カンテラ時評38(1111~1140)

 (最新見直し2010.07.21日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2007.3.24日 れんだいこ拝


 れんだいこのカンテラ時評№1111  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 2月25日
 補足・小林多喜二の妻・伊藤ふじ子、多喜二研究家・手塚英孝考

 今年は小林多喜二没後80年である。そういうこともあって虐殺日の2.20日、新聞各社が短文を添えていた。これにより久しぶりに多喜二を確認している折柄、一言しておきたいテーマに当ったので一文ものしておく。

 「潜伏中に同棲していた伊藤ふじ子が来るや遺体に取り付き、顔を両手で挟んで泣きながら多喜二に接吻をした。最期の別れをして夜中に去って行った」につき、「多喜二最期の像―多喜二の妻」によれば、手塚英孝の「小林多喜二」は次のように記しているとのことである。

 「多喜二が虐殺されたとき、同志はもちろん田口たきにも通知して、みんな集まっているのに、ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない」。

 これに対し、江口渙は、「夫の遺体に悲痛な声/いまは幸福な生活送る」で「多少の誤解がある」として次のように記述している。

 「昭和八年二月二十一日の夜、拷問でざん死した多喜二の遺体を築地署から受け取り、阿佐ヶ谷の彼の家に持ち込んだ時である」、「彼の遺体をねかせてある書斎にひとりの女性があわただしく飛び込んできた。なにか名前をいったらしいが声が小さくて聞きとれない。女は寝かせてある多喜二の右の肩に近く、ふとんのすみにひざ頭をのり上げてすわり、多喜二の死顔をひと目見ると、顔を上向きにして両手でおさえ、「くやしい。くやしい。くやしい」と声を立てて泣き出した。さらに「ちきしょう」「ちきしょう」と悲痛な声で叫ぶと、髪をかきむしらんばかりにしてまた泣きつづける。よほど興奮しているらしく、そうとう取り乱しているふうである。私たちは慰めてやるすべもなくただボウ然として見つめていた。やがて少しは落ちついたらしく、多喜二の首のまわりに深く残るなわの跡や、コメカミの打撲傷の大きな皮下出血を見つめていたが、乱れた多喜二の髪を指でかき上げてやったり、むざんに肉の落ちた頬を優しくなでたりした。そして多喜二の顔に自分の顔をくっつけるようにしてまた泣いた」。

 「十一時近くになると、多喜二のまくらもとに残ったのは彼女と私だけになる。すると彼女は突然多喜二の顔を両手ではさんで、飛びつくように接吻(せっぷん)した。私はびっくりした。「そんな事しちゃダメだ、そんな事しちゃダメだ」。思わずどなるようにいって、彼女を多喜二の顔から引き離した。「死毒のおそろしさを言って聞かすと、彼女もおどろいたらしく、いそいで台所へいってさんざんうがいをしてきた。一たん接吻すると気持ちもよほど落ちついたものか、もう前のようにはあまり泣かなくなった。そこで私は彼女と多喜二の特別なかんけいを、絶対に口に出してはならないこと、二度とこの家には近づかないことを、こんこんといってきかせた。それは警察が彼女と多喜二の間柄を勘づいたら、多喜二が死をもって守りぬいた党の秘密を彼女の口から引き出そうと検挙しどんな拷問をも加えないともかぎらないからである。彼女は私の言葉をよく聞き入れてくれた。そして名残りおしそうに立ち去っていったのは、もう一時近かった」。

 これによると、「潜伏中に同棲していた伊藤ふじ子の多喜二の通夜の来訪」を廻って、手塚英孝が「通夜にも葬式にも見えていない」とし、江口渙が「通夜に駆け付け激情的に多喜二を悼んだ」としていることになる。これはどうでも良いことではなくて、どちらかが明らかに間違った記述をしている。小坂多喜子の「通夜の場所で…」で補強にすれば、江口証言が正しく、手塚証言が間違いと云うことになろう。問題は、手塚がなぜ明白なるウソの記述をしているのかにある。ここでは、この問題をこれ以上問わず、手塚英孝論に向かいたい。

 手塚英孝とは何者かにつき記しておく。れんだいこの知識によると、情報元は忘れたが手塚英孝こそが宮顕を日本共産党へ入党させた一人である。同郷の誼もあって推薦したとされているが、同郷の誼だけの繫がりかどうか不明である。いずれにせよ、手塚と宮顕とは相当深い繫がりがある。この二人は相当に胡散臭い。このことが知られねばならない。

 手塚英孝の履歴を見るのに、「ウィキペディア手塚英孝」によれば次のように記している。1906年12月15日 - 1981年12月1日(亨年74歳)。山口県熊毛郡周防村(現光市小周防)に代々続く医師の長男として生まれる。慶應在学中に社会運動に参加するようになり日本共産党に入党、文化団体の活動をする。1933年に検挙され、出獄した後は同じ中学の一年後輩だった宮本顕治の救援活動をおこない、宮本百合子と協力して獄中でのたたかいを支えた。

 戦後、再建された日本共産党に入党し、日本民主主義文学同盟常任幹事、民主文学編集長を務めるなど一貫して民主主義文学運動の発展に尽力したことでも知られる。非合法活動を共にした同志である小林多喜二の伝記研究を進め、1958年に筑摩書房から刊行した「小林多喜二」は、その後も補訂を重ねつつ、多喜二の伝記として内外から高く評価されている云々。

 手塚英孝が小林多喜二論に精力的に向かったことは良い。問題は、どのような小林多喜二論を展開したのかにある。れんだいこは、手塚の「小林多喜二」を読んでいないが、多喜二通夜の席での伊藤ふじ子不在論を平気で書いているのが一事万事で、多喜二を書きながら多喜二を書くより党の利益、庇護されている宮顕の利益の見地から平気で筆を曲げていることを予想しておく。それは、宮顕の査問リンチ殺害事件の解明に見せた手塚英孝の筆曲げを知るゆえにである。そういう者の多喜二論が権威だとしたら多喜二が可哀そうと思う。こういうことは世によくあることだけれども。

 「小林多喜二考」
 (marxismco/nihon/senzenundoshi/proretariabungakuundoshico/takigico.htm

 2013.2.25日 れんだいこ拝

 jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1111  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 3月 2日
 れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書考その1、はじめに

 2008.12.13日、大東亜戦争末期に登場した特攻志願戦没兵の遺稿を読みたくなった。ふとした気づきから戦後学生運動の活動家のメンタリティーと戦前の特攻兵士のそれを比較してみたくなったからである。これが案外為されていないのではなかろうか。大いに興味の湧く課題であると云うのに。れんだいこ的には、両者は、そのメンタリティーに於いて案外似ているのではなかろうかと思っている。

 日本左派運動の理論が、れんだいこから見て学生運動活動家と同じようなメンタリティーを持つ特攻兵士の生きざまを否定するのは、どういう了見によってであろうか。そこが解せない。れんだいこは、特攻兵士の生きざまを強く否定すればするほど左翼的と思う「学び」方に食傷している。こういう連中はアンネの日記に涙し、ホロコーストと南京大虐殺事件を糾弾しヒューマニストを気取る。陰謀論を批判して得意がる。

 そういう構図全体が臭い。何か拵えられた安上がりの論に過ぎないと思う。そういうテキストに被れなかった我が身を感謝すれども逆に思うことはない。これは、れんだいこ式国体論を得てから痛切にそう思うようになった。これについては「邪馬台国論、同論争のもう一つの意義について続」で素描した。既存の歴史観は学べば学ぶほど馬鹿にはなっても賢くなることはない。現にそういうバカインテリが大量に生産されている。この潮流に棹さすのは困難ではあるが、いつの日にか岩穴を開けねばならない。

 もとへ。2013.02.27日、通りがけさんから、れんだいこブログ「補足・小林多喜二の妻・伊藤ふじ子、多喜二研究家・手塚英孝考」のレスとして「大西瀧治郎中将特攻作戦の真意」の転載が送られた。引用元「修羅の翼」(角田和男著)とある。何の因果関係があってのことか分からない。恐らく因果関係はないのだろうと思う。初見のれんだいこは次のようにレスした。「通りがけさんちわぁ。良い情報です有難う。サイトに取り込んだら報告します」。早速にサイト「特攻隊史」を作り、「大西瀧治郎中将特攻作戦の真意」を取り込んだ。これを機会に「特攻隊兵士の手記考その1」を書き直した。まだまだ不十分なものであるが、以前のものより相当詳しくなった。通りがけ氏のお目に叶うだろうか。今後も充実させていきたいので諸氏よりの情報を求めたい。

 「別章【兵士の手記、遺稿集】」
 (rekishi/daitoasensoco/heishinosyukico/
  heishinosyukico.htm)

jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1112  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 3月 3日
 れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書考その2、遺書の改竄は許されるのか

 「特攻隊兵士の手記考その1」を書き直す過程で読み直し目頭が熱くなった。「れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書論」を書きつけておこうと思い立ち本サイトを設けた。その前に一言しておく。以前、次のように書きつけていた。

 「特攻志願戦没兵の遺稿がネット上にサイトアップされていない。例の著作権何がしが関係しているのだろうか。更に、サイトアップされていても閲覧できないサイトが多い。開くといきなり『警告 危険なウェブサイト表示」に出くわす。「ウイルスバスター2007 このWebサイトには、有害情報が含まれている可能性があります。安全のため、このWebサイトへのアクセスをブロックしました』と記されている。仮に『特攻隊』で検索すれば殆どこの表示で開かない」。

 こう書きつけたのは2008.12月頃であり、あれから5年後の2013年現在では随分改善され、多くの関連サイトが出現している。これは結構なことである。但し、中には特攻隊兵士の手記、遺書の読みとりに於いて余計な世話だろうに戦後の価値観からコメントを付し、真価を毀損しているものも見受けられる。「れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書論」はこれに抗するものである。

 もう一つの問題がある。戦没学生の遺稿集「きけ わだつみのこえ」が旧版、新版と発刊されているが、原文が著しく毀損されていると云う。戦後の反戦平和価値基準で判断し、皇国精神を称揚した者は採録していないか書き換えられていると云う。れんだいこは今のところ読んでいないので「云う」としか書けない。機会があれば実際を確認しようと思う。もし、「きけ わだつみのこえ」が戦没学生の遺稿を改竄しているとしたら、それは筆者に対する冒涜甚だしいお節介というべきではなかろうか。著作権法上からも許されることではあるまい。文章はその時代を映す鏡であり、そのまま読み取られるべきである。如何なる理由をつけようとも改変は許されまい。

 このお節介焼きの側は、特攻兵士の犬死云々を指摘し、この観点から特攻兵士の悲劇を見ようとしている気配が認められる。しかし、特攻兵士の遺書をご都合主義的に改竄して取り扱うことこそが兵士を犬死にさせているのではあるまいか。史実としての特攻兵士の果たした役割については後で論じようと思うが、是非はともかく犬死ではなかろう。我々は、その時代の、その戦争の不条理を認めながら、お国の為に散華して行った兵士の慟哭をありのままに聞くべきではなかろうか。

 そう思うのだが、彼らの肉声がご都合主義的に仕分けされ、粛々と挺身した者の聖戦論に限りお目にかかりにくい仕掛けにされている。これは決して偶然ではなかろう。しかし、誰が何の為にこのようなことをするのであろうか。ここを詮索する必要があろう。こういう場合、れんだいこのセンサーが発動する。これはオカシイ。構わネェ、やっちまえ。只今より「原文 特攻戦没兵士遺稿集」の編纂にとり掛かることにする。と云う訳で「特攻隊兵士の手記考その1」が生れた。こたび、これを書き直したことは冒頭に記した通りである。

jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1113  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 3月 3日
 れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書考その3、特攻隊兵士の覚悟について

 「れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書論」の要諦は次の主張にある。「特攻隊兵士、出陣学徒戦没学生の手記、遺書の手記、遺書」等は、「戦死された方々の御冥福を祈り。同じ過ちを二度と繰り返さないことを誓います」的に読まれるのを通常としているが、そういう読まれ方も結構ではあるが、それは半面のものでしかないのではなかろうか。

 もう一つの読み方として、「戦死された方々の御冥福を祈り。彼らが国と民族に身を捧げた熱い思いに涙せねばならない」のではなかろうか。れんだいこが素直に読めば、時局に泣き命を国に捧げた慟哭の遺書として胸に響くものがある。我々は、これをありのままに読み語り継ぐべきではなかろうか。

 姿勢として、「同じ過ちを二度と繰り返さない」は従であり、「国と民族を思った故の捨身の技に対する畏敬」を主とすべきではなかろうか。抽出すべきは、母国愛と不戦の誓いではなかろうか。そうであるところ「反戦平和の不戦の誓い」の側からのみ評しようとするのは如何なものだろうか。彼らが日本を愛し身命を賭した母国愛を感じ取り、その後の日本人としての我々の現代的な引受責任問題へと繋げていくべきなのではなかろうか。

 云わずもがなのことながら、特攻隊兵士の死を安易に耽美することであってはならない。もしそれをするなら、彼らが殉じた戦争の歴史的意味、意義の解明を求めた大東亜戦争論を構築し、聖戦であったことを確認してからでなければロジックが合わない。しかしてそれはかなり高度な歴史眼、歴史観を要する。おいそれとできるものではない。

 そもそも当時の兵士たちは大東亜戦争論を得心して戦争に殉じたのではない。時局に流されつつ「止むに止まれぬ大和魂」として死地に赴いたのが実相であろう。そういうものを安易に美化賛美することはできまい。聖戦論に於いてではなくむしろ歴史の不条理を我が身に引き受けねばならなかった悲しみを見て取るべきだろう。

 そういう意味において既成の「反戦平和の不戦の誓い」の側からのものも、耽美派からのものにも首肯できない。これが、「れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書論」を生み出し書きつけねばならない理由である。

 我々は、彼らの純情を何とお粗末にして来たことだろうか。それを反省せねばならない。れんだいこが今思うに、戦後民主主義の戦前批判論、特に軍部批判論の下で、「特攻隊兵士の手記、遺書」の意味と意義が意図的に掻き消されたのではなかろうか。あるいは不当に貶められあるいはその反発として無条件称賛し過ぎてきたのではなかろうか。思うべきは、そういう論を生む戦後民主主義論の薄っぺらさ、それに抗する反戦後民主主義論の薄っぺらさである。真に見るべきは、戦後民主主義論に内在している戦勝国側都合の仕掛けではなかろうか。

 戦後民主主義は、戦前の統治体制との比較においては善政的なものである。故に否定すべきものではない。れんだいこが主張したいことは、戦後民主主義が衣の下に付けている戦勝国側の鎧(よろい)である。この鎧を見ずの戦後民主主義論は児戯的なものである。と心得るべきところ、戦後民主主義礼賛者、その批判者の何と軽薄なことだろうか。それらの論は俗に味噌とくそとをごちゃ混ぜにしていやすまいか。これにより、本来ならばありのままに評価されねばならない特攻隊兵士の生きざまを毀損してきたのではなかろうか。

 「特攻隊兵士の手記、遺書」の値打ちはどこにあるのか、これを確認しておく。これは、当時において読み解くのと今日において読み解くのとの二通りあると思われる。れんだいこは、当時において読み解くことはできないので、当時において読み解いたかのような気分を大事にしつつ今日において読み解いてみたいと思う。

 云えることは、「特攻隊兵士の手記、遺書」が、今日のガン患者末期の終末医療の局面での辞世句以上に緊迫した、本来死す必然性のない、且つ咎のない者が死を見据え、死に就く覚悟論であることである。こういうものは世に滅多にあるものではない。そういうものが遺されていることを大事にせねばならない。それにしても、特攻隊員は二十歳前後の壮健士ばかりである。

 手記、遺書の文面から窺うのに今日の日本人よりよほど高等な教育を受けており、精神性が高いことが分かる。そういう面からも戦後日本の在り方に於いて何かと反省を迫っているのではなかろうか。

jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1114  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 3月 3日
 れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書考その4、遺書は検閲済みのヤラセなのか、自爆志願は強制なのか

 特攻隊兵士の遺書の検閲性を疑い、ヤラセ書き込みを見て取ろうとする論がある。次のように述べられている。

 概要「遺書は兵士の本当の心情ではない。その死は軍部に暗示をかけられたものである。兵士には命令拒否が許される空気ではなかった。当時の戦況や仲間が次々と志願していく状況ではそうせざるを得ないのが実情であった。国家による愛国心の強要以外の何ものでもない。見て取るべきは、戦争の無意味さであり、純真な若者達を死に追いやった軍国主義日本の責任である」云々。

