カンテラ時評40(1171~1200) |
(最新見直し2013.11.14日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「」を転載しておく。 2007.3.24日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№1200投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年12月22日(日)12時53分21秒 |
れんだいこの平田篤胤史学論その6 「篤胤史学」の文体に一言しておく。ほんの少ししか読んでいないのに評するのは早計かも知れないが、文体は簡潔にして論証的である。但し、内容の高度さ故に仕方ないことかとも思われるが文意は難解である。と云うか、その難解さは、篤胤文が漢字を多用する硬文体になっていることによるのではなかろうかと思われる。これは独り篤胤のせいではない。当時の風潮文体が和漢混交文であり、この頃は、ひらがな、カタカナ表記すべきところをも極力漢字表記する倣いがあり、いわゆる時代病で、篤胤も又これに侵されていると云うのが正しい受け取りようかも知れない。この文体傾向は戦前まで続き、戦後育ちのれんだいこにはとても読みにくい。 但し、疑問が少し生まれる。国学が殊のほか漢学に侵される以前の日本論を云うのであれば、まずは文章そのものからして漢字に侵される以前の日本語を極力使用するという風にはならなかったのだろうか。大和言葉を生かす為に生まれたひらがな、カタカナの積極的使用による柔文体で著わすべきだったのではなかろうか。そうならなかったことを惜しみたい。漢学に侵される以前の日本を称揚しつつ、それを漢学傾向を強めた硬文体で記すというアンバランスさがやや滑稽な気がする。このことは、仮に篤胤が著作禁止令に遭わずもう少し延命したなら、やがてひらがな、カタカナの考証にも向かい、篤胤ならではの言語論を聞かせて貰え、これによる柔文体の登場があったかも知れないと思う気持ちに通底している。ないものねだりの感があるが、篤胤の能力を高く評する故にそこまで期待してしまう。 れんだいこ眼力によれば、「篤胤史学」の惜しむべきはその未完成なところである。出雲王朝御世を垣間見させ、それを復権させようとする意図が見られるにせよ、相対的には偉業であるにも拘わらずなお「原日本新日本論」までは獲得できておらず、故に玉石混交の「復古神道」段階にとどまった恨みがある。これも時代の限界とも云えるので致し方ない面もある。かく観点を据えれば、この未熟さは、「篤胤史学」の後継者に託されている課題と受け止める必要があろう。本来は、「篤胤史学」の後継者は、篤胤が宣長を超えたように、篤胤を超えねばならなかったのではなかろうか。「篤胤史学」の限界を批判的に継承し、「原日本新日本論」に基づく国体論まで極めるべきだったのではなかろうか。この域まで向かわなかったことが足元を掬(すく)われることになったと思う。明治維新後、「篤胤史学」学徒がこぞって大和王朝御世正統化の皇国史観の確立へと向かったが、これは断じて「篤胤史学」の正統のものではない。痛恨の極みと思う。 それは、「篤胤史学」の真骨頂である出雲王朝御世の礼賛の道を閉ざした奇形の国体論でしかなかった。もし「篤胤史学」学徒が、今れんだいこが唱える「原日本新日本論」を獲得していれば、好戦的な皇国史観には向かわず、出雲王朝御代の特徴である神人和楽の王朝楽土的国体観の称揚にこそ向かっていたのではなかろうか。明治維新政府の好戦政策に乗じられることはなかったかと思う。その差は大きいと見る。そういう意味で、「原日本新日本論」の観点から「篤胤史学」を検証する道が手付かずで残されていると了解している。 最後に「篤胤史学」の代名詞とも云うべき「復古神道」に一言しておく。「復古神道」とは云いえて妙な呼称であり、その解釈が危うい。これを神道の「復古」と読めば篤胤の意に反する。古神道に「復す」と読むべきである。これならほぼ正確である。問題は、「復古神道」と云うとき、多くの者は神道の「復古」と読むであろうことにある。こうなるともっと的確な「篤胤神道」の呼称を創らねばなるまい。そこで仮に「篤胤古神道」と命名しておく。この方が正確に意が伝わろう。即ち、「篤胤史学」が求めたのは、「復古&神道」ではなく、「復&古神道」であった。こう判じたい。但し、禁制の学になることを恐れ、篤胤自身が幾分か故意に曖昧にしていたと思われる。これは致し方なかったのではなかろうか。以上、誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。 |
Re: れんだいこのカンテラ時評№1170 投稿者:通りすがり 投稿日:2013年12月22日 |
> No.267[元記事へ] 平岡梓さんは、三島は森田の技量が心配だったので柄から刀が抜けてしまわないように柄をを金槌でつぶして森田に渡したと言っているのであって、刀が鞘から抜けないようになっていたといっているのではありません。 だから、介錯に使われた刀は三島の孫六ではないとするあなたの推測は間違っています。 また、孫六が名刀とされたのは丈夫でよく切れるからです。 三島と森田、両名を介錯できても不思議では有りませんよ。 > 「割腹事件のれんだいこ推理」を補足しておく。この時の首切りに「関の孫六」が使われたと推論していたが、三島の両親の平岡梓・氏が次のような「妙な」証言を遺している。 > > 要点のみ確認すると、前段では「介錯に使われた刀は『関の孫六』でした」としつつも、寄贈者・舩坂弘・氏の証言、概要「警察に呼ばれた時、実物を見せてもらったところ、奇妙なことに柄のところが金槌でめちゃくちゃにつぶされていて二度と抜けないようになっていた」を引用し、「その後の調べで倅の周到な処置であることが判りました」と追記している。後段では「倅は死ぬのは自分一人で足りるとして森田君の巻き添えを許さなかった」と述べつつ「森田君の希望により倅の介錯は彼にたのむ手筈になったものの、倅の眼から見ると、森田君の技倆はおぼつず、万一にも柄が抜けることのないよう抜けない処置をして彼に手渡した」と結んでいる。 > > これはどういう意味か。「平岡梓証言」を裏推理すれば、「関の孫六」は抜けないように細工されていたのであるから「介錯に使われた刀は『関の孫六』ではない」ことになる。こう理解した方が「関の孫六」一刀で三島の首切り、森田の首切りに及べたと云う不自然さが解消する。しかし、三島らが持参していたのは「関の孫六」だけであり他に用意していたとの記述はない。とすると、三島の首切り、森田の首切りに使われた刀は三島、森田を強制切腹せしめた側が用意していたとの推理が成り立つ。それと森田の後追い切腹死にも何がしか不自然とする疑問を投げかけていることになる。 |
れんだいこのカンテラ時評№1199 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年12月21日 |
れんだいこの平田篤胤史学論その5 ここで、神代文字について確認しておく。「れんだいこの平田篤胤史学論」で取り上げる理由は、篤胤が晩年に先駆け的に神代文字論を展開しており、その国体論と共に白眉な功績があると思われる故である。神代文字論を廻っては現代においても係争中である。通説は神代文字存在説を唱える者を邪とし否定説を声高に唱える者を正としているが、その構図は丁度、れんだいこが「戦国期の研究を通じての陰謀論考」で述べたように転倒しているのではなかろうか。即ち、陰謀説同様に、これを批判する側から「こじつけ」、「うがち過ぎ」の由を聞くが、神代文字存在説の方が素直な読み取りであり、これを採らずに否定する側に回る方にこそ「こじつけ」、「うがち過ぎ」の評がふさわしい。つまり、神代文字存在説批判は手前の方が「こじつけ」、「うがち過ぎ」であるのに、手前が受けるべき批判を先回りして相手方に投げつけているのではあるまいか。 れんだいこは「篤胤史学」の神代文字論を高く称賛する。しかしながら、篤胤研究の第一人者的地位を自負し、篤胤著作の解説で知られている山田孝雄(1873-1959)は、論文「所謂神代文字の論」(1953年)で、「神代文字をめぐる議論がいかに毒におかされた危険な代物であるのか」と憤怒の口調で語り、その主犯者の一人として平田篤胤を挙げ、「篤胤がなぜ神代文字などという妄説を信じたのか、絶大なる不可思議の一つ」と批判しているとのことである。れんだいこから見れば山田孝雄こそオカシイ。「変調な篤胤研究者ぶり」が分かる。こういう研究者があちこちにいる。先に小林多喜二研究での手塚英孝の変調さについて述べたが、何も山田孝雄、手塚英孝ばかりではなかろう。いつの日か「山田孝雄の篤胤論」との決着をつけたいと思う。 通説は漢字渡来以前の日本には文字がなかったとしている。しかし、漢字渡来と同時に万葉仮名を生み出し、その後、平仮名、カタカナを発明し、「漢字&ひらがな&カタカナ」混交の日本語が形成されていった経緯を読み取るとき、逆に不自然なのではなかろうか。そもそも、漢字渡来以前の日本に文字がなかったとすれば、今日の世界史上での英語の伝播と同じように、受入れ側は母国語を捨て丸ごと外国語へ転換する方が容易だったのではなかろうか。なぜわざわざ、日本語の大和言葉の発音をベースにしてそれに漢字を当てはめ、いわゆる万葉仮名を生み出していったのか。その万葉仮名も、次第に単に発音ベースではなく、発音も意味も大和言葉に近い漢字を求めて進化して行くようになる。我々の父母祖は何でそれほどまでに母国語に拘ったのだろうか。 推理するのに、漢字渡来時点で、中国語に比して遜色のない上古代日本語が確立されていた故ではなかろうか。その時の上古代日本語には語りだけがあって文字がなかったのか。通説はそう理解する。しかしそういう理解の方こそ余りにも不自然ではなかろうか。れんだいこ推理は、この時、幾種類かの小国家毎の図象文字表記が為されていたところ、時の大和王朝権力が文字の統一化と云う必要もあり漢文を強い、図象文字使用を政治的に禁制にし、図象文字本はそれが為に廃棄処分させられ、一部が地下に隠され、その大半のものがいつのまにか散逸、一部が残ったのではなかろうか。 これを逆から窺えば、我らが父母祖は図象文字と漢字の表意文字との優劣を測り、結果的に図象文字本の漢字文字本への転写をした上で、図象文字本を秘すべきところに秘したのではなかろうか。こう見立てると、万葉集も原文は神代文字で書かれていたのではなかろうか。この時使用された漢字を万葉仮名と云う。かくて数百年後、神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)探索の旅が始まることになった。これが神代文字考史となる。 それでは、上古代日本語の文字がどのようなものであったのか。今日となっては判明しないが、その手がかりとして各地の寺社に遺されている文字がある。知られているだけでも出雲大社、熱田神宮、三輪神社、鶴岡八幡宮、浅間神社、大山阿夫利神社、三峰神社などの神璽、洞窟、岩などに神代文字が記されている。神代文字には多くの種類があり、形態も象形的なものから幾何学的なものまで様々なものがある。伊勢神宮の神宮文庫に約百点奉納されていると云う。これをどう理解すべきか、実在か後代の捏造かが問われている。 古史古伝の多くに神代文字が登場する。カタカムナ図象文字。出雲文字。上記、竹内文献に使われているのは全文が豊国文字。秀真伝や三笠紀に使われているのは全文が秀真(ホツマ)文字。文の中で紹介されているのが九鬼文書の春日文字、宮下文書の阿祖山文字、物部文書の物部文字、東日流外三郡誌の津保化砂書文字、対馬の卜部・阿比留(あびる)家において発見された阿比留(あひる)文字、阿比留草文字等々。まだ世に出ていないのもあると思われる。