メディア史その1「放送法制定までの経緯」1945〜50

 (最新見直し2013.06.25日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「マスメディアが伝えない"新聞・テレビの歴史といま"」、「放送法制定までの経緯1945〜50」その他を参照する。

 2003.8.11日、2004.3.31日再編集 れんだいこ拝


【瓦版(かわらばん)メディア】
 江戸時代、瓦版(かわらばん)という新聞のような一枚刷り(木版)のチラシのようなもので、天変地異や大火、心中など時事性の高いものや政治以外の社会ニュースを伝えていた。明治に入ってからは新聞にとって代わり衰退した。

 
幕末の開国以来、居留外国人の間では英字新聞が発行されていたが、日本語の新聞は幕府による出版物規制により掣肘されていた。新聞の編集・発行の知識と印刷技術がまだなかったことによる。

【新聞メディアの登場】
 明治元年、戊辰戦争で国内が混乱してくると全国で「今、何が起きているのか」とニュースを求める声が高まり、英字新聞の発行に携わっていた人達や旧幕臣が日本語の新聞を発行しはじめ、全国各地で新聞社が立ち上げられた。もっとも早く発行された「中外新聞」(明治元年創刊)は部数を急速に伸ばし(1500部)、その成功が後に続く新聞の発行を促したことから “ 日本近代新聞の祖 ” とみなされてる。当時の新聞発行者たちは旧幕臣など幕府を支持する者が多かったため、記事の内容も薩長中心の藩閥政治を批判する傾向が強かった。明治新政府は弾圧し、逮捕・投獄される者まで出た。以降、政府の許可なしに新聞の発行は一切禁止となり、生まれたばかりの新聞は、即壊滅、いったん社会から消えた。

 我が国の新聞発行は。明治の御代と共に始まるがその経緯(いきさつ)からして政情絡みであった。明治新政府は、新聞の発行を奨励する政策に転じると共に統制下にも置こうとしてジグザグしている。これを確認する。

 1869(明治2)年、新政府は、「新聞紙印行条例」を発布し、検閲を受けることを条件に許可を得た新聞の発行を認めた。これにより、政府の顔色を窺うものになった。

 1870(明治3)年、「横浜毎日新聞」が創刊された。現代と同じ活版技術で印刷された日本初の日刊新聞であった。この年、木戸孝允の出資により「新聞雑誌」が発刊された。1871(明治4)年、前島密は「郵便報知新聞」(現・報知新聞)を発行した。 政治家が新聞を発行し、直接的に世論誘導をしていることが特徴であった。政府の広報紙的役割を果たした。1872(明治5)年、東京日々新聞が創刊された。元岐阜大垣藩士・子安峻が元佐賀藩士・本野盛亨、長崎の医者の養子・柴田昌吉らで日本最古と云われる鉛活版印刷所・合名会社日就社を創立する。

 1874(明治7).1.2日、日就社が、「俗談平話」を旨とする「小新聞」として読売新聞を創刊した。初代社長子安峻。東京の芝琴平町で発行され、その後京橋に移転する。文明開化の先導役、人情風俗の良化を自負しての発刊であった。読売新聞の発刊後の歩みは順調で部数も伸び、次第に政論も交え、文学の育成にも尽力していった。1887(明治20)年、高田早苗(後に衆議院議員、文部大臣、貴族院議員、早稲田大学総長となる)を主筆に招き、1889(明治22)年、坪内逍遥を文学主筆に、尾崎紅葉、幸田露伴、森鴎外らに執筆させている。1897(明治30)年、尾崎紅葉の「金色夜叉」が読売紙上の連載小説として始まった。1898(明治31)年以後には、文芸欄を島村抱月、徳田秋晴ら自然主義文学派に担当させている。小杉天外、正宗白鳥らも集う。

 1876(明治9)年、毎日新聞の前身となる大阪日報が、1879(明治12)年、朝日新聞の前身となる大阪朝日が設立されている。

【「新聞紙条例」制定】
 自由民権運動が高まり、言論が活発化してくるとそれまで政府の御用新聞であった各紙も政府に批判的な記事を掲載するようになった。

 明治8年、 新聞・雑誌の反政府的言論活動を封ずるための「新聞紙条例」が制定された。 その主な内容は、@発行を許可制とする。A違反者には、罰金・懲役を課す。(社主、編集者、印刷者の権限・責任を個別に明示し、 違反時の罰則などを規定)。B記事に本名(住所・氏名)を明記することを原則とする。C犯罪者(当時の法律下での犯罪)を庇う記事を禁ずる。D政府の変壊・国家の転覆を論じる記事、人を教唆・扇動する記事の掲載を禁ずる。明治16年、改正・強化されると、全国で355紙あった新聞が199紙に激減し、俗に「新聞撲滅法」とよばれた。

【御用新聞の登場】
 明治11年、政府(伊藤博文など)と三井銀行が資金援助する御用新聞として大阪朝日新聞が創刊された。明治14〜26年までの間、政府から極秘の資金援助を受ける代わりに密約を結んでいた。大阪朝日新聞は表向き「中立ヲ仮粧シテ」みせていた。これは政府のきわめて巧妙な新聞政策で、当時「多事争論」といわれた様々な言論活動をうまく統制するために「中立」言論を育成し、新聞界での支配権を握るためのものであつた。

 明治21年、伊藤博文の腹心・伊東巳代治が、東京日日新聞(現・毎日新聞)を買収し、伊藤系長州閥の御用新聞となった。

【新聞の戦争報道】
 新聞社は、日清戦争(明治27年−)と日露戦争(明治37年−)の戦争報道を通じて発行部数を飛躍的に伸ばした。これを機に新聞は社会的地位を一気に上げマスメディアとしての地位を獲得する。

【新聞の文芸欄花盛り】
 1904(明治37)年、日露戦争が勃発すると、読売新聞は主戦論的論調と一線を画し、むしろトルストイ、チェホフ、プーシキンらの関係記事が文芸欄を賑わし、ゴーリキーの「コサックの少女」が徳田秋晴訳で掲載されるなど、非戦論を掲げていた幸徳秋水、堺利彦らの平民社運動と親和的であった。その後、河上肇が入社し、「千山万楼主人」のペンネームで「社会主義評論」を連載している。平民社出自の上司小剣、後にプロレタリア文学で名を挙げる青野季吉、後の共産党委員長を務める市川正一らも入社している。

