カンテラ時評39(1141~1170)

 (最新見直し2010.07.21日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2007.3.24日 れんだいこ拝


 れんだいこのカンテラ時評№1141  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 5月 9日
 ニギハヤヒの命の日の本王朝こそ真の日本始め考

  2013.5.6日れんだいこブログ「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)考」をものした。特段の反応がないので、今度こそは思い知らせて見ようと更なる「歴史の紐のもつれを解く通説批判説」をしておく。「ニギハヤヒの命の日の本王朝こそ真の日本始め考」と題することにする。内容は、日本の国名、国旗、国歌、国紋、元号の由来を問うものである。

 れんだいこの新説は、日本の国名も、日章旗としての日の丸も、国歌としての君が代も、皇室御紋としての菊花弁も、恐らく元号も、記紀神話のみに拠らず、いわゆる古史古伝をも併せて理解すれば、大和王朝に先立つ、少なくともニギハヤヒの命王朝以来のものであり、大和王朝は、これらのどれをも継承したものである。なぜならどれもが、そのできばえが優れものであったが故であるように思われる。

 通説では、国名も国旗も国歌も皇室紋としての菊花弁も大和王朝の御代になって初めて自生したものと説く。果たしてそうであろうか、大和王朝以前の出雲王朝―ニギハヤヒの命の日の本王朝―邪馬台国王朝の頃より始まるのではなかろうかとの疑問を投げておく。これを確認するのに次のような論になる。

 国名の由来は、(略)。国旗の由来は、(略)。国歌の由来は、(略)。皇室紋としての菊花弁の由来は、(略)。(この下りにつき別章【日の丸、君が代、元号、菊の御紋考】に記す)
    marxismco/minzokumondaico/hinomarukimigayoco/hinomarukimigayoco.htm

 こうなると、日本左派運動式の国旗、国歌、元号制、菊の御紋批判は「ちょっと待て」と云うことになる。れんだいこ史観によれば、ニギハヤヒの命の日の本王朝は国津系であり、大和王朝の始祖たる外航系神武軍によって滅ぼされている。とはいえ、事情は定かではないが、神武王朝は、ニギハヤヒの命の日の本王朝時代の遺制としての国名、国旗、国歌、元号制、菊の御紋を継承した。

 こうなると、国名、国旗、国歌、元号制、菊の御紋批判を為すに当っては、ニギハヤヒの命の日の本王朝即ち三輪王朝の政体検証抜きには批判し切れないのではなかろうか。この辺りの検証抜きの国名、国旗、国歌、元号制、菊の御紋批判は安逸過ぎるのではなかろうか。これも歴史ジレンマの一つであろう。

 この問題な対するれんだいこの「解」は、「悠久の国体論」を媒介させることで解き明かすことにしている。即ち、国名、国旗、国歌、元号制、菊の御紋は大和王朝の専属にあらず、それより以前の「悠久の国体」に帰属しているとして、よほどのことがない限り継承すれば良いとしている。なぜなら、そのどれもがデキが良いからである。世界に誇る日本文明の財産足り得ているからである。但し、そうであればあるほど、それらは振り廻したり排除したりするものではなく、いわば味わうべしとしたい。即ち、時、所、局面構わず礼賛されるべきものではなく節度こそが肝要と云うことになる。

 従来の「悠久の国体論」は皇国史観に基づく大和王朝論より派生せしめられてきているものである。これにより神武東征譚を賛美し、好戦化するよう仕向けている。これを仮に「狭量の誤れる国体論」と命名する。それに対し、れんだいこの国体論は、国体論そのものに批判のメスを入れるのではなく、国体論を真に相応しく大和王朝以前の日本の国家の起源来のものとして位置づけ継承しようとしている。それは好戦化するようなものではなく神人和楽的な共和思想を生みだすものである。この差が御理解賜れるだろうか。

 思えば、北一輝の国体論も、その思想に共鳴した2.26皇道派将校のそれも、「狭量の誤れる国体論」によって導かれたことで躓いたのではなかろうか。昭和天皇の聖断を仰ぎ、期待とは全く異なる聖断を浴びることで殉死を余儀なくされたが、国体思想の受け取り方の間違いによる悲劇としても見るべきではなかろうか。特記しておくべきは、「国体思想の受け取り方の間違い」は今も続いていることである。そういう意味で賢明なる国体論の構築が待たれていると云えよう。

 jinsei/


れんだいこのカンテラ時評№1142  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 5月12日

 伝承真偽考、「大国主の命の大和への旅立ち譚のぬば玉歌」考

 日本神話考証中に思ったことだが数多くの伝承が遺されている。記紀、古史古伝の伝承の数々の中には相反するものもあり、どれを択ぶのかが肝腎となる。しかし、これを正しく認識し受容しなければ史実が掴めない。例えて言えば、精子が子宮への着床を求めて膣内の様々な洞窟に迷う例に似ている。回り道をしようとも最終的には子宮へ辿り着くことで妊娠へと至る。伝承の選択にもそういう見識が要ると云うことである。これを仮に「伝承真偽論」と命名する。

 れんだいこには格別お気に入りの伝承がある。これを披露する。大国主の命の伝承は「いなばの白兎譚」を代表に数々あれど、正妻・スセリ姫との別れの遣り取りを記す「大国主の命の大和への旅立ち譚のぬば玉歌」の条が一番気に入っている。実は、この歌は非常に重要な史実を証言している。これについては後で記す。

 出雲の国譲り後のことと推定されるが、大国主は、大和の国に向うべく旅支度を始め、この時、スセリ姫に次の歌を捧げている。詞書きとして「その夫の神わびて、出雲より倭の国(やまとのくに)に上りまさむとして、束装(よそひ)し立たす時に 片御手は御馬の鞍に繁け、片御足はその御鐙に蹈み入れて、歌よみしたまひしく」云々とある。原文は「出雲王朝史3、大国主の命王朝史考」に記す。
 (kodaishi/nihonshinwaco/izumoootyoco/ookuninushioutyoco.html

「今となっては、ぬば玉のように黒い衣を着ても似合わない。故に脱ぎ棄てよう。翡翠のような蒼い衣(沼河比売を暗喩)を着ても似合わない。故に脱ぎ棄てよう。着慣れた山の畑の茜草で染めた赤い衣(スセリ姫を暗喩)を着るのが一番しっくりする。渡り鳥のように私が旅立ってしまったら、君は泣かないと云っていても泣くだろうな。それを思うと哀しい。私の気持ちは、朝雨のさ霧けぶる中を旅立つような思いである。これから先どうなるか決意あるのみである。歴史に殉ずる。お前との会話もこれきりになってしまった。未練は云うまい達者でな」。

 ぬば玉とは、アヤメ科多年草の檜扇(ひおうぎ)の種子を指し、黒々と丸い形をしている。「きらきらと光るミステリアスな黒」の意味があり、万葉集の枕詞で「ぬばたまの夜」、「ぬばたまの夢」などとして使われる。「大国主の命の大和への旅立ち譚のぬば玉歌」が元歌であり、これに掛けているように思う。こたびの旅が永遠の別れになることを覚悟しているスセリ姫は、大国主の命の和歌を受け、大御酒杯(おおみさかずき)を取らせて次の歌を詠んでいる。この歌を味わおう。

「八千矛の神にして私の夫、大国主の命よ。そなたは男なので、お廻りになられる島の崎々、磯の崎々で若い妻を娶るのでせうが、私は女ですから、あなたの他に愛する者は居りません。どうぞあなたは旅先で彼女達と柔らかい暖かい布団でお休みになられませ。私はあなたとの愛の日々を決して忘れません。今までの思い出を大事に暮らして行きます。あなたの御無事と幸運を祈念して、この御酒を捧げます」。

 恐らく衆人環視の中、恥ずかしがることもなく、二人は互いに杯を交わし、手を首に掛け合って別れを惜しんだ。「かく歌ひて、すなはち盞結ひして、項繁けりて、今に至るまで鎮ります。こを神語といふ」とある。大国主は大和へ旅立ち、スセリ姫は出雲に留まり鎮座することになった。れんだいこは、この伝承は実話なのではなかろうかと思っている。この歌を気に入る理由は、心底から信頼で結ばれている二人の愛情が滲み出ていることに感動するからである。こう解せず、スセリ姫の歌意を「嫉妬激しく」云々なる解説を付して得心する向きがあるがお粗末と云うしかない。

 ところで、「大国主の命の大和への旅立ち譚のぬば玉歌」は、大国主が晩年、ヤマトの国に向ったことを証言している点で貴重過ぎる。この時期が国譲り後であるとするならば、大国主の命は国譲り後にヤマトに向かったことになる。れんだいこ史観によれば、出雲王朝はその後、三輪王朝を生み、その延長上に邪馬台国が見える。そういう絡みを考える上で、「大国主の命の大和への旅立ち譚」には重大な意味がある。

 れんだいこ史観の真骨頂なのだが、この時、大国主の命は、外航族の迫り来る襲来に対応すべく国津族の救国共同戦線の構築を期してヤマトへ向かったと読む。大国主の命のヤマト行脚行程は残されていないが、代わりに二ギハヤヒの命のそれが伝えられている。れんだいこの眼には、大国主の命と二ギハヤヒの命が重なってしようがない。これについては、今後いよいよ解明に向かうつもりである。

 もとへ。スセリ姫は、そういうよほどの重大決意で大和へ向かおうとする愛する夫の「止むにやまれぬ大和魂」を理解した上で、大国主の命に対する永遠の別れを受け止めている。スセリ姫の本歌は、その惜別の恋歌と受け取るべきであろう。大国主は艶福家で知られているが、それは当時の各地の国主豪族の娘との交合が須らく政治婚であったこと、正妻のスセリ姫との信頼がかくも厚かったことを教えていると受け止めている。

 jinsei/


れんだいこのカンテラ時評№1143  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 5月14日

 現代史と歴史探訪の相関考

 現代日本政治はお粗末極まり、俗に云うところの「お話しにならない」。全く面白くない。これの論拠を挙げればキリがないが、例えば原発対応能力が筆頭だろう。他国の原発事故ならいざ知らず、我が国で起り現に解決に向けての何らの進展がないどころか益々窮地に陥りつつあると云うのに、事故直後より政界要人の原発続投論が相次ぎ、安倍政権下では首相のトップセールスで原発輸出商談が調印されつつある。憲法は改正だが原発は護持と云う逆さま政治では「お話しにならない」。

 そういうちぐはぐぶりが目立つ現代日本政治であるのに、与野党はいつの時代にも増して大政翼賛会化している。何しろ、唯一の抵抗勢力化している小沢派に対しては自民党からは共産党までがバッシング一番手争いをしている。異論、異端、非主流派をよってたかって叩くので政治が育たないこと夥しい。日本政治がこういう仕掛けに嵌まったのはいつの頃からだろうか。これを問えば紙数を増すので、ここでは触れない。

 れんだいこは、こういう折には不思議と歴史探訪に向かう。いわば歴史に遊ぶ。お粗末な現代日本政治に背を向け逃げているのかも知れないが、心情的には現代日本政治への関心が被(かぶ)さっている。何しろ、歴史探訪により、現代に繫がる政治の型が確認できるし、ある程度は現代日本政治の行き先が見えてくるからである。歴史探訪には、こういう果実がある。故に、単なる逃避ではないと思っている。

 但しこれは、れんだいこ史学特有のものかも知れない。れんだいこ史学は、上古代史であれ古代史であれ中世史であれ近世史であれ近代史であれ現代史であれ、常に今の政治状況の道しるべとする緊張感で何か益するところを探そうとしている。歴史学はこうあるべきとまでは云わないが、殊のほか歴史の縦の線を重視しているところに特徴がある。

 以上を前座として以下、ふと閃いたことを書きつけておく。歴史を見れば、いつの世でも体制派と反体制派と中間派の三派から構成されていることが分かる。これによれば、体制派と反体制派と中間派のどれが良い悪いと云うものではない。問題は、護持成育発展せしめて行くべき政治状況下の場合には体制派になれば良いし、逆の場合には反体制派になれば良いし、判断留保の場合には中間派の立場もあるだろうと云うことになる。れんだいこが育った戦後日本の場合には、戦後から1970年代半ばの田中角栄政権時代までは、体制派で良かったのではなかろうかと思っている。角栄がロッキード事件でトラ挟みに遭い、政治的能力を殺がれて以降は反体制派で行くべきではないかと思っている。

 興味深いことに、日本左派運動は、これを逆に漕いで今日まで至っている。即ち、戦後から1970年代半ばまでは日本左派運動が隆盛し、それ以降は全く逼塞したまま今日に至っている。こんなバカな話しがあって良いだろうか。こう思うたびに憤然とせざるを得ない。

 歴史にはこういうチグハグがまま起る。故に、もっと幅広く歴史を学び道筋を見いださなければならない。これに失敗すると、本人は精一杯正義運動しているつもりながらも、実際には逆の位置で奮闘しているだけのことになりかねない。特に今時は、国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの陰謀陽謀が盛んな時勢であるからして余計に警戒せねばならない。アンネの日記に涙する傍らシオン長老の議定書を偽書扱いし、ホロコーストや南京虐殺事件となると口角泡を飛ばしてナチス及び日本軍の蛮行を詰(なじ)り抜くなぞは典型で、国際ユダヤお誂(あつら)えのテキストを良く学びました、御苦労さんと頭を撫でられて、テキスト通りの文句を口から吐いているだけのことと思わねばならない。

 しからば、どう学を形成すべきか。尤も手っ取り早く云えば、脳のしわを増す史学、史観を学べばよい。さすれば本当の歴史が見えてくる。もちろん、れんだいこ史学はそれを目指しているがまだまだ完成途上のものでしかない。この先は寿命との相談になっている。よって、観点を共有する他の有能士によって更に切り開かれねばならない。こうして得た知識、学問によって、現代日本政治のレベルを挙げなければならない。

 話しを元に戻せば、福島原発事故の始末ができぬ裡の原発輸出政策なぞ歴史犯罪であり、これ又国際ユダヤの陰謀によって誘われている度し難い愚行政治と見なした方が良い。後で高過ぎる国際的賠償問題が必至であり、日本がそれほどおバカにされていることを悲しまざるを得ない。

 そういう連中による政治は一事万事であり、他の施策も同様にせぬ方が良いことを為そうとしていると思った方が良い。こうなると、そういう日本政治に立ち向かうには容易な改造改良では追いつかないと心得るべきである。時代は回天運動を要しており、革命が欲せられていると思うべきだろう。但し問題がある。国際ユダヤ仕込みの自由化運動、民主化運動、革命運動に巻き込まれてはならない。日本式の世代を継ぐ回天運動を推進すべきである。そのコツを会得する為にも、歴史を学ばねばならない。学んだものは実践せねばならない。日本式陽明学の哲理で時代をこじ開けねばなるまい。思いつくまま。

jinsei/


れんだいこのカンテラ時評№1144  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 5月20日

「侵略の定義に関する決議」考

 橋下大阪市長の慰安婦問題発言が安倍首相の侵略定義不詳論を呼び、議論を生んでいる。こういう折柄、「1974(昭和49).12.14日に国際連合総会の第29回総会で採択された国連総会決議3314」としての「侵略の定義に関する決議」(Definition of Aggression, United Nations General Assembly Resolution 3314 on the Definition of Aggression、UNGA Res.3314)がネット上に出現した。れんだいこは、そのような決議があることを知らなかったので目を通してみた。採択日が1974(昭和49).12.14日と云うことは、同9日が田中政権総辞職であるからして、その直後の採択であったことになる。これを吉と読むべきか凶と読むべきか。恐らく、田中政権下での外交案件だったであろうから吉と読みたい。

 それはともかく、せっかくのそういう決議文なのだが、読んでも分かりにくい。長たらしい日本語文になっており、どこがどう接続するのか理解するのに閉口した。そこで、れんだいこ訳で読み直すことにした。まずまずのものができたのでサイトアップしておく。格納サイトは以下の通りである。

 一言しておけば、官僚文は、税法、著作権法等が典型だが、何でこういう書き方をするのだろうか。解せないこと夥(おびただ)しい。素人には敢えて分かりにくくして、その道の専門家に尋ねないと理解できないようにしているとしか考えられない。問題は、そういう難文でも特段に不審がらず理解できる人が大勢するから不思議だ。難しければ難しいほどあり難がる人がいるから成りたっているのだろう。れんだいこは逆バネで動いているから、どうも時代に合わない。

 もう一言しておけば、日本語文の一文を長たらしくするのは日本語の長所を損ね短所を浮き上がらせる悪文法である。日本語は一文ごと短文にして多義的なところをうまく引き出して味わい深くさせるのが良い。長文で意味不明にさせるなぞは日本語族の自殺行為である。世界一の芸術言語が日本語であり、この真価を毀損させる行為に反対する。

 「侵略の定義に関する決議」考
 (rekishi/daitoasensoco/what/shinryakuteigico.html

 【(れんだいこ訳)「侵略の定義に関する決議の前文」】

 国連総会は次のその真意を踏まえる。国際連合の基本的目的の一つは、国際間の平和と安全を維持することにある。且つ平和に対する脅威の防止及び除去、加えて平和の破壊もしくはその他の侵害を抑圧する諸行為の為の効果的な集団的措置をとることにある。安全保障理事会は、国際連合憲章第39条に従い、平和に対する如何なる脅威にも、平和の破壊又は侵略行為の存在を決定し、並びに国際の平和及び安全を維持し、又は回復するために勧告をし、又は第41条及び第42条に従っていかなる措置をとるかを決定する。この原点に立ち返る。又、憲章上の諸国家の義務は、国際紛争を平和的手段によって、国際の平和、安全及び正義に危害を加えないように解決しなければならないことにある。この原点に立ち返る。この定義のいかなる規定も、国際連合の諸機関の任務と権限に関する憲章の規定の範囲に何らかの影響を及ぼすものと解してはならない。このことに留意する。又、侵略は、最も深刻且つ危険な違法の武力行使の形態である。それは、あらゆる種類の大量破壊兵器の存在により生み出される状況下においては、或る世界的紛争及びそのすべての破局的結果の発生の脅威を伴う。このことを考慮する。「侵略」が現段階に於いて定義されねばならない。諸国家の義務は、人民からその自決権、自由及び独立の権利を奪うような、あるいは領土保全を破壊するような武力を行使してはならないことにある。このことを再確認する。又、国家の領域は、例え一時的にせよ、他国による憲章違反の軍事占領その他の武力的手段により対象とされ侵されてはならない。及びかかる手段もしくはその威嚇の結果として他国による取得の対象とされてはならない。このことを再確認する。又、「国際連合憲章の諸原則に従った諸国間の友好関係及び協力についての国際法の原則に関する宣言」の諸規定を再確認する。侵略の定義の採択は、潜在的侵略者を抑止する効果を有せねばならない。それは、侵略行為の決定及びこれを鎮圧するための措置の実施を容易にするであろう。さらに犠牲者の権利と合法的利益の保護及び犠牲者に対する援助の供与を容易にするであろう。このことを確信する。侵略行為が行われたか否かの問題は、個々の事件ごとのあらゆる状況に照らして考慮されなければならないが、それにも拘わらずこのような決定の為の指針として基本的な諸原則を定めることが望ましい。このことを信じる。よって次の定義を採択する。

 jinsei/


れんだいこのカンテラ時評№1145  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 5月21日

 ありし日の角栄演説、答弁考

 2013.5月中旬頃、ネット検索で「田中角栄の衆議院本会議発言一覧」に出くわした。求めていたものであり感謝至極である。ここで御礼を申し上げておく。れんだいこは、これまで、角栄語録、角栄演説をそれなりに拾っているが、角栄の国会答弁の項はなかった。この穴が埋まった気がする。但し、そのまま転載すると膨大な量になるので、全文確認は当該サイトでお願いし、れんだいこサイトでは角栄発言部分のみを抜き書きし閲覧に供することにした。

 目下、整理しながら素読しているところであるが、角栄答弁の質の高さを改めて目を見張って驚かされている。同時に角栄が能動的に立ち働いていた時代の国会の質の高さが分かる。とにかくみんな真剣に議論していた。逆に云えば、目下の国会と比すれば目を覆わんばかりの惨状が透けて見えてくる。現在の国会議員は無論のこと、政治に志ある者は以下のサイトを必読せよ。角栄の肉声を聞け。まずこれを言っておきたい。

