ヒゲ虎時事評論「自由論争3」 |
詳細は該当掲示板でご確認できます。
Re:私有財産制の功罪について | ( 06/24 17:17:09 ) |
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私としましては、自分の築いた財産を子孫に残す、という発想を肯定します。ただし、家系による利権の独占はあってはなりません。それには二世三世も公正な競争原理に晒される必要がありますね。二世三世にも能力が備わっていたなら、その資産は益々増えるでしょうが、そうでなければいづれはその資産も庶民に還元されてしまうだけの事です。つまり「お上」依存体質を持つ者など後続の起業家に追い落とされてしまえば宜しい。そう言った社会こそ望ましいと考えます。 > それためには公教育の充実、つまり家の資産の有無にかかわらず、子供が能力を伸ばす事の出来る教育環境が必要となってくるでしょう。機会平等の為にも「公教育は貧乏人のもの」としてはならないのです。子供の能力に応じた教育は、国家が国家自身の為にも、無償に近い形で提供しなければなりません。 > > また、資産家に生まれた事で、その人物の財産権を恣意的に犯してはならない。それこそ僻みから来る逆差別でしょう。 いきなり大上段に構えたので、考えがまとまらないわ。恐らく、この種の論議は、より深く「汝自身を知れ」の箴言との絡みから考察されねばならないように思います。つまり、「人というものが持つ欲望の意義」を頭で考えるのではなく、実際においてみつめるところから論を起こさないと空回りすることになると自戒しています。そのことだけがわかる。諸論者のご意見を待ちたいです。 |
Re:謀略ビラに負けない日頃の喧騒を大事にさせたい | ( 06/19 13:32:40 ) |
> 共産党の情けない対応の仕方については戸田も同じ批判を持っていますが、改善されることはかなり当分ないでしょうね。なんせ宮崎学さんが東大斗争で民青の「あかつき防衛隊」(=共産党のゲバ部隊)の総隊長をやっていたことが、自伝「突破者」に書かれてあれほど有名になっても知らぬ存ぜぬを押し通す所ですから。 |
Re:閉話休題 投稿者 | ( 06/06 10:31:24 ) |
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私も発言トーン自粛ぎみ。話題転換と致します。 |
Re:閉話休題 | ( 06/06 23:05:49 ) |
> いえいえ、当方怖いもの見たさもありますので開話お願いします。 |
Re:横槍失礼 第四者 | ( 06/07 02:04:31 ) |
この、れんだいこさんとひまたさんのやりとりは、非常に示唆に富んだものとして敬服しつつ拝見しております。私も非才ながらちょっと感想でも入れようか、と考えているのですが、かなりの思考と時間が必要なので、見送っております。この場で展開するのが何だか勿体無いですね。どうか「外野」の騒々しさに惑わされず、有用で面白いディスカッションを継続なさって下さい。続きを楽しみにしております。 |
Re:どうぞどうぞ、第四者さん ひまた | ( 06/07 03:35:51 ) |
場末の酒場の片隅でチビリチビリやっておられる初老(失礼)の紳士と隣り合わせて、つい話し込んでみたら、もしかしたらそんじょそこいらの論客とは桁外れの修羅場(思想風景での)をくぐってこられた方なのではないだろうか…と、私は御伽噺の世界に迷い込んだような気分でおります。れんだいこさんの語り口ちょっと難解ではありますが、その語られるところの壮大なこと若輩の私はこれまでの情勢読みの浅さに恥じいるばかりなのです。ただ、いまさら悔やんでも仕方ありませんが私これでも本名かかげての書きこみですので(これ他の人には内緒)どうも舌の先が甘くなり、肝心なところでやりとりの面白さに水をさすきらいがあります、反省。第四者さんもどうぞカウンターにお座りいただいて、そのへんフォロー願えれば幸いです。よろしいですよね、れんだいこさん。 |
Re:どうぞどうぞ、皆さんで | ( 06/07 10:58:54 ) |
