カンテラ時評43(1261~1290)

 (最新見直し2013.11.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「カンテラ時評43(1261~1290)」を転載しておく。

 2007.3.24日 れんだいこ拝


 れんだいこのカンテラ時評№1290  投稿者:れんだいこ  投稿日:2016年10月22日
 日本土着民考<その2

 先のブログまでが前半である。ここからもう一つの観点から掘り下げてみたい。近代日本史が、徳川政権残存派、天皇制国粋主義派、文明開化開国派と云う名の国際ユダ邪派の寄り合い三派連合で推移し、次第に文明開化開国派ワンサイド政権へと化して行ったにせよ、世界の諸植民地のように国際ユダ邪来襲にひとたまりもなく殲滅されなかったところに日本の偉大さがある。むしろ一時的には一度も二度も跳ね除けた歴史を持つ。世界史的に見て、今この栄誉にあるのは日本、ベトナム、キューバの例があるのみではなかろうか。大和民族のこの能力をもっと称えるべきと思う。「大和民族のこの能力」に沖縄人が関係している。このことを共に悦び重視したい。これはどういう意味だろうか。以下、これに答える。

 れんだいこ史観によると、日本の大昔は「元百余国」と云われるような日本列島津々浦々に棲み分けする部族国家だった。この部族国家が次第に束ねられ、緩やかながらも結合する部族連合国家となったのが出雲王朝御代だった。他所では神無月、出雲では神有り月となる旧暦10月、各地の部族王が出雲に集まり合議政治する慣わしを確立していた。会議後、各地の文化、技芸を披露し称えあった。今日に伝わる「お国自慢」の伝統はこの時以来のものである。時代的には起源前後、更に下って邪馬台国の紀元3世紀頃まで続いた。文明的には弥生時代であるが、後の渡来系大和王朝時代と区別する為に、この時代までを敢えて仮に「縄文日本」(又は「原日本」)と命名しておく。

 この「縄文日本」時代、いわゆるアイヌ人が羽振りを効かせていた。このアイヌ人が知る人ぞ知る日本式美男美女の系統である。記紀に登場する三輪の長脛(すね)族はその代表で、名の通り脛の長い美丈夫の王家族だったように思われる。ちなみに、アイヌ人と琉球人のルーツが同じもしくは近いことがDNA解析で判明している。人だけでなく犬もそうとのことである。日本列島には、このアイヌ人のほかにも様々の人種が生息していたと思われ、これらを合わせて縄文人と云う。

 「縄文日本」の人たちの特徴は割合と混血を好むところにあったように思われる。その様は「より選れた遺伝子」を求めての交合であり、それが王族間の場合には同時に部族同盟を意味していたように思われる。以降、この混血を通して原日本人が生成されて行くことになる。この頃の「縄文日本」の版図を現在の日本地図に当て嵌めれば、北は北海道から南は沖縄まで、即ち今日の日本の如くの範囲で「縄文日本文明」を創造し共生的に満喫していたように推定できる。

 邪馬台国時代の紀元3世紀頃、外来外航族が渡来し、王権の簒奪を図った為、内乱状態に陥った。結果的に「縄文日本」が滅ぼされ、大和王朝に向かうのがその後の日本史である。記紀の記す出雲の国譲り譚、魏志倭人伝の記す邪馬台国滅亡譚はこの辺りの消息を語っていると思料したい。

 こうして大和王朝になる。この時よりの日本を、それまでの「縄文日本」と識別する為に「弥生日本」(「新日本」)と命名できようが、「縄文日本」の時代が既に弥生時代なので、「縄文日本」の呼称はあり得ても、「弥生日本」と云う表現は適切を欠くように思われるので使用しない。「新日本」も同様に後世は常に「新日本」になるので使いづらい。よって、これよりは初期大和王朝御世、奈良朝御代、平安朝御代云々で良いと思う。

 問題は、この「大和王朝」の呼称の不思議性である。何故に漢字で「大和」と書くのか。何故にこれを「ヤマト」と訓読みするのか。この問題に対する正面からの然るべき考察を知らない。これに、れんだいこが挑む。れんだいこ史観によれば、「大和」は正に的確に付与された当て字訳と読む。即ち、出雲王朝を国譲りさせ、邪馬台国を滅亡させる渦中は、記紀神話に記されている如くの苦心惨憺たる茨の道の建国となった。それまでの為政者であった出雲王朝派、邪馬台国派の能力が高く、その権威が強靭で、抵抗が止まなかった。両者疲弊の色が濃くなり妥協するしかなくなった。双方徹底抗戦派はあったものの、それぞれの主流派が最終的に大同団結和睦の道を択び新王朝を創出した。この過程を総括して最も的確であろう言葉として「大和」を案出し、新王朝名に充てたのではなかろうか。

 それだけではない。「大和」の読みは、漢音であろうが訓読みであろうが「ヤマト」とは読めない。それを「ヤマト」と訓読みすることを諒とした。これにも叡智が働いている。即ち、大同団結和睦の時の約定で、新王朝が前政権の邪馬台国の国名を継承し、漢字で「大和」と書いて「ヤマト」と読むことを諒とした。即ち、新政権は、前任統治者の国名を排除して新しい国名を案出して新国家声明するのが世界史的通例のところ、前任統治者の国名を継承し、そのことで政権の連綿性、正統性を付与する道を選択した。

 それは、前任国家の出雲王朝、続く邪馬台国の治世能力、文化伝統能力が高かった為と考えられる。国名としての「大和」、その読みとしての「ヤマト」にはこういう裏歴史事情がある。天照大神の継承も同様と思われる。天照大神は外来外航族の祖神ではなく元々「縄文日本」の祖神にして最高神であり、国名同様に権威を継承し利用したものと思われる。

 これらの一部始終が「大払い祝詞」(おおはらいのりと)に詠われており代々受け継がれて今日に至っている。これこそが日本国体憲法である。続く憲法が明治維新の際に発布された「五箇条のご誓文」である。「大払いの祝詞(のりと)」、「五箇条のご誓文」軽視すべからずの理の所以がここにあり、日本国憲法論を論議する際には必須のもの足りえている。これに照らして見れば、近時の憲法改正論の中身が何と空疎なことか。

 別章【大祓いのりと考】

       (kodaishi/kodaishico/nihonshindoco/noritoco
/noritoco.htm


 もとへ。大和王朝建国時に日本史の特異性、不思議がある。要するに、外来外航種族が「縄文日本」征服の為に来襲したものの、ワンサイド支配にはならず、旧王朝との大同団結和睦によって辛うじて王権を簒奪することができたと云う珍事が記録されている。和睦であるから当然、旧王朝派の取り込みが特徴となる。これにより旧王朝御代の言語、政治宗教としての神道、礼儀作法、生活習慣、風俗等々がそのまま横滑りで受容されることになった。これが皇統譜の連綿性に関わっており、前王朝と新王朝が継続した道を遺したと云う意味で、これに従う限り万世一系は真実と云うことになる。とはいえ、新王朝は、以降、外来派と旧王朝派の協調と確執を繰り返しながら悲喜劇の歴史を綿々とさせて行くことになる。この辺りは記紀その他史書の記す通りのところである。

 件(くだん)の機動隊員は、日本史のこの香気を嗅いで匂うべきである。どうせ上官からご都合主義的なアンチョコ歴史を教えられ、その気にさせられているだけのことだろうから、今からでも遅くない本当の日本史を学び直せ。どこでどう学べばよいのか分からないだろうから言っておくが、れんだいこサイトを何から何まで丹念に読めば良いオホンエヘン。ここまでをその2とする。

 れんだいこのカンテラ時評№12898  投稿者:れんだいこ  投稿日:2016年10月21日
 日本土着民考

 2016.10.18日午前9時30分頃、沖縄県東村高江の米軍ヘリパッド建設工事が進むN1表ゲート前で、これに抗議する市民が対峙し、大阪府警から派遣された20代の男性機動隊員が、この反対運動に参加していた芥川賞作家の目取真俊氏に対して、フェンス越しにかなり強いヤクザ口調で、「触るな、くそ。触るな、こら。どこつかんどんじゃ、ぼけ。黙れ、土人(どじん)」と発言。別の機動隊員が「黙れ、シナ人」と発言。これが、「機動隊員による沖縄人に対してのヘイト用語発言事件」になり詮議されている。

 10.19日、沖縄県の翁長知事が、県庁で「言語道断で到底許されない」と強く非難した。安倍政権の菅官房長官も同日の記者会見で、「警察官が不適切な発言を行ったことは大変残念だ」と語った。10.20日、警察庁の坂口正芳長官は定例の記者会見で「機動隊員の発言は不適切で、極めて遺憾だ」、「今後このような事案の絶無を期すとともに、適切な警備を行うよう指導を徹底していきたい」と語った。

 ところが、機動隊員派遣お膝元の松井大阪府知事が、10.19日、自身のツイッターで、「ネットでの映像を見ましたが、表現が不適切だとしても、大阪府警の警官が一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様」と労いコメントし、翌日のぶら下がり会見でも「相手もむちゃくちゃ言っている。売り言葉に買い言葉。鬼畜生のように隊員個人を叩くのはどうか」と述べ、改めて隊員を擁護した。翁長知事が大阪府知事のコメントに激怒!、「沖縄県民への配慮が足りないのではないのか」と強く批判して物議を呼ぶオマケまでついた。

 以下、この「土人発言」に対して、れんだいこ式に解析評論しておく。案外と重要な問題が宿されていると窺うからである。この「土人」表現が、極めて癖のある且つ歴史性のある且つ国際ユダ邪問題に密接不可分なものであると思うからである。表現の自由を極力広く取って構えようとするれんだいこは、本件を、ヘイト用語使用による非難ではなく、原理的に粉砕してみたいと思う。御意の士が現れんことを願う。件の機動隊員の目に触れんことを願う。

 一般に、「土人」という言葉は、「未開原住民」的ニュアンスで蔑視的に使われている。典型的な例はアメリカンインディアンであろう。戦後日本生まれの子供は、私がその一人であるが、嫌と云うほど西部劇を見せられ、抵抗するインディアン撃退劇を正義の出来事の如くに脳裏に焼きつけられた。この時、無意識下で洗脳、即ち「先進国の白人が原住民を退治し馴致することは正義であるとする」史観を流し込まれたように思う。これによって正視し得ていたのではなかろうか。これを仮に「先進文明国史観」と命名する。

 この史観によって、紀元16世紀頃より世界植民地分割征服戦争が始まった。この戦争を背後で主導していたのが国際ユダ邪と仮命名されているところのユダ邪系国際金融資本、及びこれに合体するところのネオシオニズム系ユダ邪教、そのタルムード教、ユダ邪教に馴致されたところのキリスト教等々の勢力だった。これが近代世界史の流れである。

 この波は日本にも及んでいた。早くは日本史上で戦国時代と云われる16世紀に関わっている。ユダ邪教に馴致されたところのキリスト教のイエズス会系宣教師がトップバッターとして鹿児島に上陸し、手に聖書、口で反逆、背に鉄砲、軍艦を従えて来襲してきた。歴史教科書はこう記さないが、元帝国のそれがハード、イエズス会のそれがソフトと云う違いはあるが共に「来襲」とみなすべきだろう。

 歴史的には、この時の日本政治の政権を担った織田、豊臣、徳川の三家の舵取りが極めて有能で、外交的にも軍事的にも日本侵略を許さず撃退することに成功し鎖国へと結実した。鎖国後、国際ユダ邪に対する警戒心を緩めることになったが、致し方なかった面もあろう。歴史教科書はこう見立てないが、それは現行の歴史教科書が国際ユダ邪ナイズされているからである。

 日本史上、次の来襲が江戸時代幕末の黒船来航である。この時、天下が激論し、尊皇攘夷か国際ユダ邪受容かを廻って激論した。結果的に、織田、豊臣、徳川の三家政治のようには撃退できず、幕末維新から明治維新へと流れ込んで行った。但し、この明治維新は、徳川政権残存派、天皇制国粋主義派、文明開化開国派と云う名の国際ユダ邪派の寄り合い三派連合で推移して行くことになった。この三派連合が次第に溶解し、国際ユダ邪派のワンサイド政権へと化していくのがその後の日本史である。この流れが時に揺り戻しはあるものの2016年の今日まで続いている。かく日本史の流れを確認しておきたい。

 さて、件の土人発言であるが、例の機動隊員が、沖縄人に対し、「この土人めが」と発言した時の真意を問題としたい。彼の土人発言は、上記分析に照らせば、余りにも文明開化開国派が盲従する国際ユダ邪派の「先進文明国史観」をそのまま受容し過ぎていないだろうか。国際ユダ邪派にとっては、国際ユダ邪派以外の世界の諸民族は牛馬犬猫の類のゴイムなる存在であり、煮て食われようが焼いて食われようが、その者たちをそのように扱うのが神から選民された国際ユダ邪派の義務であり権利であるとする。この目線上に土人が居り、殺戮しようが陵辱しようが馴致しようが我々の自由と云うまことに得手勝手好都合な論理構造式を引き下げている。

 れんだいこ史観は、国際ユダ邪派に殲滅され、あるいは馴致された原住民、即ち土人が未開野蛮であったと判定しない。今日の如くの核兵器、原発、その他化学生成物による地球汚染の時代にあっては、概ね自然と共生しつつ原始的に生活していた生態の方が寧ろ本質的に賢かったのではなかろうかとさえ思えてくる。衣食住が自然素材で自然と共生してきた彼らの文明の方が高等だった気がしないでもない。国際ユダ邪派の狡知は、いわゆる「賢こバカ」ではないかと思えてくる。

 こう考える私からすれば、例の機動隊員の「土人発言」が「先進文明国史観」に毒づけられた卑しい史観に基づいての暴言であるのは自明である。国際ユダ邪の目から見れば彼もまた土人の側であるのに、いずれブーメラン的に我が身に突き刺さってくるのに土人批判に興じて悦に入っている。お粗末と云うか思想愚人である。ここまでをその1とする。本稿はここまでとしたい。

 れんだいこのカンテラ時評№1288  投稿者:れんだいこ  投稿日:2016年 7月25日
 NHK「ロッキード事件 40年目の真実」特集番組のお粗末考

 2016.7.23-24日、NHKスペシャル「未解決事件シリーズ」の一つとして戦後最大の疑獄事件と云われるロッキード事件が取り上げられた。このことはゼツ良い。「ロッキード事件-40年目の真実」と題して二夜連続の三部作で放映された。このこともゼツ良い。問題は中身である。私は大いに注目し固唾を呑んで見守った。しかしながら結論から言うと、「全くの駄作」でしかなかった。その「これが40年目に判明した真実だ」の観点はむしろ反動的なものだった。そのことに対する怒りを熱の冷めぬうちに記しておく。

 「ロッキード事件-40年目の真実」とあるからには、これまでの「敵役角栄論」報道を自己批判し、「見直し角栄論」への転換があるものと思った。ところが実際には、「角栄の5億円授受」を肯定し、実はそれは民間航空機購入賄賂ではなく軍用機購入働きかけの賄賂だったと書き換えているに過ぎない。こんな推理に導く為の「40年目の真実」に付き合いさせられるとは情けないこと限りない。俗に噴飯ものと云う。

 こうなると、「50年目の真実」に期待するしかない。実は、角栄の5億円授受は冤罪で、角栄自身が徹底抗戦したのは当然だった。真実は児玉-中曽根派の犯罪であり、それを日米合作で角栄犯罪に仕立て上げて行ったのが日本版ロッキード事件の特殊性である。これぐらいのことは云って貰わんと私の怒りが収まらない。

 とはいえ、功績がない訳ではない。一つは、第一部で、角栄贈収賄5億円よりも金額が4倍多い児玉関連21億円の行方の未解明問題につき、相当程度に詳しく検証していたことである。「結局は未解明に終り今日に至っている」不自然さを衝いているのは正しい。NHKにこれ以上期待するのは無理かもしれない。敢えて腰抜けぶりを晒しているのかもしれない。その後を受け継ぐ者が、児玉の政財界交遊で最も近いところにいた中曽根-ナベツネラインの果たした役割に切り込むが良いとメッセージしているのかもしれない。と、こうまぁ善意に解しておく。

 立花を登場させたのも正しい。それは何も聞き飽きた立花論を聞かせてもらうところに意味があったのではない。現在の立花の老醜を際だたせていたところに意義がある。マスコミはこの御仁を知の巨人とおだて上げ、ロッキード事件の節々で語らせてきたが、角栄が失脚終焉するに応じて立花までもが御用済みとなり歴史のお払い箱の中に使い捨てられてしまった。今でも減らず口を叩いているが、云えば云うほど知の虚人でしかないブザマさを晒している。そういう意味で、現在の立花を登場させ映像化させたのは値打ちものであった。

 第二部で、東京地検ロッキード事件特捜部の捜査を指揮した吉永祐介を善人検事に仕立て上げ、その苦悩を語らせている。これは臭い芝居でしかない。真実は、角栄を被告人に仕立て上げる虚構のシナリオに協力する見返りの出世甘言に飛びついた機会主義者でしかなかったのではないのか。現在に至る司法の腐敗は、この時に甘言に飛びついた連中による「法の番人たちによる上からの法崩し」に始まっているのではないのか。「ロッキード事件-40年目の真実」はこのことを片鱗たりとも伝えていない。と云うか逆に描いている。こういう場合、この調子で書かれたものを読めば読むほど阿呆になるし阿呆にされてしまうであろう。

 第三部で、どういう展開、結末になるのか期待させた割には愚昧なものを見せつけられ聞かされてしまった。曰く、「角栄に渡った5億円はロッキード社の民間機ではなく軍用機受注働きかけへの接待金だった」云々。こういうすり替えは酷過ぎるし後味が悪い。NHKよ、角栄が不退転で死ぬまで争った男の名誉、メンツ闘争に対して余りにも侮辱であり、ぶしつけ過ぎる推論ではないのか。なんでそんなに「角栄の5億円授受」に拘るのだ。児玉-中曽根-ナベツネ派の21億円授受に対してはあっさり尻尾巻くのに比してしつこ過ぎやしないか。

 以上、一応のことを言うことができた。以下、れんだいこがロッキード事件史全体のキモの部分を取り上げて衝撃を与えておく。中曽根の揉み消し依頼の件は別の機会に論じる。

 1976(昭和51).2.4日にロッキード事件が勃発し、7.27日に逮捕されるまでの間の6.24日、三木首相がプエルトルコで開かれる第2回目の主要先進国首脳会議に向けて出発した。6.30日、帰路ワシントンに詣で、日本側から三木首相、宮沢外相、アメリカ側からフォード大統領、キッシンジャー国務長官、レビ司法長官が出席する首脳会談をしている。

 この時の会議資料が非公開で国家機密扱いとなっている。公文書保管所のスタッフは今日においても「その記録は国家安全保障上の理由で公表されない」としている。公文書公開先進国の米国が今に至るも公開できないのは何故なんだとして取材する者、社がいない。

 れんだいこには次のことが透けて見えてくる。1、ロッキード事件を、児玉-中曽根犯罪に関わるP3C哨戒機などの軍用機の解明に向わせない。2、代わりに角栄に容疑を被せ逮捕まで漕ぎ着ける。その為に民間機購入のトライスター疑惑をデッチ上げる。3、米日両国はこのシナリオに基づく捜査進展に総力を挙げ全面提携する。4、これを機会に角栄及び田中-大平派のハト派政治権力の徹底的解体に向かう。公開できないのは、この陰謀的申し合わせが露見されるのを恐れているからではないのか。しかもこの申し合わせが相当に日本側に対して屈辱的な命令口調のものになっており、三木がペコペコし過ぎているからではないのか。

 1997年に公開されたキッシンジャー・レポートは、この時、三木首相と「ロッキード事件についての全般的な意見交換」をしたことを伝えている。興味深いことは、田中首相に対する絶賛且つ警戒的レポートとは対照的に、三木評は「彼の政策はしばしば詳細に欠け、実質的な内容より広報宣伝的要因から生まれる場合が多い。三木が成功した分野は数少ない」と軽視酷評されていることである。そういう三木のアホウさをうまく利用せよの魂胆が透けて見えてくる。

 事実、アホウの三木は、7.3日、サンフランシスコで同行記者団と懇談した際、キッシンジャー権力の後押しを得た強みを背景に、「ロッキード事件が解明されない限り今後の政治日程は立てられない」、「『三木下ろし』には断固戦っていく」と述べている。この時より、「ロッキード事件の徹底究明に自分の政治的生命を賭ける」と強気に出ることになった。これがマスコミ言うところの「クリーン三木」の裏の顔である。当時も今もマスコミのオツムはこの程度のものだったんだな。

 れんだいこのカンテラ時評№1287  投稿者:れんだいこ  投稿日:2016年 7月19日
 れんだいこの不正選挙論追伸

 れんだいこは既に不正選挙にかなり言及してきている。こちらのサイトに収納している。senkyo/fuseisenkyoco/

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 但し何の効もなく相変わらずの不正選挙が横行している。このところ発言を控えていたが、2016第24回参院選が看過できない腐臭を漂わせているので、改めて告発し世に問うことにする。マスコミは参院選後直ちに都知事選に誘導しており、立ち止まって考えることをさせないが、この仕掛けを破らないといけない。

 不正選挙告発につき既に次のような告発がなされている。概要「当落、票数は黒幕により事前にリスト化されており、投票はポーズでしかない。不正側は実際の票を改竄してリストに合わしている。開票所での写真撮影が禁止されているのは、この不正が見抜かれるのを恐れるからである。黒幕が各都道府県の選管集計を改竄できる仕組みがある。官僚全般、総務省、警察、裁判所、日銀の上層部が黒幕に人事権を握られており買収されている。マスコミは不正シナリオに基づく結果を受け入れさせるべく与論誘導役を果たしている。マスコミは選挙結果を黒幕経由で知っているから開票0%で当確を出せる。その選挙報道はヤラセである故に金太郎飴になる。政治家はこの黒幕に媚(こび)ている。不正選挙で当選した政治家は黒幕の言うことをきくしかない。政官界のトップは概ね不正黒幕に懐柔されている。

 実にそうだと思う。これを踏まえつつ、ここでは新たな視角として「票分析」を通しての不正選挙告発をしておく。「2016参院選の不正疑惑」の象徴に東京都選挙区(当選枠6)の例を挙げる。ミュージシャン三宅洋平が、生活の党と合同し果敢な活躍を示している山本太郎の強烈な後押しを得て、当確の予感があった選挙区である。実際はどうなったか。結論から言えば、1位/民進党の蓮舫、2位/自民の中川、3位/公明の竹谷、4位/共産の山添、5位/自民の朝日、6位/民進の小川であった。続いて7位/おおさか維新の田中、8位/無所属の横粂。三宅は9位で落選した。事前予想に反して鉄砲届きしなかったことになる。

