「マスコミの冤罪扇動、冤罪、ヤラセ事件考」

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).6.27日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2004.2.27日、東京地裁は、オウム真理教元代表・松本智津夫(麻原彰晃)被告に対して死刑判決を下した。れんだいこは、この判決を一区切りに、日本左派党派はそれぞれの見解を対置させねばならない義務があると考える。しかし、現代は事件の、情報の風化が早過ぎる。様々な考察課題を残している「オウム真理教事件」も又忘却されていくのだろうか。

 いわゆる「オウム真理教事件」の史的意義を相応しく評する場合において、それは重要な事件であったのか、たいして意味のある事件ではなかったのかということになるが、もし前者の観点に立つとすれば、各派は、「オウム真理教事件」を自身のカリカチュアとして受け止めるなり、その似非運動性を批判するなり一定の見解表明を為さねばならない、と考える。そういう意味で、れんだいこは、各党派の様子を暫く見守りたい。れんだいこの「オウム真理教論」は、サイト「オーム真理教」で行うつもりである。

 2005.1.8日再編集 れんだいこ拝


【「河野氏冤罪事件」にマスコミの果たした役割について】
 控訴審が開かれるのかどうかは分からないが長い歳月を要しすぎたことは間違いない。この「長期化裁判の是非」はここでは問わない。解脱の第一人者グルと自称する麻原が、オウム真理教の数々の犯罪行為に対して、「弟子がやったこと故責任は問われないはず」なる卑怯姑息な法廷闘争を繰り広げている愚劣さもここでは問わない。ここで問うのは、「オウム真理教事件」の初期過程で生起した「松本サリン事件」の際の「河野氏冤罪事件」である。これを「マスコミ扇動冤罪事件考」として検証してみることにする。れんだいこには、こちらの方の意味のほうが重要であると考えるから。

 「麻原被告死刑判決」前後、マスコミはいつもの調子で一斉にこれを報じたが、大事な教訓の反芻を忘れている。「松本サリン事件」の被疑者・河野氏に対する過日の犯人扇動報道について謝罪する社は一社たりともなかったように見受けられるが、あまりにも虫の良い作法のように思われる。「地下鉄サリン事件被害者の会」関係者の怒りの手記については各社とも積極報道していることを思えば、マスコミのご都合主義が透けて見えてくる。知的所有権だの著作権だのについてはうるさいほどの権利意識を見せていることを思えば、この行状は滑稽さを通り越していよう。

 マスコミに信を置ける時代があったとは思えないが、以下世の冤罪事件の報道について限定的に言及する。戦後から1970年頃までの期間においてはマスコミはかなり熱心に報道し、個別に該当事件について精力的に報道するほか時に特集を組み世に知らしめてきていたと記憶するが如何であろうか。れんだいこは幼少の折、何度かそういう記事を目にした覚えがあるのでそう立論する。しかし、いつの頃からかこの構図が逆転し、冤罪事件告発に向かうこと少なくなり、むしろ逆に「事前に犯人扱いし、早く逮捕せよ、極刑にせよ」式の「マスコミ扇動報道」が頻出するようになった。この「マスコミの民間特務警察化現象」という時代的転換の諸理由を問い続けねばならないとするのがれんだいこ観点である。

 「マスコミの民間特務警察化現象」はそれ自体批判されるべきであろうが、その作用として犯人扱いが的を得ていればまだしもであろう。が、冤罪の可能性がある場合でさえ被疑者の諸権利を無視し、被疑者段階で早くも犯人扱いする報道が為されるようになりつつある。結果的に冤罪が判明した場合、マスコミは如何なる賠償責任を負うべきか、これについてマスコミが真摯に協議した例少なくとも著作権主張に見せる以上の熱心さで取り組んだ例を知らない。

 この件につきインターネット検索したところ、集団的過熱取材(メディア・スクラム)問題に関する民放連の対応についてに出くわした。これを読み取れば、社団法人日本民間放送連盟〔民放連、会長=氏家 齊一郎・日本テレビ放送網会長〕の報道委員会〔委員長=氏家 齊一郎・同〕が、2001.12.20日、「集団的過熱取材(メディア・スクラム)問題について、被害の防止や問題解決のため、取材上の留意点および対応策をとりまとめました」とある。しかし、あくまで「集団的過熱取材」についての多少の自制を促すものでしかなく、「マスコミの民間特務警察化現象」についての自制には触れていない。

