「角栄の孫娘のプライバシー漏洩にまつわる週刊文春販売差し止め事件」考
(「孫子の代までの謗り当然論」弾劾考)

 (最新見直し2006.6.22日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2004.3月、「角栄の孫娘のプライバシー漏洩にまつわる週刊文春販売差し止め事件」が発生した。当該被害者が週刊文春記事のプライバシー漏洩に対して「週刊文春販売差し止め」を提訴した事件の事を云うが、またぞろマスコミ以下一見左翼風の諸団体諸人士が「検閲反対」なる珍論でむしろ週刊文春に加勢しつつある。れんだいこは、左派戦線のこういう対応を全く貧困と見る。

 れんだいこは、この事件の底流にあるものを見据え、且つ反動的商業マスコミの自在行為に対して徹底糾弾することこそ正統な左派運動であると信ずる。それをよりによって祖父角栄−娘真紀子系譜である以上「孫子の代まで責任追及すべし、あるいは記事化されても当然論」的論調が一部で為されもてはやされようとしている。

 れんだいこが斬って捨てよう。仮に「孫子の代まで責任追及」と云うなら云えば良かろうが、「角栄諸悪の元凶説」こそ間違いでむしろそれが冤罪だったらどうするのだ。お前はどういう責任を取るつもりか、応えてみ給え。その時になって上手に口を拭うつもりか。エエカゲンニセンカイ。

 個人の自律と基本的人権の尊重は近代史の正統系譜である。この権利が制限を受けるのは「該当人物に社会的に影響力があり、為に種々詮索する事に公益性が有る場合に限って」という判例的合意が確立されている。これを踏まえるならば、角栄の孫娘のプライバシーを暴く事にどれだけの「公益性が有る」のか。もし理屈を捏ね回すなら、その同じ論拠でお前の家族及び孫まで私事漏洩してあげようか。さぁ答えてみよ。

 2004.3.19日 れんだいこ拝

 一体、このマスコミ野郎は調子が善すぎやしないか。手前達は表現の自由で人のプライバシー暴いて平気で、その癖その記事にはちゃっかり著作権囲いして平左とは。この論法で行くと、チェックアンドバランスの利かないおとろしい第四権力モンスターが生まれそうな。

 こうなったらマスコミを支配する者は天下を制することができるんと違うかな。本来向かうべきところに向かわず、狙い撃ち対象見つけたら何でもできるつうのなら。こうなったら新句として「マスコミに刃物」つう諺がうまれそうだな。

 2004.3.21日 れんだいこ拝


右と左がさかさまじゃぁあーりませんか れんだいこ 2004/03/18
 2004.318日付毎日新聞社説「週刊文春記事 販売差し止め命令に驚いた」に驚いた。一言しておく。

 社説は「田中真紀子前外相の長女の動静を記した内容からは、のぞき見趣味との印象を受ける。当事者は書いてほしくなかったろうし、心痛も理解できる」としながら、「出版物の販売差し止めは事実上、憲法が禁じる検閲として機能する」として反対している。

 最高裁の判例として86年の北方ジャーナル事件の大法廷判決があり、「新聞、雑誌の販売差し止めは検閲に当たらないとしたものの、差し止めが認められるのは例外で、表現内容が真実でないか、公益を図る目的でないことが明白で、被害者に重大で回復困難な損害を与える恐れがある場合――に限られる、と判示した」と紹介している。

 ここまではまだ良い。これからヌエ論法を聞かされる。このくだりで、この社説の執筆者が誰かおおよそ分かる。それはそれとしてこう云う。「今回の記事は公益性に富むとは言い難いが、当事者周辺には知られていた事実と思われ、重大で回復困難な被害が生じるとは考えにくい」。

 (れんだいこボソボソ)この御仁は無茶を云うなぁ。「公益性に富まなければ極力ネタにしてはいけない。でないと市民は安心できんがね」。

 「北方ジャーナル事件で問われたのが、知事選の立候補予定者を中傷する表現だったことと比べても、状況にはかなりの隔たりがある」。

 (れんだいこボソボソ)何が云いたいのだろう。

 「また、政治家の家族は私人だと言っても、田中前外相ほど影響力の大きな政治家の場合、家族の私生活まで社会の関心事になるのは無理からぬところだ。まったくの私人と同列に論じてよいものか」。

 (れんだいこボソボソ)これも無茶だ。影響力持つあるいは持った政治家なら孫子の代まで記事にされねばならない理屈がどこにあろう。「まったくの私人と同列に論じてよいものか」というが、この御仁は公人・私人の別をどのように識別しているのだろう、聞きたくなった。

 「2世、3世の国会議員が続出している現実も無視できまい」。

 (れんだいこボソボソ)これも何が云いたいのだろう。この一句の挿入で、この執筆者が真面目に書いていないことが分かる。

 この後、プライバシー保全を云々した後次のように述べている。「しかし、言論統制につながる差し止め命令は最後の手段であらねばならない」云々。末尾は「メディアにプライバシー保護の責務があることは言うまでもないが、私たちはゴシップ記事を読む自由もまた守られるべきであることも忘れたくない。文春側も異議を申し立てた。広く論議を起こし、上級審の判断も仰ぎたい」。

 全体として、この御仁にはマスコミが第四権力として猛威を奮っていることに無頓着で、ペン側の法治主義性、自律性を問う姿勢はみじんも無い。つい先日は、養鶏業者夫婦が自殺したが、それは抗議の憤死であった可能性があるというのに。

 社民の福島が出版規制反対などと訳の分からぬことを云っているが、この国の弁護士稼業の過ぎ越しこの方の甘ちゃんぶりが分かる。

 この問題は次のことにあるように思われる。ロッキード事件で冤罪を被せられたまま角栄が死に、その娘真紀子の政治姿勢が高く評価されるべきところ逆宣伝攻勢で失脚させられ、あまつさえこたびはその娘のプライバシーまで追跡されようとしている。メディアのこの姿勢が原理的に問われているのではないのか。れんだいがエエカゲン二セイと一喝しておこう。

 一般論で云ってもおかしい。真紀子の娘はどこからみても単なる市民である。その娘のプライバシーが暴かれて良いわけが無い。暴くべきは、現に公人の「影響力の強い」者のそれであり、それでさえ単に暴くのではなく政治姿勢との関連性で論ぜられるべきだろう。

 まさに暴かねばならぬその人の過去と現在の行状に筆が及ばず、つまりは権力者には尻尾巻き、今となっては痛烈な自己批判必死のロッキード事件に頬かむりしたまま、角栄系譜となるや突貫小僧よろしく今も執拗に追いかけ正義ぶろうとしている醜悪さよ。

 日本左派運動がまっとうなら、出版差し止めには加担しないが、週刊文春を初めとする現代商業系のタカ派論調からする悪宣伝とプライバシー暴露戦術に対し、断固として抗議すべきだろう。商業系タカ派族なら何でも許されるなどということが許されてたまるかよ。

 加えて、この社説執筆御仁のような「末代までたたって当然論」などとは絶対に和合しない。社説を書く立場といえばその社の頭脳だろうに、鎌倉時代辺りまでの旧思想で凝り固まっている頭脳構造が天然記念物的に脅威だ。

 左派の検閲反対はかような愚挙に対してまで応援すべきではなかろう。ミソとクソの区別は第一歩だろうに。何と小泉の方が、己の必要もあってのことだろうがまともな見解示している。おかしいというか滑稽というか、我が政界は馬鹿丸出しだ。

 しかしだな。文春が勝つような事があるとこの世は闇だ。裏権力者グループによるマスコミ利用での政敵無制限公然狙い撃ちが許されることになる。おらは嫌だど。

 2004.3.18日 れんだいこ拝


【事件の経過】
1、【元外相の田中真紀子衆院議員の長女が「週間文春に掲載予定の記事はプライバシー侵害」として仮処分の申し立て
 2003.3.16日、元外相の田中真紀子衆院議員の長女が「週間文春に掲載予定の記事はプライバシー侵害」として仮処分の申し立てをし、17日に発売される3.25日号週刊文春の出版禁止を求めた。長女の代理人の森田貴英弁護士によると、週刊文春3.25日号は、3ページにわたって長女の私生活について記載しているという。「公人の政治家の家族でもプライバシー権がある」として仮処分の申し立てに踏み切った。

【「プライバシー権」について】
 プライバシー権とは、人格権の一つとされ、自己についての情報を他者に開示するかどうかにつき自らが決定する「自己情報コントロール権」と容易に他者に漏洩詮議されない「「自己情報不漏洩権」から成り立つ、要するに「私生活をみだりに公開されない権利」と考えられる。その侵害は不法行為となる。

 名誉権も同様に保護されるが、名誉権が侵害されなくてもプライバシー権侵害は成立し得るし、二つが同時に成立する場合もある。表現の自由権、影響力の強い公人情報公開権とでも云えるような諸権利とも絡んでおり、いかにバランスを図るかが問われている(れんだいこ解説)。

2、【東京地裁が 週刊文春に「田中元外相の長女記事で販売差し止め命令」】

 2004.3.16日、東京地裁(鬼澤友直裁判官)は申し立てのあった発売前日の16日、「切除または抹消しなければ、これを販売したり無償配布したり、第三者に引き渡してはならない」との決定を為し、発行元の文芸春秋(東京都千代田区)に販売事前差し止めを命じた。プライバシー侵害を理由に、小説や単行本などの出版差し止めを命じる判決や仮処分決定は相次いでいるが、週刊誌に対しては極めて異例。これに対し、文芸春秋側は地裁に異議を申し立てる方針。出版されれば、長女側は損害賠償を請求するとみられる。

 文芸春秋によると、16日夜に決定文を受け取った同社は、今週号約77万部のうち約70万部は既に取次店に販売しており、残りの7(3との報道も為されている)万部の出荷を止めたという。文春側は、概要「すでに大半を販売済みで、仮処分に実効性がない。3万部という部数はそれ自体軽視できない量だ」と述べ、「すでに流通ルートに乗った74万部について、決定は『すでに販売済みと認められ、これが流通していくことは差し止めの対象外』と判断。対象は3万部と明示した」ともある。

 文芸春秋の浦谷隆平・社長室長の話「人権には十分な配慮をしたが、訴えには誠意をもって話し合いを続けたい。しかし、言論の制約を意味する今回の仮処分決定は、わずか一人の裁判官が短時間のうちに行ったもので、暴挙という他なく、とうてい承服できない」。


販売や出版の差し止めを廻る判例について

 販売や出版の差し止めをめぐっては、最高裁大法廷が86.6月、北海道知事選の立候補予定者が月刊誌「北方ジャーナル」の中傷記事の事前差し止めを求めた「北方ジャーナル訴訟」最高裁判決で、「表現内容が真実でなく、被害者が著しく回復困難な損害をこうむる恐れがある時、例外的に認められる」との初判断で、記事について名誉棄損の成立を認め、販売禁止を命じた仮処分決定を支持した。

 同訴訟では、公職候補者の名誉権が問題だったと指摘。名誉権とプライバシー権を比べて「名誉権は金銭賠償や謝罪で回復を図ることができるが、プライバシーはいったん広く知られると回復は困難で、名誉の場合よりも事前差し止めの必要が高い」と踏み込んだ一般判断を示した。そのうえで、プライバシー権に基づく差し止めの基準は、(1)・公共の利害に関する事項か、(2)・公益目的かどうか、(3)・重大で回復困難な損害が発生するかどうか――だと判示した。

 同年9月には、清掃会社を脅して現金を受け取ったという記事を東京都内の地域新聞に掲載された東京都葛飾区の区議が、地域新聞の発行責任者を相手取り新聞発行の差し止めを求めた仮処分を申請し、東京地裁に認められている。