 「田中角栄の衆議院本会議発言一覧」
 (http://kokkai.sugawarataku.net/giin/hhr00182.html
 「(別章)田中角栄演説、答弁」
 (kakuei/enzetu/enzetu.htm

 して、角栄演説、答弁の特徴はどの辺りにあるのだろうか。れんだいこが読みとるのに、角栄演説、答弁は、簡略にして要点を得て指導性を発揮しており、弁舌の内容そのものが論証的且つ実践的である。しかして応答が非常に丁寧かつ誠実である。今時のように相手の政治家を「先生」などとおだてあげずに「君」づけで向きあっているが、この緊張感の方が小気味良い。答弁原稿に対しても官僚任せにせず、よしんば官僚作成の原稿であろうとも理解して目を通しており、よって今時のような原稿を間違えると云うような失態はない。そういう意味で総じてこの種の模範足り得ている。

 もう一つ感心することは、今日の諸課題に対しても通ずる処方箋を、かの時点ながら示している点である。国政上の諸課題につき多岐にわたって言及しており、それぞれの分野に於いて角栄の見識を示している。現代日本政治はこれを習うべきであろう。実際には反対のことばかりしているのだが。

 これらがあいまって、学卒としては随一の東大閥から最も遠いところに位置しながら政治能力に於いて何ら遜色がないどころか抜きん出て圧倒している。角栄に対して「カネで政治を買った」なる俗説で悪しざまに云う者が絶えないが、エエ加減にせよと怒鳴りたい。こういう政治家の登場は戦後日本の僥倖であった。角栄を評する際には、かく視座を据えるべきである。

 となると、日共、立花隆式の「角栄金権政治論」、「諸悪の元凶角栄論」とは一体何だったのだろうか。そのデタラメぶりが次から次へと明らかになりつつある。日共は、これに対する政治責任を自問自答することなく、つまり一片の自己批判なきまま、今日も正義の人として角栄の一番弟子・小沢どん排撃に向かっている。れんだいこ的には満腔の義憤を覚えずにはいられない。日共、立花隆式の口車に乗って、角栄を悪しざまに評すことで己の正義を語っている者は今からでも遅くない、本稿で認識を改めよ。日本政治史上の至宝とも云える田中角栄を失脚させた頃から日本の転落が始まった。その挙げ句が今日の惨状である。このことを深く知ってほしい。

 思えば、角栄は、日本政治史上に己の生きざま、履歴、日本列島改造論、演説、答弁と云う貴重な証人を遺していることになる。国際ユダヤの系類が束になって何百万言費やして角栄を罵り葬ろうとも、この証人を消せやしない。証人が自らことごとく払いのけ、角栄の真実を語り続けている。心ある者、聞く耳を持つ者はじっくりと読み耽り味わうが良かろう。みんなで手分けして角栄の見直しに向かおう。

 jinsei/


れんだいこのカンテラ時評№1146  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 6月13日

 原発推進組の歴史大罪をどう処罰すべきか考

 れんだいこは、これまで、「れんだいこの文系頭脳の原発批判論」と題して、何故に原発に手を染めてはならないのか、今や一刻も早く原発から手を引くべきであることを縷々発言した。
   jissen/hansenheiwaco/genshiryokuhatudenco/jicojikenco/2011sanriku/
bunkeizunonogenpatuhihanron.html


 しかしながら、れんだいこの弾劾をよそに時の政治権力は原発再稼働、原発輸出に向かいつつある。世論がこれを許容しつつある。堪らず、れんだいこが再度告発しておく。同じ論調では意味がないので、これでも分からんかと別角度から論じてみることにする。「国際ユダヤの悪徳商法そのものとしての原発利権を弾劾せよ」でも動じない連中相手には次のように云うしかない。

 原発推進者は歴史大罪者である。故に、政治が真っ当なものであれば、そういう者は即刻引き立てられ、昔なら即死刑、今なら歴史法廷に立たされるべきである。今は世の中が狂っているので、歴史大罪者を告発する者が逆に逮捕されたり冷や飯食わされ続けている。この不正を一日も早く正常なものにせねばならない。

 考えてもみよ。人を一人殺せば最高刑として死刑まで用意されているのが刑法である。人を複数殺せば、その数が増すに応じて死刑判決の可能性が強くなる。それを思えば、原発犯罪は人を数十万人以上死に追い込み、人を郷土の土地ところに住めなくし、国費を数十兆円、数百兆円注ぎ込ませ、なお且つ先が見えないと云う正真正銘の歴史大罪を犯しているのだから、死刑でも物足りないのは当たり前のことである。いかなる極刑をもって遇するべきか。

 それをどう狂ってか、そういう死刑必至者が依然として日本政治をままにしている。福島原発対策ままならぬ中で再稼働論を唱え、こたびは原発輸出に精出している。安倍首相の愚挙であるが、多くの国会議員が後押ししている。れんだいこは、これほどの不正はかって史上に存在しないと考える。

 世間では山口組を広域暴力団云々する向きがあるが、原発組こそ正真正銘の広域歴史犯罪団ではないのか。本来なら、せめて蟄居が当然のところ、連中は意気ますます軒昂にして反原発、脱原発征討戦に乗り出している。これが現実の実際である。この対抗関係において、原発推進組の蛮勇をいつまでのさばらせていて良いのかが我々に問われている。かく設問すべきではないのか。

 思えば、我々が慣らされてきた戦後民主主義は、この歴史犯罪に対して何の効能もないことがはっきりしてきた。戦後民主主義は、普通選挙による代議士制を通じて、国権の最高権力である国会で与野党が丁々発止のやり取りをしながら国政を担っていくのを理想としているが、与野党ともどもが「或る政治勢力」に飼い馴らされ、国会とても一見の対立を演出しながら「裏で決められた通りのもの」を形式上審議するだけの機関に過ぎないことがはっきりしてきている。

 最近では代議士制始発の選挙不正も目立ち始めており、先の衆院選では堂々たる開票操作が行われていた形跡がある。これを否定するのなら、疑惑の選挙区の再開票をして確認すれば良いところ、選管がそういう采配をした例を知らない。選管の表の役目はともかく裏のそれは、不正選挙を見逃し再開票確認させないために飼われていると思った方が良い。そもそも先の衆院選の投票用紙が厳重に保管されているのかどうかさえ分からない。不当に不利益を受けたとみなされる側からの再開票確認請求の動きもない。共にオカシな話しではなかろうか。

 もとへ。そういう下劣な政治の質であることを前提として、本来なら即刻逮捕、死刑必至の歴史犯罪者である原発推進者が依然として権勢を振るっている。戦後民主主義がこれに対して何の効果もないことにつき既に述べた。今や、即刻逮捕、死刑必至の歴史犯罪者である原発推進者をどのように芋づる式にお縄につけるのか、逆にこちらがつけられるのかを廻って、もっと真剣に戦うべきときではなかろうか。

 安倍首相の原発輸出政策は、来る相手国側からの損害賠償攻勢を考えるとき、許容できる話しではない。安倍及びその一族郎党、電力会社重役が私財を擲(なげう)って済む話しでもない。従軍慰安婦問題で詫びを入れさせられるより数万倍重責の話しである。従軍慰安婦問題で正義ぶる連中が、原発再稼働、原発輸出に批判のトーンを弱めるなど許されることではない。

 こういうことが云いたかったのだけれども、共認いただけるだろうか。もはや議論の段階でもないような気がする。歴史大罪者の悪事をどのようにして成敗するのかの実践的な課題と向き合ってもっと真剣に決着つけねばならないのではなかろうか。時代が必要としている処方箋を生み出さない社会は壊死させられる。れんだいこは、これを憂う。

 jinsei/


れんだいこのカンテラ時評№1147  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 6月18日

  現代マスコミの受難者イエス迫害煽り考

 表題の「現代マスコミの受難者イエス迫害煽り考」とは変な云いである。それは承知で命名している。真意は、現代マスコミをタイムスルーさせ、受難者イエス迫害時に立ち合わせれば如何なる煽りをしているか愚考してみたいと云うところにある。

 周知のように、受難者イエスは紀元30年頃、エルサレム市外のゴルゴタの丘で十字架に磔(はりつけ)された。問題は、イエスが逮捕拘束されて以来いきなり処刑されたのではないことにある。この間、イエス逮捕せよ派の「祭司長、長老、律法学者及び会衆」(以下、「パリサイ派」と記す)とローマ帝国ユダヤ総督・ピラトとの間で、イエスの処遇を廻って歴史的なやりとりが為されている。本稿は、これを確認するのではない。この時、現代マスコミが居合わせたならば、どういう論調を逞しゅうするのだろうかと問い、これを詮索するところにある。

 「イエスの処遇論」のあらましの経緯はれんだいこサイト「イエスの概要履歴その4、拘束から処刑されるまで」に記す。
 (jesukyo/yesden/rireki4.htm

 それによれば、「パリサイ派」がイエスを拘束し身柄をピラトに引き渡し、イエスの罪状をいろいろと告げ処刑するよう訴えた。ローマ帝国の支配下のユダヤ自治では裁判で判決を出すことまではできるが、罪人を処刑する権利が与えられていなかった為である。これに対し、ピラトは、「ユダヤ人問題のことはユダヤ人間で解決するが良い。宗教問題には我関せず」とした。ここに現代マスコミが登場すれば、「裁けないユダヤ人に代わってピラトが裁くのが筋である」と煽ったことは想像に難くない。かくてピラトがイエスを尋問したが、「私はあの男に何の罪も見いだせない」との見解を表明することとなった。ここに現代マスコミが登場すれば、ピラトのユダヤ総督能力を問い断固処罰論の健筆を振るったことは想像に難くない。

 困ったピラトは、イエスがガリラヤ人であることを確かめ(ここは注意を要する。イエスはユダヤ人ではなく正確にはガリラヤ人とされている)、そうであるならガリラヤはヘロデ王の支配下である以上、ヘロデ王アンティパスが裁くのが筋であるとしてイエスをアンティパスの元に送った。アンティパスが尋問したがイエスの容疑は明らかにならなかった。結局、イエスを裁く確たる理由を見いだせぬままピラトに送り返した。ピラトが再尋問した。「お前を釈放する権限も十字架につける権限も私にある。これが最後の機会である。弁ぜてみよ」。これに対し、イエスは次のように答えている。「私に権限を及ぼすことができる者は神のみである。あなたは私に対する何の権限もない。しかし、あなたよりも私をあなたに引き渡した者の罪がもっと重い」。これによれば、イエスは的確にもピラトの背後の「パリサイ派」こそ悪事の張本人と認識していたことになる。

 ピラトは、「パリサイ派」を呼び集めて言った。「私はあなたたちの前で取り調べたが、この男には訴えられているような犯罪は何も見つからなかった。ヘロデとて同様であった。この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから鞭で懲らしめて釈放する」。これに対して、「パリサイ派」が猛然と抗議し始めた。

 ここに現代マスコミが登場するとしよう。どういう論調を逞しゅうするのだろうかが問いである。恐らく諸悪の元凶論、治安悪化黒幕論を唱え、「断固十字架に磔にすべきである」なる速やかなるイエス極刑論を奏でるに違いない。そういうことがなぜ分かるのか。それは、ロッキード事件の際の田中角栄追討論、小沢キード事件の際の小沢一郎追討論から容易に想像できるからである。時代は違えど、連中の弁はいつの世も同じである。

 現代マスコミのこのジャーナル精神の親パリサイ派性、より正確には親ネオシオニズム性こそ注目に値しよう。イエス冤罪論、イエス無罪論を唱えるジャーナルがあってもオカシクはないのだが掻き消される。なんとならば、シオン長老の議定書によればマスコミは昔より言論大砲と位置づけられており、この系の言論こそが支配的であるからである。連中は、ある国のある政権が反ネオシオニズムである場合、民主主義論、革命正義論で批判を逞しゅうする。その後、親ネオシオニズム政権が樹立された途端に御用化する。その政権が独裁強権政治色を強めようとも擁護する。共通しているのは親ネオシオニズムであり、この物差しこそが全ての基準になる。こう捉えれば、手のひら返しの論調の不思議が容易に解ける。

 人民大衆が、かっての反ネオシオニズム政権と現下の親ネオシオニズム政権を比べて、反ネオシオニズム政権政治の方がまだしも良かったと述べようものなら懐古趣味、封建政治擁護論と罵る。例の先進国論&後進国論を持ち出し様々な説教を聞かせてくれる。れんだいこなぞは、これほどイカサマなジャーナルなぞあって堪るかと思うのだが、これがネオシオニズムの牛耳るマスコミの生態である。マスコミのこの本質を凝視しない限り、まともなジャーナルが生まれるべくもない。

 よって結論はこうなる。現代マスコミに巣食うネオシオニズム派を一掃し、論調の回天的再生を図らずんばまともなジャーナルは望むべくもない。連中の弁はもう食傷であり飽き過ぎた。本当のジャーナルのみ御法度で後はオール自由なる言論なぞどうでも良い。そろそろ本来の論調で啓発してくれないと時代が狭苦しくてどうならん。親ネオシオニズム政権が我が世の春をする時、これに批判の舌峰を鋭くするジャーナルが登場しない限り時代が病んでしまう。これを思うとき、「元一日」の「受難者イエス処刑時の論調精査考」が役立つ。本来のジャーナルは、かの時、どう言論すべきだったのだろうか。こう問いかけたいと思う。

jinsei/


れんだいこのカンテラ時評№1148  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 7月 1日

 「平仮名いろは歌土器」考その1

 2013.6.27日、京都市埋蔵文化財研究所が、「平仮名いろは歌土器」に関する画期的発表をした。それによると、1983(昭和53)年、平安京にあった平安貴族藤原氏の邸宅「堀河院」(京都市中京区、太政大臣藤原基経がつくったとされる大邸宅)邸跡の井戸から出土した土器の裏側に、「平仮名いろは歌」のほぼ全文が墨書されていたことが分かった。土器は12世紀末~13世紀初め(平安末期~鎌倉初期)のものと見られている。

 過去に、三重県の斎宮跡で、平安時代後期の11世紀末から12世紀前半の作と推定されている「平仮名いろは歌土器」が9文字ほど書かれた土器の破片が見つかっている。「堀河院出土の平仮名いろは歌土器」がほぼ全文が判読できるものとして国内最古のものとなった。

 土器は詳しく調査しないまま保存されていたが、昨年、西約1キロにある藤原良相(よしみ)邸跡から出土した土器に国内最古級の平仮名が書かれているのが確認され、同研究所が平安京の出土品の写真データベース約9万点を再調査して分かった。大きさは直径9センチ、高さ1・5センチの土師器(はじき)の小皿で、裏側にいろは歌が書かれていた。47文字中10文字は判読困難で、4文字は欠損している。「いろは……」と書き始めたが、徐々に余白がなくなって最後の行は右端に戻って書いている云々。

 この「平仮名いろは歌土器」が何故に如何に重要なのか、これを愚考する。ちなみに、「いろは歌」とは、「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為(うゐ)の奥山 今日(けふ)越えて 浅き夢見じ 酔(ゑ)ひもせず」で知られている。れんだいこは、ここでも新観点を披歴しようと思う。「うゐの奥山」の「うゐ」は「有為」ではなく「憂い」と当てるべきで、「憂いの奥山」と解するのが正解ではないかと思っている。何故に意味不明の「有為」にするのかが分からない。

 もとへ。この発見が如何に重要であるのか。「いろは歌」そのものは、1079(承暦3)年の「金光明最勝王経音義(こんこうみょうさいしょうおうぎょうおんぎ)」で確認できる。その書物は現在、大東急記念文庫が所有しているとのことだが、万葉仮名で書かれている。こたびの発見は、平仮名で書かれている「いろは歌」の全文が確認できたところにある。この問題は、「いろは歌」の作者考、平仮名の発生考、そのそれぞれの発生時期考の三方面から興味が湧く。

 「いろは歌」の作者考、「いろは歌」の発生時期考は別の機会に論ずることにする。一説には、余りにもよく出来た歌であることから空海(774年-8355年)の作とされているが、柿本人麻呂の作だとする説もある。「いろは歌」の発生時期は平安初期の頃とされているが正確には分からない。

 ここでは、平仮名の発生考をしておくことにする。日本語に於ける平仮名はどういうルーツで生まれたものだろうかの問いである。誰か解けるだろうか。れんだいこの解は、実は相当に古いとみなしている。但し時期は分からない。作者も分からない。確認すべきは、平仮名とカタカナの由来を同時並行的にせねばならないのではなかろうかと思っている。

 カタカナの由来については平仮名の由来より少し明らかなことがある。つまり、カタカナはカタカムナ文字、ホツマ文字に起源を発しているらしいことが分かっている。通説は漢字の崩しからばかりに由来を見るが疑問である。漢字の崩しからカタカナが生まれた面もあろうが、カタカムナ文字、ホツマ文字からの由来をも見るのが執るべき態度のように思っている。実際には、漢字崩し、カタカムナ文字、ホツマ文字崩しの総合アンサンブルで生まれている可能性が高い。これの論証は別の機会に譲る。

 さて、平仮名は漢字の崩しからのみ生まれたのだろうか。そういう問いかけが起こる。れんだいこの研究はできていないが、カタカナがカタカムナ文字、ホツマ文字に起源を持つのに似て、平仮名も同様の影響があるのではなかろうかと思っている。そういう意味では、日本古代史上の有為なことは何でもインド、中国、朝鮮に起源を訪ね、日本近代史上の有為なことは何でも西欧に起源を求めようとする学的態度に反対である。日本のそれまでの固有の自生的なものをベースに外来ものとの練り合わせで生まれたとするのが正しい態度ではなかろうかと思っている。個別的にはいろいろあろうが概ねそうではなかろうかと思っている。

jinsei/


れんだいこのカンテラ時評№1149  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 7月 2日

「平仮名いろは歌土器」考その2

 日本語上の平仮名、カタカナの発明の世界史性がどのようなものであるのか、これに関する逸話を確認しておく。時は1972(昭和47).9.27日、日中国交回復交渉時の毛沢東&田中角栄の日中最高首脳部会談の一幕で、毛沢東が次のように述べている。「いろは、アイウエオ、平仮名とカタカナを創り出した日本民族は偉大な民族です。今日本語の勉強をしています。日本に留学したいと思っているのですよ」。

 これに対し、大平外相が、「では、私たちはどうやってあなたの世話をしたらいいのですか。難しいですよ。やはり他の国に留学してください」と茶化し、毛主席曰く、「大平先生は友好的でないですね」と応えた云々。会談時の友好ムードが伝わる逸話であるが、れんだいこは、「いろは、アイウエオ、平仮名とカタカナを創り出した日本民族は偉大な民族です」の言に注目している。毛主席さすがの慧眼の言ではなかろうかと思っている。

 れんだいこが思うに、日本語は独り日本のみならず人類が生み出した世界に冠たるスーパー功労賞もの言語なのではなかろうか。今後に於いて、国際公用語として英語が普及するのは構わない。だがしかし日本語もまた第二国際公用語として使われていくべきではなかろうか。それに値する世界最高傑作芸術言語足り得ているのではなかろうか。日本語はその他の技芸同様に独り日本のみならず世界に普及していくべき能力を持っているのではなかろうかと思っている。

 その言語の「元一日」が大和王朝以前に確立していたことは疑いない。れんだいこの「原日本論新日本論」に照らせば、原日本時代の出雲王朝の御世に於いて獲得されていたと推理している。これ一事をもってしても出雲王朝御世の素晴らしさが分かろう。ここではそれを問わない。

 ここで問うのは、日本語の根幹を規定している「48音」の由来である。一体、日本人は、どのようにして「48音」を獲得したのだろうか。世界の言語がそれぞれ何音で構成されているのか知らないが、日本語同様の「48音」を持っている言語は他にあるのだろうか。恐らくなかろう。それはこの際どうでも良い。見過ごせないのは、日本語の「48音」が「あいうえお」の母音系5列と「あかさたなはまやらわ」の子音系10列+「ん」から成り立つ規則正しい関係構造を見せていることである。この知恵がどこから生まれ、どのようにして獲得されたのか誰もわからない。分かっているのは、ここに現にそのような日本語があるということである。

 以下は宮地正典氏の「人類文明の秘宝 新説ホツマツタエ」に教示いただいたのだが、「日本語48音」が不思議なことに「元素の周期律表」と親和していると云う。「元素の周期律表」とは、1871年、ロシアの化学者メンデレーエフ博士(1834-1907年)が、宇宙に存在する物質は元素で作られているとして、その元素の性質を原子量に従って並べて行き、8個の元素が一回りの転移となるという発見を元に作り上げたものである。この周期律表は今日でもなお最も重要な科学原則として通用している。

