カンテラ時評40(1171~1200)

 (最新見直し2013.11.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「」を転載しておく。

 2007.3.24日 れんだいこ拝


れんだいこのカンテラ時評№1200

 投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月22日(日)12時53分21秒
返信・引用
   れんだいこの平田篤胤史学論その6

 「篤胤史学」の文体に一言しておく。ほんの少ししか読んでいないのに評するのは早計かも知れないが、文体は簡潔にして論証的である。但し、内容の高度さ故に仕方ないことかとも思われるが文意は難解である。と云うか、その難解さは、篤胤文が漢字を多用する硬文体になっていることによるのではなかろうかと思われる。これは独り篤胤のせいではない。当時の風潮文体が和漢混交文であり、この頃は、ひらがな、カタカナ表記すべきところをも極力漢字表記する倣いがあり、いわゆる時代病で、篤胤も又これに侵されていると云うのが正しい受け取りようかも知れない。この文体傾向は戦前まで続き、戦後育ちのれんだいこにはとても読みにくい。

 但し、疑問が少し生まれる。国学が殊のほか漢学に侵される以前の日本論を云うのであれば、まずは文章そのものからして漢字に侵される以前の日本語を極力使用するという風にはならなかったのだろうか。大和言葉を生かす為に生まれたひらがな、カタカナの積極的使用による柔文体で著わすべきだったのではなかろうか。そうならなかったことを惜しみたい。漢学に侵される以前の日本を称揚しつつ、それを漢学傾向を強めた硬文体で記すというアンバランスさがやや滑稽な気がする。このことは、仮に篤胤が著作禁止令に遭わずもう少し延命したなら、やがてひらがな、カタカナの考証にも向かい、篤胤ならではの言語論を聞かせて貰え、これによる柔文体の登場があったかも知れないと思う気持ちに通底している。ないものねだりの感があるが、篤胤の能力を高く評する故にそこまで期待してしまう。

 れんだいこ眼力によれば、「篤胤史学」の惜しむべきはその未完成なところである。出雲王朝御世を垣間見させ、それを復権させようとする意図が見られるにせよ、相対的には偉業であるにも拘わらずなお「原日本新日本論」までは獲得できておらず、故に玉石混交の「復古神道」段階にとどまった恨みがある。これも時代の限界とも云えるので致し方ない面もある。かく観点を据えれば、この未熟さは、「篤胤史学」の後継者に託されている課題と受け止める必要があろう。本来は、「篤胤史学」の後継者は、篤胤が宣長を超えたように、篤胤を超えねばならなかったのではなかろうか。「篤胤史学」の限界を批判的に継承し、「原日本新日本論」に基づく国体論まで極めるべきだったのではなかろうか。この域まで向かわなかったことが足元を掬(すく)われることになったと思う。明治維新後、「篤胤史学」学徒がこぞって大和王朝御世正統化の皇国史観の確立へと向かったが、これは断じて「篤胤史学」の正統のものではない。痛恨の極みと思う。

 それは、「篤胤史学」の真骨頂である出雲王朝御世の礼賛の道を閉ざした奇形の国体論でしかなかった。もし「篤胤史学」学徒が、今れんだいこが唱える「原日本新日本論」を獲得していれば、好戦的な皇国史観には向かわず、出雲王朝御代の特徴である神人和楽の王朝楽土的国体観の称揚にこそ向かっていたのではなかろうか。明治維新政府の好戦政策に乗じられることはなかったかと思う。その差は大きいと見る。そういう意味で、「原日本新日本論」の観点から「篤胤史学」を検証する道が手付かずで残されていると了解している。

 最後に「篤胤史学」の代名詞とも云うべき「復古神道」に一言しておく。「復古神道」とは云いえて妙な呼称であり、その解釈が危うい。これを神道の「復古」と読めば篤胤の意に反する。古神道に「復す」と読むべきである。これならほぼ正確である。問題は、「復古神道」と云うとき、多くの者は神道の「復古」と読むであろうことにある。こうなるともっと的確な「篤胤神道」の呼称を創らねばなるまい。そこで仮に「篤胤古神道」と命名しておく。この方が正確に意が伝わろう。即ち、「篤胤史学」が求めたのは、「復古&神道」ではなく、「復&古神道」であった。こう判じたい。但し、禁制の学になることを恐れ、篤胤自身が幾分か故意に曖昧にしていたと思われる。これは致し方なかったのではなかろうか。以上、誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。

 Re: れんだいこのカンテラ時評№1170  投稿者:通りすがり  投稿日:2013年12月22日
> No.267[元記事へ]

平岡梓さんは、三島は森田の技量が心配だったので柄から刀が抜けてしまわないように柄をを金槌でつぶして森田に渡したと言っているのであって、刀が鞘から抜けないようになっていたといっているのではありません。
だから、介錯に使われた刀は三島の孫六ではないとするあなたの推測は間違っています。
また、孫六が名刀とされたのは丈夫でよく切れるからです。
三島と森田、両名を介錯できても不思議では有りませんよ。


>  「割腹事件のれんだいこ推理」を補足しておく。この時の首切りに「関の孫六」が使われたと推論していたが、三島の両親の平岡梓・氏が次のような「妙な」証言を遺している。
>
>  要点のみ確認すると、前段では「介錯に使われた刀は『関の孫六』でした」としつつも、寄贈者・舩坂弘・氏の証言、概要「警察に呼ばれた時、実物を見せてもらったところ、奇妙なことに柄のところが金槌でめちゃくちゃにつぶされていて二度と抜けないようになっていた」を引用し、「その後の調べで倅の周到な処置であることが判りました」と追記している。後段では「倅は死ぬのは自分一人で足りるとして森田君の巻き添えを許さなかった」と述べつつ「森田君の希望により倅の介錯は彼にたのむ手筈になったものの、倅の眼から見ると、森田君の技倆はおぼつず、万一にも柄が抜けることのないよう抜けない処置をして彼に手渡した」と結んでいる。
>
>  これはどういう意味か。「平岡梓証言」を裏推理すれば、「関の孫六」は抜けないように細工されていたのであるから「介錯に使われた刀は『関の孫六』ではない」ことになる。こう理解した方が「関の孫六」一刀で三島の首切り、森田の首切りに及べたと云う不自然さが解消する。しかし、三島らが持参していたのは「関の孫六」だけであり他に用意していたとの記述はない。とすると、三島の首切り、森田の首切りに使われた刀は三島、森田を強制切腹せしめた側が用意していたとの推理が成り立つ。それと森田の後追い切腹死にも何がしか不自然とする疑問を投げかけていることになる。

れんだいこのカンテラ時評№1199  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月21日

 れんだいこの平田篤胤史学論その5

 ここで、神代文字について確認しておく。「れんだいこの平田篤胤史学論」で取り上げる理由は、篤胤が晩年に先駆け的に神代文字論を展開しており、その国体論と共に白眉な功績があると思われる故である。神代文字論を廻っては現代においても係争中である。通説は神代文字存在説を唱える者を邪とし否定説を声高に唱える者を正としているが、その構図は丁度、れんだいこが「戦国期の研究を通じての陰謀論考」で述べたように転倒しているのではなかろうか。即ち、陰謀説同様に、これを批判する側から「こじつけ」、「うがち過ぎ」の由を聞くが、神代文字存在説の方が素直な読み取りであり、これを採らずに否定する側に回る方にこそ「こじつけ」、「うがち過ぎ」の評がふさわしい。つまり、神代文字存在説批判は手前の方が「こじつけ」、「うがち過ぎ」であるのに、手前が受けるべき批判を先回りして相手方に投げつけているのではあるまいか。

 れんだいこは「篤胤史学」の神代文字論を高く称賛する。しかしながら、篤胤研究の第一人者的地位を自負し、篤胤著作の解説で知られている山田孝雄(1873-1959)は、論文「所謂神代文字の論」(1953年)で、「神代文字をめぐる議論がいかに毒におかされた危険な代物であるのか」と憤怒の口調で語り、その主犯者の一人として平田篤胤を挙げ、「篤胤がなぜ神代文字などという妄説を信じたのか、絶大なる不可思議の一つ」と批判しているとのことである。れんだいこから見れば山田孝雄こそオカシイ。「変調な篤胤研究者ぶり」が分かる。こういう研究者があちこちにいる。先に小林多喜二研究での手塚英孝の変調さについて述べたが、何も山田孝雄、手塚英孝ばかりではなかろう。いつの日か「山田孝雄の篤胤論」との決着をつけたいと思う。

 通説は漢字渡来以前の日本には文字がなかったとしている。しかし、漢字渡来と同時に万葉仮名を生み出し、その後、平仮名、カタカナを発明し、「漢字&ひらがな&カタカナ」混交の日本語が形成されていった経緯を読み取るとき、逆に不自然なのではなかろうか。そもそも、漢字渡来以前の日本に文字がなかったとすれば、今日の世界史上での英語の伝播と同じように、受入れ側は母国語を捨て丸ごと外国語へ転換する方が容易だったのではなかろうか。なぜわざわざ、日本語の大和言葉の発音をベースにしてそれに漢字を当てはめ、いわゆる万葉仮名を生み出していったのか。その万葉仮名も、次第に単に発音ベースではなく、発音も意味も大和言葉に近い漢字を求めて進化して行くようになる。我々の父母祖は何でそれほどまでに母国語に拘ったのだろうか。

 推理するのに、漢字渡来時点で、中国語に比して遜色のない上古代日本語が確立されていた故ではなかろうか。その時の上古代日本語には語りだけがあって文字がなかったのか。通説はそう理解する。しかしそういう理解の方こそ余りにも不自然ではなかろうか。れんだいこ推理は、この時、幾種類かの小国家毎の図象文字表記が為されていたところ、時の大和王朝権力が文字の統一化と云う必要もあり漢文を強い、図象文字使用を政治的に禁制にし、図象文字本はそれが為に廃棄処分させられ、一部が地下に隠され、その大半のものがいつのまにか散逸、一部が残ったのではなかろうか。

 これを逆から窺えば、我らが父母祖は図象文字と漢字の表意文字との優劣を測り、結果的に図象文字本の漢字文字本への転写をした上で、図象文字本を秘すべきところに秘したのではなかろうか。こう見立てると、万葉集も原文は神代文字で書かれていたのではなかろうか。この時使用された漢字を万葉仮名と云う。かくて数百年後、神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)探索の旅が始まることになった。これが神代文字考史となる。

 それでは、上古代日本語の文字がどのようなものであったのか。今日となっては判明しないが、その手がかりとして各地の寺社に遺されている文字がある。知られているだけでも出雲大社、熱田神宮、三輪神社、鶴岡八幡宮、浅間神社、大山阿夫利神社、三峰神社などの神璽、洞窟、岩などに神代文字が記されている。神代文字には多くの種類があり、形態も象形的なものから幾何学的なものまで様々なものがある。伊勢神宮の神宮文庫に約百点奉納されていると云う。これをどう理解すべきか、実在か後代の捏造かが問われている。

 古史古伝の多くに神代文字が登場する。カタカムナ図象文字。出雲文字。上記、竹内文献に使われているのは全文が豊国文字。秀真伝や三笠紀に使われているのは全文が秀真(ホツマ)文字。文の中で紹介されているのが九鬼文書の春日文字、宮下文書の阿祖山文字、物部文書の物部文字、東日流外三郡誌の津保化砂書文字、対馬の卜部・阿比留(あびる)家において発見された阿比留(あひる)文字、阿比留草文字等々。まだ世に出ていないのもあると思われる。これらを、後世の偽造偽作とする説の方が「こじつけ」、「うがち過ぎ」ではなかろうか。

 平安時代の「古語拾遺」に「上古の世、未だ文字あらず」と記載されており、これが定説となってきた。しかし、神代文字が存在したとする説は古神道系の者には古くより常識とされていた。1367年に忌部正通によって書かれた「神代巻口決」は次のように記しているとのことである。「神代の文字は象形なり。応神天皇の御宇、異域の経典、初めて来朝してより以降、推古天皇に至って聖徳太子、漢字をもって和字に付けたまふ」。その通りではなかろうか。

 してみれば、学説論争が始まるのが江戸時代に入ってからと受け止めればよい。1676(延宝4)年、神道家・永野采女と僧・潮音道海が「先代旧事本紀大成経」を著して以来、同書で指摘された神代文字の存在が浮上してきた。江戸時代中期の儒学者の新井白石が出雲大社や熱田神宮に神代から伝わったとされる文字が残っていることを指摘している。他方、貝原益軒は否定している。賀茂真淵や本居宣長らの国学者は否定している。

 宣長は、「言霊の幸はふ国」としての皇国観を披瀝しながらも漢字が入る前の日本には日本固有の文字がなかったとしていた。「上代の人々には字がなく、人々は口で伝え耳で聞くという方法で意思の疎通をなしてきたが、外国から書籍が入って来たため字を読み書くようになった」(古事記伝)とも述べている。かく神代文字を否定し、口述による記録こそが大和民族的であるとし、文字の概念自体が日本の外から来たものなのだという説を持っていたようである。

 これに対して篤胤は、神代文字に関する資料を全国に求め神代文字存在説の論陣を張った。1811(文化8)年、36歳の時、春・夏・秋・冬の四卷からなる「古史徴」を著わし、春巻第1巻「開題記」の中の「神世文字の論」の稿で、漢字渡来前の古代日本には文字がなかったとする説に対して、神代文字存在論の立場から考証している。阿比留(あひる)文字を例証し、ハングル文字との著しい類似性を指摘しながら神代文字存在論を説いているとのことである。これは神代文字の系譜からハングル文字が編み出されたことを示唆している。1819(文政2)年、彼の弟子たちが「神字日文伝」(かんなひふみのつたえ)という題名で版本を発行し、神代文字存在論を一般に普及させることになる。「日文」とは「一、二、三」の意味を被せている。他方、伴信友は、「仮名本末」で神代文字の偽造説を説いて否定した。

 ここまでは神代文字に関する一般論である。これかられんだいこ節で説く。神代文字とは、漢字の渡来および仮名の成立に先だって上古の日本にかって存在していたとされる文字を云う。今後の神代文字研究で必要なことは、神代文字が弁えている日本語のアからンで終わる50音との絡みではなかろうか。日本語50音がいつどのようにして獲得形成されたのか、その起源をどこまで遡ることができるのか、との問いとワンセットにされねばならない。ここが最大の関心となるべきではなかろうか。れんだいこの神代文字への関心は実にここにある。従来の神代文字研究は50音の起源解明と連動していないように思える。それは手落ちではなかろうか。

 50音の獲得こそが日本語の最大功績であり、世界一の芸術言語足り得ている根拠である。日本語が諸外国語を受け入れるに当り母国言語を失うことなく受容し得た秘密がここにある。こう捉えない研究はいささか物足りない。問題は次のことにある。神代文字を生み出す時点で既に日本語50音があり、それに一音一字の図象文字を当てはめた風が認められる。それはほぼ同時的に為されたのではなかろうかと考えたい。ならば50音の発生過程を検証することこそが、そのまま神代文字考になるのではなかろうか。篤胤には語彙論については本格的なものはないようである。恐らく、これから向かう矢先に執筆停止と国元帰還措置をされ、あたら惜しくも歴史に遺されなかったのではなかろうか。日本語の語彙論は、神代文字肯定論派には分け入りたい魅力の分野となっていよう。

 本稿を、竹内健・氏の「神字論」の次の言葉で締め括る。「篤胤の神世文字の論は、戦後の史家が嘲笑って言うところの『狂信的な国学者の根も葉もない捏造』などではない。一歩譲って、よしそれが捏造であるにしても、一体『根も葉も』ある神話というものが存在するだろうか。神話の創生とは、人々の時空を超越した祈願の謂である」。

 れんだいこのカンテラ時評№1198  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月19日
 れんだいこの平田篤胤史学論その4

 「れんだいこの平田篤胤論」の精度を篤胤著作の原文で確かめたい。そう思いネット検索を試みたが容易には辿り着けなかった。そのうち「小さな資料室」に出くわし「仙境異聞」が採録されていることを知った。続いて「務本塾・人生講座」に辿り着き、「古道大意」、「霊の真柱」が採録されていることを知った。サイト管理人のご苦労に謝意を申し上げておく。残念ながら篤胤著作のサイトアップはこれしか行き当たらなかった。平田篤胤著作は、今日びの強権著作論でもってしても著作権外の筈である。それなのに原文開示が為されていないのは、値打ちがないのか隠されているのかのどちらかであろう。れんだいこは後者の説を採る。しかしそれならそれで露にしようと思う者も出て来るわけで、そういう訳で今後は増えると思われる。が、れんだいこの目の黒いうちでないと面白くない。どなたかに期待しようと思う。れんだいこサイトを設け「別章【平田篤胤の著書原文】」と銘打った。追々に増やして行こうと思う。

 読了後、れんだいこ評の的確さをますます確信することになった。即ち「仙境異聞」では、寅吉譚、勝五郎譚が仙境で垣間見た異次元社会を伝える体裁をしているが、実は出雲王朝の御世のそれを語り部している。「篤胤史学」が、大和王朝神話世界を突き抜けて出雲王朝神話世界へ歩を進め、記紀神話以前の日本を好意的に探っていることが分かった。出雲王朝御世譚の披瀝にこそ篤胤史学の真骨頂があると云うべきだろう。「古道大意」、「霊の真柱」では、国学史、古神道論をツボを得た解説をしていることに驚いた。平田篤胤の慧眼、論証能力恐るべしとの印象を強めた。他の著作を読めば同様の思いを強めることになるだろうと思う。

 付言しておけば、いつも思うことだが評論、解説よりも原文の方がはるかに面白い。これが好著の条件である。故に、良き評論、解説とは、原文を読んでみようと誘うものになるのが条件である。これが好著と評論、解説の相関関係式である。これを思えば、評論、解説でもって原文を読んだ気にさせるものには眉唾した方が良い。そういう悪式のものが多いけれども。評論、解説の方が原文より却って分かりにくいなどはご法度のそれであろう。そういう悪式のものが多いけれども。駄文に対してはいか様に評しようと勝手だが好著に対しては評論、解説にも礼儀が伴う。これが「れんだいこの評論、解説作法論」である。

 もとへ。その篤胤は、自らの学問を古道学ないしは皇国学と称した。自らの学問に対して次のように述べている。

 「古道とは、古へ儒仏の道いまだ御国へ渡り来らざる以前の純粋なる古への意と古の言とを以て、天地の初めよりの事実をすなほに説き考へ、その事実の上に真の道の具わってある事を明らむる学問である故に、古道学と申すでござる」(古道大意、上)。
 「一体真の道と申すもの、実事の上に備はりあるものにて候を、世の学者らは兎角、教訓の書ならでは道は知り得難き様に心得候へども、甚だ誤りに候。その故は実事があれば教えは入らず、道の実なき故に教えは起き候也。されば教訓と申す者は実事より早きものにて候」(古道学大旨)。

平田篤胤の学問に対する姿勢は徹底的なものであった。「平田篤胤について 」によれば次のように記している。
 「ロシアの研究ではキリル文字を習い、地図を集め、露日辞書まで自分で編集してしまう。資料はよほど極秘のものでもどうやってか入手する。インド研究でも大蔵経を読破し、正確なインド地図を手に入れ、サンスクリットは直接学問僧から学びとっている。篤胤の西欧知識人理解を要約して表現すれば、『科学への探求と古伝説への信仰』ということになる。従って、篤胤とは宇宙論では地動説を研究し、古伝説では、旧約聖書宇宙創成神話と同一のものを日本・中国・インド・エジプト等で探究することとなる。地動説を根軸とした儒学・仏教への批判は、同時に中国古文献や大蔵経の徹底したカン解読による、中国・インドの歴の最古層での宇宙創成神話の解明の試みとなっていった」。

 中段の「古伝説では、旧約聖書宇宙創成神話と同一のものを日本・中国・インド・エジプト等で探究することとなる」のところが見解を異にするが、他は適切な評であろう。見解を異にするところの「古伝説では、旧約聖書宇宙創成神話と同一のものを云々」を評すれば、れんだいこは、日本神話と旧約聖書宇宙創成神話とは大きく質が違うと認識しており、その違いの部分を明らかにすることこそ肝要であると心得ているので、この説は受け入れ難い。これの詳論は別に論ずることとする。

 ここで、篤胤の超人的神がかり的執筆作法及び能力について確認しておく。(れんだいこ式に纏める)
 1811(文化8)年、36歳の時、この頃の篤胤の勉学への没頭ぶりは超人的なものであった。一年の大半を袴を脱がずに過ごし、睡眠は机にもたれ、伏せて寝ることですましたという布団知らずの研究に余念のない身であった。この年の10月、篤胤が弟子たちに招かれて駿河の国(静岡県)を訪れている。江戸での篤胤の勉学ぶりが昼夜をわかたぬ激しいものだったので、弟子たちがその身を案じ、温泉にでもつかって英気を養っていただこうと考え、静養がてらに招いたものだった。と云う次第で駿河の国へ赴く運びとなった。ところが、弟子の一人の家に投宿したところ、遠近の弟子たちが入れ替わり立ち替わりやってきて教えを乞うものだから、とても休めるものではなかった。師弟問答を好んだ篤胤は、はからずも駿河の弟子宅で江戸と同じく多忙な日々を送ることとなった。

 篤胤は、弟子たちとの問答を通じて日本の国体を明らかにしておく必要を感じた。日本の神代、皇国に関する史書は記紀をはじめとしてあるにはあるが、内容に異同があり、矛盾があり、また儒教・仏教などの影響を受けて変形した諸説・古伝があり、整合的な理解が容易ではなかった。そこで篤胤は、かねてより懸案だった「儒仏の影響を排し正しい神代の歴史・古史を体系化させる」と云う野心的著述を決意した。12.5日、篤胤は弟子たちから記紀や本居宣長師の「古事記伝」など七種類の古史の代表作を借り集め、奥まった一室で猛然たる執筆活動に入った。その猛然さは寝る間を惜しみ、食事も机に向かって本を読みながらのものであった。心配した弟子たちが「もうお休みになられては」としつこく頼むので「枕と夜具を持て。但し途中で起こすなよ」といって横になって高いびき。ところが、今度は丸二日、食事もとらずに寝っぱなし。弟子たちはまた心配になって、「先生、大丈夫でございますか」と起こせば、「途中で起こすなといったはずだが」などといいながら、また何事もなかったかのように昼夜兼行の執筆生活に戻るというありさまだった。

