ヒゲ虎時事評論「自由論争3」

 詳細は該当掲示板でご確認できます。

Re:私有財産制の功罪について  ( 06/24 17:17:09 )
> 私としましては、自分の築いた財産を子孫に残す、という発想を肯定します。ただし、家系による利権の独占はあってはなりません。それには二世三世も公正な競争原理に晒される必要がありますね。二世三世にも能力が備わっていたなら、その資産は益々増えるでしょうが、そうでなければいづれはその資産も庶民に還元されてしまうだけの事です。つまり「お上」依存体質を持つ者など後続の起業家に追い落とされてしまえば宜しい。そう言った社会こそ望ましいと考えます。

> それためには公教育の充実、つまり家の資産の有無にかかわらず、子供が能力を伸ばす事の出来る教育環境が必要となってくるでしょう。機会平等の為にも「公教育は貧乏人のもの」としてはならないのです。子供の能力に応じた教育は、国家が国家自身の為にも、無償に近い形で提供しなければなりません。
>
> また、資産家に生まれた事で、その人物の財産権を恣意的に犯してはならない。それこそ僻みから来る逆差別でしょう。


 いきなり大上段に構えたので、考えがまとまらないわ。恐らく、この種の論議は、より深く「汝自身を知れ」の箴言との絡みから考察されねばならないように思います。つまり、「人というものが持つ欲望の意義」を頭で考えるのではなく、実際においてみつめるところから論を起こさないと空回りすることになると自戒しています。そのことだけがわかる。諸論者のご意見を待ちたいです。

Re:謀略ビラに負けない日頃の喧騒を大事にさせたい  ( 06/19 13:32:40 )

> 共産党の情けない対応の仕方については戸田も同じ批判を持っていますが、改善されることはかなり当分ないでしょうね。なんせ宮崎学さんが東大斗争で民青の「あかつき防衛隊」(=共産党のゲバ部隊)の総隊長をやっていたことが、自伝「突破者」に書かれてあれほど有名になっても知らぬ存ぜぬを押し通す所ですから。

>  (「私の大学ではそんなことはなかった」(=東大のことは知らない=そういうゲバ部隊の存在は知らない=存在したという証拠がない=・・・)というような「言いわけ」を党員がおおまじめで言っているような所ですから。〜HP掲示板などで)


 結局、自分の殻に治まる情報のみ納めようとする変な精神が住みついており、真偽なぞどうでも良くなっているような矮小化三枚舌風潮が支配していると私はみなしています。私は、選挙が終わるまではこれでも控えめにしておこうと思っています。

> @それはそれとして、今回の謀略ビラの大量配布は日本の選挙史上、最悪最大規模の選挙妨害事件であり、許し難いことだと思います。

> 投票日前の金曜夜中あたりにまた大量の謀略ビラ配布がありそうな気がします。夜中に見張っていて、現場を押さえて捕まえてしまう、というのが面白いと思いますが。

 水際作戦も良いが、元々日頃から論議をかまびすしくしておれば、効果の無いことには相手も金を使わない。効果があるから毎度毎度利用する。この大元のところに目を向かわさないと徒労に終わり、相手と同じ土俵に乗せられることもある。もう、そろそろ徳田のオヤジの出番の頃かなぁ。あのオヤジ今ごろどんな気分で眺めているんだろう。


Re:閉話休題 投稿者 ( 06/06 10:31:24 )

> 私も発言トーン自粛ぎみ。話題転換と致します。

 ただこういう観点だけは云っておきたい。戦前の保守本流政治家と戦後のそれは随分とイデオロギー的にも違うのではなかろうか。戦後は吉田−池田−佐藤−田中ラインが保守本流となっているが、たまさか敗戦という契機の中で異端的に形成された本流であって、基盤は危ういのではなかろうか。戦前的な保守本流とは岸−福田−中曽根ラインであって、この系流は敗戦という事態に蟄居させられ今までは傍流に追いやられてきたのではなかろうか。この拮抗関係が次第次第に逆転し始めており、森首相の登場はこの辺りに関係しているのではなかろうか。森首相の口チャックの紐を緩めれば、戦前並の保守本流政治家的観点が堰を切ってあふれてくるのは系譜的に当然であり、それを自民党の全的否定論で対応しようとすると、戦後の保守本流の特殊事情的動きが見えてこないことになるのではないのか。弁証法的とはそういう混交した事態の認識を的確にすることであり、一色で括るのは没弁証法的ではなかろうか。

 戦後の原理は良しにせよ不十分にせよ経済的原理を主軸として国の再建と発展を期したとこにあるのではなかろうか。そういう意味で、戦後政治に大国的責任とか防衛意識が希薄だったことは故無しとはしない。問題は、こういう新しいテーマに立ち向かうにも、どういう観点.角度からアプローチすべきかということにあるのではなかろうか。既に不問できない事情が発生しており、この水域に論を起こさないのが良いのでもないと思われる。戦前的保守本流路線に回帰するのか、戦後型保守本流路線で打開するのか、戦後型憲法精神で対応するのか、はたまたもっと徹底した主権在民.国際協調路線を創造するのか、あるいはもっと別な日本的政治路線があり得るのか等々のいずれに現実性があるのかが問われているのではなかろうか。その綱引きにリーダーシップを発揮するのが各政党の存在意義であり、かく問題を鮮明にさせて我々を引っ張っていくのが指導者の能力なのではなかろうか。

 折も良し丁度新世紀の変わり目にこうしたテーマが突きつけられてるにも関わらず、大上段に構えて論議すべき事態であるにも関わらずそういうことをしないのが日本的習慣なのか、単に政治オンチなのか。そういう関心で私はウォッチしています。


Re:閉話休題  ( 06/06 23:05:49 )

> いえいえ、当方怖いもの見たさもありますので開話お願いします。
> 昨今流行の右からの精神論台頭について戦後日本経済の頭打ちがその底流にあるのならば、「豊かさ」を標榜した時代の左陣営の精神論も検証されるべき時期にあるとの感想 は私も納得できるところです。そうか「右か左か」の議論のぎこちなさはこのあたりに あるのか。

 書いている当人が教えられるほどのひまたさんの読解力に常々敬服しています。もし、ひまたさんが引き続き私の文面に興味を覚えてくださるなら、折々に投稿させてもらおうと思います。とか云いつつも毎日投稿してるなぁ。私の気持ちはただ一点にあります。誰に有利不利とかどの勢力に資する為とかの動機はありません。ただ嘘が嫌なのです。もう一つ付け加えれば、できるだけ大きな権力の虚構を暴くことに意義を見出しております。