 驚くべきは、「メンデレーエフの元素の周期律表」の両端を繋いで円図にすれば、日本語原語のホツマ文字の「ふとまにの図」になると云う。これを逆に云うと、「ふとまにの図」は「メンデレーエフの元素の周期律表」を先取りしていたことになる。即ち、日本語原語のホツマ48文字が、48原子と対応していたことになる。即ち日本語が原子の周期律構造に対応した言語となっていると云う。ホツマ伝えは、その「言語の周期律表」を下に宇宙の真理に至る正道として「八の決まり」に基づく「あめなるみち(天成る道)」を説いている。ここに日本語の不思議が見られる云々。

 このことに驚くのは、れんだいこだけだろうか。そう云えば相撲の48手、性交体位の48手も何やら示唆的である。昔から48と云う数字が意識されていたことになる。夫婦の「阿吽の呼吸」も然りで、正確には「あうんの呼吸」と平仮名表記されるべきであろう。「あうんの呼吸」とは「あ」から「ん」までの息遣いを指しているのではなかろうかと思われる。

 今、気になって「阿吽の呼吸」を辞書検索すると、「阿」は口を開いて発音することから「吐く息」という意味で、「吽」は口を閉じて発音することから「吸う息」という意味。それを合わせることを「阿吽の呼吸」と云うとある。この説明は良いとして、続いて「阿」はサンスクリットの十二母音の最初の音で、「吽」は最後の音であることから、密教では「万物の根源」の象徴とされており、神社や社殿前にある狛犬の一対は、一方が口を開けた「阿形」、もう一方が口を閉じた「吽形」で、「阿吽」を表している云々とある。それもそうなのだろうが、日本語上の「あ」から「ん」までの50音の息遣いが合っているサマを表現していると受け止めても良いのではなかろうか。これによれば、何でも漢字表記したり外国知識に由来を求めて得心するのは愚の骨頂と云うことになる。

 さらに言えば、日本語の母語とも云うべきカタカムナ文字、ホツマ文字は哲理的図象文字で獲得されている。その48図象文字が一字ずつまことに味わい深い。時間があれば研究してみたいと思っているが、なかなかその時間が作り出せない。

 もとへ。我らが祖先は、漢字渡来期に、日本固有の哲理的図象文字と漢字を比べて偉大なる格闘をしたと思われる。その結果、大胆なる決断で文字としては哲理的図象文字を捨て漢字に切り替えた。これが万葉仮名と云われるものである。但し、文字は捨てたが言葉は捨てなかった。これが大和言葉と云われるものである。

 これにより漢字は大和言葉に宛(あて)がう形で使われることになった。これを訓読みと云う。漢字の発音通りに使うのを音読みと云う。但し、音読みにせよ訓読みにせよ日本語構文の中で使い切っているところに日本語の才と冴えを見て取れる。俗にこれを咀嚼するという。

 この時代の相当期間を経て万葉仮名時代に終わりを告げることになる。それが平仮名、カタカナの発明時期に即応している。こうして文字としての日本語は平仮名、カタカナ、漢字との混交文を生み出していく。この営為を毛沢東が絶賛したのは既に述べた通りである。

 以上、日本語の素晴らしさの一端が分かってくれたなら本稿の願い叶ったりである。(この後、その3に続く)

jinsei/


れんだいこのカンテラ時評№1150  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 7月 4日

「平仮名いろは歌土器」考その3

 こういう日本語には他の言語ではマネのできない芸当がある。それが和歌である。和歌は日本語特有のもので、日本語が汲み出されたところの哲理的な言語リズムに乗って作られる。古事記、日本書紀以前の歴史書として評価されるべき「ホツマ伝え」は全文が「五、七調」、「五、七、七調」のホツマ図象文字で表記されている。

 和歌はこれより発していると思われるが、やがて五、七、五、七、七の31文字を正調とするようになる。この31文字は古代太陰暦の1ヶ月の日数と関係している。これは偶然ではないように思われる。してみれば、和歌とは、宇宙のリズムから汲み出されている日本語を、そのリズムそのままに日本語的に表現する歌と云うことになる。そういう意味で、和歌は日本語に不即不離であり、日本語の生命そのものと云える。

 これにより日本語言霊(ことだま)論が生まれる。即ち、日本語の言葉自体が宇宙、自然の摂理から汲み出されており、それ故に宇宙、自然に神が宿っている以上、それと通底して生み出されている日本語にも神が宿ると云うことになる。これが言霊論の論拠である。

 留意すべきは、ここで云う神はユダヤ-キリスト教的な一神教的な創造主ではない。ユダヤ-キリスト教的な意味での被創造主の中に既に神が宿っている、しかもそれぞれに神が宿っているとする汎神論的なものである。神のこのような性格既定の差が文明の差となって表れていると云う意味で重要であるが、ここでは問わない。

 もとへ。西欧文明に悪しく汚染される以前の日本に於いては和歌の嗜みこそ知識人の証しであった。知識人は和歌を通して自然の摂理を聞き分けていた。この聞き分けが知識人の教養であり、この態度こそが日本的な学的素養であった。これが日本語の、ひいては日本精神の伝統である。外国人が日本語の魅力を語るとき、日本語のこういう深さに対する畏敬が込められている。当の日本人がそれを忘れさせられているのは嘆かわしい敗戦国現象と云わねばなるまい。

 ちなみに史書に於ける和歌の登場は、出雲神話におけるスサノウの命の「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を」が初見のようである。以下続々と史的和歌が登場することになる。出雲王朝の御世に於いて為政者の能力証明として和歌が磨きに磨かれ、その伝統が大和王朝の御世に於いても継承されたことは疑いないように思われる。あるいは、大和王朝の御世に於いて出雲王朝の御世を恋するように歌われたことが疑いないように思われる。

 和歌集としては、日本最古のものとして万葉集、勅撰和歌集として古今和歌集、新古今和歌集などがある。他にも小倉百人一首などのように個人が撰出した和歌集(私撰集)もある。これら及び諺(ことわざ)、格言、名言、逸話に習熟しておくのが日本的知識人としての素養であった。これが日本人の心の琴線を為している。恥ずかしながら、れんだいこはその教養を浴びていない。今頃になって関心を増しつつあるが時すでに遅しと云うべきか生きているうちなら気がつけばまだ良い方と思い直すべきか。

 この和歌をやや短く「五、七、五」に短型にしたものが短歌であり、同じ形式で歌う内容をさらに哲理的に歌うのが俳句であり、社会風刺的にしたものが川柳である。他にも狂歌、都都逸(どどいつ)がある。専門的には別の表現があるだろうが、れんだいこはかく理解している。

 中でも傑作は「いろは歌」である。日本語48音全てを1音たりとも漏れることなく重なることなく一度使用することによる名歌創出と云う離れ業(わざ)の歌である。その最高傑作が「いろは歌」であろう。既述したが「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 憂(う)ゐの奥山 今日(けふ)越えて 浅き夢見じ 酔(ゑ)ひもせず」は何たる秀逸作であろうか。

 「回し歌」も傑作である。頭から読んでも尾から読んでも同じ読みにさせ、なおか且つ和歌に仕上げねばならないという決まりの歌である。「ホツマ伝え」には、和歌姫の「紀志伊こそ 妻を身際に 琴の音の 床には君を 待つそ恋しき」。その返歌としての「長き夜の 遠(とお)の眠りの 皆な目覚め 波乗(の)り船の 音の良きかな」が載せられている。

 更なる傑作として連歌がある。多人数による連作形式で歌をつなげながら読む歌である。他にも駄洒落(だじゃれ)歌がある。駄洒落とは同じあるいは非常に似通った音を持つ言葉を掛けて創作する歌である。河内音頭のような音頭歌もある。全て節回しのリズムがバネになっている。民謡然りであろう。

 これらには相当高度な言語能力が問われている。これをまじめにあるいは言葉遊びとして楽しんできた日本人の言語能力は称賛されるべきではなかろうか。同時に考えてみなければならないことは、こういう芸当ができる言語が日本語を除いて他にあるのだろうかと云うことである。先に日本語は独り日本のみならず人類が生み出した世界に冠たるスーパー功労賞もの世界最高傑作芸術言語と述べたが、まことにその通りなのではなかろうか。

 こういう日本語を誇りにして大事にすることこそ政治の肝要であるのに、瑣末に扱う昨今の政治は日本政治ではない。日本語を粗末に扱うような政治は外国勢力のエージェント特有の売国精神故にもたらされているとしか考えられない。そういう連中が口先で幾ら愛国を云おうとも、それは云えば云うほどイチジクの葉でしかなかろう。そういう意味で極めつきの売国政治に勤しんだ中曽根、小泉が首相としての靖国神社公式参拝で悶着起こしたのは偶然ではなかろう。その愛国振りの裏で何たる売国政治に耽ってきたことか。そういう者がよりによって名宰相と称され、真に愛国的であった角栄が諸悪の元凶呼ばわりされたまま歴史が経過している。どこかで歴史評価の振り子を戻さねばなるまい。

 最後に、最近の英語教育の早期化政治に一言しておく。英語教育の早期化自体が悪いのではない。これに並行して母国語としての日本語教育が粗末にされることに問題がある。これは子供教育だけの話しではない。最近では企業の社内言語に日本国内に於いてさえ英語を強制する傾向が出始めている。基本的には勝手であろうが、日本語が世界に冠たる最優秀言語であることを思えば、それを軽視する精神がさもしい。日本語能力に粗末な者が英語になると言語能力を増すことはない。実際には逆で日本語能力を磨きに磨くことが外国語習得の近道になる。これを思えば、日本国内に於ける英語強制を自慢する経営者および取り巻き役員はよほどお調子者と云うことになろう。こういう愚行が流行りつつある風潮を危ぶみたい。

jinsei/


れんだいこのカンテラ時評№1151  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 7月 4日

 第23回参院選挙に対するたすけあい党声明

 2010.7.4日、第23回参院選挙が公示され、投票日が7.21日と決まった。17日間の選挙戦となり即日開票される。改選される選挙区73、比例代表(非拘束名簿式比例代表制)48の計121議席を争う。1票の格差を是正する公職選挙法の改正に伴い、神奈川、大阪の改選定数が3から4に増え、福島、岐阜は2から1に減った。

 選挙区に271人、比例代表に前回と同じ12政党・政治団体の162人の計433人が立候補を届け出た。前回2010年参院選の立候補者数は計437人(選挙区選251人、比例選186人)。女性の候補者は選挙区71、比例代表34で計105名。前回より5人多い。

 主要政党の公認候補は自民党が最多で78(←84)。以下、共産党63、民主党55(←106)、日本維新の会44、みんなの党34、公明党21、生活の党11、社民党9、みどりの風8の順。新党改革は候補を立てなかった。比例を含む全体の改選121議席に対する競争率は3.6倍。

 自公両党の非改選議席は59議席で、両党が参院で過半数を得るには63議席以上を獲得する必要がある。憲法改正派の議席増により憲法改正発議に必要な3分の2(162議席)に届くかどうかも注目されている。事前予想では70議席が堅いとされている。今回の参院選からインターネットを使った選挙運動が解禁されている。

 以下、「第22回参院選挙に対するたすけあい党声明」を党首権限で発表しておく。

 こたびの選挙は昨年の衆院選以来の国政選挙で、その衆院選で元の木阿弥の自公政権に戻ったことを受けての初の選挙となる。本来であれば民主の巻き返しが問われるところであるが、同党は既に首を切られたニワトリがしばしさまようだけの状態にあり、惨敗すれば解党の危機を迎えることになる。

 こたびの選挙戦は自公が盤石の衆院に続いて参院でも絶対安定多数を得る政治儀式の感がある。3年3か月の民主党政権幻滅の反動の為せるワザである。鳩山-菅-野田政権の罪の深さが分かる。

 民主が当てにならない以上、その民主から分党した政権交代前のマニュフェスト推進派の生活党への期待が大きくなるべきはずのところであるが、生活党も昨年の衆院選敗北後遺症が続いており、そういう意味で再々度政権交代勢力の圧倒的不在と云う中での貧相な選挙戦となっている。これにより投票率の極端な低下が心配される。

 投票率の低下要因として有権者の政治的関心能力の低下も挙げられようが、それは主たるものではない。主たる要因は、昨年の衆院選で露わになったムサシマシーンによる投開票不正疑惑である。この告発をどの党も為すことなく、こたびの国政選挙となっている。一敗地にまみれた生活党には告発する資格があると思われるが、粛々と結果を受け入れたまま今日まで経過している。これにより、事前に細工された票数で当選者が決まるという味気ない選挙になる可能性を残したままになっている。

 参院選は衆院選とは違い政治闘争的には第二議院であること、先の衆院選での自公の圧倒的な勝利により政権基盤の安定性が強いこと、先の衆院選の不正疑惑の目が強く注がれていると等の理由により、こたびの選挙では露骨な不正選挙は考えにくいが、ムサシマシーン問題不問状態が選挙そのものへの関心を大きく殺いでいることには変わりはない。

 以上を共通認識として、以下、れんだいこ及びたすけあい党の参院選投票指針を愚考してみる。

 1、生活党の勝利に貢献する。生活党が候補者を立てた選挙区の有権者に於いては獅子奮迅の奮闘をせねばならない。近くの者は手弁当で応援するのが良い。生活党は目下の日本政治の希望の星であり、この希望の星を絶やしてはならない。反動どもがよってたかって抑圧するであろうが、それを目の当たりにするのも政治的経験である。ここはひとつ踏ん張って次の戦いへの橋頭保とせねばならない。

 2、生活党の候補者が不在の場合、不正選挙抗議の意思を示すために投票に行かない選択もある。れんだいこはそのつもりでいたが、至らないながらもけな気に頑張っている姿に涙し行くことに決めた。生活党が何故に不正選挙告発をしなかったのかについては追って確認するつもりである。敗戦の恨み節ととらえられるのを避けたのであれば行儀が良過ぎる。選挙の公正は民主主義の第一歩であり、日本における民主主義能力涵養の為にゆるがせにしてはならないと考える。

 3、生活党を除くその他政党は全て国際ユダヤに飼われており政治遊びしているに過ぎない駄党、駄議員でしかない。とはいえ選挙に行けば誰かに投票せねばならないので、その際の基準を考える。これは、いわゆるハト派タカ派でふるい分けすればよい。このハト派タカ派は平和的好戦的の指標ではない。今どきにおいては、国際ユダヤに対する忠勤度の強弱で測ればよい。この度の強い候補者を忌避する。

 リトマス試験紙は原発稼働、TPP推進、消費税増税の3本柱に対する態度である。相対的に日本の在地土着系政治家と思われる候補者を選択すれば良い。適当な候補者がいないときには、選挙区の場合には田中角栄と書けば良い。一体全体、田中角栄票が全国津々浦々で何票出るのか見ものだろう。恐らくムサシマシーンはカウントしないように単なる無効票にするだろうが。

 4、既に何度も指摘しているが、選挙は現代の政治祭りである。祭りには参加せねばならない。祭りには酔わねばならない。楽しまねばならない。これが日本の昔からのしきたりであり守るに値する伝統である。どう関わるのかは各自で対応すればよかろう。こたびは甚だ簡単なものとなったが、貧相な選挙戦であるので致し方ない。

 2013.7.4日 たすけあい党党首声明 れんだいこ拝

jinsei/


れんだいこのカンテラ時評№1152  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 7月 7日

 れんだいこの生活党支援の論拠考

 2013.7.7日、本日、ふと気づいたことをお伝えしておく。れんだいこが何故に生活党を支持するのか、その論拠が分かった。それは、単に角栄政治の薫陶を受け継ぐ小沢どん擁護のレベルではない。それは、れんだいこ史観の白眉の一つである「原日本論新日本論」に関係する。

 「原日本論新日本論」とは、はるか昔の紀元3世紀頃の日本古代史上の最大政変即ち大和朝廷創出期に於ける動乱で、それまでの治世の主体者であった出雲王朝-邪馬台国系の原日本が、外来系の新日本勢力により奪権されたことにより、それまでの原日本とその後の新日本が同じ日本ながら大きく質を変えていることを云う。

 従来、これを縄文的なるものと弥生的なるもの論で説き明かす政論もあるが、出雲王朝-邪馬台国系の御世は既に弥生時代であるので、こういう政論では曖昧過ぎる。せいぜい文化評論域のものにとどまる。はっきりと大和朝廷創出前と後の日本の質差として理解する方が正確であろう。

 今日に於いて世界が称賛する日本論、世界が嘲笑する日本論は、「原日本論新日本論」プリズムを通せば容易く理解できる。即ち、世界が称賛する日本論とは万(よるづ)に於いて原日本時代の日本であり、世界が嘲笑する日本論とは万(よるづ)に於いて新日本時代の日本である。こう理解することで辻褄が合う。

 やや複雑になるが、新日本後の日本は、この原日本と新日本との確執と協調、抗争と手打ちによって綾なされていくので、新日本後の日本の中の原日本的なるものと新日本的なるものを見極めつつ判定せねばならないことになる。概ね原日本系のものが素晴らしく、新日本系のものがお粗末と受け止めればよい。この見立ては政治だけではない。経済、文化、芸能、思想、宗教のあらゆる領域にわたって適用できる。

 さて、この「原日本論新日本論」プリズムで今日の政界を政論すれば次のことに気づく。何と、こたびの参院選に登場する約12党のうち原日本系の政党が生活党ないしその系譜の党であり、その余の政党は全て新日本系のものである。恐らく生活党でさえ、このことに無自覚なまま党活動しているのであろうが実はそういうことである。生活党に根強い支持があり且つ根強いバッシングがあるのは、これにより解ける。

 してみれば、新日本系の自民党から共産党までの諸党の争いは同じコップの中の仲間内の政争であり、単に与党と野党の権力闘争、あるいは役割分担差の論争でしかない。つまり本質的にお遊びのものでしかない。そういうものに喧々諤々できる者は幸せ者であろう。ところが、生活党とその他諸党との闘争は本質的なもので、根本的には政権交代を視野に入れたヤルかヤラレルかの永続政争としてある。

 れんだいこは原日本系の日本を支持している。世には新日本系の日本を支持している者もあろう。これは見識差と云うよりDNA差かも知れぬ。そうではあるが、両者を混在せしめ相互に抗争と協調を育んできたのが日本史であるので大人の知恵的な高等分別で棲み分けすることは可能である。だがしかし、本質的に相容れぬ両者であるという関係性は消せない。

 これを踏まえて論ずれば、12諸政党のうち唯一の原日本系の生活党には何としてでも政界に基盤を保持し続けてもらわねば困る。なんとなれば、新日本系の粗脳政治が国際最強勢力のいわゆる国際ユダヤに手玉に取られ、その対日教書通りの請負政治により勤しむことで覇権を競い、今日に於いては「原発再稼働、TPP、増税と云う売国三点セット」による日本溶解に与しているからである。これほど無茶苦茶な酷い政治はないのだが、麻薬中毒患者的な暴走政治に向けて狂い咲きしている。

 社民党、共産党がこれに反対の弁を述べてはいるが、体制から見れば不満の吐け口としてむしろ安全弁作用させられているものでしかない。彼らの正体は、原日本系の生活党に対する咬ませ犬と云う役割にこそある。そういう目で見ればよい。僅かの生活党候補、その中でも指導的候補に対する必然性のない対立候補押し出しが見えてこよう。

 口では自公政治に反対の弁を述べながら、同じく反対の弁を述べている生活党と組むのではなく逆に成敗に向かうような敵対こそ社共の咬ませ犬的正体である。こう確認せねばならない。指導部がそういう連中に乗っ取られていると云うことである。

 さて、かように理解すれば生活党擁護の必然性が見えてこよう。問題は、我らが投ずる票が選管お気に入り仕立てのムサシマシーンにどうカウントされるのかされないのかにある。とうせ不正にしかカウントされないのであれば、そういう不正選挙拒否の意思としての棄権もある。行くべきか行かざるべきか、これが問題である。れんだいこも自問自答しているが、口惜しくても生活党支援に出向こうと思う。売国派の悪行を歴史に刻まさせるのも一興ではないか。そう思う故に。思いつくまま。

