生涯の履歴

 更新日/2021(平成31.5.1栄和元/栄和3).11.26日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、立花隆の履歴を確認しておく。一言でいえば「胡散臭い人物」と云うことになるが、こういう御仁に限って「知の巨人」などと持て囃されている。「中曽根、小泉名宰相論」と同じで、向こう側から見たらそうなるというだけの提灯だろう。

 2009.1.24日再編集 れんだいこ拝


【立花隆(たちばな たかし)の総評履歴】
 立花隆(以下、単に立花と記す)は、1974年、田中角栄の金脈追求以来マスコミの寵児となった。これより時代の寵児となり旺盛な執筆活動に向かった。その分野は幅広く、政治、社会、人文、生命科学分野など多岐にわたった。日本人科学者がノーベル物理学賞を受賞した素粒子ニュートリノ研究など、最先端科学技術の取材に力を入れ、サイエンスライターとしても知られ「現代日本の知の巨人」と評されている。が、その実態は「極悪倒錯のネオ・シオニズム系政治評論家(ジャーナリスト)にしてノンフィクション作家」と命名されるべきであろう。

 
立花の関心は幅広く、田中金脈から新左翼、共産党に関する政治論、マスメディア論、脳死、臨死体験、インターネット、エコロジー、進化学、宇宙学など多岐にわたって言及している。ネオシオニズム的着眼点を元にした批判のユニークさと東京大学文学部哲学科学士入学で鍛えた論理力、平易な文章能力の三部構成で数々のルポをものし、ニュージャーナリズムの旗手となる。1979年に講談社ノンフィクション賞、1986年に菊池寛賞、1987年に「脳死」で毎日出版文化賞、1998年に司馬遼太郎賞受賞をそれぞれ受賞している。平成7年より東京大学先端科学技術研究センター客員教授。

 かって本多勝一氏とやらせ論争をし、「立場をもたない知性は腐敗する」という本多の批判に、「僕は面白いものしか取材しない」と反論。文京区小石川の六角坂脇に構えた事務所は黒塗りで大きな猫の顔が描かれ、通称、猫ビルと呼ばれる。地上3階、地下1階建てのビル内には10万冊の蔵書、新聞や雑誌の記事のスクラップや資料がぎっしり残されている。

 2009.1.24日再編集 れんだいこ拝

【立花隆の年次履歴】
 立花の履歴につき「立花隆・言論活動略年譜」、「立花隆とは?」その他を参照する。れんだいこの関心分野のみ列挙し、適宜にコメント付ける。
 1940(昭和15).5.28日、長崎県長崎市鳴滝に生まれる。本名、橘隆志。父は長崎の女学校教師で後に編集者を務め、母は羽仁もと子の信奉者で、両親ともクリスチャンの家庭で育った。「両親が無教会のクリスチャンとして知られていた」。自著「戦争を語る」によると、父親は学生時代に洗礼を受け、長崎にあるメソジスト系のミッションスクール「活水女学院」の教師となった。母親も結婚後に同学院のチャペルで洗礼を受けている。その後、両親は同学院の別の教師の影響などから、内村鑑三が提唱した無教会主義になった。朝日新聞のインタビュー記事「わたしの半生」では、次のように語っている。
 「クリスチャンの家庭に育ち、こびることは、生き方として恥だと教え込まれた。母に『肉体を殺すことが出来ても、魂を殺すことが出来ない者を恐れるな』とも教えられた。ローマの権力を恐れる弟子たちにイエスが述べた言葉で、世俗権力を恐れるな、神のみをおそれよということ。首相の田中角栄と長きにわたって対峙(たいじ)し、しばしば思い出した言葉だ」。

 戦前の右翼思想家・橘孝三郎は父のいとこに当たる。
 1942(昭和17)〜1944(昭和19)年、父が文部省職員として北京の師範学校副校長となったため一家で中国へ渡り、2〜4歳まで北京にて過ごす。
 1945(昭和20)年、5歳。中国より引揚げ、母方(「父の郷里」とする記述もある)の茨城県水戸市那珂西(なかさい)に住む。
 1946(昭和21)年、6歳。父の郷里である茨城県水戸市に移る。茨城師範学校(茨城大学)付属小学校、中学校を経る。中学時代は陸上競技にも熱中。俳優の梅宮辰夫・モータージャーナリストの徳大寺有恒は同級生で、三人とも陸上競技選手であった。
 1957(昭和32)年、17歳。千葉県柏市に移る。茨城県立水戸一高から都立上野高校へ転入。
 1959(昭和34)年、19歳。都立上野高校卒業。理系志望であったが色弱のために諦め、東京大学文科二類入学。
 1960(昭和35)年、20歳。イギリスで開かれた国際反核会議出席のため、カンパを集めてヨーロッパへ。4月から10月まで、各国をまわる。卒論はフランスの哲学者メーヌ・ド・ビラン
(私論.私見) 「国際反核会議出席」、「4月から10月まで、各国をまわる」考
 「国際反核会議出席」とあるが、立花の学生運動歴はどのようなものであったのだろう。何の絡みで「国際反核会議出席」に出席しているのだろう。「4月から10月まで、各国をまわる」とあるが、この時の歴訪国が知らされていない。れんだいこの見るところ、この時期に早くもネオシオニズムに取り込まれているような気がする。当然イスラエルを旅していると思われる。これを仮に第1回目のイスラエル詣でとする。

【立花の米国留学考】
 次のような記述がある。米国留学はいつのことなのか等々裏付けが取れない。伝聞として記しておく。
 「立花隆はフルブライト奨学金で米国留学している。この制度で留学した者は他に竹中平蔵がいる。タダで米国留学させてやる代わりに、米国首脳の考える日本支配計画の片棒を担げ、というミッションが彼らには課せられている。米国より先に日中国交を結んだ角栄はキッシンジャーに睨まれていた。キッシンジャーが放った刺客が立花」。

 1964(昭和39)年、24歳。東京大学文学部仏文科卒業。同年、文藝春秋入社。岩波書店とNHKの試験も受けたが不合格だったという。入社後は希望通り「週刊文春」に配属され週刊誌記者として働き始める。上司に堤尭がいた。先輩記者の導きで、文学青年時代から一転ノンフィクションを濫読して多大な影響を受ける。
 1966(昭和41)年、26歳。もっともやりたくない仕事であるプロ野球の取材をさせられたことから退職を決意、社員会報に「退社の弁」を寄稿し、約2年半で文藝春秋を退社。これにつき、次のように述べている。
 概要「文藝春秋社「週刊文春」の記者時代、プロ野球にだけは全く興味が無いため、その関係の仕事だけはさせないでほしいと宣言したにもかかわらず「あの野郎は生意気だ」ということで、見せしめにプロ野球の取材を1週間にもわたってさせられ、退社する決意を固めた。自分がやりたくもないことを上司の命令というだけでやらねばならない事実に我慢ができなかった。ちなみに、プロ野球には昔も現在も一切の関心はなく、「なぜあんなものに多くの人が夢中になれるのか全く理解できない」。
 この頃、講談社の女性誌「ヤングレディ」でアンカーマンを勤めている。
(私論.私見) 「文藝春秋入社。『週刊文春』に配属」について
 立花と文芸春秋社の繋がりはこの時より始まる。しかも、「週刊文春」に配属されている。この親密関係は退社後も密接に維持され、同社及び同誌の言論をリードしてきているのは周知のところである。