 青野の語るところによると、概要「読売には特殊な良さがあり、日本で唯一の文化主義の新聞で、例えば文芸とか、科学とか、婦人問題とかいった方面に、特に長い間啓蒙的な努力を払ってきた。だから、読売新聞といえば、文学芸術の新聞として、一般に世間に知られていた。また事実、そういった文化主義的な空気が、他の様々な、例えば営利主義的な空気とか、卑俗なジャーナリズムの空気とかの間にあって、最も濃厚で、支配的であった。この新聞で仕事をすることが、何らか、日本の文化の発達といったものに奉仕する所以だと、まあそういった風に考えられたのだ」とある。

【新聞の商業化】
 新聞各社は次第に三面記事を重視し始めた。若い男女の心中、強盗殺人事件などを取り上げ、悲劇のストーリー性を強調したり、犯行の残忍な描写をして読者の興味を惹きつけた。営利目的企業化した大手新聞社は、三面記事の脚色の他にも独自でイベントを作り出すことになった。新聞社が主催して報道する娯楽イベントに囲碁・将棋などがあったが、朝日新聞社が全国中等学校優勝野球大会(現・夏の高校野球)を主催し評価を得た。この流れが巨大ビジネス化して行くことになった。

【読売の経営危機の様子】
 1917(大正6).12.1日、合名会社「日就社」を「読売新聞社」と改称。この頃、大阪朝日、大阪毎日が、大阪財界の支援を受けて東京に進出してきた。「明治初期には最先端、明治末期には大沈衰期、大正期には既に旧い」と云われるようになった読売は次第に財政的に行き詰まって行く。この間経営権は子安家から本野家に移っていた。その本野家の二代目の長男・一郎と次男・英吉郎の協力体制が組めず、「売家と唐様で書く三代目」という江戸川柳そのままに、読売はいずれ人手に渡る運命に陥った。本野家の二代目の長男、次男が病死し、秋月が社長を引き受ぐ。

 1918(大正7)年シベリア出兵問題で揺れる頃、読売の買収話が起り始め、海軍出身の首相・山本権兵衛が最初の意欲を見せている。この干渉はまとまらず、次に、陸軍系が触手を伸ばし始める。主筆に右翼系の伊達源一郎が就任するや、論調が政府寄りに一変し、シベリア出兵論を唱え始める。経済部長、政治部長、社会部長の重要ポストが伊達系列に占められていった。

 当然の如く、編集局内部で抗争が発生し印刷局まで含めたストライキの動きを誘発している。この騒動は最終的に、編集委員・青野と市川が仕事取り上げにより窓際族にさせられるという「閉門の刑」で決着した。これは、読売編集局の敗北ではあったが、軍閥を背景とする伊達一派にも読売制圧の難しさをしらしめ、読売買収計画を頓挫させたという意味で傷み分けとなった。ちなみに、その後の青野はプロ文学運動に、市川は日本共産党結成に向かって行くことになる。

 読売買収の動きの背景には、「その頃は日本の思想史上の転換期で、左翼思想や共産主義運動が、各新聞社にも自然発生的に入り込んできて、読売は、その最先端のようにみられていた」ことから、その対策という治安対策的な意図があったように思われる。

【「朝日新聞社に「白虹貫日事件」騒動起る】
 1918(大正7).8月、米騒動が勃発し、これを警察のみならず軍隊までが出動して鎮圧する騒ぎとなった。8.14日、時の寺内内閣は、暴動拡大防止を理由に一切の新聞報道を禁止した。新聞社側は東西呼応して記者大会を開き、86社の代表166名が参加した席上「禁止令の解除及び政府の引責辞職」を要求決議した。大阪朝日新聞はその日の夕刊でこの模様を報じたが、その記事文中に概要「我が大日本帝国は、今や恐ろしい最後の審判の日が近づいているのではないか」、「新盤の『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆しが人々の頭に雷の様に閃く」という文章を連ねていた。

 これを頭山満らの「浪人会」が取り上げ問題化した。寺内内閣が呼応し、大阪朝日新聞の記事を「当時最大の罪とされていた『朝憲紊乱罪(天皇制国家の基本法を乱す罪)』に該当する」として、新聞紙法違反という罪名により最重度の「発行禁止処分」、つまり廃業、会社解散に至る処分をちらつかせた。検事局は、問題の記事の執筆者・大西利夫記者と編集兼発行人の山口信雄を起訴し、各6ヶ月の禁固の上に朝日新聞の発行禁止処分を求刑した。

 朝日新聞の村山社長はこの時、当局へのひたすらな恭順で事態を打開しようと奔走した。「監督不行届きを陳謝し、社内の粛清を誓う」ことで切り抜けを図った。同社の進歩派幹部であった鳥井素川、長谷川如閑、大山郁夫、大庭カ公、櫛田民蔵らが追い出されることになった。二度と政府批判をしない、穏健妥当な報道に徹するという「不偏不党」を表明した。その他の新聞各社も同様の「不偏不党」を掲げ、これ以降、政府を激しく追及するような言論は新聞界から影を潜めていくことになった。

 その後寺内内閣が瓦解し、元大阪毎日社長などの経歴を持つ原敬が首相兼法相になるに及び、「寛大な措置」が採られ、朝日新聞は「発行禁止」つまり廃業の危機を免れた。大西記者と山口発行人は、一審判決に服し、求刑より軽い禁固2ヶ月の刑に従った。これを白虹(はっこう)事件と云う。

 この事件は、一つに「権力と言論の相対的自律」問題を廻っての一大事であったこと、二つに時の朝日新聞の軟弱な姿勢が我が国の言論界の伝統的体質を浮き彫りにさせていること等々で見逃せない。が、「この後の新聞界の変化」と「社内粛清」により放逐された記者のその後の流れも又極めて重要な事件となっており、この方面でも注目に値する。

 「この後の新聞界の変化」を見てみる。11.15日「大阪朝日・東京朝日新聞に共通すべき編集綱領四則」が設けられ、三項で「不偏不党の地に立ちて、公平無私の心を持し、正義人道に基づきて、評論の穏健妥当、報道の確実敏速を期する事」という手かせ足かせ規定が謳われた。その説明文で、概要「これを不文律として以前にもまして今後の規範とする」と宣言されていた。注意すべきは、「不偏不党」が、政府批判を控えるというセンテンスで謳われていることである。木村愛二氏に拠れば、「日本の大手メディアの『痛恨の屈辱』事件となった」。その後の軍部独裁の動きに対して追随を余儀なくされる仕掛けの嚆矢となった、という訳である。この伝統は、今日のマスコミにも継承されており、つまり「不偏不党」は胡散臭い美文でしかない、とも指摘している。