 92.11月には三重県の鈴鹿市長が怪文書に基づく新聞記事の事前差し止めの仮処分を申請し津地裁に認められた。


  小説では最高裁が02.9月、芥川賞作家の柳美里さんのデビュー小説「石に泳ぐ魚」のモデルになった女性の主張を認め、「出版されれば、重大で回復困難な損害を被る恐れがある」と判断し、柳さんと発行元の新潮社などに出版差し止めなどを命じた2審判決が確定した。このほか、サッカーの中田英寿選手が「勝手に半生記を出版された」として出版社と争った訴訟でも、東京地裁が00年、発行差し止めと385万円の支払いを命じており、芸能人に関連した出版物に対しても、同様の仮処分決定や判決が出されている(3.17日付け毎日新聞記事他参照)。


3、【文芸春秋社の対応
 2004.3.17日、文芸春秋社は、全国の主要な大手書店やコンビニに対して「差し止め命令は文芸春秋に対するものであり、店での販売を妨げるものではない」などとする内容のファクスを送った。

週刊文春に対する販売差し止め仮処分に賛否両論
 田中真紀子元外相の長女の記事を掲載した週刊文春問題は、言論・出版の自由と「プライバシーの侵害」をめぐる係争に発展した。東京地裁は3.16日、販売差し止めの仮処分を決定したが、全国的な雑誌を対象にしたこうした決定は異例であり、専門家の見解も賛否両論し波紋が広がりつつある。

 3.17日付け毎日新聞記事は識者の次のような見解を紹介している。中央大の堀部政男教授(情報法)は、「北方ジャーナルに対して差し止めの仮処分命令の正当性を最高裁が容認した判例以来、地裁レベルでは数件の命令が出ていると思う。今回の記事を裁判所がどう判断したのかは不明だが、真紀子氏は公人でも娘は私人であり、プライバシー権が出版の権利より優先すると判断したのかもしれない」という。「しかし、こうした出版の差し止めは、極めて限定された条件で認められるべきだ。直前に販売を禁じられた文芸春秋側の損害も無視できない。結論を急ぐ仮処分の申し立てでは、被害事実を必ずしも厳密に証明することが要求されないから、結果として拙速な命令が出る恐れもある。文芸春秋側がおとなしく従うとは考えにくく、今回の命令が妥当だったかどうかが広く議論される必要がある」と語った。

 上智大の田島泰彦教授(メディア法)は、「裁判所は、田中真紀子議員の長女が純粋な私人で、プライバシー性の高い内容と判断して差し止めを認めたのだろう」と推測する。一方、「最高裁はプライバシーの侵害だけを理由とする差し止めはまだ認めていない。検閲につながりかねない問題であり、重大な要件を課さない限り、差し止めは認めるべきではなく、今回のケースも詳細な検証が必要だ」と問題点を指摘した、とある。

 立教大社会学部の服部孝章教授(メディア法)は、「東京地裁がどういう理由で差し止めを認めたのか分からないが、記事の内容がプライバシーの侵害であることは間違いなく、出版後に裁判で争っても、文春側は負けると思う」と指摘する。その一方で「ただ、これで差し止めを認めるのは疑問が残る。原告側にとっても、今週号は流通ルートに乗っているうえ、大手出版社の週刊誌の差し止めとして話題になることで、訴えの利益はあまりないのではないか」という。


販売差し止め命令を受け、キヨスクなどで週刊文春撤去される

 2004.3.17日付け毎日新聞その他情報。田中真紀子前外相の長女の記事を掲載した週刊文春に対し、東京地裁が販売などの差し止めを命じた問題で、JRや大手私鉄、地下鉄の売店は17日、既に店頭に並べていた雑誌を撤去する措置を取った。逆に書店やコンビニエンスストアでは販売を続けるなど対応は分かれた。

 JRの各駅で売店を経営する東日本キヨスクによると、17日午前8時半からエリア内にある約1300店舗(直営コンビニのニューデイズを含む)から雑誌の撤去を始めた。取り扱い部数は約6万4000部。総務課広報は「裁判所の決定を尊重し、総合的に判断した」と話している。東海キヨスクでも午前8時に同様の決定をし、同20分に店舗へ指示した。ジェイアール西日本デイリーサービスネット(旧西日本キヨスク)も同50分、撤去を始めた。

 JR新宿駅のキヨスクでは同9時すぎ、本社の決定に基づいて、販売を中止。店頭の「本日発売」の棚を別の週刊誌に置き換えた。各店に指示をして回っていた女性社員は「普段の2倍ぐらいの売れ行きだったのですが……」と話した。

 西武鉄道(本社・埼玉県所沢市)は同10時45分から、92駅76カ所の売店で撤去を始めた。広報課は「仮処分決定を受けて、総合的に判断した」と話した。小田急電鉄(同・東京都新宿区)も同9時45分、69駅にある130カ所の売店に対し同誌の撤去を指示した。

 東京都の地下鉄を運営する帝都高速度交通営団も同9時すぎ、全210カ所の売店「メトロス」での同誌の撤去を始めた。営団ではこの日、始発時間から通常通り1万6000部を売店に並べ、撤去開始時には7割が売れていたという。

 一方、文芸春秋からの連絡を受けた紀伊国屋書店(同・東京都)は開店から通常通り、販売した。入荷冊数は全国59店舗で千数百冊で、「特に大きな混乱などは聞いていない」という。三省堂書店神田本店(同)でも「回収の指示が出ていない」と1階の雑誌売り場で通常通り販売を始めた。コンビニ大手のセブン―イレブン・ジャパンも販売を継続。エーエム・ピーエム・ジャパンやファミリーマートも、現時点では通常通り販売している。ローソンは「店頭に並べているが今後どうするかは検討中」としている。一方、最新号の雑誌を閲覧用に購入している東京都立の3図書館は、対応を協議している。


記事を読んだ人たちの反応

 2004.3.17日付け毎日新聞その他情報。記事を読んだ人たちの反応はさまざまだ。東京都千代田区のJR東京駅構内にいた北海道喜茂別町の公務員、安部裕史さん(30)は「田中さん側が文芸春秋に抗議するのは分かるが、販売差し止めはやりすぎだ。都合が悪い記事で、差し止めを悪用するケースも出ると思う。表現や出版の自由も考えないと」と話した。

 また、観光のために「はとバス」乗り場近くにいた川崎市の会社役員、秋葉茂治さん(66)は「田中さんの娘は私人。興味本位で書きたてるのは行き過ぎだ。個人の話を何でも書かれたら、たまったものではない。田中さんの主張や差し止めは理解できる」と語った。


政府要人の見解

 福田康夫官房長官は17日午前の記者会見で、東京地裁が週刊文春の販売差し止めを命じたことについて「私人間の裁判の問題だから、私どもの方から何か言うのは越権行為になる」と論評を避けながらも、政治家の家族のプライバシーをどう扱うかについては「常識的に考えれば、家族と言っても独立した社会人なら、分けなければいけないと思う」と述べ、政治家本人とは区別すべきだとの考えを示した。


4、【文芸春秋が異議申し立て
 2004.3.17日付け毎日新聞、 週刊文春発行元の:文芸春秋が異議申し立て。前外相の田中真紀子衆院議員の長女を巡る週刊文春の記事で、販売などの差し止めを命じる仮処分決定を受けた文芸春秋はこの日、決定を不服として東京地裁に保全異議を申し立てた。文芸春秋側は同地裁決定について、「言論の自由に対する暴挙」と主張している。異議申し立ては民事保全法26条に基づくもので、同地裁が異議を認めるか、却下するかを判断する。同地裁によると、決定を出した裁判官と同じ裁判官が審理することも可能だという。

 同法によると、異議申し立てを却下された場合、文芸春秋側は却下を告知された翌日から2週間以内なら、東京高裁に保全抗告できる。さらに抗告も却下された場合、告知の翌日から5日以内に最高裁に特別抗告などをすることができる。【小林直】

◇法文解説「保全異議の申し立てと保全抗告」

 販売などを差し止めた東京地裁の仮処分決定は、民事保全法に基づく民事保全命令だった。同法26条は「命令を発した裁判所に保全異議を申し立てることができる」と規定しており、文芸春秋側は保全異議を申し立てた。申し立てを受けた裁判所は、口頭弁論または審尋を経て、異議を認めて命令を取り消したり、変更したり、異議を却下したりする決定を出す(同法32条)。19日の東京地裁決定はこれに基づくもの。地裁決定に不服なら、決定送達の翌日から2週間以内に高裁に保全抗告でき(同法41条)、高裁決定に憲法違反や判例違反などがある場合、送達の翌日から5日以内に最高裁に特別抗告や許可抗告(民事訴訟法336、337条)ができる。


5、【長女ら側はこの日、同地裁に「間接強制」を申し立て

 2004.3.17日、出版禁止を求めている前外相、田中真紀子衆院議員の長女ら側はこの日、全約77万部のうち出荷済みの約74万部が取次店に販売され、販売するかどうかは各社の判断に委ねられており、出版元の文芸春秋が引き続き販売姿勢を続けているのは命令違反に当たるとして同地裁に「間接強制」を申し立てた。間接強制は仮処分の効力を維持するための手続きで、「差し止めに従わない場合、1日当たり3383万円の制裁金を毎日支払え」との請求内容だという。制裁金の1日当たりの額は、定価320円で74万部販売した時に得られる2億3680万円を7日間で日割りして算出した、という。

 文春側の代理人は、決定は送達を受けた時点で効力が発生し、送達を受けた後は、直接販売したり、第三者に引き渡したりしていないと主張。「送達前に流通した74万部はすでに取次店などに販売したもので、こちらが関与できない」と反論している。


6、【文芸春秋の保全異議、審尋終わる 地裁決定は19日
 2004.3.18日付け毎日新聞その他による。 週刊文春の販売差し止めなどを命じた仮処分決定に、発行元の文芸春秋(東京都千代田区)が申し立てた保全異議を審理している東京地裁は18日、当事者から意見を聞く2回目の審尋を開いた。審尋は午後5時40分ごろから約35分間、非公開で行われた。仮処分決定を出した鬼澤友直裁判官を含まない3人の裁判官が担当し、2日間にわたる審尋や記事の内容を踏まえ、(1)、記事に公益性があるか。(2)、記事の内容が、長女のプライバシー権を侵害するか。(3)、侵害の程度が損害賠償など事後的な法的措置では回復できないほど著しいかなどを中心に検討を重ね、仮処分決定が妥当かどうか合議して結論を出す。

 これで審理は終結し、同地裁は19日午後、異議を認めて仮処分決定を取り消すか、異議を却下するか決定する(「文芸春秋の保全異議、審尋終わり、地裁決定は19日となることが決定した」)。


 却下の場合、文芸春秋側は東京高裁に保全抗告する方針。文芸春秋によると、この日の審尋で長女ら側は約74万部が出荷・販売された点を「決定に従わなかった」と訴え、文芸春秋側は「決定文を受け取った後は、出荷、販売していない」と反論した。この問題について田中前外相は18日、国会内で「今日は何もお答え出来ません」とだけ述べ、報道陣の質問には答えなかった。

7、【東京地裁が週刊文春の販売差し止め支持
 2004.3.19日付け毎日新聞その他による。前外相、田中真紀子衆院議員の長女らの私生活を取り上げた週刊文春への販売差し止めなどを命じた仮処分決定に対し、東京地裁(大橋寛明裁判長)は19日、発行元の文芸春秋への差し止め命令を支持する決定を出した。大橋寛明裁判長は「決定(差し止め命令)を認可する」と述べた。文芸春秋側は決定を不服として、東京高裁に保全抗告する。

 また、長女側が文芸春秋側に1日当たり3383万円の制裁金を支払うよう申し立てた「間接強制」について、東京地裁の金子直史裁判官は、20日以降も記事を掲載したまま同社が販売、無償頒布、第三者への引き渡しをしたときは、長女らに1日274万円を支払うよう同社に命じる決定をした。