 私には、いろんな嘘が見えています。思いつくだけでも保守対革新という構図のナンセンス、革命闘争上の青写真不要説の嘘、日本の国家的対米従属説の反動性、田中角栄元凶説のいい加減さ、アラブ諸国家の現在的悲惨を問わないナチスによるユダヤ被迫害説の奇妙さ、マルクス主義の右傾改竄傾向にある本末転倒化等々浮かんでまいります。いずれも取り組んでみたいテーマです。それと畢生のテーマとして、起業活動の延長上としての企業活動の賛否評価論をしてみたいとか思っています。ここを突破しないと次の時代が見えてこない気がしていますので。

 しかし、私が無い頭でつたない文章を書き上げる前に、公務員的な立場で時間が自由になって飯の心配が要らない方がいっぱい居られるのだから、そういう人たちこそまず率先取り組んでもらいたいという気持ちを濃厚に持っています。最初は教えられ後から自分なりに納得したいのです。特に大学教授又は研究所スタッフなどで専門の方が居られる筈です。なぜ、連中が様々な虚構に警句してくれないのかと常々思っております。ホントどうなっているんだろう。諸外国語堪能で、海外情報までリアルタイムに取り寄せている人がほんの少し出し惜しみを止していただいたら良いのにと思っています。それとも「豊かさ」の中での「先生被呼称の習慣化」のぬるま湯で、いつのまにか左右問わず御用化し過ぎているのかなぁ。それとも昔も今も、「知らしむべからず、拠らしむべし」なのかなぁ。


Re:横槍失礼 第四者 ( 06/07 02:04:31 )
 この、れんだいこさんとひまたさんのやりとりは、非常に示唆に富んだものとして敬服しつつ拝見しております。私も非才ながらちょっと感想でも入れようか、と考えているのですが、かなりの思考と時間が必要なので、見送っております。この場で展開するのが何だか勿体無いですね。どうか「外野」の騒々しさに惑わされず、有用で面白いディスカッションを継続なさって下さい。続きを楽しみにしております。

Re:どうぞどうぞ、第四者さん ひまた ( 06/07 03:35:51 )
 場末の酒場の片隅でチビリチビリやっておられる初老(失礼)の紳士と隣り合わせて、つい話し込んでみたら、もしかしたらそんじょそこいらの論客とは桁外れの修羅場(思想風景での)をくぐってこられた方なのではないだろうか…と、私は御伽噺の世界に迷い込んだような気分でおります。れんだいこさんの語り口ちょっと難解ではありますが、その語られるところの壮大なこと若輩の私はこれまでの情勢読みの浅さに恥じいるばかりなのです。ただ、いまさら悔やんでも仕方ありませんが私これでも本名かかげての書きこみですので(これ他の人には内緒)どうも舌の先が甘くなり、肝心なところでやりとりの面白さに水をさすきらいがあります、反省。第四者さんもどうぞカウンターにお座りいただいて、そのへんフォロー願えれば幸いです。よろしいですよね、れんだいこさん。

Re:どうぞどうぞ、皆さんで  ( 06/07 10:58:54 )

 私のこの掲示板への闖入はご縁で、ヒゲ虎さんの度量の許す限り連れ子していただこうと思っております。一人で考えて独善に陥る悦楽よりも、みんなで議論して平衡感覚を保った方が効能が大きいと考えて利用しています。特に、パソコン遊びは画面と向かい合っている訳ですから、ここで人間嫌いになったらほんとにオタク族になってしまいます。よくしたもので、面と向かった相手のいない画面を通じて面と向かった際の議論より収穫の多い機会をパソコンが実現してくれるとはまか不思議としか云いようがありません。そのように考えて積極的に発言しようとしています。それは恐らく鏡相手のブツブツよりも的確な検証をしてくれることになるだろうと思っています。向こう傷と恥を恐れずに率先突進していこうと思っていますので、第四者さん、ご遠慮なくコメントください。それとひまたさん、私はスナックでは静かな方ではありません。迷惑かけない範囲でカラオケに興じて何とかうまくなるよう工夫している派のものです。イメージを修正させてください。セイジの話はりっしんべんの方が多いですね。

 一つ云っておきたいことは、あの幕末時の喧噪です。あれがあればこそ明治から大正にかけて日本は列強による植民地にされずに済んだのではないかという視点を私は持っています。ほんのなんでもない民百姓までもが政体、国の行く末について議論していたという実績がある訳です。今日の電波マスコミではない口コミ、ガリ版刷り手法により一人一人が生計と国体について論じていた事実を今日のマスコミはあまり伝えようとしておりません。なぜそのように武家層のみならず町人、百姓まで世の中の有り様について関心を持ち得ていたのかについて関心がありますが、手短に意見発表しますと、意外に徳川政権はイデオロギー的であったのではないかという仮説です。

 つまり、儒教的な「天下治政」教育を普及することにより、当時の人々の脳髄を今日の我々よりも深く刺激して鍛えていたという底地があったので、黒船来航を契機としての新事情に対する対応を見事に為しえたのではないかとか考えている訳です。案外と統制一本槍ではなかったのではないかと考えています。でないと、凡そ三百年も続くわけがないと考えたりもしています。話を戻して、幕末には、佐幕派、勤王派、公武合体派、攘夷派、開国派、国学派、洋学派、脱藩志士、新撰組、新宗教等々が入り交じってけんけんがくがくの政争を繰り広げた歴史があったのではないでしょうか。つまり、国政に非常に関心を持つ人士を澎湃と輩出していたのではなかったのか。

 このけんけんがくがくを大事にしたいというのが私の視点です。反対の意見があればこそ練り合わせで我々の脳が鍛えられ、それが結局時代を切り開くベースになるのではなかろうか。この芽をつぶそうとする動きに対して私は反対信号を発信し続けようとしております。大東亜戦争は、反対派をねこそぎ窒息させたなれの果ての敗戦であったと考えています。最後は大本営内部でさえまともな議論が為しえず、昭和天皇に裁可願わねばならなかったし、かの天皇の決断も又かなりに優柔不断であったとか述べ始めると際限がなくなりますが、要はアメリカン草の根民主主義の良さをもっと着目すべきだということが云いたいわけです。この言い回しが気に入らなければ、我が日本の在来的な談じ合い精神と言い換えてもよいです。この芽を刈り取ろうとする権力側の動き、弾圧的法制整備化、反権力を標榜する者の中にもある同様の秩序観それらに抵抗し続けることがもっとも愛国的であり、国際的精神としても培養したいと考えています。