【読売の新経営者として松山忠三郎がスカウトされる
 読売争議の果てに、経営権が財界の手に移ることになった。1919(大正8)年、二代目社主・本野盛一が、経営権を工業倶楽部の財界人による匿名組合に売り渡した。新社長となって乗り込んできたのが東京朝日編集長という履歴を持つ松山忠三郎であった。松山は、「白虹事件」に連座して辞任していたところをスカウトされた格好となった。元々「札付きの財界御用記者」と評判されていた人物であったので、財界の意向を挺するのに彼我の条件が合ったということであろう。

 当時、社長の交代は、従業員のいったん全員解雇を意味していた。旧社員は、「給料1か月分と3ヶ月ほどの退職金」を渡されて、「本野家経営の読売との別れ」となった。再雇用に当って、左派系人士と軍閥系伊達派が去って行くことになった。代わって、東西朝日を退社してかなりの編集陣が松山のもとへ馳せ参じてきた。

【「大正日日新聞事件」】
 先の「白虹貫日事件騒動」の後にもう一つ見逃せない事件が起っている。1919(大正8).11.25日大阪で「大正日日新聞」が創刊された。最大の出資者は、鉄成金の一人・勝本忠兵衛であった。当時の朝日の資本金150万円よりも多い200万円で出発し、「日本一の大新聞」を呼号した。社長に担がれたのは貴族院議員の藤村義朗で、大株主の中には細川護立(元熊本藩主の家柄の公爵)がいた。

 実質上のトップは、「白虹事件」の火元となった大阪朝日の編集長で事件の経過で辞任していた鳥居素川で、主筆兼専務となった。他にも大阪朝日退社の丸山幹治、稲原勝治、花田大五郎、東京朝日退社の宮部敬治、読売解雇組の青野季吉、報知からは鈴木茂三郎(戦後社会党委員長になる)、徳光衣城ら知名度のある記者が一斉に馳せ参じていた。まさに「当時の新聞界の第一級の陣容」であり、木村愛二氏曰く「これはまさに大正日本のメディア梁山泊とでも云うべき言論の砦だったのではなかろうか」。

 しかし、「日本一の大新聞」の夢は潰える。これを検証することは極めて有益であり、示唆が多い。その理由として、一つには「武家の商法」があった。二つ目に先発の同業者・大阪朝日と大阪毎日が連合軍となって徹底的に排除し抜き、その仔細は省くとして業務妨害まで行ったことにある。第三に官憲当局が圧力をかけ続け、暗躍したことにあった。

 かくして創刊数ヶ月をもって、出資者が去り、社長去り、主筆兼専務の鳥居も退社し、僅か8ヶ月で会社解散の憂き目にあった。

 ところで、その紙面はまさに貴重であった。「政権批判、ストライキ報道、男子普通選挙権の即時実施論」が堂々と為されており、「まさに大正デモクラシーの息吹」を伝えつづけていた。木村愛二氏曰く「『白虹事件』のために大阪毎日での筆を折られた大記者たちが、思う存分に筆をふるっていたのではなかろうか。ところがそれを、当の大阪朝日が、日頃は商売敵の大阪毎日と連合して、あらゆる非合法的手段を駆使してまで叩き潰しにかかったのである」。

【松山時代の読売新聞と関東大震災の衝撃
 大正日日新聞が一年たたぬ間に解散したため、錚々たるメンバーが松山の下に新たに参集してきた。読売新聞百年史は「彼らが歴史ある読売を舞台に理想的な新聞を作る決意に燃えていた」と記しているが、これはあながち手前味噌の記述ではないように思われる。確かに「大正期メディア人間達のドラマ」だった。木村愛二氏曰く「大阪の大正日日に築かれ始めた梁山泊が更に求心力を求め、首都東京に移動したが如き感がるではないか」。

 この頃の東京の三大新聞は、発行部数で見るに約36万の報知新聞、約30万部の時事新報、国民新聞であった。これに大阪を本拠とする東京朝日と大阪毎日の傘下の東京日日が約20万部で第二グループとなっており、読売はその後の第三グループを形成していた。読売は松山社長になって以来、約3万部まで落ち込んでいたものを4年4ヶ月の間に約13万部まで伸ばした。

 松山時代、読売の紙面は再び「文学新聞」的伝統に立ち帰り、婦人運動やプロレタリア文学運動に発表の機会を与えていた。この背景には折からの大正デモクラシーの影響があった。大正デモクラシーとは、1912(大正元)年に大正年号に入って以来の自由民権的思想が横溢した時代の流れのことを云う。この機運に押されるかのように読売新聞は「清新な文芸復興の旗手」を任じていった。

 こうした正成長を遂げていた時に思いがけなくも1923(大正12).9.1日関東大震災が襲った。折柄読売新聞は建設中の新館の落成式日に当っており大打撃を蒙ることになった。松山社長は財界筋の新たな援助を求めて資金手当てに東奔西走することになった。財界筋は一度は財政援助に踏み切ろうと合意したが、「ある日突然に冷たく突き放すことになった」。この背景が究明されなければならないが、今日でもヴェールに包まれている。

【読売新聞社に正力が乗り込み、正力時代が幕開けする】
 正力は只の乗っ取り屋ではなかった。むしろ天才的な企画力を発揮し始め、新聞の大衆化を目指していった。いわゆる「三面記事」に力を入れ、センセーショナルな見出しを踊らせて、購読者を増やしていった。これにより讀賣は朝日・毎日と肩を並べる大新聞へと成長する。

 1925(大正14).11.15日、放送が始まったばかりのラジオに注目し、各社に先がけて日本初のラジオ版(現在のテレビ・ラジオ欄)の「よみうりラヂオ版」創設を打ち出している。これが大反響を呼び読売の部数が毎月千部ずつ増えだした。正力が次に打った手は囲碁の好企画で日本棋院と棋正社の大局だった。当時の囲碁界は名人本因坊秀哉を頂点とする日本棋院と雁金準一率いる棋正社が棋界を二分していた。この二人を闘わせその棋譜と観戦記を掲載した読売は評判を呼び部数を伸ばしていった。わが国初めての地方版をつくったのも正力であった。こうして読売は東京日日(後の毎日)、朝日と共に東京三大紙の仲間入りし、首都圏ではトップの座に踊り出た。

 1926(大正15).3.15日、正力が読売乗り込みの二年後になるこの日、歌舞伎座を買い切って「社長就任披露の大祝賀会」を挙行した。3000名の各界名士が集い、正力は席上「新聞報国への固い決意を開陳」した。激励、祝辞を述べた各界代表の中には、首相若槻礼次郎、新聞協会会長清浦圭吾、後藤新平らの名がある。


 その後の読売は、特徴的な姿を見せて行くことになる。内部管理は、正力自身が公言した独裁主義による日本の警察機構の上意下達式を真似た系統図で統制していくことになった。要所要所に配置された警視庁人脈が力を発揮し、労務支配を有利に進めて行った。

