方は、多分これが初めてなんですよね。とにかく、その時に手に入る限りの基礎的な活字資料を全部わーっと集めたんですよ」
 「一番最初から月刊誌があれだけ金と人を使ってやるのは初めての経験なんですよ」
 「それから文春社員の友人知人とか、翌年の文春就職が内定していた学生数人をアルバイトに頼んで、自治省に行って政治資金報告書などを筆写するとか、資料からチャートを作成するとかプロ記者のアシスタントをしてもらった」(前掲『立花隆のすべて』中の、本人の発言)。

 立花氏の上述の執筆手法に対し、朝倉氏は次のようにコメントしている。
 「『文藝春秋』1974.11月号に発表された『田中角栄研究―その金脈と人脈』執筆当時をしのんだこの言葉に、同記事に係わった彼のポジションが問わず語りされている。要するに『角栄研究』は、立花の名を冠した、取材、調査のプロジェクトチームの仕事だった。すなわち一本の記事を、編集者と、データマンと呼ばれる取材記者と、アンカーと称せられる文章作成役の三者の、完全な分業体制で“産出”する方法。その場合、編集者は企画の原案や取材の指示、記事のコンテづくりを担当し、複数のデータマンは取材に専念することになる。この方式を、テーマを鮮明に絞り込んだうえで、アンカーとしての立花に強い権限を与え、かつて無かったほど多数の人員、多額の資金を投入して駆使したのが『角栄研究』だった」。
(私論.私見) 立花氏の執筆体勢について
 これは「田中角栄研究―その金脈と人脈」執筆内情の貴重な自己暴露である。事実は、朝倉氏の指摘であるように思われる。立花の発意で指揮の下にプロジェクトチームが稼動したのならともかく、誰かのやらせで「角栄研究」シナリオができており、それにリーダー格として乗ったのが立花ということになりはしないか。事実、その可能性のほうが濃厚というのがれんだいこ見解である。

 2005.8.28日 れんだいこ拝

【「立花の角栄物執筆契機」について】
 立花は、角栄物を手掛けるようになった経緯に付き、次のように漏らしている。
 「このテーマにそれほど気乗りしていたわけでもなかったので(編集部からの依頼を―引用者)何度も断わった。しかし、人手はたっぷり用意するから、取材のプラン作りと、その進行具合のチェックと、最後のまとめ役だけということで、強引に引き受けさせられた」。
 「そんな事情だったので、はじめはかなり腰が重い感じで動いていたのだが、だんだんほかのスケジュールを全部切って、全面的にこの企画にのめり込んでいくことになってしまった。そしてついには、文藝春秋社の仮眠室に泊り込んで、自分のプライベートな時間がゼロという日々が続くことになる。なぜそんなことになったのかといえば、とにかく面白かったからである。なにがそんなに面白かったかといえば、やはり、謎解きの面白さであろう」(講談社文庫『田中角栄研究全記録』)
(私論.私見) 立花氏の角栄物執筆動機と着手経緯について
 立花自身による証言即ち「このテーマにそれほど気乗りしていたわけでもなかったので(編集部からの依頼を―引用者)何度も断わった。しかし、人手はたっぷり用意するから、取材のプラン作りと、その進行具合のチェックと、最後のまとめ役だけということで、強引に引き受けさせられた」とは貴重な独白である。当人はどういうつもりで楽屋裏を明かしたのか意図が不明であるが、こうなると「角栄研究」が典型的なやらせであったことになるではないか。

 自分が田中角栄の金脈暴露をテーマにしたことの記事に係わったのは、別に彼を批判したかったからでも、正義感にかられたからでもなく、まるでパズルを解いていくような「謎解き」の面白さに熱中したからとも云う。実際にはどういう風に「謎解き」したのか。背後の教唆者のシナリオに添って解明しただけのことではないのか。「謎解きの面白さに熱中」などと煙幕張って取り繕っているが、この「自白」証言の価値は重い。