 俗耳に入り易い言である。こう云っている当人は至極マジメに述べているつもりなのだろうが、申し訳ないが特攻隊員の「無私無償の死」を却って愚弄しているのではあるまいか。確かに特攻隊を生み出した背景に軍部の下級兵士生命軽視の面も見て取れる。しかし、それを甘受した精神構造の方にも注目したい。この辺りは主観の相違になろうが、れんだいこには、武士道的腹切りに似た死地に赴く潔さの方にこそ注目したい。

 下手な勘ぐりで、遺書に検閲の線を読みとる暇があるなら、命令拒否者の武勇伝を探した方が早いと申し上げておく。捜せばそういう例もあろうが、事態を呑みこみ粛々と時局の要請に従った事例ばかりではなかろうか。一例、二例を挙げて全体の構図を覆すのは無理だろう。

 検閲を言うのなら、「きけ わだつみのこえ」の遺書の選択、原文書き換えの方の検閲にこそ目を向けるべきではなかろうかと思う。それこそ検閲そのものだろうが。当時の時代状況における母国愛祖国愛に向けての特攻隊員の自主的な「無私無償の死」を真摯に受け止めるのを我々の態度と為すべきではなかろうか。「遺書の検閲性を疑い、ヤラセ書き込みを見て取ろうとする論」の下手な受け取りようマジメさが決してマジメでも何でもないと云うことを指摘しておきたい。

 れんだいこが特攻隊兵士の手記、遺書を読みとるのに、遺書も自爆志願もあながち強制的とみなすべきものではない。遺書は自主的なものであり、死を前にした真情を吐露したものである。その真情吐露に軍部の容喙があったと見なすのは越権だろう。特攻死は「非常事態に採用された異常な出来事」ではあるが、時代の渦に巻き込まれたものなのではないのか。見て取るべきは歴史の不条理ではなかろうか。

 彼らの自爆死を批判する者も称賛する者もいる。両論あり得ようが彼らの純情を否定できまい。これにつき次のように評されている。
 「有為の人材を戦争のために失ったことは惜しみてもあまりある。その意味においては、そのような若人たちを死所に追いやった我々は大いに責められてよい。しかし、特別攻撃に散華していった若者たちへのとかくの非難だけは絶対に許されない。それは作戦の是非や善悪を越えた、崇高な、神聖ともいうべき行為にほかならないからである」。

 実にそうではなかろうか。以上を、「特攻隊兵士の手記、遺書に見える覚悟論について」とする。

 jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1115  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 3月 3日
 れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書考その5、家族への思いやりについて

 次に、「特攻隊兵士の手記、遺書の肉親及び家族に対する思いやり論」を見ておく。これにつき、特攻隊兵士が目前に死を控えた際の訴えには共通して、死にきれない中を死んでいく者の気がかり、最後の訴えが記されており、目頭が熱くなる。時代の不条理、それを踏まえた慟哭が伝わって来よう。これを女々しく伝えた者、几帳面に伝えた者、勇ましく伝えた者、残された家族への思いやりを伝えた者等々百人百様の書きつけを遺しているが、透けて見えてくるのは「肉親及び家族に対する熱い思いやり」である。

 この思いを聞くにつけ、戦後日本の肉親及び家族の絆の緩みが逆に知れることになる。かの当時の日本には、かような絆が常態として形成されていたのだろうか、それとも凝縮した感概故にとりわけ熱く語られているものなのだろうか。れんだいこは、戦前日本の絆の強さの方を見てとりたい。してみれば、戦後日本は、敗戦国の哀れさで、家族の紐帯を意図的故意に弱めさせらたのではなかろうか。その代わりのものとして、猫も杓子も拝金主義のトリコにされようと教育されてきた、現にそう教育されつつあるのではなかろうか。

 もとより、戦後日本人が一挙に金銭亡者にされた訳ではない。戦後式学問テキストの習熟に秀でた者が優先的にそのような教育を受け、いわば近代的個人主義のワナに嵌まり、そういう者が立身出世し、「我さえ良ければ」式の立身出世御礼奉公として「上からの金銭亡者教育」に一役買っている。そういう時代になった。

 そういう中で、多くの日本人は伝統的秩序を保ち、戦後日本の毒気に毒されず、時代の流れに棹さしながら家族の絆、地域の絆、国との絆を確かめつつ今日まで生き延びているのではなかろうか。それは日本人の極めて健全なDNAであり、もっと誇りにすべきではなかろうか。

 この目線から見れば、戦後民法の長子相続否定の均等相続規定も必ずしも善政のものではない気がする。本来であれば、諸々の財産の均等相続は是としても家族が共に過ごした親の本家相続は非課税にすべきで、そうであればくだらぬ揉め事は起こらないのに起るように仕組まれている気がする。

 日の丸君が代の国旗掲揚国歌愛唱問題も然り。重要儀式に拝するのは良いと思うが、一切拒否するか、のべつくまなく拝礼するのかを廻って不毛無駄な対立をしている。日の丸、君が代の原義を知り思いを馳せれば、それは左のものでも右のものでもなかろうに政争の道具と化している。

 無駄な対立ついでに云えば、話しがどんどん飛ぶが、天下り問題然り。我々が批判しているのは天下り自体ではない、天下りによる高給与待遇であり高額退職金のウグイスの谷渡りである。そうであるのに天下り自体の是非論にうつつを抜かし、事態は少しも変わらぬどころか却って悪化している。

 一票の格差問題然り。一票の格差を単に票数問題にして行けば都会の議員数が増えるばかりとなるのに、正義ぶった一票の格差違憲訴訟が相次いでいる。「一票の格差」は、議員選出区の有権者数、選挙区面積、選挙区の産業力等々の複合的見地から定められるものであろう。そうすれば「都会の議員数が増えるばかり」が是正され、「都会の議員数が増えるばかり」自体こそ憲法違反と云うことになるだろうに。

 もとへ。「肉親及び家族に対する熱い思いやり」を致しながら死地に赴いた兵士の心配に対し、残された家族はどのように報われたのだろうか。地域と国家に守られたのだろうか。戦後は何でも権利万能の世の中になったが、特攻兵士の遺族は、「無私無償の死」を選んだ特攻兵士に似て案外とひっそりと世に耐えて生きたのではなかろうか。、そういうことが気にかかる。以上を、「特攻隊兵士の手記、遺書の肉親及び家族に対する思いやり論」とする。

 jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1116  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 3月 3日
 れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書考その6、「悠久の国体大義に殉ず」

 次に、「特攻隊兵士の手記、遺書の国体論(「悠久の国体大義に殉ず」)」を見ておく。ここは、「きけ わだつみのこえ」が旧版、新版等が注意深く検閲している下りであるので特に留意を要する。れんだいこ理解によれば、特攻隊兵士の覚悟も、遺書の肉親及び家族に対する思いやりも、この国体論に収斂されており、いわば特攻隊兵士の最も琴線に触れる部分ではなかろうか。これを理解するのは非常に難しい。そういうテーマである。

 国体論を皇国論と同視して国家強制による犠牲死とみなす向きがあるが、それも然りではあるが、それだけでは納まりきれないのではなかろうか。こう理解しないと解けない。特攻隊兵士の胸中は皇国論で占められていた場合もあろうが、れんだいこの見るところ、それだけではない。特攻兵士は、その心情に於いて国体論の幅域まで含めて愛祖国愛民族していた故に粛々と戦地に赴いていたのではなかろうかと思われる。これを特攻隊兵士の手記、遺書で裏付けるのは難しくない。仮に「悠久の国体大義に殉ず」を記さない遺書が殆どだとしても、自明として敢えて記さず覚悟論と思いやり論のみ記していると窺うことができる。何より死地に旅立っていること自体が「悠久の国体大義に殉ず」に生きたことを裏づけているのではなかろうか。

 かくて、「特攻隊兵士の手記、遺書考」の真価は国体論の精査へと向かうことになる。これにつきキモの部分ではあるが本稿では割愛する。国体論の重要性が分かれば良い。もとより国体論は論者によってまちまちであり、非常に高度な問題である故に安逸な論を打ちあげる訳にはいかない。

 云えることは、れんだいこ眼力によれば、「日本の国体」は日本史上の大和王朝の御世に確立された天皇制よりももっと古い。それ故に「悠久の大義」とされているものである。それは恐らく、大和王朝前の邪馬台国、その前の出雲王朝、その前の縄文時代日本、その前の日本語の原語となる和語が形成され始めた時より、あるいはその前から続く連綿とした日本精神にして政治論なのではあるまいか。

 それは決して好戦的なものではない。むしろ逆に平和的協調的即ち和合的なものである。なお且つ日本式神人和楽的にして人間と自然との共生に重きを置く今日にも通用するかなり高度なものと窺う必要がある。明治維新以来の近代的天皇制は、そうした日本の悠久の国体史に相対させてみればかなり歪んだものである。皇国史観とは、その歪みを歪みとせず形成された好聖戦イデオロギーである。よしんば特攻隊兵士がそのような認識に立てなかったのは時代の檻の中で育てられた故にであり致し方ない。しかしながら彼らが見ていたのは皇国史観ではない、やはり「悠久の国体大義」だったのではなかろうか。

 万葉歌人・大伴家持の古歌から採られている「海ゆかば」の歌詞を見てみよう。「海ゆかば水漬くかばね 山ゆかば草むすかばね 大君の辺にこそ死なめ かえりみはせじ」。本居宣長の和歌「 敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」、山鹿素行語録「人は難にのぞみ危うきに至りては、義を忘るる事多し。死生存亡に於いても変ぜざるは、まことの義士といふべきなり」、吉田松陰語録「身はたとひ 武蔵野野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」、名句「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」、高杉晋作と野村望 東尼の辞世句「おもしろき こともなき世を おもしろく 住みなすものは 心なりけり」。これらは皆な日本の国体に思いを馳せたものである。特攻兵士も、このようなメンタリティーに誘われて「悠久の大義に殉じた」のではなかろうか。

 その彼らの絆が御承知の「同期の桜」(作詞・西條八十、作曲・大村能章)である。これを確認しておく。この歌の凄みは、特攻兵士自身がこの歌を愛唱したことにある。人によって作られたものではあるが、当時の時代精神から内在的に生み出されたものでもあり、それ故に違和感なく愛唱され続けた。そこに値打ちがあるのではなかろうか。下手な靖国論で貶してはいけない名歌のように思う。

 「貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょ 国のため。貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 血肉分けたる仲ではないが なぜか気が合うて別れられぬ。貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く 仰いだ夕焼け南の空に 今だ還らぬ一番機。貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く あれほど誓ったその日も待たず なぜに散ったか死んだのか。貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも 花の都の靖国神社 春の梢(こずえ)に咲いて会おう」。

jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1117  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 3月 3日
 れんだいこの特攻隊兵士の手記、遺書考その7、歴史への貢献について

 特攻隊隊員の死は歴史にどう待遇されるべきだろうか。これにつき、白井厚氏は岩波ブックレットNo.572の「いま特攻隊の死を考える」の中で次のように書いているとのことである。

 「自発的に自己の生命を捧げて他の命を救うという行為は、尊く美しいことです。しかしその目的は、人類愛の精神にもとづき、歴史の批判に耐えるものでなければなりません。アジア太平洋戦争はこの条件を欠き、しかも特攻隊編成は“統率の外道”で、前途有為の青年たちに自爆死を命ずるものでした。沖縄戦に至ってはその戦術的効果も激減しますから、それを知りながら延々と出撃を命じ続けた軍首脳の責任は極めて重大です。隊員の死は、生きていれば社会に貢献したであろう人たちが無理に殺されるという悲しくも空しい死でした。情報閉鎖集団の中で“悠久の大義”などと言って満足できるものではありません。当時の“大義”は、決して永遠のものではありませんでした。当時のほとんどの国民が、皇国史観にも戦争目的にも疑問を持たなかったのは残念なことです。しかしその中でも、愛や強烈な現状批判を示した隊員がいたことは、われわれに勇気を与えます。われわれはそれを受けついで、二度と戦争することのない社会を築くべきでしょう」。

 れんだいこは、こうは受け取らない。美談や武勇伝にしてしまうのも禁物だが、ほどほどを弁えつつも「粛々と祖国のために死出の攻撃行に参加した特攻隊員たちに対して、私は心から厳粛な尊敬の念を禁じえない」の感性を支持したい。絶対的に弱い立場の者が為し得る「貧者の一刀」として善悪是非論道徳論抜きに評さねばならないのではなかろうか。

 そもそも彼らの死は決して「無謀無駄な自殺攻撃」ではなかった。彼らの特攻死は考えられている以上に「その後の歴史抑止力」として働いたことが知られねばなるまい。死を賭しての敢戦精神が「震撼させたもののふ精神」として評されていることの重みを見ねばならない。それは、戦争の勝敗の帰趨は決まっていたものの、本土決戦に向かうには相当の犠牲者が出ることを予想させ、それが彼らのジェノサイド攻撃を逡巡させ、双方に終戦を呼び込み、その後の対日占領行政への隠然とした圧力となった。

 これにつき、米国の従軍記者、ロバート・シャーロットが次のように述べている。 「特攻のような型破りな戦術はアメリカ海軍に深刻な影響を与えた。なぜならば、アメリカ軍はいまだかって、このような自己犠牲の光景、ゾッと身の毛のよだつような無気味なものを見たことがなかったからである」。

 そういう働きをしたのが史実である。

 ビルマ初代首相のバー・モウも次のように述べて称賛している。

 「特攻隊は世界の戦史に見られない愛国心の発露であった。今後数千年の長期にわたって語り継がれるに違いない」。

 米、英、仏の戦勝国側でも神風特攻隊に関する書物が数多く刊行され、特攻に対して高い評価を与えている。

 日本駐在フランス大使を務めた、ポール・クローデル(劇作家、詩人)が昭和十八年の秋に、パリの夜会のスピーチで次のように述べている。

 「私がどうしても滅びてほしくない一つの民族がある。それは日本人だ。あれほど古い文明をそのままに今に伝えている民族は他にはない。日本の近代における発展、それは大変目覚しいが不思議ではない。日本は太古から文明を積み重ねてきたからこそ、明治に入り欧米の文化を急速に輸入しても発展できたのだ。どの民族もこれだけ急な発展をするだけの資格はない。しかし日本にはその資格があるのだ。古くから文明を積み上げてきたからこそ資格がある。彼らは貧しい。しかし高貴である」。

 大東亜戦争が極東裁判史観からのみ評されるべきではないのと同じように、神風特攻隊を始めとする「うら若き青年のあたら惜しい自己犠牲死」は実は世界からかく賞賛されているものである。そろそろその世界史的意義を再評価する目線を持つ必要があるのではなかろうか。

 にも拘わらず「歴史を愚弄し揶揄し嘲笑している」戦後知識人が多い。これこそ戦勝国側によりテキスト化された歴史観であり、それをそのままに受け入れることは敗戦後遺症、副作用のせいではあるまいか。何事も鵜呑みにせず、賛美しないまでもせめて思いやり、その死を無駄にしない了解の仕方があっても良いのではなかろうか。以上。この考察は英霊の御魂にささやかな餞(はなむけ)になっただろうか。

 2013..3.3日 れんだいこ拝

 jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1118  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 3月 4日
「ホテルオークラ絡みの事件」考

「★阿修羅♪Ψ空耳の丘Ψ61」の愛国日本氏の2013.3.4日付け投稿「日本の将来、世界の将来はどうなるのか (小石泉の礼拝説教集)」が次のように伝えている。

「『橋下氏と前原政調会長は、この前ホテルオークラで秘密裏に会い、そして地下通路を使って駐日米国大使館に入っていったらジョセフナイ、リチャードアーミテージ、マイケルジョナサングリーンさらにはカートキャンベルという事実上『日本のトップ』たちが待っていたようです』ということになる。(ホテルオークラとアメリカ大使館は隣接している) これは非常に信憑性が高い。私は人づてに聞いたのでその人物へのアクセス方法は知らない」。

 小泉牧師紹介のこの証言の真相はさておき、「ホテルオークラとアメリカ大使館は隣接している」は動くまい。今、地図で確認すると確かに隣接している。ホテルオークラとアメリカ大使館が地下通路で繫がっているのかどうか。これは確かめようがないとすべきだろうが、確かめられないものでも確かなことがある。そういう例としよう。

「ホテルオークラ」で、れんだいこが思い出すのは、ロッキード事件の贈収賄容疑の決め手となった伊藤供述書の「ホテルオークラの駐車場のホテルサイド玄関先での金銭授受」の下りである。これにつき、れんだいこは従来「荒唐無稽にも」と云う線で読んできた。しかし今気づいた。そう単純ではない、裏意味があるのではなかろうかと。

 ホテルオークラはアメリカ大使館は隣接しており秘密の地下通路があるとして、そういう曰くつきのホテルの玄関先での金銭授受と云うことになれば、それが拵えられたストーリーであろうとも、その意味するところは「これはアメリカ様の絶対命令的シナリオである」と云う裏メッセージとなっているのではなかろうか。

