さざなみ時事評論1

 (最新見直し2006.5.19日)

 いまおもうこと(1999.4.18日)
 私は、70年に入学して、一応安保闘争というものを経験しているものです。あれから30年近くなろうとしており、そのとき関わった共産党またはその思想というものの有効性について、いまも関心を持ち続けております。

 日本共産党の指導部についてはすでに見限っていますので、今更宮本ー不破体制について疑念を覚えようということもありません。かの連中が本当に人間性豊かであれば、70年代の遅くない時期に民主連合政府を樹立しようとメッセージしたことの責任を負う操を持っているはずです。とんとそのような兆しも見せないまま今日に至っていることからして、信用していません。結果的に、あのスローガンは、新左翼の運動に水を浴びせただけの役割しかもたらしませんでした。新左翼の運動をここで総括しようとは思いませんので、話はここでやめますが、少なくとも民衆サイドの歴史観に基づいた思想を持ち合わせていない指導部であることは疑いないと思っています。

 それにしても、旧社会党のていたらくといい、共産党のこのような連中の牛耳りといい、結局大衆の従順さが原因と思っています。まあおかげで日本経済はスムーズに発展して参りましたし、今日まではこれでよかったのかもしれませんね。ただし、そのつけがこれからまわってきそうです。ぶよぶよのひ弱な経営者ばかりが生み出されていますから、世界にはとても通用しません。それもこれも、結局日本は二等国なのかなぁ、ということを考えさせられている次第です。

 私の主張に対する反応を求む(1999.4.25日)

 さざなみ通信という格好の私好みの欄を見つけ、このところ投稿していますが、この欄を見ているに違いない方からの反応のなさに驚いています。これが日本左翼の貧困なのではないでしょうか。

 めいめいが勝手なことを自己満足的に言い合うだけの風潮と、組織的従順さしか持ち合わせていない我らが左派諸君。こんな念願のコミュニケート広場が開設されたのだから思う存分利用しようよ。そして、議論だけでも良いから積み上げて、建設的ななにがしかを得ようよ。

 恐らく諸君は資本家とか自民党支持者を馬鹿・ひょっとこ・我利我利亡者扱いしているだろうけど、実際は差にあらず。彼らの方が研究熱心で、議論好きで、責任をとる作風の確立において断然進んでいるよ。それが証拠に、先の国政選挙で自民党が敗退すると橋本自民党総裁は責任をとって去ったでしょお。なんと旧社会党委員長土井たかこは、自らの政党がそれ以上みじめな敗北したのに辞めずに居座ったまま、自民党の総裁候補選びに難癖つけてたよ。僕は信じられないのだけど、みんなはそうでもないのかなぁ。

 これが落語調での落ちになるけど、共産党の場合、いつまでトップがかわらないのかなぁ。こんな政党あるかなぁ。今は選挙で勝ってるけど、負けたときの敗因分析は、敵の策動にやられたのと大衆が覚醒してないからだと。こんな責任逃れが通用するから世間の良識派は相手にしないのよね。言い訳はいいの。議会を重視するならそれでいいから、勝てば勢いつけてますます政権取りに向かって、負けたら責任をとるの。下手な言い訳しないのよ。へんてこな理屈こね回すから、党員下部までへんちくりんな人材が育つのよ。

 思えば、党創立何周年とかの行事を平気でしてるけど、こんなへんてこりんなんで通用するの。世の中少しも左派的になってないのに。恥ずかしくないのかなぁ。労働貴族とか云う言葉あるけど、何で党貴族という認識にならないのかなぁ。近年の不破さんの発想たるやまるで党貴族ではないの。公明党率いる創価学会は、各地に会館造っているけど、共産党は紙爆弾ばかりで、労働者会館の一つも造っていない。資本家は、商工会議所とかロータリー・ライオンクラブで結束かためているというのに。これでは勝負にならないでしょぉ。こんな理屈は誰でもわかるのになんておとなしいのかなぁ。党員、党友諸君はマゾ的なのかなぁ。僕は、信じられなくて一歩引いて見守ってるの。小林多喜二をはじめ僕のおじさんの対特高との命がけのやりとりを無駄にしたくない気持ちは今もあるよ。

 結論。こんな低調な議論不得手な連中で、本当に政権とる意志あるのぉ。青写真できてるのかなぁ。つくる元気持ってるのぉ。


 共産党指導部の政治責任―「れんだいじ」さんへ(1999.4.28日、吉野傍)

 「れんだいじ」さん、はじめまして。党員からの「反応がない」という、「れんだいじさん」のお怒りを受けまして、レスさせていただきます。もっとも、私はすでに何度も投稿しているので、むしろこれまで投稿されていない党員の方からの反応が私もほしいのですが、「れんだいじ」さんも嘆いておられるように、多くの党員はなかなか議論に参加しようとしません。やはり、誤った「規律」の観念(「党外で党を批判的に論じてはならない」)のなせるわざでしょう。道のりは遠い、と改めて実感しております。

 さて、「れんだいじ」さんの投稿についてですが、すべてにわたって議論するのもたいへんですから、三つ目の投稿の内容についてのみ反論させていただきます。

 まず一つ目、共産党指導部が責任をとらない、という点について。おっしゃるように、共産党という組織においては、日本にかぎらず、ごく最近まで、最高指導者が、死ぬか老衰で政治的に指導できなくなるまで、その地位に居座りつづけるという悪習が続いていきました(例外はブレジネフ)。選挙で後退しようが、政治的失態を犯そうが、原則を大きく逸脱しようが、最高指導者は、最高指導者であるというただそれだけの理由で、けっして責任をとることはありませんでした。もっとも、こうした現象は、IOCのサマランチを見てもわかるように、必ずしも共産党だけにかぎった問題ではありませんが。

 したがって、この無責任性を厳しく批判し、それを問題にするというスタンスは、私も全面的に賛成するところです。かつての伊里伊智氏もこのことを主として問題にしていました。私は彼の主張の多くに賛成できませんでしたが、そのごく初歩的な民主主義的要求を明確に打ち出し、それを公然と訴えたことは、その政治的勇気ともども、しっかり記憶されてしかるべき業績です。

 以上の重要な同意点にもかかわらず、私が「れんだいじ」さんの意見に違和感を覚えるのは、共産党の責任問題が主として選挙結果から生じるものであるかのように書かれていることです。もちろん、選挙での後退は重要な問題であり、当然、指導部の責任も問われてきます。しかし、それでもはやり、選挙での前進や後退は、共産党という組織の性格上、二次的であって、責任問題が問われるべきは、より本質的な政治問題ではないかと思います。

 たとえば、選挙の結果だけを見るなら、現在、共産党は議席を伸ばしつづけており、指導部の責任は問われないことになります。しかし、私は、選挙でまるで前進していなかった(むしろ後退していた)90〜94年よりも、大いに前進している現在のほうが、指導部の政治的責任ははるかに重大で深刻だと思います。指導部が選挙での敗北の言い訳として、自分たちに責任のないあれこれの要因を持ち出すことはたしかに問題ですが、しかし、それでも、選挙の結果は指導部の政治的指導能力だけによって決定されるわけではありません。92〜94年当時、社会全体が急速に右傾化し、「政治改革」の名のもと、帝国主義的な改革が推進されました。このとき共産党は、選挙での停滞や後退にもかかわらず、基本的陣地を保持し、ニセ「政治改革」にきっぱり反対し、護憲と革新の原則を守りました。このときのがんばりが、結局、その後の躍進の原動力となったのです。

 逆に、経済的バブルと軌を一にして89〜90年に政治的バブルで議席を急膨張させた社会党は、あまりの議席の増大に我を失い、護憲政党の原則を投げ捨て、政権参加に突っ走り、帝国主義的「政治改革」に加担し、その結果、この92〜94年の時期に完全に崩壊しました。今や、社会党の後継政党である社会民主党は、かつての共産党よりも少ない議席に激減しています。

 しかしながら、95年以降躍進するようになった共産党は、かつての社会党と同じく、しだいに我を失いつつあり、護憲と革新の原則を、ここかしこで蹂躙しつつあります。去年の政権論しかり、「日の丸・君が代」新見解しかり、不審船事件での対応しかり、『新日本共産党宣言』での解釈改憲しかり、です。むしろ、今こそ指導部の政治的責任が問われるべきです。さもないと、選挙結果においても、かつての社会党の二の舞になりかねません。しかも、かつての社会党の場合には、まだ共産党という受け皿がありましたが、もし共産党までもが社会党の二の舞になったなら、もはやそれに代わる政治的受け皿は存在しませんので、日本の変革の事業は何十年も後戻りさせられることになるでしょう。それだけは絶対に避けなくてはなりません。

 だからこそ、指導部の政治責任を選挙結果に直結させるのではなく、より本質的な政治問題における指導部の立場や誤りをこそ問題にし、その誤りを理由に責任を追及するべきなのです。選挙結果による大敗北という致命的な結果が出てから責任を追及しているようでは遅いのです。しかも、一度崩壊のレールに乗ってしまえば、たとえ指導部を変えたとしても、そう簡単にはその流れを押しとどめることはできないでしょう。

 私はこのように思いますが、「れんだいじ」さん、それに他の多くの読者ないし党員の皆さんはどう思われますか? 他にも反論したい点はありますが、量が多くなったので、残りは日を改めて投稿します。


 未来を準備する仕事−−「れんだいじ」さんへ(1999.5.2日、吉野傍)
 前回に引き続き、「れんだいじ」さんの3つ目の投稿に対する異論を述べさせていただきます。

 「れんだいじ」さんは、「公明党率いる創価学会は、各地に会館造っているけど、共産党は紙爆弾ばかりで、労働者会館の一つも造っていない」と述べています。たしかに、創価学会は各地に信じられないほど立派な会館を建てています。しかし、貧しい学会員から財務と称してお布施を搾り取りながら、このような絢爛たるハコものづくりに精出す姿はまさに、この宗教組織の堕落と腐敗を象徴しているとしか思えません。共産党がこのような会館づくりに走らなかったことは、この党の最低限の健全さを示しています。