 こうして25日間にわたる、こもりっぱなしの執筆作業が終わったのがちょうど大晦日、陰暦で12.30日から元日早朝にかけてだった。この時著わしたのが「古史成史」、「古史懲」の初稿、「霊能真柱」の草稿であった。これは分量からいっても内容からいっても25日間でできるようなものではない。篤胤の超人的な体力気力、不眠不休の努力があって初めてなった奇跡であった。本人も自著でふりかえって、「あのとき、どうしてあんなに速く書けたのだろう」と述懐している。このことが次のように解説されている。

 「篤胤学と称せられる古学の中心的な著作の草稿や骨格は、この文化八年一二月五日から三○日の深夜にかけての、短期間の、まさに神がかりともいうべき作業の結果として成立するのである」。

 篤胤が「神々祈り」の中で書き上げたという証拠が弟子の記録にある。そこでは、大晦日の翌日、元日の朝にいずまいをただした篤胤が、できた原稿をさしだしながら、こう言って微笑んだという。

 「去年というべきか、今年と言うべきか、丑の刻(午前一時~三時)の鐘を打つ頃に書き終えた。きみたちが心から(古史の完成を)ねがったので、私も承諾して本気でとりかかり、こもりっぱなしだったが、こもったその日から、御意志ならば、なにとぞ年内に書き上げさせたまえと神々にお祈りし続けてきた。どうやら、そのかいがあったようだ」。

 「霊能真柱」を書く動機と刺激になった「三大考」著者の服部中庸も私信で次のように述べている。「調べもの、著述にとりかかったら、二十日間でも三十日間でも、昼も夜も眠ることなく、疲れたときは三日も四日も飲み食いせずに眠り、目がさめたら元の通りになっている。なかなか凡人にはできないことです」。こうして、篤胤は人生の岐路ともいうべき著作を駿河でなしとげ、正月があけてから江戸の自宅に戻った。そういう篤胤本を読まぬ手はなかろう。

 れんだいこのカンテラ時評№1197  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月14日
 れんだいこの平田篤胤史学論その3

 「れんだいこの平田篤胤史学論その3」として、「れんだいこの平田篤胤史学論その2」に追補しておく。

 平田篤胤の一般評価の「復古神道(古道学)の大成者であり、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている」では扁平過ぎて篤胤史学の真髄が伝わらない。江戸期に国学が生まれ、記紀の実証的研究に着手した。代表的国学者として荷田春満、賀茂真淵、本居宣長が知られ、平田篤胤に至り、この4名が「国学四大人(うし)」と呼ばれる。これはそれで良い。但し、その学問の内容は、篤胤史学のところで明らかに質を変えている。それまでの国学研究が、大和王朝以来の皇統譜を正統化づける為に編纂された記紀の記述を「真」として、その実証的研究に向かっていたのに対し、平田篤胤となると記紀記述に「真」を置いていない。むしろ、記紀記述の御用学的限界を突き破り、記紀が批判的に記述している大和王朝以前の日本を束ねていた出雲王朝世界を注目し、その研究への門戸を開くところまで突き進んでいる。ここに「篤胤史学」の絶対的特異性がある。これを踏まえた「国学四大人(うし)論」でなければならない。

 案の定、徳川幕府は、そういう禁制の扉を開けようとする篤胤史学を危ぶみ、結果的に弾圧し、その二年後、篤胤は失意のうちに病没している。これを確認すれば、1841(天保12)年、篤胤晩年の66歳の時、著書「天朝無窮暦」の内容を問題とする形で、著述禁止、故郷である秋田への国元帰還を命じられ事実上の「江戸所払い(追放)」に附されている。 篤胤は15人扶持,給金10両の薄給身分の秋田藩士となったが、秋田に帰って2年後に病没している(享年68歳)。篤胤弾圧につき、「天朝無窮暦」が幕府の暦制を批判した為であったとか、激しい儒教否定と尊王主義が忌避された為とか解説されているが、問題はもっと本質的なところにあり、「篤胤史学」が大和王朝以来の支配者体制に対する批判の学足りえていたことが槍玉に挙げられたと窺うべきではなかろうか。

 こういう履歴を持つ平田篤胤を知ろうとしてサイト「平田篤胤の履歴考」と「平田篤胤の思想考」を設けているが、その情報は手に入りにくい。ほんの一部の研究者の愛好に狭められている感がある。ネット検索では、同じ文言の型通りの篤胤論は何度も出てくるが、いざ直の言説を知ろうとすると読めない、あるいは読みにくい。「指定のページが見つかりません」となっている。「平田篤胤の人となり、その思想」を確認しようにもできにくい仕掛けがされていることに気づく。こうなると、れんだいこのアンテナが作動する。これは何も平田篤胤だけのことではない。世に有益な情報、知識が隠され、なかなか読めない仕掛けにされており、逆にどうでも良い情報が洪水の如く流されていると云う仕掛けが廻らされている。かく秘せられ伏せられるほど、そういう権力者側の巧妙な思想統制に反発したくなる者が出てくるのは道理だろう。

 既にあらゆる知が囲い込みされ、ふるいにかけられ、こう考えるべき、理解するべき、評するべきとする国際ユダ屋テキストが敷かれている。これをよく学習できた順にお利口坊やと嬢ちゃんにそれなりの大学までの道が用意されている。こういう仕掛けなんだなとつくづく思う。最近の法学の堕落はその極みであろう。既に法理念、法体系が崩れに崩れ加速しつつある。しかして、そういうテキスト理解で賢くなった者は誰も居ない。却ってアホウになっている。そろそろそういう風に考えてみるべきではなかろうか。

 「平田篤胤の人となり、その思想」もそうで、安直な理解の弊害を知るべき、まことに格好の教材が平田篤胤ではなかろうか。このことを前提に、れんだいこの気づきを記しておく。結論はこうである。平田篤胤は、世上で知られているよりもはるかに、と云うか驚異的な博学にして執念の大著作を為し後世の史学に様々な問いを遺していると云う意味で偉大である。その平田篤胤の生(なま)の姿即ち実像を何も知らず、そうであるのに知った気にされ、しかもその結論が一知半解と云うより曲解させたものを通説にして流布されている。このことを痛感させられている。

 それは丁度、明治維新以来の天皇像に於いて明治天皇、昭和天皇を英明評価し、逆に大正天皇を脳病天皇視し悪し様に評する構図と似ている。真実は、大正天皇こそ史上の天皇の中でも十指に加えられるべき有能天皇であった。在任中、西郷派亡き後の明治維新以来露骨化した国際ユダ屋の日本支配の陰謀に対し、明治天皇、昭和天皇がこれに従ったのに比して立ち向かい、その結果として「押し込め」られ病死を強制させられたと看做すべきところ、逆の論が横行し今日に至っている。明治天皇、昭和天皇の逝去日を記念して祝日とされているが独り大正天皇のそれは無視されているのは衆知の通りである。奇妙なことに大正天皇罵詈論は国際ユダ屋に有無通じた凡俗系の右翼左翼問わずの共通の構図となっている。妙なところでウマが合っていることが分かる。こういうところで馬脚を表わしているとみなすべきだろう。

 もとへ。平田篤胤の奇怪なことは、本稿はこれが云いたかったのだが、師とする本居宣長が邪馬台国論に相当の考究をしているのに比して言及していないことである。これが何の理由によるのか、この詮索が興味深いところのように思われる。結果的に、邪馬台国論を避けた形での「天朝無窮暦」での日本には神代に独自な暦があった論、「神字日文伝」での日本には漢字伝来以前の日本独自の神代文字があった論、インドや中国の神々の話は実は日本の神々の話が混同したものである論、「天柱五岳余論」での中国の道教経典に見られる神仙の山々ないしは神仙教は日本が元論、神代に日本独自の度量衡があった論、「稲生物怪録」、「仙境異聞」での天狗論。「勝五郎再生記聞」での前世の記憶論。「幽境真語」での女仙人論。「鬼神新論」での神の実在論等々をものしている。これを思えば、邪馬台国論に向かうべきエネルギーを神秘論、怪奇論、国体論へ向かわせていることに気づかせられる。このように見立て、問うのは、れんだいこが初見かも知れない。

 思うに、平田篤胤は、早くもかの時代において、れんだいこが今説く「原日本新日本論」の歴史の深淵を覗いていたのではなかろうか。即ち邪馬台国論に言及するとすれば、大和朝廷に先行する出雲王朝-邪馬台国系王朝の存在に触れざるを得ず、触れれば大和朝廷に征服解体されたとする史観を述べざるを得ず、それは記紀の説く新日本系大和王朝正統論と抵触し、ひいては幕府の禁制教学になることを弁(わきま)え、それ故に敢えて邪馬台国論を忌避し、まわりくどい形で神秘論、怪奇論、国体論への探訪でお茶を濁していたのではなかろうか。れんだいこは、かく解する余地があるとみなしている。

 その一端が次のところで確認できる。即ち、篤胤によれば幽界譚を重視しており、その幽界を出雲王朝の大国主命が司る世界だと述べている。幽冥界の全体の主宰神は大国主であり、各地のことはその土地の国魂神、一宮の神や産土神・氏神が司るとの説を述べている。この大国主命幽冥界主宰神説は篤胤以降の復古神道の基本的な教義となり、その後の神道及び政教関係を方向付けることとなった。この問題が明治の御世まで持ち越され、結果的に1881(明治14)年の祭神論争で却下され公的には否定された。但し、篤胤のこの説は現在でも多くの神道系宗教で受け入れられている。

 これを証するかのように、平田宗家の蔵書には「廿五部秘書」(にじゅうごぶひしょ)が定められている。篤胤の膨大な著書のうちのどの書が「廿五部秘書」に当るのか本当のところは分からない。判明することは、門外不出の内書と一般の者の目に曝しても良い外書とに分けられており、平田宗家には奥伝なるものがあり、それらは須く巻物仕立てにして口移し、口授、口伝、一子相伝として極く一部の選ばれた者達に、「他見他伝厳禁の誓約」を取り交わした後に秘伝として隠密裏に伝えられたと云うことである。こうなると、平田篤胤自身が自らの史学が如何に危険な史学であるか認識していたと云うことになる。それは何も特殊偏狭なものであったからではない。日本の国体史に関わる深刻且つ重大な変更を迫る秘密を垣間見ていたことによると推理すべきではなかろうか。

 こういう篤胤の生涯履歴及びその史学をそれとして看做さず、逆に罵る評論をもって精通を自負する者が権威となり、これに随う者が大勢であるが、本稿をもって悔い改めるが良かろう。こうなると、「れんだいこの平田篤胤史学論その1、2」で述べたが、押し込められている篤胤史学の左派系登場こそが待ち望まれていると云えるのではなかろうか。篤胤史学の右派系的展開は皇国史観に丸め込まれたことを既に見てきた。左派系的展開をこそ見てみたいのが人情ではなかろうか。あらゆる社会思想が衰微しているこの時代、「篤胤史学」の地平から紐解き直すのは意味のないことではなかろうと思う。在地土着系の思想、イデオロギーの必要を感じている、れんだいこにはなおさらである。

 「れんだいこの平田篤胤史学論」
 (kodaishi/kokugakuco/hirataatutaneco/rendaicoron.html)

 れんだいこのカンテラ時評№1196  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月13日
 れんだいこの平田篤胤史学論その2

「れんだいこの新邪馬台国論による日本史荒スケッチ」を「れんだいこの平田篤胤史学論その1」とし、ここでは「れんだいこの平田篤胤史学論その2」と題して平田篤胤の総論をしておく。政治が面白くないときには、こういう原点からの問いが却って有益と思う。れんだいこは、その学説、思想を在地土着型の白眉なものと思っている。

 平田篤胤は1776(安永5).8.24日(10.6日)-1843(天保14).閏9.11日(11.2日)の人で、江戸時代後期の国学者、神道家、思想家、医者である。その履歴の概要は「平田篤胤の履歴考」で確認する。ここでは、その史学について言及しておく。篤胤は復古神道(古道学)の大成者であり、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている。その学説を仮に「篤胤史学」と命名する。都合上、本居宣長の史学を「宣長史学」と命名することにする。

 平田篤胤は、本居宣長没後の人である。宣長を師として仰ぐが、「宣長史学」と「篤胤史学」の間には相当な違いがある。両者とも外来の儒教、仏教と習合して以来の国体を批判し、それ以前の日本精神に裏打ちされた国体を称揚する面では共通している。但し、篤胤の特徴は、師を師と仰ぎつつも、その史論については妥協することなく持論を展開して行った。「宣長史学」までは記紀神話史の実証的研究を旨としていたのに対し、篤胤史学は記紀神話をも相対化させ、記紀神話史以前の日本国体史へ歩を進めている。ここに画期的な意義を持つ。その研究は、いわゆる古史古伝まで歩を進めている。こうして国学に新たな流れをもたらした。

 加えてイデオロギッシュな側面を持ち、「篤胤史学神道思想」とでも云えるものを随伴させた。古道大意、古史成文、古史徴、古史伝、大道或門(だいどうわくもん)などを著し、国粋主義の観点からの「復古神道」を主唱することとなった。篤胤は、「俗神道大意」で、当時の既成神道、即ち仏教や儒教などの影響を受けた、篤胤云うところの「俗神道」を批判した。神学日文伝では日本古来文字としての神代文字の存在に言及し、その研究論を発表した。さらには、霊魂、幽冥界来世といった霊的なテーマにも目を向け、霊能真柱(たまのみはしら)、鬼神新論などの書も著わし、神道家としての枠を越えた研究活動を行っている。

 その意図するところは、外来思想に犯され、汚され、泥まみれになっている神道の復権、それによる日本国体精神の昂揚にあった。そのため、単に我が国の古学や神道学のみならず、ありとあらゆる対立思想(仏教、儒教、蘭学、漢学、易学、キリスト教、中国やインドの古伝史書、神道各派の教義)の研究に没頭し、西洋医学、ラテン語、暦学、軍学など当時の古今東西のあらゆる学問に精通し、その博覧強記ぶりは他の追随を許さない。

 その成果をエキスとして抽出し、知識を総動員して、仏教や儒教など外国思想の渡来する以前の純粋な日本精神を取り戻し、古の道を復活する必要性を説いた。篤胤神道論の特色は徹底した日本至上主義にあった。曰く、わが国の道こそ根本であり、儒仏蘭などの道は枝葉に過ぎず、すべて学問は根元を尋ね学んで、初めて枝葉の事をも知るべきであって、枝葉のことのみ学んでも、根本のことは知りがたい(大道或門)とし日本源論、皇国中心論を唱えた。

 小滝透・氏は、著書「神々の目覚め」で、「篤胤史学」が後の神道系新宗教の勃興にも繋がっていると指摘して次のように記している。

 「この試みは、外来思想の影響を排除に排除を重ねた結果、ラッキョの皮むきと同じになり、最後まで核心部分(この場合は純粋日本神道)に到達しないまま終了するが、彼に代表されるこうした仕事はそれまで地下にうごめいていた神々を一斉に飛び出させることにもなった。この結果、神々は鳴動して溢れ出た。名だたる古神道家が続出し、仏教的解釈を施されていた世界観は一掃された。神道ルネサンスの誕生である。それに伴い、神道独自の霊学も徐徐に体系づけられてゆく-『記紀神話への独自の解釈』、『霊界の模様を語った様々な神霊文書』、『言霊学、鎮魂、帰神、太占と呼ばれる霊学の確立』等々。それらは、時代の熱気を伴って人々の心を強く打った」。

「篤胤史学」は、「草莽の国学」として天保期の神職、村役人級の上層農民(豪農)、代官級の上級武士、下級武士層の間に急速に広まり、やがて幕末の社会情勢の中で、水戸学と相まって尊皇攘夷運動の有力な思想的原動力となって行った。国学がかく幕末の勤皇志士のイデオロギー的側面を担ったことが注目される。平田篤胤の門下からは、生田万、佐藤信淵、矢野玄道、大国隆正、鈴木重胤など数多くの有力人士が輩出している。篤胤生前の門徒が553名、没後も含めると1330人を数えている。これらの人々の活躍により、幕末の思想界は、多大な影響を受け、幕末維新、明治維新へ向けて急転回して行った。これが為に不穏の動きと見られ、「著作禁止、江戸所払い、国元帰還」を命ぜられたと看做すべきだろう。事実、篤胤の高弟の生田萬は、越後国柏崎で起こった乱(生田萬の乱)の首謀者であった。

「篤胤史学」は学者や有識者にのみ向けられたのではなく庶民大衆にも向けられた。一般大衆向けの大意ものを講談風に口述し弟子達に筆記させており、後に製本して出版している。これらの出版物は町人、豪農層の人々にも支持を得て国学思想の普及に多大の貢献をすることになる。このことは、土俗的民俗的な史話の中に史実を見出そうとする篤胤史学が、それ故に庶民たちに受け入れられやすかったことも示している。

 特に伊那の平田学派の存在は有名である。後に島崎藤村が自分の父親をモデルにして描いた小説「夜明け前」で平田学派について詳細に述べている。平田派国学の熱烈な支持者であった主人公の青山半蔵がその理想「新しき古」を求め、そして近代化の中でそれが否定される過程を綴っているとのことである。

 倒幕がなった後、明治維新期には平田派の神道家は大きな影響力を持ち、その後の皇国史観的天皇制イデオロギーの理論化に加担していくこととなった。但し、神道を国家統制下におく国家神道の形成に伴い平田派は明治政府の中枢から排除され影響力を失っていった。これについては別途考察することにする。以上を「れんだいこの平田篤胤史学論その2」とする。

 れんだいこのカンテラ時評№1195  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月 7日
 れんだいこのファシズム考

 これもいつか書きたかったことである。これを発表し批評を請いたい。

 左派圏用語で批判的に使用されている「ファシズム&ファシスト」について正確な認識をしておく必要を感じたので、ここで整理しておく。結論から申せば、左翼が条件反射的に批判しているような意味で言うのなら、正しくは「ネオシオニズム&シオニスト」と云うべきではなかろうか。本来、ネオシオニズム批判として俎上に乗せねばならぬものをファシズム批判にすり替えている気がしてならない。

 統一戦線なる用語でも考察したが、本来は共同戦線と云うべきである。敢えて統一戦線なる用語を使うところが胡散臭い。ファシズム批判の構図も然りである。ネオシオニズム・テキストに相当深く汚染されている故ではなかろうかと思っている。れんだいこの気づきでは、我々は早くこの汚染から脱却せねばならないと思っている。

 そもそも知るが良い。ファシズムの語源は古代ローマの執政官の「束桿」(そくかん、fasces、ファスケス。斧の回りに短杖を束ねたもの)から発している。 当時、執政官は、権威の象徴として儀式用に束桿を使用していた。束桿は束ねられていることから「fascio(「団結」」という意味を持つ。従って、ファシズムは、古代ローマ政治の再生という意味であり、ファシストとは結束した同盟者の集まりという意味になる。これが原義である。これを日本で言えば、縄文日本の伝統に帰れ運動とでも云うものではなかろうか。日本の方は戦闘的なものにはならないけれども。1919年、ムッソリーニがイタリアのミラノで「戦闘ファッシ」を結成し、古代ローマの執政官政治を模範とする運動を組織した。1921年、ムッソリーニがファシスト党((Fascist) を結成した。これにより一連の主義、主張、運動をファシズムと呼ぶようになった。

 ここで気づくべきは、これによれば、当事者が自ら命名した用語であるからして、ファシズムは本来は誉れの呼称であり、今日的な誰しも嫌悪する意味は付与されていないということであろう。ファシズムの元々の意味は、古代ローマ時代のローマ人による主体的な政治を偲び学ぶ復権させようとするものであり、当時の時代状況に於いては意味のあることであった。

 では、ファシズム&ファシストが何ゆえに嫌悪用語として使われるようになったのだろうか。考えられることは、戦勝国側の洗脳教育の賜物ということであろう。彼らは、ファシスト党の一党独裁的全体主義、国粋主義、排外主義的政治理念及びその活動に対して、戦勝国特権として、「知らしむべからず、よらしむべし」方式で、時代状況と切り離してひたすら嫌悪的意味の代名詞としてレッテルを貼り、これに条件反射するように洗脳教育していったのではなかろうか。「知らしむべからず、よらしむべし」にする必要は、かの時代状況を隠蔽する為である。なぜならこれを明らかにすると、底流に伏在していた「西欧世界を席巻しつつあった国際ユダ屋支配に対する抵抗運動」的動機に触れざるを得ないことになるからである。

 尤も、指導者に対する絶対服従、個人崇拝、反対者に対する過酷な弾圧は存在したようである。これはナチス党然り、日本の軍部独裁然りである。しかしながらそれも、当時に於ける国際ユダ屋の世界支配に対抗せんが為の必要悪的統制主義に陥った為と考えられる。この部分を全く顧慮せず、戦後になって戦勝国側がチャップリン式にファシズム&ファシストを描き出し、嫌悪用語として流布させていったものと思われる。れんだいこは、かく理解しているので、左派圏が常用するような意味ではファシズム&ファシストなる用語を使わない。

 もっと云えば、左派圏用語で多用されているファシズム批判は、それを云うならネオシオニズムに当てはめた方がより正確ではなかろうかと思っている。何ゆえにネオシオニズム批判に向かわずにファシズム批判に耽るのか。ここを問わねばならない。上述したようにファシズムをファシズムゆえに批判すべき特段の論拠はない。イメージ先行のファシズム批判が作られ、これに条件反射するように教育されている結果の批判に過ぎない。

 れんだいこはむしろ従来のファシズム定義はネオシオニズムにこそ当てはまると思っている。その秘密結社ぶりにつき多少確認したつもりだが、長い歴史を持つ悪魔性のものである。諸国民と協和しようとする思想は微塵もない。支配するかされるかを全ての基準にした闘争史のみが透けて見えてくる。こういうものに親和する者のお里が知れよう。

 あれこれ思えば、ネオシオニズム&ネオシオニストは手の込んだ批判をすることが分かる。即ち、手前らが常用する悪を、打倒したい相手側の悪であるとして喧伝し叩くと云う変則論法を得意としている。これにより、その悪を叩く側が善人になり、叩かれる側が悪人として裁かれることになる。これはダブルスタンダーと云うよりイビル(evil)スタンダードとすべきでなかろうか。