私のこの掲示板への闖入はご縁で、ヒゲ虎さんの度量の許す限り連れ子していただこうと思っております。一人で考えて独善に陥る悦楽よりも、みんなで議論して平衡感覚を保った方が効能が大きいと考えて利用しています。特に、パソコン遊びは画面と向かい合っている訳ですから、ここで人間嫌いになったらほんとにオタク族になってしまいます。よくしたもので、面と向かった相手のいない画面を通じて面と向かった際の議論より収穫の多い機会をパソコンが実現してくれるとはまか不思議としか云いようがありません。そのように考えて積極的に発言しようとしています。それは恐らく鏡相手のブツブツよりも的確な検証をしてくれることになるだろうと思っています。向こう傷と恥を恐れずに率先突進していこうと思っていますので、第四者さん、ご遠慮なくコメントください。それとひまたさん、私はスナックでは静かな方ではありません。迷惑かけない範囲でカラオケに興じて何とかうまくなるよう工夫している派のものです。イメージを修正させてください。セイジの話はりっしんべんの方が多いですね。 |
Re:共産主義者の「感性」について | ( 06/08 10:52:26 ) |
いつも応えさせられるあたしの身にもなって下さいね。でもいいか。あたしも楽しんでんだから。思うに、唯物弁証法創始者マルクス、エンゲルスにあってさえ、持論を説くにあたって彼なりのパラダイムをあらかじめ用意しており、そのパラダイム的視点から様々な考証を為していることを当たり前に受け留め、その質をこそ問うべきではなかろうか。ということは、マルクス.エンゲルスの諸言説を「真理」視してみたり、何らかの歴史的事実との相違を指摘して誹謗してみたりすることは、双方間違いのような気がするといったら偉ぶり過ぎた言い方になるでしょうか。 |
Re:こそばゆいなぁ | ( 06/09 12:39:13 ) |
ひまたさん、「碩学」なぞと云って下さるのは悪い気はしないけどこそばゆいです。実態は、どういう訳かこの方面の話が大好き人間というだけのはにかみ屋です。私の周囲には政治の話をする環境がありません。さわり程度の会話は出来ますが、深い話は辛気臭いということになります。だから、こうしてインターネットで通信し合えることが単に楽しいという思いのままにあれこれ書き続けています。もし「碩学」といってくださるのなら、種が尽きたときどうしようなぞと心配が始まっています。まぁいいか、尽きないように発掘しつづければよいのだからなどと苦笑しつつこうして指先運動しています。 |
Re:ウーーンそういう視点ねぇ、もいるわなぁ | ( 06/10 01:11:21 ) |
何か伝わるような私には読解が難しいようなかなり本格的な珍しい考察になりますよねぇ。今夜は、ひまたさんのご指摘を推考しながら眠りにつくことと致します。明日の投稿文がまとまれば良いとは思うけど自信ない。でも、こういう宿題はいいよねぇ。ビタミンしっかり補給して寝ます。 では−−−−。 |
Re:共産主義的感性ないし精神について | ( 06/10 14:06:27 ) |
ひまたさん、お待たせしました。朝からバタバタでゆっくり出来ませんでしたので。と、勝手に期待されていたものと勘違いしてる私かなぁ。この論議はかなり長期化すると思われるので、新しくタイトルを起こしました。こういう場合、スレッドを起こすというのですか、ツリーを起こすというのでしょうか。インターネット用語が良くわかんないので、どなたか後学のために教えてください。インターネット用語とパソコン用語の区別の仕方もよくわかんないです。恐らく仕組みが良くわかっていないからかなぁ。 > たとえば絶対平和・非暴力主義が(あるいは一人一殺・特攻精神が)宗教的裏づけを持ったときに本物になるように、「宗教」とは呼ばないにせよ共産主義にもその裏づけ となる「感性」(折々の直感的判断を担保する精神的土壌)があるのではないかと、 そしてそれを忘れた(獲得できない)ことがここでも指摘されている共産主義運動の混迷の原因ではないのかと、ふと思った ひまたさんのご指摘の世界が見えてまいりました。