 新聞協会の見解として被害者や家族らの苦痛に配慮も出されているようであるが、「なお、集団的取材であっても対象が公人もしくは公共性の高い人物で、取材テーマに公共性がある場合は、一般私人の場合と区別して考えることとする。われわれは今後も、必要に応じ見解を見直し、集団的過熱取材問題に適切に対応していきたいと考えている。各取材現場においても、記者一人ひとりが見解の趣旨を正しく理解し、この問題の解決に取り組んでほしい」なる文面であり、本質を衝いていない。というか、何の吟味もされないままに「報道の自由を守り、国民の『知る権利』にこたえる」必要も説いており、つまりは何の実効性も無い見解表明に終始していることが判明する。

 被疑者はマスコミの無法報道ぶりを告発し、裁判で争うことができようが、「松本サリン事件」の被害者河野氏の場合のようにその資格が十分であるにも拘らずしない場合もある。マスコミは、河野氏の弁えに図々しくあやかって頬かむりしたまま時の風化を待とうとしているように思える。著作権主張意欲の旺盛さに比して何とも得手勝手な作法のように思われる。

 インターネットを検索していると、2.28日付け産経新聞の
「オウム・麻原被告に死刑判決 メディアに課題残す」に出くわした。「一連の“オウム事件”は、それを報道してきたメディアの側にもさまざまな課題を投げかけた。十年目の今、メディアの何が変わり何が変わっていないのか。(鵜野光博)」と問う記事を載せている。

 これを見るのに、「“犯人”誤報」の見出しで、「平成六年六月、長野県で起きた「松本サリン事件」で、新聞をはじめとするメディアは被害者の一人、河野義行さんを犯人視した報道を行い、翌年の地下鉄サリン事件でオウム真理教の関与が明らかになるまで誤報を正さなかった。警察情報に頼りすぎる報道姿勢が批判されたが、警察の見込み違いが誤報につながる構造は現在も残っている」と問題提起している。そして、いわゆる「TBSビデオ問題」(教団に批判的な坂本堤弁護士のインタビューを教団幹部に見せていたことが七年十月に発覚。同社幹部は事実を知りながら否定を重ね、翌年三月に認めて謝罪、磯崎洋三社長は辞任した。筑紫哲也氏により『TBSは死んだ』とまで言われた)を大きく取り上げている。

 次に、「集団的過熱取材」問題を取り上げ、「この集団的過熱取材(メディア・スクラム)については、日本新聞協会と日本民間放送連盟が十三年十二月、スクラムが起こった際に取材者数や場所を制限したり、共同取材などを行う対応策を示している」ことを明らかにしたと述べただけの尻切れトンボ解説に終わっている。こういうコメントが出ているだけまだましという状況を考えれば批判の限度を弁えねばならないのだろうか。

 同じマスコミ人としてもっと真摯な内省が要る筈であるのに、あまりにも傍観者的というかテレビ局の対応を批判するすり替えで糊塗している。れんだいこには、河野氏冤罪問題でさえ食い物にしている無様な姿が窺える。新聞マスコミ人の僭越的な極楽トンボぶりを見て取り胸糞が悪くなるのはれんだいこだけだろうか。

【「ロッキード事件加熱報道」について】
 関係あるようなないような話ではあるが、最近気づくことは、テレビ番組でめたらやたらに「お上」の目線からの犯人逮捕事件物語が多いことである。うちのかみさんなぞはこれにイカレテシマッテイルので会話が通じない。水戸黄門シリーズなどはまだお笑いで済ませられるが、犯罪の陰にある社会性を鋭く問うような番組は死滅せしめられ、人情色をつけたにせよ刑事ご苦労さま番組が目につきすぎる。この現象は、スポンサーの御身安泰式の為せる業かどうか、いずれにせよ結果として総じて社会が保守化させられつつあることを物語っているように思われる。これこそまさに権力側の執拗な洗脳政策であり、洪水の如くな垂れ流しではなかろうか。

 識者はこの点を解析しないが、れんだいこは挑んでいる。れんだいこの眼には「ロッキード事件加熱報道」がその転回点になったように映っている。実際、あの狂騒を契機にして視点が逆展開させられ、何やら社会が総じて悪い方へつまり批判的視点よりは権力的発想へと観点が変わってしまった気がしてならない。もとよりそれ以前がとても良かった時代であるとまでは云わないが、ある程度のバランスがあったように思われる。「ロッキード事件加熱報道」以前は、政財官民において課題に対して正面から引き受け、喧々諤々する姿勢が共通していたのではないのか。それは、そのような人士が社会の上層部に居たからその影響を受けて下々の我々にもそういう作法が伝わっていたのでないかと思われる。

