第3部 「共産党の現状分析と対抗戦略」投稿文

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細川内閣の性格について>れんだいじさんへ  吉野傍
細川内閣の性格についての所感
いささか疲れ気味>れんだいじさんへ  吉野傍
「東チモール問題」について


細川内閣の性格について>れんだいじさんへ(1999.6.24日、吉野)

 れんだいじさんの「社会党の凋落をどう見るか」(「日本共産党の理論、政策、歴史」欄に掲載)に反論させていただきます。まずは、少し長いですが、れんだいじさんの投稿から引用させていただきます。

 「なお、この時共産党がどう反応したかも考察されるに値する。『よりましな政府』を今ごろ言うのであれば、何より細川連立政権こそ『よりましな政府』の一里塚ではなかったのか。それとも何か、共産党自身が与党の一部に組み込まれない限り『よりましな政府』にはならないという意味なのか。反共シフト連合であったという評価は問題である。自民党のそれよりもどうなのかが問われねばならない。何より自民党を野党化せしめている連立政権である点で最大の功績持ちの政権ではなかったのか。『よりましな政府』を本気で願うならこの政権は一歩譲って『よりましな』ものを引き出すことが可能な双葉の芽を持つ連 合政権ではなかったのか。確かに共産党にお呼びはかからなかったにせよ、この連合政権を第二自民党呼ばわりしてその意義を減殺させたことは犯罪的でもあり、党利党略が過ぎてはいないか。結果的に、不破執行部はこの連合 政権を見殺しにするというよりは倒閣に精を出すところとなった。こうして細川 政権は右と左から挟撃されることになった」。

 以上の議論をまとめれば、要するに、細川連立政権は、自民党政府に代わる「よりましな政府」になりうる可能性があったにもかかわらず、共産党はセクト主義的対応に終始して、せっかくの細川内閣を見殺しにした、ということになります。しかし、はたして細川連立内閣はそのような「よりましな政府」になりうる政権だったのでしょうか? 自民党政権を倒し、野党化させたのが最大の功績だとれんだいじさんは言いますが、それ自体は功績でも何でもありません。問題は、政権を倒すことそのものではなく、どのような方向で倒すかです。自民党政権を倒して、自民党でさえできなかった悪政を実行するのだとしたら、そのような政権は「よりましな政府」どころか、「より悪い政府」でしかありません。

 その点を考慮するなら、そもそも細川連立政権が何を使命として成立した政権であったかを思い出す必要があります。この政権は何よりも「政治改革政権」として出発しました。この「政治改革」を断行するという一点を除けば、基本的に自民党政治を受け継ぐということを政党間で合意した連立政権です。つまり、「政治改革」をやる以外は、基本的に自民党と同じなのですから、この政権の性格のいっさいは、この「政治改革」の中身によって規定されます。この「政治改革」とはいったい何でしょうか? 「政治改革」は当初、リクルート汚職事件をはじめとして、戦後何度も繰り返されてきた汚職事件など政治の腐敗を一掃するということが課題でした。ところが、小沢一郎のヘゲモニーのもと、「政治改革」の意味はしだいに変質し、それはいつしか、中選挙区制を廃止して、小選挙区制を導入するということにすり変えられていきました。当時もその後も小沢自身が繰り返し主張したように、この「政治改革」の根本的目的は、政治腐敗を一掃することではなく(その名目自体は、その後も続きましたが)、戦後のぬるま湯構造を打破すること、直接的には、小選挙区制の導入によって社会党を解体して、戦後民主主義的な抵抗勢力を一掃し、次に自民党を2つに割って、保守2大政党制を実現し、この2大政党の競い合いによって、さまざまな帝国主義的改革(自衛隊の大ぴらな海外派遣や憲法改悪)を断行していくということです。

 このような政治的課題は、小沢の妄想の産物ではなく、当時、日本の財界やアメリカ政府筋を中心にして、繰り返し日本の支配層に対して要請されてきたことです。この要請に対して、政府自民党は、自らの支持基盤になお根強く存在する平和主義的な志向などに制約されて、尻込みを続けてきました。小沢は当初は自民党を牛耳って、こうした改革を断行しようとしましたが、実際には現在の自民党には不可能であることを、湾岸戦争での対応などから判断するとともに、ちょうどリクルート事件などで自民党政治への批判が猛烈に起こってきたのを利用して、自民党を飛び出して新生党をつくることで、外からやることにしたのです。