 三宅陣営は善戦総括しているようだが異議がある。もの言わぬは腹膨るる業なりの諺があるので我が主張を吐露してスッキリさせておく。「9位三宅」は本当の票だろうか、かく問いたい。結論から申せばウソであろう。以下、これを論証しておく。

 その第一に、「1位/民進の蓮舫」票の異常の多さに注目したい。蓮舫は結果的トップではない。ほとんど全開票所で圧倒的に勝ち抜いている。この票は本当だろうか。「9位三宅」票が抜き取られ蓮舫票にすり替えられている可能性はないのだろうか。蓮舫は与党候補ではない。かってはそうであったが今は野党の落涙の立場の者である。それほど政治能力が秀でているとは思えない。各選挙区をトップで牛耳るほどの業績があったとも思えない。何か操作の手を感じる訳である。

 この疑いは「4位/共産の山添」票にも及ぶ。生活の党票が共産票にすり替えられている疑いは山本太郎当選の時にも及んでいる。前回の2013第23回参院選の東京選挙区で山本太郎は、666,684票を獲得し4位当選している。この時の共産の吉良佳子は703,901票で3位当選している。それは構わないのだけれども山本票の一部が吉良票に流れての3位当選だったのではなかろうかの推理の余地がある。吉良はその後ロチュ-で有名になったが、政治的業績で目を見張るようなものを知らないので仕掛けの有りそうな高位の3位当選を鵜呑みにして過信しないほうが良かろう。

 もとへ。2013第23回参院選東京選挙区の山本票666,684に比してこたびの田中票257,036は異常に低い。こたび山本は田中を全面的に応援し演説会場には人があふれ続けていた。かっての山本票は政治的確信派の票であり、その票はこたびは三宅に流れ込むのが自然である。ところが山本票666,684の約3分の1にとどまっている。本来は山本票666,684以上のものがあったところ他の候補票にすり替えられて少なくさせられていると読むのは自然ではあるまいか。

 興味深いことに、選管ムサシを使わずに手作業で集計した小笠原村では何と三宅票は215で1位、以下は蓮舫184の2位、中川175の3位、朝日160の4位、竹谷101の5位、山添78の6位となっている。これを、離れ小島の田舎ゆえの椿事とみなべきだろうか。手作業で集計したなら他の選挙区でもこうだったのではなかろうか、実際には小笠原村のように他の選挙区でも三宅票は強かった、善戦していた、それを選管ムサシにいいようにあしらわれたと推理すべきではなかろうか。

 もう少し確認しておく。「9位三宅」の奇妙なことは、どこでも「9位三宅」なところにある。投票集計は区で23、市で24、西多摩郡4、島9から成る。このうちの区と市の全47ヶ所で、1位/民進党の蓮舫、2位/自民の中川、3位/公明の竹谷、4位/共産の山添、5位/自民の朝日、6位/民進の小川、7位/おおさか維新の田中、8位/無所属の横粂、9位/無所属の三宅の順となっている。

 入り乱れての結果順位ではなく、ほぼ常にこの順位で票がカウントされている。つまり、ほぼ全ての投票所の票割がこの順位になるように括られているかの感がある。マスコミは出口調査の確率論で素敵な弁を聞かせてくれているので、この現象も自然にできるものか操作によるものかを確率論で説明してみるが良かろう。

 他にも調べておきたいことがある。それは、選挙区における「9位三宅」票と比例区における生活の党票の相関関係である。普通はハーモニーするはずであるが、どういう按配になっているのだろうか。これにつきまだ調べていない。どなたかにお願いしたい。過去の小沢系政党の例えば未来とか生活党の場合、選挙区票に全く比例しない超低い比例票になっている。選挙区票と比例票がかくも食い違うものなのか、この現象も自然にできるものか操作によるものかを確率論で説明してみるが良かろう。

 以上、こういう票分析推理が成り立つ。この言を何を馬鹿なことをと否定されるなら、宜しい共に検票しようではないか。どうしてもさせない、写真もビデオも撮らせないと云う選管にさせるべく働きかける仲間になってくれ。私の推理を否定するのは検票後にしてくれまいか。

 吉備太郎の津軽あさこはうすの闘い考  投稿者:れんだいこ  投稿日:2016年 3月18日
 「吉備太郎の鹿久居島原発阻止千日闘争考」、「吉備太郎の三重県芦浜原発阻止37年闘争考」と来れば「津軽あさこはうすの闘い考」もしておきたくなったので急遽記す。

 青森県の下北半島の最北端にある大間町、恐らくこの辺りは津軽と云われるのだろうと思われるが、「山に行けばワラビ、ゼンマイなどの山菜。山葡萄、スグリなどの果実。川ではアユ、ヤマメ、イワナ。海はウニ、アワビ、スズキ、イカ、ソイ、ブリ……」と誇りにされている自然の幸に恵まれた地である。その豊かな自然ゆえに下北半島全体が国定公園に指定されている。そういうところを狙い撃ちするかのように原発屋が策動している。

 1980年代初頭、(株)電源開発による原発建設計画が持ち上がった。1984年12月、町議会が原子力発電所誘致を決議した。大間町議会は議員定数10人で佐藤亮一さんが唯一の反対派議員だった。2008.4月、国から原発設置許可が出される。翌5月、事業者である(株)電源開発が大間原発の建設工事を開始した。

 この時、原発建設予定地には176人の地権者がいた。たった一人を除く地権者175人が買収工作に屈した。熊谷あさ子さん(1938年-2006年)が応じなかった。これを仮に「津軽あさこはうすの闘い考」と命名して確認しておく。彼女は、「畑は売るな」という父の遺言を守り、原発の執拗な土地交渉を頑としてはねのけた。2億円の金額が提示されたが次のように述べて拒否している。金では動かず、祖国と守るべき共同体を知る、要するに歴史目線を持つ津軽女だったのではなかろうかと拝したい。

 「10億円積まれても土地は売らない」、「お金の問題ではない」、「きれいな空気ときれいな水ときれいな海があれば、人間はみな平和に暮らしていける」、「大間の海はマグロやコンブ、ウニ、アワビ…ここで採れないものはないという宝の海です」。

 札束で懐柔することができないとわかると、原発推進グループのお家芸とも云える車による尾行、ヤクザによる説得、脅迫状、町長の圧力…が始まった。あさ子さんはこれにひと通り見舞われた。彼女は村八分状態にされながらも土地売却を拒否し続けた。大間原発の建設が進まなかったのは「津軽あさこはうすの闘い」の賜物である。この闘いがなければ2011.3・11以前に完成し稼働していたはずである。そうすればどうなっていたのか。広瀬隆・氏は講演で次のように述べている。

 「万が一、大間原発が大事故を起こしていたなら、今ごろ青森、北海道はもとより、日本全土は壊滅的な被害を受けていただろう。フルMOX原発の事故による放射能汚染被害はウラン原発の比ではないのだ。仮定の話とはいえ、ある意味、熊谷あさ子さんは日本を崩壊から救った恩人であるといってもいい」。

原発拒否に失敗した側の福島・飯舘村の酪農家・長谷川健一さんはこう述べている。

(「◎ マガジン9による、大間レポート」)(http://www.magazine9.jp/genpatsu/120808/

「私たちは(原発事故によって)すべてを失ってしまった。将来に絶望して自殺した友人もいる。大間の人たちは私たちの姿を見てほしい。原発がどんなものか、事故が起きたら、そこに住む人たちがどんな報いを受けるのかを」。

 大間原発は、「津軽あさこはうすの闘い」の為に、当初予定されていた場所から位置をずらして建設せざるを得なかった2006.5.19日、あさこさんは、所有地にログハウスを建て「あさこはうす」と命名し、引っ越し準備中に畑で倒れ大間病院に入院、そのまま帰らぬ人となった(享年68歳)。死因が「ツツガムシ病」と発表されたが下北地方でツツガムシ病で死者が出たのは40年ぶりという。変死と見なすべきだろう。

原発の建設予定地の中に「あさこはうす」がポツンと残された。この頃、夫の海外赴任で長く外国暮らしが続いていた長女の小笠原厚子さんが帰国する。母が原発建設に反対し闘っていたことを知った。「娘に心配をかけたくなかったのでしょうね」。母の思いは娘に引き継がれ、母が遺した「あさこはうす」に月の半分住み、自宅のある北海道北斗市との二重生活を続けている。「あさこはうす」と原発との距離はわずか250m。土地の周りには鉄条網が張り巡らされ、約1キロの細い道を通って辿りつく「あさこはうす」の入り口には電源開発の監視小屋があり人の出入りがチェックされている。さながら「青森県大間町の三里塚闘争」の趣がある。

 事故が起これば一衣帯水の被害者になる函館市民が「津軽あさこはうすの闘い」を支援している。大間原発に対する北海道民の関心が高く海を越えた支援の輪が広がりつつある。現在、「ストップ大間原発道南の会」を母体にする「大間原発訴訟の会」(竹田とし子代表)が建設差し止めを求めて提訴、係争中である。

 「大間原発に反対する大MAGROCK」なる反核ロック・フェスティバルが「あさこはうす」で開催されている。八戸在住のYAM(山内雅一)さんが立ち上げ、武藤北斗さん(当時は宮城県石巻在住。現在は大阪に移住)、冨田貴史さんらが中心となって活動している。全国から数百名規模の若者が集まり、反核ロック・フェスティバル、大間原発反対集会を挙行している。

 2013.6月の大MAGROCK集会で厚子さんはこう訴えた。

 「母の7回忌を済ませ、なんとしてもこれ以上原発を増やしていけないと改めて決意しました。地元での活動には限界があるのでこれからは全国の皆さんに支援をお願いしたい。大間原発のことをまだほとんどの人は知らないのでなんとか関心をもってもらいたいのです。野田首相は『国民の生命・財産を守るために大飯原発を再稼働した』と言いましたが、守らなければならないのは子供たちの命と健康であり、財産というのは子供たちのことです。これからの日本を背負っていく子どもたちをこれ以上不幸にさせてはなりません。経済よりも何よりも生命が一番なんです。日本は海に囲まれている国。大きな津波が来たらどうしようもない。そこに一番危険なものが建っていたらどうなるか。地震も津波も自然災害です。でも、原発は違う。前もって防ぐことができるんです。それはすべての原発をなくすことです。今、『あさこはうす』の土地に水を引き、菜の花を植えて一面の菜の花畑にして、子供たちが自然の中で自由に遊べるような場所にしたいと考えているんです。母が最後まで守ろうとしたこの土地を私が引き継ぎ、原発が世界からなくなるまで頑張っていきたいと思います」。

 2013.7.19日、小笠原厚子さんが片道15時間、夜行バスで駆けつけ、毎週金曜日の脱原発抗議行動で声をあげた。国会前と官邸前でスピーチして帰路についた。

 「現在、大間原発の工事は(全体の)半分も進んでいません。昨年(2012年)10月に燃料棒を入れる容器はできましたが燃料棒そのものは入っていません。まだ大間原発は『ただの箱』なのです。今ならまだ間に合うんです。これがもし大間原発が稼動してしまったら、(日本に設置される原発は)54基から55基となり、また私たちは子どもたちに負の遺産を残すことになります。もうこれ以上、原発は要りません。子どもたちが安心して将来生活していけるように――その道筋をつけるのが私たち大人の責任です。何としても、子どもたちが安心して暮らしていける社会を作るために、私たちが協力して原発をなくして行きましょう。私の母は、海を守るために、家族を守るために、そして自然を守るために土地を守って来ました。いま、私は母の遺志を継いで、その土地を守っています。まだ大丈夫です。これから改めて、みんなが声を合わせて原発反対の声をあげて行きましょう。地元ではなかなか声をあげられない人もいます。福島の原発事故以前は、『今さら反対しても…』、『どうせ原発はできてしまうのだろう…』、『どうしようもねーべや』等の声も聞かれましたが、事故後は違います。言葉には出さなくても、心の中で『原発はやっぱり要らない』、『原発は危険だ』と言いたい人はたくさんいます。ただ、原発関連の仕事で生活しているために、おもて立って声をあげられない人がいるのも事実です。ですから、こうして官邸前、国会前でみなさんが『大間原発反対』、『大間作るな!』と声をあげ続けて下されば、その大きな声は必ず大間に届くはずです。どうかこれからもよろしくお願いします!。大間はフルMOXの、世界で初めての原発です。もちろん(株)電源開発も、まだフルMOXについては初めてです。この大間で原発が稼動して事故が起きれば、土地、海、動物たち、そして私たちの生活のすべてが破壊されます。私たちはふるさとを失うことになります」。

 2011.7月、ツイッター登録「あさこはうす(公式) 」。

 ?〒039-4601 青森県下北郡大間町字小奥戸396 あさこはうす」
カンパなど/郵便振替口座 02760-3-66063 「あさこはうすの会」宛て
 (asakohouse.cocolog-nifty.com/blog/ )

 あさこはうすで汲み上げていた地下水が枯れてしまい(注:原発工事の関連か?)、「水」に不便しているとのこと。電気は自家発電しているとのこと。水の送り先は上記住所へどうぞ。※宅配便の業者によって送り先・電話番号が必要な場合、小笠原厚子さんの携帯番号〔090-9528-4168〕を記入してくださいとのこと(ご本人承諾済)。


 吉備太郎の三重県芦浜原発阻止37年闘争考  投稿者:れんだいこ  投稿日:2016年 3月16日
 先の「吉備太郎の鹿久居島原発阻止千日闘争考」で「完全勝利での決着済みは鹿久居島原発阻止千日闘争だけかも知れない」と記したが、これは小生の不明で実は他にもそれなりに事例があることが分かった。しかし知らなかったのは何も私め独りではあるまいと思う。以下、その代表的事例である「三重県芦浜原発阻止37年闘争考」を書き添えておく。原発阻止闘争史は「反原発闘争の歩み」に記す。

 1963(昭和38)年、中部電力(以下、単に中電と記す)が、熊野灘への原発建設計画を公表した。

 1964年、中電が、三重県旧南島町(現南伊勢町、古和浦)と旧紀勢町(現大紀町、旧錦町)にまたがる芦浜地区を原発計画地に決定した。この地は伊勢志摩国立公園の西数kmに位置する熊野灘の一角の美しい砂浜地でありウミガメの産卵でも知られている。以降、37年間に及ぶ長い原発闘争が始まった。

 原発計画が来る前の村は平和だった。漁村というものは一つの生活共同体であり、その結束力は非常に強い。芦浜に漁業権を持つのは古和浦と紀勢町錦の両漁協であった。この両漁協と漁民に対する凄まじい懐柔作戦が発動された。賄賂金、ただ酒、結婚式・葬式の際の持参金、「原発視察」という名目の招待旅行、漁協総会での1票10万と云われる票買い等々による篭絡であった。中電は徐々に受容派を増やしていった。

 これより住民間に対立が始まった。この頃、南島町議会と町内7漁協は反対、紀勢町議会は誘致と云う相対立する決議を採択している。南島町と紀勢町がいがみ合う事態となり暴力的な事件に発展し機動隊が出動する騒動を引き起こしている。反対運動のリーダーが二度も自宅を襲われ、駆けつけた警官が暴漢の身柄を拘束せず自宅に帰す「羽下橋事件」。何者かがゴム印を使って注文し漁業組合長の自宅に次々と宅急便が送り届けられる嫌がらせ事件などが起こっている。
 しかし反対派はあきらめなかった。彼らの心情が次の言葉に言い表せられている。

「わしらは昔からこの海で生きてきた。海はわしらのもんやない、先祖から受け継いで子孫に残すもんや。わしらに海を売る権利はない。子孫に災いを残してはいかん」。

 1965年、中電は密かに芦浜の用地を買収した。※芦浜は現在も中電の所有地であり、立ち入り禁止となっている。

1966.9.19日、原発推進を主導してきた中曽根康弘団長、渡辺美智雄議員らの衆議院科学技術特別委員会の芦浜現地視察団がテコ入れに来県した。一行は名古屋から紀伊長島を訪れ、長島港から海上保安部巡視船「もがみ」で芦浜沖へ入ろうとした。

 これを南島町の漁船150隻が取り囲み実力阻止した。沖合いには別に350隻の漁船も待機していた。これを「原発長島事件」と云う。反原発闘争のリーダー達25人が起訴された。被告は「町を救った勇士」であり、「起訴は反対派をより強固にし一枚岩にした」。起訴された25名は後に有罪判決を受けている。

 高谷副知事が南島町民との話し合いで、原発建設には南島町住民の同意が得られることが必要だという内容の文章に捺印した。副知事はこれにより更迭された。その後、田中覚知事は原発計画を棚上げにした。原発阻止闘争の勝利となったが、これは最初の勝利に過ぎなかった(芦浜原発阻止闘争勝利1)。

 知事が田川亮三の時代となった。彼は福島原発を視察し、安全性確信教育を受けて帰県した。以降、中電と県が一体となって推進工作を強めた。この頃、南島町はそれまでの真珠母貝の養殖からハマチ養殖に切り替えつつあり、これが奏功し町のあちこちに「ハマチ御殿」が建ち始めていた。漁民は「宝の海が汚染されてはたまらない」と述べて原発誘致に耳を貸さなかった。原発が麻薬と同じであること、財政難の過疎地に誘致をもちかけ電源三法による交付金を過疎の町に落とすものの、そのうち再び財源不足になり新しい原発を建てるしかなくなると云う繰り返しで原発が増えて行くことを学んでいた。

 1967年、原発推進の紀勢町でもリコールで町長が辞職させられた。同年9.26日、当時の田中覚知事が「原発問題に終止符を打つ」と宣言し、原発計画を再度棚上げした。又も原発阻止闘争勝利となったが、これは2番目の勝利に過ぎなかった(芦浜原発阻止闘争勝利2)。

 この年、中電浜岡原発計画が進行し、(反対が少なかったため)1971年着工が決定されている。この年、新潟水俣病の患者が昭和電工を相手取り、新潟地方裁判所に損害賠償を提訴した(新潟水俣病第1次訴訟)。四大公害裁判の始まりである。

 1969.6.14日、熊本水俣病患者・家族のうち112名がチッソを被告として熊本地方裁判所に損害賠償請求訴訟(熊本水俣病第1次訴訟)を提起した。

 1971年、新潟水俣病1次訴訟の判決があり、有害なメチル水銀を阿賀野川に排出して住民にメチル水銀中毒を発生させた昭和電工に過失責任があるとして原告勝訴の判決が下された。公害による住民の健康被害の発生に対して企業の過失責任を前提とする損害賠償を認めた画期的な判決となった。

 1973.3.20日、熊本水俣病第1次訴訟に対して原告勝訴の判決が下された。被告のチッソは「工場内でのメチル水銀の副生やその廃液による健康被害は予見不可能であり、従って過失責任はない」と主張していたが、判決は、「化学工場が廃水を放流する際には地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有する」として、公害による健康被害の防止についての企業責任を明確にした。

 1976.2月、田川知事が電源立地三原則を打ち出し、間もなく国の「要対策重要電源」に指定された。田川知事は、芦浜原発に反対する住民を「井の中の蛙(かわず)」呼ばわりし、「原発を勉強せよ」と逆さ説教し続けた。

 1977年、国は芦浜地区を要対策重要電源に指定した。

 1978年、町長と中電の贈収賄事件が発覚した。町民は町長を辞職に追い込んだ。次の町長は「凍結」を公約し当選を果たした。紀勢町長は「推進寄り」と「凍結」を互いに繰り返していった。

 1979.3.28日、米国東北部ペンシルベニア州のスリーマイル島原発事故発生。

 1982年、中電が再び蒸し返し始めた。1983年頃、町長が中電と立地調査協力協定を勝手に結んだ。町議会が事後承認した。こうして芦浜原発計画がぶり返した。これに対し、「芦浜原発を考える町民の会」、「海を守る会」、「有志会」などが次々と結成された。

 1984年、三重県も原発関連の予算を計上し、県議会も立地調査推進を決議した。これに対し、「原発いらない三重県民の会」、名古屋の「反原発きのこの会」による月1回の紀勢町全戸チラシ入れを84年から85年にかけて行い対抗した。この年の暮れ、四国の窪川でできた町民投票条例を紀勢町でも作ろうと、「町民の会」が中心となって直接請求を行った。結果は、当時有権者数の3分の1強の1600名余の署名を集めたが、町議会は丸1年にわたる継続審議の末、否決した。

 1985.6月、中電が三重県に対し正式に協力要請した。同月、三重県議会が原発立地推進を決議した。漁民たちは烈火のごとく怒った。7.12日、危機感を強めた南島町7漁協の漁民1500名が漁船500隻を熊野灘に連ね壮大な海上デモを展開して抗議した。県議会へバスを仕立てて抗議、傍聴に押し掛けた。対立の溝は一気に深まった。中電は環境調査申し入れを行えなかった。

 1986.4月、ソ連チェルノブイリ原発事故が発生した。はるか2万kmのかなたからお茶の名産地の度会の地に放射能が降り注ぎ茶栽培農家は大被害をこうむった。反対運動が強まり、漁民は再び海上デモを繰り広げた。

 同年12月、東京のテレビキー局の一つでハマチ・バッシング番組が報道された。曰く「養殖ハマチは薬漬けのうえ、漁網防汚剤として使われている有機スズがハマチの奇形を起こす原因だ」云々。他にも時期がはっきりしないが、ハマチ養殖の餌に混ぜられた抗生物質のせいで漁師の指が腐り落ちたなどと報道されている。指が落ちた一人はハマチの餌であるミンチをつくる機械に指をはさまれ、もう一人は全然別の原因だった。

 このマスコミ報道が養殖ハマチの単価の大暴落を引き起こした。1400円/kgだったハマチの値段が600円/kgまで暴落した。これがハマチ漁民の生活基盤を不安定化させ、特に南島町の打撃が大きく、経済的苦境に立たされた漁師が保証金目当てに推進勢力に呑み込まれていった。中電は借金を抱えた漁業組合員215名に対し漁民連帯にして金を貸す案を持ちかける等、手を替え品を替え工作を進めた。これよりマスコミが情報操作の道具として使われていることが判明する。我々はマスコミの時事報道の裏にある深層の真相を勘ぐる必要があろう。

