カンテラ時評41(1201~1230)

 (最新見直し2013.11.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「カンテラ時評41(1201~1230)」を転載しておく。

 2007.3.24日 れんだいこ拝


れんだいこのカンテラ時評№1230

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 6月19日(木)20時03分43秒
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   安倍防衛論&鈴木防衛論考

 2014年の安倍政権下での自衛隊論を、1981年の鈴木政権下での日米同盟釈明事件の経緯から照射してみる。余りにも鮮やかな対比が確認できる。これを愚考する。「思えば随分遠くへ来たもんだ」と今昔の感を深めるのは、れんだいこだけだろうか。

 事件の発端はこうである。1981.5.4日、鈴木善幸首相が訪米した。前年の大平&カーター会談で「日米のパートナーシップ」が確認されていた。鈴木首相の訪米に際して米国側は「パートナーシップ」よりも結びつきが強い「アライアンス(alliance)」宣言を求めていた。「パートナーシップ」は単なる「友好国」を、「アライアンス」は「同盟国」を意味しており、「友好国」では適えられない軍事負担を「同盟国」なら請求できると云う違いがある。政治の世界では僅かな違いの言葉の表現がかくも高度な意味を含ませており、それ故に拘らねばならない重大性がある。

 既に大平政権下で「日米同盟関係」という表現が使用されていたがズバリの「日米同盟」として云われ、且つ共同声明文に記されることはなかった。鈴木首相は、対米関係上、日米共同声明に「同盟」の2文字を入れることは認めることは止むなしとし、その解釈のタガ嵌めで乗り切ろうとした。鈴木首相は戦後憲法-軍事防衛論に見識を持っており次のように述べているとのことである。「1、わが国の努力は平和的手段のものに限られる。各国に軍事的協力はしない。2、わが国の為しうる最大の貢献は経済社会開発と民生安定に通ずる各国の国づくりに対する努力である。3、国づくりとともに、この地域の平和と安定のための政治的役割をはたしていく」。

 5.7日の第1回首脳会談、5.8日の第2回会談を経て、「両国間の同盟関係は、民主主義及び自由という両国が共有する価値の上に築かれている」との表記で「日米同盟」を明記した共同声明を発表した。鈴木首相の意向を知る外務省は軍事的協力をめざすという意味ではないと事前説明していた。鈴木首相はその後、ナショナル・プレス・クラブで講演し、締めくくりの記者会見で、「日米同盟」をめぐる質問を受け、「同盟という語がつかわれたからといって軍事的側面について変化はない。同盟は軍事的意味合いを持つものではない」と繰り返した。

 5.10日、帰国。鈴木首相は記者会見で「日米同盟」の解釈を廻って質問を浴びせられ、「この同盟関係には軍事的な意味はない」と重ねて発言している。ところが、伊東正義外相が本会議で、「日米安保条約が基調にある以上、軍事的な意味は当然ある」と答弁し、野党が「閣内不一致」と騒ぎ出した。二日後、伊東外相が辞任へ追い込まれる。翌年1982.10.12日、鈴木首相が突然辞意表明した。鈴木再選は確実といわれていただけに寝耳に水の辞意であった。「日米同盟」の解釈を廻って外相の首が飛び、これが尾を引き首相の首まで飛ばせたと判じたい。

 この問題を改めて素描してみたい。「日米同盟」について鈴木首相は次のように述べている。意訳概要「共同声明で同盟関係を新たにうたったからといって、NATOにおける西欧諸国の運命共同体のように、お互いに共同戦線を張って防衛に当る、あるいは戦争をするというような、そういう集団的自衛権を日米の間で結んだものではありません。アメリカが他国と戦争をした場合、日本の自衛隊を派遣して共同戦線を張ってアメリカを助けるようなことは平和憲法の建前からできません。ASEANの国々を訪問した際に、日本が経済大国から軍事大国になるんではないかという懸念が存在することを察知していましたから、そういう懸念を払しょくするためにもレーガン大統領にはっきり申し上げておく必要があり、相当時間をかけて話しました」。

 これによれば、鈴木首相は、戦後憲法の語る戦後日本の国是としての国際平和協調主義の立場から、日米同盟的に絆を確認したとしても、できること、できないことを仕分けしていることになる。鈴木首相の日米同盟論には「平和で活力ある国際社会を目指す日米関係」が主眼であり、軍事はそういう同盟の一要素でしかなかった。これを分かり易く云えば「ハリネズミ式専守防衛論」であった。これはまさしく戦後ハト派としての真骨頂の軍事防衛論である。今、れんだいこが評すれば、鈴木首相は実は英明な政治家であった。これの論証は別に譲るが、角栄、大平、鈴木が戦後政治の1950-60年-70年代を牽引したことは僥倖であったと考える。三人は出自も能力も似ているのが興味深い。れんだいこは、日本型社会主義の祖として位置づけたいとさえ思っている。こちらが本物の方であると思っている。

 もとへ。当時の新聞マスコミがどう出たか。東京の外務官に「同盟に軍事的意味はないという鈴木首相の発言はナンセンス」とコメントさせ、一斉に「総理の器ではない」、「暗愚の宰相」というキャンペーンを張った。今にして思えば、ナベツネ御一党によるポスト鈴木の受け皿としての中曽根擁立の言論大砲戦であった。そういう悪だくらみが透けて見えてくる。

 その後の日本の軍事防衛論の歩みは衆知の通りである。中曽根が登場する。大国責任論が云われ、軍事予算GNP1%枠を外し拡大一方となる。小泉政権下が登場する。日米同盟論が軍事防衛生命線的に喧伝されるようになる。東南アジアまでとして来た専守防衛地域のタガ嵌めを外し世界各地への武装派兵の道が敷かれる。安倍政権が登場する。米戦略下での自衛隊の展開が現実にされようとしており、自衛隊が外に向け血を流し内に向け血を流させる道へ誘われつつある。
 

れんだいこのカンテラ時評№1229

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 6月13日(金)15時09分5秒
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   日本列島改造論 抜粋その6

 「地方都市の整備」。明治百年にいたる近代日本の道のりは、地方に生まれ、育った人たちが大都市に集中し、今日のわが国をつくる牽引車となったことを示している。しかし、明治二百年に向かう日本の将来は、都市に生まれ、育った外たちが、新しいフロンティアを求めて地方に分散し、定着して、住み良い国土をつくるエネルギーになるかどうかにかかっている。その為には地方に産業を起し、高い所得の機会をつくると共に、文化水準が高く、経済的、社会的に十分な都市機能を持った地方都市を育成しなければならない。大都市との情報格差をなくし、地方都市に住む人々が豊かで、便利な暮らしができるように日常の生活環境をきめこまかく整備することである。(163P)

 新25万都市は、地域開発を進めるための拠点である。ただ単に工業再配置によって大都市の工場を分散、立地するだけでは拠点都市とてしての役割は果たせない。産業の分散による経済活動に加えて、情報、金融、流通など開発拠点としての都市機能を持ち、さらに医療、文化、教育などサービス面の施設を整備しなければならない。新25万都市を中心とする周辺地域が一体となって、自立的な経済活動を行い、地域住民が文化的で豊かな暮らしができるようになれば、住民がその地域に定着し、大都市への人口集中も防げる。新25万都市を建設する具体的な方法は二つ考えられる。その一つは地方の小都市で、既にある程度の都市集積のあるところを充実、強化するやり方である。(略)もう一つは隣り合っている人口2万人程度の町村が多数集合して、新しい市街地をつくり、その周辺に工場団地を立地する方法である。(164P)

 新25万都市は、こうした新しい発想のもとにつくられる都市である。(略)このように、今まで自然発生的に形成されてきた都市のマイナス面を取り除き、理想的な都市の形成を目指す。また25万都市は、既存の地方都市に欠けている機能を持たなくてはならない。第一は、地域拠点として十分な都市機能を持つことである。その都市の住民だけでなく、周辺の農山村の人々に対しても情報、流通をはじめ医療、教育、文化、娯楽などの機会を提供するため必要な施設を整備することである。(略)

 第二は自ら発展しうるだけの産業経済活動を持つことである。郊外の全くない工場団地を中心に銀行、デパートなどを持ち、日常の経済活動を活発に展開できる機能を確立しなくてはならない。第三は、豊かに自然に恵まれ、地域に文化の光をともす役割を果たすことである。欧米の地方都市は、太陽と緑に恵まれた環境のもとで美術館や劇場があり、大都市に劣らない高い水準の文化活動が行われている。しかも民族舞踊といい、演劇といい地方色豊かな地元の文化が育ち、?民もそれを郷土の誇りとしている。日本の地方都市にも、このような特色のある文化を育てたいと思う。(略)第四は、地元住民が親しい人間関係を持てるニューコミュニティーの新しい地域社会でなければならない。(略)

 新25万都市は、そのような‘人間砂漠’であつてはならない。新25万都市は、人々がそこで気持ちよく暮らし、働き甲斐があり、共に人生を楽しみ、親しく付き合い、地域社会の発展や国の将来を語り合えるニューコミュニティーであるべきである。隣近所の人たちが話し合える広場やこうえん作り、また文化活動やスポーツを一緒にできる施設を設けることも必要である。さらに都市内の情報伝達メディアとして有線テレビ網を設置することも要請されていよう。(167P)

 「農村の利益は都市の利益」。巨大都市への産業、人口の過度集中によって農村から若者が減り、農村の発展のエネルギーは衰えようとしている。こうした日本農業に再生のレールを敷き、都市と農村が共に反映する条件を作り出すことが日本列島改造の重要なテーマである。農業は、国民に一日も欠かすことのできない食糧を生産し、供給すると同時に農民の所得の源泉である。農村は国民の食糧供給基地として、また農民が働き、生きる場として楽しく誇りうるものでなければならない。国民経済全体からみても、主要な食糧については80%程度の自給率を維持することが必要である。(173P)
 

れんだいこのカンテラ時評№1228

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 6月13日(金)14時23分35秒
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   日本列島改造論 抜粋その5

 「大量輸送時代の総合交通体系」。明治以来、わが国の交通政策は鉄道中心に置かれて来た。これは点と線の交通政策であり、大都市拠点主義はここから出発した。しかし、これから必要なのは、点と面の交通政策であり、その新拠点は道路と鉄道、海運、航空の結節点である。(117P)

 「国土開発と地方線の再評価」。もう一つ、触れておかねばならないのは日本国有鉄道の再建と赤字線の撤去問題である。国鉄の累積赤字は47年末で8100億円に達し、採算悪化の一因である地方の赤字線を撤去せよという議論がますます強まっている。しかし、単位会計で見て国鉄が赤字であったとしても、国鉄は採算と別に大きな使命を持っている。明治4年にわずか9万人に過ぎなかった北海道の人口が現在、520万人と60倍近くに増えたのは鉄道のお陰である。すべての鉄道が完全に儲かるならば民間企業に任せればよい。私企業と同じ物差しで国鉄の赤字を論じ、再建を語るべきではない。都市集中を認めてきた時代に於いては、赤字の地方線を撤去せよという議論は、一応説得力があった。しかし工業再配置を通じて全国総合開発を行う時代の地方鉄道については、新しい角度から改めて評価し直すべきである。

 北海道開拓の歴史が示したように鉄道が地域開発に果たす先導的な役割はきわめて大きい。赤字線の撤去によって地域の産業が衰え、人口が都市に流出すれば過密、過疎は一段と激しくなり、その鉄道の赤字額をはるかに越える国家的な損失を招く恐れがある。豪雪地帯における赤字地方線を撤去し、全てを道路に切り替えた場合、除雪費用は莫大な金額に上る。また猛吹雪の中では自動車輸送も途絶えることが多い。豪雪地帯の鉄道と道路を比較した場合、国民経済的にどちらの負担が大きいか。私たちはよく考えなくてはならない。しかも農山魚村を走る地方線で生じる赤字は、国鉄の総赤字の約1割に過ぎないのである。(123P)

 「幹線自動車道は1万キロに」。特に表日本と裏日本を結び、日本列島を輪切りにする横断道路の建設に集中的に力を入れるべきだ。これまで、南北に長い日本列島の時間距離を短縮するため、道路投資が縦貫道路の建設に傾斜したのは止むを得なかった。しかし、これからは表日本と裏日本の格差を解消と内陸部の農山村地域を開発するために‘日本横断道路’への先行的な投資を強力に進めなければならない。昭和60年までに少なくとも1万キロメートルの高速道路が必要だというのは、こうした理由からである。百万キロメートルの道路網は、このような高速道路のネットワークを骨格として末端の生活道路に至るまで、秩序ある体系が確立されなければならない。これには、道路機能の分化と新しい道路規格を確立することである。(128P)

 「近畿、西日本を一体化する本州四国連絡橋」。本州と四国を結ぶ連絡橋は神戸-鳴門、児島-坂出及び尾道-今治の三橋とも昭和60年度までに完成させる予定である。中でも明石-鳴門ルートに建設する明石海峡大橋は、完成すれば世界最長の吊橋となる。本州四国連絡三橋は四国の390万人の住民に対してだけ架けるのではない。新幹線鉄道や高速道路と繋ぎ、日本列島の3分の1を占める近畿、中国、四国及び九州を一体化し、広域経済圏に育て上げる為に架橋するのである。昭和30年から15年間に35万人も減った四国の人口は、これらの架橋によって、やがて600万人に増え、800万人に増加しよう。本四連絡橋を三橋とも架けるからといって過大投資と云うのは当らない。(131P)

 本四連絡三橋の真ん中の橋、児島-坂出ルートには松江、岡山、坂出、高知を結ぶ中国四国新幹線鉄道を通したい。この地域は中国山脈、瀬戸内海、四国山脈と云う三つの地形的な障害によって分断され、四つの異質な経済圏を形成してきた。中でも山陰と四国山脈の南が経済的に立ち遅れた。児島-鳴門ルートは中国四国横断自動車道と新幹線鉄道を通すことによって、バラバラの経済を有機的に結合させ、新しい発展に進ませるだろう。(135P)

 もう一つは将来、九州・四国新幹線鉄道を建設するとき、佐田岬から佐賀関海底トンネルに石油パイプラインを併設することも考えられる。中国と四国の西部を本四連絡橋の尾道-今治ルートで結び、さらに九州と四国を新幹線鉄道で繋ぎ、必要に応じてこの二つのルートに石油と水のパイプラインを配置すると、安芸灘、周防灘から豊後水道にかけて環状の貨客輸送路ができあがり、西瀬戸総合開発を促すことになる。尾道-今治の道路橋に水のパイプラインを敷けば、大島、大三島など瀬戸内海の離島に水を供給できるし、観光客の増加に伴う水需要の増大にも応えることができる。このように本四連絡三橋は近畿、中国、四国、九州の経済圏を有機的に結合して広域的な発展を可能にするもりである。「四国は日本の表玄関になりうる」と云う私の主張は決して誇張ではない。(137P)
 

れんだいこのカンテラ時評№1227

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 6月13日(金)14時06分59秒
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   日本列島改造論 抜粋その4

 「開発の余地ある日本の国土」。わが国では今、東京、大阪、名古屋の各半径50キロメートル圏を合わせて国土全体の1%に満たない地域に総人口の32%が住んでいる。日本は可住面積が狭いといってもこれからの地方開発によって国民の住む地域はもっと広げることができる。(81P)

 「大型化するコンビナート」。何よりも重要なのは、これらのコンビナートは公害調整、環境保全、災害防止など現場で働く人々や地元で暮らす人々の安全と福祉を最優先に考えて、単に生産のためだけでなく、ゆとりのある用地の中で十分に空間をとったレイアウトをしなければならないことである。そうなるとコンビナートの用地規模はますます広がらざるを得ない。(86P)

 「環境整備の仕組みを確立」。住民の生活環境を破壊せず、自然を注意深く保全しない限り、今後の新しい地域開発は前進できない。工業の公害問題をどう解決するかは、コンビナートの建設だけではなく、企業の存亡にも繋がる重大なテーマとなってきている。数年前までは地方の工業開発のネックは主に地価問題であった。ところが最近は「開発とは破壊である」、「産業の発展はご免だ」と云う声が高まっている。私もそうした声は大いに理由のあることだと思う。しかし、その議論は開発のデメリットを強調する余り、しばしば開発のメリットを見落とすことが多い。また「開発か保全か」、「産業か国民生活か」と云う直線的な議論に飛躍しがちである。(96P)

 「これからの電源立地」。これからの電源立地の方向としては、大規模工業基地などに大容量発電所を集中的につくり、大規模エネルギー基地の性格を合わせて持たせるようにしたい。電源開発株式会社を中心にいくつかの電力会社が参加し、火力発電所や原子力発電所を共同で建設し、そこで生みだされる電力を大規模工業基地で使う。同時に、基幹的な超高圧送電網をつくって消費地に広く配分し、融通する方向も考えたい。(101P)

 新しい火力発電所や原子力発電所の建設に地元の反対が強いのは、まず、大気汚染や放射能の危険を心配するからである。冷却に使った水を捨てるときに河川や海水の温度が上がり、ノリや魚が取れなくなると云う漁民の反対もある。殺風景な発電所ができては美しい自然の景色が破壊されるという主張もある。元々発電所は従業員が少なくて済むので、地元の雇用を増やすにはあまり役に立たない。その上発電した電力は、ほとんど大都市へ送電される。結局、地元は得るものが少なくて、公害だけが残ると云うのが地域住民の言い分である。そこで、まず、第一に考えたいのは、公害の徹底的な除去と安全の確保である。具体的には、集塵装置はもちろん重油脱硫、ガス化脱硫など脱硫技術の開発や利用を進め、冷却水の排水温度も規制することである。原子力発電所の放射能問題については、海外の実例や安全審査会の審査結果に基づいて危険がないことを住民が理解し、納得してもらう努力をしなければならない。(102P)

 しかし、公害をなくすというだけでは消極的である。地域社会の福祉に貢献し、地域住民から喜んで受け入れられるような福祉型発電所づくりを考えなければならない。たとえば、温排水を逆に利用して地域の集中冷暖房に使ったり、農作物や草花の温室栽培、または養殖漁業に役立てる。豪雪地帯では道路につもった雪をとかすのに活用する。さらに発電所をつくる場合は、住民も利用できる道路や港、集会所などを整備する。地域社会の所得の機会をふやすために発電所と工場団地をセットにして立地するなどの方法もあろう。次項で述べるインダストリアル・パークと同様の立地手法でエネルギー・パークづくりも考えたい。急がばまわれである。(103P)
 

れんだいこのカンテラ時評№1226

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 6月13日(金)09時00分29秒
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   日本列島改造論 抜粋その3

 「奇跡ではない日本の成功」。戦後の日本経済は、平均して実質10%以上の高度成長を続けてきた。これは、日本経済が戦後の復興を遂げる過程だけでなく、その後も衰えることなく続いた。35年から45年までの平均成長率が実質で11.1%と云う数字がこれを物語っている。このような経済成長は、世界史上にも例がなく、世界各国から‘日本の奇跡’として高く評価された。

 その原因について、多くの専門家が次のような理由を挙げている。第一は、日本が現行憲法のもとで平和主義を貫き、軍事費の負担をできるだけ少なくしてきた。第二は、教育水準が高く、勤勉な労働力が豊富に存在した。第三は、新技術や新設備を積極的に導入して技術革新に努めた結果、産業の生産性が向上し、その国際競争力が強化された。第4は、企業経営者の積極経営を支える金融機関が存在し、政府も建設的な役割を果たした。第6は、日本経済には好循環とも云うべき‘成長のサイクル’ができた。これは、民間企業の設備投資を起動力とし、投資が投資を呼ぶと云う循環であった。(60P)

 「福祉は天から降ってこない」。一部の人々は「高度成長は不必要だ」、「産業の発展はもうご免だ」とか「これからは福祉の充実を図るべきだ」と主張している。しかし、「成長か福祉か」、「産業か国民生活か」と云う二者択一式の考え方は誤りである。福祉は天から降ってくるものではなく、外国から与えられるものでもない。日本人自身が自らのバイタリティーをもって経済を発展させ、その経済力によって築き上げるほかに必要な資金の出所はないのである。(63P)

 「物価上昇を押える」。従って、物価上昇を抑制するためには、第一に農業や中小企業、サービス業など低生産部門の近代化、合理化を進めて、その生産性を向上させることである。第二は道路や鉄道などを整備し、流通機構の近代化を大胆に進めて流通コストを切り下げることである。第三に産業や人口の思い切った地方分散によって、物価に占める地価負担を軽減することである。こうした政策の総合的な展開によって、物価上昇を抑制する道が開かれよう。(65P)

 「産業構造は知識集約型へ」。そこで今後の産業構造は、経済成長の視点に加えて、わが国を住みよく働きがいのある国にするという視点から選択されねばならない。つまり、今後の日本経済をリードする産業は、在来の重化学工業ではなく、公害や自然破壊度が少ないかどうか(環境負荷基準)、国民が誇りと喜びをもって当たれる仕事かどうか(労働環境基準)と云う尺度から選び出すことが必要である。

 このようにみると、将来の産業構造の重心は、資源、エネルギーを過大に消費する重化学工業から人間の知恵や知識をより多く使う産業=知識集約型産業に移動させなくてはならない。知恵や知識を多用する産業は、生産量に比べて資源エネルギーの消費が相対的に少ないので、公害を引き起こしたり、環境を破壊することも少ない。また、教育水準が高くなっている労働力に対し、単純労働ではなく、知的にも満足できる職場を多く提供できるので、人々が誇りと喜びをもって働くことも可能になるだろう。言い換えれば、知識集約産業こそは、産業と環境との共存に役立ち、豊かな人間性を回復させるカギを持つものである。

 それでは、知識集約型産業構造を形成するためにはどうするか。知識、技術、アイデアを多用する研究開発集約産業(電子計算機、航空機、電気自動車、産業ロボット、海洋開発)、高度組立産業(通信機械、事務機械、公害防止機器、教育機器など)、ファッション産業(高級衣類、家具、住宅用調度品)、それに知識、情報を生産し提供する知識産業(情報処理サービス、ビデオ産業、システム・エンジニアリング)などを発展させると共に、一般産業の製品や工程について、その高度化を通じて知識集約化を進めて行くことである。(68P)

 「福祉が成長を生む長期積極財政」。今後の財政運営は、単年度均衡の考え方から脱して、長期的な観点に立った財政の均衡を重視して行くべきである。つまり、現在の世代の負担だけではなく、未来の世代の負担をも考慮した積極的な財政政策を打ち出すことが必要である。子供や孫たちに借金を残したくないという考え方は、一見、親切そうに見えるが、結果はそうではない。生活関連の社会資本が十分に整備されないまま、次の世代に国土が引き継がれるならば、その生活や産業活動に大きな障害が出てくるのは目に見えている。美しく住みよい国土環境を作るには、世代間の公平な負担こそが必要である。

 このような積極財政は、社会資本の充実や教育、医療の改善、技術開発の促進に繋がるだけでなく、経済の高成長を促す道にもなる。これは単に公共投資の拡大や所得の再配分にによって直接的に需要が増加するというだけでなく、それに付随する経済効果が大きいからである。例えば、鉄道や道路の整備によって土地の供給が増え、住宅建設が進む可能性が出てくる。社会保障が拡大されて人々に老後の不安がなくなれば、増加する所得を使って豊かな消費生活が楽しめるようになる。また公害防止、住宅、交通、教育、医療などに対する新技術の応用が盛んになれば、知識集約型産業の次の発展を促すことになる。このようにして、成長活用型の経済運営は「福祉が成長を生み、成長が福祉を約束する」と云う好循環をつくることができる。(72P)
 