 2007-04-18わかったふりして、立花隆」。
 「早い話、原稿料ひとつとっても、小説家の先生の原稿料とノンフィクションのルポライターのトップクラスの人の原稿料をくらべると、ちょっと前まで天と地とはいわないまでも相当にちがったものがあった。今ではその格差が相当ちぢまったけど、昔はめちゃくちゃちがった。ぼくが文春にいた頃、文筆家で「先生」呼ばわりされるのは、小説家だけだった。ノンフィクション作家で、「先生」と呼ばれるようになったのは、晩年の大宅壮一ぐらいじゃないかな。「週刊文春」のトップ屋出身だった梶山季之なんか、人気作家になっても、文春社内では、「先生」と呼ぶ人は誰一人いなかった。ぼくのちょっと上の世代の編集者からは、せいぜいが仲間扱いで多くは目下扱いだった。女性週刊誌のトップ屋だった草柳大蔵にしてもそうじゃないかな。「先生」になるのはずっと後、本を何冊も出してからですよ」。
 「ぼくが文春を辞めて、はじめて原稿料をもらうようになった頃、匿名原稿だとせいぜい四百字一枚二百円台です。ぼくが文春を辞める頃の給料が約二万円ですから、百枚書いて給料分だった。辞めたときの退職金が四万円で、辞めた週はまだ取材途中の原稿があって、辞めた後で仕上げたんだけど、その分は原稿料が一銭も出なかった。そんな扱いだったんです。辞めてしばらくして署名で書くようになったけど、それでも一枚三百円台です。小説家の先生の場合、小説でなくてもルポでも雑文でも、大家でなくても、ケタが遣う金額が出ていた。原稿料以外の取材費でも、我々は基本的にアゴアシ(食事代と交通費)と日当だけですが、作家の先生を派遣してルポを書いてもらうとなると、これまたケタちがいの取材費が出た。大家になると、担当編集者がお付きでいって、取材のアレンジなど全部面倒を見た」。
 「こういう状況が急速に変わっていったのは、週刊誌の登場によってです。週刊誌には、連載小説もありましたが、連載小説だけでは売れない。それより魅力ある特集記事がどれだけならぶかのほうがずっと大事です。特集記事はチーム取材で作ります。特集記事のよしあしは書き手の筆力にもよるが、なによりもチームの取材力がものをいう。いい取材には金がかかるということで、各社取材に金をかけるようになった。ベージ単価で、大小説家の連載小説より、ずっと金がかかった大型企画の特集記事が出てくるようになる。それだけ金をかけても、それが大きく売り上げ増進に寄与し、コスト的にも十分引き合うという時代がやってくるわけです。その延長線上に生まれたのが、「文藝春秋」の「田中角栄研究」(1974年11月号)だったわけです。 (略) 担当編集者も執筆者であるぼくも「週刊文春」出身で、取材記者も大半がそうでした。それは費用もかかりましたが、十万部単位の売り上げ増進をもたらしたので、営業的にも大成功をおさめた。あの記事の制作コストは全部で約百万円ですが、これは雑誌記事の取材費として前代未聞でした。 (略) 」。

 「なにしろ、文春を辞めたら、給料が全くなくなった上に、学費まで払わなければならない身分になったわけです。一応奨学金はもらっていたものの、生活費プラス学費プラス「読みたい本の本代」を稼ぐのが大変だったんです。大学生のときに、リクルートの前身である「大学広告」という会社でアルバイトをかなり長期間やっていたんです。(略)文春を辞めて、収入が激減して困っていた頃、またリクルートに出入りして、昔のよしみでいろんな仕事をもらった。主としてリクルートが毎年作って学生に配っていた学生向けの企業紹介本「リクルートブック」の原稿書きです。一種のコピーライター的仕事ですね。求人会社がどういう会社で、どういう将来展望があり、どういう学生を求めているのかといったことを、資料をもとに四、五ページにまとめていくわけです。広告業界の仕事ですから、ジャーナリズムの仕事よりはいい収入になりました。(略)そういう付き合いが長くあったから、ぼくは江副さんをよく知ってるし、いまでも悪い感情は持っていません」。


 1967(昭和42)年、27歳。東京大学文学部哲学科に学士入学。在学中、フリーライタージャーナリストとして活躍する。創刊時の雑誌『諸君!』に「生物学革命」、「宇宙船地球号」「石油」などのテーマをノンフィクションや評論を書く。
(私論.私見) 「東京大学文学部哲学科に学士入学」について
 「学士入学」というものがどういう方法で為されるのか知らないが、立花の「東京大学文学部哲学科に学士入学」の資格はどのようなものであったのだろうか、れんだいこには疑問がある。「東京大学文学部哲学科への学士入学」は容易くできるのだろうか。

 これにつき、「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK133」のアサマタロー氏の2012.7.16日付け投稿「他大学からの東京大学学士入学の意味」が参考になる。これを転載しておく。

 【学士入学】=日本特権階級の学歴ロンダリング方法の一つ=

 学士入学(がくしにゅうがく)とは、大学などで学士号を取得した者及びその予定者を対象とした編入学制度である。学士編入学(がくしへんにゅうがく)ともいう。学士入学するためには、各大学が個々に実施する学士入学試験を受験する。学士号取得者及びその予定者を応募可能として学士入学試験を一般編入学試験に組み込んで実施する大学と、学士入学試験として独立した試験を実施する大学がある。一般の編入学試験と異なり、30代以降の受験者も多く、特に医学科、歯学科、獣医学科、建築学科など、卒業後に資格を取得することでそれなりの仕事に就くことができる学科は人気があり、難易度も高い。一方、それ以外の学科においては、応募者も少なく入学しやすいが、入学、卒業しても就職しにくいという問題もあり、入学するにはそれなりの覚悟が必要である。鳥羽淡海,『医学部に学士入学できる本〈'09〉』,エ−ル出版社 ISBN 9784753926978
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 学士入学した有名人 [編集]

立花隆  評論家。東京大学文学部仏文科卒業後、東京大学文学部哲学科に学士入学中退。
茂木健一郎  脳科学者。東京大学理学部物理学科卒業後、東京大学法学部に学士入学。
皇太子徳仁親王
妃雅子
 皇太子妃。ハーバード大学卒業後、東京大学法学部に学士入学(中退??!!)。
鳩山邦夫  政治家。東京大学法学部政治学科卒業後、東京大学法学部公法学科に学士入学。
武村正義  政治家。東京大学**教育学部**卒業後、東京大学経済学部に学士入学。
久保哲夫  クボテック株式会社取締役社長。東京大学工学部航空工学科卒業後、大阪大学医学部医学科に学士入学。
清水哲郎   哲学研究者。東京大学理学部天文学科卒業後、東京都立大学人文学部哲学専攻に学士入学。

 この有名人に勝栄二朗財務次官を入れておいて欲しい。誰かお願いします。

 【早稲田系全マスコミに応援された直勝・野田内閣が庶民日本人を消費増税ガス室に放り込む決定を今日する?!!】
 http://www.asyura2.com/12/senkyo132/msg/109.html
 投稿者 アサマタロー 日時 2012 年 6 月 26 日 09:41:52: UiY46YlCu.Moc

 【野田を木に登らせた代議制民主主義の破壊者は大蔵150年初の早稲田経由東大学士入学帰国子女新人類第1号の勝だった!】
 http://www.asyura2.com/12/senkyo132/msg/417.html
 投稿者 アサマタロー 日時 2012 年 7 月 02 日 22:17:02: UiY46YlCu.Moc

 それに【吉田茂】が特権階級からのトリックで学習院・東大法編入・外務省が面白い。

 少年期は、大磯町西小磯にて義母に厳しく育てられ、戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業後、1889年(明治22年)2月、耕余義塾に入学し、1894年(明治27年)4月に卒業すると、10年余りに渡って様々な学校を渡り歩いた。同年9月から、日本中学(日本学園の前身)へ約1年通った後、1895年(明治28年)9月、高等商業学校(一橋大学の前身)に籍をおくが商売人は性が合わないと悟り、同年11月に退校。1896年(明治29年)3月、正則尋常中学校(正則高等学校の前身)を卒業し、同年中に慶応義塾・東京物理学校(東京理科大学の前身)に入学しているがいずれも中退。1897年(明治30年)10月に学習院に入学、1901年(明治34年)8月に学習院高等学科を卒業した。同年9月、当時華族の子弟などを外交官に養成するために設けられていた学習院大学科に入学、このころにようやく外交官志望が固まったが、大学科閉鎖に伴い1904年(明治37年)同年9月に東京帝国大学法科大学に移り、1906年(明治39年)7月、政治科を卒業。同年9月、外交官および領事官試験に合格する。ちなみに合格者11人中、首席で合格したのが広田弘毅だった。