文春側の異議に対する東京地裁決定の主な内容
 
前外相、田中真紀子衆院議員の長女らの私生活を取り上げた「週刊文春」の販売差し止めなどを命じた仮処分決定に対し、東京地裁(大橋寛明裁判長)は19日、発行元の文芸春秋が申し立てた保全異議を却下し、差し止め命令を支持する決定を出した。

 決定をれんだいこなりに要点整理すれば次のようになっている。問題となったのは、17日発売の週刊文春(3月25日号)が3ページにわたって掲載した長女ら側の私生活に関する記事であるが、この問題で出版禁止を求めた長女ら側の申し立てを受けた東京地裁の鬼澤友直裁判官は16日、「切除または抹消しなければ、販売や無償配布したり、第三者に引き渡してはならない」と、出版物の事前差し止めを認める異例の決定を出しており、基本的にこの時の判断を継承したことになる。

 概要「長女は公務員でも選挙候補者でもなく、それに準じた立場にもない。長女は純然たる私人として生活している。著名な政治家の家系に生まれても、政治と無縁の一生を終わる者もおり、長女の私事は公共の利害に関する事項ではない。従って、記事は『公共の利害に関する事項』を扱っているとは云えず、『公益を図る目的』も乏しい。つまり、記事には公益性がなく、公表により著しい損害を被る恐れがあると判断し得る。報道内容は純然たる私事に属することであって、他人に知られたくないと感じることがもっともであり、保護に値する」と認定した。

 その上で、出版による長女の不利益と、差し止めで生じる文芸春秋の不利益を比較し、「表現(記事)の価値はプライバシーの価値より低い」と長女ら側の主張をほぼ認めた。損害の回復困難性についても判断し、文春の記事内容は「他人に知られたくないと感じることがもっともで、保護に値する情報だ」と指摘したうえで、「スクープ」などと銘打って純然たる私人の私的事項について好奇心をあおっていることも重視し、「長女が重大な精神的衝撃を受ける恐れがある」と結論づけた。

 「小説に比べ販売期間が短い週刊誌の特性も踏まえると、差し止め以外救済方法がない」との見解も示し、「表現の自由は民主主義国家の基礎と言うべき重要な権利だが、無制限に保障されるものではなく、差し止めを命じた仮処分決定は相当だ」、「長女の私事が公共の利害に関する事でないことは明らか。プライバシーは、他人に広く知られるという形で侵害されてしまった後では回復困難だ」として出版差し止めの妥当性を認めた

 16日夜に事前差し止めを認める東京地裁の決定文を受け取った文芸春秋側は、約77万部のうち約3万部の出荷を取りやめた。出荷済みの約74万部について、今回の決定は「(取次店に渡った段階で)販売行為は完了しており、差し止めの対象外」と事実上違法性を否定した。

 一方、長女らは「差し止めに違反した場合、1日当たり6766万円の制裁金を支払え」とも求めた。仮処分決定の効果を維持するための「間接強制」と呼ばれる手続きで、別の決定で金子直史裁判官は19日、命令に反した場合、同社に1日につき274万円を支払うよう命じた。同社は当初から「残りの約3万部は出荷しない」と表明しており、この決定の影響は少ないとみられる。

 決定法論理の概要は次の通り。

【本件における差し止めの可否】
 

 本件においては債権者(長女側)らは公務員ないし公職選挙の候補者ではなく、過去においてその立場にあったものでもなく、これに準ずる立場にある者というべき理由もないから、債権者らの私事に関する事柄が「公共の利害に関する事項」に当たるとはいえない。

 債務者(文春側)は、債権者が2代にわたる著名な政治家の家庭の娘であることをもって、債権者らは常に政治家となる可能性を秘めているという。しかしながら著名な政治家の家系に生まれた者であっても政治とは無縁の一生を終わる者も少なくないのであり、そのような者の私事が公共の利害に関する事項でないことは明らかである。

 たとえ多数の人々の関心事であるということができても、そのような具体的根拠のない抽象的一般的な理由をもって、「公共の利害に関する事項」であるということは、法的にはできない。

 このことは、たとえ将来において債務者の予測するように債権者らが政治家の道を選択することがあるとしても、現在における債権者らの立場を上記のようにみるべきことに影響するものではない。そして、他に、本件記事の内容が私人の私的事項に関することであっても特別に公共の利害に関する事項に当たるというべき根拠は見いだしがたい。

 前記のとおり、債権者らが私人にすぎないことからすると、本件記事を「専ら公益を図る目的のもの」とみることはできない。この点の判断は、債務者の主観のみをもって行うのではなく、本件記事を客観的に評価して行うべきである。そして、本件記事を熟読しても、私人の私事に関する事項であっても特別に専ら公益を図る目的で書かれたものであると認めることはできない。

 債権者らが被る損害が、プライバシーは公表されることにより回復不能になる性質を有するので、著しく回復困難な性質のものであることは、既に述べたとおりである。そこで、本件においてはその損害が重大であるかどうかが問題となる。

 a 他人に知られたくないということに関しては個人差が大きく、出版物の販売等の事前差し止めが表現の自由の制約を伴うことにかんがみれば、単に当事者が他人に知られたくないと感じているというだけでは足りず、問題となる私的事項が、一般人を基準にして、客観的に他人に知られたくないと感じることがもっともであるような保護に値する情報である必要がある。

 そして、出版物の頒布等の事前差し止めを認めるためには、その私的事項の暴露によるプライバシーの侵害が重大であって、表現行為の価値が劣後することが明らかでなければならない。

 b この点、純然たる私事に属することであって、一般に他人に知られたくないと感じることがもっともであり、保護に値する情報であるというべきである。

 私生活に関する事実をいつ、どのような形で知らせるのかも含めて本人の決定すべき事柄である上、既に一部の人に知られている情報であっても、他の人に広く知られたくない情報であれば、なおプライバシーとして保護に値する。

 本件記事自体が一般には知られていない秘事の暴露であることを自認している。

 c もっとも、本件記事は私生活に触れるところはあるものの、事実と経過を報じる内容にとどまり、具体的に踏み込んだものではない。そして、事実等の中には、これを公表されるとそのことから直ちに重大な損害を受けることも多いと思われるが、私生活の事実やその経過の公表が、常に重大な損害を生じ、これを公表する表現行為の価値より優越することが明らかであるとまでいうのは、困難である。

 しかし、本件記事は、公務員でも公職選挙の候補者でもなく、過去にこれらの立場であったこともなければ、政治家の親族であることを前提とした活動もしておらず、純然たる私人として生活してきた債権者らの私的事項について、毎週数十万部が発行されている著名な全国誌を媒体として暴露するものである。しかも、ことさらに債権者らの私生活自体を主題とし、読者の好奇心をあおる態様で掲載されている。

 これらのことからすれば、全くの私人の立場に立って考えれば、上記のような態様により私的事項を広く公衆に暴露されることにより、債権者らが重大な精神的衝撃を受けるおそれがある。

 以上によれば、本件記事は、(1)「公共の利害に関する事項」に係るものとはいえず、かつ、(2)「専ら公益を図る目的のものでないこと」が明白であり、かつ、(3)債権者らが「重大にして著しく回復困難な損害を被るおそれがある」から、いずれの観点からしても、事前差し止めの要件は充足されている。

 侵害行為によって被る債権者の不利益と差し止めによって債務者が被る不利益性(経済的不利益は、重視すべきでない)とを比較衡量すれば、「表現行為の価値が被害者のプライバシーに劣後することが明らかである」ということができる。

【保全の必要性】

 原決定の法律上の効力としては、取次業者や小売店などの占有下にある本件雑誌が一般購読者に販売されることを直接に阻止しているわけではないというべきである。

 このように本件雑誌の大部分が原決定の送達前に販売差し止めの対象範囲から流出し、債権者らの損害が拡大することとなった事情は、債権者らの申し立てが遅きに失したために生じたものであるということはできないが、債務者側において意図的に仮処分の手続きを遅延させたことが明らかであるわけでもなく、前記のとおりの結論はやむを得ないものというほかない。

【結論】

 以上によれば、本件仮処分命令の申し立ては、被保全権利と保全の必要性の疎明に欠けるところはない。仮処分により差し止められたのは、本件記事が含まれた雑誌の販売であり、本件記事以外の部分は、本件記事を削除するならば、販売を何ら妨げられていない。

 そのためには、債務者において相当の費用をかけて削除ないし本件記事を含まない雑誌の印刷を行う必要があるが、それは経済的損失に過ぎず、債務者のその他の記事の表現の自由自体を制限するものではない。多くの発行部数を有する雑誌では、その経済的損失も軽視し得ないが、プライバシーの侵害行為が伴っていた場合にこれを被ることは、多くの部数を販売することにより経済的利益を得ていることの半面として甘受すべき結果と言わざるを得ない。

【解説】

 週刊文春の販売などを差し止める仮処分を支持した19日の東京地裁決定は、表現の自由よりプライバシー権を重視して、文芸春秋側の主張を退けた。出版物の事前差し止めを例外的措置と位置づけた「北方ジャーナル事件」の最高裁判決(86年6月)も踏まえたうえでの判断で、週刊誌の記事としては特異とは言えない今回のケースでも、2度にわたって差し止めを「相当」と判断されたことは、雑誌報道の形態にも影響を与えかねず、業界に衝撃を与えそうだ。

 名誉棄損訴訟の判決では、従来、数十万〜数百万円だった賠償額が1000万円以上に引き上げられるケースも出始めている。特に週刊誌が敗訴するケースが多く、ベテラン裁判官は「本来は自助努力で是正してもらいたいが、編集方針に変化を感じない以上、ある程度『痛い』と感じる賠償を命じるしかない」と厳しい目を向ける。

 差し止め命令は、こうした流れの中で出された。ただ、損害賠償などの事後的な措置とは異なる事前差し止めだったため、「最高裁の基準に合致しているだろうか」と懸念を表明する裁判官もいた。しかし決定は「名誉なら侵害されても賠償で回復を図れるが、プライバシーは侵害されると回復困難」と述べ、名誉棄損が争われた北方ジャーナル判決と比べ、田中真紀子前外相の長女のプライバシーが問題となった今回のケースを「一層、差し止めの必要性が高い」と判断した。表現の自由を大きく制約する決定であることは間違いなく、異論も予想される。

 今回の仮処分決定を巡っては、単独審理だったことや、決定文に理由が付されていなかったことにも批判が集まった。異議申し立て後の審理では、複数の裁判官による合議に切り替え、決定文に異例とも言える20ページの理由を記載した。結論が与える影響を考慮した措置とみられ、一定の評価はできるが、当初から万全の態勢を取り、説明責任を果たすべきではなかったのか、という疑問は残る。【小林直】

(私論.私見)東京地裁(大橋寛明裁判長)決定の法理論考
 (後日記す)


6、【それぞれのコメント
 田中前外相の長女の話。弁護士を通じて「仮処分決定が認められたことをうれしく思います。私自身、言論の自由は非常に大切で守られるべきだと考えていますが、今回の場合はそういったものから大きくかけ離れたところであまりに悪質で意図的なプライバシー侵害がありました。仮処分決定後も文芸春秋が販売を停止しなかったことで、本来意図していたこととは全く逆の事態になってしまい、精神的苦痛を感じています。、最終手段として不本意ながら法的手段を取りました」との声明が為された。長女側の代理人の弁護士は19日の決定後、「文芸春秋には、完全回収、交通機関内の中づり広告の撤収を求める」とするコメントを発表した。

 文芸春秋の話。「事前販売差し止めは掲載記事すべてにかかわる表現の自由の圧殺にほかならない。決定は「プライバシーの侵害」という言葉をひとり歩きさせ、雑誌ジャーナリズムへの評価を不当におとしめた。これは異常事態だ」、「仮処分決定が事前の販売差し止めを例外中の例外とした最高裁の判例に明らかに反することを再三主張してきたが、またしても一方的な判断が下されたことに怒りを禁じえない。今回の決定が前例として定着し、事実上の検閲の常態化に道を開き、国民の知る権利を奪う結果に至ることを憂慮する」との声明が為された。


