カンテラ時評35(1021~1050)

 (最新見直し2010.07.21日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2007.3.24日 れんだいこ拝


れんだいこのカンテラ時評№1021  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 3月11日(日)

【三陸巨大震災1周年れんだいこコメント】

 今日は、2011年3月11日午後2時46分発生の三陸巨大震災1周日である。この日に当たり思うことを書き綴っておく。

 最初に云いたいことは、この震災が自然災害にせよ人工地震にせよ初動に於ける不審が多過ぎることである。巷間、一部で人工地震が囁かれているが門外漢のれんだいこには物理科学的意味での詮索ができない。そういう訳で人工地震説に拘ることは止すが、人工災害と読めば容易に解ける不審が数々あることは事実である。

 まず本件の災害情報の不自然な伝達が詮索されねばならない。こたびのような巨大津波の情報キャッチは逸早く伝達されねばならないところ意図的故意に伏せられ、あたかも通常程度の津波的に情報が伝えられている奇怪さが確認できる。ここに不自然さはなかったのだろうか。これにより多くの人命が意図的故意に失われたのではなかろうか。更に云えば、福島原発に於ける津波堤防の無対策ぶりも訝られねばならない。こたびのような高津波は予見できなかったと云うのは誤魔化しであり、正しくは対策を意図的故意に怠っていたと評するべきだろう。誰が何の為にと云う詮索になるが、そういう陰謀が存在していたと読みたい。なぜなら原発地域には超高の津波対策が講ぜられるのが自然であるからである。福島原発には自然でない堤防対策サボタージュが認められる。

 次に、大震災発生、福島原発被災直後の対応が解せない。思い返そう。自衛隊十万人態勢、予備役招集の鳴りもの入りの動員となったが、従来の総務省指揮下の応援ではない。寧ろ自衛隊が主導し、総務省は逆に何もしえなかったと云う体制下で救援活動となった発事例ではなかろうか。費用も相当かかっている筈である。ならば、これは誰が指揮したのか。当時の総務相はこの奇怪さを明らかにせねばならない。片山善博が任に当たっていたが責任重大な任務放棄ではなかったか。

 その自衛隊の為した救援方面の働きは一応良しとしておこう。問題は他方で治安維持的な観点からの交通網規制をしていたことである。高速道路を交通遮断した為に救援物資が届けられなかった奇怪さが伝えられたが、それは明らかに意図的故意の過剰規制であった。被災民に対する灯油、ガソリンの供給規制も思い出させられる。優先的に割り当てさせられるべきところ僅か5リットル何がしかの制限が課せられ、これにより自主的非難ができなくなった。そういう規制が何の為に必要であったのか、誰が指揮したのか、その責任を問わねばならない。

 震災直後から始まる用意周到な関東地方一体の停電規制も想起される。それは家庭用、業務用のみならず電車も止められる交通混乱を招くものであったが、何の為に必要だったのか。その後解除され今日に至っているが、かの時期に本当に必要な措置であったのか大いなる不審が残る。公共広告機構なる事業体の子宮がん検診を始めとする異常なコマーシャルを乱発したのも奇怪である。相当な費用を費やしたと思われるが、かの大混乱時期の宣伝としては異様である。この広告を誰が何の為に流したのか、これも詮索されねばならない。

 ひとまず以上のことを云っておきたかった。初動からして解せない数々の変調さを見せた三陸巨大震災はその後の対応においても変調さのオンパレードである。小泉政治以来の官邸主導が如何なく発揮されたが、官邸が為したことで有益なことは何一つない。民間レベル、自治体レベルでは大いに奮闘努力し貢献しているが、官邸主導政治の為したことは正確な情報に対する隠蔽による悪行政ばかりであった。

 特に福島原発対策の面で顕著になるが、実際のメルトダウンを誤魔化し大丈夫発言で被災民を釘づけにし続けた枝野官房長官のウソ云い続けが記憶に新しい。この御仁は今、経済産業相として日本のエネルギー政策、東電処理の方針を決める最高責任者の地位にある。こういうことが許されるのだろうか。本来であれば、大混乱が予想されようとも被災民を一刻も早くより遠くへ非難させねばならなかったところ10キロ、20キロ圏外辺りでの釘づけを逆指揮した。これを指揮した菅―枝野―時の閣僚責任者は犯罪者であり歴史法廷で罰せられてしかるべきであろう。

 れんだいこは早くより全国各地温泉地旅館への非難を推奨した。民間的動きで一部実現したが、本来であれば政府の音頭指揮により国家を挙げて誘導すべきであったと思われる。政府が為したことは随分遅れての仮設住宅の建設であったが、温泉地避難との併用こそが望まれた政策であったと今も思う。費用的、ポランティア支援的にも効率が良かったと思われる。その仮設住宅建設も地元の建設業者が排除され大手建設業社数社に割り当てられている。その請負金額が適正なのかどうか、利権的にも詮索されねばならないのではなかろうか。

 今日明らかなことは、官邸主導、それによる政府系の各種審議会の議事録不在である。慌ただしい中でのこと故に仕方なかった論では済まされない。国家の最重要権力機関内での会議の議事録不在は犯罪であり、この一事でも責任者は厳罰されるべきだろう。本当に存在しないのか、菅政権全体のデタラメの言動ぶりが明らかになるのを恐れて隠蔽しているのか今も分からない。

 フランス系原発会社アルバがサルコジ大統領の肝煎りで来日したが、彼らが何を対策し、どう貢献し、その後幾らの費用を請求しているのか。数兆円の費用請求が囁かれたが、その後何の音沙汰もない。この真偽もせねばならない。首相官邸上層階に米側要人が陣取り、日本政府を指揮し続けていたことも暴露されたが、その要人は誰で、どういう資格で、何人で、官邸と何をどう打ちあわせ指揮していたのか、これも明らかにされねばならない。この情報そのものがウソなのかどうか真偽をはっきりさせねばならない。

 そういうブザマな官邸政治が如何なく発揮されたのが実際である。菅首相の被災地視察の是非、東電乗り込みの武勇伝も精査されねばならない。これも議事録不在であろうが、菅首相の執った発言、行動が精査されねばならない。東電逃げ出し論の実際の内容も確認されねばならない。この間、原発事故対策に自身の生命の危険を顧みずのサムライ50の活躍も特記されねばならない。消防隊の活躍も光る。これも特記されねばならない。当然全国各地からのポランティアの貢献も光る。

 さて、今現在何が問題なのか。一つはゴミ処理の不手際がある。本来であれば、野焼きを認めて全体量の半減化を為すべきところ通常の法規制限を厳格適用し続け、ゴミ処理の片付け、移転は為されたものの全体量が少しも減少していない。即ち莫大な費用負担のみが続いていると云う奇怪さにある。これは原発事故による放射能汚染の除染対策も然りである。もはやある意味で自然循環に任さねばならぬ割り切りが必要なところ天文学的な費用を投入し続けている。