 これと同じやり方に雅子さまが居られた。国連大使の長女でクローニー縁故資本主義の典型例。ハーバード大学に入り、学士入学で東大法、【卒業できなくても】中退で外務省合格。寿退職の皇太子花嫁候補にする為のトリック。皇太子さまが美智子さまの様な才媛をご希望に沿う外務省のトリック。東大受験生の忍耐力・克己心が希薄?
 小泉純一郎の次男進次郎が:神奈川県横須賀市生まれ。幼少期に父・小泉純一郎が離婚して、小泉家の親族に育てられる。1988年(昭和63年)に関東学院六浦小学校に入学して、大学まで関東学院で過ごす。中学校・高校ではスポーツ、特に野球に熱中した。2004年(平成16年)に関東学院大学経済学部を卒業して、アメリカ合衆国のコロンビア大学大学院に留学をした。コロンビア大ではジェラルド・カーティス教授に師事して、2006年(平成18年)に政治学修士号を取得したアイビー・リーガーである。その後、アメリカ合衆国の戦略国際問題研究所非常勤研究員を経て2007年(平成19年)に帰国して、それ以後は父である純一郎の私設秘書を務める。【総理の次男、将来有望な青年とブッシュのプッシュ!!!縁故資本主義の典型例】
 日本最大の学歴ロンダリング機関が慶應だ。関西の相互銀行の次男に頭取の親父が何浪しても慶應経済に入れと言われ、私と2歳違いで10年次下にいた。慶應商学部の不正入試も昭和50年頃には大スキャンダルだったが、ロッキード事件以降消された。特権階級の復活した時だった。だから、私は経歴を見る。大阪維新の会の松井府知事も臭そう。今後はウイキペディアで点検調査して行きたい。野田で騙されるのはもう沢山だから。

 1968(昭和43)年、28歳。10月、「文藝春秋」臨時増刊号に立花隆の名で「素手でのし上がった男たち」を発表、フリーライタとして言論活動を開始する。「諸君」の初代編集長田中健五(後の文藝春秋編集長)との交友が後の「角栄研究」に繋がる。

 1969(昭和44)年、29歳。文藝春秋2月号に「60年安保英雄の栄光と悲惨」掲載される。文藝春秋3月号に「東大ゲバルト壁語録」掲載される。同5月、「素手でのし上がった男たち」(番町書房)を刊行。諸君7月号に「この果てしなき断絶」。諸君9月号に「『少年マガジン』は現代最高の総合雑誌か」。文藝春秋10月号に「実像・山本義隆と秋田明大」などを執筆。
(私論.私見) 「立花の全共闘運動に対する関心の奇怪さ」について
 立花が当時の全共闘運動に並々ならぬ関心を持つのはそれは自由である。しかし、立花の学生運動歴があってこそ向うのが普通だろう。れんだいこは、立花の学生時代の学生運動との絡みを知らない。恐らく、接点はともかく学生運動歴がなかったのではないかと推測している。ならば、立花は、なぜかように全共闘運動に対する関心を深めたのか。この現象は一般に何やら臭いと思うのはれんだいこだけだろうか。
(私論.私見) 「立花の売り出しに関わる月刊誌文藝春秋、同じく諸君の梃入れの奇怪さ」について
 その立花の売り出しに手を貸したのが文藝春秋、諸君であった。その登用のされ方もかなり厚遇であることが判明する。一般に、29歳の青年がこのように後押しを受けるものなのだろうか。この背後に何が蠢いていたのだろう。

 1970年(昭和45)年、30歳。諸君3月号に「これが世界最大のシンクタンクだ」、諸君8月号に「生物学革命──人類は生き延びられるか」。潮10月号に「人間としてのあなたの限界と可能性」。潮11月号に「毛沢東の徹底的解明」など執筆。

 この頃、東大紛争中の学費支払いを巡り大学事務と衝突。東大哲学科を中退。
 1971(昭和46)、31歳。諸君4月号に「宇宙船地球号の構造」。文藝春秋5月号に「『異常気象』は地球滅亡の兆か」。潮5月号に「人間この罪と罰の記録」。5月、「思考の技術」(日経新書)刊行。諸君6月号に「石油のすべて──その化学構造から政治学まで」。文藝春秋7月号に「漫画家ジョージ秋山の失踪」。潮8月号に「赤い屍体と黒い屍体」など執筆。
(私論.私見) 「立花の売り出しに関わる月刊誌『潮』、日経新書の新たなる参入」について
 立花は、売り出しについてこの頃より「潮、日経新書の新たなる参入」を受けている。彼の能力の為せる技のみで説明しうることだろうか。

 1971年頃と思われるが、一時筆を絶ち、新宿・ゴールデン街でバー「ガルガンチュア」を約半年間経営する。この頃、菊入龍介というペンネームで評論を書いたりしている、とのことである。
(私論.私見) バー「ガルガンチュア」経営時代について
 一転、立花は一時筆を絶ち、新宿・ゴールデン街でバーを経営する。れんだいこは、立花が何を思い立ちバー経営を始めたのか、この転機に何があったのか興味があるが分からない。バーでどういう顧客との親交が為されたのか、その経営状況はどうだっのか等々この頃の様子を知りたいが不明。

 1972(昭和47)年、32歳の時、「ガルガンチュア」の経営権を売却、イスラエルへ旅立つ。
(私論.私見) 「イスラエルへ旅立つ」について
 ここが臭い。何らかの事情で急遽バー経営を断念し、よりによってイスラエルへ向っている。立花氏はこの時、何の因果関係でイスラエルへ旅立っているのだろうか。これを仮に第2回目のイスラエル詣でとする。

【立花のイスラエル訪問考】
 中近東を訪問し、講談社の川鍋孝文(のちの週刊現代編集長)の紹介でイスラエル政府の招待をうけ2週間イスラエルに滞在。後は自費で中東各地、エーゲ海、地中海、を中心としたヨーロッパ諸国を放浪する。この時、テルアビブ事件に遭遇。週刊文春(7.24日号)に「テルアビブで岡本公三と一問一答」を発表し言論活動を再開する。月刊リクルート及び「いち」に不定期連載「時代と状況の病理学」。文藝春秋10月号に「世紀の米ソ頭脳決戦」。文藝春秋11月号に「商社・日本原産のモンスター」。文藝春秋73.1月号に「子殺しの未来学」など執筆。
 1973(昭和48)年、33歳。文藝春秋5月号に「総合商社解体論」。週刊文春10.29日号より「未来ルポ1980年のニッポン(第1〜4回・完結)」連載。同11.26日号より「日本列島石油パニック〔菊入龍介〕(第1〜5回・完結)」連載。11月、菊入龍介の名で「日本経済・自壊の構造」(日本実業出版社)を刊行。文藝春秋74.1月号に「資源小国昔も今も」など執筆。
(私論.私見) 「執筆活動再開に当たっての月刊誌文藝春秋、週刊誌週刊文春の後押し」について
 立花は、イスラエル詣での後執筆活動を再開する。これを文藝春秋、週刊文春が後押ししている。同社と立花との誼には相当厚いものがあることが判明する。

【立花の二度目のイスラエル訪問考】
 1974(昭和49)年、34歳。この年の前半、中近東を放浪。
(私論.私見) 「この年の前半、中近東を放浪」について
 「中近東を放浪」とあるが、当然イスラエル入りしている。これを仮に第3回目のイスラエル詣でとする。立花はこの時、何の因果関係で再再度イスラエルへ旅立っているのだろうか。この時、イスラエルのどこを訪ねているのだろうか。立花は語らない。語らないものに真相が宿されていると思う。

 「中近東放浪」後のこの年の後半より衝撃的な論文を精力的にこなしていくことになる。諸君8月号に「パレスチナ報告」。週刊現代8.23日号に「意外!田中首相が三福に圧勝した七月政変の内幕」。

 同年、文藝春秋11月号に児玉隆也と「田中角栄研究─その金脈と人脈」を発表する。膨大な資料をかき集めた詳細な記事は大きな反響を呼び、田中退陣のきっかけを作ったとされる。同企画は「調査報道の先駆」、「雑誌ジャーナリズムの金字塔」として高く評価された。