これらを、後世の偽造偽作とする説の方が「こじつけ」、「うがち過ぎ」ではなかろうか。 平安時代の「古語拾遺」に「上古の世、未だ文字あらず」と記載されており、これが定説となってきた。しかし、神代文字が存在したとする説は古神道系の者には古くより常識とされていた。1367年に忌部正通によって書かれた「神代巻口決」は次のように記しているとのことである。「神代の文字は象形なり。応神天皇の御宇、異域の経典、初めて来朝してより以降、推古天皇に至って聖徳太子、漢字をもって和字に付けたまふ」。その通りではなかろうか。 してみれば、学説論争が始まるのが江戸時代に入ってからと受け止めればよい。1676(延宝4)年、神道家・永野采女と僧・潮音道海が「先代旧事本紀大成経」を著して以来、同書で指摘された神代文字の存在が浮上してきた。江戸時代中期の儒学者の新井白石が出雲大社や熱田神宮に神代から伝わったとされる文字が残っていることを指摘している。他方、貝原益軒は否定している。賀茂真淵や本居宣長らの国学者は否定している。 宣長は、「言霊の幸はふ国」としての皇国観を披瀝しながらも漢字が入る前の日本には日本固有の文字がなかったとしていた。「上代の人々には字がなく、人々は口で伝え耳で聞くという方法で意思の疎通をなしてきたが、外国から書籍が入って来たため字を読み書くようになった」(古事記伝)とも述べている。かく神代文字を否定し、口述による記録こそが大和民族的であるとし、文字の概念自体が日本の外から来たものなのだという説を持っていたようである。 これに対して篤胤は、神代文字に関する資料を全国に求め神代文字存在説の論陣を張った。1811(文化8)年、36歳の時、春・夏・秋・冬の四卷からなる「古史徴」を著わし、春巻第1巻「開題記」の中の「神世文字の論」の稿で、漢字渡来前の古代日本には文字がなかったとする説に対して、神代文字存在論の立場から考証している。阿比留(あひる)文字を例証し、ハングル文字との著しい類似性を指摘しながら神代文字存在論を説いているとのことである。これは神代文字の系譜からハングル文字が編み出されたことを示唆している。1819(文政2)年、彼の弟子たちが「神字日文伝」(かんなひふみのつたえ)という題名で版本を発行し、神代文字存在論を一般に普及させることになる。「日文」とは「一、二、三」の意味を被せている。他方、伴信友は、「仮名本末」で神代文字の偽造説を説いて否定した。 ここまでは神代文字に関する一般論である。これかられんだいこ節で説く。神代文字とは、漢字の渡来および仮名の成立に先だって上古の日本にかって存在していたとされる文字を云う。今後の神代文字研究で必要なことは、神代文字が弁えている日本語のアからンで終わる50音との絡みではなかろうか。日本語50音がいつどのようにして獲得形成されたのか、その起源をどこまで遡ることができるのか、との問いとワンセットにされねばならない。ここが最大の関心となるべきではなかろうか。れんだいこの神代文字への関心は実にここにある。従来の神代文字研究は50音の起源解明と連動していないように思える。それは手落ちではなかろうか。 50音の獲得こそが日本語の最大功績であり、世界一の芸術言語足り得ている根拠である。日本語が諸外国語を受け入れるに当り母国言語を失うことなく受容し得た秘密がここにある。こう捉えない研究はいささか物足りない。問題は次のことにある。神代文字を生み出す時点で既に日本語50音があり、それに一音一字の図象文字を当てはめた風が認められる。それはほぼ同時的に為されたのではなかろうかと考えたい。ならば50音の発生過程を検証することこそが、そのまま神代文字考になるのではなかろうか。篤胤には語彙論については本格的なものはないようである。恐らく、これから向かう矢先に執筆停止と国元帰還措置をされ、あたら惜しくも歴史に遺されなかったのではなかろうか。日本語の語彙論は、神代文字肯定論派には分け入りたい魅力の分野となっていよう。 本稿を、竹内健・氏の「神字論」の次の言葉で締め括る。「篤胤の神世文字の論は、戦後の史家が嘲笑って言うところの『狂信的な国学者の根も葉もない捏造』などではない。一歩譲って、よしそれが捏造であるにしても、一体『根も葉も』ある神話というものが存在するだろうか。神話の創生とは、人々の時空を超越した祈願の謂である」。 |
れんだいこのカンテラ時評№1198 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年12月19日 |
れんだいこの平田篤胤史学論その4 「れんだいこの平田篤胤論」の精度を篤胤著作の原文で確かめたい。そう思いネット検索を試みたが容易には辿り着けなかった。そのうち「小さな資料室」に出くわし「仙境異聞」が採録されていることを知った。続いて「務本塾・人生講座」に辿り着き、「古道大意」、「霊の真柱」が採録されていることを知った。サイト管理人のご苦労に謝意を申し上げておく。残念ながら篤胤著作のサイトアップはこれしか行き当たらなかった。平田篤胤著作は、今日びの強権著作論でもってしても著作権外の筈である。それなのに原文開示が為されていないのは、値打ちがないのか隠されているのかのどちらかであろう。れんだいこは後者の説を採る。しかしそれならそれで露にしようと思う者も出て来るわけで、そういう訳で今後は増えると思われる。が、れんだいこの目の黒いうちでないと面白くない。どなたかに期待しようと思う。れんだいこサイトを設け「別章【平田篤胤の著書原文】」と銘打った。追々に増やして行こうと思う。 読了後、れんだいこ評の的確さをますます確信することになった。即ち「仙境異聞」では、寅吉譚、勝五郎譚が仙境で垣間見た異次元社会を伝える体裁をしているが、実は出雲王朝の御世のそれを語り部している。「篤胤史学」が、大和王朝神話世界を突き抜けて出雲王朝神話世界へ歩を進め、記紀神話以前の日本を好意的に探っていることが分かった。出雲王朝御世譚の披瀝にこそ篤胤史学の真骨頂があると云うべきだろう。「古道大意」、「霊の真柱」では、国学史、古神道論をツボを得た解説をしていることに驚いた。平田篤胤の慧眼、論証能力恐るべしとの印象を強めた。他の著作を読めば同様の思いを強めることになるだろうと思う。 付言しておけば、いつも思うことだが評論、解説よりも原文の方がはるかに面白い。これが好著の条件である。故に、良き評論、解説とは、原文を読んでみようと誘うものになるのが条件である。これが好著と評論、解説の相関関係式である。これを思えば、評論、解説でもって原文を読んだ気にさせるものには眉唾した方が良い。そういう悪式のものが多いけれども。評論、解説の方が原文より却って分かりにくいなどはご法度のそれであろう。そういう悪式のものが多いけれども。駄文に対してはいか様に評しようと勝手だが好著に対しては評論、解説にも礼儀が伴う。これが「れんだいこの評論、解説作法論」である。 もとへ。その篤胤は、自らの学問を古道学ないしは皇国学と称した。自らの学問に対して次のように述べている。 「古道とは、古へ儒仏の道いまだ御国へ渡り来らざる以前の純粋なる古への意と古の言とを以て、天地の初めよりの事実をすなほに説き考へ、その事実の上に真の道の具わってある事を明らむる学問である故に、古道学と申すでござる」(古道大意、上)。 「一体真の道と申すもの、実事の上に備はりあるものにて候を、世の学者らは兎角、教訓の書ならでは道は知り得難き様に心得候へども、甚だ誤りに候。その故は実事があれば教えは入らず、道の実なき故に教えは起き候也。されば教訓と申す者は実事より早きものにて候」(古道学大旨)。 平田篤胤の学問に対する姿勢は徹底的なものであった。「平田篤胤について 」によれば次のように記している。 「ロシアの研究ではキリル文字を習い、地図を集め、露日辞書まで自分で編集してしまう。資料はよほど極秘のものでもどうやってか入手する。インド研究でも大蔵経を読破し、正確なインド地図を手に入れ、サンスクリットは直接学問僧から学びとっている。篤胤の西欧知識人理解を要約して表現すれば、『科学への探求と古伝説への信仰』ということになる。従って、篤胤とは宇宙論では地動説を研究し、古伝説では、旧約聖書宇宙創成神話と同一のものを日本・中国・インド・エジプト等で探究することとなる。地動説を根軸とした儒学・仏教への批判は、同時に中国古文献や大蔵経の徹底したカン解読による、中国・インドの歴の最古層での宇宙創成神話の解明の試みとなっていった」。 中段の「古伝説では、旧約聖書宇宙創成神話と同一のものを日本・中国・インド・エジプト等で探究することとなる」のところが見解を異にするが、他は適切な評であろう。見解を異にするところの「古伝説では、旧約聖書宇宙創成神話と同一のものを云々」を評すれば、れんだいこは、日本神話と旧約聖書宇宙創成神話とは大きく質が違うと認識しており、その違いの部分を明らかにすることこそ肝要であると心得ているので、この説は受け入れ難い。これの詳論は別に論ずることとする。 ここで、篤胤の超人的神がかり的執筆作法及び能力について確認しておく。(れんだいこ式に纏める) 1811(文化8)年、36歳の時、この頃の篤胤の勉学への没頭ぶりは超人的なものであった。一年の大半を袴を脱がずに過ごし、睡眠は机にもたれ、伏せて寝ることですましたという布団知らずの研究に余念のない身であった。この年の10月、篤胤が弟子たちに招かれて駿河の国(静岡県)を訪れている。江戸での篤胤の勉学ぶりが昼夜をわかたぬ激しいものだったので、弟子たちがその身を案じ、温泉にでもつかって英気を養っていただこうと考え、静養がてらに招いたものだった。と云う次第で駿河の国へ赴く運びとなった。ところが、弟子の一人の家に投宿したところ、遠近の弟子たちが入れ替わり立ち替わりやってきて教えを乞うものだから、とても休めるものではなかった。師弟問答を好んだ篤胤は、はからずも駿河の弟子宅で江戸と同じく多忙な日々を送ることとなった。 篤胤は、弟子たちとの問答を通じて日本の国体を明らかにしておく必要を感じた。日本の神代、皇国に関する史書は記紀をはじめとしてあるにはあるが、内容に異同があり、矛盾があり、また儒教・仏教などの影響を受けて変形した諸説・古伝があり、整合的な理解が容易ではなかった。そこで篤胤は、かねてより懸案だった「儒仏の影響を排し正しい神代の歴史・古史を体系化させる」と云う野心的著述を決意した。12.5日、篤胤は弟子たちから記紀や本居宣長師の「古事記伝」など七種類の古史の代表作を借り集め、奥まった一室で猛然たる執筆活動に入った。その猛然さは寝る間を惜しみ、食事も机に向かって本を読みながらのものであった。心配した弟子たちが「もうお休みになられては」としつこく頼むので「枕と夜具を持て。但し途中で起こすなよ」といって横になって高いびき。ところが、今度は丸二日、食事もとらずに寝っぱなし。弟子たちはまた心配になって、「先生、大丈夫でございますか」と起こせば、「途中で起こすなといったはずだが」などといいながら、また何事もなかったかのように昼夜兼行の執筆生活に戻るというありさまだった。 こうして25日間にわたる、こもりっぱなしの執筆作業が終わったのがちょうど大晦日、陰暦で12.30日から元日早朝にかけてだった。この時著わしたのが「古史成史」、「古史懲」の初稿、「霊能真柱」の草稿であった。これは分量からいっても内容からいっても25日間でできるようなものではない。篤胤の超人的な体力気力、不眠不休の努力があって初めてなった奇跡であった。本人も自著でふりかえって、「あのとき、どうしてあんなに速く書けたのだろう」と述懐している。このことが次のように解説されている。 「篤胤学と称せられる古学の中心的な著作の草稿や骨格は、この文化八年一二月五日から三○日の深夜にかけての、短期間の、まさに神がかりともいうべき作業の結果として成立するのである」。 篤胤が「神々祈り」の中で書き上げたという証拠が弟子の記録にある。そこでは、大晦日の翌日、元日の朝にいずまいをただした篤胤が、できた原稿をさしだしながら、こう言って微笑んだという。 「去年というべきか、今年と言うべきか、丑の刻(午前一時~三時)の鐘を打つ頃に書き終えた。きみたちが心から(古史の完成を)ねがったので、私も承諾して本気でとりかかり、こもりっぱなしだったが、こもったその日から、御意志ならば、なにとぞ年内に書き上げさせたまえと神々にお祈りし続けてきた。どうやら、そのかいがあったようだ」。 「霊能真柱」を書く動機と刺激になった「三大考」著者の服部中庸も私信で次のように述べている。「調べもの、著述にとりかかったら、二十日間でも三十日間でも、昼も夜も眠ることなく、疲れたときは三日も四日も飲み食いせずに眠り、目がさめたら元の通りになっている。なかなか凡人にはできないことです」。こうして、篤胤は人生の岐路ともいうべき著作を駿河でなしとげ、正月があけてから江戸の自宅に戻った。そういう篤胤本を読まぬ手はなかろう。 |