 今後の福島原発対策も一向に明らかでない。原発を封印するのか修理して再稼働させるのか、東電を国有化して乗り切るのか現下の民営化のまま救済を図るのか、今後の補償問題をどうするのか、今後のエネルギー政策をどうするのか、これらの観点の一切が不明なまま税金が投入し続けられている。福島原発のみならず全国各地の原発の今後の在り方を廻っても政治が指針をだしていないことによる混乱が続いている。原発維持派の論拠は電力不足論であり、ならば代替エネルギー、それも新エコエネ科学技術による転換が無理なのかどうか議論を尽くさねばならぬところおざなりにされている。

 こたび程の大きな三陸巨大震災は本来であれば復興景気が表れるのが自然な経済現象であるところ皆目そういう動きにならない。これは政治の逆走によってそうなっているとしか考えられない。事故直後、震災復興に廻す為と云う名目で建築資材の出荷が止められ大混乱したが、これも市場経済を無視している。この命令を誰が指揮したのか、その責任者は誰なのか、これも明らかにされていない。そういう不自然さが付きまとっているのが三陸巨大震災対応である。

 以上、思いつくままに述べたがまだまだある。被災現地では建築制限が課せられ復興の妨げになっている。これが区画整理事業等の都市計画による一時制限であるならともかく意図的故意の復興の妨げ政策の感がある。なぜなら復興計画青写真の作成が余りにも遅すぎるからである。故にこう窺う以外になかろう。行政されているのは漁民の山の手への移動誘導である。これも馬鹿げてよう。羹に懲りてなまず吹くの例えの愚策でしかなく、海の民は海の側で暮らすのが良いのは当たり前のことであろうに。必要なことは今後の災害時用の避難道路の整備と正確迅速な情報伝達策定だろう。海の民を山へ移動させるのを処方箋とするほど愚昧なものはない。

 阪神大震災の場合、時の村山政権は災発生3日後に小里貞利震災担当相を責任者に立て全権限を与えた。小里震災担当相は、戦後行政における日本の総合開発計画を策定してきた建設省のドンにして田中角栄の懐刀の官僚プレーンの一人である元国土次官・下河辺淳氏を登用し成功裏に復興させた。これに比して三陸巨大震災の場合にはどう対応したのか。松本龍復なる者が震災担当相になり失笑を買ったのが記憶に残っている。ここでも逆走が確認できる。これは偶然なのか、意図的故意の悪政治なのではないのか、こう問いたい。

 要するに万事においてデタラメである。デタラメと紛らわしい班目春樹(まだらめ はるき)が内閣府原子力安全委員会委員長(第8代)。防衛大学校長の五百旗頭真を「復興構想会議」の議長に据えたが最初の会議で発したのが「弔い合戦と増税論」と云う天然ボケを登用している。他にも原子力行政推進派のバカヅラがテレビに一斉登場し愚昧な専門的知識を弄んでいた不愉快な記憶が残る。

 省庁再編行政改革と云いながら新官庁を作り続け会議に次ぐ会議をしているが議事録もない会議の為の会議を重ねている。この無駄ガネも合わせれば結構な金額になろう。もうこれぐらいで良いだろう。全てがバカバカし過ぎる。このバカバカしい政治が唯一しゃかりきになったのか陸山会事件を捏造しての小沢バッシングである。もうこうなるとあほらしい。

 最後に。こたびの災害を奇貨として東北人は絆を保った。これは古来よりの日高見国の培っている歴史的伝統であり如何なく発揮されている。東北人のこの気質が今後の日本再生の力になりますよう頑張れ負けるなとエールしたい。今こそ助け合い共和国の創造に向けて邁進しよう。

 2012.3.11日 れんだいこ拝

異常の極致に至った政治の現状  投稿者:普賢菩薩  投稿日:2012年 4月14日

 日本の政治が狂ってしまったのは明治六年の政変以来だというが、あの時から狂いの度合いは刻々と悪化して敗戦に至り、大日本帝国は滅亡するに至っている。戦後の政治はその付け足しのようなものであり、CIAのスパイになった岸信介や中曽根康弘の例を見るまでもなく、最後は統一教会に支配された清和会によるネオコン内閣を最後に、自民党という利権政治は腐敗しきって自滅していしまった。だが、日本の政治が始まって初めて選挙で勝って誕生した民主党政権は、トロイノ馬として仕込まれた松下政経塾で育った政治家により、完全にアメリカ様の手先になってデタラメ政治に明け暮れているが、それをまともに批判するだけの頭脳が日本には存在しなくなった。これが一国が亡国に立ち至るプロセスであるが、この亡国への悲哀をどのように記録したら良いのであろうか。
シナの戦国時代の末期に亡国の現実を前に命を絶った楚の宰相は「離騒」を遺したが、今の日本にはそれを書く詩人もいないし、その事実を記録した司馬遷のような史人もいないのである。
http://shanti-phula.net/ja/unity/blog/?p=18257

Re: 異常の極致に至った政治の現状  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 4月15日

> No.103[元記事へ]

 普賢菩薩さんちわぁです。歴史観において共通しているようで心強いです。共に思索を深め営為を続けませう。

 2012.4.15日 れんだいこ拝 

れんだいこのカンテラ時評№1022   投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 4月15日

【現代政治を解く為の必須としてのパリサイ派考その1】

 ここ暫くブログが無沙汰している。久しぶりのテーマは「現代政治を解く為の必須としてのパリサイ派考その1」となった。

 2012年現在の政治局面を愚考するのに、今現在の動きとか目先のことばかりに拘泥していてはキリがない。2009衆院選で政権をとった民主党が、その推進主力であった小沢派を排除し、鳩山、菅、野田と三代にわたってシオニスタン政権として権力に与り、それも次第に御用聞き性を露骨にしつつあることですっかり食傷されている。

 こういった時代の個々の政策を採り上げて批判するのは必要な営為ではあるが、れんだいこの性には合わない。れんだいこ的には、彼らの政治の根本にある愚頓、腐敗の源泉を再探査して、これをもっと分かり易く説き明かす必要があるのではないかと思っている。

 そういう気づきから、ここで、「れんだいこの現代政治を解く為の必須としてのパリサイ派考その1」を記しておく。この題名でピンと来る者は少ないであろう。故に、どういう意味を持つ題名であるのかを確認しておく。近現代史は国際金融資本&ネオシオニズム派に彩られた革命と戦争史である。この謂いに合点する者は少なくないであろう。

 問題は、歩一歩進めて、国際金融資本&ネオシオニズム派の精神的バックボーンが如何なるものであるのかである。これを明らかにすれば革命と戦争史に彩られる近現代史の背後にある思想を理解することができ、新たな怒りで時代を見直すことでできよう。彼らの拝戴する思想の解明はその意味で必要であると考える。本サイトで「パリサイ派考その1」としたのは、彼らの宗教思想、社会思想が紀元前後に形成された古代ユダヤ教内のパリサイ派に淵源を持っていると断定できるからである。そういう意味で、「現代政治を解く為の必須としてのパリサイ派考その1」とした。