 立花登場の背景が次のように語られている。
 概要「立花隆はペンネーム、本名は橘たかし。その昔、文芸春秋の誤字修正係りの小間使いであった頃、田中抹殺の指示を受けた編集部は記事を作文したが、嘘八百の記事を実名で出す勇気がなかった、そこへ橘たかしは付け入って、彼の名前で田中追放記事を発表することに決まった。当時、月刊誌文芸春秋は売り切れになった。田中角栄が逮捕されると、文芸春秋は記事を書くのを止めた。橘たかしは立花たかし名で月刊現代で 偽記事を書き続け、同じガセネタで田中角栄を追及していった。小沢一郎はそれらをロッキード事件裁判を傍聴して全部『立花隆』の嘘であることを知っている」。
 概要「アメリカ(キッシンジャー)が角栄を潰した。『金脈レポート』の元ネタはCIAの報告書。後日、その事(元ネタはCIA情報)を問われた立花は真っ青になって何も言えなかった、と聞いている。最初に金権スキャンダルを週刊誌にリークしたのはKCIA。ライバルの福田赳夫は統一教会(KCIA)の傀儡。文鮮明の靴の裏まで舐める男と言われていた。クリーンを売りにしてたのも後の小泉と被る。経世会(国内利権漁り国益擁護派)vs清和会(外国から金もらって売国)の構図を国民が理解できてれば角栄も経世会も潰れることはなかった。半島勢力(KCIA)に取っては日本と中国、日本とロシアを離反させる事はまさに死活問題。その事が理解できれば、日本で起きてる事のおおよそが合理的な説明がつく」。
(私論.私見) 「中近東放浪」後の立花氏の執筆について
 「中近東放浪」後の立花は、諸君8月号に「パレスチナ報告」を発表している。れんだいこはその論調を知りたいが未入手のため分からない。続いて、「田中角栄弾劾」に精力的に取り組み始める。このことと「中近東放浪」との因果関係有りやなしや。
(私論.私見) 「田中角栄研究─その金脈と人脈」執筆その後について
 立花は、文藝春秋11月号に「田中角栄研究─その金脈と人脈」を発表する。忽ち評判と成り、立花は時代の寵児となる。「田中角栄研究─その金脈と人脈」執筆の裏舞台の検証もさることながら、この時の立花の持ち上げられ方も作られたものではなかったか。れんだいこはそういう気がしてならない。

 文藝春秋は角栄批判から手を引くが、その後も発表場所を変え、折に触れて田中金脈問題を取り上げ、ロッキード事件言論人としての第一任者となった。

 田中が逮捕された後は東京地裁でのロッキード事件の田中公判を欠かさず傍聴し、その都度のコメンテーターとして一審判決まで朝日ジャーナル誌に傍聴記を連載した。その発言が当時の論調をリードした。

 また同誌上で「ロッキード裁判批判を斬る」を連載し、俵孝太郎渡部昇一ら田中角栄擁護論者を“イカサマ論法にして無知”と批判した。(「なお、渡部は後年、立花のことを高く評価するコラムを雑誌に発表している」とあるが真偽不明) 朝日ジャーナルでの担当者は筑紫哲也。以後しばし筑紫の番組に出演するなど公私ともに親交がある。

 現代11月号より連載「中核・革マルの『仁義なき戦い』(第1〜3回・完結)」。文藝春秋75.1月号に「田中角栄研究の内幕」など執筆。
(私論.私見) 「月刊誌『現代』の新たなる後押し」について
 この頃より、月刊誌現代が立花を後押しし始めていることが判明する。なお、角栄追討戦の次に「中核・革マルのゲバルト検証」に向ったのは何故か。必然性があったのかなかったのか。

 1975(昭和50)年、35歳。現代5月号に「『田中角栄金脈の決着』に異議あり」。現代7月号に「新星企業金脈商法の疑惑をついに追い詰めた」。現代9月号より「連続企業爆破事件への重大疑惑(第1〜4回・完結)」連載。朝日ジャーナル11.14日号より「田中金脈裁判傍聴記(第1〜4回・完結)」連載。11月、「中核vs革マル(上・下)」(講談社)刊行。文藝春秋76.1月号より「日本共産党の研究(第1回)」連載など執筆。
(私論.私見) 「週刊誌朝日ジャーナル、講談社の新たなる後押し」について
 この頃より、週刊誌朝日ジャーナルが立花を後押しし始めていることが判明する。
(私論.私見) 「角栄、中核vs革マル、日本共産党の同時的研究」について
 一見何の脈絡もないように見える「角栄、中核vs革マル、日本共産党の同時的研究」であるが、角栄を土着左派と見立てれば、何やら「外から見た日本左派運動的関心に応えたレポートもの」であることが判明する。

 1976(昭和51)年、36歳。7.27日、田中角栄逮捕される。この頃、文藝春秋に「日本共産党の研究」(第2〜11回)が同時並行して掲載される。これも党側が組織的な反立花キャンペーンを展開して反論し、大論争に発展する。

 文藝春秋4月号に「事件の核心──ロッキード疑獄を追って」、週刊文春3.11日号より「ロッキード事件追及レポート(第1〜3回・完結)」連載。文藝春秋5月号に「児玉誉士夫とは何か」。週刊文春4.22日号より「CIAと児玉誉士夫(第1〜5回・完結)」連載。週刊朝日7.16日号に「田中角栄氏への公開質問状」。文藝春秋9月号に「新・田中角栄研究」。10月、「田中角栄研究 全記録(上・下)」(講談社)刊行、のち文庫。週刊文春12.16日号に「『田中角栄』を大勝させた日本は終わったか」など執筆。12月、「文明の逆説」(講談社)刊行、のち文庫。
(私論.私見) 「主流メディアの立花総後押し」について
 この頃、時代の寵児となった立花は、主流メディアから総後押しされている。興味深いことは、ロッキード事件で、田中角栄、児玉誉士夫への追求をしていくが、中曽根康弘には言及を控えている点である。果たしてこれが公正であるのか、立花の政治主義的立ち回りを窺うべきではなかろうか。

 1977(昭和52)年、37歳。1.27日、田中裁判・初公判。2.11日号より「ロッキード裁判傍聴記(第1〜11回)」連載、諸君8月号より「ジャーナリズムを考える旅(第1〜4回・完結)」)連載。朝日ジャーナルに「日本共産党の研究(第12〜21回・完結)」など執筆。
(私論.私見) 「日本共産党の研究」について
 立花の「日本共産党の研究」は、これまで未流出の公安資料を豊富に駆使しているところに特質がある。その意義は大きいというべきだが、どうやって未流出の公安資料を手に入れたのか興味は尽きない。ロッキード事件に於ける角栄金脈の研究の中での国税庁データの公開も然りで、立花はその取得の経緯を明らかにせねばなるまい。

 以上で、立花の何たるかが判明したので簡略に事歴のみ記す。 
 1978(昭和53)年、38歳。

 諸君12月号より「アメリカSEX革命報告(第1〜9回・完結)」連載。3月、「日本共産党の研究(上)」(講談社)刊行、のち文庫(第1回講談社ノンフィクション賞受賞)。5月、「ジャーナリズムを考える旅」(文藝春秋)(のち「アメリカジャーナリズム報告」と改題して文春文庫)。文藝春秋7月号より5回連載「不破・上田兄弟論--ポスト宮本体制の支配者」。9月、「日本共産党の研究(下)」(文藝春秋)刊行。「ロッキード裁判傍聴記(第27〜31回)」など執筆。

 1979(昭和54)年、39歳。
 朝日ジャーナル1.5日号より「ダグラス疑獄(第1〜7回・完結)」連載。文藝春秋3月号に「白い黒幕」。

 【「アメリカ性革命報告」(文藝春秋)刊行】
 9月、「アメリカ性革命報告」(文藝春秋)刊行、のち文庫。諸君!誌上での1978年2月〜11月の連載に加筆し、1970年代のアメリカ性革命と、その背後にあるアメリカ社会自体の変動について論じた300p弱のレポート文庫本である。
■目次
T ポルノの生態学  性意識の変革はどこまで進んだか
U さまざまなる性癖  人が千人いれば性的傾向は干ありうる
V セックスファンタジ  孤独な性の開拓者たちが求めるナイト・ドリーム
W こぶしとあたま  性解放の極限フィスト・ファッキング
X マイアミの暑い夏  ホモ・パワーをめぐる騒然たる戦い
Y リブの精神分析  ワギナ指向かクリトリス指向か
Z ピタゴラスの生理  インポテンスは生理的必然ではない
[ 鞭と政治家  パワーエリートたちの性
\ 性の文化人類学 アメリカ性革命はどこへ行くのか

 「さまざまなる性癖」P−59は、倒錯についての次のように記している。
 「こと性に関しては、すべての人が個人的な領域からだけでものを見ようとするために、『普通』の抽象性、非現実性が見えないし、抽象的『普通』を支えている現実的『普通でない』の広大な領域が見えない。そして他のジャンルにおいては、『普通』と『普通でない』が単なる統計的出現頻度の表現であり、『普通』は『凡庸』にほかならないと判断されるのに対し、性の領域では『普通』が『正常』や『健全』と判断されるという”倒錯”が起きているのが現状である」。
(私論.私見) 「アメリカ性革命報告」について
 れんだいこは読んでいないのに批判するのはどうかと思うが、相当ひどい内容のもので、これを革命などと云う言葉で煽っているところが立花らしい。これについては暇があれば徹底的に批判するつもりである。