 このような動きにちょうど呼応するように、別の方向からやはり自民党政治に対する不満が渦巻いていました。その不満とは、自民党政治による農村保護や自営業者保護の「利益政治」に対する、都市の中上層市民の不満です。俺たちの収めている税金が、農民や自営業者や土建業者の懐をうるおすのに使われるのはごめんだ、もっと市場原理を活用し、能力のある者がアメリカ並に豊かになれるような社会にしよう、競争力のないやつ(弱者)を保護するのはもうやめよう、という声がマスコミと大企業サラリーマンなどから出てきたのです。この声を吸収して急速に成長したのが日本新党であり、その政策的中心課題は、規制緩和、公営部門の民営化、自立自助、市場開放、直接税・法人税減税、消費税増税、といった新自由主義政策です。

 つまり、細川内閣とは何よりも、帝国主義改革をめざすグループと、新自由主義的改革をめざすグループとの政治的ブロックだったのです。この二つのグループこそが、細川内閣の基本姿勢を決定したし、したがってその政策も決定しました。この細川内閣が実行した主要な政策が、小選挙区制の導入と、米の輸入自由化、消費税増税(中途半端なまま倒閣しましたが)であったことは、このことを如実に示しています。  したがって、細川内閣は、自民党政治を右から改革することを目的とした政権であり、このような政権に対し共産党がきっぱりと対決姿勢をもって臨んだことは、絶対に正しかったのです。細川内閣は、左右から挟撃されたのではなく、細川内閣こそが最も右に位置する政権だったのです。

 問題は、このような新保守主義政権に、あろうことか社会党が加わったことです。このような奇妙な事態は、当時における「政治改革幻想」、自民党政権でなければとにかく何でもよいという雰囲気(あの本多勝一や佐高信でさえ、自民党でなければどこでもよいと絶叫していました)、右から左までのマスコミの熱狂、などによって、そして何よりも社会党内部における右派議員の台頭によってもたらされました。社会党のこの入閣は致命的であり、社会党の崩壊をもたらしました。この内閣にいかなる幻想も持たず、きっぱりと対決した共産党は、当時は苦戦しましたが、その後世論の幻想がさめると、躍進を開始しました。当時正しかったのは誰か、今でははっきりしています。

 もちろん、当時の共産党指導部は、細川内閣の階級的本質について正しく理解しておらず、「第2自民党」などという的外れな批判をしていました。細川政権は「第2自民党」などではなく、自民党を右から乗り越える帝国主義連合だったのです。以上の政局の流れと背景については、渡辺治氏の『政治改革と憲法改正』(青木書店)をお読みください。非常にすばらしい力作です。

 で、その後、自民党は、野党の苦汁を味わうとともに、与党に復帰してからも、95年参院選での新進党の躍進などによってすっかり肝をつぶし、帝国主義的改革と新自由主義改革に邁進するようになりました。こうして、かつては深刻であった、自民党主流と小沢派との対立はますます小さくなり、かくして、昨年から今年にかけてついに「自自連合」(野中ー小沢連合)が成立したのです。

 現在、共産党は、細川内閣時の原則的な姿勢を忘れ、そのときの社会党と同じく、新自由主義政党(当時は日本新党、現在は民主党)と組んで「よりましな政権」ができるかのような幻想を抱いています。この幻想は遅かれ早かれ打ち砕かれるでしょう。しかし、社会党のように没落してから、自らの誤りに気づいても遅いのです。ですから、今から警鐘を鳴らし、社会党の二の舞にならないよう、声を大にして訴えなければならないのです。

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細川内閣の性格についての所感 (1999.6.26日)
 吉野さんの早速のご注進読ませていただきました。吉野さんの先日の代議員選出の各種方法についてのご教授、勉強になりました。共産党の場合いつ頃から現在の選出方法が確定したのか興味がわきますので、さらに教えていただければなおありがたいです。

 さて、「細川政権をどう見るべきであったか」ということですが、これは当面は水掛け論になってしまいそうです。私はそのように理解しているということであって、認識の当否のほどはいずれ歴史が降って一段落した際にならなければ明確にならないと思います。今は只中ですから喧喧諤諤でよろしいのではないでしょうか。ちょうど反対の見解になっていますので、いろんな方から賛否両論していただけたら有益なのではないでしょうか。