れんだいこのカンテラ時評№1225

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 6月13日(金)08時50分58秒
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   日本列島改造論 抜粋その2

 「近代日本を築いた力」。このような工業化の進展は、国民総生産と国民所得の増大をもたらした。私はこうした日本経済の流れを通じて次の原則を見出すことができる。その一つは、「国民総生産と国民所得の増大は、一次産業人口比率の低下と二、三次産業人口比率の増大及び都市化に比例する」と云うことである。(略)次の原則は、「人間の一日の行動半径の拡大に比例して国民総生産と国民所得は増大する」と云うことである。それは東海道を昔のように歩いていた時と、明治の半ばに東海道線が全通して汽車で20時間、二日間の行程を要した時と、今のように自動車、新幹線、ジェット機を利用して短時間で行けるようになった時とを比べれば、人間の一日の行動半径が拡大すればするほど、経済が拡大したことで明らかである。このような現象からみて「地球上の人類の総生産の拡大や所得の拡大は自らの一日の行動半径に比例する」と云う見方もできるわけである。かくして工業は集積の利益を求めて発展し、それによって国力、経済力が拡大した。(28P)

 「戦後経済の三段跳び」。ところが25年6月、挑戦動乱が勃発して内外の経済情勢は一変し、輸出と特需の急増で日本経済は生産拡大、近代化への道を歩み始めた。生産水準も上昇し、同年10月には早くも戦前の水準を越えた。27年8月、日本は世界の為替相場の安定と為替取引の自由化推進を目的として設立されたIMF(国際通貨基金)に加盟が認められた。かくてわが国はIMF14条国として、国際社会復帰の第一歩を記し、20年代の復興経済はここに終わりを告げた。(略)30年代は高度経済成長の時代である。世界的な景気上昇を背景としてわが国の輸出は増大し、農村の豊作と相まって「インフレなき拡大」と「数量景気」が謳歌された。(略)31年度の経済白書が「もはや戦後ではない」と書いたのは未だに記憶に新しい。(30P)

 わが国の経済の急激な成長を待ち受けていたかのように、38年2月、IMF理事会は、「日本は国際収支を理由として経常取引などでの為替制限を継続する資格は認められない」として、わが国に対しIMF8条国への移行を勧告した。この勧告に従い翌年4月、日本はIMF8条国となった。これと前後してわが国は、資本取引の自由化を原則とするOECD(経済協力開発機構)に加盟が認められた。こうしてわが国は名実共に先進国への仲間入りを果たし、40年代の開放経済体制のもとで国際経済の荒海に乗り出すことになった。42年6月、わが国は貿易自由化の基本方針を決め、同年7月、第一次自由化に踏み切った。その後2回にわたる自由化を経て46年8月、最終ラウンドとも云うべき第4次自由化を実施した。(略)このような経過を辿りながら戦後の日本経済は平均して実質10%の成長を続けた。(32P)

 「許容量を越える東京の大気汚染」。これまで人類は「自然から資源を得て、これを生産、消費し、廃棄物を自然へ排出する」と云う自然の循環メカニズムの中で生きてきたし、その自浄作用を通じて自然が維持されてきた。私たち日本人もその例外ではない。ところが30年代に始まった経済の高度成長の過程で人口、産業の都市集中が進み、自然の浄化作用を越えた環境汚染の問題が発生してきた。(35P)

 「一寸先はやみ、停電のピンチ」。こうした計画の実施がおくれているのは、火力発電所の立地の場合は、重油の使用による硫黄酸化物の発生で大気が汚染したり、温排水で漁民の生活が脅かされるなど地域住民の反対によるものである。原子力発電所の場合も、放射能の安全性に対する疑問や自然環境が壊されるという心配、さらに温排水で魚が取れなくなるという漁民の反対などから立地が困難になっている。このような問題を解決しない限り、電力需給のひっ迫を解消することは困難である。(40P)

 「過疎と出稼ぎで崩れる地域社会」。東北、北陸の米作単作地帯を中心に全国的に広まっている農村の出稼ぎ問題は、このような理由によるものである。春秋の農繁期を除くと、農村では年寄り、主婦だけで日常の生産や社会活動をするしかない。例えば新潟県には女性だけの消防隊さえ作られている。農村に若者の姿が減り、出稼ぎで夫婦が長い間、離ればなれに暮らし、年寄りが重労働にあえぎ、医者の姿も見えない農村から、明日の日本を築き上げるエネルギーがどうして生まれるだろうか。(57P)
 

れんだいこのカンテラ時評№1224

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 6月12日(木)19時01分57秒
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   日本列島改造論 抜粋その1

 「序文と結び」については、「れんだいこのカンテラ時評№1046 」に記す。

 「明治百年はフシ目」。都市と農村の人たちが共に住みよく、生きがいのある生活環境のもとで、豊かな暮らしができる日本社会の建設こそ、私が25年間の政治生活を通じ一貫して追及してきたテーマであった。(2P)

 「都市政策大綱成る」。(「都市政策大綱」と云う)この綱領的文書は、狭義の都市政策ではなく、日本全体を一つの都市圏として捉える‘’国土総合改造大綱‘’であることを改めて強調したい。(3P)

 「地方自治との関係」。日本列島が将来、一日交通圏、一日経済圏として再編成されるためには行政の広域化が促進されるべきである。(8P)

 「農地制度との兼ね合い」。農村地域は農民にとっては生産、生活の場であると同時に、民族のふるさと、国民の憩いの場でもある。人間は自然と切り離しては生きていけない。世界に例を見ない超過密社会、巨大な管理社会の中で、心身をすり減らして働く国民のバイタリティーほ取り戻すためには、きれいな水と空気、緑にあふれた自然を破壊と汚染から守り、国民がいつでも美しい自然に触れられるように配慮することが緊急に必要である。そのため日本列島の山や森、草原、湖沼、海岸などを注意深く保全して、国民のための宿泊施設やレクレーション施設を計画的に整備すべきことを強調したい。(12P)

 「ガソリン税の採用」。私はこの間の答弁をすべて一人で行い、結局、法案は陽の目を見た。この法律には「政府は当該年度のガソリン税収入相当額以上を道路整備の財源として盛り込まねばならない」ことがはっきり記されている。それから二十年、この事実も歴史のひとコマに過ぎなくなってしまったが、私にとっては忘れられない思い出のひとつである。(14P)

 「繁栄の中の矛盾表面化」。このように日本経済の再建に関する諸法律が整備されるに従い、わが国は年率10%台という経済の高成長時代に入っていった。昭和29年から39年までの平均成長率は、実質で10.4%、それから1960年代の10ヶ年間は11.1%、つまり29年から45年までの17年間は平均10.4%の高成長を遂げたことになる。これは国民の勤勉努力と歴代政権の適切な施策によるものであった。(18P)

 「世界の趨勢を考える」。戦後のわが国経済は、復興経済-高度成長経済-国際経済の三段階を経て今日に至っている。(22P)

 「平和と福祉に徹しよう」。日本の今後の進路を一言にして要約すれば「平和」と「福祉」につきよう。外に対しては、戦後25年間、一貫してきた平和国家の生き方を堅持し、国際社会との協調、融和の中で発展の道を辿ることである。内について云えば、これまでの生産第一主義、輸出1本ヤリの政策を改め、国民のための福祉を中心に据えて、社会資本ストックの建設、先進国並みの社会保障水準の向上などバランスのとれた国民経済の成長を図ることである。こうした内外両面からの要請に応えるための大道こそ私の提唱してやまない日本列島の改造なのである。世界中の国から信頼され、国民が日本に生まれ、働き、そして死ぬことを誇りとする社会を作り上げるために、私は在職25年の議員生活の体験を生かし、国土改造と云う壮大な事業に取り組みたいと考えている。(24P)
 

れんだいこのカンテラ時評№1223

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 6月12日(木)18時52分20秒
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   田中角栄著「日本列島改造論」の抜粋サイトアップに当って

 「田中角栄著 日本列島改造論」をネットで読めるのが夢なのだが、これを誰もやっていないようである。これまでツイッターかブログで呼びかけたことがあるが反応はない。とうとう痺れをきらして、先にツイッターで予告した通り、れんだいこがやることにした。ここで同書の抜粋サイトアップを行う。但し、これをどういうスタイルで行うかに思案した。ページ順に書き付ける方法とテーマ別に編集し直して書き付ける方法がある。これにつき、ここでは前者の方法をとることにした。且つ何ら注釈つけず、れんだいこが注目した下りを抽出し転写することにした。角栄自身の言葉に生に接してひたすらに味わって貰いたいためである。

 日本政治が腐りきってしまっており、逆走しまくりの今の時代、田中角栄著「日本列島改造論」に接して多くの人は目からウロコを落として洗われるであろう。その理由は、今にしてなお斬新な指摘をしているからである。且つその指針そのものが時空を超えており、こうなるとそういう技を為す角栄の霊能力ぶりに注目せざるを得ず、そういう眼で見るとまさしく角栄が異能ぶりを如何なく発揮していることに気付くからである。

 もう一つ目を洗われる理由がある。それは、これまで角栄を散々悪口雑言して来た立花隆だの不破哲三なぞの角栄批判が嘘八百の狂言だったことを知り真実の角栄を拝するからである。実際の角栄は金権批判なぞ受けるには最も遠いところに位置して日本の国家百年の計に腐心した超有能な真の政治家であった。日本列島津々浦々にその果実を埋め込み世を去る人となったが、角栄が提起した日本列島改造論の功績は依然輝き続けている。この辺りは各々が直接に原書を手にし読書すればなお得心できるであろう。申し添えておきたいことは、くれぐれもニセモノ評論に眼くらましされてはならないと云うことである。

 何事も「論より証拠」である。手元にあるのは1972.8.5日の8版発行の「日本列島改造論」(著作・田中角栄、出版元・日刊工業新聞社)である。最近は著作権がうるさく、これをそのまま転写して披露する芸当がしにくくなったが敢えてしておく。もし日刊工業新聞社ないしは本書の著作権を持つと主張する者が現われ、こたびのれんだいこの所為に苦情を為すなら、逆に再刊するよう催促しようと思う。再刊しないのなら版権売ってくれ、カンパ寄せ集めて買ってでも再刊するつもりと伝えよう。それも拒否するなら、それでは何か著作権つうのは、こういう名著を隠す為に存在するのか、使うのか、誰が指示しているのかと詰問したいと思う。防御になるのかならないのか分からないが、当方の考えをあらかじめ晒しておく。ではいざ出航。本稿で述べたれんだいこの言が真かどうかの読後感想頼む。

 本稿関連サイトは以下の通りである。

 「日本列島改造論考」  (kakuei/nihonrettokaizoronco/top.html
 

れんだいこのカンテラ時評№1222

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 4月29日(火)12時43分55秒
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  「従軍慰安婦問題」についてのれんだいこ見解その2

 「従軍慰安婦問題」で次に、それを良し悪しの道徳論レベルで考えるのではなく必要悪的観点から愚考してみたい。れんだいこは従軍慰安婦制自体ではなくそういう制度の由来に興味を覚えている。戦前の日本軍が「従軍慰安婦制」を敷いていた背景には興味深い日本式の性観念、性文化に伴う性伝統が介在していると思うからである。

 「従軍慰安婦制」とは要するに戦争時の兵隊に慰安婦により性処理させる制度であるが、これを編み出した当時の日本軍は果たして野蛮、残虐非道なものだったのだろうか。これは逆に考えれば分かり易い。「従軍慰安婦制」を持たない兵士が為すのは決まって性の暴走である。敗軍の兵士のことは分からないが勝軍の兵士となると戦勝国権利として婦女子の性凌辱、性暴殺を当たり前にしてきたのが世界史現象である。日本式「従軍慰安婦制」は、そういう戦史から学んだ日本式知恵の一つなのではなかろうか。「従軍慰安婦制」を肯定しようとしているのではない。道徳的な肯定とか否定に先立つ必要悪的合理性を認めたい訳である。他の国が採用していないことを日本が先駆けてしたとして咎められるべきかどうかを問いたい。

 れんだいこは若い頃、最も怒ったことがある。それは戦後直後の日本政府が進駐軍に取った慰安婦宛がい政策に対してである。これを少し確認しておく。1945.8.18日、敗戦3日後のこの日、内務省は、警保局長通達(無電)で「外国駐屯軍慰安施設等整備要項」を全国都道府県に発した。これは占領軍向け性的慰安施設設置指令である。8.27日、件の施設が大森海岸の小町園で開業している。進駐軍の先行隊が厚木へ到着したのは翌日であるからして事前に用意していたことになる。東京では警視庁が指導して業者にやらせる方式で「特殊慰安施設協会」を発足させ、東京銀座街頭に「新日本女性に告ぐ」と募集広告が出されている。新聞にも慰安婦募集広告を掲載している。慰安所は大人気となったが3カ月で閉鎖されている。性病の蔓延などが理由であった。これにより「政府の努力」で増加し1万人に達した慰安婦たちは路頭に迷い非公認の街娼となって行った。俗にパンパンガールと呼ばれている。

 れんだいこは若い頃、戦勝国に対して国家公認のみならず後押しで性的もてなしをする日本政府の非道さが許し難かった。どこの国にそんな国があると怒った。日本政治の支配の質を如実に示しているとして憤懣やるかたなかった。その後のれんだいこは違う。既に次のように記している。「これを道徳的に批判する向きもあるが、逆にいえば日本支配階級の統治技術がかなり高度なものとも考えられるのではなかろうか。従軍慰安婦問題にも通底している施策であるように思われる。これを道徳的に批判するだけにとどまるのなら何も批判していないことになろう。支配階級をして、現実がこのような施設を必要とさせたのであり、社会秩序維持の観点から保安施設として外国駐屯軍慰安施設設置が為されたことを窺うべきではなかろうか。批判することはできるが、ならばさてどうすべきであったのか、放置すべきだったのだろうかという観点からも判断せねばなるまい」。

 今のれんだいこはもう一つ違う。「従軍慰安婦、占領軍慰安婦制」を採用した日本政府の統治技術は悪知恵と云うより日本の伝統的な性文化に基づいて生み出されたものではなかろうかと考えている。これを説明すると紙数ばかり増すので要点のみ記すと、日本の伝統的な性文化は他の諸国のそれより性を重視しており、性のコントロールを格段に配慮するような知恵を持っているのではなかろうか。そういう目で見れば、日本の着物、礼儀作法等々が日本式性文化をうまく調和させていることが分かる。日本は案外とこの方面での世界に冠たる先進国なのではなかろうか。制度を誇ろうとか礼賛しようとしているのではない。「存在するものは合理的である」とするヘーゲル的認識法で理解しようとしているに過ぎない。

 「従軍慰安婦、占領軍慰安婦制」には歴史的意味があり、もしこれを批判するなら戦争そのものを批判すべきであり、戦争に付随して発生した「従軍慰安婦、占領軍慰安婦制」だけを抽出して批判するのは却って愚昧なのではなかろうか。どうしても批判するのなら戦勝国権利としての敗戦国側婦女子への性凌辱、性暴殺を押しとどめる叡智を制度的に生み出していない限り論が全うしないのではなかろうか。韓国の朴槿恵(パク・クンヘ)女性大統領に聞きたいのはここである。韓国現代史のタブーとなっているベトナム戦争時の韓国軍のベトナム女性輪姦虐殺史と併わせた整合性のある論理論法に耳を傾けてみたい。

 この言は「従軍慰安婦制なかった論」に与するものではない。日本を再び戦争当事国に誘おうとする連中のそれに対しては傲岸不遜ぶりをなじりたい。戦後国是の反戦平和、国際協調主義の側からの戦後の戦争責任、賠償責任追及されるには及ばないとする観点からの解である。徒に道徳的あるいは政治主義的に発言するのではなく論のあるべきところを示唆しているつもりである。

れんだいこのカンテラ時評№1221

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 4月28日(月)23時52分2秒
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  「従軍慰安婦問題」についてのれんだいこ見解その1

 日韓外交に「従軍慰安婦問題」が浮上し泥沼的状況に入っている。これどう評すべきか。れんだいこが審判しておく。「従軍慰安婦問題」は、ホロコーストや南京虐殺事件や百人斬り事件のように事件の存在を廻っての認否の問題ではない。従軍慰安婦制は存在した。このことに関して見解の相違はない。キモは、当時の日本軍部が即ち国家としての日本が直接関与していたのかを廻る論争となっている。韓国側は日本軍部の直接的蛮行であるとして国家的謝罪と賠償を要求している。日本側は間に商人が介在している商取引的なものとして存在していたのであり国家的責任、賠償が追求されるには及ばないとしている。この対立である。このキモの部分を理解せずの道徳論的見地からの論調が後を絶たない。

 果たして韓国式論理論法は成り立つのだろうか。過去の戦争に対してかような責任論が成立するのであれば史上の戦争を総洗いして国家賠償の飛ばし合いすれば良かろう。ここ数世紀の西欧列強による世界植民地化に対して、蹂躙圧迫された国家及び民族は莫大な国家賠償追求に向かえば良い。が、れんだいこはそのような動きを聞かない。と云うことは特殊的に日本にのみ戦争責任論が適用されようとしていることになる。ここが大いに不満である。

 れんだいこが日本人であるからと云う理由で日本に与するのではない。客観的に評して「従軍慰安婦問題」如きで戦後半世紀以上経てもなお許さずとして喧騒する韓国式外交をやり過ぎとなじろうとしている。たまたま韓国は朴槿恵(パク・クンヘ)と云う女性大統領であり、その女性的見地から許し難いとしているように思われるが政治家の歴史認識としてはお粗末過ぎるのではなかろうか。一般論で言えば、性商がこの世から消えるのが好ましいのは当たり前である。そういう意味で純愛論が奏でられるのであろうが、問題は性商が大昔から続いており道徳論的見地から幾ら罰しても消えないことにある。こうなると賢明な折り合いをつけて併居させている方がむしろ賢明と心得るべきであろう。

 そういう性商問題であっても、韓国が日本に国家的責任を問い続け賠償責任を負わしめようとするからには当事の日本軍部の直接関与を立証せねばならない。しかしこれが困難を極めている。仮に立証できたとしても次の難題が待ち受けている。韓国現代史のタブーとなっているベトナム戦争時の韓国軍のベトナム女性輪姦虐殺史である。ごく最近、週刊誌週間ポストの3月28日号、4.11日号が連載して明らかにしている。こちらの方はれっきとした韓国軍による即ち国家としての犯罪である。

 韓国は、この性凌辱の挙句の虐殺行為を不問にし、日本の給金型慰安婦問題に対しては指弾され抜くべきだとしていることになるが、我々が納得できるような法理を明らかにせねばならない。れんだいこには、ここがさっぱり分からない。ましてや時系列的には「従軍慰安婦問題」の方が相当に古い。古い事件の責任が問われるのは古い事件の方がより加虐的である場合だけである。性商慰安婦化行為と性凌辱虐殺行為のどちらがより加虐的で許し難いのか、韓国は性商慰安婦の方がより極悪だとする法理を世界に向けて開陳せねばならない。

 その韓国に対して、4.25米韓首脳会談の席上、オバマ大統領がわざわざ「従軍慰安婦問題」に触れて、先の日共の志位委員長発言と同じような発言をしている。奇妙な一致である。志位もオバマもテキストがあってその通りに発言しているのだろうかと云いたくもなる。そういう詮索は別にして次のように述べている。概要「歴史を振り返るなら実に甚だしい人権侵害と考えなければならない。過去を正直かつ公正に認識しなければならない。安倍首相や日本国民もそのことを分かっているはずだ。(日韓は)過去を振り返りつつ、未来に進むべきだ。未来を見ることが日本と韓国の人々の利益だ」。

 これに対して朴大統領は、元慰安婦の女性らが高齢となっていることなどを指摘した上で、「(日本に対して)誠意のある実践が必要だ」と述べ早急な対応を促した。朴大統領がオバマ大統領をバックにつけて威勢良い批判をしている格好である。これを聞くや我が日本の安倍首相はそれまでの余裕の不遜さを一転させ、途端にヘタレになりこう言い直している。概要「筆舌に尽くし難い思いをされた慰安婦の方々のことを思うと本当に胸が痛む思いだ。今後とも日本の考え方、取り組みを説明してまいりたい。20世紀は女性をはじめ多くの人権が侵害された世紀だ。21世紀はそうしたことが起こらない世紀にするため日本も大きな貢献をしていきたい」。

 こうなると三人の掛け合い漫才の感がある。れんだいこ評では、この遣り取りから浮かび上がるのはオバマの臭い芝居である。オバマが世界史上の残虐事件に通暁していない訳がない。まして彼は黒人系であり黒人の悲劇史は百も承知である。何より現に進行中の世界中での性商、性凌辱、性暴殺を知り抜いている。その上で、「従軍慰安婦問題」をフレームアップさせる形で取り上げ、韓国に同調した上で「日韓は過去を振り返りつつ未来に進むべきだ」と念押ししている裏には相当の魂胆があるとみなすべきだろう。

 明らかに典型的なマッチポンプ論法であり、透けて見えてくるのは、オバマが日韓も日中も中韓も、北朝鮮を挟めばなおさらのこと、揉めるように揉めるようにリードしていることである。これが米国外交と云うか国際ユダ屋の狙いであることが瞭然である。連中は人と人、国と国を対立させ危機を煽り戦争で儲けるのを得手の商売としている者たちであるからして世界の各地が地域ブロックで共栄圏化するのを何としてでも妨げようとする。要するに連中の出番がなくなるからである。オバマはその意を受けた請負役者に過ぎない。と云うことが既にバレバレである。

 (れんだいこの「国際ユダ屋」の命名に対して不評なので今後はダボス会議に注目し「ダボス派」とも云うことにする。使い分けするつもりである) 問題は、ダボス派のこの戦略戦術に悪乗りしていつものように正義弁が登場しまくりすることにある。この件では特にサヨがはしゃぐ。原発も増税もTPPも憲法改正も自衛隊派兵もみんな根元は一緒である。こちらはウヨがはしゃぐ。その全てはダボス派が振り付けている。こういう見方を陰謀論と云う。世間ではよほど当たり障りのない政論が好みのようで陰謀論を唱えると顰蹙を買う。しかし、れんだいこには陰謀論抜きにどうやって理解すればよいのか、他の論は物足らなさ過ぎてつまらない。故に陰謀論批判を蒙ろうとも大いに結構であると申し上げておく。

れんだいこのカンテラ時評№1220

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 4月17日(木)00時33分4秒
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   八木アンテナ考

 「小保方STAP(新万能)細胞事件」で、これを「世紀の発見」の側で読み取ろうとする者、発見以前の問題として学術論文に不備があり過ぎると批判する者、発見そのものを捏造とする者、この三者での喧騒で賑わうこの頃、「八木アンテナ事件」を確認しておくことは意味がないことではなかろう。但し、天然的に文系のれんだいこがこれを説くのは荷が重い。しかしながら理系の誰もが口を閉ざしており、そういう訳で、れんだいこが拙いながら整理しておくことにする。