 今日の状況をかの時代精神と比較するなら、丁度真反対の方向に位置しているように思います。政治の話がださくされており、目先のお金儲けに忙しくしているようで実は超債務国家へと誘導されており、体を張って矢面に立とうとする人士をつぶすことにより結局へそてん方向へ寄せてしまい、働ける環境づくりよりも保護を願う安楽さを助長するやさしさの競い合い、人生の中身に関心を持たない長寿化、物言えば唇寒し等々何だか変な時代だなぁと考えております。


Re:共産主義者の「感性」について  ( 06/08 10:52:26 )

 いつも応えさせられるあたしの身にもなって下さいね。でもいいか。あたしも楽しんでんだから。思うに、唯物弁証法創始者マルクス、エンゲルスにあってさえ、持論を説くにあたって彼なりのパラダイムをあらかじめ用意しており、そのパラダイム的視点から様々な考証を為していることを当たり前に受け留め、その質をこそ問うべきではなかろうか。ということは、マルクス.エンゲルスの諸言説を「真理」視してみたり、何らかの歴史的事実との相違を指摘して誹謗してみたりすることは、双方間違いのような気がするといったら偉ぶり過ぎた言い方になるでしょうか。

 むしろ、マルクス、エンゲルスが、隣国フランス革命の勃発とその後の流れの評価にあたって、これにどのような態度を示したのか、引き続く民衆的暴動、一揆的闘争に対してどのように関わろうとしていたのかということにこそ彼のインテリ性の質があるのではなかろうか。この質こそ、現代のインテリを自認する輩の小市民性を浮き彫りにしているところの当のものであり、マルクス主義者として評価され継承されるべき精神のように受け取らせて頂いております。付言すれば、あの時代の歴史性として、ヘーゲル的な「世界精神」を獲得せんとするヤング知的エリートの切磋琢磨が横溢していた時代であったようにも思います。今日はそういう意味では哲学が逼塞している時代だろうと思っています。そういう試みを無謀と了解し捨てた現代はそれだけ賢くなったのかもしれないし、物足りない時代なのかも知れない。

> 私には中核派と革マル派の違いなんぞさっぱりわからない。(笑)

 うーーん、云いたいこともあるけど、理論的な考察ともなるともう少し勉強してからでないと。何せ、命がかかっているし。

> 共産主義者の獲得した(すべき)「感性」についてれんだいこさんから何か示唆いただければ嬉しいです。

 あの時代は、資本の原始的蓄積期であって、相当ひどい「野麦峠」的搾取が行われていたのだと思います。そういう社会的生産関係に対して義憤を感じた精神こそ共産主義者の「感性」だったと思います。そうした搾取構造が今日一定修正されたのか、中流階級というカウンター勢力を作り出しているだけなのか、そのしわ寄せが低開発国に移行しているだけなのか等々両面からの考察が為されないと学問とはいえないと考えています。個人的な受け留め方としては、この義憤と民主主義的制度の獲得の流れは追走しつつ一応別個の流れで今日にいたっているのではないかなとも考えさせられています。この種のことに関しては、要は医学の発展と同じで、一つ解明すれば新たな課題が待ち受けているというのが実際であろうと拝察させていただいております。わかったような物言いをする獰猛な精神と私のそれは馴染みません。


Re:こそばゆいなぁ ( 06/09 12:39:13 )

 ひまたさん、「碩学」なぞと云って下さるのは悪い気はしないけどこそばゆいです。実態は、どういう訳かこの方面の話が大好き人間というだけのはにかみ屋です。私の周囲には政治の話をする環境がありません。さわり程度の会話は出来ますが、深い話は辛気臭いということになります。だから、こうしてインターネットで通信し合えることが単に楽しいという思いのままにあれこれ書き続けています。もし「碩学」といってくださるのなら、種が尽きたときどうしようなぞと心配が始まっています。まぁいいか、尽きないように発掘しつづければよいのだからなどと苦笑しつつこうして指先運動しています。

 そうか。
> 共産主義的「感性」のことは、義憤や人類愛それから民族的自然観(文化・風土・ 宗教論的な)などとは多少位相の異なる部分について関心(新しいと思っている)が あります。19世紀というのはすでに途方もなく複雑な社会(世界)です。それを 的確に分析し展望する科学性まで総合し支えた「感性」というのは「普通」のものではないはず、という気がするからです。

 義憤論のレベルだけでは共産主義的「感性」に迫りえないのか。そうかもとか少々考えさせられています。私の場合がそうであったということを一般化しては薄過ぎるのか−−反省その一です。ここで、私の左翼人生化の軌跡行程を辿ってみます。中.高校時代よりなにがしか世の中のことを考え始めました。それは世間の実態をより知るという方向に向かうのではなく、より思弁的に世の中の在り様としての理想を考える方向に進みました。これは人間の脳機能発達度がそういう抽象ないし論理を好むことに因があるのだろうと思います。この法則は古今東西問わず共通の、人としての能力の特徴ではなかろうかと考えられます。

 次の行程は、当時ベトナム反戦闘争華やかな頃で、そうした社会の時代的雰囲気に影響を受けていったように思います。とにかく皮膚感覚で、アメリカがベトナム人民をいじめており、日本がそのアメリカに追従しつつ経済的なぶんぶく太りをしているように思い、義憤を昂ぜせしめることになりました。但し、この時は受験時代と重なっており、田舎のこととてさほどの動きは出来ませんでした。

 次は学生時代です。行動がアルバイト時間を除き無制限自由になりました。世の中の理想社会を思案する抽象能力の研鑚と現実の個々の社会的運動に関わることがドッキングしました。この過程で、マルクス主義的文献と出会いました。その時目からうろこが落ちるような思いでページをめくっていったように思います。この理論に指導されることにより、史上初めて、理想社会への願望が現実的となった、と了解したように思います。この頃、組織的運動体との関わりも為されました。ほぼ一直線でした。このことは次の示唆を与えてくれます。人は身近な交流のコミュニケーションになじむもので、あれこれの組織的運動体を研究した上で選択入会するのではない。もっと身近な人と人とのスキンシップ的な影響力のほうが断然強い、又は影響力の強い人による感化のほうが早いということです。だから、現場はそれほど大事なんだということになります。