7、【文芸春秋が東京高裁に抗告 販売差し止め問題
 2004.3.20日、文芸春秋(東京都千代田区)は、田中真紀子前外相の長女の私生活を取り上げた「週刊文春」の販売などを差し止めた仮処分を支持した東京地裁決定(19日)を不服として、東京高裁に保全抗告した(「販売差し止め問題で文芸春秋が東京高裁に抗告」)。同社は「当該記事だけでなく、すべての記事にかかわる表現の自由の圧殺。知る権利を奪う結果に至ることを憂慮し、高裁の判断を仰ぐ」と主張している。

 保全抗告は民事保全法41条に基づくもの。東京高裁は複数の裁判官による合議で審理し、地裁決定の適否を判断する。さらに高裁決定に憲法違反や判例違反などがある場合、当事者は決定文送達の翌日から5日以内に最高裁に特別抗告などができる。


8、【週間文春が「検閲事件」として特集組む
 週刊文春は3.25日発売の4.1日号で、続報として「現場検証 田中真紀子長女記事 小誌はなぜ報じたか」なる三十数ページに及ぶ大型の検証特集を掲載した。同誌は、記者約10人の専属チームを編成、木俣正剛編集長の見解のほか、問題の経過を時系列に検証した記事を掲載。さらに、て各方面の識者多数の寄稿を載せた。「文芸春秋は今後も全面的に争う方針で、仮に東京高裁での保全抗告が認められなくても、最高裁に特別抗告する可能性が高い」とある。

 中でも目を引くのが立花隆の緊急投稿「これはテロ行為である」(この種としては異例の4ページもの)。他にも、「『出版禁止事件』 私はこう考える」というタイトルで、井上ひさし、櫻井よしこ筑紫哲也、伊藤洋一、堀部政男、須藤義雄、室井佑月、佐野眞一、田島泰彦、筒井康隆、藤本義一、やくみつる、関川夏央、熊代昭彦、上杉隆、B・フルフォード、飯室勝彦、R・ボイントン、梨元勝土本武司、柳田邦男、H・シュミット、吉永みち子、江川昭子、田中康夫、河上和雄、高村薫、五十嵐二葉、田中辰巳、鳩山太郎、阿刀田高、永田寿康、二瓶和敏、いしかわじゅんらのコメントを掲載した。

週間文春編集部の「検閲事件見解」
 例によって著作権棒を振り回すのかどうか分からないが、「現場検証 田中真紀子長女記事 小誌はなぜ報じたか」記事を全文転載し、道中でれんだいこのコメントを付けておく。
 小誌三月二十五日号の出版禁止の仮処分決定を受けて、その是非を問う議論が巻き起こっている。小誌はなぜ田中真紀子氏長女の私生活に関する記事を掲載したのか。取材の経緯から、最終的に掲載を決断した理由、さらに長女側とのやりとりまで、改めて検証したい。

 まず、今回の記事を掲載した背景には、長い「前段」があることに触れておきたい。小誌はこれまでも政治家・田中真紀子氏の資質を問う多くの記事を掲載してきた。中でも二〇〇二年四月から報じ始めた「秘書給与詐取疑惑」は、東京地検特捜部に告発される事態に発展。真紀子氏はこの疑惑について十分な説明責任を果たすことができず、八月には議員辞職した。そして、真紀子氏が表舞台から遠ざかっていた昨年一月末、小誌は、真紀子氏の長女の結婚についての記事「真紀子長女が母の猛反対を押し切り結婚 スクープどうなる後継問題?」(二〇〇三年二月六日号)を掲載した。今回の長女の私生活に関する記事のもとになったものである。

(私論.私見)「週刊文春の執拗な角栄系譜追及姿勢の自己語り」について

 要するに、週刊文春は執拗に角栄を追及し、娘真紀子を同様に追い詰め、こたびは娘にまで言及したことにつき自己語りしているに過ぎない。

 長女の結婚に関する記事を掲載した理由は、二つある。一つは、本人同士の結婚の意思が固いにもかかわらず、取材過程で真紀子氏が結婚に猛反対していたという情報を得たことである。その事実は、初当選以降「主婦感覚」を標榜し、家族との仲の良さをアピールしてきた真紀子氏の表向きの言動とはあまりにもかけ離れたものであり、改めて、その資質に首を傾げざるを得ないものだと考えた。

 一般論として、有権者は政治家の政治活動のみで判断して投票行動を起こすわけではない。その政治家の私的な部分も含め、全人格を見極めた上で投票行動を起こすものである。それゆえに、多くのマスコミは著名な政治家の過去や家族との関係などを取材し、その人物の全人格を掴み、読者に情報を提供しようとする。
(私論.私見)「週刊文春の政治家の資質を問う姿勢−政治家に対する情報ストリップ当然論」について

 週刊文春が傲然と言い放つ「政治家に対する情報ストリップ当然論」こそストリップされねばならないだろうに。人は誰しも、本業において審査されねばならない。その関連性において人の「全人格」が問われるべきであろうに。週刊文春はこの点で観点が全く逆立ちしている。「一般論として、有権者は政治家の政治活動のみで判断して投票行動を起こすわけではない」などと述べることで、有権者が本業との関連性無きゴシップまでひたすら望んでいるかの如く描き出し、「多くのマスコミは著名な政治家の過去や家族との関係などを取材し、その人物の全人格を掴み、読者に情報を提供しようとする」などとマスコミ取材活動の放縦性を正当化しようとしている。「下半身の行状暴露にも一定の見識が要る」という観点は微塵も無いが、そんな割の合わないことなら政治家稼業を引き受ける者はまともな者になるほど居なくなるだろうに。それでいて手前達の行状暴露はご免なさいて云う訳か、素晴らしい屁理屈だわい。
 もう一つの理由は、長女の結婚という事実は、田中家の後継者問題に関係するものだからだ。前年に真紀子氏が議員辞職した際、後継者候補として真紀子氏の長男の名前が挙がった。このときは、多くの新聞やテレビが長男の実名を記して、後継者候補の有力な一人だと報じた。だが、長男は報道の直後に「将来を通じて自分に政治家になる意思はない」というコメントを発表した。真紀子氏には長男、長女、次女の三人の子供がいるが、彼らとその配偶者は有力な後継者候補になり得る。これは、現在の本人の意思とは関係ない。

 真紀子氏が日本鋼管のサラリーマンだった直紀氏と結婚したのは一九六九年のことだが、結婚直後に、当時自民党幹事長だった田中角栄氏はこう話している。「娘は政治家(と結婚するの)はゼッタイにイヤだといっていたし、わたしもまた、政治家だけはやめようと考えていた。(中略)娘のムコを将来、政治家にするなどという考えは、まったくありませんな」(「週刊文春」六九年五月十九日号)。

 しかし、直紀氏は、それから十四年後の八三年に国会議員になった。また、脳梗塞で倒れた角栄氏は八九年に引退表明を行ったが、その直後、真紀子氏は次のような文章を書いている。「これまでの生涯を通じて、私自身が議員になり度いというような考えは、かりそめにも抱いたことは無く、今もその気持に変わりはありません。そして、これからも自分の気持に忠実でありたいと思っております」。真紀子氏はその四年後の九三年に代議士となった。
(私論.私見)「政治家の後継者可能性問題では、現在の本人の意思とは関係ないなる観点」について

 政治家の子孫が後継者になるに当たって、「現在の本人の意思とは関係ない」はそれはそうだろう。しかしながら、予見可能性で取材域を延ばしていくならばそれは際限が無かろう。しかしこの理屈は、当局の予防拘禁法に似ており、マスコミ版予防取材権のようなものであろう。えらい都合のよい理論に立脚している事が分かる。れんだいこに云わせれば、内部情報蓄積とその外部化には一定の対応の差があるべきであろうに。
 こうした事実から、小誌は、現在の長女やその配偶者の意思とは関係なく、彼らが将来、田中家の後継候補となる可能性があると考えた。また、長女の結婚については、小誌以外にも当時、複数の週刊誌や新聞も長女の実名で報じている。そして今回、小誌は、そのときの記事の「続報」とも言うべき長女の私生活に関する記事を掲載し、出版禁止の命令を受けた。

 真紀子氏の長女は、十九日に発表したコメントの中でこう書いている。「今回の場合は私たち個人に対してあまりに悪質で意図的なプライバシー侵害がありました。今回の取材は明らかにプライバシーを侵害しているので取材や雑誌への掲載を中止するよう申し入れてきた」。
(私論.私見)「こたびの出版禁止命令に対する週刊文春の居直り」について

 マスコミの正義の取材論理が万能という訳では無かろう。当然被取材側にも抵抗権がある。そのせめぎあいの中で、「出版禁止命令(販売差止め命令のようにも思うが)」が出された。その節は、内省も又要るのではないのか。それでも「正義は我に有り」とするなら闘えばよかろう。しかし内省無き闘いが為しえるとはよほど目出度い奴か、背後に教唆グループがある場合のどちらかであろう。
 長女が主張するように、小誌の取材に「悪質で意図的なプライバシー侵害」はあったのか。小誌記者は三月に入って、長女の私生活におけるある出来事を知り、三月十一日に取材チームを作った。この時点で、その出来事が事実かどうかはわからなかった。また、この出来事の詳細が、長女のみならず、その出来事のもう一方の当事者であるA氏の「プライバシー」に関わる問題であるということも認識していた。

 それゆえに、小誌はまず当事者であるA氏本人に、それが事実であるかどうかを確認するべきだと考えた。三月十三日、小誌記者がA氏の自宅を訪れた。受付からの内線電話で週刊文春の記者であることを名乗ると、A氏は「お断りします」と言って、記者が取材趣旨を伝える間もなく、電話は切られてしまった。その直後、記者はA氏の自宅に電話をかけるが、留守番電話になっていたので、取材趣旨を吹き込み、再び自宅を訪れた。だが、受付を通して記者と会いたくないというA氏の意向を告げられた。

 これ以前に、記者はこの出来事について第三者に告げる取材はしていない。また、真紀子氏の長女についてはその所在がわからず、本人に直接取材を申し込む術を持っていなかった。
(私論.私見)「週間文春の取材チームの姿勢と能力」について

 どうぞその熱意で小泉はんを取材してくれ。彼は時の首相であり最も公人性と社会的影響力大の御仁であり、「表現の自由権」がそのまま適用されそうである。学歴履歴疑惑、婦女暴行疑惑、家庭内暴力疑惑、利権疑惑等々何でも有りの醜態が未だに闇に隠されている。目下の司法の法理に照らせば、小泉を洗うのに何の躊躇も要らない、ぜひやってくれ。
 「公人」と「私人」とのグレーゾーン

 当事者に話を聞くことができないために、記者はこの出来事を知っていると思われる、長女とA氏に近い人に限って取材を試みることにした。例えば、なにかの名簿をもとに、無差別に取材をするということは行っていない。通常の取材活動と比べると、取材範囲を極力狭めている。言うまでもなく、二人のプライバシーに配慮したからである。そして、A氏に接触した同じ日のうちに、A氏の両親に別の記者が取材を行った。両親への取材で、記者はその出来事が事実であることを確認したが、その詳細についてははっきりとしたことはわからなかった。