 「八木アンテナ」とは、ポポフの無線通信アンテナの発明から30年後の1925(大正14)年頃に登場する。電気通信学者にして東北帝国大学の八木秀次が私財を投じて研究開発し、助手の宇田新太郎氏と共に従来のアンテナにはなかった感度で受信できるアンテナの原理を発見したと発表した。そういう意味では正しくは「八木・宇田アンテナ」と云うべきであるが略して「八木アンテナ」として知られる。1926(大正15)年、特許を取得している。

 なお、この年、後述するが浜松高等工業学校の高柳健次郎が電子式テレビ受像機(ブラウン管テレビ)による電送・受像に世界で初めて成功している。送像側に機械式のニプコー円板、受像側に電子式のブラウン管を用いて、片仮名の「イ」の文字を送受像した。走査線の数は40本だった。「イ」の字はいろは順の最初の文字として選んだ。これが後のテレビに繋がる先駆け的発明になり、高柳氏はテレビの父と呼ばれる。

 もとへ。「八木アンテナ」は、それまでのアンテナが棒状のもので電波をキャッチする確率が低かったのに対し、長さの違う三つの棒を平行に並べたところが画期的だった。真中の軸棒は電気の集積棒で、この中心の棒より少し長い棒を直角に横に並べる。長棒は電波を反射させ軸棒に電波を集める。他にも少し短い棒を二本並べ電波を集める働きをさせる。原理は光線の場合の凸レンズの作用に似ている。装置のこのコンビプレーにより従来にない感度と効率で電波を集めることに成功していた。「八木アンテナ」は放射器、導波器、反射器で構成され、指向性が鋭く構造が簡単にして無駄がない、ほとんど改良の余地のない高い完成度をもっており、超短波用アンテナとして高く評価されるべきものであった。

 こうして、「八木アンテナ」は世界に先駆けて日本で発見発明発表されたが、その着想が当時の日本では理解されずあるいはこの画期的発明を押さえる力が働いていたのか一部に知られただけで埋もれていった。但し、発明より十年後の1932(昭和7)年、東北帝国大学工学部教授となっていた宇田新太郎博士が八木山と茨城県の筑波山頂との間で「八木アンテナ」を使って超短波通信実験を行っている。現在、八木アンテナの通信実験が行われた八木山には東北放送の放送塔が立ち、隣の愛宕山にはNHK・仙台放送・宮城テレビの放送塔が立っている。

 1941(昭和16)年、八木氏は指向性アンテナの特許期限の延長を申請したが、日本政府により「重要な発明とは認め難いので特許を無効とする」との通知が届けられている。こうして八木アンテナ特許を政府が消滅させている。「外国特許保有の財政支援もせず冷遇したため日本の八木アンテナの特許権は国内外共に失われてしまった」とある。思うに、これは時の日本政府が凡庸過ぎたと解するより、日本政府をそのように誘導した黒幕の働きかけがあったと解するべきではなかろうか。

 というのも、国際ユダ屋が八木論文に着目し、超短波用高性能アンテナとして研究を続けさせている。これがレーダー用アンテナとして兵器に応用され、第二次世界大戦中に威力を発揮し、八木アンテナを装着した米英軍は攻め寄せる日本の飛行機を300km前からレーダーでキャッチし迎撃した。更に闇夜でもレーダー射撃で正確に日本艦を撃沈するなど大活躍している。日本の連合艦隊がミッドウェー海戦で「謎の大敗北」を遂げたが、空母4隻を沈めた米軍爆撃機ドーントレスに八木アンテナが搭載されていた。このことが分かるのは終戦後である。広島、長崎に原爆が投下されたが、その原爆には「八木アンテナ」を応用したアンテナが装着されていた。

 「八木アンテナとニューマン文書」によれば、1942.2.25日、日本軍がシンガポール要塞を攻略、占領した時、陸軍の秋本中佐が、英軍の高射砲陣地の塵芥焼却場で偶然にも手書きの焼け残りノートを発見した。電気担当の塩見文作技術少佐の解読により、英軍が最も秘匿する電波兵器の一部に関る内容であると判断し、そのノートを英文タイプおよび写真撮影して「ニユーマン文書」と名付け、電波兵器の開発者に配布した。このノートは英軍のレーダー技士であるニューマン伍長が英本国で研修を受けた時のメモ書きで、その中に意味不明の「YAGI  array」という記述が頻繁に登場していた。その記号の意味がどうしても理解できなかった。そのニューマン伍長が捕虜として捕えられ、技術将校の岡本正彦少佐がシンガポールの収容所(品川の捕虜収容所とする記述もある)で尋問するところとなった。ニューマン伍長に「“YAGI”とは何か」と尋ねと、ニューマンは、キョトンとした顔をして「あなたは本当にその言葉を知らないのか?。YAGIとは、このアンテナを発明した日本人の名前だ」。尋問に当たった岡本少佐は絶句したと云う。

 敗戦後、八木氏は戦争犯罪人として公職追放者指定を受けて大阪帝大総長を公職追放で追われた。八木氏は「八木アンテナ」がアメリカのレーダー等に使われ大活躍したことによる責任追及される破目になった。この為、日本アマチュア無線連盟会長に就任するなどして暫く蟄居していたが、戦後のテレビ普及と同時に八木アンテナが脚光を浴びることとなった。なぜならVHFテレビ電波受信に八木アンテナが採用された為である。最も簡潔にして性能が良く廉価だったことによる。八木アンテナはアマチュア無線でも使われている。今日では超短波、極超短波で使用されている地デジテレビジョンの受信用アンテナとして使われている。VHF ・ UHF帯で用いられているほとんどが「八木アンテナ」である。

 但し、「八木アンテナ」のかくなる世界普及にも拘わらず、特許権を喪失させた八木氏及び日本は恩恵にあずかれない。仮に取得し続けていたら莫大な特許料が日本に入ったものと思われる。更に云えば、八木アンテナ発明と同時期に高柳氏が電子テレビ実験に成功していることを考えると、何のことはない日本は1926(大正15)年時点でテレビとアンテナの両方を発明していたことになる。これを日本が育てておれば発明者は無論、日本も又巨富を得ていたはずである。

 こうなると愚昧政治の為し給うお粗末と云うしかあるまい。問題は、この教訓が生かされているのかどうかである。これが「小保方STAP(新万能)細胞事件」に対して執るべき第一態度となるべきではなかろうか。これ以上マスコミ陣の粗脳に政論リードを任す訳にはいくまい。これが云いたくて急遽本稿をものにした。後はよしなに理解してたもれ。

れんだいこのカンテラ時評№1219

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 4月10日(木)16時41分5秒
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   日共問題考その4

 「日共問題考1」でクリミア騒動に見せる志位委員長見解のトンデモぶり、「日共問題考その2」で戦後の宮顕釈放及び復権問題に於ける疑惑、「日共問題考その3」で国会議事録削除の先駆けぶりを論じた。ここでは「日共問題考その4」として、はるか昔のことになるが「50年分裂」時の1951年の東京都知事選、大阪府知事選に党中央と宮顕派がそれぞれ別の候補を推して激しく対立したと云う「二人候補事件」を取り上げておく。

 この不祥事はよほどの事情通でなければ知られていない事案である。これを為した方の宮顕派は、自らが党中央に楯突いた分派史が、その後の宮顕派系党中央の政権運営に好ましくない悪行の為であろう封印している。ご都合主義的に脚色されたものではない正確な党史を遺さねばならない所以がここにある。

 「二つの共産党による二人候補事件」を少し詳しく確認しておく。1951.4.23日、第2回一斉地方選挙が行われた。共産党は、都道府県議6名、市区町村議489名を当選させている。この時の共産党は事実上分裂していた。これについて簡略に説明しておくと、前年の1950年初頭の「スターリン論評」を廻って、日本共産党内のことは日本共産党で解決するとして自主独立の立場を保持せんとする徳球-伊藤律系党中央(所感派と呼ばれる)に対して国際共産主義運動の規律に従うべしとする国際派の党内抗争が勃発した。

 今日、宮顕系党中央の功績として自主独立路線を挙げる向きの者が多いが、日本共産党の自主独立路線の嚆矢は、この時の徳球-伊藤律系党中央(所感派)の対応に始まるものであり、この時の宮顕系の対応は真反対の「スターリン論評」に従うべし論を唱え国際共産主義運動団結を擁護せよの立場から党中央を批判していた。こういうことを史実的に確認せねばなるまい。

 党史は1950年6月の朝鮮動乱勃発。これに伴う共産党の非合法化。国際派の分派組織公然旗上げ。徳球-伊藤律系党中央主要幹部の北京亡命。北京機関の立ち上げへと至る。これにより共産党内は党中央所感派(徳球派、伊藤律派、志田派、野坂派等々)、国際派(志賀派、宮顕-袴田派、春日(庄)派、神山派)、中立派(中西功派、福本和夫らの統一協議会派)に分裂した。徳球-伊藤律系党中央が「50年テーゼ」を打ち出し党内団結を呼びかけたが、宮顕-袴田派の執拗な反党中央姿勢の硬化により亀裂は深まるばかりと云う状況に突入していた。

 補足しておけば、この当時これだけの分派が存在したと云うことは、当時の党規約が今日ほど分派禁止規約にしていなかったことを物語っていよう。この当時の党大会時には党中央の議案に対して党内反主流派の対案が提出されることもままあり、見解の分かれそうな重要事案を廻っては喧々諤々の党内議論が為され、後日の証として発言議事録を克明に残すことを作法としていた。これにより当時の党史が解明できる果実を生んでいる。それに引き換え、55年の六全協で宮顕派が党中央を壟断して以来、幹部会議事録が公開されることはない。在りし日の徳球-伊藤律系党中央時代の在り方とは全く別の強権的な党中央集権制が生み出され、その後の党員が易々とこの論理論法を受け入れ今日に至っている。この為、徳球-伊藤律系党中央時代のような党史解明ができずブラックボックス化している。

 もとへ。この時期に「二人候補事件」が発生している。この時の東京都知事選、大阪府知事選に際して、党中央は独自候補を立てず社会党候補を「社共統一候補」として推薦するという選挙方針をとり、東京都知事に加藤勘十を、大阪府知事に杉山元治郎を推した。「社会党の受け入れ為しに一方的に社共の統一候補として社会党候補者を推薦するという選挙方針をとった」との評があるが「一方的」であったかどうかは分からない。いずれにせよ要するに共産党が自前候補を出さずに社会党候補を推進したことになる。これに対し、宮顕が指導する統一会議派は、反帝の態度が曖昧な候補の推薦を無原則的と批判し、独自候補として東京都知事に哲学者の出隆、大阪府知事に関西地方統一委員会議長の山田六左衛門を出馬させた。

 宮顕らによる独自候補擁立方針に対して、同じ反党中央の間でも異論が出た。中西派は、機関誌「団結」紙上で、党内が別々の候補で争うことに反対し、選挙候補の統一を呼びかけた(「団結」第23号「地方選挙闘争の基本問題」他)。福本グループの統一協議会は、国会選挙以外の地方選挙は一切ボイコットせよと主張した。野田ら国際主義者団派は、「平和綱領」を承認する候補者だけを支持せよと呼びかけた(「火花」3月第5号「地方選挙と日本プロレタリアートの任務」他)。こうして事態は互いが云いたい放題の求心力なき、否、遠心力が働くばかりの党となった。

 こうして戦前戦後通じて初めて「二つの共産党」が別々の選挙戦を戦うという珍事態が現出した。特に宮顕系の統一会議派は、党中央臨中派の地方選挙方針を激しく批判しつつ、独自候補運動の正当化を喧伝した(「党活動」3.10日付け「革命的議会主義と当面の地方選挙闘争」他)。選挙戦を通じて、党中央臨中派と統一会議派が大衆の面前で抗争を展開し、相互悪罵戦の泥仕合を演じている。党外大衆の困惑は不信と失望へと向かった。投票結果はそれぞれ惨敗となった。得票数等の詳細は分からない。

 この事件を今日的にどう評するべきか。少なくとも宮顕系統一会議派の分裂候補戦略戦術は党を愛する者の所業ではなかろう。宮顕の党活動履歴に見えてくるのは、この残酷非情さである。より深く党を思っての反党中央活動なら許容されようが、最終的に党中央を牛耳る狙いばかりの反党中央活動履歴しか見えてこない。れんだいこが宮顕をしてスパイMに成り代る形で党中央に闖入してきた腹に良からぬ企みを持つ異邦人であると断定する所以である。後に宮顕派が党中央を掌握した時の党内縛りぶりを見よ。手前らが反主流の時には公然たる分派活動を行っているのに、手前らが党中央になるや分派活動を徹底弾劾弾圧して恥じない。その二枚舌に対して痛憤せざるを得ない。

 宮顕系党中央は、手前らの党中央固めに不利となる事象事件については封印する癖がある。科学的社会主義なるものを自称しているが、その科学たるや科学がその実態を知れば卒倒するような御都合主義的なもので単に科学を冠しただけに過ぎない。にも拘わらず多くの者が言葉のトリックに騙されてしまう。言語及びその概念及び論理学に弱いとこういうことになると云う見本であろう。

 興味深いことを補足して締め括りとする。共産党は、1951年の都知事選での醜態が因縁となって、その後の都知事選にも何がしか変態が付きまとっているように思われる。今年の2014都知事選もその格好例なのではなかろうか。これに関する詳しい説明は省くが、脱原発派に勝利する可能性があったにも拘わらず、その芽を潰すが如くに日共的に立ち回っている。元首相コンビの細川-小泉連合が脱原発を掲げて参入してくる気配を察知するや、前回大敗した元弁護士会会長・宇都宮をいち早く担ぎ出し脱原発票を端から二分させる分裂選挙に突入させている。結果的に原発稼動派の枡添当選に裏から寄与している。しかも、これに対する総括は、宇都宮票が細川票より2万6千票多かったことを手柄に「一本化すべきなら宇都宮に一本化するのが筋だった」なる弁で切り返して正当化している。

 これをまじめに批評する政論もあるが、れんだいこには馬鹿馬鹿しい。このところの選挙がムサシマシーンの工作するところのものであり、そのような数値をまじめに検討してどうなろうか。分裂選挙そのものと出てきた数値に対して工作側の意図を読む方がよほど科学的だろう。更に云えば日共の新たな変態史ぶりを確認すれば良いだけのことである。
 

れんだいこのカンテラ時評№1218

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 4月 1日(火)20時49分3秒
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   疑わしきは被告人の利益に法理考

 前々から云いたかったこと「疑わしきは被告人の利益に法理」に関連する格好例材が出てきたのでコメントしておく。2014.4.1日付け毎日新聞社説「袴田再審入れず 納得できぬ検察の判断」が、再審開始決定が出て3.27日に47年ぶりに釈放された袴田巌元被告に即時抗告した検察に対して、「疑わしきは被告人の利益にの原則を適用すべき論」を援用して「検察の判断は納得できない」と批判している。れんだいこはそのように理解する。

 他社の論調との比較をしたいが分からない。恐らく論評がないのかも知れない。こうなると少なくとも毎日新聞社説の論評は評価されるべきであろう。何しろ「死刑囚として世界で最も長く収監されたとギネス記録に認定されるなど長期間の拘束が問題となっている」案件であるからして、その被告が出獄したとなると採り上げる方がマトモだろう。

 本件に関するれんだいこの関心は、「疑わしきは被告人の利益にの原則を適用すべき論の援用」にある。この法理を仮に「真偽不明被告人利益論」と命名する。「真偽不明被告人利益論」は専ら刑事犯に関連して適用されるものなのか、政治犯に対しては適用されないのか、その尺度はどのように設定されているのか。ここに関心がある。この基準が確立されていないと、或る時には「真偽不明被告人利益論」が説かれ或る時には逆に「不利益論」が先行すると云うまことにケッタイな事態が生起する。同一人がどう使い分けしているのか聞いてみたいが、あいにく職業的ジャーナリストを知らないので確かめようがない。

 ここまで書けば早分かりの者には見えてこよう。ロッキード事件、小沢どん事件その他その他で、何度「容疑者段階での社会的糾弾、政治訴追論」に出くわしたことか。かような時には「真偽不明被告人利益論」に健忘症となり、こたびのような刑事犯に対しては俄然熱を帯びた正義弁に出くわす。これを聞かされる当方の身にもなって見よ。一体、どういう加減で説かれたり下げられたりするのか、誰しも尋ねたくなるだろう。これは何も毎日新聞社説を批判しているのではない。検察正義論の立場から検察のすること為すことを万年式に御用論調する論よりはマシであるとは思う。

 このところ「検察正義論」を振り回し左派圏界隈を仰天させている赤旗の論調はどうかとネットで確認すると、報じてはいるが、「袴田さんは無実の罪で獄中生活を強いられてきました」との観点から記事にしているので「真偽不明被告人利益論」は出てこない。赤旗が独特の判断基準で「容疑段階での白黒判定権」を持っており、白と断定した場合には冤罪論で黒と判定した場合には糾弾論で速攻的に相対すると云うことが分かり興味深い。この党にはグレーゾーン論と云うのはないか又は必要ないのかも知れない。

 もとへ。「真偽不明被告人利益論、同不利益論」はどういう基準で適用されるべきか。これが一等級の法哲学的課題になっているのではなかろうか。しかして、この領域に踏み込んだ論考はあるのだろうか。この論証なきままに月光仮面的正義弁が出てきたり引っ込んだりしているのが現状ではないのだろうか。れんだいこには、この采配振りが気になってしようがない。気にならない者が羨ましいと思う。そういう訳で、これについては引き続き論考するものとする。

れんだいこのカンテラ時評№1217

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 3月30日(日)21時37分3秒
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   日共問題考その3

 久しぶりに日共問題に言及しているが、ここで「日共問題考その3」として「議事録抹消先鞭役としての日共批判」をしておく。これもいつか言いたかったことである。これを正確に云えば、議事録抹消の先鞭役が日共かどうかは分からない。但し、分からないのは、れんだいこだけではなく他の者も同じようなので仮に先鞭役としておく。先行事例があれば、これが確認でき次第に表記換えするつもりである。ここで云う「議事録」とは「国会質疑議事録」のことを云う。

 れんだいこが何を論拠としているのか、以下これを明らかにしておく。直接的には「1988.2.7日、衆院予算委員会での共産党の正森成二議員と浜田幸一委員長の遣り取りで勃発した宮顕犯罪の一つとしての小畑中央委員リンチ致死事件(通称「宮顕リンチ事件」)を廻る質疑議事録の抹消事件」のことを云う。事件の概要は「補足・浜田幸一元自民党代議士の貴重な事件分析」に記す。ここで確認すべきは、「国会質疑議事録の抹消」がこの時から始まり、これがその後に定向進化し、今では至るところで瀰漫しており、その元一日的意味があるということである。

 日共が国会を足がかりとする政治運動に着手して以来、数々の眉唾な動きが認められる。その最たる例が近現代政治家の中での傑出した逸材であった田中角栄を失脚せしめる為に相当な役割を果たしたことであろう。他にも戦後政治の善政機軸であった公共事業を敵視し遂に今日ある如くな惨状に追いやったことが挙げられる。箱物行政批判もその流れのものである。歴史観的には、戦前の第二次世界大戦に至るまでの歴史の流れをフリーメーソン史観で捉え、民主主義陣営対全体主義陣営の戦いであったなどと歪曲し、「国際ユダ屋の覇権との戦い」であったと云う面をおくびにも出さず、勝者側の「民主主義陣営」の戦勝国論理&論法を振り回し今日まで説教し続けている例も挙げられよう。

 大衆団体運動、例えば学生運動、原水禁運動、新日本文学運動、部落解放運動、日中友好協会その他その他に関わっては分裂させ、結果的に運動体的利益を毀損せしめ今日の惨状に追いやった主因をなしていることも挙げられよう。滑稽なことに、これらの党史、運動史を極力残さないよう指導し、それが証拠にホームページを見よ共通して出て来ない。仮に記せば噴飯もののご都合主義記述に偏っている。「国会質疑議事録の抹消」は、そういう変態運動の一コマを語るものでしかないが、その影響力が無視できないと云う意味で取り上げるに値する。

 「国会質疑議事録の抹消」が何故に弾劾されるべきか、それは自明である。常識的に見て、実際に審議された遣り取りは議事録に記録されるべきであり、抹消などが許されて良いわけがない。仮に問題発言がなされ悶着したとして、その結末までの一部始終をも議事録にすれば良いだけのことで、「抹消」と云うような「あったことをなかったことにする措置」は許されない。国政の最高権限を詠う国会の場での質疑なら厳重にそうあるべきである。

 それをかの時、いとも簡単に「議事録抹消」させ、その悪弊がその後の政治に影響し、先の民主党政権下では閣僚会議をはじめとする重要会議の議事録不存在にまで発展し、福島原発事故後の東電対応では「議事録黒塗り&抹消」のオンパレードへと繋がっている。こういう事態の始発をなしたのが「1988.2.7日の議事録抹消事件」である。この悪弊が常態化しているという意味で、日共責任が免れ難い。

 かの時、ハマコーは、審議を混乱に導いた責任に対しては陳謝するが、議事録抹消は政治信条に関わるからできないと突っぱねている。後日、「私の発言の議事録からの削除だけは絶対に認めるわけにはいかなかった」と述べている。そこへハマコーの親分格の金丸が登場し、1・質疑発言を取り消し議事録から抹消するか、2・予算委員長の辞任かのどちらかを選べと迫られることになった。ハマコーはその両方を拒否し、結果は、議事録抹消及び予算委員長辞任となった。以降、実質的にハマコーの政治生命が断たれ要職に就くことはなかった。その後、ラスベガス賭博散財事件、借金事件等で顰蹙を買うことになるが、これも何がしか仕掛けられた裏事情があった気がしないでもない。

 それはともかく、日共が国会を足がかりとする政治運動に着手したこと自体は良いとして、何か有益なことをしているのかと問うと見えてこない。逆の事象ばかりが目に付くことが奇妙過ぎる気がしてならない。党名が共産党だからして平素は弱者の側からの発言をするが、それは当たり前で特段に評価する必要はない。いざ鎌倉の時の日共対応が問題だ。どこから入手したのか分からない情報を元に国際ユダ屋が狙い撃ちする政敵を葬る為に暴れ馬的活躍をするところが奇妙である。れんだいこの今日的立論は、「国際ユダ屋に飼われた左からの突撃隊」的役割をしていると見なしている。この見当はあながち的外れでないと思っている。ここに闇がある。以上、本稿を「日共問題考その3」とする。

 れんだいこのカンテラ時評№1216  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 3月22日
 日共問題考その2

 先のれんだいこブログ「日共問題考」が反響を呼んでいるようなので、もう少し掘り下げ論拠に関わることを述べておく。「日共問題」の決定的な始発証拠とでもいえる「宮顕免責疑惑」を確認しておく。まともに書けば文が長くなるので例証を略し趣意のみ書き付けておくことにする。

 「宮顕疑惑」は数々あるが、ここでは「宮顕免責疑惑」を取り上げる。これは、戦前の党中央委員小畑の査問致死事件に於ける宮顕犯罪いわゆる「宮顕リンチ事件」に対する戦後に於ける「無罪放免の怪」のことを云う。その宮顕が、戦後直後の党運動を指揮した徳球に代わって1955年の六全協で党中央を掌握し、その後を長年にわたって最高指導者として君臨し続け、以降その系の不破、志位が党中央に納まり続けていることにより今日まで「解決済み」としている事案のことである。