 ここから先が私なりの動きになりました。身を寄せた組織的運動体との相性が悪いことに気づき始めました。そこが、私が偉いと自分で自分を誉めてやりたいところのゆえんです。それこそ何か「感性」が違うことを感じ始め、重症の胃潰瘍になってしまいました。そこから私はサークルに潜ることになりました。私の思いの正否を検証しようとし始めたのです。孤独な道程となりました。以来、今日まで経過しています。ほぼ市民生活に埋没してしまいましたが、一定部分未だにそのときの思いの正否を検証しようとしている私が残存しているように思っています。恐らく、もう一人の私の人生の時計の針があそこ辺りで止まっているのだと思います。

 さて、何を言っているのか判らなくなりましたが、共産主義的「感性」ねぇ。ウーーン特段の香りのそれがあるようにも思うし、個々の人によって随分違うようにも思うし、解けないなぁ(お粗末でした)。


Re:ウーーンそういう視点ねぇ、もいるわなぁ  ( 06/10 01:11:21 )

 何か伝わるような私には読解が難しいようなかなり本格的な珍しい考察になりますよねぇ。今夜は、ひまたさんのご指摘を推考しながら眠りにつくことと致します。明日の投稿文がまとまれば良いとは思うけど自信ない。でも、こういう宿題はいいよねぇ。ビタミンしっかり補給して寝ます。                           では−−−−。


Re:共産主義的感性ないし精神について  ( 06/10 14:06:27 )
 ひまたさん、お待たせしました。朝からバタバタでゆっくり出来ませんでしたので。と、勝手に期待されていたものと勘違いしてる私かなぁ。この論議はかなり長期化すると思われるので、新しくタイトルを起こしました。こういう場合、スレッドを起こすというのですか、ツリーを起こすというのでしょうか。インターネット用語が良くわかんないので、どなたか後学のために教えてください。インターネット用語とパソコン用語の区別の仕方もよくわかんないです。恐らく仕組みが良くわかっていないからかなぁ。

> たとえば絶対平和・非暴力主義が(あるいは一人一殺・特攻精神が)宗教的裏づけを持ったときに本物になるように、「宗教」とは呼ばないにせよ共産主義にもその裏づけ となる「感性」(折々の直感的判断を担保する精神的土壌)があるのではないかと、 そしてそれを忘れた(獲得できない)ことがここでも指摘されている共産主義運動の混迷の原因ではないのかと、ふと思った

 ひまたさんのご指摘の世界が見えてまいりました。なるほどではありますが、かなり危険水域の考察になるようにも思われます。あらかじめ考慮しておくべきことは、ラブレターと一緒で、書き上げれば書き上げるほど実際の気持ちとかけ離れた文面になるのではないかと怖れております。

 これまで、なぜ、面と向かって共産主義者的感性ないしは精神についての論及が為されてこなかったのか、それには相応の理由があるように思われます。愚考しますと、一つの理由としては、マルクス主義がユダヤ−キリスト教的精神の土壌の中から発生してきており、共産主義者的感性ないしは精神自体の考察を客観視し得なかったのではないかと思われます。それは、丁度、我々が融通無碍の神道について、面と向かっての考察をしないと同じ理由かと考えられます。マルクス主義がもっぱら批判に向かったのは、世俗権力と教会権力の二艘立てで人民大衆を支配している旧体制機構であり、それを擁護ないし詭弁的に正当化している論理と神職たちについて闘争を挑んだのではなかったか。

 少なくともこのセンテンスで宗教の阿片性が云われ、イデオロギー的に粉砕の対象とされてきたように受け取っています。ということは、確かにユダヤ−キリスト教的なものに替わる共産主義者的感性ないしは精神については、未考察と言えるのではないかと思われます。この制約は、マルクス主義確立後のマルクス主義者としての運動の中にも今日まで続いている特徴であり、物足りない何かがあることは事実のように思われます。

 しかし、他方でこうも思います。共産主義者的感性ないしは精神の領域に論を及ぼすことは良い面もあるがかなり危険な水域へ踏み込むことになりはしないか。特に、模範的モデル的な共産主義者的感性ないしは精神像を抽出することは、未だ極め尽くされない多面的な人間性そのものの一面化につながる怖れなしとしないという面で。とはいえ、共産主義者的感性ないしは精神の確立が不要であるのかというとそうでもない。ここが不問にされつづけているから、現実の運動が単なる物取りな、義務より権利志向の、「ご利益」化に終始せざるを得なくなっているのではないか、との指摘はもっともだろうと思います。

 では、どうすれば良いのだろうか。史上マルクス主義のこの空漠に向かったのは毛沢東−金日成ラインであるように思われます(他の方については大きく知識が不足していて分かりませんので、この表現を悪しからず)。この二人の思想的営為は、マルクス主義をもっぱら東洋的精神で咀嚼しようとしたことに意義が認められます。この点で、レーニン.トロッキー.スターリン以下輩出したロシアのボルシェヴィキ運動−インターナショナル運動は生粋正統型のマルキスト的なそれであり、経済分析−情勢分析−権力闘争−ソ連邦誕生後は防衛と国家建設に重きがおかれていたように思われます。しかし、この流れは百年も持たぬまま破産したことは周知のとおりです。国家的な「ご利益」運動では資本主義体制下のそれに勝てなかったとも読めるように思われます。

 話を戻して、毛沢東−金日成の巨頭の著作から教えられることは、そうした「ご利益」運動ではない、人間関係に共産主義者的感性ないしは精神を持ち込み、そうした新しい社会的質を伴った国家建設への志向の強さとその礼賛です。単に経済が発展すればよいというのではなく、発展のさせ方が肝心であるという観点が重要視されていました。文化大革命の理念的な部分はそういうものであっただろうと理解しています。知識人の下方政策はその典型的なものであったように思います。しかし、現実は、こうした運動の進め方に与する者もいるだろうし、ピントこない方も多いだろうというのが私の受け留め方です。他方で、「白猫でも黒猫でもネズミを取る猫は良い猫だ」式運動こそピッタリくるという人も多い。左派の中でさえ、そういう混交した人士で成り立っているのが世の中であり、ここを整頓化出来そうでしてはならないのではなかろうか。そもそもドロッとしているのが世の常態であり、これが案外適正なのかもしれないと了解しようとしています。権力的に純潔系を持ち込むことの危険水域性という私の指摘はこの観点から云っています。この辺りの見解は、ラブレターと一緒で、書けば書くほどきりがなくなり言葉が空回りし始めます。