 紙面の方は、「エロとグロ」(エロティシズムとグロテスクネス)を積極的に扱うイエロー・ジャーナリズム化していった。加えて、日帝の帝国主義的侵略活動を後押しする御用新聞化していくことになった。具体的には、煽動主義的な戦争報道を通じて「聖戦」に加担して行くことになる。更に、「サツネタ」情報に強味を発揮し、優位な地位に立つことになった。これらの路線により読売は驚異的発展を遂げていくことになる。

 1929(昭和4)年、正力の誘いで元報知新聞の販売部長・務台光雄が入社し販売網づくりを手掛けていった。読売は拡張販売競争に勝利し続け、同時に権力のマスコミ支配を達成して行くことになった。

 1931(昭和6).11.25日、夕刊を発行。

【大本営報道】
 大戦中、各新聞社は、政府発表をそのまま掲載して戦争を煽動した。ミッドウェー海戦以降、あからさまな虚偽報道を行うようになり、勝敗と正反対の発表さえ恒常的に行われた。ラジオ放送においても、戦時中のNHKが、戦意高揚目的の虚偽発表は864回にのぼった (中奥宏 『皇室報道と「敬語」』より)。そのため大本営発表といえば、今では、「内容を全く信用できない虚飾的な公式発表」の代名詞にもなった。

【「読売ヨタモン」への電車道】
 満州事変が始まった頃夕刊発行に踏み切っている。1931(昭和6)年社説が常設で復活したが、内容は官報並となった。1932(昭和7).12.19日「大手メディアの共同宣言」による「満州国の独立支持」宣言が為されている。

 1931(昭和6)年、全米オールスター選手を招待。日本にはプロ野球チームがなく17戦全敗。しかしこれにより読売新聞の発行部数が30万部を越えた

 1934(昭和9).12.26日、第2回日米野球の盛り上がりを見て、日本で最初のプロ野球球団・ 大日本東京野球倶楽部(現・読売巨人軍)を創設、正力は取締役に名を連ねる。アメリカの大リーグのチームとの試合を企画し成功させる。1936年に公式戦をスタートさせる。

 1938(昭和13)年新聞用紙制限令によって一県一紙化が国策で打ち出された。否応なく「新聞統合時代」に突入した。「新聞統合政策」は、内閣情報局と内務省を主務官庁として進められた。「具体的な統合実施家庭では、各都道府県知事及び警察部長、特高課長が指揮をとった」(「新聞史話」)。この過程で、読売は、朝日・毎日と並んで三大中央紙の位置に就くことになった。九州日報、山陰新聞、長崎日日新聞、静岡新報、樺太新聞、小樽新聞、大阪新聞を次々に傘下に収めた。

 1941(昭和16)年、日米開戦直前にかっての名門紙「報知」を買収した。1942(昭和17).8.5日、読売新聞と報知新聞が合併、題号が「読売報知」となる。紙面の方は、「虚報」、「デタラメ記事」、「情報隠匿」が進んだ。

 1944(昭和19)年、正力が、岸信介の推薦で貴族院議員になる。小磯内閣の顧問になる。

【敗戦ショック、戦後の変わり身】
 敗戦直後、戦争責任追及の嵐が巻き起こり、新聞社各社も社内外の世論の批判に晒されることになったが、戦時中の虚偽報道を反省することはなかった。毎日社長の奥村信太郎が8月末に自主退社した。朝日新聞は、敗戦後当初、上層部はほとんど辞職することなく、昭和20年8.23日朝日が「自らを罪するの弁」、敗戦3ヶ月後の11.7日社告「国民と共に起たん」という社告を掲載し、村山社長以下重役が総辞職した。が、数年後には、辞職したはずの村山社長は会長に復帰、さらにその後には社長にまで復帰して、昭和39年まで経営の実権を握った。読売新聞社では、当時社長であった正力松太郎が、GHQから戦犯容疑指名を受けた4ヶ月後にようやく辞任することを表明した。しかし、昭和26年には、社長に復帰し、昭和44年まで経営の実権を握った。

GHQの占領政策としてのマスコミ規制
 GHQの占領政策は、「GHQの占領政策としてのマスコミ規制考」に記す。

【第一次読売争議、正力がA級戦犯を問われ巣鴨刑務所 に収監される】
 正力ら局長以上の総退陣要求を社員大会で決定。鈴木東民(読売従業員組合組合長、続いて新聞通信単一労組の副委員長兼読売支部委員長)ら5名が逆に退社を命じられ、これが発端となり第一次読売争議が始まる。最高闘争委員会と従業員組合が結成され、鈴木が闘争委員長及び組合長に選出された。争議が始まり、「生産管理闘争」が採用された。

 正力は、最高闘争委員会の委員長・鈴木、闘争委員・志賀重義、とき沢幸治の3名と会談、解決私案を示した。「一段落したら、自分は社長を退き取締役会長になる」という代物であった。当然のことながら拒否されている。


 1945.11.6日、読売従業員組合は、退陣要求に応じない正力に対抗して、紙面で正力批判を展開した。「熱狂的なナチ崇拝者、本社民主化闘争、迷夢探し正力氏」と題する三段見出し記事を載せている。

 11.10日、第一次読売争議のヤマ場で、全国新聞通信従業員組合同盟主催の「読売新聞闘争応援大会」が開かれ、終了後共産党系のリーダーの指揮する約1千名のデモ行進が読売本社に向かった。正力が狼狽した様子が伝えられている。

 この直後に、A級戦犯に指名されて巣鴨プリズン入りが決まった。その為、「正力の推薦する馬場恒吾氏を社長とするなどの交換条件で解雇撤回する」取引が成立し、事態は急転直下解決した。


 増田太助氏は、争議当時の読売支部書記長で、解雇され、和解で退職した。その後、日共東京都委員会委員長となるが、「反党活動」で除名処分に附されている。

 勢いを得た各労組は、NHKを含む日本新聞通信労働組合(「新聞単一労組」)という個人加盟の産業別単一組織への改組を為し遂げ、各企業はその支部を結成することになった。

 1946(昭和21).5.1日、題号を「読売新聞」に復元。同9.1日、読売信条を発表。

【第二次読売争議】
 GHQ新聞課長・バーコフ少佐によるプレスコードの拡大解釈。極東国際軍事裁判の法廷報道などの読売記事に、GHQが「プレスコード違反」の名目で処分を匂わし、それに呼応した馬場者社長らは、「GHQの意思」と「編集権の確立」を理由に組合の読売支部委員長以下6名に退社を求めた。組合側がストライキで応戦したが、務台光雄らは「販売店有志」二百数十名を動員して実力突破を図った。これに組合がピケ戦を張り、社屋に立て篭もった。務台らは、警察の出動を要請し、動かないと見るとGHQにMPの出動を要請し、それで慌てた丸の内署がこん棒とピストルで武装した約500名の警官隊が突入してきた。組合側は、「軍閥の重圧下にも見られなかった言語に絶する暴虐」と非難している。