 立花隆の変態性好色ぶりが披瀝されている。アメリカの1901年から1984年までの性意識の変遷を記載し、アメリカの性革命をドキュメント風に調べている。本書によると、1968年、ジョンソン大統領が「ワイセツとポルノに関する諮問委員会」を設置、19人の委員と20人のスタッフ、2年間の時間と200万ドル(!)の費用をかけて、委員会の結論は「成人についてはポルノをほぼ全面的に解禁すべし」という内容の報告をしている。

 アメリカのポルノ雑誌の読者投稿欄を資料として採用し、「性生活の悩み、性癖、SM、フィストファック」について拡散的に書いている。特に、「フィストファック」につき話題を呼んだ。しかしどう見ても考えても、「フィストファック」なぞは猟奇的なもので、それを「アメリカ性革命」として紹介するのは度し難い文筆犯罪ではなかろうか。最後の方で政治家のセックススキャンダルに言及している。

 2016.10.28日 れんだいこ拝  

 週刊朝日10.5日号より「農協 巨大な挑戦(第1〜14回)」連載。

 この年、「日本共産党の研究」が評価され、講談社ノンフィクション賞受賞。ジャーナリストとしての地位を不動のものにする。「ロッキード裁判傍聴記(第22〜26回)」など執筆。

 1980(昭和55年)年、40歳。

 諸君5月号に「『地獄の黙示録』研究」、文藝春秋7月号に「新・田中角栄の研究 被告人と宰相」。文藝春秋8月号に「被告人の選択を待つ首相候補たち」。7月、「農協」(朝日新聞社)刊行、のち文庫。「ロッキード裁判傍聴記(第27〜31回)」、「農協 巨大な挑戦(第15〜21回・完結)」など執筆。
 1981(昭和56)年、41歳。

 文藝春秋3月号に「『田中角栄独占インタビュー』全批判」、「くりま」春号に「ニユーヨーク ’81」。7月、「ロッキード裁判傍聴記1」(朝日新聞社)刊行(のち「ロッキード裁判とその時代」と改題して朝日文庫より再刊)。文藝春秋9月号に「『田中角栄無罪』はあるか」。「ロッキード裁判傍聴記(第32〜48回)」、中央公論11月臨時増刊号より「宇宙からの帰還(第1〜2回)」連載など執筆。
 1982(昭和57)、42歳

 週刊朝日1.22日号より「”田中新金脈”追及(第1〜10回・完結)」連載)、中央公論5月号に「古井喜実『首相職務権限論』を駁す」。週刊文春7.1日号、同8日号に「無人島生活六日間(第1〜2回,完結)」連載。中央公論8月号に「角栄を精算しきれぬ日本政治の惨状」。11月、「田中角栄いまだ釈明せず」(朝日新聞社)刊行(のち「田中角栄新金脈研究」と改題して朝日文庫より再刊)。「図書」83年1月号より「情報のインプット&アウトプット(第1回)」連載。「宇宙からの帰還(第3〜7回・完結)」、「ロッキード裁判傍聴記(第49〜58回)」など執筆。
 1983(昭和58)、43歳。

 1月、「宇宙からの帰還」(中央公論社)、のち文庫。文藝春秋3月号に「巨大な悪の連鎖を断て」。プレイボーイ5月号より「レンタカーオデュッセイ8000キロ(第1〜4回・完結)」連載。ペントハウス5月号より「ヴュー・フロム・ザ・トップ(第1〜9回)」連載、ペントハウス8月号に「NASA宇宙飛行特訓からの帰還」。10.12日、「田中裁判一審有罪判決」。10月、「ロッキード裁判傍聴記3」(朝日新聞社)刊行。文藝春秋11月号に「田中角栄と私の9年間」。中央公論11月臨時増刊号に「虚構が崩れた時──10・12判決で感じたこと」。文藝春秋12月号「田中擁護のあらゆる俗論を排す」。この間、「ロッキード裁判傍聴記2」、「ロッキード裁判傍聴記(第59〜68回・完結)」、「情報のインプット&アウトプット(第2〜12回・完結)」、「徹底した取材と卓抜した分析力により幅広いニュージャーナリズムを確立した文筆活動」により菊地寛賞受賞。
 1984(昭和59)、44歳。
 1月、「アメリカ性革命報告」(文藝春秋)出版。次のように評されている。
 「70年代の米国男性雑誌等の丹念な読み込みを通じて行なった『諸君!』誌上での1978年の連載に加筆して、クライマックスに達しかけていたアメリカ性革命と、その背後にあるアメリカ社会自体の変動について論じた、300頁弱の文庫本である」。
 「ヒトラーが『スカトロ』マニアだったとか、大企業の社長が赤ちゃんプレーやMプレーがお好きとか、人間の性癖が『これでもか!!!と、衝撃の内容ばかりです』」。
 フィストファックやスカルファックに関しての記述がある。
 「スコラ」3.8日号より「青春漂流(第1〜12回・完結)」連載、3月、「『知』のソフトウェア」(講談社現代新書)刊行。諸君7月号に「立花隆の大反論」。週刊朝日7.27日号より「再開・”田中新金脈”追及(第1〜10回・完結)」連載。諸君9月号に「ふたたび『角栄裁判批判』に反論する」。朝日ジャーナル10.12日号より「ロッキード裁判批判を斬る(第1〜13回)」連載など。「ヴュー・フロム・ザ・トップ(第10回・完結)」。
 1985(昭和60)、45歳。

 2月、「ロッキード裁判傍聴記4」(朝日新聞社)刊行。2.27日、田中角栄倒れる。朝日ジャーナル3.15日号「『倒れる』前に『倒す』ベきだった」。スコラ8月号に「青春漂流」(のち講談社文庫)。8月、「田中角栄新金脈追及」(朝日文庫)刊行。中央公論11月号より「脳死(第1〜3回)」連載。12月、「論駁--ロッキード裁判批判を斬る」(朝日新聞社)刊行。のち朝日文庫より再刊。私家版レコード「RAGA GAUD MALHAR RAGA YAMAN」(「シェ・タチバナ」レーベル)発売。「ロッキード裁判批判を斬る(第14〜48回)」、「ロッキード裁判批判を斬る・番外篇(第1〜5回)」。
 1986(昭和61)、46歳。

 「別冊専門料理」3月号「立花隆ヨーロッパ・チーズの旅」。文學界4月号より「読書ノート(第1〜3回・完結)」連載。4月、「論駁」(朝日新聞社)刊行。9月、「論駁」(朝日新聞社)刊行。10月、「脳死」(中央公論社)刊行、のち文庫。「アニマ」10月号より「サルに学ぶヒト(第1〜4回)」連載、「ナーシング・トゥデイ」10月号より「人間存在の本質を見る」連載。太陽11月号に、「河童のお邪魔対談」など。「ロッキード裁判批判を斬る(第49〜62回・完結)」(朝日新聞社)、「脳死(第4〜10回・完結)」。
 1987(昭和62)、47歳。

 週刊現代1.24日号より「情報ウォッチング(第1〜49回)」連載。中央公論2月号より「宇宙への道(第1〜7回・完結)」連載。2月、吉川弘之との共著で「ロボットが街を歩く日」(三田出版会)刊行。中央公論4月号に「脳死を医者はごまかすな」。文藝春秋5月号に「神の王国イグアス紀行」。「ペントハウス」6月号より「AIDSの荒野を行く(第1〜5回・完結)」連載。7.29日、田中裁判二審有罪判決。太陽8月号に「ラテン・アメリカのキリスト教美術──インディオたちの聖像」。朝日ジャーナル8.21日号に「〔ロッキード裁判控訴審判決〕弁護側の主張を『論駁』、最高裁でも耐え得る判決」。ポリフォーン10月号に「音楽過剰の時代」。太陽12月号に「ヨーロッパ名酒紀行─フランスの岩盤深きところより」など。 私家版レコード第2弾「とぎれた闇」(吉原すみれ)発売。「サルに学ぶヒト(第5〜15回)」。毎日出版文化賞受賞。
 1988(昭和63年)、48歳。