 さて、共産主義者的感性ないしは精神の探索はそれでも向かわねばならない課題であるようにも思われます。特に昨今は、至るところで「ご利益」化の行き詰まりが顕著になりつつあります。にもか関わらず、これに関心を持とうとしない左翼精神は、感性的に見て良質オーム信者(そういう者が居たとして)にさえ劣っているのかも知れない。共産主義者的感性ないしは精神の検証と、それをどのように、アクセルとブレーキの加減はどの程度で、誰が主体となってその手続きは等々の最先端的考察が必要かなとも思っては居ります。しかし、それをあたしに口頭試問されると、さすがにビビります…。

共産主義的感性ないし精神について ( 06/12 12:14:11 )

 新しいスレッドを起こすつもりでしたが、単に<投稿>を押してしまい、新規のツリー化が出来ませんでした。経験から学んで、今度は<新規投稿>欄から入りましたので大丈夫と思います。ところで、こうして前面化させては見たものの、これから先の内容を正面から論じていくとなると恐らく誰も何も頼りにならない。ひまたさんと第四者さんとその他皆様の力を借りること無しには先へ進めない。ビビります。

 マルクス主義の受容は、明治の自由民権運動以降その挫折を通じてまずは文献的移入が為され、その理論的優位性からか次第にわが国の人民的闘争の主柱的地位へと浸透してきた歴史を持っているように思います。そうなった以上、このこと自体には総合的に見て合理性があるのだろうとも思います。但し、何事も裏表があって良いこと尽くめは有りえない。このたびのテーマである「感性ないし精神」面において、運動の中で練りあわせていく意義を持たぬまま今日まで経過しているようで、特に昨今はその弊害がひどくなりつつあるやに見えますね、確かに。今の我々の気持ちは、人民側に立つと標榜している諸党派に対して、頑張ってくださいと言うのが精一杯で、それ以上何かを期待する気持ちはないというところが実際でしょう。むしろ自力でお飯(まんま)を食えるよう個々に苦労している現実があるように思います。政党離れ、無関心層、投票率の低下はこの辺りに関係しているように思えますね。

 ここで、一つ想起しておきたいことがあります。各地に残っている義民塚についてですが、もっとこの伝統を解明し、受け継ぐべきではないかと思っています。義民塚は、百姓一揆の指導者が一定の成果を引き出して後争議の責任を取って打ち首させられた者達を祀っているものです。成果を引き出せぬまま敗れた烈士がこれに列なっています。村人は、残された義民の家族に対して手厚く遇して来たとも伝えられています。明治の頃までこうした伝統が語り伝えられ、人民大衆の共通の感性になっていたのではないでしょうか。時の支配者の「忠君愛国」論理を横滑りさせて、「忠義民愛郷」思想を形成していたのではないでしょうか。そういう意味で、論理を磨くと言うのがいかに大事であるかと私は考えています。騙されないためにも、あるいは自主創造させていく上でも。

 現代は、この、「御かげ」思想がめっきり貧困で、「我れ先勝ちの良し」思想が風靡しており、その結果が何と、上も下も「豊かさのその内実は借金まみれ」にあるやに思われます。そのうち公務員とて例外ではなくなるでしょうと予言しておきます。最近の社会的荒廃は、こうした精神的バックボーンの貧困にも関係しているのは事実だろうと思います。果たして、少年の刑事責任と投票権を18才に引き下げたぐらいで解決するでしょうか。ちなみに、この論理を推し進めていけば、少年犯罪の低年齢化が一層進むと、やはりそれに合わせて選挙権も引き下げるのでしょうね。そして学者さんがその「科学的」詮議をして裏付けしてくれるのだろうと思います。仲良しクラブ万歳ぁーいといち早くお追従しておこう。

 問題は、土着的な思想を見直すにせよ、国家思想にからめとられてはならないことにあります。土着的な思想につき国家主義者が積極的にこれを受け継ごうとしている流れがあり、為に左翼は、土着的な思想そのものの解明と継承を避けようとしてきた歴史があるやに見受けられます。神道にせよ、大東亜戦争の検証にせよ、これらの解明に向かうこと自体にアレルギーを見せているやに見受けられます。恐らくこれは、時の指導者の無能力性と風変わりな個性に起因していると私は受け留めています。問題は、そうした指導者に意見するのではなく、信服する輩の多さにもあります。こと今日のような総右傾化方針の立て板の水化にいたっも、「団結と統一」を護持せんとする様は、むしろ不気味でさえあります。何とかして善意に理解しようとしている様が見受けられますが、善意の観点で理解しえる峠を既に通り抜けており、悪意なしにはそうした論にはならないと見切っています。アンデルセン童話「裸の王様」の阿諛追従劇を彷彿とさせられています。

 問題は、私もいつまでもそうした嫌味にしか受け取られないことを云うよりも、それに替わるインターネット党でも旗揚げすべきかも知れない。宮崎さんもそうしているようだし、探してみれば既にいろいろあるのかも知れない。少し時間をかけて散歩して、インターネット上で統一戦線を組むのも面白いかも。しかし時間が無い、時間をかける元手がない。貧乏ヒマなしと昔の人はうまく云うもんだな。当分はヒゲ虎ネットに生息させていただいた方が楽でよい。


Re:「片言隻句」雑感  ( 06/21 11:22:03 )
 ここが空き家になっているので自己レスしとこ。皇太后逝去に伴う共産党の対応がなっとらんと思うから。結局、現指導部の面々が本来的な党運動に対していかにオタク族であるかがはっきりする。
 例の「神の国」発言の際、公明党に対してなぜお怒りになられないのか、創価学会の初期リーダーも又「神の国」の被害者であったのではないのかと揶揄していたことは記憶に新しい。とするならば、今回の皇太后の逝去に対して共産党がとるべき態度は、戦前の天皇制軍国主義のくびきに苦しめられた我が党の先人の苦労を思えば、他党と同じ立場で弔詞を送るわけには行かない、ご理解賜りたいと意思表示するのが自然ではないのか。天皇制の当事者に対して、あたかも一個人の逝去を悼む式の対応は一体なんなんだろう。それこそ党運動に対する冒涜以外の何ものでもなかろう。