なるほどではありますが、かなり危険水域の考察になるようにも思われます。あらかじめ考慮しておくべきことは、ラブレターと一緒で、書き上げれば書き上げるほど実際の気持ちとかけ離れた文面になるのではないかと怖れております。 これまで、なぜ、面と向かって共産主義者的感性ないしは精神についての論及が為されてこなかったのか、それには相応の理由があるように思われます。愚考しますと、一つの理由としては、マルクス主義がユダヤ−キリスト教的精神の土壌の中から発生してきており、共産主義者的感性ないしは精神自体の考察を客観視し得なかったのではないかと思われます。それは、丁度、我々が融通無碍の神道について、面と向かっての考察をしないと同じ理由かと考えられます。マルクス主義がもっぱら批判に向かったのは、世俗権力と教会権力の二艘立てで人民大衆を支配している旧体制機構であり、それを擁護ないし詭弁的に正当化している論理と神職たちについて闘争を挑んだのではなかったか。 少なくともこのセンテンスで宗教の阿片性が云われ、イデオロギー的に粉砕の対象とされてきたように受け取っています。ということは、確かにユダヤ−キリスト教的なものに替わる共産主義者的感性ないしは精神については、未考察と言えるのではないかと思われます。この制約は、マルクス主義確立後のマルクス主義者としての運動の中にも今日まで続いている特徴であり、物足りない何かがあることは事実のように思われます。 しかし、他方でこうも思います。共産主義者的感性ないしは精神の領域に論を及ぼすことは良い面もあるがかなり危険な水域へ踏み込むことになりはしないか。特に、模範的モデル的な共産主義者的感性ないしは精神像を抽出することは、未だ極め尽くされない多面的な人間性そのものの一面化につながる怖れなしとしないという面で。とはいえ、共産主義者的感性ないしは精神の確立が不要であるのかというとそうでもない。ここが不問にされつづけているから、現実の運動が単なる物取りな、義務より権利志向の、「ご利益」化に終始せざるを得なくなっているのではないか、との指摘はもっともだろうと思います。 では、どうすれば良いのだろうか。史上マルクス主義のこの空漠に向かったのは毛沢東−金日成ラインであるように思われます(他の方については大きく知識が不足していて分かりませんので、この表現を悪しからず)。この二人の思想的営為は、マルクス主義をもっぱら東洋的精神で咀嚼しようとしたことに意義が認められます。この点で、レーニン.トロッキー.スターリン以下輩出したロシアのボルシェヴィキ運動−インターナショナル運動は生粋正統型のマルキスト的なそれであり、経済分析−情勢分析−権力闘争−ソ連邦誕生後は防衛と国家建設に重きがおかれていたように思われます。しかし、この流れは百年も持たぬまま破産したことは周知のとおりです。国家的な「ご利益」運動では資本主義体制下のそれに勝てなかったとも読めるように思われます。 話を戻して、毛沢東−金日成の巨頭の著作から教えられることは、そうした「ご利益」運動ではない、人間関係に共産主義者的感性ないしは精神を持ち込み、そうした新しい社会的質を伴った国家建設への志向の強さとその礼賛です。単に経済が発展すればよいというのではなく、発展のさせ方が肝心であるという観点が重要視されていました。文化大革命の理念的な部分はそういうものであっただろうと理解しています。知識人の下方政策はその典型的なものであったように思います。しかし、現実は、こうした運動の進め方に与する者もいるだろうし、ピントこない方も多いだろうというのが私の受け留め方です。他方で、「白猫でも黒猫でもネズミを取る猫は良い猫だ」式運動こそピッタリくるという人も多い。左派の中でさえ、そういう混交した人士で成り立っているのが世の中であり、ここを整頓化出来そうでしてはならないのではなかろうか。そもそもドロッとしているのが世の常態であり、これが案外適正なのかもしれないと了解しようとしています。権力的に純潔系を持ち込むことの危険水域性という私の指摘はこの観点から云っています。この辺りの見解は、ラブレターと一緒で、書けば書くほどきりがなくなり言葉が空回りし始めます。 