「本田雅和記者」考

 「2005NHKと朝日の面子泥試合」の仕掛人となった朝日新聞の本田雅和記者の芸風がとやかく指摘されている。NHK番組改変問題・朝日新聞スター記者が謝罪した恥ずかしい過去 [週刊文春2.3日号]等を参照し、本田記者の人となりを知っておこうと思う。

 「ゴーマニズム宣言!」の著者小林よしのり氏は、本田記者を廻る次の逸話を明らかにしている。
 概要「三五館で、わしと鈴木邦男、みなみあめん坊がてい談していた時、朝日の記者がオブザーバーとかいう役で割り込んできた。本田雅和という記者だ。本田記者は次のように述べた。『僕はね、差別いうのは、経済構造やと思ってるんです』、『筒井は金もうけしたいやつなんです』、『それを例えば部落解放同盟でもじゃまする団体やしてんかん協会もじゃまする団体なんですよね』、『自分の本を売りたいただ商売なんです』」。

 勢い余って小林よしのり氏にも、皇太子御成婚を取り上げた漫画が自主規制でボツにされたことについて、『会見を開いてキチンと説明すべき』と迫った。小林よしのり氏は、ボツにされた作品が最終的に単行本に収録されるまで断固として闘かったこと、しかも経緯をキチンと発表していることを説明すると、本田記者は非を認めざるを得なくなり、次のように謝罪した。「『もう・・・ もういいです。申し分けありませんでした。よく勉強してから人を非難するようにします』」。

 小林よしのり氏は、本田記者の印象について次のようにコメントしている。「本田記者は事実関係を調べもせず、自分の思い込みだけで人を批判する。しかも非常に高圧的で、漫画家を見下ろす態度が嫌らしかった」。そういう経験を持つ小林よしのり氏は、「2005NHKと朝日の面子泥試合」を廻り本田記者の果たした役割について、次のように述べている。「一連の報道を観察して思うのは、本田記者の一方的なものの見方とキチンと調べもせずに意見をいう姿勢は、今も変わっていないということです」。

 ところで、本田記者の「筒井断筆宣言直後インタビュー」も考察するに値する。仔細は不明であるが、教科書にまで載っていた筒井氏の小説「****」の文中の「てんかん」記述が、日本てんかん協会より患者への差別を助長するという理由とする抗議に遭い、これに怒った筒井氏が「断筆宣言」をしたという事件が発生した。この時、「言葉狩り論争(差別語論争)」が起こっている。本田記者は当時メディア欄を担当しており、筒井氏をインタビューし、「作家は特権階級ですか。前衛ですか」と詰め寄ったエピソードを持つ。これに対する筒井氏の返答に興味があるが不明。

 以上から推測できることは、本田記者が、今や第四権力とも云われるマスコミ圧力の無自覚な行使者であるサマである。「2005NHKと朝日の面子泥試合」を通じて露見することは、「マスコミ圧力」の常套者が「政治圧力」を論じているという滑稽な構図である。世の中はそんなものかも知れない。

 なお、この「言葉狩り」に対して、れんだいこは一家言持っている。ここでは記さず又の機会に論じようと思う。

 2005.2.16日、3.13日再編集 れんだいこ拝

【れんだいこの本田記者敏腕考】
 本田記者の全体像は分からないが、本田記者の秀逸記事を指摘しておこうと思う。れんだいこのサイトに目を通しているうちに偶然原水禁運動分裂経過に対する赤旗論文の詐術考に行き当たり、「2002.9.8日付け赤旗の原水爆禁止運動に偏見を持ち込む『朝日』の特異な立場」論文で批判されている朝日新聞記事の筆者が「社会部・本田雅和、北川学」であることを思い出した。

 件(くだん)の記事は、赤旗論文の批判にも拘わらず、朝日新聞記事の方に正当性があり、その指摘が「スッキリさわやか」である点で、れんだいこが格別評価しているものである。これを確認しておく。れんだいこは、「朝日新聞記事」の原文を知らないので、赤旗論文の記述に従い推理していくことになる。

 2002.9.2日付の朝日新聞記事「分裂続く原水禁・原水協 反核運動結集なるか」(社会部・本田雅和、北川学)は、「日本の原水禁運動は分裂したままであり、いまこそ運動の構造改革と力の結集が必要だ、運動を広げるためにも共産党はまず一歩下がることを考えるべきではないか」と意見している。

