さざなみ時事評論1 |
(最新見直し2006.5.19日)
いまおもうこと(1999.4.18日) |
私は、70年に入学して、一応安保闘争というものを経験しているものです。あれから30年近くなろうとしており、そのとき関わった共産党またはその思想というものの有効性について、いまも関心を持ち続けております。 日本共産党の指導部についてはすでに見限っていますので、今更宮本ー不破体制について疑念を覚えようということもありません。かの連中が本当に人間性豊かであれば、70年代の遅くない時期に民主連合政府を樹立しようとメッセージしたことの責任を負う操を持っているはずです。とんとそのような兆しも見せないまま今日に至っていることからして、信用していません。結果的に、あのスローガンは、新左翼の運動に水を浴びせただけの役割しかもたらしませんでした。新左翼の運動をここで総括しようとは思いませんので、話はここでやめますが、少なくとも民衆サイドの歴史観に基づいた思想を持ち合わせていない指導部であることは疑いないと思っています。 それにしても、旧社会党のていたらくといい、共産党のこのような連中の牛耳りといい、結局大衆の従順さが原因と思っています。まあおかげで日本経済はスムーズに発展して参りましたし、今日まではこれでよかったのかもしれませんね。ただし、そのつけがこれからまわってきそうです。ぶよぶよのひ弱な経営者ばかりが生み出されていますから、世界にはとても通用しません。それもこれも、結局日本は二等国なのかなぁ、ということを考えさせられている次第です。 |
私の主張に対する反応を求む(1999.4.25日) |
さざなみ通信という格好の私好みの欄を見つけ、このところ投稿していますが、この欄を見ているに違いない方からの反応のなさに驚いています。これが日本左翼の貧困なのではないでしょうか。 |
共産党指導部の政治責任―「れんだいじ」さんへ(1999.4.28日、吉野傍) |
「れんだいじ」さん、はじめまして。党員からの「反応がない」という、「れんだいじさん」のお怒りを受けまして、レスさせていただきます。もっとも、私はすでに何度も投稿しているので、むしろこれまで投稿されていない党員の方からの反応が私もほしいのですが、「れんだいじ」さんも嘆いておられるように、多くの党員はなかなか議論に参加しようとしません。やはり、誤った「規律」の観念(「党外で党を批判的に論じてはならない」)のなせるわざでしょう。道のりは遠い、と改めて実感しております。 |
未来を準備する仕事−−「れんだいじ」さんへ(1999.5.2日、吉野傍) |
前回に引き続き、「れんだいじ」さんの3つ目の投稿に対する異論を述べさせていただきます。 「れんだいじ」さんは、「公明党率いる創価学会は、各地に会館造っているけど、共産党は紙爆弾ばかりで、労働者会館の一つも造っていない」と述べています。たしかに、創価学会は各地に信じられないほど立派な会館を建てています。しかし、貧しい学会員から財務と称してお布施を搾り取りながら、このような絢爛たるハコものづくりに精出す姿はまさに、この宗教組織の堕落と腐敗を象徴しているとしか思えません。共産党がこのような会館づくりに走らなかったことは、この党の最低限の健全さを示しています。 「れんだいじ」さんはさらに、「資本家は、商工会議所とかロータリー・ライオンクラブで結束をかためているというのに。これでは勝負にならないでしょお」と述べています。立派なハコものとは別に、本当に一般民衆にとって必要な施設や組織づくりに関して言えば、共産党の右に出る政党はありません。 たとえば、党員の医者や労働者たちが中心になって、戦前の弾圧のなか、および戦後の焼け跡のなかで、初期の無産医療運動から現在の民主医療へと営々と築き上げてきた医療運動は、今や全国に154の病院と410の診療所、82の歯科医院、429の準ずる医療施設、235万もの共同組織、3000人の医者と、1万3000人の看護婦、4万人以上の医療労働者として結実しています(98年時点)。