カンテラ時評39(1141~1170) |
(最新見直し2010.07.21日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
2007.3.24日 れんだいこ拝 |
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れんだいこのカンテラ時評№1154 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 7月16日 |
「平仮名いろは歌土器」考その4 「平仮名いろは歌土器」考で云い忘れていたことがありその4として追加しておく。「日本語には他の言語ではマネのできない芸当がある。それが和歌である」として縷々述べたが、歌のほかにも話芸があり、これについても述べておく。他の言語でも可能なのだろうが、日本語が鍛えに鍛えてきた独特の次のような話芸があることを確認せねばならない。 その筆頭は落語であろう。小話しから長話しまで演目は二千をくだらない。次に漫才、漫談、講談、浪曲、浪花節、詩吟、民話小話しと続く。これに歌舞伎、能、狂言、文楽、浄瑠璃等の古典芸能の語りも加わる。一体、世界の諸言語の中で、これほど話芸を磨いている言語が他にあるのだろうか。 世界最古の長編文学として知られる紫式部の源氏物語、同時代の清少納言の随筆は日本の宝である。全編が流暢な大和言葉で書かれている。この大和言葉の過半がその後の日本語から消えており、今では古文学の素養をもってしか読めない。史書はさらに古く古事記、日本書紀、古史古伝がある。それらは他のどの民族のそれに比しても引けを取らない民族の歴史書足り得ているであろう。平家物語、太平記等の軍記物も残されている。これらを思えば、日本語そのものが最初の国宝に値するのではなかろうかとさえ思う。 2013(平成25).7.16日付けの毎日新聞「余録」が興味深い次のような話しを記している。「その場面を想像すると、思わず頬が緩んだ。今月初…」と題して「今月初め、ブルネイで開かれた東南アジア諸国連合地域フォーラム(ARF)に参加した中国の王毅(おう・き)外相と米国のラッセル国家安全保障会議アジア上級部長が宿泊先で、日本語で立ち話をしたという。知日派の2人は、北朝鮮の核問題などで意見交換したようだ▲ラッセル氏は近く国務次官補に就任する東アジア外交のキーマンだ。大阪・神戸総領事時代に何度か話す機会があったが、日本語のうまさにはいつも感心させられた。一緒に参加した国際シンポジウムでも、日本語での当意即妙(とういそくみょう)の受け答えで聴衆を魅了した▲王氏の日本語能力も負けてはいない。日本大使時代、財界人相手に行った講演を聴いたことがあるが、見事な日本語で中国の立場や日中関係の重要性を訴えていた。あの2人が日本語で話し合ったのなら、細かなニュアンスまでやり取りしたことだろう▲外交官として日本語を身に着けた両人は特別なケースとしても、国際交流基金の昨年の調査によると、海外での日本語学習者は398万人を超え、2009年の調査に比べ9%増えている。国・地域別では、中国が27%増の約105万人で、初めてトップになった」云々。 れんだいこには実に興味深い話しだ。フォーラムの席で、米中二人の外交官が国際公用語としての英語ではなく日本語で立ち話しをしたと云う。これはどういうことだろうか。日本語に習熟すれば英語よりも「細かなニュアンスまでやり取り」できると云うことではなかろうか。 次に海外での日本語学習者が増えていることも伝えている。これは、日本の経済力が増す中での現象であれば容易く理解できる。ところが承知のように日本の国際的地位がどんどん低下しつつある中での日本語学習者の増大である。これをどう理解すべきだろうか。れんだいこには、芸術言語としての日本語の魅力が次第に世界で認知されつつあるとしか考えにくい。台湾では日本統治時代に得た日本語が廃れていないとも聞く。 これらを思えば、当の日本が日本語を粗末にしながら英語国民化へ向かおうとしている折柄、世界が日本語を育てようとしていると云う仮説に辿り着く。滑稽な話しではなかろうか。黒船以来百五十年の間に米欧イズムの捕囚とされた政治家が「バスに乗り遅れるな」として日本語不要論、英語早期教育論をけしかけつつあるが、「バスに乗り遅れている」のは果たしてどちらなのだろうかと考えてみたくなる。 2013.7.16日 れんだいこ拝 |
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れんだいこのカンテラ時評№1156 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 7月24日 |
第23参院選選挙結果の総評その2 以下、れんだいこの第23回参議院選挙考をしておく。 こたびは先の衆院選ほどには不正投開票疑惑が起こらないが疑念も消えない。大阪選挙区での維新の会のダントツの票も気になるが指摘だけにとどめる。敢えて問題にするのは生活党の議席ゼロに対してである。同党の比例区票を全国集計すれば相当の票を得ているはずであるところ、わずか5名の選挙区票で618355票あるのに比例区票が全国で943863票しかなく、その差が325508票。全国で32万票余しか上乗せしていないという結果となっている。 しかも、5名の選挙区票が比例票に結びついていない。これは先の衆院選に続く同じ現象である。これを確認するのに青森では76342→23167である。選挙区票の3分の1しか回っていない。岩手では91048→102112で微増している。これが本来の姿だろう。千葉では148240→70007、選挙区票が半減している。新潟では165308→45182、選挙区票の4分の1しか回っていない。広島では137327→32354となっている。やはり選挙区票の4分の1しか回っていない。岩手以外では共に大幅に選挙区票から減らしていることになる。 選挙区票と比例区票は概ね一致するのが普通であり、且つ比例区票は選挙区票よりも増えるのが普通であるところ逆現象が起きていることになる。他方、維新、みんなの党では連動している。即ちこれが普通であるところ生活とみどりの風は大幅に減らすという結果になっている。この現象をどう説明できるだろうか。信じられない気がする。 結局、比例議員1人を当選させるのに約100万票必要なところわずかに及ばない結果になっているが、ムサシマシーンによる操作の可能性はないのだろうか。あるいは無効票の中に生活、みどりの風、新党大地の票が入れられている可能性はないだろうか。 れんだいこ的には生活の党の議席ゼロが信じられない。投票用紙は既に束ねられていると思うので、そう難しい作業ではなかろう。手間はかからないと思うので同党の検票を要請したい。ついでに新党大地、みどりの風のそれも要請したい。ムサシマシーンがこれらの党に限って票の読み替え、無効票化させている可能性の疑念が消えないからである。 これに関連して、小沢代表は21日夜の記者会見で、「大変厳しい選挙結果だと思っている。岩手県の結果については、正直言って大変驚いている。今もって信じられない」と語っている。小沢代表の弁は元民主党の復興相にして無所属から出馬した平野氏が事前の接戦予想を覆し、自民の田中、生活の関根に大差をつけて完勝したことに対するものであるが、不正選挙告発の意味に捉えることも可能であろう。 先の衆院選では民主党壊滅の流れの中で野田首相が独り過去のどの選挙よりも最大得票して話題になったが、同じような現象と考えられないだろうか。れんだいこ的には、敗北を再確認するためにも検票をお願いしたい。ムサシマシーンによるインチキ開票操作問題に決着をつける為にもスッキリさせてほしいと思う。 そういう疑念はあるが仮に実数だったとして以下のように思う。それにしても、生活の党、みどりの風、新党大地が雁首揃えて討ち死にしたのは選挙戦術上に大きな問題があったのではなかろうか。 れんだいこ的には特に社民党の戦術が拙(まず)すぎると思う。共産党は従前より全選挙区立候補にシフトして「唯一の野党」を誇る党であるので共闘はあり得ないので対象外として、少なくとも社民党の音頭取りで自公共闘に対抗する左派連合を模索する必要があった。 れんだいこ的には解党前の最後の救命線として党合同まで視野に入れたいと思う。党内に生活の党、みどりの風、新党大地、社民党が派閥的に生息し、党中央を選出し、その党中央権限の権能と限界を規約化し、常時共闘的に党運営する方が活力と魅力を増すのではなかろうかと思う。共産党の民主集中制論、一枚岩、満場一致体制と異なる別の組織論を持つ国民生活擁護党が必要と思う故に提言しておく。 ところが、社民党が実際にやったことは、生活の党の次期指導者たる森ゆうこ出馬の新潟選挙区に対抗馬を立て票の分散を画策したことに象徴されるように何ら戦略性のない否反動的な且つ僅か5名の選挙区候補擁立であった。その結果、選挙区では箸にも棒にも掛からない僅かな評しか取れず全員落選し、比例区で辛うじて党幹事長の又市を当選させると云うテイタラクの結果となっている。 こういう指導しかしない福島執行部の辞任、責任追及が行われるべきであると考える。福島党首は、共産党同様に口ではいいことを言うがやっていることがデタラメである。賞味期限を完全に終え、かっての土井たか子体制の腐臭域に入っていると思う。沖縄選挙区で、社会大衆党の糸数慶子に対し社民、共産、生活、みどりが推薦し自公民候補に堂々と競り勝っている。