 これを本格的に論ずるには相当の紙数を費やす。あるいは相当の能力が必要となる。そこで、とりあえずは簡便に必須文献の紹介で間に合わせることにする。戦後最近での功労者は大田龍であろう。その時事寸評検索を通じて、「akazukinのブログ」にサイトアップされている「デ・グラッペ著、久保田栄吉訳編、『世界撹乱の律法 ユダヤのタルムード』」を知った。れんだいこは先に愛宕北山氏の「猶太と世界戰爭」、大川周明氏の「米国東亜侵略史」を確認している。この三書の価値は高く、国際金融資本&ネオシオニズムの思想研究上の好著であり、当時に於ける国際的水準にあると評することができよう。

 これを初版日より推測するのに、1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃直後の14日、大川氏が「対米英開戦の理由」をNHKラジオで連日講演し、翌月の1942(昭和17)年1月に「速記録 米英東亜侵略史」として刊行された。ほぼ並行して1941(昭和16)年12月、「デ・グラッペ著、久保田栄吉訳編、『世界撹乱の律法 ユダヤのタルムード』」が出版されている。続いて、1943(昭和18)年8月、愛宕北山氏の「猶太と世界戰爭」へと続いていることになる。この流れを踏まえると、愛岩本は大川本、久保田本を下敷にしていると推定できる。

 戦前、1931(昭和11)年から1945(昭和20)年の敗戦まで日本政経学会と云う国策的なユダヤ研究機関が存在した。大東亜戦争不可避の国際情勢において、孫氏の兵法「敵を知り己を知らば百戦するも危うからず」の教えに従い、来るべき戦争必至の相手方が何者なのかの研究に向かった。その延長線上に近現代史の真の革命及び戦争主体勢力である国際ユダヤの姿を捉え、その研究に国策的に総力を挙げていたことが判明する。

 このことは既に大田龍が指摘していたところである。戦後は、こうしたユダヤ問題研究が大政翼賛会的に缶封されたまま今日に至っている。今日では日本政経学会がかって存在した史実まで滅失させられている。これは敗戦後遺症と云うものであろう。インターネットが普及することで、ようやく当時の原書復刻が始まりつつあることは慶祝事である。2006(平成18)年4月、佐藤優・氏が「日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」(小学館)を出版し、大川本を世に知らしめた意義も高い。

 機縁は続く。続いて、ネット検索で「オニド」の「吉野作造『所謂世界的秘密結社の正体』」に巡り合った。これをれんだいこサイトに格納することにした。これは、1921(大正10)年6月号の「中央公論」掲載の吉野作造(1878~1933)の論文で、1921(大正10)年当時、シベリア出兵の副産物として「シオン長老の議定書」が翻訳輸入され、日本に於ける反ネオシオニズム研究が緒についたばかりの頃、早速にこれを批判している。これが一等最初の「ネオシオニズム批判の批判」になるようである。

 興味深いことに、吉野氏は、学者的研究心で批判する余りに、当時の反ネオシオニズムの言説及び風潮を逆にそれなりに伝えている。ここに同書の反面教師的な値打ちが認められる。そういう意味での貴重文献になっている。全体に吉野氏の反シオニズム批判、親フリーメーソンの姿勢が滲み出ており、吉野氏の学究的能力のお里が知れるのはおまけであろう。

 ここで気づくことは、れんだいこが先に挙げた三書は当然にこの吉野論文を意識して書かれており、吉野氏が不問にしたタルムードを特に問題視することで吉野氏の「ネオシオニズム批判の批判」に対する反証的位置づけを持っていると云うことであろう。問題は、これ以降、吉野陣営側からの再々反論が出ていないと云う状況のまま今日まで至っていると云うことであろう。学問的に見ればオカシナことであり知の頽廃と云えるだろう。

 次の事も付け加えておく。吉野氏は大正期のデモクラシー運動のイデオローグとして知られている。その吉野氏の同書に於ける見解に触れれば、大正デモクラシー運動のお里をも知れることになろう。東京帝大頭脳の質をも示していると云うことにもなろう。吉野氏の反論にも拘わらず、その後の世界史は大川、久保田、愛岩氏らが危惧予見した通りの進行を見せ今日に至っている。仮に吉野氏が今現在生存していたとしたらどう嘯くのだろうか。同書で展開した持論を不明の至りとして撤回する勇気を持つだろうか。

 それはともかく、同書を読んで吉野氏の所説に合点し、シオニズム批判の批判に「我が意を得たり」として精出す者が出たとしたら、どう評すべきだろうか。この連中に漬ける薬はないだろうか、逆に薬を漬けられる羽目になるのだろうかふふふ。

 以下、格納サイトを示しておく。

 「デ・グラッペ著、久保田栄吉訳編 世界撹乱の律法 ユダヤのタルムード」考
 (judea/yudayakyoco/tarumoodoco/yudayanotarumudo/top.html

 「愛宕北山著 猶太と世界戰爭」考(ダイヤモンド社発行、1943(昭和18年8月10日初版)
 (judea/hanyudayasyugico/nihonnokenkyushi/atagoshikanco/atagoshikanco.htm

 「大川周明氏著 米国東亜侵略史」考(昭和18年1月初版)
 (judea/hanyudayasyugico/nihonnokenkyushi/66kawasyumeico/top.html

 「吉野作造『所謂世界的秘密結社の正体』」考
 (judea/hanyudayasyugico/nihonnokenkyushi/yoshinococo.html

 本サイトは、これを一堂に揃えたところに値打ちがある。各人各様の受け取りようがあろう。それはそれで良い、良くないのは知らされぬことによる無知であろう。それだけは避けたいと云う思いと2012年4月現在の政治局面に何がしか資するところがあると思うのでサイトアップしておく。

 2012.4.15日 れんだいこ拝

れんだいこのカンテラ時評№1023  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 5月 2日

 新渡戸稲造「武士道」考その1

 2012年4月頃、不意に新渡戸稲造の「武士道」を読みたくなった。直接的契機としては目下の政治の不作が介在している。それまでの自公政権も酷かったが、2009衆院選で政権の座に就いて以来現在に至るまでの民主党政権、及びそれを担う諸大臣の余りにもな異邦人性(これは売国奴とも云い換えられる)、粗脳無責任政治に食傷させられていることによる。日本人の伝統的な政治の型と余りにも違い過ぎることに呆れ、そういう結果として逆に武士道精神が恋しくなり、それを訪ねたくなったと云う事情がある。

 もう一つ、このところユダヤ教ネオシオニズムの研究をしているが、彼らのイズムの真逆にあると思われる日本精神の精華としての武士道精神を確認したくなったと云う理由もある。そういう訳で、新渡戸稲造の「武士道」が読みたくなった。新渡戸稲造の「武士道」が、日本の武士道を如何に捉えているのか、これと対話したい。