 以後約4ヶ月、ロックアウトされた争議団4百余名は読売の社外で闘ったが、次第に形勢不利となっいく。新聞通信労組がストライキで取り組んだ「十月闘争」は失敗に終わり、結局、中心幹部37名の解雇と退社を条件に残りが復職という屈辱を呑んで解決した。復職者は、この間組織されていた御用系の新従業員組合への統一を強要された。以後、読売の労働運動は潰える。

【正力の追放令解除、表舞台へ復帰す】
 A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収容されていた正力は、1年8ヶ月後の1947(昭和22).8月に釈放されている。しかし公職追放の身となり、この間読売関東倶楽部を創設して競馬場を二つ経営した。これにつき、「文芸評論家・山崎行太郎の毒蛇山荘日記」の2010.1.29日付けブログ「読売新聞・日本テレビの正体……社主・正力松太郎は、米CIAの手先(スパイ)だった」は次のように記している。

 「というわけで、改めて「読売新聞とは何か」、そして読売新聞の支配下にある「日本テレビとは何か」について考えてみたい。有馬哲夫、春名幹雄等によって、すでに多くの研究書や暴露本が刊行されているから、多くの人は知っていることだが、読売新聞、及び日本テレビは、「正力松太郎」という社主であり経営者であった人物とともに、戦後、一貫して「米CIA」と深い関係にあった。それを知るには、正力松太郎という人物が、どういう人物だったかを知らなければならないが、まず次のことを確認しておこう。

 「A級戦犯」としてGHQ(連合国軍総司令部)に逮捕された正力松太郎は、特別の使命を帯びて、戦犯刑務所・巣鴨プリズンを出所したと言われている。つまり、正力は、無罪放免と引き換えに、GHQ(連合国軍総司令部)の工作員(スパイ)となり、新聞やテレビを通じて、日本国民の中から湧き上がるであろう反米思想や反米活動を抑制し弾圧すべく、情報工作活動を行なうという使命を帯びて、巣鴨プリズンを出所していたのである。ちなみに、公開された「米国公文書」によって、スパイ・正力松太郎のコードネームは、「ポダムpodam」、そしてCIA・米軍の日本支配組織としての読売新聞、日本テレビ、プロ野球・読売巨人軍のスパイ組織暗号名は「ポハイクpohike」だったということも、確認されている。

 むろん、スパイ活動の使命を託されている読売新聞といえども、普段は、平凡・凡庸な国民のための新聞として、政治的中立性を装いつつ活動していることは言うまでもない。しかし、政治的に緊急事態となれば、つまり今回のように、「政権交代」、「民主党政権誕生」、「民族独立派政治家・小沢一郎の登場」、そして「日米関係見直し」…ということになれば、普段のおとなしい国民のための新聞という姿をかなぐり捨てて、本来のスパイ活動の先陣を切ることになる、というわけであるが、今年の正月元旦の読売新聞は、まさしくそうだったということが出来るだろう」。(続)


 1949.2月、正力、日本プロ野球のコミッショナー就任が決定される。 ところが、公職追放中という理由でGHQの許可が下りずコミッショナーを辞任し、社団法人日本野球連盟総裁に収まる。(プロ野球は誰のためPart2参照)

 1950(昭和25).6.1日、株式会社読売新聞社となる。

 1951.8.6日、正力は追放令を解除され、讀賣新聞に復帰する。

 1952(昭和27).4.28日サンフランシスコ講和条約発効。公職追放中からアメリカ直結のテレビ放送網の建設を提唱していたこともあって、正力を社長とする日本テレビ放送網鰍ヘ、1952.7.31日に日本の第1号テレビ放送免許を取得している。街頭テレビでプロレス中継を流し、テレビの普及、CMスポンサーの開拓という一挙両得手法を編み出した。この間の経緯につき、「米国防総省はNHK内で情報検閲を行なっている」が次のように記している。
 「タレントの石田純一氏の父親の石田武氏は、NHKの元アナウンサーであった。石田武氏は1950年代に、NHK局内で応募したVOA(ボイス・オブ・アメリカ)のスカラスップ(奨学金制度)でワシントンに何年間か留学した。このVOAとは、第二次世界大戦後の米ソの冷戦下で、共産主義撲滅のために組織されたアメリカのメディア戦略であり、その発案者はカール・ムントという上院議員であった。

 話は少々飛ぶが、このムントが実は、日本のメディアに深く関わっていたのだ。彼は1951年に、「日本全土に総合通信網を民間資本で作る」と発表したが、その翌年の1952年に、讀賣新聞のオーナー正力松太郎がテレビ放送免許を取得し、NHKに続いて日本初の民放テレビ局を開局した。それが現在の日本テレビである。ここで注目すべきことは、当時、正力はA 級戦犯として巣鴨プリズンに収監されていたのだが、なぜか彼は戦犯解除の身になり、しかも民放テレビ局開設のための資金を持っていたが、その資金をどこで調達したのかについて、長い間、謎とされていた。そしてその謎を解明したのが、早稲田大学の有馬哲夫教授であった。

 彼は2006年にアメリカ公文書館(ナショナル・アーカイヴス)において、ある秘密文書を見つけた。その文書には、「正力松太郎は、アメリカに都合よく、日本人を洗脳するテレビ放送網を立ち上げるように依頼を受け、それを快諾したので戦犯を解除された」と記されてあったのだ。ちなみにその時、CIAが正力につけたコードネームは「ポダム」だったという。そしてその計画の一環として読売新聞のオーナーの正力に対し、米国防総省が1000万ドルの借款を与え、それが日本テレビの資本金になったことも記されていた。

 それだけでなく、正力が民放テレビ開局のために助力を依頼し、密約を結んだ人物たちの名前も判明した。その一人が朝日新聞社グループ支配株主の村山長挙(ながたか)で、全体の4割の株を一族で保有しており、もう一人が、毎日新聞社社長の本田親男(ちかお)であった。つまりアメリカによって最初に作られたNHKを始めとして、日本テレビ(読売グループ)、テレビ朝日(朝日新聞社グループ)、TBS(毎日新聞社グループ)という最初に作られた日本を代表する大手メディアグループは、米国防総省(ペンタゴン)とVOA(ボイス・オブ・アメリカ)ですべて結びついていたのである
」。