 1993.12.16日、中電は、反対派の南島町古和浦漁協に対し「原発調査実害保証金」の前払い金として2億円を預託した。覚え書きには海洋調査に同意すれば補償金に振り替える、つまり返さなくて良いとしていた。要するに賄賂だった。古和浦漁協は受け取り、正組合員1名につき100万円を渡した。反対の本丸だった古和浦漁協が落城させられた。

1994、5.31日、「三重県環境影響評価の実施に関する指導要綱」が公告された。環境アセスメントの実施手続きとして、その第2条に「知事及び関係市町村に通知しなければならない」と規定するだけだった。この規定では通知すればよく、知事や町長の同意はいらないという解釈になる。一方で、県は住民との間で「四原則三条件」の一つに「地域住民の合意」を掲げていた。

 7月、中電が錦漁協へ3億7千万円を無利息で貸しつけている。本金は海洋調査受け入れの場合補償金にあてるとする覚書がついていた。漁協は受け入れ組合員に200万円ずつ渡している。

 この年、激しい買収工作の結果、原発絶対反対だった南島町に7つある漁協のうちの一つ古和浦漁協執行部の理事も推進派が多数を占め、30年間守り続けてきた「芦原原発反対決議」を白紙撤回し、紀勢町の錦漁協と共に中電の海洋調査の受け入れに同意した。しかしなお各漁協で対応が分かれていた。この後、中電は古和浦漁協と元々推進派だった紀勢町の錦漁協に損害補償金及び協力金の名目で15億円(古和浦漁協が6億5000万円、錦漁協が8億5000万円)支払っている。漁協から個々の組合員に凡そ200万とも300万とも云われるカネが分配された(古和浦は当時、正組合員215人)。

 8月初旬、反対派が初めて十人が寄り合いを持った。盆明けに新たに組織を作ること、具体的には住民投票条例を作ることを目標にすること、見通しとして過半数の署名を集めれば可能だろうなどが話し合われた。9.23日、「紀勢町住民主権の会」(会報発行責任者/柏木道広)発足が決議された。9.24日、「主権の会」発足。11.13日、第1回ちらし折り込み。(11.30日、中電が海洋調査申し入れ)、12.3日、抗議集会、12.5日、抗議文手渡し、住民投票条例を求める陳情署名を開始した。

 海洋調査開始の日(いつかは不詳)、反対派及びこれに加勢する人達が大勢訪れ2000人に達し海洋調査阻止座り込みを行い実力行使を敢行した。小さな町だけの問題でなくなり三重県全体の問題へと発展した。

 1995.2.20日、署名集約が2316名となり有権者の過半数を超えた(94/9/1現在、有権者数4363)。2.22日、提出(2312名、2/24追加5名計2317名)。

 1996年、「南島町芦浜原発阻止闘争本部」を結成。県民の過半数に及ぶ81万2335人の反対署名を北川正恭知事に提出した。県史空前の反対署名が県議会を動かした。南島町、紀伊長島町など原発反対を掲げる自治体が形成され、南島町、紀勢町では原発立地住民投票条例が制定され、反対の砦が構築された。

 ここまで回顧して言えることは、中電、政府、県が膨大な宣伝、カネ、権力、工作員などを総動員したが、結局は反対運動を潰すことができなかった。逆に反対派は不屈に闘い、これに連帯する反対運動が各地に広がり逆に切り返したと云うことだろう。

 1997.3月、県議会が調査・建設の冷却期間を置くよう求めていた南島町の請願を全会一致で採択した。同年7月、県は中電に対して立地予定地からの社員引き上げを正式に要請し、芦浜原発立地活動は1999年末まで「冷却期間」に入った。

 1998.2月頃、浜岡原発調査ツアー。同年4月頃、原発問題を考えるシンポジウム開催。

 1999年、北川知事が国内やドイツの原発を視察した。帰国後、南島町、紀勢町から意見聴取を行った。同年9月、東海村JCO臨界事故が発生した。この5日後、隣接の紀伊長島町議会が、原発広報安全等対策交付金を使って二泊三日の原発視察に福島県の広野町に出かけていた。同時期に大内山村議会は北海道の泊原発を視察していた。11.16日、北川知事が、紀勢、南島両町に入り、賛否両派住民から直接、原発問題の聴き取り調査をした。何と、芦浜原発計画浮上後、36年にして「県知事が初めて現地入り」した。

 2000.2.22日、北川知事が県議会で「対立はゴールなきマラソン。計画の推進は現状では困難、白紙に戻すべきだ」と白紙撤回を表明した。その理由として、計画発表から37年もの間地元住民を苦しめてきたことにつき県にも責任がある、「電源立地にかかる四原則三条件」を満たしていないと述べている。当時、県民の53%、南島町民の86%が原発に反対していた。一方で紀勢町では原発推進派の勢いが勝っていた。中電は原発を浜岡1ヶ所に頼っていると現状打破として芦浜地区にも建設したいという思惑があったが、知事発言を受けて太田宏次社長が計画を白紙に戻すことを表明した(芦浜原発阻止闘争勝利3)。

 2001.9月、「原発を止めた町 三重・芦浜原発三十七年の闘い」(北村博司/ 現代書館)が出版された。

 長島事件では反対派として被告の一人となり、その後、推進を主張した古和浦漁協の上村有三組合長(81歳)は次のように述べている。

 「その時々を真剣に考え、懸命に生きてきた。今も中部電力の担当者と顔を合わせることもあるが、会話は世間話だけ。町内の対立も消えつつある」。

 37年の重みを知る反対派の或る主婦曰く、「昔のいい町に戻りつつあるなあ。でも芦浜が中電の所有地としてある限り気は抜けんのさ」。笑みを浮かべながらも幾度もうなずいてみせた、と云う。

 2011.2月、中電が今後の経営ビジョンに芦浜原発計画を再々浮上させようとした形跡が認められる。これまで不思議なほどに芦浜原発が動きはじめると1979年に米国スリーマイル島原発事故、1986年にソ連チェルノブイリ原発事故が発生している。こたびも直後の3.11日、東日本大震災(三陸巨大震災)が発生している。これを「お伊勢の祟り」と言わずして何と言うべきか。

 吉備太郎の鹿久居島原発阻止千日闘争考  投稿者:れんだいこ  投稿日:2016年 3月 4日
 「2013年/田舎暮らし希望地域ランキング」調査によれば、岡山県は全国移住人気ナンバー3位の評価を得ている。今静かに「移住するなら岡山」ブームが起きている。その大きな理由に「原発のない県」であることが挙げられると思う。従来の温暖にして雨の少ない「晴れの国岡山」だけの位置づけではこうはならなかったであろう。しかしながら、岡山県に原発がないことに対して、岡山県民自身が理由を知らない。それが「たまさかの僥倖」であることを知らない。

 かく云う私も、福島原発事故後、「実は岡山にも原発誘致の動きがあったんだよ」とある人に教えられるまで知らなかった。そういう按配だからましてや全国で知られることもなかろう。要するに知らされていない故に知られていない訳である。本稿で、岡山県下に原発が導入されようとして、それを見事に阻止した闘争を確認しておく。この闘争を仮に「吉備太郎の鹿久居島原発阻止千日闘争」と命名しておく。以下のサイトに格納しておく。詳しくはこちらを見るべきだろう。本稿は情報が入り次第追々に更に詳しく確認して行くつもりである。

  「吉備太郎の鹿久居島原発阻止千日闘争考」
 jissen/hansenheiwaco/
 genshiryokuhatudenco/hinasetosoco.html

 この闘争の意義は、原発阻止闘争のほんに数少ない勝利経験の一つとなっていることにある。こういう闘いは他にも「高知県東洋町の放射能廃棄物最終処分場拒否闘争」があるようである。現在進行形の闘いとしては、「山口県上関町の原発阻止闘争」、「あさこはうすの青森県大間町の原発阻止闘争」がある。完全勝利での決着済みは「鹿久居島原発阻止千日闘争」だけかも知れない。他のものは、既に遅かりしではあるが原発導入後の稼動阻止闘争であり未然阻止のものではない。

 岡山に原発基地がないのはこの闘争のお陰であり、その賜物である。岡山県民はこの僥倖をどんなに謝しても足りることはない。この「元一日」を謝しつつ暮らすべきだろう。既に原発基地を持たされている全国各地の住民は、この闘争を知るほどに地団太を踏んで悔しがるべきだろう。目下闘争の渦中の自治体住民は今からでも遅くない大いに学ぶべきだろう。かくメッセージしておく。

 「鹿久居島の原発阻止千日闘争」から見えてくるものは、住民、漁協、社会党、共産党、学者、僧侶、文化人の見識の高さである。この時の青木僧侶の予見力を見聞きせよ。神主たる者、住職たる者はかくあるべきだろうの手本のような気がする。

 「青木敬介/浄土真宗西念寺(さいねんじ)前住職/播磨灘を守る会代表の2カ所の原発建設計画阻止記」
 jissen/hansenheiwaco/
 genshiryokuhatudenco/hinasetosoco.html

 この闘争は共同戦線型運動により功を奏した貴重な経験である。全共闘こそが勝利の方程式であることが分かる。逆は逆と心得るべきだろう。加えて、1970年代前半のこの時期の政府、各省庁、地方自治団体等の選良が担う政治の質の高さが垣間見られる。行政当局として大石環境庁長官、加藤県知事が矢面に立ったが、両者が最終的に聞き分けを能くし、原発誘致阻止に廻ったことで今や最も評価の高い「原発のない憧れの岡山県」が温存されることになった。

 以上は本稿の前半である。後半はその後の鹿久居島について記したいと思う。日生周辺では、原発のみならず火力発電所の建設計画に対してもその都度、島民の漁師たちが真っ向から反対して中止に追い込んできた。リゾート開発計画に対しても同様に阻止したのかどうかは分からない。その為に日生は瀬戸内海屈指の遠浅な海域にも拘らず自然海岸が多く残されていて、今ではそれが地域の誇りになっている。2004年11月、鹿久居(かくい)島と頭(かしら)島との間に頭島大橋(300m)が開通している。2015年4月、岡山県備前市日生町の本土と鹿久居島の間に備前ハート日生大橋(765m)が開通している。

 この間、竪穴住居に泊まり、貫頭衣を着て火を起こし、狩りをする等の縄文時代生活体験で知られる「古代体験の郷まほろば」を観光地としていたが、2015年11月、管理棟から出火の火災で高床式の建物3棟が全焼、現在まで再建されていない。

 思うに、電力各社の原発誘致の甘言が、当該地域の自治体への交付金、給付金を餌にして行われている。とするならば、寒村であり続けるとワナの仕掛けに嵌る。それを思えば、地域毎に自律自存の産業力を持ち地産地消の経済圏を確立しておく必要がある。今や去る50年近く前にもなるが、田中角栄が政権獲得前に世に問うた「日本列島改造論」がこのことを的確に指摘している。この名著の中身は未だに瑞々しい。今からでも遅くない手にして学ぶべきだろう。原発阻止闘争と村興し&町造りは案外と密接不可分なんだなと思う次第である。

 吉備太郎の西大寺会陽考  投稿者:れんだいこ  投稿日:2016年 2月21日
 会陽(えよう)裸祭りは日本各地にあるらしい。当地の西大寺会陽は高野山真言宗別格本山/西大寺観音院で行われるもので、裸祭りの筆頭に挙げられる伝統を誇っている。「天下の奇祭」、「日本三大奇祭の一つ」としての人気を保持している。その歴史は遠く奈良時代に始まる。昔は午前零時を期してであったが、会陽500周年を迎えた2010(平成22)年から午後10時に変更された。

 会陽とは、修正会結願(しゅしょうえけちがん)行事の地域的名称である。岡山県以外でも香川県善通寺市の善通寺会陽などがある。岡山県には金山寺会陽(岡山市)、安養寺会陽(美作町)、岩倉寺会陽(西粟倉村)など多くの会陽がある。何といっても全国に名を知られているのが西大寺会陽(岡山市)であり、1959(昭和34)年、岡山県により重要無形民俗文化財に指定されている。

 この西大寺会陽に、恥ずかしながら小生はこの年になるまで出向いたことがない。阿波踊りには5年連続詣で、最後の年に徳島警察署の変な信号に引っ掛かり、交通違反切符切られて以来憑き物が落ちたように無沙汰する身となったが、県外の出し物に興じる割には地元のそれに詣でていなかった。今年、それはオカシイと非常に気にし始めた。

 西大寺会陽に行くことがなかった最大の理由は2月第3土曜日と云う極寒の最中の祭りだからである。当地では、「奈良のお水取り」として知られる東大寺の修二会の法要行事と同様に、これを境に「備前平野に春を呼ぶ」と云われている季節メロディーの行事となっている。そういう値打ちもんのものではあるが、寒さが苦手の私は敬遠し続けていた。

 ところが、今年は何となく行きたくなった。それも数年前にできた西川原駅を外からは確認しているものの実際に乗車してなかったので、その駅の初乗車も兼ねて電車で行ってみたいと思った。朝から雨模様だったが、天気予報で夕方には止むと知らされていたので気にならなかった。実際、雨は5時頃に止んだ。午後6時半頃の電車に乗った。車内はほとんど高校生、大学生だった。忘れていた青春を思い出し懐かしかった。半数近くの若者が携帯スマホでラインしているのが微笑ましかった。新しい風俗だなと思った。

 高島、東岡山、大多羅の次が目的地の西大寺駅で約15分ほどで着いた。駅を降りると花火が打ちあがっていた。花火そのものは幾分か間延びしており、たいしたものではなかったが、雰囲気の盛り上げに一役買っていた。同時下車した人がそこそこ居り、その人の流れに添っていくうちに西大寺に着いた。道中、裸衆詰所が灯りを灯しており妖気を漂わせていた。商店街のあちこちに居酒屋が開設されていた。寺院入り口近くの両サイドに夜店が並んでいた。この夜店通りの幅がまことに味わい深く、進む者と来る者が互いに二、三人同士で交わると肩が当るかどうかにしてある。これが何ともいえない味わいがある。

 午後7時頃、境内に入った。既に見物客が多い。報道人も多い。地元消防団、警察官も相当数出張っている。まず本殿に拝をしてからあちこちを見て回った。午後3時半頃、「少年はだか祭り」が行われ、地元の小学生男児が宝筒の争奪戦を繰り広げる。未来の頼もしの若衆予備軍である。女性の水垢離も行われ、毎年50名人近くがさらしに白襦袢を身につけ、男と同じように垢離取場、本堂、牛玉所殿を巡って祈願する。新しい岡山名物踊りとして評価を増しつつある「うらじゃ」による盛り上げも行われている。それらの余韻が残っている中を散策した。朝からの雨のせいで地面が少しぬかるんでいる。

 暫くすると、「ピッピッ」の笛の音が聞こえて来た。小生ごとながら、この笛の音に弱いんだ。それはともかく、裸衆第一陣とも云うべき数百人の隊列が「ワッショイ」の掛け声と共にやって来た。4人縦列しており先頭が学芸館高校の横断幕を掲げている。それも一直線に本堂に向かうのではない。仁王門方向に向かって突き抜け、暫くすると戻って来て、本堂前に整列し直し、気合いが満ちた頃を見計って本堂の大床(おおゆか)に雪崩れ込む。圧巻である。争奪戦の模擬演習をしているのだろう、両腕を上げ喚声を挙げ本押しする。本堂2階から柄杓水が掛けられるたびに蒸気になる。この往来を二度、三度繰り返す。

 これを少し解説しておく。午後8時頃、褌まわし姿に白足袋の男たちが西大寺境内に続々集まり、寺の前を流れている吉井川の水を引いた垢離取場(こりとりば)で水垢離(みずごり)をして身を清める。その後、本堂、千手観音、牛玉所殿(ごおうしょでん)の牛玉所大権現(ごおうしょだいごんげん)の順にお参りする。本堂裏手を抜けて四本柱に至る。四本柱をくぐり抜けたあと本堂大床で本押し模擬をする。裸衆は垢離取場、本堂、牛玉所殿を3度巡る。本堂建物の前半分を大床といい、ここで「地練り」(じねり)といって「ワッショイワッショイ」と掛け声をかけながら互いを押し合う。それを見て、清水方(せいすいかた)が頃合いに御福窓の脇窓から柄杓で水をまく。

 続いて大人の連隊がやって来た。先頭に横断幕を掲げ、どこの連か分かるようにしている。思い出すままに記すとNTT、岡山トヨペット、武蔵倶楽部、旭電業、岡山土地倉庫、三井住友等々だったと思う。これらは連の名ではなくスポンサー名かも知れない。各連隊が五月雨式に境内を練り回る。これも「地練り」と云うのだと思う。その後、高校生の演技同様に本堂前に整列し、気合いが満ちた頃を見計って本堂の大床に雪崩れ込む。「ワッショイ」、「ドスコイ」、「ワッショイ、ドスコイ」、「ワッショイ、ワッショイ、ドスコイ」の様々な掛け声が連によってあるようである。

 本堂の大床に向かう道中、両翼に人垣ができており、若い娘が、通り過ぎる裸若衆と握手したり肩を叩いてエールを贈っている。これが何と云うのか妙に自然体でやり取りしている。ここに陣取る若い娘たちはこれをやる為に毎年来ているのだろうと思うほど嬉しげ楽しげである。雰囲気が盛り上がる。

 最近は外人部隊の連もあるようで総勢50名ぐらいになっていたのだろうか。これまた楽しそうに参加している。殆どが白人なのだが黒人が一人居た。カメラマンに人気があるようで、外人部隊の連に付きっ切りでフラッシュを焚き続けていた。予感として、外人部隊の連は今後相当に増えて行くのではなかろうか。まさに阿波踊りの心境で「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃソンソン」の精神が受け継がれて行くのではなかろうか。

 ちなみに、この黒人は、テレビ東京系で放送中の人気バラエティー番組「YOUは何しに日本へ?」のナレーションを担当しているタレントのボビー・オロゴンさん(42歳)だった。同番組収録のため西大寺会陽に初挑戦し会場の熱気を体当たりでリポートしたことになる。ボビーさんは「宝木獲得に燃える男たちの姿に感動した。祭りの神聖な空気感を多くの人に伝えたい」と話しとのことである。

 この雰囲気を更に盛り上げる為、俄かに太鼓隊が登場する。紺地服の男衆5名、紅地服の女衆5名が躍り出て来て、太鼓リズムを奏で始める。女衆ドラマーが裸衆に接近してマンツーマンで太鼓を叩くと踊り始める若衆も出る。頃合を見て大太鼓が入る。大太鼓のバチ音と小太鼓のバチ音が絡んで最高潮になる。この太鼓のリズムの流れる間、「地練り」が続いている。

 小生には何やら縄文時代の祭りの光景、例えばアイヌの「イヨマンテの夜」に繋がる情景が垣間見えた。会陽は縄文時代との今に続くDNAの連綿を証しているのではなかろうか。ちなみに太鼓につき次のように解説されている。「祭りの開始を告げる会陽太鼓の打ち手は全て女性である。心の炎を燃やして男たちを鼓舞する炎祷と龍神の2曲を交互に演奏。これから始まる男たちの裸祭りに祈りを捧げる」。

 同時に気づかされた。これはどこかで見聞きした風景に似ている。ズバリ云おう。そうだ、これは全共闘系学生運動のデモの光景である。ヘルメット覆面がフンドシに代わっただけに過ぎない。裸衆の一連隊はセクトのそれになぞらえられる。学生運動をそういう風に捉えたことはなかったが、案外これが深層の真相だったのかも知れない。ピッピッの笛、それに合わせて「ワッショイ」、「ドスコイ」の掛け声で前進し、最後に本堂へ駆け上る姿は、むしろソックリではなかろうか。してみれば、あのデモは当人たちが気づかなかっただけで、会陽裸祭りの乗りと同じで実は縄文人のエネルギーを発散していたのではなかろうか。

 くどいけども書き足しておく。学生運動が逼塞して久しい。もはや壊滅されきっており往年の活力までの復元は望むべくもない。今となってはそれを回顧することしかできない。その際の頂点のシーンとして東大安田砦攻防戦が挙げられる。しかしそれは滅びの美学のそれでしかない。本当に追憶すべきは全共闘集会のシーンの方ではなかろうか。こちらは成長期のそれである。

 1968年11.22日の日大・東大闘争勝利全国総決起集会の光景が次のように描写されている。「午後2時頃から安田講堂前に集結し、銀杏並木と正門前が約2万名の学生でうずめられた。安田講堂前の広場は赤、白、青、緑、黒、銀色のヘルメットで埋めつくされ、その周囲に報道、一般学生が隙間なく立ち並んでいた。講堂正門には各派と各大学の旗が立ち並び、それを背景に各派のマイクアジテーションが続いた」。この全共闘が1969年9.5日、学生約3万4000名が結集した全国全共闘会議結成へと続く。さぞかし圧巻だったであろう。

 もとへ。裸衆の各連隊は何度となく境内を「地練り」し、仁王門と4本柱ゲートを少なくとも3回以上出入りを繰り返す。そうこうしているうちに定刻が近づく。辺りは静けさを装い始める。10時1分前、堂内の明かりが消される。いよいよ宝木が投下される寸前、裸衆の興奮は最高潮に達し、地響きのようなドゥオーの雄たけびが響きわたる。「裸たちのどよめきの声は、古の江戸時代、遠く四国の香川県まで届いた」と伝えられている。午後10時。真っ暗闇に消灯された堂内に雷鳴のようなフラッシュが点滅点灯する。僧侶たちが高さ約4mの本堂の御福窓(ごふくまど)から、まず小ぶりな枝宝木(えだしんぎ)を100組投げる。これは宝木の功徳のお裾分けの意味あいがある。

 最後に院主が、手にすると福を授かると云われる木の棒を束ねた守護札の宝木(しんぎ)を2本投下する。同時に明かりがつき千人余の裸若衆が奪い合う。裸衆は万歳のように両手を上げるのが鉄則で、手を下げていたら周囲からの圧力で下に押されていき踏みつぶされてしまう。大量の水が撒かれるが一瞬で湯気に変えてしまうほどの熱気に包まれる

 本物の宝木は修正会の2週間、高価なお香が焚きしめられているので非常に良い香りがする。但し、裸衆たちにはどれが枝宝木でどれが本物の宝木なのか分からない。運よく宝木を手にすることができたら、まわしの中に入れて走り逃げる。仁王門を出るまでは奪ってもいいというルールになっており、その阻止線を必死で搔い潜ることになる。宝木を手にすることができるかどうかは運次第で容易なことではない。「宝木は奪うものではなく授かるもの。信仰心を持ち精進していれば福は自然とやってくるのだ」と云われている。