 朝日新聞1.18日に「汚職体質 野党にも」。ペントハウス2月号に「ポルドーのシャトーより 陽のあたるブドウ園紀行」。ペントハウス3月号に「その日のソウル─大統領選挙前日、当日、翌日に見た隣国の素顔」。中央公論3〜6月・8月号「脳死(再論)」、のち文庫。サウンドトップス春号より「立花隆のここが知りたい(第I〜4回)」連載。4月、「同時代を撃つ1」(講談社)刊行、のち文庫。朝日新聞6.16日に「信濃川河川敷訴訟判決を読んで」。文藝春秋8月号より「安保反対からノーベル賞へ(第1〜4回)」連載。毎日新間7.16日に「〔リクルート事件〕検察は眠りから覚めよ」。世界10月号「巨悪は眠っている──『ロッキード』以後の政治家と検察(対談/国正武重氏)」。朝日新聞10.11日に「税制改革ここが議論不足(座談会)」。11月、「脳死再論」(中央公論社)刊行。科学朝日89.1月号より「立花隆が歩く──研究最前線(第1回)」連載など。「サルに学ぶヒト(第16〜26回)」、「情報ウォッチング(第50〜99回)」。
 1989(平成元年)、48歳。

 朝日ジャーナル1.25日臨時増刊号「わたしの天皇感覚──大多数は無関心、無感覚派」。3月、「同時代を撃つ2」(講談社)刊行。朝日新間5.18日に「リクルート事件・政界捜査の報に」。NHK6.20〜22日に「立花隆の思索紀行──南米・失楽の500年」発表。世界8月号に「『表紙』も『中身』も変わらなかった─総括リクルート事件(対談/国正武重氏)」。朝日新聞10.9日に「〔朝日サンゴ報道〕この程度になぜ時間──背景の掘り下げ足りない」。「サルに学ぶヒト(第27〜34回)」、「情報ウォッチング(第100〜147回・完結)」、「安保反対からノーベル賞へ(第5〜8回・完結)」、「立花隆が歩く──研究最前線(第2〜13回)」、「立花隆のここが知りたい(第5〜8回)」。
 1990(平成2)、49歳。

 文藝春秋2月号に「東欧解体──これが新しい現実だ(討論)」。3月、「同時代を撃つ3」(講談社)刊行。7月、「精神と物質−利根川進へのインタビュー」(文藝春秋)刊行(第4回新潮学芸賞受賞)。TBS7.23〜26日に「立花隆宇宙への道」発表。マザー・ネイチャーズ夏号より「ネイチャー・トーク/自然を考える(第1〜2回)」連載。文藝春秋12月号に「立花臨時講師が見た東大生」など。「サルに学ぶヒト(第35〜36回・完結)」、「立花隆が歩く──研究最前線(第14〜18回・完結)」、「立花隆のここが知りたい(第9〜12回)」。
 1991(平成3年)、50歳。

 文藝春秋2月号に「宇宙飛行士秋山豊寛の『心理』と『生理』」。2月、「サイエンス・ナウ」(朝日新聞社)刊行、のち文庫。NHK3.17日に「臨死体験」、NHK教育3.18〜20日に「臨死体験を探る」発表。月刊ASAHI4月号に「私の提言─国連軍を常備軍とし兵力と費用を出す」。毎日新聞3.5日に「〔湾岸戦争〕算定の根拠なく戦費支援おかしい」。月刊ASAHI5月号に「私の『国連軍』合憲論」。科学朝日4月号より「コンピューター最前線(第1〜10回)」連載。中央公論6月号に「脳死臨調 これでいいのか」。朝日新聞7.4日に「やはり問題多い脳死判定基準」。中央公論9月号に「脳死臨調『中間意見』を批判する」。文藝春秋8月号より「臨死体験(第1〜6回)」連載。8月、「サル学の現在」(平凡社)刊行、のち文春文庫。太陽11月号に「立花隆が荒俣宏のすぺてを聞く」。毎日新聞11.17日に「自民党を考える」。11月、「ランダムな世界を究める−米沢冨美子との対談」(三田出版会)刊行のち平凡社ライブラリーなど。「ネイチャー・トーク/自然を考える(第3〜4回)」。「精神と物質」により新潮学芸賞受賞。「立花隆のここが知りたい(第13〜16回)」。
 1992(平成4年)、52歳。

 NHK1.1日に「21世紀への対話 大江健三郎vs立花隆」。中央公論4月号より「脳死臨調の危険な論理(第1〜4回・完結)」連載。太陽6月号に「生命の根源から人類の究極へ──立花隆が埴谷雄高のすぺてを聞く」。文學界6月号に「武満徹・音楽創造への旅(第1〜7回)」連載。週刊文春8.27日号より「私の読書日記(第1〜3回)」連載。9月、「宇宙よ」(文藝春秋)刊行。9月、「脳死臨調批判」(中央公論社)刊行。週刊文春10.15日号に「検察幹部は全員辞職せよ」。朝日新聞10.15日に「新聞の利点を生かせ」。文藝春秋12月号に「検察のかくも長き眠り」など。「ネイチャー・トーク/自然を考える(第5〜6回・完結)」、 「コンピューター最前線(第11〜15回)」、「臨死体験(第7〜17回)」。

 12月、ネコビル竣工。
 1993(平成5)、53歳。

 2月、「電脳進化論」(朝日新聞社)刊行。NHK3.22日に「ドキュメンタリーとは何か」。文藝春秋5月号に「何が金丸事件を生んだのか」。NHK教育4.12・13日に「未知への対話(対談/コリン・ウィルソン」。朝日新聞6.24日に「新生党に問う─過去にけじめをつけずに何が新生」。文藝春秋8月号に「遅すぎた終焉」。婦人公論8月号に「僕の秘書公募 500人顛末記」。週刊現代8.7日号に「立花隆『金丸裁判傍聴記』」。週刊現代8.21日号に「小沢一郎新生党代表幹事の大罪」。8月、「バーパラ・ハリスの『臨死体験』」(訳・講談社)刊行。8月、「巨悪vs言論」(文藝春秋)刊行。科学朝日10月号より 「脳研究最前線(第1〜3回)」連載。世界11月号に「新生党が『単独与党』になる日(対談/国正武重氏)」など。「マザーネイチャーズ・トーク/自然を考える(第7回・完結)」、「臨死体験(第18〜26回・連載中)」、「武満徹・音楽創造への旅(第8〜18回・連載中)」、「私の読書日記(第4〜10回・連載中)」。翻訳 『バーバラ・ハリスの臨死体験』(講談社、1993年)
 1994(平成6)、54歳。

 「生・死・神秘体験対談集」(書籍情報社)、「臨死体験」(文藝春秋)。
 1995(平成7)、55歳。

 この年から1998年まで東大先端研客員教授。ユニークな講義で多くの学生たちに学びの大切さを伝え、各地の大学でも講演するなど若い世代の育成にも力を注いだ。

 1995年に公開された宮崎駿さんが製作プロデューサー、脚本、絵コンテを担当したアニメジブリ映画「耳をすませば」で主人公・月島雫の父親で図書館司書の靖也の役を演じ、作品の話題作りに貢献する。劇中で自然な茨城弁を披露している。

 「宇宙を語る」(書籍情報社)、「ぼくはこんな本を読んできた」(文藝春秋)。
 1996(平成8)、56歳。

 この年から1998年まで東大教養学部非常勤講師。「立花ゼミ」を主催。
  • 『インターネット探検』講談社、1996
  • 『脳を究める』朝日新聞社、1996
  • 『証言・臨死体験』文藝春秋 1996(のち文庫)
    • 翻訳『アポロ13号奇跡の生還』ヘンリー・クーパーJr(新潮社、1996年)
 1997(平成9)、57歳。
  • 『立花隆の同時代ノート』講談社、1997
  • 『無限の相のもとに』埴谷雄高との対談、平凡社、1997
  • 『インターネットはグローバル・ブレイン』講談社、1997
 1998(平成10)、58歳。