 この論法の気持ち悪いことは、ネオシオニズム&ネオシオニストは手前らの行為を悪と承知している故に相手になすくって批判していることにある。「手前らの悪の行為を悪と承知している故に相手になすくって批判する」などと云う芸をネオシオニズム&ネオシオニス以外に為し得る者がいるだろうか。これを平然と為し得るのが連中である。実に狡知に長けた煮ても焼いても食えない手に負えない我さえ良ければ知を集積させた曲者である。

 れんだいこのカンテラ時評№1194  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月 6日
 日本神道考その7

 ここで、日本語の日常用語に何気なく秘められている日本神道の息遣い、思想、教示を確認する。これをネットで検索すると、いろいろ試みてみたが出てこない。そういう意味で手探りになる。これを諺(ことわざ)、名句、慣用句も含めて総合的に解析するのは別の機会に譲るとして、ここでは会話常用句について見ておく。

 これにつき一般に仏教思想から説明されているが、れんだいこに云わせれば日本神道隠しでしかない。仏教教説と重なる面もあるが元々は日本神道から由来していると理解すべきではなかろうか。興味深いことは、その殆どが英訳しにくいことである。これは背後にある思想の違いを抜きにしては考えられない。何気ない会話常用句の中に日本神道の精神が内在していると窺うべきだろう。

 挨拶語の全てがそうである。「おはようございます」、「こんにちわ」、「こんばんわ(お晩です)」の朝昼晩の日時挨拶語。「良い時候(天気)ですね」、「暑いですね」、「寒いですね」、「雨で嫌ですね」、「晴れて気持ちよいですね」等々の天候や時候の挨拶語。「はじめまして」、「ようこそ」、「よろしく」、「どうぞ」、「さようなら」、「行ってまいります」、「行ってらっしゃい」、「ただいま」、「お帰りなさい」、「お休みなさい」、「お疲れ様」、「お久しぶり」、「ごめんください」、「.お入り下さい」、「お上がり下さい」、「お掛けください」、「恐縮です」、「お邪魔します」、「よろしくお願いします」、「(お先に)失礼致します」等々の礼儀挨拶語。

 これらは皆な日本神道の賜物であり、日本神道が挨拶を重視していることを窺うべきだろう。自身と相手を対等にして礼儀を尽す配慮が認められることに気づく。外国語の、英語の「サンキュー」、ドイツ語の「ダンケシェーン」、「ビッテ」、イタリー語の「チャオ」のような万能語はないが、それぞれの場面に応じた適切簡潔な挨拶語を用意していることに気づく。

 感謝用語がそうである。接客用語の「ようこそ」、「いらっしゃいませ」、「はい、かしこまりました」、「少々お待ちくださいませ」、「お待たせいたしました」、「かしこまりました」、「どう致しまして」、「ありがとうございます」、「又お越しくださいませ」、「申し訳ございません」、「あいすみません」等々がある。他にも、「分かりました」、「お手数をおかけしました」、「お構いなく」、「何のお構いもしませんで」、「悪しからず」、「ご遠慮なく」、「ご自由に」、「どうぞ、ごゆっくりと」、「お先にどうぞ」、「おかげさま」、「ご苦労さま」、「お世話様」、「お世話になります」、「いろいろお世話になりまして」、「(お体を)大切に」も然りで、これらは皆な思いやりを示している。これによると日本神道は相手に対する思いやり、感謝を重視していることが分かる。

 食事の際の「いただきます」、「ごちそうさま」も然りで独特のものである。これは、単に食事マナーと云うだけでなく、同席の者に対する礼儀的言葉であり、同時に食される動植物の生命に対する慰労、謝意を表現しているようにも思われる。ちなみに、食事の際は、極力家族団らんで食べるよう指導されている。職場その他皆なで食べるのも然りである。囲炉裏を囲むようにして集団で飲食し、それがおいしいと感じるのは既に日本人の遺伝子になっていると云えよう。コの字型、楕円型を囲む居酒屋風パブが隆盛しているのは、この伝統を継承していることによると思われる。

 なお、和食は2013.12月、ユネスコの無形文化遺産に登録されたが、自然素材をそのままに旬に食べることを特徴とし且つ医食同源思想に貫かれているものである。医食同源で云えば、これを何も中国伝来の思想とする必要はない。日本でも発達し中国でも発達し、或る時に中国式医食同源思想が輸入され混ざり合ったと考える必要がある。いわゆる漢方薬に対する和方薬も昔から育まれていたことを踏まえる必要があろう。中でも温泉治療(湯治、とうじ)は和方薬の粋であろう。

 貰い貰われの際の「お粗末なものですが」、「つまらない物ですが」のへりくだりも然り。へりくだりで云えば「愚妻」も然りであろう。これは別に妻が愚かな訳ではない。良妻賢母であることを承知してなお相手方に対してへりくだり相手を立てる気持ちが認められる。何事もほどほどでにすべきではあろうが。「もったいない」も然りで、ものを大切にする日本神道思想を反映しているように思われる。「おもてなし」は言葉ではないが精神として然りであろう。他にもこの種の言葉があると思われる。

 「気」に関してかなりナイーブな使い方をしていることが分かる。「狂人」を「気違い」と云い表している。「気違い」を差別用語とみなす向きがあるが元々は「気の間違い」から来ているとする、かなり慈愛の深い用語であろう。「お元気ですか」、「お気の毒さま」、「お気をつけください」、「気落ちしないでね」、「気遣い」、「気配り」、「気配(けはい)」等々も然り。「気」に関する用語がかなり多い。「けがれ」を漢字では「汚れ」、「穢れ」と記しているが、「気枯れ」とも読める。こういう例も探せば他にもあろう。これによれば、日本語が如何に「気」を重視しているかが分かる。そこに日本思想が宿っているように思われる。「間(ま)」に対しても独特の使い方をしており重視していることが分かる。

 人の生き死に対しても日本神道の影響が認められる。妊娠-出産に対して「神様からの授かりもの」として「おめでたい」こととして喜ぶ。決して夫婦自力の技とは捉えていない。ちなみに「おめでとうございます」、「お祈り申し上げます」はいろんな場面で使われる言葉である。死に対しても本来は恐怖感を持たせていない。元々は「土から生まれ土に帰る」という自然思想を持っているように思われる。死者の霊が山、森に宿り見守り続けているとする思想もある。それらは天国、極楽、地獄思想や輪廻転生とは馴染まない。頭で考えなければ分からないようなものは日本神道の思想ではないように思われる。

 「祓え給え、清め給え」の禊思想による諸言葉もある。これより「水に流す」的様々な発想が生まれている。悪しきことに対して拭えば払われる埃(ほこり)のようなものとして捉えている節がある。「ハレ」、「ケガレ」、「忌み」の思想はあるが、仏教的因縁論、業論やユダヤーキリスト教的原罪論、罰論、悪論はない。

 歌もそう。民謡のような歌と和歌のような文の歌があるが、言葉の中に韻、リズムを重視しており、これは日本神道が天地自然の韻、リズムを踏まえており、日本語がこれを継承していることによる。「五、七、五」、「五、七、五、七、七」調子はこれより由来していると思われる。

 総評すれば、言葉の中の全体に共同体的思想、神人和楽思想が認められる。出雲の七福神思想から来る御教えなり言葉も認められる。日月に拍手を打つ拝も然りである。こういうことを諺(ことわざ)、名句、慣用句も含めて考察すれば、日本語の中に宿る日本神道精神がもっと明らかになるであろう。れんだいこが感心するのは、これらが皆な万物に聖霊が宿るとする諸神信仰から生まれているように思われることである。戦後日本が教えられ続けているユダヤーキリスト教思想にはないものである。このことは、宗教や精神を含む文明も又二者択一ではなく併用を志すべきであることを教えているように思われる。今日びのお偉い先生方の耳に届けたい話しである。(ひとまず完)

 れんだいこのカンテラ時評№1193  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月 4日
 日本神道考その6

 日本神道は、暦のこういう大綱の中で年間行事を巧みに配置している。巧みとは、季節の循環に合わせ、人の成長の折節に合わせ、最も良かれの時期を見定め行事化し、教本によってではなく自然に感化することを言う。暫しこれを確認する。

 1月、親族が互いに往来し仲睦まじく宴をする月であるから「睦月」(むつき)と云う。新年は正月から始まる。この期間中、正月休みがとられ心身を革める。人々は神社仏閣を詣でご本尊に向かって元旦の計を誓い祈る。これを初詣でと云う。年賀状をやり取りし年始挨拶をする。この時、極力親族一同が寄り顔合わせする。戸口には門松を飾り、家中では家族一同でお屠蘇(おとそ)を頂き、お餅とおせち料理を食べる。これらにはそれぞれ深い意味が込められている。それが分からなくとも体感するように配慮されている。大人と子供それぞれに様々な正月祝い行事が用意されている。初夢、書き初めの倣いがある。正月休みが明けると御用始めとなり鏡開き、蔵開きする。新年行事を終えた頃合いの7日、七草粥を食べる。14日、成人式の日が来る。この期間、雪国ではスキーが盛んになる。

 2月、寒さのために更に着物を重ねて着るので「衣更着」の意味から「如月」(きさらぎ)と云う。3日、節分となり「鬼は外、福は内」の豆まきをする。この時分までは雪が舞い各地で雪祭りが行われる。札幌雪祭りが5日から11日まで行われる。11日、建国記念の日。14日、バレンタインデー。この時期まで雪国ではかまくらの風習がある。

 3月、草木がいよいよ生い茂る月という意味で「弥生」(やよい)と云う。雪解けが始まる。3日、桃の節句と雛(ひな)祭りを迎える。この行事には女の子のすくすくした成長を見守る気遣いがある。17日頃、春の彼岸を迎え、20日、春分となる。この日を境に日中の日が次第に長くなる。この日、ぼた餅を食べる習慣がある。中旬頃、つくしが採れ始め、梅が咲き、下旬頃、桜が咲き始める。たけのこが出回り始める。この頃より春の旅行シーズンとなる。高校生の春の甲子園野球がある。

 4月、卯の花が咲く「卯の花月(うのはなづき)」を略して「卯月」(うづき)と云う。れんげを始めとする草木が芽生え始め各地で花祭りが行われる。8日が花祭りの人なっている。学校も新学期、会社も新入社員を迎え転勤シーズンになる。中旬よりつつじが咲き、わらびが採れる時期になる。この時期から5月にかけて春の結婚シーズンとなる。恐らく子作りに向いた季節と云う意味だろう。

 5月、早苗を植える時期「早苗月(さなえづき)」を略して「皐月」(さつき)と云う。立春から数えて88日目の2日頃、八十八夜を迎える。5日、端午の節句の子供の日を迎え鯉幟りを飾る。この日、柏餅やちまきを食べる習慣がある。この行事には男の子のすくすくした成長を見守る気遣いがある。この前後に長期休暇が取られる。現在ではゴールデンウィークと云われている。中旬頃よりあやめ、さつき、下旬頃より花菖蒲が咲く。下旬頃よりホタルが飛び始める。

 6月、水の月と云う意味で「水無月」(みなづき)と云う。「無」は「の」にあたる連体助詞と解されている。衣替えとなり夏用衣服を着るようになる。半ば頃、梅雨入りする。この頃、紫陽花 (あじさい)が咲く。21日頃、夏至となる。この日が一番日中の日が長く、この日を境に次第に短くなる。下旬頃より産地のスイカが順に出回り始める。

 7月、書に親しむのに都合の良い時期であることから「文月」(ふみづき)と云う。初夏を迎える。7日、七夕飾り。行事の終りに灯篭流しが行われる。初旬頃よりせみが鳴き始める。ひまわりが咲き、海水浴が始まる。人が海に山に出かけるようになる。土用の丑の日を迎え、うなぎの蒲焼を食す習慣がある。下旬頃より白桃が最盛期を迎える。

 8月、葉が最高に生育して茂る時期であることから「葉月」(はづき)と云う。高校生の夏の甲子園野球が始まる。中旬の15日前後にお盆休暇となる。この時、いろんなお盆行事が行われる。この時期の休暇は、連日の猛暑で疲れた体の骨休みをさせよのメッセージが込められていると思われる。お盆明けより秋風が漂うようになる。下旬頃より鈴虫やこうろぎが鳴き始める。ぶどうが出回り始める。

 9月、日増しに夜が長くなるので夜長月の意味で「長月」(ながづき)と云う。夏の終りと共にせみが鳴くのが終る。9日、重陽(ちょうよう)の節句。菊祭りの季節となる。栗が出始める。秋の旅行シーズンとなる。11日頃、二百二十日となる。16日、敬老の日。20日頃、秋の彼岸を迎え、23日、秋分となる。この日、おはぎを食べる習慣がある。下旬、コスモスが咲き始める。この月から10月にかけて稲の収穫期に入り新米が取れる。この頃から10月の満月が一年を通じて最も美しく、中秋の名月の観賞が行われる。ススキを飾ると風情を増し、月見団子、栗ごはん、豆を食べる風習がある。この頃より秋の旅行シーズンとなる。

 10月、日本中の神様が出雲の国(島根県)に集まり会議を開き、他の国には神様がいなくなってしまうことから「神無月」(かんなづき)と云う。神様の集まる出雲の国では「神在月(かみありづき)」と呼ぶ。衣替えとなり冬用衣服を着るようになる。この頃、各地で神輿やだんじりが引き出される秋祭りが行われる。マッタケが出回る季節となる。魚が実入りの多い時期となる。27日より11月9日まで読書の秋にもなる。下旬頃、柿が出回り始める。この時期が秋の結婚シーズンとなる。恐らく春のそれと共に子作りに向いた季節と云う意味だろう。

 11月、霜が降りる頃であることから「霜月」(しもつき)と云う。3日、文化の日。7日頃、立冬。15日は七五三。この行事には子供のすくすくした成長を見守る気遣いがある。中旬頃、熊が冬眠に入り始める。23日は勤労感謝の日。この頃より紅葉が美しくなる。

 12月、師さえもが忙しく馳せる月と云うことから「師走」(しわす)と云う。紅葉が次第に深まり、寒冷地では雪が降り始める。22日頃、冬至となる。この日が一番日中の日が短く、この日を境に次第に長くなる。新酒が出回り始める。忘年会シーズンになる。23-25日、クリスマスを迎える。年の暮れ近くになると餅つきが行われ神棚に供える。仕事の御用納めとなり、大祓いする。大晦日の日、昔はNHKの紅白歌合戦が華を添えた。日本伝統食のそばを食べ年越しする。いよいよ新年寸前になると除夜の鐘を撞き耳目を洗う。

 このほか、十分には書ききれなかったが四季の折々、人の成長の折々に加えて様々な文化的社会的政治的意味合いの行事と休日が加わっている。但し、基本はこの四季の移ろい行事に上乗せされていると知るべきだろう。これに加えて、共通行事にはならない個人行事がある。既に記したもの以外に誕生祝い、入学祝い、元服、卒業祝い、見合い、結婚、子供の出産祝い、厄払い、葬式等がある。氏子としての用事、お見舞い等もある。

 興味深いことは、これらの行事に神道と仏教が深く関わっていることである。そしてそれぞれが住み分け的に共催していることである。これらの定着した行事は日本人が獲得した歴史の叡智と云うべきではなかろうか。人の生き死にのうち誕生-成長面を神道が、死亡面を仏教が主催し、その間をそれぞれが任意に管掌しているように思われる。これも折り合いの叡智だろう。今日ではこれに儒教、道教やキリスト教的要素のものも加えられ、これまたそれなりに和合している。これも日本教らしいところである。

 以上を「れんだいこの日本神道考その6」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。

 れんだいこのカンテラ時評№1192  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月 3日
 日本神道考その5

 次に、和暦と日本神道との関わりを見ておく。日本人の生活が如何に神道と深く関わりながら和暦を生み出し、日、月、年を経ているかが分かろう。

 大和王朝前、即ちれんだいこ史観による出雲王朝-邪馬台国時代、暦がなかった訳ではない。下手に学問すると、この時代には文字も暦もなかったなる愚論に汚染されてしまう。それは丁度、幕末の黒船と共にネオシオニズムが入り込んで来て、いわゆる西欧学を教えられるまでの間、日本にはろくな学問がなかった、民主主義のない文明開化的に未開の封建主義の国に過ぎなかったとする見地に通じている。良いものは何でも外国輸入としたい訳である。これを外国被れと云う。被れるのは良いのだが、日本には日本の世界に冠たる学問も宗教も言語も政治も経済も文化も精神もあったと承知していなければならない。この見地を失って学び過ぎると学んで却って阿呆になる。一々誰それの名を上げないが迷惑この上ない連中が跋扈し過ぎていよう。

 当然、日本には素晴らしく高度な天文学があった。邪馬台国女王卑弥呼は日弥子とも記されており、これによれば天文を観る霊能力者ではなかったかと思われる。そういう天文霊能士が部族、国毎に育成されていたのではないかと思う。もとより天文だけを観たのではない。そこから宇宙、自然、諸国の動向、社会のあるべき姿を探り、生起する諸事に対する的確な指示を為していたのではなかろうかと思われる。これが魏志倭人伝には鬼道と記されているが、何も鬼であったり鬼がいたと云うのではない。中国式学問とは一味違う日本独特の処方が確立されていたということに対する中国史家の表現であろう。そういう者たちにより生み出された暦を和暦と云う。

 それによれば、一日を朝昼夕夜の四時に分け、12支の時刻で2時間毎に区分している。その2時間を更に初刻、二刻、三刻、四刻の30分ごとに仕分けしている。これによれば、子(ね、鼠)の刻は午前0時、丑(うし、牛)の刻は午前2時、寅(とら、虎)の刻は午前4時、卯(う、兎)の刻は午前6時、辰(たつ、竜)の刻は午前8時、巳(み、蛇)の刻は午前10時、午(うま、馬)の刻は午後0時、未(ひつじ、羊)の刻は午後2時、申(さる、猿)の刻は午後4時、酉(とり、鶏)の刻は午後6時、戌(いぬ、犬)の刻は午後8時、亥(い、猪)の刻は午後10時となる。2時間単位になつているが、30分単位の四刻で仕分けしている。これを午(うま)の刻で説明すれば、初刻が午後0時で、これを正午とも云う。二刻が午後0時半、三刻が午後1時、四刻が午後1時半となる。大雑把であるが要点を心得た時間感覚ではなかろうか。

 一日はそのように仕分けされている。次に月を確認すると、月の満ち欠けのサイクルを1ヶ月として、これが12ヶ月に分けられている。これは四季の廻りの区分に合わせているように思われる。木の芽立ちから葉落ち、その後雌伏して木の芽立ちを迎えるまでを一年としているように思われる。日月の運行法則に従うと丁度一年が12ケ月区切りになるのかも知れない。かく四季折々の循環に合わせて暦が作られていることを知るべきで、日本思想が獲得した相当に深い叡智ではなかろうか。中国暦、西欧暦と並行して独自の和暦を生み出していたことを知るべきである。これは言語にも同じことが云えよう。

 それによると、一月(ひとつき)は無(隠れ)月から月の始まり(新月。これを朔とも云う)から始まる。この日を1日(ついたち、月立ち)とする。やがて三日月から半月(これを上弦の月と云う)を経て満月(これを望と云う)に向かう。ここまでを前半の15日とする。今度は逆に満月から半月(これを下弦の月と云う)を経て月隠れまで向かう。これを後半の15日としている。これにより一月が30日となる。このように月の満ち欠けを基準にして一ケ月を定める暦を太陰暦と云う。現在の我々が使用して暦は太陽暦であるので月の満ち欠けとは関係ないが、太陰暦には太陰暦独特の良さがあるように思われ捨て難い。

 次に一年を確認する。一年は一巡りの春夏秋冬の四季を区切りとして識別されている。四季は更にそれぞれを六期に分けられる24節気で区分されている。この間、太陽黄経度により春分(0)、夏至(90)、秋分(180)、冬至(270)の節目が入れられている。その間に、春のひがん、八十八夜、二百十日、秋のひがん等が入っている。この区分法で、季節の移り変わりが克明に記され農作業等の手引きとなっている。24節気と太陽黄経度による節目を順に確認すると、立春、雨水、啓蟄(けいちつ)、春分、清明、穀雨の春。立夏、小満、芒種(ぼうしゅ)、夏至、小暑、大暑の夏。立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降(そうこう)の秋。立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒の冬となる。

 これによると日月(にちげつ)の運行法則により日、月、年を区分し、これを季節、節季で更に区分し、生活をこれに即応させていることが分かる。こういう和暦は西欧暦とは一味違う暦になっているが、もっと大事に味わうべきではなかろうか。これによると、暦の正しい受け止め方は和暦を捨てるのではなく、和暦を踏まえつつ西欧暦をも取り入れるという並存が望ましかったということになる。本来かくあるべきところ無理矢理に西欧学問の浅知恵でもって日本学の深知恵を排斥した経緯ばかりが残されている。

 いわゆる和式の度量法、尺貫法然りである。これによれば、長さ・距離は尺法により寸、尺、丈、歩、間、町からなる。面積は坪法により帖、坪(歩)、畝、反(段)、町からなる。体積は升法により勺、合、升、俵、斗、石からなる。重量は貫法により匁、両、斤、貫からなる。分量単位として分、厘、毛もある。和法が伝統的に育んだこういう知恵は残されるべきところ、政治的に排斥してきたのが西欧化であったことを批判的に確認せねばなるまい。西欧学を取り入れるのは良い、だがしかし日本学を捨てるには及ぶまい、とするのがれんだいこ史観である。

 こういう和暦、和式算術法、度量法は日本神道と通じている。日本神道により生み出され、次第に豊かにされ江戸幕末期まで日常的に利用されてきたものである。今にして捨てるに惜しいと思う。薄っぺらな西欧学に媚を売る暇があるなら、日本学をこそしっかり学び、その教えるところに合わせて生活しておけば良かったとも思う。以上を「れんだいこの日本神道考その5」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。

 れんだいこのカンテラ時評№1191  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月 3日
 日本神道考その4