 1953(昭和28)年、日本テレビを開局させ、後楽園球場でのプロ野球試合中継を優先的にあたえられた。正力は、後楽園球場を徹底活用し、プロ野球のみならずプロレス、ボクシングなどを主催し成功させていく。読売新聞拡張販売員は、読売系列のプロ野球、遊園地、展覧会の招待券、割引チケットを配る事によって販売部数を増やしていった。

 1954(昭和29).7.7日、正力は社主に推挙される。晴れてめでたく表舞台での公式の復帰を果たし、経営の第一線から退く。

【正力が衆議院議員になり原子力行政推進する】
 1955(昭和30)年、衆議院議員に初当選。鳩山派に入る。11.22日の第三次鳩山内閣で北海道開発長官に抜擢される。原子力行政の推進に力を入れ、1956.5.19日、科学技術庁を創設し、初代長官に就任する。原子力発電導入に一役買い、現在の原子力事業の土台を築く。

 1957(昭和32)年、岸内閣の第一次改造で、国家公安委員長と科学技術庁長官・原子力委員長に兼任で就任する。

 正力は、内閣総理大臣を目指し、中曽根康弘らを従え派閥「風見鶏」を作る。しかし、野望は実現することなかった。

 プロ野球初代コミッショナーに就任する他、柔道やプロ野球に正力の名前を冠した大会・賞を設ける等々その活躍の幅は広い。

 1961(昭和39)年、勲一等旭日大綬章を受章。

 1969(昭和44).10.9日、逝去(享年84歳)。

【務台、小林、渡辺の三者関係】
 1970(昭和45).5.30日、長男・亨、異母弟・武がいたが後継の器ではなかった。正力の死後7ヶ月半を経て、二人の副社長のうち務台光雄が後継して第9代社長に就任。長女の婿・小林与三次が日本テレビ社長に就任。正力亨は社主。務台は読売に移籍するまで報知新聞の販売部長。

 小林与三次(よそじ)は1923(大正2)年、富山県大門町に正力家の土建資材を運ぶイカダ舟の船頭・小林助次郎の三男として生まれる。富山県大門町出身。1936(昭和11).3月、東京帝国大学法学部を卒業。同年4月、旧内務省に入省。内務省地方局に採用された。地方周りで熊本県警課長兼警察訓練所長、京都府警防課長を経て、当時特設された興亜院の事務官に転出し、再び内務省の地方局に戻り、そこで敗戦を迎えた。戦後は、内務省監察官、職員課長、選挙課長、行政課長を歴任し、内務省解体後には建設省文書課長、自治省行政部長、財政局長を経て、1958年、44歳の若さで事務次官となった。天下り先は住宅金融公庫で、そこの副総裁となった。1965年、読売新聞社主だった故正力松太郎氏の女婿という縁で同社入社。1970年、70年から日本テレビ放送網社長を兼職。読売新聞社の主筆兼論説委員長を経て1981年、日本テレビ会長・読売新聞社社長に就任。10年間務め、1991(平成3年)年、務臺光雄(名誉会長)が死去したのを機に渡邉恒雄に社長を譲って会長に就いた。1997年、読売新聞社名誉会長に就任。この間、日本民間放送連盟会長、日本新聞協会会長、選挙制度審議会会長などを歴任した。巨人軍最高経営会議メンバーの1人。94年勲1等旭日大綬章受章。1999.12.30日、死去(享年86歳)。 


 1973(昭和48).11.1日、巨人軍が日本シリーズ9連覇を達成。

 1981(昭和56).6.29日、会長に務台光雄、第10代社長に小林與三次が就任。

 1991(平成3).5.2日、会長に小林與三次、第11代社長に渡辺恒雄が就任。副社長・水上健也が代表取締役(平成9年6月16日会長)に。

 2000(平成12).1.1日、新「読売信条」を制定、発表。


 2001(平成13).5.10日、「読売新聞記者行動規範」を制定、公表。


 2002(平成14).7.1日、読売グループを再編成。持ち株会社「読売新聞グループ本社」(渡辺恒雄社長)のもと読売新聞東京本社(内山斉社長)、読売新聞大阪本社(板垣保雄社長)、読売新聞西部本社(池田孜社長)、中央公論新社(中村仁社長)、読売巨人軍(堀川吉則社長)の中核5社で構成


 「読売ヨタモン、毎日マヤカシ、朝日エセ紳士」、「中興の祖」正力松太郎、歴史的恥部、1977.5.25日日本新聞協会理事会が「販売正常化委員会」.設置を決議。訪問販売による強引な押し売り拡張販売手法問題、インテリ・ヤクザ、マスコミ仁義(同業の内部問題相互不干渉仁義)


【テレビ放送の参入】
 敗戦後は、武器を持ったアメリカの進駐軍が日本全土に駐留し、治安の維持を確保していた。そして、昭和27年にGHQ(連合国総司令部)が撤退した後は、CIAなどのアメリカ政府の情報機関が代わって対日政策の主導権を握るようになった。その情報機関が主導した日本支配計画として導入したものが日本のテレビ放送だった。日本のテレビ放送は、歴史の由来からすれば、アメリカによる「日本国民・支配装置」といえる。そのため、日本の当時のテレビシステムはすべてアメリカ式のものが流用されている。当時のテレビ番組は、反共産主義的な内容や、アメリカが憧憬の的になることを促す内容が意図的に放映されていた。それは、進駐軍が撤退した後も、日本国民が、親米感情を持ち続け、当時脅威であった共産主義に感化されず、日本が親米国家であり続けるため、心理作戦として必要とされるものであった。

 正史では、日本初の民放である日本テレビの創設は、「日本のテレビ放送の父」といわれる正力松太郎個人の功績とされてきた。しかし、2000年に日本帝国政府情報公開法がアメリカで制定され、機密扱いとされてきた過去の重要書類が一般公開され、早稲田大学教授・有馬哲夫氏は、アメリカに渡り、国立公文書館に眠っていた474ページにも及ぶ機密ファイルを調査し、元警察官僚で、大物政治家の正力松太郎が、テレビを通じて親米世論を日本国内で形成するためにアメリカ政府の諜報機関であるCIAと協力関係にあったことを明らかにした。 その内容は著書の『原発・正力・CIA』『日本テレビとCIA』に詳しく記されている。