 「れんだいじ」さんはさらに、「資本家は、商工会議所とかロータリー・ライオンクラブで結束をかためているというのに。これでは勝負にならないでしょお」と述べています。立派なハコものとは別に、本当に一般民衆にとって必要な施設や組織づくりに関して言えば、共産党の右に出る政党はありません。

 たとえば、党員の医者や労働者たちが中心になって、戦前の弾圧のなか、および戦後の焼け跡のなかで、初期の無産医療運動から現在の民主医療へと営々と築き上げてきた医療運動は、今や全国に154の病院と410の診療所、82の歯科医院、429の準ずる医療施設、235万もの共同組織、3000人の医者と、1万3000人の看護婦、4万人以上の医療労働者として結実しています(98年時点)。見た目が豪華なだけの会館なんかよりも、患者の立場に立ち地域に密着し福祉切り捨てと闘うこのような医療施設と医療組織を全国くまなく作り上げることの方が、はるかに困難であり、はるかに有意義ではないでしょうか。この医療活動は、選挙での票獲得などという狭い目的のために存在するわけではありませんが、選挙においてももちろん、たいへんな力を発揮しています。

 さらに、阪神大震災のとき、被災者救済のために、現地の民医連の病院が、半壊状態になりながらもフル回転したのみならず、民医連は文字通り全国動員をかけ、日本中からカンパと手弁当で1万人以上の医者・看護婦・医療労働者・奨学生らを現地に派遣しました。彼らは、被災地の中を歩き回り、瓦礫の中から被災者を救い出して、無料で治療にあたりました。その中心を担ったのはもちろん共産党員です。また薬害エイズの運動でも民医連とそこに結集していた青年党員が大きな役割を果たしたこともよく知られています。

 共産党員たちが他の多くの人々と協力して地道に作り上げた組織は、もちろん、民医連だけではありません。商工会議所に負けずとも劣らない全国的な草の根組織として、民商・全商連があります。さらに土建組合、全労連、生協、等々、等々です。

 もちろん、これらの組織の現実は、それが掲げる理想や理念からは矛盾しています。多くの欠陥、官僚主義、そしてしばしば利益主義にさえ侵されています。それにもかかわらず、それらは単に現在の社会を転覆するテコであるというだけでなく、それ自身のうちに新しい社会の萌芽を宿しているのです。マルクスは、生まれたばかりの新しい社会はなお旧社会の母斑をとどめていると言いましたが、旧社会の中にとどまっている新社会の萌芽となれば、それこそ旧社会のあらゆる弊害にむしばまれることは避けられません。しかも、それを構成しているのは生身の人間であり、種々の誤りや欠陥やあるいは醜い部分をも必然的にともなうでしょう。したがって、これらの「民主団体」に対しても、共産党に対してと同じく、その構成員は絶えず、それの掲げる理念に照らして批判し、誤りを正し、欠陥を是正しなければなりません。とはいえ、それでもそれは、新社会の萌芽なのです。 発達した資本主義社会においては、その変革を志す組織は、単にその社会の転覆をめざすだけでなく、旧社会の中で未来社会の組織的準備をもしなければならない、ということについては同意いただけるでしょうか? とすれば、何十年もの間、無数の人々の血と汗と努力の結晶であるこれらの組織、施設、制度を守り発展させることなしに、いかなる革命も考えられません。

 以上のように私は考えますが、「れんだいじ」さんはどう思われますか?

 吉野さんへ返信いたします(1999.5.7日)
 吉野さんからのメール読ませて頂いております。返信したいのですが、折り悪く連休前から風邪をこじらせており、便りするスタミナが今一つになっております。そういうわけですのでご容赦ください。

 さしあたりのコメントだけさせていただきます。選挙の結果に一喜一憂して進退を問うのはいささかの趣との内容であるように受け取りましたが、私が言いたかったのは、議会闘争に重点を置くなら置くとして、その際の執行部の責任のとり方の有り様についてコメントしたつもりです。議員数とか得票数が伸びたら当然の如くに執行部の評価が高まるのもよいでしょう。反対の結果が出た場合の言い訳の仕方が気に入らないということだけが言いたかったのです。微増・微減の場合は良いでしょう。大幅減の場合には責任をとる体制が欲しいのです。これは、議会政治を重視した場合に発生する遵守せねばならないマナーのように私は思うからです。

 何と、このルールを原則的に守っているのは自民党だけなのです。通史で見た場合にそういうことが言えるのです。考えてみれば、自民党は出処進退のけじめが理にかなっています。派閥の存在の容認であれ、その規制であれ、総裁を目指しての権力闘争であれ、けっして完成されたものではないにせよ、これこそ民主集中制ではないかと思われるような離合集散と結束と責任のとり方をいたします。自民党を美化するつもりはありませんが、良きにせよ悪しきにせよ人間というものを総体として認識する方法において一番優れているんではないかと思わせるところがあるわけです。

 それに引きかえ、我らが輝ける希望の星日本共産党のカビくささたるや、ぁぁもう信じられない。居座る者も、それを許す者も、ぁぁ何たるお似合いか。念のため。日本共産党を誹謗する人たちの組織もまた同罪。

 吉野さんへ追伸(1999.5.8日)

 昨日吉野さんへご返事した効果か風邪の調子も良くなってまいりました。というわけで、本日もまたご返信させて頂きます。いわゆる「箱もの」についての論議になります。吉野さんは、創価学会の会館造りをさして評価してないようですが、私の考えは次のとおりです。

 マルクス主義の観点による宗教観は、宗教の哲学上の系譜を観念論として特徴づけることから否定的評価をくだすことになります。観念論と唯物論の区分認識が必要な理由は、認識の仕方によって実践上の指針が変わるからです。唯物論の見地からする実践対象は、いきおい環境を変えることに力点を置くことになります。観念論のそれは思いを変えることになります。

 この違いを判りやすくたとえれば、金魚鉢に入れられた金魚の活動能力を引き上げようとする場合に、鉢を変えたり飼料を変えるのか、金魚に因果を言い含めるのかの違いに相当します(この例えが適切かどうかは別)。そういう実践的な力点が異なることになるところから、マルクス主義者にとって宗教家は、社会運動上統一戦線の対象にはなりますが,認識ー実践論からすれば竜虎相打つ関係にならざるをえません。

 ところで、私が興味深く感じていることは、創価学会の各地への会館づくりは極めて唯物論的な発想であり、それに引き換え共産党の紙爆弾の発想は極めて観念論的なそれであるという逆転した現象であるように思えることにあります。考えてみれば,池田大作氏は極めて有能な社会運動家ではないかと思えることです。人品骨柄のことは良くわかりませんが、リーダー的能力においては戦後の怪物の一人であることは疑いありません。会館造りに大勢の血と涙の献金が要請されているにせよ、献金の運用に不正がないとした場合を仮定してのことですが、会館に憩う創価学会員の嬉々とした姿は関係者冥利に尽きるのではないでしょうか。正月にせよ、お盆にせよ家族ぐるみで利用している姿が見られます。リーダーとは、このように自らの陣営に組するものに満足を与える責務を負っているのではないでしょうか。

 ここまで云えばお分かりかと思いますが、それに引き換え共産党員の何たるマゾ精神の見上げたことか。党員として憩う場所も与えられず、いつも説教を聞かされて、駆り出されるだけの喜び、ぁぁたまらない。外に向かっては限りなくソフトに、中においてはやれ分派だ、日和見だ、中国派だの、ソ連派だのと云ってみんな追い出されてしまったなぁ。当面の方針については執行部に一致する必要はあるけれど、組織的には二枚岩・三枚岩の方が丈夫ではないかなぁ。

 お互い人生は有限で、実働期間はおよそ50年としたもの。ライフサイクルに応じた関わり方を生み出して、道中は苦しさも喜びもあってしかるべきではないかなぁ。もし、私がリーダーであれば、紙爆弾に使う費用の何分の一かで毎年都道府県市町村ごとに党員会館を造って、この「箱」の中では遠慮はいらないよという物質的空間を与え、議論にせよ、会議にせよ、集会にせよ、学習にせよ、みんなの嬉々として集う姿を見てみたい。させてあげたいなぁ。(公安がうるさいかなぁ。そういえば創価会館を創り出した頃から学会へのパッシングが強まったなぁ)


 本欄投稿者への対公安対策につい(1999.5.9日)

 『さざ波通信』紙上での論議参加に対して、公安(党中央もそうかも)が目を光らせている筈だから慎重にならざるを得ないのではないかという「さつき」さんの疑義と、主催者の応答がありましたが、本件に関して私の意見を述べさせて頂きます。

 そういうことは十分ありえることだと思いますが、だからといって本欄のような企画をなくすとしたら実に惜しいと考えます。もし、何らかの不利な影響を危惧して参加されないのであれば、それでよろしいのではないでしょうか。そういう心配を押しのけて、この欄の意義を見出そうとする人たちが任意に活用して、参加者同士に有意義なものが生まれるとしたらそれでよろしいのではないでしょうか。もともと革命運動そのものがそういう性質のものですから。

 不利益の一切を拒み、利益だけを声高に主張する精神は、我らが運動の原点においてなじまないものです。そのなじまない精神を受け入れるとしたら、何もしないことが唯一の方法ということになってしまいます。私が不思議に思うことは、戦前のような治安維持法下でもがんばった人たちがいるのに、その当時から比べると天国のようなこのご時世で何らかの不利益に惑わされて足踏みするとしたら、一体どういう条件が揃ったら、どういう世の中になったら参加されるのですかと逆に質問したくなります。

 もうひとつの観点はこうです。一体どう養生してみても「人生50年」(この場合、稼動人生として)ぐらいのものではないでしょうか。ながながと苦虫顔で生きるよりこの50年を充実させることこそ人として「生」に対する努めなのではないでしょうか。その際の公理はただ一つ、みだりに人様に迷惑をかけてはいけないということです。人のライフサイクル上人様の厄介になったりかけたりする時期もあるでしょう。但し、不惑の40歳を越え、天命を知る50歳にもなろうとすると、社会に対するご奉仕意欲が増してまいります。誕生から成長・円熟・世代交代と向かう生命の摂理からそうなるのが自然なようです。このライフサイクルを無視していついかなる時においても御身の保全に汲々とするならば、それこそ志操が違っていると考えます。