 宝木取り争奪戦は例年凡そ25分近く続く。あちこちに渦ができる。その渦が次第に仁王門へと向かって行く。渦の下では熾烈な宝木取りが行われている。柵の外に待機している消防士が渦に水をかけるが直ぐに蒸気となる。「宝木が抜けたもよう」というアナウンスがあるまでもみ合いが続く。2本目の宝木が何時抜けたのか分からず、アナウンスが1回だけで終わったりアナウンスがないときもある。宝木がもはや境内にないことが分かると、揉み合っていた群衆が次第にテンションを下げ始め裸祭りが終了する。「俄然筆舌に尽くし難い争奪戦が展開され、境内を西に東に裸の渦となってもみ合う様は勇壮無比である。その御福(ごふく)にあやかろうと3万人の参拝者が境内を埋め尽くす」と記されている。

 参加者の中には正月から精進潔斎し、宝木投下に臨む熱心な者が大勢いる。阿波踊り同様にこれがやりたくて一年を生きている者が居る。わざわざ遠方より帰ってくる者も居る。県外の者も居る。県外の裸祭りに出向くものも居る。そういう連中がチームを作り、宝木獲得の練習に精を出し、作戦を綿密に立てグループ参加している。主なグループは「林グループ」(林昭二郎代表、約40人)、寺坂グループ、梶原グループ、阪田グループ、庄司グループらで100近くあると云う。

 クライマックスの宝木の争奪戦を最終的に制し宝木を手にした者を取り主(拾い主)と云う。境内を抜けた取り主は速やかに寺の近くの岡山商工会議所西大寺支所内に設けられた宝木仮受所に持って行く。宝木は白米を盛った一升枡(ます)に突き立てられる。直ちに寺に連絡され、検分役の僧侶が宝木削り(宝木の原木から宝木を削る行事)のときに切り放した元木と一升桝の宝木の木理(もくり、木目のこと)が合致するかどうかを判定する。

 鑑定により本物と認められれば取り主は晴れて福男に認定され、宝木の協賛者にあたる祝主(いわいぬし)が用意した祝い込みの場所まで宝木を持って行く。近年、祝い主は会陽奉賛会により事前に決められている。寺から赴いた山主が宝木を朱塗りの丸形の厨子に納め、祈願して祝い主に渡す。かくして宝木は祝い主のものとなる。祝主は「御福頂戴」(ごふくちょうだい)と書かれた45cm×120cmの白い額行燈(がくあんどん、横長の額の形に似た行灯)を掲げて宝木を披露する。福男には表彰状が授与される。福男にはその年の幸福が霊的に約束されている。宝木は1年で御利益がなくなる訳ではないが、祝い主は毎年会陽の始まる前に宝木を寺に持ち込んで祈祷を受け、新たな気持ちで年を迎えると云う。

 以上が私の西大寺会陽見聞録である。充分堪能させてもらって帰路についた。来て見て、宝木取りの瞬間だけが素晴らしいのではない、そこに向かうクライマックスまでの舞台がすばらしいことが分かった。さすがに伝統の産のものだけはある。自分まで福をもらった気持がする。来年も来たいと思った。飲んで帰ろうかと思ったが、一人では何分寂しく過半の流れに従い駅に向かって歩き始めた。

 その道中で、裸衆の道路渡りに出くわした。裸衆が仁王門から潮を引くように引き揚げている。道路は車両止めの歩行者天国になっており次から次へと道路を渡っている。それを両翼で人垣が囲み、特に女性軍がエールを送っている。夫か彼か友達かなのだろう親しく語り合っている者も居る。裸衆は誰も戦いの後の余韻に浸って頬が紅潮し肌が美しく光っている。男の裸がかくも美しいことを問わず語りで晒している。すばらしい男気の香りを発散させている。これに出会いたくて老若男女が会陽に寄るのだろう。

 裸たちは近くの簡易テントやそれぞれのグループ控え所に戻って、着替えを済ませて帰っていく。午前零時15分頃になると境内の裸の数は徐々に減り、やがて静寂な観音院の姿に戻っていくと云う。私は臨時列車に乗り岡山駅前まで戻り行きつけの日本酒バーに行って、今見てきたことを語り合った。幸せな一日だった。

 れんだいこのカンテラ時評№1281  投稿者:れんだいこ  投稿日:2016年 1月27日
 2016宜野湾市長選挙不正疑惑考

 2015.2.3日付けwantonのブログ「沖縄の選挙とムサシの関連まとめ」、2016.1.25日付けブログ山本直人ブログ「宜野湾市長選挙で報じられない単純な数字」その他を参照する。いずれも資料的情報を貰うのに役立った。判断はこちらで焼き直した。紳士的、上品、遠慮がちに云うのは性に合わないのでズケズケもの申すことにする。

 2016.1.24日、米軍普天間飛行場を抱える沖縄県宜野湾市の市長選投開票の結果は次の通り。自公派の佐喜真淳(現職、51歳)が27,668票。翁長知事派の志村恵一郎(元県幹部、61歳)が21,811票。前回は千票未満の僅差だったが今回は6千票の大差で佐喜現市長が再選された。当日有権者数は7万2526人。投票率は68・72%(前回63・90%)。

 この結果と数値をどう評すべきか。選管の厳正なチェックの下で算出されたもので不正はないと思うものは幸いである。この者は気分を悪くするだろうから以下読む必要はない。あらかじめ申し上げておく。この結果と数値に対して選管ムサシの稼動を見て取り、いつものイカガワシイ臭いを嗅ぐ者は不幸せであるが同志よ共に確認せんか。

 ちなみに、 沖縄県の選挙でムサシを使用していない市は、那覇市、石垣市、豊見城市。使っている市は、最も早く宮古島市。2009年、南城市。2010年、浦添市。2011年、沖縄市。2012年、名護市、糸満市。2013年、宜野湾市。2014年、うるま市。ムサシマシーンの魔の手が次第に全域を覆いつつあることが分かる。

 興味深いことに、ムサシを使っていない前回の那覇市長選(2014.11.16日)では、反基地派の城間幹子が当選している。翁長雄志県知事は旧那覇市長であり、那覇市長選と同日で沖縄県知事選を争い、3選を目指した仲井らを破り当選している。ムサシを使わなければこうなり、使われるとほぼ絶対的に勝てなくなると心得るべきだろう。

 その昔は、新聞、テレビ両者とも、選挙毎に票の分析を熱心にしていた。面白いもので丁度ムサシマシーンが登場した頃より票分析がネグレクトされ始め、代わりに「政局分析」一色になっている。これにつき次のように指摘されている。「どうして票の分析をしないんだろうか。別にむずかしい解析の必要はない。足し算と引き算だけで見えてくるものはいろいろあるのだから、もう少し分析的な記事を見せてもらえれば報道の付加価値もあると思う」。この言は正論だろう。と云う訳で、私めがこたびの宜野湾市長選の票分析をしてみる。

 与党系の獲得票は2012年/22612、2016年/27668。6056票増である。野党系のそれは、2012年/21712、2016年/21811。99票増。有権者数は2012年/69926、2016年/72526。2600増。投票率は2012年/63,9%、2016年/68,7%。4,8%増。有権者数で2600票、投票率増で3400票が増加したにも拘らず、野党系は99票増、与党系は6056票増だと。ほぼ全部が与党系になだれ込んでいることになる。確率論的に云うと、こんな数字はあり得ないのではないのか。誰か、高名な数学者よ、あり得ることを説明してくれ。でないと、こちらの脳がヒートして寝れない。

 どの選挙区でも、人の投票行動はほぼ固まっており、与党票、野党票の移動は案外と小さいのが経験的に確認できる。ところが、宜野湾市の市長選では有権者増、投票率増のほぼ全員が与党系候補に投票したような結果になっている。これをどう説明すべきか。「これは、普天間基地の移転がさらに遅れて、現状が固定化されることへの危機感が高まったということだろう。票を見るだけで、そうした宜野湾の状況は十分に推察できる」と分析すべきだろうか。こういう類の推理は御用性が過ぎるのではないのか。選管ムサシのフル稼働を推理する方が素直なのではなかろうか。

 れんだいこのカンテラ時評№1280 投稿者:れんだいこ  投稿日:2016年 1月 6日
 2016たすけあい党新年声明

 遅くなりましたが2016たすけあい党新年声明をお届けします。本年も共に歩みませう。「何とかしよう日本」、これを合言葉にスクラム組んで押せ押せで参りませう。

 これまでの党声明は次の通りです。「2007声明」、「2008声明」、「2009声明」、「2010声明」、「2011声明」、「2012声明」、「2013声明」、「2014声明」、「2015声明」。今年の「2016声明」は情勢分析論、運動指針論を省きます。屋上屋を重ねるからです。本年は我が党の思想、歴史眼を開陳し批評を請いたいと思います。

 これを提起する理由は、既成の思想が破綻しており、にも拘らず依拠すべき代わりのものが用意できていないことにより、国際ユダ邪による猛烈な洗脳、マインドコントロールを許し続けており、これにより我が社会に徒な混乱、腐敗を見出すからであります。このような事態は依拠すべき思想を持たないからであると考えられます。

 私どもが見立てますところ、世の思想には論理構造式が閉鎖的排他的なものと開放的共棲的なものとの二種類があるように思われます。前者は国際ユダ邪のネオシオニズムが典型です。本稿では論証を略しますが、ああいうものに憑りつかれてはいけません。人間がスポイルされます。それと真逆な教えを垂示しているのが日本神道です。こちらが後者の典型になります。人間がいつまでも瑞々しくなります。そういう違いがあります。

 ネオシオニズムに被れるぐらいなら無思想の方がまだしもマシです。ならば無思想で良いのかと云うとそうでもありません。やはり思想は必要なのです。拠るべき思想が例え積み木崩しになろうとも新陳代謝を繰り返すべきなのです。そういうことを可能にさせる開放的共棲的にして柔らかくしなやかな構造の思想を持つべきなのです。これを玉に例えるなら、玉は飾って鑑賞するものではなく不断に磨いて光らせるべきです。どういう玉を持つべきかが肝心で、良い玉を持てば時代を照らすカンテラ、航路を指し示す羅針盤になると考えます。逆は逆です。

 我が党は既に多くの論考を世に問うております。その中で最も骨格的な歴史の筋に関わる思想、歴史観を披瀝します。詳細はそれぞれのサイトでご確認ください。各党派、有志の皆様におかれましては、ぜひこの立論を集団的討議に附していただけますようお願い申し上げます。目からウロコしてください。

 現代史解析には「国際金融資本帝国主義ネオシオニズム論」が必須です。現在これを端的に「国際ユダ邪論」と言い換えております。現代世界を牛耳る邪悪な主体を「国際ユダ邪」と認め、その戦略戦術に乗せられないよう軍師的采配をしております。これあればこそ現代世界の抗争軸を掴むことができております。この見地に立たずんば世界史の真相に迫り得ないと考えております。

 続く「原日本論新日本論」も有益です。これは、日本史を大和王朝以前以降に二分し、大和王朝以前の日本を原日本、以降のそれを新日本に画別させ、その上で両者の手打ち和解で今日までの日本が作られている、表向き共通一様の日本であるが深層では両派の暗闘が続いているとみなしております。これあればこそ現代日本の抗争軸を掴むことができております。この見地に立たずんば日本史の真相に迫り得ないと考えております。

 それでも足りないものがあると云うのが長年の気づきでした。ようやく掴むことができました。それが「日本語、文明、神道、国体論」です。略してこれを仮に「日本道国体論」と命名しておきます。「日本道国体論」は、日本論、日本語論、日本文明論、日本神道論、日本国体論をジョイントミックス(接合)させた造語であります。これまでこの五論が分離した形で言及されて参りましたが、これらを不即不離的に理解し、そこからロウソクの滴がしたたり落ちるような知恵を汲み上げ生み出すことに成功しました。思想系譜的には日本浪漫派に位置する新たな日本賛美論であるかも知れません。その現代的再生理論と受け止めております。

 「日本道国体論」がなぜ必要なのか。それは日本国体が今まさに溶解させられつつあるからです。我が党は今、日本が国家的、社会的、民族的存亡の危機下にあり、国際ユダ邪の仕掛ける鍋で煮られていると見立てております。「口で愛国、裏で売国」する配下どもにより日本の軍事基地化、原発列島化が強められようとしておりますが亡国の道です。そういう滅びの局面により失われつつあるが故に見えて来たのが「日本道国体論」であり、国難時代の回天論、母国論、祖国論として「日本道国体論」を届けます。これを松明(たいまつ)として時代を照らしてくださいませ。

 「日本道国体論」を少し説明しておきます。最初の「日本論」では、日本国歌としての君が代、国旗としての日の丸、国紋としての菊花弁を問います。これらを排斥することなく日本の至宝と受け止めるよう促します。明治維新は世界史的に称賛されるべき回天運動でした。しかしその後変質させられ、国際ユダ邪と通じて好戦政策を敷き、君が代、日の丸をその道具として利用して参りました。しかしながら、それは悪用であり君が代、日の丸が悪いのではありません。本来の君が代は君民和楽の善政誓約歌であり、日の丸は純真無垢と赤心を象った唯一無二のシンプルイズベストな国旗であります。大和王朝以前の出雲王朝以来の国宝です。優れもの故に大和王朝も継承し時空を超えて日本に伝わっているものと心得る必要があります。

 「日本語論」では、日本語を世界言語の最優秀なものとして位置づけるよう指針させております。日本語の48音は自然界の作用を模写したものであり、いわば宇宙の音の写し鏡です。言語に於ける48音の獲得こそ人類の最高の発明です。これを日本の祖先が獲得した意義を称賛せねばなりません。人類史の将来は国際公用語として英語、日本語が並存して世界に普及して行くことになるでせう。なぜなら優れものだからです。昨今、そういう使命を持つ日本語を軽視し、それを放擲させ、いっそのことオール英語教育せんとする動きが強まりつつありますがナンセンスの極みと云わざるを得ません。

 「日本文明論」然りです。日本文明は自生土着的固有に生成発展し続けていると理解すべきです。これを逆に古代に於いてはインド、中国、朝鮮経由で、近代に於いては西欧諸国によって、戦後に於いては米英ユをお手本として小学生国日本を成人させんと文明開化させて来たとしてあれこれを例証し、何でもかんでも外国被れで理解し学問することを良しとしておりますが、これら一切に眉唾せねばなりません。日本文明は不思議なほどに太古から独自に優れた文明を築き続けており、その途上で外国ものを咀嚼し上手く取り入れてきたとする史観に立つべきです。

 「日本神道論」然りです。敢えて申せば、大和王朝後の日本神道を新神道、それ以前の神道を古神道と分けて理解する方が史実に合います。古神道と新神道が棲み分けして歴史を列ねていると理解すべきでせう。少し前、森元首相が「日本は神の国である」と述べたところバッシングされましたが、両者共に未熟です。森元首相が神道教理に通じておれば「日本は神々の国である」と申すべきところです。「神の国」であろうが「神々の国」であろうがバッシングする者が居たとしたら、日本を知らなさ過ぎる歴史音痴と云わざるを得ません。

 「日本国体論」然りです。天皇制論はこの日本国体論の一範疇のものです。真に大事なものは国体論であり、その国体論に適う天皇論である限りに於いて天皇制が護持されるべきです。天皇制は国体論に適う方向で営為されてきており、それ故に護持存続しているとする見立てが必要です。このように構える国体論、天皇制論を生み出さねばなりません。黒船来航以来、国際ユダ邪が日本天皇制に干渉し続け、西欧的な君主制と同視して懐柔を試み、キリスト教を国教化せんとし、下僕化しなかった大正天皇を押し込めるなどして参りましたが、このような蛮行を二度と許してはなりません。

 以上、簡略に述べました。今後暫くはこの「国際ユダ邪論」、「原日本論新日本論」、「日本道国体論」の三点セットで時代を照らしてください。能く切れ見えることを請け合います。我々は、先祖の法灯を受け継ぎ生き甲斐住み甲斐のある日本造りに向けて邁進せねばなりません。目下の日本政治がやっていることは逆ばかりです。この逆漕ぎ連中を一掃せねばなりません。近いうちに政治リアリズムが連中を容赦なく断罪すると思います。私たちは引き続き助け合いのご政道へ歩を進めませう。共同戦線万歳。

 れんだいこのカンテラ時評№1279  投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年11月28日
 北の湖理事長急逝考

 ここで、北の湖理事長急逝考をものしておく。冒頭で、力士北の湖、親方北の湖、理事長北の湖の急逝に心から追悼、合掌。

 2015年11.20日午後6時55分、相撲取組のNHK中継が終わるのに合わせたかのような時刻、「昭和の大横綱」にして日本相撲協会現役理事長の北の湖(本名/小畑敏光)が福岡市内の済生会福岡総合病院で急死した(享年62歳)。理事長在職中の死去は1968年の時津風理事長(元横綱双葉山)の逝去以来である。理事長が本場所中に急逝するのは前例がない。この経緯を確認しておく。

 北の湖は初日から連日、福岡国際センターの役員室で報道陣との囲み取材に応じていた。そのやり取りを窺うのに協会トップとしての自負に満ちた発言が続いている。今から思うのに、特段のイザコザもなく北の湖体制の絶頂期を迎えていたのかも知れない。11.13日、九州場所6日目、早くも全勝は休場明けの横綱白鵬ただ1人、1敗で7人が追う展開となった。北の湖は今後の賜杯レースについて次のように言及した。「(白鵬の)逃げ切りでしょう。危ない相撲もないし、先場所、今までになかった休場を経験している。プライドがある。他の横綱もついて行けない。よほどのことがない限り連敗もしないでしょう。優勝確率80%」。

 11.17日、九州場所10日目、白鵬-栃煌山戦に白鵬が二度の猫だましを繰り出し得意の右四つに組み止めて寄り切った。その取り口に対して、「(猫だましを)やるってのは、なかなかありえない。やられる方もやられる方だけど、やる方もやる方。横綱としてやるべきことじゃない。横綱がやるのは前代未聞なんじゃないの? 拍手がないじゃない。お客さんはどう見ているか分からないけれど。しかも横綱だから、負けていたら笑いものだった。白鵬はせっかく全勝で走っても、これではいい感じに見られない。みんな(モヤモヤした)気持ちが残っちゃうでしょ? 横綱はそういう風に見られちゃだめ」と苦言を呈した。これは、北の湖が現役時代、「1978年1月、大関三重ノ海の立ち合い時の奇手猫だましに動じず」そのまま押し切った経緯を踏まえての薀蓄であった。

 11.19日、白鳳が9年連続の年間最多勝を決めると、「立派だが他の横綱は何をしているのか」とコメントしている。北の湖は朝青龍然り、白鵬然りで、両者を名横綱と称えた上での愛情のこもった辛口批評を遺している。それにしても、「朝青龍-白鵬」戦をもう少し見たかったのは、れんだいこだけだろうか。朝青龍の相撲の切れ味は史上天下一品の国宝級のものだった。それを見れなくすることに精出した杉山アナ、中沢アナ、やく何とか、チンくしゃみの正義弁が許し難い。

 北の湖理事長は、急逝の1週間前から各部署へ事細かな指示を入念すぎるほどに出していた。第二次北の湖理事長時代、好取組が続出し相撲人気が盛り上がっていた。九州場所の18年ぶりの大入り2桁が確実で満員御礼の波を引き寄せていた。北の湖理事長は「来年も流れに乗りたい。何といっても魅力のある相撲。拍手の続く相撲。これでしょう」と力士の奮闘を称え、再び相撲ブームが訪れていた。

 その北の湖理事長が、19日夜、持病の貧血の症状を訴え、20日朝に救急車で福岡市内の済生会福岡総合病院に運ばれて入院した。点滴治療などで容態は安定した。昼過ぎ、日本相撲協会が、「血圧が低くて病院に行った。14日目以降の職務復帰については回復次第で判断する」と発表した。北の湖部屋関係者は、「意識はしっかりしている。昼過ぎまでは病室で今後の業務について思案していた」と証言している。かく容態が安定していたが夕方になって急変、急逝した。やましいことがなければ隠すこともなかろうに、この時の担当医師名が明らかにされていない。よって医師による経過説明が一切ない。司法解剖にも付されていない。既に記したがご丁寧なことに病院名までが伏せられている。これは相撲協会理事長職たる者に対する冒涜ではないのか。

 北の湖理事長が死去した病院には50人を超える報道陣が詰めかけた。その誰一人として病院ないしは担当医師の所見を聞き出す取材をしようとしていない。これも不自然過ぎる。午後8時半頃、出来山広報部長(元関脇出羽の花)が「理事長も無念だと思う」と話した。理事長代行を務める八角親方(元横綱北勝海)、審判部長の伊勢ケ浜親方(元横綱旭富士)は無言で病院を後にした。病院に駆けつけた山響親方(元幕内・巌雄)によれば、最期に言葉を発することもなく息を引き取ったと云う。千賀ノ浦親方(元関脇舛田山)の目は真っ赤に腫れあがっていた。福岡市内にある北の湖部屋の宿舎前にも大勢の報道陣が詰めかけ、応対した序二段の北斗龍は言葉を詰まらせながら「頑張ったと思う。(これ以上は)察していただければ」と語った。

 11.20日夜、玉ノ井広報部副部長(元大関・栃東)が件の病院で報道陣に対応し、涙を浮かべて言葉を詰まらせながら次のように語っている。「死因は直腸がん。多臓器不全。容体が急変しました。きのう(19日)も元気に公務をこなしていた。いきなり、こういうことになって残念。何とも言えない」。しかしそれにしても玉ノ井広報部副部長ではなく何で医師が説明しないのだろう。広報部発表の死因説明では死因が定まっていないと受け取るべきだろう。

 大まかではあるが北の湖理事長の急逝経緯は以上である。れんだいこはこれを変死事件しておく。真性の容態急変による病死の場合もあろうし、点滴や注射等の医療ミスによる容態急変致死の場合もあろうし、治療に名を借りた毒殺事件の場合もあろう。今は判定不能故に変死事件としておく。こう態度しておくのが正解で、マスコミの病死報道は犯人側が裏から手を回した作為の虚偽報道と心得たい。

 北の湖理事長急逝に対し、「理事長は白鵬に殺されたようなものだ。『猫だまし』の参列はお断りします」なる弁がなされている。名横綱に間違いなく、その職責を十分に果たし続けている白鵬に対する濡れ衣冒涜であり許せない。大阪中1事件に於けるY容疑者仕立と同じ臭いのする犯人すり替えである。胸糞が悪くなるこういうへんてこりんな評論が意図的故意に流され過ぎている。