 「CIA」は、対外諜報活動を行うアメリカ合衆国の情報機関の代表格で、外国反米政権を倒すためのテロ組織を支援することや、外国の親米政党に対する秘密援助も行う、政府が公的に手を下せない “ 裏稼業 ” に関わっている組織である。そのため、「クーデターメーカー」とよばれることもあり、反米国家のイランなどからは、「テロ組織」に指定されている。政治家、軍人、NPO活動家、宗教団体、留学生、芸能人、外国人など様々な身分・職業に偽装させたエージェントを世界各国に配置しているといわれる。CIAは、アメリカの覇権の維持拡大を最終目的として、外国の政府と同国内の反政府勢力の双方に介入し、政策決定をコントロールする巧みな手法を用いる。例えば、左翼・右翼・学生運動・宗教団体、暴力団などを育成し、軍事介入ないし戦争のきっかけを作り出し、その後に支配体制を構築するという長期的な計画を世界各国で実行している。

 戦後日本では、占領期から児玉誉士夫、笹川良一(右翼)、岸信介(首相)、緒方竹虎(自由党総裁)、辰巳栄一(元陸軍中将)などをエージェントとして、設立期の自民党にも活動資金を提供した。ゆえに自民党には基本的に親CIA、またはエージェントが多いといわれる(角間隆著『ドキュメント日商岩井』、川端治著『自民党 その表と裹』より )。日本の指定暴力団ともコネクションを持ち、左翼学生運動の資金提供にも関与している(森川哲郎著『日本疑獄史』より )。





(私論.私見)

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熱風の日本史:第40回「新聞は思想戦兵器なり」(昭和)美談で飾り、部数V字回復:経営優先、戦争熱煽る
http://www.asyura2.com/13/hihyo14/msg/402.html
投稿者 あっしら 日時 2014 年 6 月 03 日 16:30:35:
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※ 日経新聞の連載モノ:最終回


熱風の日本史
経営優先、戦争熱煽る
第40回「新聞は思想戦兵器なり」(昭和) 美談で飾り、部数V字回復

 1931(昭和6)年の満州事変から45年の太平洋戦争終結までの長い戦時体制下、新聞は国民の敵愾(てきがい)心をあおり、戦争を「聖戦」と美化し続けた。言論統制時代に「やむなく」という面もあったが、営利のため進んで戦争熱を演出していた事実がある。弾圧を受けた被害者というよりも、「軍部とともに日本を亡国に導いた共犯」との厳しい批判もある。


 「新聞は、今までの新聞の態度に対して、国民にいささかも謝罪するところがない。詫(わ)びる一片の記事も揚げない。手の裏を返すような記事を載せながら、態度は依然として訓戒的である。(略)敗戦について新聞は責任なしとしているのだろうか。度し難き厚顔無恥」
 日本国民が太平洋戦争の敗北を知ってから4日目の1945(昭和20)年8月18日、作家の高見順は日記にこう記した。

 新聞人が無責任で反省していなかったわけではない。元朝日新聞の主筆で、戦争末期の小磯国昭内閣で情報局総裁を務めた緒方竹虎は戦後、「軍の方からいうと、新聞が一緒になって抵抗しないかということが、始終大きな脅威であった。従って各新聞社が本当に手を握ってやれば、(戦争の防止は)出来たんじゃないかと、今から多少残念に思うし、責任を感ぜざるを得ない」(『五十人の新聞人』)と述べている。
 これは現在でも語られる「スタンダード」な新聞の戦争責任論だ。新聞が連帯して軍に抵抗し、戦争に反対する勇気を持たなかったという懺悔(ざんげ)だが、「主犯は軍部、新聞は不承不承の従犯」という被害者意識もにじみ出ている。しかし、それだけではない「不都合な真実」がある。
□   □
 日本の国際連盟脱退(1933〈昭和8〉年)前に、日本の新聞で唯一脱退反対を唱えた時事新報記者の伊藤正徳は「新聞は戦争とともに発展する」(『新聞五十年史』)と断言している。日露戦争(1904〈明治37〉〜05年)では大手新聞の部数は軒並み3倍に増えた。
 「ジャーナリズムは日露戦争で、戦争が売り上げを伸ばすことを学んだ」(半藤一利・保阪正康『そして、メディアは日本を戦争に導いた』)、「戦争のたびに新聞の部数が飛躍的に伸び、新聞社のビルが大きく高くなっていった」(岩川隆『ぼくが新聞を信用できないわけ』)

 昭和初期、世界恐慌と緊縮財政の影響で新聞の部数は落ち込んでいた。31(昭和6)年9月18日に勃発した満州事変は、挽回の絶好のチャンスだった。各新聞社は大量の記者を満州に派遣し、写真などを空輸するため飛行機を飛ばした。
 大阪朝日は9月11日から翌32年1月10日まで131回の号外を出した。特派員の事変報告演説会は東日本で70回、聴衆は60万人。各地で4002回もニュース映画が上映され、1000万人が見たという(前坂俊之『メディアコントロール』)。
 紙面では「肉弾(爆弾)三勇士」のような美談が掲載され、国民を熱狂させた。各社は写真展などの展覧会や国民集会を主催し、戦争ムードを盛り上げた。経済紙の中外商業新報(現在の日本経済新聞)も「満蒙時局大観」という12ページのグラビア紙面を作った。
 とくに大阪毎日・東京日日(現在の毎日新聞)の戦争賛美は際立っており、「あくまで支那の非違を責め、支那の反省改悟(かいご)するまで、その手をゆるめ」るなと社説(9月27日付)で軍を叱咤(しった)。「毎日新聞後援、関東軍主催、満州事変」といわれた。32(昭和7)年12月19日の各紙には、満州国を不承認とした国際連盟の決定に異議を申し立てる全国新聞・通信132社の共同宣言が掲載された。翌年の連盟脱退を促す結果になり、新聞は国家をミスリードし始めていた。

 事変報道で新聞は売り上げのV字回復を果たした。そして6年後、再び「稼ぎ時」がやってくる。37(同12)年7月7日の盧溝橋事件から始まった日中戦争は、報道合戦をさらにエスカレートさせた。
□   □
 当時、ラジオが爆発的に普及し始めており、速報性で劣る新聞は焦っていた。最新の写真電送機などを駆使し、戦場写真と郷土部隊の活躍を美談で粉飾した記事をより早く読者に届けることに腐心した。兵士の安否を知りたい家族は新聞をむさぼり読んだ。速報重視は情報を吟味せず、既成事実を追認していくことになる。事件発生当初の不拡大方針を撤回し、派兵を発表した7月11日の夜、近衛文麿首相は在京の新聞・通信社の幹部を官邸に呼び、挙国一致の協力を要請。新聞側は快諾した。
 だが、政府はムチの音も響かせる。13日、内務省警保局は「時局ニ関スル記事取扱ニ関スル件」として、記事差し止め事項の通牒(つうちょう)を突きつけた。「反戦・反軍的」「日本国民を好戦的・侵略主義的との疑念をもたせる」などの記事が禁じられた。