見た目が豪華なだけの会館なんかよりも、患者の立場に立ち地域に密着し福祉切り捨てと闘うこのような医療施設と医療組織を全国くまなく作り上げることの方が、はるかに困難であり、はるかに有意義ではないでしょうか。この医療活動は、選挙での票獲得などという狭い目的のために存在するわけではありませんが、選挙においてももちろん、たいへんな力を発揮しています。 さらに、阪神大震災のとき、被災者救済のために、現地の民医連の病院が、半壊状態になりながらもフル回転したのみならず、民医連は文字通り全国動員をかけ、日本中からカンパと手弁当で1万人以上の医者・看護婦・医療労働者・奨学生らを現地に派遣しました。彼らは、被災地の中を歩き回り、瓦礫の中から被災者を救い出して、無料で治療にあたりました。その中心を担ったのはもちろん共産党員です。また薬害エイズの運動でも民医連とそこに結集していた青年党員が大きな役割を果たしたこともよく知られています。 共産党員たちが他の多くの人々と協力して地道に作り上げた組織は、もちろん、民医連だけではありません。商工会議所に負けずとも劣らない全国的な草の根組織として、民商・全商連があります。さらに土建組合、全労連、生協、等々、等々です。 もちろん、これらの組織の現実は、それが掲げる理想や理念からは矛盾しています。多くの欠陥、官僚主義、そしてしばしば利益主義にさえ侵されています。それにもかかわらず、それらは単に現在の社会を転覆するテコであるというだけでなく、それ自身のうちに新しい社会の萌芽を宿しているのです。マルクスは、生まれたばかりの新しい社会はなお旧社会の母斑をとどめていると言いましたが、旧社会の中にとどまっている新社会の萌芽となれば、それこそ旧社会のあらゆる弊害にむしばまれることは避けられません。しかも、それを構成しているのは生身の人間であり、種々の誤りや欠陥やあるいは醜い部分をも必然的にともなうでしょう。したがって、これらの「民主団体」に対しても、共産党に対してと同じく、その構成員は絶えず、それの掲げる理念に照らして批判し、誤りを正し、欠陥を是正しなければなりません。とはいえ、それでもそれは、新社会の萌芽なのです。 発達した資本主義社会においては、その変革を志す組織は、単にその社会の転覆をめざすだけでなく、旧社会の中で未来社会の組織的準備をもしなければならない、ということについては同意いただけるでしょうか? とすれば、何十年もの間、無数の人々の血と汗と努力の結晶であるこれらの組織、施設、制度を守り発展させることなしに、いかなる革命も考えられません。 以上のように私は考えますが、「れんだいじ」さんはどう思われますか? |
吉野さんへ返信いたします(1999.5.7日) |
吉野さんからのメール読ませて頂いております。返信したいのですが、折り悪く連休前から風邪をこじらせており、便りするスタミナが今一つになっております。そういうわけですのでご容赦ください。 さしあたりのコメントだけさせていただきます。選挙の結果に一喜一憂して進退を問うのはいささかの趣との内容であるように受け取りましたが、私が言いたかったのは、議会闘争に重点を置くなら置くとして、その際の執行部の責任のとり方の有り様についてコメントしたつもりです。議員数とか得票数が伸びたら当然の如くに執行部の評価が高まるのもよいでしょう。反対の結果が出た場合の言い訳の仕方が気に入らないということだけが言いたかったのです。微増・微減の場合は良いでしょう。大幅減の場合には責任をとる体制が欲しいのです。これは、議会政治を重視した場合に発生する遵守せねばならないマナーのように私は思うからです。 何と、このルールを原則的に守っているのは自民党だけなのです。通史で見た場合にそういうことが言えるのです。考えてみれば、自民党は出処進退のけじめが理にかなっています。派閥の存在の容認であれ、その規制であれ、総裁を目指しての権力闘争であれ、けっして完成されたものではないにせよ、これこそ民主集中制ではないかと思われるような離合集散と結束と責任のとり方をいたします。自民党を美化するつもりはありませんが、良きにせよ悪しきにせよ人間というものを総体として認識する方法において一番優れているんではないかと思わせるところがあるわけです。 それに引きかえ、我らが輝ける希望の星日本共産党のカビくささたるや、ぁぁもう信じられない。居座る者も、それを許す者も、ぁぁ何たるお似合いか。念のため。日本共産党を誹謗する人たちの組織もまた同罪。 |