れんだいこのカンテラ時評№1197 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年12月14日 |
れんだいこの平田篤胤史学論その3 「れんだいこの平田篤胤史学論その3」として、「れんだいこの平田篤胤史学論その2」に追補しておく。 平田篤胤の一般評価の「復古神道(古道学)の大成者であり、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている」では扁平過ぎて篤胤史学の真髄が伝わらない。江戸期に国学が生まれ、記紀の実証的研究に着手した。代表的国学者として荷田春満、賀茂真淵、本居宣長が知られ、平田篤胤に至り、この4名が「国学四大人(うし)」と呼ばれる。これはそれで良い。但し、その学問の内容は、篤胤史学のところで明らかに質を変えている。それまでの国学研究が、大和王朝以来の皇統譜を正統化づける為に編纂された記紀の記述を「真」として、その実証的研究に向かっていたのに対し、平田篤胤となると記紀記述に「真」を置いていない。むしろ、記紀記述の御用学的限界を突き破り、記紀が批判的に記述している大和王朝以前の日本を束ねていた出雲王朝世界を注目し、その研究への門戸を開くところまで突き進んでいる。ここに「篤胤史学」の絶対的特異性がある。これを踏まえた「国学四大人(うし)論」でなければならない。 案の定、徳川幕府は、そういう禁制の扉を開けようとする篤胤史学を危ぶみ、結果的に弾圧し、その二年後、篤胤は失意のうちに病没している。これを確認すれば、1841(天保12)年、篤胤晩年の66歳の時、著書「天朝無窮暦」の内容を問題とする形で、著述禁止、故郷である秋田への国元帰還を命じられ事実上の「江戸所払い(追放)」に附されている。 篤胤は15人扶持,給金10両の薄給身分の秋田藩士となったが、秋田に帰って2年後に病没している(享年68歳)。篤胤弾圧につき、「天朝無窮暦」が幕府の暦制を批判した為であったとか、激しい儒教否定と尊王主義が忌避された為とか解説されているが、問題はもっと本質的なところにあり、「篤胤史学」が大和王朝以来の支配者体制に対する批判の学足りえていたことが槍玉に挙げられたと窺うべきではなかろうか。 こういう履歴を持つ平田篤胤を知ろうとしてサイト「平田篤胤の履歴考」と「平田篤胤の思想考」を設けているが、その情報は手に入りにくい。ほんの一部の研究者の愛好に狭められている感がある。ネット検索では、同じ文言の型通りの篤胤論は何度も出てくるが、いざ直の言説を知ろうとすると読めない、あるいは読みにくい。「指定のページが見つかりません」となっている。「平田篤胤の人となり、その思想」を確認しようにもできにくい仕掛けがされていることに気づく。こうなると、れんだいこのアンテナが作動する。これは何も平田篤胤だけのことではない。世に有益な情報、知識が隠され、なかなか読めない仕掛けにされており、逆にどうでも良い情報が洪水の如く流されていると云う仕掛けが廻らされている。かく秘せられ伏せられるほど、そういう権力者側の巧妙な思想統制に反発したくなる者が出てくるのは道理だろう。 既にあらゆる知が囲い込みされ、ふるいにかけられ、こう考えるべき、理解するべき、評するべきとする国際ユダ屋テキストが敷かれている。これをよく学習できた順にお利口坊やと嬢ちゃんにそれなりの大学までの道が用意されている。こういう仕掛けなんだなとつくづく思う。最近の法学の堕落はその極みであろう。既に法理念、法体系が崩れに崩れ加速しつつある。しかして、そういうテキスト理解で賢くなった者は誰も居ない。却ってアホウになっている。そろそろそういう風に考えてみるべきではなかろうか。 「平田篤胤の人となり、その思想」もそうで、安直な理解の弊害を知るべき、まことに格好の教材が平田篤胤ではなかろうか。このことを前提に、れんだいこの気づきを記しておく。結論はこうである。平田篤胤は、世上で知られているよりもはるかに、と云うか驚異的な博学にして執念の大著作を為し後世の史学に様々な問いを遺していると云う意味で偉大である。その平田篤胤の生(なま)の姿即ち実像を何も知らず、そうであるのに知った気にされ、しかもその結論が一知半解と云うより曲解させたものを通説にして流布されている。このことを痛感させられている。 それは丁度、明治維新以来の天皇像に於いて明治天皇、昭和天皇を英明評価し、逆に大正天皇を脳病天皇視し悪し様に評する構図と似ている。真実は、大正天皇こそ史上の天皇の中でも十指に加えられるべき有能天皇であった。在任中、西郷派亡き後の明治維新以来露骨化した国際ユダ屋の日本支配の陰謀に対し、明治天皇、昭和天皇がこれに従ったのに比して立ち向かい、その結果として「押し込め」られ病死を強制させられたと看做すべきところ、逆の論が横行し今日に至っている。明治天皇、昭和天皇の逝去日を記念して祝日とされているが独り大正天皇のそれは無視されているのは衆知の通りである。奇妙なことに大正天皇罵詈論は国際ユダ屋に有無通じた凡俗系の右翼左翼問わずの共通の構図となっている。妙なところでウマが合っていることが分かる。こういうところで馬脚を表わしているとみなすべきだろう。 もとへ。平田篤胤の奇怪なことは、本稿はこれが云いたかったのだが、師とする本居宣長が邪馬台国論に相当の考究をしているのに比して言及していないことである。これが何の理由によるのか、この詮索が興味深いところのように思われる。結果的に、邪馬台国論を避けた形での「天朝無窮暦」での日本には神代に独自な暦があった論、「神字日文伝」での日本には漢字伝来以前の日本独自の神代文字があった論、インドや中国の神々の話は実は日本の神々の話が混同したものである論、「天柱五岳余論」での中国の道教経典に見られる神仙の山々ないしは神仙教は日本が元論、神代に日本独自の度量衡があった論、「稲生物怪録」、「仙境異聞」での天狗論。「勝五郎再生記聞」での前世の記憶論。「幽境真語」での女仙人論。「鬼神新論」での神の実在論等々をものしている。これを思えば、邪馬台国論に向かうべきエネルギーを神秘論、怪奇論、国体論へ向かわせていることに気づかせられる。このように見立て、問うのは、れんだいこが初見かも知れない。 思うに、平田篤胤は、早くもかの時代において、れんだいこが今説く「原日本新日本論」の歴史の深淵を覗いていたのではなかろうか。即ち邪馬台国論に言及するとすれば、大和朝廷に先行する出雲王朝-邪馬台国系王朝の存在に触れざるを得ず、触れれば大和朝廷に征服解体されたとする史観を述べざるを得ず、それは記紀の説く新日本系大和王朝正統論と抵触し、ひいては幕府の禁制教学になることを弁(わきま)え、それ故に敢えて邪馬台国論を忌避し、まわりくどい形で神秘論、怪奇論、国体論への探訪でお茶を濁していたのではなかろうか。れんだいこは、かく解する余地があるとみなしている。 その一端が次のところで確認できる。即ち、篤胤によれば幽界譚を重視しており、その幽界を出雲王朝の大国主命が司る世界だと述べている。幽冥界の全体の主宰神は大国主であり、各地のことはその土地の国魂神、一宮の神や産土神・氏神が司るとの説を述べている。この大国主命幽冥界主宰神説は篤胤以降の復古神道の基本的な教義となり、その後の神道及び政教関係を方向付けることとなった。この問題が明治の御世まで持ち越され、結果的に1881(明治14)年の祭神論争で却下され公的には否定された。但し、篤胤のこの説は現在でも多くの神道系宗教で受け入れられている。 これを証するかのように、平田宗家の蔵書には「廿五部秘書」(にじゅうごぶひしょ)が定められている。篤胤の膨大な著書のうちのどの書が「廿五部秘書」に当るのか本当のところは分からない。判明することは、門外不出の内書と一般の者の目に曝しても良い外書とに分けられており、平田宗家には奥伝なるものがあり、それらは須く巻物仕立てにして口移し、口授、口伝、一子相伝として極く一部の選ばれた者達に、「他見他伝厳禁の誓約」を取り交わした後に秘伝として隠密裏に伝えられたと云うことである。こうなると、平田篤胤自身が自らの史学が如何に危険な史学であるか認識していたと云うことになる。それは何も特殊偏狭なものであったからではない。日本の国体史に関わる深刻且つ重大な変更を迫る秘密を垣間見ていたことによると推理すべきではなかろうか。 こういう篤胤の生涯履歴及びその史学をそれとして看做さず、逆に罵る評論をもって精通を自負する者が権威となり、これに随う者が大勢であるが、本稿をもって悔い改めるが良かろう。こうなると、「れんだいこの平田篤胤史学論その1、2」で述べたが、押し込められている篤胤史学の左派系登場こそが待ち望まれていると云えるのではなかろうか。篤胤史学の右派系的展開は皇国史観に丸め込まれたことを既に見てきた。左派系的展開をこそ見てみたいのが人情ではなかろうか。あらゆる社会思想が衰微しているこの時代、「篤胤史学」の地平から紐解き直すのは意味のないことではなかろうと思う。在地土着系の思想、イデオロギーの必要を感じている、れんだいこにはなおさらである。 「れんだいこの平田篤胤史学論」 (kodaishi/kokugakuco/hirataatutaneco/rendaicoron.html) |
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れんだいこのカンテラ時評№1195 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年12月 7日 |