さて、共産主義者的感性ないしは精神の探索はそれでも向かわねばならない課題であるようにも思われます。特に昨今は、至るところで「ご利益」化の行き詰まりが顕著になりつつあります。にもか関わらず、これに関心を持とうとしない左翼精神は、感性的に見て良質オーム信者(そういう者が居たとして)にさえ劣っているのかも知れない。共産主義者的感性ないしは精神の検証と、それをどのように、アクセルとブレーキの加減はどの程度で、誰が主体となってその手続きは等々の最先端的考察が必要かなとも思っては居ります。しかし、それをあたしに口頭試問されると、さすがにビビります…。 |
共産主義的感性ないし精神について | ( 06/12 12:14:11 ) |
新しいスレッドを起こすつもりでしたが、単に<投稿>を押してしまい、新規のツリー化が出来ませんでした。経験から学んで、今度は<新規投稿>欄から入りましたので大丈夫と思います。ところで、こうして前面化させては見たものの、これから先の内容を正面から論じていくとなると恐らく誰も何も頼りにならない。ひまたさんと第四者さんとその他皆様の力を借りること無しには先へ進めない。ビビります。 |
Re:「片言隻句」雑感 | ( 06/21 11:22:03 ) |
ここが空き家になっているので自己レスしとこ。皇太后逝去に伴う共産党の対応がなっとらんと思うから。結局、現指導部の面々が本来的な党運動に対していかにオタク族であるかがはっきりする。 例の「神の国」発言の際、公明党に対してなぜお怒りになられないのか、創価学会の初期リーダーも又「神の国」の被害者であったのではないのかと揶揄していたことは記憶に新しい。とするならば、今回の皇太后の逝去に対して共産党がとるべき態度は、戦前の天皇制軍国主義のくびきに苦しめられた我が党の先人の苦労を思えば、他党と同じ立場で弔詞を送るわけには行かない、ご理解賜りたいと意思表示するのが自然ではないのか。天皇制の当事者に対して、あたかも一個人の逝去を悼む式の対応は一体なんなんだろう。それこそ党運動に対する冒涜以外の何ものでもなかろう。 まぁ、あまり首を傾げない向きの方で占められているようなのでこれ以上は云わない。ならば、これはどうだ。竹下元首相逝去に対する弔意として、概要「消費税をめぐって等々の際に為した時の論戦がなつかしい」だと。「なつかしい」的に回顧されると労働者は怒るわなきっと。しかし、あまりに怒りすぎると言葉を飲み込むという場合もあるから、声が出てくるかどうかは分からない。思わず漏洩されていることが、何らかのパーティーで同席した時のエピソードである。確か、小渕前首相の物故の際にもパーティーで同席した時のエピソードが漏洩されていた。これらはしんぶん赤旗のインターネット版から見ての情報である。各自確認されたらよい。この二つから推測できることは、かなり政財界の会合に顔を出しているのではないかということである。赤旗紙面に出てこない、そういう先生、先生といわれて持ち上げられている氏の姿が浮かんでくる。それが悪いとは思わない。氏がその昔民社党にでも入って、次第に頭角を現して御活躍をされれば相応しかっただろうにと思うだけである。労働運動の現場に顔を出したことも聞かない、精力的に地方支部に顔を出して激励している姿もみられない、他方でそういう席には仮に積極的だとしたら、悪いことは云わない今からでも民社党を復活させる運動を組織すればよい。私もいい加減あなたのことをウォッチしなくて済むし。 反共ビラに対する反論は、これがまた一種の反共論理でしかないことを思わず明らかにしている。かっての同士が為したことを、そのように悪し様に云うのはよし子にしてくれ。いくら勝てば官軍だとしても、当時の徳田系運動はあれはあれで真摯な歴史的責務に感応していた。今から思うに経過、情勢の読み違いも、欠点も、党の力量不足の形成期という不十分さあった。内部から執拗に足を引っ張る宮本グループに手を焼かされた。執行部が右路線的議会運動を採用している時期にスターリン声明が出れば、すぐさま尻馬に乗って「左」からものをいい、執行部が左路線化すれば、「右」からものを云う。