 問題は、これをネットで読もうとしたら、どう検索しても出てこないことにある。ほんの一部が解説混じりでサイトアップされている程度のものでしかない。それも、どこまでが原文でどこからが評者の付け足し文なのか分からない。原文訳が正確であるかどうかも分からない。補足しておけば、英文では公開されている。例えば「http://www.gutenberg.org/files/12096/12096-h/12096-h.htm#PREFACE2" 」がそれである。英文で公開されているのものが日本文では為されていない。こういうことがいつまでも許されることだろうか。

 こういう経験はマルクス主義文献の時にも味わっている。こういう例はまま認められるということであるが決してフェアではないと思う。マルクス主義に話を集中すれば、マルクス主義者であろうと批判者であろうと、まずは原文ないしは極力正確な訳文を読んで知識を獲得するのが前提であろう。議論はそれからの話であるのに、この方面が進んでおらず、故に「もどき」の知識を詰め込んで喧々諤々しているが実際である。ナンセンスと云わざるを得ない。れんだいこの学生運動時代、その程度の知識の「もどき」派に何度「お前は学習が足りない」と云われたことか。

 嫌な思い出の一つである。悪いけど、れんだいこの知性はそういうレベルでは納得できない。生のある間中は極力実際のものを踏まえて弁証していきたいと思う。「もどき」の知識で知ったかぶりして相手を追い詰めるなんて芸当は真似できないし金輪際したくもない。原文原意を踏まえたならば「もどき」派よりももっと旺盛な議論を展開したいと思う。「もどき」派にはもう一つ特徴がある。入り口段階でわざわざ小難しくする癖がある。そこで賢こぶられるのであるが辟易させられるものでしかない。そういう暗雲を一気に晴らす妙薬はないものだろうかと常々思っている。

 もとへ。そこで、ネット検索で古書店より原書を取り寄せることにした。誰もやらないなら、れんだいこがいつものようにサイトアップしておこうと思う。(実際にはネットで購入しようとしたところカードでなくては支払えない云々で、カードを持たないれんだいこは街の書店で購入した)

 最近は、糞著作権野郎によって情報閉塞化が激しくなりつつある。ご丁寧にも先進国では当たり前の権利であると講釈聞かされる。ところが、その先進国では既に行き過ぎの著作権に対して揺り戻しが起りつつあるのがお笑いである。それはともかく、我々は、著作権規制強化の動きに対抗して、埋もらせてはならない名文、名品を逆に公開して共有化しておく必要がある。著作権規制を廻って両派が抗争していると思えば良い。当然、れんだいこは後者であり、これまでもこれと思う書物のサイトアップをしてきた。ここに新たに新渡戸稲造の「武士道」を加えることにする。
 

れんだいこのカンテラ時評№1024  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 5月 2日

 【新渡戸稲造「武士道」考その2】

 れんだいこが新渡戸稲造の履歴及びその著作「武士道」を評すれば次のように云える。

 1862(文久2)年、新渡戸稲造は、現在の岩手県盛岡市の盛岡鷹匠小路下ノ橋の邸にて南部藩士にして藩の勘定奉行を務める新渡戸十次郎と母・せきの、の三男として誕生した。その後の稲造は、明治時代初頭の文明開化の波に競って乗った欧米化ボーイの一人となった。

 1877(明治10)年、15歳の時、“Boys,be ambitious!”の名言で有名なウィリアム・クラーク博士の教鞭で知られていた札幌農学校(のち北海道大学)の二期生として入学する。内村鑑三はこの時の同期生である。1878年、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らと共に函館に駐在していたメゾジスト系の宣教師M.C.ハリスから洗礼を受けている(洗礼名・パウロ)。こうしてクリスチャンとなり、友人達とともに信仰と勉学の日々を送った。この頃、「モンク(修道士)」のあだ名を付けられている。

 1884(明治17)年、念願叶って私費留学でアメリカに渡り、アレゲニー大学、ジョン・ホプキンス大学に入学し、経済、農政、歴史、英文学などを学ぶ。こうして、いわゆる西欧学問、精神、イズムを現地で吸収した。新渡戸はこうして国際日本人となった。当時、こういう日本人が少なからず居た。新渡戸が並でないのはこれ以降にある。

 新渡戸は、多くの国際日本人の如く西欧文明を丸呑みしたのではない。むしろ日本との比較文明史的批評眼を持った。この観点は割合に早く獲得されていたものであるが、実際に欧米の地に住んでなお曇らさなかった。新渡戸は、西欧文明を知るにつけ徒に西欧に同化しなかった。屈服式に憧憬同化するには、幼年期に身につけていた日本学的教養が邪魔したとも云える。こういう例は史上の気骨派にまま認められる。ずっと後年になるが犬養毅なぞもその例であろう。夏目漱石辺りもこの範疇の人物であろう。

 新渡戸はむしろ、西欧文明、学問を習いつつ、他方で日本が歴史的に営々と培ってきた学問、精神、イズムの高等さを逆に確認した。同時に西欧文明に比しての欠点をも確認した。その結果、日本が西欧に学ぶだけではなく、日本文明の水準も踏まえて、両者の文明的総合、架け橋を企図した。この当時、このように発想した日本人は少ないのではなかろうか。これが、新渡戸評の第一点にならなければならない。

 更に注目すべきは次のことである。新渡戸の知性は、他のインテリが西欧化の波に呑まれ、西欧化の裏に潜む国際金融資本のイデオロギー且つ学問たるネオシオニズムに蕩(とろ)ける中にあって、その流れに迎合しなかった。むしろ西欧主義の流れにあるイエス教、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、在地諸教の五者鼎立を見据え、むしろ日本的精神で和合し得る西欧を求め続けた。

 その結果として、キリスト教内では少数派のクエーカー教徒へと転身している。その背景には、当時主流となりつつあったユダヤ教系譜のネオシオニズムに同化せず、これと一線を画す必要を感じ続けていたと云う理由があったと推察できる。ここに新渡戸の見識の高さ、有能さが認められる。同時にネオシオニズムに身売りしなかったことによる悲劇が前途に敷かれることになる。これにどう挑んだか挑みそこなったか、これが新渡戸評の第二点にならなければならない。

 このように自己形成した新渡戸のその後は栄光と苦難に満ち溢れている。暫く履歴を確認する。

 渡米中、クエーカー派の集会であるモリス茶会でフィラデルフィア・クエーカーの名家の令嬢であったメアリー・エルキントンと出会う。1887(明治20)年、ドイツ留学しボン大学、ベルリン大学、ハレ大学で農政学、農業経済学、財政学、統計学などを学び、この後、マルティン・ルター大学、ハレ・ヴィッテンベルク(ハレ大学)大学にも聴講し、ハレ大学で学位論文「日本の土地所有、その分配と農業経済的利用について」を提出し農業経済学博士号の学位を得ている。1891(明治24)年、再度アメリカに渡り、ドイツ留学中にも文通により心を通わせてきたメアリー・エルキントンとフィラデルフィアで結婚する。