 2005.8.28日、2006.6.22日再編集 れんだいこ拝

【「立花のジャーナル精神及び手法」について】
 立花は、著書「脳を鍛える」(新潮文庫)の中で次のように述べている(「西澤氏の読書日記」)。
 「(中略)僕が一番好きで、かつ一番特異としているのは、知の世界の全体像ですね。(中略)野次馬としてはかねがね一流の域に達しているとひそかに誇っている。一流の野次馬になる秘訣は次のとおりである。まず、『こと』が起きたら、とにかく現場にできるだけ早く駆けつける。次に『こと』が起きている範囲を見極め、その全体像をながめ渡せる見晴らしのきく場所を確保する。そこからあちこちながめて、一番面白そうなことが起きている場所を見つけてその現場に駆けつける。そこについたら、人波を押し分けかきわけ、とにかく一番前の一番よく見える場所に強引に割り込んで、ひたすら熱心に見物する。その現場でのドラマのクライマックスがすぎたなと判断したら、未練をのこさず立ち去り、再びもっとも見晴らしのいい場所にたちもどり、次のもっとも面白そうな現場がどこかを見つける。以下同じように繰り返すわけである」。
(私論.私見)
 西沢氏は、「すごい。すごすぎです」なるコメントを付けている。この提灯野郎は何に感心しているのだろう。ここで述べているのは、立花が如何に時流迎合屋であるかを自身で明らかにしているだけのことである。むしろ、全体の語りからして節操のなさを窺うべきだろう。それに感心するとは、この御仁の「脳の限界」が透けて見えてくるような話である。

 2005.8.28日 れんだいこ拝

【「共同執筆立花グループ」考】
 ネット検索で、次のような情報にヒットした。気になるので転載しておく。
 三浦和義 みうら・かずよし(50)
 元フルハムロード社長。昭和22年7月27日生まれ、山梨県出身、戸塚高校中退
 フルハムロード(輸入品販売会社)を経営していたが、昭和56年11月妻の一美さんと共にロサンゼルスで銃撃され、左足に負傷。頭を撃たれて翌年死亡した妻への献身的な看護は、当時新聞などに美談として取り上げられた。その後、元女優による一美さん殴打事件、同じく三浦の愛人だった白石千鶴子(旧姓・楠本)さんの変死など、ロサンゼルスで起きた一連の事件が“ロス疑惑”と総称され、保険金がらみの依頼殺人の可能性が取り沙汰されるようになり、59年1月の「週刊文春」による「疑惑に銃弾」連載以来長期にわたって、マスコミ攻勢の的となった。60年5月元女優が一美さん殺人未遂事件への関与を公表、元女優とともに同年9月一美さん殴打事件の容疑者として逮捕される。長身の美男子で、その弁舌と、巧妙なマスコミ利用が話題を呼んだ反面、刑務所がえりなどの経歴の暗部にも関心が集まった。 62年8月一美さん殴打事件に関して東京地裁により懲役6年の実刑判決が下る。のち同事件に関して東京高裁より再び懲役6年の実刑判決が下る(上告中)。63年10月一美さん銃撃事件の殺人罪で銃撃の実行犯とされた大久保美邦被告と共に逮捕される。平成6年3月銃撃事件(保険金殺人)に関して東京地裁により無期懲役の判決が下るが、10年東京高裁は逆転無罪判決を下した。この間、新聞社やテレビ局に対して起こした民事訴訟は約500件といわれる。

 阿倍 隆典 あべ・たかのり(55)
 ジャーナリスト元・文芸春秋編集委員。昭和18年生まれ 中国・北京出身。昭和43年東京大学文学部仏
文科卒。
 文芸春秋に入社。ロッキード事件では立花隆と組む。のち「週刊文春」のロス疑惑担当記者として米国で調査、資料収集にあたって一躍有名になる。平成2年退職し、高齢者向け月刊誌「花も嵐も」編集長に。現在はフリー。傍らイベント企画、画廊経営も手がける

 ルイス・イトウ
 ロサンゼルス郡検事局検事。カリフォルニア州サクラメント出身、カリフォルニア大学バークレー校工学部
卒。
 日系3世。日本駐留の語学兵として埼玉・朝霞基地で2年勤務の後、北カリフォルニアのミサイル会社で8年、ロサンゼルスに移って航空機のマクドネル・ダクラス社で働きながら地元大学の大学院で法学博士号を取得。40歳の時ロサンゼルス地検に消費者保護担当検事として入る。1973年から5年間マフィア犯罪担当、'85年から“ロス疑惑事件”を担当。