 れんだいこのカンテラ時評№1278  投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年11月27日
 北の湖理事長の後継闘争その1

 11.22日、日本相撲協会は、北の湖理事長の死去に伴い、事業部長の八角親方(元横綱・北勝海、52歳)を理事長代行に据えた。12月18日の定例理事会で、新理事長を互選すること、新理事長の任期は北の湖理事長任期残りの来年3月までとすることを申し合わせた。具体的には来年1月の初場所後に理事が改選されて新体制が発足し、4月以降に就任する理事長が選ばれることになる。ここで、次期理事長及びその体制を予測しておく。「九重親方に貴乃花親方…北の湖理事長死去で協会の権力闘争が激化」等を参照する。

 北の湖理事長の急逝後の次期理事長を廻る暗闘を確認しておく。なぜ関心を持つのか。それは、大本教的教理「大本を廻り発生する型が、明日の日本の型になる」に似せて「出雲王朝の御代から連綿と続く国技たる大相撲の在り姿が、明日の日本の型になる」と思うからである。こういう捉え方をオカルト的とみなすのではなく、永遠にないのかも知れないけれども今の科学ではこれを説明し得る能力がないだけではないかと思っている。

 八角理事長代行は暫定であり、追って九重親方(第58代横綱千代の富士、60歳)と貴乃花親方(第65代横綱貴乃花、43歳)決戦が待ち受けている。年齢等の履歴による人選順当であれば、かって北の湖理事長の下で事業部長を務めた協会の元ナンバー2に位置していた九重親方が後釜に相応しい。ところが、北の湖理事長体制下に侵入した協会顧問派が貴乃花親方を担ごうとしている。

 この抗争の根は深い。分かり易く云えば、九重派は国粋国技派、顧問派は国際ユダ屋プロ相撲派である。日本大相撲が、九重派が大事にしようとする古式通りの型を維持しつつ発展を目指すのか、国際ユダ屋が狙う通りのプロレス並のプロ相撲興行を目指すのか、ここが問われている。マスコミは国際ユダ屋によって雇われているので、政治も然り、沖縄問題も然り、原発問題も然り、是非を全て逆に描く。即ち、件の協会顧問なぞ、日本大相撲協会を食物にする為にのみ送り込まれた国際ユダ屋の御用聞きであるのに、これを咎める筆には向かわず、その代わりに九重親方批判に健筆を振るう。当分、こういう浅ましい記事に苛(さいな)まされることになろう。これを今から予見しておく。

 協会顧問とは何者か、これを確認しておく。この御仁の本名は小林慶彦(2014年時点で58歳)。経営コンサルタントの肩書きを持つが経歴不詳である。経歴不詳の者が日本相撲協会の顧問になれるのがオカシイのだが現になっている。北の湖が理事長に返り咲いた時に顧問として相撲協会に入ったという。何やら裏取引があって送り込まれた人物であることが容易に推理できる。「台湾出身。立命館大卒、兵庫県警のマル暴だったらしい。2004中国巡業、2006台湾巡業、2008モンゴル巡業、2013インドネシア巡業の勧進元。株式会社エーティーアンドシージャパン社長」とある。

 2014.1月、この小林顧問が、2013年夏頃、相撲協会が大手パチンコメーカーと結んだライセンス契約に関連して、パチンコメーカーから2度にわたって計1700万円の裏金を受け取っている。その様子がネット動画サイトで暴露された。帯封つきの現金500万円を紙袋から取りだし、札束を数える顧問の顔、袋に戻す様子などが映っている。おまけに「絶対にこれ、バレんようにしてくれよ」と言っている。

 当時、相撲協会NO2にして事業部長を務めていた九重親方が、北の湖理事長に、「大変なことになっている」と進言。1.6日、理事会で、九重親方が、小林顧問の裏金授受疑惑を問題にして「外部で調査委員会をつくるべき」と発言し、責任追及音頭を取った。小林顧問は裏金受領を渋々認めものの、「お金を返したから問題ない」と居直った。調査委員会をつくることになったが、小林顧問派は委員会の開催時期を理事改選の後にするよう図った。これが癖だまであったが、その時は誰も気づかなかった。

 ところで、日本相撲協会内のこの大ニュースを大きく報じたメディアは日刊ゲンダイを含めてごくわずか。スポーツ紙は申し訳程度の記事しか掲載しなかった。マスコミは要するに国際ユダ屋の意向通りにしか書けない書かない。実のところ、そういう風には研究されていないが戦前も然りであった。戦後はなおさらで、勝ち馬にしか乗らない、長い物に巻かれろでしかない。

 1月30日、相撲協会は新公益財団法人へ移行。1.31日、理事選が行われた。この際、小林顧問派が九重親方落選を企画、「まさかの落選」を演出し、「11人中ただ1人落選」という不名誉な憂き目にあわせた。九重親方は理事から委員に降格となった。「顧問はお咎めなし、咎めた九重親方の方が逆に理事選落選」となった。

 次のように証言されている。「前回の理事選は友綱親方に票を集めて九重親方をはじき飛ばした。北の湖理事長の右腕といわれた協会顧問の策略であった。九重親方は今回の選挙で理事に再選されていたら、新公益法人に移行した最初の理事会には外部理事も出席して話し合いが行われる。ここで小林顧問の悪事を暴露して解任の緊急動議を出す腹づもりだった。その計画がパーになった。九重親方は理事落選により2年間、冷や飯を食わされることになった。九重さんが手にしたのは5票。あと2票取っていれば友綱親方に理事職を持って行かれることはなかった。実は北の湖理事長をドンとする出羽一門筋が水面下で『票を回してやる』と口約束していて、九重親方はその言葉を信じて買収工作せず落選につながった。要するに一杯食わされたんですよ」。

 陰謀通りに事が運び、協会の危機管理委員会(委員長/宗像紀夫・元東京地検特捜部長、外部理事)が開かれたものの、「すぐに返却したので問題なしのお咎めなし」結論を下し、理事会に報告、承認された。「宗像紀夫」と云えばロッキード事件で公判担当検事を務めており、それ以来、検察裏街道一直線に出世街道を歩み詰めている面汚しでしかない。こんな御仁が人選されているだけで碌なことにならないのは自明であろう。

 この逆裁定により小林顧問は引き続き北の湖体制に食い込み協会内で権力を持ち続けることになった。協会を所管する内閣府が、相撲協会に理事会の議事録と危機管理委の報告書の提出を要請したものの、真相はどうやら「現金授受を問題なし」と結論づけた報告書の提出を協会に求めた」のであって、真相解明に愛の鞭を振るった訳ではない。公益法人の認定の可否などを審査する公益認定委員会に協会提出資料を添えて経緯を報告、協会の一連の対応に問題がなかったかの判断を形式的に求めただけのようで何事もなく経過している。もっとも取上げただけで偉いと云うべきかもしれない。

 小林顧問の利権活動は他にもある。理事会の承認を得ないままの独断専行で、相撲協会が別のメーカーと過去現在すべての力士の肖像権を1億円でライセンス契約させており、これも発覚している。他にも、国技館の改修工事やパソコンの入れ替え、エアコンの施設工事などに関わっている。

 2014年、3.24日、横綱審議委員会(内山委員長)が開催され、大相撲春場所を14勝1敗で優勝した鶴竜の横綱昇進を満場一致で推薦答申した。同時に北の湖理事長の理事長再選を決め北の湖理事長体制が信任された。

 8.30日、朝日新聞に「相撲協会顧問の小林の現金授受問題、内閣府が対応を検証へ」という記事が掲載された。何でこの時期の記事なのかは分からない。

 れんだいこのカンテラ時評№1277  投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年10月12日
 相模原市議選の南区選挙区に於ける選管の開票不正考

 2015.4.12日の神奈川県相模原市議選の南区選挙区(定数18、候補者29)の投票用紙を点検したところ、選管のデタラメ振りが発覚した。これを確認しておく。(分り易くする為に氏名の敬称を省く)

 同選挙で、最下位当選者小林3304票、次点の大槻3303.339票、次々点みぞふち3303票と云う1票差に3人が絡む事態が発生した。次点の大槻が、開票事務に従事したという人物から「大槻に有効と思われる票が無効票とされたり、同姓の候補者と按分されたりした」との通報があったとして、4.27日、小林の当選無効、自らを当選人とする決定を求めた異議申し出書を提出した。ちなみに、みぞふちは異議申し立てをしていない。

  5.20日、市選管が検票(開披再点検)に着手した。選管職員ら二十数人が市役所職員会館体育館で作業を進め、大槻と小林の関係者がそれぞれ3人ずつ立ち会った。大槻和宏、もう一人の大槻姓の大槻研の有効票、按分票、無効票の計7888票を調べ直した結果、大槻和宏3296票、大槻研2093票、「大槻、おおつき、オオツキ」と書かれた按分票12票、他事記載などの無効票2487票が確認された。

 無効票の束の中から、「大つきか〇ひ」と書かれた票が新たに見つかり有効と判断した結果、大槻3304.340票となり、小林3304票を上回った。5.25日、市選管が大槻の逆転当選を決定した。大槻は「私の申し出を全面的に認めたもので安堵している」とコメント。小林は「到底納得できるものではない。県選管に申し立てをする方向で弁護士らと相談して対応する」とコメント。

 なお、この際、新たに白票8票が見つかっている。これにつき、投票者数より開票した票が6票多かった為、南区選管の事務局長(60歳)と同次長(56歳)、同副主幹(53歳)の3人が謀議し、投票者総数に合わせるため白票の束の表書きを91票から83票に書き換えて8票少なくしたうえ、2票は投票せずに持ち帰った票として扱うと云う不適切集計をしていたことが判明した。わざわざに手が込んだことをしていることが分かる。市選管は当落問題に影響はないとしているが、公職選挙法違反容疑(投票増減の疑い)での刑事告発や再発防止に向けた第三者委員会設置を検討している。

 6月、今度は、幻の当選者となった小林が市選管の決定を不服として審査を申し立てた。「おかしなことを選管がやっている」という通報を受け、勇気をもって異議申し立てをしたと云う。「票は何者かが開票作業終了後に無効票の束に潜り込ませたものではないのか。次点候補が、有効票が無効扱いされたとの匿名の情報を受けて異議を申し立て、有効票が見つかったとする経緯はストーリーができ過ぎている」と理由づけしている。

 7.14日、県選管が同市南区選挙区の全投票10万2306票の点検に着手した。8.7日、県選管は、小林による市選管決定を不服とした審査申し立てに対し、「認めることができない」として棄却した。

 それにしても「他事記載などの無効票2487票」の異常な多さが気になる。「他事記載」の詳細な内訳を明らかにさせる必要があるように思われる。この選挙では、小林、大槻、みぞふちの三者が1票差に絡んでいる。これを思えば、みぞふちの票も合わせて発表すべきだろう。

 市選管、県選管とも、せっかく検票したのに検票後の全数値を発表すれば良いところスルーしている。これは、発表とこたびの検票間に小林票、大槻票に限らず票数に誤差があったことを窺わせる。検票する場合には全投票数の精密な数値、各候補者の票数を発表させるべきだろう。

 判明することは以上の通りであるが要点はこうである。選管が選管であり得たのは昔の話しで今や選管の逆選管が常態であり、「不正投開票は氷山の一角」ではないのか。「自民党当選議員(衛藤晟一)の高松市得票数0の怪考」が最も有名であるが、これまで、異議申し立てされた選挙区の検票によりほぼ100%の確率で開票不正が確認されている。にも拘わらず、ムサシマシーン開票後の検票を不要と居直り続けさせるべきだろうか。

イロハのイである投票者数と開票数の不整合も問題である。投票者数に比して開票数が多ければ特定候補に水増し票が考えられる。開票数が少なければ特定候補の抜き取り票が考えられる。このところの選挙における小沢系候補はこういう被害にあっているのではないのか。小沢系の未来、生活第一、生活の党の候補者、落選者が異議申し立てしないのが解せないのではあるが。こういうところを解決して次の選挙に臨まない限りいつも糠釘選挙になるであろう。

 れんだいこのカンテラ時評№1276  投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 9月26日
 中1少年少女殺人事件考その2

 大阪中1少年少女殺人事件に関連させて「儀式殺人告発の書」を確認しておく。以下詳解する「儀式殺人告発の書3枚目」を読めば、本事件に於けるY容疑者の犯人化構図が余りにも似ていることに気づくだろう。読み易くする為に段落、句読点、文字変換等の編集替え、直接関係しない箇所の削除、意味を変えない条件下での書き換えをした。容疑者「久間三千年」のところを「Y」と書き換えた。その方が類似性が際立つからである。

 大阪中1少年少女殺人事件と同じ構図、文言は次の通りである。「繁華街で目撃された」、「初めに犯人Yありき」、「警察、地元、マスコミ一体となっての波状攻撃」、「冷静に考えればYの一連の事件への関与は素人目にも大きな矛盾があることは明白」、「2女児の遺体や遺品をほぼ100%発見されるであろう道路わきにわざわざ放置した」、「遺棄現場での紺色ワンボックス車を見たとの目撃情報」、「毛髪と現場に残されていた体液がDNA鑑定の結果、ほぼ一致」、「ワンボックス車内を再度鑑定」、「ごく微細な血痕と女児の一人の血液型も一致」、「情報リークの可能性」、「警察は、偏見と思い込み、こじつけの状況証拠だけで犯人に仕立て上げた」。

 昭和63年12月4日、福岡県飯塚市明星団地に住んでいた一人の少女が行方不明になった。潤野小学校1年の松野愛子である。日曜の午前7時半頃、町内の廃品回収を手伝った後、団地内の公園で友達と遊び、同10時頃、一人の男の自宅で弟と遊んでいるのを近所の人に目撃されているのを最後に女児は失踪した。この男こそYであった。Yがこの女児失踪に関与した証拠はない。だが周囲の印象はYが極めて怪しいという雰囲気に包まれた。今度この男の周辺で児童が失踪すれば重要参考人にされるのは明らかであった。

 平成4年2月21日夕、福岡県甘木市野鳥の国道322号道路わきの林で、20日朝から行方不明になっていた潤野小学校1年の中川藍、梅野裕莉の二人の女児が死体となって発見された。二人は20日朝、別の友人と三人で登校したが、登校途中でこの友人と別れ、飯塚市内の繁華街で目撃されたとの情報を最後に消息を断っていた。この時点で、犯人Yが9割方確定された。“初めに犯人Yありき”であった。捜査の初期段階からYを犯人と臭わす警察、地元、マスコミ一体となっての波状攻撃が繰り返し行なわれた。冷静に考えればYの一連の事件への関与は素人目にも大きな矛盾があることは明白であった。まずYが知性ある性倒錯者として、かって嫌疑をかけられたのと同じ自宅の近所に住む潤野小の児童を何故わざわざ欲望充足の対象に選んだのか。しかも2人も、という素朴な疑問が生じてくる。我々が「変態Y」の立場なら“自宅周辺での対象物色”という危険な行為は間違っても犯さなかったであろう。以前に嫌疑がかかっていたのだから尚更である。最も不可解なのが、2女児の遺体や遺品をほぼ100%発見されるであろう道路わきにわざわざ放置したことであった。

 これより以後の 「Y攻略作戦」 は以下のように行なわれた。3月に警察が得たといわれる「遺棄現場での紺色ワンボックス車を見たとの目撃情報」により、同種の車を所持していたYに捜査の対象はほぼ100%絞られ、この男と女児とを結びつける証拠の発見に全力が注がれた。3月下旬、Yに任意で提出させた「毛髪と現場に残されていたといわれる体液」とが警察庁で行なわれたDNA鑑定の結果「ほぼ一致」し、この時点でYがほぼ犯人と断定された。だが検察に証拠能力を問われ第三者の大学研究室で再鑑定したところ一致の確率は非常に低下した。捜査は中断したかにみえたが、平成5年12月になって、前年9月にYが手放した例のワンボックス車内を再度鑑定、翌年2月、1年5か月という歳月を怪て、女児の衣服に付着していたという4種類の繊維と車のシートの繊維とが一致、さらにシートの裏に付着していたといわれる「ごく微細な血痕」と女児の一人の血液型も一致した。8月、検察との協議の結果、Yの死体遺棄容疑が固まり、9月29日、同容疑で遂に逮捕された。最初の事件発生から実に5年9か月後、悪魔のシナリオは完遂されたのである。

 Yと警察の5年9か月に渡る闘争は警察によるYへの一方的な精神的拷問という形で行なわれた。2女児殺害以後はYの実名と顔写真を所持しての自宅近辺での聞き込み、張り込みが連日続けられた。平成5年9月には、警察の嫌がらせに対して堪忍袋の緒が切れたYが張り込みの捜査員に刈りバサミで切りつけるという一幕もあった。状況証拠らしい状況証拠と言えば「Yも持ってた紺色ワンボックス車が遺棄現場で目撃された」という情報のみであった。だがこれはYに嫌疑が向けられるように作られた「情報リークの可能性」があったし、それが事実であるとしても、Yのものと同一の車種を使い、たまたま誰かに目撃されたか、あるいはわざと目撃された真犯人のものであろうことは容易に推測できるものであった。この目撃以外はすべてこじつけられた証拠である。DNA鑑定などほとんど信用性がないことが証明されたにもかかわらず、警察は「ほぼ一致」にあくまでこだわった。そもそも「現場で発見された体液」はDNA鑑定できるほどの量があったのか。警察は、Yを“怪しい”、“やったに違いない”という偏見と思い込み、こじつけの状況証拠だけで犯人に仕立て上げたのである。

 れんだいこのカンテラ時評№1275  投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 9月20日
 書評/井上和彦著「撃墜王は生きている」考その4

 2015.9月中旬、運命の導きによって知覧特攻会館を詣でることになった。そこで散華した兵士一人ずつの顔写真と遺書の手紙に目を通して来た。兵士一人一人に目礼するつもりだったが、最初のところから滂沱の涙となり適わなかった。三角兵舎では兵士が寝起きしていたであろう姿が伝わり、ここで別れの杯を交わしたのかと思うと又涙した。富屋旅館も確認し、鳥浜トメさんの写真も見、当時とその後の姿を確認した。

 台湾の鄭春河(皇民名/上杉重雄)氏の著「嗚呼大東亜戦争」を入手したことが予想外の収穫だった。読了してみて、れんだいこ史観と通じない面も多々あるが、戦前日本総括として異色貴重な論考となっている。れんだいこ史観に照らし戴けるところを整理し発表しておこうと思った。誰か一人でも目からウロコしてくれますように。

 編集責任者の飛永源之助さんの「台湾の鄭春河先生について」(1998年5月27日)の項末尾で次のように記している。「今次大東亜戦争において何百万の方々の尊い犠牲による今日の繁栄であります」。この観点を共有できない者はこの後を読んでもカエルのツラにションベンになろうから読む必要なきことをあらかじめ申し上げておく。

 鄭氏は、大東亜戦争論について次のように主張している。但し、米英国としているところを国際ユダ屋と書き換えることにする。概要「日清、日露から大東亜戦争に至るまでの戦争は日本の国防の安定を図る為の自衛戦争であり、十把ひとからげに侵略戦争として片付けられるものではない。当時においては海外発展であり雄飛であり日本の壮挙であった。満州事変、これに続く支那事変が泥沼化したのは、黒幕の国際ユダ屋が画策したからであった。連中が蒋介石軍に物資を送り込み続けた。日本が戦っている相手は蒋介石軍であったが実質的には日米戦争になっていた。国際ユダ屋シナリオの下で日本と蒋介石軍が踊らされていた。

 第二次世界大戦前夜、ヒットラー率いるドイツが電撃的に勝利し続け、『バスに乗り遅れるな』とばかりに日独が接近した。国際ユダ屋はABCD包囲網で日本の息の根を止める戦略に出た。日本に対する石油の全面禁輸は戦争誘発政策以外の何ものでもなかった。日本は勝ち目はないと承知していたが無為に屈服もできないジレンマに陥った。そこへ日本に過酷なハルノートが突きつけられ、『座して死を待つよりは死中に活を求める』最後の方策として戦争に打って出ることになった。この当時、誰が首相でも既に戦争を回避することはできなかった。東条大将が十字架を背負う悲劇の首相となった。結果的に敗戦で終戦したが、その評価は『歴史は百年経なければ正鵠を期し難い』」。

 鄭氏は、戦前日本が果たしたアジアの目覚めの役割について次のように主張している。「英帝国が終焉したのは英軍がアジア人の目の前で日本軍に惨敗したからである。これにより白人優位神話が崩れ植民地の独立戦争が始まった」。

 鄭氏は、東京裁判について次のように主張している。「国際ユダ屋は敗戦国日本に対し侵略謝罪を求めるが連中こそが本当の侵略者である。歪められた罪悪感を背負わされ、卑屈、頽廃に流れて行くことこそ国際ユダ屋の思う壺である。間違った歴史観を払拭し歴史を書き改めねばならない。東京裁判は、日本の戦争指導者を戦犯に仕立て上げ極刑に処したが、実定国際法上違法な裁判であり不当なものである。本来は再審が必要である。そもそも『戦犯』なる用語自体が臭い。日本の戦争指導者は『敗戦犯』ではあっても『戦犯』ではない。処刑されたA級戦犯は法務死であり靖国神社に英霊として祀られるべきである」。

 鄭氏は、戦後日本について次のように主張している。「戦後日本は、GHQの対日支配政策に基づき大改造された。あらゆる分野で日本の弱体化が企図されている。戦後憲法の相続の項での長子相続から均等相続への転換は日本式家族制度の解体であり、日本的共同体としての紐帯の基盤の破壊である。世論を工作し、祖国日本嫌悪、戦前日本の全てを悪視、日本古来の伝統文化や歴史排撃、国民道徳退廃、日本人の日本人たる所以の『大和心』喪失方向にリードした。『戦前日本の侵略行為に対する謝罪』を踏み絵とさせ、その象徴としての国旗、国歌を憎ませている。これにより日の丸を掲揚せず君が代を歌わないことになった」云々。

 れんだいこのカンテラ時評№1274  投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 9月 4日
 書評/井上和彦著「撃墜王は生きている」考その3

 井上和彦著「撃墜王は生きている」の執筆趣意に関連して書評その3を発表しておく。れんだいこは既に2003年時点でサイト「日本軍の戦闘行為、戦闘能力考」を設け次のように発信している。「皇軍の戦闘行為、能力」を賞賛的に見直そうという意味では通じていよう。但し、れんだいこはそれを「捻じ曲げられた革命運動能力の愁嘆場として評価し直そう」としている。こうなると井上氏の観点とは大きく異なるであろう。