 その翌日の十四日、記者の携帯電話に長女の代理人から電話が入り、長女は全くの私人であり、取材活動と記事掲載は長女のプライバシー侵害にあたるので、止めるようにと申し入れがあった。午後一時過ぎには、同趣旨の「抗議書」が編集部にファクスされた。編集部では対応を協議し、その日の午後十一時頃に「抗議書」への返答を代理人にファクスした。そこでは、長女の祖父は元首相であり、母親は前外務大臣、父親は現役の参議院議員であり、長女が全くの私人であるとは考えていないこと、長女やその配偶者は田中家の後継者になる可能性のある人物であることなどを述べ、長女本人にも直接取材をさせてほしいという依頼を行っている。また、A氏に対しても、引き続き、記者が取材趣旨を書いた手紙を自宅に届けるなどして、話を聞かせてほしい旨の申し出を行っている。こうした取材の過程で、小誌記者が「悪質で意図的な」取材を行ったという事実はない。

 そして、三月十五日には、長女の代理人とA氏の代理人のそれぞれから記事掲載を止めるよう求めるファクスが編集部に届いた(同様の内容証明が翌日に編集部に到着している)。
 この日、編集部では確認した事実に基づき、記事を作成したが、二人のプライバシーには極力配慮するようにした。二人の私生活における出来事の事実は書くが、その詳細には触れない。二人の名誉を傷つけるような記述や、人格面や評判などへの否定的な見解については触れないようにした。

 そして、雑誌発売前日の十六日に長女とA氏がそれぞれ東京地裁に対し、プライバシー権の侵害があったとして、出版禁止を求める仮処分命令の申立を行ったのである。文藝春秋に裁判所に出頭するようにとの通知書が届いたのは午後一時前後のことで、午後四時半から両者を呼んでの審尋が行われた。今回の出版禁止事件を巡っては、事前に長女側が小誌記事を入手していたかのように報じるものもあったが、小誌はその事実を確認していない。一時中断し、午後六時から再開された審尋の場で、異例のことではあるが、文春側から発売前の雑誌を裁判官と長女側に見せたのである。

 文春側は、記事が長女側のプライバシー侵害にはあたらないこと、その段階で雑誌の印刷は終了し、その大半が既に出庫されており、出版禁止をしても効力がないことなどを主張した。しかし、文春側の主張はまったくいれられないままに、午後七時四十五分、出版禁止の仮処分命令決定が送達されたのである。文春側は十七日に異議申立を行ったが、地裁は十九日にこれを却下し、原決定を支持する決定を下した。文春側は不服として、二十日に東京高裁に抗告した。

 言論の自由を揺るがせにし、事前検閲の復活にも繋がりかねない出版物の事前差し止めには、厳格な要件が必要であることは言うまでもない。八六年の最高裁判例に従えば、事前差し止めの要件には、「その表現内容が真実でなく、又はそれが専ら公益を図る目的のものでないことが明白であること」と「被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被るおそれがあること」の両方が必要なのである。今回、東京地裁は十九日の決定で真紀子氏の長女を「政治家の親族であることを前提とした活動もしておらず、純然たる私人として生活してきた」と述べており、「私人」であるという理由のみで記事の公益目的性を否定している。

 一般的に、あらゆる報道において、「公人」と「私人」を厳密に線引きすることはできず、そこにはいわばグレーゾーンのような領域があると小誌は考えている。小誌は長女が「純然たる私人」とは考えていない。

 第一に、政治家の子弟を「純然たる私人」とすることに違和感を覚える。日本の政治家には、二世や三世と呼ばれる世襲政治家が多い。現職の代議士のうち、基本的に世襲がない共産党や公明党を除いた四百三十四議員のうち、本人又は配偶者の三親等内に政治家の親族を持つ者は二百一人おり、約四六パーセントに上る。最近では、親族を公設秘書に採用することの是非を巡って、国会やマスコミで大きく議論されてもいる。

 また、閣僚の資産公開では、配偶者や扶養する子供の名義のものを含めた資産の公開が義務付けられている。この制度は、八三年に田中角栄氏がロッキード事件で東京地裁から懲役四年の実刑判決を受けたことをきっかけとして、翌年からスタートしたものである。当初は本人名義だけだったが、八九年のリクルート事件を機に、一定範囲の家族名義のものについても公開が義務付けられることになった。一般的に、資産とは個人の重大なプライバシーの一つだと考えられる。閣僚は家族のそうしたプライバシーをも公開しなければならないのである。

 また、田中真紀子氏の長女が「純然たる私人」ではないと考える理由の一つに、彼女が「田中家」という日本の政治家一家の中でも特段に注目度の高い家族の一員であることが挙げられる。それはなにも彼女が田中家の後継候補となりうるというだけの理由ではない。例えば、日中国交回復二十周年を記念して、九二年八月に田中家が中国から招待を受けた。既に政界を引退していた角栄氏と妻の故はな氏、「一主婦」だった真紀子氏と落選中だった直紀氏、そして三人の孫の計七人が訪中している。当時、この七人の中に現役の政治家は一人もいなかったにもかかわらず、角栄氏らは江沢民総書記や李鵬首相、王震国家副主席に面会しているのだ。このとき、同行した長女はまだ高校生だった。

 その一年後、真紀子氏が前言を翻して総選挙に初出馬した際には、投票日前日に長女と次女が地元・長岡を訪れて、真紀子氏の選挙運動に同行してもいる。さらに一年後、科学技術庁長官に就任した真紀子氏は、オーストリアへの一週間の外遊に、大学に進学していた長女を同伴している。九四年九月のことだ。
(私論.私見)「週間文春の公人と私人とのグレーゾーン論」について

 いちいちコメント付ける訳にはいかないのでここでは簡略にコメントするが、「文春の公人と私人とのグレーゾーン論」はそれはそれで構わない。問題は、そのグレーゾーンに対して積極公開していくのか抑制するのかの仕切りの解明が肝心であろうに。れんだいこ観点から云えば、文春の「ハト派をくじき、タカ派を助ける政治主義性」こそが疑惑されねばなるまい。

 それと、中国側から見て国交回復の功労者角栄を遇するのにその家族までもてなしたとして、それぐらいは良いではないか。週刊文春側は何をいちいち目くじらしているのだろう。それなら「中曽根−小泉グループないしその系列」にそのようなものがないのか。なぜ、角栄−娘・真紀子−孫系譜が執拗に追跡されねばならないのか、この辺りもう少し「正義」の弁明を開陳してみてくれ。
 憲法問題にも関わる重大な決定

 当時の記事を引用する。〈真紀子長官は、人目につかぬように長女を同行していた。最後にゲートをくぐる時、クルリと後ろを振り向き「早く」と手招きすると、それまで距離を置いていた関係者の列の中から、長女が飛び出してきた。かつて故田中角栄は「真紀子よ。お前には世界中の国を見せてあげる」と言って外遊のたびに真紀子さんを同行した。長官自身も「そのころの経験が今に役立っている」と言う〉(「日刊スポーツ」九四年九月十八日付・原文は長女の名を記載)

 これらの長女の行動は、「政治家の親族であることを前提とした活動」ではないのだろうか。さらに言えば、九八年一月、新潟県・西山町に田中角栄記念館が仮オープンした際の記念式典に、真紀子氏と直紀氏とともに、大手新聞社に勤務していた長女と高校生だった次女が出席している。記念館は、角栄氏の業績を讃えるために越山会の元会員や企業から約二億円の寄付を集めて建設されたもので、田中家が私的に作ったものではない。
(私論.私見)「週間文春の角栄家の面々の公私混同批判」について

 週間文春の角栄家の面々に対する公私混同批判もつまらない。角栄が外遊の際に娘を同行させようが、記念館開館記念式典に家族を出席させようが、どうでも良いことではないか。ごく普通に許容されていることではないか。「(記念館は)田中家が私的に作ったものではない」などと当たり前のことを述べて何やら批判した気になっているが馬鹿らしい。政治家も人も一般に本業をきちんとやってくれれば、それに関係する限りでのある程度のわがままは許されても良いではないか、何を目くじらすることがあろう。
 田中角栄氏は「日本列島改造論」という美名のもとに、利権構造という副産物を日本全国にあまねく広げ、自身もロッキード事件という戦後最大の疑獄事件で逮捕、有罪判決を受けた。その角栄氏が地元新潟に作った地盤は、かつて「田中王国」と呼ばれ、地元に越後交通や長鉄工業といったファミリー企業を持つ田中家の政治家が、これらを私物化してきたことはあらためて言うまでもない。
(私論.私見)「週間文春の角栄諸悪の元凶説」について

 ここで遂に週刊文春は己たちの政治的スタンスを自己暴露している。角栄を評するのに、「日本列島利権構造化の張本人、ロッキード事件の被有罪判決者、政治基盤の私物化」なる汚名を着せて欣然としている。この観点より、自らを憎き悪人退治に向かう正義の筆使い者に仕立てて自己陶酔しているのだろう。しかし、それは常に吟味されねばならない一政治スタンスでしかないというのが分からないのだろうか、あるいは分かろうとしないことに利益があるから頑迷に分からないままに居り続けようとしているのだろう。

 れんだいこの角栄評を週間文春のそれに対比させれば、「日本列島の高度産業集約化の偉大な指揮者、冤罪ロッキード事件の被有罪判決者、政治基盤の先進モデル的形成者」ということになるだろう。今日、我が日本は無能愚劣なタカ派族により国家溶解の危機に瀕しているが、何とか持ちこたえているのはハト派族が営々と構築した国家的国民的富の蓄積のお陰である。今やそれも狙われ突き崩されつつあるが。
 真紀子氏や直紀氏がファミリー企業の社員を駆り出して選挙運動を行い、公設、私設を問わず、多くの社員を秘書として酷使してきたことは、小誌がこれまでも再三指摘してきた。少なくとも、田中家の政治家がこれまで公私を厳格に峻別してきたとは到底言えない。
(私論.私見)「週間文春の選挙運動における公私の峻別必要論」について

 これも実践に照らせば、愚昧なことを云っていることが分かる。「公私の厳格な峻別」を強要されては何事も成り立たない。何事もその加減の確認が難しい。選挙活動に公私の峻別を持ち込むのは魚に木登りせよと感想を述べるほどに愚かなことであろう。
  もちろん、小誌記事が長女のプライバシーを侵害したかどうかについては、別稿で様々な論者が述べているように大いに議論があるところである。今回の記事が興味本位な作りだったのではないかという指摘にも真摯に耳を傾けたい。確かに、今回の記事だけを読めば、長女の私生活に関する出来事をクローズアップしたという印象を与えたかもしれない。だが、田中真紀子氏の政治家としての資質を問い、後継問題にも関連する田中家という政治家一家の動静を知るために小誌が報じてきた多くの記事の中の一本として読めば、単に新たなニュースを報じただけという一面もある。

 それでも長女がプライバシーを侵害されたとするならば、小誌も誠意を持って話し合いを行いたいと思う。小誌は、今回の出版禁止事件の本質は、文春対田中家とか、文春対田中真紀子という図式で語られるべきではないと考える。今回の事件は、裁判所がプライバシー権の侵害を理由に、出版物の事前差し止めを初めて認めた事件なのである。また、連載小説やエッセイを初め、多くの記事が掲載される週刊誌の発行自体を事前に禁じるということは、当該記事以外の言論の自由をも制約する極めて重大な決定である。

 そうした憲法問題にも関わる重大な決定を、たった一人の裁判官が短時間で下してしまったという事実にはやはり慄然としてしまう。小誌は今後もこの問題について誌面で大いに議論を行っていきたい。また、今回の事件は、報道に携わるすべての人々にとって、揺るがせにできない重大な問題を孕んでいる。新聞やテレビなどの大手マスコミはもちろん、すべての国民に関心を持って議論に参加してもらいたいと思う。
(私論.私見)「週間文春の『表現の自由』の旗手性」について