 これに対して、赤旗は、「この記事は、原水爆禁止運動と世界大会についてゆがめて報じるだけでなく、日本共産党を名指しして非難する異常なものです」と批判している。

 どこが史実歪曲で、異常批判なのかというと曰く、概要「原水協運動において一貫して正しかったのは日共系原水協であるのにそこを評価せず、原水禁運動との野合的共同集会を呼びかけているのがけしからん」という論調となっている。では、日共系原水協運動のどこが正しかったのかというと、「核兵器廃絶を緊急の課題として正面にかかげ、一致点で共同するという二つの原理、原則を守ってきた」のが原水協である、と云う。 更に、概要「対話・交流・共同のよびかけには答えず、対話さえも拒んでいるのが原水禁であり、セクト的対応に終始している」、と云う。

 興味深いことは、2000.8.9日付朝日記事が、「今回と同じ記者自身が、二年前にはこうした事実を無視できず、「原水協は二年前から、何回か原水禁側に共同行動を呼びかけている。だが、原水禁側は『激しい排斥と攻撃を加えたのはどちらか』と過去にこだわる」と報じているのを逆手に取り、原水禁のセクト的対応については朝日新聞記事が認めていることではないか、とレトリックしていることである。

 結論として、「朝日記者のこうしたやり方による記事は、事実に目をふさぐ、まさに自作自演の報道といわなければなりません。もちろん、朝日記者が個人としてどのような考えを持とうと自由です。しかし、いやしくも新聞記者として取材し、記事を書こうとするなら、色眼鏡でなく、公平な目でみることが、最低限の責任です。(I・S) 」と書き付けている。

 事情の疎いものは、例によって赤旗論文の詐術に乗せられてしまう。あたかも知らさないからこういう芸当が出来るとして、平素より愚民教育している観がある。れんだいこが赤旗論文のウソを暴き、本田雅和、北川学記者の見識の秀逸さを称えてみたい。

 まず、原水禁に対し、末尾の「(注)」で、「原水禁とは、原水爆禁止日本国民会議の略称。社会党、総評の特定の見解が受け入れられなかったからとして一緒にやってきた世界大会から分裂し、一九六五年に結成されました」と書き付けているウソの告発から始めたい。

 原水禁が、「社会党、総評の特定の見解が受け入れられなかったからとして一緒にやってきた世界大会から分裂したのかどうか」。このウソを暴くために、「原水禁運動考」(gensuikinnundoco.htm)、「理論的対立の検証(4)原水協の分裂考」で解析した。

 要するに、戦後原水禁運動の反戦平和の願いを、党派的な観点から「資本主義の核は悪い、社会主義の核は良い」とする党派的立場から分裂を持ち込んだのが宮顕系日共であり、その独善主義に閉口して分裂を余儀なくされていったのが原水禁運動であるという構図で見るほうがまだしも正しい。

 ここでは触れられていないが、回りくどい言い方で「如何なる核実験にも反対」の原則的立場を堅持してきたのが原水協である、と受け止めがちな詐術さえしていることである。史実は、社会党系の「いかなる核実験にも反対」に反対してきたのであり、この経過には一大政治ドラマがある。

 今現在日共が「いかなる核実験にも反対」するのは結構なことであるが、自己批判抜きに転換し得るような生易しいものではない。それを厚顔無恥にやり遂げる宮顕ー不破系日共党中央の詭弁にはあきれ果ててしまう。

 なお、原水禁運動の分裂事態を悲しみ、原水協、原水禁の双方から何とかして共同集会へ漕ぎつけようと努力する経緯があった。それを壊したのが日共党中央であり、幾度も試みられ幾度も壊してきたのが日共党中央である。この史実も「原水禁運動考」に記した。これらを踏まえれば、赤旗論文執筆者の「色眼鏡でなく、公平な目でみることが、最低限の責任」は手前の方にこそ投げ返される言葉であろうに。

 以上を踏まえて、話を戻す。2002.9.2日付の朝日新聞記事「分裂続く原水禁・原水協 反核運動結集なるか」(社会部・本田雅和、北川学)の「日本の原水禁運動は分裂したままであり、いまこそ運動の構造改革と力の結集が必要だ、運動を広げるためにも共産党はまず一歩下がることを考えるべきではないか」との意見は、「原水禁運動考」するものなら誰しも辿り着く見解であり、それを本田雅和、北川学記者が書き付けた意義は大きい。