 植松 信一 うえまつ・しんいち(44)
 警察庁警備局公安二課長。昭和29年1月13日生まれ 大分県出身、昭和52年東京大学法学部卒。
 国家公務員上級合格し、昭和52年警察庁入り。ハーバード大学ロースクールに留学し、帰国後は国際刑事課課長補佐に就任。この国際刑事課時代にはロス疑惑解明と三浦和義逮捕のため日米間を奔走したが、マスコミ攻勢を頑としてはねつけ、“ミスター・ノーコメント”のあだ名がつく。62年神奈川県警港南署長に就任。のち公安二課警護室長を経て、平成7年8月公安二課長

 ジミー・サコダ(62)
 元・ロサンゼルス郡検事局捜査官、1935年8月17日生まれ 米国・シアトル出身。
 日系3世。少年時代に数年間を収容キャンプに過ごした。戦後家族とともにロサンゼルスに移る。その後軍隊に入り、韓国や日本を訪れた。1958年ロサンゼルス市警察に就職。殺人、麻薬を始めとしてあらゆる部署をまわり、そこで起こるさまざまな犯罪と相対した。'65年刑事部長に昇進、のち日系人初の警部となる。'75年ATF(アジア系特別機動捜査隊)を創設、部長をつとめ天皇陛下訪米の際警備にあたるなど重要な任務を果たした。ロサンゼルス・三浦夫妻銃撃事件では発端から捜査の指揮をとり、事件と深く関わるが、のち捜査からはずされ、'84年8月に市警を辞職。一人で事件の真相に迫り、新しい捜査データをそろえロス検事局の検事長に直訴。のちロサンゼルス郡検事局捜査官に。'95年3月勇退し、日本人向けの探偵会社JSIを開設。この間、サコダ・セキュリティを運営しつつ犯罪と闘った経験を小説として発表。著書に「疑惑の仮面」「ロス市警アジア特捜隊」「日米合同捜査」がある

 トーマス・ノグチ(71)
 南カリフォルニア大学医学部法病理学教授元・ロサンゼルス郡検視局長、1927年まれ 福岡県出身、
日本医科大学卒。
 日本名は野口恒富。日系人。医科大学在学中に横須賀の米国海軍病院に通い、進んだ米国の医学に接したのがきっかけで渡米を決心。1952年渡米、カリフォルニア州オレンジ郡立病院にインターンとして勤務。病理学の分野で腕をあげ、ロマリンダ大学医学部教授を経て、'61年からロサンゼルス郡検視局に勤務、マリリン・モンロー、シャロン・テート、ロバート・ケネディ、ロス疑惑の白石千鶴子さんらの遺体を解剖した日本人検視官として有名になる。 '67年局長に就任するが、2度の追い落とし工作に遭い、一度は劇的に復職したものの、'82年再び解任。南カリフォルニア大学の法医学教授に降格された。共著に「物的証拠」「検死捜査」などがある。

【阿倍隆典(あべ・たかのり)考】
 ジャーナリスト、元・文芸春秋編集委員。1943(昭和18)年生まれ。中国・北京出身。昭和43年東京大学文学部仏
文科卒。文芸春秋に入社。ロッキード事件では立花隆と組む。のち「週刊文春」のロス疑惑担当記者として米国で調査、資料収集にあたって一躍有名になる。平成2年退職し、高齢者向け月刊誌「花も嵐も」編集長に。現在はフリー。傍らイベント企画、画廊経営も手がける 。
 2013.10.20日、ロス疑惑の発端となった週刊文春の特集「疑惑の銃弾」の取材キャップとして注目されたフリージャーナリストの安倍隆典(あべ・たかのり)が肝臓がんで逝去した(享年70歳)。