 司馬遼太郎賞を受賞。神戸連続児童殺傷事件の検事調書を文藝春秋社が入手。これを雑誌に掲載するか否かについて当時の編集長平尾隆弘から緊急に相談を受け、少年法61条に抵触するか否かについて、概要「この法令が報道することを禁じているのは、あくまで本人のアイデンティティを推知できるような要素であって、それ以上ではない。従って、この調書を載せること自体は少年法61条に抵触することは全くない」と判断。「どんなことがあっても掲載すべき」と推薦し「文藝春秋」(1998.3月特別号)に掲載された。1998年、司馬遼太郎賞。
  • 『100億年の旅』朝日新聞社、1998(のち文庫)
  • 『環境ホルモン入門』東大教養学部立花隆ゼミ、新潮社、1998
  • 『二十歳のころ』東大教養学部立花隆ゼミ、新潮社、1998(のち文庫)
 1999(平成11)、59歳。
  • 『宇宙・地球・生命・脳』朝日新聞社、1999(のち文庫)
  • 『サイエンス・ミレニアム』中央公論新社、1999(のち文庫)
 1999年頃には長年連れそった前妻が末期がんに侵され、彼女の依願で病院に同行を繰り返したりするが、1年間の闘病の末2000年に死去。この頃よりがんへの関心を深める。
 2000(平成12)、60歳。
  • 『東大講義人間の現在1 脳を鍛える』新潮社、2000(のち文庫)
  • 『人体再生』中央公論新社、2000(のち文庫)
  • 『脳とビッグバン』朝日新聞社、2000(のち文庫)
  • 『21世紀知の挑戦』文藝春秋、2000(のち文庫)
  • 『新世紀デジタル講義』新潮社、2000(のち文庫)
 2001(平成13)、61歳。

    『立花隆「旧石器発掘ねつ造」事件を追う』編著、朝日新聞社、2001
  • 『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』文藝春秋、2001(のち文庫)
  • 『東大生はバカになったか』文藝春秋、2001(のち文庫)
 谷田和一郎著「『立花隆先生、かなりヘンですよ』 教養のない東大生からの挑戦状」(洋泉社 2001年11月) 。「立花隆『嘘八百』の研究―ジャーナリズム界の田中角栄、その最終真実」(宝島社 2002年1月)が出版される。
 2002(平成14)、62歳。
  • 『解読「地獄の黙示録」』文藝春秋、2002(のち文庫)
  • 『「田中真紀子」研究』文藝春秋、2002(「政治と情念」と改題して文春文庫)
 2002.12.25日、大きな大腸ポリープS字結腸に発見され切除する。癌化を疑い自らを被写体として健康状態の患者からポリープが発見され切除、がんかどうかの病理検査、診断、告知までのドキュメンタリー番組の制作をNHKに提案。NHK側も同意して撮影開始。このとき、約束をしながら果たしていない約束が7つほどあることが判明。簡単には死ねないと感じる。いちばんの大仕事は1998年から連載していた『わたしの東大論』を本にする仕事であった。
 2003(平成15)、63歳。
 2004(平成16)、64歳。
 『「言論の自由」VS.「●●●」』文藝春秋、2004
  『イラク戦争・日本の運命・小泉の運命』講談社、2004
  • 『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』文藝春秋 2004
  • 『思索紀行 ぼくはこんな旅をしてきた』書籍情報社、2004
 2005(平成17)、65歳。東大大学院や立教大で特任教授となり、学生を指導。放送倫理・番組向上機構(BPO)放送倫理検証委員会委員、日本文学振興会評議員なども務めた。

 2005.10月−2006.9月、東大大学院総合文化研究科科学技術インタープリター養成プログラム特任教授に就任。「立花ゼミ」再開。

 12月、宇宙飛行士の野口聡一(高校3年生のときに立花の著書『宇宙からの帰還』を読み、宇宙飛行士になる決心をしたと立花の対談が実現。
  • 『エーゲ 永遠回帰の海』書籍情報社 2005
  • 『天皇と東大 大日本帝国の生と死』文藝春秋 2005
  • 『滅びゆく国家』日経BP社 2006
 2006年(平成18)、66歳。

 ライブドア前社長堀江貴文が、「堀江被告の保釈・幕引きで闇に消えたライブドア事件」(2006年5月10日)の記事で暴力団と関係があるように書かれたとして、立花と「日経BPネット」を運営する日経BP社に5000万円の損害賠償請求訴訟を起こす。

 10月、東京大学大学院情報学環の特任教授。
 2007年(平成19)、67歳。東京大学大学院情報学環特任教授に就任。

 2.21日付の日経BPネットに、「政権の命取りになるか 安倍首相の健康問題」として、「安倍首相は紙オムツを常用せざるをえない状態」、「安倍首相の首のつけ根は妙な老人性のシワでいっぱい」、「安倍一族は短命の家系。一族の墓誌を丹念に調べた人の報告によると、40代50代で死んでいる人が沢山」、「安倍首相の異常な"老化現象"が、顔面の皮膚にとどまらず、精神面にまでおよんでいるのではないか」などと記述した(首相は「紙オムツ常用」状態!? ライブドアニュース 2007年02月26日)。ジャーナリストらしからぬ表現を多用したため、ネット上の掲示板では立花を批判する声が多かった。

 4月、立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科特任教授。

 8.24日、
堀江氏が立花隆さんを提訴(デイリースポーツ 2007年8月24日)

 12月、膀胱癌(ぼうこうがん)が発覚。手術を受け、文藝春秋(2008年4月号)に手記「僕はがんを手術した」を発表した。
  • 『ぼくの血となり肉となった500冊そして血にも肉にもならなかった100冊』文藝春秋 2007
  • 『南原繁の言葉』編著、東京大学出版会 2007 ISBN 4130010042
 2008年(平成20)、68歳。

 10.3日、東京地裁は、「記事の内容は真実と認められない」として、200万円の支払いを命じた。( 時事通信 2008/10/03、「立花のコラムについて堀江被告、立花氏に勝訴=コラムの名誉棄損認定−東京地裁」)
 2008年、冠状動脈の機能不全が見つかり、心臓の手術も受けた。

 その後も取材意欲は衰えず、月刊誌の巻頭随筆の連載を続ける一方、晩年を意識したような著書も出版。
 2009年、

 11.27日、鳩山由紀夫内閣の事業仕分けで大型研究プロジェクトに交付される特別教育研究経費が予算要求の縮減と判定されたのを受けて全国各地の国立研究所長らと共に東京大学で記者会見を開き、「民主党は日本をつぶす気か」と仕分け結果を非難した。「資源小国の日本は科学技術による付加価値で生きていくしかない」と指摘した上で、「目の前で起きている出来事を見て怒りに震えている」と話した。作業風景の印象について「訳のわからない人たちが訳のわからないことを論じている」と評し、仕分け人を「バーバリアン(野蛮人)」と形容した(11.28日、リアルスポーツ)。
 2010.2月現在、東京大学大学院情報学環特任教授、立教大学21世紀社会デザイン研究科特任教授、大宅壮一ノンフィクション賞の選考委員も務める。
 2012年、

 10.11日、ふらっと'92 20周年記念シンポジュウム「日本の宇宙飛行士が語る20年の歩みと今後の展望」で、パネリストとして「ヒトはなぜ宇宙に行くのか?」というテーマでパネルディスカッションにて有人飛行に反対意見を表明。「大事故が起こる可能性があるが、有人宇宙開発を行うに足る覚悟が日本人にはまだない。失敗に耐えられる体質がない」、「膨大なカネが必要だが、日本は国家として破綻状態だ。中国はすさまじい金がある。失敗に耐えられる体質がある」、「成果がない。費用対効果がない」と発言し、秋山豊寛に費用対効果などと、いつから大蔵省の役人みたいになったのかと批判される場面があった。

 ドキュメンタリー番組『旧友再会」(NHK)に梅宮辰夫と出演し、かつての住まい茨城県水戸市を訪問。
 2014年、 「読書脳 ぼくの深読み300冊の記録」で第68回毎日出版文化賞書評賞受賞。
 2016年、「武満徹・音楽創造への旅」で吉田秀和賞受賞。
 最近では、脳死・臓器移植問題に絡んで、立花隆はかっての自身の主張を変えて「ドナーカードを持とう」と熱心である。吉本隆明は、同じ時期に立花隆とは逆に「私はドナーカードを持たない」と主張している。近年、政治関連記事での誤報が多く、雑誌編集部からの批判も少なくない。

【「マルコポーロ廃刊事件」の際の立ち回り】
 この立花が、後に文芸春秋社最大の言論弾圧事件となった「マルコポーロ廃刊事件」の際にどのような態度を採ったのか、知りたいところである。