 2013.7.7日 れんだいこ拝

jinsei/


れんだいこのカンテラ時評№1153  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 7月10日

 学んで為になる学問と却ってアホウになる学問に関するゲーテのファウストの一説考

 「学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別考」を思案しているうち、ふと気になるフレーズを思い出した。それはドイツの誇る大文豪ゲーテ((1749~1832))の戯曲「ファウスト」の次の一説である。前置きを除けば「ファウスト」の冒頭のセリフである。岩波文庫の相良守峰氏の訳文を掲げる。

 「あぁ、これで俺は哲学も、法学も、医学も、また要らんことに神学までも、容易ならぬ苦労をして、どん底まで研究してみた。それなのにこの通りだ。可哀そうに俺と云うアホウが。昔よりちっとも利口になっていないじゃないか。マギステルだの、ドクトルとさえ名乗って、もうかれこれ十年ばかりのあいだ、学生の鼻ヅラをひっ掴まえて、上げたり下げたり斜めに横に引き回してはいるが--実は我々に何も知り得るものでないということが分かっている。それを思うと、ほとんどこの心臓が焼けてしまいそうだ。それは俺だって、やれドクトルだ、やれマギステルだ、学生だ坊主だと云うような己(うぬ)惚れた連中よりはましであろう」云々。


 訳者が代われば幾分か訳文も変わろうが、大意として「学問ナンセンス論」の臭いが伝わればよい。これを仮に「ゲーテの学問ナンセンス論メッセージ」と命名する。

 れんだいこは従来、このセリフを学問一般に対する当てこすりと受け流していた。ところが最近、ことはそう単純ではないのではないかと思い始めた。ゲーテがここで述べた「学問ナンセンス論」とは実は学問一般ではなく、ネオシオニズム系学問に対する強烈な批判であり皮肉であると捉えるべきではなかろうか。その方が生き生きとすると思うようになった。

 ゲーテは、本書からも知れるのだが、若い時から晩年に至るまで相当の情熱をもってネオシオニズム系の学問に耽溺している形跡が認められる。恐らくフリーメーソンないしはその近いところで世過ぎ身過ぎをして知識を貪欲に吸収し続けたのではなかろうか。戯曲「ファウスト」全体がフリーメーソン的思想との格闘であることが、このことを教える。

 ゲーテは、これがゲーテの偉大なところであろうが、晩年になってようやくネオシオニズム系学問の虚妄に気づき、そういう人生の総決算として渾身で戯曲「ファウスト」を書き上げ世に遺したのではなかろうか。その思いを象徴的に吐露しているのが先の一文なのではなかろうか。故に冒頭に登場している。この営為は英国の大文豪シェークスピアの労作のそれに似ている。

 つまり、「ゲーテの学問ナンセンス論メッセージ」の真意は、学問一般の当てこすりではなく、ネオシオニズム系学問からの決別の意味をメッセージさせて、わざわざ面白おかしく聞かせているのではなかろうか。かく思える節がある。そういう風に捉えると題名のファウストも意味深である。ファウストを「16世紀に南西ドイツに実在し、医師・錬金術師・占星家として知られた人文学者」と見る説もあるようだが違うと思う。ファウストのドイツ語の意味は「握り拳(こぶし)」であり、「握り拳(こぶし)」は「怒りの鉄拳」的意味に通底している。とすれば、「ファウスト」を「怒りの鉄拳」的心情で書き上げていると受け止めた方が良いのではなかろうか。それでは、ゲーテが何に怒っているのだろうか。それは所詮空疎なネオシオニズム系の学問の道に誘われ、貴重な一生の過半をその研究に費やしたことに対する「自身への不徳的怒り」、そういう学問を仕掛けている者たちに対する「怒りの鉄拳」と云う意味を込めた題名なのではなかろうか。

 こう窺う窺わないは自由であるが、述べたような「れんだいこ的解」も成り立つことを世に示しておきたい。これに関連して世に確認しておきたい。「ファウスト」のこのフレーズがネット検索から容易には出て来ない。「ファウスト」の実質的に冒頭の名句であるからして、本来であれば探すのに骨が折れること自体がオカシイ。これをどう理解すべきか。普通には、このフレーズが隠されていると窺うべきではなかろうか。その理由は、「ゲーテのネオシオニズム系学問ナンセンスメッセージ」が広まることを恐れているからであると思われる。そう思う思わないは水掛け論になるが、れんだいこはそのように理解している。

 ゲーテの死没は1832年であり享年84歳であった。第一部は1808年、第二部はゲーテの死の翌年1883年に発表されている。そうすると、「ゲーテのネオシオニズム系学問ナンセンスメッセージ」は第一部の冒頭文であるからして凡そ60歳頃に書き上げられていることになる。れんだいこも偶然ながら、この年齢頃に同じような思いを得た。ゲーテに教えられたと云うより、れんだいこなりの気づきでゲーテメッセージに気づいたという次第である。

 れんだいこの気づきはこうである。学問は、本来は有益なものであり、世の実践的諸活動に対するカンテラ的意味を持つべきものである。学んで余計にバカになるなどと云うことがあり得てよいわけがない。これを例えれば、弓術に於いて初心者は矢を飛ばすこともできぬのが訓練によって次第に射ることができるようになり、次は的当てに向かい、当初は的から外ればかりしていたのが次第に的の中心に当たるようになる。これが練習効果であり、学問もそのようなものであるべきではないのか。これを囲碁に例えてみる。当初は何を意図して着手しているのか意味不明の手ばかりを打ち、石がごちゃごちゃしているところから始めて次第に意思を持った着手になり、やがてはプロの着手のごとく芸術的な石模様にさえなる。これを上達と云う。本来の学問はこれに似て、上達すればするほど機能的になるべきものではないのか。

 ところが、最近の学問を見よ。と云うか、より正確に言えばネオシオニズム系学問になるのだが、学んで少しも賢くならない。入り口の伽藍は立派そうに見えるが、入り込めば迷路ばかりで、何とか辿り着いたとしても次々と「らっきょうの空(から)」を掴むに過ぎない。挙句の果ては、その空疎をごまかすための二枚舌三枚舌ばかりを鍛えるに過ぎない。

 それが証拠にネオシオニズム系学問に没頭した挙句の大学教授だのシンクタンクの研究員だののツラを見よ。特に原発推進派のヒゲヅラ御用学者には卒倒させられたが、どう見てもインテリの顔ではない。学んだ結果として却ってアホウヅラになっている。こういうことがあり得てよいわけがない。なしてこういうことになるのか。これを愚考せねばならないと思う。

 れんだいこは、ネオシオニズム系学問の空疎性の由来をメッキ理論に求めている。連中の学問から錬金術が発生しているのは偶然ではなく、ネオシオニズム系学問に本質的なものなのではなかろうかと思っている。連中は、自然そのものの宝庫から何か有益なものを見つけて、これを合目的に利用しようとするのではなく、自然を敵視し、自然によく似たものを化学的に作り上げることを得意とする。その理屈の良し悪しの判定は別にして、メッキものは本物には勝てないのが道理である。ネオシオニズム系学問とは、そういうものの発展系のものなのではなかろうか。それが自然と共生するのならともかく、自然を破壊するとき、自然が報復する。そういう意味で、一見生産的であるように思われるが本質的に非生産的なものに過ぎない。これは科学だけのことではない。政治、経済、文化、精神、思想にも通底している。

 れんだいこは今、「学んで却ってアホウになる学問」を対自化させ、「学んで為になる学問」への転換を言い聞かせつつある。学問は本来、知れば知るほど人生を味わい深くさせるものでなければオカシイ。社会に有用的に役立つものでなければオカシイ。その真逆に位置するネオシオニズム系学問はオカシイ。決して尋常ではない。そういうものに耽るべきではない。世代を次いで仕上げるものもあるが何事も寿命の中で相談せねばならない。そういう意味ではネオシオニズム系学問全体が空疎すぎる。そう確信しつつある。このメッセージをどう受け流すのか、駄弁か能弁か、その評定は各自の判断に任せようと思う。

 2013.7.10日 れんだいこ拝

jinsei/


れんだいこのカンテラ時評№1154  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 7月16日

「平仮名いろは歌土器」考その4

 「平仮名いろは歌土器」考で云い忘れていたことがありその4として追加しておく。「日本語には他の言語ではマネのできない芸当がある。それが和歌である」として縷々述べたが、歌のほかにも話芸があり、これについても述べておく。他の言語でも可能なのだろうが、日本語が鍛えに鍛えてきた独特の次のような話芸があることを確認せねばならない。

 その筆頭は落語であろう。小話しから長話しまで演目は二千をくだらない。次に漫才、漫談、講談、浪曲、浪花節、詩吟、民話小話しと続く。これに歌舞伎、能、狂言、文楽、浄瑠璃等の古典芸能の語りも加わる。一体、世界の諸言語の中で、これほど話芸を磨いている言語が他にあるのだろうか。

 世界最古の長編文学として知られる紫式部の源氏物語、同時代の清少納言の随筆は日本の宝である。全編が流暢な大和言葉で書かれている。この大和言葉の過半がその後の日本語から消えており、今では古文学の素養をもってしか読めない。史書はさらに古く古事記、日本書紀、古史古伝がある。それらは他のどの民族のそれに比しても引けを取らない民族の歴史書足り得ているであろう。平家物語、太平記等の軍記物も残されている。これらを思えば、日本語そのものが最初の国宝に値するのではなかろうかとさえ思う。

 2013(平成25).7.16日付けの毎日新聞「余録」が興味深い次のような話しを記している。「その場面を想像すると、思わず頬が緩んだ。今月初…」と題して「今月初め、ブルネイで開かれた東南アジア諸国連合地域フォーラム(ARF)に参加した中国の王毅(おう・き)外相と米国のラッセル国家安全保障会議アジア上級部長が宿泊先で、日本語で立ち話をしたという。知日派の2人は、北朝鮮の核問題などで意見交換したようだ▲ラッセル氏は近く国務次官補に就任する東アジア外交のキーマンだ。大阪・神戸総領事時代に何度か話す機会があったが、日本語のうまさにはいつも感心させられた。一緒に参加した国際シンポジウムでも、日本語での当意即妙(とういそくみょう)の受け答えで聴衆を魅了した▲王氏の日本語能力も負けてはいない。日本大使時代、財界人相手に行った講演を聴いたことがあるが、見事な日本語で中国の立場や日中関係の重要性を訴えていた。あの2人が日本語で話し合ったのなら、細かなニュアンスまでやり取りしたことだろう▲外交官として日本語を身に着けた両人は特別なケースとしても、国際交流基金の昨年の調査によると、海外での日本語学習者は398万人を超え、2009年の調査に比べ9%増えている。国・地域別では、中国が27%増の約105万人で、初めてトップになった」云々。

 れんだいこには実に興味深い話しだ。フォーラムの席で、米中二人の外交官が国際公用語としての英語ではなく日本語で立ち話しをしたと云う。これはどういうことだろうか。日本語に習熟すれば英語よりも「細かなニュアンスまでやり取り」できると云うことではなかろうか。

 次に海外での日本語学習者が増えていることも伝えている。これは、日本の経済力が増す中での現象であれば容易く理解できる。ところが承知のように日本の国際的地位がどんどん低下しつつある中での日本語学習者の増大である。これをどう理解すべきだろうか。れんだいこには、芸術言語としての日本語の魅力が次第に世界で認知されつつあるとしか考えにくい。台湾では日本統治時代に得た日本語が廃れていないとも聞く。

 これらを思えば、当の日本が日本語を粗末にしながら英語国民化へ向かおうとしている折柄、世界が日本語を育てようとしていると云う仮説に辿り着く。滑稽な話しではなかろうか。黒船以来百五十年の間に米欧イズムの捕囚とされた政治家が「バスに乗り遅れるな」として日本語不要論、英語早期教育論をけしかけつつあるが、「バスに乗り遅れている」のは果たしてどちらなのだろうかと考えてみたくなる。

 2013.7.16日 れんだいこ拝

 jinsei/


れんだいこのカンテラ時評№1155  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 7月24日

 第23参院選選挙結果の総評その1

 2013.7.21日、選挙区73と比例区48の121議席を巡って争われた第23回参議院選挙が投開票された。投票率は52・61%で前回2010年の57.92%を5・31ポイント下回った。参院選では1995年の44・52%、1992年の50,72%に次ぐ過去3番目の低さとなった。

 今回からインターネットを使った選挙運動が解禁されたが投票率の向上には結びつかなかったことになる。都道府県別に見ると最高は島根県の60・89%、山形県の60・76%、鳥取県の58・88%と続いた。最低は青森県の46・25%。沖縄県を除く46都道府県で前回を下回り、最も落ち込んだ富山県では14・63ポイント低下した。

 公示翌日の5日から20日までの16日間に期日前投票をした人は総務省の速報値で47都道府県で1294万9982人となり、前回10年参院選の1208万5636人に比べ7・15%増えた。全体の有権者に占める割合は12・36%だった。参院選で期日前投票が始まった04年以降、増加が続いている。

 選挙結果の総評は、「与党系の自民大勝、公明堅調、みんな躍進、維新善戦、中間系の民主惨敗、野党系の共産躍進、社民鉄槌、小沢系の生活、みどりの風、新党大地は最悪の議席ゼロ」と云う結果となった。これを、もう少し詳しく確認しておく。

 自民党が、改選前の34議席から65議席と大幅に議席を伸ばし完勝。公明党と合わせ全議席の過半数を獲得し衆参の「ねじれ」状態が解消した。選挙区で負けたのは岩手と沖縄のみで31の1人区で29勝2敗と圧勝した。2人擁立した3人区の千葉、5人区の東京を含め複数区では完勝した。比例区でも得票率で他党を引き離し2001年の20議席にあと2議席まで迫った。

 公明党は10議席から11議席と手堅く微増させた。候補を擁立した東京、神奈川、埼玉、大阪の4選挙区で全員当選、前回10年の9議席を2議席上回った。

 民主党は44議席から17議席と大幅に議席を減らした。結党以来最低だった2001年の26議席をも大幅に下回り、先の衆院選に引き続いて惨敗した。1人区で公認19名全員が敗け、自民と議席を分け合っていた2人区でも宮城、京都、兵庫で競り負けた。比例では1桁の7名に落ち込んだ。民主党参院幹事長の一川元防衛相、同党副代表の岡崎元少子化担当相、比例代表に出馬した石井一参院予算委員長、元農相の鹿野道彦氏ら大物議員が相次いで落選した。

 日本維新の会は2議席から8議席へと伸長善戦した。大阪と兵庫で議席を得ており関西での根強さを見せつけた。但し全体としては伸び悩みの印象がある。

 みんなの党は3議席から8議席へと躍進した。宮城と埼玉、神奈川、愛知で議席を獲得している。

 共産党は3議席から8議席へと躍進した。東京と京都、大阪で当選させ12年ぶりに選挙区での議席を獲得し比例区でも健闘した。

 社民党は2議席から1議席へと更に後退した。選挙区では議席を取れず比例代表で党幹事長の又市征治氏が議席を守った。社会党時代も含めて過去最低の獲得議席となった。

 生活の党、みどりの風、新党大地は議席を獲得できなかった。生活の党は8議席を失い、みどりの風は4議席を失った。これにより、みどりの風は政党助成法に基づく政党要件を失うことになった。

 同法は、〈1〉所属国会議員が5人以上〈2〉直近の衆院選、参院選、前々回の参院選のいずれかで得票率が全国の投票数の2%以上で、国会議員1人以上が所属――のどちらかを満たすことを政党要件として規定している。みどりの風は、参院選で改選議員4人が全員落選したため、4人の任期が切れる今月29日以降は、所属国会議員が亀井静香、阿部知子両衆院議員の2人になる。同党は、昨年の衆院選後に設立され、過去に国政選挙を戦っていないため、二つの政党要件をいずれも満たさなくなるとのことである。

 各党の比例区の得票率を確認すると、自民党・34.7%。過去最高の86年参院選の38.58%、「小泉旋風」が起きた01年参院選の38.57%、「郵政解散」による05年衆院選の38.2%などに次ぎ過去6番目に高い得票率となった。民主党は13.4%。昨年衆院選の比例代表の得票率16.0%からさらに低下し、1998年の結党以来の最低値となった。政権交代につながった2009年衆院選は42.4%。参院では07年に39.5%を得ており、ピーク時の09年衆院選と比較すると4年足らずで3分の1以下となったことになる。10年参院選、12年衆院選に続き3回連続で低下した。公明党・14.2%。昨年、結党後初めての衆院選で自民党に次ぐ得票率20・4%だった維新は11.9%と半減した。みんなの党は12年衆院選の8.7%と同水準の8.9%。共産党は12年衆院選の6.1%から9.7%。

 なお、先の衆院選以来の懸案であるムサシマシーンを各選管がどのように使っているのかの発表がないのが気にいらない。各選管のムサシマシーンの使用有無、及びどのような使い方をしているのかにつき発表させねばならない。

 れんだいこは、ムサシマシーンと磁気入りの投票用紙の辛みが臭いと見ている。次に無効票の精査をせねばならないと考える。投票者数と投票数との落差も確認したい。投票用紙に対しては磁気等の加工をさせない純度100%紙用紙しか使えない仕組みにさせる必要があることを提言しておく。

 jinsei/


れんだいこのカンテラ時評№1156  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 7月24日

 第23参院選選挙結果の総評その2

 以下、れんだいこの第23回参議院選挙考をしておく。

 こたびは先の衆院選ほどには不正投開票疑惑が起こらないが疑念も消えない。大阪選挙区での維新の会のダントツの票も気になるが指摘だけにとどめる。敢えて問題にするのは生活党の議席ゼロに対してである。同党の比例区票を全国集計すれば相当の票を得ているはずであるところ、わずか5名の選挙区票で618355票あるのに比例区票が全国で943863票しかなく、その差が325508票。全国で32万票余しか上乗せしていないという結果となっている。

 しかも、5名の選挙区票が比例票に結びついていない。これは先の衆院選に続く同じ現象である。これを確認するのに青森では76342→23167である。選挙区票の3分の1しか回っていない。岩手では91048→102112で微増している。これが本来の姿だろう。千葉では148240→70007、選挙区票が半減している。新潟では165308→45182、選挙区票の4分の1しか回っていない。広島では137327→32354となっている。やはり選挙区票の4分の1しか回っていない。岩手以外では共に大幅に選挙区票から減らしていることになる。

 選挙区票と比例区票は概ね一致するのが普通であり、且つ比例区票は選挙区票よりも増えるのが普通であるところ逆現象が起きていることになる。他方、維新、みんなの党では連動している。即ちこれが普通であるところ生活とみどりの風は大幅に減らすという結果になっている。この現象をどう説明できるだろうか。信じられない気がする。

 結局、比例議員1人を当選させるのに約100万票必要なところわずかに及ばない結果になっているが、ムサシマシーンによる操作の可能性はないのだろうか。あるいは無効票の中に生活、みどりの風、新党大地の票が入れられている可能性はないだろうか。

 れんだいこ的には生活の党の議席ゼロが信じられない。投票用紙は既に束ねられていると思うので、そう難しい作業ではなかろう。手間はかからないと思うので同党の検票を要請したい。ついでに新党大地、みどりの風のそれも要請したい。ムサシマシーンがこれらの党に限って票の読み替え、無効票化させている可能性の疑念が消えないからである。

 これに関連して、小沢代表は21日夜の記者会見で、「大変厳しい選挙結果だと思っている。岩手県の結果については、正直言って大変驚いている。今もって信じられない」と語っている。小沢代表の弁は元民主党の復興相にして無所属から出馬した平野氏が事前の接戦予想を覆し、自民の田中、生活の関根に大差をつけて完勝したことに対するものであるが、不正選挙告発の意味に捉えることも可能であろう。

 先の衆院選では民主党壊滅の流れの中で野田首相が独り過去のどの選挙よりも最大得票して話題になったが、同じような現象と考えられないだろうか。れんだいこ的には、敗北を再確認するためにも検票をお願いしたい。ムサシマシーンによるインチキ開票操作問題に決着をつける為にもスッキリさせてほしいと思う。

 そういう疑念はあるが仮に実数だったとして以下のように思う。それにしても、生活の党、みどりの風、新党大地が雁首揃えて討ち死にしたのは選挙戦術上に大きな問題があったのではなかろうか。

 れんだいこ的には特に社民党の戦術が拙(まず)すぎると思う。共産党は従前より全選挙区立候補にシフトして「唯一の野党」を誇る党であるので共闘はあり得ないので対象外として、少なくとも社民党の音頭取りで自公共闘に対抗する左派連合を模索する必要があった。