 そうならば、日頃、国際金融資本に飼われて立身出世したシオ二スタン一同は、「ホテルオークラ絡みの事件」と聞いただけで直立不動となり、後は角栄訴追の云いつけに唯々諾々となるしかなく、お調子者はアメリカ様のお墨付きをバックにはしゃぎ廻るのではなかろうか。そういうことだったのかと今にして思う。そういう意味で今後は、「ホテルオークラ絡みの事件」とならばアンテナを働かせておきたい。その芸能版が「六本木ヒルズ絡みの事件」なのではなかろうかとも思う。

jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1119  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 3月 6日
 学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別考

 学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別解が漸く見えて来たので記しておく。学んでアホウになる学問とは、国際ユダヤ(国際金融資本帝国主義ネオシオニズム)が対ゴイム用に仕立てた学問テキストに基づく学問であることは既に指摘した。

 それでは学んで為になる学問はどこにあるのか。見えて来たのは日本の古き学問及びその姿勢である。古きとは、大和王朝以前に遡る意味で使っている。れんだいこ推理によれば、日本は大和王朝以前に出雲王朝、邪馬台国を形成していた。これを「古き」としている。この時期までに形成されつつあった諸学問及び学問姿勢こそ学んで為になる学問である。そう思うようになった。

 この観点から見れば、鮮やかなほど世に有益な業績を挙げたものが「古き学問」から生れていることが分かる。これを逆に云えば、ネオシオニズムテキストが生み出したものにはろくなもんがない。それは何も学問だけに限ったものではない。政治も経済も文化も精神も然りである。そういうことが見えて来た。

 実際にはネオシオニズムテキスト系学問と上古代日本の学問が混在している訳で、そういう意味では見分けがつきにくい。しかしながら、見分けがつきにくいままに上古代日本の学問に向かったものは有益な果実を生み、ネオシオニズムテキスト系学問に向かったものは有害な空疎に至る。そういうことに気付いた。気づけば今からでも遅くない。気づいたときから始め実りのある営為に向かわねばならない。

 この解により次にのべる一つの疑問が解けた。れんだいこの父母は、ここでは母を挙げるが、何故に知識が乏しいのに人として立派に生き通せたのか。ここで云う立派とは肩書きのことではない。母は4人の子を産み、父と睦まじく連れ添い、ほぼ死ぬまで働いて80歳余の寿命を終えた。生前云ってた通りに金も借金も残さなかった。朝に仏壇、神様、稲荷様にお供えし夕べに下げの繰り返しの日々だった。嫁に辛く当たるのでもなく死んだ時には兄嫁が心から涙を流していた。手前らは尋常高等小学校しか出ていなかったが、子供は高校、大学へと進学させた。れんだいこの奨学資金の返済は気づいたら母がしていた。

 こういう生き方及び能力はどこから生まれたのだろうか。子供の数でも親業(わざ)でも地域との交わりも世間評も、れんだいこよりしっかりしていると思う。しっかりと云う意味では、その昔に驚かされたのだが、れんだいこが学生生活に東京に出向いた際、手紙をくれたが、文章がしっかりしていた。末尾が何とかでせうとしていたのを覚えており、これが気に入り、れんだいこも使っている。

 要するに二宮尊徳的生き方をしていたのではなかろうか。その二宮尊徳は、三戸岡道夫著「二宮金次郎の一生」 で教えてもらったが、「古き学問」出自の英才だったと思う。他の誰それも同じこと、極論すれば優秀な人は皆な「古き学問」出自の者である。おふくろも、そのはしくれだったと思う訳である。後はもう云うまい。

 ronpyo/tetugakunote/gakusyabakaco.htm

 jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1120  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 3月10日
 学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別考その2

 学んで為になる学問と却ってアホウになる学問があることを確認し、それがどうやら前者に「古き学問」、後者に「ネオシオニズムテキスト」が関係していることが分かった。ただこの指摘だけではまだ漠然としているので、もう少し詳しく触れておく。

 この違いが露骨に出てくるのが歴史学である。れんだいこの気づくところ、戦前の日本史学は皇国史観に彩られていた。これが戦後になるとネオシオニズム史観から書き直されている。これにより、戦前に正義とされていたものが戦後ではそうならず、不正義とされていたものが評価されると云うことになったのは衆知の通りである。と云うことは、ここに別の史学が登場し権威化した場合には又書き換えられることを意味する。

 これらは史観の為せる技である。そういう意味で史観は非常に重要である。史観の必要性は、歴史事象の何を重視して採り上げ、何を軽視するのかと云うことに関わっている。いわゆる歴史真実と云うものは史観上にトレースされているものであり客観中立的見立てと云うものはありそうでない。

 ここを踏まえないと歴史真実の相対性が見えてこない。5W1Hにより確認されるのは個々の事象である。それさえ曖昧模糊にされるケースが多いので、まずはここをもっと厳しく精査するべきであるが、これを幾ら精査しても事象間の繫がりまでは語らない。事象間の繫がりを読みとるのに見立て、その見立てを裏付ける史観が必要になる。史観を通せば事象間の繫がりが生き生きと見えてくる。ここに史観の重要性、必要性がある。

 その史観によって、学んで為になる学問となったりアホウになったりする。そういう意味で史観の吟味が必要になる。では、どのような史観に基づくべきかが問われる。れんだいこに見えて来たのは、「学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別考」で述べたように、「古き学問」のセンスを称揚したい。「古き学問」とは、大和王朝以前の出雲王朝、邪馬台国時代に形成されていた諸学問及び学問姿勢を指している。この時代の学問が如何に優秀なものであるのか。これが問われていないが現在まで脈々と引き継がれていると思っている。

 だがしかしそれは権威を持っていない。つまり御用学になっていない。つまり官制学校で教わることはない。いわゆる「在野史学」となっている。あるいは「巷間の伝承、口ずさみ」により伝承されている。そういう非権威、非御用学が御仕着せ学とは別途に世代に世代を継いで読誦され続け今日に至っている。それらには当り外れがあろうが耳を傾ければなかなか味わい深いものが多い。しかしてその質が高い。その理由が、「古き学問」に根ざしているからであるように思われる。

 早くに社会に出て社会で泳ぎながら能力を鍛えた人士の中より傑物が生れることがあるが、彼らに共通しているのは「古き学問」を聞き分けしていることである。歴史の近いところで田中角栄なぞはその代表選手だろう。歴史上の有為の人物は殆どこの系譜であるように思われる。

 ところで、「古き学問」から生れている史観には名称がない。れんだいこが勝手に唱えている「れんだいこ史観」はその一種である。「れんだいこ史観」の稀有性がここにある。名前はどうでも良い、「古き学問」から生まれだされた史観が、滅びた皇国史観、滅びゆくネオシオニズム史観に代わって表街道に出てくる日を待ちたい。これにより歴史を学ぶなら学ぶほど賢くなり逆は逆の気がする。「古き学問」の道に入れば世の有用なものと連動しており、皇国史学、ネオシオニズム史学の道に入れば世の邪悪なものに隣接しており且つ空虚である。これが、れんだいこが解いた「学んで賢くなる者と却ってアホウになる者の不思議」の解である。名答だろうか。

jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1121  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 3月11日
 学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別考その3

 「我が日本の古き学問」が如何に優秀なのか、これを確認しておく。結論から先に述べると学の始発の構えが素晴しい。それは、「共生助け合い的生き方、思想の開放的構造、自然摂理の聞き分け」の三原理に集約されるのではなかろうか。これをなべて「和の原理」としているように思われる。興味深いことは、そのことごとくがネオシオニズム学と対比的なことである。このことは、ネオシオニズム学の崩壊の後、「我が日本の古き学問」が見直され再興される可能性があることを示している。もとより、そのままの「我が日本の古き学問」の復権ではなく、皇国史観、ネオシオニズム学を咀嚼した後の「新たな我が日本の古き学問」の創造としてもたらされるだろう。これを正確な意味で「出藍」と云う。

 選民主義と「自然を支配せよ」の命題で始まるネオシオニズム学の発展系が国際金融資本帝国主義を生み出し、彼らが悪魔科学が生み出し、その定向進化が地球環境の絶対的危機時代をもたらしている。これが万事を金権で測る拝金蓄財思想の結末である。こうした時代故に、ネオシオニズム学と真逆に位置する「我が日本の古き学問」が見直され、「出藍」が求められているように思われる。

 れんだいこの知るところ、戦後思想家に於いて左翼圏から転戦してネオシオニズム学と対決し、「我が日本の古き学問」を称揚せんとする営為の端初をつけたのが大田龍ではなかったか。もとより大田龍の前に大田龍史観の下地となる様々な有益史観があったことは論をまたない。大田龍・氏は晩年、このような史学の確立へ向かおうとしていた。寿命が許さなかったが、健在なら大田龍史学が打ち立てられた可能性が強い。2.26事件の検証が晩年の企てだったが、そして田中角栄の復権の必要を説いていたが功績であろう。歴史にイフは禁物なので未練せず、残された我々がこの法灯を受け継がねばなるまい。

jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1122  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 3月11日
 三陸巨大震災2周年れんだいこコメント

 本稿の前に「学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別考」を書き上げた。今日は三陸巨大震災2周年に当るので、以下、「三陸巨大震災1周年れんだいこコメント」の続編として記す。

 (ronpyo/tetugakunote/gakusyabakaco.htm
 (jissen/tasukeaito/seimei/2012.11.11seimei.htm

 れんだいこがこの時期に何故「学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別考」に関心を持ったのか。これを愚考するのに三陸巨大震災、福島原発事故対応に対する呆れ故ではなかろうか。今日で丁度二年を経過したことになるが、被災対応は史上例を見ないお粗末さなのではないのか。予算は既に充分に計上されている。人員も揃っており投入されている。にも拘わらず当局の打つ手打つ手が急所を外している。これはワザとそうしているのではなかろうかとさえ思う。

 何でこうなるのか。れんだいこが見出すのはネオシオニズム学の悪影響である。我々は学んで少しも役立たぬような学問ばかりを仕込まれてきたのではなかろうか。それによりネオシオニズム奥の院の指令に唯々諾々する作風を身につけ過ぎているのではないのか。今日では政治にせよ経済にせよ専門の学者に舵取りさせてもうまく行かないのが相場になってしまっている。

 しかしこれは考えたらオカシイことである。まともな学問をしていれば、素人よりも数段なるほどの舵取りするのが当たり前のことだろうに。囲碁の例で考えてみよう。プロがアマチュアより拙い手を打つなどと云うことがあり得るだろうか。頭脳がそういう按配だから政府が諮問委員会を幾つも設けて学者の知恵に期待しても決まって役立たずの結果になっている。そこで新たな委員会を設けるのだが結論は同じで要するに問題を先送りにしたに過ぎない。オカシナことではなかろうか。

 三陸巨大震災対応につき今思いだしても不自然なことが多過ぎる。例えば、初動における被災民救援の遅れがイカガワシイ。がれき処理の異常な遅れが信じられない。海の者を山へ連れて行く発想、防波堤を山より高くする発想なぞはナンセンスの際みである。原発対応できぬさなかの原発続投表明なぞは狂気である。復興予算を組んだものの現地に使わず競って流用している痴態はモラルハザードを通り越している。これらが目ぼしいところだが個々の事例を挙げればキリがない。総てが逆対応であり真剣さがない。

 そもそも復興は難しいものではない。必要なところを手当てすれば良い訳だからむしろ分かり易いと云うべきだろう。原爆が投下され廃墟となった広島の復興を見れば良い。時の政策者がまともな頭脳を持っていたのであろう、まずはメインコースの百メートル道路を中心に市街化整備が進められた。区画整理事業が始まり青写真通りの再生が進んだものと思われる。災害は、時の被災者には気の毒だが災い転じて福となすような力強い復興が始まるのが普通である。そういう特需景気が起るのが普通である。れんだいこの云う「我が日本の古き学問」に従えば必ず見事に再生するし再生してきた。

 しかるに、三陸巨大震災、福島原発事故対応の場合、金も人も注ぎ込み掛け声だけはするが復興をワザと遅らせ、するにしても経済効果にわざわざ結びつかないよう仕掛けした対策を講じており、結局のところ予算のムダ使いばかりしている気がする。関東大震災、阪神大震災に比しても余りにもお粗末な対応が目立つ。この背後の事情にネオシオニズム学の悪影響を見て取るべきではなかろうか。これにより、人民大衆レベルでは「我が日本の古き学問」に従い絆を大事に助け合っているのに上の方の責任者は示し合わせて逆漕ぎばかりしているように見える。日本がネオシオニズムに捕捉される度合いに応じて万事に於いてお粗末になりつつあるように見える。

 そういう事情によってとしか考えられないのだが、震災当初危惧されたように被災民の棄民化が進みつつある。それにしても菅政権下の被災民対応は犯罪的だった。被災民の移動にせよ居続けにせよ不可抗力では済まされない誤誘導が目立つ。これの検証もされていない。全権限を官邸に集中させた挙句のお粗末さであるから質が悪い。

 原発廃炉対応の難しさ、原発後遺症はこれから本格的に露呈しそうである。その費用も天文学的になりそうである。災害復興計画のグランドデザインをまだ聞かない。提起されているのは既に述べたように逆漕ぎ政策ばかりである。そんなものが遅れても構わないが、れんだいこから見てまずまずの案が先延ばしされ続けている。災害当初は許されても二年も経過してこの調子となると批判の段階ではない弾劾の段階に突入していよう。

 当事者能力を喪失している我が日本の政治を見るのは辛すぎる。民主党政権下の対応はデタラメだった。そういうこともあり自民党安倍政権が誕生したのだが、安倍政権が急いでいるのはTPP交渉であり消費税増税であり憲法改正である。軍事防衛予算は伸びている。他方で「復興の加速化」を云うには云うが口先だけの御題目でしかない。これは後継の政権でも同じだろう。この言が本当にそうだと判明した瞬間、被災民はこぞって政府との一揆的談判に入るべきだろう。そろそろ我慢の限界域を迎えつつあるのではなかろうか。ネオシオニズム学に汚染された者を退かせ、「我が日本の古き学問」で頭脳形成した叡智人を登用することでしか難局を打開できないのではなかろうか。これが云いたかった。

 2013.3.11日 れんだいこ拝

 jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1123  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 3月15日
 れんだいこの狗奴国考その1

 ここで、れんだいこの狗奴国論を発表しておく。あまりにも政治がバカバカしいので古代に夢を馳せ検証しておく。狗奴国論は邪馬台国研究上、避けては通れない関門であり、いつかはっきり主張したかったが躊躇していた。しかしいつまでも放っておく訳には行くまい。れんだいこ説によれば、狗奴国を魏志倭人伝の記述から読むだけでは比定できない。上古代史の縦の線から読みとる以外にない。そうすると次のようなことが見えてくる。

 狗奴国は、結論から述べると紀州熊野地方の熊野である。これは、邪馬台国をヤマトの三輪に比定することで可能になった。よって九州の熊襲とは違う。長らく狗奴国熊襲説の研究がされているようだが徒労だろう。紀州熊野地方の熊野は出雲の熊野と繫がる。出雲熊野と紀州熊野がいつ繫がったのかまでは分からないが同族であると見立てたい。こうなると出雲王朝論に精通しないと見えるものが見えないことになる。出雲王朝史については「出雲王朝神話考」に記しているので参照されたし。

 出雲王朝に於ける熊野は、最も古い時代の原出雲から元出雲時代の首府であり、これを治める大王が皇祖的支配権を持つ豪族である。この豪族も数派あるようである。こう理解することにより「邪馬台国の女王・卑弥呼、狗奴国の男王・卑弥弓呼」の同名意味が通じて来る。即ち、邪馬台国の女王・卑弥呼と狗奴国の男王・卑弥弓呼が同族同格に扱われている意味が分かる。

 同名は同族を表わしている。同格とはどういう意味か。それは、熊野が原出雲から元出雲王朝時代の皇祖であり、邪馬台国が新出雲王朝時代の皇祖として鼎立していたことによる。両者に共通する「卑弥」とは「日を司る最高権限者」と云うことだろうと推定できる。「日を司る」とは暦を司ると云うことであり儀式の執行権を得ていることを示している。この時代の権力とはこういうものだったのではなかろうか。邪馬台国を大和の三輪、狗奴国を紀州の熊野に比定すると、魏志倭人伝の「これ女王の境界の尽きた所なり。その南に狗奴国あり」がそのまま理解できることになる。

 両者は出自が同じ故に出雲王朝圏として連合関係にあった。去る日、旧支配権者の熊野が新支配権者の邪馬台国に王権を譲り、統治ぶりを見守っていたと云うことであろう。これには魏志倭人伝の「その國、本亦男子を以って王と為す。住こと七八十年、倭国乱れ、相攻伐す。年を経て、すなわち共に一女史を立て王と為す。名は卑彌呼」とあるように霊能系の女帝を擁立することで倭国の混乱を治めたと云う事情があった。