 私は、こういっては何なのですが「カン」のようなものをベースにしており、細川政権の個々の動きを詳細に追跡したわけではありません。こういう言い方は通常は無責任的な言いまわしのように受け止められると思いますが、ここではかなり積極的・肯定的な意味で使っています。「カン」とは、物事を嗅ぎ取る臭いのようなものであり、学者の百万言の言葉より正確な場合もあるという思いを込めて表現しています。例えば、知らない人と出会った場合に、その人がどういう人であるのか最初に受け止めた印象が、意外に正確な場合があるという場合の例に似せて「カン」というものを評価しています。さらに言えば、近づきすぎてとらわれ過ぎることを「木を見て森を見ず」の例えで表現することがありますが、この例の場合、森を「カン」として考えていただければ良いかと思いますが、「カン」を頼りに部分に分け入った方が道にまよわなくてすむということもあるわけです。庶民的な知恵というものはたいていの場合そのようなものとして働いているように思います。マルクス主義における「大衆から学ぶ」必要のいわれとは、大衆は表現能力において劣るものの、えてして事柄の本質をつかんでいる場合が多く、単に指導される対象という以上のものを持っており、逆に大衆から学ばねばならないこともあるという警句としての意味が込められているのではないでしょうか。

 私の細川政権肯定評価論が大衆の知恵を代弁したものであるのかどうかは一応別です。あくまで私の「カン」のようなものであり、私も大衆の一人であることからして大衆の気分の一認識の仕方であることには違いないのですが、吉野さんと私のどちらの見解が正しいのかをめぐって机上の結論を出すには及ばないと思います。要は、私の先の投稿のような捉え方もあるという程度のいろんな見方の一つとして受け止めてくだされば良いかと思われます。ちなみに、先日オウム関連のHPを初めて見ましたが、マスコミに出てこないいろんな情報が書きこみされていました。なるほど連中はああいう世界観・社会観でマインド.コントロールされているんだなぁということがわかり、興味深くもありました。そう、私の意見もそういう土俵で興味深く聞き流しして下さった方が良いのかも。事態の客観認識への接近度は実践によって検証される以外になく、渦中においてはさまざまな諸見解が発生するべく複雑に推移しているのではないでしょうか。事態の進展と弁証の進展により否応なく見解は修正されて行くことになり、または修正されていくべきものと心得ています。

 なお、ここで私自身の発言に責任を持つ立場から再反論させていただきます。吉野さんの御注進にも関わらず湧く疑問をお伝えしておこうと思います。細川−羽田政権の経過に自民党よりも右翼的な性格を見るというのは、そうでなかった場合には非常な自民党美化論につながることになりますが、このあたりは認識していただけますでしょうか。逆にいえば、私の細川政権「よりまし論」が間違いであった場合には、細川政権美化論という犯罪的な認識を伝えたことになります。お互いに議論に責任を負うということは怖いですねぇ。HPでの議論の良さは軽い意見の交換の場として活用できるということにしましょうよねぇ。さて、細川連立政権は、吉野さんが言うように、確かに帝国主義的な再編成を目指す動きを随所に見せました。私に言わせれば、そのような動きは細川政権がなそうとしたというよりは、官僚機構の背後にいる意思者の指示であり、細川政権のパーソナリティーとは思っていません。したがって、むしろいかにサボタージュしたかを見ておくほうが肝腎かなと考えています。(無責任ですが、この観点から実証するデーターを揃える時間を持っておりませんので、これも「カン」ということにしてください)

 細川政権以降今日までの系譜は、自民党的な綱領の枠組み内においていかにして自民党に代わる新党を樹立するかをめぐってうごめいていると理解しております。今日の政治状況を考えるときに前提にすべきは、今日が時代の変わり目であるという認識です。この変化の時代の対応の仕方として、左翼陣営のだらしなさに規定されてとも言えると思いますが、政権与党の自民党の周辺にこそ活力が旺盛であったのであり、そういう結果として細川連立政権が誕生したという認識をしています。目指すところは「55年体制」に替わる二大政権党政治であり、イギリス的またはアメリカ的な政権交替により、政策の幅を持たせようとしているという普通の読みで良いのではないでしょうか。細川政権の方が自民党のそれより右翼的であったとは思えません。それは、ためにする批判であり、むしろリベラルな傾向が強い新党派の結集であったと考える方が素直なのではないでしょうか。例えば、ロシアとの経済交流を深めようとする場合に、旧来の自民党内ではどうしても賛同一致にはならない複雑さを持っており、甲論乙論が飛びかい動きが取れないわけです。こうした時に自民党に替わる有力政党を育成しておき、その政権で事を進めるとかの選択肢が必要なわけです。そういう意図から体制安定的であり、かつ自民党に替わる有力政党が期待されているというのが実際なのではないのでしょうか。