吉野さんへ追伸(1999.5.8日) |
昨日吉野さんへご返事した効果か風邪の調子も良くなってまいりました。というわけで、本日もまたご返信させて頂きます。いわゆる「箱もの」についての論議になります。吉野さんは、創価学会の会館造りをさして評価してないようですが、私の考えは次のとおりです。 |
本欄投稿者への対公安対策について(1999.5.9日) |
『さざ波通信』紙上での論議参加に対して、公安(党中央もそうかも)が目を光らせている筈だから慎重にならざるを得ないのではないかという「さつき」さんの疑義と、主催者の応答がありましたが、本件に関して私の意見を述べさせて頂きます。 |
またまた一言(1999.5.13日) |
連日のように投稿しているのが皆様にとって良いのか迷惑なのか気にしながら、またまた投稿しようとしています。しかし、思うに、通信紙上の論議というものは任意にできる良い点はあっても、まだるっこいですねぇ。もう少し論議が増え、論点が増えるに応じて、課題別のコーナーを増やして欲しいですねぇ。ただ今は「日の丸・君が代」問題が別枠にされていますが、例えば、「民主集中制」についてのコーナーとか、「指導者論」のコーナーとか、「統一戦線」に関するコーナーとかいうふうに。 |
いつも投稿ありがとうございます。今後も、ご遠慮なく投稿して、投稿欄を盛りあげてください。それと、課題別の討論についてですが、実は、私たちの方でも、投稿数がもう少し増えれば、そういう形でより具体的な討論をしたいと思っています。(編集部) |
新たな論点を提供します(1999.5.6日) |
思ったより低調な『さざなみ通信』ですが、編集部より、遠慮せず賑わしてくださいとの暖かいエールをいただきましたので、またまた投稿します。「君が代問題」ではこれ以上論議が起こらないような気がしますので、私が温めてきた格好の論材を提供します。 それは、「田中角栄論」です。彼をどう観るかはすぐれて現代的なテーマであると私は思っており、皆様のご意見を承りたいと思います。言いだしっぺの責任として論点のいくつかを提供しておきます。 (1)庶民宰相としての栄光と悲哀と政治的限界について。 (2)上記に関連して氏の政治家としての有能度について。 (3)氏の失脚経過の諸問題について。 (4)氏の失脚と現在に至る諸影響について。 (5)氏のパフォーマンスとその評価について。 およそ以上のどの論点からでも結構ですので議論したいのですが。 私は、どなたかが氏に関するホームページをつくってくれるのを期待しているのですが今のところ見当たりません。私がいつの日にかそういう能力を身につけたならば開設したいと思っているほどに、彼に関心を持っています。今なぜ田中角栄なのといぶかる人が多いかと思いますが、彼が良くも悪しくも戦後という時代の特徴を一身に体現しており、そういう意味で今に有効な時代の特徴を読み取る格好の人物であるということを理解すれば納得していただけるかと思われます。いずれにせよ、戦後という時代が生んだモンスター政治家であり、日本史上に輝く「能く生きた100人列伝」の一人に入ること疑いなしと思っており、そういう感性または認識を共有したいのです。むろん反対の観点からの彼の評価論も歓迎いたします。 なぜ、こういう提案を申し上げるのかというと、日本左翼の閉塞状況を解き明かす鍵がそこに秘められているような気がしているからです。彼の存在に比べて、新旧左翼の何とちまちまとしたお利口ぶりっ子たることか。爪のあかでも煎じて飲ましてあげたい。 