 まぁ、あまり首を傾げない向きの方で占められているようなのでこれ以上は云わない。ならば、これはどうだ。竹下元首相逝去に対する弔意として、概要「消費税をめぐって等々の際に為した時の論戦がなつかしい」だと。「なつかしい」的に回顧されると労働者は怒るわなきっと。しかし、あまりに怒りすぎると言葉を飲み込むという場合もあるから、声が出てくるかどうかは分からない。思わず漏洩されていることが、何らかのパーティーで同席した時のエピソードである。確か、小渕前首相の物故の際にもパーティーで同席した時のエピソードが漏洩されていた。これらはしんぶん赤旗のインターネット版から見ての情報である。各自確認されたらよい。この二つから推測できることは、かなり政財界の会合に顔を出しているのではないかということである。赤旗紙面に出てこない、そういう先生、先生といわれて持ち上げられている氏の姿が浮かんでくる。それが悪いとは思わない。氏がその昔民社党にでも入って、次第に頭角を現して御活躍をされれば相応しかっただろうにと思うだけである。労働運動の現場に顔を出したことも聞かない、精力的に地方支部に顔を出して激励している姿もみられない、他方でそういう席には仮に積極的だとしたら、悪いことは云わない今からでも民社党を復活させる運動を組織すればよい。私もいい加減あなたのことをウォッチしなくて済むし。

 反共ビラに対する反論は、これがまた一種の反共論理でしかないことを思わず明らかにしている。かっての同士が為したことを、そのように悪し様に云うのはよし子にしてくれ。いくら勝てば官軍だとしても、当時の徳田系運動はあれはあれで真摯な歴史的責務に感応していた。今から思うに経過、情勢の読み違いも、欠点も、党の力量不足の形成期という不十分さあった。内部から執拗に足を引っ張る宮本グループに手を焼かされた。執行部が右路線的議会運動を採用している時期にスターリン声明が出れば、すぐさま尻馬に乗って「左」からものをいい、執行部が左路線化すれば、「右」からものを云う。執行部が社会党候補を推薦すれば独自候補を立てて、大衆の面前で公然と争う、大衆は白けるそんな流れだった。しかし、どんなにこの時期の党運動を否定的に総括しようとも、執行部が、戦後日本の人民的利益を養護しようとして私心なく身を投じていた果ての一連の経過であったことは評価して上げねばならないのではないのか。あれは中国、ソ連のさしがねで踊らされた一派のしたことなぞと総括すれば、第一、中国、ソ連の当事者の気持ちを忖度してみたまえ。失礼と云うべきではないのか。

 そういう宮本論理の反共的反同士的体質が今日の党運動に水も漏らさぬ布陣を敷いて、言いたい放題いえてることは分かる。が、歴史をみれば次のことも分かる。おごる平家は久しからず、諸行無常の鐘が鳴る。

Re:本音主義は良いことだ ( 06/23 22:25:21 )

 この掲示板の再創造に関して、ヒゲ虎氏が本音主義の立場から方針の再設定をしていることは、理解できる。もし私ならと我が身に引き受けてみたとき、幾分の違いは別にして当たり前の主張をしており、もっとまずもって自身が気に入るような掲示板の構築へと向かえばよいと思う。何かしら物分りの良い八方美人的な気使いをする無臭臭さを良しとする風潮があるが、そのことがもたらすストレスの方が大変だろうし、性に合わぬことはしない方が長続きする。

 私の認識によれば、戸田議員は、左派系の市民派として内外鮮明にしつつ奮闘されている。その姿勢や良しとして共感者が自ずとここに寄っているのであり、そうでない者が参加するのであれば、とりわけ自ずとマナーが要るというのが普通ではないのか。なぜなら、私が右派系論調の掲示板へ行ったなら、そういう姿勢で論戦していくと思うから。

 マナーという意味がわからなければ、私が教える。「されて嫌なことはスルナ」。これだけを肝に銘じておけば良い。この姿勢さえあれば、ヒゲ虎氏は寛容である。この限度を越すとある時爆発する。それは「物言わぬは腹ふくるるわざ」以上の内省からもたらされると考える。人は何百年も生きれるものではない。「たかが、されどの実質稼動50年人生」であろう、そういう割り切りようから人が何事かを為すことに横槍するものではないということは以前私も伝えていると思う。今回の動きはこの観点に照らしてみて、理に叶っている。

 議論自体は、この掲示板は解放されていると考える。面白系でも良いし嫌味系でも良い。勿論、真面目系でも熱血系でも煽り系でも良いものと了解している。しかし、何の意味もない、為にする非難、批判、批評は、もっと別のところに相応しい掲示板があると私も考える。そういうショップで憩われたらよいのではないかと、ご丁寧に道案内まで矢印している。道案内までコメントする必要があるかどうか別にして、それはそうだろう。人は皆ショップを選別する権利があり、気に入ったところで悦に入れば良い。我々は、この掲示板を通じてまだまだ議論せねばならないテーマとトピックスを一杯抱えている。私も含めて、つたなくても良い、自分の言葉で語る稽古もせねばならない。

 そうした折に、しょうもない当てこすり的無内容に付き合わされたら、誰しも嫌気を誘われる。結果、閉鎖をゲットーなんて仲間内で語られた日には、第一私が困る。若林りょう子議員騒動の時には、私は囲碁に没頭していた時なので知らぬままやり過ごし、どうしようもしてあげれなかったが、今沸騰しているなら、多少の落ち度はあっても落ち込まないように支援してあげたい。ヤング系の豊かさ坊やに負けぬよう根限り力になった、と思うが残念。

 「三つ子の魂百まで」という諺がある。めいめい気質は変わらない。その改変に挑もうなぞとはヒゲ虎氏も思っていないだろうし、誰しもそんなヒマは持ち合わせていない。そういう違いを前提にして関係しあうことが大事だ。寄るなら寄るで、楽しむなら楽しむで、「されて嫌なことはしない」という公理を守れば、みんな個性を出しつつ実質が得れる筈だ。この公理は、恐らく、わけのわからない公人−私人論議なぞより余程はっきりした嗜みではないのか。

 一つ、ヒゲ虎氏に云っておきたいことがある。とにかく自身がもっとも楽しめるような掲示板づくりにいそしんで欲しい。変な優しさは却って通じない。どだい、意を尽くしても通じ合えない肌触りの違いというものがこの世には有る、と考える。まわりまわって通じ合えるにしても、直接的な関係としてはどうしても通じ合えない人はいるとしたもんだ。幅広く構える度量は良いが、次第次第に好み化していくことは自然だ。この掲示板はなかなか良く出来ている。もっと工夫がないか、そのモデル足らんとして一層叡智を結集して欲しい。そしたら、私が作るときの参考になるというよりそのまま使わさせて頂けるし。