 それが何やら口先だけの正義論が横行する時代へ転換させられていった。典型的には中曽根式カンナクズ的歴史観のひけらかし、日共党中央不破の長大饒舌玉虫色弁術が代表する。1980年代より強権力の振りかざしが当局側の作法となり、これに応ずるかのように庶民大衆側は強いものに巻かれろ式の処世法へと先祖帰りし始めたように思われる。今日の政財官民の上層部に巣食うお歴々はかような手本を見せ続けているので、我々もそういう悪い影響を受けつつあるように思われる。

【冤罪事件に消極的な宮顕系日共の体質について】
 この経過の中で指摘しておきたいれんだいこ観点がある。こういう悪影響のもう一つの仕掛け人として日共党中央の影響を認めるのは行き過ぎであろうか。れんだいこは、「冤罪事件に取り組む姿勢が弱まり、代わりに先行して被疑者扱いして強権力の出動を要請するようになった転換の背景には、日共の社会的影響がある」ことを十分に認めている。どういうことかにつき、これを説明する。

 日共の最高指導者として君臨した宮顕が、過去に背負ったリンチ致死事件のトラウマで、冤罪事件に対する取り組みを掣肘させていった事情がある。宮顕が「戦前の小畑中央委員のリンチ致死事件」につき冤罪であるというのなら、戦後釈放後まず第一にこの冤罪に取り組むべきであった。しこうして同種の冤罪事件に対して再発防止の運動を大衆的に組織すべく奮闘努力すべきであったであろう。

 宮顕は何ゆえ大衆的に明らかにせず、当局との裏取引交渉にのみ専念したのか。それは事件に闇があったとしか考えられない。宮顕が自身の潔白を証せんとすれば、小畑中央委員のスパイ性を証明せねばならず、査問時の一部始終を明らかにせねばならず、宮顕云うところの小畑の「体質性ショック死」の様子を克明に弁証せねばならないことになる。これを為せば為すほど不利になる故に要するにできなかったのではないのか。

 冤罪事件の精力的な取り組みは、宮顕にとって厄介な事情を発生させる。宮顕の身の潔白を証する論理及び論法を育めば、その論理及び論法が小畑氏にもそのまま適用される可能性が生まれる。その時、仮に小畑氏の身の潔白が証されればどういうことになるのか。彼がスパイでなかったとしたら、それを査問致死させた側の責任はどうなるのか。査問した側の宮顕の方こそスパイの可能性が強いということになればどういうことになるのか。その査問が不慮の致死ならともかく明らかに寄ってたかっての圧殺死、その際に宮顕の役割が最も罪多いとすればどうなるのか等々。次から次へとこうした疑問が発生していかざるを得ない。

 こういう風に認識が成長していくことになる故に、宮顕の御身保身の必要があって、冤罪事件に対する究明及び批判運動が掣肘されていった経過は歴然とした事実である、とれんだいこは考えている。代わりに宮顕系日共党中央が編み出したのは、先行して被疑者扱いして強権力の出動を要請するあるいは自ら潔白を証明せよなる逆さ変調運動である。それはもはやどこから見ても共産主義者の運動ではなく、右翼的な当局の代理運動でしかない代物であるが、多くの者がこれに追随している。日共党中央のこういう姿勢がマスコミに影響して、はるけく今日の変調報道姿勢を生み出していっているように見える。

 このことに気づいているものは非常に少ない。が、我等が自称知識人の世界では、難しい判断が問われる場合にはまず共産党の見解を嗅ぐという作法が歴史的に形成されており、マスコミ界にはその強い名残りがある(さすがに最近ではこの伝統は費えたように思われるが)。その場合、徳球系党中央時代の日共見解ならともかくも、権力の内通者としての本性を巧みにカムフラージュしつつ党中央に君臨した宮顕系党中央の見解を仰いだものだから変調なものにしかならない。所詮アサハカでしかない付け刃式評論能力しか持ち合わせないマスコミは日共党中央の政変を見抜かず、相変わらず共産党の権威を信用して宮顕系の見解を受け入れていってしまったものだから、ろくなものにならない。

【「河野氏冤罪事件」に対する政党の温度差について】
 れんだいこは、「角栄考」で分析しているように「ロッキード贈収賄事件における角栄裁判」に対して冤罪説を執っている。しかしながら、これを断定する事は難しい事情にあるので、有耶無耶にならざるを得ない。しかし、「松本サリン事件における河野犯人説」はれっきとした冤罪であったことが判明しているので、冤罪事件を問う格好の素材たりうる。「松本サリン事件における河野犯人報道」にはそうした史的意義が認められるので、これを教材にしてマスコミの異常報道及び加熱報道ぶりを検証してみたい。

