「マスコミの発言歪曲記事報道考」

 (最新見直し2011.09.10日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、マスコミ記者の「取材発言歪曲記事報道」について考察しておく。

 2009.10.22日 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評617 れんだいこ 2009/10/23
 【マスコミの発言歪曲記事報道考】

 「市民の市民による市民のためのメディア」を標榜するネットサイト「JanJan」が「『新聞記者は出て行け』 佐藤退陣会見から37年〜TVからネットへ 田中龍作2009/10/21」記事を発信している。これを解析しようとしたところ、トップページ末尾に「JanJanに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。全ての内容は著作権法並びに国際条約により保護されています」と但し書きしているので、れんだいこ作法により採らないことにする。

 該当記事は、かっての佐藤栄作首相の退陣記者会見での佐藤首相の「新聞記者は出て行け、偏向している新聞は嫌いだ、私は直接国民に語りかけたいんだ」発言を紹介している。次に、2009.10.20日の岡田外相の同主旨発言を伝えている。岡田外相は、核の先制不使用とインド洋での給油をめぐる発言を伝えた新聞記事に対し、自分の意図とは異なる記事内容であると不快感を示し、外務省会見室での定例会見でこう述べたという。「私の発言が正確に受け取られていないことが最近いくつかあって…(中略)…私の発言は正確に引用して頂いたうえで『こう判断する』と記者の判断であることが分かるように記事にして頂きたい。私が言った趣旨とは違う勝手な解釈をして書くようなことは止めて頂きたい」。

 この問題について、れんだいこが言及しておく。これは岡田発言が正しい。そういう意味では、佐藤発言にも、それなりの根拠があったのではなかろうかと今にして思う。JanJan記事発信者の田中氏は次のように述べている。概要「オリジナル発言とは随分違った記事になることが多い。発言した側にすれば『俺はこんなこと話してないぞ』ということになる」。

 これは内部発言だからして重みがある。これが常態とならば、マスコミのこういう作風は大変な悪事ではなかろうかということになる。そもそも論で云えば、記者が、取材発言をどのように加工して記事にするかは、その記者と記事を掲載する報道各社の自由自主自律に任されている。それはそれで構わない。そうでなくては報道の自由、言論の自由がなくなるから。問題は、第四権力と云われるマスコミ人の責任感と能力にある。すべからく「取材発言趣意を正確に伝える記事」に傾注努力すべきで、御用提灯化したり曲解報道に耽るのはご法度とすべきであろう。この自覚なき無責任な記事は自由自主自律的にチェックされ自制されねばならないのではなかろうか。却って報道の自由、言論の自由を内部から崩すのではなかろうか。

 問題は、「当事者たちの発言内容とその趣意を正確に伝える記事」を発信しようにも、それはかなり高度な技であり、昨今のマスコミ人にそれが可能であるのかどうかというところにある。この能力に於いて彼らは既に著しく能力を欠損しており、その代わりにバカの一つ覚えのような著作権主張に明け暮れているのではなかろうか。チョサクチョサクという暇があるなら正しく報道する能力を磨いたらどうか。それができない代わりにチョサクチョサクと煩いだけのことではないのか。というようなことを述べてからかってみたい。

 もっとも、この傾向は昔からあるといえばある。気になっている発言があるので、この機にこれについて確認しておきたい。1950年代のこと、後に首相になる池田隼人は、「貧乏人は麦を食え」、「中小企業の一部倒産もやむを得ない」発言で物議を醸している。れんだいこは、何気なくやり過ごしてきたが、この発言にも「マスコミ操作」の臭いがし始めたので解析してみる。

 「貧乏人は麦を食え発言」については、「第009回国会 予算委員会 第9号」で確認できる。
(ttp://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/009/0514/00912070514009c.html)
 今、これを読み取ると、1950(昭和25).12.7日、池田蔵相は次のように発言している。「御承知の通りに戰争前は、米100に対しまして麦は64%ぐらいのパーセンテージであります。それが今は米100に対して小麦は95、大麦は85ということになつております。そうして日本の国民全体の、上から下と言つては何でございますが、大所得者も小所得者も同じような米麦の比率でやつております。これは完全な統制であります。私は所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたいというのが、私の念願であります」。

 この池田蔵相発言に対し、質疑者の木村禧八郎・社会党議員が、「所得の多い者は米を食え、所得の少い者は麦を食え、例えば農村に例をとればお百姓さんは昔のように稗です粟でも食え、米を食うのは主食の統制の結果だ。それだから食習慣を昔に戻すためにこういう食糧の価格体系を考えたのである。こういうような答弁でありましたが云々」と意訳させて問題発言化させた。