 本来であれば、熊野系の狗奴国王が納まるところ、出自がはっきりしないが天照大神的霊統が認められた卑彌呼が新王になった。しかし、これにより本来の皇統であった狗奴国側に不満が残った。こうして、両者は同族的繫がりを持ちながらも暗闘関係にあったと推測できる。こう読みとれば、魏志倭人伝の「その南に狗奴国あり。男子を王と為す。その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず」がそのまま理解できることになる。

 jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1124  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 3月15日
 れんだいこの狗奴国考その2

 この推理が何故に重要かと云うと、「れんだいこの新邪馬台国論」を媒介すれば容易に見えて来るが、神武東征神話譚によるヤマト攻めに関係してくるからである。記紀神話によると、ヤマトを平定したワケミケヌの命がカムヤマトイワレ彦命(おくり名・神武天皇)となり初代天皇として即位したのは紀元前660年にされており、紀元3世紀の邪馬台国滅亡と絡む筈もないが、記紀神話が邪馬台国滅亡史を意図的故意に抹殺する為に神武天皇即位日を実際より700年も前の出来事としたと推理すれば、神武東征神話譚は邪馬台国滅亡譚と重なると逆読みすることが可能になる。

 こう読めば、神武東征神話譚の冒頭に登場する猿田彦の正体が見えてくる。猿田彦は元出雲王朝の皇祖神である。事実、猿田彦は元出雲王朝系神社の祭神として祀られている。この時代の何代目かの猿田彦は新出雲王朝系の邪馬台国と暗闘関係にあった。その猿田彦が、神武族東征に当り水先案内人としての役割を申し出たと記紀が記している。神武東征神話譚が半ば史実を記しているとすれば、この下りも半ば史実なのではなかろうかと思える。

 それは、猿田彦側から見れば失われた支配権復権の野望であった。これを神武族から見れば、邪馬台国側の内部分裂を上手く利用したと云うことになろう。れんだいこは、この時の猿田彦が狗奴国の男王・卑弥弓呼だったのではなかろうかと推理している。こう読めば何となく全体に歴史が繫がるから不思議である。

 補足しておく。神武東征神話譚のヤマト攻めに敵方として登場する国津族の長脛彦、二ギハヤヒ連合の正体が見えてくる。二ギハヤヒは新出雲王朝の大国主の命系であり、長脛彦は蝦夷系ではなかろうか。事実、二ギハヤヒは大国主の命と共に、と云うか大国主と区別がつけにくい形で新出雲王朝系神社の祭神として祀られている。この連合軍が、新出雲王朝が後押ししていた邪馬台国の防衛に奮戦したと云うのが実際だったのではなかろうか。記紀神話の語るところ、長脛彦、二ギハヤヒ連合軍が強過ぎて河内からのヤマト攻めに失敗し熊野へ迂回を余儀なくされている。この後を語り出すとキリがないので止(よ)す。神武東征神話譚と邪馬台国滅亡譚を同時代の動きとして見れば、こういうことが透けて見えてくる。

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 れんだいこのカンテラ時評№1125  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 3月16日
 れんだいこの狗奴国考その3

 魏志倭人伝は次のように記している。「倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と、素より和せず。倭の載斯烏越(さいしうえつ)等を遣わし、郡に詣でて、相攻撃する状を説く。塞曹掾史(さいそうのえんし)張政等を遣わし、因って詔書.黄幢をもたらしらし、難升米に拝假し、檄を為して之を告喩す。卑弥呼死す」。

 これをどう理解すべきだろうか。文面からすると、邪馬台国と狗奴国が深刻な内乱に入り、その情況下で卑弥呼が死んだと解すべきだろう。本来は克明に記すべきところ、意図的故意に最も簡略に記しているように思える。相当に書きにくい事情があったと窺うべきだろう。魏志倭人伝のこの筆法が、後世の史家を悩ますことになり、その悩みが今も続いている。れんだいこは、これを解くのにまずは日本史書、中国史書を総当りせねばならないと考える。それによっても解けないようにも思っている。となると推理するしかない。

 れんだいこ史観によると、これを為すのは邪馬台国論ではなく既に大和王朝論の範疇に入ると思っている。そこで記紀神話の神武天皇東征譚、大和王朝創世譚が絡んでくる。尤も記紀神話では紀元前660年の出来事としているので、これを信じれば全然別の話しとなる。しかしながら、れんだいこは、神武天皇東征譚は邪馬台国滅亡史の裏表と見なしている。そういう意味で感心を寄せることになるのだが、神武天皇東征譚は卑弥呼死去後の台与時代の出来事なので「邪馬台国と狗奴国の内乱」を知るには役立たない。つまり、この辺りの政変史は史書からすっぽり抜け落ちていることになる。

 れんだいこの推理は、「邪馬台国と狗奴国の内乱」が神武天皇東征の前哨戦として存在したとしている。日本書紀によれば、神武軍は東征に当って次のように宣明している。

 「塩土老翁(しおつちのおじ)に聞きしに、『東に美(うま)き地(くに)有り。青山四(よも)に周(めぐ)れり。その中に又、天磐船(あまのいわふね)に乗りて飛び降りる者あり』と云えり。余(あれ)謂(おも)うに、彼の地は、必ず以って天業(あまつひつぎ)をひらき弘(の)べて、天下(あめのした)に光宅(みちお)るに足りぬべし。けだし六合(くに)の中心(もなか)か。その飛び降りると云う者は、これニギハヤヒと謂うか。何ぞ就(ゆ)きて都つくらざらむ」。

 これ文章では触れられていないが、「葦原の中つ国は、国つ神どもが騒がしく対立している」ことが前提事情となっている。これに「邪馬台国と狗奴国の内乱」が関係していると窺いたい。神武天皇東征は、倭国の混乱を見て「頃合いや良し」として号令されたと窺う。これに猿田彦が絡んでくるのは述べた通りである。但し正確には猿田彦が日本書紀に登場するのは神武天皇東征前の天孫降臨譚のところである。天孫降臨と神武天皇東征の流れを一体と見れば、引き続き猿田彦勢力の協力があったと見なすべきだろう。

 この猿田彦が狗奴国の男王・卑弥弓呼又はその官の狗古智卑狗ではないかと見立てるのが「れんだいこの狗奴国考」のキモである。この解は好評を得るだろうか。

 「狗奴国考」

 (kodaishi/yamataikokuco/kunukokuco.html

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 れんだいこのカンテラ時評№1126  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 3月27日
 れんだいこの辞世の句考

 ふと「辞世の句」を確認したくなった。直接的には「特攻隊員の手記及び辞世の句」に影響を受けたのかも知れない。そこで急きょ辞世の句サイトを作った。以下の通りである。

 「辞世の句」
 (gengogakuin/inrituku/inrituku_jiseiku.htm
 「一族及び集団辞世句」
 (gengogakuin/inrituku/inrituku_syudanjiseiku.htm
 「兵士の手記、遺稿集」
 (rekishi/daitoasensoco/heishinosyukico/heishinosyukico.htm

 気づきとはこうである。日本は、直前の大東亜戦争まで辞世の句を遺すことを教養人の嗜みとしていたのではなかろうか。この作風が戦後日本から消えたのではなかろうか。それは紛れもない敗戦後遺症ではなかろうか。無論、戦後日本においても辞世の句を遺す者は居るには居る。しかしながら社会の風潮として嗜まなくなった。これは偶然ではない気がする。そこで、我が社会から辞世の句が消えた理由を探ろうと思う。

 なぜ戦後日本から辞世の句が消えたのか。思うに、教養人に辞世の句を遺すような生きざまが消えたことに関連しているのではなかろうか。辞世の句を遺すには、己の真っ当な生きざまが前提となる。その上で己の人生の総決算を凝縮して和歌に託したのが辞世の句の本質なのではなかろうか。専ら政治家、武将、軍人、芸人、求道者が好んで遺して来たが、遺さなかった者も遺した者の句を見て共感してきた筈のものである。それは日本の古来よりの伝統に基づいている。辞世の句が遺されてきた時代の日本人には、辞世の句を遺すことへの緊張感を内在させた生き方が備わっていたのではなかろうか。それは戦争に負けたからと云って消え去るべき筋合いのものではない。

 にも拘わらずなぜ消えたのだろうか。れんだいこの気づきは、戦後の教養人から「真っ当な生きざま」が消えたことに関係しているのではなかろうかと読む。なぜ「真っ当な生きざま」が消えたのか。それは、戦後日本下で重用された彼らが等しく日本精神とは全く異質の国際金融資本の雇われとなり、彼らのアジェンダの請負仕事に勤しみ、彼らが奏でるネオシオニズムの虜(とりこ)になり、なべて「今が良ければ、己が良ければ」式の金満の道へ誘われた。その精神には「お国」を思う気持ちがない。そういう野卑な心性が辞世の句を遺すような生き様とそぐわなくなった為ではなかろうか。

 辞世の句を遺す為には、まずは己の生きざまを肯定せねばならない。政治家、武将、軍人が戦に負けようとも、それは武運つたなき故であり、生きざまそのものは勝敗とは関係ない。故に辞世の句を遺せることになる。芸人然りで、如何に芸道が至らなかろうと至ろうとした生きざまに恥じるところのものはない。そこで辞世の句を遺すことになる。求道者然りである。

 してみれば、辞世の句を遺せなくなった戦後日本の生きざまを疑惑し、我々は元々の日本の伝統の良き例に倣うべきではなかろうか。辞世の句を遺せるような人生を得て、各自思い思いの辞世の句を詠うべきではなかろうか。そういうところから日本の再改造が可能になるのではなかろうか。辞世の句のない社会はつまらない、寂しい。これをなくさせられた戦後日本を疑え。こういうことが云いたかった。

 jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1127  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 4月 1日
 5.15事件と2.26事件の相似と差異考その2

 戦前の5.15事件、2.26事件について、通俗歴史書に於いては共に軍部の青年将校たちの突出的蛮行として片づけられるに過ぎない。れんだいこは、2011.6.5日付け「れんだいこのカンテラ時評933、5.15事件と2.26事件の相似と差異考」と題して、概要「両者の事件の本質が違う。5.15事件は親国際ユダヤ系軍部による在地土着系政治家に対する蛮行であり、2.26事件は逆に在地土着系軍部による親国際ユダヤ系政治家に対する蛮行であった」とする観点を披歴した。

 続いて、2011.6.7日付け.「れんだいこのカンテラ時評934」で「陸軍皇道派の有能人士考」と題して、主として真崎甚三郎・陸軍大将、荒木貞夫・陸軍大将、山下奉文・陸軍大将、小畑敏四郎・陸軍中将、事件後自害した野中四郎の弟の野中五郎を挙げ、皇道派の有能性を論じた。この観点が注目されることなく経緯しているが更にショッキングな以下の論考を世に送ろうと思う。

 結論から申すと、2.26事件は国際的謀略の臭いがする。それは、国際ユダヤによる、来る日米戦争を前提として戦局を有利にする為に、事前に日本軍部内の優秀な指導者及び将校を始末しておく為の一網打尽作戦だったのではなかろうか。皇道派青年将校は易々とこのワナに乗せられたのではなかろうかと推理したい。それが証拠に2.26事件決起の動きは当局奥の院に刻々キャッチされており、それを掣肘するでもなく推移を見守っていた形跡が認められる。目下、「禁断 二・二六事件」(鬼頭春樹、河出書房新社、2012.2.25日初版 )を読んでいるが驚くばかりに、その様子が記されている。

 この推理によると、日本は大東亜戦争を闘う前に於いて用意周到に負けるように細工され、それが2.26事件誘発により首尾よく成功していたことになる。2.26事件は、国際ユダヤによる巧妙な炙(あぶ)り出しにより、戦前軍部に於ける最も優秀な頭脳であり軍隊であった皇道派を決起させ、直ちに鎮圧し徹底的に粛清せしめた陰謀事件だったのではなかろうか、と云うことになる。これを証明しようとすればできない訳ではないが紙数を相当要するので、かく結論を述べておきたい。

 着想は、左遷させられながらも生き延びた皇道派の各地での戦歴の確かさから生まれた。仮に2.26事件で始末された青年将校が健在で指揮を執っていたら、戦局の帰趨は不明だったのではなかろうかとの思いが禁じ得ない。そもそも反戦派のれんだいことしての興味はここで終るが、終戦結末に大きな影響を与えたことは確かだと思う。

 この説を補強する一文を見つけたので引用しておく。「2.26事件(背後で操ったのは?今また田母神問題で)」に次のように記されている。

 「これを突き詰めれば、『昭和の動乱』とは一種の『狂言』であり、その裏側に真の目的が隠されていました。それは当時の権力機構に衝撃を与えて、それをお互いに戦わせて内乱に導き、同時に軍部の暴発を誘い、日本と中国を戦わせ、やがて日米開戦に引きずり込むと言うシナリオに他なりませんでした。

 民間の『非愛国的仮装右翼』といわれる一部の連中は、財閥や国際ユダヤ金融勢力と結びついており、陸海軍の中にも、そうした首謀者の影を見ることができます。現に海軍の士官で構成される親睦や研究や共済等を標榜した「水行社」はフリーメーソン日本支社の巣窟であり、米内光政や山本五十六が出入りしていました。2.26事件によって陸軍皇道派は完全に捻り潰されました。

 その後に台頭した陸軍統制派は、国際ユダヤ金融勢力によって、おだてられ、煽られた挙げ句、日中戦争の泥沼に突入し、その上、太平洋戦争への道へと突入しようとします。海軍では西園寺公望や岡田啓介、米内光政や山本五十六といったフリーメーソン・メンバーが国際ユダヤ金融勢力の走狗でした。日本を滅ぼしたのは陸軍統制派と海軍でしたが、彼らを操ったのは西園寺公望を筆頭とするフリーメーソンらであり、また一部の非愛国的右翼だったのです」。

 その通りではなかろうか。この観点に、来る日米戦争に備えて日本陸軍の有能な士を壊滅させる策略があり、それが2.26事件だったと云う観点が欲しい。

 人は、これを陰謀論の極みと云うであろう。そう決めつけることで、5.15事件、2.26事件を並列に論じ、いずれも青年将校の狂気の沙汰による蛮行と評して足れりとする者がありとすれば、れんだいこの言と交わることはない。れんだいこは、然り、まさしく陰謀である。陰謀のある時に陰謀を見るべしであり、陰謀があるのに見ようとしない反陰謀論とは与し難い、陰謀論で結構であると返答したい。

 もとよりこの推理には裏付け資料がある訳ではない。いわば「没資料的歴史推理」である。しかしながら、表に出てくる資料だけでは歴史の真実が解けず、時には、こういう推理も働かせなければならないのではなかろうかと思っている。なぜなら政治史を画するような重要事件であればあるほど真相資料が秘匿される傾向があるからである。これを逆に云えば、表に出てくる資料はたかが知れている、さほど重要でないものが出ているに過ぎないと云うことになる。

 「没資料的歴史推理」をも働かせなければ一人前の歴史家にはなれない。但し、「没資料的歴史推理」は諸刃の剣であり、下手に振り回せば妄想の言になり、賢く働かせれば眼光紙背の言になる。そういう意味で「没資料的歴史推理」には能力が鋭く問われている。思うに「没資料的歴史推理」を磨かないような歴史家は凡庸過ぎる。一人前を目指すなら、表に出ただけの資料や、下手なテキスト辺りで首ったけ消耗させられるようでは覚束ない。お誂えのテキストの上を行く知性が要求されており、つまり歴史眼による歴史との格闘なしには史実の真相に迫れないと思う。

 jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1128  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 4月 5日
「征韓論争、その後の士族の反乱」の歴史詐欺記述にもの申す

 「れんだいこのカンテラ時評№1127、5.15事件と2.26事件の相似と差異考その2」の2.26事件の再考により、皇道派青年将校が実は国際ユダヤの姦計により決起するべく扇動されたこと。事件後速やかに処断され、来る日米戦争遂行上、日本軍の戦闘能力を大きく殺がれたことを確認した。5.15事件が国際ユダヤ系軍部の蛮行であり、2.26事件がその真逆に位置しているものとして考察されねばならないことを指摘した。更に興味深いことは昭和天皇が見せた対応である。5.15事件に対しては温情的であり2.26事件に対しては厳罰を指示しているように窺える。これは偶然ではなく、昭和天皇と国際ユダヤとの妙な阿吽の呼吸を見て取ることができる。もとへ。こうなると同じような臭いのする1873(明治6)年の「明治6年政変、士族の反乱」の真相を確認しておきたくなった。