これを範とせねばなるまい。 東京選挙区で山本太郎が当選したのは新しい時代の幕開けだろう。既成の陳腐に化した運動理論とは別の日本在来土着系の百姓一揆魂による日本的左派運動の構築に向けて邁進されることを望む。共産党が東京、京都、大阪の選挙区で当選させたのは久方の朗報であるが今後を見守りたい。時代は徐々にながら基底部で変化しつつあり新しい息吹を感じる。 最後に。何故に自民党が大勝したのかの要因を確認しておく。結論は、他の諸問題に優先させて何よりも自民党だけがアベノミクスと命名するところの経済政策、景気対策を押し出していたことによる。要は、国民に対する飯の食わせ方に対する提言である。他党は自前の経済政策、景気対策を押し出さぬままアベノミクス批判に明け暮れ、自前の政財政策を打ち出さない。あるいは打ち出しているのだろうが他の諸問題との絡みの中で埋没させている。政治の要諦は「国民が飯を食えるようにする」ことにあり、他党がこれに配慮しない分、アベノミクスを押し出した自民党に期待をかけるという構図になったように思われる。 生活党に限って言えば、自公民的経済政策、景気対策とは一味違う生活党的日本救済経済政策を打ち立てそこなったところに敗因があるのではなかろうか。例えば、原発再稼働反対、新エコエネの主張だけではなく、これに伴う新需要、新景気、技術、雇用の創出と云う点での青写真を示す必要があり、実際にこの道を力強く牽引すべきなのではなかろうか。分かりやすく言えば対案能力である。これに欠けているところが自民党絶対優位の壁を崩せない主因なのではなかろうか。同じことを繰り返しても意味がないと考える。 2013.7.24日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№1157 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 7月29日 |
毎日新聞社説「全日本柔道連盟 最後通告と受け止めよ」考 今日7月29日付けの毎日新聞社説「全日本柔道連盟 最後通告と受け止めよ」を見たかや。れんだいこは、その超高圧的な物言いにはらわたが煮えくり返った。誰が執筆したのか知りたいが無署名なので関係者しか分からない仕掛けにされている。本来は堂々と署名入りで書くべきだろう。卑怯姑息千万である。 社説はいきなり「これは最後通告だ」と来る。こういう言い方でナベツネ系のものであることが分かる。ターゲットは、全日本柔道連盟の上村春樹会長である。上村春樹会長を放逐したい魂胆のみが透けて見えてくる。社説は、内閣府公益認定等委員会の圧力を是認し、同委員会の「組織の解体的出直しを求める勧告」を錦の御旗にしている。「税制優遇措置を受けられる公益財団法人の認定を取り消す」の脅しを当然視している。 ご丁寧なことに、「自立の組織運営を目指すスポーツ界にとって極めて不名誉なことだ。他の競技団体も対岸のこととして見過ごすべきではない」とまで述べている。ここで云う他の競技団体とは大相撲協会を念頭に置いているものと思われる。昨今、相撲と云い柔道と云う国技の団体が執拗に圧力をかけられているが、これは何に起因しているのだろうか。 もとへ。社説は、勧告の内容を説き明かした後、「執行部に対する事実上の辞任勧告と言える」と解説し、これを当然視している。即ち監督官庁の公益法人に対する人事介入をも是認している。そればかりではない。上村会長が会長職だけでなく理事職も辞任する意思を固めたことに対し、「遅きに失した感はあるが、一歩前進と受け止めたい」とコメントし、さらには、上村氏が講道館館長の職にとどまることがケシカランとして、「柔道に関係する一切の公職から身を引くことが上村会長に残された道だ」で結んでいる。 おいおいそこまで云うかよ。何を論拠としているのか分からんがエライ張り切りようではある。ところで、社説士のこの威勢の良さはどこから生れてくるのだろう。裏の筋から上村春樹会長追い落としのペンを振るえと背中を押されて書いただけのことであろう。何とならば、まともなジャーナルなら、大相撲協会にせよ柔道連盟にせよ自主的自律的運営を尊び、その上で健筆を振るうのが筋だからである。小泉政権下で仕立てられた新公益法人法に何の疑問も湧かさず、錦の御旗として振りまくっているのも酔狂が過ぎよう。 れんだいこが、この社説士に返歌しておく。かくなる社説を書いた以上、「毎日新聞のみならず一切の報道関係職から身を引くことが君に遺された道だ」。 こういうお調子者に社会的公器をいじらせてはいけない。この御仁は権力駆使の限度をわきまえず、絶頂の断崖まで上り詰めている。こうなると断崖から落とされるのは上村春樹か毎日新聞社説士か。れんだいこは、毎日新聞社説士をこそ突き落とそうと思う。新聞協会が、この限度を超えた煽り社説を問題として採り上げ、この論説氏に対する適宜なる処分に向かわれることを期待して結びとする。 |
れんだいこのカンテラ時評№1158 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 8月 3日 |
「麻生のナチスの如く舌禍事件」考 2013.7.29日、麻生の「ナチスの如く発言」が物議を醸している。これを仮に「麻生のナチスの如く舌禍事件」と命名する。 れんだいこの見るところ多少オーバーラン的物言いであるが、いつもの麻生式放言の範疇のもので、サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)が出てくるのは勝手であるにせよ、雑誌「マルコポーロ」の廃刊に匹敵するような麻生失脚まで追い詰めるには値しないと判断する。しかし、SWCの後ろ盾を得たマスコミ及び社共及びその類の批判が執拗に続けられようとしている。まもなく鎮火しようが、興味は麻生追い落としの政治的背景の勘繰りにこそある。 発端が、保守系改憲&軍事防衛推進派のシンクタンクとして知られている公益財団法人「国家基本問題研究所(櫻井よしこ理事長)」主催の東京・平河町の都市センターホテル・コスモスホールでの「日本再建への道」と題した7月月例会の場である。 この時、麻生は、国基研からの櫻井理事長、田久保忠衛・副理事長(「日本会議」代表委員)、遠藤浩一・拓殖大学大学院教授、ゲスト・パネリストとして麻生太郎・副総理兼財務・金融担当相、西村眞悟(無所属)、笠浩史(民主党)の両衆議院議員3名が登壇している。政治家、メディア関係者、会員、一般参加者など合わせ540人が詰めかけている。 この場での「麻生発言」が問題化されたが、こうなると対談座長の櫻井よしこ理事長の弁が一言あってしかるべきではなかろうか。音沙汰がないのが不自然である。こういう時に矢面に立たない櫻井よしことは何者ぞ。こうなると、麻生は「飛んで火に入る夏の虫」とばかりに誘い込まれたと読むことも可能である。 「麻生のナチスの如く舌禍事件」は麻生失脚騒動に転じつつある。この背景には安倍政権の後継問題がある。安倍政権は挙党一致体制とはいえ、これを子細に見れば安倍-麻生連合政権の観がある。自民党内ではこの後継を麻生ラインが引き継ぐのか石破-石原ラインが引き継ぐのかを廻って暗闘している。そのさ中の麻生失脚騒動であるからして石破-石原ラインには好都合な事態となっている。こういう流れの中でのSWCまで巻き込んだ巧妙な麻生失脚騒動の臭いがする。こう読む必要がある。 SWCの笛吹きに合わせてマスコミが又もや調子を合わせている。ここでは2013.8.2日付け毎日新聞社説「:麻生氏ナチス発言 撤回で済まない重大さ 」を確認する。この社説士は麻生発言に対し、「麻生氏は討論会で自民党の憲法改正草案は長期間かけてまとめたとも強調している。そうしてできた草案に対し、一時的な狂騒の中で反対してほしくない……本音はそこにあるとみるのも可能である」と評している。 社説士の読解能力が危ぶまれるところである。これは何も毎日社説だけではない。SWC的理解の下請け的に各社が同様の見解を述べている。しかし、れんだいこは、1950年末の池田蔵相の「貧乏人は麦を食え発言騒動」と似ていると解している。かの時も、池田蔵相はマスコミが造語したような発言はしていないにも拘わらず「貧乏人麦食え発言」として一斉に批判されている。「ナチスの手口を見倣え発言」も相変わらずのマスコミ扇動の感がある。 これにつき麻生にも責任があることはある。なぜなら、何もわざわざ「手口をまねる」などの怪しげな言葉づかいをする必要がないのに持ち出しているからである。これが為に騒動を呼ぶことになった。「麻生発言」は例によって非論理的、舌足らず、漫画好きなところを評すれば漫画的なものである。 が、れんだいこが読解すれば、毎日新聞論説士の読解の反対の如くに読める。即ち、麻生発言の趣意は、衆参で絶対多数を握った政権与党が暴力的に一気に改憲しようとする動きに出る恐れに対し、数の論理で強行採決までして為すべきではないと述べていると読める。「私どもは狂騒の中、わーっとなったときの中でやってほしくない」の真意は、野党の反対に対してではなく与党に対する自制の弁であると解する方が自然である。それを、「自民党草案に対し、一時的な狂騒の中で反対してほしくない」と読解するのは逆の受け取りであり即ち為にする曲解であろう。 「あの手口を学んだらどうか」も然りである。SWCは、「ナチスの手口を学んだらどうかと述べている」としているが曲解である。