 私的にはこの観点からもう少し掘り下げて行きたい。しかしこれに好評価なり支持を得る為には少なくとも「原日本新日本論」、「日本的大君(おおきみ)制天皇制論」、「出雲王朝&邪馬台国論」、「国際ユダ屋論」を媒介せねばならない。そのどれもがこれまでに説かれていない理論であるので賛同を得るのは難しかろう。これにより私は左派を自負していながら左派圏に拠るべき場所を持っていない。右派圏にも持っていない。

 何も奇(き)を衒(てら)って新説を述べている訳ではない。20代頃よりの疑問を一歩一歩氷解させながら辿り着いたら、このような見解に至ったと云うに過ぎない。但し、物事を分析なり解釈するのに、この理論を包丁にすれば能く切れる。偶然にもインターネットが登場したので、このツールを利用して調法なこの理論を公開し大方の批評を仰いでいる訳である。諸氏のそれより能く切れるのに無視されているだけに過ぎない。前置きが長くなった。かの時、次のように述べている。

 れんだいこは、本稿で、今まで誰もしてこなかったであろう観点から「日本軍の戦闘能力考」をものしてみようと思う。どこが異色かというと、戦後左派運動が批判するばかりで永らく見失ってきた「日本軍の戦闘能力」を見直し、その優秀性を露見させ、更にこれを、「捻じ曲げられた革命運動能力の愁嘆場」として評価し直そう、という点にある。この観点は、私が知らないだけで既にどなたかが為されているのかも知れない。しかし、私が知らないということは、大衆的に認知されていないことを意味する。つまり、私の仕事として突きつけられていることになる。

 冒頭で、「戦後左派運動が批判するばかりで永らく見失ってきた」と書き記した。実にそうだ。戦後左派運動は、戦前の軍部独裁体制を批判するばかりで、その下士官たる軍隊に対しても同様のまなざしを向け、その残虐行為を検証せぬままプロパガンダの方に意味を見出してきた。しかしそれは歴史眼としては愚昧な片手落ち手法でしかなかろう。そういう暗愚な者に啓蒙され指導された左派運動は、その暗愚ゆえに実践的に役立たない、大衆の心を捉えない。いつの頃からか分からないがそういうことに気づいた。

 私は、大東亜戦争に散った兵士を加害者としてのみ位置づけず、その殉死を「捻じ曲げられた革命運動能力の愁嘆場」という観点から意義づけ直してみたい。彼らの哀しみを理解し、その遺志を継承したい。この観点こそが歴史の連続性というものではなかろうか。「歴史の連続性が失われると正気が失われる」と云われる。そう、我々は、「正気を喪失した左派運動」に参集したゆえに、挙句の果てに不毛な荒野に捨てられたのではなかったか。しかるに、現下の流れは、未だにこの洗脳が解けていないばかりかむしろ更に袋小路にのめりつつあるやにさえ思われる。

 れんだいこは袋小路に追い詰められ自死しつつある左派運動の変態性を露見させて見たい。自負的に述べれば、私がこの逆立ちを質したい。戦没遺族が納得し得るような評価を与え無駄な軋轢を排したい。むしろ、その遺志を継いでいる日本新左派運動の思いを画然とさせることで手向けしたい。課題に正面から挑めば、こういう観点こそが自然に導き出される。

 そうならなかったのは半身構えの自称インテリたちの指導の悪さゆえであろう。連中は究極能力が狭いのかも知れない。もっとはっきり云えば「ウソ理論」を見抜けずの厚顔提灯士に過ぎない。そういう者たちばかりが跋扈してきたせいで本来の運動が紡ぎだされていないのではなかろうか。

 れんだいこのカンテラ時評№1273  投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 8月29日
 中1少年少女殺人事件考

 中木田(なかきだ)中1少年少女殺人事件(以下、単に「中1少年少女殺人事件」と記す)を廻る世上の見解が余りにも酷く、それを補強する学者肩書きの薀蓄がこれ又酷過ぎるので、これを成敗しておく。

 「リテラ」の2015.8.25日付けブログ「寝屋川中1殺害事件で「週刊現代」がやらかした! 容疑者逮捕に間に合わず星野くんの女性関係が原因とのデマ報道」(以下、「リテラ記事(伊勢崎馨)」と命名する)を参照する。但し、その論調には違和感を覚えるので同調しない。本稿執筆のきっかけになったと云う意味に於いて評価しておく。

 「中1少年少女殺人事件」を廻る週刊主要4誌と云われる文春、新潮、現代、ポスト(小学館)の記事を比較してみる。新潮(9.3日号)は「寝屋川中1遺棄事件の全真相」、帯文「真人間を演じていたホオジロザメ」。文春(9.3日号)は「大阪寝屋川中1男女惨殺 鬼畜山田浩二の正体」。ポスト(9.3日号)は無記事。現代(9.5日号)は「新聞・テレビが報じなかった大阪・寝屋川『中1惨殺』全真相」、帯文「少女が抱えていた家族問題 大阪府警がマークした人物」。

 週刊ポストの無記事は、夏休み合併号の関係で前週の21日に発売されたため事件に触れることができなかったと云う。本当のポスト事情を知りたいところである。文春、新潮は共に山田容疑者を犯人と認定した上で凶悪変態者とみなしての悪口雑言の競い合いをしている。

 この点で、「リテラ記事(伊勢崎馨)」によれば、現代(9.5日号)号は「女児殺し男児犯人説」を打ち出し、併せて両家庭の親が関与しているとする倒錯的な大胆且つ的外れ憶測記事を書いてしまっていると云う。これは記事校了日が8.21日午後、発売日8.24日の制約による。即ち、この時点では山田容疑者が逮捕されておらず、男児の遺体も発見されていない。これにより「女児殺し男児犯人説」と云う大チョンボをしていると云う。

 ところが、れんだいこが件の現代記事を読むとそういう風には書かれていない。せいぜい真犯人は誰だろう的な記事でしかない。途中で記事が差し替えられているのかとも思うほどである。

 それはともかく、山田容疑者が登場するまでの段階において、マスコミ界の中で「リテラ記事(伊勢崎馨)」の指摘する如くな「女児殺し男児犯人説」が推理されていたのは確かなようで、「男児が女児を殺害して逃走、男児の親がそれをかばって遺体を隠蔽。真相は同じ中学生のグループによるリンチ殺人」云々なる論調の書き込みが存在するようである。

 言論は自由であるから、そういう推理も許容されるのだろう。但し、この種の憶測記事には当らずとも遠からず的なものであることが要件とされるだろう。憶測記事の一部には真実があるのかとも思うが、その後に男児遺体が発見されたことにより、主張しているところの「女児殺し男児犯人説」は完全に破綻している。

 とならば、大外れ責任が問われるべきではなかろうか。この場合、その出版社、編集長、担当デスク、記事執筆者、ネット発言者はヨタ記事責任を問われるべきだろう。現状は、良い意味での内部規律的なケジメのないままに次々とヨタ記事が許されているところが病気であろう。

 ところで、「リテラ記事(伊勢崎馨)」は、「女児殺し男児犯人説」を大チョンボと批判しているが「山田容疑者真犯人単独犯」を疑っていないように見受けられる。れんだいこから見ればそれも誤りで第二チョンボに過ぎない。となると、第二チョンボが第一チョンボを貶しているに過ぎないことになる。但し、第一チョンボの方が重度過失であるから、批判の根拠はあると看做されるべきだろう。

 ならば、れんだいこは事件をどう読んでいるのか。これから披瀝する観点も又チョンボなのだろうか、それとも正解だろうか。れんだいこ見解は次の通りである。1・本事件の真相はメーソン系結社による典型的な儀式殺人である。2・これの決め手は男児、女児の遺体の正確な所見である。これの発表がない間中は捜査が操作されている。3・山田容疑者は、事件にどう絡むのか、その経緯とか事情までは分からないが遺体の運び屋もしくはダミー的なオトリ役に過ぎない。この見立てをする者はごく少ない。しかし今後は、本稿をきっかけにして、この種の事件に遭遇するたびにピンと感ずくことになるだろう。

 それで事件が解決する訳ではない。この種の事件は意図的故意に迷宮入りさせられることを常習とする。構図は「島根県立女子大生猟奇殺人事件」その他と同じである。解決しないのは、敗戦国日本を植民地支配している宗主国側の息のかかった犯罪だからである。こうなると、日本警察の捜査は深層の真相に近づくまいとして、あらぬ捜査にばかり傾注努力し始めるのがお笑いである。

 れんだいこのカンテラ時評№1272  投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 8月11日
 1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考その2

 2010.8.21日付けブログ れんだいこのカンテラ時評782の「れんだいこの1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考」に続いてその2を発表しておく。門外漢なのではあるが、私の誕生日の事件と云うことで奇しきな縁を感じてウォッチを続けている訳である。今年、何か言わせるものがある。

 一般に、事件は日々発生しているが、ディリーニュースとして消化的に処理されて構わないものと歴史の最奥部に関わっており根底の真相を解明せねばならないものの二種ある。当然、その中間のようなものもあるので三種とみなすこともできる。「1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件」は、このうちの「歴史の最奥部に関わっており根底の真相を解明せねばならないもの」に属する。この事件の待遇の仕方として、まずこの観点を確立せねばならない。そういう訳で、「根底の真相を解明」に向かう。

 「その1」の構図を継承し、その後明らかになったことを補足したいが、この方面はできていないので他日に譲る。本稿では、この事件の核心的なキモの部分を再確認し共認を深めたいと思う。もう一つの中曽根犯罪を裏付けることに力点を置く。やること為すことが骨の髄までユダ屋被れであり、よくもバチが当らず90歳まで生きておることよと感心させられている。

 マスコミの長年の名宰相論、大勲位論だのは当分の間、お笑いの種になるであろう。要するに中曽根は国際ユダ屋御用聞き一等賞の首相であり政界君臨者である。その対極が田中角栄であり、角栄の運命は衆知の通りである。よりによって二人が同年生まれの同期代議士にして首相経験者であるとは。歴史は時にこういう奇しき味なことをする。

 さて、第一に記しておくべきことは、JAL123便(以下、単に123便と記す)の操縦者についてである。海上自衛隊出身の高濱雅己機長、他に佐々木祐副操縦士、福田博航空機関士の3名が操縦していた。この3名は日航の誇る名パイロットであり鉢合わせすること自体が異例であった。事前に何事かが起ることが予見されており、その対策としてクルーにされていたようである。であるとすれば何が待ち構えていたのかが詮索されねばならない。

 6時12分、123便が524人の乗客乗員を乗せ羽田を離陸した。これより「32分間の戦い」が始まる。18分、クルーが右前方から奇怪な飛行物体が飛行機に近づいて来るのを視認している。23分、一度外したシートベルトの再着用をアナウンスしている。24分35秒、123便が伊豆大島の北の相模湾上で、「ドドーンドンドン」と云う衝撃音が発生し垂直尾翼に何ものかが衝突した。同37秒、客室高度警報音(または離陸警報音)が鳴っている。同40秒、関東南A空域のレーダー画面に「エマージェンシー・コール」(EMG、緊急事態)の赤い文字が点滅しピーピーと金属音を帯びた警報が鳴り異変を知らせた。同42秒、機長が、東京ACC(東京航空交通管制部)にEMGの国際緊急無線信号「スコーク77」を発信している。

 以降、123便と管制室の命がけのやりとりが始まっている。機長は、「スコーク77」を発信した後、「羽田への帰還」を求めている。28分30秒、「現在アンコントロール(操縦不能)」と発信している。管制官は名古屋に着陸できるかと聞いている。機長は羽田着陸を主張している。この間、横田基地へ着陸誘導されている。31分02秒、機長は羽田に戻りたいと強く主張している。同08秒、焼津市上空を通過したあたりから次第にダッチロールし始めている。

 なぜだか羽田空港に引き返すことができない状態になっており、右に大きく旋回し北方向へ飛行を続けていった。この後、異変が発生しているが略す。40分頃、管制室が横田基地への緊急着陸を指示している。この後、「謎の7分間の空白」となっているとされ明らかでない。傍受によると、横田基地が合計13回にわたって「スタンバイできている」ことを繰り返し呼びかけている。123便はなぜかこれに応答していない。

 47分、123便は墜落地点である御巣鷹山に向かって降下して行く。この時、自衛隊機が123便の前方に出て進路誘導している気配があるが、強引に左旋回飛行指示を出して抵抗している。47分頃、既に墜落を覚悟し、最適の着陸地を求めて操縦している。48分40秒、機長「山いくぞ」、副操縦士「はい」。凡その着陸地の方位方角が決まったようである。50分09秒、機長「どーんと行こうや」。同27秒、機長「がんばれ」。副操縦士「はい」。この後のやりとり略。56分26秒、猛烈な衝撃音。

 ここまでのピット内のクル―、パーサー、スチュワーデス乗務員一丸の奮闘は涙なしには語れない。この経緯で何を窺うべきか。機長が横田基地への着陸を頑なに拒否し、羽田に戻る旨を告げ、それが拒否され、(多くの解説が、ここの下りを逆に評している。本稿以降は通用しなくなるであろう) 123便は、与えられた情況と条件下での最適の操縦により「御巣鷹の尾根」に胴体着陸した。即ち多くの人が生き残られるよう海ではなく、なぜだか基地でもなく、山を目指し、「御巣鷹の尾根」を見つけ、墜落と云うよりも着陸した。

 「れんだいこの事件考」はここまでが前半で、ここからが後半となる。後半については来年度の命日に記そうと思う。関心は、機長を始めとするコックピットの名操縦で相当数の者が生き残っていたのに、女性ばかり4名のみが生還した不可解さを問うことにある。午後7時だと、それほど暗くはなかろうに、長時間にわたって墜落現場が不明だとされ、向かった者は誤誘導され、あるいは正しく向かう自衛隊員が始末されたとも云う。これに関心の湧く者は各自で調べるが良かろう。

 れんだいこのカンテラ時評№1271  投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 8月 9日
 書評/井上和彦著「撃墜王は生きている」考その2

 井上和彦著「撃墜王は生きている」は概要次のように記している。当時の大本営参謀が、戦況宜しからずの形勢下、本土防衛決戦にシフト替えし、陸海軍の精鋭パイロットを寄せて守備に当らせた。その精鋭たちが、陸軍と海軍のメンツを争うようにして勇猛果敢に大空を馳せ、手前たちも撃墜されるがその何倍もの敵機を撃ち落して順次最後を遂げていった。こうして戦歴輝かしい撃墜王たちが何人も姿を消している。

 戦争末期、B29が何度も何波にもわたって来襲するようになったが決して手をこまねいていた訳ではない。仮に地上からの反撃が鉄砲届きしなかったとしても、空中では陸海軍の精鋭が懸命に敵機撃墜に精出しており、甚大なる被害を与え「一定の抑止」効果を挙げていた。

 戦闘機パイロットは十二分に敢闘した。特攻隊も然りであった。運よく残り得た者も居り、その彼らは終戦の日まで意気盛んであった。ここからがれんだいこ説になるが、これらのことが総じて「その後の歴史抑止力」として働いたのではないのか。 考えてみればそれは何もパイロット、特攻たちだけではない。戦史の至る所に日本兵士の敢闘が刻まれており、それらは日本占領支配の困難さを予見させるに足りるものであった。広島、長崎への原子爆弾投下により一気に降伏に向かったとはいえ、一筋縄ではいかない陸軍、海軍の主力が健在して隠然とした威力を保持していた。シベリア抑留などは、この観点からの陸軍帰国阻止の為の遠投であった。

 この辺りの機微について著者は次のように述べている。

 「圧倒的な物量の差で、多勢に無勢の戦いを強いられ、消耗し、最後は数でねじ伏せられたが、どれほど不利な状況下にあっても、日本の航空部隊は、米軍に確かな傷跡を残し続けたのである。戦後、アメリカが日本の重工業を解体し、終戦から昭和27年にサンフランシスコ講和条約が発効されるまでの7年間、航空機の製造を禁止し続けたのは、それほど日本の航空技術とパイロットを恐れたことの証左である」。

 この下りの「アメリカ」のところを「国際ユダ屋」と読み直し、「それほど日本の航空技術とパイロットを恐れた」のところでは「その他の分野でも然り。日本の技術と頭脳を恐れた」と補足すれば、なお能く見えてくるであろう。

 この「その後の歴史抑止力」が働き、GHQの対日支配をして間接統治の策をとらしめることになった。その間接統治の有効策として、当初の天皇制解体指針を転換させ昭和天皇利用に向かわしめた気配が濃厚である。この辺りの考察は別の機会にしようと思うが、この見地からの考察は大いに意味があるのではなかろうか。この見地からの戦史論がなさ過ぎるのが不満である。

 もとへ。その生き残り撃墜王たちは、戦後になるや、その働きが報われず、むしろ逆に戦後反戦平和運動の波に洗われるや「狂気攻撃者」にされてしまった。この風潮下、長い沈黙を余儀なくされて来た。その彼らに漸く良き聞き手が現れ、それにより重い口を開くことになった。ここで初めて鬱屈していた心情を解放し戦史証言している。生き延びた撃墜王の幾人のうち何人かが戦後の航空自衛隊に入り、その基礎を作ることに貢献しているとも云う。その5名が何をどう語っているのかは各自が本書で確かめれば良かろう。

 問題は次のことにある。井上、百田の両氏が、大東亜戦争時の航空兵士の活躍ぶりを語ることは大いに良いとして、そのことと目下の自衛隊への無条件エールは直列しないのに無理やりに直列させてすまし顔しているとしたら、そこが怪しい、燻る。目下の自衛隊は創設の由来からも判明しようが自立自存の国防軍ではない。敗戦後遺症なのだろうが、表見的には米軍の、実態的には国際ユダ屋の傭兵として育成されている。そういう自衛隊の戦地への海外派兵が政治日程化しつつある。それが如何に危険な人身御供でしかないのかは子供でも分かる話しである。

 にも拘らず、百田の場合は特に大東亜戦争時の日本兵の活躍ぶりを語りつつ、自衛隊が国際ユダ屋の傭兵として使い捨てされようとしていることに後押しエールしているように見える。ちょっと待て。如何に戦争に負けたとて、今度は当時の敵国の配下軍として御用せしめられるのは話しの筋が違う。それは余りにもお粗末過ぎる、許し難い、英霊の御霊に対する侮辱ではないのか。地下の英霊たちは俺たちの死をそういう風に利用してくれるなと憤怒しているのではないのか。

 思うに、当時の兵士の敢闘ぶりへの称賛は、一方では戦後の反戦運動に生かされるべきであった。これを逆に云えば戦後の反戦運動はそういうものとして構築されるべきだった。史実は逆で彼らは放逐された。もう一方では自立自存の国防軍の再建に向かうべきであった。この道が良い方向かどうか、許されたかどうかは分からない。少なくとも戦後憲法は承知のように反戦不戦平和の道を大胆に指針させている。これにより日本が道を誤ったと云う話しを今日まで聞いていない。

 この両方向なら分かるが、今現在進行中のような当時の敵国の配下軍として、実質は国際ユダ屋の傭兵として使われることこそ愛国の道などと云うのはペテン師の口上でしかない。本書は、この点で、同じようなテーマを扱いながら百田批判をしていない汚点がある。あるいは同様の観点なのかもしれない。であるとしたなら「九仞(きゅうじん)の功を一簣(いっき)に欠く」の評が相応しい。今からでも遅くない、本ブログの観点からの戦士証言に向かいますよう、さすれば相当に意味のある営為であるのにと意見申し上げておく。

 れんだいこのカンテラ時評№1270  投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 8月 8日
 書評/井上和彦著「撃墜王は生きている」考その1

 勇ましい百田発言が続いており、これを黙らす為に急遽本稿を書き上げ投稿しておく。ちょうど井上和彦著「撃墜王は生きている」を読んでいたところなので、その書評を通じて成敗しておく。2015(平成27).8月、井上和彦著「撃墜王は生きている」(小学館、2015.6.1日初版)を一気に読了した。「一気に読める」書に出くわしたのは久しぶりである。「れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書考その7、歴史への貢献について」を補完する内容になっていることに驚き且つ感謝した。

 ここで、れんだいこの「特攻隊賛美の反戦平和論」を記しておく。この立論はかなり珍しい。世上では「特攻隊賛美」見解が右と左で分かれており、右が賛美し左が叩くべく立論されている。右の賛美論は軍事防衛国際責務論に繋がつている。左の批判は反戦不戦平和論に繋がっている。

 しかしながら私には解せない。奇妙とさえ思っている。この理論を目下の政治情況下でトレースすると、「特攻隊賛美論」の右が、国際責務論でもって、自衛隊を、かっての特攻隊が戦った当の相手の国際ユダ屋の配下軍の使い捨て駒に奉仕させようとしている姿が見えてくる。彼らの「特攻隊賛美」のお里が知れる話しであるが、彼らは、国際ユダ屋への奉仕による利権を先にしており特攻隊をダシにしているのではなかろうか。

 他方、「特攻隊叩き論」の左は、反戦不戦平和論でもって、自衛隊を、そのような役割での使い捨て駒にさせようとしている政治の動きに対して反対している。それは良いのだが、それならそれで国際ユダ屋相手に先達的に戦った特攻隊を見直そうとする動きが出ても良さそうなのに出てこない。「特攻隊のサムライ涙」を理解すべきなのに相変わらずの批判に忙しい。こちらも案外と国際ユダ屋へ裏から奉仕しているのではなかろうか。それ故に特攻隊の功を敢えてムシしているのではなかろうか。

 私には「特攻隊賛美の反戦平和論」こそが自然である。なぜこうならないのかが訝しい。冒頭のリンクブログで述べたように、特攻隊兵士の犠牲が決して「無駄な自殺攻撃」ではないこと、彼らの必殺特攻が相当の成果を挙げたことにより恐怖を与え、待ち受ける日本統治の手強(ごわ)さを教えたと云う意味での「その後の歴史抑止力」として働くことになったこと、そういう「尊い犠牲」であったと知り、彼らの死を犬死視してはならないと指摘した。これが正しい歴史の継承の仕方であると自負している。

 本書は、これを裏付けるに十分な戦闘機パイロットの戦闘証言記である。「5名の生き残り撃墜王の証言」を下に、戦後反戦平和運動論の主要な理論であるところの「そもそも無謀な戦争論、特攻隊無駄死、蛮勇論」のウソを暴いている。これが本書の第一功績である。(以下、「5名の生き残り撃墜王の証言」の概略をスケッチしておこうと思うが、ここでは省く)。