 このやり取りを、「池田蔵相の『貧乏人は麦を食え』発言」として報道して行ったのが当時のマスコミであった。果たして正確であったであろうか。事実は「貧乏人は麦を食え」とまでは述べておらず、「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような経済の原則」についての池田流発言とみなすべきであり、さほど目くじらするほどのことではない。むしろ、前後のやり取りを読めば、当時の国会質疑の互いの真剣さ、質問内容の質の良さ、答弁の質の良さが見えてくる。こういうところを踏まえねばならない。この池田蔵相食言報道は為されたものの、これによって池田蔵相の問責にまでは発展していないので、多少は茶目っ気として許されるかも知れない。

 もう一つの「中小企業の一部倒産もやむを得ない。経済原則に違反して、不法投機した人間が倒産してもやむを得ない」発言については、「第015回国会 本会議 第7号」で確認できる。
 (ttp://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/015/0512/01511270512007c.html)
今、これを読み取ると、1952(昭和27).11.27日、池田通産相は次のように答弁している。「なお、特に御質問のありました昭和二十五年三月一日の私の言として新聞に載りましたことにつきましては、その直後、この壇上で私の心境を話しております。その後におきましても何らかわりはございません。ここではつきり申し上げますが、インフレ経済から安定経済に向いますときに、この過渡期におきまして、思惑その他の普通の原則に反した商売をやられた人が五人や十人破産せられることはやむを得ない――お気の毒ではありまするが、やむを得ないということをはつきり申しておきます」。

 これに対し、加藤勘十・社会党議員が、問題発言であるとして次のように述べている。「ただいま私の質問に対して、各大臣はまつたく焦点をはずれた、でたらめな答弁をされておる。(拍手)のみならず、外務大臣は答える道を知らない。このような不誠意な内閣が一体どこにあるか。(拍手)しかも、通産大臣のごときは、みずから五人や六人……。〔発言する者多し〕。一体、五人や六人の国民は死んでもいいのか、それはどうかと聞いておるのである。これに対して通産大臣は一体何と答えたか。(拍手)ひとり議員を侮辱するばかりではない。全国民を侮辱するものである。(拍手)私は、通産大臣の明確なるお答えと、外務大臣のはつきりしたお答えを聞きたい。(拍手)」。

 社会党らしい揚げ足責めが見えてくる。池田通産相が大局的に分析して企業淘汰論を述べているのに対し、社会党は、個別特殊例をことさら取り上げて、「一体、五人や六人の国民は死んでもいいのか」と迫っている。これに対し、池田通産相は次のように述べている。「私の心境は、インフレ経済から安定経済に参りますとき、やみその他の正常な経済原則によらぬことをやつている方がおられた場合において、それが倒産をし、しこうしてまた倒産から思い余つて自殺するようなことがあつてお気の毒でございますが、やむを得ないということははつきり申し上げます」。

 このやり取りを、池田再食言として問責報道して行ったのが当時のマスコミであった。果たして、正確であったであろうか。事実は、朝鮮動乱下の好景気に沸く中での企業倒産に対してまで責任を持てない云々と、ある意味で当たり前のことを述べているに過ぎない。池田通産相は、この発言報道により、翌日に不信任案が提出可決され辞任に追い込まれている。こうなると報道責任もあるように思われる。本当にケシカランのはどちらであったのだろうか。

 思うに、マスコミには、この当時からこのような習性があり、かなり政治主義的なペンを揮っていたことが分かる。一連の池田食言報道は、その例証である。ただ今日との違いは、当時は社会党にシンパ的な報道であり、日本左派運動的には、当時のマスコミが左寄りであったことが分かり興味深い。ところが、現下のマスコミは違う。こういう習性だけは引きずりながら国際金融資本寄りの「売国正義」のペンを振るい続けている。今や食えたものではないという違いがある。

 文章が長くなると読みにくいので、以下はしょる。「取材発言趣意を正確に伝える記事責任」は、報道を生業とするものの義務である。この義務に対する練磨をせずに、著作権に狂っているのが昨今のマスコミの現状である。これを嘆かわしいことと思うのは、れんだいこだけだろうか。恐らく、人の頭と云うものは一度形成されたら治りにくい。そこで、新しい感覚の人材が登用されて新しい時代を切り拓かねばならない。こうしないと時代が変わらない。既成の秩序と機溝をそのまま使う訳には参らない。鳩山政権は、これを知り、この負託に応える能力を持っているだろうか。ここが見極めどころとなっている。