 その後日本に帰国し、札幌農学校助教授として赴任する。1897(明治30)年、札幌農学校教授として多くの授業をかかえ、舎監なども兼任するという余りの忙しさによる過労の為に脳神経症となり退官し、鎌倉、伊香保で転地療養する。療養中に「農業発達史」、「農業本論」をまとめ出版する。

 その後渡米しカリフォルニア州で転地療養する。この折の38歳の時、「武士道」(「Bushido-the soul of Japan」)を執筆、1900(明治33)年、英文「武士道」を出版する。今、これを読むのに、武士道のみならず武士道に通底している日本思想に対する造詣の深さに感嘆させられる。それを西欧の騎士道、西欧思想と比較対照させ、圧巻の東西思想対比に成功している。

 「武士道(Chivalry)は、日本の表徴たる桜花と同じく、日本の国土に固有の花である。それは我が国の歴史の標本として保存されている古代の徳の干乾びた見本ではない」で始まる「武士道」はベストセラーとなり多くの国で翻訳され版を重ねた。英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、アラビア語をはじめとして17カ国語に訳され今も読み継がれている。

 駐米英国大使のブライス卿に「英文学の珠玉」と賞賛され、後にポーツマス会議を斡旋するセオドア・ローズベルト大統領が、60冊買って知人に配りまくったと云う逸話も残されている。当然、日本でも出版され、諸氏が訳している。一番有名な版は、昭和13年(1938年)に岩波文庫版として刊行された矢内原忠雄訳の「武士道」であり、新渡戸自身が日本語で著した版は存在しない。

 本来であれば、新渡戸の英文「武士道」は、和英両方を語学的にも思想的にも同時に知ることのできる必須教本となってもおかしくはないが、戦後はなおさら日の目を見ていない感がある。その理由はここでは問わない。

 この年、次のような動きが並行している。夏目漱石がロンドン、日本画家の竹内栖鳳がパリ、新劇を提唱する川上音二郎は貞奴とともにニューヨークへ、長岡半太郎がパリの第1回国際物理学会議に出席をし、翌年は滝廉太郎がライプチッヒへ行った。内村鑑三が「聖書の研究」、与謝野鉄幹が「明星」、泉鏡花が「高野聖」、徳富蘆花が「自然と人生」を著わしている。政治上ではドイツの3B政策、中国で義和団事件が発生している。孫文は恵州で蜂起するも失敗。科学ではプランクの量子定数の発見、メンデルの遺伝法則の再発見、パブロフの条件反射、フロイトの「夢判断」、ヴントの「民族心理学」が著わされ、ヒルベルトが23の数学問題を提示している。

れんだいこのカンテラ時評№1025  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 5月 2日

 【新渡戸稲造「武士道」考その3】

 かく名声を不動のものにした新渡戸のその後は険しかった。その責が新渡戸自身に帰するものは何もないように思われる。新渡戸の理想と献身を受け入れなかった当時の世相こそ疑惑されるべきではなかろうか。

 新渡戸の行政的功績に、台湾赴任時の「糖業改良意見書」提出がある。これが台湾に於ける糖業業発展の基礎を築いている。「住民の利益を尊重する」という考え方のもと行われた稲造の台湾での植民政策は歴史的に見ても特筆される。その後帰国し、1903(明治36)年、京都大学教授となり、台湾での実績をもとに植民政策を講じている。1906(明治39)年、第一高等学校長に就任。東京帝国大学法科大学教授(植民政策担当)を兼任する(農学部教授兼任ともある)。稲造は一高校長として欧米的な自由で革新的教育方針のもと生徒を教育し、結果的に多くの立派な人材を社会に送り出している。

 1916(大正5)年、東京貿易殖民学校長に就任。1917(大正6)年、拓殖大学学監に就任。1918(大正7)年、 東京女子大学初代学長に就任し、その設立に尽力している。その後、日米交換教授としてアメリカに渡る。

 1920(大正9)年、59歳の時、国際連盟設立に際して、教育者にして「武士道」の著者として国際的に高名な新渡戸が国際連盟事務次長に抜擢されジュネーブに滞在する。こうして日本人初めての国際機関における重要ポストの就任者としての栄誉を得ている。この時期、新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を努めたウィルソン米国大統領の意向により否決されている。

 エスペランティストとしても知られ、1921(大正10)年、チェコのプラハで開催された世界エスペラント大会に参加している。1922(大正11)年、はノーベル賞受賞者を主な委員として、教育、文化の交流、著作権問題、国際語の問題などを審議する知的協力委員会を発足させたが、この委員会は現在のユネスコの前身にあたり、今もその精神は受け継がれている。1925(大正14)年、 帝国学士院会員に任命される。1926(大正15)年、7年間務めた事務次長を退任。貴族院議員に選ばれている。この頃から各地を講演してまわりながら三本木、盛岡、札幌とゆかりの地を訪ねていく。

 1928(昭和3)年、札幌農学校の愛弟子であった森本厚吉が創立した東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。1929(昭和4)年、満州事変の2年前、太平洋問題調査会の理事長に就任。同年、京都で開催された第3回太平洋会議で議長を務めた。同年、学監を務めた拓殖大学の名誉教授に就任。翌年には英文大阪毎日で“Editorial Jottings”(編集余録)連載を開始する。1931(昭和6)年、故郷岩手県の産業組合中央会岩手支会長に就任、また東京医療利用組合設立へも尽力し活動は様々な方向への広がりをみせた。

 同年9月、満州事変が勃発、日本への非難が高まり日米関係が悪化していくと「太平洋のかけ橋」としての役割をはたすべく奔走する。同年、上海で開かれた第4回太平洋会議に出席し、日中関係の改善を模索する。満州事変を境に日本は国際社会からの孤立を深め、ことに米国との対立が深刻の度を増して行った。この頃、松山講演で「我が国を滅ぼすものは共産党と軍閥である」と発言し、これが新聞紙上に取り上げられ、軍部や左翼の激しい反発を買っている。帝国在郷軍人会評議会で陳謝する。

 1932(昭和7)年、日本軍部の大陸侵略が強まるさなか、日米関係が悪化した事を感じた稲造は反日感情を緩和する為に渡米し、1932(昭和7)年だけでも全米で都合100回にわたる講演をしている。出渕駐米大使とともにフーバー大統領を訪問、さらにスチムソン国務長官との対談をラジオ放送でおこなうなどして日本の立場を訴えたが奏功せず。

 1933(昭和8)年3月、日米関係改善の目的を達成できぬまま帰国する。その直後、日本が国際連盟を脱退する。1933(昭和8)年8月、カナダのバンフで開かれた第5回太平洋調査会会議に日本代表団団長として出席するため渡加。日本側代表としての演説を成功させる。その一ヶ月後、当時国際港のあったカナダの西岸ビクトリアで倒れ永眠する(享年71歳)。生誕の地である盛岡市と客死したビクトリア市は新渡戸が縁となって現在姉妹都市となっている。1984(昭和59年).11.1日発券の五千円札の肖像画に登場している。