 故三浦和義氏の夫人が殺害された事件は1981年、ロサンゼルスで発生、三浦氏は悲劇の夫としてテレビに登場。が、84年に週刊文春が「三浦氏が保険金目当てに仕組んだ犯行ではないか」と報じたことで一転「疑惑の人」となり、世間を揺るがす騒動となった。安倍氏はワイドショーにたびたび登場、疑惑追及の先頭に立ち注目された。文芸春秋社退社後はフリージャーナリストとして活動していた。陽子夫人によると、肝臓がんが見つかったのは昨年10月。今年9月に東京・築地のがんセンターから自宅に近い神奈川県内の病院に転院した。故人の遺志で葬儀は親族だけで済ませた。

 「◎もう1人の主役」を転載しておく。
 27年前に起きたロス疑惑事件の三浦和義元社長が米国留置場でTシャツ首吊り自殺した。容疑は殺人の共謀罪。サイパンからロス市警に移送、着いたばかりだった。 この自殺問題を中心にテレビ各局が報道合戦していたが、ゲストに懐かしい顔を見つけた。ロス疑惑をすっぱ抜いた当時の週刊文春、ロス疑惑担当取材班キヤップの安倍隆典さんだ。ロス疑惑事件の主役、三浦氏がなくなった今、もう一人の主役は間違いなく安倍さんだ。安倍さんはテレビ朝日系の番組「トゥナイト」などでよく登場、あれ以来みかけていなかったので懐かしいお顔と見入ってしまった。当時、私は雑誌媒体などマスコミと思っていなかったが、1974年、立花隆氏が月刊文芸春秋に発表した「田中角栄研究~その金脈と人脈」の記事をみて大いに感激、雑誌媒体の底力を知らされた。この記事の反響から7年後、また 文芸春秋社の週刊文春から安倍さんの大スクープが出、日本国中を賑わした。私は速報主義の日刊紙こそマスコミの王道と思ってきたが、この2つの事件報 道をみて「調査報道こそ雑誌ジャーナリズムの原点、醍醐味」ということをま ざまざと知らされた出来事だった。立花隆さんと安倍隆典さん、3つの共通点がある。 [1]東大卒、[2]文芸春秋社の編集者出身 、[3]名前に「隆」がついている。安倍隆典さんは平成2年退職し、高齢者向け月刊誌「花も嵐も」編集長を経て現在はフリージャーナリスト。傍らイベント企画、画廊経営も手がける。私より3年年上の安倍隆典さん、テレビで「白髪」が目立っていた。事件発生から27年もの年月がたっているから無理もないなあ。 ▽著書「三浦和義との闘い―疑惑の銃弾」http://tinyurl.com/53epac (蓮香尚文・ 記)

 2008年10月12日付け「【ミニ情報】三浦和義元社長の自殺報道で〝疑惑の銃弾〟元デスク安倍隆典氏が堂々のテレビ出演
 周知のように、81年のロサンゼルス銃撃事件で、今年2月に米領サイパンで逮捕されていた三浦和義元社長(=左写真)が、10日午後10時(日本時間11日午後2時)ごろ、移送先のロサンゼルスで首つり自殺を図り、死亡が確認されたという。この三浦元社長の〝自殺〟を受けて、マスコミは大騒ぎとなっているが、その中で気になったのは〝疑惑の銃弾〟元週刊文春デスクの安倍隆典氏(=冒頭右写真)が民放各局のテレビ番組で堂々と顔出ししてコメントしている点だ。ここで本誌の率直な感想を述べれば、「よく安倍は顔出しをOKしたな」ということに尽きる。90年に文春を退社した安倍氏のその後に、かつての「スター記者」の面影はまったく見られないからだ。週刊新潮(08年3月6日号)には安倍氏の「借金踏み倒し」の件が指摘されているが、実はこれだけではない。同氏をよく知るフリージャーナリストは次のようにいう。「文春を辞めた後、安倍さんはある宗教団体のトップと組んで仕手戦のようなことをやっていた。しかし結局、株で儲けるのに失敗して大きな借金をつくってしまった。ここから安倍さんの〝転落〟が始まっているのです」。実際、安倍氏は仕手筋関係者などからその名をよく耳にすることはあったが、それ以外ではまったく話題にものぼらないというのが実状だったのである。





(私論.私見)