 興味深いことは、出雲大社を総領とする大社系古神道と伊勢神宮を総領とする神宮系新神道では祭祀様式が違うことである。恐らく意図的故意に何から何まで対比的になっている。これを確認しておく。

 祭神の違いは当たり前である。即ち、出雲大社はスサノウ命を含めた大国主命を祀る。伊勢神宮最高格の内宮は天照大御神を祀る。両社では神社の建築様式が違う。出雲大社は大社造り、伊勢神宮は唯一神明造り、住吉大社は住吉造りとなっている。大社造りの構造は掘建柱・切妻造・妻入であり、屋根には優美な曲線が与えられている。直線的な外観の神明造りや住吉造りと大きく異なっている。出雲大社は入り口が向かって右にあるのも大きな特徴である。

 注連縄の巻き方も違う。出雲大社の注連縄は左巻き、伊勢神宮の注連縄は右巻きである。拍手の打ち方も違う。出雲大社の礼拝の仕方は「二礼四拍手一礼」であるが、伊勢神宮の礼拝の仕方は「二礼二拍手一礼」である。礼は拝とも云う。れんだいこはこの程度しか知らないが、細かいところでも様々に違いが認められるはずである。祝詞(のりと)も大祓祝詞は共通していると思われるが、それ以下の事情祝詞は文意も違うのではないかなと思っている。式年遷宮が出雲は60年、伊勢は20年と云う違いもある。参道から本殿に至る感覚も、出雲は暖かく母親に抱かれる感があるのに対し、伊勢では厳かで父親に相対する格式を感じる。

 その他、境内地に於ける巨木植栽は共通しているが霊山、巨岩、奇岩は出雲系の特徴のように思われる。出雲系の本質が神体山信仰から始まってきたことの証拠と思われる。この神体山信仰は、仏教伝来後は山伏修験道を生み出し、古神道と新神道のみならず仏教とも折り合いをつけて行くことになる。

 ところで、出雲大社は出雲系単独の本殿、摂社、末社その他の社で一系的に構成されるのに対し、伊勢神宮は皇室の祖神とされる天照大御神を祭神としている新神道系の内宮を核とするも、豊受大御神を祭神とする古神道系の外宮をも正宮(しょうぐう)として鼎立させている。即ち新神道と古神道の組み合わせから成る珍しい神社となっている。更に、それぞれが別宮(べつぐう)、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、所管社(しょかんしゃ)を擁し合計125社からなっている。所在地は三重県内の4市2郡に分布する。

 留意すべきは、三重県志摩市磯部町上之郷にある伊雑宮(いざわのみや)の存在である。伊雑宮こそがこの地の元々の一の宮であったと思われる(鳥羽市の伊射波神社(いざわじんじゃ)とする異論もある)。伊雑宮は現在は内宮の別宮となっているが、伊雑宮こそ元々の在地神社であり、そこへ内宮、外宮が乗り込んできたと云うのが史実である。伊雑宮は「天照大神の遙宮(とおのみや)」と呼ばれ、祭神として天照(坐皇)大御神御魂 (あまてらします(すめ)おおみかみのみたま)を祀っている。境外所管社として五穀豊穣の神とされる大歳神(おおとしのかみ)を祭神とする佐美長(さみなが)神社を持つ。伊雑宮の周囲には浦島太郎や海女が龍宮へ行ったという伝説がいくつかある。古神道由緒を示していることになる。

 これらを踏まえると、伊勢神宮は、元々に於いて旧古神道系の伊雑宮があり、そこに新神道系の内宮(皇太神宮)が設けられ、続いて新古神道系の外宮が設けられと云う風に三位神社群から構成されていることになる。分かり易く云うと旧古神道(熊野神道)、新古神道(出雲神道)、新神道(伊勢神道)の総領宮から成る神社デパートと云うことになる。これが伊勢神宮の所以たる特徴である。且つ内宮が大和王朝来の歴代天皇制の護神的役割を果たしているところから日本神道の総元締めとして君臨している。

 但し付言しておけば、出雲系が一社で構成されていることが伊勢神宮の三派構成に比して格下と云う訳では決してない。却ってすっきりしていると云う面もあるので一長一短であろう。ここは留意を要するところである。

 かく日本神道は大きく見て出雲系と伊勢系が平和共存体制下で営為しつつ今日に至っている。これが日本式宗教界、精神界の特質である。以上を「れんだいこの日本神道考その4」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。

 れんだいこのカンテラ時評№1190  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月 3日
 日本神道考その3

 日本神道考その1に比して日本神道考その2の評判が良くない。しかしそれは、れんだいこにとっては心外で、日本神道考その2の方こそ驚天動地の指摘をしていると自負している。この慧眼が認められるには驚天動地故にもう少し先のことになるかも知れないと受け流している。それはともかく、出雲王朝系の古神道(以下、出雲系古神道と命名する)にも旧古神道と新古神道の識別が必要なように思われる。れんだいこには、古神道内のこの変遷史を見ない傾向に不満である。

 古神道内に旧と新を持ち込むと、古神道と新神道の識別とこんがらがってくる。そこで、識別する為に仮に出雲系古神道の旧古神道を熊野系古神道、新古神道を出雲系古神道と命名する。熊野系古神道のより古さを際立たせる為の識別である。れんだいの解析によると、出雲系古神道は、国引き譚で知られるヤツカミズオミヅの命を始祖とする熊野大社(祭神・熊野大神)、佐太神社(祭神・佐太大神)、能義神社(祭神・野城大神)系から始まる。これを熊野系古神道と命名する。その熊野系古神道を継承しながら、スサノウの命を始祖とし大国主の命を大成者とする出雲大社(杵築大社とも云う。祭神・大国主の命)糸古神道が生まれた。これは出雲王朝内の政権変動に関わっているように思われる。両者は微妙に違うと云う見立てが欲しい。この出雲系古神道は熊野系古神道の否定ではなく、まさしく出藍的に大成されているところに特徴が認められる。これを踏まえて古神道と云われていることが知られねばならない。れんだいこには、古神道内のこの識別をしない古神道論ばかりであるのが不満である。

 且つ日本神道では、この出雲系古神道の総領神社を「大社」、渡来系新神道の総領神社を「神宮」と書き分けて識別していることが知られねばならない。これは重要な識別で、祭神も、出雲系古神道に関わる「ミコト」は「命」、渡来系新神道に関わる「ミコト」は「尊」と表記替えして識別していることが知られねばならない。日本書紀ではなべて「尊」、古事記ではなべて「命」と表記しているが、「命」と「尊」の差はそのようなものではない。本来は出雲系古神道に関わる「ミコト」が「命」、渡来系新神道に関わる「ミコト」を「尊」として識別理解するのが正解であると思われる。これも重要な指摘である。

 ちなみに「ミコト」とは「御言」を宣べる者であり、「スメラミコト」とは、「御言」を「統(ス)べる者」と云う意味のように思われる。「統(ス)べる者」は、出雲王朝では「王」とか「君」で表記され、「大」が冠詞されて「大王」、「大君」となり「オオキミ」又は「スメラミコト」と読まれる。大和王朝では「皇」と表記され、この「皇」に「天」が冠詞されて「天皇」となり、これも「スメラミコト」と読まれる。

 ここで、「大社」を確認する。良く知られている順に出雲系で出雲大社(島根県出雲市)、熊野大社(島根県松江市)、諏訪大社(長野県諏訪市)、住吉大社(大阪府大阪市住吉区)、春日大社(奈良県奈良市)、熊野本宮大社(和歌山県田辺市)、松尾大社(京都府京都市西京区)、三嶋大社(静岡県三島市)がある。神社ではあるが、大和の大神神社はよほど格式が高く出雲大社と同格的な地位にある。本来は大神大社となるべきであろうから、ここに収録しておく。

 繋がりが分からないが他に伏見稲荷大社(京都府京都市伏見区)、多賀大社(滋賀県犬上郡多賀町)、富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)、気多大社(石川県羽咋市)、日枝(吉)大社(滋賀県大津市)、宗像大社(福岡県宗像市)、高良大社(福岡県久留米市)、熊野速玉大社(和歌山県新宮市)、熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)、大島大社(大阪府堺市西区)、梅宮大社(京都府京都市右京区)、南宮大社(岐阜県不破郡垂井町)、多度大社(三重県桑名市)、建部大社(滋賀県大津市)、龍田大社(奈良県生駒郡三郷町)、廣瀬大社(奈良県北葛城郡河合町)がある。

 次に「神宮」を確認する。良く知られている順に伊勢神宮(三重県伊勢市。内宮の皇大神宮、外宮の豊受大神宮)、鹿島神宮(鹿児島県霧島市)、香取神宮(千葉県香取市)、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)、石上神宮(奈良県天理市)、熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区)。繋がりが分からないが他に鹿児島神宮(鹿児島県霧島市)、伊弉諾神宮(兵庫県淡路市)、國懸神宮(和歌山県和歌山市)、日前神宮(和歌山県和歌山市)、鵜戸神宮(宮崎県日南市)、英彦山神宮(福岡県田川郡添田町)。創建が新しいものとして平安神宮、明治神宮がある。

 大社と神宮の違いは、大社が出雲王朝系の護持、神宮が渡来王朝系の護持と云う役目を帯びて祈願していることにある。上記の神社を見れば何がしか国譲り、天孫降臨、神武天皇東征の古代史政変に関係しているような気がする。他にも神社、宮の名で著名なものも数多くある。ここでは逐一取り上げないが、各地の総社、一の宮とされている神社、宮は注目されるべきだろう。これらが綿密に大社系、神宮系に系統分けされていることが理解されねばならない。元々の祭神が大社系であり応法的に神宮系になったものもある。こういう場合、大社系としてみなすことも必要であろう。

 かく日本神道は内部構造されている。以上を「れんだいこの日本神道考その3」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。

 れんだいこのカンテラ時評№1189  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月 2日
 日本神道考その2

「日本神道考その1」では、国際ユダ屋の護教する一神教ネオシオニズムに対する日本神道の汎神論的叡智を窺った。ここでは、日本神道の内部構造について確認したい。以下、れんだいこの仮説を大胆に披瀝する。

 一口に日本神道と云っても、その内部には古神道と新神道の画然とした違いが認められる。故に、両者の識別及び相関関係を踏まえねばならない。古神道と新神道の違いは歴史的に発生したものであり、それはどうやら古代史上の政変と関係している。日本神道は、出雲王朝の国譲り政変以降、勝った官軍派の渡来系新神道と、負けた賊軍派の古神道の両派に分かれ、新神道が顕界、古神道が幽界を主宰すると云う折り合いの下で両者が鼎立しつつ護持発展していくことになった。このことを深く知るべきである。

 この両派は表見上は親睦するが根底では相容れざるものがあり、この大人の関係がはるばる今日まで続いていると知るべきである。特徴的なことは、諸外国のそれと違い暗闘しつつも平和共存体制下で棲息していったことであろう。日本型政治の特質が宗教的精神界にも通じていることになる。あるいは逆に日本精神界、宗教界のこうした特質が日本型政治に反映して日本政治に止めを刺さない手打ちが特徴となっているのかも知れない。

 ちなみに、「勝った官軍派の渡来系」は、古事記、日本書紀等の史書で皇統譜を正当化している。「負けた賊軍派の出雲王朝」を国津神系、手前たちを高天原系と自認する構図で説き分けている。が、ここに大いなる詐術があると知るべきである。何とならば、出雲王朝系の史書を下敷きにしたと思われるホツマ伝え等の史書によると、天照大神を最高神とする高天原譚は元々国津神系神道に取り込まれており、聖域的王権物語として権威づけられていたことが分かる。とすれば、国津神系と高天原系は対立するものではない。それを、「勝った官軍派の渡来系」が、国津神系神道が温めていた天照大神信仰の権威を横取りし、我こそが高天原王朝の正統な嫡孫であると僭称することで、国津神系諸豪族にイデオロギー的攻勢を仕掛け、様々な利益誘導的懐柔策で手なづけて行った形跡が認められる。

 よって、国譲り譚、天孫降臨譚、神武天皇東征譚とは、渡来系及びこれに同盟した国津族と、これに抗した出雲王朝系国津族との天下分け目の王権戦であったと考えられる。れんだいこは、これに邪馬台国が関係しているように了解している。これによれば、神武天皇東征軍に抗した国津族とは出雲王朝系と邪馬台国系の在地土着系諸部族の連合軍であったと解している。この系が敗北したことにより国津族系王朝の痕跡が一切解体されたと思っている。

 この古代史解析構図は既に何人かが唱えている。れんだいこもその一人として「れんだいこ史観の白眉な指摘の一つ」であると自負している。これまで、このことが分からぬ為、古代史研究の多くの研究者が道に迷っていることを思うとき、これを訂正し研究の本来の軌道に据え直した功績があると自負している。誰も言ってくれないので手前で褒めておくふふふ。

 実際、かく構図し直すことにより日本古代史、上古代史の暗雲が去り視界が大きく広がる。これによると、古事記、日本書紀等の史書に基づく国津神系対高天原系の戦いなる構図は歴史の詐術であり、国津神系対渡来系の戦いとして正しく位置づけなおさねばならないことになる。これによると、国津神系対高天原系の戦い構図をそのままに継承し、国津神系を賊軍、高天原系を官軍的に描き、官軍の聖戦イデオロギーを煽る近代天皇制擁護の皇国史観は、歴史詐術を強めた悪しきものに過ぎないと云うことになる。

 戦前の皇国史観批判の構図はかく定められねばならない。実際には、津田史学的荒唐無稽論で批判したつもりになっているが、そのような批判は外形的なものでしかない。戦後史学は、津田史学的荒唐無稽論の見地からではなく、れんだいこの指摘する記紀神話構図批判に向かい、古史古伝各史書の精査も含めて古代史、上古代史の実態解明に向かわねばならなかった。残念ながらそうはならず、この方面の研究は個々の学者がまさに個々に研究し個々に発表しているに過ぎない。こういう寒い状況にあることが知られねばならない。

 これを分かり易く云うと日本の真の国体史の解明と云うことになる。国体論は北一輝その他が言及しているが、既存のそれは皇国史観に馴染んだものでしかなく、れんだいこから見て真の国体論にはなり得ていない。れんだいこ式真の国体論によれば、凡そ皇国史観とは真逆の神人和楽的王朝楽土論に行き着くはずである。それは本質的に世界諸国民との共和思想を奏でており好戦イデオロギーを振りまくようなものでは決してない。

 してみれば、幕末維新は、古神道の御教えに適う方向と後の皇国史観に通ずる方向との相克でもあったことになる。史実は権力者は後者の道を選択した。上から皇国史観を鼓吹しぬいた。大衆は、皇国史観を受容しながらも古神道の恵沢にも与っていた。戦後は、古神道の御教えに適う方向の復権の道もあったが、皇国史観の座を国際ユダ屋のネオシオニズムにすり替えた道へ向かったに過ぎない。ネオシオニズムの暴力性は、権力者の篭絡は無論のこと、大衆が与っていた古神道の恵沢をも奪おうとしている。ここに戦後の思想的課題の本質がある。かく解している。これをとりあえずの「れんだいこの日本神道考その2」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。

 れんだいこのカンテラ時評№1188  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年11月29日
 日本神道考

ここで、日本神道を考察する所以は、現下の政治情勢が意図的故意の国際ユダ屋の陰謀によって日本及び日本人の国家的社会的自然的共同体(以下、これを仮に「国体」と命名する)としての紐帯をあらゆる角度から解体せんとしていると思われるからである。それも何によってか分からないがかなり性急に仕掛けられている。それは傍観する能わずの感がある。これは国体の危機であり、もっと真剣に防衛せねばならない。それはどういう理由によってかを説くのは別の機会に譲り、ここでは国体擁護の観点から論考したいと思う。

 これを為すには政治、経済、文化、精神、言語の各域からの考察が不可欠であるが、話しが拡散するので、ここでは日本独特の宗教的形態である日本神道に絞って論じたいと思う。日本神道とは、世界の宗教がそうであるように民族又は国家の原基を為すものであり、日本の国体の基盤即ち要(かなめ)ちゅうの要を形成しているものである。西欧語ではアイデンティティーと表現されているが、アイデンティティーちゅうのアイデンティティーと言い換えても良い。こういうものを放棄して一向に差し支えないとする左翼理論があるが、それは理論の間違いであり、左翼理論が国体論を放棄してよいと云うのは国際ユダ屋に加工され捻じ曲げられた故のものでしかない。

 本来、右翼であろうが左翼であろうが、それぞれの国の国体は第一義的に擁護されなければならない。その基盤の上に国際主義が花開くものであり、国際主義と国体主義を鋭角的に対置させ選択を迫るのは、国体主義が排他的独善的なものである場合に於いてであり、日本神道の御教えのように諸国民共和的な場合には通用しない、馬鹿げた理論でしかない。これは言語論にも云える。当然、政治、経済、文化、精神論にも云えることである。

 それでは、そろそろ日本神道とはどういうものであるかについて開陳しておく。結論的に述べれば、日本神道とは、国際ユダ屋の信奉するネオシオニズム宗教が「選民による、選民の為の、選民独裁政治及び社会」を目指すのに対し、対極的な「諸国民による、諸国民の為の、諸国民共和政治及び社会」を目指す「祈りと祀りの型」である。この「祈りと祀りの型」は、ネオシオニズム宗教が自然を敵視し支配征服の対象としているのに対し、自然と順応し調和共存の対象としていることにも違いが認められる。分かりやすくいうと、自然は支配するものではなく畏敬し調和するものとしていると云う違いがあるということである。

 ネオシオニズム宗教が唯一的、超越的、絶対厳命主義的最高神を戴くのに対し、日本神道の神は多神的、神人和楽的、合議主義的最高諸神を戴いている。ざっとこのような違いがある。国際ユダ屋式学問によれば、唯一的、超越的、絶対厳命主義的最高神こそが最高発展段階の宗教であり、日本神道的な多神的、内在的、神人和楽の合議主義的最高諸神は汎神論的アニミズム宗教として下位に位置づけられている。しかしそれは、ネオシオニズム宗教派の得手勝手な物言いに過ぎず、唯一神的宗教が汎神論的宗教に優越する論拠はどこにもない。本来、それは「祈りと祀りの型」の違いとして等位的に共存すべきであるところ、ネオシオニズム宗教派が勝手にランクづけしているに過ぎない。

 史上、20世紀の急速な国際交流化を経て、その流れがますます強まる21世紀を迎えているが、この時代にあってはむしろ、国際ユダ屋の信奉するネオシオニズム宗教の限界こそが表沙汰になりつつある。ネオシオニズム宗教を原基とする政治、経済、文化、精神論ないしは施策が形成した世界秩序は、それらのものを究極まで開花させることにより、むしろ弊害をもたらしつつある。これを逐一述べてもキリがないので、ここでは原発を論ずる。

 原発とは、自然素材のウランを異常化学的にウラニウム化させ爆発させることで電気を起こさせるものであるが、異常化学であるが故に稼働中も危険極まりなく、燃焼後の核灰物の処理がこれまた厄介極まりないと云うリスクを抱えている。後先を考えれば、このような発電装置を手がけるべきでないところ、国際ユダ屋は目先の利益に幻惑されてか、後は野となれ山となれ式の無責任経営をして今日まで至っている。日本神道の弁えでは、そのような発電装置には手をつけない。そういう悪魔科学性のものは忌避し、環境適応型の自然諸力応用発電装置を創造する。原発事故後、世界の趨勢となりつつあるエコエネ発電は日本神道の指し示す道である。宗教の「祈りと祀りの型」の違いにより、こういう風に世界が変わることが分かる。

 一端だけ述べても、かくも素晴らしいネオシオニズム宗教と最も対比的な日本神道の叡智を今こそ紐解かねばならない。これが、れんだいこの日本神道論の構図である。その日本神道は何も堅苦しく厳(いかめ)しい神社作法によって学ばなくても良いようにも思っている。それは知れば良いし、そのお陰を受ければよい。それにより感応するものがあるに違いないとも思う。ただ、れんだいこの日本神道論は少し違う。日本神道の極意は言葉の中に宿っていると思っている。日本語の中には丸ごと宿っているが何も日本語だけではない、世界の言葉と云う言葉の中に日本神道が宿っていると思っている。それはどういうことか。

 結論から言えば、世界、自然、社会に在るものを如何に眺め、了解し、対応し、共認し、教訓化し、折り合いを取って行くべきかの教示的モデルを示しているのが日本神道であり、故にこれを逆から云えば日本神道とは日本だけのものではない、世界じゅうにある気づきの御教えの体系である。れんだいこはかく解している。その体系が、ネオシオニズムとは真逆の気づきを教えているところが面白い。日本神道が日本神道であるのは、それを日本的な「祈りと祀りの型」に高め精錬したところに認められる。かく解している。

 そういう意味で、日本神道の扉を開け、その薀蓄に身と心を洗われてみたいと思っている。その修行法は至るところにある。何しろ言葉の中に生きているのだから日常の中に在ると云っても良い。天理教の御教えの中に「山の仙人、里の仙人諭し」があるが、そう我々は誰しも里の仙人である。これを磨くか磨かないかだけの違いである。

 日本神道は書のない不文律と云われる。これはどういうことか。律法書がないのではない、あらゆる事象が法になり、逐一説くには及ばない、説けばキリがない万冊の文になる故に逐一記せない、記すより体感で眼力を養いコツを会得した方が早いとする故の不文律と解するべきと思っている。こういうことが総合的に関係して日本神道は戒律のない世界に珍しい宗教になっている。

 とりとめのない思いつき話しになったが、これをとりあえずの「れんだいこの日本神道考その1」とする。誰か膝を叩いてくれる一人でもあれば本稿の本望である。

 れんだいこのカンテラ時評№1187  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年11月28日
 れんだいこの東照宮御實紀巻考その2、特定秘密保護法案考

 れんだいこの脳内においては、大衆向けの歴史読み物としての近現代政治史書がないことと現下の特定秘密保護法案が絡む。2013年の自民党安倍政権下で特定秘密事項保護法案なるものが上程され、衆院通過、参院にまわされたのが目下の状況である。これを如何に成敗すべきか、以下愚考する。