正確には「ナチス」ではなく「ドイツ」と読み「ドイツの手口を学んだらどうか」と読解した方が真意に近いであろう。もとより、「麻生発言」が既に述べたように非論理的、曖昧、漫画的なものなので読解するのに誤解を生み易い下地はある。 但し、批判するのなら、その前に当の発言を正確に読み取る読解能力を持つべきではなかろうか。麻生の言語能力が低いところへ、さらにそれ以下的な読解能力を見せて批判の合唱に転ずるなどはよほど恥ずべき愚挙でしかない。 これについては、れんだいこのみならず他の者も指摘している。れんだいこは、橋下大阪市長の弁を好評することは滅多にないが、麻生氏の発言について大阪市役所で記者団の質問に答え、「ちょっと行き過ぎたブラックジョークだったんじゃないか」、「ナチスドイツを正当化したような趣旨では全くない。憲法改正論議を心してやらないといけないということが趣旨だったんじゃないか」と述べている。これは真っ当な見識である。 れんだいこの「麻生のナチスの如く発言事件」のもう一つの興味は、例によってSWCが登場し、ヒトラー及びナチス問題の薀蓄を披露した挙句に解釈の仕方までをテキスト化し、そのテキスト通りに口パクしている日本言論界のお粗末さを浮上させたところにある。ご丁寧なことに社民党、共産党がいち早くSWC声明に沿う形で批判声明している。これが日本左派運動の生態であり、この生態が本来のものではないことを、この現場で確認すれば意味がある。 民主党の海江田代表の弁も然りでお粗末の極みである。生活の党の小沢代表の「麻生副総理のナチス発言、内閣の本音を示す」も似たり寄ったりの弁で物足りない。と云うか、生活の党だけは単なる批判に堕さず、世の冤罪的なものを庇護する側に回ってほしいと思う。そういう度量が欲しい。そういう党がないのが寂しい。 |
れんだいこのカンテラ時評№1159 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 8月11日 |
勝てば官軍、敗ければ賊軍考 今日は2013(平成25)年の8月11日、お盆入りである。辞典解説によると概要次のように記されている。 「本来は旧暦の7月15日前後、新暦では8月15日前後に行うの先祖供養の行事である。多くの地方では8月13日の『迎え盆』から16日の『送り盆』までの4日間を『お盆』としている。『お盆』には先祖の霊が帰ってくるとされており、各家庭ではお墓と仏壇の掃除をした後、戸口に盆灯籠、玄関や軒下に盆提灯を吊るして出迎える。仏壇にはダンゴを供え、精進料理やキキョウ、オミナエシ、ハギ、山ユリ、蓮の花などの盆花を飾る。オガラを燃やして迎え火を炊く風習もある。これを『盆迎え』と云う。期間中に僧侶を招いて『棚経』(たなぎょう)をあげてもらう。16日の夜になると霊が帰るので『送り火』を炊いて送り出す。供物をわらや木で作った舟に乗せて川や海に流す行事もある。これを『精進流し』(しょうろながし)と云う。灯籠(とうろう)を流すところもある」。 この行事を仏教で説明するのが通説であるが、日本の古神道以来の祖先崇拝教説と仏教的教説行事が合体した神事仏事と捉えた方が正確のように思える。何でもかんでも外来由来で捉えるのは「悪しき風習の学説」でしかないと思う。諸事に於いていえることだが、それまでの日本に自生していたものとの練り合わせを考える思考が必要と思っている。 れんだいこはむしろ「お盆」の起源は、この時期が炎天下による疲労の極致に達することを見極めた上での「骨休み」から由来しているのではないかと思っている。即ち「日本暦法に基づく日本的知性による賢明なる一年の過ごし方行事の一環のもの」ではないかと思っている。こういう目線で捉えると、正月から始まり年の暮れに至る様々な行事がこの種のシリーズものであることが判明する。こういうところはもっと注目されても良い。日本は昔からなかなか味わい深い暦を持っていることになる。 もとへ。ここでは「勝てば官軍、敗ければ賊軍」を愚考する。これも日本式の簡略明察な諺(ことわざ)の一つである。この名言は、勝った官軍側のご都合主義的プロパガンダを川柳的な「穿(うが)ち」心で見抜いているところに値打ちがある。この名句がふと浮かんできたのが今年のお盆の特徴であった。恐らく先日の「麻生副総理のナチスの如く舌禍事件」が影響しているものと思われる。こう云えば既に賢明なる者は、現在の反ヒットラー、反ナチス論が「勝てば官軍、敗ければ賊軍」式に生み出されたご都合主義理論に過ぎないものではないかと勘繰り始めるであろう。それで良い、そういうことが言いたいわけである。 「勝てば官軍、敗ければ賊軍」の鮮やかな適用例は、幕末維新に於ける朝廷軍と幕府軍の戦いとなった戊辰戦争であろう。あるいは明治維新に於ける明治政府軍と西郷隆盛軍の戦いとなった西南の役であろう。これを昔にさかのぼればキリがない。古事記、日本書紀の高天原王朝論なぞ最たる例であろう。いずれも勝った方に都合の良い歴史の読み取り方を定式化させ今日の通説とせしめているものである。「勝てば官軍、敗ければ賊軍」言葉の面白さは、この一言二言の中に「勝者側のご都合主義的論理論法」を見事に見抜いて皮肉っているところにある。 さて、「麻生副総理のナチスの如く舌禍事件」(以下、「麻生舌禍事件」と命名する)について愚考してみる。れんだいこの読み通り、ユダヤ人権利保護団体サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)の口車に合わせて、政界的には右から左まで、マスコミを筆頭とする各界様々の自称名士が一斉に対麻生殲滅戦に出張り始めている。麻生発言の吟味は後景に退いており、SWCの指令の下でかくも多勢が口裏を合わせていることの方に興味が湧く。この光景は既に何度も見てきた。大きな事件では田中角栄を失脚せしめたロッキード事件の光景、角栄政治の後継者・小沢一郎を失脚せしめ中の小沢キード事件の光景、そしてこたびの麻生太郎を失脚せしめ中の「麻生舌禍事件」の光景と繋がる。その他の例を挙げればキリがない。 れんだいこ的には「麻生舌禍事件」について、これにより従来式の反ヒットラー、反ナチス論の見直しに向かえば思わぬ副産物と考えている。恐らくこの道は閉ざされるのであろうが、「麻生舌禍事件」が日本の戦後政治史上にその契機を与えたという点ではなかなかの功績ではなかろうかと思っている。 ここでは「勝てば官軍、敗ければ賊軍」式の反ヒットラー、反ナチス論のウソについてまで言及しようとは思わない。せめてヒットラー狂人論についての真偽ぐらいは確認しておきたいと思っている。通説のヒットラー狂人論に従えば、かの時代のドイツ人は皆なが皆な、この狂人の虜(とりこ)になったことになるが、それは余りにもドイツ人の知性を軽薄化し過ぎていよう。ドイツ人をしてヒットラー&ナチス政治に賛意せしめた歴史の原因について、もう少し学究的に解析してみたいと思っている。ヒットラー狂人論は、そういう学問的営為を閉ざす暴論であって凡そ歴史の真実とは違うと思っている。 幸い、今のところの日本にはドイツその他西欧諸国に強制されているような「ナチズムのプロパガンダ及びそれに類する行為」を民衆扇動罪として裁く法律はない。今後はTPPの国際スタンダード網が適用されると分からないが今のところは大丈夫である。してみれば、日本では少し冷静な研究ができる余地がある。しかしながら実際には閉ざされている。むしろ自主規制で「勝てば官軍、敗ければ賊軍」論法を受け入れている。これを下敷きにした歴史論ばかりが次から次へと増刷されている。こういう場合、同じ系統の書物だから幾ら読んでも賢くならない否却ってアホウにされてしまう。我々はそういう状況下に置かれている。 以上。「麻生副総理のナチスの如く舌禍事件」から「勝てば官軍、敗ければ賊軍」を思いだし、既成のヒットラー狂人論に眉唾し始めたれんだいこの知的感性を面白いと受け止めて下されるだろうか。烈火の如くのバッシングをいただくことになるのだろうか。これが2013お盆のれんだいこ発信録である。 2013.8.11日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№1160 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 8月16日 |