 れんだいこ的には解党前の最後の救命線として党合同まで視野に入れたいと思う。党内に生活の党、みどりの風、新党大地、社民党が派閥的に生息し、党中央を選出し、その党中央権限の権能と限界を規約化し、常時共闘的に党運営する方が活力と魅力を増すのではなかろうかと思う。共産党の民主集中制論、一枚岩、満場一致体制と異なる別の組織論を持つ国民生活擁護党が必要と思う故に提言しておく。

 ところが、社民党が実際にやったことは、生活の党の次期指導者たる森ゆうこ出馬の新潟選挙区に対抗馬を立て票の分散を画策したことに象徴されるように何ら戦略性のない否反動的な且つ僅か5名の選挙区候補擁立であった。その結果、選挙区では箸にも棒にも掛からない僅かな評しか取れず全員落選し、比例区で辛うじて党幹事長の又市を当選させると云うテイタラクの結果となっている。

 こういう指導しかしない福島執行部の辞任、責任追及が行われるべきであると考える。福島党首は、共産党同様に口ではいいことを言うがやっていることがデタラメである。賞味期限を完全に終え、かっての土井たか子体制の腐臭域に入っていると思う。沖縄選挙区で、社会大衆党の糸数慶子に対し社民、共産、生活、みどりが推薦し自公民候補に堂々と競り勝っている。これを範とせねばなるまい。

 東京選挙区で山本太郎が当選したのは新しい時代の幕開けだろう。既成の陳腐に化した運動理論とは別の日本在来土着系の百姓一揆魂による日本的左派運動の構築に向けて邁進されることを望む。共産党が東京、京都、大阪の選挙区で当選させたのは久方の朗報であるが今後を見守りたい。時代は徐々にながら基底部で変化しつつあり新しい息吹を感じる。

 最後に。何故に自民党が大勝したのかの要因を確認しておく。結論は、他の諸問題に優先させて何よりも自民党だけがアベノミクスと命名するところの経済政策、景気対策を押し出していたことによる。要は、国民に対する飯の食わせ方に対する提言である。他党は自前の経済政策、景気対策を押し出さぬままアベノミクス批判に明け暮れ、自前の政財政策を打ち出さない。あるいは打ち出しているのだろうが他の諸問題との絡みの中で埋没させている。政治の要諦は「国民が飯を食えるようにする」ことにあり、他党がこれに配慮しない分、アベノミクスを押し出した自民党に期待をかけるという構図になったように思われる。

 生活党に限って言えば、自公民的経済政策、景気対策とは一味違う生活党的日本救済経済政策を打ち立てそこなったところに敗因があるのではなかろうか。例えば、原発再稼働反対、新エコエネの主張だけではなく、これに伴う新需要、新景気、技術、雇用の創出と云う点での青写真を示す必要があり、実際にこの道を力強く牽引すべきなのではなかろうか。分かりやすく言えば対案能力である。これに欠けているところが自民党絶対優位の壁を崩せない主因なのではなかろうか。同じことを繰り返しても意味がないと考える。

 2013.7.24日 れんだいこ拝

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れんだいこのカンテラ時評№1157  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 7月29日

 毎日新聞社説「全日本柔道連盟 最後通告と受け止めよ」考

 今日7月29日付けの毎日新聞社説「全日本柔道連盟 最後通告と受け止めよ」を見たかや。れんだいこは、その超高圧的な物言いにはらわたが煮えくり返った。誰が執筆したのか知りたいが無署名なので関係者しか分からない仕掛けにされている。本来は堂々と署名入りで書くべきだろう。卑怯姑息千万である。

 社説はいきなり「これは最後通告だ」と来る。こういう言い方でナベツネ系のものであることが分かる。ターゲットは、全日本柔道連盟の上村春樹会長である。上村春樹会長を放逐したい魂胆のみが透けて見えてくる。社説は、内閣府公益認定等委員会の圧力を是認し、同委員会の「組織の解体的出直しを求める勧告」を錦の御旗にしている。「税制優遇措置を受けられる公益財団法人の認定を取り消す」の脅しを当然視している。

 ご丁寧なことに、「自立の組織運営を目指すスポーツ界にとって極めて不名誉なことだ。他の競技団体も対岸のこととして見過ごすべきではない」とまで述べている。ここで云う他の競技団体とは大相撲協会を念頭に置いているものと思われる。昨今、相撲と云い柔道と云う国技の団体が執拗に圧力をかけられているが、これは何に起因しているのだろうか。

 もとへ。社説は、勧告の内容を説き明かした後、「執行部に対する事実上の辞任勧告と言える」と解説し、これを当然視している。即ち監督官庁の公益法人に対する人事介入をも是認している。そればかりではない。上村会長が会長職だけでなく理事職も辞任する意思を固めたことに対し、「遅きに失した感はあるが、一歩前進と受け止めたい」とコメントし、さらには、上村氏が講道館館長の職にとどまることがケシカランとして、「柔道に関係する一切の公職から身を引くことが上村会長に残された道だ」で結んでいる。

 おいおいそこまで云うかよ。何を論拠としているのか分からんがエライ張り切りようではある。ところで、社説士のこの威勢の良さはどこから生れてくるのだろう。裏の筋から上村春樹会長追い落としのペンを振るえと背中を押されて書いただけのことであろう。何とならば、まともなジャーナルなら、大相撲協会にせよ柔道連盟にせよ自主的自律的運営を尊び、その上で健筆を振るうのが筋だからである。小泉政権下で仕立てられた新公益法人法に何の疑問も湧かさず、錦の御旗として振りまくっているのも酔狂が過ぎよう。

 れんだいこが、この社説士に返歌しておく。かくなる社説を書いた以上、「毎日新聞のみならず一切の報道関係職から身を引くことが君に遺された道だ」。

 こういうお調子者に社会的公器をいじらせてはいけない。この御仁は権力駆使の限度をわきまえず、絶頂の断崖まで上り詰めている。こうなると断崖から落とされるのは上村春樹か毎日新聞社説士か。れんだいこは、毎日新聞社説士をこそ突き落とそうと思う。新聞協会が、この限度を超えた煽り社説を問題として採り上げ、この論説氏に対する適宜なる処分に向かわれることを期待して結びとする。

jinsei/


れんだいこのカンテラ時評№1158  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 8月 3日

「麻生のナチスの如く舌禍事件」考

 2013.7.29日、麻生の「ナチスの如く発言」が物議を醸している。これを仮に「麻生のナチスの如く舌禍事件」と命名する。

 れんだいこの見るところ多少オーバーラン的物言いであるが、いつもの麻生式放言の範疇のもので、サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)が出てくるのは勝手であるにせよ、雑誌「マルコポーロ」の廃刊に匹敵するような麻生失脚まで追い詰めるには値しないと判断する。しかし、SWCの後ろ盾を得たマスコミ及び社共及びその類の批判が執拗に続けられようとしている。まもなく鎮火しようが、興味は麻生追い落としの政治的背景の勘繰りにこそある。

 発端が、保守系改憲&軍事防衛推進派のシンクタンクとして知られている公益財団法人「国家基本問題研究所(櫻井よしこ理事長)」主催の東京・平河町の都市センターホテル・コスモスホールでの「日本再建への道」と題した7月月例会の場である。

 この時、麻生は、国基研からの櫻井理事長、田久保忠衛・副理事長(「日本会議」代表委員)、遠藤浩一・拓殖大学大学院教授、ゲスト・パネリストとして麻生太郎・副総理兼財務・金融担当相、西村眞悟(無所属)、笠浩史(民主党)の両衆議院議員3名が登壇している。政治家、メディア関係者、会員、一般参加者など合わせ540人が詰めかけている。

 この場での「麻生発言」が問題化されたが、こうなると対談座長の櫻井よしこ理事長の弁が一言あってしかるべきではなかろうか。音沙汰がないのが不自然である。こういう時に矢面に立たない櫻井よしことは何者ぞ。こうなると、麻生は「飛んで火に入る夏の虫」とばかりに誘い込まれたと読むことも可能である。

 「麻生のナチスの如く舌禍事件」は麻生失脚騒動に転じつつある。この背景には安倍政権の後継問題がある。安倍政権は挙党一致体制とはいえ、これを子細に見れば安倍-麻生連合政権の観がある。自民党内ではこの後継を麻生ラインが引き継ぐのか石破-石原ラインが引き継ぐのかを廻って暗闘している。そのさ中の麻生失脚騒動であるからして石破-石原ラインには好都合な事態となっている。こういう流れの中でのSWCまで巻き込んだ巧妙な麻生失脚騒動の臭いがする。こう読む必要がある。

 SWCの笛吹きに合わせてマスコミが又もや調子を合わせている。ここでは2013.8.2日付け毎日新聞社説「:麻生氏ナチス発言 撤回で済まない重大さ 」を確認する。この社説士は麻生発言に対し、「麻生氏は討論会で自民党の憲法改正草案は長期間かけてまとめたとも強調している。そうしてできた草案に対し、一時的な狂騒の中で反対してほしくない……本音はそこにあるとみるのも可能である」と評している。

 社説士の読解能力が危ぶまれるところである。これは何も毎日社説だけではない。SWC的理解の下請け的に各社が同様の見解を述べている。しかし、れんだいこは、1950年末の池田蔵相の「貧乏人は麦を食え発言騒動」と似ていると解している。かの時も、池田蔵相はマスコミが造語したような発言はしていないにも拘わらず「貧乏人麦食え発言」として一斉に批判されている。「ナチスの手口を見倣え発言」も相変わらずのマスコミ扇動の感がある。

 これにつき麻生にも責任があることはある。なぜなら、何もわざわざ「手口をまねる」などの怪しげな言葉づかいをする必要がないのに持ち出しているからである。これが為に騒動を呼ぶことになった。「麻生発言」は例によって非論理的、舌足らず、漫画好きなところを評すれば漫画的なものである。

 が、れんだいこが読解すれば、毎日新聞論説士の読解の反対の如くに読める。即ち、麻生発言の趣意は、衆参で絶対多数を握った政権与党が暴力的に一気に改憲しようとする動きに出る恐れに対し、数の論理で強行採決までして為すべきではないと述べていると読める。「私どもは狂騒の中、わーっとなったときの中でやってほしくない」の真意は、野党の反対に対してではなく与党に対する自制の弁であると解する方が自然である。それを、「自民党草案に対し、一時的な狂騒の中で反対してほしくない」と読解するのは逆の受け取りであり即ち為にする曲解であろう。

「あの手口を学んだらどうか」も然りである。SWCは、「ナチスの手口を学んだらどうかと述べている」としているが曲解である。正確には「ナチス」ではなく「ドイツ」と読み「ドイツの手口を学んだらどうか」と読解した方が真意に近いであろう。もとより、「麻生発言」が既に述べたように非論理的、曖昧、漫画的なものなので読解するのに誤解を生み易い下地はある。

 但し、批判するのなら、その前に当の発言を正確に読み取る読解能力を持つべきではなかろうか。麻生の言語能力が低いところへ、さらにそれ以下的な読解能力を見せて批判の合唱に転ずるなどはよほど恥ずべき愚挙でしかない。

 これについては、れんだいこのみならず他の者も指摘している。れんだいこは、橋下大阪市長の弁を好評することは滅多にないが、麻生氏の発言について大阪市役所で記者団の質問に答え、「ちょっと行き過ぎたブラックジョークだったんじゃないか」、「ナチスドイツを正当化したような趣旨では全くない。憲法改正論議を心してやらないといけないということが趣旨だったんじゃないか」と述べている。これは真っ当な見識である。

 れんだいこの「麻生のナチスの如く発言事件」のもう一つの興味は、例によってSWCが登場し、ヒトラー及びナチス問題の薀蓄を披露した挙句に解釈の仕方までをテキスト化し、そのテキスト通りに口パクしている日本言論界のお粗末さを浮上させたところにある。ご丁寧なことに社民党、共産党がいち早くSWC声明に沿う形で批判声明している。これが日本左派運動の生態であり、この生態が本来のものではないことを、この現場で確認すれば意味がある。

 民主党の海江田代表の弁も然りでお粗末の極みである。生活の党の小沢代表の「麻生副総理のナチス発言、内閣の本音を示す」も似たり寄ったりの弁で物足りない。と云うか、生活の党だけは単なる批判に堕さず、世の冤罪的なものを庇護する側に回ってほしいと思う。そういう度量が欲しい。そういう党がないのが寂しい。

 jinsei/


れんだいこのカンテラ時評№1159  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 8月11日

 勝てば官軍、敗ければ賊軍考

 今日は2013(平成25)年の8月11日、お盆入りである。辞典解説によると概要次のように記されている。

「本来は旧暦の7月15日前後、新暦では8月15日前後に行うの先祖供養の行事である。多くの地方では8月13日の『迎え盆』から16日の『送り盆』までの4日間を『お盆』としている。『お盆』には先祖の霊が帰ってくるとされており、各家庭ではお墓と仏壇の掃除をした後、戸口に盆灯籠、玄関や軒下に盆提灯を吊るして出迎える。仏壇にはダンゴを供え、精進料理やキキョウ、オミナエシ、ハギ、山ユリ、蓮の花などの盆花を飾る。オガラを燃やして迎え火を炊く風習もある。これを『盆迎え』と云う。期間中に僧侶を招いて『棚経』(たなぎょう)をあげてもらう。16日の夜になると霊が帰るので『送り火』を炊いて送り出す。供物をわらや木で作った舟に乗せて川や海に流す行事もある。これを『精進流し』(しょうろながし)と云う。灯籠(とうろう)を流すところもある」。

 この行事を仏教で説明するのが通説であるが、日本の古神道以来の祖先崇拝教説と仏教的教説行事が合体した神事仏事と捉えた方が正確のように思える。何でもかんでも外来由来で捉えるのは「悪しき風習の学説」でしかないと思う。諸事に於いていえることだが、それまでの日本に自生していたものとの練り合わせを考える思考が必要と思っている。

 れんだいこはむしろ「お盆」の起源は、この時期が炎天下による疲労の極致に達することを見極めた上での「骨休み」から由来しているのではないかと思っている。即ち「日本暦法に基づく日本的知性による賢明なる一年の過ごし方行事の一環のもの」ではないかと思っている。こういう目線で捉えると、正月から始まり年の暮れに至る様々な行事がこの種のシリーズものであることが判明する。こういうところはもっと注目されても良い。日本は昔からなかなか味わい深い暦を持っていることになる。

 もとへ。ここでは「勝てば官軍、敗ければ賊軍」を愚考する。これも日本式の簡略明察な諺(ことわざ)の一つである。この名言は、勝った官軍側のご都合主義的プロパガンダを川柳的な「穿(うが)ち」心で見抜いているところに値打ちがある。この名句がふと浮かんできたのが今年のお盆の特徴であった。恐らく先日の「麻生副総理のナチスの如く舌禍事件」が影響しているものと思われる。こう云えば既に賢明なる者は、現在の反ヒットラー、反ナチス論が「勝てば官軍、敗ければ賊軍」式に生み出されたご都合主義理論に過ぎないものではないかと勘繰り始めるであろう。それで良い、そういうことが言いたいわけである。

「勝てば官軍、敗ければ賊軍」の鮮やかな適用例は、幕末維新に於ける朝廷軍と幕府軍の戦いとなった戊辰戦争であろう。あるいは明治維新に於ける明治政府軍と西郷隆盛軍の戦いとなった西南の役であろう。これを昔にさかのぼればキリがない。古事記、日本書紀の高天原王朝論なぞ最たる例であろう。いずれも勝った方に都合の良い歴史の読み取り方を定式化させ今日の通説とせしめているものである。「勝てば官軍、敗ければ賊軍」言葉の面白さは、この一言二言の中に「勝者側のご都合主義的論理論法」を見事に見抜いて皮肉っているところにある。

 さて、「麻生副総理のナチスの如く舌禍事件」(以下、「麻生舌禍事件」と命名する)について愚考してみる。れんだいこの読み通り、ユダヤ人権利保護団体サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)の口車に合わせて、政界的には右から左まで、マスコミを筆頭とする各界様々の自称名士が一斉に対麻生殲滅戦に出張り始めている。麻生発言の吟味は後景に退いており、SWCの指令の下でかくも多勢が口裏を合わせていることの方に興味が湧く。この光景は既に何度も見てきた。大きな事件では田中角栄を失脚せしめたロッキード事件の光景、角栄政治の後継者・小沢一郎を失脚せしめ中の小沢キード事件の光景、そしてこたびの麻生太郎を失脚せしめ中の「麻生舌禍事件」の光景と繋がる。その他の例を挙げればキリがない。

 れんだいこ的には「麻生舌禍事件」について、これにより従来式の反ヒットラー、反ナチス論の見直しに向かえば思わぬ副産物と考えている。恐らくこの道は閉ざされるのであろうが、「麻生舌禍事件」が日本の戦後政治史上にその契機を与えたという点ではなかなかの功績ではなかろうかと思っている。

 ここでは「勝てば官軍、敗ければ賊軍」式の反ヒットラー、反ナチス論のウソについてまで言及しようとは思わない。せめてヒットラー狂人論についての真偽ぐらいは確認しておきたいと思っている。通説のヒットラー狂人論に従えば、かの時代のドイツ人は皆なが皆な、この狂人の虜(とりこ)になったことになるが、それは余りにもドイツ人の知性を軽薄化し過ぎていよう。ドイツ人をしてヒットラー&ナチス政治に賛意せしめた歴史の原因について、もう少し学究的に解析してみたいと思っている。ヒットラー狂人論は、そういう学問的営為を閉ざす暴論であって凡そ歴史の真実とは違うと思っている。

 幸い、今のところの日本にはドイツその他西欧諸国に強制されているような「ナチズムのプロパガンダ及びそれに類する行為」を民衆扇動罪として裁く法律はない。今後はTPPの国際スタンダード網が適用されると分からないが今のところは大丈夫である。してみれば、日本では少し冷静な研究ができる余地がある。しかしながら実際には閉ざされている。むしろ自主規制で「勝てば官軍、敗ければ賊軍」論法を受け入れている。これを下敷きにした歴史論ばかりが次から次へと増刷されている。こういう場合、同じ系統の書物だから幾ら読んでも賢くならない否却ってアホウにされてしまう。我々はそういう状況下に置かれている。

 以上。「麻生副総理のナチスの如く舌禍事件」から「勝てば官軍、敗ければ賊軍」を思いだし、既成のヒットラー狂人論に眉唾し始めたれんだいこの知的感性を面白いと受け止めて下されるだろうか。烈火の如くのバッシングをいただくことになるのだろうか。これが2013お盆のれんだいこ発信録である。

 2013.8.11日 れんだいこ拝

 jinsei/


れんだいこのカンテラ時評№1160  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 8月16日

 れんだいこの新邪馬台国論による日本史荒スケッチ

 今日は2013.8.15日である。この日に「れんだいこの新邪馬台国論による日本史荒スケッチ」を捧げておこうと思う。れんだいこの新邪馬台国論は、今明らかに或る可能性を求めて生まれつつある。それは単に邪馬台国の所在地をどこそこに比定し、当時の風俗、政体を知ることにのみ興味があるのではない。大和王朝以前の原日本の在り方を知り、その原日本の高度文明性を窺い、これをどう現代に蘇生させるのかの狙いを持っている。

それは同時に、現代の無思想社会に於ける新たなカンテラの役目を持っているのではなかろうかと期待している。このカンテラは、日本のみならず、現代世界の混迷、その貧相な処方箋からの脱却を秘めているのではなかろうかと仮想している。仮にそういう期待が望めるのなら、これを明らかにしない手はないだろう。れんだいこの新邪馬台国論の意義はここにある。

 そのれんだいこの邪馬台国論は、邪馬台国を「ヤマトの三輪」の地に求めるようになりつつある。総合的に俯瞰すれば「ヤマトの三輪」に比定することにより理解が整合的になるように思っている。「ヤマトの三輪」にこそ邪馬台国があったのであり、この地に邪馬台国以前よりの分権的な王朝があったのではないかと考えている。これを仮に三輪王朝と命名する。三輪王朝は出雲王朝と縁戚関係にあり、いわば出雲王朝のヤマト地方に於ける出先機関にして、あるいは国譲り後の出雲王朝の後継政権であったように思われる。もう一つ、古代史上に於ける四国阿波-讃岐の地位も相当なものである。これとの因果関係が分からないので苦労しているが、相当に深い関係があったように思われる。