 一つ気になることがある。まだまだ新規投稿、レスが少ない。遠慮せずに楽しむべきだろう。私の投稿でも、句読点がわからず、あるいは又字句の間違いがあったりしつつの勉強中です。ハンドルネームで良いのだから、恥じず恐れず一行からでも試してみたほうが良いと思う。自己主張できないのは、単にそう馴らされているだけであり、そうした自身の変革に向かうのも世界の変革と同じく意義あることではなかろうか。

 最後に。この投稿のにぎやかしにプさんと蝿さんが一役かっているという現実がある。このことの意義は認めるべきだろう。私なら、こう云う。お蔭様で、新たな局面へ移る時期が来たとみなしている。ついては、従来どおりの関わり方はご遠慮願いたい。手を取り足を取るようにして云うべきではないと思うので、よろしく頼む。ついては、プ氏は左派の方ではないようなので紛らわしいネームのご一考願えないか。それは法にする以前の気配りであり、このことが理解できなければ、その生地で歓迎されるところのショップへ行きたまえ。蝿氏もいつまでもそんなネームにしてると身につくからご一考頼む。私のつけたものにせよ、あなたがこれ以上かぶるのは似合わない。言霊というのが有り、名は体をつくるという説もあり、そうなった場合気の毒を感じるから。との言い方は私らしいが、このたびの新方針と処方はヒゲ虎氏らしい。私は上記の理由で支持している。


「汝の欲せざるところ、人にほどこすことなかれ」と・・・・・ヒゲ-戸田 ( 06/24 02:59:08 )

 「汝の欲せざるところ、人にほどこすことなかれ」と「義を見て為さざれば勇なきなり」・・・・これが戸田の中学校以来の変わらぬ「座右の銘」です。左翼としての思想や活動も社会運動も人づきあいも、なにもかもが、戸田にとってはこの二つの座右の銘の実践としてあります。

@れんだいこさん、かみ砕いた丁寧なご説明ありがとうございました。戸田にとっても勉強になりました。
 さて、

>最後に。この投稿のにぎやかしにプさんと蝿さんが一役かっているという現実がある。このことの意義は認めるべきだろう。

 これは確かにその通り。

>私なら、こう云う。お蔭様で、新たな局面へ移る時期が来たとみなしている。ついては、従来どおりの関わり方はご遠慮願いたい。手を取り足を取るようにして云うべ きではないと思うので、よろしく頼む。ついては、プ氏は左派の方ではないようなので紛らわしいネームのご一考願えないか。それは法にする以前の気配りであり、このことが理解できなければ、その生地で歓迎されるところのショップへ行きたまえ。

>蝿氏もいつまでもそんなネームにしてると身につくからご一考頼む。私のつけたものにせよ、あなたがこれ以上かぶるのは似合わない。言霊というのが有り、名は体をつくるという説もあり、そうなった場合気の毒を感じるから。との言い方は私らしいが、・・・・・・・・


 ウーム、これには敬服。戸田にはまだまだこの域の説得ができません。どちらかというと「単純熱血漢的闘争大好きタイプ」なもんで、激突粉砕型の対応になりがちです。バリエーションを広げていくよう、研鑽を積みましょう。(ムリかな?)

@まあ一応「市民派議員」」と称しているもんで(どこが「市民派」やねん、「任侠派」やろ、 という「正しいツッコミ」も入ってきてますが)、ちょっと「丁寧ブリッ子」した言い方に 自分自身でも窮屈な思いをしていた部分がなきにしもあらず、でしたが今回を契機にそこら へんはフッ切れて普段のシャベリでいったれ、と気が楽になった面もあります。そういう意味でも(プ)や(蝿)よ、ありがとさん。(管理者命令は守れよ) (「良識的市民派系」・「やさしさ系」のファンは減少するでしょけどね。しゃあない。)

@「闘争の中でこそ見えてくるもの」が確実に存在します。「自由な論議を交わせる掲示板」 とは具体的にどういうものなのか、とりわけ現職の議員の掲示板として日本でまだ誰も切り 拓いてない途をみんなでワイワイやりながら切り拓いているのだと思います。今後もよろしく。


Re:「いわゆる市民」論理の陥穽について ( 07/04 12:16:50 )
 これもいつか言いたかったことを書かしていただきます。あちこちの文献で言葉を厳密にしたいのですが、時間が無いので思いつくままに書き上げます。先の「公人.私人」論議の際に、公人であろうと「市民」であって、その「市民」に認められている諸権利をた易く制限されるべきではないという意見を主張しました。ところで、我々は、この「いわゆる市民」についての認識に重大な欠陥を持ったまま今日まできているのではないか、ということが気にかかっています。

 どういう欠陥かというと、「いわゆる市民」像には「性」が入り込んでおらず、いわば実際には存在しない「架空市民」が前提にされているのではないのかということです。それは、市民権というものが生み出される過程で、政治的経済的諸権利としてのみ追求されてきたことに原因があるのだろうと思われます。いわゆるブルジョアジーにとって、旧体制の男尊女卑的論理は直接の戦いの対象とはならなかった。それ故に、いわゆる市民権が獲得されて以降いわば外在的に男女同権運動が担われ、一定の成果を得てきてはいるものの、近代的市民権が想定しているところの「市民」はあくまで「架空市民」であって、実際には存在しない抽象的市民像なのではなかろうか。それが「男性」を前提にした市民像であるというのならむしろ分かりやすいが、何らかのいきさつがあって文面的には「男性的市民像」でもない。ここのところですが、私の表現力が未熟なため何を言っているのか伝わらないかなぁ。

 私が実践的にいいたいことは、今風の「公人.私人」論のナンセンスは明確としても、市民論においてもその陥穽を認識しておかないと空疎になるということです。もっと具体的に言うと、この世に存在している生き物としての「人間」は、実際には「男の性を持った市民」か「女の性を持った市民」しか存在していないにも関わらず、その性差を捨象した「市民」観が一人歩きさせられているということについての欠陥を知っておくべきではなかろうかということである。