 かくいう私は、依然として食うに困り明日の不安を抱えたままの人生の只中にありますが、捨てる神あらば拾う神ありのおかげを頂きながら遣り繰りを続けることが何とかできています。有りがたいことです。この今有る生の充実を賭けて、私は本欄を活用しようと思っています。なぜなら、社会主義の理想は探求するに意義があり、今現在試練にさらされているとはいえ叡智を集めて止揚されるべき局面に有ると思われるからです。

 マルクスの時から比べて、科学は格段に進歩を遂げてまいりました。マルクス・エンゲルスの思想の優秀さは、その思想の中に当時の最新科学の成果を吸収していたことにあります。今、当時の予想をはるかに越えた科学的な新事実が次々と生まれております。これらの諸事実を今現在においてどう思想的に了解していくのかが問われており、この課題に正面から取り組むフィールドが用意されていないことを残念に思っています。恐らく、さざなみ通信は、そういう方向に向かっていく可能性を秘めており、だから貴重な通信と考えています。


 またまた一言(1999.5.13日)

 連日のように投稿しているのが皆様にとって良いのか迷惑なのか気にしながら、またまた投稿しようとしています。しかし、思うに、通信紙上の論議というものは任意にできる良い点はあっても、まだるっこいですねぇ。もう少し論議が増え、論点が増えるに応じて、課題別のコーナーを増やして欲しいですねぇ。ただ今は「日の丸・君が代」問題が別枠にされていますが、例えば、「民主集中制」についてのコーナーとか、「指導者論」のコーナーとか、「統一戦線」に関するコーナーとかいうふうに。

 ここまで書いたもんでついでに一言メールしておこうっと。みなさんの党活動で消耗させられた話を聞かされておりますが、本当にご苦労さんなことでした。(または進行形でご苦労さまです)さて、左翼運動がなぜ人を消耗させるのかについて意見してみようと思います。現象のあれこれを突き抜けて本質的にその理由を求めると、左翼思想、とくにマルクス主義が極めて人為的能動的な理想主義であることに原因があるのではないか、その理想主義と現実の個々のわれわれの生活実態ないしその意識とが乖離しており、この乖離を埋め合わせるのに十分な知恵をもたないまま、運動体として活動していることに消耗がもたらされるのではないかと思っております。

 私は、この欄を活用していることからしてマルクス主義を誹謗しようというのではありません。あえて云えば、生粋のマルキストに比べてややマルクス主義を相対化させて理解しようとしているという違いは有ります。私の眼にはマルクス主義の限界が映じておりますが、人類の頭脳が生み出した諸思想の中でも良質的なものとして同時に受け止めています。ただし、マルクス主義の理想性を実際に運用または応用する時に方法を誤れば少々危害が有るとも認識しています。だから、マルキストにおいて最優先に重要なことは、党組織とその発する運動体の「柔軟性」であり、指導者資質の要件に対する共同構築と新陳代謝の重要性に対する相互の認識であり、けっして組織盲従性を導入させてはなりません。

 しかし、歴史の実際はスターリニズムにせよ(最近ではレーニニズムまでさかのぼる見方も生まれています)、毛沢東主義にせよ、近いところで宮本体制にせよほぼ共通して独裁体制に行き着いてしまっています。それらの独裁体制がなぜゆゆしき欠陥かというと、近代民主主義が獲得した反対派の処遇に対する一定の配慮(逮捕し取り調べても無条件に命までは取らず、罪刑法定主義の枠内で処遇するという水準)をいともたやすく反古にしていることに認められます。ブルジョワ民主主義の形式性・欺瞞性を指摘することは容易ですが、拷問のない監獄と法定主義は、人類が生み出した知恵であり、少数の反対派を迫害しない精神と同様に守り抜かなければならない地平であると考えます。プロレタリア民主主義というものが生み出されるとしたら、ブルジョワ的なそれが獲得した良質的なものをさらに発展させたものでなければおかしいと思います。

 宮本体制はそうひどくはないと考えてはいけない。いまだ国家権力に到達しない党内権力の掌握者でしかないから限定的であるだけで、仮に今明日にでも権力を握った場合に、民主主義的な諸原則をどこまで遵守しえるのかという点になると心もとない気がします。なぜなら、この種の論議と作風の確立が現に為されておらず、今後も為す気がないみたいだし。戦前・戦後から現在に至る反対派の締め出しの仕方とか、遠いところ近いところでの「査問」において今現在も極めてご都合主義でしかないのだから。こういうものは一朝一夕に確立する訳にはいかないでしょぉ。

 最後に。どうも納得できないことは、いわゆる左翼の人たちは、犬の遠吠え、猫・猿のひっかき合い、熊の冬眠ばかりで、なぜお互いに議論の一つも共同構築できないのかなぁ。戦後は、治安維持法もなくて、おいそれとしょっぴかれる訳ではないと思うのに。左翼教条主義というのでは決してなくて、むしろ左翼狭量主義とでも云えるようなへんちくりん。

 いつも投稿ありがとうございます。今後も、ご遠慮なく投稿して、投稿欄を盛りあげてください。それと、課題別の討論についてですが、実は、私たちの方でも、投稿数がもう少し増えれば、そういう形でより具体的な討論をしたいと思っています。(編集部)

 新たな論点を提供します(1999.5.6日)
 思ったより低調な『さざなみ通信』ですが、編集部より、遠慮せず賑わしてくださいとの暖かいエールをいただきましたので、またまた投稿します。「君が代問題」ではこれ以上論議が起こらないような気がしますので、私が温めてきた格好の論材を提供します。

 それは、「田中角栄論」です。彼をどう観るかはすぐれて現代的なテーマであると私は思っており、皆様のご意見を承りたいと思います。言いだしっぺの責任として論点のいくつかを提供しておきます。
(1)庶民宰相としての栄光と悲哀と政治的限界について。
(2)上記に関連して氏の政治家としての有能度について。
(3)氏の失脚経過の諸問題について。
(4)氏の失脚と現在に至る諸影響について。
(5)氏のパフォーマンスとその評価について。
 およそ以上のどの論点からでも結構ですので議論したいのですが。

 私は、どなたかが氏に関するホームページをつくってくれるのを期待しているのですが今のところ見当たりません。私がいつの日にかそういう能力を身につけたならば開設したいと思っているほどに、彼に関心を持っています。今なぜ田中角栄なのといぶかる人が多いかと思いますが、彼が良くも悪しくも戦後という時代の特徴を一身に体現しており、そういう意味で今に有効な時代の特徴を読み取る格好の人物であるということを理解すれば納得していただけるかと思われます。いずれにせよ、戦後という時代が生んだモンスター政治家であり、日本史上に輝く「能く生きた100人列伝」の一人に入ること疑いなしと思っており、そういう感性または認識を共有したいのです。むろん反対の観点からの彼の評価論も歓迎いたします。

 なぜ、こういう提案を申し上げるのかというと、日本左翼の閉塞状況を解き明かす鍵がそこに秘められているような気がしているからです。彼の存在に比べて、新旧左翼の何とちまちまとしたお利口ぶりっ子たることか。爪のあかでも煎じて飲ましてあげたい。

 もとい。彼の生きざまを丸ごと評価する必要はありませんが、そのあふれでるリーダーシップは、イデオロギーを越えて下手な左翼より左翼的な面をも持っていたように思われます。だから失脚させられたのかも知れない(いやほんと)。確かあの時は評論家がえらい張り切っていて、党の御大宮本がいつになくしゃしゃり出てきたなぁ。右翼も罵詈雑言してたなぁ。労組も目白邸を、こともあろうに御用ちょうちん持って包囲したなぁ。得体のわからん新左翼風の団体もにわか仕立てで出てきてチラシ配ってたなぁ。裁判官と検察ががっちり握手して「三権分立」なんのその屁の河童だったよ。えらいこっちゃ。マスコミが後押しどころか煽り続けてたよ。みんな仲良しクラブなのかなぁ。地元のアナウンサーまで調子に乗ってたわ(やっぱりやめた。このテーマはまだ生臭い。もう少しそっとしておこうっと。と思うのにボタンを押す)。

 (Kミナト−吉野)論議について(1999.5.17日)
 Kミナトさん、吉野さんこんにちわ。連日の投稿で少々オーバー気味かなと思っっていたところ、私の発言をめぐって吉野さんとKミナトさんのやりとりがなされており、私も当事者の一人であるからして拝聴するだけでは具合が悪くなりました。そういうわけで本文を送らせていただきます。

 Kミナトさんと年代が近いということは70年前後のあの頃の雰囲気が共有できているということでしょうから、問わず語りに分かり合える部分も多いと思います。吉野さんにも親近感を覚えています。したがいまして単刀直入にご意見させていただきます。

 まず、吉野さんの言おうとしていることを整理します。青春を賭けて獅子奮迅の党活動してきたが、現在の党の在り方とか執行部の指導方向について疑念を覚えている。その疑念については私と共通する部分もあるが、同調できない面もある。同調できない部分としては、産みの苦しみの道中だからいろいろあるだろうが、党の歩みをもっと巨視的・長期的に俯瞰し、着実に前進している側面にも目を向けるべきではないか。選挙の結果に対しては、その時々の票または議員数の現象的変動をもって執行部の責任を問うのではなく、今かりに微増しているかに見えるこの局面において問題が山積しており、正すべきは正していかないと旧社会党の二の舞いになる恐れがあるという趣旨であったように思われます。吉野さんの姿勢は現役党員としてのものでもあり、党活動の全般としては支持しているというスタンスにたった上で、現執行部の指導方針とは一線を画しつつより原則的と思える方法で着実な党活動に取り組むんだという決意表明でもあるように思われます。

 これに対してKミナトさんの意見は、かっての党員という気安さからか言いたい放題の感があります(鋭い部分も有ります。よいしょっと)。一つは、吉野さんの思考方法が、本人が消耗したという「積み木理論」の呪縛から解き放たれていないという指摘であり、「積み木」の内実を凝視すればそれぞれの「積み木」はある種の利権団体に堕落してしまっているではないかという批判。一つは、マルクス主義の理想は良いと思うのだが、例外なく独裁に陥った過去の経過からみてマルクス主義そのものに何らかの欠陥が宿っているのではないかという意見であり、後一つは、運動論的に現在の党活動の縦割り垂直型指導よりも、課題別に即応する地域横断的な水平型の運動の方が良いのではないかというアイデアを持っており、この件に関して討議しようという提案であるように思われます。