 これが本当に「解決済み」なのかと云う議論が実際に国会でされている。1974(昭和49)年から1976年のロッキード事件直前まで、民社党が火付け役で論戦となっている。これにつき、ロッキード事件のどさくさで掻き消され今日に至るまで再燃していないが火種は燻り続けている。これの考察につき、ここでは略す。れんだいこは、「解決済み」に関わったユダヤ教ラビにしてGHQ民政局法務部顧問の肩書きを持つ「ハワード・マイヤーズ」の登場そのものに重大性を見ているので、これに言及してみたい。こう問う研究者はいない。恐らく、れんだいこが初指摘であろう。

 「ハワード・マイヤーズ」なる名前が実名であるのかどうかも疑わしいが、そういうユダヤ教ラビが唐突に登場し、超法規的権力を行使し宮顕を窮地から救うと云う履歴を遺している。共産党が今もこの時手にした「復権証明書」を盾にして「解決済み」としている訳であるが、何故に「ハワード・マイヤーズ」が登場し采配を振るったのか、ここが闇となっている。「ハワード・マイヤーズ」が登場し、宮顕を救った裏に、どの時点からかは明らかにできないが、宮顕が以前も以降も連中の支配下にあることを物語っているとみなしている。これの詳細は以下のサイトに記しているので参照されたい。

 その要点を少し解説しておく。戦後のGHQ指令により治安維持法違反容疑で拘束されていた社会主義者、宗教家らが一斉に無罪釈放とされたが、宮顕、袴田の場合には同志殺人事件による殺人犯として起訴されていた為にいわゆる併合罪の者にまでは適用されなかった。これをどう救済するのかが「ハワード・マイヤーズ」の任務であった。宮顕の場合、加えて更に「生命の危篤」を理由として他の被告よりも一足早く釈放されており、これをどう法的に処理すべきかと云う問題があった。宮顕が何故に一足早く釈放されたのか、「生命の危篤」でない者に対するそのような名目での出獄が許されるのか、これをどう法理論的に始末すべきかで議論されたが妙案はなかった。「ハワード・マイヤーズ」の知恵をもってしても理論的に正当化できなかった故に、「将来に向てその刑の言い渡しを受けざりしものとみなすとの」の文言だけの復権証明書での免責となった。それは露骨なまでに超法規的措置であることを示しており、法理論的に処理する厄介な仕事が残されたままになっている。

 つい先日、志位が、従軍慰安婦問題に絡む河野談話に関連して、次のような素敵な法話を説いて聞かせてくれている。「都合の悪い歴史を隠蔽し改竄することは最も恥ずべきこと。そのような勢力に未来は決してない。歴史の真実に正面から向き合い誠実かつ真摯に誤りを認め未来への教訓とする態度をとってこそ云々」。これはその通りで、どうぞこの法話通りに宮顕問題に立ち向かってほしいと思う。志位よ、まさか手前らのことは別で、この弁は相手を責めるときのみに使うと心得ての便法ではあるまいな。それは余りに恣意的であるぞよ。

 「戦後の釈放時の疑惑考、「復権証明書」の疑惑考」
   (marxismco/nihon/
        miyakenco/rinchizikenco/zikenco10_1.htm)
   「GHQ民政局法務部顧問ハワード・マイヤーズ考」
   (marxismco/nihon/
        miyakenco/rinchizikenco/zikenco10_2.htm)

 この事件の問題性は、日本共産党のトップがユダヤ教ラビハワード・マイヤーズ」を表とする秘密結社的黒幕の支配下にあり、日頃は共産党と云う党名からして共産党らしい活動をするものの、一朝事あるときには、その黒幕の指令通りに動く傀儡でしかないことを物語っていると云う意味で見逃せない。この黒幕を仮に「国際ユダ屋ネオシオニスト」と命名する。とすると、要するに、共産党の最高指導者が国際ユダ屋に弱みを握られて操作されている関係にあると云うことになる。庶民の味方、正義の党、キレイ潔癖清潔が売りの日本共産党が実はそういう黒幕のコントロール下にあると云うことである。こう理解しないと「ハワード・マイヤーズ」の登場と、それによる超法規的措置による免責が説明できないのだから、如何に口から泡を吹こうと致し方あるまい。

 こういう事例は何も共産党だけではない。左派圏の社会党(現在の社民党の前身)も然りであり、似たような弱みを握られており、戦後の社共運動は連中にコントロールされて来た歪んだ歴史を持つ。これは何も日本だけのことではない。これについては略す。共産党、社民党は政権的には野党であるが与党も事情は然りで、首相となり政権を運営するような人物はほぼ全てコントロールされている人物ゆえに首相になりえていると思えばよい。これは戦後来一貫してそうである。

 日本の戦後政治史上、この仕掛けから逃れていたのは唯一、田中角栄であったと思われる。その為であろう、国務省宛「角栄レポート」が詳細に記されているのは知る人ぞ知るところである。戦後保守ハト派系の吉田茂、その門下生の池田隼人、田中角栄、大平正芳、鈴木善幸及びそのラインが相対的に自律していたと思われる。この系以外はほぼ全て篭絡されていると思えばよい。戦後日本は戦後保守ハト派系にリードされ、奇跡の戦後復興、引き続いての世界市場に輝く高度経済成長を遂げてきたが、その日本の更なる成長がコントロールし難き事態になるのを危ぶんだ国際ユダ屋が、時の表の権力者キッシンジャーを頭目としてロッキード事件を画策し、角栄の政治生命を断った。この時、直前までリンチ事件と復権疑惑で立ち往生させられていた宮顕が党の総力を挙げて精力的に角栄追討戦に精出したことは衆知の通りである。

 これを境に、戦後保守ハト派系が冷や飯を食わされ続け、逆に国際ユダ屋の子飼い下にある戦後保守タカ派系が権力を握ることになった。これを分かり易く云えば中曽根-ナベツネ系の天下になった。以来、この徒弟が日本政治を牛耳って今日まで経緯している。ここに日本政治が少しもまともにならない理由がある。これが今日に至る日本斜陽化、政治貧困の主因である。それはそうだろう、日本のための政治をするのではなく、黒幕の指令通りに施策するのだから、ろくなものにはなりはすめえ。

 もとへ。「共産党の日共化問題」の本質はここにある。野坂然り、宮顕然り、不破然り、志位然りで、ろくでもないもんが党中央の最高指導者に納まり党活動を逆漕ぎしていると思えばよい。ここでは野坂、不破、志位のイカガワシサには触れないが、叩けば埃が出る者ばかりであることを指摘しておく。不破が宮顕に継ぐ大物なので、不破については折を見て別稿で論じたい。彼らの毒牙が左派圏に回っているので今日の如くある。れんだいこが著作した学生運動然り、その他その他の大衆団体の分裂と抗争にほぼ全て関わり悪事を働いている。こう捉える者は少なく、逆に本物の野党であり名指導者であるとして評するのが通用しているのがお笑いである。

 こうなると、党員、支持者たる者よ、そろそろ憤然とすべきではなかろうか。そういうイカガワシイ最高指導者に道理なり倫理道徳を聞かされる必要がないし、いざの局面での逆指揮に従うべきではないのは当たり前のことである。実際には、党中央がそういう者である故に過剰な党中央拝跪を説かれ、従順な子羊にされている訳であるけれども。かく見立てができれば簡単で、本稿を読んでからには党中央指令に造反し、あるいは公然と談判状を突きつけるのが良い。これにより党内に瀰漫する心身症の相当なる回復が見込めることになるであろう。

 れんだいこのカンテラ時評№1215  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 3月21日
 日共問題考

 「日共問題」とは、優れて政治学的なリアリティーのある問題である。しかしながら学的考察が為されていない。いわゆる当たり障りのない対象を見つけて上品ぶって論ずるのを倣いとする学問と云うものの限界と云うか似合わないのであろう。学問と云うものは往々にしてそういうものであるからして実践的に役立つことが少ない。本稿では、そういう学問の檻を蹴破って赤裸々に考察し、迷える羊たちの一助になることを期する。

 2014年3月、かって失敗せしめられたモスクワオリンピックの失地挽回として国家を挙げて取り組んでいたロシア主催のソチオリンピックのさなか、かってソビエト連邦を構成し、その崩壊後に独立国家として自己形成していたウクライナがロシア衛星圏から離れ、西側諸国衛星圏に入ると云う政変が発生した。その結果、ウクライナの一角を占めるクリミアが逆にウクライナから離れて親ロシアの独立国家として自己形成する動きに出ると云う政変へと転じた。これを仮に「2014クリミア騒動」と云う。これに至る経緯を略せば、そういう事変である。このクリミア騒動をどう評するかが問われている。

 ここで、日本共産党が見せたクリミア騒動論を採り上げ、「日共問題」との絡みから考察しておくことにする。余りにも典型的な日共らしさが垣間見えるからである。日頃は党名が共産党であるからして、それらしい理論と実践下にあるので「日共問題」が浮上することはない。但し、ここ一番の煮詰まった状況下では決まって「日共らしさ」に豹変する。このことが改めて確認できる格好教材となっている。

 前置きはこれぐらいにして本論に入る。共産党の志位委員長は、クリミア騒動をどう論じたか。3.19日付けの赤旗「ロシアはクリミア併合を撤回せよ 世界の平和秩序を覆す覇権主義は許されない」は、「クリミアの独立とロシア併合は国連憲章、国際法の原則に反した侵略行為そのものであり、断じて許されない」とする立場から、ロシアの大国主義、覇権主義批判へと続け、ソチオリンピックのさなかに発生したウクライナの西側諸国入り政変を事実上後押ししている。

 時事通信配信「安倍首相の対ロ姿勢 『だらしない』 志位共産委員長」によれば、もっとあからさまに、志位委員長が記者会見を開き、安倍首相の「力を背景とする現状変更の試み」批判に対し、「こわごわものを言っている。文字通りの侵略、併合であり、国連憲章違反と批判できないのはだらしがない」と批判し、対ロ制裁に関して、「国際社会と足並みをそろえることが大事だ」とも述べたことを報じている。

 衆知のように領土紛争、独立問題、衛星圏入り問題等は優れて高度な政治課題であり、一刀両断式の理論で片付くほど容易い問題ではない。最終的に高度な政治判断が問われるものであり、日本国憲法前文が安逸には語らず一般原則のみ示し、9条では「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と記して、軍事紛争に至る動き不訴求と弁えているころの事案である。

 これを勘案すれば、志位委員長は、「ウクライナの西側諸国入り政変」を不問とすることで事実上の後押しをし、返す刀で、クリミア騒動におけるロシアの介入に対し断固たる批判の舌鋒を鋭くし、対ロ制裁論に傾斜しているのは公正な立場でも護憲的態度でもない。共産党がその昔、ソ連衛星圏下での活動を是としていたことを思えばお笑いでしかない。「志位委員長発言」は、「国際社会と足並みをそろえることが大事だ」論を公然と唱えることで、国際責任果たせ論に繋がる素地をつくっている。何のことはない中曽根以来の大国責任論でもってのと国際責任果たせ論と通底していることを証している。更に云えば、日本共産党が本質的に米英仏の西側陣営と与していることをあけすけに語っているとも云えよう。

 このことが如何に由々しき弁であるか。かっての帝国主義論がいかほど有益な理論であったかの評価は別として、共産党が今やかくも帝国主義諸国家と理論的実践的軌道を一にしていることになるが、これをどう評するべきだろうか。「志位委員長発言」はクリミア騒動におけるロシアの介入に対して強硬に批判しているが、「ソチオリンピック下のウクライナの西側諸国入り政変」については一切不言及なところがミソである。この党は、こういう詐術的言い回しを得意としている。

 さて、本稿の結論に入る。これまでも共産党の理論と実践には胡散臭いところが多々見えている。近いところでロッキード事件の徹底解明論による有能政治家・田中角栄の訴追、その系譜の小沢一郎の訴追、云うところの検察正義論、各種選挙戦に於ける政権与党を有利にする役割しか果たさない全選挙区立候補方式、最近とみに関心が集まりつつあるムサシマシーンによる不正選挙の疑いに対する不言及、戦後政治の良策であった公共事業敵視論的不要論、リストラを論じているときに残業問題持ち出し論等々挙げればキリがない。

 これらの悪行に、こたびの「志位委員長発言」が被さっている。これをどう推理すべきだろうか。れんだいこは、「日共問題」の琴線に触れていると見る。即ち、こたびの「志位委員長発言」を通して、共産党が実は「親西側陣営、反ロシア陣営下の政党」であり、その西側陣営を裏でコントロールするのが国際金融資本であるとするならば、これに親しい政党であることを自己暴露した声明と確認している。れんだいこは今や国際金融資本の陰謀的世界支配活動に対して国際ユダ屋と命名している。これによれば、日本共産党は既に国際ユダ屋配下の政党と云っても過言ではなく、平素は正体を現さないが、こういう局面が煮詰まったときに表すということになる。こういう風に論ぜられるぐらい、こたびの志位発言は意味が大きいと評したい。日本共産党が共産党としてではなく日共と侮蔑される所以である。

 れんだいこのカンテラ時評№1214  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 3月20日
 「れんだいこサイトのUSBメモリー頒布」のお知らせ

 本日をもちまして「れんだいこサイトのUSBメモリー売り」を始めます。「れんだいこサイト」のたびたびの故障より発想しました。現在も開けなくなっております。パソコンの中身のことは手に負えず人任せにしておりますところ、その彼が忙しいとかでなかなか修理してもらえず寂しい思いをしております。この手隙を利用して本稿を書き上げております。いつか言いたかった呼びかけをしておきます。

 「れんだいこサイト」はホームページにもある通り、2000年2月11日、ほぼ50歳の頃に開設致しました。既に15年を経過しております。この間、トピックに感応した事象事件につき論考して参りました。好きこそものの上手なれで、営々と書き綴り書き直し続けております。心血注いでいると申し上げて過言でありません。道中で文量が増え過ぎて更新が遅くなったため、現在では十有余サイトに分割しております。これで随分楽に書き込みではるようになりました。詳しくは、れんだいこの総合ホームページの総目次でご確認ください。

 総合ホームページ(jinsei/)

 総目次 (jinsei/oomidashi.htm)

 この論考は既に公的なものだと考えております。れんだいこの寿命ある限り充実させていきますが、これの保存にも知恵を使わねばなりません。れんだいこが亡くなることによりサイトが閉鎖され、いつしか失われてしまうのは余りに惜しい論考となっております。現代版万葉集と位置づけておりますが、これを頒布しておくことにより、何かことがあっても、皆様方の手中にあるUSBメモリーを合わせることにより復元可能な状態にしておきたいと思います。

 そこで、これの各サイトごとのUSBメモリー売りを開始したいと思います。れんだいこのオリジナルサイトはこの後も更新し続けますが、申込者の申込時点でのサイトUSBをお分けすることによりサイトの保存をしておきたいと思います。当然、入手したUSBメモリーを元に、購入者ご自身が、この後をご自由に手直ししていただけたらと思います。これまでも、こういうことを気付いていたのですが、毎日の更新の方が忙しく、本稿のような呼びかけ文を書く気にはなれませんでした。こたびパソコンが故障したことにより一気に書き上げております。

 申し込みは下記のメールにお願いします。送付先の氏名、住所と、申し込みサイト名をお伝えください。手短なコメントを寄せてくだされば有難く読ませていただきます。料金は一律1万円です。振込先は下記の通りです。着金が確認でき次第にお送りいたします。

 メール先 rendaico@marino.ne.jp

 振込先  (郵便振替)01370ー8ー38956 (名義人) たすけあい

 これの経理につき極力公開しようと思います。とりあえず「資金サポーター記録」を用意しております。

 (jissen/tasukeaito/suporterkiroku.html)

 使途につきましては、れんだいこの裁量と致します。サイト更新に使わせていただきます。これには、れんだいこの生活費も含まれます。まずは、れんだいこの身が成り立ってのことですから、あらかじめご了承ください。個人的な遊興費に使うことはありません。献金等も含め多額になった場合、ネット政党たすけあい党の資金、諸団体へのカンパ等々社会的に有益と思われることに使いたいと思っております。趣意ご同意の皆様方のご協力をお願いいたします。

 2014(平成26)年3月20日 れんだいこ拝

 れんだいこのカンテラ時評№1213  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 2月27日
 五十嵐仁の「アンネの日記の破損事件批判」考

 2014年2月、東京、横浜等の公立図書館で「アンネの日記」やホロコーストに関する本などが破られているのが相次いで見つかると云う事件が報道された。2.20日、ユダヤ系団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」が、「衝撃と深い懸念」を表明、捜査と実行者の特定を求める声明を発表した。この事件に関連して、五十嵐仁が、「五十嵐仁の転成仁語」の2014.2.26日付けブログ「ネオ・ナチ化する醜い日本と日本人」で興味深い発言をしている。これを確認しておく。

 五十嵐氏は、被害本について次のように述べている。「『アンネの日記』関連の書籍だけではありませんでした。被害を受けた本はアウシュビッツ強制収容所に収容された女の子について書かれた『ハンナのかばん』や、第2次世界大戦中、多くのユダヤ人にビザを発行して命を救った日本の外交官、杉原千畝の伝記など、少なくとも80種類に上るといいます」。この事件を仮に「アンネの日記他関連書籍破損事件」と命名する。この指摘は事実関係のもので首肯するしかない。この行為に対して次のように批判している。「このような破損行為は、ユダヤ人を敵視し、彼らに対する迫害を肯定しているように見えます。日本社会にネオ・ナチのような価値観が浸透し、ユダヤ人に対する迫害を支持する日本人が行動を起こしたということなのでしょうか」。ここまではまだしも良い。

 問題は続いて次のように述べているところにある。「気にくわないからといって、片っ端から本を引き裂いて破損するような行為は、ナチスによる焚書の現代版にほかなりません」。これは一見、正論のように思える。だがしかし、「ナチスによる焚書」の代わりに今度は「戦勝国側によるナチス関連書籍の封書」が常態化している目下の現実に対する不言及なままの「ナチスによる焚書批判」は片手落ちと云うべきではなかろうか。

 今や「全世界反ユダヤ主義監視法」なるものが敷かれており、「ヒットラー及びナチスタブー」はドイツ本国だけのことではない。どこまで本当のことか分からないが、ドイツでは飼い犬にヒトラー及びナチス関連の命名をしただけで検束されると云う。日本では理解し難いが西欧諸国ではこの風潮が「戦後の常識」となっている。五十嵐氏が、よく知られたこれらの事象に対しても批判の舌鋒を鋭くし、その返す刀で「アンネの日記他関連書籍破損事件」に対し、思想及び学問の自由の見地から独立覇気の論を述べるのなら言うことはない。五十嵐氏は、れんだいこの知る限り、そういう意味での学問の自由論者ではない。

 ブログは(中略)続いて次のように述べている。「私はかつて地球を一周する旅の途中、オランダのアムステルダムで『アンネの家』に立ち寄りました。その隠れ家の秘密の部屋も見たことがあります。そのとき、『このような所で、人目を盗んで生活することを強いられるなんて』と、強い憤りを覚えたものです」。これによると、五十嵐氏は「アンネの家」に立ち寄ったこと、アンネらが隠れ家的生活を強いられていたことに対し「強い憤りを覚えた」ことを明らかにしている。このこと自体は結構なことで何の問題もない。ここでは記されていないがホロコースト記念館に立ち寄ろうとも、そのこと自体は結構なことで何の問題もない。「地球を一周する旅」を羨ましく思い、どういう旅だったのか気になるぐらいのことでしかない。

 問題は、五十嵐氏が、ユダヤ人のみならず世界で不自由や困難を強いられている諸民族全ての「民」に対して、同じような眼差しを持っているのかどうかにある。現代史の問題は、かって流浪の民と呼ばれたユダヤ人が世界史上かってない権力を得ており、そのことにより従来にない形の抑圧支配体制を全世界的に敷いているところにある。それは一般的なユダヤ人と云う範疇で語らないほうが良い。そういう意味で、れんだいこは国際金融資本帝国主義ないしはネオシオニズムと云う表現で対自化させている。最近になって単に「国際ユダ屋」と命名している。この「国際ユダ屋」の仕掛ける様々な狡知との闘いの必要性を指摘している。

 このセンテンスで「五十嵐仁の転成仁語」の2014.2.26日付けブログ「ネオ・ナチ化する醜い日本と日本人」を読む時、「国際ユダ屋」に受け狙いのお調子者的な、ユダヤ系団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」の「衝撃と深い懸念表明」と軌を一にする「アンネの日記他関連書籍破損事件批判弁」でしかないように聞こえてしまう。よって結びはこうなる。「もしそうだとすれば、何という醜い国になってしまったのでしょうか」。

 れんだいこのカンテラ時評№1212  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 2月21日
 れんだいこの万葉集読解法考その2

 先の「れんだいこの万葉集読解法考」で、万葉集の読解を文学的にのみ読むのではなく歴史学的にも読むべきとしたが、もう一つ思想的にも読むべきとの提言をしておく。実に万葉集は日本文学の祖であり且つ記紀、風土記に並ぶ政治史書であり且つ思想書でもある。思想書とは、当時の人々の生態、思想が披瀝されていると云う意味と、日本の国体を明らかにしていると云う両面の意味を持たせている。このことを強調しておきたい。

 僭越ながら言わせてもらうと、従来の万葉集研究は、文学的読み取りにおいては辟易するほど精緻に為されていよう。特に文法的解析、語彙的解説は参考になる。但し、その精緻さの結果として歌意をいかほど正確に為しえているかと云うと心もとない。「山に拘り森を見ず」の例えに似た偏狭解釈が横行している面もあるように見受けられる。しかしながら何とかして正解的な解釈を生み出すべく向かうべきだろう。文学的研究が基礎であろうから、この営為を続けねばならない。

 万葉集読解の次の要請は歴史書的且つ政治書的な読み取りであろう。この方面の研究はそれなりに進められているようだが未だ未開であるようにも思われる。それと云うのも、大和王朝御用化の為に編纂された記紀神話的構図下にあるので一向に進まないのではなかろうか。課題は、記紀神話的構図下から出藍することにある。この方面の研究は緒についたばかりなので致し方ない面もある。しかしながら先の「文学的読み取り」も「歴史書的な読み取り」と密接不可分な訳だから同時並行的に進めねば実りあるものにはならないだろう。こう云わせていただいておく。

 さて、本稿の眼目である「思想的な読み取り」はどうだろうか。これは、未だ緒にもついていない未踏の分野なのではなかろうか。れんだいこ的には、万葉集の思想的読み取りにこそ真髄があると見立てている。万葉集を思想的に読み取るとはどういうことか、これにつき言及しておく。要するに、日本古代史上の国譲り政変が大きく関係しており、国譲りさせられた方の大和王朝前の政権であった出雲王朝、三輪王朝時代の日本国体と、国譲りさせた方の大和王朝政権の国体との間に認められる「歴史の溝」を確認し、それを座るべき歴史の椅子に腰掛けさせねばならない。こう認識せねば解けない。

 実に日本古代史とは、この「歴史の溝」をどう練り合わせていくのかの御苦労史である。そのハイライトが大化の改新と壬申の乱である。それはかっての国譲り政変のリバイバルでもあった。この一連の政治動乱過程でどういう新たな国体が創出されたのか、ここにテーマがあり、ここを紐解かねばならない。練り合わされた部分と練り合わされずに併走する両面を嗅ぎ取らねばならない。ざっと云えばこういうことになる。抽象的に述べているので分かり難いかも知れないが、これを具体的に述べるよりも逆に分かり易いとも云えるだろう。