 2004.2.27日、東京地裁は、オウム真理教元代表・松本智津夫(麻原彰晃)被告に対して死刑判決を下した。これに対する各党の見解は発表しているところもあるがしていないところもあるようである。これを調べる暇もないしさほど意味があることのように思えないので最小限の確認をし、もっぱら「河野事件」に対する各政党の見解を記しておく。

 これによれば、自民党の見解は出されていないようである。代わりに小泉首相の死刑当然見解が報ぜられている。公明党は、冬柴幹事長による「無差別殺傷許されず迅速な裁判の実現が急務」なる談話が出されている。が、松本サリン事件に関するコメントはない。冬柴は弁護士のはずであるがお粗末極まりない。

 民主党は、「オウム真理教元教祖松本智津夫被告裁判の判決について」(ネクスト法務大臣・小宮山洋子、ネクスト国家公安委員長・大畠章宏の談話)を発表している。末尾のところで、「また、松本サリン事件に関連して生じた報道による人権侵害等、一連の事件の捜査や取調べから派生した問題点についても改善を求めていく」と述べている。社会民主党は、コメントそのものが出されていない。確か福島委員長は弁護士であるはずだがお寒い限りである。

 例によって日共の見解を検証する。日共は、書記局長・市田忠義名で、「オウム事件・松本智津夫(麻原彰晃)被告にたいする死刑判決について」なる次のようなコメントを出している。「松本被告らによる殺人テロ行為は、人間の生命も尊厳も踏みにじって深刻な社会不安を引き起こしたものであり、今回の判決は当然のものである。日本共産党は、オウム真理教による『宗教』の名をかたった無法行為をきびしく糾弾するとともに、捜査の遅れを指摘し、迅速な捜査ときびしい取り締まりを要求してきた。今日、サリン中毒の後遺症に苦しむ被害者に十分な医療や補償がおこなわれていない状況にてらして、政府に対して十分な対策を講ずるよう強くもとめる」。

 翌2.28日の赤旗は、
「オウム事件 極刑判決で終わらない 問われる行政・警察の責任」なる見出しで、地下鉄サリン事件被害者の公的救済の立ち遅れを指摘した後で僅かに、「松本サリン事件では、被害者を加害者に“でっちあげ”ました」と述べている。続いて、要約概要「警察の捜査が手ぬるいからこういう結果に至った」として強権発動を煽っている。

 実際には次のように述べている。「しかし、行政も警察も有効な手だてをうたず、オウムを増長させたのです。警察は坂本弁護士一家殺害事件で、当初からオウムの犯罪をうかがわせる有力証拠もありながら、『拉致事件』とせず、『失そう事件』と認定。強制捜査に踏み出しませんでした。一家殺害にかかわったという信者の証言もえながら、事実上放置したのです。松本サリン事件では、被害者を加害者に“でっちあげ”ました」、「真相が明らかになっていないことのもう一つは、オウムとサリンテロを結ぶ情報は早くからあったのになぜ警察は強制捜査を遅らせたのかだ。坂本弁護士一家殺害事件、上九一色村でのオウムの違法な妄動を取り締まっていたならばサリン事件は防げた」。


 このコメントを見て、この程度の観点しか披瀝し得ない現下日共のお粗末さを思うのは、れんだいこだけだろうか。要するに、被害者救済にせよ行政及び警察への叱責にせよ総じて体制権力の強権的介入を促しているだけのことである。法治主義の範囲内でこれをどう為すべきかという肝心な考察は微塵もない、単なる結果オーライ主義を述べているに過ぎない。その思想は極右に近い。

 2004.2.29日 れんだいこ拝

【「河野義行冤罪事件」】
 「河野義行冤罪事件」とはどのようなものであったのか、振り返ってみたい。

 1994(平成6).6.27日午後11時前後、長野県松本市北深志(ふかし)1丁目に住む会社員河野義行(当時44歳)氏は、自宅の居間でテレビを観ていたところ、突然妻が気分が悪いと訴え始め、異様な気配を察知した河野氏が庭に下りると二匹の愛犬が全身を痙攣させていた。河野さん自身も体調が悪くなり、自宅周辺の住宅街で異臭がするとの119番通報をした。河野夫妻は、間もなく到着した救急車で病院に運ばれた。翌日の松本警察署の発表によると、毒ガスによる死者7人(マンションで5人が死亡、病院に運ぶ途中の救急車の中で2人が死亡)、重軽傷者144人を出すという大惨事が発生していた。

 松本警察署は、午前4時15分、「河野家の他、付近住民から異臭のため気分が悪いという届け出が続出した。死者複数が出ている模様」と事件の第一報を発表した。午前7時、長野県警が松本署に「松本市における死傷者多数をともなう中毒事故捜査本部」を設置、捜査員310人体制で捜査を開始した。こうして長野県警はこの異様な事件の捜査を開始したが、後日判明するオウム真理教によるサリン散布事件とは予想し得なかった。