 このお二人と私の間には相共通する心情がありますが、観点には少々異なるものがあります。まず、マルクス主義をどう把握するのかという点について。私は、基本的スタンスとしてマルクス主義を史上極めて有益かつ良質な思想であると考えています。ただし、その限界もあちこち見えてきており、早急に止揚されるべき局面を迎えているとも思っています。

 その根拠の一つは「遺伝子理論」の登場です。今やマルクス在世当時には予見できなかった生物遺伝子の存在とその働きの様子がしだいに明らかにされつつあり、この「遺伝子理論」によれば、遺伝子は生命の連続体のうちに過去の様々な環境適応の様子を情報としてインプットしているということです。もしそういうことになると、マルクス主義の理論的骨格をなす唯物論と観念論の二大区分という定義そのものが根底から見直されねばならないのではないでしょうか。そう思うのは私だけかなぁ。このような科学的新発見が続々となされつつあるのに、マルキストの側からの思想的な格闘がなされていないように思われます。

 私の考えはマルクス主義が間違っているというのではなく、マルクス主義の最大功績は「唯物弁証法」の発見にあり、「唯物弁証法」はあの時代における最新最良な認識手法としての発見であったとみなした上で、現在はその後の諸科学の成果の上に立って現在なりに止揚される局面にあるのではないかという見方をしています。止揚という言葉は、便宜的な貼り付けでは済まされず、新しい脱皮が望まれているという意味で使っています。このような重要な事柄がなおざりにされているのは、個々のマルキストのマルクス主義の本質を理解していない主義者としての怠慢であると考えています。

 なお、このような怠慢を党が助長しているともみなしています。現在の党の思想教育は、党員が自分自身で考えるという作風を育てるどころか押さえ込んでいるからです。マルクス主義の古典的文献を読まそうとするのではなく、換骨脱胎どころか小骨三本ほどしか残滓していない党の指定文献を薦めています。これは重大な「執行部帝王主義」であると考えています。「帝王学」とは、帝王および取り巻きの一部エリートに統治術を教える学問であり、もともとマルクス主義はそのような統治術の対極にあります。マルクス主義は大衆に学ばせ、大衆が育ち、大衆の叡智で自主管理社会を創造させようとする観点をもって生み出されたものです。ああ何と似つかぬ世界に入り込んでしまったことか。この似つかぬ党の姿が露わにされるのを恐れてか、はたまた大衆にはそしゃく能力が無いとでも思う思い上がりか愚民政策がとられているような気がしています。

 吉野さんの党の内部からの改革を引き出そうとする努力に水をかける気はありません。ただし、組織というのは長期化すればするほどトップリーダーの諸能力・性格・気質に似せて染まってしまうものです。私見によれば、現在の党は宮本体制に私物化された党と思っています。私物化とは、当人にオールマイティーで他の人には規制が多く当人の顔色をうかがいつつでなければことが進まない状態というのがメルクマールです。

 宮本体制が不破体制を生み出し、志位書記局長まで肌合いの似たものが続いております。体制というのはみんなに悪いというものではなく、どんな体制であれ相性の良い人と悪い人に分岐し、トップの個性に似たものを幹部に寄せるという習性があります。問題は、相性の悪い同士をどう処遇するのかに知恵がいるのです。切り捨ててばかりでは党の成長はなく、最新の医学理論においてもガン細胞でさえ共存させ免疫力をつけるのが肝要という理論が生まれつつあります。吉野さん、そういえば『さざ波通信』の編集部の皆さんの立場もそのようですが、果たして党改革はうまくいくかなぁ。(途中ですが、長くなりますのでこのあたりで失礼します)

 公的個人批判と私的個人批判の差異について(1999.6.15)

 私の投稿の内容に対するご批判かどうかよくわかりませんが、党の執行部の個人に対する批判はよろしくないという意見がなされています。この件に関しまして私なりの考えがありまして以下発言させていただきます。

 私は、宮本−不破体制を信任する立場に立っておりません。そこで自然に批判的言辞を多用することになりますが、当然のことながら個人としての宮本氏なり不破氏に対して恨みつらみを言っているのではありません。この両氏と私の接点は何もなく、チラリズム的に私が垣間見たことがあるというそれだけの関係です。したがって、個人的な好悪の感情が生まれるはずもなく、実際に膝を交えれば親交の誼が沸くことも可能性的にはありうることです。にもかかわらずなぜ私が宮本−不破体制批判を口走るのかというと、批判は彼らの公的立場に対してのものであり、そういう角度からなす批判は運動論的に見てまったく正当であると思うからです。むしろ、この私的なものと公的なものをごちゃ混ぜにして擁護したり批判したりすることが通例多過ぎており、その方がおかしいのではないかと考えています。確かに帰属意識でかばい合い的に対応することは本能的なものでもあり、処世法としても賢明かつ当たりさわりがないなのかもしれません。

 が、そのような水準からいち早く一歩抜け出てきたのが近世のアングロサクソン民族系の個人主義の精神発達史であり、逆にアジア的停滞とは原理的に見て依然として身内か否かの物差しにより世事に処していく作法のことをいい、私は、アジア人ではあるものの個人主義の精神発達史の洗礼を受け入れようとしております。なぜならアングロサクソン系のものであろうと何であろうと良いものは良いからです。人類が長い間かかって獲得した知恵と思うからです。

 政党であろうと会社組織であろうとトップに可愛がられること、トップを奉る精神を持つことはお互いにメリットのあることです。しかし、盲従とか追従とかゴマすりで誼を得るのと信頼関係で結ばれるのとは値打ちが違うと考えています。ちなみに、私は、公的批判を公的批判の原則にのっとって行なおうとしています。よくなされる作法として公的批判の場にプライバシー的な私的観点を持ち出して公的批判へとすりかえていく手法がありますが、私はそのあたりにおきましてもわきまえを持っているものと自負しています。一般に歯に衣着せて物言うと、紳士的ではあっても何を言っているのかさっぱり要領を得ないという面もあります。ここは討論の場ですから明確に発言することの方がふさわしいとも考えています。公的なことに関してはっきり物言うことは必要な精神とも考えています。円満和合を重視する日本精神とはなじみにくいものがありますが、やはり良いものは受容していくべきではないでしょうか。最も調子に乗り過ぎてはいけない面もあるかと思いますので、このあたりにはいっそう神経を使おうとは思います。

 なお、私は、『さざ波通信』参加の禁止要件でもある党の破壊を促そうという意志を持つものでもありません。私がまず体を張って拙い意見を申し上げ、これを元手にしていただいて私の認識をも含めて良き作用につながれば良いという願いを持って参加させていただいております。そういう観点から宮本−不破体制に対してご意見申し上げているということでご理解賜れば幸甚です。以上弁明いたしたく存じます。

 では、宮本−不破体制の何を批判しているのかということについて明確にしておこうと思います。運動体としての党の戦略・戦術に対して意見しようとすれば際限がありませんので、ここでは原理的なことについて批判させていただきます。過去の投稿でも指摘しておりますが、宮本−不破体制がマルクス主義の本当の財産について意図的かどうかは不明として逸脱していると思えることにあります。

 マルクス主義は、大衆に学ばせその能力を高めその力で自主管理社会を創造させるためのすぐれた理論として生み出されていることに値打ちが認められます。マルクス主義以前の統治術は、一部特権的な有能エリートのリーダーシップに期待する帝王学教育をベースにしており、その範囲内でああでもないこうでもないという様々な理論ないし手法をめぐって、はやりすたりしてまいりました。そういう意味では、マルクス主義において初めて、圧倒的多数を占める大衆そのものの政治意識を高める手法の道が開かれたわけです。さらに言えば、単に大衆というのではなく生産階級に着目し、誰が真に利潤を生み出しているのかそのより合理的な分配が可能ではないのかという観点から社会変革を促そうとしたことにも重ねて意義が認められると思います。なお、社会変革が必要なわけは、精神的なものも含めてこの世の悩みのほとんどが社会体制の歪みから発しているという透徹した認識に支えられているように思います。このような基本構図がマルクス主義の財産であり、個々の理論は時の流れにおいて修正されたり発展されたりしながら変容していこうとも、燦然と輝くゆえんだろうと思われます。

 であるとするなら、党の指導者の最重要な仕事は、そのようなマルクス主義的な観点を鼓吹し続けることにあり、党につらなる者の政治的感性を螺旋的に磨いていくことにあり、時の課題一つ一つの対応にしても、そのような角度から運動を組織していくべきものと思われます。とはいえ、オールマイティーな人はいないわけですから、今はやりの言葉で言えば指導する人もされる人も「共育」されようとするシステムづくりが大事なのではないかと思われます。すでに戦後五十年を経過しております。わが国は世界に冠たる人権保障がなされた民主的な憲法を戴いております。もし、党がマルクス主義のそのような財産に忠実に今日までを経過させていたなら、今時分は全国各地で「ええじゃないか」運動が生まれていたり、幕末のあの頃に劣らずのイデオロギッシュな人物が全国に輩出しているものと思われます。

 では、なぜ左翼運動が停滞しているのかについて意見してみたいと思います。一つは、マルクス主義そのものに理論的な不備があるのかもしれない。マルクス、エンゲルスも文系理系の世界のすべてを解析できたわけではなく、あの時代に傑出した最高レベルの数多くの哲学者・思想家・社会運動家との論争を経ながら「解釈から実践、変革へ」という社会観の樹立にエネルギーの大半を費やしたわけでしょうから。そうであるなら、党は、責任を伴う政権党になろうとするなら、自らの運動的経験のみならず必要な都度都度において謙虚に各界からの知恵を借りながら理論的な深化とその検証をしていかねばならず、そのような態度こそマルクス的ではないのかということになります。