 特定秘密保護法案は、法がまともなら特定秘密事項保護法案と記すべきものであろうが事項が消えている。戦前の治安維持法並みの包括的法案となっている。立法者の狙いが透けて見えてくる話しである。それによれば、公務員による国家機密の漏洩を重刑事罰でもって保全しようとする法案と云うことになるが、如何にも国際ユダ屋好みの法案であろう。国家機密指定期間も著作権法に合わせてか「秘密の指定期間は原案では原則30年以内だった。それが最長60年へ事実上の倍増となり、60年を超えて指定できる例外も設けられている」とのことである。

 国際ユダ屋連中は、彼らが狙いを定めた国家が御せない場合には革命的民主主義の立場であれこれの反政府運動を支援し、いざ権力を掌握すると手の平を返し、旧政権どころではない強権支配体制を敷くことを好む。こたびの特定秘密保護法もその一つである。これを擁護する者は、既に諸外国では当たり前の法律に過ぎないと説教してくれる。

 だがしかし、アメリカの防諜法、イギリスの公務秘密法、ドイツのスパイ防止法をベースにする刑法や保安審査法、フランスの刑法、韓国の刑法、国家保安法、軍事機密保護法等を挙げるが、何のことはない、これ皆な国際ユダヤが篭絡せしめた国の一足先の画策物に過ぎない。故に諸外国でも既にあると云うのではお話しにならない。 国際ユダ屋が牛耳るところどこでもこういう法ができると承知したい。戦争、国債、消費税が連中の金融操作の賜物とすれば、これは法操作の範疇のものとなる。

 思うに政治には機密がつきものである。その機密を否定できるものではない。それはそれで良い。良くないのは、これまで歴代の政権が政権-官僚責任で内部保全してきたものを、こたび敢えて法案化せんとする意図、狙いである。そういう法ができると一人歩きし始めるのが歴史の教えるところである。この次に出てくるのが戦後版の治安維持法であろう。特定秘密保護法案はその地均しと思えばよい。

 この法では誰が特定秘密事項縛りを決めるのかと云う肝腎のプロセスがブラックボックスになっている。安倍首相がご安心あれと胸をたたいているが、国債発行のときも福田蔵相が胸をたたいている。結果は今ある通りの1000兆円借金国家日本となっている。こういう法案を通すと、その先に待ち受けるのがどういう社会であるのかに暗澹とさせられる。機密情報公開の流れにあった20世紀において、21世紀を想像した社会の中にこういう愚劣な社会図が予想し得た者が居るだろうか。

 国際ユダ屋は手前たちだけが掌握する国家機密とその管理をことさら好む癖がある。かの著作権法も国際ユダ屋が編み出したものである。著作権法の真の狙いは知の管理にある。手前たちに有利な知ないしは情報をこれでもかとばかりに市場に提供し、不利な知は制限して目に触れさせないようにする。これが著作権法の真の本質である。ドイツでは未だにヒトラー論、ナチス論が禁句とされており、たまに研究発表が許されるとすれば国際ユダ屋テキストの指針通りのものでしかないのは衆知の通りである。これに照らせば著作権者の権利保護とかは二次的なものでしかない。

 TPPによると更に厳しい著作権的締め付けが待ち受けているようである。学んで余計にバカになった連中は、この仕掛けが分からず、先進国権利だとか文明権利だとかで煙に巻かれ、その気にさせられ、勝手にあれこれのもっともらしい理由をコジつけて著作権法強権化に勤しんでいる。この連中は本質的にバカなのでが議論が通じない。れんだいこの見立てによると、権利病者の成れの果ての漬ける薬のない連中によるたわごとの所為と受け止めるべきで、勝手に先進国権利だとか文明権利だと懸想しているだけで、著作権狩りしている姿は知の森を槍でつつく相当野蛮な狩猟者の姿でしかないと申し上げておく。ここでは、これ以上問わない。

 社会を規制するのに強権的著作権法ばかりではない。最近は個人情報保護法案なるものが登場し情報制限が甚だしい。強権的著作権法と相まって知的情報の整理と伝達スピードが格段に遅くさせられている。こたびの秘密保護法案は、これにもう一つ屋上屋を重ねる悪法であることは疑いない。それは、国家機密を幅広く網指定し、それを一握りの国際ユダ屋及びその息を嗅ぐグループのみが知り得て、その余の者には知らせないとするわざわざの法案である。今後は国民は目隠しして行進させられているようなものと思えばよい。どこに連れて行かれるのかさえ分からない。

 現に福島原発事故の例を見れば分かろう。事故発生直後から国際ユダ屋の側には東電発の刻々の克明な情報が伝わっており、当の被災国の日本には伝達されていない。これは何も国民レベルだけではなく、国政にあずかる国会議員レベルも同じである。せめて権力を掌握する官邸ぐらいには伝わっていると思われるが定かではない。東電は国際ユダ屋側には全ての情報を知らせているが官邸に対してはコマ切れの都合の良い情報だけ上げている可能性が高い。民主党菅政権の東電本社での罵倒劇を見れば、真相は官邸にさえ伝わっていないと云う肌寒い状況が暴露されている。全てを知るのは独り国際ユダ屋ばかりなりと云う信じられない痴態が常態化している。

 秘密保護法案とは、福島原発事故情報事例の社会全般への応用と云う風に考えられる。国家統治機構のあらゆる部署で、福島原発事故情報の例にちなんだ知らせて良い情報と秘匿情報が仕分けされ、秘匿情報が次第に増幅していくということが考えられる。民間は「お上の例」に倣うので、こういうことが急速に広まる可能性が高い。個人情報保護法案の例の如くになることが予想される。一足先に米国がこういう社会に突入しており、今やその秘匿情報が膨大になり過ぎて逆に漏洩し始めるという滑稽なことになりつつあるようである。更には一情報開示当り幾らと云う新しい利権が生まれつつあるとのことである。まことに国際ユダ屋の考えること為すことの守銭奴ぶりは却ってお笑いでしかない。

 この動きに最近の選挙不正問題を合わせて捉える必要がある。近現代史上の議会制なるものが生まれ国民に参政権が与えられた。ところが近年、開票マシーンなるものが導入され、選管チェックの及ばぬ怪しげな集計発表がなされ、これに対して落選した議員も政党も不審を述べないという異常が続いている。不正開票マシーンによって選出された選良がまともな政治なぞできる訳がない。これが現代政治の貧困の元凶である。これにて近代的議会制民主主義の諸理想が画餅に帰したことを確認せねばなるまい。今はそういう時代だということを的確に認識しなければならない。

 しかし何事も考えようである。国際ユダ屋が手前たちの思う通りに操れば操るほどに、その下賎な正体が明るみになる。隠れて操作する時代が終わり、公然と御す時代になればなるほど国際ユダ屋の正体が露になり、一挙的に殲滅される日も近づくということになる。これが歴史弁証法である。この法理から逃れ得た例を見たことがないので、連中の悪事が強まれば強まるほど崩壊も早まると見立てたい。連中は思う通りになり得意然としているがバカ丸出しとみなしたい。連中は滅びるまで掘り続けるのだろうが既にお笑いの対象となっていることに気付いていないようである。

 れんだいこのカンテラ時評№1186  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年11月16日
 漢字、ひらがな、カタカナの表記使い分け考

 ここで「漢字、ひらがな、カタカナの表記使い分け考」をしておく。これが上手にできると日本語の世界言語化に資し逆の場合には日本語が捨てられることになる。という意味で、この考察は重要である。これを上手く為すためには漢字、ひらがな、カタカナの言語的由来を踏まえた言語論を獲得した上で応用する術を得なければならない。これについては別途「言語研究」のそれぞれの項で追々に考究している。ここでは「漢字、ひらがな、カタカナの使い分け方」を確認しておくことにする。

 まず、漢字表記の使い方を確認する。れんだいこ文法によると、漢字は、漢字表記の方が簡潔明瞭正確に表現できる場合の記述法として使用されるべきと考えている。いわゆる漢字熟語がそうであるが、ひらがな、カタカナで記されるよりも締まった感じがあり語彙の意味が伝わり易い。漢字は概念をはっきりさせる良さがある。こういう場合には積極的に漢字を使うのが望ましい。漢字発音は呉音、漢音、宋音、唐音に分かれる。日本語では音読み(中国言葉式)と訓読み(大和言葉式)の二通りの読みがある。気づきにくいのだがさらに大和言葉の漢字宛がいから生まれた大和言葉式音読み漢字がある。これで三通りになる。中国音の四通りを踏まえれば七通りあることになる。これらは歴史的に獲得されたものであり、あり過ぎを批判しても始まらない。習熟することにより言語表現が豊かになるとポジティブシンキングしたい。

 次に、ひらがなの使い方を確認する。ひらがなは第一に、「てにおは」と呼ばれる接続助詞として使われる。「『てにをは』は日本語における格助詞で、外国語には見られない日本語特有のもので日本語の基礎です」と説明されている。まことに然りであり、これにより文章全体が柔らか味を得る。「てにおは」を使用することにより、ひらがなの前後の漢字語彙を識別させ、それらを引き立てると云う効用がある。新聞紙面の見出しで、漢字語彙が目に飛び込むことで記事内容が分かるという傑出はこれによる。

 ひらがなの効用の第二は、例えば「こと、もの、とき、ほど」、「あれ、これ、その」などのように、日本語の元々の大和言葉には漢字表記に馴染まない、漢字表記では意味が限定され過ぎて却って意味が正しく伝わらないと云う汎用性言語があり、限定的に使う場合には漢字表記するのが良いにせよ、意味を広く理解させるには大和言葉そのままのイメージを大切にさせてひらがな表記で生かす方法もある。要するに使い分けである。これがひらがなの効用の第二である。第三に、例えば「ふるさと」のようにひらがなで表記した方がより適切と思える熟語があり、漢字の「故郷、故里、古里」との併用ないしは使い分けをすることもできる。これも煩わしいと受け取るのではなく日本語の豊かさとみなすべきだろう。

 次に、カタカナの使い方を確認する。カタカナは、ひらがなと互換性がある。と云うことは、カタカナがカタカナとして使われる為には独自性を見出さなければならないということでもある。最も頻度が高いのは外来語表記に使われるカタカナである。これにより和産のものと外国産のものを区別できる。この識別ができるのは、れんだいこの知る限り日本語だけのように思われる。これも日本語の優れたところである。あるいは擬態語、擬声語、擬音語の場合には、ひらがなで記す場合もあるがカタカナの方が却って語感を増す場合があり多用されている。あるいは、言葉を目立たせる場合に敢えてカタカナ表記する場合がある。カタカナはこういう風に使われる。

 とりあえず、以上が、れんだいこ式「漢字、ひらがな、カタカナの使い分け」である。漢字、ひらがな、カタカナの上手な使い方がコツで、日本語の能力を引き出すことができる。これに照らすとき、戦前までのひらがな領域までの漢字の多用し過ぎは邪道であり、文章を堅苦しくさせるばかりである。これを仮に「硬文」と命名する。逆に、戦後は戦前風の漢字過多使用を抑えており、その分、読み易くなっている。これを仮に「柔文」と命名する。れんだいこが思うに、戦後の柔文の方が言語学的に見て日本語の特性の理に適っており進んでいるのではなかろうか。ひらがな、カタカナの発生意義を考えると、これを生かす方がより日本語的と思えるからである。これによれば、第148回芥川賞を受賞した黒田夏子氏の「abさんご」(早稲田文学5号)のひらがな多用表現は挑戦的な日本語擁護文学と云えよう。

 それはそうとして、戦後は当用漢字、常用漢字による漢字の文字規制をし過ぎた為に語彙がすっかり細っている。これを適切な水準まで取り戻せねばならないとも思う。少なくとも地名、人名、法律文に使われている文字は常用漢字内に復権させるべきだろう。これを分かりやすく理解するには、脳のシワを増やす方向が良く、逆に脳をツルツルにするのは良くないと考えればよい。但し、物事にはほどほどの見極めが必要で、専門家が指針させるべきであろう。目下の戦後来の絞り込み過ぎは日本語の能力を欠損せしめているであろう。

 略字についても一言しておく。略字は、略字が元の語義を損なうことなく略字化している場合に限り大いに使用されるべきだと考える。画数の多い漢字は書きづらく、見た目も美しくないし、読み書きの現代的スピードに相応しくないという理由による。

 ところで、日本語の漢字の略字は中国語のそれよりデキが良い。当時の略字に関わった学者は賞賛されるに値する。そういう意味で、中国は日本語の略字を取り入れるべきであり、日本も又優れた中国略字を取り入れるべきだと考える。こういうところで排外主義的な界壁を設けるには及ばないと考える。いつの日にか、漢字圏である中国、日本、朝鮮、韓国、台湾が共同して互いの漢字言語を総合比較させ、合理性の高い共通常用文字を生み出すべきであろう。そういう時代が来れば漢字言語がより豊かになると思う。アルファベット系文字と漢字系文字の並存と云うツーワールド言語社会こそが将来に相応しいと思う。この理屈は当然他にも当てはまろう。


 れんだいこのカンテラ時評№1185  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年11月11日
 戦国期の研究を通じての陰謀論考

 戦国武将家伝書考をしながらふと気づいたことを記しておく。その最たる例は本能寺の変であるが、明智光秀軍の叛旗をどう読み取るかで諸説が入り乱れている。れんだいこは、これを当時の歴史状況に照らしてバテレン陰謀説を採る。これは自然に見えてくる見立てである。バテレン陰謀説を採らない諸説に愚昧を感じ無駄な推理遊びとぞ思う。

 ここで興味深いことを確認する。陰謀説は一般に、これを批判する側から「こじつけ」、「うがち過ぎ」の由を聞く。しかしながら、本能寺の変の推理で分かるように、陰謀説のほうが素直な読み取りであり、これを採らずにあれこれの推理をする側の方にこそ「こじつけ」、「うがち過ぎ」の評がふさわしい。つまり、陰謀説批判は、手前の方が「こじつけ」、「うがち過ぎ」であるのに、陰謀説に対して手前が受けるべき批判を先回りして相手方に投げつけていることになる。これも悪質論法の一つである。この論法は案外あちこちで多用されている。

 未だ陰謀説は学説と成り得ていない。しかしながら、このことは、陰謀説が学説になるに足らないのではなく、学説の方が陰謀説を排除する特殊な政治主義に牽引誘導されている為ではなかろうか。近現代史は、れんだいこ式陰謀説が捉えるところの国際金融資本帝国主義ネオシオニズム派の権力により支配されている。最近になってこれを簡略に「国際ユダ屋」と命名している。これに照らせば、「国際ユダ屋」の許容しない研究は学説にさせないとされているだけのことではなかろうか。政治経済文化精神のみならず学問といえども「勝者の官軍論理」に導かれている。勝者側は勝者側に不都合な学問は許容しない。これが陰謀論批判の社会学的根拠ではなかろうか。

 戦国史の研究をしながら、こういうことに気付いた次第である。ここでは本能寺の変を挙げたが、13代足利将軍・義輝刺殺事件も臭い。千利休切腹事件も臭い。あれは石田光成を長とする特捜調査団により動かぬ証拠を突きつけられて切腹に追い込まれたと考えれば疑問が解ける。かの時代の枢要な事件においてバテレン派の黒幕性を見て取ることができる。仮に、だとするなら、同じ目線で現代史を捉え返す必要があるのではなかろうか。という具合に関係してきて、それ故にそういう本当のことを言うのが一番いけないこととして、それだけは言うな、ほかのことなら何でも許すという囲いの中で知の遊びをしているのではなかろうか。

 所詮、学問といっても、この程度のものではなかろうか。よって、許され囲われた知恵遊びの空間の中で難しそうに賢こげに言う者がいたら眉唾してきた、れんだいこのカンは当たりだったと改めて思う次第である。こういうこともいつか言っておきたかった。

 れんだいこのカンテラ時評№1184  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年11月10日
 戦国武将家伝書考

 ここで「戦国武将家伝書考」をしておく。特定秘密保護法案なるものが上程され、議論喧しい折柄、何かの役に立つ論考になると自負している。

 れんだいこは今、戦国史の研究に入っている。織田信長を経て徳川家康の履歴確認に向かっている。この時、「東照宮御實紀」に出くわし、これを現代仮名遣い表記に改めながら読み直している。ここで感心することは、当時の名ある者の武将の人物伝と家史が遺されていることである。今日これが立派な歴史史料になっている。有名なところで織田信長に信長公記、豊臣秀吉に太閤記、徳川家康に東照宮御實紀、武田信玄に甲陽軍鑑が挙げられようが、それらが各々研究上の必須手引き書となっている。これを仮に正史とすれば他にも副本がある。当然、書き手によって事件の考察の仕方、記述が異なっているが、それぞれが研究本として役目を果たしている。これを仮に「戦国武将家伝書」と命名する。

 これを思えば、近現代政治史のそれが「戦国武将家伝書」の水準に及ばないのではなかろうかと危惧する。近現代史に於いては議会制となっているので、その政権史が「戦国武将家伝書」に該当するのであろうが、紙数の割には質は劣っているのではなかろうか。れんだいこが確認するところ、少なくともガイドものと詳細ものと二種必要であるが、これさえできかねているのではなかろうか。

 今、当時の何々家を今日の政党として、政党史を確認してみたい。これをホームページで見るところ、戦後の政党に於いてこれを為しているのは自民党である。「党の歩み」(https://www.jimin.jp/aboutus/history/prime_minister/)がガイドし、その脇に歴代首相の政権史を記しており、これが詳細ものとなっている。なぜ自民党がこれを能く為し得、他の政党が為し得ないのか理由が分からない。

 逆に一番お粗末なのが社民党、共産党である。ホームページ上に党史そのものがない。社民党の場合、社会党時代の史料は「労働者運動資料室」(http://www5f.biglobe.ne.jp/~rounou/)でサイトアップされている。社民党が社会党から出自していることを思えば、せめてリンク掛けすべきであろうがしていない。社民党が党史を不要とする料簡が理解不能である。

 共産党の場合、以前は宮顕-不破系党中央からするご都合主義的噴飯ものの党史が僅かながらも記されていたと記憶するが今やそれもない。この党の場合、数多く大衆団体を持つが「歩み」を記さない芸風で共通している。手前たちがよほど賢いと己惚れているのか必要を認めていないかのどちらかであろうが、れんだいこは隠していると見立てている。この党には何せ公正明大な気風がない。

 もとへ。それに比べて「戦国武将家伝書」による歴史史料の綴りぶりはどうだろう。思うに、それは古事記、日本書紀の伝統を受け継いでいるのではなかろうか。徳川政権時代までは、この伝統が続いていたと思われる。或る政策、事件、人物に際し5W1Hの記述法に基づき克明に記している。れんだいこは、当時の日本人の優秀さ、公正堂々さを示していると見立てている。史料の質はその国の活力のバロメーターであると思っている。少なくとも「歩み」を克明に記述して歴史に晒して遺すことに何憚ることがない自負があったと思っている。

 そろそろ結論だが、それを思えば昨今の日本政治の質は何なんだと云うことになる。今、安倍政権でTPP秘密交渉、特定秘密保護法案なるものが画策されているが恥ずものはないのか。政権が何を為し、為さなかったのか、どう対応したのか、これを克明に記し遺しておくのは歴史に対する務めであるところ、これを逆に隠す側に回って恥じないなどど云うことが何に由来するのだろうか。歴史犯罪であることは間違いない。政治の粗脳化、幼稚化、私物化の為せるワザの果てのものであるが、一体、誰がこのような歴史暴力へ誘導しているだろうか。後は書くまい。

 「別章【徳川家康】」
 (rekishi/sengokukinokenkyu/sengokudaimyoco/tokugawaieyasuco/top.html

 れんだいこのカンテラ時評№1183  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年11月 4日
 天下取りに挑んだ信長、秀吉、家康の比較考

 ここで少し息抜きの論考をしておく。「戦国期に天下取りに挑んだ信長、秀吉、家康の三将比較」をしておく。これにつき、本人が詠んだものかどうかは別として「ホトトギスの句」がある。知られている割には正確には知られていないので、これを確認する。

 「ホトトギスの句」は、信長、秀吉、家康のそれぞれの気性、生き方、行動をうまく表現しており名句として口ずさみ継がれている。出所は松浦静山「甲子夜話」(かっし・やわ)であり、当時詠み人知らずで伝わった歌として収録されている。これを確認する。

 サイト元は「資料206 鳴かぬなら……(「ほととぎす」の句)」の「連歌その心自然に顯はるゝ事 『耳袋』巻の八より」その他である。(「時鳥」、「杜鵑」、「郭公」と書き分けられているが、読み易くする為「ホトトギス」と書き直す)

 「古物語にあるや、また人の作り事や、それは知らざれど、信長、秀吉、恐れながら神君(家康)御參会の時、卯月のころ、いまだホトトギスを聞かずとの物語いでけるに、信長『鳴かずんば 殺してしまへホトトギス』とありしに、秀吉『なかずとも なかせて聞こうホトトギス』とありしに、『なかぬなら なく時聞こうホトトギス』とあそばされしは神君の由。自然とその御德化の温順なる、又殘忍、廣量なるところ、その自然をあらはしたるが、紹巴(じょうは)もその席にありて、『なかぬなら 鳴かぬのもよしホトトギス』と吟じけるとや」。

 「甲子夜話五十三」の「鳴かぬなら」は次のように記している。

 「夜話のとき、或る人の云いけるは、人の仮托に出る者ならんが、その人の情実に能く恊へりとなん。ホトトギスを贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、『なかぬなら 殺してしまへホトトギス 織田右府』、『鳴かずとも なかして見せふホトトギス 豊太閤』、『鳴かぬなら 鳴くまで待てよホトトギス 大権現様』。このあとに二首を添ふ。これ憚る所あるが上へ、もとより仮托のことなれば作家を記せず。『なかぬなら 鳥屋へやれよホトトギス』、『なかぬなら 貰て置けよホトトギス』。

 この「ホトトギスの句」が、現在では以下のようななめらかな口調の歌にされて伝えられている。

 鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス   (信長)
 鳴かぬなら 鳴かしてみせよう ホトトギス(秀吉)
 鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス  (家康)