れんだいこの新邪馬台国論による日本史荒スケッチ 今日は2013.8.15日である。この日に「れんだいこの新邪馬台国論による日本史荒スケッチ」を捧げておこうと思う。れんだいこの新邪馬台国論は、今明らかに或る可能性を求めて生まれつつある。それは単に邪馬台国の所在地をどこそこに比定し、当時の風俗、政体を知ることにのみ興味があるのではない。大和王朝以前の原日本の在り方を知り、その原日本の高度文明性を窺い、これをどう現代に蘇生させるのかの狙いを持っている。 それは同時に、現代の無思想社会に於ける新たなカンテラの役目を持っているのではなかろうかと期待している。このカンテラは、日本のみならず、現代世界の混迷、その貧相な処方箋からの脱却を秘めているのではなかろうかと仮想している。仮にそういう期待が望めるのなら、これを明らかにしない手はないだろう。れんだいこの新邪馬台国論の意義はここにある。 そのれんだいこの邪馬台国論は、邪馬台国を「ヤマトの三輪」の地に求めるようになりつつある。総合的に俯瞰すれば「ヤマトの三輪」に比定することにより理解が整合的になるように思っている。「ヤマトの三輪」にこそ邪馬台国があったのであり、この地に邪馬台国以前よりの分権的な王朝があったのではないかと考えている。これを仮に三輪王朝と命名する。三輪王朝は出雲王朝と縁戚関係にあり、いわば出雲王朝のヤマト地方に於ける出先機関にして、あるいは国譲り後の出雲王朝の後継政権であったように思われる。もう一つ、古代史上に於ける四国阿波-讃岐の地位も相当なものである。これとの因果関係が分からないので苦労しているが、相当に深い関係があったように思われる。 この出雲-三輪王朝こそが在地土着型即ち国津族による日本史上初の王権王朝であったと推定できるのではなかろうか。この時代に、日本の古型としての:言語、文字、政治経済文化が確立されていた。この時代に日本人の精神、風俗、社会、身分、国家のスタイルが定まった。これが社会学及び文化人類学的な意味での「原日本」なのではなかろうか。この認識を得ることが日本史を紐解くキーではなかろうか。こうなると、問題は、出雲王朝-三輪王朝ラインの政治を日本政治の原形、それを滅ぼして以降の大和王朝ラインの政治を新形として区別し認識した方が良いように思われる。これが日本政治の質を歴史的に確認する為の学問的方法となるべきであると思う。 その三輪王朝が天孫族(を僭称する外航族)によって攻め滅ぼされる。三輪王朝の最期の政体としての邪馬台国に代わって大和王朝が建国される。記紀神話は、この過程を正統化させる為の国定史書と推定できる。この傾向は日本書紀の方が古事記より強い。という理由により、記紀神話にのみ依存しては日本古代史は解けない。 ここに本居宣長が登場する。本居史学は単なる神話として片づけられていた記紀既述に歴史の根拠を求めようとして営為した。その手法として、日本書紀よりも古事記の方に価値を見出そうとしていた。ここに功績がある。但し古事記世界より出ることを自主規制していた。ここに限界が認められる。いずれこの本居学は乗り越えられねばならなかった。 この時、平田篤胤が登場する。平田は、本居史学の功績をそれとして認めつつも、本居史学が抑制していた更に先の古代史に分け入ろうとした。これにより平田史学が日本古代史の視野を更に先へ広げた。ここに平田史学の功績がある。但し、平田史学は怨霊怪奇現象の方に関心を寄せ過ぎており、その意味では先覚者の業績に留まるきらいがある。 平田史学が扉をこじ開けた日本上古代史の研究が受け継がれねばならないところ、平田史学派は幕末維新から明治維新の政治的激動に接近し過ぎて、結果的に西郷派なき後の日本帝国主義化の従僕となり、近代天皇制のイデオローグと化し、薄っぺらな皇国史観の確立に向かった。それが大東亜戦争の敗戦により大鉄槌を喰らい今日へ至っている。 これを平田史学右派と命名すれば、平田史学左派はまだ登場していない。れんだいこ史学はこの系譜のものではなかろうかと自認している。ここに史上の意味と値打ちがある。但し緒に就いたばかりで、これと云う業績を上げている訳ではない。あるいは、平田史学につき詳細には知らないので、知れば袂を分かつかも知れない。そういう意味で未だ流動的である。 他方、その後に津田史学が登場する。津田史学は、本居学、平田学を否定し、記紀神話に史実性を認めないところから始発している。これは、皇国史観の欺瞞を討つには役立つが、本来の日本古代史、上古代史解明に対しては逆行的な学問的態度と云うべきではなかろうか。よしんば皇国史観の詐術的歴史観を否定するのに功があるにせよ、「原日本」の解明に向かわない皇国史観批判論は「赤子をたらいごと流す」愚に似ている。日本マルクス主義がそうした限界を持つ津田史学の系譜を引いているとしたなら、そもそもここに無能さが極まっていると云うべきではなかろうか。 今や、我々は、記紀神話の先の日本古代史に光を当てねばならない。日本古代史の秘密を解き明かさなければならない。そういう意味で、記紀以前の史書が欲しい。これが仮に存在するとしたなら、その記述を知りたい。これを詮索するのが興味深いのだが、いわゆる古史古伝がこれに相当すると思わるのだが、今日公開されている古史古伝はあまり当てにならない。それはなぜか。本当に記紀以前の史書かどうか疑いがあるからである。仮に原書がそうであったとしても、写筆過程での書き替え改竄の可能性が強い。その為に信に足りない。但し、記紀よりも正確な史実を伝えているとみなされるべき記述もあり、この辺りは大いに学ぶべきであろう。これが古史古伝に対する態度となるべきである。 ともかくも邪馬台国滅亡前後の史書が不在である。これは、出雲王朝-三輪王朝-邪馬台国の滅亡に関係しているように思われる。これが為、この時代の歴史が地下に潜った。これが為に邪馬台国滅亡前後の史書不在となっているように思われる。とはいえ、ここがまことに日本的なのだが、出雲王朝-三輪王朝-邪馬台国は完全に滅亡されたのではない。彼ら旧政権派は、国譲り譚で判明するように、政権は譲り渡したが宗教的権威及び活動は担保され歴史に生き延びた。政治的には一部が新政権の大和王朝に組み込まれて残存し、一部が追放され東へ東へと逃げ延びて行くことになる。一部が人里離れた山岳に篭り鬼神化させられて生き延びる。この過程は西欧史の如くな皆殺しジェノサイドではない。 興味深いことは、大和王朝内の政権の一角に組み込んだ出雲王朝-三輪王朝-邪馬台国派が、その能力の高さ故に後々重要な影響を及ぼし続けたと看做されることである。こうして、その後の日本史は、原日本時代、新日本としての大和王朝時代、新日本と原日本の練り合わせによる新々日本の創出へと向かったのではなかろうか。この日本が今日へ至っているのではなかろうか。以上を踏まえると、日本はほぼ単一民族化しているとみなせるが単一社会ではない、むしろ原日本、新日本、その他を織り交ぜた複合練り合わせ社会と云うことになる。こういうところを政治家が認識していないと国運の舵取りを誤ることになる。 この日本史に特異な現象として、現代史的に意味のあるところだが、戦国時代期及び江戸幕末期よりネオシオニズム勢力が食い入って来たことであろう。戦国時代期のネオシオニズムは衆知の過程を経て排斥された。ところが江戸幕末期の黒船と共に来襲して来たネオシオニズムはその後の日本史への容喙を続けて今日に至っている。その政治はここへ来て次第に露骨化し始めている。 ネオシオニズムも又日本化するのなら一法であるが、連綿と形成されてきた日本を溶解し植民地化せんとし続けている。その壊しようはあたかも、ネオシオニズムと思想的に最も鋭角的に対立している日本思想そのものの撲滅を期している感がある。思想がそうなら社会もそうとして日本社会の絆を根底的に殲滅せんとしている形跡が認められる。こうなると、日本的なものを愛する我々との間には非和解的な抗争しかない。そういうことになろう。 2010.7.28日 2013.8.15日再編集 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№1161 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 8月19日 |
東電・吉田昌郎(元福島第1原発所長)の殉死考 2013.7.27日・8.3日合併号「週刊現代」のジャーナリスト:門田隆将の吉田昌郎インタビュー「あの時、確かにひとりの男がこの国を救った」によれば、福島第1原発所長・吉田昌郎は、官邸-東電ラインの海水注入中止命令に対して敢然と拒否し注入を続けた。この英断が「チェルノブイリの10倍」の事故被害を食い止めたとして称賛されている。これを「吉田所長の英断」と云う。これにつき思うところを記しておく。 「吉田所長の英断」は然りである。しかしながら、それは当面の措置であり問題は先送りにされたに過ぎないのではないのか。「先送りの功あり」的には評価されようが、この観点からの評価はさほど称賛されるべきではないのではなかろうか。それはともかくこれが第一評価である。第二評価は、実はこれが凄いことであるが、当時、福島原発事故が誘導想定されており、「吉田所長の英断」はこのシナリオを崩した。このことが称賛されるべきではないのか。結果的には同じであるが、「吉田所長の英断」が何に対する英断なのかと云う点で光芒が違ってくる。 「当時、福島原発事故が誘導想定されていた」とはどういうことか。これを補強する史実を確認する。独立党党首・コシミズ氏の「2013.8.10 リチャード・コシミズ岐阜講演会 」その他で確認できるが、「2013.8.8日午後4時55分頃、奈良県と大阪府で最大震度6弱から7程度の緊急地震誤報事件」が参考になる。かの時、気象庁は無論、フジテレビの安藤優子アナも「地震が発生した」と過去形で報道している。これに対し、コシミズ氏が、9.11テロ時の米CNNテレビによる世界貿易センタービルに隣接するビル崩壊の事前報道の例を挙げ、これと同じであると指摘している。即ち、前もって筋書きが作られており、それに基づきアナウンサーが原稿読みしていたと云う事実が確認できる。「2013.8.8日の奈良地震事前報道」はこれと同種のものであり、誤報と化したと云う点で極めて稀な例である。 この問題の重要性は、3.11三陸巨大震災に伴う福島原発事故も事前に誘導想定されており、その想定が、「吉田所長の英断」によって狂わされたのではないのかとの推理を生むことにある。その詮議はさておき、「3.11福島原発事故が事前に想定されていた」と仮定すれば、その後の対応が整合的に理解できることがもっと注目されてよい。