 その上で今最も関心が注がれるべきは、大和王朝前の政権であった出雲王朝、三輪王朝時代の日本国体の解明である。これは国家論、民族論、政体論を主とするが、関連して当時の民俗論、生態論、思想論、宗教論へと繋がる。れんだいこは、万葉集こそが、これを濃厚に伝えていると見立てている。ここに万葉集の特筆すべき値打ちがあると見立てている。

 これの探訪の旅は、日本のアイデンティティーが意図的故意に圧殺されようとしている目下の政治状況下にあっては、これを解明解析することが逆バネの作用を持つと信じている。仮にこう難しく構えなくても、当時のいわば原日本の真姿を知ることは何かと有益ではないかと思う。かなり高度な文明だったのではないかと思っている。故に、いざ同朋よ手を繋げんと思う。万葉集寺小屋を共に創造したいと思う。以上。これを「万葉集読解法考その2」として補足しておく。
 

 れんだいこのカンテラ時評№1211  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 1月30日
 れんだいこの万葉集読解法考

 2014(平成26)年初頭、れんだいこの古代史考は天皇制論を経て古代史書考に向かい、今は古代史書の正四書の一つである万葉集にくびったけとなっている。ここで万葉集読解法につき述べておく。

 これから確認することになろうが、既成のそれは、れんだいこ史観に基づく「原日本新日本論」を獲得していないので、その分歌意を理解し損ねている面があるのではなかろうか。僭越ながらこう申し上げて叱責を甘受したいと思う。と云うのも、万葉集和歌を理解するには、和歌が歌われた時の情況、情況を書き付けている「添え書き地文」とワンセットでせねばならず、その「添え書き地文」の正しき理解の下に歌意を受け取らねばならないのが当然であると思うからである。しかして、「添え書き地文」の正しき理解の為には「原日本新日本論」を介在せねばならず、これを欠いたままの歌意解釈は甚だ心もとない。既成のそれは能く為しえているだろうかと云う疑念がある。

 既説は如何にも文学的な読み取りをしているのだろうが、今調べたところでは、その文学的な読み取りでさえかなり粗雑な解釈が横行しているようである。歴史構図的に失敗するような頭脳では文学的読み取りも同じで能く解し得ないと云うことではなかろうか。万葉集は日本上古代史、古代史の政変を踏まえて詠われているのであり、このプリズムを通さないと和歌の真意が見えてこないのではなかろうか。万葉集は、後の古今和歌集その他の和歌集と比べて古代史の国譲り政変事情と密接に関係している故に、ここを窺わない万葉集読解はあり得てならない。これにつき追々にはっきりさせてみようと思う。

 そういう訳で、万葉集は殊のほか史書としての値打ちが高い。つまり単なる文学的和歌集と云うより歴史的和歌集的性格を帯びている。即ち記紀、風土記を補完し、あるいは時に訂正する威力さえ漂わせている。例えば相聞歌にせよ古代への偲び歌にせよ、単なる相聞歌、偲び歌ではない。こういう解釈が多いようだが、「原日本新日本論」的史実を踏まえてのものであり、これを逆に云えば史実を遺している意味もある。万葉集のこういう重厚さをも踏まえ、詠み手が歴史と応答している様を味わうべきだろう。情景歌、人生歌の場合には時空を超えるので必ずしも要件としないが、その際でさえ「原日本新日本論」的歴史観の下での理解の方がよりしっくり来るのではなかろうか、と思っている。この謂いを例題を挙げて論証すれば説得力を増すが、長文化するので別の機会に論じようと思う。

 こういう意図の下での読み直しによる万葉集読解をサイトアップしてみたいと思う。万人が万葉和歌集を愛好する手引き書として世に奉(ささ)げんと思う。万葉集は日本人必須の教養として納めておかねばならない知的財産であり世界遺産と思う故にである。問題は次のことにある。戦後日本は、こういう日本古代史が持つ世界に冠たる文化遺産に余りにも盲目にされ過ぎて来た。これは政治の責任であるが、半面は読もうとすれば読めるのに読まなかった側の私どもの能力問題でもあろう。これを痛苦に受け止め、本来の日本人的感性、宗教的情動、道理道徳観を呼び戻したいと思う。この言は論より証拠で、読めば分かろう。

 還暦過ぎて分け入ることになったが遅過ぎることはない、今読めて幸せと思う。但し、分け入ったは良いが4500余首もあるため出口は見つからない。ガイダンス的には三年、内容に深く立ち入ればひょっとすると気の遠くなるほどの一生ものになるかも知れない。困ったようなうれしいようなことではある。以上、れんだいこの性によって歯に衣着せず物言いさせてもらったが若気の自負と受け止めてもらえれば幸いである。

 万葉集考(kodaishi/kodaishico/manyosyuco/top.html)

 れんだいこのカンテラ時評№1210  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 1月24日
 日本古代史をどう紐解くべきかその3

 ここで「正四書」(古事記、日本書紀、風土記、万葉集)の相関関係と編纂事情を確認しておくことにする。以下のように概括できよう。

 大和王朝下での最初の史書は推古天皇の御代に始まる。620(推古天皇28)年、厩戸皇子(聖徳太子)が蘇我馬子と議して国記(くにつふみ)、天皇記(すめらみことのふみ)、臣連伴造国造等本記(おみむらじくにのみやっこしょうのほんき)などを編纂している。これが大和王朝御代下での初の官選古代史書となる。聖徳太子&蘇我馬子ラインは、れんだいこの「原日本新日本論」見立てによれば原日本系である。これが残されておれば是非とも読みたいが、645年の大化の改新(乙巳の変)の政変により焼失されたとされており現存していない。

 せっかく編纂した国記、天皇記他が消失したことにより新史書編纂が要請されることになった。673(天武紀2)年、同じく原日本系の天武帝の詔(みことのり)により古事記編纂が開始された。681(天武紀10)年、やはり天武天皇の詔により日本書紀編纂が開始された。8年前後しているがほぼ同時代である。これを思えば、天武天皇御代下で古事記編纂チームと日本書紀編纂チームが同時スタートしたと看做すべきではなかろうか。論証は省くが、この間、古事記編纂チームと日本書紀編纂チームは互いに記述を確認し合っていた形跡が認められる。古事記が献上されたのが元明天皇の御代の712(和同5)年、日本書紀が献上されたのが元明女帝の皇女・元正女帝の御世の720(養老4)年である。

 これに風土記が重なる。風土記は、713(和同6)年、元明天皇の詔により編纂が始まったとされているが、記紀の編纂過程で付随して自ずと風土記史料が揃えられたと思われる。万葉集の編纂時期は特定できないが、和歌は古来より伝わっており、記紀及び風土記編纂の時点で既に相応のものがあったと思われる。こう理解すると、紀元700年前後の頃、大和朝廷御代下で猛烈な熱意で国史編纂事業に向かい正四書が遺されたことになる。その出来映えは世界に冠たる古代史書となっており今日に伝えられている。れんだいこの見立てによると、こういうものは先行して原書があったからできたことになる。その原書は神代文字で書かれていたと読む。それらを下敷きにしながら、時の朝廷に都合の良いように書き直し編纂し直したと読む。その際、文字も万葉仮名と云われる漢字仮名文で書き上げたと読む。

 問題は、天武帝の686(天武15)年の崩御後に国史編纂方針がどのように変更されたかにある。これには「日本古代史の秘密」が大きく関係している。直接的には645(皇極天皇5)年の大化の改新(乙巳の変)、672(弘文天皇元)年の壬申の乱の政変が大きく関係している。即ち、大和王朝は来航族が国津族を抑える形で政治的支配権を掌握したものの、その過程で有力な国津族を登用する約束で帰服させている。加えて国譲りそのものが手打ち式和睦となったことにより、その時点での抵抗勢力であった国津族を登用する約束で帰服させている。これによりまさに原日本系勢力と新日本系勢力が「大和」と云う形で共存することになった。このことは両者の暗闘が続くことになったことを意味する。ここに日本政治の和合型の特徴がある。れんだいこ史観の「原日本新日本論」によれば、大和朝廷は「新日本主、原日本従」とする混交政権として始発した。このバランス加減が大和王朝の政権基盤を強くし且つ危うくしていくことになる。

 大和王朝政権は、「新日本主、原日本従」と「新日本従、原日本主」間を政局流動し続ける。どちらを正とし邪とするかは極めて高度な問題であった。即ち、大和王朝創建譚からすれば「新日本主、原日本従」であるべきだが、原日本こそが元々の王朝だとすれば「新日本従、原日本主」こそが振り子の戻るところとなる。この問題が大和王朝の政権基盤の安定問題に常に付き纏っていた。この問題が鋭く突きつけられ政変に及んだのが645年の大化の改新(乙巳の変)、672年の壬申の乱であった。

 大化の改新(乙巳の変)とは、「中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足(後に藤原姓を賜う)らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変」である。蘇我氏の出自は出雲王朝系であり、蘇我蝦夷-馬子体制とは大和朝廷がいつしか「新日本従、原日本主」政権に転じていたことを意味する。この体制を覆したのが大化の改新(乙巳の変)であり元の「新日本主、原日本従」体制に戻した政変であった。以降、このクーデターの主役であった中大兄皇子-中臣鎌足体制となり、白村江の戦い大敗、近江大津宮(現在の大津市)遷都後の668(天智天皇7)年、中大兄皇子が天智天皇として即位した。671(天智天皇10)年、天智天皇が崩御する。

 その天智体制を再度転覆したのが672(弘文天皇元)年の壬申の乱であった。壬申の乱とは、「日本古代最大の内乱戦争で、天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟とされる大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである」。これは「新日本従、原日本主」とする側からの政変であった。両政変とも大和王朝建国以来の国体の質を問う重大政変であったことは疑いない。

 天武天皇の御代、この二大動乱を皇統譜的に整合化せしめる国体観を生み出す必要が生まれていた。これが「正四書」の発生事情である。但し、思うに、れんだいこ史観に照らせば、「原日本主」とする側に立つ天武天皇の編纂方針は出雲王朝-邪馬台国御代下の原日本史の系譜を尊び、この御世の史料を相当に取り込み、その流れをも汲むとする大和王朝御代譚作りに向かっていたのではなかろうか。但し、皇統譜をどのように繋げようとしていたのかは分からない。

 ところが、686(天武天皇15)年、天武天皇が崩御する。その後、645年の大化の改新(乙巳の変)の主役の一人であった中臣(藤原)鎌足の次男である藤原不比等が政権を仕切るようになった。藤原不比等は新日本系の重臣であり、「新日本主」とする側の者であった。この政変により国史編纂に於ける天武天皇式編纂方針が大きく軌道修正されることになった。藤原不比等は、大和王朝前史の原日本史を邪として切り捨てる方向に舵を切った。結果的に、天照大御神を最高神として、それを継承しているとする外来系を天津神として位置づけ、この系譜を正として、これに抗した国津神系を邪とする史観の下に書き直し編纂し直した。これにより原日本史の相当な部分を削除し、大和王朝正統化創建譚上の必要最低限のものを取り入れ、辻褄合わせの策を練った。この構図下で記紀が生み出されたと考えたい。藤原不比等はこの作業に精も根も尽きたのか、はたまた暗殺されたのか、日本書紀献上の720(養老4)年に逝去している。

 これが正四書編纂の裏事情である。既に何度も指摘しているが、大和王朝正統化史観の強弱の程度に於いて日本書紀が強く、古事記が中間で、風土記が弱く、万葉集も然りで弱いと云う関係になっている。且つそれぞれの記述が他の史書の記述と対抗的に著わされていることに気づく。正四書研究の醍醐味は、こういうところを確認し、その記述を比較し沈思黙考するところにあるように思われる。これは、古史古伝、その他の古代史書を入れても同じで、どこが同じでどこが違うのかを味わわねばならない。こうすることによって史料の意味が増し、古代史の真相が見えて来始め、諸事象が活き活きと語りかけてくることになるのではなかろうか。

 これを思えば、戦前の皇国史観は何と凡俗な且つ狭い隘路に向かったことだろうか。戦後の民主主義史観は何と無知な隘路に向かっていることだろうか。そのブザマさは、日本人が日本を語るのに下手な英語スピーチしているのに似ている。これは例えであるが、そういう程度の隔靴掻痒能力で日本古代史が解けるほど甘くはない。日本の古代史書は世界に冠たる文化遺産であり、高度な筆法で記されている。これの読み取り能力は別にしても日本人の教養として素読しておかねばならないのではなかろうか。それに値する貴重な史書群が遺されているのであって、そのことがあり難いと考える。以上を「日本古代史をどう紐解くべきかその3」とする。

 れんだいこのカンテラ時評№1209  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 1月23日
 日本古代史をどう紐解くべきかその2の2

 「日本古代史をどう紐解くべきかその2」で述べたように、「天津神と国津神の抗争譚」のややこしさは、来航族が天津神を僭称することにより、元々は国津神のアイデンティティー神話であった最高神としての天照大神を掠め取り、来航族がその血脈を受け継ぐ正統であると吹聴することでイデオロギー的に優位に立ち、この論法で新日本形成に向かい、国津神系諸国家を順々に服属せしめて行ったことに起因する。

 このウソをまことしやかに正史とさせたのが正四書ではないのか。但し、このウソを説く強度に於いて、日本書紀が生硬に記し、古事記が折衷的に記し、風土記、万葉集が控えめに記すと云うスタンスの違いが見て取れる。古史古伝は概ねこのウソに反発し国津神の御代を正統化しているが、こちらも生硬、折衷、控えめのどれかに位置して記述している。但し、古史古伝と雖も「正四書史観」の構図から抜け出せていない恨みがあり今一つ信が置けない。古史古伝が下敷きにしていた「幻の古史古伝原書群」こそ正典と思われるが、これは現存していない。かく理解すべきではなかろうか。

 日本上古代史上の最大政変が外航族の日本征服であり、その最初のハイライトが「大国主の命の治める出雲王朝の国譲り」である。次のハイライトが「卑弥呼の治める邪馬台国王朝(三輪王朝)の国譲り」である。これが殲滅解体され大和王朝が建国される。この時の王朝名を「ヤマト」と呼称したのも「日本古代史の秘密」である。

 本来であれば、旧政権である邪馬台国を連想させる「ヤマト」を嫌うべきところ、敢えて「我々こそが邪馬台国の正統なる後継政権である」とメッセージするかの如くに意義づけている。漢字の「大和」は「手打ち和睦」により樹立された政権であるとの意であろうが当て字に過ぎず、この当て字は表音から来るものではない。表意的に宛がわれ且つこれを「ヤマト」と読ませる特殊な表記となっていることに注意を要する。ここでも見えてくるのが外航族の国津族慰撫法としての合わせ技的頭脳である。征服側の統治術としては珍しいタイプではないかと思われる。

 従って、このような歴史詐術構図下で生み出されている正四書を鵜呑みにして学べば「日本古代史の秘密」が余計に分からなくなる。事実、その後の歴史は、正四書に依拠して学ぶことにより、ほぼ完璧に正四書通りの日本古代史像ができあがってしまった。これにより原日本御世の政体、治世、風俗の様子が消され分からなくされてしまった。明治維新以降に創出された皇国史観なぞは悪趣味的なほどに大和王朝を是、国津神王朝を邪とする聖戦イデオロギー一色に染め上げている。ここに皇国史観の無理筋性が認められよう。記紀以降の古代史学は、この無理筋的な歴史観に騙され続けてきた。こう確認すべきではなかろうか。

 とはいえ、結果的に記紀史観の良い面もある。それは、来航族が「我々こそが邪馬台国の正統なる後継政権である」と打ち出し、国津族慰撫法としての合わせ技を駆使したこと自体が、征服された側である原日本の歴史、伝統、文化を蹂躙するのではなく取り込むことを意味しているからである。これにより、被征服側から見て、世界征服史に通例の原住民族皆殺しジェノサイドの悲劇から逃れることになった面が窺えるからである。国津神系がそうはさせじの拮抗力を持っていたと云うことでもあろうが。かくて、日本古代史は来航族と国津族との「手打ち―和睦」から始まる。これが日本政治史にインプットされた遺伝子となってその後の日本史に貫通し、はるけき今日まで至っているやに見受けられる。

 日本史に貫通するこのからくりを見抜きながら見立てしないと日本史が何も分からない、見えてこない。下手に学べば却ってアホウにされてしまう。正しくは正四書のトリック史観に取り込まれることなく、正四書のそれぞれの立場を理解しながら読み直さねばならない。これが正四書研究の要諦ではなかろうか。

 ここが分からず、正四書のうちどれが真なりやを問い争うのは虚妄である。正四書共に国譲りを来航族と国津族との抗争とせず、天照大御神を戴く高天原王朝と戴かない国津神との戦いであったとしている限りにおいて虚構であり、そういう虚構上の真書論争なぞ何の意味もない。こうなると、そういう虚構に於ける各史書のスタンスの違いこそ見抜くべきだろう。付言しておけば、この虚構上の通説に対して、それを批判する奇説が数多く登場しているが、「天津神と国津神の抗争譚」と云う虚構上に立つ奇説である限り、単なる乱痴気騒ぎに過ぎない。これも申し添えておく。

 以上。もうこれぐらいで良いだろう。この推理が当りとすれば、日本古代史解明は今緒に就いたばかりとの認識に至るであろう。こう理解してくだされば今後の研究が実りある営為になろう。

 さて、上記の「日本古代史に隠された秘密のれんだいこ式解明」の価値は高い。史上の誰も解けなかったものを解いたと自負している。こうなると、ノーベル賞が主として理系頭脳の世界的研究業績に対して授与されるものであるのが恨めしい。文学賞、平和賞なるものがあるが間に合わない。文系頭脳の世界的研究業績に対して授与されるものはないのだろうか。こう聞く方は、れんだいこの手前味噌宣伝に辟易するだろうが、かく主張するに十分な発見なのだから許されよ。この仮説は、現代日本政治に於ける国際ユダ屋論との絡みから生み出されている。歴史は繰り返すのだから、日本古代史の秘密から現代日本政治を照射するのも意味がない訳ではなかろう。以上を「日本古代史をどう紐解くべきかその2の2」とする。
 


 れんだいこのカンテラ時評№1208  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 1月23日
 日本古代史をどう紐解くべきかその2

「日本古代史をどう紐解くべきかその1」で正四書の政治主義性について言及した。これを踏まえて結論はこうなる。問題は、日本古代史書のどれもが史実をそのままに記述していない、構図そのものが歪められていると仮定して、何故にまわりくどい記述にしているのかを推理し、これを読み取ることにある。れんだいこは、ここに日本古代史の隠された秘密があると考える。これを仮に「日本古代史の秘密」と命名する。これは恐らく誰も解けない。解くとするなら、「日本古代史の秘密」が何故に仕掛けられているのか、その理由の詮索から始めねばならない。日本古代史を渉猟する歴史家の使命は、ここに向かわねばならないと考える。

 しかしどうやら永遠の課題になりそうである。こう確認した上で、それでもなおれんだいこは「日本古代史の秘密」の解明に向かおうと思う。本稿を書いているのは2012.8.20日であるが、この段階で見えてきたものがある。以下、これを確認しておく。この解析も尋常の能力からは生まれない。まさにれんだいこの霊能知によるものと思えば良い。

 その1。正四書を右代表とする古代史書が前提にしている「天津神と国津神の抗争譚」なる構図そのものが眉唾であり、史実の真相を大きく歪めている。我々は、この記述、史観に騙されてきたのではないのか。真実は「来航族と在地族との抗争」だったのではないのか。この時の来航族とは何者で、どこからやって来たのかは未解明のままである。はっきりしているのは、来航族が九州の各地を紆余曲折しながら最終的に日向の高千穂の峰に「天孫降臨」し、以降次第に在地の国津族を懐柔し、頃合いを見て「東に美(う)まし国ありと聞く。我いざこれを討たん」と宣べてより瀬戸内航路で豊葦原の瑞穂の国の中ツ国の征服に向かったことである。世にこれを「神武天皇の東征」と呼ぶ。

 名称としての神武天皇は後述するように初代天皇没後の諡号(しごう)であるので、この時点では神武天皇ではない。そういう意味では「来航族の東征」とした方が正確であろう。れんだいこは、その「来航族の東征」が戦った相手が在地族連合国家として形成されていた出雲王朝系の流れを引く邪馬台国王権であったと考えている。攻略戦の概要は「記紀の神武天皇の東征譚」に記されている通りであろう。相当数の国津族が内訌し、靡かなかった国津族も相当数居り、最後はがちんこ勝負となり、それも決着がつかず最終的に「手打ち和睦」した経緯が記されている。「記紀の神武天皇の東征譚」は、れんだいこ史観による「原日本新日本論」によるところの新日本系の側からの「勝てば官軍記述」であり、これを敗れた原日本系から見れば面貌を一変するだろう。

 結果的に、第一の国譲りである「大国主の命の治める出雲王朝の国譲り」に続いて第二の国譲りと位置づけられる「卑弥呼の治める邪馬台国王朝(三輪王朝)の国譲り」となり、来航族のプリンスであったワケミケヌの命がカムヤマトイワレ彦命となり初代天皇として即位した。このカムヤマトイワレ彦命の崩御後の諡名(おくりな)がハツクニシラススメラミコト(始馭天下之天皇)である。神武天皇という呼称は、奈良時代後期の文人である淡海三船が歴代天皇の漢風諡号を一括撰進したときに付されたとされる。この神武天皇即位をもって大和王朝が始まる。

 れんだいこ史観によれば、この即位の時期は、邪馬台国が紀元3世紀頃の形成であるからしてそれより先と云うことはあり得ない。してみれば紀元3世紀を凡そ800年も遡る西暦の紀元前660年に当たる神武天皇即位記念としての「戦前の皇国史観式皇紀2600年祭」なぞはナンセンス神話と云うことになる。今日「建国記念の日」として継承され祝日にされているが、「建国記念の日」の設定は良いとしても、それが「戦前の皇国史観式皇紀2600年祭」的な歴史読み取りによるものであってはいい加減過ぎようと思う。

 もとへ。「日本古代史の秘密」は、この時より始まる。即ち、神武天皇側は来航的史実をそのままに記せば良いところを、自らを来航族とせず、敢えて在地族が最高神として崇める天照大御神の皇統を継ぐ聖なる天津神であるとし、他方で在地族を邪なる国津神として位置づけ、その抗争譚に書き換えている。この詐術が日本古代史を難解なものにしているのではなかろうか。

 本来、正四書が説いているような高天原王朝譚、その系譜上の最高神である天照大御神は国津族と対立するようなものではなかった。むしろ国津族政体として形成されていた出雲王朝-邪馬台国連合政体の憧憬が天照大御神信仰であって天照大御神は元々は国津族系の最高神であった。ところが現存する日本古代史書の殆どが、それを敢えて対立させる構図で編纂されている。ここに卑大なる歴史詐術があると看做すべきではなかろうか。見えてくるのは外航族の国津族慰撫法としての合わせ技的頭脳である。これが為に非常にややこしい真相が見えにくい日本古代譚になっているのではなかろうか。こう確認し読み直しすべきではなかろうか。以上を「日本古代史をどう紐解くべきかその2の1」とする。

 れんだいこのカンテラ時評№1207  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 1月20日
 日本古代史をどう紐解くべきかその1