 「戦国期に天下取りに挑んだ信長、秀吉、家康の三将比較」につき、他にも三人の戦国武将が天下統一とどのようにかかわったのか次の歌で表現され伝えられている。

 「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに食うは家康」。

 つまり、織田信長が準備し、羽柴(豊臣秀吉)が完成させた天下統一を忍耐し続けた家康が手に入れたと詠んでいる。史実を確認すれば、信長が足利政権を滅ぼし織田政権を展望中、本能寺の変で最後を遂げた。この間、旧体制を革命的に改変し新時代の基礎を築いた。豊臣秀吉が信長の事業を受け継ぎ、信長的軍事力にのみ頼らず巧みな人心収攬術を駆使して天下統一を成し遂げた。

 徳川家康は信長や秀吉との関係を良好に保ちつつ時期が来るの待った。家康の言「人の一生は重き荷を負うて遠き道に行くが如し」の通りの生き様であった。信長や秀吉に比べて華やかではないが着実を旨とし徳川幕府三百年の支配体制の礎を築いた。この史実を踏まえ巧みに詠んだ名句であろう。

 それにしても、こういう短い韻律句で歴史を伝える日本語は素晴らしいと思う次第である。

 Re: れんだいこさんへの返信  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年11月 4日
> No.284[元記事へ]

 吉田さんちわぁです。「残念ながら現場がどうなっていたかという資料は持っておらず、お力にはなれません」とのことですが、ここは絶対機密にされていると思っています。生き残った益田総監、楯の会の古賀浩靖、小賀正義、小川正洋、それに現場に駆け付けた川端康成、石原慎太郎、佐々淳行、他にも関与した自衛官が知っているはずです。三島裁判も開かれております。オカシイことに誰一人、自決現場がどこだったのか証言しておりません。尋ねられてもおりません。本来は、皆なそれぞれが証言すればよいだけのことです。何も隠す必要はありません。それが隠されていると云うことは、隠さねばならないような顛末があったと推理する以外にありません。裁判で明らかにされているのであれば教えてほしいです。サイト情報では出てきません。

> ただ個人的には、三島さんが予期せぬ死を迎えたとは思えないのです。演説の成否に関わらず自決は11月25日に予定されていたのだと。というのも遺言とも言うべき最後の作品である豊饒の海四部作は輪廻転生の物語であり、三島さんが自らの転生先について何も想定していないとは考えにくいと思うのです。

 これについてですが、れんだいこは半分死を予定していたし半分生還を考えていたと推理しています。殺された場合には「人、虎孔裡(こうり)に堕つ禅問答考」に記したように、「命が欲しければくれてやる」の心意気だったと思っております。「豊饒の海四部作は輪廻転生の物語」は死の予感に対する文学になっているのだと思いますが、他方で親しい新聞記者に対して無事に生還した場合のその後の打ち合わせもしているようです。もし、三島自身が望んでの自決だったとすれば、新聞記者との打ち合わせが理解できません。やはり「半分死を予定し半分生還を考えて」決行し、結果は無残に自決強制死を余儀なくされたと考えます。この時、国際ユダ屋特有の秘儀殺人的な方法で殺された可能性まで考えております。この事件にまつわる疑問は尽きません。
 

 Re: れんだいこさんへの返信  投稿者:吉田  投稿日:2013年11月 3日
 れんだいこさんへのお返事です。

 残念ながら現場がどうなっていたかという資料は持っておらず、お力にはなれません。

 ただ個人的には、三島さんが予期せぬ死を迎えたとは思えないのです。演説の成否に関わらず自決は11月25日に予定されていたのだと。というのも遺言とも言うべき最後の作品である豊饒の海四部作は輪廻転生の物語であり、三島さんが自らの転生先について何も想定していないとは考えにくいと思うのです。そして、転生の可能性が最も高い49日後の日付は1月14日。奇しくも三島由紀夫の誕生日です。つまり自分の誕生日に転生することで、転生先の自分へ「三島由紀夫の生まれ変わり」である可能性を伝えると共に、作中の本多のような転生を見守る人間の存在にも期待したメッセージだったのではないか。
オカルトっぽくなりますが、たとえ転生が果たされなかったとしても、1971年1月14日生まれの方の中には、三島由紀夫の転生を強烈に信じ、自らをそのように律している人が必ずいるのではないか、と思っています。

>
> 三島がバルコニーから戻って来て、総監がまだ縛られていて、多少のやり取りをした後、自決したと云う通説がどうにも納得できません。総監は当然解放されており、三島はまな板の鯉に乗せられる以外になく、惨劇となったとしか考えようがありません。その現場が総監室であったのか他所であったかも気になっております。現場写真があるようですが総監室だったと確認されているのでせうか。お分かりなら教えてくだされば有難いです。

 Re: れんだいこのカンテラ時評№1170  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年11月 1日
> No.281[元記事へ]

 吉田さんちわぁです。ご指摘ありがとうございます。確かに「鞘から刀が抜けないようにしていたと誤解」していました。どこか変調な感じがあり、今分かりました。要するに「柄から刀身が抜けないようにしていた」と云うことなんですね。了解です。

> 介錯の際、誤って肩甲骨や大臼歯を斬りつけたり、力余って刀を床に叩き付けるようなことがあれば、真っ先にこの目釘が折れて、重い刀身は柄から抜けて飛び出してしまう。そうなれば介錯が不成功に終わってしまう。だから、そこまで見越して万全の備えをしていた、という趣旨の話です。

 ここは分かりました。このご指摘に応じた訂正をしておきます。さて、それはそれとして、三島がバルコニーから戻って来て、総監がまだ縛られていて、多少のやり取りをした後、自決したと云う通説がどうにも納得できません。総監は当然解放されており、三島はまな板の鯉に乗せられる以外になく、惨劇となったとしか考えようがありません。その現場が総監室であったのか他所であったかも気になっております。現場写真があるようですが総監室だったと確認されているのでせうか。お分かりなら教えてくだされば有難いです。

 れんだいこのカンテラ時評№1182  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年11月 1日
 れんだいこの信長論その1、織田信長研究論

 このところイエズス会考をブログしてみた。この流れで織田信長を確認しようと思う。信長のバテレン被れとバテレン離れの相克を検証してみたいからである。何より信長は戦国末期政治史の中心(芯)に位置している。彼を研究することにより戦国末期の政治史が良く見えてくる。例えて言えば、富士山を理解するのに、実際に登山し、頂上から見れば全景が良く見えるのに似ている。先に清河八郎論で、幕末史は清河八郎の活動歴から見ればよく見えると述べたが、同じ意味合いで信長の動きを見れば戦国末期史の流れが能く見える。こういう「高見できる人物」はそう居る訳ではない。

 これが「れんだいこの信長研究」の動機である。2013(平成25)年、63歳の時、これに着手する。役に立たない国際ユダ屋お仕着せの学問に慣らされた分、本来は歴史好きのれんだいこが関心を払わぬようになり、遅くなった嫌いはあるが今気づいたのが幸いである。別に遅過ぎることはないと思う。

 れんだいこの信長論は、その生涯履歴を、「履歴考1(上洛まで)」、「履歴考2(上洛以降安土城普請まで)」、「履歴考3(安土城普請以降光秀の謀反まで)」、「履歴考4(光秀の謀反から本能寺の変まで)」、「履歴考5(本能寺の変後の政争史)」の5本立てとする。この仕分けの方が結節が能く見えるからである。基本的には天下布武の顛末史となる。

 信長ありせばこその秀吉の天下統一であり、三百年近く続くことになる家康の江戸幕府開設であったことを考えると意義深い。留意すべきは、この時代、日本が国際ユダ屋に狙われており、この危機をどう切り抜けたかが見ものとなっている。結果的に鎖国体制を敷いたが、これにより得た得失を当時の歴史軸で評価し、今日の歴史軸で改めて問い直したいと思う。「当時の歴史軸での評価なしの今日的歴史軸見解」が流布されることが多いが、凡愚の見立てと云わざるを得まい。

 戦国末期史の研究が何故に重要か。それは1543-44(天文12-13)年頃の鉄砲伝来、イエズス会宣教師ザビエル来日から始まる国際ユダ屋の日本攻略の轍(てつ)が2013現在の日本政治史に合わせ鏡となっているからである。

 1945年の大東亜戦争での敗戦以来、日本は直接間接に国際ユダ屋の露骨な対日攻略の軛(くびき)に置かれてきた。その結果の2013政治となっている。これから如何に逃れるのか、日本を再生させるのかの恰好教材として戦国末期史の研究が要請されていると了解している。その為には、冒頭で述べたように織田信長論から入るのが最も適切であろう。その他の戦国武将論、史実論、事件論は、その延長線上で交合させれば良いと思う。

 もし仮に、先行する同視点啓蒙書があれば幸いである。それを下敷きに註釈替えして行けば良いからである。ざっとネット情報に目を通してみたがない。書籍では立花京子著「信長と十字架」(集英社、2004年初版)があるようではある。他に非常に精緻な研究書はあるようである。しかし精緻過ぎて却って焦点が分からなくなるきらいがある。

 それに何よりバテレン被れ下の天下布武史と、バテレン離れ後の安土城築城から本能寺の変までの流れとの緊張感がないままの長文饒舌記録では読むのに辟易するだけのことになる。そういうものはそういうものとして有益であろうが、市井人の我らは却って遠ざかってしまう。そういう意味で、重要史を押えながら分かり易く知って為になる必読本信長論を綴って行きたいと思う。

 ここまでを織田信長研究論とし、以下、織田信長論とする。サイトは下記の通り。今は出来立てほやほやだから全く不十分ではあるけれども。

 別章【織田信長】
 (rekishi/sengokukinokenkyu/sengokudaimyoco/odanobunagaco/top.html

 Re: れんだいこのカンテラ時評№1170  投稿者:吉田  投稿日:2013年10月31日
 れんだいこさんへのお返事です。

 鞘から刀が抜けないようにしていたと誤解しているようですが、そうではなく、柄から刀身が抜けないようにしていたのです。舩坂氏が孫六の確認にあたって中心(なかご)を見るために柄から刀身を抜こうとした所、目釘が抜けなかった。よくよく確認してみると、目釘が通常より長めの物が使われ、その両端が丹念に叩き潰されて丁度鋲の頭のようになり、柄の両側の目釘穴をしっかり塞いでいたとのことです。
 介錯の際、誤って肩甲骨や大臼歯を斬りつけたり、力余って刀を床に叩き付けるようなことがあれば、真っ先にこの目釘が折れて、重い刀身は柄から抜けて飛び出してしまう。そうなれば介錯が不成功に終わってしまう。だから、そこまで見越して万全の備えをしていた、という趣旨の話です。

>  要点のみ確認すると、前段では「介錯に使われた刀は『関の孫六』でした」としつつも、寄贈者・舩坂弘・氏の証言、概要「警察に呼ばれた時、実物を見せてもらったところ、奇妙なことに柄のところが金槌でめちゃくちゃにつぶされていて二度と抜けないようになっていた」を引用し、「その後の調べで倅の周到な処置であることが判りました」と追記している。後段では「倅は死ぬのは自分一人で足りるとして森田君の巻き添えを許さなかった」と述べつつ「森田君の希望により倅の介錯は彼にたのむ手筈になったものの、倅の眼から見ると、森田君の技倆はおぼつず、万一にも柄が抜けることのないよう抜けない処置をして彼に手渡した」と結んでいる。
>

 れんだいこのカンテラ時評№1181  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年10月29日
 れんだいこのイエズス会考3

 「れんだいこのイエズス会考その1、2」を踏まえて、当時のネオシオニズム(以下、「バテレン」と記す)の日本政治への容喙ぶりを確認しておく。学説にはネオシオニズム論そのものがないので、ましてや「その容喙ぶりの検証」なぞあるべくもない。当時の信者数、宣教師数の推移等を比較論的に検証してみたいが、そういう資料がない又は公開されていないのでできない。そういう訳で、表に出ているキリシタン大名、武将のバテレンとの相関関係、それが綾なした王権闘争を炙り出してみる。

 一般にキリシタン大名としては大友宗麟、大村純忠、有馬晴信、結城忠正、高山右近、小西行長、黒田孝高(官兵衛)、蒲生氏郷、支倉常長、織田有楽斎、織田秀信、細川忠興、前田利家などが知られている。しかしそういう列記では何も見えてこない。王権闘争を見る観点がないからである。

 れんだいこが見るところ、松永久秀(1510年)、明智光秀(1528年)、織田信長(1534年)、荒木村重(1535年)、豊臣秀吉(1536年)、高山右近(1552年)もキリシタン大名として確認されるべきではないのか。ここでは紙数を増すので論拠については述べない。この六者がバテレン来襲以降の戦国期末王権闘争に直接的に関与している。

 このうち、織田信長と豊臣秀吉は「半」キリシタン大名であり、バテレンに操られながらも自前権力を創出し丁々発止したのは衆知の通りである。この六者が王権を得ようとして戦国期末の政権争奪戦を演じている故に重要な役割を果たしている。この動きを見ない戦国史論なぞあり得て良い訳がない。これを確認しておく。

 1565(永禄8)年、松永久秀が、三好三人衆と共に13代足利将軍・義輝を攻め滅ぼしている(永禄の変)。いわゆる「王殺し」である。日本史上、王家同士の「王殺し」は多々あるが、いわば平民側からの「王殺し」は恐らくこの時が初めてである。故にもっと注視されねばならない出来事であろう。こういう「王殺し」は、極論すればバテレン来襲と共に始まっていると見なせよう。

 1567(永禄10)年、久秀が東大寺大仏殿を焼いている。相手方の三好三人衆が東大寺に陣を敷いたとはいえ日本有数の仏閣財産が焼失せしめられている。この「在地宗教殺し」もバテレン来襲と共に「故意に」始まっていると見なせよう。「神社仏閣焼き」の例はそれまでにもなくはないが、日本系内部の抗争では極めて珍しい例であり、バテレン来襲と共にあちこちで始まったと窺う必要があろう。この時期までは、久秀がバテレンの後押しを得た王権候補筆頭だったと思われる。

 1569(永禄12)年、織田信長が足利義昭(義輝の弟)を擁立して上洛してくると久秀父子はいち早く降伏し信長の家臣となる。これには大和国取り物語で在地権力側の筒井順慶の奮闘が関係していた。この時点で、久秀が王権候補筆頭の座から抜け落ち、信長がその地位に就いたと思われる。

 1571(元亀2)年、織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしている。この時も、日本有数の仏閣財産が焼失せしめられている。当然、これも久秀の東大寺大仏殿消却と同じ線の「在地宗教殺し」の類であると思えばよい。この頃までは、信長はバテレンと蜜月時代であった。これに堺の町方衆、茶の湯を通じての仲立ちが確認できる。千利休なぞも相当に臭い隠れキリシタンであることが間違いない。本稿ではこれ以上述べない。

 1576(天正4)年、織田信長が近江守護六角氏の居城観音寺城の支城のあった安土山に築城を開始する。この頃より信長は次第にバテレン勢力を警戒し始めバテレン離れの傾向を見せている。

 1577(天正5)年、久秀が、上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して大和信貴山城に立て籠もり反旗を翻す。10月、織田軍が信貴山城を包囲し、織田軍の総攻撃が始まると爆死した。享年68歳。久秀は、バテレンの教唆により、バテレン離れし始めた信長征討戦に挑み敗れた。捨て駒にされたと思えばよい。

 1578(天正6)、織田家でも有数の重臣となっていた荒木村重が突如、信長に反旗を翻し有岡城(伊丹城)に立てこもる。これも、バテレンの教唆により始められた信長征討戦第二弾と思えばよい。村重旗下の高山右近が苦悩の末、織田方に寝返る。徹底抗戦一年後、村重がほぼ単身逃亡し一族が皆殺しにされている。村重の家臣を捨てての単騎逃亡なぞは日本系のものではない。殉死的美学を拒否しているバテレン系精神の為せるワザと窺う必要がある。

 1579(天正7)年、信長が完成した安土城の天守閣に移り住む。信長の絶頂期となる。この間、信長は、信長は、1569(永禄12)年、フロイスとの最初の二条城の建築現場での会見以来、記録に残るだけでも18回、他の宣教師を含めて14年間に31回以上会見している。信長はバテレン教の教義や科学知識に興味を持ち議論を好んだが帰依することはなかった。

 この頃、「切支丹来朝実記」によると、仏僧の前田徳善院玄以に、「自分は彼らの布教組織を破壊し、教会を打ち壊し宣教師を本国に返そうと思うがどうか」と諮問している。今まで宣教師との蜜月時代を振り返り、「我、一生の不覚なり」と漏らしている。この時点から、バテレンが信長に代わる王権候補を探し始めたと思えばよい。

 1582(天正10)年、信長が、明智光秀軍により本能寺の変で横死する。この事変をバテレンの差し金と読まない推理は何とも味気ない。これの論証は別稿に譲る。光秀の叛旗は信長征討戦第三弾であり、信長は三度目に打ち取られたことになる。この瞬間、光秀がバテレンの後押しを得た王権候補筆頭となった。

 但し、備中高松城の攻城戦を展開していた羽柴秀吉軍すぐさま引き返し、山崎の合戦で光秀軍を打ち破った。これを光秀の三日天下と云う。この時、高山右近は光秀軍下にあったが呼びかけに応ぜず秀吉の幕下に駆けつけ、先陣を切り光秀軍一万五千に対して二千の兵で打ち破り武勲を上げている。こうして、秀吉が天下を取った。山崎の合戦での秀吉の勝利は、バテレンが光秀から秀吉に乗り換えざるを得なかったことを意味する。

 1587(天正15)年、秀吉もバテレンの後押しを得て王権に辿り着いていたが突如、「バテレン追放令」を発布する。1591(天正19)年、千利休が切腹を命ぜられ余儀なくされている。これをバテレン内通との絡みで捉えない千利休論は意味がない。以降の流れを記すこともできるが略す。バテレンは最後の望みとして高山右近に期待していたが、史実は徳川家康が王権を取るのは衆知の通りである。

 戦国史の一連の流れの中に、かく「ネオシオニズムの日本攻略」を見るのがれんだいこ史観である。その一部始終をフロイス「日本史」が事細かに記録している。興味深いことに、松永久秀、明智光秀、織田信長、荒木村重、豊臣秀吉、高山右近を特記している。この理由を素直に読み解けば、「王殺し」以降の「ネオシオニズム系政権誕生」までにかくも容喙していた故の記述と云うことになろう。単に戦史物語としではなく「バテレンの日本攻略史」の顛末を文書にしイエズス会にレポートしたものと窺うべきではなかろうか。

 この見立てを披歴したのは、既成の史書が戦国史に立ち現われている「ネオシオニズムの日本攻略」ぶりをほぼ完璧に封じ込め、差し障りのない記述に終始しているからである。しかしこうなると、一番肝要な観点を抜きにしての歴史考証、歴史記述となり、そういうものが面白くないのは当たり前だろう。気の抜けたビールを飲まされていると思えばよい。その点、れんだいこの歴史考は喉越しが良かろうふふふ。

 2006.1.28日、2013.10.29日再編集 れんだいこ拝

 れんだいこのカンテラ時評№1180  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年10月28日
 れんだいこのイエズス会考その2

 「れんだいこのイエズス会考その1」で述べたように、今から約500年前の日本史上の戦国時代、日本初のネオシオニズムが来襲し大勢のキリシタンを誕生させた。狙いは、世界の例で分かるように日本を植民地化することであった。丁度この頃から日本で「主家殺し」、「王殺し」、「在地宗教殺し」の三点セットが激化している。キリシタン大名の支配するところに共通してこういう現象が現れている。これを偶然と見るべきだろうか。

 通俗史書は何の関わりをも見ようとせず、単に時系列的に出来事を記して足りている。そういう歴史では真相が見えてこない。何故に歴史を学ぶのか意義が分からなくなろう。そういうことからする歴史嫌いが増えているようにも思われる。れんだいこは、そういう歴史記述に挑み続けている。歴史は今に繋がる生きているもので学べば面白く有益なものである。そういう歴史学を取り戻す史学を打ち立てたい。

 時の織田、豊臣、徳川政権が彼らの策謀を見抜いた。織田信長は安土城建立の頃からバテレン離れしている。それまでの天下布武の過程ではかなりバテレン勢力の後押しを得ている形跡がある。その道中、宣教師と仏教坊主と宗義問答を闘わせている。どういうやり取りが為されたのか興味があるがネット上には出てこない。こういう知りたい情報に限ってネットには出てこない恨みがある。

 宣教師フロイスの「日本史」に多少の記述があり、これが紹介されているが、かなり身びいきに問答改竄されていようから参考にしかならない。その信長の晩年、バテレン勢力の差し金と推定できる荒木村重の乱が起り、これを見事に鎮圧したものの明智光秀の本能寺の変で討ち取られている。

 結果的に、その後継の豊臣-徳川政権が渾身の知力、武力で死闘的攻防の結果、彼らを撃退した。ここが世界各地の籠絡された植民地と違う日本史の気高い面である。その結果、良し悪しは別として鎖国へと導かれた。何事にも功罪が相半ばしてあるので一面的な断定は控えるべきだろうが、少なくとも得たものと失ったものを秤に掛けて時宜を評せねばなるまい。時間軸を抜きにした単調な礼賛、批判は愚かであろう。そういう評論ばかり目にするけれども。我々の父母祖はかの時、相手の素性を見破り賢明に対処したと解すればよい。よほど能力があったと評するべきであろう。

 太田龍が早くよりこの観点を打ち出している。この視角は珍しい。これを聞かされた時のれんだいこはピンとこなかったが、以来、検証してみて、数々の証拠が「太田龍の言の正しさ」を物語っていることに気づいた。

 これが真実だとすると、当時の支配者・豊臣秀吉の「バテレン追放令」には充分すぎる根拠があったということになる。こうなると、従来の「バテレン追放令」から鎖国へ至る過程を否定的に評する見方を変えねばなるまい。従来の歴史記述は大幅に変えられねばなるまい。学問が学問足り得る為には、この内在的必然性を検証せねばならない。

 今、この問題の考察をしたくなった理由は、目下の日本が日本史上あり得なかったネオシオニズムによる露骨な支配を許しているからである。稀代のシオニスタンによって首相、官邸、政府、野党各党をも含む「政財官学報司警軍」の八者権力機関が彼らの御用聞きによって占拠されてしまっている。このことを凝視したい。