執行部が社会党候補を推薦すれば独自候補を立てて、大衆の面前で公然と争う、大衆は白けるそんな流れだった。しかし、どんなにこの時期の党運動を否定的に総括しようとも、執行部が、戦後日本の人民的利益を養護しようとして私心なく身を投じていた果ての一連の経過であったことは評価して上げねばならないのではないのか。あれは中国、ソ連のさしがねで踊らされた一派のしたことなぞと総括すれば、第一、中国、ソ連の当事者の気持ちを忖度してみたまえ。失礼と云うべきではないのか。 そういう宮本論理の反共的反同士的体質が今日の党運動に水も漏らさぬ布陣を敷いて、言いたい放題いえてることは分かる。が、歴史をみれば次のことも分かる。おごる平家は久しからず、諸行無常の鐘が鳴る。 |
Re:本音主義は良いことだ | ( 06/23 22:25:21 ) |
この掲示板の再創造に関して、ヒゲ虎氏が本音主義の立場から方針の再設定をしていることは、理解できる。もし私ならと我が身に引き受けてみたとき、幾分の違いは別にして当たり前の主張をしており、もっとまずもって自身が気に入るような掲示板の構築へと向かえばよいと思う。何かしら物分りの良い八方美人的な気使いをする無臭臭さを良しとする風潮があるが、そのことがもたらすストレスの方が大変だろうし、性に合わぬことはしない方が長続きする。 |
「汝の欲せざるところ、人にほどこすことなかれ」と・・・・・ヒゲ-戸田 | ( 06/24 02:59:08 ) |
「汝の欲せざるところ、人にほどこすことなかれ」と「義を見て為さざれば勇なきなり」・・・・これが戸田の中学校以来の変わらぬ「座右の銘」です。左翼としての思想や活動も社会運動も人づきあいも、なにもかもが、戸田にとってはこの二つの座右の銘の実践としてあります。 |
Re:「いわゆる市民」論理の陥穽について | ( 07/04 12:16:50 ) |
これもいつか言いたかったことを書かしていただきます。あちこちの文献で言葉を厳密にしたいのですが、時間が無いので思いつくままに書き上げます。先の「公人.私人」論議の際に、公人であろうと「市民」であって、その「市民」に認められている諸権利をた易く制限されるべきではないという意見を主張しました。ところで、我々は、この「いわゆる市民」についての認識に重大な欠陥を持ったまま今日まできているのではないか、ということが気にかかっています。 どういう欠陥かというと、「いわゆる市民」像には「性」が入り込んでおらず、いわば実際には存在しない「架空市民」が前提にされているのではないのかということです。それは、市民権というものが生み出される過程で、政治的経済的諸権利としてのみ追求されてきたことに原因があるのだろうと思われます。いわゆるブルジョアジーにとって、旧体制の男尊女卑的論理は直接の戦いの対象とはならなかった。それ故に、いわゆる市民権が獲得されて以降いわば外在的に男女同権運動が担われ、一定の成果を得てきてはいるものの、近代的市民権が想定しているところの「市民」はあくまで「架空市民」であって、実際には存在しない抽象的市民像なのではなかろうか。それが「男性」を前提にした市民像であるというのならむしろ分かりやすいが、何らかのいきさつがあって文面的には「男性的市民像」でもない。ここのところですが、私の表現力が未熟なため何を言っているのか伝わらないかなぁ。 私が実践的にいいたいことは、今風の「公人.私人」論のナンセンスは明確としても、市民論においてもその陥穽を認識しておかないと空疎になるということです。もっと具体的に言うと、この世に存在している生き物としての「人間」は、実際には「男の性を持った市民」か「女の性を持った市民」しか存在していないにも関わらず、その性差を捨象した「市民」観が一人歩きさせられているということについての欠陥を知っておくべきではなかろうかということである。 ここで気づいたことがある。その昔、明治の頃の世相描写の小説で「学校へやると人間が役に立たなくなる。変な考えに汚染され、理屈ばかりこねまわしだすから、うちの子は学校へ生かさない」というようなことを言っている場面があるという。残念ながら、私は読んでいない。