 細川政権を自民党よりも右翼的・反動的な政権と規定した場合、あの奇妙な政権投げっぷりは一体なんだったんでしょうねぇ。新日本帝国主義者はそんなにひ弱な腰砕けな方たちなんでしょうか。そんな帝国主義者が相手なら楽ですねぇ。押せ押せで大衆闘争やり抜いて政権奪取まで一気呵成に向かいたいですねぇ。あれは、素直に読めば、やはり政界に対する殿様的な嫌気でしょぉ。元殿様はそんなに頑張らなくても飯は孫子以下の代まで食えるわけでしょうから、いくら国家百年のためとはいえ、嫌なことが続くと嫌になりますよ。

 注意すべきは、新しい政界潮流に国際的な新世界秩序派の後押しがあるという事実です。私は、このことに関しては今のところ次のように考えています。国際的な新世界秩序派の要請を何もかもアメリカ帝国主義の非道な要請とみなすには及ばないのではないか。単に経済のグローバル化時代の効率化要請としての規制緩和もあるのであって、あるいは環境保全の観点からなされている場合もあるのであって、人民的利益から見て歓迎されるべきことも結構あるのではないですか。戦後の農地開放や財閥解体の例により経済の活性化がもたらされたように、われわれの社会の改良的政策を指示している面もあるのではないかと。それこそ我らが共産党が言うように、大企業有利の官僚統制または規制の網の目が必要以上に張り巡らされており、日本人大衆は従順に受け入れるけども、連中は「オカシイではないか」と言ってる面も多々あるのではないかと思われます。へんちくりんなことは、このたびも、またしてもというべきか、内政干渉的とも言える手法で「上」から「外」から「お与え」の改革が進行中なのであり、このたびの「お与え」もまた、人民大衆が対権力闘争により勝ち取ろうとしているのではないことにあります。この背景には、日本の官僚機構の保守性と日本人一般の温和性との見事な調和に対する蔑視とそのことに関するあきれた了解がないまぜにされているのではないでしょうか。

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いささか疲れ気味>れんだいじさんへ (1999.6.29日、吉野傍)
 最近、長〜い投稿を立て続けに書いたので、少し疲れ気味です。活動の方も、自自公による悪法が次から次へと来て、はっきり言って、運動の方もたいへんです。悪法を通す方は、国会で数の論理でやればいいから楽でしょうが、反対する方は、いちいち運動を構築するので、本当たいへんです。それはそうと、れんだいじさんの投稿へのレスですが、いちいち論じていると、またまた長くなってしまうので、2点だけ。 れんだいじさん、wrote 「吉野さんの先日の代議員選出の各種方法についてのご教授、勉強になりました。共産党の場合いつ頃から現在の選出方法が確定したのか興味がわきますので、さらに教えていただければなおありがたいです」。私が入党したときにはすでにこの選出方法になっていましたので、いつからかはわかりません。おそらく、結党以来じゃないでしょうか? 少なくとも、戦後はずっとそうでしょう。この点はむしろ、私が知りたいです。

 れんだいじさん、wrote  「細川政権を自民党よりも右翼的・反動的な政権と規定した場合、あの奇妙な政権投げっぷりは一体なんだったんでしょうねぇ。新日本帝国主義者はそんなにひ弱な腰砕けな方たちなんでしょうか」。あの政権の中で、一貫して日本の帝国主義的利害を自覚していたのは、小沢派だけです。細川は、その点、まったく帝国主義的指導者として不適格であったと思います。そのような不適格者が首相になったのは、一時的に大衆的人気を獲得したからで、その人気を小沢が利用したからです。小沢一郎はけっして自分が首相になったりせず、あくまでも参謀長として政権を操作することを目的にしており、それはきわめて合理的です。彼は、細川人気を利用して、細川政権をつくって小選挙区制を通し、目的通り社会党をつぶしました。もっとも、当初の予定と違って、小選挙区制→自民党分裂という順序ではなく、自民党分裂→小選挙区制になりましたが。その後、新進党を作って自民党に揺さぶりをかけ、自民党をより帝国主義化させ、自自連立として、見事に新保守主義政権をつくりあげました。もっとも、これも当初の予定と違い、正面から新保守主義政党として単独政権を取るのではなく、自民党と連合することで目的を達しましたが。このように、少しづつ当初の予定とは異なる道をとりましたが、基本的には小沢が描いていたような日本の改革構想が着実に実現していっています。