 2009.10.23日 れんだいこ拝

 引用先は失念したが、転載しておく。
 「物理的な生命すら失いかねません」、「911インチキテロをを主導した、あの醜悪で卑劣で傲慢なユダヤ老人」。ブッシュの背後にいるユダヤ人大富豪、ロックフェラー、ブッシュの黒幕である、隠れユダヤ人デービッド・ロックフェラー翁。「ユダヤとイスラエルの悲願」、「ブッシュ親子の自作自演テロ」、「大イスラエル建国計画」、「ブッシュもロックフェラー同様に、隠れユダヤ人
 「ニューヨークのマンハッタンの高層ビル最上階のユダヤ系大銀行会長室から六本木ヒルズ最上階のユダヤ系金融機関の司令塔。2002.3.1日、ユダヤ老人が小泉を訪れ、極秘でさまざまな指示をして行った。以後、小泉はユダヤのご主人様の言いつけ通りに事を運んでいる。小泉はただのユダヤの飼い犬。

 大新聞やテレビも偏向メディア。特に読売・産経はもはや日本人のためのメディアではなく単なるユダヤ広報誌。既存メディアは広告収入に依存しています。ユダヤ世界権力に不利益な記事を書けば、ウォール街のユダヤの出先機関である電通の手で、干されます。エクソン・モービル、モルガン・チェース、ベクテル、ハリバートン、GMといったユダヤ大企業が、広告宣伝を引き上げをほのめかします。さらには、民放が大きく依存している広告主である米系の生保や損保は、勿論、ユダヤ系です。保険会社が広告引き上げをちらつかせれば、テレビも系列の新聞も、ユダヤの暗躍には一切触れなくなります。AIGだの、AFLACのアヒルがどうしたこうしただのの大量の広告宣伝がなくなれば、経営の悪い毎日新聞など、即刻、断末魔です。それだけではありません。利害関係のあるほかの日本企業にも、同様に当該メディアを干すように要求してきます。

 (朝日新聞が、いつの間にか郵政民営化に賛成に廻っているのに気が付きます。朝日も所詮は、営利企業ということです。世界権力の前では無力です。)逆に、言いなりになったメディアを悪用して、小泉に選挙で勝たせ、改めて、郵政「ユダヤ化」を実現しようとユダヤ権力が企んでいるようです。かなりの金が動いたとする情報もあります。実際に、ワイドショー番組などでは、小泉に組する姿勢が鮮明になりつつあります。小泉に有利な支持率に関する世論調査結果も、調査方法におおいに疑問が持たれます。これらの既存メディアのみに情報を頼る人たちは、テレビの背後の電通・ユダヤ勢力の望むとおり、テレビによって教育されている」。


れんだいこのカンテラ時評bX97  れんだいこ 投稿日:2011年 9月10日
 【マスコミによる閣僚発言の政治主義的歪曲記事報道考】

 2011.9.8日、野田政権発足間もないこの日、マスコミが、鉢呂経産相発言を政治主義的に歪曲報道し辞任の流れを作ると云う不埒な事件が発生した。これを確認しておく。鉢呂経産相がする必要もない辞任を強要されている様子なので緊急投稿しておく。以下のサイトに書きつけておく。

 記事姿勢、論調論、事件考
ronpyo/mascomiron/kijishiseico/
kijishiseico.htm


 マスコミの発言歪曲記事報道考
ronpyo/mascomiron/kijishiseico/
hatugenwaikyokukijico.html


 この日、鉢呂経産相は、野田佳彦首相に同行して福島第1原発や原発から半径20キロの警戒区域を視察した。福島第1原発などを視察した際の印象について記者団に次のように語った。「残念ながら周辺市町村の市街地は人っ子一人いない、まさに死の街という形でした」。

 この問題で大騒ぎするのは悪質なフレームアップであろう。鉢呂経産相の「死の街発言」が問題なら、これまで左派圏で語り継がれている「死の灰発言」も問題にされるべきであろう。他にも「死の海」、「死の商人」等の表現もある。今後はこういう表現はできないのか、マスコミ諸君返答せよ。

 鉢呂経産相が、立ち退き命令でゴーストタウン化した福島原発近辺の「人っ子一人いない」情景に対し「死の街」と表現したとして、これが何で問題になるのか。れんだいこが現地へ行っても、そういう印象を持つだろう。マスコミは住民の怒りの声を次々報道することにより不適切発言であるかの如く誘導しているが、その魂胆こそ臭い。度が過ぎると言葉狩りになろう。マスコミは、鉢呂経産相の個性的表現を確認し、「で、大臣、この街は今後どうなるのでせう」と聞くのが仕事であるところ、「死の街発言」に飛びつ大騒ぎすると云う粗脳ぶりを丸出ししている。