 かく生き抜いた新渡戸をどう評すべきか。明治、大正、昭和の御代を生き、日米文明の架け橋を企図していた新渡戸は、その意にも拘わらず、次第に悪化していく日米関係の波に揉まれて行くことになった。それは不可抗力に抗う蟷螂の斧のような献身を余儀なくされた。それを承知で営為したのが新渡戸の履歴である。この頃の心境を歌に託して親しい友人に書き送っている。「折らば折れ。折れし梅の枝、折れてこそ 花に色香を いとど添ふらん」。

 これをどう評すべきか。これが、新渡戸評の第三点にならなければならない。我々は、この新渡戸的生き様と深く対話すべきではなかろうか。話を戻せば、2012年現在のお粗末至極な政治、それも極め付きの売国奴どもによる政治的放縦が目に余る。これを指弾し決別する為にも、新渡戸的営為は再評価されるべきではなかろうか。新渡戸が岩手県の出身であることも興味深い。この地の者には何やら武骨にして反骨の叡智が宿されていると窺うのは、れんだいこだけだろうか。以上、前置きして新渡戸著「武士道」の薫陶を得たいと思う。

 2012.5.2日 れんだいこ拝

れんだいこのカンテラ時評№1026  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 5月11日

 【れんだいこ和訳文「新渡戸 武士道」】

 既にれんだいこの新渡戸稲造論「新渡戸稲造「武士道」考その1」、「新渡戸稲造「武士道」考その2」、「新渡戸稲造「武士道」考その3」をサイトアップしている。今のところ、これに対する論評はない。この糠釘はともかく、新渡戸著「武士道」の翻訳文をお届けすることにする。「猫に小判」と云う諺がある。本件の場合、猫ではなく人である。その人に、小判たる新渡戸の言葉を見せることにより科学的変化が起らないのだろうかと云う関心がある。

 5.10日のツイートで次のように記した。「れんだいこ ? @rendaico 本日最後のツイート。新渡戸稲造の武士道の現代和訳文が前半までできつつあります。翻訳って骨が折れるが、対話できて楽しいですね。誰か読みたいと云うてくれる人あらむ。読まないよりは読んだら為になること請けあいます。さあこれからこのところ無沙汰の19路へ向かおうっと」。これに対して僅か一件ではあるが次のようなレスが帰って来た。「Suzuki_kota ? @zxw7@rendaico 全てれんだいこさんの訳ですか?ぜひとも拝読したいですね(^^」。これには次のようにRe返信しておいた。「れんだいこ ? @rendaico @zxw7 39。サイトアップの時に説明するつもりですが、岩波文庫の矢内原忠雄訳が下敷です。れんだいこの腕では、誰かの最初の訳文がなければできません。数日内に序文からブログして行きます。ご感想をお伝えください」。

 以上の経緯を経て、ここに、れんだいこ和訳文「新渡戸 武士道」をサイトアップしておく。英語原文は「BUSHIDO THE SOUL OF JAPAN」、和訳文は岩波文庫「新渡戸稲造著、矢内原忠雄訳 武士道」を底本とした。和訳手法は、既に経験済みの「共産主義者の宣言」によった。全体として読み易くすることに傾注している。

 付言しておけば訳文は次のようにして産出した。れんだいこの能力と翻訳に費やせる時間の欠如により、ひとまずは底本をなぞり、その意味不明部分、語彙の難解部分、誤訳と思われる部分を訂正した。矢内原忠雄訳の名訳部分、れんだいこの不能訳部分はそのままにした。句読点、段落等は、れんだいこ文法に則った。2012年の5月連休で為し得たのは9章までであった。続きは折を見て為そうと思う。纏まった時間が要ると云う意味では次の長期休暇であるお盆時まで預けるかも知れない。

 れんだいこが「新渡戸 武士道」に注目するのは武士道そのものではない。武士道にも体現しているところの産みの親とも云うべき古代日本の思想、これを仮に「縄文日本思想」と命名するならば、新渡戸がその「縄文日本思想」に如何に注目し、これを世界の諸思想と比較検証しているかを確かめたい。この観点から読み解くと、案外と思った以上にできている。「新渡戸 武士道」はこの点で一層の値打ちを出していると評価したい。

 今、21世紀初頭の2012(平成24)年段階の現代日本の思想界は類例のない形で逼塞している。過去の諸思想が通用しない時代に入っているにも拘わらず新思想を生み出しつつある訳でもない。この時代の特徴は、あたかも思想そのものを不要としているように思える。思想不要論そのものの是非判断は難しいが、その危険性は次のことにある。即ち、他方で国際ユダヤ式ネオシオニズムが侵潤し続けており、目下の無思想状態はこれに対して余りにも無防備なところにある。

 日本人の精神知能がますます幼稚化されていく他方で、ネオシオニズムの他民族家畜化思想が自由往来しつつある。その責任を誰がとるのか。政治家があてにならないのは、この政策のお先棒担ぎしているのが実際であることを見れば自明だろう。故に、こういう折柄に於いては、我々が地下活動的に自由自主自律的に精神知能を啓蒙する必要がある。こう課題化する時、「新渡戸 武士道」を読まぬ手はないと云うことになる。

 「れんだいこの新渡戸稲造武士道の現代和訳文」が読むに足りる出来栄えになつているのかどうかは読み手の判断に任せるとして、もし不十分なら更により良い訳文が案出されるべきだろう。必要なことは多くの人が読む方向にリードすることであって逆に向かうべきではないと云うことである。後者の方向のものに著作権があるが、これまでの著作権論はイカガワシイものであり、多くの者が著作物により親しむ方向で理論化されねばならない。「要事前通知、要事前承諾、要課金」制により多くの者が著作物に触れることに制限を加えられる方向で営為する現行の著作権論なぞ一刻も早く一蹴せねばならないと考えている。

  れんだいこ和訳文「新渡戸 武士道」
 (kodaishi/kodaishico/nihonshindoco/bushidoco/rendaicowayakubun.html

 2012.05.011日 れんだいこ拝

れんだいこのカンテラ時評№1027  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 5月11日

 序文(Preface)

 凡そ10年ほど前のこと、ベルギーの法学者ラヴレーの家で歓待を受け数日を過ごした。或る日、一緒に散歩をしている時に宗教の話題になった。「えーとそれは、あなたがたの学校には宗教教育というものがない、とおっしゃるのですか?」と、この尊敬すべき教授に尋ねられた。私が「日本には宗教教育がありません」と答えたところ、教授は驚いて突然歩を止め、「宗教なしですって。それでは一体どのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか?」と繰り返された。私は、その時の声を容易に忘れることができない。

 その時、私は質問に困惑し即答できなかった。私は、年少時代、学校で宗教教育がなかったことを知った。私は、私の正邪の観念を形成しているさまざまな要素を分析し始めるに至ってはじめて、これを私の鼻腔に吹き込んだのが武士道だったと気がついた。