 はっきり云っておく。小ネズミも前原もシオニスタンではないのか。現代日本政治の与野党対立なるものは、その同じ穴のムジナが猿芝居しているに過ぎないのではないのか。連中が、国庫秘蔵金の郵政事業金を放出し、次に皇室解体、憲法改正、自衛隊の軍事戦闘化と戦後構造の諸「改革」に矢継ぎ早に乗り出している。既に主要事業及び産業の有望企業は中曽根以来の民営化路線の下で無残にも外資化されている。我々はこれ以上指をくわえて座して眺めるべきかということが問われている。

 ここまでが、「2006.1.28日」の記述である。かの時より民主党政権を経て今は安倍政権下にある。ネオシオニズムの日本席捲の流れは流れは止まらないばかりかますます激しくなっている。民主党政権時、自公政治に劣らないネオシオニズム御用政治を見せつけられて来た。今に至る民主党に対する嫌悪感は、この時以来のものである。

 この流れの中で目下、安倍政権が、福島原発事故対応不能下での原発再稼働、その輸出、その建て替え、TPP推進、消費税増税、公共料金の値上げ、物価上昇政策、憲法改正、自衛隊の武装海外派兵、所得格差推進、相変わらずの国債刷りまくり等々目を覆わんばかりの悪政を矢継ぎ早に打ち出している。安倍の後継を待ち受けている石破となると更に酷いネオシオニズム御用聞きの徒輩である。もう無茶苦茶としか言いようがない。

 おとなしい日本人はどこまで耐えるべきなのか。この局面に於いて現代人の我々が何を為すべきか。受け皿となる闘う主体が出てこないのか。出てこないのならどう創るべきなのか。これを共に考え歴史に有意な活動歴を遺そうと思う。この思いから書かれたのが本稿である。「ザビエルの来日布教」の「元一日」から解かないと真相が見えてこないのではなかろうかと思い説き明かしたつもりである。

 補足。ネオシオニズムに容喙された政治はなぜことごとく本来期待されている政治の逆ばかりするのだろうかの問いをしておく。れんだいこの解は思想ないし精神の歪みであるとする。ここが全ての発祥元なのではなかろうかと思っている。

 ネオシオニズム以外の世界の諸思想、精神は凡そシルクロード的交易で足りて良しとする。独りネオシオニズムがワンサイド取引に狂奔する癖があるのではなかろうか。彼らは、ただひたすらに金貨を集積し資本となし、それで世界を思うままに操れるとする妄想を逞しゅうしている。そこから悪事の限りを発想し世界改造を構想していると見なす。そういうワンワールドを虚妄とする精神と思想と運動を生み出し、対するものを生み出したいと考えている。

 れんだいこのカンテラ時評№1179  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年10月27日
 れんだいこのイエズス会考その1

 ここで突如の感があるが、「ザビエルの来日布教」の政治的意味を問いたい。一般に、「ザビエルの来日布教」は「キリスト教伝来」として知られ、そう記述されている。しかしながらこの見地だけでは失当で、それはあまりにも表層的な受取りに過ぎる。そういう通説ものばかりなので、そういうものばかり学んで却って目が曇らされてしまう。もっと云えばバカになる。

 日本史上の凡そ16世紀の戦国時代、これを世界史的に見れば、改宗ユダヤ人がキリスト教宣教師として世界各地を探訪し始め、後の植民地化の足掛かりを築き始めていた。云うなれば、宣教師の跳梁は来る植民化時代の地均しであり、「宣教師は植民地化の先兵」と位置付けられるものであった。個々の宣教師の主観的意図がどうであれ、イエズス会、その後に続くフランシスコ会、ドミニコ会、アゴスチノ会等々の活動そのものの本質はそのようなものである。宗教はそのように悪用される。そういうことを確認する必要があろう。念のために補足しておけば、宗教そのものを批判しているのではない。教義が邪悪であれば、その邪悪性が政治にうまく利用される、そういう傾向性について指摘している。

 歴史上、この時代の宣教師はキリスト教の系譜に位置づけられている。しかし、宣教師の属する結社の教義、それに基づく活動をみれば、キリスト教義のユダヤ教&ネオシオニズム的読み取りで新たに結社されたものばかりであり、彼らを裏で操作する国際ユダ屋の操りでしかなかった。

 表見キリスト教ではあるが内実はユダヤ教&ネオシオニズムであり、共通して改宗ユダヤ人が内在している。彼らの活動の本質は宗教に名を借りた政治&軍事活動であった。彼らのイズムによる世界の植民地的秩序化こそが狙いであり、その請負として飼われ、その先兵として送り込まれていたに過ぎない。これを裏付けるのが彼らが本国の国王なり結社なりバチカンに送られた通信である。まだ一部しか開示されていないが、政治&軍事的スパイ活動の様子をあけすけに伝えている。

 そういう意味で、戦国時代に来日進出して来たイエズス会、その後に続くフランシスコ会、ドミニコ会、アゴスチノ会等々のネオシオニスト的素性がもっと詮索されねばならない。それらは宗派上はカトリック派に属する信徒団体ではあるが、教義的にも運動的にも変種カトリックであり、ユダヤ教的ネオシオニズム的な傾向を持つ秘密結社であることが知られねばならない。

 故に、イエズス会宣教師ザビエルの来日は、キリスト教の伝来というにとどまらず「ネオシオニズム来襲の嚆矢である」とみなしたい。言い換えると、「ザビエルのキリスト教伝来は、ネオシオニズムの日本来襲第一陣であった」と表記されるべきであろう。従来の記述は、最も肝腎な部分であるこの側面を抜かして「キリスト教伝来」をのっぺらぼうに説いていることになる。

 れんだいこは、学問的にキリシタンの命名には問題があるのではなかろうかと考えている。キリシタンならまだ許容できた。実際にはバテレンは即ち改宗ユダヤ人シオニスタンであった。シオニスタンは俗にいう「似ても焼いても食えない」手におえない連中である。これを隠す為に、さもキリスト教徒であるかのように偽装演出し、その咎めはキリスト教が受けるよう細工しているのではなかろうか。こう確認したい。これも案外と重要な指摘である。「原日本論新日本論」応用による「クリスチャン論シオニスタン論」である。

 2006.1.28日、2013.10.26日再編 れんだいこ拝

 れんだいこのカンテラ時評№1178  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年10月21日
 読売新聞社説「小泉元首相発言『原発ゼロ』掲げる見識を疑う」にもの申す
 2013.10.19日、小泉元首相が、読売新聞に寄稿し同社の10.8日付け社説「小泉元首相発言『原発ゼロ』掲げる見識を疑う」に事細かに反論を展開した云々。首相経験者が新聞社説に咬みつくのは異例中の異例とのことである。

 この原文を読みたいがネットに出てこない。読売新聞社は記事著作権につき模範的な強権著作権論又は秘密保護法先取り的著作権を主張しているので、こういう記事は公開しないと見受けられる。但し、当該の社説は公開されているので、漏洩されている小泉元首相の反論ともどもでコメントしておく。

 社説は云う。「原子力政策をこれ以上混乱させてはならない」。(れんだいこコメント)社説士よ、小泉の首相時の郵政民営化に伴う郵政行政の混乱はかなりのものだったが、かの時には「これ以上混乱させてはならない」とは述べなかったな。これ如何に。混乱させてもやり抜くのが良い場合と混乱させてはならない場合の基準を教えてくれんか。ちなみに小泉元首相は「政治で大切なことは、目標として大きな方向を打ち出すことだ」 と反論している。つまり、混乱するしないは政治につきもので意に介すべきではないとしていることになる。こっちの方がよほど一貫してらぁ。

 「小泉氏の発言は、政府・自民党の方針と異なる。政界を引退したとはいえ、看過できない」と云う。(れんだいこコメント)社説士よ、恥を知るが良い。言論機関の社説士がこうもあけすけに言論封じの言を述べるとは。政界引退しても、所属していた党の方針と異なる意見を述べてはいけない理由をもう少し詳しく述べてくれんか。正気かよと詰(なじ)りたい。

 概要「小泉氏の原発撤退論はあまりに楽観的であり、無責任に過ぎよう」と云う。(れんだいこコメント)社説士よ、「あまりに楽観的であり、無責任に過ぎよう」とはお前のことではないのか。脱原発論者は悲観しつつ撤退論を唱えているのであり凡そ楽観論とは無縁である。手前を写し鏡にして人に説教するとは呆れてものが云えん。

 概要「原発の代替電源・火力発電で電気料金が上昇し、経済に悪影響を及ぼしている」と云う。(れんだいこコメント)火力発電高コスト論を唱えているが、わざわざ燃料を高コスト輸入しているだけという説もある。原発処理費用の料金転嫁もバカにならない。今後この方面の上乗せが深刻化するのではないのか。即ち原発格安論はもう通用しないのではないのか。

 小泉元首相は「蓄電技術の開発が進んでいるではないか」、 「必要は発明の母」、「過ちては改むるにはばかることなかれ」 、「『やればできる』は、魔法の合言葉」、「挑戦する意欲を持ち、原発ゼロの循環型社会を目指して努力を続けたい」などと反論しているようである。代替エネルギー開発に努力しないで難癖つけるのはお門違いと批判していることになる。正論だろう。

 「火力発電は地球温暖化が進む大きな要因である」と云う。。(れんだいこコメント)原発安全クリーンエネルギー論をまだ唱えていることになるが、この論も相当古い。概要「太陽光や風力を利用した再生可能エネルギーは主要電源にならない」と云う。。(れんだいこコメント)主要電源になるよう国策で取り組めばよいだけのことだろうが。「原子力、火力を主力にバランスの取れた電源構成を目指す必要がある」と云う。(れんだいこコメント)原発はもう要らんつうのに。(れんだいこコメント)「原発ゼロが政策になれば、福島第一原発の廃炉などに必要な技術者も確保できまい」。無茶を云うな。原発廃炉に必要な技術者を確保すれば良いだけのことを、云うことを聞かんと恐い目に遭わしてやるつうヤクザ恫喝だな。

 「使用済み核燃料や放射性廃棄物の処分法は技術的に決着している。専門家は地盤の安定した地層に埋めれば、安全に処分できると説明している」と云う。(れんだいこコメント)この御仁は原発行政に待ち受けている苦悩を何も知らないし知ろうとしていないことが分かる。「問題は、廃棄物を埋める最終処分場を確保できないことだ。処分場の確保に道筋が付かないのは、政治の怠慢も一因と言える」。(れんだいこコメント)最終処分場を確保できないのはなぜなんだと考えるオツムがないんだな。

 こうしてみれば、よほどのバカだなこ奴は。読売はようもこんな粗脳言論犯罪士を社説士にしていることだ。優秀な者が社説士になれるとして、それがこんな程度とは。呆れ果てると云う言葉があるが通り越していよう。

 2013.10.21日 れんだいこ拝

 れんだいこのカンテラ時評№1177  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年10月15日
 イソップ物語のオオカミ少年譚の寓意考

 イソップ物語の「オオカミ少年」の寓意も確認しておく。概要は次のような話しである。「ヒツジの番をしていた少年がオオカミが来ていないのにオオカミが来た!オオカミが来たと叫んで助けを求め、そのつど村人が駆けつけるとオオカミが来ていなかったと云うことが続いていた。本当にオオカミが来た時、少年の叫びに応じる者が居なかった。そういう訳でヒツジは一匹残らずオオカミに食べられてしまった」。「日頃、ウソをついてばかりいると、肝心な時に本当のことを言っても誰にも信じてもらえない。日頃の言行が大事である」ことを教えている寓話である。

 最近の自然災害情報に接するたびにこの寓意を思い出させられている。なぜだか3.11三陸巨大震災以降の災害情報が「オオカミ少年の口」に似ている気がしてならないからである。「オオカミ少年」の寓意では少年がオオカミが来ていないのに来たと発信した話しであるから同じではない。が、大した台風、津波でもないのにトンデモ大きなものが来たと云う情報発信もそれに近い例ではなかろうかと考える。

 警戒情報が不要と云う意味ではない。問題にしているは、小さなものに大騒ぎを繰り返すことで感覚がマヒされ本当に大きなものが来たときにおざなりに聞き流してしまう危険性である。これを解決するには、小さ目、ほどほど、大き目のそれを素早く分析して、それぞれに応じた適宜な情報発信することだろう。これなら問題はない。実際には、それほどでもない災害情報に大騒ぎしていざ鎌倉のとんでも災害の時にいつものトーンで情報発信することで被害を大きくしているのではないかとの疑いがある。その好例が3.11三陸巨大震災時の対応ではなかったか。

 その端的な例が、宮城県南三陸町の町職員・遠藤未希さん(当時24歳)死亡事件である。彼女は、防災対策庁舎の2階から防災無線で町民に大津波警報を呼びかけ続けた。午後2時46分から約30分間にわたって緊急非難呼び掛け続け、これにより南三陸町の住民約1万7700人のうち半数近くが命拾いした。この功績は不朽である。但し、彼女は逃げ遅れ犠牲になった。美談ではある。

 但し問題が残る。彼女が殉死の覚悟で「天使の声」を流し続けていたのなら何も言うことはない。れんだいこが関心を持つのは、上司の避難対応指示の有無である。死亡したのは彼女だけではない、防災対策課員の殆どが犠牲になったと云うのなら別の考えが必要かも知れない。

 しかし、その場合でも、防災対策課員ともあろう者たちに真実の巨大津波情報が伝わっていたのだろうかと云う疑いが残る。これを発令するところがどこなのか分からないが国か県の然るべき部署であろう。そこが、巨大津波が襲来してくるので直ちに避難するよう呼びかけると同時に自分たちも安全を確保せよとの指示を出していたら、被害はもう少し少なかったのではなかろうかと思う。まさかとは思うが、かの時に限って逆にいつものようなのんびりとした情報を出していたのではなかろうかとの疑念が残って消えない。

 この悲劇は繰り返してはなるまい。それではどう教訓化すべきかについて愚考したい。最近の「のべつくまなき大騒ぎ」情報発信は正式な「解」足り得ているだろうか。れんだいこは、「小さ目、ほどほど、大き目のそれを素早く分析して、それぞれに応じた適宜な情報発信する」ことこそ当局の責務であると思う。早い話しが、ネット情報ではそれぞれを刻々正確に伝える必要があろうが、テレビラジオ等の緊急ニュースでは予想される被害の大きさに応じて発信頻度を加減する、その表現、トーンを替えることにより警戒指数を教えるなどの工夫が必要ではなかろうかと思う。それを思えば最近の「のべつくまなき大騒ぎ」情報発信は邪道である。いろいろ考えると災害情報もまた加工されているのではなかろうかと思えてくる。こういうことを指摘しておきたい。

 イソップ物語の「オオカミ少年譚」は自然災害情報に使えるだけではない。政治情報も或る意味で災害情報であるからして当てはめることができる。小さ目、ほどほど、大き目の事案に応じて、相応しい情報を伝える必要があろう。政治情報の場合には、いきなりの適切な対応を見出さないと云う意味で特殊性があるが、それでも何のどこが問題にされ、どういう風に変えられようとしているのかをはっきり公知させ議論を要請する必要がある。ところが実際には「知らしむべからず、寄らしむべし。あるいは騙し」の強行採決政治手法が横行しているのではなかろうか。

 その典型が、これが言いたいわけであるがTPP(環太平洋パートナーシップ協定)交渉の経緯であろう。TPPの場合には騙しに加えて秘密主義が加わっている。これを確認するのに、「交渉団には英文で600ページ、10センチを超える膨大な資料が用意されているが日本語訳は作られていない。交渉内容について、交渉の経過、交渉官が交わした会話、メールなどすべてに守秘義務が課せられている。当事者たちには情報漏洩責任が問われており、妥結後4年間は明らかにしてはいけない」云々。世界史上例のない秘密が強制されており「異常な外交」になっていることが確認されればよい。こういう秘密保護法先取りの「情報閉鎖」は許されることだろうか。れんだいこには狂っているとしか思えない。

 これを「オオカミ少年」の寓意で例えれば、オオカミがヒツジを襲ってきているのに、門番の少年がそのことを村人に伝えてはいけない義務を負わされていることになる。こうなると「別のオオカミ少年寓話」が必要になったと云えよう。蛇足ではあるが述べておく。世界の諸民族は子供の頃から「イソップ物語のオオカミ少年譚」を教えられて育っている。今、TPP主導しているのは国際ユダ屋の連中であるが、彼らは「別のオオカミ少年寓話」を子供の頃から教えられて育っている。この深い溝を思わずにはおれない。

 2013.10.15日 れんだいこ拝

 れんだいこのカンテラ時評№1176  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年10月14日
 金丸信の中曽根嫌い考その2

 その後の金丸は、「中曽根-金丸の竹下政権創出密約」通り、「日本一の中曽根嫌い」だったにも拘わらずトントン拍子に第2次中曽根内閣で自民党総務会長、第2次中曽根改造内閣で幹事長、第3次中曽根内閣で副総理と重用されて行くことになる。

 この間の流れは次の通りである。1983(昭和58).10月、第一審判決で角栄に懲役4年、追徴金5億円の有罪判決が下る。1984(昭和59)年、自民党総裁任期満了に伴う中曽根再選を阻止するため、鈴木前首相、福田元首相らが野党の公明党(竹入委員長)、民社党(佐々木委員長)をも巻き込んで田中派大番頭の二階堂進・自民党副総裁を擁立しようとする事件が起こる。この裏にあったのは、「角栄-中曽根の角栄無罪放免密約」を一向に守らないばかりか逆に角栄を政治訴追する方向に舵を切り始めた中曽根に対する不信であったであろう。加えて民営化と云う名の国富ないしは国家機密の外資売りに勤しみ始めた中曽根政治に対する不信だったであろう。

 この二階堂擁立劇を潰したのが田中派内の金丸-竹下連合であった。結局、中曽根が再選され、11月に第2次中曽根改造内閣が発足する。この年の12月、金丸信が中心となり竹下、小渕恵三、梶山静六との間で後の創政会の発会式が行われる。1985(昭和60).2.7日、田中派内に創政会が結成される。その20日後の2.27日、角栄が突然、自宅で倒れる。病名は脳梗塞であった。この日以来、田中は、政治の表舞台に復帰することなく政界を去ることになる。

 1987(昭和62).7.4日、創政会が経世会(竹下派)として正式に独立する。残存した二階堂らの田中派は形成利あらず、次第に解体していくことになる。7.29日、角栄の控訴が棄却され上告する(この裁判は1993(平成5).12月、角栄の死により公訴棄却となる)。11月、竹下が第74代首相に就任する。金丸が竹下の後を受けて経世会会長に就任し、自民党のドンと呼ばれ絶頂期を迎える。「中曽根-金丸密約」はかく完璧に守られた。しかし密約が単に守られたのではない。首相指名の見返りに竹下は「世界に貢献する日本論」を名目として引き続きの国富の外資売り政策即ち消費税増税、国債刷りまくりを通じての日本の経済成長頓化策、在日米軍経費の負担増を請負する政治を誓約させられた。

 1989(平成元).6月、リクルート事件の煽りを受け竹下内閣が総辞職を余儀なくされる。宇野政権が後継するも僅か69日で退陣する。8月、海部政権が誕生する。海部首相は党内最小派閥の河本派であったこともあり、この政権を党内最大派閥・経世会の竹下、金丸、小沢一郎が牛耳る。二人三脚で歩んできた金竹関係がこの頃から隙間風が吹くようになる。この時、金丸は、竹下らの反対を押し切って小沢を47歳の若さで自民党幹事長に就任させる。1990(平成2)年、金丸は、日本社会党の田辺誠らと訪朝団を編成、団長として北朝鮮を訪問する(金丸訪朝団)。1992(平成4).1月、ポスト海部に宮澤政権が誕生する。金丸は自民党副総裁に就任し宮澤政権を後見する。ここまでが金丸絶頂期の流れである。

 金丸のその後の結末がどうなったか。これについては別稿「金丸信の失脚考」で検証する。要するに、金丸-竹下は角栄を葬るための当て馬として利用され、これを首尾よく成し遂げた後、竹下政権実現で一応の約束を果たした後、見事なまでに用済みとして処理されて行くことになる。こうして、あらゆる不祥事に顔を出す中曽根は生き延び、中曽根のそれに比べれば取るに足りない容疑で在地土着系の政治家が潰されていくことになる。この流れをマスコミが言論大砲力で後押しする。ここでは金丸を問うているが、これは金丸だけのことではない。旧田中派-大平派系の者は皆な竹下、宮沢、橋本、小渕ら首相経験者は無論、党内実力者まで然りである。旧福田派-中曽根派系の者は元々が国際ユダ屋系と云う事情により成敗されることはない。

 この史実から学ぶべきは、在地土着系の政治家たる者は国際ユダ屋系の栄耀栄華の甘言に乗るべきではないと云うことであろう。政界遊泳上、離合集散はつきもので、時に反目系と組むのは良いとしても相手次第であり、根っからの国際ユダ屋の雇われでしかない者と組むのはくなことにならないことを知り、ご法度とする戒めを獲得すべきであろう。「国際ユダ屋に雇われた者は用済み後、始末される。始末されない者は中曽根のようなよほど懐深くに入り込んだ者だけである」と云う教訓を得る必要があろう。金丸にそういう「もののふ的矜持」がなかったことが金丸の晩節汚しによる落涙の因ではなかろうか。

 補足しておけば、 国際ユダ屋に悪の誓約をしなかった数少ない政治家はどうなったかである。本当に多くの者が潰された。ここでは一々挙げない。小沢どんが国際ユダ屋にどの程度取り込まれているのか自律しているのかは定かではないがほとんど唯一の生き残りであることに驚かされる。その小沢どんの最後の置き土産的政治活動が続いているが、あっと驚く為五郎式の小沢政権誕生が成るだろうか。このところ目立つ国政選挙での選挙不正を衝かないなど穏和過ぎる面はあるが、れんだいこは少なくともこの系からでしか日本の未来は開けないと確信する。これを逆に云う政論家とは百年議論を費やしても無駄である。そっちもそっちで立論すれば良し、我は我で言論し抜くことを誓う。

 れんだいこのカンテラ時評№1175  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年10月13日
 金丸信の中曽根嫌い考その1