 「明治6年政変、士族の反乱」とは、通俗史書では征韓論争に端を発するとしている。端を発すると云う意味では問題はないが征韓論争と云う表記は正確ではない。この論争の主人公である西郷隆盛の論は正確には征韓論に対する和韓論又は議韓論とも云うべきものであり、史家はこの辺りを踏まえて征韓和韓論争と命名するべきところではなかろうか。征韓論と命名すると西郷の和韓論が隠れてしまい、あたかも西郷が征韓論を唱え、反西郷派が征韓論に異を唱えたかのように受け止められてしまう。これは歴史の詐欺記述ではなかろうか。

 これを確認するのに、かの時の西郷の弁は次のようなものである。「征韓論の真実考」に記す。
 (rekishi/meijiishico/saigoco/seikanronronsoco.htm

 これを読めば確認できるように、西郷は、「日・朝・清の三国連合により欧米列強の力に対抗せん」として、これを説得する為に単身乗り込もうとしていた。この「日・朝・清の三国連合によるアジア同盟論」こそ幕末維新派の外交テーゼであった。これを仮に「西郷式アジア同盟論」と命名することにする。

 明治維新は、この「西郷式アジア同盟論」を却下し東アジアの盟主化へと向かうことになる。いわゆる日本帝国主義化である。これが自力の定向進化であったのか国際ユダヤの陰謀によるものであったか問わねばならないが本稿では割愛する。結末が大東亜戦争へと向かい日本民族瀕死の重傷を負ったのは史実の示すところである。もとへ。この流れと並走しつつ「西郷式アジア同盟論」は地下に潜りながら密かに継承されて行くことになる。2013年現在の今もこの対立が暗闘的に続いていると見て差し支えない。

 結局のところ、西郷は維新政府を見限り野に下る。この時、板垣が薩摩-土佐の軍事同盟を打診している。西郷は、「薩摩と土佐が組めば政府は明日にもひっくりかえるが、そんな事をすればイギリスやロシアを喜ばせるだけだ」として拒否している。ここでも、西郷の見据えていた外交戦略が確認できる。思えば、この眼力あればこそ幕末の内戦が回避され、江戸城無血開城へと至っていることになろう。西郷が西郷どんとして敬愛されるのは、西郷のこの眼力とその実践に負っているのではなかろうか。

 これが、かの時の歴史の真相である。これを思えば、「征韓論争で、西郷が征韓論を唱え、岩倉―大久保―伊藤連合派がこれに反対した」などと云う受け取りようはナンセンス極まりないことになる。西郷派は後に「士族の反乱」を起こすが、通俗歴史書はここでも歴史詐欺記述をしている。それらは、維新政府の士族解体、棒碌召し上げに異を唱えた「我がまま士族の反乱」などと描くのを通例としている。それは余りにも児戯的過ぎよう。正しくは、幕末維新以来の「革命の夢」が悉く裏切られ、国際ユダヤの姦計に嵌められつつある明治維新政府権力に対する幕末維新派の最後にして最大の抵抗として記述されるべきだろう。この観点を据えることによってのみ各地の「士族の反乱」の意義と無残な鎮圧のサマが見えてくる。

 れんだいこは、このところ「学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別考」をものしている。本稿で取り上げた西郷の和韓論を征韓論で記述する史観、「士族の反乱」を武士の俸碌召し上げに対する抵抗などと記述する史観も学んでアホウにされる類のものである。手を替え品を替えて記述されるそれらのものを何万冊読もうとも、読めば読むほど目が曇らされることになる。5.15事件と2.26事件を共に軍部青年将校の反乱として同一視点から記述する史観も然り。近いところでは田中角栄を諸悪の元凶、小沢一郎を政界の騒動士的に描く論評も然りである。

 そういう愚説を唱える者ばかりが登用され「知の巨人」などと持て囃されつつプロパガンダされるので、それを鵜呑みにして正義ぶる愚頓士が後を絶たない。本日現在、石原慎太郎が「経済を蘇生させるには防衛産業が一番いい」などと述べ最後の狂説をぶっているようである。そして彼らが持ちあげられる。我々はそうした歴史の愚昧士、これに提灯する詐術師と闘うべきである。愚頓士は、れんだいこ史学の煎じ薬を飲むべきだろう。

 jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1129  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 4月 9日
 田中耕太郎最高裁長官の司法取引密談考

 2013.4.8日、1959年の砂川事件最高裁判決に関わる、当時の田中耕太郎最高裁長官の在日米大使館首席公使と秘密会談による新たな司法犯罪が報じられている。今回の新資料は、元山梨学院大教授の布川玲子氏(68歳、法哲学)が今年1月に米国立公文書館に開示請求し、その翌月に入手したものである。別文書既報で、1審判決後、田中最高裁長官と駐日米大使(ダグラス・マッカーサー2世)との密会謀議が判明している。こたび、司法の番人の頂点に位置する最高裁長官ともあろう者が「上からの法破り」で司法の独立のを犯していたことがまた一つ判明した。

 ここで田中耕太郎氏の履歴を確認しておく。概要はウィキペディアの記す通りであるが、気になることとして、欧米留学を経て帰国後の1924(大正13)年、戦後の日本国憲法に携わることになる松本烝治の娘である峰子と結婚、1926(大正15)年、上智大学初代学長ヘルマン・ホフマン師よりイエズス会系カトリック教徒として受洗と記されている。戦後、1945.10月、文部省学校教育局長に転じ、1946.5月、第1次吉田内閣で文部大臣として入閣。文相として日本国憲法に署名している。その後、教育基本法制定に尽力している。1950年、参議院議員を辞職して最高裁判所長官に就任。閣僚経験者が最高裁判所裁判官になった唯一の例となっている。長官在任期間は3889日で歴代1位。1961年から1970年にかけて国際司法裁判所判事として活躍する。1974年、聖母病院において死去、亨年85歳。

 この履歴の問題性は、田中耕太郎が一貫して陽のあたる坂道を昇りつめていることにある。彼をしてここまで順調に登用せしめたものはなんだっのか、有能性だけに根拠を求めるべきだろうか、これを問わねばなるまい。秘密のカギは「イエズス会系カトリック教徒として受洗」にあるのではなかろうか。ここでは、この問題につき、これ以上は踏み込まないことにする。

 もとへ。新資料によると、1959年、田中最高裁長官が、密接な利害関係者である米国側の要人である在日米大使館首席公使(ウィリアム・レンハート)と秘密会談している。これを記した米国国務長官宛の在日米国大使館公電が遺されており、これが開示されたことになる。これにより、日米安全保障条約改定を前に日本の最高司法が米国に誓約した便宜内容が具体的な明らかになった。

 布川氏が「最高裁長官が司法権の独立を揺るがすような行動を取っていたことに非常に驚いている。安保改定の裏で、司法の政治的な動きがあったことを示す資料として注目される。裁判長が裁判の情報を利害関係のある外国政府に伝えており、評議の秘密を定めた裁判所法に違反する」云々とコメントしている通りである。

 それによると、1957(昭和32).7月、東京のアメリカ軍・旧立川基地の拡張計画に反対したデモ隊が基地に立ち入り学生ら7人が起訴されたいわゆる「砂川事件」の裁判が始まる。1959年3.30日、1審が、「アメリカ軍の駐留は戦力の保持を禁じた憲法9条に違反する」として7人全員に無罪を言い渡した(「伊達一審判決」)。検察側は高裁を飛ばして最高裁に上告(跳躍上告)した。「伊達判決」直後のこの時、マッカーサー駐日大使が藤山愛一郎外相、法務大臣(愛知揆一?)、田中最高裁長官と会談し、「日本政府が迅速な行動をとり東京地裁判決を正すこと」を求め、過去に一例しかなかった最高裁に跳躍上告するよう働きかけている。ここまでは既に判明しているところである。

 同年7.31日、最高裁の公判日程が決まる3日前、田中最高裁長官が「共通の友人宅」でレンハート・在日米大使館首席公使と秘密会談している。会談当時は、日米両政府の間で、安保条約の改定に向けた交渉が行われている最中であることを考えると極めて政治性が強いことになる。これがこたび開示された史料の意義である。

 秘密会談の内容は次の通りである。その1として、田中最高裁長官は、公判日程及びその見通しや評議内容まで明らかにしている。「9月初旬に始まる週から、週2回の開廷で、およそ3週間で終えると確信している」、「砂川事件の最高裁判決はおそらく12月であろうと考えていると語った」と記述されている。実際、公判期日は8月3日に決まり、9月6、9、11、14、16、18日の6回を指定し、18日に結審、12月16日に1審判決を破棄、差し戻している。

 その2は、大使側は「同僚裁判官たちの多くが、それぞれの見解を長々と弁じたがることが問題になる」と指摘し、これに対し田中長官が「裁判官15名に働きかけ、結審後の評議は実質的な全員一致を生み出し、世論を揺さぶるもとになる少数意見を回避するやり方で運ばれることを願っている。学生らの有罪を確定させる」と述べ、これに向けての訴訟指揮をする旨の言明が記載されている。事実その通りになった。その3は判決である。最高裁判所大法廷判決で1審判決を破棄し、7人の罰金刑が確定した(「田中最高裁判決」)。文書末尾は、「最高裁が政府側に立った判決を出すなら、新安保条約を支持する世論の空気が決定的に支持され、社会主義者たちは投げ飛ばされることになる」と結ばれている。

 こたび開示された文書はかくも「田中最高裁長官が米国尋問に応諾した様子」を証言している。我々は、これより何を窺うべきだろうか。「米国の圧力」なのか「日本側の自主的追従」なのかまでは分からないが、法曹界の頂点に立つ最高裁長官自らの「司法の独立毀損犯罪」を犯していることは間違いない。しかしてそれは日本の独立国としての名誉を最高裁長官自らが踏みにじっていることを示している点で由々しきことであろう。

 この時の判決文はもう一つの汚点を遺している。「日米安全保障条約はわが国の存立に関わる高度の政治性を有し、一見極めて明白に違憲無効と認められない限り司法審査の対象外」として憲法判断留保とした。これを仮に「高度の政治性課題につき統治行為論に基づき違憲判断留保を是とする法理」(「違憲審査留保法理」)と命名する。この論理論法が、その後の違憲訴訟の数々を門前払いにさせ憲法の空洞化を裏から促進した点で罪が大きい。

 れんだいこはこのところ歴史解読の為には「没資料的歴史推理」を働かせるよう示唆しているが、こうやって「没資料的歴史推理」がその後の史料公開によって裏付けられることになることを知る。そこで更に「没資料的歴史推理」を働かせたい。ロッキード事件、小沢キード事件もこうやって「日米謀議」により発動されたことが後から裏付けられることになるのではあるまいか。してみれば、そう云う裏舞台を嗅がず、当局の尻馬に乗って角栄批判、小沢批判をぶって正義ヅラし、これに疑念する者に対して陰謀論の一声で一蹴する者の何と浅はか悪乗りなことか。この手合いが多過ぎて困る。

 「砂川事件最高裁判決に於ける日米密談漏洩事件考」
 (gakuseiundo/history/sunagawatoso/

 mitudanroeico.htm)

 jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1130  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 4月16日
 れんだいこ史観と鹿島史観、八切史観、大田龍史観との相似と差異考その1

 2013年4月頃、ふと八切止夫氏の「日本原住民論」を読みたくなり古書店より取り寄せ読了した。「日本原住民論」としての史論を述べていることを期待して読み進めたが、「日本原住民」の歴史的生態叙述に終始しており、やや物足りなかった。結果的に、内容よりも「日本原住民論」と題したタイトルの方に意味と意義を感じている。「日本原住民論」の法灯を受け継ぎ、これを史論として滔々と述べる書物が欲しい。そう感じている。

 それはともかくこの際、「れんだいこ史観と八切史観、鹿島史観、大田龍史観との相似と差異考」をものしておきたくなった。鹿島史観、鹿島史観、大田龍史観について片言隻句ほどにしか確認していないのだが敢えて冒険的に比較対照して見ることにする。

 はじめに述べておきたいことは次のことである。れんだいこ史観はれんだいこが勝手にそう述べているだけのものであるが八切史観、鹿島史観、大田龍史観は既に歴史的に認知されている。こういう場合、手前味噌的な口上より歴史的に認知されているものの方が値打ちがあると見なされるのが普通だろう。れんだいこは、その程度の弁えは持っている。しかし、れんだいこ自身は、世上の評価と値打ちは別物であると考えており何の遜色も感じていない。むしろ識者の眼力が優れていればいるほど、れんだいこ史観の好評が高まると自負している。目下、れんだいこ史観に関心が生まれつつあることは正当であり当然と自負している。

 れんだいこ史観と八切史観、鹿島史観、大田龍史観の差異はどういうところにあるのだろうか。結論から述べると、大和王朝史以前の上古代日本史の読みとりに於いて、大和王朝に滅亡させられた先行王朝としての出雲王朝論、邪馬台国論を確立したれんだいこ史観の方がより核心を衝いていると自負している。八切史観、鹿島史観の致命的な欠点は、日本史の通説批判なり皇国史観批判の観点から為されている点に意義が認められるものの、上古代日本史の秘密である出雲王朝、邪馬台国、狗奴国の立論に失敗しており、それが為に日本史の原点たる上古代史及び大和王朝創建史絡みの言説があらぬ方向に飛んでいると見なしている。アンチ皇国史観の言説が却って足元を掬われる結果になっているとみなしている。これを仮に「皇国史観ジレンマ」と命名しておく。これを論証すれば紙数を増すので、この結論で止めたい。

 れんだいこ史観と八切史観、鹿島史観、大田龍史観の差異は究極のところ古代日本史の読みとりの差に帰着する。この観点の差が、その後の歴史の見立てに様々に影響している。日本史は大和王朝以前の「原日本」と大和王朝以降の「新日本」を厳格に識別しなければ何も見えてこない。大和王朝以降の日本史は「原日本的なるもの」と「新日本的なるもの」の両者の協調と抗争、暗闘と云う「歴史の縦の線」を踏まえないと読み取り損ないすることになる。こう見立てるのがれんだいこ史観であるが、そのれんだいこ史観から見ると、「原日本対新日本論」を持たない八切史観、鹿島史観、大田龍史観はいずれも未だ不十分と評されることになる。

 八切史観、鹿島史観の古代日本史論は個別的に白眉なものも数々あるが、「歴史の縦の線」を読み損ない、その代わりに際もの的な立論に向かっていることが価値を落とし込めていると見立てている。しかしながら、古代日本史の読みとりの差の影響を無視することができる事案もあり、そういう面での個々の論考に於いてはむしろ学ばせていただくことが多い。全体として八切史観、鹿島史観は共に日本史上の事件事象の通説に対し多岐に亘って裏史観的なものを詳論し、いずれも説得力のある論考をものしている。八切史観、鹿島史観には独特の味わいがあり光芒を放っていると見立てている。

 八切史観、鹿島史観、大田龍史観との相似と差異を確認するのも一興であるが、これを為すにはそれぞれに通暁(つうぎょう)していなければならず、れんだいこの読了能力に於いてもはやほぼ不可能であるので差し控えることにする。感覚的な結論のみ述べれば、八切史観は「原日本的なるもの」に大いなる関心を払っているのが特徴である。鹿島史観は「原日本的なるもの」に対する関心よりは皇国史観の根底を撃つ史論の方に傾注しているのが特徴である。但し、両者とも近現代史を彩るいわゆる国際ユダヤに対する言及は見られない。大田龍史観のみが国際ユダヤ論即ちれんだいこ史観で云うところの金融資本帝国主義ネオシオニズム論を持っており、その点が異色と云うことになる。大田龍史観は、いわゆる国際ユダヤの発生史と展開史を歴史的に系統立てて論述し、現代政治解析の座標軸的視座を提供している点で白眉となっている。

 「れんだいこ史観とは、れんだいこの認識変遷史メモ」
 (ronpyo/tetugakunote/rendaicoshikanco.htm

 jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1131  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 4月16日
 れんだいこ史観と鹿島史観、八切史観、大田龍史観との相似と差異考その2

 当然、れんだいこ史観は八切史観、鹿島史観、大田龍史観の成るほどと思う観点を吸収している。その上で新たな史観として創出している。その基本的な論考はホームページ「左往来人生学院」の「れんだいこの特選論文集100選」にサイトアップしている。百選と銘打ちながら百選を超えているのは愛嬌である。
 (jinsei/tokusenronbunsyu.htm

 れんだいこ史観と鹿島史観、八切史観、大田龍史観との相似と差異考を総まとめしておく。

 八切氏は1914(大正3)生れ、鹿島氏は1926(昭和2)年生れであり丁度一回りの年齢差であるが、八切史観と鹿島史観がほぼ同時期に競合しながら歴史の裏真実を読み取り、八切氏の場合には歴史小説風に、鹿島氏の場合には弁護士的立論で、それぞれ数多くの論考を発表している。それらの影響を受けながら且つ両者に欠けていたところ、萌芽的であったところを1930(昭和5)年生れの太田氏が打ち出したのが大田龍史観であり、国際ユダヤ論の見地を加えて更に精緻にさせている。