 まっ当人が「表現の自由」の旗手になろうとしているのだから、それはそれで結構、しっかり頼むよ、と云っておこう。

日本ペンクラブが 地裁決定(週刊文春「販売差し止め命令」)に抗議

 日本ペンクラブ(井上ひさし会長)は3.23日、東京地裁の「週刊文春」に対する出版禁止命令と異議申し立て却下の決定に対する抗議声明を発表した。声明は、「民主主義社会の根幹をなすものが言論表現の自由の保障であり、プライバシーの尊重が成り立つのは、民主主義社会においてのみであると考えれば、表現の自由こそが大切であることは自ずと明白」、「(今回の)裁判官の判断は(プライバシー尊重と表現の自由の)どちらを優先すべきかの見極めを誤ったものであり、かつ余りにも拙速で、国民の知る権利を抑圧する道具に悪用される恐れがある」と東京地裁の決定を批判、「国民の知る権利を抑圧する道具に悪用される恐れがある」としている。



9、【東京高裁が 地裁決定の週刊文春「販売差し止め命令」取り消し】週刊文春の出版禁止、東京高裁が仮処分取り消し
 2004.3.31日、東京高裁(根本真裁判長)は、田中真紀子前外相の長女の私生活に関する記事を掲載した「週刊文春」(文芸春秋発行)の出版禁止仮処分決定を巡る保全抗告審で、発行元の文芸春秋の申し立て(保全抗告)を認め、仮処分を妥当とした東京地裁決定の販売差し止め命令を取り消す逆転決定を判示した。仮処分命令に反したときは長女側に1日274万円を支払うよう文春側に命じた東京地裁の「間接強制」決定(「出版禁止命令」)は、高裁決定によって15日ぶりに効力を失った。 この問題を巡る司法判断は三回目で、高裁と地裁で判断が分かれたことになる。大手週刊誌への異例の発禁命令に正反対の司法判断が出たことで、「プライバシー権」と「表現の自由」の調和をどう図るか、議論が再燃しそうだ。

 本係争の経緯は次の通り。2004.3.17日発売の週刊文春(3月25日号)が3ページにわたって元外相の田中真紀子衆院議員の長女の離婚記事を掲載する事が判明し、発売前日の3.16日、長女(代理人・森田貴英弁護士)が「公人の政治家の家族でもプライバシー権がある」、「週間文春に掲載予定の記事はプライバシー侵害」として週刊文春の出版禁止を求める仮処分の申し立てた。3.16日夜、東京地裁(鬼沢友直裁判官)は、長女側の申し立てを相当と即日認め、「切除または抹消しなければ、販売や無償配布したり、第三者に引き渡してはならない」とする出版差し止めを命じた。文芸春秋側は保全異議を申し立てたが、3.19日、地裁(大橋寛明裁判長)の異議審でも同様に「純粋な私人である長女の記事には公益性がなく、報道価値はプライバシー保護より劣る。知られたくない事実を大手誌に掲載されれば損害は回復困難」と判断、出版禁止は妥当」と判断し、仮処分決定の適否を追認した。その為、文芸春秋側は東京高裁に保全抗告していた。

 高裁は3.24日に双方の意見を聴く審尋を開いた。文春側はこの時の抗告審で、過去の新聞記事や田中氏と長女らが写った写真などを証拠として提出し「田中家の後継者と目される長女が公人なのは明らか」と指摘。さらに「事前差し止めの仮処分は、表現の自由を制限し、国民の知る権利を奪う結果になりかねない」などと主張していた。長女側は「表現の自由は非常に大切だが、私人のプライバシー侵害は許されるべきではない」と反論していた。

 抗告から12日目のスピード判断となった。長女側は決定を不服として最高裁に抗告する意向を表明しており、決着までにはなお時間がかかりそうだ。。


【「仮処分の取り消し」について】

 民事保全法41条などで規定され、取り消しは決定と同時に効力を持つ。

 今回のケースでは、文芸春秋は差し止め対象となった約3万部の未出荷分の販売や、新たな増刷・販売ができる。東京地裁は「差し止め命令に反した場合、文芸春秋は1日137万円支払え」とする決定も出していたが、仮処分命令の取り消しで、この支払い命令も効力を失った。


【「根本判決の法理」の要旨】
 根本裁判長は大阪高裁時代の2000年、大阪府堺市で、19歳当時に殺傷事件を起こしたとされる男性の実名と顔写真が「新潮45」に掲載されたことの可否をめぐる訴訟で、「掲載は社会の正当な関心事」として「表現の自由」を認める判決を言い渡している。プライバシー問題に詳しい判事だけに、抗告審の決定が注目されていた。

 「根本判決」の骨子は次の通り。起・記事によるプライバシー侵害が認められる。承・記事については公益性がなく公共性も認められない。転・「暴露された私事の内容・程度を考慮すると、長女らのプライバシーを侵害しているとしたものの、プライバシーの内容・程度にかんがみ、出版の事前差し止めを認めなければならないほど重大で著しく回復困難な損害が出る恐れがあるとまでは言えない、「表現の自由は憲法上最も尊重されなければならない権利で、表現の自由に対する重大な制約になる事前差し止めには慎重な上にも慎重な対応が要求されるべきだ」。結・記事には、出版差し止めを認めなければならないほどの重大な損害を長女に与える恐れはなく、文芸春秋の申し立て(保全抗告)を認める。
 「根本判決」の法理論は次の通り。

 本件では、表現の自由を優先するのか、それともプライバシー侵害を未然に防ぐことの方が重要なのかが問われた。

 「根本判決」は、今回の「出版物の事前差止め係争」につき、@・「表現の自由は、民主主義体制の存立と健全な発展のために必要な、憲法上最も尊重されなければならない権利だ」。A・「表現の自由は、情報の送り手だけでなく受け手(読者、視聴者)の側も含む表現の自由を享受する側の権利である」。B・「出版物の事前差止め」には、これを認めるには慎重な上にも慎重な対応が要求されるべきだ。C・出版物の事前差し止めは原則的に認められず、一定の要件を満たした場合にのみ許されている。D・現段階での準拠する法理論として、月刊誌の事前差し止めの是非が争われた「北方ジャーナル事件」の最高裁判決(1986.6月)などで示された見解に則るべきである。E・地裁決定(出版差し止めを支持した3.19日の保全異議却下決定)はこれに添っており、これに従うべし、とした。

 それらによると、人格権の一つとしてのプライバシーの権利が侵害されたことを理由にする侵害行為の差し止めを認め得るための要件として、@・公共性(記事に公共性が認められるか)、A・公益目的(記事は公益を図る目的のものであるか)、B・受忍限度を越える被害(記事は、被害者に重大で著しく回復困難な損害を与える恐れがあるか)の3点が基準になることを明らかにした。


 「前記3要件は、名誉権の侵害に関する事前差し止め要件として樹立されたものを斟酌(しんしゃく)して設定されたと解されるが、プライバシー権に直ちに推し及ぼすことができるかについては疑問がないわけではない。しかし、3要件は、本件差し止めの可否を決める基準として相当でないとはいえないし、当事者双方も格別の異議を唱えていないことに加え、本件が手続き的・時間的制約等の下に置かれていることなどを考えると、本件保全抗告事件においては前記3要件を判断の枠組みとするのが相当である」。

 そこで、記事が長女らのプライバシーをどのように侵害しているか、記事が3要件を具備するか否かを検討するとして次のように述べた。 

 @の公共性を廻って。 

 文芸春秋は、長女は著名な政治家一家の一員で、国会議員である両親の後継者として政治を志す可能性があると考えるのが相当だから、記事は公共の利害に関する事項に係るものと主張し、「記事は前外相の後継者に絡む問題を報じた」、「長女が将来政治を志す可能性がある」と記事の公共性を訴えた。

 しかし、「自ら政治家志望の意向を表明している場合などは別だが、現時点では政界入りするかどうかは憶測にすぎない」、その者が将来における政治家志望等の意向を表明していたり、そのような意図・希望をうかがわせるに足る事情が存しない時点においては、単なる憶測による抽象的可能性に過ぎない。このような抽象的可能性をもって、直ちに公共性の根拠とすることは相当とはいえない。しかも、記事の内容が、政治とは何らの関係もない全くの私事であることも考えると、公共の利害に関する事項に係るものと解することはできない。

 長女が田中真紀子衆院議員の外国出張に同行したり、選挙運動に参加していることなどは、将来政治の世界に入ることを意識してのものというよりは、家族ゆえのこととも考えられ、長女を後継者視して、長女の私事を公共の利害に関する事項に係るものとみるのは相当とはいえない。「現時点では一私人の私事に過ぎず、公表によってプライバシーが侵害される」として記事の公益性を否認した。 

 文芸春秋は、「公益を図る目的」は行為者の主観によって判定されねばならないと主張するが、そのように解するのは相当でない。「公益を図る目的」の有無は、公表を決めた者の主観・意図も検討されるべきではあるにしても、公表されたこと自体の内容も問題とされなければならない、とも述べた。

 A・公益目的を廻って。

 における「公人・私人論」を廻って、「記事で取り上げられた事柄は、不特定多数にけん伝されることで、本人が精神的苦痛を被るのは当然で、プライバシー権の対象となる。記事は、現時点においては一私人に過ぎない長女らの全くの私事を、不特定多数の人に情報として提供しなければならないほどのことでもないのに、ことさらに暴露したものであり、長女らのプライバシー権を侵害したと解するのが相当である」とした。

 「長女らは私人に過ぎず、記事はその私事を内容としたもので、公益を図る目的がないのは明らか」、「長女が将来、政治の世界に入るというのは単なる憶測で、全くの市井の一私人の私生活を報じている」、「こうした内容を不特定多数にけん伝することで、長女らが精神的苦痛を被るのは当然」とプライバシー侵害を認定した。文春側の異議を退けた3.19日の東京地裁決定と同様に記事の公共性と公益目的を否定し、プライバシー侵害を認定した。

 ただ、長女らの損害の程度について「社会的に非難されたり、人格的にマイナス評価をもたらす事柄ではなく、日常生活では、どうということもなく耳にし、目にするものにすぎない」として「著しく回復困難」とする長女ら側の主張を退けた。

 B・受忍限度を越える被害を廻って。

 そのうえで、根本裁判長は、被害者が受ける損害の程度を検討した。文春が報じた長女の私事は、日本の婚姻制度のもとで、それ自体は社会的に非難されたり、人格的に負をもたらすものと理解されたりする事柄ではないと指摘。「一方、記事で取り上げられた私事は、当事者にとって、喧伝(けんでん)されることを好まない場合が多いとしても、それ自体は、当事者の人格に対する非難など、人格に対する評価に常につながるものではないし、もとより社会制度上是認されている事象であって、日常生活上、人はどうということもなく耳にし、目にする情報の一つに過ぎない」とし、「このように考えると、記事は長女らのプライバシー権を侵害するものではあるが、当該プライバシーの内容・程度にかんがみると、事前差し止めを認めなければならないほど、長女らに「重大な著しく回復困難な損害を被らせる恐れがある」とまでいうことはできないと考えるのが相当である」と結論づけた。

 高裁決定はまた、文春側の異議を退けた地裁決定が、「プライバシーは名誉と違って1度侵害されると回復できない」とした点を考慮しても、プライバシー侵害の内容・程度からみて、結論は変わらないとした。「なお、プライバシー権を侵害する事案では、事前差し止めのために「損害が回復困難である」ということまでを要求すべきではないという考え方がある。プライバシーが一度暴露されたならば、それは名誉の場合と必ずしも同じではなく、「回復しようもないことではないか」ということであろうかと思われる。本件では、この観点に立っても、記事によるプライバシー侵害の内容・程度にかんがみるならば、事前差し止めを否定的に考えるのが相当である」。