れんだいこのファシズム考 これもいつか書きたかったことである。これを発表し批評を請いたい。 左派圏用語で批判的に使用されている「ファシズム&ファシスト」について正確な認識をしておく必要を感じたので、ここで整理しておく。結論から申せば、左翼が条件反射的に批判しているような意味で言うのなら、正しくは「ネオシオニズム&シオニスト」と云うべきではなかろうか。本来、ネオシオニズム批判として俎上に乗せねばならぬものをファシズム批判にすり替えている気がしてならない。 統一戦線なる用語でも考察したが、本来は共同戦線と云うべきである。敢えて統一戦線なる用語を使うところが胡散臭い。ファシズム批判の構図も然りである。ネオシオニズム・テキストに相当深く汚染されている故ではなかろうかと思っている。れんだいこの気づきでは、我々は早くこの汚染から脱却せねばならないと思っている。 そもそも知るが良い。ファシズムの語源は古代ローマの執政官の「束桿」(そくかん、fasces、ファスケス。斧の回りに短杖を束ねたもの)から発している。 当時、執政官は、権威の象徴として儀式用に束桿を使用していた。束桿は束ねられていることから「fascio(「団結」」という意味を持つ。従って、ファシズムは、古代ローマ政治の再生という意味であり、ファシストとは結束した同盟者の集まりという意味になる。これが原義である。これを日本で言えば、縄文日本の伝統に帰れ運動とでも云うものではなかろうか。日本の方は戦闘的なものにはならないけれども。1919年、ムッソリーニがイタリアのミラノで「戦闘ファッシ」を結成し、古代ローマの執政官政治を模範とする運動を組織した。1921年、ムッソリーニがファシスト党((Fascist) を結成した。これにより一連の主義、主張、運動をファシズムと呼ぶようになった。 ここで気づくべきは、これによれば、当事者が自ら命名した用語であるからして、ファシズムは本来は誉れの呼称であり、今日的な誰しも嫌悪する意味は付与されていないということであろう。ファシズムの元々の意味は、古代ローマ時代のローマ人による主体的な政治を偲び学ぶ復権させようとするものであり、当時の時代状況に於いては意味のあることであった。 では、ファシズム&ファシストが何ゆえに嫌悪用語として使われるようになったのだろうか。考えられることは、戦勝国側の洗脳教育の賜物ということであろう。彼らは、ファシスト党の一党独裁的全体主義、国粋主義、排外主義的政治理念及びその活動に対して、戦勝国特権として、「知らしむべからず、よらしむべし」方式で、時代状況と切り離してひたすら嫌悪的意味の代名詞としてレッテルを貼り、これに条件反射するように洗脳教育していったのではなかろうか。「知らしむべからず、よらしむべし」にする必要は、かの時代状況を隠蔽する為である。なぜならこれを明らかにすると、底流に伏在していた「西欧世界を席巻しつつあった国際ユダ屋支配に対する抵抗運動」的動機に触れざるを得ないことになるからである。 尤も、指導者に対する絶対服従、個人崇拝、反対者に対する過酷な弾圧は存在したようである。これはナチス党然り、日本の軍部独裁然りである。しかしながらそれも、当時に於ける国際ユダ屋の世界支配に対抗せんが為の必要悪的統制主義に陥った為と考えられる。この部分を全く顧慮せず、戦後になって戦勝国側がチャップリン式にファシズム&ファシストを描き出し、嫌悪用語として流布させていったものと思われる。れんだいこは、かく理解しているので、左派圏が常用するような意味ではファシズム&ファシストなる用語を使わない。 もっと云えば、左派圏用語で多用されているファシズム批判は、それを云うならネオシオニズムに当てはめた方がより正確ではなかろうかと思っている。何ゆえにネオシオニズム批判に向かわずにファシズム批判に耽るのか。ここを問わねばならない。上述したようにファシズムをファシズムゆえに批判すべき特段の論拠はない。イメージ先行のファシズム批判が作られ、これに条件反射するように教育されている結果の批判に過ぎない。 れんだいこはむしろ従来のファシズム定義はネオシオニズムにこそ当てはまると思っている。その秘密結社ぶりにつき多少確認したつもりだが、長い歴史を持つ悪魔性のものである。諸国民と協和しようとする思想は微塵もない。支配するかされるかを全ての基準にした闘争史のみが透けて見えてくる。こういうものに親和する者のお里が知れよう。 あれこれ思えば、ネオシオニズム&ネオシオニストは手の込んだ批判をすることが分かる。即ち、手前らが常用する悪を、打倒したい相手側の悪であるとして喧伝し叩くと云う変則論法を得意としている。これにより、その悪を叩く側が善人になり、叩かれる側が悪人として裁かれることになる。これはダブルスタンダーと云うよりイビル(evil)スタンダードとすべきでなかろうか。 この論法の気持ち悪いことは、ネオシオニズム&ネオシオニストは手前らの行為を悪と承知している故に相手になすくって批判していることにある。「手前らの悪の行為を悪と承知している故に相手になすくって批判する」などと云う芸をネオシオニズム&ネオシオニス以外に為し得る者がいるだろうか。これを平然と為し得るのが連中である。実に狡知に長けた煮ても焼いても食えない手に負えない我さえ良ければ知を集積させた曲者である。 |
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れんだいこのカンテラ時評№1193 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年12月 4日 |
日本神道考その6 日本神道は、暦のこういう大綱の中で年間行事を巧みに配置している。巧みとは、季節の循環に合わせ、人の成長の折節に合わせ、最も良かれの時期を見定め行事化し、教本によってではなく自然に感化することを言う。暫しこれを確認する。 1月、親族が互いに往来し仲睦まじく宴をする月であるから「睦月」(むつき)と云う。新年は正月から始まる。この期間中、正月休みがとられ心身を革める。人々は神社仏閣を詣でご本尊に向かって元旦の計を誓い祈る。これを初詣でと云う。年賀状をやり取りし年始挨拶をする。この時、極力親族一同が寄り顔合わせする。戸口には門松を飾り、家中では家族一同でお屠蘇(おとそ)を頂き、お餅とおせち料理を食べる。これらにはそれぞれ深い意味が込められている。それが分からなくとも体感するように配慮されている。大人と子供それぞれに様々な正月祝い行事が用意されている。初夢、書き初めの倣いがある。正月休みが明けると御用始めとなり鏡開き、蔵開きする。新年行事を終えた頃合いの7日、七草粥を食べる。14日、成人式の日が来る。この期間、雪国ではスキーが盛んになる。 2月、寒さのために更に着物を重ねて着るので「衣更着」の意味から「如月」(きさらぎ)と云う。3日、節分となり「鬼は外、福は内」の豆まきをする。この時分までは雪が舞い各地で雪祭りが行われる。札幌雪祭りが5日から11日まで行われる。11日、建国記念の日。14日、バレンタインデー。この時期まで雪国ではかまくらの風習がある。 3月、草木がいよいよ生い茂る月という意味で「弥生」(やよい)と云う。雪解けが始まる。3日、桃の節句と雛(ひな)祭りを迎える。この行事には女の子のすくすくした成長を見守る気遣いがある。17日頃、春の彼岸を迎え、20日、春分となる。この日を境に日中の日が次第に長くなる。この日、ぼた餅を食べる習慣がある。中旬頃、つくしが採れ始め、梅が咲き、下旬頃、桜が咲き始める。たけのこが出回り始める。この頃より春の旅行シーズンとなる。高校生の春の甲子園野球がある。 4月、卯の花が咲く「卯の花月(うのはなづき)」を略して「卯月」(うづき)と云う。れんげを始めとする草木が芽生え始め各地で花祭りが行われる。8日が花祭りの人なっている。学校も新学期、会社も新入社員を迎え転勤シーズンになる。中旬よりつつじが咲き、わらびが採れる時期になる。この時期から5月にかけて春の結婚シーズンとなる。恐らく子作りに向いた季節と云う意味だろう。 5月、早苗を植える時期「早苗月(さなえづき)」を略して「皐月」(さつき)と云う。立春から数えて88日目の2日頃、八十八夜を迎える。5日、端午の節句の子供の日を迎え鯉幟りを飾る。この日、柏餅やちまきを食べる習慣がある。この行事には男の子のすくすくした成長を見守る気遣いがある。この前後に長期休暇が取られる。現在ではゴールデンウィークと云われている。中旬頃よりあやめ、さつき、下旬頃より花菖蒲が咲く。下旬頃よりホタルが飛び始める。 6月、水の月と云う意味で「水無月」(みなづき)と云う。「無」は「の」にあたる連体助詞と解されている。衣替えとなり夏用衣服を着るようになる。半ば頃、梅雨入りする。この頃、紫陽花 (あじさい)が咲く。21日頃、夏至となる。この日が一番日中の日が長く、この日を境に次第に短くなる。下旬頃より産地のスイカが順に出回り始める。 7月、書に親しむのに都合の良い時期であることから「文月」(ふみづき)と云う。初夏を迎える。7日、七夕飾り。行事の終りに灯篭流しが行われる。初旬頃よりせみが鳴き始める。ひまわりが咲き、海水浴が始まる。人が海に山に出かけるようになる。土用の丑の日を迎え、うなぎの蒲焼を食す習慣がある。下旬頃より白桃が最盛期を迎える。 8月、葉が最高に生育して茂る時期であることから「葉月」(はづき)と云う。高校生の夏の甲子園野球が始まる。中旬の15日前後にお盆休暇となる。この時、いろんなお盆行事が行われる。この時期の休暇は、連日の猛暑で疲れた体の骨休みをさせよのメッセージが込められていると思われる。お盆明けより秋風が漂うようになる。下旬頃より鈴虫やこうろぎが鳴き始める。ぶどうが出回り始める。 9月、日増しに夜が長くなるので夜長月の意味で「長月」(ながづき)と云う。夏の終りと共にせみが鳴くのが終る。9日、重陽(ちょうよう)の節句。菊祭りの季節となる。栗が出始める。秋の旅行シーズンとなる。11日頃、二百二十日となる。16日、敬老の日。20日頃、秋の彼岸を迎え、23日、秋分となる。この日、おはぎを食べる習慣がある。下旬、コスモスが咲き始める。この月から10月にかけて稲の収穫期に入り新米が取れる。この頃から10月の満月が一年を通じて最も美しく、中秋の名月の観賞が行われる。ススキを飾ると風情を増し、月見団子、栗ごはん、豆を食べる風習がある。この頃より秋の旅行シーズンとなる。 10月、日本中の神様が出雲の国(島根県)に集まり会議を開き、他の国には神様がいなくなってしまうことから「神無月」(かんなづき)と云う。神様の集まる出雲の国では「神在月(かみありづき)」と呼ぶ。衣替えとなり冬用衣服を着るようになる。この頃、各地で神輿やだんじりが引き出される秋祭りが行われる。マッタケが出回る季節となる。魚が実入りの多い時期となる。27日より11月9日まで読書の秋にもなる。下旬頃、柿が出回り始める。この時期が秋の結婚シーズンとなる。恐らく春のそれと共に子作りに向いた季節と云う意味だろう。 11月、霜が降りる頃であることから「霜月」(しもつき)と云う。3日、文化の日。7日頃、立冬。15日は七五三。この行事には子供のすくすくした成長を見守る気遣いがある。中旬頃、熊が冬眠に入り始める。23日は勤労感謝の日。この頃より紅葉が美しくなる。 12月、師さえもが忙しく馳せる月と云うことから「師走」(しわす)と云う。紅葉が次第に深まり、寒冷地では雪が降り始める。22日頃、冬至となる。この日が一番日中の日が短く、この日を境に次第に長くなる。新酒が出回り始める。忘年会シーズンになる。23-25日、クリスマスを迎える。年の暮れ近くになると餅つきが行われ神棚に供える。仕事の御用納めとなり、大祓いする。大晦日の日、昔はNHKの紅白歌合戦が華を添えた。日本伝統食のそばを食べ年越しする。いよいよ新年寸前になると除夜の鐘を撞き耳目を洗う。 このほか、十分には書ききれなかったが四季の折々、人の成長の折々に加えて様々な文化的社会的政治的意味合いの行事と休日が加わっている。但し、基本はこの四季の移ろい行事に上乗せされていると知るべきだろう。これに加えて、共通行事にはならない個人行事がある。既に記したもの以外に誕生祝い、入学祝い、元服、卒業祝い、見合い、結婚、子供の出産祝い、厄払い、葬式等がある。氏子としての用事、お見舞い等もある。 興味深いことは、これらの行事に神道と仏教が深く関わっていることである。そしてそれぞれが住み分け的に共催していることである。これらの定着した行事は日本人が獲得した歴史の叡智と云うべきではなかろうか。人の生き死にのうち誕生-成長面を神道が、死亡面を仏教が主催し、その間をそれぞれが任意に管掌しているように思われる。これも折り合いの叡智だろう。今日ではこれに儒教、道教やキリスト教的要素のものも加えられ、これまたそれなりに和合している。これも日本教らしいところである。 以上を「れんだいこの日本神道考その6」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。 |