 本書は、かの大東亜戦争末期の昭和天皇の終戦勅語放送時でさえ、次第にジリ貧に追いやられながらもなお敢闘精神旺盛だった様子を活劇描写している。これが本書の第二功績である。れんだいこも含めて大方の者がそうであろうが、そういう史実につき不覚にも知らないまま今日まで過ごして来ているのではなかろうか。仮に反戦平和を語り続けたとしても、国際ユダ屋仕立てテキスト通りの範疇で口パクしているのではなかろうか。しかしてそれは、終戦後の日本を占領統治したGHQのウォーギルト.インフォメーション.プログラム(War Guilt Information Program、略称WGIP)による情報統制&洗脳策のワナに入れられている。かく認識する必要がある。

 WGIPテキストでは、戦争は常に国際ユダヤ側の正義の聖戦とこれに抵抗する側の野蛮戦との戦いである。第二次世界大戦も又同様に自由主義陣営の彼らと、これに抵抗するファシズム陣営の戦いであった。自由派の米英仏を主とする連合国が勝利し歴史を進歩させた云々。これを進歩主義史観と云う。典型的な「勝てば官軍、負ければ賊軍」論理であるが、この理論がシャワーの如く浴びせられ洗脳されている。

 故に、ファシズム陣営のすること為すことが無謀であり、侵略であったと断罪されている。この総括に立って、将来に向けて二度と楯突かないと云う意味での恭順不戦論、反戦平和論が唱えられる。過去に向けて戦犯責任追求論、損害賠償請求論へと向かう。他方、手前たちの行為は仮に同じことをしていても、あるいはもっと酷いことをしていても常に免責される、ないしは称賛される。原爆責任も同様で、終戦を早めたのだから逆に感謝せよと居直ることになる。極東裁判は、この見地からの敗戦国断罪、A級戦犯処罰、その見せしめの一大観劇デモであった。

 れんだいこの観るところ真実はこうである。お仕着せメガネを外してみれば、第一次、第二次世界大戦とは、近代以降の西欧各国王朝打倒革命に続く、波に乗る国際ユダ屋の世界支配を廻るユダ屋側と反ユダ屋側の戦争だった。ユダ屋側が勝利の美酒に酔い、その日より今日までますますのユダ屋ワールド造りに向かっている。それが良質のものであれば良いのだけれど、戦争を何よりの好物とし、世界を金融支配し、医食法をコントロールし、人間を次第に下種なものにし、地球の生態系を滅ぼしつつある。しかも、その危機を危機になればなるほど歩みを深める方向で穴掘りし続けている。原発が象徴しているが他の何もかもがそうである。

 故に我慢ならない。生ある限り今現に進もうとしている道の恐き危なきことを連打太鼓し、我々が歩むべきレールを敷き代えるよう告発し続けたい。

 れんだいこのカンテラ時評№1269  投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 8月 3日
【大正天皇実録考その12】

 1912(明治45)年、33歳の時、7.18日、明治天皇重体。7.24日、皇太子がお見舞いに参内。7.28日、桂太郎ら訪欧使節団が天皇危篤の報を受け急遽ペテルブルグから帰国に向かう。 7.29日、明治天皇崩御(享年59歳)。

 7.30日、皇室典範第10条「天皇崩する時は皇嗣即ち践祚(せんそ)し祖宗の神器を承く」に従い、嘉仁皇太子が34歳で践祚即位、123代皇位に就かれた(これにより以下、皇太子改め大正天皇ないし単に天皇と記す)。裕仁親王が皇太子となった。

 その夜、「御政事向きのことにつき十分に申し上げ置くこと必要なり」として、首相・西園寺公望、山県有朋が大正天皇を訪問。まず西園寺が「十分に苦言を申し上げた」のに対して「十分注意すべし」と返答している。山県は「僅かに数言申し上げたるのみ」であった。両者には緊張関係が介在していた。皇太子時代の「山県有朋嫌い」は天皇時代にも続き、大正天皇は最終的に山県派によって押し込められることになる。この緊張関係の裏事情を紐解かねば政治論が深まらない。

 翌7.31日、朝見の儀が執り行われた。政府関係者の居並ぶ中、天皇皇后がお出ましになり、天皇が「朕今万世一系の帝位を践(ふ)み、統治の大権を継承す。祖宗の皇ぼに遵(したが)い憲法の条章に由り、これが行使を誤ることなく、以って先帝の遺業を失墜せざらんことを期す」と勅語を朗読。

 大正と改元された。改元の詔書として次のように宣べられている。

 「朕(ちん)、菲徳(ひとく)を以て大統を承(う)け、祖宗の霊に詰(つ)げて万機の政(まつりごと)を行ふ。茲(ここ)に先帝の定制に遵(したが)ひ、明治四十五年七月三十日以後を改めて大正元年となす。主者(しゅしゃ)施行せよ」。

 大正とは、公式には発表されていないが、五経の一つである易経の「大享以正、天之道也」、春秋公羊伝の「君子大居正」を出典としている。大正天皇実録によれば大正のほかに天興、興化の候補があり、枢密顧問が審議した結果、易経の「大享以正、天之道也」に由来して大正が選ばれたことが判明した。天皇の在位期間である1912.7.30から1926.12.25までの15年間が大正時代となる。

 8.11日、桂太郎ら帰国。 8.13日、大正天皇は、明治天皇の遺業を継ぐにあたっての勅語を元老5名(山県、大山、桂、松方、後に西園寺)に対し下す。桂太郎が内大臣兼侍従長に任命される。この年の12.5日、西園寺公望(きんもち)が元老に加わり「最後の元老」となる。

 9.4日、天長節(天皇誕生日)だった11.3日を「明治天皇祭」と改める。 9.13日、明治天皇の御大葬が青山葬場殿で執り行われ、翌日、伏見桃山陵に奉葬する。(「明治天皇の「大喪の儀」」)。この日の午後8時頃、乃木希典&静子陸軍大将夫妻が殉死している。大正天皇は追悼する漢詩を3首詠まれている。「懐乃木希典」と題された漢詩は次の通りである。「平生忠勇養精神 旅順攻城不惜身 颯爽英姿全晩節 淋漓遺墨々痕新」。堂々たる歌いっぷりであり、大正天皇の漢詩造詣が深かったことが判明する。

 天皇は践祚以来、午前6時起床、8時半に大元帥の軍服を着用して表御所に出御、正午まで執務する身となった。生活が激変し皇太子時代のように自由闊達な行動がとれなくなった。その程度のことであれば甘受できる窮屈だったであろうが、甘受できないものが立ち塞がった。それは、政治路線の鋭角的な対立であり、その前途多難さから来る消耗であった。大正天皇が、出雲王朝御代の善政を手本とする施策を講じようとするたび、元老・山県を筆頭とする国際ユダ屋派が「何かにつけ先帝を云々」する日々が続くことになった。

 天皇派は国内的には殖産興業、対外的には諸国親和を目指し、国際紛争解決手段としての武力、戦争による道は採ろうとしなかった。しかしながら時代は、日本の帝国主義国化、国際紛争解決手段として武力、戦争による解決の道に進みつつあった。何のことはない、2015年の今、我々に突きつけられている情況となんら変わらない。

 これに棹差そうとした大正天皇が如何なる茨の道を余儀なくされ、理不尽に押し込められるのか。これが大正天皇史となる。その大正天皇史は大正時代史の中に記そうと思う。その大正時代史を理解する為の前提として必要になる嘉仁皇太子論をここに記したつもりである。お役に立てば良いのだけれども。(このシリーズは本稿で一応の完結とする)

 れんだいこのカンテラ時評№1268  投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 8月 2日
【大正天皇実録考その11】

 1911(明治44)年、32歳の時、10月、嘉仁皇太子は戦艦「富士」に坐乗し、豊後水道南方海面での第1第2艦隊の演習を視察する。11月、先帝陵参拝と第4・第16師団対抗演習を目的とする京都、大坂、兵庫巡啓に出向いている。皇太子が次第に軍部御用に狩り出されていることが分かる。しかして皇太子がそういう日本づくりに異論を持っていたのは見てきた通りである。

 この時の11.20日、学習院時代の旧友・桜井忠胤(ただたね)邸を予告なく訪れ、恐懼する桜井に「今度は軍人となって来たのだから恐縮だの恐れ多いだのは止めにしてくれ。そう慇懃では困る」と云い、昔語りしている。その後、「桜井、演習は9時からだからその間又遊びに来た」と再度来訪し、邸内を勝手に歩きながら、「桜井、今日は恐縮だなどは一切止せよ。お前は学校に居る時、俺と鬼ごっこの相手ではないか。今はここに住んで何をしているか。大層色が黒くなったではないか。子供は幾人あるか」などと語った挙句、「どうも騒がしたなぁ桜井、又来るよ」と言い残して立ち去っている。

 この時、時計の針は既に9時を廻ろうとしており演習遅刻は免れない。嘉仁皇太子にとって、学習院時代の旧友訪問が窮屈な業務日程の中でのほんの一瞬の息抜き時間であったとすれば、如何なる思いで軍事演習精勤を余儀なくされていたのか胸中察するに余りある。

 1912(明治45)、33歳の時、1.1日、南京に中華民国臨時政府樹立。孫文が臨時大総統に就任し建国を宣言する。2.12日、清朝の宣統帝(愛親覚羅溥儀)が退位し清朝が滅亡する。ようやく眠れる獅子たる中国の覚醒が始まり紆余曲折の末に毛沢東指導の中共政権に達するまで定向進化する。この流れに日本がどう関わり関わらないのか、単に日帝侵略論では解明できない歴史の流れを見て取ることができるが本稿のテーマではないので問わない。

 3.27日、12度目の巡啓としての山梨行啓。13度目の巡啓としての4.22日より滋賀県と三重県方面を行啓。参謀本部旅行演習の見学に出かけている。この時、演習の合間に蕎麦屋に入ったところを地元新聞に報ぜられている。4.14日、 豪華客船「タイタニック」が氷山に激突して翌日沈没。5.8日、皇太子は、東宮御所に参上した原敬に対し、「行啓に際し新聞紙に種々のことを登載されて困る」旨漏らしている。5.17日、大隈重信邸並に早稲田大学に行啓。渋沢栄一が大学基金管理委員長として大隈邸に於て拝謁している。関係者が大隈邸で晩餐の饗を受けている。

 これが嘉仁皇太子が大正天皇として即位する前のご様子である。これほど多忙な巡啓ぶり、そつなくこなすどころか大人気であったことをみれば、皇太子をして「幼少より生来の病弱説、粗脳説、脳障害説」を云う者はよほど云う者の方が粗脳であろう。普通に考えて丈夫でなければ勤まる筈がないではないか。

 連中は、虚説であるのが自明だろうに、その虚説に拘っている。仮に皇太子時代は置いといて大正天皇の御代になると症状が事実だったとして、そうであれば天皇としての強度ストレスにより発症したものとみなすべきではなかろうか。通説は大正天皇押し込めを正当化させるためのトリック理論に過ぎない。

 ところで、「幼少より生来の病弱説、粗脳説、脳障害説」を説く輩は不思議と第二次世界大戦論を正義の連合国派と不正義の枢軸国派の戦争だったとする論、ユダヤ人数百万人犠牲ホロコースト論、田中角栄諸悪の元凶論とほぼ百%の確率で同衾している。こうなると、連中は、国際ユダ屋メーソン仕立ての政治テキストの請け売りをしているに過ぎないと云うことになる。メーソンテキストを鵜呑みにしかできない粗脳連中が、そう唱えることが処世法上有利と風向きを読み曲学阿世しているに過ぎない。かく構図を据えるべきではなかろうか。

 こう理解することで一つの不思議が解けた。即ち定年まで何十年にもわたって学問をして来た者が少しも学者らしくない風貌にお目にかかることがあるが、どうもオカシイ。それはメーソンテキストの口パクをしているだけだから脳が働かず、結果的に却って貧相に陥った故ではなかろうか。その代表的例は原発大丈夫派のヒゲヅラ族である。アメリカにおんぶに抱っこ論を唱える幼稚顔の政治学者もそうである。本来は稽古ごと全般と同じで精進すればしただけ時間を掛ければ掛けただけ重厚になり、その苦みばしった風情と共に腕上がりしなければオカシイ。

 れんだいこのカンテラ時評№1267  投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 8月 1日
【大正天皇実録考その10】

 嘉仁皇太子の巡啓はその後も続く。1908(明治41)年、7度目の巡啓として4月*日より15日間、山口、徳島方面行啓。8度目の巡啓として9月から約1ヶ月間、東北各地を行啓している。この時の様子として次のような逸話がある。

 「丁度その折も折、明治41年の秋、東宮殿下(大正天皇)が奥羽史蹟御調査のため東北地方に行啓中であられたが、藤波侍従の配慮もあり御召列車が盛岡から仙台に赴かれる途中、駅でない松島村根廻新潜穴の下流橋上に1分間停車されることになった。殿下は御陪乗の寺田知事に対し、『天下の大工事であるから中途挫折等のことなく竣工せしめよ』とのお言葉を賜ったのである」(「鎌田三之助翁顕彰碑」)。

 この「1分間停車」が功を奏し、東宮殿下(大正天皇)のこのお言葉によって、あわや難工事過ぎて挫折かと思われた工事が見放されることなく遂行されることになった。次のように記されている。

 「元禄以来 幾度か企図して未だ果さなかった干拓工事が鎌田氏の熱誠あふれる努力により遂に貫徹したのである。殊にこの大工事は政府の補助金に頼らず、勧業銀行からの貸付金90万円によって自力で成就したものである(組合費と新干拓地の収入で償還した)。明治43年12月26日の通水式には知事をはじめ1千人が参列し、元禄穴川の通水以来212年目の感動に満場しばし声なく感激の涙をおさえるのであった」。

1909(明治42)年、9度目の巡啓として9月から約1ヶ月かけて岐阜、北陸を巡啓。10月、韓国皇太子と数回の交流が認められる。

 10.26日、伊藤博文が暗殺されている。伊藤は、満州・朝鮮問題についてロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と非公式に話し合うためハルビン駅を訪れた際、朝鮮民族主義活動家の安重根(アンジュングン)に射殺された(享年69歳)。ロシア官憲が安重根、禹徳淳、曹道先、劉東夏を拘束し身柄を日本政府に渡した。日本政府は関東都督府地方法院で裁判に付し、翌2.14日、安を死刑、禹を懲役2年、曹及び劉を懲役1年6か月に処する判決を下している。 伊藤暗殺が朝鮮民族主義活動家の犯行なのか国際ユダ屋による謀殺なのかにつき解明されていない。

 11月、嘉仁皇太子が陸海軍中将に昇進するとともに参謀本部付きとなる。これにより毎年4月に全国各地で行われる参謀本部参謀旅行演習の見学が半ば義務づけけられることになった。

 1910(明治43).31歳の時、1.9日、国技館に行啓、相撲を御覧。5月、毎週火・金曜日に参謀本部へ通う生活が始まる。皇太子はこの時軍事研究を講学されるが、東宮武官・千坂智次郎は次のように証言している。「陸海軍の御用掛等が進講する軍事上のこと等は、恐れながら豪も御会得あらせらるるの実を見る事を得ざる」。10度目の巡啓として9月から約*日間、三重、愛知方面行啓。この頃、軍事行啓相次ぐ。

 1911(明治44).32歳の時、11度目の巡啓として8月から約1ヶ月かけて北海道を行啓。この巡啓で沖縄を除く日本全国をくまなく歴訪されたことになる。

 9.17日、皇太子が北海道行啓から帰ると、原敬が東宮御所を訪問している。北海道行啓の最中の8.25日に第二次桂太郎内閣が総辞職して、8.30日に第二次西園寺内閣が組閣され、原は内務大臣に返り咲いている。原は日記に次のように記している。

 概要「殿下例の如く椅子に寄るを許され、且つタバコなど賜りて御物語あり。如何なる方針なるやとの御尋ねに付きつぶさに言上したり。それより種々の御物語ありて退出したり。今日に始まらぬことながら殿下は毎度懇切に閣員等を遇せらるるは恐懼のほかなし。又当秋の大演習には赴くかとの御尋ねにつきその心得なる旨申し上げ、且つ殿下にも行啓あるやに御尋ね申し上げたるにその御含みらしきもこのことは秘し置きくれよと繰り返し御話しありたり」。

  原氏は著書「大正天皇」の中で、「皇太子は、気心の知れた原に思わず本音を漏らしてしまい、あわてて何度も『このことは秘し置きくれよ』と念を押したように思われる」と解している。この下りを重視するとして、それでは、この時の皇太子の漏らした本音とは何であったのだろう。ここが肝心である。

 れんだいこが思うに、陸軍大演習を巡って論じているが、その際に強烈な軍部批判並びに軍事色を強めつつあった日本の存り姿に対しての困惑を吐露していたのではなかったか。大正天皇論を正しく述べるとするならば、ここがキモにならざるを得ないのだけれども。

 れんだいこのカンテラ時評№1266  投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 7月30日
【大正天皇実録考その9】

 ここで、 日韓皇太子友誼考をしておく。その前提として当時の日韓史を素描しておく。(略) 1907.7.20日、韓国統監・伊藤は、純宗即位を機に高宗の第7男子にして10歳の李垠(イ・ウン)を皇太子にさせた。伊藤は、日韓親和を図るため嘉仁皇太子の韓国行啓を発案した。明治天皇は、韓国内の反日義兵運動による治安悪化を理由に難色を示したが、伊藤が説得に努めた結果、既に東宮輔導を辞任していたが皇太子の全幅の信頼を得ている有栖川宮の同伴を条件に承諾を与えた。

 1907(明治40)年、27歳の時、10.10日、嘉仁皇太子は.6度目の巡啓にして初の外遊となる韓国行啓に向かった。韓国行啓には桂太郎、東郷平八郎ら陸・海軍大将らが随行し、広島宇品港で艦「香取」に乗艦、10.16日、韓国仁川に上陸した。仁川では伊藤、純宗、李垠らが出迎え、お召し列車で京城の南大門(現在のソウル)に到着した。当時、発行されていた日本語新聞「朝鮮新報」が、嘉仁皇太子が陸軍少佐の軍服姿で起立し、脱いだ帽子をテーブルの上に置いた肖像写真を二段抜きで掲載している。これが新聞紙上に皇太子写真が掲載された初事例となる。以降、韓国での掲載が先例となって日本国内でも皇太子の肖像写真が公開されるようになった。

 皇太子は17日-19日までソウルに滞在した。10.19日、皇太子が昌徳宮内の秘苑を訪れ、韓国皇帝(高宗に代わって即位した純宗)皇太子・李垠(イ・ウン)と会見している。皇太子が有栖川宮のカメラを李垠に見せ、レンズを日本関係者らに向けながら、「ここより覗き見られよ。彼ら皆な逆さまになりて並べるが見ゆるに」と声を掛け、笑みながら李垠にカメラを覗かせている。二人は忽ち兄弟のように打ち解け、4日間の滞在中、李垠(イ・ウン)が終始接伴するという良好な関係をつくった。 F.R.ディキンソン著「一躍五洲を雄飛す 大正天皇」が、嘉仁皇太子の皇室外交としての韓国巡啓を次のように評している。

 「東宮韓皇と御対顔」か次のように評している。「この日本皇室が史上初めて負った責任を嘉仁が輝かしく果たした」。

 10.20日、南大門からお召し列車で仁川に向かい軍艦香取に乗船。10.21日、慶尚南道の鎮海湾に寄港し湾内を巡覧し韓国行啓を終了している。その帰路、南九州・佐世保に上陸。長崎、鹿児島、宮崎、大分。11.9日、大分から高知の須崎に上陸して高知へ、須崎から横浜へ、35日ぶりに帰京している。

 1907年、12月、11歳の李垠(イ・ウン)が伊藤博文公に伴われ来日、鳥居坂御用邸(麻布六本木)で人質生活をし始める。これを伊藤博文らが扶育する。皇太子は韓国語の学習を始めている。武田勝蔵の回想によれば、「度々韓太子に会ふから少し朝鮮語を稽古して見たいが何か本はあるまいか。あれば侍従まで届けて貰い度い」と述べ、李垠に会うたびに「今日の話しの文句を朝鮮朝鮮語のハングル文字で書いて、それに発音を附けて訳文と共に差し出すように」と翻訳官に命じていたことが伝えられている。また、李垠と一緒にビリヤードをしたり、誕生日のお祝いを贈ったりしている。

 明治天皇や昭憲皇太后は文具や書棚、玩具などを贈っている。明治天皇は活動写真機やクリケット用具なども与えられたとのことである。北白川宮成久、久邇宮鳩彦、久邇宮稔彦らが日本語学習を援助し、鴨猟にも同行している。要するに李垠(イ・ウン)を皇室の一員として迎え育てたことになる。

 これより何をどう窺がうべきだろうか。少なくとも、明治天皇、昭憲皇太后、嘉仁皇太子を始めとする当時の宮中が、韓国皇太子に対し属国属民視する横柄な態度を執らず後々まで続く親交を結んでいることが垣間見えるであろう。嘉仁皇太子は格別なほどに彼の兄たり父たりならんとしていたように思える慈愛を見せている。

 これをどう評するべきか。れんだいこに見えてくるものは、政治は日主韓従を強めつつあったが、宮中は宮中の論理で日韓皇室外交の型を保持していた史実である。その主役が嘉仁皇太子であった。その嘉仁皇太子が目指す政治が古代出雲王朝御代の大国主の命政治であった。大国主の命政治であれば日韓友好親善は当たり前に見える。逆は逆である。

 れんだいこのカンテラ時評№1265  投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 7月29日
【大正天皇実録考その8】

 嘉仁皇太子は、巡啓の際、気さくに声を掛けられ「能く御下問遊ばす皇太子」ぶりを発揮している。これに対し、「思ったことをすぐに行動に移したり口にしたがる」と悪評しているものが多い。しかし悪評する者の方が暗愚なのではなかろうか。「生の肉声をみだりに伝えるのは不敬である」という威厳的な考え方が微塵もなかったこと、皇室と人民との接近場面を極力増やそうとしていること、「平常の有り様をお目撃なりたきご趣意」に基づくものであった故の「質問多発」であったことを踏まえれば、「威厳よりも親しみを抱かせる性格の御方であった」と批評するのが筋ではなかろうか。