 金丸信を急に知りたくなった。理由は定かではない。恐らく三島事件の検証で、また一つ中曽根の悪事を確認したところから、そう云えば金丸が中曽根嫌いだったことを思いだし、それはどういう理由だったのだろうと疑問を湧かしたことによるのだろう。以下、「金丸信の中曽根嫌い」を検証するが、ここでも中曽根の人間失格的尋常でない策士ぶりが判明する。恐らく近代日本政治史上随一のサイコパス政治家ではなかろうか。こういう御仁を名宰相だの大勲位などと持ち上げる評論氏の神経が理解不能である。

 もとへ。れんだいこから見て金丸は嫌いではない。何となく原日本人風の風貌と愛嬌があって良い。但し好きでもない。その理由は、これから述べるところで自ずと判明しよう。ここで金丸信を取り上げる理由は、中曽根に甘言を持って対角栄掃討戦に徹底利用される形で登用され、角栄殲滅を成し遂げるや暫くの間は泳がされる形で栄耀栄華を極めたものの、その挙句に用済みとして無慈悲に処分された政治履歴を持つ凡愚の右代表と思うからである。政治家たる者は金丸を他山の石、反面教師として見据え教訓を得るべきであろう。これを確認するのが本稿の狙いである。

 政治家・金丸信の政治履歴は別稿「金丸信の履歴考」で確認する。元々は「日本一の中曽根嫌い」を公言する政治家であった。その由来を知りたいが、この辺りの情報はどこにも出てこない。政界風見鶏として動き回る中曽根に対する不快感を理由に挙げるのは容易であるが、それは表面的なものに過ぎない。もっと他に中曽根の人間性、根っからの国際ユダヤ奴隷であり、その意を受けて立ち働く中曽根政治の本質を嗅ぎ取って嫌っていたのではなかろうかと思われるが、これを証する言は出てこない。今からでも遅くない。旧田中派の生き証人は歴史に語りを遺すべきである。れんだいこは、金丸の中曽根嫌いにはよほどの根拠があったと推理する。その金丸が中曽根に取り込まれ、やがて使い捨てにされるのが金丸の後半の政治履歴となる。

 ここで、以下の考察に絡むのでロッキード事件の経緯について確認しておく。1976(昭和51).2月、三木政権下でロッキード事件が勃発する。7月、前首相の田中角栄が逮捕される。翌1977(昭和52).1月、東京地裁でロッキード裁判が始まる。この裁判を通じて、角栄は一貫して5億円収賄容疑を認めなかった。今日の角栄擁護者の中には、角栄の政治的貢献からして5億円容疑なぞ微々たるものとして、5億円収賄を認めたうえで角栄を擁護する者が居るが、れんだいこに云わせれば一知半解の角栄擁護論でしかないない。真の角栄擁護者は、角栄の政治的貢献、稀有の政治能力を認めたうえでなお且つ5億円収賄容疑を否定する。れんだいこともなると、あれは児玉-中曽根ラインの犯罪の角栄への無理やりのすり替えと断定している。補足しておけば、角栄は金権政治家の代名詞として批判されるが、確かに政治闘争に金は使ったが私事的には案外身ぎれいでさえある。理屈の合わない金を貰うことはなかった。このことを知って日共流、立花(隆)流の「諸悪の元凶論」に対峙すべきである。

 もとへ。この間、政権は三木、福田、大平、鈴木と移行する。中曽根政権直前の鈴木政権史を確認すると、1980(昭和55).5月、初の衆参同日選挙。大平首相が遊説中に急逝する。7月、宏池会会長・鈴木善幸が第70代総裁に選ばれ鈴木政権が誕生する。1982(昭和57).10月、突然に総裁選不出馬を表明。後継争いが始まる。「金丸の日本一の中曽根嫌い情報」が出てくるのは、この時のポスト鈴木総裁選を廻る田中派の中曽根擁立を廻るやり取りの際である。派閥のドン角栄は中曽根を支持した。その理由を推理するのにロッキード事件が大きく関係していた。角栄は、ロッキード事件に於ける贈収賄容疑は元々児玉-中曽根系のものであり、お前らが訴追されねばならないところ何で俺が罪をかぶされねばならんのか。裏で大きな力が動いているので難しかろうが、お前に関係していることなんだからお前の責任で何とかしろとの言い分で中曽根と談判した形跡がある。これに対し、中曽根が、首相になった際には政権責任で角栄を救済するので、こたびはぜひ後押ししてほしいと懇願したものと思われる。これを仮に「角栄-中曽根の角栄無罪放免密約」と命名する。

 金丸は当初、「あんなおんぼろ神輿担げない」として急先鋒的地位で反対していたが最終的に中曽根支持に転換し次のように述べている。

 「このシャバはキミたちの思うようなシャバではない。親分が右と言えば右、左と言えば左なのだ。親分が右と言うのにいやだと言うなら、この派閥を出て行くしかない。オヤジが中曽根というからには、それなりの義理があるからだろう。私もこの年でもう派閥を出るわけにはいかない。オヤジについて中曽根を応援していく。中曽根嫌いでは日本一の金丸信だ。その私が言うのだから間違いない」。

 この頃、鈴木内閣の末期に開かれた中曽根派と田中派の料亭会合の際に、中曽根と金丸が表向き和解したとの伝が遺されている。その際、中曽根が金丸を評して、「腹も太いし三木武吉以来の大物だ」と持ち上げている。この頃より中曽根の金丸取り込みが始まったと思えばよい。これが上述の金丸語録を生んでいると思えばよい。

 かくして1982(昭和57).10月、少数派閥の長でしかなかった中曽根が党内最大派閥の田中派の後押しを得て第71代首相に就任する。ここまでは良い。問題はこれからである。その後、中曽根の猛烈な金丸取り込みが始まっている。それは「角栄-中曽根密約」を反故にする背信であり、それどころか角栄訴追への鞭打ちと云う逆攻勢に向かったことを意味している。常識的には信じられない、これが中曽根の人間性である。

 この頃のこと、銀座の料亭で土下座をし「あなたを必ず幹事長にする」と約束したとの伝が遺されている。ここで窺うべきは、この逸話の背後に宿る密約であろう。こういうものは表に出てこないので推理するしかない。こういう推理は外れるのが常であるが、れんだいこ推理は一味違う。持前の霊能力で的を射るのを得意とする。何も幸福の科学の代表・大川隆法の如く死者の霊を呼び出しての臭い対話を嘯く必要がない。その後の史実をトレースさせて浮かび上がるものに相応しい判断を下せば良いだけのことである。

 「中曽根-金丸密談」とはどういうものであったのか。れんだいこ推理は、「金丸さん、あなたを見込んで云う。悪いようにはしない。角栄の政治的影響力を殺ぐ為に協力してくれ。見返りに竹下を必ず首相にし且つあなたを重用する。この話しを信じてくれ」ではなかったか。これを仮に「中曽根-金丸の竹下政権創出密約」と命名する。金丸はこの甘言に乗った。ここから金丸の栄光が始まる。但し、その果てに「用済み災難」が待ち受けていることを知る由もなかった。こう解する必要がある。

 れんだいこのカンテラ時評№1174  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年10月 7日
 三島最後のドキュメント考その9、れんだいこ推理への議論要請論

 れんだいこは、三島由紀夫の死因について以下の「三島最後のドキュメント考」三部作で論証した。「その7、割腹事件のれんだいこ推理」、「その7の2、割腹事件のれんだいこ推理補足」、「その8、人、虎孔裡(こうり)に堕つ禅問答考」。そこで通説の自決論に疑問を投じた。ブログに対するレスがないのは、既に相当昔の事件故に今更どうでもよいとしているからなのだろうか。あるいは驚天動地の奇説のゆえだろうか。

 れんだいこは、その昔、日本共産党諸問題のブラックボックスになっている「宮顕リンチ殺人事件」の蓋をあけた。通説が、党内スパイ摘発上の止むを得なかった不慮の死事件であるとしているのに対し、スパイ派の宮顕派が党内最後の労働者畑系の党中央委員小畑を査問致死せしめたものであり、小畑氏の名誉回復こそが急がれている、宮顕こそスパイの頭目であるとして断罪せよとの逆説を投じた。この論考がさほど注目されることなく今日に至っている。それは今日的には人気のない左翼圏の出来事であったことによるのかもしれない。あるいはこれもまた驚天動地の奇説のゆえだろうか。

 しかし、三島事件となると右翼圏の関心事である。右翼がこれに関心を払わないとすれば、日本と云う国は左翼も右翼も脳死していることになる。そういう者たちの弁明を許せば致し方なかった面もある。なぜなら圧倒的に情報が不足しており、当時に於いては当局仕立ての事件論をもって理解するしか他に方法がなかったからである。故に恥じることはない。故に「宮顕リンチ殺人事件」にせよ「三島市ヶ谷自衛隊基地事件」にせよ通説に従った者たちを悪しざまに云うつもりはない。

 問題はこれからである。現在では当時にはなかった資料が開示されている。れんだいこはたまたまこれを見つけ、子細に検討し直した。「宮顕リンチ殺人事件」では事件関係者の陳述調書が漏洩され、これを手にしたことが始まりとなった。「三島市ヶ谷自衛隊基地事件」も然りで、ネット上で「自決ではない論」が開陳されており、これを読んだことが始まりとなった。これらを虚心坦懐に読み、れんだいこが推理した結果、「宮顕リンチ殺人事件」では「宮顕こそがスパイ論」、「三島市ヶ谷自衛隊基地事件」では「三島は強制自決させられた論」に辿り着いた。

 新資料に従ってこういう見解が出た以上、本来は議論があって然るべきである。何もれんだいこを売り込もうとしているのではない。れんだいこ立論の精査をせねばならないと申し上げている。これの検証を抜いたまま相変わらずの通説論を唱えて平然とするのは知の怠慢だろう。当然、れんだいこ見解の方が間違っている場合もある。その可能性も含めて議論せねばならない。これが知の弁証法と云うものである。世に弁証法を云う者が多いが、云うばかりで未だこの作法が根づいていない。大いに不満である。原発論も然りである。原発稼働論は福島原発事故までは許されても、事件後も相変わらずの安全論、クリーン論、安価論唱え平然としておられるなどは正気ではない。こういう風にすべてに関係している。

 論によっては曖昧で良いものもある。白黒つけねばならないものもある。本件は後者の方である。故に決着つけねばならない。三島事件に於いて、三島の死が自決なのか自決に似せた強制死なのかをはっきりさせねばならない。それが三島事件論ひいては三島論総論に関わる重要なファクターである故に疎かにできないと考える。ここまで述べても無反応だったとしたら勝手にせぇと云わせてもらうしかない。

 れんだいこのカンテラ時評№1173  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年10月 1日
 れんだいこの清河八郎論

 今日、2013(平成25).10.1日、安倍首相が政権公約として来期4.1日より消費税増税することを国内外に発表した。記者会見の席上、郷里の偉人である吉田松陰に言及していた。こともあろうに攘夷論のイデオローグであった松蔭を、国際ユダ屋の手先と化している安倍が能天気に悪びれることなく松陰を持ち上げていた。よろしい、これを奇果として松蔭にも触れておこう。本筋は清河八郎である。

 2013.9.23日、良い話しを得た。直接的には藤田まこと主演の確か「必殺仕掛け人」による。題名は定かではない。劇中に清河八郎(以下、単に「八郎」と記す)が登場し興味を覚えた。どこに興味を覚えたのか。それは、清河八郎が愛妻の名を「お蓮」と名付けていたことによる。これがたまたま「れんだいこ」の「れん」と重なると云うのが気に入っただけのことであるが、それはそれで良かろう。そういう他愛のないことからでも良い、不思議な機縁で繋がることの方が肝心であろう。

 「清河八郎とお蓮の物語」は「坂本竜馬とおりょうの物語」と双璧を為す。史実から云えば、八郎物語の方が竜馬物語の先を行く。幕末史には天晴れとしか言いようのないこうしたラブロマンスに満ちている。「清河八郎とお蓮の物語」の詳しくは「清河八郎履歴」に記す。

 清河八郎とは何者か。本稿はこれを問う。先だっては三島由紀夫を考察したが、三島の場合にも数万語費やして三島を語り三島から遠い愚昧評論を見た。清河八郎論にもそのきらいがある。そこで、れんだいこが中心線を打ち出しておく。結論から言えば、八郎の履歴を通して幕末史の流れがより見えてくる。と云うことは、八郎が時代の渦のただ中にいたことを証しているのではあるまいか。そうであるとするなら、通説幕末史が八郎を踏まえていないのは、それだけピンボケしていることを証していると云うことになるのではなかろうか。もっともっと八郎を調べるべきであり、その履歴を正史の中に納めるべきであろう。

 これまでの幕末史が八郎を過小評価してきたのは学者の眼力不足によるもので、八郎のせいではない。同郷の鶴岡出身の作家・藤沢周平は、「回天の門」という小説で八郎を描き、家を飛び出し、遊女を妻に迎え、革命に奔走し、書や歌を詠み、全国を駆け巡って、短い人生を駆け抜けた、破天荒で時代を回転させた魅力的な人物として描いている。この観点が是であろう。

 浅知りする者は八郎を、新撰組の分岐騒動に関連したくだりで「策士」と捉えるばかりで、八郎の痛快無比の軌跡を思わない。事実は、1853(嘉永6)年のペリー率いる黒船艦隊の浦賀来航以降の政情に於いて、「尊王攘夷&倒幕」の政治テーゼを掲げ、これをその後の政治運動内に定式化させた人物であり、これこそ八郎の功績であろう。

 もとよりこれは八郎一人が案出したのではない。吉田松陰もその一人であり、時代の気運がここに向かっていたことを証している。両者はたまたま同年齢の1830(天保元)年生まれであり、時代の空気を誰よりも強く嗅ぎ分け、共に幕末の風雲の中を「尊皇攘夷の魁(さきがけ)」として散った。

 松蔭享年29歳、八郎享年34歳。共に名辞世句を遺している。これを確認すれば、松蔭の辞世句は「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも、留(とど)め置かまし大和魂」、「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」。八郎の辞世句は「魁(さきがけ)て またさきがけん 死出の山 迷いはせまじ皇(すめらぎ)の道」、「くだけても またくだけても寄る波は 岩かどをしも 打ちくだくらむ」。

 れんだいこの眼力によれば、「西の吉田松陰に対する東の清河八郎」の評が与えられるべきであろう。しかるに松蔭が語られることは多いが八郎はめっきり少ない。しかしこれはオカシい。八郎は、幕末を文武両道の第一人者的牽引力で駆け抜けた快男児にして風雲児足り得ていた。八郎が歴史に遺した功績は知られているより大きいとして再評価されるべきではなかろうか。

 松蔭は「安政の大獄」で処刑され、八郎は幕府の秘密指令により暗殺されたが、松蔭・八郎2世、3世が続いたのが幕末史ではなかろうか。八郎がかく時代の渦の中心にいたことがもっと評価されるべきだろう。これが、れんだいこの八郎観となる。ちなみに司馬遼太郎は「幕末は清河八郎が幕を開け、坂本龍馬が閉じた」と評しているとのことである。

 八郎と幕末志士の関係を評すれば、2歳上の西鄕隆盛、同年の吉田松陰は別格として、1歳上の武市半平太、3歳下の桂小五郎、5歳下の坂本龍馬、9歳下の高杉晋作、10歳下の久坂玄随らは、八郎を文武両道型剣豪列伝系譜の幕末志士の祖とする八郎2世、3世の気がする。八郎ありせばこその武市であり桂であり龍馬であり晋作であり玄随ではなかったのか。彼らにバトンタッチするまでの繫ぎの役目をし、実践のモデル的指針を与えたのが八郎の歴史の役割ではなかったか。そういう役割を歴史に刻んでいると認めるべきであろう。かく「西の松陰、東の八郎」と位置付けたい。

 補足しておけば、清河八郎の「尊王攘夷&倒幕論」をそのままの形で現代史に持ち込むことはできない。現代人の我々が焼き直せばよいだけのことである。かの時代のかの情況下に於いては「尊王攘夷&倒幕論」こそが歴史的実在力を持っていたのであり、その歴史的実在力を牽引した有能士として遇し評するべきであろう。これを歴史の眼とすべきである。云わずもがなの事ではあるが。

 もう一つ足しておく。この頃の志士活動は幕末維新と名付けられるべきで、その幕末維新の理想を捻じ曲げた明治維新とは識別されるべきであろう。幕末維新の観点を欠いたまま明治維新として一括理解するのは少々粗雑過ぎる歴史の眼ではなかろうか。この提言を良しとする者は以降、幕末維新の項を立てるべきである。その明治維新も、西郷隆盛が政治に関与していた時期までと西郷失脚後とを明確に区別すべきであろう。現行の明治維新論は、幕末維新、西郷関与の明治維新、西郷亡き後の明治維新の質の違いが踏まえられておらず到底使いもんにならん。

 れんだいこのカンテラ時評№1172  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 9月24日
 読書の拝三法

(とある名著を読了したときの感慨を書きつけておく)

 名著の要件とは、手にした時に拝をして、読み進めながら拝をして、読み終えて拝をするような書物を云う。現にそういう書物がどれだけあるかは別にして、名著とはそういう自然な拝を生むものではなかろうか。

 解説は不要であるが簡単にしておく。最初の拝は礼儀である。あるいは構えと云うべきかも知れない。次の拝は書き手と読み手の応答による。如何な名著でも両者の釣り合いがなければ拝は生まれない。最後の拝は読後感から自然にもたらされるものである。

 これは何も読書だけではない。食事の作法がそうである。食べる前の「いただきます」、食事中の柔和な表情、食後の「ごちそうさま」は読書の拝三法に準じている。こう考えるとよろづに通用するものである。これが純日本式のものか世界でも当たり前のことなのかは分からないが、この作法なき処世はつまらない。と思う。

 れんだいこのカンテラ時評№1171  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 9月21日
 れんだいこの三島由紀夫論その4、保守論壇の再解析考

 れんだいこの三島由紀夫論の最後を、三島論を通じての保守論壇の亀裂とれんだいこによる再解析に向かうことにする。これに恰好の論文が山崎行太郎氏の2013.9.17日付けブログ「保守論壇亡国論』と西尾幹二論」に発表されている。西尾幹二氏の三島論、三島論を廻る江藤淳と小林秀雄の対立に対する西尾見解に対して山崎見解を対置している。

 ブログによれば、西尾氏は著書「三島由紀夫の死と私」その他で、三島を保守論壇の「神」として絶賛する他方で、三島の割腹自殺を否定的に評価する江藤淳批判に精を出している。西部邁も櫻井よしこも、江藤淳を批判・罵倒することから言論活動を開始している。「本書で取り上げた保守論客たちの中で、思想的影響を受けた人として江藤淳の名を挙げているのは、中西輝政ぐらいであろう」とのことである。

 三島の割腹自殺の評価を廻って「江藤淳&小林秀雄対談」が為されており両者は激しく火花を散らしている。小林は吉田松陰の処刑死と同様の線で三島の割腹自殺を惜しむ見地を披歴している。他方、江藤は「ごっこに過ぎない」と敢えて無駄な死批判の見地を披歴している。山崎氏はこの対談を次のように評している。「江藤淳と三島由紀夫、そして小林秀雄の戦い。私はこの対談を、どちらが正しく、どちらが間違っていると思いながら読むつもりはない。小林秀雄も江藤淳も妥協せず、世論や時代に迎合せず、真剣勝負を行っている。この思想的・文学的戦いこそ本物であった、と私は考える」。

 ところが、西尾氏は「三島事件について、福田恆存や中村光夫をはじめ、多くの作家や批評家たちが沈黙し、発言を逡巡する中で、西尾は江藤淳を激しく批判・罵倒し始める」。「江藤淳&小林秀雄対談」で三島の死を肯定的に評価した小林を良しとし、批判的な見地を披歴した江藤を「三島の死に対する冒涜」としてクズ呼ばわり批判で溜飲を下げている。

 山崎ブログの要点は以上であるが、これに啓発されて、れんだいこ論を投下し介入してみたい。れんだいこは先に2013.9.12日付けの「三島最後のドキュメント考その1、本稿の意義」を皮切りに数ブログの三島論を発表した。

 そこで、三島最後の真相は云われるところの三島の天晴れな割腹死ではない。当局に拉致監禁されたうえでの強制切腹死事件であり、当の三島は半ば生還し半ば殺されることを覚悟のうえで飛び込み、結果的に死が強制されたものである。それは儀式殺人の感がある処刑であったとの推理を披歴した。三島事件をかような見地から推理したのは、れんだいこが初めてではない。れんだいこ推理を呼ぶ先行のものがあり、それを少々精緻に論述したところに値打ちがある。

 さて、こうなると、事件の真相に迫らず、これまでのような「三島の天晴れな割腹死」を賛美する一連の評論が急速に色褪せてこよう。逆に三島の死を批判した江藤の論の方が却って三島の心情を正確に忖度しているのではなかろうかと云うことになる。考えてみれば、江藤の三島事件批判は何もそう慌てて死に急ぐことはあるまいとする見地からの、「三島批判ではない三島の死批判であった」ことに気づかされる。例えてみれば、親が子を叱る時のような慈愛に満ちた、それ故に手厳しい批判だったのではなかろうか。

 と云うことは逆に、西尾の三島の死賛美が、三島を追悼するに名を借りた軽薄なものであり為にする江藤批判に過ぎなったのではないかと云うことになる。西尾の三島思慕の至情がエスカレートしたものであるなら幸いである。どちらであるかは分からない。それと、小林の三島の死賛美は真贋見抜くことで定評のある名評論家にしては少々称賛が早過ぎたのではなかろうかと云うことになる。

 山崎氏の2013.9.17日付けブログ「保守論壇亡国論』と西尾幹二論」から以上の類推が可能になる。そして以下の教訓に至る。いわゆる評論の難しさ、その評論を受け止める難しさを知るが良い。元々高度な能力が問われているのに、人は手前の能力に応じて、あるいは請負の立場からお気に入りの論を選んでいるに過ぎない、と云う習性が見えてくる。

 こたびは三島事件を廻ってのものであるが万事に通用する。今後はくれぐれも上滑りしてはなるまい。何事も事実で検証してから立論せねばならない。これをせぬままの子供騙しに騙されてはなるまい。との言を添えておく。

 2013.9.21日 れんだいこ拝




(私論.私見)