 この小著の直接の端緒は、私の妻が、かくかくの思想もしくは風習が日本にあまねく行われているのはいかなる理由であるかと、しばしば質問したことによる。私は、ド・ラヴレー氏並びに私の妻に満足なる答えを与えようと試みた。しかして封建制度および武士道を解することなくんば、現代日本の道徳観念は結局封印せられし開かずの巻物であることを知った。

 長病いのため止むをえず無為の日を送っているのを幸い、家庭の談話で私の妻に与えた答えを整理して、いま皆様方に提供する。その内容は主として、私が青少年時代、封建制度のなお盛んであった時に教えられ語られたところのものである。

 一方にはラフカディオ・ハーンとヒュー・フレザー夫人、他方にはサー・アーネスト・サトウとチェンバレン教授の控えている間に挟まって、日本に関する事を英語で書くのは全く気のひける仕事である。ただ私がこれらの高名なる論者たちに優る唯一の長所は、彼らの勝れた書物が弁護士もしくは検事の立場からのものであるのに比して、私は被告の態度を取り得ることである。私はたびたび思った。「もし私に彼らほどの言語の才能があれば、私はもっと雄弁な言葉をもって日本の立場を陳述しようものを」と。しかし、借り物の言語で語る者は、自分の云うことの意味を解らせることができさえすれば、それで有り難いと思わねばならない。

 この著述の全体を通じて、私は自分の論証する諸点をばヨーロッパの歴史および文学からの類例を引いて説明することを試みた。それはこの問題をば外国の読者の理解に近づけるに役立つと信じたからである。宗教上の問題及び宣教師に説き及んだ私の言及が万一侮辱的と思われるようなことがあっても、キリスト教そのものに対する私の態度が疑われることはないと信ずる。

 私があまり同情をもたないのは、教会秩序、キリストの教訓を曖昧にする諸形式に対してであって、教訓そのものではない。私は、キリストが教え、かつ新約聖書の中に伝えられている宗教、並びに心に書(しる)されたる法を信ずる。さらに私は、全ての民族及び国民、即ち異邦人であろうがユダヤ教徒であろうが、キリスト教徒であろうが異教徒であろうが、神が旧約と呼ばれるべき契約を結びたもうたことを信ずる。私の神学のその他の点については、読者の忍耐を煩わす必要がない。

 この序文を終るにあたり、私は友人アンナ・シー・ハーツホーンに対し、多くの有益なご指導を与えられしことについて謝意を表したい。彼女の手になる本書の表紙の特徴的な日本調装丁への御礼を合せて。

 1899年12月 ペンシルヴァニア州マルヴェルンにて 新渡戸稲造

 (私論.私見)

 第1版序文で、日本での宗教教育について尋ねられ、そういうものはないと返答したところ驚かれ云々とある。これは興味深いことで、西欧では人の教養作りの素養として宗教教育が重視されていることが分かる。対照的に日本では重視されていないが、それは、外在的に認められるようなものとしての宗教がなくて、その位置を代わりに占めているものは神仏儒和合の習俗であり、学ぶもよし学ばざるもよしの自在になっていることを意味する。

 新渡戸は、「私は私の正邪の観念を形成しているさまざまな要素を分析し始めるに至ってはじめて、これを私の鼻腔に吹き込んだのが武士道だったと気がついた」と述べている。この述懐は本書の成り立ちを理解する上で貴重である。付言しておけば、日本の戦後知識人が頻りに吹聴するところの科学信仰、その対極としての宗教批判は特殊戦後日本的なもので、世界に通用するものではないと云うことになりはすまいか。世界では科学と宗教がそのように対立させられているのではないのではなかろうかとの知見を要請するのではなかろうか。

 2012.5.11日 れんだいこ拝

れんだいこのカンテラ時評№1028  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 5月12日

 【第一章 倫理体系としての武士道(Bushido as an Ethical System)】

 武士道(Chivalry)は日本の国土に咲く固有の花であり、それを象徴するのは桜である。それは我が国の歴史の標本として保存されている古代の徳の干乾びた見本ではない。武士道は今なお我々の中に力と美の活ける対象として生き続けている。それは触れて感知できるような姿や形を帯びていないが、道徳的雰囲気の香気であり、我々をして今なおその効能呪文下にあることを自覚せしめている。

 それを生みかつ育てた社会状態が消え失せて既に久しい。しかし、かって存在し今はなき遠き星たちがなお我々の上にその光線を投げ続けているように、封建制度の子たる武士道の光は今なお我々の道徳の道を照らしており、その母たる制度を生き残らせている。この問題をパークの言語(英語)で言及し得ることは私の愉快とするところである。バークは、ヨーロッパ的規範である騎士道が棺桶に納められ顧みられざりし時に、騎士道を感動的に称賛し続けていることで衆知されている人である。

 ジョージ・ミラー博士の如き学識の深い学者が、騎士道もしくはそれに類似の制度は、古代諸国民もしくは現代東洋人の間にはかって存在しなかったと躊躇なく断言しているとあらば、極東に関する悲しむべき知識の欠乏が明らかである。しかしながら、このような無知はおおように(amply)見過ごしても良い。なんとなれば、この善良なる博士の著書の第三版が発行されたのはペリー提督が我が国の鎖国主義の戸を叩いていたのと同じ年であるからである。

 その後十年以上を経て、我が国の封建制度が最後の息を引き取ろうとしていた頃、カール・マルクスは、その著「資本論」に於いて、封建制の社会的政治的諸制度研究上の特殊の長所(advantage)に関し、当時封建制の活きた形はただ日本に於いてのみ見られると述べて読者の注意を喚起した。私も同様に西欧の歴史及び倫理研究者に対し、現代日本に於ける武士道の研究へと誘ってみたい(invite)と思う。

 ヨーロッパと日本の封建制及び騎士道間の歴史的な比較論は興味あることではあるが、これを詳細に亘って立ち入ることは本書の目的ではない。私の試みはむしろ、第一に我らが騎士道の起源及び淵源、第二にその特性及び教訓、第三にその民衆に及ぼしたる感化、第四にその感化の継続性、永久性を述べることにある。これら諸点の中、第一はただ簡単かつ大急ぎに述べるに止める。私は、読者をば、我らが国史の紆余曲折せる小路にまで連れ込むことになるであろう。第二の点はやや詳細に論じよう。けだしそれは国際的な倫理学及び比較政治学の研究者をして、我らが国民の思想及び行動の手法について興味を覚えしめるだろうからである。残りの点は余論として取り扱うことになるであろう。

 私が大雑把にシヴァリ―(Chivalry)と訳した日本語は、その語源に於いて騎士道(Horsemanship)と訳すよりも多くの含蓄がある。武士道(Bu-shi-do)は、字義的には闘う貴族たる武士がその職業に於いてと同様に日常生活に於いても仕える道である軍人的騎士道を意味している。これを一言で云えば、「騎士の掟(Precepts)」即ち武門としての「誇り高き義務」(ノーブレス・オブリージュ noblesse oblige)である。かく字義を明らかにした以上、これからこの語を原語で用いることをお許し願いたい。