従って当の小説名が分からない。どなたか教えていただきたいと思っています。感じとして「夜明け前」辺りに書かれているのだろうか。 この場合の学校とは「大学」のことであり、子息を進学させるだけの資力がありながらもそのように考える田舎者の封建的頑固さを嘲笑していると読み取るのが、この場面の普通の読み取り方ではなかろうか。しかし、最近私は別の受け留め方をし始めている。この頑固オヤジは、大学で教えている知識の欠陥を的確に感知していたのではなかったのか、と。もっとも、厳密には作者がそういう認識をもしていたということではあるが。我々がこの系譜に従うとすると、大学に生かせないのが良いのではなく、大学で学ぶ知識の陥穽を知りつつ学ぶべきであるということになるのではなかろうか。ここを認識せぬまま知識を増やしていくと、ホントヘンチクリンな脳髄を形成し生涯修正不可能になるのではなかろうか。特に人文科学系学問はここに大きく関係しているものと思われる。 ところが、実際にはさほど問題が起こらない。それがなぜかというと、我々は日々の生活実践において本能的に「近代的市民観」学問の陥穽を修正しているからではなかろうか。この修正に功あるものが歌謡曲である。ほとんどが恋歌であり、男の情念、女の情念、それらの絡み合いをメッセージし続けており、これによって我々は「近代的市民観」に「性」を接木させて平衡感覚を得ているのではなかろうか。あるいは又恋愛、職場でのひやかしおしゃべり、争議、デモ等々を通じていわばスキンシップで「学問」を修正しているのではなかろうか。あるいは又よそ様の政治家の芸能人のゴシップの漏洩を通じて「実際的市民観の実例」として別な認識の培養をすることに成功しているのかも知れない。こういう、只今の学問に無いことを自ら学び取ることこそ本来の学問であるかも知れない。そういう意味において、既成論理を疑うことからしか学問も運動も盛んになりえないのではなかろうか。私は、有為諾々精神が左派運動にとって如何に有害であるかを言おうとしている。 従って、次の時代に来る市民観は、恐らく性差を理解した分別と助け合いの関係を解明したところからもたらされるであろう。そこでは、男をしのぐようなウーマン.リブ的女権運動でもなく、女に必要以上に優しさを振りまくフェミニスト的男性運動でもなく、それぞれの特徴と能力が生かされる社会的合意のようなものが前提にされてくるであろう。最新の生物分子学は、この方面で何らかの寄与を為す可能性があるように思われる。私に分かることはこの辺りまでで、これ以上先は専門家の領域になる。とりあえず意欲作を自負した投稿です。 |
Re:「お上と民草」意識と気質について | ( 07/08 12:27:47 ) | ||||||||||||||||
三船は黙って恵比寿ビールかなぁ。今日も書こうっと。一般に権力史観に染まりすぎると、権力を握っている与党が悪で、野党が善的な構図にとらわれやすい。その善の最たるものが共産党で、労働者大衆の味方であるなどと錯覚してしまう。党是としてそう明記しているのだから無理も無いことではある。しかし、公安もさるもので、そういう党に対しては根限り内部撹乱を狙う。その次に行うことは党の変質であり、完成は執行部とのパイプ化である。私は、今日の共産党をそのように見なしているので、何が起こっても驚かないし、このままいけばもっと脳軟化症状を露にしていくことになるだろう。ちなみに、脳軟化とは「本音に向かって押さえが利かなくなる」ことを云っている。そのことを証明せよといわれれば出来ないことも無いが、党史をめくらねばならず長いノートになる。いずれ適当なところでやって見たいと思う
その他いろいろ識別できるとは思うが、以上のように分類してみたとき、各政党がどちらにどれだけ比重を置いているかにより、各党の『お上』化と『民草』化がはっきりする。してみれば、自民党が必ずしも『お上』政党ではないことと、共産党が少しも『民草』政党でないことが見て取れる。実際にはその折衷的中間的立場にも立っているので、図式化はあくまで概念的な括りとしての意味でしかないことはおことわりしておく。 |
(私論.私見)