れんだいこのカンテラ時評№1192 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年12月 3日 |
日本神道考その5 次に、和暦と日本神道との関わりを見ておく。日本人の生活が如何に神道と深く関わりながら和暦を生み出し、日、月、年を経ているかが分かろう。 大和王朝前、即ちれんだいこ史観による出雲王朝-邪馬台国時代、暦がなかった訳ではない。下手に学問すると、この時代には文字も暦もなかったなる愚論に汚染されてしまう。それは丁度、幕末の黒船と共にネオシオニズムが入り込んで来て、いわゆる西欧学を教えられるまでの間、日本にはろくな学問がなかった、民主主義のない文明開化的に未開の封建主義の国に過ぎなかったとする見地に通じている。良いものは何でも外国輸入としたい訳である。これを外国被れと云う。被れるのは良いのだが、日本には日本の世界に冠たる学問も宗教も言語も政治も経済も文化も精神もあったと承知していなければならない。この見地を失って学び過ぎると学んで却って阿呆になる。一々誰それの名を上げないが迷惑この上ない連中が跋扈し過ぎていよう。 当然、日本には素晴らしく高度な天文学があった。邪馬台国女王卑弥呼は日弥子とも記されており、これによれば天文を観る霊能力者ではなかったかと思われる。そういう天文霊能士が部族、国毎に育成されていたのではないかと思う。もとより天文だけを観たのではない。そこから宇宙、自然、諸国の動向、社会のあるべき姿を探り、生起する諸事に対する的確な指示を為していたのではなかろうかと思われる。これが魏志倭人伝には鬼道と記されているが、何も鬼であったり鬼がいたと云うのではない。中国式学問とは一味違う日本独特の処方が確立されていたということに対する中国史家の表現であろう。そういう者たちにより生み出された暦を和暦と云う。 それによれば、一日を朝昼夕夜の四時に分け、12支の時刻で2時間毎に区分している。その2時間を更に初刻、二刻、三刻、四刻の30分ごとに仕分けしている。これによれば、子(ね、鼠)の刻は午前0時、丑(うし、牛)の刻は午前2時、寅(とら、虎)の刻は午前4時、卯(う、兎)の刻は午前6時、辰(たつ、竜)の刻は午前8時、巳(み、蛇)の刻は午前10時、午(うま、馬)の刻は午後0時、未(ひつじ、羊)の刻は午後2時、申(さる、猿)の刻は午後4時、酉(とり、鶏)の刻は午後6時、戌(いぬ、犬)の刻は午後8時、亥(い、猪)の刻は午後10時となる。2時間単位になつているが、30分単位の四刻で仕分けしている。これを午(うま)の刻で説明すれば、初刻が午後0時で、これを正午とも云う。二刻が午後0時半、三刻が午後1時、四刻が午後1時半となる。大雑把であるが要点を心得た時間感覚ではなかろうか。 一日はそのように仕分けされている。次に月を確認すると、月の満ち欠けのサイクルを1ヶ月として、これが12ヶ月に分けられている。これは四季の廻りの区分に合わせているように思われる。木の芽立ちから葉落ち、その後雌伏して木の芽立ちを迎えるまでを一年としているように思われる。日月の運行法則に従うと丁度一年が12ケ月区切りになるのかも知れない。かく四季折々の循環に合わせて暦が作られていることを知るべきで、日本思想が獲得した相当に深い叡智ではなかろうか。中国暦、西欧暦と並行して独自の和暦を生み出していたことを知るべきである。これは言語にも同じことが云えよう。 それによると、一月(ひとつき)は無(隠れ)月から月の始まり(新月。これを朔とも云う)から始まる。この日を1日(ついたち、月立ち)とする。やがて三日月から半月(これを上弦の月と云う)を経て満月(これを望と云う)に向かう。ここまでを前半の15日とする。今度は逆に満月から半月(これを下弦の月と云う)を経て月隠れまで向かう。これを後半の15日としている。これにより一月が30日となる。このように月の満ち欠けを基準にして一ケ月を定める暦を太陰暦と云う。現在の我々が使用して暦は太陽暦であるので月の満ち欠けとは関係ないが、太陰暦には太陰暦独特の良さがあるように思われ捨て難い。 次に一年を確認する。一年は一巡りの春夏秋冬の四季を区切りとして識別されている。四季は更にそれぞれを六期に分けられる24節気で区分されている。この間、太陽黄経度により春分(0)、夏至(90)、秋分(180)、冬至(270)の節目が入れられている。その間に、春のひがん、八十八夜、二百十日、秋のひがん等が入っている。この区分法で、季節の移り変わりが克明に記され農作業等の手引きとなっている。24節気と太陽黄経度による節目を順に確認すると、立春、雨水、啓蟄(けいちつ)、春分、清明、穀雨の春。立夏、小満、芒種(ぼうしゅ)、夏至、小暑、大暑の夏。立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降(そうこう)の秋。立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒の冬となる。 これによると日月(にちげつ)の運行法則により日、月、年を区分し、これを季節、節季で更に区分し、生活をこれに即応させていることが分かる。こういう和暦は西欧暦とは一味違う暦になっているが、もっと大事に味わうべきではなかろうか。これによると、暦の正しい受け止め方は和暦を捨てるのではなく、和暦を踏まえつつ西欧暦をも取り入れるという並存が望ましかったということになる。本来かくあるべきところ無理矢理に西欧学問の浅知恵でもって日本学の深知恵を排斥した経緯ばかりが残されている。 いわゆる和式の度量法、尺貫法然りである。これによれば、長さ・距離は尺法により寸、尺、丈、歩、間、町からなる。面積は坪法により帖、坪(歩)、畝、反(段)、町からなる。体積は升法により勺、合、升、俵、斗、石からなる。重量は貫法により匁、両、斤、貫からなる。分量単位として分、厘、毛もある。和法が伝統的に育んだこういう知恵は残されるべきところ、政治的に排斥してきたのが西欧化であったことを批判的に確認せねばなるまい。西欧学を取り入れるのは良い、だがしかし日本学を捨てるには及ぶまい、とするのがれんだいこ史観である。 こういう和暦、和式算術法、度量法は日本神道と通じている。日本神道により生み出され、次第に豊かにされ江戸幕末期まで日常的に利用されてきたものである。今にして捨てるに惜しいと思う。薄っぺらな西欧学に媚を売る暇があるなら、日本学をこそしっかり学び、その教えるところに合わせて生活しておけば良かったとも思う。以上を「れんだいこの日本神道考その5」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。 |
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れんだいこのカンテラ時評№1189 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年12月 2日 |
日本神道考その2 「日本神道考その1」では、国際ユダ屋の護教する一神教ネオシオニズムに対する日本神道の汎神論的叡智を窺った。ここでは、日本神道の内部構造について確認したい。以下、れんだいこの仮説を大胆に披瀝する。 一口に日本神道と云っても、その内部には古神道と新神道の画然とした違いが認められる。故に、両者の識別及び相関関係を踏まえねばならない。古神道と新神道の違いは歴史的に発生したものであり、それはどうやら古代史上の政変と関係している。日本神道は、出雲王朝の国譲り政変以降、勝った官軍派の渡来系新神道と、負けた賊軍派の古神道の両派に分かれ、新神道が顕界、古神道が幽界を主宰すると云う折り合いの下で両者が鼎立しつつ護持発展していくことになった。このことを深く知るべきである。 この両派は表見上は親睦するが根底では相容れざるものがあり、この大人の関係がはるばる今日まで続いていると知るべきである。特徴的なことは、諸外国のそれと違い暗闘しつつも平和共存体制下で棲息していったことであろう。日本型政治の特質が宗教的精神界にも通じていることになる。あるいは逆に日本精神界、宗教界のこうした特質が日本型政治に反映して日本政治に止めを刺さない手打ちが特徴となっているのかも知れない。 ちなみに、「勝った官軍派の渡来系」は、古事記、日本書紀等の史書で皇統譜を正当化している。「負けた賊軍派の出雲王朝」を国津神系、手前たちを高天原系と自認する構図で説き分けている。が、ここに大いなる詐術があると知るべきである。何とならば、出雲王朝系の史書を下敷きにしたと思われるホツマ伝え等の史書によると、天照大神を最高神とする高天原譚は元々国津神系神道に取り込まれており、聖域的王権物語として権威づけられていたことが分かる。とすれば、国津神系と高天原系は対立するものではない。それを、「勝った官軍派の渡来系」が、国津神系神道が温めていた天照大神信仰の権威を横取りし、我こそが高天原王朝の正統な嫡孫であると僭称することで、国津神系諸豪族にイデオロギー的攻勢を仕掛け、様々な利益誘導的懐柔策で手なづけて行った形跡が認められる。 よって、国譲り譚、天孫降臨譚、神武天皇東征譚とは、渡来系及びこれに同盟した国津族と、これに抗した出雲王朝系国津族との天下分け目の王権戦であったと考えられる。れんだいこは、これに邪馬台国が関係しているように了解している。これによれば、神武天皇東征軍に抗した国津族とは出雲王朝系と邪馬台国系の在地土着系諸部族の連合軍であったと解している。この系が敗北したことにより国津族系王朝の痕跡が一切解体されたと思っている。 この古代史解析構図は既に何人かが唱えている。れんだいこもその一人として「れんだいこ史観の白眉な指摘の一つ」であると自負している。これまで、このことが分からぬ為、古代史研究の多くの研究者が道に迷っていることを思うとき、これを訂正し研究の本来の軌道に据え直した功績があると自負している。誰も言ってくれないので手前で褒めておくふふふ。 実際、かく構図し直すことにより日本古代史、上古代史の暗雲が去り視界が大きく広がる。これによると、古事記、日本書紀等の史書に基づく国津神系対高天原系の戦いなる構図は歴史の詐術であり、国津神系対渡来系の戦いとして正しく位置づけなおさねばならないことになる。これによると、国津神系対高天原系の戦い構図をそのままに継承し、国津神系を賊軍、高天原系を官軍的に描き、官軍の聖戦イデオロギーを煽る近代天皇制擁護の皇国史観は、歴史詐術を強めた悪しきものに過ぎないと云うことになる。 戦前の皇国史観批判の構図はかく定められねばならない。実際には、津田史学的荒唐無稽論で批判したつもりになっているが、そのような批判は外形的なものでしかない。戦後史学は、津田史学的荒唐無稽論の見地からではなく、れんだいこの指摘する記紀神話構図批判に向かい、古史古伝各史書の精査も含めて古代史、上古代史の実態解明に向かわねばならなかった。残念ながらそうはならず、この方面の研究は個々の学者がまさに個々に研究し個々に発表しているに過ぎない。こういう寒い状況にあることが知られねばならない。 これを分かり易く云うと日本の真の国体史の解明と云うことになる。国体論は北一輝その他が言及しているが、既存のそれは皇国史観に馴染んだものでしかなく、れんだいこから見て真の国体論にはなり得ていない。れんだいこ式真の国体論によれば、凡そ皇国史観とは真逆の神人和楽的王朝楽土論に行き着くはずである。それは本質的に世界諸国民との共和思想を奏でており好戦イデオロギーを振りまくようなものでは決してない。 してみれば、幕末維新は、古神道の御教えに適う方向と後の皇国史観に通ずる方向との相克でもあったことになる。史実は権力者は後者の道を選択した。上から皇国史観を鼓吹しぬいた。大衆は、皇国史観を受容しながらも古神道の恵沢にも与っていた。戦後は、古神道の御教えに適う方向の復権の道もあったが、皇国史観の座を国際ユダ屋のネオシオニズムにすり替えた道へ向かったに過ぎない。ネオシオニズムの暴力性は、権力者の篭絡は無論のこと、大衆が与っていた古神道の恵沢をも奪おうとしている。ここに戦後の思想的課題の本質がある。かく解している。これをとりあえずの「れんだいこの日本神道考その2」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。 |