【「田中真紀子外相失脚事件」の際の立ち回り】
 この立花が、「田中真紀子外相失脚事件」の際にまたぞろ立ち回っている。その際にどのような態度を採ったのか、「角栄の孫娘のプライバシー漏洩にまつわる週刊文春販売差し止め事件考」で検証する。


 2020年、「知の旅は終わらない」刊行。「死んだ後については、葬式にも墓にもまったく関心がありません」とつづっている。「生命の大いなる環の中に入っていく感じがいいじゃないですか」とも記し、葬儀は5月4日に樹木葬で営まれた。

【立花逝去】
 2021.4.30日午後11時38分、さまざまな分野で著作を残し、「知の巨人」とも評されたジャーナリストで評論家の立花隆(たちばな・たかし、本名橘隆志)が急性冠症候群のため入院先の病院で死去した(享年80歳)。長崎市出身。葬儀は家族で樹木葬を行った。

 長年、痛風、糖尿病、高血圧、心臓病、がんなどの病気をかかえ、入退院を繰り返していた。一年前大学病院に再度入院したが、本人が検査、治療、リハビリ等を拒否したため旧知の病院に転院した。この病院で、「病状の回復を積極的な治療で目指すのではなく、少しでも全身状態を平穏で、苦痛がない毎日であるように維持していく」という院長の考えのもとで入院を続け、4月30日の夜に看護師が異常を感じて院長に連絡をとったものの、到着を待たずに急逝したという。

【各界諸氏の追悼弁】
 6.23日、加藤勝信官房長官が、記者会見で、ジャーナリストで評論家の立花隆氏の死去を受け、「謹んで哀悼の意を表する」と述べた。その上で「類いまれな知的好奇心に基づき、さまざまな分野で多くの著作を残された」と功績をたたえた。
 同じライターとして仕事で交流のあったルポライターの鎌田慧は「エッセーの連載がなかったので病状が悪くなっているのかなと思っていましたが、ついに亡くなってしまったのかという感慨があります。同じ時代を生きたライターで、今ではほとんどいなくなってしまった『ルポライター』と呼ばれる存在の1人でした」と振り返りました。そのうえで、立花さんの功績について「若い時から凝り性で、その性格が膨大な量のデータの分析した『田中角栄研究』を生み出す原動力になったのではと思います。幅広いジャンルに関心を持って資料を徹底的に調べ上げ、時には取材チームを作ってその力を結集させる立花さんの好奇心と総合力は傑出しており、彼のような存在はそれまでいなかったし、これからも出てこないのではないかと思います。まさに一時代を作ったライターでした」と話していました。
 立花さんと親交があったジャーナリストの田原総一朗さんは、立花さんが文藝春秋で「田中角栄研究」を発表したことについて「当時、田中角栄が金権政治を行っていたことは他の報道機関も知っていて、田中角栄自身も、どこもそのことを書かないと思っていた。文春で記事が出たあとも、どこの新聞も書かず、その後、田中角栄が開くことになった日本外国特派員協会での会見をきっかけに、初めて日本の新聞が報じた」と振り返ったうえで「金権政治が当たり前の時代に体を張って、命がけで書いた。日本には、なかなか命懸けのジャーナリストはおらず、そこがえらいと思う」と立花さんをたたえました。田原さんは、立花さんが「田中角栄研究」を発表した当時、テレビのディレクターをしていて、政治にはそれほど関心は無かったと言うことですが、立花さんの発表がきっかけで、世の中が田中角栄のバッシング一色になる中、田原さん自身も田中角栄について調べ、政治家としてのすごさを記した論考を直後に中央公論で発表することになり、そうした経緯からも立花さんとは「近々、田中角栄論を一緒に本で書こう」と話していたということです。そのうえで、立花さんや田原さんが扱ってきた政治の世界について「その頃は、政権の支持率が下がれば党内や野党から俺がやるというムードがあったが、いまはそれが弱まっている。政権を批判するだけでなく、日本をどうするのか、という気概を持った政治家やジャーナリストが出てきてほしい」と話していました。
 立花隆さんと交流があった京都大学の山中伸弥教授は、NHKの取材に対して「立花隆さんとはiPS細胞研究所が開設された11年ほど前に対談させていただきました。立花さんは、iPS細胞の倫理的な課題を見据えつつ、生命の謎を解明する研究を進めることの重要性を理解しておられ、立花さんの言葉にずいぶん励まされました。このたびの訃報に接し、心より哀悼の意を表します」とコメントしています。
 立花さんと30年以上にわたって交流があり、日本人宇宙飛行士として初めてスペースシャトルに搭乗した毛利衛さんは立花さんの著書、「宇宙からの帰還」を読んだことなどがきっかけで宇宙飛行士の募集に応募したということです。毛利さんは「科学技術ではなく宇宙飛行士の個人に焦点を当てた本で、宇宙体験をした人がどのように意識が変わるのかや人類全体、地球生命といった大きな捉え方をしていて、目からうろこが落ちるような思いでした。この本を読んで単なる研究者ではなくてもっと大きなことに挑戦したいと思い、本当に宇宙飛行士になりたいと決心させてくれました」と話しました。宇宙飛行士に選ばれたあと、スペースシャトルに搭乗する前に、立花さんと初めて対談したときの印象については「立花さん自身が本物の宇宙飛行士をインタビューしているので、私がそれに耐えられるかどうか立花さんの目で見ていたのではないかなと思います」と話していました。立花さんも生前、宇宙に行きたいと話していたということで、「『自分病気だからだめなんだよね』と言っていて、立花さんのような人が宇宙に行って地球を見ると私と全く違った発見ができるのでぜひ頑張ってくださいねと冗談のような話を何度もしました」と振り返っていました。そのうえで、「立花さんは作家でありつつ、政治や科学技術のことをよく知っていて、科学技術政策の面でも日本がどのように進むべきか、考えをしっかり持って提言していました。日本の科学技術が危機になりつつあると感じる中で、立花さんの作品をもう一度静かに読み返して、政策を決めていく必要があると思います」と話していました。
 立花さんと同時期にライターとして活躍したノンフィクション作家の柳田邦男さんは「立花さんは世界と人間を理解しようととことん自分なりに探求しようとしていた方でした。まだまだ書きたい課題を抱えていたはずなので、もっと仕事してほしかった。惜しい人を亡くしてしまったなという思いです」と立花さんの死を惜しみました。立花さんが果たした役割について、昭和49年に発表した『田中角栄研究』を例にあげ、「日本のジャーナリズムや報道の在り方に大きな刺激を与え、時代の転換点を作ったと言えるものであり、彼のエネルギッシュな姿に非常に強烈な印象を受けました。徹底的な取材によって資料を収集し、分析を加えるというのが立花さんの仕事の特徴で、その分析のしかたに彼ならではの鋭さがあった。調査報道の新しい在り方をみずから実践した立花さんは『調査分析報道家』と呼ぶべきだと思います」と功績をたたえていました。そのうえで、「今はすべてのことがSNSなどで情報化してしまう時代で、真実が非常に不透明になっている。それだけに立花さんが取り組んだような真実をとことん探求するアプローチのしかたはとても大事で、知的理解の在り方を考え直すいい手本になる。その人が何を考え、どんな生き方をして、どのようなことばを残したかが人間の存在の証しであり、そういう意味では立花隆という男の存在はこれからも生きていくと思います」と話していました。

 著書も「田中角栄研究」等の「角栄もの」多数。「中核vs革マル(上・下)」(1975、講談社)」、「田中角栄研究」(1976)、「日本共産党の研究」(1978、講談社)、「ジャーナリズムを考える旅」(同)、「農協 巨大な挑戦」(1980)、「ロッキード裁判傍聴記」(1981-85)、「宇宙からの帰還」(1983、中央公論社)、「脳死」(1986、中央公論社)、「脳死再論」(1988)、「臨死体験」(1994)、「ぼくはこんな本を読んできた」(1995)、「21世紀 知の挑戦」(2000)、「シベリア鎮魂歌―香月泰男の世界」(2004)、「天皇と東大 大日本帝国の生と死」(2005)、「死はこわくない」(2015)、「武満徹・音楽創造への旅」(2016)、「『戦争』を語る」(同)、「知の旅は終わらない」(2020)。「サル学の現在」、「インターネット探検」、「知のソフトウェアー」、「精神と物質」、「文明の逆説」、「脳を鍛える」、「東大生はバカになったか」、、「思索紀行」、「滅びゆく国家」、「ロッキード裁判傍聴記」、など多数。





(私論.私見)