 「以上の次第であるから、長女らの主張する事前差し止め請求権は、これを認めることができない」。  

 差し止めを相当と判断した19日の東京地裁決定(異議審)も、今回同様プライバシー侵害は認定したが、損害の程度をより重く判断したため、判断が分かれた。


【「文芸春秋の声明」】

 東京高裁が当方の主張を認め、3月16日の地裁決定を取り消したことは、「表現の自由」が崩壊の瀬戸際で守られたものと評価したい。高裁の判断にはなお当方の主張と隔たりがあるが、当社としては今後、人権・プライバシーをめぐる各方面からの意見や当該記事への批判、読者からの叱声(しっせい)と激励を厳粛に受け止めつつ、真摯(しんし)かつ臆(おく)することなく出版報道に邁(まい)進してゆきたい。


「最高裁で審理を」 長女側代理人

 「週刊文春」の出版禁止仮処分を取り消した東京高裁決定を受け田中真紀子前外相の長女の弁護士は31日夜、最高裁に特別抗告する意向を明らかにした。この場合、憲法違反を理由とする「特別抗告」のほか、判例違反や法令解釈上の重要な問題があるとして高裁の許可を得て「許可抗告」を行うことができる。いずれにしても抗告を受けて、最高裁は今回の高裁決定について審理し、四回目でかつ最後の司法判断を下すことになる。

 長女側の代理人、森田貴英弁護士の話。東京高裁決定は、記事内容が公共性および公益目的が欠如している違法なプライバシー権侵害であり、「憲法上保障されている表現の自由の行使として積極的評価を与えることはできない」としている点で意義深く、引き続き最高裁で審理して頂く予定だ。


小泉首相見解「報道の自由には良識ある規律を」

 小泉首相は31日、田中真紀子衆院議員の長女に関する記事を掲載した「週刊文春」の出版差し止めを命じた仮処分の取り消しを東京高裁が決定したことについて、「人権と規律、両方大事ですからね。報道の自由を守るためにも良識ある規律が大事だ」と語った。首相官邸で記者団の質問に答えた。

 一方、民主党の枝野幸男政調会長は31日の記者会見で、「公権力が表現行為を事前に抑えることに関しては別の観点から慎重な検討が必要。その観点も踏まえた司法の判断と思う」と述べたうえで、「みだりにプライバシーに立ち入る行為には、しかるべき民事上のペナルティーが科されるべきだ」とも語った。


10、【田中前外相の長女側、特別抗告せず
 2004.4.3日、前外相、田中真紀子衆院議員の長女の委任を受けている森田弁護士が、3.31日の東京高裁決定(3月31日)に対し、特別抗告や許可抗告を申し立てない方針を明らかにした。「(差し止め対象となった約3万部を)文芸春秋が販売しない意向を確認したため、(仮処分に関する)審理を継続する必要性がなくなった」とする文書を公表した。申立期限の5日を過ぎれば、高裁決定が確定することになる。

 4.4日付け毎日新聞(小林直記者)によれば次の通り。長女の代理人の森田貴英弁護士によると、記事で取り上げられた長女の関係者も同様に抗告しない方針。2人は近く、発行元の文芸春秋(東京都千代田区)に謝罪や損害賠償、事後的な差し止め(記事の削除や抹消)などを求める本訴訟を起こす。

 プライバシー侵害に基づく出版物の事前差し止めについては最高裁判例がなく、抗告すれば初判断が示される可能性があったが、森田弁護士は「申し立てはプライバシー侵害から身を守るためで、最高裁で差し止めの基準を作ったり、表現の自由に関する憲法論争を行うためではない」としている。

 文芸春秋は長女側の方針表明を受けて3日夜、「出版の事前差し止めによって報道の自由を制約する試みは、高裁決定により、極めて不当かつ困難であることが明確に示された。事後の訴訟という手続きこそ当社が従前から主張しており、訴えがあれば、主張すべきは主張し誠意を持って臨む方針である」とのコメントを出した。


【「田中前外相の長女側、特別抗告せず」に対する読売新聞の社説】
 なかなか出来が良いので転載する。しかしご丁寧な事に毎度無断転載禁止とある。こうして紹介するのは褒められこそすれ逆では無かろうに。
 [週刊文春問題]「『泣き寝入り』をどう防ぐのか」

 文芸春秋の「週刊文春」の出版差し止め問題について、最高裁の最終判断は示されないことになった。

 だが、田中真紀子・元外相の長女の私生活に関する同誌の記事には、公共性も公益目的もなく、プライバシーを侵害した事実は消えない。

 長女側は東京地裁の「出版差し止め」を取り消した東京高裁の決定に対し、最高裁への特別抗告など、行わないことを表明した。出版の差し止めには「慎重のうえにも慎重であるべき」とした高裁決定で、週刊文春問題は一応終息する。

 長女側は、「裁判を継続する必要性と実益が存在しない」と説明している。訴訟を続ければ、逆にプライバシーが一層知られ、かえって被害が深刻化することを危惧(きぐ)した苦渋の判断だろう。

 高裁決定がプライバシー侵害に対する「事前救済」の道を封じたものとすれば被害者には「泣き寝入り」しかないことになる。長女側は損害賠償請求訴訟を起こすとしているが、勝訴しても、侵害されたプライバシーの回復はできない。

 しかし、高裁の決定は、プライバシー侵害に対し、出版の「事前差し止め」を排除するものではない。

 この決定は、出版を差し止めるほどの「重大な著しく回復困難な損害を被る恐れ」が長女側にあったとは判断しなかった。「表現の自由」の重要性との関連でプライバシー侵害の「程度」の問題として地裁の決定を取り消したものだ。

 侵害の「程度」によっては今後、出版の差し止めもあり得る。

 一部のメディアの露骨なプライバシー侵害の記事が氾濫(はんらん)している。

 今回のように、「事前の救済」を求める出版差し止めの仮処分申請が裁判所に提起された場合、プライバシー侵害の「程度」が重大であれば、司法の判断はさらに厳しくなるだろう。

 今回の一連の司法判断で、東京地裁はプライバシーの権利の特質について、一度侵害されると、回復が困難ないし不可能なことにあるとし、「事後の救済」の余地も残る名誉棄損とは峻別(しゅんべつ)した。

 そのうえで、「名誉の保護よりもプライバシーの保護は一層、事前差し止めの必要性が高い」と初の判断を示した。

 長女側の特別抗告断念を受け、文春側はプライバシー侵害について、「事後の訴訟という手続きこそ、問題解決の王道だ」と従来の主張を繰り返した。

 プライバシーを侵害しながら、事後救済が困難であることを無視する身勝手な言い分だ。プライバシーへの配慮を欠き「売れさえすればよい」という一部メディアは、襟を正さなければならない。

  (2004/4/5/01:13 読売新聞 無断転載禁止)

11、【週間文春が三週連続で特集組む
 週間文春が三週連続で特集組んだ。例によって立花がしゃしゃり出て忍法煙巻き論法を開陳している。これを転載し、後日の証としておく(「言論の自由の基本を忘れた 裁判所・朝日・読売 立花隆」)。

 「週刊文春」2004.04.08号

 『言論の自由の基本を忘れた 裁判所・朝日・読売』 立花隆(稿)

 前号、「これはテロ行為である」を書いたが、論をつくせなかったので、もう一度論じさせていただく。この一週間をふりかえって、主要なメディアで、言論の自由に関してあまりにレベルが低い議論がまかり通っているのを見て、唖然とした。なかでもひときわ驚いたのが、朝日新聞の論調だ。

 朝日の社説(三月十八日)は、文春側が「言論の自由を制約する暴挙」と抗議したのに対し、「私人のプライバシーを興味本位で暴きながら、表現の自由をその正当化に使っているのである」として、このような問題で表現の自由を云々することそれ自体が表現の自由をおとしめるとした。今回の裁判所の決定が、「これまでの判例を大きく踏みはずすもの」であることを認めながら、そういう決定を下した裁判所のおかしさを追及することもなしに、逆に文春を、「そんな事態を招き公権カ介入の口実を与えた週刊文春には改めて反省を求めたい」と責めている。裁判所が異例の決定を下したのなら、おかしいのは裁判所ではないか。文春を非難するのは、おかどちがいといっていい。

 こういう場合、新聞がやるべきことは、そういうおかしな決定を裁判所が出したのはなぜかという背景取材だろう。朝日新聞はやらなかったが、「週刊朝日」四月二日号は、「週刊文春出版差し止め命令、緊迫の攻防」で、その背景を深くえぐった。この差し止め命令は偶然に出たものではなく、東京地裁民事九部の反メディアの裁判官を中心にメディア研究会のようなものが作られ、出版差し止めの申立が出たらすぐに対応できるようマニュアルまで作って手ぐすね引いて待っているところに、この申立が出たので、それきたとばかり、一挙に出版差し止めに走ったのだという。そしてこのような仮処分ではまことに異例なことに裁判官は最初から「担保は不要」と宣言して申立人に有利な決定を出すぞといわんばかりの態度を取っていたという。

 そもそも仮処分では申立人に係争物の価値に見合う担保が求められるのが普通で、出版差し止めの例でいうと、「虚妄の学園」というある私立学校の理事長の私行上の問題をバクロしたほとんどブラックジャーナリストが作った書物の差し止めにすら、一千万円の担保が求められている。ブラックジャーナリズムでは全くない社会的信用もあり発行部数も多い雑誌の発行差し止めに担保ゼロとはほとんど信じ難い話であり、決定にあたった裁判官がはじめから異常な偏見をもってこのケースを見ていた証拠といっていいだろう。

 ■悪いのは週刊誌だという論調

 読売の論調にしても朝日と同じようなものだった。やはり十八日の社説で、出版差し止めという事態の重大性を指摘し、最高裁判例(北方ジャーナル事件)が、「内容が真実でないか、公益目的でないことが明白で、被害者が重大で回複困難な損害を被る恐れがある」の条件が満たされたときだけに限定していることを指摘したのはいいが、次に一転して、「しかし、今回の記事に『公益目的』があるようには見えない」とした上で、「『表現の自由』を振りかざしてプライバシーを侵害するようなことが横行すれば、かえって民主主義社会の根幹を崩しかねない」という結論にもっていっている。再び、悪いのは、こういうけしからん記事を載せる雑誌のほうだといわんばかりだ。

 これらの社説以外にも、これに類する論調が世にあふれかえったのは、ご存知の通りだ。要するに、週刊誌は人のプライバシーを暴くことに熱中するなど、くだらんことばかりしている。こういう雑誌は、言論の自由の名のもとに保護するに値しないという議論だ。出版差し止めの議論をするとき、まず引用されるのが、北方ジャーナル事件の判例で、先の読売の社説もそうしているが、実は注意深く読むと、判例とそれを引いての議論の間に、大きなズレがあることがわかる。判例は、差し止めが許されるのは「公益目的でないことが明白」な場合といっているのに、論者は、「(文春の記事に)公益目的があるようには見えない」といっているのにすぎない。「ないことが明白」と「あるようには見えない」とでは、天と地ほどちがう。抽象的な文言をにらむだけでは、そのちがいが見えてこないだろうから、具体的事実を示す。

 「北方ジャーナル」というのは、実はとんでもないスキャンダル雑誌で、人身攻撃(企業、団体攻撃)をこととしてきた。その目次を繰り、ページをパラパラめくっただけで、通常人ならすぐに「公益性がないことが明白」とわかるような雑誌である。この事件で問題にされた記事は、五十嵐広三元旭川市長が北海道知事選に立候補したとき、その人身攻撃をはかって「天性の嘘つき」「昼は人をたぶらかす詐欺師、夜は闇に乗ずる兇族で、言うなればマムシの道三」と評したり、私生活では「クラブのホステスをしていた新しい女を得るために罪もない妻を卑劣な手段を用いて離別し、自殺せしめた」と根も葉もないことを書いたり、市長時代は「利権漁りが巧みで特定の業者と癒着して私腹を肥やし、汚職を蔓延せしめ」「巧みに法網をくぐり逮捕をまぬかれ」ていると中傷した。知事選に立候補したのも、「知事になり権勢をほしいままにするのが目的」で、「北海道にとって真に無用有害な人物」であるとした。こういう品の悪い文章でこういう内容の記事が数十ページにわたってつづいた。公職選挙の候補者に対してネガティブな記事が書かれるのはある程度仕方がないとしても、「なぜ全編にわたり、右のような野卑な表現でもって論をすすめなくてはならないのかが納得できず」「その表現形式だけをとりあげてみても、不必要に下品な表現をとって名誉をことさらに著しく傷つけるものというほかない」と一審の判決で評されたのも当然といえるだろう。