 この三者の相互関係をそのように受け取り、大田龍史観が追認した八切史観、鹿島史観をも学びながら、大田龍史観の後継史観として1950(昭和25)年生れのれんだいこが確立したのがれんだいこ史観である。れんだいこ史観はそういう重畳関係にある。そうは云うものの、れんだいこは鹿島史観、八切史観についての論考をそれほど読んでいないので、これから追々に学ばせて貰おうとしている。その成果を採り入れて、れんだいこ史観の精度を上げたいと思う。

 但し、れんだいこ史観にはれんだいこ独自の論考も多い。その代表作として宮顕リンチ事件、天理教教祖中山みき論、戦後学生運動論、幕末維新論等が挙げられる。独自の論考ではないが、従来の諸見解の歪みを正し、かく理解すべきであるとして方向を指針させたものとして日共論、田中角栄論、大正天皇論、出雲王朝論、邪馬台国論等が挙げられる。これらを細かく数え上げればキリがないほど、れんだいこの論考も充分な質量を提供している。

 いずれも通説を退け八切史観、鹿島史観、大田龍史観に引けを取らない説得力ある新説を打ち出している。れんだいこが、れんだいこ史観と打ち出すだけの理由と根拠を示している。未だ歴史的に認知されていない点だけ憾みが残るが、これはれんだいこにはどうしようもできないので歴史の俎板(まないた)に乗っている。他にも1954(昭和29)年生れの井沢元彦氏の史観、1959(昭和34)年生れの関裕二氏の史観との絡みも述べることができるがはしょることにする。

 このれんだいこ史観に対して既に次のような評をいただいている。「法螺と戯言」氏がが、れんだいこの宮顕リンチ事件及び宮顕論に対して、「それはさておき、このレンダイコ氏による考察が私に与えた衝撃は、1995年1月の雑誌『マルコポーロ』廃刊事件に匹敵するものでした」云々。K女史より「毎日少しずつ読ませていただいております。非常に為になります」云々。その他にも同様の評をいただいている。世の倣いとして逆の評もあるが、著名人の誰それの言説に反しているから問題だとか、最高裁判決を持ちだして詰(なじ)る式のものばかりで、囲碁に例えれば、れんだいこ6段の技量に対する初段程度の者の当てこすりでしかないので取るに足りない。

 以上、簡単ながら素描しておく。

 「れんだいこ史観とは、れんだいこの認識変遷史メモ」
 (ronpyo/tetugakunote/rendaicoshikanco.htm

 jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1132  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 4月18日
 政治と出生数の相関論

2013.4.16日、総務省が2012年10月1日現在の人口推計を発表した。それによると、日本の総人口は1億2751万5千人、マイナスは2年連続で1950年以降で減少数、率ともに最大を更新した。65歳以上の人口は初めて3千万人を突破し人口減と高齢化の進行が鮮明になった云々。これにつき、れんだいこが思うところあり、急きょ「日本の生年別総人口表」をサイト化した。(seidoco/keizaikanren/jincomondaico/seinenbetusojincohyo.html


 「日本の生年別総人口表」から何を窺うべきか。数字はウソをつかないつけない。恐るべきは「まさに人口推移こそが政治の写し鏡」となっていることだろう。政治の善政悪政と出生が見事に連動しているのではなかろうか。次のようなことが透けて見えてくる。

 1947年から1952年までの6年間が出生人口が200万台を記録している。これを俗に「団塊の世代」と云う。仮に「戦後の200万世代」と命名する。これが戦後の日本出生史上のピークの山を形成している。ちなみに、戦前では1920(大正9)年から1943(昭和18)年までの24年間が200万世代であった。「戦後の200万世代」のうち特に1947年、1948年、1949年の3年間、連続260万台となっている。これは第二次世界大戦交戦国の終戦に伴う特有の世界的現象である。この世代は俗に「ベビーブーマー」とも云われている。仮に「260万世代」と命名する。この記録は、戦前の200万世代も及ばない出生史上の金字塔である。

 その後の出生数は1970年まで200万から150万までの間をなだらかに下降推移する。ところが、1971年、1972年、1973年、1974年の4年間のみ久しぶりに200万代になる。衆知の通り田中政権の時代である。それ以降、日本の出生数が200万に及ぶ年はないので「最後の200万現象」と云うことになる。この時代の出生数200万の要因をどう説明すべきだろうか。

 「最後の200万現象」後、1975年から再びなだらかに下降し始める。但し、この間は200万から150万への過程であり150万を割ることはなかった。これを割るのが1984年である。衆知の通り中曽根政権の時代である。中曽根政治時代何故に150万を割る道が定式化されたのだろうか。これをどう説明すべきだろうか。以降、更に下降し始める。但し、2004年までは110万を割ることはなかった。これを割るのが2005年である。衆知の通り小泉政権の時代である。小泉政治時代何故に110万を割る道が敷かれたのだろうか。これをどう説明すべきだろうか。

 以降、2012年まで100万台を推移し且つ次第に下降している。これは1883(明治16)年から1887(明治20)年の水準である。今や100万台を割る寸前のところまで来ている。ちなみに出生数が100万を割ると1882(明治15)年頃水準に戻ることになる。

 この人口減に対して何の心配もないと説くのが御用学者の常である。文明の爛熟の結果であり云々と嘯いている。しかしながら、出生数は明日の日本の活力であり、「何の心配もない」訳がない。出生数は時の政治の質に大きく規定されており、未来が明るければ出生数が増し逆は逆であることを理解するのはそれほど難しいことではない。この本質を捉えずに、文明の爛熟の結果であり云々などと説明する者は一体どういう学問をしているのだろうか。

 れんだいこの見立てるところ、出生数減の原因は政治の悪政と関係している。それが証拠に、1971年からの4年間の田中政権時代には200万代に上昇しており、中曽根と小泉時代には減少のエポックをつくっているだろうが。その中曽根と小泉時代には極めて似通った政治の型が確認できる。どちらも首相としての靖国神社公式参拝で物議を醸している。国営基幹企業の民営化に勤しんでいる。これにより愛国者として提灯されつつ且つワシントンから名宰相の褒め言葉を頂戴している。これに対して田中角栄の方はどうだろう。真逆の罵声を浴び政治能力を封殺されたまま不遇の死を余儀なくされている。

 「日本の生年別総人口表」から、こういう解析ができる。これによれば、出生人口減現象について心配無用を唱える論調には首肯できない。れんだいこには、そういう類の論は田中角栄諸悪の元凶、中曽根名宰相、小泉名宰相なる論と通底しているように思える。その言は、福島原発事故勃発に際して「大丈夫大丈夫」のマントラ唱えていたアホウヅラ隠し故のヒゲ姿で登場した原発御用学者のそれに似ているように思える。

 もとへ。そもそも日本の適正人口はどの辺りに設定すべきだろうか。れんだいこは、田中角栄の日本列島改造案シナリオによる地方都市の最適化政策が貫徹されるなら、日本は10億人規模まで見込めると思っている。話し半分でも5億人であり、その半分でも3億人辺りまでは大丈夫と云うことになる。その日本が、ロッキード事件以降の政治の貧困ゆえに1億2千万人域でへたろうとしていることを歎かざるを得ない。

 この現状に対して、御用学者の一部では江戸時代の3千万人規模適正論まで出ている。こうなると悪乗り論としか言いようがない。この連中の言は、かって日本では中小零細企業が多過ぎるので整理統合ないしは倒産させれば良いと平然とのたまった言と通底している。思えば、戦後学問は学べば学ぶほど人をアホウにするのではなかろうか。そんなことはないとするなら、学んでこう云う愚論を唱えるからにはよほど元々がアホウと云うことになろう。

 jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1133  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 4月25日
 れんだいこの「八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評その1

 2013年4月頃、不意に八切止夫史観なるものを味わいたくなった。最初に八切氏の代表作と思われる「信長殺し光秀ではない」(日本シェル出版、1974.1.10日初版)を読了した。何しろ22年と5ヵ月と云う著作者人生の半生の心血を注いだ著作であり、マラッカまで出掛けてバテレン資料を転写し採録している。全体として考証に富んだ歴史小説となっている。れんだいこ感想は、八切氏の炯眼ぶりを堪能させて貰ったの評が相応しい。但し、八切氏の歴史推理には首肯しない。これについては書評その2で述べることにする。

 この「信長殺し光秀ではない」はネットで公開されている。「矢切止夫作品集」の「1182信長殺し、光秀ではない1」から「1201信長殺し、光秀ではない20(最終)」までがそれである。

 (http://www.rekishi.info/library/yagiri/

 サイト管理人として「登録日1996年3月18日 登録者 影丸(PQA43495)」とある。メール先が分からないので不通知不承諾のまま活用させて貰うことにした。謝意申し上げる。これを原本にして、れんだいこ文法に則り、より現代文に書き換えた。原文との照らし合わせは、今のところできていない。原文の漢数字を適宜に洋数字に代えた。この方が分かり易いと思うからである。句読点も一部代えた。段落も変わっていると思うが、これは追々原文に即して直そうと思う。全ては読み易くするためである。興味を覚えた方が原文読みに向かうようお手伝いさせて貰ったつもりである。

 なぜ、れんだいこもサイト化したか。それは本書を良書と思うからである。最近、こういう必読本的良書が隠れてしまっている気がしている。そのことに気付いたれんだいこが何がしか発掘を続けている。「名著翻訳、発掘一覧」と題して公開している。数典は英文和訳しており、既成のものよりは的確に訳出しているつもりである。御利用されんことを願う。

 (meibunhonyaku/

 こたびは矢切止夫氏の「信長殺し光秀ではない」に番が回って来たと云うことである。他にも田中角栄の日本列島改造論をサイト化して誰でも読めるようにしたいと思っている。れんだいこの手が回らないので誰かがやってくれないだろうか。当然、その人のホームページ上にアップしてくれれば良いのだが、著作権を気にして尻ごみする者もいるだろう。そういう方は、れんだいこに通知してくれれば、れんだいこサイトに取り組む。要するにバイブルの如くみんなに読んでもらいたい一心である。気難しく云う人に構っていたら、あたら惜しい一生を台なしにしてしまう。

 つい先日、毎日新聞の山田孝男の「風知草:爪立つ者は立たず」が角栄に関する余計な偽論を書きつけていた。「東京が稼ぎ、原発は田舎に押しつけ、格差はカネで埋め合わせる--。田中角栄が深く関わった全国総合開発計画の伝統」云々と云う文面であった。こういう論説に、角栄の日本列島改造論が人口に膾炙(かいしゃ)されていないから騙されてしまう。そういうこともあり、日本列島改造論をサイトアップして認識の共有をしておきたいと思う。

 もとへ。八切氏の著書を初めて読ませて貰ったが、全体に有益で面白いと思う。1960-1980年代に、こういう面白い読み物があったのに読まずに過ごして来たのは勿体ないことだったと思う。しかしこれが御縁と云うものだろう。今頃になって読むのも御縁の不思議だろう。当分の間、八切氏の著書に触れ、学べるところは全部学ばせて貰おうと思う。

jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1134  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 4月26日
 れんだいこの「八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評その2

 本能寺の変の犯人推理は邪馬台国論争ほどではないにせよ明智光秀説、その配下の斎藤利三説、豊臣秀吉説、徳川家康説、比叡山焼き討ちに怨念を高めた僧侶説、足利義昭将軍説、朝廷説、堺衆説、バテレン陰謀説等々十指を数える。八切氏の「信長殺し光秀ではない」の結論は後半に明かされ、「秀吉とか家康といった役者が上の男どもに利用された信長の正妻・お濃の方説」となっている。それまでバテレン陰謀説を臭わせながら、なぜだか「お濃の方説」で結ばれている。

 しかし、れんだいこは同意し難い。こう云う場合、れんだいこにすれば八切論考の値打ちがなくなるのが普通であるが、八切氏が論証過程でふんだんに紹介しているイエズス会レポートの方に値打ちを認めている。国際金融資本帝国主義ネオシオニズム論を確立しているれんだいこには、日本史上戦国期に於けるバテレン活動の重要文書の数々の存在を教えられた方が有益だった。これまで八切氏を措いて他に誰か指摘していたのだろうか。いないとすれば、これこそ本書の大功績であろう。それにしても、イエズス会の陰謀はかの時代にも濃厚に認められ、今の時代で云うところのCIA活動の元祖的役割を果たしていることが分かる。

 本書の値打ちを、当時の戦国大名の宣教師活動庇護の背景に鉄砲火薬の硝石(しょうせき)売買があったことを指摘したことをもって炯眼ぶりを指摘する向きがあるが、それもさることながら、このバテレン資料の開示こそ第一等の功に挙げたいと思う。硝石売買に注目するのは一理も二理もあろうが、硝石売買にのみ特化するのは去勢された理解の仕方であろう。当時の宣教師活動が、硝石売買を介在させながらキリシタン大名網を構築し、次第に日本政治の中枢に容喙していったことの重みを窺うことこそ本筋ではなかろうか。れんだいこのこの理解は至極真っ当と思うのだけれども、諸氏の見解ではどういう訳かスル―されてしまう。解せないことである。

 ちなみに八切氏の「お濃の方説」なる結論を、八切氏がこれをマジメに云っているのか今ひとつ分からない。むしろ、その結論に至る前にあちこちで示唆しているイエズス会の怪しい動きを思えば、イエズス会こそ主犯とすべきだろうに「お濃の方」を挙げてジ・エンドとしている。これは、正面からイエズス会主犯説を唱えることは処世法上賢くないとの弁えからのトリックではなかろうかと思われる。

 そもそも、光秀主犯説をお濃の方主犯説に替えたところで、光秀の汚名は灌(そそ)がれるにしても今度はお濃の方の汚名が発するではないのか。それと、八切氏のお濃の方主犯説なる結論は、それまで指摘したところのバテレンの陰謀と接合していない。お濃の方主犯説に導く以上は、お濃の方とバテレンの陰謀との繫がりを論証せずんば片手落ちではないのか。八切氏がこれをしないままお濃の方主犯説へと結論づけているのは変調であろう。

 ところで、八切氏の「信長殺し光秀ではない」を読んでイエズス会主犯説へと結論を導いた者は、れんだいこだけではない。例えばサイト「本能寺での爆発事故」も「信長を殺害したのはイエズス会」とする見地を披歴している。      (http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/jiko/index4.html

 同様の感慨を覚える者は他にもいるだろうと思われる。八切氏は本当のところはイエズス会主犯説としたかったのではなかろうか。れんだいこは普通に読むので易々とイエズス会主犯説へと辿り着いた。正確には、イエズス会と云うより国際金融資本帝国主義ネオシオニズム系秘密結社と云うべきだろうが。本書が、こういう推理に誘う論旨になっているところが面白い。

 知るべきは、ネオシオニズム系秘密結社の暗躍は何も信長殺しだけではない。彼らが出向いた世界のあちこちで、この種の政変「王殺し」が起きていることである。連中の活動は、その国の王権を打倒し、手なづけた傀儡政権を樹立し裏からコントロールすると云う手法にまみれている。それは現代史に於いてもますますそうであり逐一挙げるにも及ばない。彼らには、そういうノウハウが歴史的に蓄積されていると思うが良かろう。してみれば、バチカンはトンデモ神父の巣窟と云うことになる。こたびの新法王はイエズス会出身だが、この疑惑から免れた稀有の人足り得ているだろうか。と云うところが気になる。

 日本史上の当時の例で云えば、室町幕府第13代征夷大将軍・足利義輝暗殺も臭い。これは、れんだいこの初指摘かもしれないが、ずっと気になっている。1565(永禄8)年、足利義輝は、松永久秀と三好三人衆の謀叛に殺害された。辞世の句として「五月雨は 露か涙か 不如帰(ほととぎす) 我が名をあげよ 雲の上まで」を遺している。「ウィキペディア足利義輝」は、「永禄8年(1565年)、正親町天皇は京都からイエズス会を追放するよう命令したが、義輝はこの命令を無視した」と記している。これは妙な記述であり、れんだいこのアンテナが作動する。

 こういう下りはマトモに読んではならない。義輝が命令を無視したかどうかの史実検証をせねばならず、仮にそれがどうであろうと、このことには意味はない。かの時代に於いて正親町天皇が京都からイエズス会追放令を出したほど、既にイエズス会の政治容喙「王殺し運動」が始まっていたことを窺えば良い。「松永久秀と三好三人衆の謀叛の背後事情」を検証すれば、この推理が当っているのか外れているのかはっきりしよう。この推理が当っているとした場合、イエズス会№2のフランシスコ・ザビエルが来日したのが1549(天文18)年であることを思えば、僅か16年で日本の王権騒動に辿り着いていることになる。