自衛隊10万人動員態勢、米国艦隊の沖合停泊、被災民に対する灯油、ガソリン支給規制による閉じ込め、公共広告機構による仁科親子の子宮がん検診コマーシャルの朝から晩までの執拗な放映、用意周到な関東圏ブロック別計画停電、これに基づく都電運行規制等々はどう考えても用意周到に計画されていたとしか思えない措置である。 これを思えば、「菅首相の東電乗り込み武勇伝」は一定の真実味を帯びてくる。それは、シナリオ通りに動こうとする東電中枢に対する「叛旗の怒鳴り込み」だったのではなかろうか。れんだいこは、これに関しての菅首相の言い分は尤もな面がある思える。補足しておきたいことは、「菅首相の東電乗り込み武勇伝」は、吉田所長以下福島50のサムライと称される身を捨てた原発爆発阻止行為が誘導した、これに対する呼応であり、彼らの奮闘努力がなければあり得なかったのではなかろうか。 つまり、福島原発爆発危機は現実にあった、想定されていた、誘導されていたのであり、吉田所長以下福島50のサムライがそのシナリオを崩したということが言えるのではなかろうか。そういう意味で、このシナリオを崩した「吉田所長の英断」はまさに称賛に値するのではなかろうか。しかしながら、冒頭に述べたように、とりあえず爆発計画を阻止しただけであり、それは問題先送りであり、これに対する賢明なる対策こそ「次のサムライの仕事」となっているのではなかろうか。かの時のサムライが健在なのか放射能病魔に犯されているのか分からないが、「次のサムライ」が要請されているのは間違いない。 それはともかく、民主党菅政権、野田政権、自民党安倍政権及び東電の無策ぶりが信じられない。その緩慢な対応ぶりは、日延べされた福島原発の再爆発シナリオと呼応しているようにさえ見える。この勢力を放逐する以外に日本の再生はないのは自明のように思える。 この攻防戦は既に開始されていると読む。このところマスコミを通じて日本の国際責任論が奏でられて久しいが、軍事防衛上の米軍指揮下の国際責任論ではなく、こういうところの日本人の国際責任能力が試されているのではないかと思う。この政治が生み出されるのは生活党と社民党の合同による新潮流によってしか為し得ず、他の政治勢力では絶望と読む。 2013.8.19日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№1162 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 9月12日 |
三島最後のドキュメント考その1、本稿の意義 ここで「三島最後のドキュメント考」をしておく。れんだいこの歴史嗅覚からして何やら腑に落ちないものを感じたからである。これまでにも同様の臭いから「宮本顕治の戦前リンチ致死事件」を考察している。 (marxismco/nihon/miyakenco/rinchizikenco/rinchizikenco.htm) 同サイトで、宮顕及びその系の今日に至る日共の弁明のウソをことごとく論破している。自分で云うのもなんだが白眉ものである。結論は、宮顕派が党内スパイの最高幹部・小畑を摘発したのではなく、宮顕こそがスパイМに代わる党内スパイ派の元締めであり、その宮顕派の査問により労働者派最後の幹部・小畑がテロられたと見るべきであるとする新観点を打ち出している。これはそれまでの様々な論の稚拙さを粉みじんにしていることに功績がある。 それまでの論(一)は宮顕冤罪説である。論(二)は党内スパイ摘発上の当時の情況からして止むを得なかった措置説である。論(三)は既に解決済み説である。論(四)はやり過ぎ説である。これらに対し、それらがいずれも「宮顕派が党内スパイの最高幹部・小畑を摘発した」とする前提の論である点でナンセンスであること、真実は「スパイ派の宮顕派の査問により労働者派最後の幹部・小畑がテロられた」のであり、冤罪として名誉回復が急がれているのは小畑氏の方であるとしている。 この論はさほど注目されていないが、それはれんだいこの立論の虚妄によるのではなく、驚天動地性故に沈黙を余儀なくされていると了解している。れんだいこは他にも数え上げればキリのない通説異議を申し立てしている。田中角栄のロッキード事件に於ける角栄冤罪説、2.26事件に於ける皇道派青年将校が嵌められ始末された説、処女作「検証学生運動(上下)」による戦後学生運動内の正邪見極め説、邪馬台国新論に於ける原日本新日本論等々然りである。これらはいずれも、通説側に言葉を失わせるほどの観点の差を突き付けており、通説側がれんだいこ観点を否定できず、結果的に論評戦意さえ失わしめている故と了解している。 こたび、同様の戦意をもって「三島最後のドキュメント考」に向かう。れんだいこが「三島最後のドキュメント通説」のどこに疑問を覚えているのか。それは、三島が自らの意思で「最後の三島美学」の実践場として自衛隊市ヶ谷基地を選んだとする観点そのものへの疑問から始まる。そういう評論ばかりであるが異議を申し上げておく。 それは半分真実であろう、しかし残りの半分は用意周到に誘い込まれたのではないかとみなしている。三島は敢えてそのシナリオに乗った形跡が認められる。三島の死も然り。三島自身が漠然と半ばは死を覚悟していたが残りの半分は生に期待を持って出かけていたとみなす。予感として死が免れないことを承知しており、どう転ぶにせよそのありのままを歴史に刻まさせる賭けに出たとみなす。結果、割腹死を強制されたとみなす。 自ら好んでの三島美学による割腹自殺劇とみなすのが通説であるが、半分真実で、残りの半分は割腹へと強制誘導されたとみなす。こう捉えないと辻褄の合わないことが多過ぎるからである。以下、これを論証する。まずは、この事件を正確に確認するところから始めねばならない。サイト「三島事件」その他を下敷きにする。本意は三島事件の公判記録を読んでからの投稿にしたいが、それに費やす時間がないので見切り発表する。 2013.08.31日 れんだいこ拝 |
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れんだいこのカンテラ時評№1165 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 9月13日 |
三島最後のドキュメント考その6、「割腹」事件 三島事件割腹自殺前の様子は「三島最後のドキュメント考その3、決行」の通りのようである。さて、これからがミステリーである。本稿を「三島最後のドキュメント考その6、『割腹』事件」とする。れんだいこは、1993.10.20日の築地の朝日新聞東京本社朝日新聞本社で自決したとされている野村秋介の不審死に通じるものを嗅ぐ。要するに、野村秋介は本当に拳銃自殺したのか、そのように見せかけられて始末されたのかの問いである。本稿は「野村秋介自決事件」を問うものではないので、疑問があるとだけ記しておく。 午後零時15分、演説を終えた三島が、側らにいた森田と共に「天皇陛下万歳」を三唱したのち、バルコニーから総監室に戻った。通説によれば三島はこの後すぐに割腹行為に出ている。次のようなドキュメントになっている。 三島は、「20分くらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」とつぶやいている。そして、「益田総監には、恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方なかったのです」と話しかけている。その後、恩賜煙草を吸っている(三島は園遊会で貰った恩賜煙草を持って来ていた)。一服した後、長靴を脱ぎ、上着のボタンを外し、ズボンを押し下げ、上半身裸になり、バルコニーに向かうように床に正座して短刀を両手に持った。背後の森田を見上げ、「君はやめろ」と三言ばかり殉死を思いとどまらせようとしている。手筈では割腹した血で「武」と指で色紙に書くことになっていたので、小賀が三島に色紙を差し出すと、「もう、いいよ」と言って淋しく笑い、右腕につけていた腕時計を「小賀、これをお前にやるよ」と渡している。 次に、「うーん」という気合いを入れ、「ヤァ」と叫び、自身の左脇腹に短刀を突き立てた。鋭い短刀を腹に刺し込み、右へ向けて横一文字に引いて腸が飛び出すほど深い切り方をしている。総監が「やめなさい」と述べたところ、「介錯するな、とどめを刺すな」と叫んだとの記述もある。 直後、名誉ある介錯人に選ばれた森田が三島の背後から介錯している。但し三度失敗している(「二太刀打ち下ろしたがうまく切れず」ともある)。刀先がS字型に曲がっているのは何度も仕損じたことによる。剣道有段者の古賀浩靖が代わって、一太刀振るって三島の首を切り離している。あるいは「押し斬り」にしたのかも知れないとある。三度失敗説によれば四太刀目、二度失敗説によれば三太刀目に首が離れたことになる。三島の首と肩に4ヶ所の傷が認められる。 ついで森田が割腹する。森田は、血まみれの三島の胴体の脇にひざまずき、三島が使った短刀を取って自分の腹を刺した。切り口は浅く十センチの筋肉と脂肪の層を切り裂くまでには至らない傷を残している。古賀浩靖の一太刀で森田の首も落ちた。首は一刀のもとに切られていた。 サイト「三島事件」その他によれば、このような展開になる。しかしながら次々と疑問が湧く。これを述べる前に、れんだいこと同じような推理をしている文章に出会ったので紹介しておく。