れんだいこのカンテラ時評№1188 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年11月29日 |
日本神道考 ここで、日本神道を考察する所以は、現下の政治情勢が意図的故意の国際ユダ屋の陰謀によって日本及び日本人の国家的社会的自然的共同体(以下、これを仮に「国体」と命名する)としての紐帯をあらゆる角度から解体せんとしていると思われるからである。それも何によってか分からないがかなり性急に仕掛けられている。それは傍観する能わずの感がある。これは国体の危機であり、もっと真剣に防衛せねばならない。それはどういう理由によってかを説くのは別の機会に譲り、ここでは国体擁護の観点から論考したいと思う。 これを為すには政治、経済、文化、精神、言語の各域からの考察が不可欠であるが、話しが拡散するので、ここでは日本独特の宗教的形態である日本神道に絞って論じたいと思う。日本神道とは、世界の宗教がそうであるように民族又は国家の原基を為すものであり、日本の国体の基盤即ち要(かなめ)ちゅうの要を形成しているものである。西欧語ではアイデンティティーと表現されているが、アイデンティティーちゅうのアイデンティティーと言い換えても良い。こういうものを放棄して一向に差し支えないとする左翼理論があるが、それは理論の間違いであり、左翼理論が国体論を放棄してよいと云うのは国際ユダ屋に加工され捻じ曲げられた故のものでしかない。 本来、右翼であろうが左翼であろうが、それぞれの国の国体は第一義的に擁護されなければならない。その基盤の上に国際主義が花開くものであり、国際主義と国体主義を鋭角的に対置させ選択を迫るのは、国体主義が排他的独善的なものである場合に於いてであり、日本神道の御教えのように諸国民共和的な場合には通用しない、馬鹿げた理論でしかない。これは言語論にも云える。当然、政治、経済、文化、精神論にも云えることである。 それでは、そろそろ日本神道とはどういうものであるかについて開陳しておく。結論的に述べれば、日本神道とは、国際ユダ屋の信奉するネオシオニズム宗教が「選民による、選民の為の、選民独裁政治及び社会」を目指すのに対し、対極的な「諸国民による、諸国民の為の、諸国民共和政治及び社会」を目指す「祈りと祀りの型」である。この「祈りと祀りの型」は、ネオシオニズム宗教が自然を敵視し支配征服の対象としているのに対し、自然と順応し調和共存の対象としていることにも違いが認められる。分かりやすくいうと、自然は支配するものではなく畏敬し調和するものとしていると云う違いがあるということである。 ネオシオニズム宗教が唯一的、超越的、絶対厳命主義的最高神を戴くのに対し、日本神道の神は多神的、神人和楽的、合議主義的最高諸神を戴いている。ざっとこのような違いがある。国際ユダ屋式学問によれば、唯一的、超越的、絶対厳命主義的最高神こそが最高発展段階の宗教であり、日本神道的な多神的、内在的、神人和楽の合議主義的最高諸神は汎神論的アニミズム宗教として下位に位置づけられている。しかしそれは、ネオシオニズム宗教派の得手勝手な物言いに過ぎず、唯一神的宗教が汎神論的宗教に優越する論拠はどこにもない。本来、それは「祈りと祀りの型」の違いとして等位的に共存すべきであるところ、ネオシオニズム宗教派が勝手にランクづけしているに過ぎない。 史上、20世紀の急速な国際交流化を経て、その流れがますます強まる21世紀を迎えているが、この時代にあってはむしろ、国際ユダ屋の信奉するネオシオニズム宗教の限界こそが表沙汰になりつつある。ネオシオニズム宗教を原基とする政治、経済、文化、精神論ないしは施策が形成した世界秩序は、それらのものを究極まで開花させることにより、むしろ弊害をもたらしつつある。これを逐一述べてもキリがないので、ここでは原発を論ずる。 原発とは、自然素材のウランを異常化学的にウラニウム化させ爆発させることで電気を起こさせるものであるが、異常化学であるが故に稼働中も危険極まりなく、燃焼後の核灰物の処理がこれまた厄介極まりないと云うリスクを抱えている。後先を考えれば、このような発電装置を手がけるべきでないところ、国際ユダ屋は目先の利益に幻惑されてか、後は野となれ山となれ式の無責任経営をして今日まで至っている。日本神道の弁えでは、そのような発電装置には手をつけない。そういう悪魔科学性のものは忌避し、環境適応型の自然諸力応用発電装置を創造する。原発事故後、世界の趨勢となりつつあるエコエネ発電は日本神道の指し示す道である。宗教の「祈りと祀りの型」の違いにより、こういう風に世界が変わることが分かる。 一端だけ述べても、かくも素晴らしいネオシオニズム宗教と最も対比的な日本神道の叡智を今こそ紐解かねばならない。これが、れんだいこの日本神道論の構図である。その日本神道は何も堅苦しく厳(いかめ)しい神社作法によって学ばなくても良いようにも思っている。それは知れば良いし、そのお陰を受ければよい。それにより感応するものがあるに違いないとも思う。ただ、れんだいこの日本神道論は少し違う。日本神道の極意は言葉の中に宿っていると思っている。日本語の中には丸ごと宿っているが何も日本語だけではない、世界の言葉と云う言葉の中に日本神道が宿っていると思っている。それはどういうことか。 結論から言えば、世界、自然、社会に在るものを如何に眺め、了解し、対応し、共認し、教訓化し、折り合いを取って行くべきかの教示的モデルを示しているのが日本神道であり、故にこれを逆から云えば日本神道とは日本だけのものではない、世界じゅうにある気づきの御教えの体系である。れんだいこはかく解している。その体系が、ネオシオニズムとは真逆の気づきを教えているところが面白い。日本神道が日本神道であるのは、それを日本的な「祈りと祀りの型」に高め精錬したところに認められる。かく解している。 そういう意味で、日本神道の扉を開け、その薀蓄に身と心を洗われてみたいと思っている。その修行法は至るところにある。何しろ言葉の中に生きているのだから日常の中に在ると云っても良い。天理教の御教えの中に「山の仙人、里の仙人諭し」があるが、そう我々は誰しも里の仙人である。これを磨くか磨かないかだけの違いである。 日本神道は書のない不文律と云われる。これはどういうことか。律法書がないのではない、あらゆる事象が法になり、逐一説くには及ばない、説けばキリがない万冊の文になる故に逐一記せない、記すより体感で眼力を養いコツを会得した方が早いとする故の不文律と解するべきと思っている。こういうことが総合的に関係して日本神道は戒律のない世界に珍しい宗教になっている。 とりとめのない思いつき話しになったが、これをとりあえずの「れんだいこの日本神道考その1」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。 |
れんだいこのカンテラ時評№1187 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年11月28日 |
れんだいこの東照宮御實紀巻考その2、特定秘密保護法案考 れんだいこの脳内においては、大衆向けの歴史読み物としての近現代政治史書がないことと現下の特定秘密保護法案が絡む。2013年の自民党安倍政権下で特定秘密事項保護法案なるものが上程され、衆院通過、参院にまわされたのが目下の状況である。これを如何に成敗すべきか、以下愚考する。 特定秘密保護法案は、法がまともなら特定秘密事項保護法案と記すべきものであろうが事項が消えている。戦前の治安維持法並みの包括的法案となっている。立法者の狙いが透けて見えてくる話しである。それによれば、公務員による国家機密の漏洩を重刑事罰でもって保全しようとする法案と云うことになるが、如何にも国際ユダ屋好みの法案であろう。国家機密指定期間も著作権法に合わせてか「秘密の指定期間は原案では原則30年以内だった。それが最長60年へ事実上の倍増となり、60年を超えて指定できる例外も設けられている」とのことである。 国際ユダ屋連中は、彼らが狙いを定めた国家が御せない場合には革命的民主主義の立場であれこれの反政府運動を支援し、いざ権力を掌握すると手の平を返し、旧政権どころではない強権支配体制を敷くことを好む。こたびの特定秘密保護法もその一つである。これを擁護する者は、既に諸外国では当たり前の法律に過ぎないと説教してくれる。 だがしかし、アメリカの防諜法、イギリスの公務秘密法、ドイツのスパイ防止法をベースにする刑法や保安審査法、フランスの刑法、韓国の刑法、国家保安法、軍事機密保護法等を挙げるが、何のことはない、これ皆な国際ユダヤが篭絡せしめた国の一足先の画策物に過ぎない。故に諸外国でも既にあると云うのではお話しにならない。 国際ユダ屋が牛耳るところどこでもこういう法ができると承知したい。戦争、国債、消費税が連中の金融操作の賜物とすれば、これは法操作の範疇のものとなる。 思うに政治には機密がつきものである。その機密を否定できるものではない。それはそれで良い。良くないのは、これまで歴代の政権が政権-官僚責任で内部保全してきたものを、こたび敢えて法案化せんとする意図、狙いである。そういう法ができると一人歩きし始めるのが歴史の教えるところである。この次に出てくるのが戦後版の治安維持法であろう。特定秘密保護法案はその地均しと思えばよい。 この法では誰が特定秘密事項縛りを決めるのかと云う肝腎のプロセスがブラックボックスになっている。安倍首相がご安心あれと胸をたたいているが、国債発行のときも福田蔵相が胸をたたいている。結果は今ある通りの1000兆円借金国家日本となっている。こういう法案を通すと、その先に待ち受けるのがどういう社会であるのかに暗澹とさせられる。機密情報公開の流れにあった20世紀において、21世紀を想像した社会の中にこういう愚劣な社会図が予想し得た者が居るだろうか。 国際ユダ屋は手前たちだけが掌握する国家機密とその管理をことさら好む癖がある。かの著作権法も国際ユダ屋が編み出したものである。著作権法の真の狙いは知の管理にある。手前たちに有利な知ないしは情報をこれでもかとばかりに市場に提供し、不利な知は制限して目に触れさせないようにする。これが著作権法の真の本質である。ドイツでは未だにヒトラー論、ナチス論が禁句とされており、たまに研究発表が許されるとすれば国際ユダ屋テキストの指針通りのものでしかないのは衆知の通りである。これに照らせば著作権者の権利保護とかは二次的なものでしかない。 TPPによると更に厳しい著作権的締め付けが待ち受けているようである。学んで余計にバカになった連中は、この仕掛けが分からず、先進国権利だとか文明権利だとかで煙に巻かれ、その気にさせられ、勝手にあれこれのもっともらしい理由をコジつけて著作権法強権化に勤しんでいる。この連中は本質的にバカなのでが議論が通じない。れんだいこの見立てによると、権利病者の成れの果ての漬ける薬のない連中によるたわごとの所為と受け止めるべきで、勝手に先進国権利だとか文明権利だと懸想しているだけで、著作権狩りしている姿は知の森を槍でつつく相当野蛮な狩猟者の姿でしかないと申し上げておく。ここでは、これ以上問わない。 社会を規制するのに強権的著作権法ばかりではない。最近は個人情報保護法案なるものが登場し情報制限が甚だしい。強権的著作権法と相まって知的情報の整理と伝達スピードが格段に遅くさせられている。