 ここで気づいたことがある。その昔、明治の頃の世相描写の小説で「学校へやると人間が役に立たなくなる。変な考えに汚染され、理屈ばかりこねまわしだすから、うちの子は学校へ生かさない」というようなことを言っている場面があるという。残念ながら、私は読んでいない。従って当の小説名が分からない。どなたか教えていただきたいと思っています。感じとして「夜明け前」辺りに書かれているのだろうか。

 この場合の学校とは「大学」のことであり、子息を進学させるだけの資力がありながらもそのように考える田舎者の封建的頑固さを嘲笑していると読み取るのが、この場面の普通の読み取り方ではなかろうか。しかし、最近私は別の受け留め方をし始めている。この頑固オヤジは、大学で教えている知識の欠陥を的確に感知していたのではなかったのか、と。もっとも、厳密には作者がそういう認識をもしていたということではあるが。我々がこの系譜に従うとすると、大学に生かせないのが良いのではなく、大学で学ぶ知識の陥穽を知りつつ学ぶべきであるということになるのではなかろうか。ここを認識せぬまま知識を増やしていくと、ホントヘンチクリンな脳髄を形成し生涯修正不可能になるのではなかろうか。特に人文科学系学問はここに大きく関係しているものと思われる。

 ところが、実際にはさほど問題が起こらない。それがなぜかというと、我々は日々の生活実践において本能的に「近代的市民観」学問の陥穽を修正しているからではなかろうか。この修正に功あるものが歌謡曲である。ほとんどが恋歌であり、男の情念、女の情念、それらの絡み合いをメッセージし続けており、これによって我々は「近代的市民観」に「性」を接木させて平衡感覚を得ているのではなかろうか。あるいは又恋愛、職場でのひやかしおしゃべり、争議、デモ等々を通じていわばスキンシップで「学問」を修正しているのではなかろうか。あるいは又よそ様の政治家の芸能人のゴシップの漏洩を通じて「実際的市民観の実例」として別な認識の培養をすることに成功しているのかも知れない。こういう、只今の学問に無いことを自ら学び取ることこそ本来の学問であるかも知れない。そういう意味において、既成論理を疑うことからしか学問も運動も盛んになりえないのではなかろうか。私は、有為諾々精神が左派運動にとって如何に有害であるかを言おうとしている。

 従って、次の時代に来る市民観は、恐らく性差を理解した分別と助け合いの関係を解明したところからもたらされるであろう。そこでは、男をしのぐようなウーマン.リブ的女権運動でもなく、女に必要以上に優しさを振りまくフェミニスト的男性運動でもなく、それぞれの特徴と能力が生かされる社会的合意のようなものが前提にされてくるであろう。最新の生物分子学は、この方面で何らかの寄与を為す可能性があるように思われる。私に分かることはこの辺りまでで、これ以上先は専門家の領域になる。とりあえず意欲作を自負した投稿です。

Re:「お上と民草」意識と気質について ( 07/08 12:27:47 )

 三船は黙って恵比寿ビールかなぁ。今日も書こうっと。一般に権力史観に染まりすぎると、権力を握っている与党が悪で、野党が善的な構図にとらわれやすい。その善の最たるものが共産党で、労働者大衆の味方であるなどと錯覚してしまう。党是としてそう明記しているのだから無理も無いことではある。しかし、公安もさるもので、そういう党に対しては根限り内部撹乱を狙う。その次に行うことは党の変質であり、完成は執行部とのパイプ化である。私は、今日の共産党をそのように見なしているので、何が起こっても驚かないし、このままいけばもっと脳軟化症状を露にしていくことになるだろう。ちなみに、脳軟化とは「本音に向かって押さえが利かなくなる」ことを云っている。そのことを証明せよといわれれば出来ないことも無いが、党史をめくらねばならず長いノートになる。いずれ適当なところでやって見たいと思う


 その前に単純なことを確認しておきたい。少々図式化し過ぎるが、「『お上』と『民草』の意識と気質について」解析しておきたい。次の様になる。

『お上』  『民草』
権力集中制  地方自治と民主制
権威主義と規制好き 実力主義と助け合い
建前重視  本音志向
政治本意による国力重視  経済本意による民力重視
統制  ええじゃないか
独占化 起業化
統制好き 自主好き

 その他いろいろ識別できるとは思うが、以上のように分類してみたとき、各政党がどちらにどれだけ比重を置いているかにより、各党の『お上』化と『民草』化がはっきりする。してみれば、自民党が必ずしも『お上』政党ではないことと、共産党が少しも『民草』政党でないことが見て取れる。実際にはその折衷的中間的立場にも立っているので、図式化はあくまで概念的な括りとしての意味でしかないことはおことわりしておく。

 このたび、自民党内から若手議員の反乱が発生していることは報道の通りである。連中の議論の中身以前の問題として、そういう党内決起が許容されている組織論を持つ政党が自民党であるということを認識せねばならない。苦笑させられることは、自民党こそ組織の弁証法を生かした仕組みを活力源にしているのではないかということである。これ以上はもう云わないことにする。言ってる私のほうが気抜けしてくるから。

 もし、民主党が、自由党が、公明党が、社民党が政権を担う力量を得る日が来るとしたら、自民党のそういう「良さ」よりももっと良い組織論で支えられていないとおかしいのではなかろうか。幸いなるカナ、民主党は、鳩山.管.羽田のトロイカ体制だ。その良さを発揮させて衆議決済する能力が問われており、これに成功するなら本当に本格的な第二政権政党が誕生すると思われる。自民党とは違って非利権体質的に仕事をする政党として認知されたら、私も含めて支持する者がもっと多くなると思われる。

 私の興味は、そういう民主党−自由党の今後の一喜一憂のプロセスと、真に労働者大衆の意向を反映する政党の勃興との競合にこそある。ここに政治の熱い季節が待ち受けているように思われる。問題は、それらの政党が、経済の舵取りと再生に責任を持って臨める能力を持っているのかどうかにあると思われる。ここを徹底的に掘り下げて欲しいとも思う。経済は自民党にお任せ、ええ格好は私どもにさせて下さいよ式の戦後50年の不毛の対立には辟易させられており食傷である。国債残高650兆円、地方債まで含めると一体どんな巨債になっているのか分からないこの時点で、経済再建に向かおうとしない正義論は駄弁に陥る可能性が強い。そういう意味において、経済再建と社会再生のシナリオをしっかり握った政党が思いもかけぬ台頭をしてくるような予感がする。このレースに関心を持つことが今後面白そうだ。





(私論.私見)