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れんだいこの保田與重郎論その4
れんだいこの4番目の最後になる保田論は、保田氏の政治論に対する批評となる。次のように評されている。
「明治維新以降の神道の国教化に疑問を呈し、上古の神道とは違うのではと、評していた。キリスト教のような布教する宗教ではなく、あくまで自然に根ざした人間の本源的な宗教であり、信仰の強制=皇民化に反対していた。大東亜共栄圏の侵略の方便に神道が使われることに、祭政一致の観点から嫌悪を示していた」。
既に見たように三輪思想の薫陶宜しい保田氏からしてみれば、「明治維新以降の神道の国教化に疑問を呈し、上古の神道とは違うのではと評していた」ことも、「キリスト教のような布教する宗教ではなく、あくまで自然に根ざした人間の本源的な宗教であり、信仰の強制=皇民化に反対していた」ことも、「大東亜共栄圏の侵略の方便に神道が使われることに、祭政一致の観点から嫌悪を示していた」も容易に頷けよう。
ところで、吉本隆明は、思想形成期に影響を受けた思想家の一人として保田與重郎の名前を挙げているとのことである。してみれば、.吉本隆明は、保田與重郎を通して三輪思想の香りを味わっていたことになる。吉本隆明も興味深い人物であるが、ここでは割愛する。
偉大な思想家としてもっと評されるべき保田に対して探せば多くの好意的評があるだろうが、政治論に関する限りれんだいこの評は辛くなる。どう云うことかと云うと、マルクス主義を主とする左翼の批判の視点が的確を射ていないと思うからである。これは、保田がマルクス主義に被れていた19歳前後の時の1928(昭和
3)年のご時世に関係しているように思われる。この当時、日本マルクス主義は絶対の正義派であり唯一の真紅の革命派であった。弾圧に次ぐ弾圧にも拘わらず党旗が護り繋がれていった。恐らく、保田は、それを眩(まぶ)しく思っていた筈である。だが他方で、マルクス主義の絶対的教条である天皇制打倒スローガンに対し、三輪思想の薫陶を得ている者として違和感を持ち続け、それ故に是々非々的に関わった筈である。この頃の保田に対して次のように記されている。
「大阪市阿倍野区にあった旧制大阪高等学校文科乙類に入学。大阪高校時代にはマルクス主義にも触れたが、その思想を受け入れることはなかった。しかし、蔵原惟人や中条百合子の作品に対しても、しかるべき評価をしているように、全く無関心であったわけではない。また、高校時代の同級に竹内好がおり、後に保田が中国を訪れたときに、竹内が案内をしたことがある」。
こういう彷徨を見せている保田は、1932(昭和7)年、満州事変勃発6か月後の頃、東大在学中に同人誌「コギト」を創刊し、その中心的な存在として活躍する。1935(昭和10)年、26歳の時、東大美学科美術史学科卒業。卒業後、「日本浪漫派」を創刊、その中心となる。1936(昭和11)年、27歳の時、処女作「日本の橋」を刊行する。この時代、既に日本マルクス主義運動は壊滅させられ、文芸戦線も同様に封殺させられていた。この時期を、プロレタリア文学運動に代替するかの如くに文芸旗を掲げ台頭してきたのが保田らの日本浪漫派であった。次のように評されている。
「保田與重郎、亀井勝一郎、中谷孝雄、中島栄次郎、緒方隆士、保田與重郎、緑川貢、太宰治、壇一雄、山岸外史、芳賀壇、後に佐藤春夫、萩原朔太郎、伊東静雄などが参加。終刊近くには50名以上の一大文学運動となる。閃くやうな文體を驅使した評論を發表し、一躍『文壇の寵兒』となった。『日本浪漫派』を創刊し、マルクス主義的プロレタリア文学運動解体後の日本文学を確立する為に、ドイツ浪漫派の影響のもとに日本古典文学の復興をめざした。伝統主義、反進歩主義、反近代主義の立場から多くの評論を展開した」。
ここで確認したい事はこのことではない。こういう経過によって、保田の頭脳には、マルクス主義が早期に壊滅させられたことにより却って勃興期の尖鋭的且つ硬直的なマルクス主義のイメージが残り続けていたのではなかろうかと窺うことにある。つまり、文芸評論家として世に出た保田には、いわば古典的なマルクス主義イメージが脳裏に焼きついたまま経緯したのではなかろうかと思われる。このことを確認したい訳である。
この推理の重要性は、戦後の保田の身の処し方に関係することにある。戦後の保田はいわば座敷牢に閉じ込められた。それは専ら表からはGHQのネオシオニズム的策動によって裏からは日本マルクス主義運動系のイデオロギーによってであった。本来、保田は何ら臆することなく両面に対して闘いを開始すべきだったところ、自ら蟄居で様子見している。正面の敵であるネオシオニズム的策動には抗し難い。それは分かる。だが、裏からの敵、日本マルクス主義運動に対しては堂々と渡り合うことができた筈のところ特段の抵抗が認められない。このことの要因に、既に述べた「古典的なマルクス主義イメージ」が邪魔したのではないかと考えられる。
戦後日本の日本マルクス主義運動の本家筋に当たる日本共産党が初期の徳球―伊藤律系党中央指揮下のそれであった場合にはまだしも、1955年の六全協後の宮顕―野坂系党中央指揮下の偽物共産党運動が開始されて以降は何の遠慮があっただろうか。推理するのに、保田はこの共産党の変質に対して何の関心も持ちあわさなかった。このことが戦後に於ける日本マルクス主義運動の捻じれに対して正確な理解を妨げ続けることになった。それが保田の日本左派運動批判の舌鋒を的外れにしているのではなかろうか、と窺う。これには、時代的制約もあろう故に保田の責任を問う訳には行かない。そういう意味で、無理からぬと云う割引の気持ちは持っている。しかしながら、「マルクス主義及びその運動の古典的理解」のままに戦後のマルクス主義運動を是認的に理解しつつ批判的な評論をし続けたところに保田の限界があったように思われる。
つまり、マルクス主義、日本共産党論にせよ、史上に現われたものには裏があると云う面での認識がからきしできていないように思われる。古典的通俗的なマルクス主義理解の上に立って、その錦の御旗を掲げる日本共産党論なる観念を安易に前提して、これを批判している風があり、ここがもの足りない要因になっているように思われる。これは元々が文芸批評家故に仕方ないことかも知れない。尤も、これがを解け、かく指摘できるのは、世界広しといえども今のところは、れんだいこぐらいのものかも知れない。
こういう事情によって思われるが、保田の戦後的復権に於いて評される栄誉は専ら文芸分野に限られることになる。これにより「日本の心」を探る営為は戦前のものより更に精緻になったかも知れない。しかしながら、保田の時評、政治論評は精彩を欠いたものになっているのでなかろうかと窺う。今のところ殆ど読んでいないので遠慮勝ちに評するが当らずとも遠からずであろう。
なぜなら、保田が我が意を得たりの政治論評をしていたのであれば、れんだいこの眼に止まらなかった訳がないからである。こたび機縁を得て保田を少し知る事ができたが、まことにあり余る慧眼の持主である。この慧眼をもってすれば、我々は、吉本隆明のそれ、大田龍のそれに伍する保田與重郎のそれを聞けた筈のところ聞きそびれたのではなかろうか。これが悔やまれる訳である。本稿をもってとりあえずの保田與重郎論の完結とする。
2012.7.1日 れんだいこ拝
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