 れんだいこは、本田記者の卓見記事の一つではないかと評している。もっとも、こたびの「2005NHKと朝日の面子泥試合」の発端記事の評価とは別だ。れんだいこは、本田記者の安上がりの正義が海老沢会長追い落としに上手に利用されたのではないかと推理している。

 2005.3.12日 れんだいこ拝

【本田記者の「松井やより追悼」考】
 「諸君」2005.3月号の西村幸祐氏執筆の「天下の朝日に『本田雅和』記者あり」に、「女性・戦争・人権」学会(志水紀代子代表)の機関誌第6号の「追悼 松井やより」特集に掲載された本田記者の「私に『夢』を語り続ける『松井やより』」が紹介されている。興味深い記述が為されているので引用する。

 本田記者は次のように記している。
 「私は『松井やより』と『本多勝一』にあこがれて朝日新聞社を志望したミーハージャリンコ(ジャーナリストのガキ・卵たち)世代の一人であった。70年代後半の大学時代、学制新聞をつくっていた私は、自分の所属する新聞会と女性解放研究会の共催で開かれた『日韓人民連帯の夕べ』で、ソウルから帰国したばかりの猪狩彰特派員と一緒に講演にやってきた松井やよりを始めて見た。かっこよかった。日本の男たちによるキーセン観光を厳しく批判していた彼女は、しかし、私には『闘士』には見えなかった。まっすぐだけど、どこかしなやかで、『フェミンで(もちろん女性的という俗な意味ではなく、ほんとの意味でフェミニスト的という意味で)まぶしかった』としか表現のしようがない」。
 「しかし、運良く私が入社した朝日新聞の中での『松井やより』の評価は、外でのそれとは正反対のものだった。私が地方勤務を終えて東京・社会部に来た85年ごろ、松井さんは社会部のオッサンたち(私も今やこのカテゴリーに入ったが)からひそかに『松井女史』などと呼ばれて、敬遠され、いや煙たがられ、陰口をたたかれていた」。
 「松井さんはジャーナリズムとNGO・市民運動の境界線上にいて、その境界をまたいで行き来しながら、いわゆる慰安婦問題=日本軍性奴隷制度(松井さんの尽力があつてこの言葉が国連用語になり、国際的市民権を得たことにも大きな感慨を覚えるが)をはじめとしたフロンティアを開拓してきた。ジャーナリズムでも、朝日新聞社退職後に専念したNGO活動でも、休むことなくまったく新しい分野に次々と挑戦した。権力にすり寄り、言論を忘れて利潤追求路線をひた走るマスメディアに対しては、厳しく刃を突きつけていた」。

 本田記者は、松井やよりと本多勝一が憧れの人であったこと、松井やよりが「敬遠され、いや煙たがられ、陰口をたたかれていた」ことを明らかにしている。概要「そんな陰口は、優秀な女性記者に対するしっとと妬みと偏見とうそだと憤った」、とも記している。自身の立場を、概要「私たちは、ジャーナリズムの分野で松井さんと志をともにしてきた」とも吐露している。
 
 本田記者は、松井氏が朝日新聞社を退社して後取り組んだNGO活動、その総仕上げとなったのが女性国際戦犯法廷と深くかかわる。次のように記している。
 「2000年12月の女性国際戦犯法廷の準備段階のこと。戦後補償問題担当の私のところに、松井さんは何度も何度もしつこく電話をかけてきた。『ちゃんと記事にしてね。きちんと報道してね』。どんな素晴らしいことょやっても報道されなければ多くの人々に知ってもらえない。そんな彼女の気持ちはいたいほど分かっただけに、私は社内の言論状況を出来るだけ詳しく説明し、『予断も楽観も許されない』と言い、記事を大きく扱うことへの反対論として『法的拘束力のある法廷でもない、一民衆運動に過ぎないから』という論理を説明したときだった。『どうしてそんなことばかりいうの』という彼女は何かが切れたように電話の向こうで泣き出したのだった」。