 この出雲-三輪王朝こそが在地土着型即ち国津族による日本史上初の王権王朝であったと推定できるのではなかろうか。この時代に、日本の古型としての:言語、文字、政治経済文化が確立されていた。この時代に日本人の精神、風俗、社会、身分、国家のスタイルが定まった。これが社会学及び文化人類学的な意味での「原日本」なのではなかろうか。この認識を得ることが日本史を紐解くキーではなかろうか。こうなると、問題は、出雲王朝-三輪王朝ラインの政治を日本政治の原形、それを滅ぼして以降の大和王朝ラインの政治を新形として区別し認識した方が良いように思われる。これが日本政治の質を歴史的に確認する為の学問的方法となるべきであると思う。

 その三輪王朝が天孫族(を僭称する外航族)によって攻め滅ぼされる。三輪王朝の最期の政体としての邪馬台国に代わって大和王朝が建国される。記紀神話は、この過程を正統化させる為の国定史書と推定できる。この傾向は日本書紀の方が古事記より強い。という理由により、記紀神話にのみ依存しては日本古代史は解けない。

 ここに本居宣長が登場する。本居史学は単なる神話として片づけられていた記紀既述に歴史の根拠を求めようとして営為した。その手法として、日本書紀よりも古事記の方に価値を見出そうとしていた。ここに功績がある。但し古事記世界より出ることを自主規制していた。ここに限界が認められる。いずれこの本居学は乗り越えられねばならなかった。

 この時、平田篤胤が登場する。平田は、本居史学の功績をそれとして認めつつも、本居史学が抑制していた更に先の古代史に分け入ろうとした。これにより平田史学が日本古代史の視野を更に先へ広げた。ここに平田史学の功績がある。但し、平田史学は怨霊怪奇現象の方に関心を寄せ過ぎており、その意味では先覚者の業績に留まるきらいがある。

 平田史学が扉をこじ開けた日本上古代史の研究が受け継がれねばならないところ、平田史学派は幕末維新から明治維新の政治的激動に接近し過ぎて、結果的に西郷派なき後の日本帝国主義化の従僕となり、近代天皇制のイデオローグと化し、薄っぺらな皇国史観の確立に向かった。それが大東亜戦争の敗戦により大鉄槌を喰らい今日へ至っている。

 これを平田史学右派と命名すれば、平田史学左派はまだ登場していない。れんだいこ史学はこの系譜のものではなかろうかと自認している。ここに史上の意味と値打ちがある。但し緒に就いたばかりで、これと云う業績を上げている訳ではない。あるいは、平田史学につき詳細には知らないので、知れば袂を分かつかも知れない。そういう意味で未だ流動的である。

 他方、その後に津田史学が登場する。津田史学は、本居学、平田学を否定し、記紀神話に史実性を認めないところから始発している。これは、皇国史観の欺瞞を討つには役立つが、本来の日本古代史、上古代史解明に対しては逆行的な学問的態度と云うべきではなかろうか。よしんば皇国史観の詐術的歴史観を否定するのに功があるにせよ、「原日本」の解明に向かわない皇国史観批判論は「赤子をたらいごと流す」愚に似ている。日本マルクス主義がそうした限界を持つ津田史学の系譜を引いているとしたなら、そもそもここに無能さが極まっていると云うべきではなかろうか。

 今や、我々は、記紀神話の先の日本古代史に光を当てねばならない。日本古代史の秘密を解き明かさなければならない。そういう意味で、記紀以前の史書が欲しい。これが仮に存在するとしたなら、その記述を知りたい。これを詮索するのが興味深いのだが、いわゆる古史古伝がこれに相当すると思わるのだが、今日公開されている古史古伝はあまり当てにならない。それはなぜか。本当に記紀以前の史書かどうか疑いがあるからである。仮に原書がそうであったとしても、写筆過程での書き替え改竄の可能性が強い。その為に信に足りない。但し、記紀よりも正確な史実を伝えているとみなされるべき記述もあり、この辺りは大いに学ぶべきであろう。これが古史古伝に対する態度となるべきである。

 ともかくも邪馬台国滅亡前後の史書が不在である。これは、出雲王朝-三輪王朝-邪馬台国の滅亡に関係しているように思われる。これが為、この時代の歴史が地下に潜った。これが為に邪馬台国滅亡前後の史書不在となっているように思われる。とはいえ、ここがまことに日本的なのだが、出雲王朝-三輪王朝-邪馬台国は完全に滅亡されたのではない。彼ら旧政権派は、国譲り譚で判明するように、政権は譲り渡したが宗教的権威及び活動は担保され歴史に生き延びた。政治的には一部が新政権の大和王朝に組み込まれて残存し、一部が追放され東へ東へと逃げ延びて行くことになる。一部が人里離れた山岳に篭り鬼神化させられて生き延びる。この過程は西欧史の如くな皆殺しジェノサイドではない。

 興味深いことは、大和王朝内の政権の一角に組み込んだ出雲王朝-三輪王朝-邪馬台国派が、その能力の高さ故に後々重要な影響を及ぼし続けたと看做されることである。こうして、その後の日本史は、原日本時代、新日本としての大和王朝時代、新日本と原日本の練り合わせによる新々日本の創出へと向かったのではなかろうか。この日本が今日へ至っているのではなかろうか。以上を踏まえると、日本はほぼ単一民族化しているとみなせるが単一社会ではない、むしろ原日本、新日本、その他を織り交ぜた複合練り合わせ社会と云うことになる。こういうところを政治家が認識していないと国運の舵取りを誤ることになる。

 この日本史に特異な現象として、現代史的に意味のあるところだが、戦国時代期及び江戸幕末期よりネオシオニズム勢力が食い入って来たことであろう。戦国時代期のネオシオニズムは衆知の過程を経て排斥された。ところが江戸幕末期の黒船と共に来襲して来たネオシオニズムはその後の日本史への容喙を続けて今日に至っている。その政治はここへ来て次第に露骨化し始めている。

 ネオシオニズムも又日本化するのなら一法であるが、連綿と形成されてきた日本を溶解し植民地化せんとし続けている。その壊しようはあたかも、ネオシオニズムと思想的に最も鋭角的に対立している日本思想そのものの撲滅を期している感がある。思想がそうなら社会もそうとして日本社会の絆を根底的に殲滅せんとしている形跡が認められる。こうなると、日本的なものを愛する我々との間には非和解的な抗争しかない。そういうことになろう。

 2010.7.28日 2013.8.15日再編集 れんだいこ拝

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れんだいこのカンテラ時評№1161  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 8月19日

 東電・吉田昌郎(元福島第1原発所長)の殉死考

 2013.7.27日・8.3日合併号「週刊現代」のジャーナリスト:門田隆将の吉田昌郎インタビュー「あの時、確かにひとりの男がこの国を救った」によれば、福島第1原発所長・吉田昌郎は、官邸-東電ラインの海水注入中止命令に対して敢然と拒否し注入を続けた。この英断が「チェルノブイリの10倍」の事故被害を食い止めたとして称賛されている。これを「吉田所長の英断」と云う。これにつき思うところを記しておく。

 「吉田所長の英断」は然りである。しかしながら、それは当面の措置であり問題は先送りにされたに過ぎないのではないのか。「先送りの功あり」的には評価されようが、この観点からの評価はさほど称賛されるべきではないのではなかろうか。それはともかくこれが第一評価である。第二評価は、実はこれが凄いことであるが、当時、福島原発事故が誘導想定されており、「吉田所長の英断」はこのシナリオを崩した。このことが称賛されるべきではないのか。結果的には同じであるが、「吉田所長の英断」が何に対する英断なのかと云う点で光芒が違ってくる。

 「当時、福島原発事故が誘導想定されていた」とはどういうことか。これを補強する史実を確認する。独立党党首・コシミズ氏の「2013.8.10 リチャード・コシミズ岐阜講演会 」その他で確認できるが、「2013.8.8日午後4時55分頃、奈良県と大阪府で最大震度6弱から7程度の緊急地震誤報事件」が参考になる。かの時、気象庁は無論、フジテレビの安藤優子アナも「地震が発生した」と過去形で報道している。これに対し、コシミズ氏が、9.11テロ時の米CNNテレビによる世界貿易センタービルに隣接するビル崩壊の事前報道の例を挙げ、これと同じであると指摘している。即ち、前もって筋書きが作られており、それに基づきアナウンサーが原稿読みしていたと云う事実が確認できる。「2013.8.8日の奈良地震事前報道」はこれと同種のものであり、誤報と化したと云う点で極めて稀な例である。

 この問題の重要性は、3.11三陸巨大震災に伴う福島原発事故も事前に誘導想定されており、その想定が、「吉田所長の英断」によって狂わされたのではないのかとの推理を生むことにある。その詮議はさておき、「3.11福島原発事故が事前に想定されていた」と仮定すれば、その後の対応が整合的に理解できることがもっと注目されてよい。自衛隊10万人動員態勢、米国艦隊の沖合停泊、被災民に対する灯油、ガソリン支給規制による閉じ込め、公共広告機構による仁科親子の子宮がん検診コマーシャルの朝から晩までの執拗な放映、用意周到な関東圏ブロック別計画停電、これに基づく都電運行規制等々はどう考えても用意周到に計画されていたとしか思えない措置である。

 これを思えば、「菅首相の東電乗り込み武勇伝」は一定の真実味を帯びてくる。それは、シナリオ通りに動こうとする東電中枢に対する「叛旗の怒鳴り込み」だったのではなかろうか。れんだいこは、これに関しての菅首相の言い分は尤もな面がある思える。補足しておきたいことは、「菅首相の東電乗り込み武勇伝」は、吉田所長以下福島50のサムライと称される身を捨てた原発爆発阻止行為が誘導した、これに対する呼応であり、彼らの奮闘努力がなければあり得なかったのではなかろうか。

 つまり、福島原発爆発危機は現実にあった、想定されていた、誘導されていたのであり、吉田所長以下福島50のサムライがそのシナリオを崩したということが言えるのではなかろうか。そういう意味で、このシナリオを崩した「吉田所長の英断」はまさに称賛に値するのではなかろうか。しかしながら、冒頭に述べたように、とりあえず爆発計画を阻止しただけであり、それは問題先送りであり、これに対する賢明なる対策こそ「次のサムライの仕事」となっているのではなかろうか。かの時のサムライが健在なのか放射能病魔に犯されているのか分からないが、「次のサムライ」が要請されているのは間違いない。

 それはともかく、民主党菅政権、野田政権、自民党安倍政権及び東電の無策ぶりが信じられない。その緩慢な対応ぶりは、日延べされた福島原発の再爆発シナリオと呼応しているようにさえ見える。この勢力を放逐する以外に日本の再生はないのは自明のように思える。

 この攻防戦は既に開始されていると読む。このところマスコミを通じて日本の国際責任論が奏でられて久しいが、軍事防衛上の米軍指揮下の国際責任論ではなく、こういうところの日本人の国際責任能力が試されているのではないかと思う。この政治が生み出されるのは生活党と社民党の合同による新潮流によってしか為し得ず、他の政治勢力では絶望と読む。

 2013.8.19日 れんだいこ拝

 jinsei/


れんだいこのカンテラ時評№1162  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 9月12日

 三島最後のドキュメント考その1、本稿の意義

 ここで「三島最後のドキュメント考」をしておく。れんだいこの歴史嗅覚からして何やら腑に落ちないものを感じたからである。これまでにも同様の臭いから「宮本顕治の戦前リンチ致死事件」を考察している。
 (marxismco/nihon/miyakenco/rinchizikenco/rinchizikenco.htm

 同サイトで、宮顕及びその系の今日に至る日共の弁明のウソをことごとく論破している。自分で云うのもなんだが白眉ものである。結論は、宮顕派が党内スパイの最高幹部・小畑を摘発したのではなく、宮顕こそがスパイМに代わる党内スパイ派の元締めであり、その宮顕派の査問により労働者派最後の幹部・小畑がテロられたと見るべきであるとする新観点を打ち出している。これはそれまでの様々な論の稚拙さを粉みじんにしていることに功績がある。

  それまでの論(一)は宮顕冤罪説である。論(二)は党内スパイ摘発上の当時の情況からして止むを得なかった措置説である。論(三)は既に解決済み説である。論(四)はやり過ぎ説である。これらに対し、それらがいずれも「宮顕派が党内スパイの最高幹部・小畑を摘発した」とする前提の論である点でナンセンスであること、真実は「スパイ派の宮顕派の査問により労働者派最後の幹部・小畑がテロられた」のであり、冤罪として名誉回復が急がれているのは小畑氏の方であるとしている。

 この論はさほど注目されていないが、それはれんだいこの立論の虚妄によるのではなく、驚天動地性故に沈黙を余儀なくされていると了解している。れんだいこは他にも数え上げればキリのない通説異議を申し立てしている。田中角栄のロッキード事件に於ける角栄冤罪説、2.26事件に於ける皇道派青年将校が嵌められ始末された説、処女作「検証学生運動(上下)」による戦後学生運動内の正邪見極め説、邪馬台国新論に於ける原日本新日本論等々然りである。これらはいずれも、通説側に言葉を失わせるほどの観点の差を突き付けており、通説側がれんだいこ観点を否定できず、結果的に論評戦意さえ失わしめている故と了解している。

 こたび、同様の戦意をもって「三島最後のドキュメント考」に向かう。れんだいこが「三島最後のドキュメント通説」のどこに疑問を覚えているのか。それは、三島が自らの意思で「最後の三島美学」の実践場として自衛隊市ヶ谷基地を選んだとする観点そのものへの疑問から始まる。そういう評論ばかりであるが異議を申し上げておく。

 それは半分真実であろう、しかし残りの半分は用意周到に誘い込まれたのではないかとみなしている。三島は敢えてそのシナリオに乗った形跡が認められる。三島の死も然り。三島自身が漠然と半ばは死を覚悟していたが残りの半分は生に期待を持って出かけていたとみなす。予感として死が免れないことを承知しており、どう転ぶにせよそのありのままを歴史に刻まさせる賭けに出たとみなす。結果、割腹死を強制されたとみなす。

 自ら好んでの三島美学による割腹自殺劇とみなすのが通説であるが、半分真実で、残りの半分は割腹へと強制誘導されたとみなす。こう捉えないと辻褄の合わないことが多過ぎるからである。以下、これを論証する。まずは、この事件を正確に確認するところから始めねばならない。サイト「三島事件」その他を下敷きにする。本意は三島事件の公判記録を読んでからの投稿にしたいが、それに費やす時間がないので見切り発表する。

 2013.08.31日 れんだいこ拝

れんだいこのカンテラ時評№1163  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 9月13日

 三島最後のドキュメント考その2、決行前夜

「れんだいこの三島由紀夫論」は別サイトで連載するとして、まずは「三島割腹事件の真相」を確認せねばならない。なぜなら、ここに「戦後体制上のアウトサイダーで在り続けた三島らしさ」が凝縮しているからである。三島を好意的に評する者も逆に評する者も「戦後体制上のアウトサイダーとしての三島」を確認しない限り理解が覚束ない。ここを理解しない三島論が横行しており物足りない。れんだいこが三島論を書き上げる所以でもある。もとへ。

 1970(昭和45).11.24日の夜、三島は友人のサンデー毎日記者徳岡孝夫とNHK記者の伊達宗克の二人のジャーナリスト連絡し、或る会館の名を挙げ、そこのロビーで待っていてほしいと頼んでいる。米国人の翻訳者二人に宛てた最後の所感と指示や、後に残る楯の会会員宛ての手紙を含めて、幾通もの別れの手紙を書いている。「米国人の翻訳者二人」の一人であると思われるドナルド・キーン(コロンビア大学教授・日本文学研究家)宛に投函された最後の手紙は以下のようだったという。

 「君なら僕がやろうとしていることを十分理解してくれると思う。だから何も言わない。僕はずっと前から、文人としてではなく武人として死にたいと思っていた」。

 11.25日未明、三島は、ライフワーク長編の「豊饒の海第四部、天人五衰」の最終稿を書き上げている。この小説が遺作となった。8月の時点で既に結末部は脱稿していたが、巻末日付をわざわざ11.25日と記載している。三島は担当編集者(小島千加子)へその旨を連絡した。しかし、小島が三島邸についたときには既に出かけていた。小島には間接的に「豊饒の海第四巻の天人五衰最終回」が渡された。

 11.25日早朝、三島は、軍刀と二振りの短刀を収めたアタッシュ・ケースなど必要な品々を揃えた。午前10時頃、三島は徳岡と伊達に再び電話をかけて具体的な呼び出し地などを指定している。これにつき、徳岡は次のように証言している。

 概要「 24日午後2時頃電話があり、『明日朝十一時に、あるところに来て頂きたい。毎日新聞社の腕章と、カメラを持ってくるように』。翌日11時頃、市谷会館で、楯の会会員田中から封書を受け取る。三島からのメッセージであった。『もみ消しされないように、あらかじめ檄を同封する、事件後にノーカットで公表してほしい。写真も同封している』。それは一月前に『自衛隊に決起を訴えよう』と五人で撮った記念写真であった」。

 これによれば、三島がこれから大立ち回りを演ずること、その一部始終が揉み消されるか歪曲されることを予感的に承知していたことが窺える。

 午前10時13分頃、 森田、小川、古賀が同乗し、小賀の運転するコロナが三島宅に到着。三島は、盾の会会員4名(森田必勝・25歳、古賀浩靖・23歳、小賀正義・22歳、小川正洋・22歳)と共に会の制服を揃って着込んで自宅を出て、車で東京都新宿区市ケ谷本村町の陸上自衛隊駐屯地(通称・市ヶ谷駐屯地)に向かった。いよいよ決行の「歴史その時」を迎える。

 市ヶ谷に向かう車中、高速道路を通って神宮外苑附近にさしかかったとき、三島は、「これがヤクザ映画なら、ここで義理と人情の『唐獅子牡丹』といった音楽がかかるのだが、俺たちは意外に明るいなあ」と言ったという。古賀は検察調書の中で、「私たちに辛い気持や不安を起させないためだったのだろうか。まず先生が歌いはじめ四人も合唱した。歌ったあと何かじーんとくるものがあった」と述べている。

 ちなみに「唐獅子牡丹」(1965(昭和40)年、作詞・矢野亮・水城一狼、作曲・水城一狼、歌手・高倉健)の歌詞は次の通りである。

 (一)義理と人情を 秤(はかり)にかけりゃ 義理が重たい 男の世界 幼なじみの 観音様にゃ 俺の心は お見通し 背中(せな)で吠えてる唐獅子牡丹。

 (二)親の意見を 承知ですねて 曲がりくねった 六区の風よ つもり重ねた 不幸のかずを なんと詫(わ)びよか おふくろに 背中で泣いてる唐獅子牡丹。

 (三)おぼろ月でも 隅田の水に 昔ながらの 濁らぬ光 やがて夜明けの 来るそれまでは 意地でささえる 夢ひとつ 背中で呼んでる唐獅子牡丹。

れんだいこのカンテラ時評№1164  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 9月13日

 三島最後のドキュメント考その3、決行

 1970(昭和45).11.25日午前11時前、三島らは玄関に着いた。事前に東部方面総監・益田(ましだ)兼利陸将(57歳)に午前11時の面会を申し込んでいた。名目は「優秀な楯の会隊員の表彰紹介」であった。沢本三佐に出迎えられ、正面階段を昇り、原一佐に案内され総監室に通された。三島は真剣の日本刀の関孫六を携帯していた。応接セットにいざなわれた三島は益田総監に、森田ら4名を一人一人名前を呼んで紹介する。ソファで益田総監と三島が向かい合って談話中、話題が三島持参の日本刀・関孫六に関してのものになった。

 総監が、「そのような軍刀をさげて警察に咎められませんか」と尋ねている。これに対し三島がどのように答えたのかは分からないが話題を転じて次のようなやり取りに向かっている。「この軍刀は、関の孫六を軍刀づくりに直したものです。鑑定書をごらんになりませんか」と言って、関兼元と記された鑑定書を見せている。この時、刀を抜き、油を拭うため「小賀、ハンカチ」と言って同人にハンカチを要求している。その言葉はあらかじめ決めてあった行動開始の合図であった。しかし総監が、「ちり紙ではどうかな」と言いながら立ち上がり執務机の方に向かった為、見合わせざるを得なかった。小賀はハンカチでなく日本手拭を三島に渡した。手ごろな紙を見つけられなかった総監はソファの方に戻り、刀を見るため三島の横に座った。