もとい。彼の生きざまを丸ごと評価する必要はありませんが、そのあふれでるリーダーシップは、イデオロギーを越えて下手な左翼より左翼的な面をも持っていたように思われます。だから失脚させられたのかも知れない(いやほんと)。確かあの時は評論家がえらい張り切っていて、党の御大宮本がいつになくしゃしゃり出てきたなぁ。右翼も罵詈雑言してたなぁ。労組も目白邸を、こともあろうに御用ちょうちん持って包囲したなぁ。得体のわからん新左翼風の団体もにわか仕立てで出てきてチラシ配ってたなぁ。裁判官と検察ががっちり握手して「三権分立」なんのその屁の河童だったよ。えらいこっちゃ。マスコミが後押しどころか煽り続けてたよ。みんな仲良しクラブなのかなぁ。地元のアナウンサーまで調子に乗ってたわ(やっぱりやめた。このテーマはまだ生臭い。もう少しそっとしておこうっと。と思うのにボタンを押す)。 |
(Kミナト−吉野)論議について(1999.5.17日) |
Kミナトさん、吉野さんこんにちわ。連日の投稿で少々オーバー気味かなと思っっていたところ、私の発言をめぐって吉野さんとKミナトさんのやりとりがなされており、私も当事者の一人であるからして拝聴するだけでは具合が悪くなりました。そういうわけで本文を送らせていただきます。 Kミナトさんと年代が近いということは70年前後のあの頃の雰囲気が共有できているということでしょうから、問わず語りに分かり合える部分も多いと思います。吉野さんにも親近感を覚えています。したがいまして単刀直入にご意見させていただきます。 まず、吉野さんの言おうとしていることを整理します。青春を賭けて獅子奮迅の党活動してきたが、現在の党の在り方とか執行部の指導方向について疑念を覚えている。その疑念については私と共通する部分もあるが、同調できない面もある。同調できない部分としては、産みの苦しみの道中だからいろいろあるだろうが、党の歩みをもっと巨視的・長期的に俯瞰し、着実に前進している側面にも目を向けるべきではないか。選挙の結果に対しては、その時々の票または議員数の現象的変動をもって執行部の責任を問うのではなく、今かりに微増しているかに見えるこの局面において問題が山積しており、正すべきは正していかないと旧社会党の二の舞いになる恐れがあるという趣旨であったように思われます。吉野さんの姿勢は現役党員としてのものでもあり、党活動の全般としては支持しているというスタンスにたった上で、現執行部の指導方針とは一線を画しつつより原則的と思える方法で着実な党活動に取り組むんだという決意表明でもあるように思われます。 これに対してKミナトさんの意見は、かっての党員という気安さからか言いたい放題の感があります(鋭い部分も有ります。よいしょっと)。一つは、吉野さんの思考方法が、本人が消耗したという「積み木理論」の呪縛から解き放たれていないという指摘であり、「積み木」の内実を凝視すればそれぞれの「積み木」はある種の利権団体に堕落してしまっているではないかという批判。一つは、マルクス主義の理想は良いと思うのだが、例外なく独裁に陥った過去の経過からみてマルクス主義そのものに何らかの欠陥が宿っているのではないかという意見であり、後一つは、運動論的に現在の党活動の縦割り垂直型指導よりも、課題別に即応する地域横断的な水平型の運動の方が良いのではないかというアイデアを持っており、この件に関して討議しようという提案であるように思われます。 このお二人と私の間には相共通する心情がありますが、観点には少々異なるものがあります。まず、マルクス主義をどう把握するのかという点について。私は、基本的スタンスとしてマルクス主義を史上極めて有益かつ良質な思想であると考えています。ただし、その限界もあちこち見えてきており、早急に止揚されるべき局面を迎えているとも思っています。 その根拠の一つは「遺伝子理論」の登場です。今やマルクス在世当時には予見できなかった生物遺伝子の存在とその働きの様子がしだいに明らかにされつつあり、この「遺伝子理論」によれば、遺伝子は生命の連続体のうちに過去の様々な環境適応の様子を情報としてインプットしているということです。