 「れんだいこの天皇制見解」を発表した。これに関連する、もう一つ気になっている「日本古代史をどう紐解くべきか考」に向かってみたい。こういう哲学的な問いかけは珍しかろう。しかし、ここに日本古代史の特殊性があり、この問いがなければ日本古代史は解けない。なぜなら、日本古代史が驚くべき高度な詐術で書き換えられているからである。且つ書き換えられた記述に於いて書きかえられる前の正史を垣間見させていると云う驚くべき高度な筆法で書かれていることに気づかされる。してみれば、このことに気づき、書きかえられる前の正史を復元し正しく理解することが日本古代史学の歴史課題であると言って良かろう。尤も学問的にはと云う意味である。政治的には歴史の真実を復元する手間を要せず、今日の在り姿で学び、分かる者には分かると云う手法の方が賢いのかも知れない。そういう高度な複雑さがある。これを前置きとする。

 さて、日本史を通覧するにつき、いわゆる奈良時代以降については史実的に検証可能である。問題は、それ以前の日本古代史である。これを記しているものとして古事記、日本書紀、風土記が代表的なものであるが、これに万葉集も含め仮に「正四書」と命名しておく。普通は古事記、日本書紀のみを取り上げ「記紀」と云う。れんだいこ史観は風土記、万葉集の役割を高く評価しているので「正四書」と位置づけたい。意外なことに「正四書」は思われている以上にほぼ同時期に編纂されており相補関係にある。それぞれの編纂時期については「古事記編纂考」、「日本書紀編纂考」、「風土記編纂考」、「万葉集考」で確認している。

 日本上古代史、日本古代史は「正四書」で神話的に確認できるが、全体としては厚いヴェールに包まれているとみなす必要がある。なぜなら、「正四書」を比較対照すれば判明するが、それぞれが編者の立場を反映して別の物語りになっているからである。つまり、古代史上の史実を意図的故意に自派に都合のよいように牽強付会式に書き換えている形跡が認められる。つまり政治的思惑によりかなりご都合主義的記述になっている。且つ、現在に伝えられている記述が初版の記述と違う可能性があると云うことに於いても難解さを増している。原田常治著「古代日本正史―記紀以前の資料による」は、「古事記の50%、日本書紀の80%が改竄されている」と指摘している。ここに「正四書」研究の厄介さがあると云えよう。

 こう見立てない「正四書考」は、それぞれを幾ら精緻に読解したとしても結局は古代史の解明にはならないと弁えるべきだろう。いわゆる「古史古伝」を加えても事態は変わらない。「古史古伝」が「正四書」よりも正鵠かというと、部分的にはそういう面もあるが全体的にはやはり古代史の解明にはなり得ていない、依然として何か奥歯にものが挟まっている感のある記述となっている。そう弁えるべきであろう。

 興味深いことは、「正四書」、「古史古伝」とは別に先行する幾つかの史書が存在していたと推定できることである。これを仮に「本来の古代史書X群」と命名すると、それらが散逸ないしは消滅せしめられている。「本来の古代史書X群」を下敷きに政治主義的に編纂した上で残存しているのが「正四書」、「古史古伝」だと考えるべきだと思う。ここに隔靴掻痒が生まれる所以がある。しかも、「正四書」に限定してみても、どちらが先行していたのかは実は定かではない。通説は、古事記、日本書紀、風土記、万葉集の順で作成されたと理解する。しかし、後代順に輔弼訂正しているのではなく、共通して下敷きにした先行史書があって、それを古事記風に日本書紀風に風土記風に万葉集風に纏めているに過ぎないとも看做せる。且つそれぞれがそれぞれの記述に意地を張っている形跡が認められる。

 そういう癖が認められる古代史書の学問的な比較検証がどの程度為されているのか分からないが、さほど進んでいないのではなかろうか。古代史史書は「正四書」(古事記、日本書紀、風土記、万葉集)以外にも古史古伝、その他史書、家伝が存在する。以下、特に古史古伝問題との絡みから言及してみたい。

 古史古伝が「正四書」よりも前に存在していたのか、「正四書」後に登場したのか、或いはずっと後年に編纂されたものであるのか、ここではそれは問わない。確認すべきは、「正四書」以外にも上古代史書として古史古伝凡そ十数典余が現に存在すると云うことである。この古史古伝を廻るこれまでの学的態度は、その記述の一部に認められる荒唐無稽さに注目して一刀両断の偽書扱いで排除されて来た。この排除型の論法は記紀を廻っても存在し、記紀のどちらの記述が真なるやを廻り喧騒されている。我々はそろそろそういうレベルから卒業しても良いのではなかろうか。むしろ、それぞれの史書の置かれている政治的立場を推理して、その差による記述及び構図の違いとして、それぞれの史書の政治的役割を窺う研究に向かっても良いのではなかろうか。こういう研究こそが必要な営為なのではなかろうか。この謂いは世の偽書説派を撃つ論となっている。

 れんだいこが、こういう観点を閃かせたのは、2011.3.11の福島原発事故に伴う複数の調査報告書によってである。調査報告書は最低でも、1・民間、2・国会、3・政府、4・各省庁(経産省、厚労省、文科省)、5・東電の各委員会のものが認められる。自治体のもの等々を加えると数十典に上るであろう。これについては「福島原発事故調査報告書考」で確認する。興味深いことに、福島原発事故と云う同一の題材を対象にしてさえ調査報告委員会の置かれた政治的な立場により報告書の内容に差異が認められることである。同じ対象を廻ってかくも調査報告内容が違うと云うことである。

 これを見て、「古代史書間の相関」に思いを馳せた。歴史は繰り返すと云う意味であながち的外れではなかろうと思っている。古史古伝と正四書とその他史書も又、編集者の置かれた政治的な立場により記述と構図が異なっていると云う可能性があるのではないかと。してみれば、古史古伝と正四書、その他史書の研究は、各記述の精査を為した後にはそれぞれの史書の政治的意図を読み取らねばならないのではなかろうか。

 こう向かうのが学的態度であるべきところ、学的権威者が、その権威肩書で古史古伝を偽書と決めつけ、検証に入る前に玄関で門前払い食わせると云うチンケな態度をひけらかし、その他大勢の学者がこれに追従すると云う学問の世界でありながら非学問的態度が通用している。オカシなことではなかろうか。これは学問態度の質に関わる問題である。よしんば古史古伝を却下するにせよ、微に入り細に入り記述の検証をして後のことであろう。理解不能な荒唐無稽なところはひとまず措いて、なるほどと思われるところは汲み取るべきではなかろうか。

 このことは世に実書説、偽書説の飛び交う現場に共通して言えることである。残念なことに、高名な学者が登場し、れんだいこから見て実書であるものを偽書呼ばわりし、偽書とおぼしきものを逆に実書として喧伝すると云う転倒した論陣を張り、それが通用すると云うイカガワシイ学的態度が横行している。この態度が何に由来するのかを探ることも興味深いが、ここでは問わない。ここで問うのは、「古史古伝と正四書とその他史書との相関」である。古史古伝は正四書、その他史書と切り離して論評されるべきではなく、互いの記述、その構図との比較対照の中で論ぜられるべきである。これが古史古伝研究の学的態度となるべきである。こう構えると研究が殆ど緒に就いたばかりと云うお粗末な段階にあることが分かる。以上を「日本古代史をどう紐解くべきかその1」とする。

 れんだいこのカンテラ時評№1206  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 1月11日
 れんだいこの天皇制論その4、天皇制同居論

 以上、シリーズで天皇制の善政特質について確認してきた。天皇制が理念通りに機能してきたかは別である。だがしかし天皇制の中に善政理念が内在しているのは確かである。且つ家系的にはともかくも制度的にかくも連綿と列なって万世を経て存続して来ているのも事実である。即ち万世一系が、この理念的天皇制と云う意味では成立していると看做したい。ここまで続いている例は世界にないのではなかろうか。

 こうなるとこれはれっきとした世界に冠たる文化遺産であろう。これを廃止せよ論、打倒せよ論、消滅期待論等は、文化遺産的に捉えるならば日本のもう一つの象徴たる富士山を削り取ってなくせと云う論と同じである。富士山は単独で巨峰を為し、山頂から山裾まで美姿であるところに特徴がある。古来より富士を霊山とみなして崇める信仰が続いている。そういう富士をなくせ論の生まれる余地はない。日本の最高霊峰富士になぞらえられるのが天皇制であり、同様に天皇制不要論なぞあって良い訳がなかろう。れんだいこはかく考える。

 天皇制とは日本の政治の古来よりの型であり、これをなくせよ論に向かうより、本来の天皇制の姿に於いて存続を願う方が賢明ではないかと思っている。戦後の象徴天皇制は伝統的な天皇制に近いもので、その国事行為、行事の数を減らし、もっと大らかに文化的精神的な皇室活動をもって寄与する方が理に適っているように思われる。昭和天皇は象徴天皇制の裏で何かと政治的に立ち働いていたことが判明しつつあるが、平成天皇は文字通りの意味で象徴天皇制に沿い古来よりの理念的天皇制の法灯を継いでいるように見える。そういう意味で、れんだいこ的には平成天皇下の天皇制に異存はない。美智子妃殿下となると現代の天照大神であり卑弥呼ではないかとさえ思っている。

 もとへ。天皇制廃止論の正体は黒船来航以降のものではなかろうか。もっとはっきり云えば国際ユダ屋の日本侵略と共に始まり忍び寄っている気がする。手を替え品を替えいろんな反天皇制論が登場しているが、それらは皆な天皇制の特質を理解せぬまま君主制一般と同視して、その打倒論の系譜で立ち現れている言である。国際ユダ屋の暗躍するところ決まって必ず時の君主制が打倒されている。それが日本にも押し寄せていると看做せばよい。その結果、君主制時代よりも良好な社会が生まれるのならともかくも「かの御代の方がまだしもマシだった」ような戦争、増税、国債に苦しめられる歯止めのない貧富格差社会へと誘わることを警戒せねばならない。元の君主の座へ国際ユダ屋の司令塔が鎮座し、ハゲタカが指揮棒を振り、その雇われが御用聞きに立ち回るお粗末な世の中にされるが見えている。

 戦前日本の場合、近代的天皇制が日本帝国主義の理念的精神的主柱として機能させられていたことにより、諸悪の根源に天皇制を認めるコミンテルン指令「天皇制廃止を専一にめざす天皇制打倒論」の生まれる余地はあった。しかしそれはとても危ういものである。国際ユダ屋の暗躍を知らない戦前の共産党員が、西欧的な帝制打倒論そのままに天皇制打倒論を生硬に振り回せば振り回すほど左派的であると思い込まされ、本稿で述べたような理念的天皇制に関する分析をしないまま、その知らぬ弱みで思想検事との問答戦に挑んだところ、雁首並べて理論的な敗北を余儀なくされている。これが大量転向の伏線になっている。日本左派運動は今に至るまでこの負の遺産を切開していない。れんだいこなら、近代的天皇制が伝統的な天皇制とは別のものであり、却って天皇制そのものに対する信頼を毀損するものでしかないとして立ち向かうところだ。これに対して思想検事がどう応答しただろうかと興味が湧く。

 戦前の近代的天皇制下の好戦主義は大東亜戦争まで定向進化し敗戦となったが、この戦史の理論的総括も日本人の手では為されていない。「天皇戦犯論」も然りである。しかし思うに、それを近代的天皇制の宿アとして指弾するのならともかくも天皇制解体まで広げるべきだろうか。この仕切りさえない暴論が罷り通っているように見える。戦後憲法で天皇の地位は象徴天皇制となったが、それでも天皇制廃止に拘る根拠があるのだろうか。こう問いたい。

 日本の場合、むしろ日本政治の伝統的型としての天皇制との共和的同居の方が何かと賢明なのではなかろうか。今日の如く絶対主義的な「御言宣り」ではなく相対主義的な「御言宣り」を味わう方が天皇制にとっても幸運で似合いなのではなかろうか。直近のところで、時の政治権力が原発再稼動を云い、引き続き原発を重要電源にすると声明しているが、平成天皇は事故より一貫して被災地と被災民を憂い、日本が賢明に対処するよう「御言宣り」している。れんだいこは安堵する。これを思えば、天皇制の果たす役割はそれなりにあるのではなかろうかと思う。

 昨年末の園遊会で、山本太郎参議院議員が天皇に直接、原発事故や被爆労働者について書いた手紙を渡すと云う事件が発生した。左右両翼から批判轟々となったが、れんだいこ見解は少し違う。こういうことが頻発すると好ましくなく、不測の事態に繋がりかねないと云う意味では賛意しかねるが、山本議員の天皇に対する直訴は、平成天皇を伝統的な「命」天皇と看做して「民の心」を訴えたと云う意味で本来の天皇制の理念に沿っている面があるやに見受けている。本来なら、天皇は直訴文に目を通すことこそ望まれている。しかし実際には直訴文は側近の手に渡されたようで、山本議員のパフォーマンスのみが取り沙汰されることになった。仮に、れんだいこがそういう場に参列したとして同様の行為をしようとは思わないが、天皇と民との本来の近親関係に於いては「あり得て良い技」だったと解している。山本議員の天皇観こそ伝統的な天皇観に適っていると思っている。

 本稿を結ぶにあたって孝明天皇の次の御製を記しておく。

「朝夕に 民やすかれと思ふ身の 心にかかる異国(とつくに)の船」(安政元年)
「澄ましえぬ 水に我が身は沈むとも 濁しはせじな よろづ国民(くにたみ)」(詠年不祥)
「この春は 花鶯(うぐいす)も捨てにけり わがなす業(わざ)ぞ 国民のこと」(詠年不祥)
「うば玉の 冬の夜すがら 起きて思い伏して思う 国民のこと」(詠年不祥)
「我が命あらん限りは祈らめや 遂には神のしるしをも見む」(詠年不祥)

 れんだいこのカンテラ時評№1205  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 1月11日
 れんだいこの天皇制論その3、大国主の命期の出雲王朝のご政道、政治思想考

 ここで「大国主の命期の出雲王朝のご政道考」をしておく。これらは、現下の日本政治には窺えないが、日本政治精神として色濃く継承されてきたものであることを確認する為である。本来の天皇制の在り姿を垣間見ることができよう。天皇制論の際に弁えておかねばならないことだと思っている。

 「大国主の命期の出雲王朝のご政道」が、今日から見て古神道に導かれていたのは間違いない。それでは古神道とはどのような宗教精神なのだろうか。これについては先に「れんだいこの日本神道論」を発表しているが、云い足りなかったところを補足しておく。れんだいこはかく判じたい。

 古神道を理詰めで説けば要するに「天地人の理」を解き明かし、これに即応させる修法であると云えるのではなかろうか。「天地人の理」とは、「天の理」、「地の理」、「人の理」のそれぞれを解き明かし、その上でそれらを三位一体的に捉えて「天地人総合の理」として捉え直し、これを見究め処断していく作法を云うのではあるまいか。これは相当に精神性の高い修法であり、これを極めた者が霊能者として命(ミコト)になり、その命が「御言」を宣べる者であり、その「御言」を宣べる者の総帥がスメラミコトとなり、そのスメラミコトの頂点に立つのが天照大神であったと思われる。これを修法するのが古神道であり、この古神道の御教えに導かれて紡ぎだされた政治的なものが本来の「ご政道」である。その他が何々道であり、これに伴う礼儀作法である。こう捉えたい。

 「天地人の理」を認識論とすれば「御魂の理論」をも生み出して補完していた。これがいわば実践論となる。「御魂の理」とは、魂を和魂(にぎみたま)、幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)、荒魂(あらみたま)の四魂に分け、それぞれの魂の働きを願い奉る信仰を云う。出雲王朝御代は、この四魂を魂の四態原理として組み合わせ、情況に応じて発動させ、これに則った政治を執り行っていたと拝したい。これが日本学的な戦略戦術論の原型とも云えよう。

 和魂は徳を表わし平和の和に繋がり政治では徳治主義となる。

 幸魂は幸を表わし幸運の幸に繋がり政治では殖産興業となる。

 奇魂は奇を表わし奇妙の奇に繋がり政治では霊能政治となる。

 荒魂は武を表わし武闘の武に繋がり政治では武断政治となる。

 この御代の思想を確認しておく。古神道思想が大地を地球として認識していたかどうかは定かではないが、動態的な生命体としてみなしていたことは確かなように思われる。その地球が他の天体と大いなる調和でもって宇宙を形成していると把握していたことは確かなように思われる。ここから翻って大地に精霊を認め(地霊)、天と交合し様々な気象を生むとしていた。その他自然の万物にも精霊が宿っており、その恵みとお陰を受けているとしていた。これを精霊信仰又は御霊思想と云う。

 食物連鎖を互いの生命の大いなる循環と捉え、この思想に沿う形で狩猟、採集、農耕を生み出していた。これより始まる士農工商社会を秩序化させていた。士農工商は対立するものではなく、分業的に互いに補完し合う関係として位置づけられていた。四季の変化を取り込み、生活をその折々に即応させていた。森羅万象を二項対立の様々な組み合わせ、あるいは三項の組み合わせで分類し理解していた。日月、水火、天地、男女等の差異も、対立関係のみならず相補関係に於いても捉えていた。総じて汎神論的アニミズムに基づく八百万の神々観を生み出していた。これを仮に「日本上古代思想」と命名することができよう。

 特徴的なことは、神人和楽且つ神人協働の哲理を持っていることであり、その哲理が非完結態の開放系構造であったことであろう。もう一つの特徴は、絶対の真理とか教条、戒律を持ち込まず、万事に於いて例外をも許容しながら臨機応変に処すことを良しとしているように思われる。その水準は世界一等的なもので、他のどのような思想宗教と接触しようとも、まずは受け入れ次にすり合わせし次第に咀嚼する芸風を見せた。これが上古代日本が生み出した土着的思想であり非常に高度なものと窺う必要があろう。政治思想を学ぶのに何も西欧のそれから説き起こすことはない。日本の自生的な思想を深く学び、その上で外来的なものとの摺り合わせこそが必要な営為であろう。

 この御代の処世法を確認しておく。出雲王朝下では「七福神(しちふくじん)譚」が説かれていたと思われる。七福神とは恵比寿、大黒天、毘沙門天、寿老人、福禄寿、弁財天、布袋の七神である。吉祥七福神譚が定式化するのは後のことであるが、出雲王朝下で原型が出来ていたと思われるのでここで採りあげておく。

 恵比寿神(えびすさま)は釣竿を持ち鯛を抱えてエビス顔と言われるような笑顔に特徴がある。主として商売の神様として信仰される。「笑う門には福来る」の御教え神となっている。

 大黒天(だいこくさま)は丸い頭巾を被り、右手に「満願成就の打ち出の小槌」を持ち、左手で大きな袋を背中にかけ、二俵の米俵の上に乗っているところに特徴がある。主として豊作の神様として信仰される。

 毘沙門天(びしゃもんさま)は甲冑を着て、右手に槍(宝棒)、左手に宝珠をささげる厳しい顔をしたところに特徴がある。主として勇猛の神様として信仰される。

 弁財天(べんてんさま)は琵琶を弾く白肉色裸形という姿に特徴がある。七福神の中で唯一の女神で、主として学問、芸術の神様として信仰される。

 福禄寿(ふくろくじゅ)は長く大きい頭、背が低くてあごにひげをたくわえ、長寿のしるしの鶴と亀を従え、左手には如意宝珠、右手には杖を持っている姿に特徴がある。主として健康の神様として信仰される。

 寿老神(じゅろうじん)は白ひげをたらし杖を持ち、左手に鹿、右手に宝杖を持っている姿に特徴がある。主として長寿の神様として信仰される。

 布袋和尚(ほていさま)は半裸で杖をつき布の大きな袋を背負い、福々しく大きな耳、広い腹の姿に特徴がある。主として和合福徳を招く神様として信仰される。

 七福神の風体、小道具は、その理をそれぞれ象徴しており諭しがある。これを味わうべきだろう。これら七福神が共に宝船に乗っている。このことは七福神が互いに同居していること航海に出向いていることを意味している。即ち七福神思想でもって互いに仲良く助け合って世渡りして行くことを示唆しているように思われる。「出雲の七福神譚」は人々の生活上の諭しであり且つ出雲王朝御代の政治思想を間接的に説き聞かせていると拝したい。その宝船に書かれている回文(上から読んでも下から読んでも同じ音になる文章)には次の言葉が書かれている。 「なかきよの とをのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな」。(永き世の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良き哉)。

 これらの全体が「言霊信仰」を基底としていたように思われる。祝詞(のりと)はこれにより生みだされている。これについては別途論考する。れんだいこが感心するのは、大国主の命期の出雲王朝の「ご政道」、「思想」、「七福神(しちふくじん)譚」は味わえば味わうほど有益で奥が深く理に適っていることである。これを思えば、近現代史日本で学問として教えられているところの国際ユダ屋テキストの方が底が浅いように思われる。それは「天地人」を物としか看做さない血の通わない物象化学問であり、古神道の御教えとはマ反対のものになっている。古神道の御教えは生活に活きるが、国際ユダ屋テキストの学問は学んで却って阿呆にされるのではないかと思っている。戦後は、そういうろくでもないものばかり教えられているが、教えられなくなっている「大国主の命期の出雲王朝のご政道、思想」の方こそ学ぶべきであり、少なくとも両方学べば良かろうにと思う。

 れんだいこのカンテラ時評№1204  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 1月 9日
 れんだいこの天皇制論その2、「われわれが造れる国は理想通りに完成しているだろうか問答」

 日本の天皇制の善政特質を示すもう一つの逸話「われわれが造れる国は理想通りに完成しているだろうか問答」を確認しておく。これは出雲王朝の御代のオオナムヂ(後の大国主の命。以降、大国主の命と記す)とスクナヒコナの神(須久名彦那の命。以降、スクナヒコナと記す)の次のような掛け合い政談であるが、案外と知られておらず且つ知られるべき神話譚の一つであるように思われる。その前に大国主の命の御代の動きを確認しておく。

 出雲王朝のスサノウ政権から王権を委譲された大国主の命は近隣諸国との連合国家形成に勤しんだ。まずは直轄の出雲、伯耆、因幡の国を手治めに「越の八口」まで進んだ。越とは若狭、能登、越前、越中、越後、加賀、飛騨、信濃を指す。口とは国のことを云う。このことが次のように記されている。

「国の中に未だ成らざる所をば、オオナムチの神独(ひと)リ能(よ)く巡(めぐ)り造る」(日本書紀)。

 この過程の或る時、古事記では神皇産霊神(かみむすびのかみ)、日本書紀では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の御子と記されているスクナヒコナが現われ、以降、大国主の命とスクナヒコナが力を合わせて天下を創り治めた。このことが次のように記されている。

「二柱の神相並びて、この国を作り堅めたまいき」(古事記)
「オオナムチの神、スクナヒコナの神と力を合せ心を一にして、天下を経営り給う」(日本書紀)。

 この御代に於いて但馬、丹波、播磨へと支配圏を拡げた。続いて信濃、大和、紀伊をも傘下に収めた。更に尾張、駿河、関東、奥州の日高見国も連合させた。今日的には日本海域の出雲地方は裏日本となるが当時においては海上交通が基本であり、日本海はむしろ中国、朝鮮等の交易から見ても表街道筋であった。両命が共同して「葦原の中つ国」たる出雲を「母の国」とする連合国家を形成していった。その版図が日本列島津々浦々まで及び九州、四国、中国、畿内、北陸、東海、関東、東北の凡そ百余国に支配圏を及ぼしていたと考えられる。こうして大国主の命はまさに出雲風土記の記すところ「天の下造(つく)らしし大神」と崇め奉られるようになった。まさに大国主の命と称される通りの大国の主になった。これを仮に「大国主の命期の出雲王朝」と云う。