 幕末1867(慶応3)年の近江屋事件も然りであろう。この事件により、幕末維新の立役者である土佐藩の幕末志士の双璧である坂本竜馬と中岡慎太郎が暗殺された。この犯人を廻って諸説入り乱れているが、国際金融資本帝国主義ネオシオニズム論を確立しているれんだいこには容易にネオシオニズム系秘密結社が黒幕と推理できる。連中が幕末内戦を画策していたところ、坂本と中岡が薩長同盟に奔走し、その流れで大政奉還、江戸城無血開城の道筋を生みだし、内戦を回避させたことが連中の怒りを買い、粛清指令が下されたと読める。要するに、連中は操り難い有能政治家を見つけては始末して行く癖がある。

 その他その他この種の事例を挙げればキリがない。近いところでは、明治維新以来の政変による有能政治家の失脚、暗殺、事故死等の殆どすべてがこの類のものである。問題は、世上の歴史家なり評論家なりの推理が、この本筋から外れた所でのみ許容されており、その範囲の推理を喜々として行う物書き屋が多いと云うことである。それらは本命推理以外の全てが自由と云う虚構の推理遊びでしかない。そういう論調のものを学べば学ぶほどアホウにされてしまうと云うことについては既に何度も指摘した。我々は対抗上、本筋の真実史の解明に向かい、学べば学ぶほど脳のシワを増すべく鍛えねばならない。と云う結論になる。

 jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1135  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 4月26日
 れんだいこの「八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評その3

「信長殺し光秀ではない」を読んで、どう推理すべきか。れんだいこは次のように考える。八切氏の推理に反して、黒幕が国際金融資本帝国主義ネオシオニズム系秘密結社、使走させられたのが明智光秀と読む。ネオシオニズム系秘密結社の陰謀を見て取らない黒幕説を排斥する。加えて、明智光秀を犯人としても、その謀反の動機に於いて巷説の云うところの所領変更に対する抵抗なり、徳川家康接待に面目潰された故なり、その他諸々の欲望と怨恨に基づく犯行であったとする説を排斥する。真相は、明智光秀がネオシオニズム系秘密結社の指令に従い本能寺事件に誘われたと読む。その論拠は次の通りである。

 まず、ネオシオニズム系秘密結社は、「この日」に誘い込む為に用意万端整えている気配がある。八切止夫著「信長殺し光秀ではない」に採録されたイエズス会資料から判明することは、当時のバテレン宣教師が信長の動静を克明にキャッチしていた様子である。開示されているのは一部の文書であろうから、その全貌が明るみになれば、より克明に判明するであろう。残念ながら用意周到に隠蔽されており、明るみにされているものは大半が改竄されていると読む。あるいは際どい記述の個所は削除されている。故に真相に辿り着けない仕掛けが廻らされている。こういう場合、高度な歴史推理を働かせる以外にない。

 元々で云えば、信長はネオシオニズム系秘密結社の後押しを得て天下取りに向かった形跡がある。恐らく、1560(永禄3)年の桶狭間の戦いで頭角を表わした信長がバテレンの注目するところとなり、以降バテレンの後押しを得て天下布武の歩みを共に開始した。ところが、信長は権力の階段を昇り詰める度合いに応じてバテレン離れし始めていた。それはどうやら1571(元亀2)年の比叡山延暦寺焼き討ち辺りからではなかろうかと思われる。比叡山延焼き討ち事件の背後にもバテレンの教唆があったと推定できる。1579(天正7)年、安土城が完成する。この頃、信長はいわば絶対王権を確立した。信長とバテレンは互いに面従腹背の関係に入っていた。

 本能寺の変の1ケ月前の1582(天正10)年5月、信長は堂々と、自分が天上天下、唯一の神であることを誇示する殿堂を建て、参拝者の人山を築いた。これより前、信長とバテレンの宗祇問答の際、信長が「我こそ、まことの神なり」と述べたと記されている。しかしそれはバテレン側の悪意ある捻じ曲げであり、窺うべきは「今後はバテレンの命令を受けない。我の権力を優先させ我の思うところを施策する」との自律の言を述べていたと云うことであろう。ネオシオニズム系秘密結社が、信長のこの態度を不遜として用意周到に姦計を廻らし、本能寺の変へ向けてお膳立てをして行くことになった。この姦計に協力したのが堺衆と呼ばれた商人たちであった。この堺衆の正体を解析するのも一興であろうが本稿では割愛する。

 信長の絶対権力が確立された時より信長の光秀バッシングが始まっている。バッシングの態様も様々に説かれている。これをどう読むべきか。れんだいこは、そもそも信長も光秀もバテレンの後押しを得た戦国大名であったと読む。その見返りとしてバテレン教を守護し、安土に神学校まで建てさせている。当時、バテレン教は信長―光秀を頂点とする政治権力の庇護の下、旺盛な布教活動を展開していた。ところが、信長は絶対権力を確立した頃より日本支配を企むバテレンの陰謀に気づきバテレン離れした。これに対し、光秀は相変わらずバテレンの腰巾着のままであらんとしていた。その姿勢は信長よりもバテレンの指示に従うことになる。信長の光秀に対する憎悪はこれに起因していたのではなかったか。信長からすれば光秀のバテレン信仰は教条的なものであり既に病膏肓であった。信長は光秀の頑迷な頭脳に対して既に敵意を抱いていた。二人の確執は既に絶対矛盾に辿り着いていた。こう読むべきではなかろうか。

 ちなみに光秀の三女の玉(珠)は筋金入りのクリスチャンであった。細川藤孝の嫡男・忠興の正室となり、ここに明智―細川閨閥が形成されている。明治期にユダヤ―キリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、この名が定着している。光秀配下の従弟(父の妹の子)の斎藤利三(その娘が春日局、利三の妹婿が長宗我部元親)はクリスチャンであったかどうかは分からないが、光秀を絶対的に支えることにより同様の役割を果たしている。光秀配下には、こうしたクリスチャン武将が相当数送り込まれていたと推測できる。この光秀軍が「敵は本能寺」とばかりに本能寺へ進撃したのは史実ではなかろうか。これを否定すると却って史実と合わなくなる。

 jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1136  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 4月27日
 れんだいこの「八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評その4

 1582(天正10)年5月末、徳川家康が、本能寺の変直前、穴山梅雪と共に身の廻りに百余名しか引きつれずに上洛している。ちなみに穴山梅雪とは、甲斐国武田信玄の家臣で御一門衆の一人にして信玄の娘である見性院を妻とし、武田家滅亡の際、武田宗家の継承を条件に家康に内通して以降、家康の側近の地位にあった人物である。家康一行は、安土城で信長に謁見した後、堺へ向かった。

 5月29日、これに合わせるかのように織田信長が御小姓衆三十騎と云う僅かの手勢で安土から上洛している。この時の家康一行と信長一行の「非武装」が両者暗黙の政治的協定による申し合わせだったのかバテレン陰謀に嵌められたのかは分からないが、ネオシオニズム系秘密結社が、この絶好機会を捉えて、キリシタン武将衆に「ヤレッ」の指令を出したのは確かなように思われる。こう捉えず、信長が家康を巧妙に誘い出し、葬ろうとしていたとする推理は下手の勘ぐりではなかろうか。れんだいこは、こういう説を採らない。

 光秀が、バテレン指令を受けるかどうか呻吟し、呼応の決意を固めたのが愛宕山問答であろう。5月27日、光秀は、嫡男の十五郎光慶(みつよし)ら、わずかな側近だけを伴って山道を上り愛宕山を参拝している。5月28日、愛宕山内の西坊威徳院で、「愛宕百韻(あたごひゃくいん)」として有名な連歌会を催す。主催したのは威徳院・住職の行裕(ぎょうゆう)、宗匠(そうしょう)として招かれたのは、有名連歌師だった里村紹巴(さとむらじょうは)、里村昌叱、猪苗代兼如、里村心前、宥源、行祐ら9名で100韻を詠んでいる。

 里村紹巴とは当時の著名な連歌師で、愛宕百韻興行では「花落つる池の流れをせきとめて」と詠んでいる。本能寺の変後、豊臣秀吉に関与を疑われるも、「しる、なる問答」で難を逃れている。里村家は徳川宗家に仕え、幕府連歌師として連歌界を指導している。この里村紹巴と堺の豪商・千利休が繫がっている。その千利休は、1591(天正19)年2月13日、豊臣秀吉に謹慎処分を受け、半月後の28日、切腹を命じられ自害している。利休の死の要因について諸説あるが、本能寺の変に黒幕的役割をしていたことの動かぬ証拠を突きつけられ、抗弁できなかったと読むこともできよう。

 もとへ。八切氏は、この時詠んだ光秀の発句和歌「時は今 あめが下しる五月かな」の意を平凡な季節の歌意として理解しようとしているが、指令応諾決意の歌と読むのが自然だろう。光秀に意を固めさせた裏には光秀反乱に呼応するキリシタン諸大名、参謀武将のリストアップがあった。そういうお膳立てを見て、この反乱は成功するとの確信があったが故の下剋上決意であったと解するべきだろう。

 さて、信長が本能寺へ入ったのを確認した光秀軍が本能寺へ急いだ。但し、光秀は直接の指揮を執らず、明智秀満隊と斎藤利三隊が二手に分かれて本能寺を包囲したのが実相のようである。本能寺攻めには明智隊の他に「明智が手の者」とか「明智が者」と記される正体不明の部隊が投入されており、この「幻の軍隊」が主導的に立ち働いたようである。「信長殺し光秀ではない」によれば、実際に信長を葬ったのは、本能寺から一町とない(約90m)距離のすぐ側にバテレン教会があり、そこから暗殺団が送り込まれ爆殺した云々。よって信長の獅子奮迅の働きの後の「是非に及ばず」の言葉を遺しての切腹と云うのは講談物語でしかない。八切氏は、これがどうやら真相ではないのかと云う。但し、それにしてもどの史書にも遺体の記述がなく、「信長が、髪の毛一本残さず、灰塵のように、吹き飛び消滅した」と云う信長最後譚の不思議さが纏いついている。

 ちなみにサイト「本能寺での爆発事故」は次のように記している。「本能寺には秘密の地下通路があり、それは、90M(70間?)くらい離れた南蛮寺(極楽寺)に通じていたらしい。となると、失敗の可能性の高いロケット砲をなどを使わずとも、南蛮寺から火薬を大量に本能寺に搬入し、火をつけるだけで簡単に織田信長を殺すことができる。何やら2001年の9・11の世界貿易センター爆破事件と似て来るが、イエズス会も同じ手口で織田信長を殺した可能性が高い」、「『信長の棺』によると、織田信長は、明智光秀の奇襲を受けた際に、その秘密の地下通路を通って、南蛮寺(極楽寺)に逃げようとしたが、イエズス会によって封鎖されており、そこで織田信長は、死んだと言う説もあるようだ」。「秘密の地下通路」の事実関係は分からないが興味深い指摘であろう。

 ところで、八切氏は、光秀が現場に参戦していないことを不審し、光秀が信長殺しの犯人でないとする論拠の重要な一つにしている。しかしながら、光秀が本能寺の変の現場に居なかったことをもって光秀の犯行に疑問を呈するのは如何なものだろうか。大将には大将の武将には武将の役割があり、全体をコントロールする必要があって光秀は現場指揮をしなかっただけと受け取って何らオカシクないのではなかろうか。光秀も又本能寺の変に巻き込まれたと云う推理を生むことはできるが、光秀の関与を否定する結論にはできまい。

 それより何より、「信長殺し光秀ではない」で教えられたことだが、事件後、光秀が征夷大将軍の任命を受けていたこと自体が光秀の立ち回り位置を示していよう。事件後、光秀は直ちに諸国へ密書を送り同盟を画策している。これも然りである。こうした史実の方が重要ではなかろうか。八切氏の見立ては、この史実と齟齬することになる。

jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1137  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 4月27日
 れんだいこの「八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評その5

 かくして、ネオシオニズム系秘密結社の狙い通り信長は殺された。但し、光秀の目論みは外れた。事前に根回しされていた光秀軍への呼応シナリオが狂いに狂った。それには家康を逃がした失態が大きかった。但し、穴山梅雪は、家康と別行動の帰路を急ぐなか、山城国綴喜郡の木津川河畔(現在の京都府京田辺市の山城大橋近く)で土民に襲撃されて殺害されている。田原にて明智光秀の家臣の警戒線に引っかかり家康と間違えられて殺されたという説もある。これを思えば、「家康の奇跡的脱出」をそのままに窺うべきだろう。

 次に備前に遠征していた秀吉の反撃が早かった。本能寺の変を逸早く知らせたのが誰かと云う詮索も興味深いが割愛する。この勲一等者はそれなりの待遇を受けることになろう。信長の訃報を知った秀吉は急きょ毛利家と和睦し、トンボ帰りし始めた。この動きが伝えられるや、光秀の「三日天下」の恐れを感じ取った細川幽斎がまず日和り、細川の日和りが他のキリシタン武将中川、高山、池田、筒井らの寝がえりを生むと云う悪循環に陥った。こうして山崎の決戦を迎えたものの光秀軍は1万余の軍勢しか集められず、3万の秀吉軍に鎧袖一触(がいしゅういっしょく)された。光秀は逃亡中に土民に殺されたとされている。光秀が生き延び、徳川家康の側近として江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した南光坊天海となったなる説は為にするものでしかなかろう。

 次の天下は光秀を討ち取った秀吉が握った。秀吉の天下はバテレンの陰謀を封じたところから始まっている。秀吉が絶対政権を樹立するに従いバテレン追放令を出したのも歴史の勢いと云うべきものだろう。徳川政権の鎖国体制も然りであろう。この当時、世界各地でこのような政争が展開され、日本史の場合には僥倖にも信長、秀吉、家康と云う三代立て続けの有能政治家を得ることによって国家の独立と自律を担保し得たと読むべきではなかろうか。この頃よりバテレン先遣隊の陰謀により世界各国が植民地化されて行く歴史に比して有り難過ぎる幸運だったのではなかろうか。

 もとへ。この時の秀吉の難題は、豊臣政権樹立に向けて先代政権の織田家の支持をどう取り付けるかにあった。次が先代信長と実懇にして最大勢力を誇っていた徳川家康の待遇だった。この二つをクリヤ―したところに豊臣政権が始まる。その後の動きは本稿から外れるので割愛する。

 これが本能寺事件顛末の真相ではあるまいか。こう読むと、八切氏のせっかくの歴史推理と齟齬することになるが、八切氏が「信長殺し光秀ではない」で見せた随所の炯眼は評するに足りる。但し、その推理を採用するところ、非とするところを組みあわせて新たな事件像を構築せねばならないのではなかろうか。してみれば歴史は面白い。フィクション小説よりノンフィクションの方が「事実は小説より奇なり」で語りかけるものが多い。(完)

 「れんだいこの八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評」

 (kodaishi/yagirishikan/mituhideron/rendaiconosyohyo.html

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 れんだいこのカンテラ時評№1138  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 4月30日
 田中角栄の日本列島改造論に於ける公害対策論考

 日本人民の政経バイブルの著として遺されている田中角栄の日本列島改造論文中に示された公害対策論を確認しておく。こう問うのは恐らくれんだいこが初めてと思われる。試しにネット検索すると、2013.4.30日現在であるが、田中角栄の先見の明を論(あげつら)うものとしては出てこない。よろづ角栄ものは悪しき評価を下されるべく検閲指導されており、好評価する論考ものは殆どないか、あっても本来の評価を得ぬよう抑圧されている。

 この壁を押しのける如く獅子奮迅の働きをしているのが、れんだいこの論考であり、かく評価されるべきだろう。滑稽なことに、れんだいこの所論はどの分野のものもそうだが、れんだいこ自身が称揚せずんば誰も評価しないきらいがある。値打ちがないものを独りれんだいこが自分で買いかぶっているのならお笑いであるが、後世れんだいこものが正当な高評価を受けるとすると、この現象をどう評するべきだろうか。れんだいこに似合いの人生ではあるが、苦笑せざるを得ない。

 もとへ。れんだいこが何故に田中角栄の日本列島改造論文中に示された公害対策論に注目するのか。それは、恐らく政治が先見性を示している数少ない例の一つに数えられるからである。このことは同時に一般的に悪しく評価されている角栄政治そのものの見直しにも繫がるであろうと思うからである。

 もう一つの狙いがある。それは、角栄が当時の科学的知見、それに基づく政治的要請としての原発政策に協力的であったことを確認するにつき、もし角栄が今日の福島原発事故に遭遇するや、先見的な公害対策論に見せたような見識で以て脱兎のごとく脱原発、排原発に向かい、コンピューター付きブルドーザーと云われる精力で名実共の新エコエネ開発に舵を切ると確信するからである。これを思えば、現下の原発推進系政治家は全く持ってケシカランなっとらんと云うことになる。