もしそういうことになると、マルクス主義の理論的骨格をなす唯物論と観念論の二大区分という定義そのものが根底から見直されねばならないのではないでしょうか。そう思うのは私だけかなぁ。このような科学的新発見が続々となされつつあるのに、マルキストの側からの思想的な格闘がなされていないように思われます。 私の考えはマルクス主義が間違っているというのではなく、マルクス主義の最大功績は「唯物弁証法」の発見にあり、「唯物弁証法」はあの時代における最新最良な認識手法としての発見であったとみなした上で、現在はその後の諸科学の成果の上に立って現在なりに止揚される局面にあるのではないかという見方をしています。止揚という言葉は、便宜的な貼り付けでは済まされず、新しい脱皮が望まれているという意味で使っています。このような重要な事柄がなおざりにされているのは、個々のマルキストのマルクス主義の本質を理解していない主義者としての怠慢であると考えています。 なお、このような怠慢を党が助長しているともみなしています。現在の党の思想教育は、党員が自分自身で考えるという作風を育てるどころか押さえ込んでいるからです。マルクス主義の古典的文献を読まそうとするのではなく、換骨脱胎どころか小骨三本ほどしか残滓していない党の指定文献を薦めています。これは重大な「執行部帝王主義」であると考えています。「帝王学」とは、帝王および取り巻きの一部エリートに統治術を教える学問であり、もともとマルクス主義はそのような統治術の対極にあります。マルクス主義は大衆に学ばせ、大衆が育ち、大衆の叡智で自主管理社会を創造させようとする観点をもって生み出されたものです。ああ何と似つかぬ世界に入り込んでしまったことか。この似つかぬ党の姿が露わにされるのを恐れてか、はたまた大衆にはそしゃく能力が無いとでも思う思い上がりか愚民政策がとられているような気がしています。 吉野さんの党の内部からの改革を引き出そうとする努力に水をかける気はありません。ただし、組織というのは長期化すればするほどトップリーダーの諸能力・性格・気質に似せて染まってしまうものです。私見によれば、現在の党は宮本体制に私物化された党と思っています。私物化とは、当人にオールマイティーで他の人には規制が多く当人の顔色をうかがいつつでなければことが進まない状態というのがメルクマールです。 宮本体制が不破体制を生み出し、志位書記局長まで肌合いの似たものが続いております。体制というのはみんなに悪いというものではなく、どんな体制であれ相性の良い人と悪い人に分岐し、トップの個性に似たものを幹部に寄せるという習性があります。問題は、相性の悪い同士をどう処遇するのかに知恵がいるのです。切り捨ててばかりでは党の成長はなく、最新の医学理論においてもガン細胞でさえ共存させ免疫力をつけるのが肝要という理論が生まれつつあります。吉野さん、そういえば『さざ波通信』の編集部の皆さんの立場もそのようですが、果たして党改革はうまくいくかなぁ。(途中ですが、長くなりますのでこのあたりで失礼します) |
公的個人批判と私的個人批判の差異について(1999.6.15) |
私の投稿の内容に対するご批判かどうかよくわかりませんが、党の執行部の個人に対する批判はよろしくないという意見がなされています。この件に関しまして私なりの考えがありまして以下発言させていただきます。 |
宗教と性に関する雑感(1999.9.11日) |
「宗教の社会的根拠」と「性」の問題に出くわしています。なかなか論旨がまとまりませんが、ええいままよという気持ちのまま投稿させていただきます。 |
党本部建設問題について(1999.9.13日) |
吉野さん、こんにちわぁ。「党本部建設問題」についての吉野さんの投稿拝見いたしました。「箱もの」については従来それを重視するよう意見してきた手前、少しコメントしたくなりました。 |