 「公益目的でないことが明白」で差し止めが許されるのは、こういうケースについていうのであって、週刊文春のくだんの記事のように、公益性があるともないとも判断がわかれるグレーゾーンのケースがそれにあたらないことは、論理的に明白である。なぜなら、グレーゾーンがあることそれ自体が、「ないことが明白」の反証になるからだ。

 ここでもう一つ、公益目的の存在・不存在について北方ジャーナル判例が明らかにしている重要なことがある。それは、通常の名誉毀損裁判の場合は、公益性(名誉毀損でも重要)の存在を、名誉毀損で訴えられた執筆者・出版社の側が立証しなければならないのに対して、このようなケース(出版差し止め)においては、申立人の側がその「不存在を立証(疎明)」しなければならないとしたことである。出版差し止めというのは、言論の自由という憲法が最大限に保障している基本的人権にストップをかけることだから、そう気軽に申し立てられては困るし、また、そうした申立に応じて下級裁判所から安易に決定が出されては困るので、こういう縛りがかけられたのである。

 実際問題として、これまでそういう申立がなされることはあっても、却下されるのが普通だったから、おそらく文春はそんなものは却下されるに決まっていると甘く見ていたのだろう。ところが今回は、裁判所のあるグループがそれを待ちかまえていて、電光石火本当に差し止めてしまったわけだ。では、今回のケースにおいて申立人から、「公益性の不存在」の立証がなされたのかというと、それはなかった。裁判所がそんなものは必要ないとしたからだ。真紀子長女は「純粋私人なのだから」そのプライバシーを書くことに公益目的が「あるはずがない」としたのだ。純粋私人という事実に反する見立てと、それから導かれる観念的な理屈づけで、裁判所は押し切ってしまったのだ。

 全くもって強引きわまりないやり方というほかない。そもそも仮処分で出版差し止めをしてしまうことは、憲法二十一条二項が厳に禁じている行政処分による検閲とみなすことができる(「たとえ裁判所が主体であっても、口頭弁論も開かず、理由も付さずに表現行為を差し止めるのは実質的に行政処分と解すべきである」=佐藤幸治「憲法2」)。
 
 ■いい言論と悪い言論という区別

 行政処分としての検閲は憲法違反なのである。今回のケース(第一回目の決定)はまきにこれにピッタリで、「口頭弁論も開かず」「理由も付さず」になされた処分なのである(異議申立に対する二回目の決定には理由がついた)。もうひとつ注目しておくべきことは、八四年の最高裁判決(「税関検閲」)によって、表現の自由に対して事前規制(事前差し止め)を加える場合にはさらに厳重な縛りが加わっているということである。八六年判決(北方ジャーナル事件)においても、差し止めを許すには、「厳格かつ明確な基準」が必要という縛りがあるが、その「明確性」がいまひとつ曖昧である。

 それに対して、八四年判決は、表現の自由の事前規制には、「特に明確性が要請される」として、明確性の基準として、次のようなことを求めている。「その表現により、規制の対象となるものとそうでないものとが明確に区別され、かつ、合憲的に規制し得るもののみが規制の対象となることが明らかにされる」「また、一般国民の理解において、具体的場合に当該表現物が規制の対象となるかどうかの判断を可能ならしめる」ことである。

 「公益性がないことが明白」という基準があるとき、読売社説の論者のように、勝手に基準を「公益目的があるようには見えない」というところまで拡大して論ずるなど、この判例と逆行する方向の論がなりたたないことはいうまでもない。

 今回のケースで最大の問題は、「雑誌の事前差し止め」という出版社の命を取るような強権が発動されたというのに、今後その強権発動がどういうときにどういう基準でなされようとしているのか、その基準が全く見えてこないということである。こんな記事で、こんな簡単な手続とこんな安易な理由づけで雑誌を丸ごと差し止めることが可能になったら、今後、雑誌はどんな雑誌でも、いつ発行差し止めになっても不思議ではなくなってくる。

 このような事態こそ、八四年判決があってはならないとしていることである。基準が不明確なまま、憲法が明記する言論の自由を国家が奪うことが可能になったら、国家はいつでも恣意的に特定言論機関をつぶすことが可能になる。そういうことがあってはならないから、国民の誰でもこれはOK、これはノーとはっきり理解でき、かつ自分でも応用適用できる明快な基準を作ることが必要だといっているのが八四年判決である。

 今回の出版差し止めにかかわった裁判官たちは、八四年判決を読んだことがあるのだろうか。朝日読売の論説筆者は、八四年判決をちゃんと知っているのだろうか。出版差し止めに明確な基準がない状況がこのままつづくと、どれほど恐ろしい社会が現出する可能性があるか、わかっているのだろうか。

 言論の自由というのは、本来、誰でも自由に何の制約も受けず、勝手なことを述べあうというのが大原則であって、言論の事前規制などというのは、あってはならないことなのである。

 もちろん、その発された言論の中に、何らかの社会的に不都合な部分(名誉毀損、プライパシー侵害など)があれば、その責任を問われるのは当然のことだが、それはあくまで事後になされるべきことであって、その言論が発される前に、公的権力が、その言論を発すことそれ自体を制限することなど法治国家においてあってはならないことである。あの戦前の暗黒時代においてすら、演説会場の臨検の警察官が「弁士中止!」を叫ぶのは、演者が一言でも言葉を発してからであって、事前ではないのである。事前規制というのはそれくらい異常なことなのだ。多くの論者には、この異常さの認識、事態の重大性の認識が欠けている。

 もうひとつここで批判しておきたいのは、朝日の社説をはじめ、週刊誌の低俗性を攻撃することに熱心な論者たちが前提としていることに、言論にはいい言論と悪い言論、高級な言論と低俗な言論があって、言論の自由で守られるべきは前者であって、後者は守るに値しないと考えているらしいことだ。

 朝日三月十八日(夕刊)の「素粒子」は、一九七〇年代のアメリカをゆるがしたペンタゴン秘密文書事件に言及して、こう書いた。「彼らには『志』がみなぎっていた。いま、週刊文春の『志』とは何か。『表現の自由』とか『国民の知る権利』を振りかざすにはあまりに脆弱としか言いようがない」

 またしても、週刊誌蔑視の視点がすけて見えるが、このように書く「素粒子」の筆者なら、当然、ペンタゴン秘密文書事件の米最高裁判決をご存知だろうが、それが週刊誌蔑視思想とは対極に立つ論理から導かれた判決だということをご存知なのだろうか。ペンタゴン秘密文書事件とは、スッパ抜いた秘密文書の掲載をつづけるニューヨーク・タイムズに対して、政府が掲載の差し止め請求をしたところ、最高裁が政府に対して、言論の自由(米憲法修正第一条)を理由にそれをはねつけたという事件である。

 あの判決の主文はわずか十行にも満たず、その内容は、政府の差し止め請求は憲法違反と推定されるからその点を審理し直せという意見をつけての下級審への差し戻し決定だった。そして、この判決が根拠として引いたのが、「ニア対ミネソタ」判例だった。「素粒子」の筆者は知っているかどうか、「ニア対ミネソタ」判例とは、ミネソタ州が「公共迷惑法」なる州法を作り、ワイセツな新聞雑誌ならびに「悪意を持ちスキャンダルで人の名誉を傷つける」ことをこととするような悪質低俗な新聞雑誌に州政府が永久発行差し止め命令を発することができるとしたことから起きた訴訟事件である。この法律で、発行差し止めを食いそうになった、アカ新聞の発行者ニアが、こんな法律は憲法違反だと怒って起した訴訟である。朝日新聞の社説の筆者なら、そんな新聞つぶれて当然だといいそうだが、アメリカ最高裁の判決はちがった。そのような低劣きわまりない新聞であろうと、その発行を差し止めることは、言論・出版の自由を定めた憲法の精神に反するとして、ミネソタ州法の取消しを命じたのである。

 世界で最も言論の自由が守られているアメリカの言論法の真髄がここにある。日本の大メディアがすぐに「低劣、守る価値なし」とバカにする日本の週刊誌より何倍も低劣で、客観的にいっても守る価値がほとんどないような新聞ですら、言論・出版の自由の名のもとに発行権は守らるべしとしたのである。言論・出版の自由は何ものにもかえがたい価値を持つのだから、そのような低劣メディアの権利も守られるべきだとしたのだ。この判決が、アメリカの言論・出版の自由の根底にある。ペンタゴン秘密文書の差し止め請求も、この判例で一蹴された。

 先週号で、R・ボイントンNY大教授が、もしアメリカで、文春に出されたと同じような出版事前差し止め命令がどこかの社に出たら、ニューズウィーク、タィム、ワシントン・ポストなど全メディアが一致して戦いに立ち上がるだろう、たちまち全米の弁護士がかけつけてくるだろうといっているのは、こういうアメリカの言論の自由の歴史を背景にしての発言なのだ。

 日本のように大メディアがそろって週刊誌叩きに熱中するなどということは、およそアメリカでは考えられないことである。もうひとついっておけば、こういう大メディアの論調の影響もあってか、言論にはいい言論と悪い(低劣な)言論があって、悪い言論は叩きつぶしたほうが世のためだという考えが、最近日本で急速に広がっているようだが、これはとても危険な考えである。そういう流れの一つとして、いま自民党を中心に着々とすすめられつつあるメディア規制立法もあるが、そういう発想は、ミネソタの「公共迷惑法」を作った人々と同じ考えであって、そういう人々はやがて、言論の最悪の抑圧者になっていくこと確実である。

 欧米では、言論の自由について語ろうとするとき、何をおいても、まず読むのは、ジョン・ミルトンの「アレオパギティカ」である。これは、日本でも昔翻訳されて岩波文庫から「言論の自由」のタイトルで出たことがあるが、あまりに悪い訳(以下の引用は岩波文庫版をベースに私が若干手を加えた)であるため、あまり読まれずに終わっている。この書の中で、ミルトンが何よりも力説していることは、言論をいい言論と悪い言論に分けて、悪い言論を弾圧し、いい言論を賞揚するというやり方(つまり検閲)からは、よきものは何も生まれないということである。

「我々は清浄な心をもってこの世に生まれるのではなく、不浄の心をもって生まれてくる。我々を浄化するのは試練である。試練は反対物の存在によってなされる。悪徳の試練を受けない美徳は空虚である。美徳を確保するためには、悪徳を知り、かつそれを試してみることが必要である。罪と虚偽の世界を最も安全に偵察する方法は、あらゆる種類の書物を読み、あらゆる種類の弁論を聞くことだ。そのためには、良書悪書を問わずあらゆる書物を読まなければならない」「神が人に理性を与えたときに、選択の自由も与えた。神は彼を自由なままにおき、いつもその目に入るように誘惑物を眼前に置いた。その自由な状態にこそ彼の真価が存する。もし彼の行動がすべて許可され、規定され、強制されたものだったら、どこに彼の美徳の価値があるか。どこに彼の善行の価値があるか。悪の知識なくして、どこに選択の知恵があるか」

 いい言論と悪い言論は、人間には区別できない。いい言論にも悪い言論にも同じような存在価値がある。だから言論の自由は無差別に守られる必要がある。これが言論の自由を守る意義の根幹にある真理なのだ。それが裁判所にも、大マスコミにも理解できていないようだ。 次へ  前へ





(私論.私見)