 ところが、実際にやってきたことは目を覆うばかりのその反対のことばかりではないか。丸山批判にせよ、実際のところ丸山氏の見解の良し悪しをあげつらうのは半分の仕事であって、残りの半分は彼が何に疑問を呈してどう理論的な貢献をしようとしているのかという問題意識を汲み取ろうとする態度が必要であったのではないか。中野氏のときもそうだった。彼を葬る際の決め手に、戦後になって宮本氏にかっての転向を詫びに来たとかのいきさつを曝け出すという手法を持ち出すとは、何とも品がないではないか。とにかくにも権力の最高のポジションからそれを傘に着て何やかや相手の半端性をちくちくいたぶるのが常套手法であり、半端にせよそこまで辿り着いたという弁証法的評価をなそうとしない。多くの文化人・知識人が離れていったが、その彼らの側に問題が多い場合もあったであろうが、宮本−不破体制には無用な整風化を好む傾向があるというのも実際なのではないか。これでは人が寄るどころか逃げていくわな。イエスマンしか残れないですがな。

 一つは、これは左翼全体の風潮とみなせますが、とにかく志操が低い。こんな調子では新旧左翼のみならず新新左翼が出てきても同じと思う。今問題にされている「国家の従属規定」にせよ、理論を深めるための共同テーブルに着こうとしない。見方が分かれることはいたし方ないにしても擦り合わせは必要ではないのか。お互いが吼え合うばかりのこの現実はとうていいただけない。宗教者の場合には一足早く垣根を越えたシンポジウムが開かれつつある。我らが左翼は、その前に独り善がりのええ格好しぃと寄生虫的な手法による批判先行と罵詈雑言と暴力と利権を守ることに精力を使い果たしてしまう。これでは労働者は逃げていくわな。労働者は明日の生活がかかっているから、そんな連中の運動にいつまでも関わる暇と余裕がないではないか。私の眼の黒いうちに、左翼サミットでも開いてくれないかなぁ。今の世界をどう規定するのかとか日本はどうなのかとか、どう闘争に取り組むべきかとか、その成功事例はとか、大衆闘争と議会闘争の関連のさせ方はとか、社会主義的な諸施策の有効度はどうなのかとか、労働意欲と報酬はどう組み合わせれば良いのかとか、どうして熱い論議がなされないのかねぇ。排除の論理が多すぎるわ。

 一つは、これも前に書いたけど、何で左翼は唯物論的に市民開放型の左翼会館つくっていかないの。他のものは費消されると残らないけど箱物は残るでしょうぉ。費用対効果はこの方が高いと思うけど。歴史は夜生まれるというぐらい、昼間の片時の真面目な話からよりも良い味が生まれる場合もある。そこへ行けば世界史から日本史までも含めて人民史観とも云うべき観点からの歴史の閲覧ができて(教科書の検定批判で文部省とやりあうのもいいけど、自前でつくったらどうかね)、向こうの会議室では何かの課題をめぐって話し合いがなされており、別の会議室ではまた別の、あちらには中共派がいたりソ連派がいたり、暴力さえ持ちこまなければ他の党派がいたり宗教者もいたりとか…。そういう左翼風会館づくりなら、なけなしの金をはたいてカンパを惜しまないけど。

 と、以上いろいろ書きましたが、別に個人的な恨みつらみではないということが判っていただきたかったということから始まり、あれこれ発言してしまいました。執行部には「公」的な責任があるのであって、その重責に耐えられなくなったり、感性に衰えを感じたら新陳代謝するというのが組織発展の弁証法だと思うから。今の党の姿は何かと歯車が違うのよね。コメンテーターとしては優秀な人が多いと思うけど。


 宗教と性に関する雑感(1999.9.11日)

 「宗教の社会的根拠」と「性」の問題に出くわしています。なかなか論旨がまとまりませんが、ええいままよという気持ちのまま投稿させていただきます。

 最初に。難しいテーマの場合いつも思うことですが、はたして世の中のことについて分かっていることと分からないことの割合について、私は、わかっていることの方がはるかに少なく、わずか数%にすぎないのではないかと考える方が良いのではないかという認識をしています。これは立証できるわけではありませんので、そのように単に考えているということにすぎませんけれども。

 「性」についてもそのように考える方が良いのではないかと思っています。セクハラ行為は良くないにしても、性道徳についてあまりに公式風な行儀良さを考えて一生を過ごすことがより人間的であるのかどうかについては疑問があるというべきではないでしょうか。「性」とは、「りっしん」篇が「生きる」という字義から構成されていることからも明らなように「人の生」の重要な要素であって、「生」の哲学的意味が未解明なように「性」の問題もまた安易な解答を許されざる多義多様性があるのではないかと考えるのが普通ではないでしょうか。古代より今に続いてなお歌謡曲や文学や芸術において「性」がデフォルメされていることには相応の根拠があるように思われます。類人猿仲間のうちで人間が突出して性器を肥大させているという特徴があるという事実とか「パンツをはいたエロ猿」的認識も考慮されてしかるべきであるように思います。

 むしろ、大宅壮一風に「下半身には人格がない」(確かそのように大宅氏が言っていたと聞いたことがあります)と割り切って考えた方が良いのではないかと思うわけです。つまり「下半身問題」について判ったような物言いすることは戒められるべきではないかということです。その方がかえって人間らしい心得というか、たしなみであるように思います。例えば、性の行状の良い政治家・歌手・相撲取りと悪いそれらがいたとして、時に悪い方が良い仕事の出来ぶりを見せる場合があります。これをどう了解すべきかという問題があります。

 マスコミ的世間の物差しは、仕事の出来不出来以前の問題として下半身の人格を問う傾向にあります。マスコミのこの傾向は一見下半身問題を優先しているという観点に拠っているように思えますが、実はそうではなく単にゴシップ系が視聴率稼ぎに具合が良いという経験的事実によってもたらされているものと考えられます。

 これを単に低俗として退けるのではなく、それだけ人は皆「性」について関心が深いということをマスコミがよく知っているというそれだけのことではないのかと思い直しています。つまり永遠に未解明かつ好奇な難題として「性」の問題があるのであって、こうした関心の持ち方を遮断して安易な公式を人様に押しつけるのはやや無理筋ではないかということです。

 この方面はやや一服させておいて、人はやはり本業においての仕事ぶりが問われたり、評価されるべきなのではないかと思われますがいかがでしょうか。付言しますが、私はセクハラ的行為は認めません。なぜなら、地位利用による弱い者いじめを通じた傲慢さと卑屈さを嗅ぎ取るからです。そういうものについては男女どちらからであれ戦うべしと考えています。他のことは「いろいろやってみなはれ」と思ったりしていますが、この種のことはかなり進退が難しく苦悩を余儀なくされることも知っておくべきかという苦言をおせっかいながら言い添えておこうと思います。

 さて、「宗教の社会的根拠」について考察してみたいと思います。実は、宗教には「性」の問題がまといついています。宗教とは、頭脳を中途半端に発達させた神ならぬ身の、「性」も含めた悩み多き諸人の精神安定剤としての役割があります。悩みの大半には「性」ともう一つの生業(なりわい)的な「生」が占めており、この両面を集合的に規範的にコントロールするものとして宗教が生み出され、「性.生」生活の羅針盤的な役割をしてきているのではないかと思われます。つまり、宗教とは、元々それぞれの部族の中から産み生み出された環境適合的な「性・生」の調節規範であったのではないでしょうか。そういう意味では極めて合理性があり、それが歴史が下るに従いこまごまとしたことについてはそれぞれの下位法に道を譲り、しだいに道徳的規範または風習的な要素のみを「純粋形式化」してきたのが宗教の歴史と言えるのではないでしょうか。

 ちなみに、宗教の「純粋形式化」を弱いものと考えてはいけない。元々それぞれの部族から始まった五萬とあった各宗教自体が淘汰され、部族から民族への転換に対応しえた普遍性を持つことに成功したもののみが今日存在しており、この間これらの諸宗教は他の宗教を包摂していったのであり、してみれば今日存在する諸宗教は歴史の風雪に耐えたそれぞれ勝ち残り組のそれであり、今においても生き生きとした役割を果たしていると考えられるべきではないかと思われます。

 特に黄金律理念の場合、否定しうべくもない論証不要の生産的とも言えるテーゼのように思えたりします。例えば、「汝の欲するところのものを他に施せ」とか「天は自らたすくる者をたすく」などの命題はそのようなものの最たるものではないでしょうか。以上長口舌になりましたが、宗教を馬鹿にしたり軽視してはいけないということが言いたいわけです。

 日本においてはなぜかこの認識が通じない。思うに、日本教とも言うべき神道の融通無碍性にあるのではないかと思われる。例えば、日本の多くのインテリは、「科学」精神とは反宗教的精神的なものであると考えているように思うけれども、しかし、これは世界に通用する見方かというと必ずしもそうではない。「科学」的精神と宗教精神とは両立しえるものという認識の方が大勢であって、「科学」の万能精神は日本教的風土とマルクス主義的世界観にのみと言ってよいぐらいの少数派が護持していることが知られねばならない。この検証は長くなるので、そういう見方があるということが確認されればそれで良い。

 では、どちらが正しいのかというと、私は「科学」と宗教の併存に軍配を上げたいと思う。おぼつかないながらその理由を挙げると次のように言える。「科学」とは常に解明されつつある発達上のプロセスのものであり、どの時点においても突き詰められた「真理」というものではない。それとどうやら「科学」自体は規範を生まないし、それが科学の科学たる所以のものであると思われる。他方、われわれの個々の人生は稼働人生50年の不安定な有限の中にある。「科学」からは大いに学ぶべきだが、すでに述べたように「科学」は到達された「真理」ではないし、規範を持たない。その空隙間をどう埋め合わすべきかということが問題となる。ここに宗教的規範が入り込んでくる合理性がある。人生には人それぞれ祈ってどうなるものではないけれど、祈らざるをえないという局面がある。こういう分野にもいずれ科学のメスが入るかも知れないけれども、その間生きとし生ける者の行状としては神への祈り的なるものとしての対話が有益なのでは無かろうか、と思う。宗教には人類史上検証済みの民族の智恵の宝庫が詰められており、「科学」的精神と時に相和しつつ時に衝突しつつも頼りになる精神安定剤であり羅針盤となりえるものではなかろうか。