 次にマスコミが飛びついたのが「放射能をつけたぞ」発言である。これにつき、当事者の毎日新聞記者が正確に報道する義務があるが今のところしていない。れんだいこ寄せられた情報によれば次のようなものである。「死の街発言」後の8日午後11時過ぎ、東京・赤坂の議員宿舎での取材で、10人程度の記者が鉢呂氏を取り囲み次のようなやり取りをしている。鉢呂経産相は防災服を着替えないまま議員宿舎に戻り、報道陣の取材に応じていた。

 記者「大臣(作業服)、着替えてないんですか」。大臣「今福島から戻ったばかりだ、そんな暇ないよ」。記者「じゃ福島の放射能ついたままですか」。大臣やや怒って、毎日新聞記者に近寄り、防災服をすりつける仕草をした。この時、「それがどうした? 放射能つけてやろうか?」と述べたと報道されている。

 末尾の「放射能つけてやろうか?」発言につき、鉢呂氏は、「(記者に)近づいて行って触れることもあったかもしれない。そういうこと(放射能をつけたぞ)は言っていないと思う」と釈明している。鉢呂氏は9日午後、「被災地に誤解を与える表現だった。軽率だった。被災をされている皆さんが戻れるように、除染対策などを強力に進めるということを申し上げたかった」と釈明している。

 この問題で責められるべきは果たして鉢呂経産相だろうか。どこの記者の発言か定かでないが恐らく毎日新聞記者として、この記者の「大臣(作業服)、着替えてないんですか」、「じゃ福島の放射能ついたままですか」発言の方が問題ではないのか。この記者は何が云いたいのか。防災服のままの姿を咎めたのではないらしい。「じゃ福島の放射能ついたままですか」の方に真意があり、その質問意図こそ詮索されねばなるまい。どういう意味の質問であったのか説明せよ。事と次第によっては、福島の原発被災地民の怒りは、この質問者の方に向かうべきではないのか。

 次に、「放射能つけてやろうか?」発言が為されていたとして、これを吟味したい。普通に読めば、放射能汚染を恐れる記者の様子を面白がって、近づくことにより「付くぞ、付けたろか」とからかった感じである。これが本当なら不謹慎であるが、誘導誘発した記者の質問の仕方にも問題があるのではなかろうか。手前は云いたい放題、相手の返答は逐一問題にすると云うのはヤクザの云いがかり論法である。大臣が放射能がついたままの防災服を着たままでいることは問題と思うが、そのようには問うていない。鉢呂大臣は、そのことに気が回らないほど被災地及び汚染問題を真剣に考えていた、その結果としての防災服着用姿だったと受け取れば美談になるような話ではなかろうか。

 毎日新聞記者の証言を要するところ記事がないのも釈然としない。仕草だけだったとも云われている。だとすれば「放射能つけてやろうか?」は捏造記事と云うことになる。仮に捏造なら、そういうものを大々的に報道した記者及び関係者は懲戒免職に値する話になる。今後の一罰百戒の為にも、そうせねばならない。その前に、鉢呂経産相の実際の発言をはっきりさせねばならない。

 この経緯にいして、野田首相も藤村官房長官も鉢呂経産相を庇っていない様子がうかがえる。本来は、「どういう状況、経緯のなかの発言か確認したうえでコメントする。今は情報収拾の段階である」云々で良い。この弁のないままに非常識発言として咎めているのは早計ではなかろうか。

 問題は、マスコミの変態的な嗜好性にこそあるように思われる。この時期の真の重大発言は、前原政調会長のワシントンでのトンデモ発言の方である。これを論評せぬままやり過ごし、鉢呂経産相発言に対して重箱の隅をつつくような報道の仕方こそ不正にしてイカガワシイ。自公、みんなの党―マスコミ連合の大騒ぎは虚に吠えているだけの党利党略でしかなく、これまたアホウ丸出しである。

 2011.9.10日 れんだいこ拝

 鉢呂放射能発言に対して各紙バラバラの表記になっている。「ほら、放射能」(読売)、「放射能つけちゃうぞ」(時事)、「放射能をつけちゃうぞ」(朝日)、「放射能をつけたぞ」(毎日)、「放射能をつけてやろうか」(日経)、「放射能をうつしてやる」(産経)、「放射能を分けてやるよ」(FNN)。本人は「言ってないと思う」と言ってる。これではまるで伝言ゲーム。どこまでが真実か分からなくなる。(内藤朝雄氏ブログ参照 http://d.hatena.ne.jp/izime/20110910) http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/393.html?c58#c58






(私論.私見)