こたびの秘密保護法案は、これにもう一つ屋上屋を重ねる悪法であることは疑いない。それは、国家機密を幅広く網指定し、それを一握りの国際ユダ屋及びその息を嗅ぐグループのみが知り得て、その余の者には知らせないとするわざわざの法案である。今後は国民は目隠しして行進させられているようなものと思えばよい。どこに連れて行かれるのかさえ分からない。 現に福島原発事故の例を見れば分かろう。事故発生直後から国際ユダ屋の側には東電発の刻々の克明な情報が伝わっており、当の被災国の日本には伝達されていない。これは何も国民レベルだけではなく、国政にあずかる国会議員レベルも同じである。せめて権力を掌握する官邸ぐらいには伝わっていると思われるが定かではない。東電は国際ユダ屋側には全ての情報を知らせているが官邸に対してはコマ切れの都合の良い情報だけ上げている可能性が高い。民主党菅政権の東電本社での罵倒劇を見れば、真相は官邸にさえ伝わっていないと云う肌寒い状況が暴露されている。全てを知るのは独り国際ユダ屋ばかりなりと云う信じられない痴態が常態化している。 秘密保護法案とは、福島原発事故情報事例の社会全般への応用と云う風に考えられる。国家統治機構のあらゆる部署で、福島原発事故情報の例にちなんだ知らせて良い情報と秘匿情報が仕分けされ、秘匿情報が次第に増幅していくということが考えられる。民間は「お上の例」に倣うので、こういうことが急速に広まる可能性が高い。個人情報保護法案の例の如くになることが予想される。一足先に米国がこういう社会に突入しており、今やその秘匿情報が膨大になり過ぎて逆に漏洩し始めるという滑稽なことになりつつあるようである。更には一情報開示当り幾らと云う新しい利権が生まれつつあるとのことである。まことに国際ユダ屋の考えること為すことの守銭奴ぶりは却ってお笑いでしかない。 この動きに最近の選挙不正問題を合わせて捉える必要がある。近現代史上の議会制なるものが生まれ国民に参政権が与えられた。ところが近年、開票マシーンなるものが導入され、選管チェックの及ばぬ怪しげな集計発表がなされ、これに対して落選した議員も政党も不審を述べないという異常が続いている。不正開票マシーンによって選出された選良がまともな政治なぞできる訳がない。これが現代政治の貧困の元凶である。これにて近代的議会制民主主義の諸理想が画餅に帰したことを確認せねばなるまい。今はそういう時代だということを的確に認識しなければならない。 しかし何事も考えようである。国際ユダ屋が手前たちの思う通りに操れば操るほどに、その下賎な正体が明るみになる。隠れて操作する時代が終わり、公然と御す時代になればなるほど国際ユダ屋の正体が露になり、一挙的に殲滅される日も近づくということになる。これが歴史弁証法である。この法理から逃れ得た例を見たことがないので、連中の悪事が強まれば強まるほど崩壊も早まると見立てたい。連中は思う通りになり得意然としているがバカ丸出しとみなしたい。連中は滅びるまで掘り続けるのだろうが既にお笑いの対象となっていることに気付いていないようである。 |
れんだいこのカンテラ時評№1186 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年11月16日 |
漢字、ひらがな、カタカナの表記使い分け考 ここで「漢字、ひらがな、カタカナの表記使い分け考」をしておく。これが上手にできると日本語の世界言語化に資し逆の場合には日本語が捨てられることになる。という意味で、この考察は重要である。これを上手く為すためには漢字、ひらがな、カタカナの言語的由来を踏まえた言語論を獲得した上で応用する術を得なければならない。これについては別途「言語研究」のそれぞれの項で追々に考究している。ここでは「漢字、ひらがな、カタカナの使い分け方」を確認しておくことにする。 まず、漢字表記の使い方を確認する。れんだいこ文法によると、漢字は、漢字表記の方が簡潔明瞭正確に表現できる場合の記述法として使用されるべきと考えている。いわゆる漢字熟語がそうであるが、ひらがな、カタカナで記されるよりも締まった感じがあり語彙の意味が伝わり易い。漢字は概念をはっきりさせる良さがある。こういう場合には積極的に漢字を使うのが望ましい。漢字発音は呉音、漢音、宋音、唐音に分かれる。日本語では音読み(中国言葉式)と訓読み(大和言葉式)の二通りの読みがある。気づきにくいのだがさらに大和言葉の漢字宛がいから生まれた大和言葉式音読み漢字がある。これで三通りになる。中国音の四通りを踏まえれば七通りあることになる。これらは歴史的に獲得されたものであり、あり過ぎを批判しても始まらない。習熟することにより言語表現が豊かになるとポジティブシンキングしたい。 次に、ひらがなの使い方を確認する。ひらがなは第一に、「てにおは」と呼ばれる接続助詞として使われる。「『てにをは』は日本語における格助詞で、外国語には見られない日本語特有のもので日本語の基礎です」と説明されている。まことに然りであり、これにより文章全体が柔らか味を得る。「てにおは」を使用することにより、ひらがなの前後の漢字語彙を識別させ、それらを引き立てると云う効用がある。新聞紙面の見出しで、漢字語彙が目に飛び込むことで記事内容が分かるという傑出はこれによる。 ひらがなの効用の第二は、例えば「こと、もの、とき、ほど」、「あれ、これ、その」などのように、日本語の元々の大和言葉には漢字表記に馴染まない、漢字表記では意味が限定され過ぎて却って意味が正しく伝わらないと云う汎用性言語があり、限定的に使う場合には漢字表記するのが良いにせよ、意味を広く理解させるには大和言葉そのままのイメージを大切にさせてひらがな表記で生かす方法もある。要するに使い分けである。これがひらがなの効用の第二である。第三に、例えば「ふるさと」のようにひらがなで表記した方がより適切と思える熟語があり、漢字の「故郷、故里、古里」との併用ないしは使い分けをすることもできる。これも煩わしいと受け取るのではなく日本語の豊かさとみなすべきだろう。 次に、カタカナの使い方を確認する。カタカナは、ひらがなと互換性がある。と云うことは、カタカナがカタカナとして使われる為には独自性を見出さなければならないということでもある。最も頻度が高いのは外来語表記に使われるカタカナである。これにより和産のものと外国産のものを区別できる。この識別ができるのは、れんだいこの知る限り日本語だけのように思われる。これも日本語の優れたところである。あるいは擬態語、擬声語、擬音語の場合には、ひらがなで記す場合もあるがカタカナの方が却って語感を増す場合があり多用されている。あるいは、言葉を目立たせる場合に敢えてカタカナ表記する場合がある。カタカナはこういう風に使われる。 とりあえず、以上が、れんだいこ式「漢字、ひらがな、カタカナの使い分け」である。漢字、ひらがな、カタカナの上手な使い方がコツで、日本語の能力を引き出すことができる。これに照らすとき、戦前までのひらがな領域までの漢字の多用し過ぎは邪道であり、文章を堅苦しくさせるばかりである。これを仮に「硬文」と命名する。逆に、戦後は戦前風の漢字過多使用を抑えており、その分、読み易くなっている。これを仮に「柔文」と命名する。れんだいこが思うに、戦後の柔文の方が言語学的に見て日本語の特性の理に適っており進んでいるのではなかろうか。ひらがな、カタカナの発生意義を考えると、これを生かす方がより日本語的と思えるからである。これによれば、第148回芥川賞を受賞した黒田夏子氏の「abさんご」(早稲田文学5号)のひらがな多用表現は挑戦的な日本語擁護文学と云えよう。 それはそうとして、戦後は当用漢字、常用漢字による漢字の文字規制をし過ぎた為に語彙がすっかり細っている。これを適切な水準まで取り戻せねばならないとも思う。少なくとも地名、人名、法律文に使われている文字は常用漢字内に復権させるべきだろう。これを分かりやすく理解するには、脳のシワを増やす方向が良く、逆に脳をツルツルにするのは良くないと考えればよい。但し、物事にはほどほどの見極めが必要で、専門家が指針させるべきであろう。目下の戦後来の絞り込み過ぎは日本語の能力を欠損せしめているであろう。 略字についても一言しておく。略字は、略字が元の語義を損なうことなく略字化している場合に限り大いに使用されるべきだと考える。画数の多い漢字は書きづらく、見た目も美しくないし、読み書きの現代的スピードに相応しくないという理由による。 ところで、日本語の漢字の略字は中国語のそれよりデキが良い。当時の略字に関わった学者は賞賛されるに値する。そういう意味で、中国は日本語の略字を取り入れるべきであり、日本も又優れた中国略字を取り入れるべきだと考える。こういうところで排外主義的な界壁を設けるには及ばないと考える。いつの日にか、漢字圏である中国、日本、朝鮮、韓国、台湾が共同して互いの漢字言語を総合比較させ、合理性の高い共通常用文字を生み出すべきであろう。そういう時代が来れば漢字言語がより豊かになると思う。アルファベット系文字と漢字系文字の並存と云うツーワールド言語社会こそが将来に相応しいと思う。この理屈は当然他にも当てはまろう。 |
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れんだいこのカンテラ時評№1180 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年10月28日 |
れんだいこのイエズス会考その2 「れんだいこのイエズス会考その1」で述べたように、今から約500年前の日本史上の戦国時代、日本初のネオシオニズムが来襲し大勢のキリシタンを誕生させた。狙いは、世界の例で分かるように日本を植民地化することであった。丁度この頃から日本で「主家殺し」、「王殺し」、「在地宗教殺し」の三点セットが激化している。キリシタン大名の支配するところに共通してこういう現象が現れている。これを偶然と見るべきだろうか。 通俗史書は何の関わりをも見ようとせず、単に時系列的に出来事を記して足りている。そういう歴史では真相が見えてこない。何故に歴史を学ぶのか意義が分からなくなろう。そういうことからする歴史嫌いが増えているようにも思われる。れんだいこは、そういう歴史記述に挑み続けている。歴史は今に繋がる生きているもので学べば面白く有益なものである。そういう歴史学を取り戻す史学を打ち立てたい。 時の織田、豊臣、徳川政権が彼らの策謀を見抜いた。織田信長は安土城建立の頃からバテレン離れしている。それまでの天下布武の過程ではかなりバテレン勢力の後押しを得ている形跡がある。その道中、宣教師と仏教坊主と宗義問答を闘わせている。どういうやり取りが為されたのか興味があるがネット上には出てこない。こういう知りたい情報に限ってネットには出てこない恨みがある。 宣教師フロイスの「日本史」に多少の記述があり、これが紹介されているが、かなり身びいきに問答改竄されていようから参考にしかならない。その信長の晩年、バテレン勢力の差し金と推定できる荒木村重の乱が起り、これを見事に鎮圧したものの明智光秀の本能寺の変で討ち取られている。 結果的に、その後継の豊臣-徳川政権が渾身の知力、武力で死闘的攻防の結果、彼らを撃退した。ここが世界各地の籠絡された植民地と違う日本史の気高い面である。その結果、良し悪しは別として鎖国へと導かれた。何事にも功罪が相半ばしてあるので一面的な断定は控えるべきだろうが、少なくとも得たものと失ったものを秤に掛けて時宜を評せねばなるまい。時間軸を抜きにした単調な礼賛、批判は愚かであろう。そういう評論ばかり目にするけれども。我々の父母祖はかの時、相手の素性を見破り賢明に対処したと解すればよい。よほど能力があったと評するべきであろう。 太田龍が早くよりこの観点を打ち出している。この視角は珍しい。