 そうした宗教が持つ生命力に対して、マルクス主義がはたしてその地位を取って代わることが出来るほど内容豊かであろうか。私は、やや疑問としている。マルクス主義的な「ものの見方・行い方」は、特に「社会という質」についての過去にないユニークな認識を基にして貢献大なるものがあるが、それで人類が抱えている諸問題のすべてを解けるというものではないのではないか。特に「性」についてなぞ何らかの公式をつくろうとすればするほど自縄自縛になるのではないのか。

 私が問題にしたいことは、マルクス主義的な世界観でさえかなり「属人的」なのではないかということである。「属人的」とは人それぞれによって異なるということであるが、マルクス主義的な世界観といっても実際には各自の「気づきの総体」のようなものとしてあるのであり、「一枚岩的世界観」の構築なぞ無謀というものであり、「一枚岩的組織論」なぞも同様なのではないのか。革命というものが真に必要とされる対象は、体制的な枠組みをめぐってのものであり、個々の感性とか道徳まで規制しようとするのは恐れ多いことではないのか、と思う。

 最後に。書ききれる力がありませんでしたが、宗教が体制支配のイデオロギーとして利用されてきている側面も見逃すことはできないことは事実です。とすれば、マルクス主義者の課題とは、「性・生」的なエートスの分野にまでその論理を非公式的に生み出していく能力が必要とされており、その時にこそ初めて宗教が揚棄されるのではないでしょうか。今はまだまったく駄目と考えています。


 党本部建設問題について(1999.9.13日)

 吉野さん、こんにちわぁ。「党本部建設問題」についての吉野さんの投稿拝見いたしました。「箱もの」については従来それを重視するよう意見してきた手前、少しコメントしたくなりました。
 
 「党本部建設」についてはいずれそういう時期が来るのですから、このこと自体は「いつ、どういう方法と規模で」やるのかという問題になると思います。そういう意味では、「この時期と募金方法と規模がそれぞれ適正なのか」という問いが肝心なことであり、できえれば党内論議で下から積み上げする方が自然なのではないかと思えますが、そのような形跡があったのでしょうか。自前の費用と募金で建設するといっても、元をただせば党員から捻出されたものであり、今後の手当もそうなのでしょうからタックスペイヤー的意識で党内論議を要求することは当たり前のように思いますが。

 問題は、党本部ばかりではなく、今後少なくとも都道府県単位に党会館がつくられていくことが前提にされていなければおかしいのではないかということにあります。このあたりはどうなっているのでしょうね。党本部建設で身動きできないようなプランであれば、根本的な見直しがされないと不自然のようにも思います。

 私が「箱もの」の必要を主張しているのは、本部の人間に良かれとはまったく反対の意味であって、地方地域の党員が何の楽しみで党活動しているのか可哀想なように思って(私が知りえている党員の日常からうかがえる様子を根拠にしています。実際には欣喜雀躍しているのかも知れず、やや推測気味です)、私が執行部の一員であれば創価会館のようなものをつくって党員の桃源郷をつくってあげたいなぁと思うがゆえに提言しているわけです。党員でもないのにいらぬお節介焼くなと言われそうな気がしますので、これ以上の発言はさし控えます。

 げじさん、こんにちわぁ。それにしても、私と同じ党外の、熱烈党支持者げじさんには困ったもんですねぇ。繰り返しますけど党員になって頑張ってみればよろしいのに。元党員で現在党外にあって熱烈党支持者という構図が理解しかねますねぇ。不自然ではないですか。あたかも党員外という岩陰から党熱烈支持という紙鉄砲飛ばされてるようで、当たっても当たらなくても気持ちがぬるぬるする。いっそのこと岩陰から出られればよろしいのに。党を愛するその気持ちに拍手拍手を送らせていただきますが。

 江戸の昔から「民は知らしむべからず、拠らしむべし」という統治術がありますが、そういう統治術のかごの中に入るのを御免こうむろうとしたのがそもそもの民衆運動の原点なのではないですかねぇ。江戸期の「おかげ参り」には、神仏敬愛という体制側も認めざるをえない名目で、「ええじゃないか、ええじゃないか」と乱舞していく運動の裏で、諸国の実状に対する情報交換をし合っていたという民衆のエネルギーがあったんですよねぇ。それは分断統治に対する枠抜けの智恵であり、天晴れな行為ではなかったかと思われます。

 『さざなみ通信』にもそのような作用がありますが、それを良くないと言う感性は統治者側のものであり、そんな臭いがするがゆえに川上さんのみならず「げじげじさんは何者か」といぶかる訳で、それは当然でしょう。パソコン通信の発達は、政治から経済・文化まで既成の仕組みを大きく変えつつあります。産業革命以来の大変革を社会にもたらすことが必然と思われます。『さざなみ通信』も、こうした流れに沿った「さざ波」であり、それは良いことではあってもその反対ではないでしょう。


 「結社内の言論の自由」について(1999.9.16日)

 げじさんといいメモさんといい、次から次とこの種の人材も尽きないものだなぁと感心させられています。編集部の皆様もまじめな方ですねぇ。まともに応対するからいけない。『さざ波通信』は、「開設にあたって」で趣旨とか投稿要領を明確にしているのですから、趣旨賛同の方のみご利用下さいの一言で済む訳ですよ。「『さざ波通信』を止めよ」という趣旨の投稿に対してはいちいち取り合わなくても良い。お気に入りのショップへどうぞと言えばよいだけのこと。そういう投稿文はボツにしてもよい。掲載すること自体充分な誠意ですよ。結論的に言って、『さざ波通信』ショップを利用しようがしまいが皆さん自由なのだから、気に入った人が出入りすれば良いのであって、気に入らない人は望みのショップ、例えば党じきじきのショップを見つけるか自身でHP開設すれば良いのです。参加しながらこんなHP無い方がよいとか規約違反だから止めなさいという意見を述べ続けるのはやんちゃな精神という他ない。

 『さざ波通信』が規約違反だというのであれば、少なくとも主張者が党員でなければ資格がない筈です。党員でない者があれこれ言う精神構造が理解不能です。成り行きを見守るのが普通の感性的な筋であり、論調がおかしければ反対意見を述べればよいのであって、もっと筋論に立てば、党中央に対して見解を仰ぐというのが支持者レベルの対応としての限度であって、『さざ波通信』編集部に閉鎖を指示するような意見を述べて恥じないぶしつけさにはシカとするしかない。編集部の方はまじめ過ぎる方だから美川風に「オダマリッ」とよう言わないんですよね。案外とそういう主張で楽しんでるようだからおおように受け止めてるけど、本気で言っているんだったら東チモールの「民兵」さんの意識に近い人かも知れないなぁ。

 支持者が党中央に伺いを立てるのは自由でしょう。そして、党中央は、この種の事つまり党員の自由をどのように制限すべきかについて理論的解明を行う必要がある。

 私に言わせれば、政治結社はそれを公然結社にした瞬間から市民法の制限を受けざるを得ない、と思う。市民法が市民的自由を認めていないのであれば違法性覚悟で市民的自由を求めて戦う必要があり、市民法が認めておればその逐条を遵守したり鼓吹する義務がある。本件の場合には新種のインターネット的な表現の自由又は結社・集会の自由あたりが該当することになる。たまたまかどうか日本国憲法は世界に例を見ない程先進的にこれを保障しているのだから、それを良しとする政治結社としては、この傾向を擁護し実質化の方向に働きかけることがむしろ必要である。少々ややこしいのは、市民的自由等の拡大を求めて活動する結社内の組織員に市民的自由が制限されるのはどのあたりまで適正かという笑い話のような課題が問題にされねばならないということにある。いかなる理屈をこねまわせばそうした自由を制限できるようになるのかとくと耳を傾けてみたいと思う。

 日本共産党は既に陰謀団体でもなく、非公然結社でもない。革命理論も、社会主義に向かうのははるか彼方のことであり、しかもその時の人民が決めれば良いというほぼ前衛的な働きかけを放棄した観のある運動理論を掲げている。実務的には議会という舞台での話し合いにより、諸施策を検討していくというチェックマンの立場を目指している。それならそれで合法活動のあらゆる場面・方法においてお手本的に党内にも議会的な討論の自由を認めあい、党員同志を自主的能動性のリンクで組織し合えるような方向へとリードしなければ言行不一致ということになるのではないのか。なぜか知らないけれど、歴史的傾向性として党員まとめて一蓮托生で自由を狭めようとする方向に努力している気配がある。崩壊した共産圏国家はそうした結果のように思えるが経済は遅滞し、政治的自由は帝国主義国家のそれより狭かったという現実が問題にされていたというのに(中共では、未だに即日に近い銃殺刑が最近も報道されている)。ソ連邦の崩壊を目のあたりにして党の見解を仰げば、あれは早すぎた革命だからだとか崩壊して良かったのだとか云っているらしい。釈然としない言い訳だがそれに納得しなければ具合が悪いらしい。私は非党員だから納得しないゾ。こうしたテーマについて早急に議論の余地が大いにあると考えている。でないと本当のところ運動にリキが入らないでしょうが。個々の党員が自発的に解明しようとする前に、党が党の責任において率先して取り組む課題であると思う。ところが現に党が為そうとしていないのだから手前でやる以外にないではないか。為そうとしない党幹部をつついて為したところでたかが知れているでしょうが。

 運動方針と組織論は不可分の相互関係にあるのであって、組織論だけ今にもすぐにも革命前夜であるかのような時限理論をもてあそんで唯々諾々しようとする。不自然だなぁ。そういうちぐはぐスタイルを称して世間では「衣の下に鎧が見える」というのであり、そういう世間感覚の方が当たっていると思う。実際には既に「鎧」を付けていないのだから風通しを良くした方が自然でしょう。それと、戦後の日本社会は相対的に良い社会であって、我々大衆は気分としてそのことを実感している。変な全体主義は御免だという思いには根拠があると云える。

 そういう意味で、党の規約は世上の水準以下であってはならず、全体統制主義に陥る可能性が無いように大胆に検討し直されねばならないように思う。かいま見える党規約は、単に日本人特有の「腹芸」のつーかーコミュニケーションに依拠しようとしているように見える。「腹芸」が通用するのは親父がしっかりしてくれている場合だけであって、親父が頼りないことがはっきりすればみんなで英知を寄せ集めるように家族会議しなければいけない。これも世間の常識ですけどこの常識が通用しないことを私はいぶかっている。党の組織理論とよく似たスタイルを捜せば、今時においては銀行か警察のトップダウン制あたりではないか。

