「翻訳、評論の原則、ルールとマナー考」 |
(最新見直し2010.04.25日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「翻訳、評論の原則、ルールとマナー考」をしておく。近現代社会は殊のほか著作権に煩く引用転載に制限を課しつつある割には、「翻訳、評論の原則」には却って無頓着、無能になりつつある気がしてならない。本当に大事なのは翻訳、評論のルールとマナーの方なのに、こちらの方は疎かにされ、代わりに引用転載のルールとマナーが強権化しつつある。この錯綜を如何せんか。 ありてい云って、引用転載論は、そうは難しい問題ではない。要は、引用転載に対して課金せんとしたり情報統制せんとしたりする立場から、あれこれ諸問題が起きつつあるだけのことである。その邪さを見抜けば頭が要らない問題でしかない。これに比して、翻訳、評論の原則にはかなり高等な頭脳が要求される。これには長い訓練を要する。それ故にか、こちらの方の錬磨は敬して遠ざかる風が見られる。しかしながら、「翻訳、評論の原則」の確立問題こそ精魂を傾けるべきで、そういう意味で著作物に於ける真の現代的課題とすべきではなかろうか。こういう関心から、ここで、「翻訳、評論の原則、そのルールとマナー問題」を考察しておくことにする。 2010.04.21日 れんだいこ拝 |
【「翻訳、評論の原則、ルールとマナー考」】 |
翻訳、評論の原則はまず、対象となっている「原文の正確な模写」を要件とする。ここが第一歩である。口で云うのは簡単であるが、これが難しい。故に、ここで軌道を外れている翻訳、評論が多過ぎる。補足すれば、「原文の正確な模写」とは原文の直訳を意味しない。或る意味で、翻訳者、評論者の意訳にならざるを得ない。古文の場合には、原文の直訳よりも現代的な云い換えが必要とされる。それやこれやで意訳概要的にならざるを得ない。しかしながら、これは、「翻訳、評論の原則、ルールとマナー」に合致していると考えるべきであろう。要は、論旨を変えないと云う条件で、多少の変更は許されるとすべきであろうと云うことである。 翻訳、評論の原則は次に、「原文の格調、韻律、力点通りの正確な表現」を要件とする。これも口で云うのは簡単であるが難しい。れをもう少し詳しく見れば、格調、韻律は極力と云うことで良かろう。日本語と外国語には一致しない韻律があるので、その通りに訳すことは不可能と云う面があろうから。但し、原文の力点については正確に表現せねばならない。つまり、原文が強調している下りはその通りに、抑制している下りはその通りに訳さねばなるまい。悪訳の場合、これを逆にしていることがある。 翻訳、評論の原則は次に、「原文の結論を違えてはならない」を要件とする。これは簡単である。意図的故意でない限りは逆さまの結論に訳すことはない。ところが、悪訳の場合、結論違いが時にある。心せねばなるまい。読者は、これを見破らねばなるまい。 以上を「翻訳、評論の原則、ルールとマナー」としておく。つまり、1・「原文の正確な模写」、「原文の韻律、力点通りの正確な表現」、3・「原文の結論を違えてはならない」を三大要件としておく。 世の翻訳、評論は、この三大要件の水準以下のものが多い。そこで、どうしても原文に目を通さないと得心できないことになる。しかし、逐一目を通すことは膨大な時間を費やすことになるから、どうしても水準点以上の翻訳、評論を共同ないしは連帯、環で作業せねばならないことになる。或いは、先行訳本の改訂に次ぐ改訂で「よりまし本」を作成せねばならないと云うことになる。 この作業に立ちはだかるのが近時の強権著作権論である。その推進者の言辞によれば、著作物は逐一著作権箱に格納されており、これを利用する際には逐一著作権者ないしは管理者に対して「事前通知、事前承諾」を要せねばならないらしい。更に、著作権者ないしは管理者が対価請求すれば、これに応ぜねばならないらしい。更に、著作権者ないしは管理者が拒否すれば引用も転載もできないらしい。これを仮に「強権著作権のルールとマナー」と命名すれば、「強権著作権のルールとマナー」が如何に「翻訳、評論の原則、ルールとマナー」確立を阻害しているかが分かろう。 そこで、こう解決すべきではなかろうか。「強権著作権のルールとマナー」に対して、典拠元を明らかにし、著作権者の氏名等を著作権者の願う通りに明らかにしたりしなかったりするという条件に於いて、著作物を利用する際には「翻訳、評論の原則、ルールとマナー」を守りさえすれば、著作権者ないしは管理者に対して、1・「事前通知、事前承諾」を要しない著作権論を生みだす必要がある。更に、対価請求に対して、2・これを流通末端の愛好レベルでは拒否することができる著作権論を生みだす必要がある。更に、引用転載の拒否に対して、3・引用転載に正当な事由があれば構わず引用転載できる著作権論を生みだす必要がある。これを仮に「融通著作権のルールとマナー」と命名する。 れんだいこは一刻も早く、「翻訳、評論の原則、ルールとマナー」と調和する「融通著作権のルールとマナー」を確立せねばならないと思う。同じルートマナーでも、これほど対照的であるということが分かって欲しいと思う。更に云えば、この種の対立ははるか昔より続いているとみなす視点が欲しい。つまり、人はどちらの側でルールとマナーを確立しようとしているのかを問う思想と目線が要請されているということを知って欲しいと思う。 さて、「融通著作権のルールとマナー」を確立してより、いよいよ「翻訳、評論の原則、ルールとマナー」に精通せねばならない。近時、インターネットが発達し、ネット掲示板辺りでは容易に議論が可能である。ところが問題が多い。というのは、れんだいこも自戒せねばならぬが、まず発信側が正確に論旨を展開せねばならない。何を云っているのか分からないような発信は禁物であろう。次に、受け手側が、発信者の論旨を正確に受けて賛同するなり疑問を提起するなり反駁するなりせねばなるまい。以下、次の受け手も順次同様である。ところが、これがからきしできていない。 なるほど議論の質は一朝一夕には高められない。故に稽古と考えれば逐一目クジラするほどのことではないのだが、議論に参加する者同士が向上心を持たねば生産的な議論にはならない。このことだけは最低限意思一致させておかねばなるまい。 2010.04.21日 れんだいこ拝 |
【「伝記の原則、ルールとマナー考」】 |
ついでに、「伝記の原則、ルールとマナー考」もしておきたい。思うに、「翻訳、評論の原則、ルールとマナー考」と同様に、「当人履歴、該当事象の正確な模写」を要件とすべきではなかろうか。ひとたびは、極力克明に追跡すべきである。創作がイケナイということではないが、その場合でも「有り得る話」にせねばなるまい。いわゆる印象を生みだすことになるので、極力史実に近くすべきではなかろうか。そのうちの何を採り上げるのか、どう構成するのかは書き手の自由であろう。最後に、評価が問われることになる。これは、書き手の主観で良かろう。しかしながら、あくまでも史実に基づいての判断による主観でなければオカシかろう。以上簡単ながらコメントしておく。 2010.04.21日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)