 午前11時5分頃、三島は日本手拭で刀身を拭き、刀を総監に手渡した。刃文を見た総監は「いい刀ですね、やはり三本杉ですね」とうなずいた後、刀を三島に返した。三島は使った手拭を小賀に渡し、鍔鳴りを「パチン」と響かせて刀を鞘に納めた。それを合図に、席に戻るふりをしていた小賀がすばやく総監の後ろにまわり、持っていた手拭で総監の口をふさいだ。続いて小川、古賀が細引で総監を拘束し、「さるぐつわは呼吸が止まるようにはしません」と断わりながら短刀をつきつけた。こうして益田総監を人質に取った。その間、森田は総監室正面入口と、幕僚長室、幕僚副長室に通ずる出入口に机や椅子、植木鉢などでバリケードを構築した。

 沢本三佐が異変に気づいて指揮系統に報告した。業務室長・原勇一佐が正面ドアを開けようと体当たりする。室内から「来るな、来るな」と叫び声がし、ドア下から要求書が差し出された。原一佐はただちに幕僚らに非常呼集をかけ、沢本三佐の部下が警務隊と警視庁に通報する。第一報から12分後、警視庁機動隊一個中隊が総監室に到着した。

 午前11時20分頃、三島は、両側の幕僚長室からバリケードを壊して突入して来る幕僚ら5名に対し「要求書を読め」と叫び、次々と飛び込んで来た幕僚らを関孫六で応戦し追い出した。さらに新たな7名の幕僚らが次々と総監室に突入して来た。古賀は小テーブルを投げ、小川は特殊警棒で応戦する。森田も短刀で応戦するが逆に短刀をもぎ取られてしまう。三島が加勢し、森田を引きずり倒した幕僚2人に斬りつけた。灰皿や地球儀が飛び交う中、「出ろ、出ろ、外に出ないと総監を殺すぞ」と怒鳴りながら、三島は幕僚らに斬りつけ追い出した。退散した幕僚らは総監室の廊下から窓ごしに三島を説得するが、三島は既にドア下から廊下に差し出したそれと同内容の要求書を破れた窓ガラスから廊下に投げた。

 午前11時30分過ぎ、幕僚らは要求を受け入れることを決め、吉松副長が三島に対応した。要求書には「午前11時30分までに全市ヶ谷駐屯地の自衛官を本館前に集合させること。演説の静聴。檄の散布。楯の会の残余会員に対する三島の訓示。楯の会残余会員を急遽市ヶ谷会館より召集、参列せしむること。自衛隊は午後1時10分までの約2時間、一切の攻撃を行わないこと。当方よりも攻撃しない。この条件が遵守されて2時間を経過したときは総監の身柄は安全に本館正面玄関で引き渡す。条件が守られないとき、あるいはその恐れがあるときは、三島はただちに総監を殺害して自決する」なる趣旨のことが書かれていた。三島らが本気であることを知った責任者は総監の生命を気遣って要求を受け入れた。

 午前11時40分頃、集合を呼びかける構内放送により、自衛官約800名が前庭に集合した。なおこの日、第32普通科連隊は100名ほどの留守部隊を残して、900名の精鋭部隊は東富士演習場に出かけて留守であった。三島は、森田の情報で連隊長だけが留守だと勘違いしていた。バルコニー前に集まっていた800人は通信、資材、補給などの「三島の想定した『武士』ではない」隊員達であった。自衛隊内には「暴徒が乱入して、人が斬られた」、「赤軍派が来たんじゃないか」などと情報が錯綜していた。なお、「楯の会残余会員を急遽市ヶ谷会館より召集、参列せしむること」については、市ヶ谷会館にいた楯の会会員30名は既に警察の監視下に置かれており現場に召集されなかった。

 午前11時55分頃、鉢巻姿の森田、小川らが、要求項目を書いた垂れ幕を総監室前バルコニー上から垂らし、檄文多数を撒布する。檄文の内容については別サイトで考察する。三島は定刻になるのを待って歩き回っていた。

 正午直前、三島は、カーキ色の楯の会の制服を着て「七生報国」と書かれた日の丸のハチマキをしめ、日本刀・関孫六の抜身を持って二階の総監室外のバルコニーに立った。森田は要求を書いた垂れ幕を広げた。

 正午、三島はマイクなしの肉声で拳を振り上げながら演説を始めた。演説の内容については別サイトで考察する。事件を知った報道機関のヘリコプターが飛来し旋回していた。その騒音でマイクをもたない三島の声はかき消された。隊員たちは野次をとばし続け三島の訴えに嘲笑で応えている。三島は「静聴せい!」と再三叫んだものの野次と報道ヘリコプターの騒音で演説がかき消された。後に、この悲痛な光景をテレビで見た作家の野上弥生子は「三島さんにマイクを差し上げたかった」と述懐している(堤堯談)。現場に居合わせたテレビ関係者などは演説はほとんど聞こえなかったと証言している。録音でも野次にかき消されて聞こえない部分が多い。しかし三島から呼ばれ、現場に居合わせたサンデー毎日記者の徳岡は、「自分たち記者らには演説の声は比較的よく聞こえており、テレビ関係者とは聴く耳が違うのだろう」と語っている。

 その場にいたK陸曹は後に次のように反芻している。

 「バルコニーで絶叫する三島由紀夫の訴えをちゃんと聞いてやりたい気がした。ところどころ、話が野次のため聴取できない個所があるが、三島のいうことも一理あるのではないかと心情的に理解した。野次がだんだん増して行った。舌打ちをして振り返った。(中略)無性にせつなくなってきた。現憲法下に異邦人として国民から長い間白眼視されてきた我々自衛隊員は祖国防衛の任に当たる自衛隊の存在について、大なり小なり隊員同士で不満はもっているはずなのに。まるで学生のデモの行進が機動隊と対決しているような状況であった。少なくとも指揮命令をふんでここに集合してきた隊員達である。(中略)部隊別に整列させ、三島の話を聞かせるべきで、たとえ暴徒によるものであっても、いったん命令で集合をかけた以上正規の手順をふむべきだ。こんなありさまの自衛隊が日本を守る軍隊であるとはおこがましいと思った」。

 徳岡は、この時の演説を聞き取れる範囲で書き残し、三島からの手紙、写真と共に銀行の貸金庫に保管していると云う。この演説の全て録音することに成功したのは文化放送だけであった。マイクを木の枝に括り付けて、飛び交う罵声や現場上空の報道ヘリコプターの騒音の中、三島の演説全てを録音することに成功しスクープとなった。

 30分ほどを予定していた演説を7分間で終え、三島と森田は型通りに「天皇陛下万歳」を三唱し総監室に姿を消した。

れんだいこのカンテラ時評№1165  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 9月13日

 三島最後のドキュメント考その6、「割腹」事件

 三島事件割腹自殺前の様子は「三島最後のドキュメント考その3、決行」の通りのようである。さて、これからがミステリーである。本稿を「三島最後のドキュメント考その6、『割腹』事件」とする。れんだいこは、1993.10.20日の築地の朝日新聞東京本社朝日新聞本社で自決したとされている野村秋介の不審死に通じるものを嗅ぐ。要するに、野村秋介は本当に拳銃自殺したのか、そのように見せかけられて始末されたのかの問いである。本稿は「野村秋介自決事件」を問うものではないので、疑問があるとだけ記しておく。

 午後零時15分、演説を終えた三島が、側らにいた森田と共に「天皇陛下万歳」を三唱したのち、バルコニーから総監室に戻った。通説によれば三島はこの後すぐに割腹行為に出ている。次のようなドキュメントになっている。

 三島は、「20分くらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」とつぶやいている。そして、「益田総監には、恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方なかったのです」と話しかけている。その後、恩賜煙草を吸っている(三島は園遊会で貰った恩賜煙草を持って来ていた)。一服した後、長靴を脱ぎ、上着のボタンを外し、ズボンを押し下げ、上半身裸になり、バルコニーに向かうように床に正座して短刀を両手に持った。背後の森田を見上げ、「君はやめろ」と三言ばかり殉死を思いとどまらせようとしている。手筈では割腹した血で「武」と指で色紙に書くことになっていたので、小賀が三島に色紙を差し出すと、「もう、いいよ」と言って淋しく笑い、右腕につけていた腕時計を「小賀、これをお前にやるよ」と渡している。

 次に、「うーん」という気合いを入れ、「ヤァ」と叫び、自身の左脇腹に短刀を突き立てた。鋭い短刀を腹に刺し込み、右へ向けて横一文字に引いて腸が飛び出すほど深い切り方をしている。総監が「やめなさい」と述べたところ、「介錯するな、とどめを刺すな」と叫んだとの記述もある。

 直後、名誉ある介錯人に選ばれた森田が三島の背後から介錯している。但し三度失敗している(「二太刀打ち下ろしたがうまく切れず」ともある)。刀先がS字型に曲がっているのは何度も仕損じたことによる。剣道有段者の古賀浩靖が代わって、一太刀振るって三島の首を切り離している。あるいは「押し斬り」にしたのかも知れないとある。三度失敗説によれば四太刀目、二度失敗説によれば三太刀目に首が離れたことになる。三島の首と肩に4ヶ所の傷が認められる。

 ついで森田が割腹する。森田は、血まみれの三島の胴体の脇にひざまずき、三島が使った短刀を取って自分の腹を刺した。切り口は浅く十センチの筋肉と脂肪の層を切り裂くまでには至らない傷を残している。古賀浩靖の一太刀で森田の首も落ちた。首は一刀のもとに切られていた。

 サイト「三島事件」その他によれば、このような展開になる。しかしながら次々と疑問が湧く。これを述べる前に、れんだいこと同じような推理をしている文章に出会ったので紹介しておく。「★阿修羅♪ > カルト10」の♪ペリマリ♪氏の2013.3.6日付け投稿「三島事件の『要求書」を読み解く」、同3.9日付け投稿「三島事件の核心を推理する」が次のような推理を披歴している。

 概要「三島は割腹したのではなく殺されている。現場証人の益田総監が『現場にS副官が隠れて居た』なる重要証言した後罷免され、3年後に死んでいるのは臭い。生き残った証人たちが口裏を合わせた偽証している。秘密破壊工作員たちが三島を取り押さえて、有無を言わさず『割腹自殺』させた」。れんだいこは、この一文を読まずにほぼ同様の推理に達した。と云うことは、「あり得る推理」であることを物語っていないだろうか。こういう出会いを用意したネット掲示板「阿修羅」に感謝申し上げる。

 出典は後日確かめるとして次のような記述もある。

 「恋人の女性が介錯人だったため、なかなか切れず、むごたらしい結果になったようです。結局最後は男性によって切り落とされました。余りの痛みで舌を噛んだそうです。三度目で成功したそうです。森田は介錯を果たせず、剣道居合の経験者古賀浩靖が介錯したそうです」。

 これによると、「恋人の女性が介錯人だったため」との記述が為されている。れんだいこには、「恋人の女性が現場に居た」なることが信じられない。否、事実としては現場に女性が居たのかも知れない。しかし何の為にかは分からない。いずれにせよ変な記述である。こういう記述があると云うことは「三島の割腹死現場」が検証されていないことを意味する。

れんだいこのカンテラ時評№1166  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 9月13日

三島最後のドキュメント考その7、「割腹」事件のれんだいこ推理
 れんだいこの疑問はこうである。古賀浩靖は当時23才の楯の会会員であるが、果たして三島、森田の首を刎ねる剣技能を持ち得ていたのかどうか。首刎ねなどは素人ではできないのが常識である。居合を習っていようが剣道を心得ていようが、よほどの手練れでないとできない。当時23才の古賀浩靖が「習った程度」で「できた」という根拠が分からない。これは武道の心得のある者には常識である。そういう訳で、これについて古賀浩靖の克明な証言を知りたい。古賀は、事件後、裁判に付されており、それなりの証言をしていると思われるが裁判記録ではどう明らかにされているのだろうか。ネット検索には出てこない。こういう場合、隠されていることを意味する。

 次に、首を刎ねた刀への疑問が湧く。「三島持参の日本刀・関孫六」で処したとしか考えようがないが、三島の首を落とすのに三太刀もしくは四太刀の難儀をしている。既に相当に刃こぼれしているであろうに「森田の首は一刀のもとに切られていた」。刃こぼれ太刀で森田の首刎ねがスパッと斬られていることになる。技能上の問題だけでなく刃こぼれと云う物理上の問題が介在していたはずである。「刀先がS字型に曲がっている」との記述もある。そういう関孫六で「森田の首が一刀のもとに切られていた」ことが不自然過ぎよう。そういう疑問が湧く。

 更にそもそも三島がなぜ深く切り込む切腹をしているかにも疑問が湧く。これについては既に議論がなされている。この時点で三島は映画「人斬り」で田中新兵衛に扮して切腹模擬している。深く切り込む切腹では介錯が容易でないことを承知している筈である。にも拘わらず、相当深く真一文字に切っているのは切腹の仕方として不自然過ぎる。森田の浅切りの方が切腹作法に適っており、三島の深切りの方が反している。これは三島武士道に対する冒涜ではあるまいか。ここまでの疑問は争いようのないことのように思える。

 これからが推理になる。更に遡れば、総監室へ何の支障もなく戻れ、事が首尾よく進展したとすることがそもそもオカシイ。三島がバルコニーで演説していた間、益田総監が縛られ通しで居たことになるが、そのこと自体が信じられない。事件は陸上自衛隊駐屯地内である。おめおめと最高幹部の東部方面総監を救出できるのに、要求書に基づく打ち合わせがあったにせよ縛られたままにしておくなんてことがあるだろうか。警視庁機動隊一個中隊が総監室に到着していたはずである。手をこまねいて三島演説を聞いていたと云う構図が嘘臭過ぎる。容易に推理できることだが、三島の演説中に益田総監が解放されていないとオカシイ。

 そうなると総監室に戻った三島に待ち受けていたのは屈強な精鋭たちによる拘束しかあるまい。この時、三島が応戦している可能性がある。発表では、総監人質事件発生時に自衛官が突入し複数負傷しているが、この時の負傷か三島が総監室へ戻ってきた時の負傷か定かではない。三島が総監室に戻った時の乱闘による負傷の可能性を求めるべきではなかろうか。

 こうして疑問が次から次へと生れる。真相は藪の中であるが、れんだいこ結論として、三島と森田が総監室に戻った際に、その場で捕捉され、後は操られるままに切腹死を強制させられたと推理する。故に三島は作法にあるまじき深い切腹で応じ、森田は腰砕けの状態で介錯に向かい、役に立たなかったので手練れに代わり首を切り離させ、しかる後に森田の首刎ねを演じた。これが一部始終なのではあるまいか。古賀が介錯したなる説は嘘臭い。してみれば「強制割腹死」の可能性があるとしたい。こう疑う余地が十分にある。

 決め手は総監室に居た者たちの証言である。最低限その場に居合わせた者として益田総監、生き残った楯の会の古賀浩靖、小賀正義、小川正洋が考えられる。総監室に突入した自衛官の証言も必要であろう。彼らがどう証言しているのかが肝心であるがネット検索では出てこない。妙なことに揃いも揃って皆が割腹事件を完黙している気配が判明する。こういう場合、隠されていることを意味する。れんだいこ推理に従えば、三島と森田を補足した者たち、それを指令した者たちこそが最重要人物であるが、そういう者は例によって陰に隠れるとしたものである。この推理に立つと、世上の「三島美学の完遂としての割腹死事件」の延長上で為されている評論の軽薄さが透けて見えてこよう。

れんだいこのカンテラ時評№1167  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 9月13日

 三島最後のドキュメント考その8、「人、虎孔裡(こうり)に堕つ禅問答」考

 三島が敢えて死を賭しての市ヶ谷駐屯地闖入、総監人質&バルコニー演説&割腹死事件の挙に出たのか、これを推理する。参考になるのは大本教二代目教祖・出口王仁三郎の「人、虎孔裡(こうり)に堕つ禅問答」である。この時、王仁三郎は、1936(昭和11).3.13日の第二次大本教弾圧事件で治安維持法違反と不敬罪で逮捕、起訴され、法廷闘争下に置かれていた。その時の法廷で、王仁三郎は、「人、虎孔裡(こうり)に堕つ禅問答」をしている。裁判長のそもそもの問いは分からないが、王仁三郎は裁判長にこう問うている。「人が虎の穴に落ちたとして、あなたならどうするか」。この問答は、裁判長ないしは権力が虎、王仁三郎が虎の穴に落ちた人を前提として問い掛けられている。裁判長は答えに窮して沈黙する。王仁三郎がこう答えている。

 「人間より虎の方が強いから逃げようとすると殺される。刃に向かっていっても同じ事だ。ジッとしていても虎の腹が減ってくると殺しに来る。どっちにしても助からない。けれど、一つだけ生きる道がある。それは食われてはダメだ。こちらから食わしてやるのだ。食われたら後には何も残らんが、自分のほうから食わしてやれば後に愛と誇りが残るのだ」。

 裁判長が思わず「うーん」とうなり、打たれるものがあったと伝えられている。つまり、王仁三郎は、裁判長(国家権力)に向かって、「君達が私を裁くのではなく、私が君達をして裁かせてやっているのだ」と言い放ったことになる。三島の心境は、「出口王仁三郎の『人、虎孔裡(こうり)に堕つ禅問答』」そのものの実践だったのではなかろうか。

 「大本教考」
 (nakayamamiyuki/oomotokyoco/top.htm

 推理するのに、総監室に戻った三島に待ち受けていたのは屈強な特殊部隊、そしてこれから起こる惨劇を見届ける奥の院エージェント複数名であった。三島は、「先生、あなたには死しかありません。見事に死んでください」と引導が渡された。情況を理解した三島は切腹死の途に就いた。それは、三島にしてみれば、三島の至誠を愚弄する権力の壁に対する死を賭しての愚弄の仕返しであった。こういう結末もあるらんと覚悟していた三島は割腹の儀礼に入り、忠実に腹を裂き、しかも深切りして見せた。三島が「介錯するな、とどめを刺すな」と叫んだのは、このセンテンスで理解できる。

 三島は、薄れゆく意識の中で、「人、虎孔裡(こうり)に堕つ禅問答」の「こちらから食わしてやるのだ。食われたら後には何も残らんが、自分のほうから食わしてやれば後に愛と誇りが残るのだ」を味わっていたに違いない。そういう死に方も三島にしてみれば本望と云えるものだったかも知れない。生きて帰ることも期していなかった訳ではないが事ここに及べばここが命の捨て場と割り切り蕭々と首を差し出したのではなかろうか。死ぬも一法、角栄のように敢えて生き恥を晒し続けるのも一法、皆な「出口王仁三郎の『人、虎孔裡(こうり)に堕つ禅問答』」そのものの実践だったのではなかろうか。文学的思想的に表現するとそういうことになる。

 それはともかく、ノーベル文学賞候補として報道され、多方面で活躍中だった著名作家のクーデター呼びかけと割腹自決のニュースは、日本国内だけでなく世界各国に配信され注目を集めた。その波紋は論議を起こし、今日まで回想を含め様々な出版物が刊行されている。しかし、三島をどう理解するのかについては様々で、読んでもいないのに云うのはおこがましいが、れんだいこ的には物足りない。れんだいこは、三島は死してなお歴史の棺に納まっておらず、その意味で彷徨っているとみなす。本ブログは、三島を歴史の棺の納まるべきところに納めたいと思念して書いている。三島が得心してくれれば本望である。

れんだいこのカンテラ時評№1168  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 9月13日

 れんだいこの三島由紀夫論その1、総評

 2013.8月末頃、ふと三島由紀夫論をものしておきたくなった。れんだいこがこれほど三島に接近したことはない。これまでの絡みでいえば、「金閣寺」を読んだこと、他に「潮騒」とか「仮面の告白」等があることを知っていること、1969年辺りの新聞文化論で三島が「愛することと恋することの違い」を書いており、これにいたく感応したことぐらいが予備知識である。

 何と言っても強烈な印象は、れんだいこの在学中に三島割腹死事件が起こったことだろうか。森田必勝が早大教育学部の人であったので教育学部校舎の前庭に追悼看板が出ていた。当時のれんだいこは民青系の全学連活動に懸命な時期だったので何やら奇異な印象でそれを眺めていたことがある。三島との絡みはこれぐらいのことしかない。そういう訳で、これまでさほど関心を持たなかった。