「★阿修羅♪ > カルト10」の♪ペリマリ♪氏の2013.3.6日付け投稿「三島事件の『要求書」を読み解く」、同3.9日付け投稿「三島事件の核心を推理する」が次のような推理を披歴している。 概要「三島は割腹したのではなく殺されている。現場証人の益田総監が『現場にS副官が隠れて居た』なる重要証言した後罷免され、3年後に死んでいるのは臭い。生き残った証人たちが口裏を合わせた偽証している。秘密破壊工作員たちが三島を取り押さえて、有無を言わさず『割腹自殺』させた」。れんだいこは、この一文を読まずにほぼ同様の推理に達した。と云うことは、「あり得る推理」であることを物語っていないだろうか。こういう出会いを用意したネット掲示板「阿修羅」に感謝申し上げる。 出典は後日確かめるとして次のような記述もある。 「恋人の女性が介錯人だったため、なかなか切れず、むごたらしい結果になったようです。結局最後は男性によって切り落とされました。余りの痛みで舌を噛んだそうです。三度目で成功したそうです。森田は介錯を果たせず、剣道居合の経験者古賀浩靖が介錯したそうです」。 これによると、「恋人の女性が介錯人だったため」との記述が為されている。れんだいこには、「恋人の女性が現場に居た」なることが信じられない。否、事実としては現場に女性が居たのかも知れない。しかし何の為にかは分からない。いずれにせよ変な記述である。こういう記述があると云うことは「三島の割腹死現場」が検証されていないことを意味する。 |
れんだいこのカンテラ時評№1166 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 9月13日 |
三島最後のドキュメント考その7、「割腹」事件のれんだいこ推理 れんだいこの疑問はこうである。古賀浩靖は当時23才の楯の会会員であるが、果たして三島、森田の首を刎ねる剣技能を持ち得ていたのかどうか。首刎ねなどは素人ではできないのが常識である。居合を習っていようが剣道を心得ていようが、よほどの手練れでないとできない。当時23才の古賀浩靖が「習った程度」で「できた」という根拠が分からない。これは武道の心得のある者には常識である。そういう訳で、これについて古賀浩靖の克明な証言を知りたい。古賀は、事件後、裁判に付されており、それなりの証言をしていると思われるが裁判記録ではどう明らかにされているのだろうか。ネット検索には出てこない。こういう場合、隠されていることを意味する。 次に、首を刎ねた刀への疑問が湧く。「三島持参の日本刀・関孫六」で処したとしか考えようがないが、三島の首を落とすのに三太刀もしくは四太刀の難儀をしている。既に相当に刃こぼれしているであろうに「森田の首は一刀のもとに切られていた」。刃こぼれ太刀で森田の首刎ねがスパッと斬られていることになる。技能上の問題だけでなく刃こぼれと云う物理上の問題が介在していたはずである。「刀先がS字型に曲がっている」との記述もある。そういう関孫六で「森田の首が一刀のもとに切られていた」ことが不自然過ぎよう。そういう疑問が湧く。 更にそもそも三島がなぜ深く切り込む切腹をしているかにも疑問が湧く。これについては既に議論がなされている。この時点で三島は映画「人斬り」で田中新兵衛に扮して切腹模擬している。深く切り込む切腹では介錯が容易でないことを承知している筈である。にも拘わらず、相当深く真一文字に切っているのは切腹の仕方として不自然過ぎる。森田の浅切りの方が切腹作法に適っており、三島の深切りの方が反している。これは三島武士道に対する冒涜ではあるまいか。ここまでの疑問は争いようのないことのように思える。 これからが推理になる。更に遡れば、総監室へ何の支障もなく戻れ、事が首尾よく進展したとすることがそもそもオカシイ。三島がバルコニーで演説していた間、益田総監が縛られ通しで居たことになるが、そのこと自体が信じられない。事件は陸上自衛隊駐屯地内である。おめおめと最高幹部の東部方面総監を救出できるのに、要求書に基づく打ち合わせがあったにせよ縛られたままにしておくなんてことがあるだろうか。警視庁機動隊一個中隊が総監室に到着していたはずである。手をこまねいて三島演説を聞いていたと云う構図が嘘臭過ぎる。容易に推理できることだが、三島の演説中に益田総監が解放されていないとオカシイ。 そうなると総監室に戻った三島に待ち受けていたのは屈強な精鋭たちによる拘束しかあるまい。この時、三島が応戦している可能性がある。発表では、総監人質事件発生時に自衛官が突入し複数負傷しているが、この時の負傷か三島が総監室へ戻ってきた時の負傷か定かではない。三島が総監室に戻った時の乱闘による負傷の可能性を求めるべきではなかろうか。 こうして疑問が次から次へと生れる。真相は藪の中であるが、れんだいこ結論として、三島と森田が総監室に戻った際に、その場で捕捉され、後は操られるままに切腹死を強制させられたと推理する。故に三島は作法にあるまじき深い切腹で応じ、森田は腰砕けの状態で介錯に向かい、役に立たなかったので手練れに代わり首を切り離させ、しかる後に森田の首刎ねを演じた。これが一部始終なのではあるまいか。古賀が介錯したなる説は嘘臭い。してみれば「強制割腹死」の可能性があるとしたい。こう疑う余地が十分にある。 決め手は総監室に居た者たちの証言である。最低限その場に居合わせた者として益田総監、生き残った楯の会の古賀浩靖、小賀正義、小川正洋が考えられる。総監室に突入した自衛官の証言も必要であろう。彼らがどう証言しているのかが肝心であるがネット検索では出てこない。妙なことに揃いも揃って皆が割腹事件を完黙している気配が判明する。こういう場合、隠されていることを意味する。れんだいこ推理に従えば、三島と森田を補足した者たち、それを指令した者たちこそが最重要人物であるが、そういう者は例によって陰に隠れるとしたものである。この推理に立つと、世上の「三島美学の完遂としての割腹死事件」の延長上で為されている評論の軽薄さが透けて見えてこよう。 |
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れんだいこのカンテラ時評№1168 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 9月13日 |
れんだいこの三島由紀夫論その1、総評 2013.8月末頃、ふと三島由紀夫論をものしておきたくなった。れんだいこがこれほど三島に接近したことはない。これまでの絡みでいえば、「金閣寺」を読んだこと、他に「潮騒」とか「仮面の告白」等があることを知っていること、1969年辺りの新聞文化論で三島が「愛することと恋することの違い」を書いており、これにいたく感応したことぐらいが予備知識である。 何と言っても強烈な印象は、れんだいこの在学中に三島割腹死事件が起こったことだろうか。森田必勝が早大教育学部の人であったので教育学部校舎の前庭に追悼看板が出ていた。当時のれんだいこは民青系の全学連活動に懸命な時期だったので何やら奇異な印象でそれを眺めていたことがある。三島との絡みはこれぐらいのことしかない。そういう訳で、これまでさほど関心を持たなかった。 ところが、今年2013年の5、6年前、れんだいこがマメに参詣し始めた奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社から登山口に至る参道に三島が訪れたことが表示されており、三島と大神神社の縁を知るに及び「おやっ」と思った。三島の愛国主義が出雲王朝-三輪王朝のラインにまで理解を寄せていたことを知り、あの辺りから三島に対する認識を変えた。その後、れんだいこは「原日本論新日本論」を確立した。以来、このトレースから三島由紀夫論をものしておきたくなった。三島の国体論の原日本域までの接近ぶりを確認したくなった。何かれんだいこに熟するものが生まれ、三島を評し得るようになったのではなかろうかと思う。 三島由紀夫の論考は既に多くあるが、三島由紀夫論の本質に届いていない気がする。れんだいこが手短かに評すれば、「生き急ぎ死に急いだ」が総評となる。ただこれは外形的な評でしかない。内在的に分析すると、三島に狂気性が見て取れるが、その狂気は何に由来していた詮索せねばなるまい。確かに狂気であるが、その狂気には根拠があるはずである。それを探りたい。 三島は日本歴史の琴線に触れる何か重要なものを掴みかけており、それに懸想しており、それが何であるかを廻って精神的に格闘し続けていた形跡がある。戦後の体制がそれを活かしておらず、そのはがゆさが嵩じて次第に狂気化したのではなかろうかと云う気がする。そして、1970.11.25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)に乱入し、益田兼利総監を人質にして籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした直後に割腹自決した(享年45歳)。既に「三島最後のドキュメント考」で言及したように強制されたものであるにせよ。 この時、三島は辞世の句二句を用意していた。「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」 、「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」。吉田松陰ばりの辞世の句である。