 この御代、大国主の命が政治、経済、農業、医療、文化のあらゆる面での神となり、全国の国津神の総元締みたいな存在となっていた。大国主の命は、日本のスサノウの命(素盞鳴命)やギリシア神話の英雄のような怪物退治といった派手なことはやっていないが、スクナヒコナの神とコンビを組んで全国をめぐって「鉄と稲」による農耕革命を推進し国土改造に着手している。この産業革命により採集経済に加えて農耕経済をも生み出し、世は縄文時代から弥生時代へと進んでいる。

両命は温泉湯治療法にも長けていたことで知られる。日本各地の温泉に関する神社には大国主命と少彦名命の二神を柱として祭祀しているところが幾つかあり逸話が残されている。大分の別府温泉、愛媛松山の道後温泉、出雲の玉造温泉、美作の奥津温泉、兵庫播磨の有馬温泉等が代表的なものである。他にも薬草医薬をも生み出している。これは漢方に比する和方と呼ばれている。総じて住みよい日本の国土を築く為の諸施策が講じられており、いつしか「山紫水明の豊葦原の瑞穂国」と呼ばれるようになっていた。スクナヒコナの神は医薬の始祖と云われており、日本書紀に次のように記されている。

「顕しき蒼生及び畜産の為に即ちその病を療むる方を定む。又鳥けだもの虫の災異を攘わん為には即ち呪(まじな)いの法を定む。これを以て生きとし生けるなべてのもの恩頼を蒙れり」(日本書紀)。

 これにより神田明神では一の宮として大国主の命、ニの宮としてスクナヒコナを御祀りしている。出雲系神社では両命を併せ祀る神社が多い。万葉集の代表的な歌人である柿本人麿呂は次のように詠っている。

「オホナムチ スクナヒコナの作らしし 妹背の山は 見らくしよしも」(万葉集)。

 この御代、出雲王朝連合諸国の八百万(やおよろず)の神々が、年に一度の毎年10月に出雲に集まり今日で云う国会のようなものを開き、政治全般の打ち合わせと取り決めを行っていた。寄り合い評定式の合議制による集団指導体制を敷いていたことが分かる。その間各地の神は不在となるので他国では神無(かんな)月、出雲では神在(かみあり)月と云う。これにより出雲は「神謀(はか)る地」と言い伝えられている。

 この合議政治は出雲王朝の平和的体質を物語っているように思われる。恐らく、その年の五穀豊饒を感謝し、独特の神事を執り行いながら政治的案件を合議裁決していたのではないかと思われる。これが日本のその後の政治の質となり伝統的に継承されていくことになった面があると思われる。出雲の地での神在(かみあり)月政治後、盛大な宴会や祭りとなり、その席でお国自慢的なお披露目が行われ、これが今日の様々な芸能へと繋がっているように思われる。その神事が今日に伝わっている。

 出雲王朝の政体は、後の大和王朝の如くな支配被支配構造の統一国家と違い、支配権力を振るうよりは徳治的な政治を特質とする合議的且つ共栄圏的なものであり、武威に訴えることは極めて稀で、多くが政略結婚絡みの平和的なものであった。出雲王朝政治は祭政一致であり、今日に於いては大和王朝御代来の神道と区別する為に古神道と云われるものを通して諸事を処理していた。その盟主的地位を保持していたのが出雲であり、こうして出雲が日本古代史の母なる原郷となった。記紀では「母の国」、「根の国」とも記すが、その謂れがこういうところにあると知るべきだろう。

 さて、いよいよ云いたいところに辿り着いた。或る時、大国主の命はスクナヒコナの神と次のような遣り取りをしている。

 大国主の命 「われわれが造れる国は理想通りに完成しているだろうか」。
 スクナヒコナの神 「美事に完成したところもあるが、またそうでないところもある」

 この掛け合いを通じて出雲王朝御代の善政ぶりを知るべきではなかろうか。出雲王朝御代の善政ぶりについては別稿で論じようと思うが、ここでは、この「われわれが造れる国は理想通りに完成しているだろうか問答」を味わうべきだと心得たい。世界広しと云えど、政治の最高指導者が、かくなる善政を敷いていた例は珍しいのではなかろうか。これを後々「ご政道」と呼ぶようになる。

 大国主の命の「ご政道」ぶりは国譲り譚のところでも明らかにされているので、これを確認しておく。国譲りの際、大国主の命は、軍事的威圧によって政治支配権を得ようとする渡来系新勢力に対して次のように述べている。(記紀、風土記、その他史書の原文の方が改竄されている節が認められるので、れんだいこ訳で通訳しておくことにする)

 「私達はこれまで平和な共同体を築いて参り豊かな国に仕上げつつあります。この途上での国譲りを談判されていますが、戦争が続くことにより国土が疲弊し、民が困窮し、歴史の後々に恨みを残す国になってしまうことを憂います。かくなる上はお望み通りに豊葦原瑞穂国を差し上げませう。但し、私どもが営々と築き上げてきた国造りの理念を引き継いでください。これが国譲りの条件です。もう一つ、私どもは政治の世界から身を引きますが祭祀の世界ではこれまで通りに活動できるよう約束してください。これさえ保障されるなら、先ほど述べた理由により私どもが顕界から身を引き幽界に隠居することを約束します。もう一つ、我が王朝の有能な御子たちを登用してください。彼らが先頭にたってお仕えすれば皆がこれに倣い背く神など出ますまい。あなた方の政権が安定することになるでせう」。

 これによれば、大国主の命は、国譲りの際にも「ご政道」を説き明かし、渡来系新勢力に継承を要望していることになる。これが、後の大和王朝にも受け継がれ、今日に至るまで為政者の襟を正しめる役割を果たしていると窺うのは窺い過ぎだろうか。れんだいこは、日本政治の根底に潜む心得として窺うべきだと考える。この「ご政道精神」が失われ過ぎている現下の日本だけれども。この精神は、何が「ご政道」であるかが次第に分からなくなりつつあったけれども幕末期までには確かに存在していたのではなかろうか。

 れんだいこのカンテラ時評№1203  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 1月 7日
 れんだいこの天皇制論その1、「民のかまど論」

 「2014たすけあい党新年声明」で大胆な天皇制論を発表した。今のところ何の反応もないが、独りれんだいこにはブリがついたので、「れんだいこの天皇制論その1、民のかまど論」をも世に問うておく。「民のかまど論」は普通には仁徳天皇の善政譚として知られているものである。れんだいこの「民のかまど論」は少し違う。これを説明する前に「仁徳天皇の善政譚としての民のかまど論」を確認しておく。


 「第16代の仁徳天皇は、難波の高津宮で天下を治めた。秦人の力を借りて堤防を作り、池を作り、運河を堀り、港を設ける等、内治に精励した。仁徳天皇4年のある時、天皇は高山に登り四方の国土を眺めた。民が食事の際に立てる炊煙が全く見えなかった。これを悲しみ、『民のかまどより煙がたちのぼらないのは貧しくて炊くものがないからではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう』と仰せられ、『向こう三年、税を免ず』と詔(みことのり)された。これにより民に課せられていた税と夫役が免除された。

 それからというものは天皇は衣を新調されず、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理もせず、器で雨漏りを受け雨漏りのしない場所に移るなどして生活された。星の光が破れた隙間から見えるという有り様にも堪え忍ばれた。この間、民は豊かになった。三年立ったある日、天皇が高台に出られて国内を見渡すと、いたるところに炊煙が立っていた。天皇は、かたわらの皇后に申された。『朕はすでに富んだ。嬉ばしいことだ』。『変なことを仰言いますね。宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだといえるのですか』。『よく聞けよ。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから朕も富んだことになるのだ』。天皇はニッコリとこう申された。

 その頃、諸国より次のような申し出が相次いだ。『宮殿は破れているのに民は富み、道にものを置き忘れても拾っていく者もありません。もしこの時に税を献じ宮殿を修理させていただかないと、かえって天罰を蒙ります』。天皇はそれでも引き続き三年間、税を献ずることをお聞き届けになられなかった。六年の歳月が過ぎ、『もう税と夫役を課してもよかろう』と詔された。その時の民の有り様を日本書紀は次のように生き生きと伝えている。『民、うながされずして材を運び、簣(こ)を負い、日夜をいとわず力を尽くして争いを作る。いまだ幾ばくを経ずして宮殿ことごとく成りぬ。故に今に聖帝(ひじりのみかど)と称し奉る。みかど崩御ののちは、和泉国の百舌鳥野のみささぎに葬し奉る』。その御世を讃えて、聖(ひじり)の帝(みかど)の御世と呼んだ。仁徳天皇の治世は仁政として知られ、『仁徳』の漢風諡(し)号はこれに由来する」。

 この逸話を「民のかまど譚」と云う。ここまでは普通に知られている。れんだいこは、ここから更に次のように話しを進める。

 この逸話の重要性は、これが仁徳天皇の御代のものではあるが、この精神が歴代の天皇の治世を規範せしめていたことにある。よしんば、「民のかまど譚」とほど遠い履歴を見せる天皇が現われたとしても、「民のかまど譚」をもって諌めると云う意味で、やはり歴代の天皇を規制していたと云わざるを得ない。これが日本的天皇制論の骨格の一つである。それは、日本の天皇制が本質的に善政のものであり、他の諸国家の王制と比して一味違うものとなっていることを示唆している。

 これだけの主張では「民のかまど譚」の凄みが半分でしかない。「民のかまど譚」の本当の凄みは、仁徳天皇により発したとされているこの歴代天皇の治世精神が実は仁徳天皇に発したのではなく、仁徳天皇も又それ以前からの歴代天皇の治世精神であったものに従ったに過ぎず、それほど古くから日本の統治者の治世を規範化する精神であったことにある。

 ならば、それはいつ頃からのものかと問えば、ここで、れんだいこ史観の一つである「原日本新日本論」が教えてくれる。それによれば、この善政は、日本に統治者が現われた頃の始発からのものであると云わざるを得ない。日本の統治者がそもそもに於いてよりそれほどの善政志向であったと云うのは戯画的のように思える。そんなに立派な支配者が世界中のどこに居るやとの反論が聞こえる。れんだいこは、日本の政治の始発はこれより始まったと真顔で答える。そう思わない者とは水掛け論になるだろうがマジにそう考えている。

 れんだいこのそういう見立てを補強するのに古史古伝の一書である「ホツマ伝え」がある。ここでは「ホツマ伝え論」そのものを控えるが、要するに大和王朝前の時代の政体を描写した日本上古代史書の一つであり実書の確率が高い。それが証拠に記紀のように万葉仮名ではなく、漢字渡来前の日本言語の一つであったと思われる独特の神代図象文字である「ホツマ文字」(「オシテ文字」とも云われる)で書かれている。しかも和歌調であり日本語の由来とも合致している。その「ホツマ伝え」の「全40章1万行、12万文字」に於いて、為政者の心得が懇々と諭されており、最高為政者として天照大御神の在り姿が説喩的に書かれている。それによると、天照大御神の治世の在り方として「民のかまど譚」は当たり前のことに過ぎない。

 こう云えば、「ホツマ伝え」の偽書論をぶつ者が出てくるだろうが事態は何ら変わらない。問われているのは、「ホツマ伝え」が偽書だろうが実書であろうが、そういうことに構わず、上古代日本政治に於いて「ホツマ伝え」が記しているような「天照大御神の在り姿論」が機能していたのかどうかであり、その議論をこそせねばならないと云うことである。

 れんだいこは、大和王朝前の御代に於いて、そのような統治論が機能していたと見立てている。大和王朝前の直近の邪馬台国時代、その前の出雲王朝時代まではそのような善政が敷かれていたと見立てている。大和王朝時代における天皇制は、それ以前の出雲王朝-邪馬台国御代の大王(おおきみ)制の善政精神を半ば継承し、半ばはこれを軽視し、ありきたりの権力王朝化したと見立てている。これが日本天皇制の本質となっていると見立てている。

 こう考えれば、「民のかまど譚」が絵空事でない悠久の歴史を持つ治世者精神であると云うことになる。こういう精神を持ちながら悠久の歴史を刻んできた天皇制が、「民のかまど譚」を僅かにしか持たない他の諸国の王朝制と同じロジックで打倒を呼号して良いものだろうか、と云う点で戦前日本の左派運動が大いに悩んだ史実がある。実際には悩むより、この問題から逃げただけの史実しか遺しておらず躓(つまず)いたと云うべきだろうが。

 日本の天皇制論の前提として、この「民のかまど譚」を抜かす訳には行かない。付言しておけば、天皇制護持派が「民のかまど譚」の重要性を踏まえぬままに天皇制を賛美し、明治以来の近代天皇制の如くに好戦政策の為に天皇制を悪利用するなどと云うのは日本史上の歴史犯罪でしかない。日本左派運動が、「民のかまど譚」の重要性を踏まえぬままに天皇制打倒を云うのも同様の歴史犯罪である。これら両翼の政治論調に対して、れんだいこは「民のかまど譚」を錦の御旗にして「ちょっと待て」と抗したい。日本には日本の政治の型があり、国際ユダ屋テキストの口車に乗る必要はないと考える。これを、「れんだいこの天皇制論その1、民のかまど論」とする。これをいつか云いたかった。この論考は追々続けていくつもりである。何しろ問題が高度なのでいっぺんには言及、解析できない事情による。

 2013.4.2日、2014.1.7日再推敲 れんだいこ拝

 れんだいこのカンテラ時評№1202  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 1月 4日
 2014たすけあい党新年声明

 2014年、遅くなりましたが明けましておめでとうございます。恒例の「たすけあい党新年声明」をお届けいたします。これまでの党声明(「2007声明 」、「2008声明 」、「2009声明 」、「2010声明」、「2011声明 」、「2012声明 」、「2013声明」)は時々に的確な指針を打ち出しております。にも拘わらず現実の運動の血となり肉となっておりません。このことを痛苦に受け止め、本年声明は緊急肝要なことに絞って訴えます。単に相槌を打って貰うのではなく膝を叩いて合点して貰うことを念願しております。

 現下の政治不毛は政治理論の貧相に起因していると考えております。闘う側に闘いを導く有効な理論を廃れさせており、これが原因で運動が世代を継ぐものになっておらず積み木崩しになっていると見立てております。思い起こせばかってはマルクス主義と云う被抑圧者解放理論がありました。これに導かれ権力者側の政治を厳しく監視し弾劾する運動がありました。運動圏では、近未来に於ける革命が射程距離に入れられ喧々諤々の議論がされておりました。今となっては遠い昔の話しですが、その熱気が見事なまでに潰されております。マルクス主義に対する信奉が失われ、これに代わる理論もなく、闘う側の精神が空虚にされております。これに乗ずる形で反動政治が続いております。こう受け止める必要があります。

 たすけあい党は、この時代的要請に応じて生み出されているネット政党です。現代に有効な社会運動理論を生み出すべく営為しております。これをどう生み出すべきか愚考するに、マルクス主義の焼き直しでできるとは思いません。できるのなら既にできていないとオカシイからです。未だにできていないということはできないのだと考えております。ここではその理由に立ち入りません。もはや既成のマルクス主義からの転向を指針させております。但し、従来の投降型の転向論に向かおうとは思っておりません。マルクス主義が内包する社会的弱者救済理念のエッセンスを継承しつつ、その真意を実際に生かすために出藍を決意しております。その理由はマルクス主義が胚胎している狭隘理論性にあります。この克服をマルクス主義の側から為すことはほぼ絶望と判断し、元々に於いて共同戦線的な運動理論を獲得せねばならないと考えております。いっそのこと日本の在地土着的な共同体思想に着目し、それの欠けたるところをマルクス主義の諸理論で補強する方が賢明ではないかと認識し、そういう形での実践的に有効な新理論を創造せんとしております。これを出藍型の転向と考えております。

 たすけあい党総宰のれんだいこは、この間、この新転向論に基づき「戦後ハト派タカ派論」、続いて「原日本新日本論」、「国際ユダ屋論」を理論化致しました。これは、日本左派運動史の欠陥と閉塞の気づきからもたらされたものです。マルクス主義を認め、なおかつその限界を知り、そういう対話の中から生み出されたものです。これにより頭脳内のもやもやを解消し頭の中をスッキリさせることができました。この理論を深く味わい、今後の闘いの機軸に据えて貰いたいと考えております。これなしには闘いが上滑りしたり、闘っているつもりで実は結果的に反動政治と癒着するような皮肉な運動になってしまうと心得てください。これを単刀直入に要約して披瀝しておきます。

 その第一は「原日本新日本論」です。これによると、「日本を良き国」と見なす歴史観を持つことが必要となります。「良き国」とは「今ある日本」のことではありません。かって「善政時代の日本」が日本史上に存在したと見据え、これを擁護せんとしております。これを逆に説く理論がありますが有害です。学んで却って阿呆になる悪しき俗説です。この虚説に騙されてはなりません。我が党は、この「日本良き国論」を「原日本新日本論」で定式化させました。この画期的意味を理解せねばなりません。この理論は日本思想史上に輝く功績です。これは自画自賛する為に述べているのではありません。この見地に立たない限り理論が歪み、ひいては闘い方が歪み徒労なものに終わる故に強調して述べている訳です。ここでは「原日本新日本論」を詳しく述べません。関心のある方は「古代史学院」全体を探訪ください。特に「れんだいこの新邪馬台国論」、「れんだいこの日本神道論」、「れんだいこの日本神話考」辺りでご確認ください。まだ書き上げ途中ですが既に骨格はできております。

 「原日本新日本論」の成果から云えることは、日本の政治運動の振り子を「原日本御代の政治」に置かねばならないと云うことです。「原日本御代の政治」とは、「在りし日の出雲王朝-邪馬台国御代の政体」を言います。この時代の日本の政体は、かつて確実に存在した「良い国日本」なのです。この時代の善政を取り戻し、現代版に焼き直すのが日本政治運動の任務と心得るべきです。政治運動を担うのに何も西欧弁で小難しく語る必要はないのです。「幸せの青い鳥」を西欧に求め、西欧思想で説く必要はありません。政治の桃源郷は日本にあったのであり、それが「原日本御代の政治」なのです。この時代の社会こそが「日本版社会主義の古里」なのです。理想的な共同体理論の古里は日本なのです。この「日本版社会主義の古里」の原理原則を学び現代版に焼き直すことこそ必要なのです。これに反するものを疑惑し、これを解体せしめようとする動きと闘わねばなりません。

 「日本版社会主義」の原理原則の要点は、日本古神道の御教えに基づいております。その御教えとは、「森羅万象、一事万事に於ける理を見分け、そこから汲み出される助け合いと思いやりの絆を結ぶもの」であり、これを儀式的に練磨したものが日本古神道であり、その御教えにより織りなされる共同体が「山紫水明の豊葦原の瑞穂の国」と云われるものです。この御教えに基づく社会造りは、数次の国譲り政変を経て破れ、最終的に顕界の支配権を外来新参勢力である新日本派に譲り、原日本派は幽界に於いて権勢が認められるとする「手打ち」で生き延びることになりました。これにより、顕界と幽界が相和し且つ暗闘しながら、その後の日本精神を練り、これを新たな日本の伝統とさせ、これを今日まで護持して参っております。これを原日本派の側から云えば、半面ながら日本は日本古神道の御教えを守り続けている「良い国」なのです。ここを理解しない日本論は一知半解のものでしかありません。

 天皇制に触れておきますと、天皇が日本古神道の御教えに基づいて営為する限りにおいては存在そのもの、制度そのものが批判されるものではないのです。天皇制果実の国名としての日本、国歌としての君が代、国旗としての日の丸、国紋としての菊花弁は、「在りし日の出雲王朝-邪馬台国御代の政体」下で創造されたものです。いずれも統合的意識を醸成するものであり、それぞれに優れものです。そのどれもが日本古神道の御教えに基づいているものであり、根本にあるのは共和思想です。元々で云えばこれを近代天皇制下での好戦政策に利用するのは無理筋なものです。戦前の皇国史観はこの見地から弾劾されるべきです。日本意識、君が代、日の丸、菊花弁そのものを批判しても何の利益もありません。むしろ御教えを御教え通りに説く運動が必要で、捻じ曲げを許さない運動こそが望まれています。天皇は、この時代には「スメラミコト」と位置づけられており、「御言葉を統べる者」と云う意味であり、これ故に崇められる存在です。漢字表記ではスサノウの命、大国主の命と云うように「命」と表記されております。「スメラミコト」が「天皇」と表記されるのは大和王朝以降です。「命」の御代は、日本古神道の御教え通りの善政時代であり、「日本版社会主義の古里」です。天皇制は「命」御代も含めておりますので、これを一括して批判するなり打倒対象とするなりの理論は暴論なのです。

 明治維新以降の近代天皇制批判でもって、日本が歴代の国是としてきた天皇制までをも一括批判するのは粗論なのです。明治維新以降の近代天皇制批判は、日本が国是としてきた天皇制からの卑大な歪曲であったとする観点から為すべきです。興味深いことに、論証は省きますが、明治天皇と昭和天皇は日本古神道的に見て「命」的なスメラミコトではありません。むしろ大正天皇の方が「命」的です。平成天皇も「命」的です。ところが、世上の評価は明治天皇と昭和天皇を名君と評価し、崩御日が休日にされるなど栄誉が称えられております。これに比して、大正天皇は在任中に押し込められ、崩御して後も明治天皇と昭和天皇にはあてがわれている休日を待遇されておりません。あろうことか、本来は久方ぶりの名君であった大正天皇を不敬罪的に押し込めた連中が、昭和天皇の御代になるや不敬罪を乱発したのが歴史の実相です。笑止千万と云うべきです。明治以来の右翼が大正天皇に口を閉ざすのは滑稽なことです。同様に左翼が大正天皇を脳病天皇などと揶揄するのは無礼なことです。似非右翼と似非左翼が妙なところで見解を合わせているのを見て取ることができます。

 もとへ。今、「日本良き国論」、「豊葦原の瑞穂の国論」が如何に重要なかは、これが様々な角度から攻撃されていることにあります。一々述べればキリがありません。原発が最たる例です。原発は、「山紫水明の豊葦原の瑞穂の国」を潰す為の巧妙な軍事基地として仕掛けられていると思うべきです。このようなものを導入することは許されません。福島原発事故が発生し、その対応がままならぬ中での再稼動論、今後も主力電源とする論なぞもっての外と云うべきです。留意すべきは、この「豊葦原の瑞穂の国攻撃」がどうも意図的故意に策謀されている気配が認められることです。こういう攻撃が政治、経済、文化、精神の各領域に於いて仕掛けられております。ここに日本の危機があります。かく認識すべきです。