 党は、党首非公選制も含めてひょっとして一番遅れた組織理論に拘泥しており、在来の村方政治的コミュニケーション手法に依拠し続けようとしているように見える。変革されなければならないのは党自体が真っ先ではないのか。そういえば確か日本の在来の伝統を守るという政策方針が掲げられているようだが、まさか「腹芸」精神を淳風美俗として擁護しようとしているのではないでしょうねぇ。なんかそんか風な気がしてきました。「腹芸」理論はこれ以上強制されなくても日本人の我々は自然に出来るようにDNAに刻印されているから大丈夫なんですけど。むしろディベート能力を豊かにするよう急がれているのではないかなぁ。サロン風であろうが良いではないですか。「隗より始め」て次第にものになっていくというのが弁証法的だと思うけど。

 話を戻します。『さざ波通信』の存在は鏡のような役目があって熱心に党活動している方にも有益ではないでしょうか。お追従意見ばかりそんなに聞きたければ、『しんぶん赤旗』をお題目のように復唱した方が手っ取り早いでしょお。私はさっぱり面白くないからここでいろんな人の意見を述べたり聞いていて楽しいのですけど。「ここが変だよ、日本人」というたけし司会のテレビがありますが、あれって面白いですよねぇ。常識でさえ世界では変わるというのが実に参考になる。当分見続けようと思っていますが、『さざ波通信』も右同じような気持ちです。あうんの呼吸で分かりあっているように見えるものも一度まな板に乗せてみれば、お互いバラバラだったりして。今はそういう認識から始めて一から再構築の議論が必要な潮時なのではないですか。

 最後に。現行の規約がどうであろうと、党員になったら党のことをパソコン通信で語り合うことが出来ないようなことでは、なり手がいなくなるんではないかなぁ。良い話しなら良いとかいうのも変でしょうが。また、いわずもがなのことを言ってしまうけど、なんかそんな夫婦でも会話ができないような大仕事に向かっているのかなぁ。

 追伸

 本投稿文で、げじげじさんとメモさんが『さざ波通信』の閉鎖を要求しているかのような記述をしているかと思いますので、どうも私の読み違いということで訂正させてください。お二人の主張はそういう論旨ではなく、よく理解できませんが『さざ波通信』の成り行きに対するご意見番としてウォッチするという立場のようです。ここの部分につき全体的に読み替えていただけましたら幸いです。


 「いったい何が云いたいのかなぁ」(1999.9.17日)

 9.15付げじさんの投稿末尾で、蟹瀬さんに対して、「投稿を中断されるのはあまりにも無責任」ではないか発言を投げかけていますが、これって無茶苦茶な言い方だなぁ。私にすれば、蟹瀬さんの投稿に対してぐにもつかぬ難癖つけておいて、反論をせがむ無邪気さが解せない。

 できれば内容において議論するのでないと無意味ではないですかねぇ。党の秘密を漏らすとか漏らさないとかが問題にされているようですが、実際にあった党員の性的不祥事を明らかにすることがそんなにいけないことですか。こうした情報はどんどんオープンにすれば良いのです。党は、党内の不祥事が漏れるたびに党員が減ったりするほどやわな組織なんですか。執行部の責任が追及されることはあるけれども、それは一般常識の範囲においてでしょう。執行部の責任まで及ばないものもあれば及ぶものもあるという意味においてですけど。例えば、野坂名誉議長の除名事件は普通なら執行部の引責辞任があるのが普通です。あれはとてつもない重大事件なのです、本当は。このたびのような性的不祥事は党の上層部にまでは及ばないでしょう。直接関係した部署において相応しい責任の取らせ方、取りようというのがあるということであって。

 本人を更に傷つけるとか党のイメージを悪くするからと云う理由で必要な討議を避けようとするのは詭弁です。会社だってそうでしょうが、クレームのフォローの仕方こそが肝心なのではないですか。起こったことあったことを不問にする態度とマルクス主義とどこがどう関係するのでしょうか。それは神奈川県警あたりの論理と関係しているんではないかなぁ。

 私が蟹瀬さんの立場なら、馬鹿馬鹿しくなって再投稿なぞしませんよ。臭いものに蓋をせず、それを正面から引き受けて今後どうするのか議論し合うことが必要なことであって、蓋を取ったことが良くないとかいう愛党者とは議論のベースが成立しないではないですか。愛党のあり方も、各自の気質によってさまざまであるなぁということが分かるしだいです。

 何度も言ってますが、党の現在の運動方向はなにかこう秘密にせねばならないようなことってありますかねぇ。まったくないとは言わないけど、秘密にしなくても良いようなことを秘密にしたがっているアイデンティティーがありすぎているんではないかなぁ。党員の聖人君子像のほどほどさについて議論するとか、東チモール住民の武装解除はだまされたのではないかとか、中国共産党の即日死刑路線ってどうなんだとか、党に伺いを立てないと議論できないようでは問題ではないですか。一人で考えるのはよいけど党員同志では話し合ったりしてはいけないのか、話し合いはよいけど見解を他の党員に披瀝してはいけないとか、披瀝は良いけど同意を求めてはいけないとか、同意はよいけどグループ化してはいけないとか、グループは良いけど分派してはいけないとか、分派しても良いけど党中央に従わなければならないとか、従わなくても良いけど党中央の運動を邪魔してはいけないとか云々いくらでも議論の余地が有るではないですか。

 そういう議論を具体的な例証を交えずにするってことできるんですかねぇ。げじさんにそこが聞きたい。この私の投稿に対して「投稿を中断されるのはあまりにも無責任」だと思いますよ。

 最後に。メモさん、家系的に筋金入りだわなぁ。金属労働者党員を祖父に持つことを誇りとする愛党精神は良いと思いますよ。だけどねぇ、私のうちも負けてない。金属ではないから筋金とはいかないけど草の根とでもいいましょうか、「この戦争は間違っている」といって兵役を拒否して以来特高に追いかけられたまま戦後まで逃げのびたおじさんがいますよぉ。おかげで家族は大変でしたよ。


 ヤスさんへ(2000.1.20日)
 驚きました。『さざ波通信』は、私のような者を含めて自由投稿の良さを内包しているが故に値打ちがあると考えていますが、ソウデスカ、「『さざ波通信』編集部に検閲(掲載拒否・削除)を求める声が出てくる前に」私が自主撤退すべきなのですか。で、その「検閲」とやらを堂々と主張しているようですが、あなたの左翼精神とは如何なる構造の下に形成されているのですか? オカシクナイデスカ。「 (1)投稿を止める」については、今少しご辛抱下さい。もう少し書き残しておきたいことがありますので。「(2)論説の内容を有料でも読んでもらえるほどのレベルに上げる」については、スゴイコトヲオッシャイマスネェとしか答えられません。ヤスさんを目の前にしてマジマジと覗き込んでみたい気分です。「(3)ご自分で別個にHPを立ち上げ、さざなみ通信にリンクをかける」については、これは良い提案ですねぇ。実は、私もHPを立ち上げたいのです。その技術がないのです。平板なものでしたら出来そうですが、『さざ波通信』レベルのものにしたいので悩んでいるのです。でも、これをきっかけに拍車をかけたいと思います。そう言う意味で、今暫くご辛抱の程願います。

 ところで、私の投稿によって「本来行なわれた可能性のある他の建設的な投稿を蹴散らしていると思います」というのは、ひどいいいがかりですねぇ。こういう文章は、私のナイーブな神経を傷つけますが、自主的に撤退しなさいという申し出と併せて考えますと、一種の恫喝ですねぇ。あいにくそういう恫喝と闘うのが私の左翼精神ですので、申し訳ございませんが屈するわけには参りません。『さざ波通信』の投稿が増えていくことを望んでいますが、長い間の盲従習慣で自分の頭で考えられない党員・支持者が形成されていることに原因を求めた方が、私の投稿に求めるよりも的確なのではないのでしょうか。今は産みの苦しみのひとときであり、ある時点より堰を切って投稿が増えてくると思いますよ。従って、「れんだいじ氏などの辟易する投稿が出るたびに、『さざ波通信』忌避派を増やしてしまうのではないでしょうか」などと私の心をいじめないで下さいよ。

 「この手の論説の特徴として、いつまでたっても今の課題に役立つ現実的なアドバイスや具体的視点が出てきません。現代日本の現状分析(実践に結びつく分析)がないから必然的であると思います」も、為にする批判ですよねぇ。今私は、現実の課題を解くための前作業として過去の重大事件に焦点を当てて問題点を探ろうとしています。過去の解析をしている訳ですから、直接には現実の問題にコミットすることが出来ません。無理難題というものです。いずれ、現在の問題にも言及しようと思いますが、私のHPでやるようになるかも知れません。という訳で「今の課題に役立つ現実的なアドバイスや具体的視点が出てきません」というご批判は、私からすれば全く不当なものであります。

 「世の中で相手にされない」私が、『さざ波通信』で「単に自己顕示欲のはけ口」にしているという見方は如何なものでしょう。私が『さざ波通信』に投稿しているのは、あくまで私が投稿したくなったから投稿しており、ついつい調子の乗っているのは事実ですが、「世の中で相手にされない」からではありませんよ。ところで、「世の中で相手にされるされない」の基準は、ヤスさんの場合何を基準にしているのですか。ここでも、あなたの左翼精神とは如何なる構造の下に形成されているのですか? オカシクナイデスカと聞いてみたくなります。何か差別的な権力的な反動的な臭いがしますけど。ちなみに、こういう漠然とした基準を振り回し始め、これに権力が加わると際限が無くなりお追従派しか生息出来なくなりますよ。