「結社内の言論の自由」について(1999.9.16日) |
げじさんといいメモさんといい、次から次とこの種の人材も尽きないものだなぁと感心させられています。編集部の皆様もまじめな方ですねぇ。まともに応対するからいけない。『さざ波通信』は、「開設にあたって」で趣旨とか投稿要領を明確にしているのですから、趣旨賛同の方のみご利用下さいの一言で済む訳ですよ。「『さざ波通信』を止めよ」という趣旨の投稿に対してはいちいち取り合わなくても良い。お気に入りのショップへどうぞと言えばよいだけのこと。そういう投稿文はボツにしてもよい。掲載すること自体充分な誠意ですよ。結論的に言って、『さざ波通信』ショップを利用しようがしまいが皆さん自由なのだから、気に入った人が出入りすれば良いのであって、気に入らない人は望みのショップ、例えば党じきじきのショップを見つけるか自身でHP開設すれば良いのです。参加しながらこんなHP無い方がよいとか規約違反だから止めなさいという意見を述べ続けるのはやんちゃな精神という他ない。 追伸 |
「いったい何が云いたいのかなぁ」(1999.9.17日) |
9.15付げじさんの投稿末尾で、蟹瀬さんに対して、「投稿を中断されるのはあまりにも無責任」ではないか発言を投げかけていますが、これって無茶苦茶な言い方だなぁ。私にすれば、蟹瀬さんの投稿に対してぐにもつかぬ難癖つけておいて、反論をせがむ無邪気さが解せない。 |
ヤスさんへ(2000.1.20日) |
驚きました。『さざ波通信』は、私のような者を含めて自由投稿の良さを内包しているが故に値打ちがあると考えていますが、ソウデスカ、「『さざ波通信』編集部に検閲(掲載拒否・削除)を求める声が出てくる前に」私が自主撤退すべきなのですか。で、その「検閲」とやらを堂々と主張しているようですが、あなたの左翼精神とは如何なる構造の下に形成されているのですか? オカシクナイデスカ。「
(1)投稿を止める」については、今少しご辛抱下さい。もう少し書き残しておきたいことがありますので。「(2)論説の内容を有料でも読んでもらえるほどのレベルに上げる」については、スゴイコトヲオッシャイマスネェとしか答えられません。ヤスさんを目の前にしてマジマジと覗き込んでみたい気分です。「(3)ご自分で別個にHPを立ち上げ、さざなみ通信にリンクをかける」については、これは良い提案ですねぇ。実は、私もHPを立ち上げたいのです。その技術がないのです。平板なものでしたら出来そうですが、『さざ波通信』レベルのものにしたいので悩んでいるのです。でも、これをきっかけに拍車をかけたいと思います。そう言う意味で、今暫くご辛抱の程願います。 ところで、私の投稿によって「本来行なわれた可能性のある他の建設的な投稿を蹴散らしていると思います」というのは、ひどいいいがかりですねぇ。こういう文章は、私のナイーブな神経を傷つけますが、自主的に撤退しなさいという申し出と併せて考えますと、一種の恫喝ですねぇ。あいにくそういう恫喝と闘うのが私の左翼精神ですので、申し訳ございませんが屈するわけには参りません。『さざ波通信』の投稿が増えていくことを望んでいますが、長い間の盲従習慣で自分の頭で考えられない党員・支持者が形成されていることに原因を求めた方が、私の投稿に求めるよりも的確なのではないのでしょうか。今は産みの苦しみのひとときであり、ある時点より堰を切って投稿が増えてくると思いますよ。従って、「れんだいじ氏などの辟易する投稿が出るたびに、『さざ波通信』忌避派を増やしてしまうのではないでしょうか」などと私の心をいじめないで下さいよ。 「この手の論説の特徴として、いつまでたっても今の課題に役立つ現実的なアドバイスや具体的視点が出てきません。現代日本の現状分析(実践に結びつく分析)がないから必然的であると思います」も、為にする批判ですよねぇ。今私は、現実の課題を解くための前作業として過去の重大事件に焦点を当てて問題点を探ろうとしています。過去の解析をしている訳ですから、直接には現実の問題にコミットすることが出来ません。