これを聞かされた時のれんだいこはピンとこなかったが、以来、検証してみて、数々の証拠が「太田龍の言の正しさ」を物語っていることに気づいた。 これが真実だとすると、当時の支配者・豊臣秀吉の「バテレン追放令」には充分すぎる根拠があったということになる。こうなると、従来の「バテレン追放令」から鎖国へ至る過程を否定的に評する見方を変えねばなるまい。従来の歴史記述は大幅に変えられねばなるまい。学問が学問足り得る為には、この内在的必然性を検証せねばならない。 今、この問題の考察をしたくなった理由は、目下の日本が日本史上あり得なかったネオシオニズムによる露骨な支配を許しているからである。稀代のシオニスタンによって首相、官邸、政府、野党各党をも含む「政財官学報司警軍」の八者権力機関が彼らの御用聞きによって占拠されてしまっている。このことを凝視したい。 はっきり云っておく。小ネズミも前原もシオニスタンではないのか。現代日本政治の与野党対立なるものは、その同じ穴のムジナが猿芝居しているに過ぎないのではないのか。連中が、国庫秘蔵金の郵政事業金を放出し、次に皇室解体、憲法改正、自衛隊の軍事戦闘化と戦後構造の諸「改革」に矢継ぎ早に乗り出している。既に主要事業及び産業の有望企業は中曽根以来の民営化路線の下で無残にも外資化されている。我々はこれ以上指をくわえて座して眺めるべきかということが問われている。 ここまでが、「2006.1.28日」の記述である。かの時より民主党政権を経て今は安倍政権下にある。ネオシオニズムの日本席捲の流れは流れは止まらないばかりかますます激しくなっている。民主党政権時、自公政治に劣らないネオシオニズム御用政治を見せつけられて来た。今に至る民主党に対する嫌悪感は、この時以来のものである。 この流れの中で目下、安倍政権が、福島原発事故対応不能下での原発再稼働、その輸出、その建て替え、TPP推進、消費税増税、公共料金の値上げ、物価上昇政策、憲法改正、自衛隊の武装海外派兵、所得格差推進、相変わらずの国債刷りまくり等々目を覆わんばかりの悪政を矢継ぎ早に打ち出している。安倍の後継を待ち受けている石破となると更に酷いネオシオニズム御用聞きの徒輩である。もう無茶苦茶としか言いようがない。 おとなしい日本人はどこまで耐えるべきなのか。この局面に於いて現代人の我々が何を為すべきか。受け皿となる闘う主体が出てこないのか。出てこないのならどう創るべきなのか。これを共に考え歴史に有意な活動歴を遺そうと思う。この思いから書かれたのが本稿である。「ザビエルの来日布教」の「元一日」から解かないと真相が見えてこないのではなかろうかと思い説き明かしたつもりである。 補足。ネオシオニズムに容喙された政治はなぜことごとく本来期待されている政治の逆ばかりするのだろうかの問いをしておく。れんだいこの解は思想ないし精神の歪みであるとする。ここが全ての発祥元なのではなかろうかと思っている。 ネオシオニズム以外の世界の諸思想、精神は凡そシルクロード的交易で足りて良しとする。独りネオシオニズムがワンサイド取引に狂奔する癖があるのではなかろうか。彼らは、ただひたすらに金貨を集積し資本となし、それで世界を思うままに操れるとする妄想を逞しゅうしている。そこから悪事の限りを発想し世界改造を構想していると見なす。そういうワンワールドを虚妄とする精神と思想と運動を生み出し、対するものを生み出したいと考えている。 |
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れんだいこのカンテラ時評№1174 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年10月 7日 |
三島最後のドキュメント考その9、れんだいこ推理への議論要請論 れんだいこは、三島由紀夫の死因について以下の「三島最後のドキュメント考」三部作で論証した。「その7、割腹事件のれんだいこ推理」、「その7の2、割腹事件のれんだいこ推理補足」、「その8、人、虎孔裡(こうり)に堕つ禅問答考」。そこで通説の自決論に疑問を投じた。ブログに対するレスがないのは、既に相当昔の事件故に今更どうでもよいとしているからなのだろうか。あるいは驚天動地の奇説のゆえだろうか。 れんだいこは、その昔、日本共産党諸問題のブラックボックスになっている「宮顕リンチ殺人事件」の蓋をあけた。通説が、党内スパイ摘発上の止むを得なかった不慮の死事件であるとしているのに対し、スパイ派の宮顕派が党内最後の労働者畑系の党中央委員小畑を査問致死せしめたものであり、小畑氏の名誉回復こそが急がれている、宮顕こそスパイの頭目であるとして断罪せよとの逆説を投じた。この論考がさほど注目されることなく今日に至っている。それは今日的には人気のない左翼圏の出来事であったことによるのかもしれない。あるいはこれもまた驚天動地の奇説のゆえだろうか。 しかし、三島事件となると右翼圏の関心事である。右翼がこれに関心を払わないとすれば、日本と云う国は左翼も右翼も脳死していることになる。そういう者たちの弁明を許せば致し方なかった面もある。なぜなら圧倒的に情報が不足しており、当時に於いては当局仕立ての事件論をもって理解するしか他に方法がなかったからである。故に恥じることはない。故に「宮顕リンチ殺人事件」にせよ「三島市ヶ谷自衛隊基地事件」にせよ通説に従った者たちを悪しざまに云うつもりはない。 問題はこれからである。現在では当時にはなかった資料が開示されている。れんだいこはたまたまこれを見つけ、子細に検討し直した。「宮顕リンチ殺人事件」では事件関係者の陳述調書が漏洩され、これを手にしたことが始まりとなった。「三島市ヶ谷自衛隊基地事件」も然りで、ネット上で「自決ではない論」が開陳されており、これを読んだことが始まりとなった。これらを虚心坦懐に読み、れんだいこが推理した結果、「宮顕リンチ殺人事件」では「宮顕こそがスパイ論」、「三島市ヶ谷自衛隊基地事件」では「三島は強制自決させられた論」に辿り着いた。 新資料に従ってこういう見解が出た以上、本来は議論があって然るべきである。何もれんだいこを売り込もうとしているのではない。れんだいこ立論の精査をせねばならないと申し上げている。これの検証を抜いたまま相変わらずの通説論を唱えて平然とするのは知の怠慢だろう。当然、れんだいこ見解の方が間違っている場合もある。その可能性も含めて議論せねばならない。これが知の弁証法と云うものである。世に弁証法を云う者が多いが、云うばかりで未だこの作法が根づいていない。大いに不満である。原発論も然りである。原発稼働論は福島原発事故までは許されても、事件後も相変わらずの安全論、クリーン論、安価論唱え平然としておられるなどは正気ではない。こういう風にすべてに関係している。 論によっては曖昧で良いものもある。白黒つけねばならないものもある。本件は後者の方である。故に決着つけねばならない。三島事件に於いて、三島の死が自決なのか自決に似せた強制死なのかをはっきりさせねばならない。それが三島事件論ひいては三島論総論に関わる重要なファクターである故に疎かにできないと考える。ここまで述べても無反応だったとしたら勝手にせぇと云わせてもらうしかない。 |
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れんだいこのカンテラ時評№1171 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 9月21日 |
れんだいこの三島由紀夫論その4、保守論壇の再解析考 れんだいこの三島由紀夫論の最後を、三島論を通じての保守論壇の亀裂とれんだいこによる再解析に向かうことにする。これに恰好の論文が山崎行太郎氏の2013.9.17日付けブログ「保守論壇亡国論』と西尾幹二論」に発表されている。西尾幹二氏の三島論、三島論を廻る江藤淳と小林秀雄の対立に対する西尾見解に対して山崎見解を対置している。 ブログによれば、西尾氏は著書「三島由紀夫の死と私」その他で、三島を保守論壇の「神」として絶賛する他方で、三島の割腹自殺を否定的に評価する江藤淳批判に精を出している。西部邁も櫻井よしこも、江藤淳を批判・罵倒することから言論活動を開始している。「本書で取り上げた保守論客たちの中で、思想的影響を受けた人として江藤淳の名を挙げているのは、中西輝政ぐらいであろう」とのことである。 三島の割腹自殺の評価を廻って「江藤淳&小林秀雄対談」が為されており両者は激しく火花を散らしている。小林は吉田松陰の処刑死と同様の線で三島の割腹自殺を惜しむ見地を披歴している。他方、江藤は「ごっこに過ぎない」と敢えて無駄な死批判の見地を披歴している。山崎氏はこの対談を次のように評している。「江藤淳と三島由紀夫、そして小林秀雄の戦い。私はこの対談を、どちらが正しく、どちらが間違っていると思いながら読むつもりはない。小林秀雄も江藤淳も妥協せず、世論や時代に迎合せず、真剣勝負を行っている。この思想的・文学的戦いこそ本物であった、と私は考える」。 ところが、西尾氏は「三島事件について、福田恆存や中村光夫をはじめ、多くの作家や批評家たちが沈黙し、発言を逡巡する中で、西尾は江藤淳を激しく批判・罵倒し始める」。「江藤淳&小林秀雄対談」で三島の死を肯定的に評価した小林を良しとし、批判的な見地を披歴した江藤を「三島の死に対する冒涜」としてクズ呼ばわり批判で溜飲を下げている。 山崎ブログの要点は以上であるが、これに啓発されて、れんだいこ論を投下し介入してみたい。れんだいこは先に2013.9.12日付けの「三島最後のドキュメント考その1、本稿の意義」を皮切りに数ブログの三島論を発表した。 そこで、三島最後の真相は云われるところの三島の天晴れな割腹死ではない。当局に拉致監禁されたうえでの強制切腹死事件であり、当の三島は半ば生還し半ば殺されることを覚悟のうえで飛び込み、結果的に死が強制されたものである。それは儀式殺人の感がある処刑であったとの推理を披歴した。三島事件をかような見地から推理したのは、れんだいこが初めてではない。れんだいこ推理を呼ぶ先行のものがあり、それを少々精緻に論述したところに値打ちがある。 さて、こうなると、事件の真相に迫らず、これまでのような「三島の天晴れな割腹死」を賛美する一連の評論が急速に色褪せてこよう。逆に三島の死を批判した江藤の論の方が却って三島の心情を正確に忖度しているのではなかろうかと云うことになる。考えてみれば、江藤の三島事件批判は何もそう慌てて死に急ぐことはあるまいとする見地からの、「三島批判ではない三島の死批判であった」ことに気づかされる。例えてみれば、親が子を叱る時のような慈愛に満ちた、それ故に手厳しい批判だったのではなかろうか。 と云うことは逆に、西尾の三島の死賛美が、三島を追悼するに名を借りた軽薄なものであり為にする江藤批判に過ぎなったのではないかと云うことになる。西尾の三島思慕の至情がエスカレートしたものであるなら幸いである。どちらであるかは分からない。それと、小林の三島の死賛美は真贋見抜くことで定評のある名評論家にしては少々称賛が早過ぎたのではなかろうかと云うことになる。 山崎氏の2013.9.17日付けブログ「保守論壇亡国論』と西尾幹二論」から以上の類推が可能になる。そして以下の教訓に至る。いわゆる評論の難しさ、その評論を受け止める難しさを知るが良い。元々高度な能力が問われているのに、人は手前の能力に応じて、あるいは請負の立場からお気に入りの論を選んでいるに過ぎない、と云う習性が見えてくる。 こたびは三島事件を廻ってのものであるが万事に通用する。今後はくれぐれも上滑りしてはなるまい。何事も事実で検証してから立論せねばならない。これをせぬままの子供騙しに騙されてはなるまい。との言を添えておく。 2013.9.21日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)