 7.3日午前9時、捜査本部は、記者会見で、「サリンと推定される物質を検出した」と発表した。ここから「松本サリン事件」と名づけられることになった。その後の捜査で、サリンが河野宅の庭にある池や植樹の葉から多量に採取され、科学薬品も発見されたことなどから河野氏への疑惑が強まった。こうして、第一通報者だった河野氏が犯人扱いされていくことになった。

 河野氏は入院中の身のまま警察の事情聴取を受ける身となった。この時の取調べの様子が河野氏により次のように明かされている。捜査員から「お前が犯人だ、正直に言え」などと強引に取り調べられたこと。「河野が調合を間違えたと話しているのを聞いた人がいる」と迫られ、河野氏が「その本人に会わせろ」と要求すると、「人権上、それはできない。お前がやったんだろう、正直に吐け」と嚇されたこと。更に、ポリグラフ(うそ発見器)にかけられ、結果の用紙を見せられることなく、「反応が出た」と揺さぶりをかけられ、自白させられそうになったこと。この時、体調が悪く、「やりました」と言ってしまう不安もあったこと。意識の戻らない妻を殺人者の妻にしたくなかったので頑強に否認し続けたこと等々。

 同日夜、河野氏の弁護士は、本人とのやりとりを録音したテープを公開、事件との関与を強く否定した。だが、これ以降、長期間、河野は警察やマスコミからも白眼視され続けることになる。

 7.7日ころから、河野氏を犯人扱いする新聞記事、テレビ報道が始まった。問題は、この時のマスコミの姿勢にある。当時のマスコミは、完全に河野犯行説に傾き、河野氏が救急車で運ばれる際に述べた「妻を助けて欲しい。毒を盛られたかもしれない」発言がいつの間にか「薬品の調合を間違えたと話した」と一斉に誤報されていた。テレビ局のレポーターが河野氏の屋敷内に立ち入り、さもらしく犯人像を語り始めた。河野氏の家系まで詮索されつつフレームアップさせられていった。マスコミ各社の特ダネ競争が始まり、プライバシー暴露なぞ平気の平左で報道されていった。

 こうして、河野氏は、「事件の第一通報者で被害者でありながら警察とメディアによって犯人として社会的に抹殺されそうになった」。河野氏の無実が完全に実証されるには、翌年の3月に発生するオウム真理教による「地下鉄サリン事件」まで待たねばならなかった。この時初めて、河野氏を犯人扱いして取り調べてきた捜査当局のあり方、マスコミ報道の見識が叱責されることになったが、マスコミは今日に至るも正式な謝罪をしているのだろうか。通常感覚的には、重度過失の割合に応じて損害賠償責任を負う筈であり、これはかなりな賠償額に達するであろう、と考えるのはれんだいこだけだろうか。

 その後、オウム事件が発生し、その捜査により「松本サリン事件」の概要が次のように明らかにされた。「当時オウム真理教は、松本市に支部を作ることを計画していた。ところが、住民から訴訟を起こされ、7.19日に長野地裁松本支部で予定されていた判決でオウム真理教側の敗訴が濃厚であった。支部の建設はもとより活動ができなくなることに激怒した教祖の麻原彰晃(本名・松本智津夫)が、裁判官や反対住民を殺す目的でサリンを撒くことを教団幹部に命じた。

 実行犯は、村井秀夫・当時35歳、新実智光・当時30歳、遠藤誠一・当時34歳、端本悟・当時27歳、中村昇・当時27歳、富田隆・当時36歳、中川智正・当時31歳)の7名であり、次のような経緯で事件を起した。事件当日の6.27日午後4時ころ、山梨県上九一色村の第7サティアンから噴霧器をセットした2トントラックとワゴン車の2台の車に分乗して出発した。午後10時前ころ、噴霧車とワゴン車は裁判官宿舎から190メートル離れたスーパーの駐車場に入り、村井の指示で中川らが、裁判官宿舎まで37メートル、河野義行宅の敷地に隣接する駐車場に2台の車を止め、午後10時40分ころから約10分間、およそ12リットルのサリン(純度70%)を大型送風機で噴射した。こうして裁判所官舎に向けてサリン噴霧車からサリンが撒かれた」。この事件が、翌平成7年3月の地下鉄サリン事件へと繋がっていくことになる。ちなみに、この事件では松本智津夫と実行部隊の合わせて8人が殺人と殺人未遂罪で起訴され、サリンや噴霧装置を製造したとされる土谷正実(当時29歳)、林泰男(当時36歳)ら6人も殺人幇助罪に問われることになった。