 「面白い」、「国益だなぁ」、「至極便利なものだな」などの感想を発し、そのやり取りが、明治天皇の行幸や巡幸では全くありえなかったことで驚きを持って迎えられている。その会話の端々に歌人能力同様の感性、判断力の良さ、知性が感ぜられる。ならば、「好奇心、探究心、向学心が強く、且つ天真爛漫的な茶目っ気があり云々」と好評的に解するべきではなかろうか。実際、皇太子時代から巡啓に同行するなど近しい立場にあった原敬は、後に語られる大正天皇像とは大きく異なる「気さくで人間味あふれる、時にしっかりとした」人物像を原敬日記に記している。

 一例として、病院に立ち寄れば周りの者にも気安く話し掛け、患者に近寄って症状を尋ね、いたわりの言葉を掛けている。「患者は絶えず感涙に咽びた」なる肉声が報じられている。松茸狩りの際の良く取れるヤラセを見抜き、それを質して関係者を慌てさせている。武術観戦の際に、単に観戦するだけでは物足りず自分も試すなどしている。これらを奇行と解すより「愛すべき稚戯」と受け取るべきではなかろうか。

 ブドウ園を突然訪問した際に、「ブドウ酒はアメリカにもあるか」、「如何にして醸造するや」、「日本人が己れ一箇の資力にしてこれだけの事業を成せしは感心の至り成り」との御言葉を遺している。「英語の教授は不完全と思うがいかがか」と質疑し、知事が「洋人を雇い置きますれば完全致しまするなれど」と答えたのに対し、すかさず「それなら雇えば良いではないか」なる遣り取りが伝えられている。

 皇太子は自主的な意表の行動に出ることが多く、その分自由に振舞う姿があった。人力車に乗ると、「(お定まりのコースに構わず)車夫に命じて意のまま進ませた」ので周囲は大狼狽したことが伝えられている。新潟滞在の際には、深夜に供の者が寝静まったのをみはらかってそっと抜け出し、付近の白山公園散歩に出ている。警備の者が必死になって捜索し、ようやく見つけて近寄ると、皇太子は平然と「なにこっそり出たのだから心配には及ばぬ」と話されている。こうしたことが何回かあるも知事や警部長の責任問題は発生させていない。

 1903(明治36)年、6月、有栖川宮が東宮輔導を辞任し後任として斎藤桃太郎が取り仕切るようになって以降、有栖川宮時代の自由さが失われ、天皇行幸に準じた規制が再び敷かれるようになる。予定コースが外れないようにスケジュールが厳格になり、鉄道は全行程にわたって特別仕立ての御召列車となり、ホームでは入場者が厳しく制限された。沿線や沿道での最敬礼の仕方も細かく定められるようになった。この頃から巡啓に地方視察の意味が付与されるようになり軍事演習見学が加わるようになる。

 但し、皇太子の気さくな発言は相変わらず続いている。松山の城山では知事や旅団長に「かの山は何と云うぞ」、「かの地はいかなる歴史を有するぞ」、「余が通行せしはいずれぞ」、「この山の眺望はすこぶる余が意にかなえり。今回の行啓、余は未だこれほどの景色に接せず」との言葉を遺されている。道後温泉では、「この菓子はこの地の名物なりや」等々の御言葉を遺している。

 1907(明治40)5~6月、鳥取、島根を回っている。天皇の名代としての初の公式地方旅行となったが、京都から島根へ入り出雲大社を参拝している。その後、予定外であったが皇太子の強い意向で軍艦鹿島で浜田から隠岐へ向かい、後醍醐天皇の行宮の跡を見て回られている。この時のことかどうか分からぬが、概要「皇太子は御召列車に乗っても、名所旧跡等につきその由来を御諮問あり、先から先へとお尋ねとなるより、時としては知事が拝答に困らしめるも少なからず」とある。

 もうこれぐらいの確認にしておこう。明治天皇や昭和天皇とはひと味もふた味も違う、規制とか束縛を極力控え、気さくに国民の中に入って行って皇室と国民の絆を深める人間み溢れる天皇像が浮かび上がってこよう。補言しておけば平成天皇ご夫妻もこの大正天皇ご夫妻に近いのではなかろうか。

 れんだいこのカンテラ時評№1264  投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 7月28日
【大正天皇実録考その7】

新婚巡啓が円滑に取り運んだことに気をよくしてか、明治天皇の了承を得て地方巡啓が本格化する。次第にぶりがつき、やがて引く手あまたとなり、仕舞いには沖縄を除く日本列島を隈なく足繁く訪問することとなった。皇太子時代の12年間にほぼ1、2年に1回のペースで12回の行啓を行っている。しかも1、2ヶ月に及ぶ長期のものもあった。以下、その概略を確認しておく。これの詳細は「大正天皇の足跡履歴」に記す。

 この他軍事行啓や国技館行啓、早稲田大学行啓等の特定行啓をこなしている。皇太子は体調を崩して寝込むことはなかった。この嘉仁皇太子の巡啓史そのものが大正天皇病弱論を打ち破るであろう。それは、嘉仁皇太子の歌人能力そのものが大正天皇粗脳論を打ち破るのと同じである。

 1度目の巡啓/三重、奈良、京都方面/明治33.5.23日から10日間。2度目の巡啓/北九州一円方面/明治33.10.4日から50日間。3度目の巡啓/北関東、信越方面/明治35.5.20日から18日間。4度目の巡啓/和歌山、瀬戸内海方面/明治36.10.6日から24日間。5度目の巡啓/鳥取、島根方面/明治40.5月から*日間。6度目の巡啓/韓国、南九州、高知方面/明治40.10.10日から35日間。7度目の巡啓/山口、徳島方面/明治41.4月から15日間。8度目の巡啓/東北方面/明治41.9月から約1ヶ月間。9度目の巡啓/岐阜、北陸方面/明治42.9月から約1ヶ月間。10度目の巡啓/北海道方面/明治44.8月から約1ヶ月間。11度目の巡啓/山梨方面/明治45.3.27日から約*日間。12度目の巡啓/滋賀、三重方面/明治45.4.22日から約*日間。

 嘉仁皇太子の巡啓を企画推進したのが東宮補導・有栖川宮であった。「少数の東宮職関係者と相対するだけの狭く堅苦しい空間から皇太子を解き放ち、一般の人々が暮らしている世間に触れさせる」との考えに基づいていた。それは有栖川宮自身の経験に基づくものであった。即ち、有栖川宮がロシア皇太子ニコライ一行を案内した時、ニコライ一行が各地の人々や風俗に接して和合する姿を目の当たりにしている。この時の教訓を皇太子の巡啓に生かそうとしていた節がある。皇太子の巡啓が好評で次第に大掛かりなものが企図とされていくことになった。学事が停滞するとして東宮職は反対したが、東宮輔導・有栖川宮が、歴史・地理の実地見学という大義名分を押し立てて明治天皇の承認を受け実現していくことになった。

 嘉仁皇太子の巡啓が、民間天皇をアピールした戦後の昭和天皇の巡幸、継宮明仁(つぐの宮あきひと)皇太子(後の平成天皇)のそれの先取りとなったという点でも意義が高い。なお、明治30年代より明治天皇の健康が優れなくなり、巡幸が控えめになったのと対照的に皇太子の巡啓が盛んとなっているという時代の流れも見ておかねばならない。これらの巡啓を通じて鉄道が開業し、電気の点灯、電話、舗装道路など社会資本のインフラ整備が進んだことも銘記されるべきであろう。「この旅行から、歓迎行事の出し物に大掛かりな郷土芸能を見せることも恒例となった」。

 1902(明治35、23歳).5.1日、有栖川宮は、信越北関東大巡啓に先立って、東京の自邸に各知事を集め、全部で20カ条からなる次のような訓示を与えている。

 概要「行啓先各地において、平常の有り様を御目撃ならせたき御趣意なれば、御趣意に背かざるよう、地方官にて厚く注意これありたきこと」。

 他にも概要「大掛かりな奏送迎は不要、過度の歓迎を控えるよう、通御の道筋も通行の妨げにならない限り通常の通行を制止するに及ばない」と通達している。「天皇行幸に準じた準備や規制を撤廃し、皇太子が自然に振舞うことのできる素地を作り出そう」として心を砕いてい入る様が見て取れる。これにより、特別仕立てのお召し列車ではなく一般の人々が乗る普通列車を利用して移動する区間が多くなった。巡啓日程が容易に変更され、滞在が延びたところもあれば予定変更で立ち寄らなかったところもあった。軍服と平服を適宜取り替えつつ巡啓が続き、軍隊司令部、名所旧跡の他に最新の殖産興業的産業施設への立ち寄りが為されているのもユニークであった。

 れんだいこのカンテラ時評№1263  投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 7月27日
【大正天皇実録考その6】

 前稿で大正天皇の歌人能力が格段に高いことを確認した。だとすれば大正天皇の政治能力も実は高かったと推定することも可能ではなかろうか。この仮説を提起し大方の賛同を得たいと思う。これが本稿の狙いである。

 思うに、嘉仁皇太子が大正天皇として即位後、徐々に身心を病んでいったのは、云われるような生来の持病によるものではなく、即位後の政治的軋轢の中で政略的に身心を傷めた故ではなかろうか。大正天皇生来の病弱論、粗脳論は、この政略的絞殺を隠蔽する為の煙幕理論に過ぎないのではなかろうか。れんだいこは、当時に於ける国際ユダ屋呼応勢力が大正天皇政治に立ち塞がり、続いて無理やり「押し込め」、最終的に毒殺まで追い込んだのではないかと仮説している。

 それでは、大正天皇はなぜ押し込められたのか。これに対する解が必要であろう。私はこう推理する。それは両者の政治の型が全く違う故であった。大正天皇の御代に於いて、天皇派と反天皇派の両者間には非和解的な道しか残されていなかった。これを説明すると、大正天皇派は、原日本古来の出雲王朝的御代の政治を理想としていた。それは大国主の命政治を手本とする。戦後では田中角栄政治であり、国内的には殖産興業、対外的には国際友好親善、国際協調である。即ち戦後憲法に具現しているような「平和の傘の下での経済成長政治」であった。

 ところが、反大正天皇派の政治は国際ユダ屋の指令のままに蠢く売国政治であり、アジアの盟主としての日本帝国主義化政治であり、国内的には重税、対外的には戦争政策である。(何のことはない、現在の日本が再び誘導されつつある道である。こたびはアジアの盟主にはなれず従僕として使い捨てさせられようとしているけれども) 金血鬼/国際ユダ屋の采配振るうところ、いつでもどこでもこうなる「国際ユダ屋の傘の下での戦争経済政治」であった。

 この抗争は承知の通り国際ユダ屋が勝利した。故に、大正天皇の存在そのものが歴史的に押し込められた。故に、近現代天皇に於いて明治天皇、昭和天皇には誕生日が慶賀され祝日とされているのに独り大正天皇は蚊帳の外に居る。

 これに明らかなように大正天皇が祀られること、語られること、その御歌が語られることが格段に少ない。仮に語られたとしても、読み聞くするに耐えられない罵倒論が主流であり通説である。目下のTPP交渉で、国際ユダ屋が著作権棒丸出しにしているので、著作権の正体が分かろうと云うものだが、こういう手合いが決まって強権著作権を振り回す癖があるのがお笑いである。著作権に対する態度を見るだけで、どちらの陣営の者か、あちらの陣営連中のど阿呆さが分かる。

 ここで気づくことがある。してみれば、これまでの大正天皇実録非公開、その後の公開時の黒塗りは何の為だったのだろうか。黒塗りが解除されてはっきりしたことは、この記述なら黒塗りの必要がなかっただろうと思える記述であるのに黒塗りにされてきたことである。どちらかと云うと、大正天皇の好印象に繋がる下りが黒塗りにされている。

 と云うことは、大正天皇の偉丈夫さ、類い稀な歌人能力、それに陸続する政治能力の高さを隠蔽する為に、敢えて非公開、黒塗りしてきたのではなかろうか、と窺いたい。国際ユダ屋には「病弱にして粗脳な大正天皇論」の方が都合が良く、それが、後の「大正天皇押し込め」、享年47歳での毒殺を正当化させる為の伏線になっているのではなかろうか。「壮健にして英邁有能な大正天皇論」では都合が悪過ぎるのであろう。

 当時も今も、国際ユダ屋の敷く好戦政策を請負うことで立身出世を企む奸族がいる。これが幕末の黒船来航以来の日本政治の宿亜である。大正天皇はこの連中にヤラレタ。即位以来、国内的にも国際的にもハト派日本の創出を企図しご苦労されたが、これに奸族が立ちはだかり、押し込められ、最後は毒殺されたのではないのか。この最大なる不敬事件を引き起こした連中が、昭和の御代になって不敬事件棒を振り回すことになる。そのご都合主義ぶりは何をか云わんやではなかろうか。

 この大正天皇の評価で、妙なことにウヨとサヨが共通している。試しに社共の大正天皇論、右翼のそれを聞いてみればよい。他にもある。南京虐殺事件等に関しては議論百出するも、国際ユダ屋がテキスト化しているホロコーストに対する無条件恭順がそうである。ロッキード事件の際の田中角栄の政界追放論も挙げられよう。右翼と左翼が共通するメガネを持つ例はそう多くはない。そういう例の一つに大正天皇論がある。これはこのように理解するよう操作され、それに恭順しているに過ぎないことを示している。

 れんだいこのカンテラ時評№1262  投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 7月26日
 【大正天皇実録考その5】

 ここで大正天皇の歌人能力に言及しておく。歌そのものについては「大正天皇のお歌考」で考察する。結論から申せば、大正天皇の歌人能力は格段に高い。そういう訳で、大正天皇の御歌を総合的に研究してみたいと思う。浅学菲才ではあるが次のジャンル別に仕分けしてそれぞれの名句を味わいたい。「新年の年賀歌」、「時局&政情歌」、「国見&国憂歌」、「軍事&戦争歌」、「情景&叙情歌」、「自然観察歌」、「人生歌」、「家庭団欒&子供思い歌」、「恋歌」。なお且つ、節子妃(さだこ妃、後の貞明皇后)の歌人能力もこれまた格段に高いことに注目し、両者の掛け合い歌をも紐解いてみたい。いつのことになるかは分からないけれども。

 不思議なことに、大正天皇はそういう歌人能力を示しておりながら、大正天皇が語られること、その御歌が語られることが明治天皇、昭和天皇に比して格段に少ない。これは何によるのだろうか。ここではこの問題に触れない。とはいえ大正天皇の御歌に関する書籍がぼちぼちとは出ている。

 確認できるのは、1973年初版の小田村寅二郎、小柳陽太郎両氏の共編になる「歴代天皇の御歌(みうた)初代から今上陛下まで二千首」(日本教文社)である。明治天皇、昭和天皇の御歌集は単独で出版されているが大正天皇の御歌は目に触れる機会が少なかった。その意味で大正天皇の御歌公開の意義が深い。二千首との絡みが分からないが「この中に収められた総数465首の内、大正天皇の御製118首が謹選されている」と解説されている。

 大正天皇だけの御歌集は2002年初版の歌人・岡野弘彦著「おほみやびうた-大正天皇御集」(邑心文庫)が発行されてようやく日の目を見ることになった。456首が確認されている。岡野氏は、「おほみやびうた-大正天皇御集」の解説で次のように評している。

 概要「歌の出来は相当のレベルに達しており、特に、清涼さ、透徹した描写においては明治天皇や昭和天皇よりも優れていた」。

 「おほみやびうた-大正天皇御集」の帯文言は次のように記している。

 「世上、大正天皇をめぐって根のない噂話が流布した時期がある。しかし何よりも、こうした歌からうかがわれる天皇には、こまやかで、鋭い物の見通しと、それを短歌の表現にさわやかに凝縮してしらべ豊かに歌う、すぐれた才能を持っていられたことがわかる」。

 推薦の文言は次の通りである。

 「悲劇の帝王・大正天皇の無垢で高貴な気稟溢るる御製歌集。明治二十九年から大正十年までの歌を収録」。

 インターネット・サイト「天皇と短歌(二)大正天皇の御製」、2002.10.27日付毎日新聞書評欄「近代の帝はなぜ恋歌を詠まない?」、「大正天皇の大御歌」を参照すれば、丸谷才一氏が次のように評しているとのことである。

 「大正天皇は御水尾院以来最高の帝王歌人である」。「とにかく傑出した力量の持主で、もしもこの才能を自在に発揮させたならば、吉井勇、斎藤茂吉、北原白秋などと並ぶ、あるいは彼らを凌ぐ、大歌人となったに相違ない」。「ひょっとすると、大正という十数年間の憂愁と古典主義との結びつきを最もよく代表する文学者はこの帝だったという想念を抱かせるかも知れない」。

 五木寛之氏も大正天皇の御歌を絶賛し、「彼こそ歴代天皇の中で最高の歌人」と評価しているとのことである。

 大正天皇は和歌のみならず漢詩をも数多く詠んでおり、こちらも評価が高い。三島中洲の指導を受けて創作し始めたのであろうが、漢詩数は実に1367首に上る。質量とも歴代天皇のなかでも飛びぬけている。これを確認するのに、2位が嵯峨天皇と後光明天皇の98首。ついで後水尾36、霊元25、一条23、村上天皇18、淳和16。あと22人の天皇が6首以下である。

 この能力を聞いても、まだ大正天皇を粗脳呼ばわりする者ありしか。

 れんだいこのカンテラ時評№1261  投稿者:れんだいこ  投稿日:2015年 7月25日
【大正天皇実録考その4】

 ちょうど世紀の変わり目の1900(明治33)年、20歳の時、2.11日 、嘉仁皇太子は「日嗣ぎの御子」として公爵九条道孝の4女・節子(さだこ、後の貞明皇后、当時15歳)と婚約する。節子妃につきより詳しくは「貞明皇后考」で確認するが、要するにこちらも出雲系の出自であるところに意味がある。

 九条節子に白羽の矢を当てたのは、節子の父・九条道孝の実姉にして孝明天皇の女御にして明治天皇の正妻(嫡母)の九条夙子(あさこ、後の英照皇太后)であった。節子姫が幼い時、招かれて姉と共に青山御所にあがり、伯母である英照皇太后に目をかけられて、皇孫明宮嘉仁皇太子の妃に目されたと云う。何やら孝明天皇の歴史息を感じるのはれんだいこだけだろうか。

 同年5.10日、皇祖天照大御神の御霊代の御神鏡が座す宮中・賢所(かしこところ)での神前結婚式が厳かに執り行われた。留意すべきは、それまでは式は神前では行われず、式後に賢所に御参拝になるのが宮中の慣わしだったようである。「賢所の大前において、ご婚儀を行はせたまふ御事は、国初以来こたびを以て初めて」とあるので、この時、明治天皇を取り巻く当時の宮中の英断で賢所での神前結婚式に踏み切っていることになる。これが神前結婚式の走りとのことでる。

 儀式後、嘉仁皇太子は陸軍少佐の正装、節子皇太子妃はドイツ式正装で皇居周辺をパレードしている。そこらじゅう国旗や提灯、電飾と飾門が設けられ、皇礼砲が響き、花火が上がった。婚礼を見るために鉄道を使って上京した人は10万人を超え、祝辞を送った人は15万人を超えたとのことである。その後、節子妃はフランス式正装に着かえられ、各国公使らを含む2200人ほどの饗宴を催している。国内至る所で記念植樹や記念碑が建てられている。要するに日本中が祝賀ムードに酔いしれる国挙げての大祝典が成功裏に挙行されたことになる。これがその後の皇太子御成婚行事の先例となり今日に続いている。

 当時の人々は概ね皇太子の結婚を祝福しているようで、正岡子規は「東宮御婚儀をことほぎまつる歌」を詠み新聞「日本」に掲載されている。幸徳秋水も無署名ながら「万朝報」に「皇太子殿下の大礼を賀し奉る」という文章を載せている。幸徳の賛辞は如何なる政治眼力によるのだろうか。思うに、幸徳は、日本の皇室制度につき、他国にありがちな抑圧体制のものではなく、日本が誇り護るべき固有な高度な政治システムのものであると分別していたのではなかろうか。

 俗流マルクス主義の、日本天皇制をも西欧的君主制と同様な抑圧的なものと捉え、その打倒を生硬に唱えれば唱えるほど革命的とする理論に対して、アンチの姿勢を保持していたのではなかろうか。とすれば、幸徳のこの天皇制論は一聴に値するのではなかろうか。この観点に立てば、幸徳を葬った大逆事件も大杉栄を葬った関東大震災事件も胡散臭いことになる。何やら格別優秀な者が狙い撃ちされている観がある。

 もとへ。皇太子夫妻の新婚生活は順調に始まった。成婚当時は教育係の万里小路幸子という老女官に宮中での礼儀作法を厳しく躾けられ困惑したが、後年にはそれが自分の素養に大きく役立ったと感謝している。昭憲皇太后も節子妃を実の娘の様に愛されたという。

 特徴的なことは、節子妃が伝統的な女官制度のしきたりを打ち破り、妃自身が皇太子の身の回りの世話を行ったことである。即ち嘉仁皇太子は明治天皇とは対照的に側室を置かなかった。皇室における側室の制度が法的に廃止されたのは後の昭和天皇の時代であるが、側室そのものを事実上最初に廃止したのは大正天皇であった。良し悪しまでは分からないが皇室の一夫一妻制は大正天皇を嚆矢とすることになる。

 嘉仁皇太子の結婚は吉と出て、皇太子の健康にプラスの効果をもたらした。「大正天皇」(朝日新聞社)の著者/原武史・氏は次のように述べている。

 「結婚は、いうまでもなく誰にとっても、人生の大事な通過儀礼である。けれども皇太子の場合、そうした一般的な意味以上に、九条節子との結婚が生涯を変える節目となった。あれだけ病気を繰り返していた皇太子の健康が、結婚を機に明らかに回復に向っていくからである」。

 つまり、嘉仁皇太子は結婚後一気に健康を回復させて行ったことになる。このことを確認する事は、後の「病弱を理由とする大正天皇押し込め騒動」が「過剰な虚構の演出」であったことを明白にする点で重要である。

 大正天皇夫婦は子息に恵まれる。結婚の翌年の明治34年、第1皇子/迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王(後の昭和天皇)。その1年後の明治35年、第2皇子/淳宮雍仁(あつのみややすひと)親王(後の秩父宮)。それから4年後の明治38年、第3皇子/光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王(後の高松宮)。大正4年、第4皇子/澄宮崇仁(すみのみやたかひと)親王(三笠宮)の四男を授かっている。即ち、大正天皇夫婦は世継ぎ資格者をかくも鴻の鳥に運ばせたことになる。この意味でもご立派と云うべきではなかろうか。




(私論.私見)