 ところが、今年2013年の5、6年前、れんだいこがマメに参詣し始めた奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社から登山口に至る参道に三島が訪れたことが表示されており、三島と大神神社の縁を知るに及び「おやっ」と思った。三島の愛国主義が出雲王朝-三輪王朝のラインにまで理解を寄せていたことを知り、あの辺りから三島に対する認識を変えた。その後、れんだいこは「原日本論新日本論」を確立した。以来、このトレースから三島由紀夫論をものしておきたくなった。三島の国体論の原日本域までの接近ぶりを確認したくなった。何かれんだいこに熟するものが生まれ、三島を評し得るようになったのではなかろうかと思う。

 三島由紀夫の論考は既に多くあるが、三島由紀夫論の本質に届いていない気がする。れんだいこが手短かに評すれば、「生き急ぎ死に急いだ」が総評となる。ただこれは外形的な評でしかない。内在的に分析すると、三島に狂気性が見て取れるが、その狂気は何に由来していた詮索せねばなるまい。確かに狂気であるが、その狂気には根拠があるはずである。それを探りたい。

 三島は日本歴史の琴線に触れる何か重要なものを掴みかけており、それに懸想しており、それが何であるかを廻って精神的に格闘し続けていた形跡がある。戦後の体制がそれを活かしておらず、そのはがゆさが嵩じて次第に狂気化したのではなかろうかと云う気がする。そして、1970.11.25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)に乱入し、益田兼利総監を人質にして籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした直後に割腹自決した(享年45歳)。既に「三島最後のドキュメント考」で言及したように強制されたものであるにせよ。

 この時、三島は辞世の句二句を用意していた。「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」 、「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」。吉田松陰ばりの辞世の句である。ちなみに松蔭のそれは「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」、「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」である。

 三島を論ずるのに、通評は、自衛隊乱入事件による割腹自殺の終点から評し、右翼は「自分の死をもって国の行く末を案じた憂国の士」であるとして評価する。左翼は逆に右翼民族派の愚挙として批判する。あるいは三島に「自己過愛性人格障害」を見て取り、この観点から紐解こうとする分析もある。ほぼこの三系からの三島論が為されている。れんだいこは、そういう評では物足りなくなった。れんだいこが漸く獲得した「原日本論新日本論」の観点から三島をトレースすべしと囁く声がする。この観点からすれば、三島は死してなお歴史の棺に納まっておらず、その意味で彷徨っているとみなしている。

 思うに、三島がれんだいこの説く「原日本論新日本論」で覚醒しておれば、別の生きざまを刻んでいたはずである。三島の右翼民族派としての面貌は、れんだいこにはムヤミヤタラに見える。その憲法改正論、天皇論、自衛隊論は余りにも練れてなさ過ぎる。それと云うのも「原日本論新日本論」観点を持ち合わさなかった故と見る。

 三島が真に掴もうとしていたのは、日本の悠久の歴史の纏わる神州性、これによるところの大和民族の礼賛と護持ではなかったか。この心性をエートスとして様々な政治的衣装を着せ発言し行動してきたが、それらの衣装はことごとく新日本系のもので、三島が掴もうとしていた日本賛美論とは本質的に齟齬していたのではなかったか。三島に必要だったのは原日本論の地平からの理論武装ではなかったか。

 この観点を持たないまま皇国史観的愛国愛民族運動に突入したアンバランスが三島の狂気を生み、それがうまく操られ、最後に非業の死へ至ったのではなかろうか。よしんばそういう死を三島自身が求めたにせよ。れんだいこにはかく見える。以上で三島論の要点を言い切ったが、以下、これをもう少し詳しく検証する。

 補足する。三島が「あしたのジョー」の愛読者であった様子が次のように記述されている。

 「(三島は)ボクシング観戦好きで、自身も1年間ほどジムに通った経験のあった三島は、雑誌『週刊少年マガジン』に連載されていた『あしたのジョー』を愛読していたという。夏のある日の深夜、講談社のマガジン編集部に三島が突然現れ、今日発売されたばかりのマガジンを売ってもらいたいと頼みに来たという。理由を聞くと、三島は毎週マガジンを買うのを楽しみにしていたが、その日に限って映画の撮影(『黒蜥蜴』)で、帰りが夜中になり買うところもなくなったため、編集部で売ってもらおうとやって来たという。三島は、『‘’あしたのジョー‘’を読むために毎週水曜日に買っている』と答えた。財布を出した三島に対して、編集部ではお金のやりとりができないから、1冊どうぞと差し出すと嬉しそうに持ち帰ったという。当時は24時間営業のコンビニなどはなかったため、夜になって書店が閉店してしまうと、もう雑誌を買うことができなかった。三島は『あしたのジョー』が読みたくて翌日まで待てなかった」。

 この記事を読む前から、れんだいこは、三島の生きざまを「あしたのジョーの生き様」になぞらえていた。この記事に出くわして、これが裏付けられたことがことのほかうれしい。そう、三島の生き様は、「あしたのジョー」のように生を燃焼させ、最後は燃え尽きてセコンドに座って白い灰になる生き方を夢としていた。

 これを少し説明すると、三島は戦前的な世であれば即ち世が世なれば日本文学会の芥川龍之介以来の早熟な大御所になり得ていた。ところが大東亜戦争の敗戦とともに世が変わり、いわゆる戦後民主主義の時代となった。この時代、三島は本質的に戦後体制から疎外された。いわゆるアウトサイダーにされていた。それにも構わず、あり余る才能で時代の寵児になり得ていたが、いくらベストセラーを生み、演劇等の様々な分野にまで活躍しようとも、体制の壁からすれば常にアウトサイダーの身でしかなかった。当人の責任でもない及ばざるところのこの屈折が「あしたのジョーの快刀乱麻の生き様」に重なっていたのではなかろうか。そういう気がする。

 2013.9.1日 れんだいこ拝

れんだいこのカンテラ時評№1169  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 9月14日

 れんだいこの三島由紀夫論その2、戦後の三島文学のスタンス考

 三島の履歴を通覧して思うのは、三島の紛うことなき日本文学史上に卓越した才能である。僅か10歳有余にして文壇に頭角を現していることに驚かされる。この面からの評価に於いて我々の三島評は足りなさすぎる。多くの人は、これまでのれんだいこがそうであったように三島の活動履歴を知らなさすぎる。

 れんだいこの臭い的には芥川龍之介以来の非凡な文人ではなかったか。人はノーベル賞を受賞した面から川端康成を高く評価しているが、その川端が文学能力を高く認めていたのが三島であることを我々は知らなさすぎる。川端康成がノーベル賞を受賞したからには三島の受賞も当然であるところ、三島文学が持つある種の思想的な危険な臭いが選考を不利にし受賞を逸したのではなかろうかと思われる。三島の神風連論、北一輝論、2.26事件論、ヒットラー論に見せた観点を窺えば、国際ユダヤ主義サイドに立つノーベル賞選考委員が三島を忌避するのは当然である。

 しかしこれは選考側の問題であって断じて三島の責任ではない。三島の責任においては川端康成がノーベル賞を受賞するからには三島にも十分な資格がある。三島在世中には、三島が書けば、その外国翻訳が並行した。これは極めて珍しいのではなかろうか。三島はまさに世界から注視される戦後日本文学界の鬼才、偉才であった。その三島が戦後の世界体制の壁に阻まれノーベル賞受賞を逃しただけのことである。こう窺う必要がある。これを論(あげつら)うのが本ブログのテーマではないので以下を割愛する。補足すれば惜しむらくは西郷隆盛論に向かわなかった三島の政治的感性が悔やまれる。

 ここでは三島の政治的見識を問う。三島の右翼過激主義的な理論と実践はどこからもたらされているのだろうか。結論から言えば要するに三島の戦後の生の営みは、戦後民主主義体制の欺瞞を感じ取り、まだしも戦前の方に相対的な良質さを感じており、それ故にいつもある種の復古趣味に傾斜していたのではなかろうか。戦前日本にあった日本浪漫派への憧れである。三島は日本浪漫派が存在していた時代の超早熟な嫡出子であった。日本浪漫派の系譜で順風満帆の登壇階段を登り詰めつつあった。

 だがしかし運命は急転する。1945(昭和20)年、丁度20歳の時の8.15日に終戦、大東亜戦争が終わった。この時、三島の脳の思惟構造は既にできあがっていた。世が世なれば順調に登龍するはずだったが世の中そうは思う通りにならない。次の時代に訪れた戦後民主主義体制には浪漫派の座る席はなかった。日本浪漫派のエリートとして自己形成していた三島は戦後体制の浪漫派駆逐構造を嗅ぎ取り嫌悪した。かくて戦後暫くの間、三島は新しい時代と調整する時間を要した。結果的に三島は無気力から脱し、新しい時代に阿ねることを拒否する方向に活路を求めた。これより波乱の人生に立ち向かうことになる。そこから出てきた三島の「時代了解」が「三島その後の行動」の基本になっているのではなかろうか。そういう節々が感じられる。

 三島の履歴を見れば、尋常でない早熟ぶりとありあまる才能が暇を持て余すかのように精力的に書き続けていることが分かる。憑りつかれた様に書き続けていることが分かる。生涯作は凡そ数百作以上になるのではなかろうか。れんだいこは、これほど「名著の多作」を為した文学者を知らない。しかも小説の短編、長編。戯曲、随筆、評論のみならず演劇、映画等々に役者として出演するなど何でもござれの多芸多才ぶりを発揮している。恐らく無為のできない書かずにおれない質の文筆の才人だったのであろう。併せて何かと話題を振りまくスーパータレントの先駆けだったのではなかろうか。次のように評されている。

「三島由紀夫は文学者として膨大な数の作品を残した。現代の軽めの小説とは異なり、いずれも重厚な純文学作品だ。三島・谷崎・川端は昭和戦後文学の最高峰として現在も揺るぎない評価を受けている。だが、三島由紀夫が残したものはそれに留まらない。文学者であると同時に、新民族主義の旗手であり、日本の保守思想を切り裂いた思想家でもある」。

 だがしかし、三島は文学的な面では紛れもない早熟な天才であったが政治の面では素養にかけていた。これが原因でアナクロな政治的主張、その実践に踏み出すことになったと思われる。が、恐らく胸中は常に悶々としていたに相違ないと拝察したい。彼が今、「原日本論新日本論」史観を得るならば、闇雲な政治的乱痴気騒ぎはしなかっただろう。戦前回帰を思念としつつも戦前の中身を「原日本論新日本論」で嗅ぎ分け、皇国史観的な狭隘物を排除するからである。これを獲得しないままの三島が苦吟し彷徨し続けていたことを思わざるを得ない。あるいは三島の階級的立ち位置が好んで皇国史観と親和していたのかも知れない。

 三島の自虐的な死は究極のところ、己の能力を押し込めた、否能力は披歴したがこれを公的に認めない戦後体制に対する最終の抗議死ではなかったか。彼にとっては戦後体制そのものが欺瞞であった。戦後体制に疎まれた三島による戦後体制の欺瞞を衝くパフォーマンスが自衛隊基地突入による悲劇的な死であった。結局、「生き急ぎ死に急いだ」。まさに巨星墜つである。これが結論となる。それは芥川龍之介に見られるような作家的な美学死に染まっていたのかも知れない。しかしこの観点ではお騒がせな死の説明ができないので、やはり主としては政治的義憤死の面から評さねばならないだろう。

 こういう三島の悲劇と喜劇が分からねば三島論は書けない。戦後文壇の旗手にして寵児。思潮を生み出し、その渦の主人公として自負し続けていた。悪い意味ではなく凡そ控え目と云うものを知らない。これにより自ずと渦の中心にいることになる。しかしこれは強い責任感に裏打ちされたものであり凡人が評するところの自己顕示欲とは似て非なるものと云うべきだろう。その三島が何か得体のしれない戦後社会のシステムから弾き飛ばされ、そういう意味で疎外され続けていたと云う面の考察抜きには三島を語れない。

 1969(昭和44).5.13日の満員となった東大教養学部900番教室での全共闘と三島由紀夫の討論会の場で、三島が全共闘的闘い方に共感する旨を表明し、「君達が天皇を認めるならば君達に同意してもいい!」と言い放った裏には、全共闘の解体論理に対するメンタリティーの共有が介在していたのではなかろうか。

れんだいこのカンテラ時評№1170  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 9月19日

 三島最後のドキュメント考その7の2、「割腹」事件のれんだいこ推理補足

 「割腹事件のれんだいこ推理」を補足しておく。この時の首切りに「関の孫六」が使われたと推論していたが、三島の両親の平岡梓・氏が次のような「妙な」証言を遺している。

 要点のみ確認すると、前段では「介錯に使われた刀は『関の孫六』でした」としつつも、寄贈者・舩坂弘・氏の証言、概要「警察に呼ばれた時、実物を見せてもらったところ、奇妙なことに柄のところが金槌でめちゃくちゃにつぶされていて二度と抜けないようになっていた」を引用し、「その後の調べで倅の周到な処置であることが判りました」と追記している。後段では「倅は死ぬのは自分一人で足りるとして森田君の巻き添えを許さなかった」と述べつつ「森田君の希望により倅の介錯は彼にたのむ手筈になったものの、倅の眼から見ると、森田君の技倆はおぼつず、万一にも柄が抜けることのないよう抜けない処置をして彼に手渡した」と結んでいる。

 これはどういう意味か。「平岡梓証言」を裏推理すれば、「関の孫六」は抜けないように細工されていたのであるから「介錯に使われた刀は『関の孫六』ではない」ことになる。こう理解した方が「関の孫六」一刀で三島の首切り、森田の首切りに及べたと云う不自然さが解消する。しかし、三島らが持参していたのは「関の孫六」だけであり他に用意していたとの記述はない。とすると、三島の首切り、森田の首切りに使われた刀は三島、森田を強制切腹せしめた側が用意していたとの推理が成り立つ。それと森田の後追い切腹死にも何がしか不自然とする疑問を投げかけていることになる。

 次の補足。三島の首切り、森田の首切り現場は総監室ではないのではなかろうか。演説から帰ってきた三島らは直ちに拘束され、然るべき監禁室へ連れ込まれ、そこで凶行に及んだのではなかろうか。この現場に楯の会の残りの3名、益田総監は居なかったのではなかろうか。全て事がが終わった後の死体現場に連行され、そこで形だけの追悼が許されたのではなかろうか。これにより、楯の会の残りの3名、益田総監の切腹時の様子の証言があったにしても「口裏合わせた作り話し」と云うことになる。法廷証言を確認していないので、どのような証言になっているのか知りたいが分かららない。ネット情報には出てこない。

 次の補足。「★阿修羅♪ > カルト10」のペリマリ氏の2013.3.9日付け投稿「三島事件の核心を推理する」による「益田総監証言」は重要過ぎる。その第一は、「S副官を衝立の陰に身をひそめさせた証言」である。この証言にはS副官が衝立の陰に身をひそめたとしていることには意味はない。場所は分からないがS副官ないしは複数が現場の様子を監視し続けていた証言として受け取ることにより意味を持つ。つまり、事件の成り行きが全て当局側にキャッチされていたことを意味する。

 「益田総監証言」の重要過ぎるその第二は、「この日、益田総監は三島由紀夫に面会する前から何かを予感していた。それが何であるかは自分でもはっきりつかめなかった証言」である。これを「虫の知らせ」的に受け取る必要はない。実は三島らによる市ヶ谷駐屯地での不穏な計画が事前にキャッチされていたことを間接証言したものと拝することができる。「楯の会」の動きが筒抜けになっており、「三島らがこの日に来て何かが起こる」ことが予知されていたのではなかろうか。そういう証言として受け取ることができるように思われる。即ち、三島らが「飛んで火に入る油虫」の「袋のネズミ」状態に於かれていたことを意味する。この重大証言後、益田総監は事件から2年足らずの1973(昭和48).7.24日、逝去(享年60歳)している。死因は書かれていない。

 次の補足。三島は、ある程度そうした事情を知っており、最後は市ヶ谷駐屯地での自衛隊クーデター扇動後の結末について半ば生きて帰れない半ば生きて帰られるの半々勝負の賭けに出たのではなかろうか。どちらにでも対応できる形で決行した形跡が認められる。これらの推理によれば、三島割腹事件に於ける三島美学を窺うとすれば、半々勝負の賭けの結果、無慈悲な死が強制されるに及び、最も憤怒する形で見事に腹を引き裂いた三島の意地であろう。哀れなのは森田であるが、森田も巻き添えにされ死を蕭々と受け入れたものと思われる。

 次の補足。事件直後に川端康成が駆けつけている。川端は事件直後の三島の切り離された胴体と首を確認していることになる。 川端はその後、精神に変調を来し、眠れないと周囲に漏らしたり、三島の霊にうならされているかのような言動をするようになる。 以来、会議や講演などはこなしていたが健康がすぐれず新しい文学作品を書けなくなった。三島の自刃から約1年半後の昭和47.4.16日、鎌倉の自宅を出てタクシーを拾い仕事場の逗子マリーナ・マンションの自室で水割りを少し飲んだ後ガス管をくわえた形で変死している。遺書はなかった。川端が何故に凶行現場に入れたのか、何故に精神に変調を来したのか、ノーベル賞作家ともあろう者が何故に不可解な死を遂げたのか、いずれも疑問と云わざるをえない。

 次の補足。現場に駆け付けた者として他にも石原慎太郎(当時参議院議員)が確認されている。後日、石原は「現場検証した警察関係者から『川端先生が中へ入って見ていった』と聞かされ、川端が三島を見送ったならばと入室を辞退した」と述べているが、現場を確認している可能性が強いと窺うべきだろう。佐々淳行(当時警視庁警務部参事官)も訪れている。佐々の入室辞退の弁はないので、現場を確認していると推理すべきだろう。それにしては現場証言がないのが疑問である。妙なことに現場証言がないことで共通している。

 次の補足。三島の胴体と首が切り離された割腹現場、切断された生首写真が事件直後の朝日新聞夕刊早版に掲載されている。同年12.11日号の朝日新聞社の週刊誌「アサヒグラフ」にも「特報 三島由紀夫割腹す」として三島の生首写真が掲載されている。1984(昭和59)年の写真週刊誌「フライデー」創刊号にも三島の生首写真が掲載されている。その掲載の仕方は晒し首的な意味合いを持っているように思われる。武士道的観点からすると切腹した者の生首を晒すのは御法度であることを踏まえると、秘密結社独特の処刑が行われ、見せしめにされた可能性が認められる。

 三島、森田の遺体は慶応大学病院法医学解剖室・斎藤教授の執刀で司法解剖されているが、その「解剖所見」はノーベル賞候補たる日本の誇る世界的有能氏の死に対するものにしては実に素っ気ないものでしかない。これは、宮顕リンチ致死事件で死亡した小畑中央委員のそれと比較したとき分かる。小畑氏の「解剖所見」は頭のてっぺんから足のつま先まで克明に記述されている。これを思えば何と簡略なものだろうかと云うことになる。れんだいこ的には生前死後両面からの凌辱形跡が認められるのか認められないのか知りたいところであるが、この疑問に答える所見が殊更記されていないように思われる。

 最後の補足。事件後、中曽根防衛庁長官がわざわざの外人記者クラブ会見をやってのけ、「事件をどう思う」と聞かれて「宝塚少女歌劇を思い出す」と答えて爆笑させたとの史実が刻まれている。れんだいこ的には、三島の生首の写真公開と中曽根の弁がハーモニーしている気がしてならない。

 もっとも、この中曽根弁に対して不謹慎非難がごうごう浴びせられたようで、後日「中曽根康弘、三島裁判の証言」で次のように述べている。「実は新聞記者に内閣の考えを出せと執拗に責められたが、内閣側は黙して語らずで、官房長官もなんの発言もしなかった。自分としてもこれはむしろ内閣官房長官が談話を発表すべきものであると思うが、止むを得ず自分が新聞記者会見をやった。そして排撃の意思を強く打ち出したのだ。誤解のため鳴りつづけの電話その他で随分ひどい目にあった」。 この時の引き続きの弁で三島国士論を披歴し事なきを得ている。しかし思うに、事件直後の中曽根の三島愚弄弁こそ、三島を誘い込み葬った連中の本音を語っていたのではなかろうか。

 まだまだ不自然なことが見えてくるかもしれないが、とりあえず以上を確認しておく。






(私論.私見)