ちなみに松蔭のそれは「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」、「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」である。 三島を論ずるのに、通評は、自衛隊乱入事件による割腹自殺の終点から評し、右翼は「自分の死をもって国の行く末を案じた憂国の士」であるとして評価する。左翼は逆に右翼民族派の愚挙として批判する。あるいは三島に「自己過愛性人格障害」を見て取り、この観点から紐解こうとする分析もある。ほぼこの三系からの三島論が為されている。れんだいこは、そういう評では物足りなくなった。れんだいこが漸く獲得した「原日本論新日本論」の観点から三島をトレースすべしと囁く声がする。この観点からすれば、三島は死してなお歴史の棺に納まっておらず、その意味で彷徨っているとみなしている。 思うに、三島がれんだいこの説く「原日本論新日本論」で覚醒しておれば、別の生きざまを刻んでいたはずである。三島の右翼民族派としての面貌は、れんだいこにはムヤミヤタラに見える。その憲法改正論、天皇論、自衛隊論は余りにも練れてなさ過ぎる。それと云うのも「原日本論新日本論」観点を持ち合わさなかった故と見る。 三島が真に掴もうとしていたのは、日本の悠久の歴史の纏わる神州性、これによるところの大和民族の礼賛と護持ではなかったか。この心性をエートスとして様々な政治的衣装を着せ発言し行動してきたが、それらの衣装はことごとく新日本系のもので、三島が掴もうとしていた日本賛美論とは本質的に齟齬していたのではなかったか。三島に必要だったのは原日本論の地平からの理論武装ではなかったか。 この観点を持たないまま皇国史観的愛国愛民族運動に突入したアンバランスが三島の狂気を生み、それがうまく操られ、最後に非業の死へ至ったのではなかろうか。よしんばそういう死を三島自身が求めたにせよ。れんだいこにはかく見える。以上で三島論の要点を言い切ったが、以下、これをもう少し詳しく検証する。 補足する。三島が「あしたのジョー」の愛読者であった様子が次のように記述されている。 「(三島は)ボクシング観戦好きで、自身も1年間ほどジムに通った経験のあった三島は、雑誌『週刊少年マガジン』に連載されていた『あしたのジョー』を愛読していたという。夏のある日の深夜、講談社のマガジン編集部に三島が突然現れ、今日発売されたばかりのマガジンを売ってもらいたいと頼みに来たという。理由を聞くと、三島は毎週マガジンを買うのを楽しみにしていたが、その日に限って映画の撮影(『黒蜥蜴』)で、帰りが夜中になり買うところもなくなったため、編集部で売ってもらおうとやって来たという。三島は、『‘’あしたのジョー‘’を読むために毎週水曜日に買っている』と答えた。財布を出した三島に対して、編集部ではお金のやりとりができないから、1冊どうぞと差し出すと嬉しそうに持ち帰ったという。当時は24時間営業のコンビニなどはなかったため、夜になって書店が閉店してしまうと、もう雑誌を買うことができなかった。三島は『あしたのジョー』が読みたくて翌日まで待てなかった」。 この記事を読む前から、れんだいこは、三島の生きざまを「あしたのジョーの生き様」になぞらえていた。この記事に出くわして、これが裏付けられたことがことのほかうれしい。そう、三島の生き様は、「あしたのジョー」のように生を燃焼させ、最後は燃え尽きてセコンドに座って白い灰になる生き方を夢としていた。 これを少し説明すると、三島は戦前的な世であれば即ち世が世なれば日本文学会の芥川龍之介以来の早熟な大御所になり得ていた。ところが大東亜戦争の敗戦とともに世が変わり、いわゆる戦後民主主義の時代となった。この時代、三島は本質的に戦後体制から疎外された。いわゆるアウトサイダーにされていた。それにも構わず、あり余る才能で時代の寵児になり得ていたが、いくらベストセラーを生み、演劇等の様々な分野にまで活躍しようとも、体制の壁からすれば常にアウトサイダーの身でしかなかった。当人の責任でもない及ばざるところのこの屈折が「あしたのジョーの快刀乱麻の生き様」に重なっていたのではなかろうか。そういう気がする。 2013.9.1日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№1169 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 9月14日 |
れんだいこの三島由紀夫論その2、戦後の三島文学のスタンス考 三島の履歴を通覧して思うのは、三島の紛うことなき日本文学史上に卓越した才能である。僅か10歳有余にして文壇に頭角を現していることに驚かされる。この面からの評価に於いて我々の三島評は足りなさすぎる。多くの人は、これまでのれんだいこがそうであったように三島の活動履歴を知らなさすぎる。 れんだいこの臭い的には芥川龍之介以来の非凡な文人ではなかったか。人はノーベル賞を受賞した面から川端康成を高く評価しているが、その川端が文学能力を高く認めていたのが三島であることを我々は知らなさすぎる。川端康成がノーベル賞を受賞したからには三島の受賞も当然であるところ、三島文学が持つある種の思想的な危険な臭いが選考を不利にし受賞を逸したのではなかろうかと思われる。三島の神風連論、北一輝論、2.26事件論、ヒットラー論に見せた観点を窺えば、国際ユダヤ主義サイドに立つノーベル賞選考委員が三島を忌避するのは当然である。 しかしこれは選考側の問題であって断じて三島の責任ではない。三島の責任においては川端康成がノーベル賞を受賞するからには三島にも十分な資格がある。三島在世中には、三島が書けば、その外国翻訳が並行した。これは極めて珍しいのではなかろうか。三島はまさに世界から注視される戦後日本文学界の鬼才、偉才であった。その三島が戦後の世界体制の壁に阻まれノーベル賞受賞を逃しただけのことである。こう窺う必要がある。これを論(あげつら)うのが本ブログのテーマではないので以下を割愛する。補足すれば惜しむらくは西郷隆盛論に向かわなかった三島の政治的感性が悔やまれる。 ここでは三島の政治的見識を問う。三島の右翼過激主義的な理論と実践はどこからもたらされているのだろうか。結論から言えば要するに三島の戦後の生の営みは、戦後民主主義体制の欺瞞を感じ取り、まだしも戦前の方に相対的な良質さを感じており、それ故にいつもある種の復古趣味に傾斜していたのではなかろうか。戦前日本にあった日本浪漫派への憧れである。三島は日本浪漫派が存在していた時代の超早熟な嫡出子であった。日本浪漫派の系譜で順風満帆の登壇階段を登り詰めつつあった。 だがしかし運命は急転する。1945(昭和20)年、丁度20歳の時の8.15日に終戦、大東亜戦争が終わった。この時、三島の脳の思惟構造は既にできあがっていた。世が世なれば順調に登龍するはずだったが世の中そうは思う通りにならない。次の時代に訪れた戦後民主主義体制には浪漫派の座る席はなかった。日本浪漫派のエリートとして自己形成していた三島は戦後体制の浪漫派駆逐構造を嗅ぎ取り嫌悪した。かくて戦後暫くの間、三島は新しい時代と調整する時間を要した。結果的に三島は無気力から脱し、新しい時代に阿ねることを拒否する方向に活路を求めた。これより波乱の人生に立ち向かうことになる。そこから出てきた三島の「時代了解」が「三島その後の行動」の基本になっているのではなかろうか。そういう節々が感じられる。 三島の履歴を見れば、尋常でない早熟ぶりとありあまる才能が暇を持て余すかのように精力的に書き続けていることが分かる。憑りつかれた様に書き続けていることが分かる。生涯作は凡そ数百作以上になるのではなかろうか。れんだいこは、これほど「名著の多作」を為した文学者を知らない。しかも小説の短編、長編。戯曲、随筆、評論のみならず演劇、映画等々に役者として出演するなど何でもござれの多芸多才ぶりを発揮している。恐らく無為のできない書かずにおれない質の文筆の才人だったのであろう。併せて何かと話題を振りまくスーパータレントの先駆けだったのではなかろうか。次のように評されている。 「三島由紀夫は文学者として膨大な数の作品を残した。現代の軽めの小説とは異なり、いずれも重厚な純文学作品だ。三島・谷崎・川端は昭和戦後文学の最高峰として現在も揺るぎない評価を受けている。だが、三島由紀夫が残したものはそれに留まらない。文学者であると同時に、新民族主義の旗手であり、日本の保守思想を切り裂いた思想家でもある」。 だがしかし、三島は文学的な面では紛れもない早熟な天才であったが政治の面では素養にかけていた。これが原因でアナクロな政治的主張、その実践に踏み出すことになったと思われる。が、恐らく胸中は常に悶々としていたに相違ないと拝察したい。彼が今、「原日本論新日本論」史観を得るならば、闇雲な政治的乱痴気騒ぎはしなかっただろう。戦前回帰を思念としつつも戦前の中身を「原日本論新日本論」で嗅ぎ分け、皇国史観的な狭隘物を排除するからである。これを獲得しないままの三島が苦吟し彷徨し続けていたことを思わざるを得ない。あるいは三島の階級的立ち位置が好んで皇国史観と親和していたのかも知れない。 三島の自虐的な死は究極のところ、己の能力を押し込めた、否能力は披歴したがこれを公的に認めない戦後体制に対する最終の抗議死ではなかったか。彼にとっては戦後体制そのものが欺瞞であった。戦後体制に疎まれた三島による戦後体制の欺瞞を衝くパフォーマンスが自衛隊基地突入による悲劇的な死であった。結局、「生き急ぎ死に急いだ」。まさに巨星墜つである。これが結論となる。それは芥川龍之介に見られるような作家的な美学死に染まっていたのかも知れない。しかしこの観点ではお騒がせな死の説明ができないので、やはり主としては政治的義憤死の面から評さねばならないだろう。 こういう三島の悲劇と喜劇が分からねば三島論は書けない。戦後文壇の旗手にして寵児。思潮を生み出し、その渦の主人公として自負し続けていた。悪い意味ではなく凡そ控え目と云うものを知らない。これにより自ずと渦の中心にいることになる。しかしこれは強い責任感に裏打ちされたものであり凡人が評するところの自己顕示欲とは似て非なるものと云うべきだろう。その三島が何か得体のしれない戦後社会のシステムから弾き飛ばされ、そういう意味で疎外され続けていたと云う面の考察抜きには三島を語れない。 1969(昭和44).5.13日の満員となった東大教養学部900番教室での全共闘と三島由紀夫の討論会の場で、三島が全共闘的闘い方に共感する旨を表明し、「君達が天皇を認めるならば君達に同意してもいい!」と言い放った裏には、全共闘の解体論理に対するメンタリティーの共有が介在していたのではなかろうか。 |