 7.30日、容疑が確定できなかった警察は河野氏を釈放する。河野が退院。弁護士事務所で記者会見後、捜査本部は、また、事情聴取を行った。翌日も聴取は続いた。8.4日、捜査本部は、河野氏が体調が悪化したのを認め、しばらく聴取を見合わせると発表した。だが、結局、河野氏は翌1995(平成7).3.20日の「地下鉄サリン事件」(12人死亡、14人重傷)が発生するまで疑惑の人物とされた。

 しかし、河野氏が自宅へ戻るや無言電話、脅迫状などの嫌がらせに悩まされるようになる。河野氏は、無実を証せねばならない事態に追いやられた。こうして、「警察とメディアとお調子者による三重攻め」体験をした河野氏は、事件を振り返り次のように述べている。警察捜査批判として、「警察が功名心から初動捜査を誤った」、「科学的物証のない自白偏重は危険だ」云々。マスコミ批判として、「誤った報道が疑惑を増幅させ、犯人と信じ込まされた」云々。この両機関批判として、「捜査当局とメディア界は、不適切な捜査と誤報、虚報を行った当事者を全く処罰もせず、五年前と同じ人たちが同じ方法で取材・報道続けている」云々。

 河野氏は、オウム信者に対する社会的糾弾運動に同調していない。あくまで法の支配、適正手続きの保障の下で進められるべきであり、「見込み捜査、見込み報道、みなし市民」による先行的糾弾」に異議を唱えている。「九八年夏の和歌山カレー事件も同じだが、実際にははやばやと世の中の人たちが制裁を加えてしまっている。こんな悪い奴は許さんぞという動きは間違っている」とも述べている。

 この経過を振り返り次のように述べている。「誰でも同じ被害に遭う可能性がある。世論が冤罪に加担することがある」、「冤罪とは、初動捜査のミス、マスコミの誤報、そして一人ひとりの行動が原因となって生み出される。冤罪で最もつらいのは、裁判で潔白が証明されても、世間では一生疑惑を背負っていかねばならないこと」云々。


 2004.2.29日 れんだいこ拝


 2019.6.27日、「「河野さんの無実は最初からわかっていた」黙殺された科学者の訴え【松本サリン事件25年】〈dot.〉」。
 自宅に押しかけた多くの記者の前で、事件との関与を強く否定する河野義行さん(右手前から2人目)。河野さんに対する「犯人視報道」が問題になった=1994年7月30日 (c)朝日新聞社

 1994年6月27日深夜、長野県松本市で発生した「松本サリン事件」。死者8人、重軽傷者約600人という、オウム真理教が起こした無差別大量殺人事件だ。事件では第一通報者で被害者でもある河野義行さんが長野県警からサリン製造の疑いをかけられ、メディアも河野さんを犯人視する報道を続けた。河野さんの疑惑が晴れたのは、翌95年3月20日に地下鉄サリン事件が起き、教団幹部が次々と逮捕されてから。松本サリン事件は多数の被害者を出しただけでなく、警察とメディアによる河野さんへの人権侵害事件でもあった。

 実は、事件発生直後に化学の専門家が「河野さんにサリンは製造できない」と指摘していたことはあまり知られていない。なぜ、科学者の意見は警察の捜査やメディアの報道に生かされなかったのか。事件発生翌日に、謎の毒ガス物質を「サリン」と分析し、河野さんの疑いを晴らすための現地調査に協力した元国際基督教大(ICU)教授の田坂興亜さん(79)に、事件の教訓を語ってもらった。

* * *
 松本市の閑静な住宅街で起きた謎の毒ガス事件から一夜明けた94年6月28日、ICUで化学を教えていた田坂さんの自宅に、朝日新聞の記者から一本の電話があった。事件について、専門家としての意見を聞きたいとのことだった。毒ガスの成分は不明。第一通報者で、事件現場付近に住んでいる河野義行さんの自宅に、複数の薬品が保管されていたことがわかっていた。記者たちは、薬品の調合で毒ガスが発生する可能性があるか、化学の専門家に見解を求めていた。記者の話では、被害者を診察した医療機関が「アセチルコリンエステラーゼ」という酵素の活性が低くなっていると説明しているとのことだった。農薬などで使われる有機リンの中毒でみられる症状だ。ただ、事件の状況を聞いて、有機リン系の農薬による毒ガス発生ではないとすぐにわかった。田坂さんは、こう振り返る。「3階や4階でも被害者が出ていたんですよね。日本で使われている有機リン系農薬は、気化してもそこまで毒性の強いガスが発生することはありません。なので、記者には『有機リン系農薬の開発の淵源となったサリンやタブンなどが使われたのではないか』と話しました」。事件発生から24時間も経っていない時期に「サリン」に言及した専門家は、ほとんどいなかった。実際に捜査本部が毒ガスの物質を「サリン」と発表したのは、さらに5日後の7月3日。この時から、一部の専門家しか知らなかったサリンが、日本で広く知られるようになった。