 では、誰がそのような悪し様のことを為しているのか。ここに「国際ユダ屋論」が登場します。これの論証は省きますが、要するに「日本版社会主義」の原理原則と真っ向から対立する悪魔主義の政体です。この連中が歴史を汚染し続けており、西欧五千年史はその格闘そのものです。近現代史は彼らが牛耳っており、故に生産力がかくも高まった時代に拘わらず戦争と貧困が消えません。悪魔主義政体の特徴は、権力者側が社会的富を不当に一方的に収奪するところにあります。この政治に侵されると、幾ら生産力を上げても一方で億万長者、他方で圧倒的多数の貧困層が形成される社会になります。日本は長らく顕界はともかくも幽界では日本古神道の御教えに基づいて「助け合いと思いやりの絆を持つ秩序」を形成して参りましたが、今この基盤が意図的故意の政治的に解体されようとしております。

 「国際ユダ屋政治」は、そういう社会を是としております。彼らは特異奇形のカルト集団であり、そのカルト教で世界を彼らの望むように改造しようとしております。日本古神道の御教え、「日本版社会主義」から見れば、僅か五十年そこそこの稼動人生でしかない身を、なぜそのような悪しき策動に精出すのか不思議ですが、彼らは人生を諸民族と共に楽しむのではなく、ひたすら支配するかされるのかを問い、支配する側に立とうとして悪事の限りを尽そうとします。その為の秘密結社、公認結社を何重にも張り巡らし、悪企み謀議をし続けております。この拝金拝権拝魔教は病的なものです。そういう連中が権力を握っているから世の中が歪むのです。これを現代社会の病理と捉えるべきです。

 日本政治は、この悪しき「国際ユダ屋」の配下の者たちに牛耳られています。この連中は、手前の立身出世の為には何でも御用聞きするという浅ましい根性の者たちです。「原日本新日本論」で云えば新日本系の者たちです。連中は元々に於いて日本を古里とする思想がありません。本質的に古里のことなぞどうでも良い連中です。手前の生活の現在の利益に適えばそれが全て、日本を憎しとする者たちです。こういう連中に「山紫水明の豊葦原の瑞穂の国」が毀損され続けております。これにより様々な政治の歪みが立ち現れています。本来、日本ほど自然に恵まれ、生産力が豊かな、富の分配も合理的な国はないのに、多くの者が食えない社会にさせられつつあります。政治が、人々が食える方向に努力するのではなく、一部の者が食え過ぎ他方の多くの者が食えない社会に向けて施策が講じられ続けております。この国際ユダ屋策謀に怒るべきです。目下TPP交渉が続けられておりますが、日本古神道の御教えからすれば世界中がシルクロード交易を目指すすべきところ、彼らにとってのみ有利な強盗ロード交易を押し付けようとしております。連中のやることは一事万事がそのようなものです。

 我々は、この観点から来るところの実践教程を生み出すべきです。日本はこれ以上舵取りを誤ると座して生贄にされるのを待つばかりの飼い殺しの檻に入れられてしまいます。このワナから抜け出す為の叡智が要請されております。たすけあい党はその一翼を担う決意を固めております。御意の士はたすけあい党に入党し、この旗の下で絆を結びませう。以上を「2014たすけあい党の新年声明」と致します。

       2014.1.1日 たすけあい党党首れんだいこ拝

 れんだいこのカンテラ時評№1201  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月28日
 ひらがなカタカナの神代文字由来説

 「れんだいこの平田篤胤史学論その5」で神代文字に言及した。以来、関心が続いており次の知見を得たので披瀝しておく。従来、ひらがなカタカナの由来を漢字の崩し文字に求めてきた。それによれば次のように説明されている。

 ひらがなの由来。安→あ、以→い、 宇→う、衣→え、於→お、 加→か、幾→き、久→く、計→け、己→こ、 左→さ、之→し、寸→す、世→せ、曽→そ、太→た、知→ち、川→つ、天→て、止→と、奈→な、仁→に、奴→ぬ、祢→ね、乃→の、波→は、比→ひ、不→ふ、部→へ、保→ほ、末→ま、美→み、武→む、女→め、毛→も、也→や、由→ゆ、与→よ、良→ら、利→り、留→る、礼→れ 、呂→ろ、和→わ、為→ゐ(い)、恵→ゑ(え)、遠→を、无→ん。

 カタカナの由来。阿→ア(阿の左側部分)、伊→イ(伊の左側部分)、宇→ウ(宇の上の部分)、江→エ(江の右側部分)、於→オ(於の左側部分)、加→カ(加の左側部分)、幾→キ、久→ク(久の左側部分)、介→ケ、己→ コ(己の上の部分)、散→サ(散の左上部分)、之→シ、須→ス(須の右側部分)、世→セ、曽→ソ(曽の上の部分)、多→タ(多の上の部分)、千→チ、川→ツ、天→テ、止→ト(止の右上部分)、奈→ナ(奈の左上部分)、二→ニ 、奴→ヌ(奴の右側部分)、祢→ネ(祢の左側部分)、乃→ノ(乃の左側部分)、八→ハ、比→ヒ(比の右側部分)、不→フ(不の左上部分)、部→ヘ(部の右側部分)、保→ホ(保の右下部分)、万→マ、三→ミ 、牟→ム(牟の上の部分)、女→メ(女の下の部分)、毛→モ、也→ヤ、由→ユ(由の右側部分)、与→ヨ 、良→ラ(良の右上部分)、利→リ(利の右側部分)、流→ル(流の右下部分)、礼→レ(礼の右側部分)、呂→ロ(呂の上の部分)、和→ワ(和の右上部分)、乎→ヲ、尓→ン。

 この説明はなるほどと思える。しかし事はそう簡単ではない、必ずしもそうではないのではなかろうか。漢字崩し由来もあろうが、神代文字崩し由来もあり得るのではなかろうか。これについて「ひらがな考」で検証している。即ち、ひらがなカタカナの由来は漢字のみならず神代文字の線からも窺うべきではなかろうかと云うことになる。これも「れんだいこの気づき」の一つとして加えておく。

 これを実証する為には神代文字の同一規格に基づくフォント化により対照させてみる必要がある。今はこれができていないので前に進まない。技術的にこれを為し得る者にして、れんだいこのこの指摘に膝を叩いてくれる者にして、著作権など云わぬ者が、これを為して公開してくれることを願う。

 この問題が何ゆえ重要なのか。それは、古代はインド、中国文明の恵沢を、近現代は西欧文明の恵沢を受けているとして、それだけならまだしも、それ故にそれ以前の日本にはまともな知見なぞなかったかのように悪乗りして説く歴史観が学説化しているからである。そんなことはない、日本語の言語史を見れば明らかなように、我らの父母祖は、古代に於ける中国文明を受容するに当り、自生的な日本文明をもって摂取咀嚼している。

 これに比せば、近現代日本は、西欧文明受容に当り父母祖のような能力を発揮しないままに今日まで経過しているように思われる。それは、インド、中国文明に対しては親和できたが、西欧文明とは親和できにくいことを証している。これも精緻に見れば、西欧文明のうちの西欧各国の在地的なものとは親和でき、国際ユダ屋ワールド的なものとは親和できにくく、むしろ親和できないまま押し付けられ強制的に受容させられつつあることが分かる。

 そういう見立てなしに西欧文明を丸ごと是として、日本文明を排斥し、そういう態度をもって先進国文明国一等国云々する者を外国被れと云う。この外国被れがことさらに愛国愛民族ぶり、首相となるや靖国神社公式参詣を演出する。靖国神社に祀られている英霊は怒髪天であろうが、事務局側は時の権力と親和するのを常としており首相公式参拝を誉れにしているようである。これはお笑いであり、つまり首相の靖国神社公式参拝はお笑い仲間の合作行事と云うことになる。

 もとへ。ひらがなカタカナの神代文字由来説は、そういう外国被れ派の漢字崩し説との学問的な戦いである。真相は、漢字と神代文字との芸術的なアンサンブルとして生み出されたものであろうが、外国被れ派は漢字崩し説しか認めない、神代文字そのものを否定するのだから神代文字由来説などあり得る訳がないとする。そういう頑なな論を張る。何とならば何事も国際ユダ屋側に有利な方向にテキスト化されるからである。これが学問となり、鵜呑みできた成績の良い順に出世コースが敷かれている。しかして、その優等生が政財官学報司警軍の上層部を占める度合いに応じて日本が劣化させられる。目下の日本が丁度この状態にある。これを崩すためには根本的なところからの組み替えなしにはできまい。ひらがなカタカナの神代文字由来説はこういう風に話しが広がる。興味深いことである。
 

 Re: れんだいこのカンテラ時評№1170訂正  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月22日
 【「三島最後のドキュメント考その7の2、「割腹」事件のれんだいこ推理補足」の緊急訂正

 2013.10.31日付けの吉田氏の指摘を受け、急遽2013.9.19日付けの「三島最後のドキュメント考その7の2、「割腹」事件のれんだいこ推理補足」を次のように訂正させていただき、これを発表しておく。

 「割腹事件のれんだいこ推理」を補足しておく。この時の首切りに「関の孫六」が使われたと推論していたが、三島の両親の平岡梓・氏が次のような「妙な」証言を遺している。

 要点のみ確認すると、前段では「介錯に使われた刀は『関の孫六』でした」としつつも、寄贈者・舩坂弘・氏の証言、概要「警察に呼ばれた時、実物を見せてもらったところ、奇妙なことに柄のところが金槌でめちゃくちゃにつぶされていて二度と抜けないようになっていた」を引用し、「その後の調べで倅の周到な処置であることが判りました」と追記している。後段では「倅は死ぬのは自分一人で足りるとして森田君の巻き添えを許さなかった」と述べつつ「森田君の希望により倅の介錯は彼にたのむ手筈になったものの、倅の眼から見ると、森田君の技倆はおぼつず、万一にも柄が抜けることのないよう抜けない処置をして彼に手渡した」と結んでいる。

 これはどういう意味か。「平岡梓証言」を裏推理すれば、「関の孫六」は抜けないように細工されていたのであるから「介錯に使われた刀は『関の孫六』ではない」ことになる。こう理解した方が「関の孫六」一刀で三島の首切り、森田の首切りに及べたと云う不自然さが解消する。しかし、三島らが持参していたのは「関の孫六」だけであり他に用意していたとの記述はない。とすると、三島の首切り、森田の首切りに使われた刀は三島、森田を強制切腹せしめた側が用意していたとの推理が成り立つ。それと森田の後追い切腹死にも何がしか不自然とする疑問を投げかけていることになる。

 こう述べていたところ、これにつき、れんだいこ主宰の掲示板「左往来人生学院3」に、吉田氏より2013.10.31日付け投稿が寄せられ次のように指摘された。「鞘から刀が抜けないようにしていたと誤解しているようですが、そうではなく、柄から刀身が抜けないようにしていたのです。舩坂氏が孫六の確認にあたって中心(なかご)を見るために柄から刀身を抜こうとした所、目釘が抜けなかった。よくよく確認してみると、目釘が通常より長めの物が使われ、その両端が丹念に叩き潰されて丁度鋲の頭のようになり、柄の両側の目釘穴をしっかり塞いでいたとのことです。介錯の際、誤って肩甲骨や大臼歯を斬りつけたり、力余って刀を床に叩き付けるようなことがあれば、真っ先にこの目釘が折れて、重い刀身は柄から抜けて飛び出してしまう。そうなれば介錯が不成功に終わってしまう。だから、そこまで見越して万全の備えをしていた、という趣旨の話です」。この指摘に対し次のようにレスした。「吉田さんちわぁです。ご指摘ありがとうございます。確かに『鞘から刀が抜けないようにしていたと誤解』していました。どこか変調な感じがあり、今分かりました。要するに『柄から刀身が抜けないようにしていた』と云うことなんですね。了解です」。

 こうなると、「平岡梓証言裏推理」により、「介錯に使われた刀は『関の孫六』ではない」と結論付けたのは早計だったと云うことになる。しかしながら、それはそれとして、「『関の孫六』一刀で三島の首切り、森田の首切りに及べたと云う不自然さ」は依然として拭えない。むしろ、「関の孫六」寄贈者の舩坂弘・氏が「警察に呼ばれた時、実物を見せてもらった」のであれば、三島の首切り、森田の首切りに及んだ「関の孫六」の無残な刀状を語るべきところ、それを語らず「奇妙なことに柄のところが金槌でめちゃくちゃにつぶされていて二度と抜けないようになっていた」なる証言のみをしていることになる。

 この証言は逆に「関の孫六」が犯行に使われなかったことを示唆していることになりはすまいか。これにより、吉田氏の指摘は有り難く承るが、「柄から刀身が抜けないようにしていた『関の孫六』をもって犯行に及んだ」とすることにはならない、逆にそういう細工をしていたが実際には使われていなかった証言にもなっていると理解できるのではあるまいか。してみれば、「舩坂弘証言」はなかなか手の込んだ証言となっているように思われる。かく訂正させていただく(2013.12.22日)。

 次の補足。三島の首切り、森田の首切り現場は総監室ではないのではなかろうか。演説から帰ってきた三島らは直ちに拘束され、然るべき監禁室へ連れ込まれ、そこで凶行に及んだのではなかろうか。この現場に楯の会の残りの3名、益田総監は居なかったのではなかろうか。全て事が終わった後の死体現場に連行され、そこで形だけの追悼が許されたのではなかろうか。これにより、楯の会の残りの3名、益田総監の切腹時の様子の証言があったにしても「口裏合わせた作り話し」と云うことになる。法廷証言を確認していないので、どのような証言になっているのか知りたいが分かららない。ネット情報には出てこない。

次の補足。「★阿修羅♪ > カルト10」のペリマリ氏の2013.3.9日付け投稿「三島事件の核心を推理する」による「益田総監証言」は重要過ぎる。その第一は、「S副官を衝立の陰に身をひそめさせた証言」である。この証言にはS副官が衝立の陰に身をひそめたとしていることには意味はない。場所は分からないがS副官ないしは複数が現場の様子を監視し続けていた証言として受け取ることにより意味を持つ。つまり、事件の成り行きが全て当局側にキャッチされていたことを意味する。

 「益田総監証言」の重要過ぎるその第二は、「この日、益田総監は三島由紀夫に面会する前から何かを予感していた。それが何であるかは自分でもはっきりつかめなかった証言」である。これを「虫の知らせ」的に受け取る必要はない。実は三島らによる市ヶ谷駐屯地での不穏な計画が事前にキャッチされていたことを間接証言したものと拝することができる。「楯の会」の動きが筒抜けになっており、「三島らがこの日に来て何かが起こる」ことが予知されていたのではなかろうか。そういう証言として受け取ることができるように思われる。即ち、三島らが「飛んで火に入る油虫」の「袋のネズミ」状態に於かれていたことを意味する。この重大証言後、益田総監は事件から2年足らずの1973(昭和48).7.24日、逝去(享年60歳)している。死因は書かれていない。

 次の補足。三島は、ある程度そうした事情を知っており、最後は市ヶ谷駐屯地での自衛隊クーデター扇動後の結末について半ば生きて帰れない半ば生きて帰られるの半々勝負の賭けに出たのではなかろうか。どちらにでも対応できる形で決行した形跡が認められる。これらの推理によれば、三島割腹事件に於ける三島美学を窺うとすれば、半々勝負の賭けの結果、無慈悲な死が強制されるに及び、最も憤怒する形で見事に腹を引き裂いた三島の意地であろう。哀れなのは森田であるが、森田も巻き添えにされ死を蕭々と受け入れたものと思われる。

 次の補足。事件直後に川端康成が駆けつけている。川端は事件直後の三島の切り離された胴体と首を確認していることになる。  川端はその後、精神に変調を来し、眠れないと周囲に漏らしたり、三島の霊にうならされているかのような言動をするようになる。  以来、会議や講演などはこなしていたが健康がすぐれず新しい文学作品を書けなくなった。三島の自刃から約1年半後の昭和47.4.16日、鎌倉の自宅を出てタクシーを拾い仕事場の逗子マリーナ・マンションの自室で水割りを少し飲んだ後ガス管をくわえた形で変死している。遺書はなかった。川端が何故に凶行現場に入れたのか、何故に精神に変調を来したのか、ノーベル賞作家ともあろう者が何故に不可解な死を遂げたのか、いずれも疑問と云わざるをえない。

 次の補足。現場に駆け付けた者として他にも石原慎太郎(当時参議院議員)が確認されている。後日、石原は「現場検証した警察関係者から『川端先生が中へ入って見ていった』と聞かされ、川端が三島を見送ったならばと入室を辞退した」と述べているが、現場を確認している可能性が強いと窺うべきだろう。佐々淳行(当時警視庁警務部参事官)も訪れている。佐々の入室辞退の弁はないので、現場を確認していると推理すべきだろう。それにしては現場証言がないのが疑問である。妙なことに現場証言がないことで共通している。

 次の補足。三島の胴体と首が切り離された割腹現場、切断された生首写真が事件直後の朝日新聞夕刊早版に掲載されている。同年12.11日号の朝日新聞社の週刊誌「アサヒグラフ」にも「特報  三島由紀夫割腹す」として三島の生首写真が掲載されている。1984(昭和59)年の写真週刊誌「フライデー」創刊号にも三島の生首写真が掲載されている。その掲載の仕方は晒し首的な意味合いを持っているように思われる。武士道的観点からすると切腹した者の生首を晒すのは御法度であることを踏まえると、秘密結社独特の処刑が行われ、見せしめにされた可能性が認められる。

 三島、森田の遺体は慶応大学病院法医学解剖室・斎藤教授の執刀で司法解剖されているが、その「解剖所見」はノーベル賞候補たる日本の誇る世界的有能氏の死に対するものにしては実に素っ気ないものでしかない。これは、宮顕リンチ致死事件で死亡した小畑中央委員のそれと比較したとき分かる。小畑氏の「解剖所見」は頭のてっぺんから足のつま先まで克明に記述されている。これを思えば何と簡略なものだろうかと云うことになる。れんだいこ的には生前死後両面からの凌辱形跡が認められるのか認められないのか知りたいところであるが、この疑問に答える所見が殊更記されていないように思われる。

 最後の補足。事件後、中曽根防衛庁長官がわざわざの外人記者クラブ会見をやってのけ、「事件をどう思う」と聞かれて「宝塚少女歌劇を思い出す」と答えて爆笑させたとの史実が刻まれている。れんだいこ的には、三島の生首の写真公開と中曽根の弁がハーモニーしている気がしてならない。

 もっとも、この中曽根弁に対して不謹慎非難がごうごう浴びせられたようで、後日「中曽根康弘、三島裁判の証言」で次のように述べている。「実は新聞記者に内閣の考えを出せと執拗に責められたが、内閣側は黙して語らずで、官房長官もなんの発言もしなかった。自分としてもこれはむしろ内閣官房長官が談話を発表すべきものであると思うが、止むを得ず自分が新聞記者会見をやった。そして排撃の意思を強く打ち出したのだ。誤解のため鳴りつづけの電話その他で随分ひどい目にあった」。  この時の引き続きの弁で三島国士論を披歴し事なきを得ている。しかし思うに、事件直後の中曽根の三島愚弄弁こそ、三島を誘い込み葬った連中の本音を語っていたのではなかろうか。中曽根は新聞記者会見としているが、事実は「わざわざの外人記者クラブ会見」である。

 まだまだ不自然なことが見えてくるかもしれないが、とりあえず以上を確認しておく。

 Re: れんだいこのカンテラ時評№1170  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月22日(日)
> No.304[元記事へ]

 通りすがりさんちわぁ。これを受けての訂正をしておりませんでした。今書き直しました。ブログに再発表させていただきます。

 れんだいこのカンテラ時評№1200  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月22日
 れんだいこの平田篤胤史学論その6

 「篤胤史学」の文体に一言しておく。ほんの少ししか読んでいないのに評するのは早計かも知れないが、文体は簡潔にして論証的である。但し、内容の高度さ故に仕方ないことかとも思われるが文意は難解である。と云うか、その難解さは、篤胤文が漢字を多用する硬文体になっていることによるのではなかろうかと思われる。これは独り篤胤のせいではない。当時の風潮文体が和漢混交文であり、この頃は、ひらがな、カタカナ表記すべきところをも極力漢字表記する倣いがあり、いわゆる時代病で、篤胤も又これに侵されていると云うのが正しい受け取りようかも知れない。この文体傾向は戦前まで続き、戦後育ちのれんだいこにはとても読みにくい。

 但し、疑問が少し生まれる。国学が殊のほか漢学に侵される以前の日本論を云うのであれば、まずは文章そのものからして漢字に侵される以前の日本語を極力使用するという風にはならなかったのだろうか。大和言葉を生かす為に生まれたひらがな、カタカナの積極的使用による柔文体で著わすべきだったのではなかろうか。そうならなかったことを惜しみたい。漢学に侵される以前の日本を称揚しつつ、それを漢学傾向を強めた硬文体で記すというアンバランスさがやや滑稽な気がする。このことは、仮に篤胤が著作禁止令に遭わずもう少し延命したなら、やがてひらがな、カタカナの考証にも向かい、篤胤ならではの言語論を聞かせて貰え、これによる柔文体の登場があったかも知れないと思う気持ちに通底している。ないものねだりの感があるが、篤胤の能力を高く評する故にそこまで期待してしまう。

 れんだいこ眼力によれば、「篤胤史学」の惜しむべきはその未完成なところである。出雲王朝御世を垣間見させ、それを復権させようとする意図が見られるにせよ、相対的には偉業であるにも拘わらずなお「原日本新日本論」までは獲得できておらず、故に玉石混交の「復古神道」段階にとどまった恨みがある。これも時代の限界とも云えるので致し方ない面もある。かく観点を据えれば、この未熟さは、「篤胤史学」の後継者に託されている課題と受け止める必要があろう。本来は、「篤胤史学」の後継者は、篤胤が宣長を超えたように、篤胤を超えねばならなかったのではなかろうか。「篤胤史学」の限界を批判的に継承し、「原日本新日本論」に基づく国体論まで極めるべきだったのではなかろうか。この域まで向かわなかったことが足元を掬(すく)われることになったと思う。明治維新後、「篤胤史学」学徒がこぞって大和王朝御世正統化の皇国史観の確立へと向かったが、これは断じて「篤胤史学」の正統のものではない。痛恨の極みと思う。

 それは、「篤胤史学」の真骨頂である出雲王朝御世の礼賛の道を閉ざした奇形の国体論でしかなかった。もし「篤胤史学」学徒が、今れんだいこが唱える「原日本新日本論」を獲得していれば、好戦的な皇国史観には向かわず、出雲王朝御代の特徴である神人和楽の王朝楽土的国体観の称揚にこそ向かっていたのではなかろうか。明治維新政府の好戦政策に乗じられることはなかったかと思う。その差は大きいと見る。そういう意味で、「原日本新日本論」の観点から「篤胤史学」を検証する道が手付かずで残されていると了解している。

 最後に「篤胤史学」の代名詞とも云うべき「復古神道」に一言しておく。「復古神道」とは云いえて妙な呼称であり、その解釈が危うい。これを神道の「復古」と読めば篤胤の意に反する。古神道に「復す」と読むべきである。これならほぼ正確である。問題は、「復古神道」と云うとき、多くの者は神道の「復古」と読むであろうことにある。こうなるともっと的確な「篤胤神道」の呼称を創らねばなるまい。そこで仮に「篤胤古神道」と命名しておく。この方が正確に意が伝わろう。即ち、「篤胤史学」が求めたのは、「復古&神道」ではなく、「復&古神道」であった。こう判じたい。但し、禁制の学になることを恐れ、篤胤自身が幾分か故意に曖昧にしていたと思われる。これは致し方なかったのではなかろうか。以上、誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。
 




(私論.私見)