れんだいこのカンテラ時評№1170 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 9月19日 |
三島最後のドキュメント考その7の2、「割腹」事件のれんだいこ推理補足 「割腹事件のれんだいこ推理」を補足しておく。この時の首切りに「関の孫六」が使われたと推論していたが、三島の両親の平岡梓・氏が次のような「妙な」証言を遺している。 要点のみ確認すると、前段では「介錯に使われた刀は『関の孫六』でした」としつつも、寄贈者・舩坂弘・氏の証言、概要「警察に呼ばれた時、実物を見せてもらったところ、奇妙なことに柄のところが金槌でめちゃくちゃにつぶされていて二度と抜けないようになっていた」を引用し、「その後の調べで倅の周到な処置であることが判りました」と追記している。後段では「倅は死ぬのは自分一人で足りるとして森田君の巻き添えを許さなかった」と述べつつ「森田君の希望により倅の介錯は彼にたのむ手筈になったものの、倅の眼から見ると、森田君の技倆はおぼつず、万一にも柄が抜けることのないよう抜けない処置をして彼に手渡した」と結んでいる。 これはどういう意味か。「平岡梓証言」を裏推理すれば、「関の孫六」は抜けないように細工されていたのであるから「介錯に使われた刀は『関の孫六』ではない」ことになる。こう理解した方が「関の孫六」一刀で三島の首切り、森田の首切りに及べたと云う不自然さが解消する。しかし、三島らが持参していたのは「関の孫六」だけであり他に用意していたとの記述はない。とすると、三島の首切り、森田の首切りに使われた刀は三島、森田を強制切腹せしめた側が用意していたとの推理が成り立つ。それと森田の後追い切腹死にも何がしか不自然とする疑問を投げかけていることになる。 次の補足。三島の首切り、森田の首切り現場は総監室ではないのではなかろうか。演説から帰ってきた三島らは直ちに拘束され、然るべき監禁室へ連れ込まれ、そこで凶行に及んだのではなかろうか。この現場に楯の会の残りの3名、益田総監は居なかったのではなかろうか。全て事がが終わった後の死体現場に連行され、そこで形だけの追悼が許されたのではなかろうか。これにより、楯の会の残りの3名、益田総監の切腹時の様子の証言があったにしても「口裏合わせた作り話し」と云うことになる。法廷証言を確認していないので、どのような証言になっているのか知りたいが分かららない。ネット情報には出てこない。 次の補足。「★阿修羅♪ > カルト10」のペリマリ氏の2013.3.9日付け投稿「三島事件の核心を推理する」による「益田総監証言」は重要過ぎる。その第一は、「S副官を衝立の陰に身をひそめさせた証言」である。この証言にはS副官が衝立の陰に身をひそめたとしていることには意味はない。場所は分からないがS副官ないしは複数が現場の様子を監視し続けていた証言として受け取ることにより意味を持つ。つまり、事件の成り行きが全て当局側にキャッチされていたことを意味する。 「益田総監証言」の重要過ぎるその第二は、「この日、益田総監は三島由紀夫に面会する前から何かを予感していた。それが何であるかは自分でもはっきりつかめなかった証言」である。これを「虫の知らせ」的に受け取る必要はない。実は三島らによる市ヶ谷駐屯地での不穏な計画が事前にキャッチされていたことを間接証言したものと拝することができる。「楯の会」の動きが筒抜けになっており、「三島らがこの日に来て何かが起こる」ことが予知されていたのではなかろうか。そういう証言として受け取ることができるように思われる。即ち、三島らが「飛んで火に入る油虫」の「袋のネズミ」状態に於かれていたことを意味する。この重大証言後、益田総監は事件から2年足らずの1973(昭和48).7.24日、逝去(享年60歳)している。死因は書かれていない。 次の補足。三島は、ある程度そうした事情を知っており、最後は市ヶ谷駐屯地での自衛隊クーデター扇動後の結末について半ば生きて帰れない半ば生きて帰られるの半々勝負の賭けに出たのではなかろうか。どちらにでも対応できる形で決行した形跡が認められる。これらの推理によれば、三島割腹事件に於ける三島美学を窺うとすれば、半々勝負の賭けの結果、無慈悲な死が強制されるに及び、最も憤怒する形で見事に腹を引き裂いた三島の意地であろう。哀れなのは森田であるが、森田も巻き添えにされ死を蕭々と受け入れたものと思われる。 次の補足。事件直後に川端康成が駆けつけている。川端は事件直後の三島の切り離された胴体と首を確認していることになる。 川端はその後、精神に変調を来し、眠れないと周囲に漏らしたり、三島の霊にうならされているかのような言動をするようになる。 以来、会議や講演などはこなしていたが健康がすぐれず新しい文学作品を書けなくなった。三島の自刃から約1年半後の昭和47.4.16日、鎌倉の自宅を出てタクシーを拾い仕事場の逗子マリーナ・マンションの自室で水割りを少し飲んだ後ガス管をくわえた形で変死している。遺書はなかった。川端が何故に凶行現場に入れたのか、何故に精神に変調を来したのか、ノーベル賞作家ともあろう者が何故に不可解な死を遂げたのか、いずれも疑問と云わざるをえない。 次の補足。現場に駆け付けた者として他にも石原慎太郎(当時参議院議員)が確認されている。後日、石原は「現場検証した警察関係者から『川端先生が中へ入って見ていった』と聞かされ、川端が三島を見送ったならばと入室を辞退した」と述べているが、現場を確認している可能性が強いと窺うべきだろう。佐々淳行(当時警視庁警務部参事官)も訪れている。佐々の入室辞退の弁はないので、現場を確認していると推理すべきだろう。それにしては現場証言がないのが疑問である。妙なことに現場証言がないことで共通している。 次の補足。三島の胴体と首が切り離された割腹現場、切断された生首写真が事件直後の朝日新聞夕刊早版に掲載されている。同年12.11日号の朝日新聞社の週刊誌「アサヒグラフ」にも「特報 三島由紀夫割腹す」として三島の生首写真が掲載されている。1984(昭和59)年の写真週刊誌「フライデー」創刊号にも三島の生首写真が掲載されている。その掲載の仕方は晒し首的な意味合いを持っているように思われる。武士道的観点からすると切腹した者の生首を晒すのは御法度であることを踏まえると、秘密結社独特の処刑が行われ、見せしめにされた可能性が認められる。 三島、森田の遺体は慶応大学病院法医学解剖室・斎藤教授の執刀で司法解剖されているが、その「解剖所見」はノーベル賞候補たる日本の誇る世界的有能氏の死に対するものにしては実に素っ気ないものでしかない。これは、宮顕リンチ致死事件で死亡した小畑中央委員のそれと比較したとき分かる。小畑氏の「解剖所見」は頭のてっぺんから足のつま先まで克明に記述されている。これを思えば何と簡略なものだろうかと云うことになる。れんだいこ的には生前死後両面からの凌辱形跡が認められるのか認められないのか知りたいところであるが、この疑問に答える所見が殊更記されていないように思われる。 最後の補足。事件後、中曽根防衛庁長官がわざわざの外人記者クラブ会見をやってのけ、「事件をどう思う」と聞かれて「宝塚少女歌劇を思い出す」と答えて爆笑させたとの史実が刻まれている。れんだいこ的には、三島の生首の写真公開と中曽根の弁がハーモニーしている気がしてならない。 もっとも、この中曽根弁に対して不謹慎非難がごうごう浴びせられたようで、後日「中曽根康弘、三島裁判の証言」で次のように述べている。「実は新聞記者に内閣の考えを出せと執拗に責められたが、内閣側は黙して語らずで、官房長官もなんの発言もしなかった。自分としてもこれはむしろ内閣官房長官が談話を発表すべきものであると思うが、止むを得ず自分が新聞記者会見をやった。そして排撃の意思を強く打ち出したのだ。誤解のため鳴りつづけの電話その他で随分ひどい目にあった」。 この時の引き続きの弁で三島国士論を披歴し事なきを得ている。しかし思うに、事件直後の中曽根の三島愚弄弁こそ、三島を誘い込み葬った連中の本音を語っていたのではなかろうか。 まだまだ不自然なことが見えてくるかもしれないが、とりあえず以上を確認しておく。 |
(私論.私見)