 だが、毒ガスの成分がサリンと判明したことは、ある“間違い”を引き起こした。サリンが未知な物質だったため、化学の専門家が誤った知識をテレビや新聞で紹介したのだ。「今では考えられないことですが、化学の専門家が『サリンは手作業で製造できる』、『バケツの中で混ぜればいい』といった説明をしたんです。これに警察やマスコミが誘導されて『河野さんが薬品を混ぜ合わせてサリンを発生させた』との見方が広がりました。十分な知識もなく、調べもせずに間違った情報を発信した科学者の責任は重い」(田坂さん)。

 サリンはもともと、1930年代にナチスドイツが化学兵器として開発したものだ。製造過程では、毒ガスが外に漏れ出ないよう厳重に守られた施設が必要で、手作業では作業者が即死する。当時は、化学の専門家の間でも、そんなことすら知られていなかった。

 松本サリン事件は、警察やメディアの誤った思い込みが河野さんを苦しめた。捜査や取材が進むなかで「河野犯人説」を強める意見を科学者に求めていたのかもしれない。「でもね」と、田坂さんは笑いながら話した。「ICUで使っていた教科書にサリンの記述があって、英語の原著にはサリンの構造式が書かれてあることは知っていたのですが、私もそこまで詳しいわけではなかったんです。でも、コメントを求められて『サリン』という名前を出してしまったので、記者さんに『間違った知識を教えたなら申し訳ないな』と思ったんですよね」。

 一度、科学者として話をしてしまった以上、内容に責任を持たなければならない。そう考えた田坂さんは、あらためてサリンに関する文献を調べた。「驚きましたよ。ICUの図書館に、サリン製造法の論文が所蔵されていたんです。つまり、化学の分野で大学院の学生程度の知識があれば、誰でも製造法がわかる。自分の身近に毒ガス兵器の製造法が書かれた文献があるなんて、ゾッとしました」(田坂さん)。

 一方で、田坂さんは文献を読み、化学構造や製造法をきちんと理解できた。その結論は「一般人にサリンの製造は不可能」。長野県警は、事件翌日の6月28日に被疑者不詳のまま殺人容疑で河野さんの自宅を家宅捜索していたが、田坂さんは文献を調査した6月末の時点で「河野さんは犯人ではないのでは」と感じていたという。このことは報道番組でコメントを求められた時にも話した。7月7日に放送されたNHKの「クローズアップ現代」では、サリンの化学構造について模型を使って説明。市販されている有機リン系の農薬からサリンを製造することは極めて難しいと説明したうえで、「有機リンの化学の技術と知識、文献などを知り尽くした人でないと合成は不可能」とコメントした。

 サリンについて科学的な解説が報道されたことは、事件の方向性が変わるきっかけになった。番組を見た河野さんの弁護人である永田恒治弁護士が、サリン被害で入院していた河野さんと面会するよう田坂さんに依頼してきたのだ。都合がついた7月15日に河野さんと初めて会った田坂さんは、こんな印象を持ったという。「話した瞬間に『犯人ではない』とわかりました。だって、私に『サリンって何ですか?』って聞くんですから。それで、持っていった文献を見せながらサリンの構造を説明したんですよね。専門的知識はないし、とてもサリンのような化学兵器を製造する人には見えませんでした」(田坂さん)。

 河野さんの著書『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』にも、この日のことが書かれている。<病室に見えた田坂氏に、私はてっきりいろいろ根ほり葉ほり聞かれると思っていた。ところがそんな様子は微塵もない。逆に、「河野さん、何かお知りになりたいことは」と聞かれる>サリン製造疑惑についてはどうか。<田坂氏は、素人には作れないということと、事前に押収品リストや家の写真に目を通し、我家に化学器具もないことなどから、状況としては、私には作り得ないと判断していたようだ>。

 河野さんと面会した夜には、田坂さんは永田弁護士やNHKの記者らとの懇親会に出席している。その席上で田坂さんは、記者から河野犯人説について問われ、「その可能性はありません」と否定した。永田弁護士が席を外した後、記者は再び田坂さんに質問をしたが、同じ答えだった。永田弁護士は自らの著書で、化学の専門家が記者に向けて河野犯人説を否定してくれたことが<非常に心強いものであった>(『松本サリン事件 弁護記録が明かす7年目の真相』)と書いている。