無理難題というものです。いずれ、現在の問題にも言及しようと思いますが、私のHPでやるようになるかも知れません。という訳で「今の課題に役立つ現実的なアドバイスや具体的視点が出てきません」というご批判は、私からすれば全く不当なものであります。 「世の中で相手にされない」私が、『さざ波通信』で「単に自己顕示欲のはけ口」にしているという見方は如何なものでしょう。私が『さざ波通信』に投稿しているのは、あくまで私が投稿したくなったから投稿しており、ついつい調子の乗っているのは事実ですが、「世の中で相手にされない」からではありませんよ。ところで、「世の中で相手にされるされない」の基準は、ヤスさんの場合何を基準にしているのですか。ここでも、あなたの左翼精神とは如何なる構造の下に形成されているのですか? オカシクナイデスカと聞いてみたくなります。何か差別的な権力的な反動的な臭いがしますけど。ちなみに、こういう漠然とした基準を振り回し始め、これに権力が加わると際限が無くなりお追従派しか生息出来なくなりますよ。 「この問題にはインターネットの悪い面が典型的にあらわれていると思います。市民団体に私がいままで関わった経験から言うと、どの市民団体(特に左翼的なところ)にもこの手の人は必然的に寄ってきますが、そのへんの事情は主催側(中心メンバー)がよく心得ていて、団体の害にならない程度に『活躍』を押さえ込んでいる例が多いです。ましてや機関紙の紙面で『活躍』してもらうことなどその団体にとって自殺行為ですから、なんだかんだ言って普通は排除します」の文言には、やたらと統制的な臭いが漂っています。一つ、良い面・悪い面のヤスさんの基準は何ですか。「いろいろやってみなはれ」の精神は駄目ですか。一つ、「市民団体に私がいままで関わった経験」ということですが、ヤスさんのような精神の方がまさか左翼運動に関わって「良い関わり方」で運動を盛り上げたと云うことがお有りですか。是非お聞かせ下さい。一つ、「『活躍』を押さえ込んでいる例が多い」ことを当然視しているようですが、そこが私と認識がチガウ。「押さえ込む」などとよく平然と言えますねぇ。一つ、「なんだかんだ言って普通は排除します」も然りですが、この文言は特にヒドイ。ところで、ヤスさん、あなたの精神性に対してどうみても左翼とはみなせない。どのようにしたら「なんだかんだの理屈」での排除の正当化まで肯定しうるようになるのでしょうか。私にはワカラナイ。こうまで堂々と「排除の強権論理」を何らの疑いも無く表明されるとクラクラしてしまいます。 |
困ったもんですね、ヤスさんへ(2000.2.3日) |
ヤスさんからすれば、私の投稿が困ったもんだということのようですが、私から言わせてもヤスさんには何を言っても通じないのかなぁ、懲りない面々だということになります。今回は編集部の方でも「一定の配慮を求める」ということのようですから、これを字句通りに受けとめると私が配慮せねばならないということになるのでしょうか。とすれば、自主撤退の日程が差し迫ってきたということになりますが、出来れば一応構図上完結目前になっておりますので後少し本投稿を含めて三編だけ投稿させて下さい。 ヤスさんがどのような方か想像するしか有りませんが、前回も指摘したつもりですが、妙に気になる文面を自覚なしに書き連ねている様子が伺えます(挑発だとは思いますが、乗ってみましょう。歴史に命を預けているつもりですから)。私を、「『日本共産党を含んだ運動による日本の社会主義的変革』を目指しているとは思えない人」とみなしているようですが、なるほど「日本共産党を含んだ運動」ということを絶対条件にはしていないという意味ではヤスさんと立場が違うかも知れませんね。ただし、「日本の社会主義的変革を目指しているとは思えない人」と決めつけるのは如何でしょうか。この両句は必ずしも=ではありません。従って、漠然とした基準でそういう決めつけが出来る精神はオカシクないですか、と再び問うてみたくなります。 