 朝日新聞は、松井やよりが精力的に取り組んだ女性国際戦犯法廷に関する記事を積極的に流している。2000.11.12日に「性暴力裁くモデルに 女性国際戦犯法廷 来月東京で」。12.5日に「女性国際戦犯法廷 慰安婦制度の犯罪明確に」(本田記者)。12.7日に「戦時中の性暴力裁く『女性国際戦犯法廷』あすから」。12.12日に「やまぬ紛争下の性暴力 現代の女性に対する犯罪」(本田記者)。12.13日に「『昭和天皇にも責任』指摘 政府は謝罪を 慰安婦問題女性法廷閉幕」。12.14日に「『女性国際戦犯法廷』が閉幕 慰安婦制度の国家責任立証」(本田記者)。つまり、本田記者は、2000.12月に3本の署名記事を書いていることになる。

【「女性・戦争・人権学会」考】
 「女性・戦争・人権学会」(志水紀代子代表)は、ホームページで、学会趣旨を次のように広報している。

 1993年ウィーンの国連人権会議で、「女性の権利は人権 である」ということが世界的に認知され、その後95年の北 京女性会議ではこれを踏まえて北京宣言、北京行動綱領 が採択されて、長い男性支配の中で闇に閉ざされてきた女 性の人権に光が当てられるようになりました。その北京会 議で、日本軍「慰安婦」問題が大きく取り上げられ、世界の 女性たちによって、その問題が女性の人権意識として理解 され、その解決を求められました。さらに96年4月には、こ の件に関する特別報告者R・クマラスワミ氏による日本政 府への勧告がジュネーブの国連人権委員会で満場一致で 可決されたことは、よくご承知のことと思います。 

  こうした世界的な潮流の中で日本は戦後50年を折り返 し、隠蔽され続けてきた日本の戦後史にようやくメスが入 れられ、公教育の場でおそまきながら事実に基づいた歴 史を語り継ごうとし始めた矢先、「正史の復権」を標榜する 国家主義的な動きがあらわれました。私たちはそのような 反動的な動きの背景にあるものを解明していく責任がある と思います。そのための理論の形成と意見交換の場として あたらしく「戦争」「女性」「人権」を論じる学会設立を呼びか けました。幸いにして、国内外から多数の賛同をえることが できました。 

 私たちは学会設立の目的として、これまでの男性中心の 歴史が封じ込めてきた「女性に対する暴力」の究明を通し て、支配・従属の権力構造を明らかにしていきたいと思い ます。身近な問題から地球規模の問題まで、個々に問題 を提議し合い、討論する場をめざしています。個々人が自 由に、主体的に活動していくことを原則に、既成の学会に はない開かれた論争の場にしていきたいと考えます。

 以上のような趣旨でもって「女性・戦争・人権」学会を発会 します。


【本田記者の履歴考】
 横浜国立大学経済学部卒。1979年、朝日新聞入社。

 盛岡など地方支局を経た後、東京社会部に配属され、「週刊朝日」編集部や横浜支局次長などを経験。一貫して社会部畑。著書「巨大都市 ゴミと戦う」(朝日新聞社)、「環境レイシズム」(解放出版社)。

 1992〜93年、アメリカ・ジョージタウン大学公共政策大学院に研究員として留学。この時、ブラジル・リオデジャネイロで開かれた地球サミット(国際環境開発会議)関連記事を発信。

 1994.9月にエジプトで開催されたカイロ人口会議で、中絶問題記事を発信。94年にメディア欄担当。差別と表現の自由の問題に取り組む。

 毎年8月になると、原水禁運動や被爆者同盟の取材を発信。

 その後、護憲の立場から憲法問題に関わり、大型企画「憲法を考える」を2000.10月から約3年間手掛ける。NGO関連記事も多数発信。

 北朝鮮訪朝。2000.8月、市民団体ピースポート訪朝団に同行。「雪解けの兆しの中で 北朝鮮の今」連載。2002.5月、元日本軍従軍慰安婦ら戦争被害者が集う『日本の過去の清算』を求める国際会議の取材で、再訪朝。

 2001.9〜10月、9.11直後、緊迫するアフガニスタンに飛び、北部同盟前線ルポを発信。イラク戦争では、開戦前からヨルダンに乗り込み、人間の盾と現地の反戦運動を取材。開戦後、バクダッドで取材。

 云える事は、「弱者の眼での現場主義」をモットーにしている様子が明らかになる、ということか。




(私論.私見)