 当時は、河野さんを犯人視する報道一色だった。それでもなぜ、田坂さんは独自の判断ができたのだろうか。「翌日には自宅にも行って現地調査をしましたが、河野さんが犯人だという証拠は何一つなかった。それだけのことです。ただ、その後も長野県警が私に話を聞きにくるようなことはありませんでした。科学的な意見を軽視したことが、事件の解決を遅らせたのではないでしょうか」(田坂さん)。サリンの成分を理解し、現地調査を実施し、サリン製造が不可能であることを確かめる。科学者だけではなく、報道にたずさわる人間にも当たり前に求められることが実践されていなかった。

 田坂さんに続いて河野さんの自宅でサリン製造は不可能だと解説する化学の専門家も出てきたことで、報道も変わりはじめる。7月30日に河野さんが退院した後は、一部ではあるが、テレビや新聞で河野犯人説にかたよった捜査のやり直しを求める報道が出るようになった。それでも、初期報道の影響は強く、河野さんは苦しみ続けた。

 報道機関がオウムの関与を認識しはじめたのは、94年11月ごろといわれている。同月、山梨県上九一色村(当時)の教団拠点付近で採取された土を警察庁科学警察研究所が鑑定し、サリンの残留物を検出したからだ。それでも、長野県警は「河野に年越しそばを食べさせるな」と年内逮捕を目指す指示を出していたという。

 田坂さんら科学者の意見は、結局、翌95年3月20日の地下鉄サリン事件を防ぐことができなかった。田坂さんは、「警察はなぜ、サリンの残留物が検出された時点で教団施設を強制捜査しなかったのか。それができていれば、地下鉄サリン事件は防げたのでは」と考えている。

 オウムがサリンを製造しているとの疑惑が深まるにつれ、田坂さんにも科学捜査研究所から意見を求められることがあったという。再びサリンがまかれたらどうするのか、防護する方法はあるのか。電話でも意見を交わした。奇妙なことも経験した。電話が終わった瞬間、無言電話がかかってくることがよくあったのだ。「今考えると、盗聴されていたのかもしれません」(田坂さん)。

 皮肉にも、地下鉄サリン事件が起き、オウムに強制捜査が入ったことで河野さんへの疑いは晴れた。4月21日に朝日新聞が河野さんへのおわびを掲載。すると、横並びで他紙やテレビ局も続いた。6月19日には、野中広務・国家公安委員長(当時)が河野さんに面会して謝罪。自らもサリンの被害をうけた河野さんは、約1年ぶりに名誉回復された。遅すぎる謝罪だった。

 田坂さんは、2002年にICUを退職し、アジアやアフリカの農村リーダーを育てる「アジア学院」(栃木県那須塩原市)の学長に就任した。世界中から集まった学生たちは、日本で農薬を使わない有機農業を学ぶ。その技術を自らの国に持ち帰り、飢えの問題を解決する活動をしている。

 アジア学院の学長を退任して79歳になった田坂さんは、現在でもブータンやマレーシアに通い、有機農業を広める活動を続けている。日本人が安い価格で食べ物を輸入して恩恵にあずかっている一方で、アジアやアフリカの農民が農薬汚染で失明したり、神経の病気にかかったりしている。田坂さんは、河野さんと初めて会った時と同じように、そういった人々の話に耳を傾け、科学的な事実をわかりやすく説明している。「世界中で使われている有機リン系の農薬は、サリンのように急性の毒性はありません。それでも、生物の神経に悪影響を与えるという点では同じです。有機リンが子どもたちの将来に与える影響はわからないことが多い。日本人も、農薬に汚染された食べ物を大量に食べているんですよ。なので、日本では有機農業で作られた作物を給食に使う活動もしています」。

 昨年、教祖の松本智津夫(麻原彰晃)元死刑囚をはじめ、教団幹部13人の死刑が執行され、オウム事件は大きな区切りを迎えた。だが、サリンは現在でも化学兵器として使われている。欧州連合(EU)などで人体に悪影響を与える可能性があるとして禁止されている農薬も世界中で使用されていて、その害に悩む農家も多い。田坂さんにとって「なぜ、優秀な頭脳を持つ人たちが化学を悪用するのか。どうやれば防ぐことができるのか」という問いは解決していない。田坂さんは、今でも事件についてこう考えている。「私にとって、松本サリン事件はまだ終わっていません」。(AERA dot.編集部・西岡千史)





(私論.私見)