 と いうわけで、簡単ですがレスさせていただきました。これを最後に、しばらく休みます(とかなんとか言って、すぐまた投稿したりして)。 P・S この投稿を『さざ波通信』に送信してから、「お知らせ」欄で、例の党員同志からの非公開メッセージが公開になったという情報を知りました。ということは、しばらくお休みというわけにもいかなくなりました。が、精神的に疲れているので、少しづつレスしたいと思います。

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「東チモール問題」について (1999.9.21日)

 「東チモール問題」の全体像が分かりません。延々とかれこれ数十年来抗争が続いているように思われますが、私の身近な情報収集によっては資料が乏しい限りです。インドネシアの対外貿易収支に日本が最主要国になっているというということが事実であれば日本はこの問題に関して深く関わらざるを得ない立場であり、したがって、党もまたこの問題について早急に解明する責務があると思われます。今のところ時事電程度の情報しか報道していないように思われますが私の勉強不足でしょうか。

 「東チモール問題」とは何なのかという理解の次に寄せねばならない私の関心の第一点は、自治権の帰趨を選挙によって決することになった経過にあります。恐らく独立派と併合派との執拗な抗争が続いていたのでしょうし、その抗争を中止して選挙によって決着を付けようと合意されるまでにはそれぞれの内部での意見の対立があったのではないでしょうか。そうした内部的な意見の対立をどう調節したのかは対岸視されることではなく、わが国の左翼運動理論にも大いに関係してくるようにも思えます。選挙的決着の智恵を誰が持ち込んできたのか、運動の内部から生まれたのか外部から移入されたものなのかにも興味があります。持ち込まれたものであれば、彼らはどう責任をとろうとしているのかについて関心をもって見守る必要があります。同じように対岸視できない内容を持っていると考えています。

 選挙の結果は圧倒的に独立派の勝利になりました。当然ながら両派は選挙結果に拘束されるというのが選挙をすることの意義であろうと思われますが、併合派はこの拘束を踏みにじり独立派に対して凶暴徒化しています。この併合派のバックにはインドネシア軍がおり、当然の事ながら軍の動きの背後には政府の意向があります。この政府と日本独占資本とは密接な関係にあります。ここまでは分かるのですが、ここから先が曖昧模糊です。どなたかの解析を待ちたいと思います。

 国連軍の介入により、併合派の動きが牽制されることになると思われます。となると、国連軍は極めて現代史的な必要悪軍ということになるのでしょうか。「コソボ問題」の時もそうでしたが、NATO軍ないしはアメリカ軍の介入を非難することは容易ですが、もしその介入がなければ、住民間のジェノサイド抗争により敗北派は民族浄化される危険があったということも事実のように思えます。国家の内部問題だから内政干渉は良くないという原則はどこまで適正なのか、私にはよく分からない(公党間の内部不干渉理論についても同じですけど)。どうも旧来の公式では解けない諸問題が発生しつつあるというのが現状なのではないかと思えています。

 ところで、東チモール独立派の住民が併合派に対して逆暴力攻勢を仕掛けた場合、国際世論はどうみなすのでしょうか。選挙の結果は独立を意志表示したわけですから、独立派は錦の御旗を持っているように思われます。でも、やはり暴力的な仕返しはよくないのでしょうか。実際には、東チモール独立派は国連軍に依存しようとしていますので、そうした可能性はないようですが。このあたりも私にはよく分からない。

 近々併合派は、国連軍の進駐に対して、「民族解放戦線」的な動きをし始めるということのようです。こうなると、もはや言葉の字面だけ見ては何が何だか分からない気がして参ります。いったい左翼運動の原点とは何なのか、どうい う運動が左翼運動なのか、その基準をどこに求めるのか等々について合意を 再構築していかねばならない時期に至っているように思えますが、いかがでしょうか。

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(私論.私見)