「反社会主義や反共主義の立場で民主主義を説く論者は、右転落した学者を筆頭に、世の中に掃いて捨てるほどいます」という文章も例によってヒドイですねぇ。私の立場がそうであるかどうかは別にして、「反社会主義や反共主義の立場で民主主義を説く論者」もいてこそ「民主主義」のように思えますがそんなにイケナイことですかぁ。その立場がなぜ「右転落」になるのですか。「転落」という表現は好きくありません。誰がどういう基準で人様を「右」だとか「転落」などと決めつけうるのですかぁ。「左」に寄れば左翼日和見というのでしょうし、いつからこんな不作法な基準を弄んで恥じない論法が横行しはじめたのでしょう。私は、現下のような党運動を盲目的に推進したり支持したりしている者から「右」だとか「転落」などと決めつけられるのは笑止千万な気持ちです。「世の中に掃いて捨てるほどいます」という表現も品がないですねぇ。「犬が吠えても歴史は進む」という表現も品がありませんが、同等の感性が伝わって参ります。 「私が懸念するのは、『さざ波通信』が獲得すべきであろう、社会主義日本を志す共産党員(および非共産党員の社会主義者)が『さざ波通信』に偏見を持ってしまうことです」と心配されるのなら、なぜ新日和見事件の被査問者達が党離れをせざるを得なかったのかについて「あたら惜しいこと」とご心配されないのですか。その他多々党離れされた方がおられますが、同じように「あたら惜しいこと」とご心配なされて原因の解明に向かわないのでしょぉ。新日和見事件の場合、川上氏・油井氏・早乙女氏その他多くの方に何か問題がありましたかねぇ。今私なりに検証していますが、両成敗にはなり得ぬ党中央側による一方的な過干渉のように思えますがね。 最後に。私のHP開設をあまり早期にあてにしないで下さいね。気持ちは充分ありますが見通しは立っていませんので。それと「ヒマと精力は持て余しているようですし」という表現もあまり気持ちの良いものではありませんね。推測は構わないと思いますが、ある程度当たっていないとね。お答えさせていただきますと、精力はあるかも知れません。「ヒマを持て余している」かどうかまで見通しされているとしたら、監視されているようで嫌でございます。こういう表現を易々とする精神の者から党を愛しているからこそ一言申すとか、「日本の社会主義的変革を目指している」とか言われたらむしろ気持ち悪いですね。 |
市民さん、有り難う(2000.2.18日) |
市民さん、このたびは有り難うございます。私のお尋ねに関心を持っていて下さったことがうれしいです。とはいえ、内容はしめっぽい話になります。そうですか。川端治氏の本名が山川暁夫氏で、その後労働者社会主義同盟(人民新報)議長をつとめて奮闘されていたんですね。例の事件の時、確か上田耕一郎が査問官となり、渦中の当事者にさせられていたことまでしか知りません。この時の様子を氏が明らかにしているのであれば知りたい。お手数ですが市民さんご存じであれば、他の方で存知の方おられましたら教えて下さい。 最近無沙汰していますので、一言コメントしようと思います。東京都石原知事の右派系からの革新政策が喝采されていますが、確かに無策よりは良いと思われる。ただし、私なら左派的にこちら側から革新させていきたい。そもそも銀行のぶんぷく太り政策こそが官僚指導の智恵の限界であり、天下り癒着と絡んで腐敗の温床となっている。意識的に不当な利益を蓄積させていることは誰の目にも明らかでしょう。しかし、石原知事的発想で税の徴収をなしていくことは、結局大衆に不利益をもたらす結果にならざるを得ない。本当に必要な改革とは、公的資金という国税をつぎ込みながら地方税を取るというその場手法ではなく、ベンチャー型新銀行の容易創設や、新規参入障壁を解除しながら、本業である融資業務において意欲的積極的な自由競争を展開させることではないでしょうか。判りやすく言えば、つぶれるものはつぶれれば良い。その替わりに新しい時流にあった銀行の誕生を促すことの方がどれだけためになるかということだ。 |
(私論.私見)