 「この問題にはインターネットの悪い面が典型的にあらわれていると思います。市民団体に私がいままで関わった経験から言うと、どの市民団体(特に左翼的なところ)にもこの手の人は必然的に寄ってきますが、そのへんの事情は主催側(中心メンバー)がよく心得ていて、団体の害にならない程度に『活躍』を押さえ込んでいる例が多いです。ましてや機関紙の紙面で『活躍』してもらうことなどその団体にとって自殺行為ですから、なんだかんだ言って普通は排除します」の文言には、やたらと統制的な臭いが漂っています。一つ、良い面・悪い面のヤスさんの基準は何ですか。「いろいろやってみなはれ」の精神は駄目ですか。一つ、「市民団体に私がいままで関わった経験」ということですが、ヤスさんのような精神の方がまさか左翼運動に関わって「良い関わり方」で運動を盛り上げたと云うことがお有りですか。是非お聞かせ下さい。一つ、「『活躍』を押さえ込んでいる例が多い」ことを当然視しているようですが、そこが私と認識がチガウ。「押さえ込む」などとよく平然と言えますねぇ。一つ、「なんだかんだ言って普通は排除します」も然りですが、この文言は特にヒドイ。ところで、ヤスさん、あなたの精神性に対してどうみても左翼とはみなせない。どのようにしたら「なんだかんだの理屈」での排除の正当化まで肯定しうるようになるのでしょうか。私にはワカラナイ。こうまで堂々と「排除の強権論理」を何らの疑いも無く表明されるとクラクラしてしまいます。

 困ったもんですね、ヤスさんへ(2000.2.3日)
 ヤスさんからすれば、私の投稿が困ったもんだということのようですが、私から言わせてもヤスさんには何を言っても通じないのかなぁ、懲りない面々だということになります。今回は編集部の方でも「一定の配慮を求める」ということのようですから、これを字句通りに受けとめると私が配慮せねばならないということになるのでしょうか。とすれば、自主撤退の日程が差し迫ってきたということになりますが、出来れば一応構図上完結目前になっておりますので後少し本投稿を含めて三編だけ投稿させて下さい。

 ヤスさんがどのような方か想像するしか有りませんが、前回も指摘したつもりですが、妙に気になる文面を自覚なしに書き連ねている様子が伺えます(挑発だとは思いますが、乗ってみましょう。歴史に命を預けているつもりですから)。私を、「『日本共産党を含んだ運動による日本の社会主義的変革』を目指しているとは思えない人」とみなしているようですが、なるほど「日本共産党を含んだ運動」ということを絶対条件にはしていないという意味ではヤスさんと立場が違うかも知れませんね。ただし、「日本の社会主義的変革を目指しているとは思えない人」と決めつけるのは如何でしょうか。この両句は必ずしも=ではありません。従って、漠然とした基準でそういう決めつけが出来る精神はオカシクないですか、と再び問うてみたくなります。

 「反社会主義や反共主義の立場で民主主義を説く論者は、右転落した学者を筆頭に、世の中に掃いて捨てるほどいます」という文章も例によってヒドイですねぇ。私の立場がそうであるかどうかは別にして、「反社会主義や反共主義の立場で民主主義を説く論者」もいてこそ「民主主義」のように思えますがそんなにイケナイことですかぁ。その立場がなぜ「右転落」になるのですか。「転落」という表現は好きくありません。誰がどういう基準で人様を「右」だとか「転落」などと決めつけうるのですかぁ。「左」に寄れば左翼日和見というのでしょうし、いつからこんな不作法な基準を弄んで恥じない論法が横行しはじめたのでしょう。私は、現下のような党運動を盲目的に推進したり支持したりしている者から「右」だとか「転落」などと決めつけられるのは笑止千万な気持ちです。「世の中に掃いて捨てるほどいます」という表現も品がないですねぇ。「犬が吠えても歴史は進む」という表現も品がありませんが、同等の感性が伝わって参ります。

 「私が懸念するのは、『さざ波通信』が獲得すべきであろう、社会主義日本を志す共産党員(および非共産党員の社会主義者)が『さざ波通信』に偏見を持ってしまうことです」と心配されるのなら、なぜ新日和見事件の被査問者達が党離れをせざるを得なかったのかについて「あたら惜しいこと」とご心配されないのですか。その他多々党離れされた方がおられますが、同じように「あたら惜しいこと」とご心配なされて原因の解明に向かわないのでしょぉ。新日和見事件の場合、川上氏・油井氏・早乙女氏その他多くの方に何か問題がありましたかねぇ。今私なりに検証していますが、両成敗にはなり得ぬ党中央側による一方的な過干渉のように思えますがね。

 最後に。私のHP開設をあまり早期にあてにしないで下さいね。気持ちは充分ありますが見通しは立っていませんので。それと「ヒマと精力は持て余しているようですし」という表現もあまり気持ちの良いものではありませんね。推測は構わないと思いますが、ある程度当たっていないとね。お答えさせていただきますと、精力はあるかも知れません。「ヒマを持て余している」かどうかまで見通しされているとしたら、監視されているようで嫌でございます。こういう表現を易々とする精神の者から党を愛しているからこそ一言申すとか、「日本の社会主義的変革を目指している」とか言われたらむしろ気持ち悪いですね。

 市民さん、有り難う(2000.2.18日)

 市民さん、このたびは有り難うございます。私のお尋ねに関心を持っていて下さったことがうれしいです。とはいえ、内容はしめっぽい話になります。そうですか。川端治氏の本名が山川暁夫氏で、その後労働者社会主義同盟(人民新報)議長をつとめて奮闘されていたんですね。例の事件の時、確か上田耕一郎が査問官となり、渦中の当事者にさせられていたことまでしか知りません。この時の様子を氏が明らかにしているのであれば知りたい。お手数ですが市民さんご存じであれば、他の方で存知の方おられましたら教えて下さい。

 氏との交遊もないままに経過してしまいましたが、氏があの頃、「人民的議会主義」という名目でもって大衆闘争を軽視していく『党中央』の運動方針に対する批判的見地に立っていたことは確かです。沖縄返還後は沖縄の現実が本土の状況になると警鐘していた氏の弁の背景には、その論の客観性とは別に、左翼的闘争の本流を維持し続けようとした氏の面目があったものと私は了解しています。概ね氏の指摘が正しかったことはその後の史実が明らかにしており、現在ではリーダーシップどころか、ろくにコミュニケーション出来ない党員の無惨な姿を知らされております。票一票に集約させる運動よりも、デモの一つ、争議の一つでも組織しつつ意識を左派的に形成していくことの必要は、今日でも追求されねばならない価値をたたえていると思われます。なぜなら、人はそういう切磋琢磨の過程を通じて弁証法的に成長していくものだから。

 だいたい選挙が終わればポカンとしかしえない、あるいはまたこじつけ論理で勝利したなぞという総括をして恥じない党運動なぞというのは、私には議会至上主義の極みとして到底受け入れ難い。いつのまにか飯を食える側の上品な運動に取り憑かれてしまったなぁという思いを深めています。大阪府知事選では、中央の意向に反して独自の候補を擁立して共に闘った自民党府連の活力こそ注目されねばならない、と思う。この浪花節の中にこそ政治が生きているという気がする。こういう敵失選挙でも勝てない現実を思えば、何で負けた気がしないなぞという弁が生まれるのだろう。その背景に、かっての革新黒田府政の無力が原因となっていると考えるのは自然なことではないのか。一体、仮に勝利したとしても、革新地方自治体になれば何が出来、何が出来ないのか一つでも総括しえているのだろうか。その後の革新地方自治体のいい加減さの例証には事欠かない現実があった筈である。今後はこうするんだとかいうものが一つでも大衆的に教訓化されているのだろうか。繰り返すが、ダラダラと運動をなしえるのは、飯が食える側の人がやることである。労働者大衆はやるならやる、いい加減なことには近寄れないというのが実際のところなのではないだろうか。

 氏の古風にしてかつ愛嬌のある風貌を今でも覚えています。極最近亡くなられたとのことですが、恐らく80歳を越しているか前後の年齢の筈であり、一応一生を全うしえたことになるかと思われます。改めて氏の一生に対して深く哀悼したいと思います。それにしても、現下党運動はどうして氏のような赤心の者を取り込めないのだろう。合掌

 最近無沙汰していますので、一言コメントしようと思います。東京都石原知事の右派系からの革新政策が喝采されていますが、確かに無策よりは良いと思われる。ただし、私なら左派的にこちら側から革新させていきたい。そもそも銀行のぶんぷく太り政策こそが官僚指導の智恵の限界であり、天下り癒着と絡んで腐敗の温床となっている。意識的に不当な利益を蓄積させていることは誰の目にも明らかでしょう。しかし、石原知事的発想で税の徴収をなしていくことは、結局大衆に不利益をもたらす結果にならざるを得ない。本当に必要な改革とは、公的資金という国税をつぎ込みながら地方税を取るというその場手法ではなく、ベンチャー型新銀行の容易創設や、新規参入障壁を解除しながら、本業である融資業務において意欲的積極的な自由競争を展開させることではないでしょうか。判りやすく言えば、つぶれるものはつぶれれば良い。その替わりに新しい時流にあった銀行の誕生を促すことの方がどれだけためになるかということだ。

 現銀行の担保と保証人主義に基づく融資姿勢は、優良貸出先への融資を促進させ、本当に必要な中小・零細への融資を阻んでいる。これが資本の論理の成り行きであるが、これでは先が思いやられる。体を張って頑張っている中小・零細の経営者が少なくなるということは、タコに喩えれば吸盤がそれだけ少なくなることを意味する。つまり、日本企業総体からすれば、緩衝的な粘りがなくなるということを意味する。今が良ければ良い式の安易効率的な発想、本店審査主義の反省こそバブルの本当の意味での総括となるべきではないでしょうか。銀行が高金利の消費者金融会社に融資して、安全第一濡れ手に泡式の経営をしている姿勢こそ糾弾されねばならない。公的資金の導入は、この現実も何も変えていない。官僚指導の総論立派・各論無策的智恵の限界と私は見ている。振込手数料も異常に高すぎる。預金の低利息は、庶民大衆にとってはあんまり関係ないのでそれはそれとして、ならば、貸出金利をもっと下げるのがバランスではないのか。それでも成り立つ企業努力が要請されているという方向に向かうのが自然ではないのか。私が思うに、アメリカはやることなすこと素敵だわ。世界の憲兵精神と戦争政策は嫌いだが、こういう民間自助努力と自己責任能力と工夫精神にかけては一等秀でているように思える。どんどん長くなりますのでこの辺りで失礼させて頂きます。






(私論.私見)