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強まる言論統制、記者登録制に

 言論規制の中心となった法律は出版法(1893年)と新聞紙法(1909年)だった。新聞紙法には「安寧秩序紊乱(びんらん)」の取り締まり項目があった。社会の安定を乱す言論は禁止するということだが、具体的に何が問題かは明記されておらず、無限に拡大解釈が可能だった。

 戦前・戦中に言論を統制する法令は30近くあったが、そのなかでもあらゆる権限を政府・軍部に与えた「オールマイティー」の法律「国家総動員法」が1938(昭和13)年4月1日に公布される。同法は41(同16)年3月、新聞を含むすべての事業の開始から解散までを政府が勅令で統制・命令できるように改定された。これをもとに新聞事業令・出版事業令が公布され、メディアは言論だけではなく事業そのものの生殺与奪の権を政府に握られることになった。

 軍部テロの五・一五事件(32年)、二・二六事件(36年)で一部の新聞が批判報道を行ったが、新聞界全体は沈黙した。国家の言論統制が完成されつつあったためだが、新聞自身にも危機感が欠如していた。
 「本紙は昭和九年九月十一日から、従来の朝刊十ページを十二ページに増し、朝夕刊十六ページ建てを断行」「財界の好転により広告の掲載量が増加」(『日本経済新聞八十年史』)というように、戦争景気で新聞は潤っていた。満州事変以降の新聞は弾圧で後退を続けたというより、部数拡大へと前進していた。やがて「内面指導」という編集方針への介入も始まる。
□   □
 41(昭和16)年夏、新聞界の自主的統制機関「日本新聞連盟」の編輯(へんしゅう)委員会は「戦時下における吾等(われら)新聞人は、新聞は思想戦兵器にして、新聞記者は思想戦戦士なりとの自覚の上に立ち」の言葉で始まる言論報道統制に関する意見書を作成した。それは「新聞が戦争の機関であることを前提としたものであった」(塚本三夫『実録 侵略戦争と新聞』)。

 太平洋戦争開戦翌日の41年12月9日の夕刊各紙は「米英膺懲(ようちょう)(懲らしめる)世紀の決戦!」などと大見出しで戦意を鼓舞した。翌10日、在京の新聞・通信8社が後楽園球場で「米英撃滅国民大会」を開催した。

 宮城(皇居)遥拝(ようはい)、国歌斉唱、内閣情報局や陸海軍の報道部幹部あいさつの後、各新聞社の代表が「米英撃滅せずんば止まず」の決意を表明。最後に新聞連盟理事長の田中都吉・中外商業新報社長らが万歳を叫んだ。

 翌42(昭和17)年2月5日、新聞事業令に基づく新聞統制団体設立命令により日本新聞連盟は解散し、「日本新聞会」(会長は田中・中外社長)が発足した。情報局幹部が参与の官製の統制機関であった。そして、記者は登録制となる。
 記者の資格条件は「国体に関する観念を明徴にし、記者の国家的使命を明確にし――」などとされた。日本新聞会は43(同18)年度末の時点で、申請者約1万2000人を審査して8700人を当局に提出。うち約3300人が不認可となった(里見脩『新聞統合』)。
 記者は「錬成」と称して30日間、農耕や参禅、禊(みそ)ぎ、伊勢・橿原神宮参拝など神がかり的な精神修養を課せられた。「ジャーナリズム(ジャーナリスト)の退廃と敗北の、もっとも無残な姿」と同時に新聞が「『思想戦の兵器』であり、戦争の機関」(前掲『実録 侵略戦争と新聞』)であることを表していた。
 「合格」した記者の大部分は国策に共鳴する革新派が占めた。反軍記者といわれた者の多くも「海軍記者の陸軍批判」といった番記者型で、「戦争や対外膨張そのものを批判したものは稀(まれ)」(佐々木隆『日本の近代14 メディアと権力』)だった。
□   □
 新聞は新聞用紙制限令(38年8月)の兵糧攻めで「1県1紙」へと整理・統合が進められ、38(昭和13)年に約700紙だった普通日刊紙は42(同17)年11月までに55紙に激減した(前掲『新聞統合』)。この間、用紙の奪い合いで中央紙と地方紙が対立。新聞は連帯できなかった。

 日本新聞博物館(横浜・中区)3階の「歴史ゾーン」には、検閲に抵触した記事について当局に提出した始末書など戦時の資料が展示されている。新聞の「抵抗と敗北の歴史」だが、同博物館の赤木孝次・担当主管は「当時の新聞は自ら国民の戦意高揚熱をあおり、戦争への道をつくっていった側面もあった。その問題も隠さず展示し、戦争と新聞の関係について考えてもらいたい」と話す。

 戦後の46年(同21)年7月23日、自主独立の組織として日本新聞協会が創設された。同時に、戦争に加担した過去を直視、反省したうえで新聞倫理綱領が定められる。今世紀に改訂された綱領に次のような一節がある。
 「新聞は公正な言論のために独立を確保する。あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない」
(編集委員 井上亮)

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〈遠見卓見〉主戦論で増進、日露戦の教訓 半藤一利

 日露戦争のとき、新聞は主戦論と非戦論に分かれた。非戦論の先頭に立っていたのは『万朝報(よろずちょうほう)』だった。しかし、世論の大勢が「ロシア撃つべし」の方へ向かうと10万部あった部数が8万部に落ちてしまった。

 創業者の黒岩涙香(るいこう)は「経営か志か」の判断を迫られ、経営を選択して主戦へと180度社論を転換した。その後は25万部へと大増進した。新聞は戦争とともに栄える。それが日露戦でジャーナリズムが学んだ教訓だ。
 大正、昭和の新聞はこの教訓が頭にあった。軍部からの圧力やラジオとの速報競争もあったが、戦争賛成へと傾いていった第一の理由は経営だったと思う。二・二六事件の時点で新聞の抵抗は99%終わり、太平洋戦争中、記者が登録制になったときは死んだも同然だった。
(作家)
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〈余聞〉ユダヤ陰謀論 さかんに

 戦時中の新聞は神がかり的な精神論、必勝論を書き続けた。「個人も軍隊も精神的に負けた時にのみ負けるのである」(1943年9月4日毎日社説)、「一億起って総武装すれば必ず勝つ」(44年8月8日中部日本)

 異様なのがユダヤとフリーメーソンの陰謀論がさかんに論じられていることだ。「(英米とソ連)両者を支配するものは、(略)ユダヤ民族なのである」(43年12月30日毎日社説)、「(世界征服の野望を抱く)ユダヤの陰謀こそは一億国民が瞬時にも忘れてはならぬ」(44年1月22日読売報知)


「熱風の日本史」は今回で終わります。

[日経新聞6月1日朝刊P.13]