 福島原発事故の事後対策ができかねている情況の中で相変わらずの原発推進を主張し、その技術を官民共同で輸出するなぞ狂気の政治であり、この派に与する政治家はこれ一事で政治家失格の烙印を押されるべきであり、エエイ福島なぞどうでも良い、日本なぞどうでも良い、我が身と一族郎党が我が世の春を謳歌できればそれが一番などと振舞う輩ありせば、これが証拠づけられ次第に牢屋へぶち込まれてしかるべきだろう。実際には、そう述べる者はおるまい。代わりに原発を護れ、原発は産業の根幹原動力である、縄文時代に戻って良いのか等々と述べて煙に巻いている。比較的良くできて居ると思われる憲法は改正せよと云うのに原発に至ってはこれを護れと云う。逆ではないと思うのは、れんだいこだけだろうか。

 それでは、角栄が、日本列島改造論文中で公害対策論につきどう言及しているのか。これを原文で確認したい。そう思って、この連休に転載しようと思っているのだが、不幸なことに幾度か探したのだけれども書籍の中に埋もれて出てこない。ひょっとして、ノ―トか何かの間に挟まっているのではないかと思われる。何とかして金持ちになり、いっぱしのれんだいこ図書館でも持てれば、こういうお粗末はなくなるのだろうが、今はあちこちに積書しているので探すのに骨が折れる。そういう訳で原文が開示できない。どなたかが協力して下さるのを待っている。ぜひ頼む。誰もしてくれないのなら、古本屋から取り寄せ、れんだいこがいつものようにせっせと書き写すことになる。誰か代わりにしてくれても良いと思うのだけれども。判明していることは次の下りである。れんだいこサイト「日本列島改造論」より抽出する。
 (kakuei/gyosekico/nihonrettokaizoronco.htm

 公害防止、環境基準策として、「公害の発生源に防除の責任を負わせる」、「国の政策としての環境基準を明確にする」である。第3章「3、平和と福祉を実現する成長経済 成長追求型から成長活用型へ」に続く第4章を「人と経済の流れを変える 日本列島改造の処方箋」と題して、その3で「無公害工業基地」の章を設け、「環境制御の仕組みを確立」、「濃度規制から総排出量規制へ」、「技術開発と緑地帯の活用」、「これからの電源立地」の項でそれぞれ今後の行政を指針させている。

 実際にはどう述べているのか紹介したいが、「田中角栄元首相執筆の『日本列島改造論』(1972年)における原発問題ー東日本大震災の歴史的位置」によれば次のように述べている。「(公害対策の必要を論じ、集塵装置・脱硫装置の開発・利用や冷却水規制など、具体的にあげ)、ここで、まず、第一に考えたいのは、公害の徹底的な除去と安全の確保である」(同上p102)としている。原発推進の立場ながら、放射能問題については、「海外の実例や安全審査委員会の審査結果にもとづいて危険がないことを住民に理解し、なっとくしてもらう努力をしなくてはならない」(p102)として、原発の安全性向上を指摘している。

 さらに次のように主張している。

 「しかし、公害をなくすというだけでは消極的である。地域社会の福祉に貢献し、地域住民から喜んで受け入れられるような福祉型発電所づくりを考えなければならない。たとえば、温排水を逆に利用して地域の集中冷暖房に使ったり、農作物や草花の温室栽培、または養殖漁業に役立てる。豪雪地帯では道路につもった雪をとかすのに活用する。さらに発電所をつくる場合は、住民も利用できる道路や港、集会所などを整備する。地域社会の所得の機会をふやすために発電所と工場団地をセットにして立地するなどの方法もあろう。次項で述べるインダストリアル・パークと同様の立地手法でエネルギー・パークづくりも考えたい。急がばまわれである」。

 確認すべきは、角栄のこの指針が生かされ、日本の公害対策技術が格段に進歩し、いつの間にかこの方面での先進国的地位を得るに至っていることである。いわば角栄が「公害対策元年」の打ったてをしたことになる。こう説く者はいないが、こう説く論考をものしたいと思う。角栄のこの功績は、大蔵大臣、総理大臣の任にある時、一貫して赤字国債を発行させなかったこと、機密費に手を染めなかったことと並ぶ偉業だと思う。

 jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1139  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 5月 4日
 歴史記述としての鳥瞰図考

 2013年5月連休の際、それまで積読しておいた「歴史の旅」の「特集、神武天皇は実在した」(1995.6月号)を読む機会を得た。この時、気づいた「歴史を読みとる際の鳥瞰図法考」を書きつけておく。関連性があるのでサイト「思観、史観、史眼考」に収納し、併せてサイト名を「思観、史観、史眼、歴史記述としての鳥瞰図考」と書き換えた。

 (ronpyo/tetugakunote/rekishikanco.htm

 鳥瞰図とは、そもそも絵画手法である。これを歴史分析に用いようとするのが本稿の意図である。思えば、これまでの歴史分析には余りにも鳥瞰図法が欠けていやしないだろうか。これを云い、論拠づけるのが本稿の狙いである。さて、これをどう解くか、以下、お読み下され。

 絵画手法としての鳥瞰図とは、「ウィキペディア鳥瞰図」によれば次のように説明されている。

 鳥瞰図(ちょうかんず、英: bird's eye view)は、地図の技法および図法の一種で、上空から斜めに見下ろしたような形式のものをいう。飛ぶ鳥の目からみたように見える、というのが鳥瞰の語義。建物や山などが立体的に描かれる。俯瞰図、パノラマ図ともいう。

 単なる平面図においては一定の限定された範囲を二次元上に正確に客観的に表示するのに対して、鳥瞰図では透視図法を使った三次元的な描画あるいはデフォルメ(誇張)が可能なため、目的に応じて下記のように制作者の主観や個性をともなう様々な表現ができる。また、反対の(下から上を仰ぎ見る)視点は俯瞰に対して仰瞰といい、あるいは鳥瞰に対して虫瞰(図:insect's eye view)という視点や表現法も提案されている。


 ここでは、これ以上の説明をはしょることにする。要するに、対象とする地形、風物なりを一望して記す俯瞰手法と云うことになる。問題は、絵画におけるこの手法を、歴史学に於いて応用できないのか、応用すべきではないのかと問うことにある。

 そんなことは分かり切ったことと反論されることが予想されるが、ならば問う。歴史学における鳥瞰図事例を示してくれ、どこが鳥瞰図足り得ているのかと。れんだいこの知る限り、歴史学には「木を見て森を見ず」式の個別解析は多い。然るにその個別事象なり事件を然るべき位置に於いて捉えて提示しているだろうか。解析者が仮にそうしていると自負しても、その自負に堪え得るような鳥瞰図を示し得ているだろうか。はなはだ心もとないと思うのは、れんだいこだけだろうか。

 それは何も歴史学だけではない。政治学、経済学、哲学、思想、その他ありとあらゆる分野において共通している。最近では病気に掛かっているのか、意図的故意に鳥瞰図法を避けている気がしてならない。従って、学んで部分的には分かるが一向に全体が見えないような論考、コメントとなりが多い、多過ぎる気がする。そのことを良しと自負するような専門家ばかりが造られている気がしてならない。

 思えば、れんだいこは、この風潮に抗(あらが)っているのではなかろうか。早くより鳥瞰図法を取り入れているのではなかろうか。目下のところ刊行物としては「検証学生運動上下巻」の二冊でしか実証していないが、その「検証学生運動上下巻」評に於いて特筆されるべきところは、学生運動論に於ける初めての鳥瞰図による解析ではなかろうか。こういうことを、著者のれんだいこ自身が述べ、第三者から一向にそのように評価されないところが口惜しいと云うか滑稽なところなのだけれども、事実そうではなかろうか。

 このことを、同書上巻の「筆者の執筆観点」の章の中で次のように述べている。

 しかし、これを「中立公正」に書き上げるとなると難しい。そこで、まずは真紅の熱血が確かに在って、理論はともかくも本能的に正しく実践したと評価できる運動の流れを中心に史実検証し、これを芯としてその他の潮流も確認してみようと思う。そういう意味での「中立公正」に書き上げるよう苦心した。既成のものは随分あるが物足りない。日共系のものも新左翼系のものも、明らかに筆者と観点の違う記述が罷り通っており、この種のものをいくら学んでも為にならない。そのような観点からのものを更に追加しても、屋上屋を重ねることにしかならない。何事も見立てが難しい。その見立てを正しくして最低限伝えねばならない動きを記しながら、筆者自身が得心できるような新たな学生運動論を纏め、世に問いたいと思う。(中略)具体的に戦後学生運動論をどう書くか、ここで視点を明らかにしておきたい。一つは、当時の時点に立ち戻り、当時の感覚に立ち入り内在的に書くのも一法である。肯定的に継承する場合にはこの方法が良い。だが、これから追々記すように半ば肯定、半ば否定的に記す場合には、姿形が見えて来た今日の視点より過去を論評的に書く方が適切ではなかろうか。その後の学生運動の衰微を知る今となっては当時の正義を語るより、今日から見た当時の理論及び実践上の欠陥を指摘しつつその後の衰微の事由を検証して行く方が説得的ではなかろうか。

 ここには鳥瞰図法により書き上げたとは書いていないが、「歴史学に於ける鳥瞰図法」により学生運動を検証すると云う意思を萌芽的に語っている。思えば、れんだいこが欲しているのは、この手法であり、これまでの諸学問分野にこの手法による解析がない分、れんだいこが精力的に挑んでいると云う構図なのではなかろうか。

 この発想は、「歴史の旅」の「特集、神武天皇は実在した」を読んで得たものである。但し、同書の各論文執筆者への当てこすりではない。枚数制限もあろうからして充分に説き明かせるものではなかろう。部分的には論者のどの論文も為になるものがあった。このことには謝意申し上げておく。だがしかしと続くのだが、それを云えば繰り返しになるので後は云うまい。

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 れんだいこのカンテラ時評№1140  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 5月 6日
 二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)考

 崇神天皇の諡名(おくり名)は、初代の神武天皇のそれと同じ「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」である。諡名は格別に精密高度に付されているものであるのに同名の諡名が存在する。こういうことがあり得て良い訳がない。これをどう解すべきか。これを仮に「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)問題」と命名する。ここに、「れんだいこの解」を発表しておく。

 「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)問題」は実は、諡名(おくりな)の和読みによって同じである訳で、漢字表記では識別されている。神武天皇は「始馭天下之天皇」、崇神天皇のそれは「御肇國天皇」である。こうなると、窺うべきは、漢字で識別されている筈の神武天皇と崇神天皇が何故に和読みでは「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」と同じに読まれているのかと云うことであろう。これをどう了解すべきかであろうか。

 れんだいこの理解では、そう難しくはない。通説の諸説の方が滑稽な気がしている。なんとならば、「れんだいこの新邪馬台国論」で披歴したが、日本古代史は「原日本新日本論」を媒介せずんば解けない。逆に云えば「原日本新日本論」を媒介すれば容易く解ける。即ち、日本古代史は、渡来系「新日本」が、国津系「原日本」から天下の支配権を奪い取ったところから始まる。これによれば、神武天皇が実在であれ架空の人物であれ「新日本」は神武天皇から始まる。歴史的にそのように位置づけられているのが神武天皇の地位である。故に、諡名が「始馭天下之天皇」つまり「天下の始まり天皇」であり「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」と読む。

 神武を始祖とする「新日本」王朝の御代は、初代・神武、2代・綏靖(すいぜい)、3代・安寧(あんねい)、4代・懿徳(いとく)、5代・孝昭(こうしょう)、6代・孝安(こうあん)、7代・孝霊(こうれい)、8代・孝元(こうげん)、9代・開化(かいか)と続いている。この9代が実在であれ架空であれ、この期間の政権基盤は弱かった。神武天皇が滅ぼしたとされる出雲王朝―邪馬台国三輪王朝系「原日本」の国津神系旧勢力が隠然とした支配権を持っていたからである。何とならば、神武天皇系渡来勢力は、国津神系旧勢力との「手打ち」によって辛うじて政権を奪取したことにより、「新日本」王朝に国津神系旧勢力を組みこまざるを得なかったからである。と云うことはつまり、国津神系旧勢力は「新日本」王朝の政治能力を値踏みしつつ「原日本」王朝の御代を憧憬しつつ諸事対応していたことになる。しかも、この勢力の方が概ね有能だった。これにより「新日本」王朝の内部抗争が絶えないこととなった。

 この政治状況に於いて、第10代の崇神天皇が登場し大胆な改革を行う。崇神天皇は、政権基盤を安定させる為に大胆に、従来の討伐政策を転換し旧王朝「原日本」勢力の復権的登用へと舵を切る。崇神天皇の御代の前半事歴はほぼこれ一色である。「三輪山の大物主神祭祀譚」がその象徴的事例である。崇神天皇のこの「原日本復権政策」により政権基盤が安定し、新日本王朝は名実ともに大和朝廷となった。崇神天皇は、三輪を筆頭とする旧王朝勢力を抱き込むことによって返す刀で大和朝廷に服属しない諸豪族の征討に乗り出すことになった。この征討史は11代の垂仁天皇、12代の景行天皇60年、この御代におけるヤマトタケルの命のそれへと続く。その「元一日」を始めたのが崇神天皇であり、そういう事歴を見せた崇神天皇の諡名が「御肇國天皇」つまり「国の肇(はじ)まり天皇」であり、神武天皇と同じく「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」と読まれている。

 これにより「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)問題」が発生することになった。窺うべきは、神武天皇により国が「始」まり、崇神天皇により国が「肇」まったと云うことであろう。大和王朝の始祖とする位置づけに於いて、二人の天皇は甲乙付け難い同格であったと云うことであろう。諡名は「歴史の鳥瞰図法」に則りかくも精密に漢字表記され読みまで定められていると云う筆法であろう。諡名は決してエエ加減に付けられているのではないと云うことであろう。

 付言すれば、この王朝の漢字表記における大和王朝、読みとしての「ヤマト王朝」も然りである。その意味するところ、「大きく和す」と云う意味での「大和」なる漢字を宛(あて)がい、「大和」は漢音でも和音の訓読みでも「ヤマト」とは読めないところ敢えて、この王朝の始祖は元邪馬台の国であったと理解する意味を込めて「ヤマト」と読ませていることになる。その裏意味は、今後は旧王朝「原日本」勢力を滅ぼすのではなく、その系譜を継承し、和合させる体制にすると云うところにある。これが、「大和」を「ヤマト」と読ませることになった経緯である。ここに歴史の智恵を感じるのは、れんだいこだけだろうか。れんだいこは、「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)問題」をかく解する。

 こう解かず、何やら小難しくひねくり廻す論が溢れている。それによれば、崇神天皇の別名「ミマキイリヒコ」に注目し、「ミマ」は朝鮮半島の南部、弁韓、あるいは任那(みまな)を、「キ」は城のことを云うとして、朝鮮の王族が「イリ」(日本に入ってきた)した、あるいは「イリ」とは入り婿のことを云う云々との説が為されている。

 れんだいこはこういう「崇神天皇=朝鮮王説」説を否定する。崇神天皇の父は開化天皇、母は三輪系の物部氏である。これによると、崇神天皇は「原日本」三輪系の御子であるところに意味があり、その出自故にか原日本と新日本の和合を政策にした英明な天皇であるところに値打ちがある。その崇神天皇をよりによって渡来系天皇と見なすのは奇説と云うより重大な誤認論であると云わざるをえない。

 この類の諸説の一つに元東京大学名誉教授江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」がある。この説は、「天神(あまつかみ)なる外来民族による国神(くにつかみ)なる原住民族の征服」を指摘すると云う炯眼な面もあるが、崇神を神武、応神と並ぶ三大渡来系天皇に比しているところに問題がある。「神」がつく天皇は三人いるとして、「神武、崇神、応神」に注目するのは良いとしても、崇神を騎馬民族説の論拠に使うのは歴史盲動の所為であろう。

 ちなみに、「騎馬民族征服王朝説」が定向進化し「失われたイスラエル十支族の末裔説」へと結びつき、まことしやかな日ユ同祖説へと誘われて行く。佐野雄二氏の著書「聖書は日本神話の続きだった!」となると、「崇神天皇の生涯に起こった事を『旧約』と比較するとダビデ王を想起させる」として、「崇神天皇=ダビデ王説」まで至っている。他にも「神武=崇神=応神天皇のルーツがイスラエル十支族であることは疑いないと思っている。天皇家や記紀の真実を知るためには、旧約、新約聖書の知識が必要であることは間違いない」などと述べる者もいる。

 今風の言葉で云えばヤラセが過ぎよう。論は勝手だからお互いに云えば良かろうが神武、応神いざ知らず崇神まで巻き込まないにしてほしいと思う。本稿を2013年5月連休期の意欲作とする。これまで数々「歴史の紐のもつれを解く通説批判説」を発信しているが本稿もその一つ足り得ているだろうか。

 jinsei/






(私論.私見)