 原語を用いることは又次の理由からも都合が良い。即ち、かくも究極的にかつ独自的にして、精神と性格の或る鋳型(cast)を生み出し、それがこれほど特殊的にして地方的なるものである教程は、その特殊性の記章(badge)を面上にも帯びておらねばならない。それ故、幾つかの用語は、民族的特性を極めて印象的に表現する国民的な音色を持っている。それは、最善の翻訳者をしても、その真(justice)を写しだす(scant)ことは困難である。敢えて為せば却って(positive)不正不満なものにしてしまう。誰か、ドイツ語のゲミユ―ト(Gemüth)の意味を能く翻訳し得ようか。あるいは、英語のゼントルマン(gentleman)とフランス語のジャンティオム(gentilhomme)とは言語的に極めて近接しているが、この二つの言葉の持つ味の差を感じない者があるだろうか。

 武士道は道徳的諸原理の法典(code)であって、騎士が遵守すべきことを要求され、もしくは指導されているものである。武士道は成文化された法典ではない。せいぜい数十年数百年に亘って口伝により、もしくは数人の有名なる武士もしくは学者の筆に由来するものである。むしろそれは語られず書かれざる法典である。ほとんど全てが極められた功業からなる力強い規定法(sanction)となっている。不言不文であるだけ新鮮に心に銘板(tablets)されている。それは、いかに有能なりといえども一人の人の頭脳により紡ぎだされたものではない。いかに著名なりといえども一人の人物の生涯に依拠するものではない。それは、数十年数百年に亘る武士の実践(career)から汲みだされたものが組織的に(organic)発達したものである。

 恐らく、道徳史上に於ける武士道の地位は、政治史上に於けるイギリス憲法の地位と同じであろう。しかるに、武士道には大憲章(Magna Charta)もしくは人身逮捕状(Habeas Corpus Act)に比較すべきものさえないのである。17世紀初めに武家諸法度が制定されたのであるが、その13カ条は主として婚姻、居城、同盟等に関するものであって、教訓的な規定はほんの僅かだけ触れられているに過ぎない。それ故に、我々は明確な時と場所を示して、「ここに武士道の源泉がある」と云うことができない。

 それは封建時代に於いて自覚せられたものであるから、その起源は、時に関する限り封建制と同一であると見て良かろう。しかし、封建制そのものが多くの糸(threads)によって織り成されているのであり、武士道もその錯綜せる性質を分かち合っている。イギリスに於ける封建制の政治的諸制度はノルマン征服の時代に発していると云われるが、日本に於いても、その勃興は12世紀末の源頼朝の制覇と時代を同じくしていると云い得るであろう。しかしながら、イギリスに於いて、封建制の社会的諸要素は遠く征服者ウイリアム以前の時代に遡(さかのぼ)るが如く、日本に於ける封建制の萌芽(germs)も又上述の時代より遥か以前より存在していたのである。

 もとへ。ヨーロッパに於けるが如く日本に於いても、封建制が公式に始まった時、武門の専門階級が自然に勢力を得てきた。これらの人たちは侍(サムライ)として知られた。その字義は、古英語のク二ヒト(cniht、knecht, knight)と同じく、衛者又は従者を意味している。彼らは、その性質に於いて、カエサル(Caesar)がアクティタ二アに存在すると記録しているソルデュリィ(soldurii)に似ている。あるいは、タキトウスによるところのゲルマンの首長に随従するコミタティ( comitati)に似ている。あるいは、更に後世に比を求めれば、ヨーロッパ中世史に現われるミリテス メディイ(milites medii )に似ている。日本的用語では「武家」もしくは「武士」(戦闘騎士)と云う漢字が常用された。

 彼らは特権階級であり、元来は戦闘を職業とする粗野な素性(すじょう)であったに違いない。この階級は、長期間に亘る絶えざる戦闘を繰り返すうちに、勇敢にして最も冒険的な者の中から次第に抜擢された。しかして淘汰の過程の進行に伴い、軟弱な者、無礼な者が選り分け間引かれた。エマーソンの文句を借用すれば、「全く男性的で、獣の如き力を持つ粗野なる種族」だけが生き残り、これがサムライの家族と階級とを形成することとなった。

 大なる名誉と大なる特権と、従ってこれに伴う大なる責任とを持つに至ると、彼らは立ち居振る舞いの共通基準の必要を感じるようになった。殊に彼らは常に交戦者たる立場にあり、かつ異なる氏に属するものであったから、その必要は大であった。あたかも医者が医者仲間の競争を職業的礼儀によって制限する如く、弁護士が作法を破った時は査問法廷に出なければならぬ如く、武士も又彼らの不行跡についての最終審判を受くべき何かの基準を持たなければならなかった。

 戦闘に於けるフェア・プレイ!、そこには、道徳の豊かなる萌芽が野蛮と小児らしさのこの原始的なる感覚のうちに宿っている。これが、あらゆる文武の徳の根本なのではなかろうか。我々は、(我々がそういう願いを抱く年輩を通り過ぎてしまっただけに)、小イギリス人トム・ブラウンの子供らしい願い即ち「小さい子をイジメず、大きな子に背を向けなかった者と云う名を後に残したい」を聞いてほほ笑む。けれども、この願いこそ、その上に偉大なる規模の道徳的建築物を建てうべき隅の要(かな)め石であることを、誰か知らないだろうか。私が、柔和家にして最も平和を愛する宗教でさえ、この願望を裏書きしていると云えば、云い過ぎだろうか。このトムの願いが、イギリスの偉大なものの過半を打ち立てている基礎となっている。しかして、武士道の立つ礎石もこれより小なるものでないことを発見するのに長い時間を要さないだろう。

 戦闘そのものは攻撃的にせよ防御的にせよ、クェーカー教徒の正しく証明する如く、野蛮にして不正であるにしても、我々はレッシングと共に云い得る。「我らは、我々の徳が至らぬところから徳が起ることを知っている」と。「卑劣」と云い「臆病」と云うは、健全にして一本気な気性の者に対する最悪の侮辱の言葉である。少年は、こういう観念をもって生涯を始める。武士も又然り。しかし、人生の裾野を広げ、その関係が多方面となるや、初期の信念は、己を正当化し満足し発展せしむる為により高き権威並びにより合理的なる淵源による確認を求めるようになる。もし、ひたすら戦闘の利益のみが追及され、より高き道徳的支持を求めることがなかったとすれば、騎士の理想は騎士道に遥か及ばざるものに堕したであろう。

 ヨーロッパに於いては、キリスト教が、騎士道にあつらえ向きの便宜さで解釈し、それにも拘わらず霊的デ―タを染み込ませている。「宗教と戦争と栄誉は、完全なるキリスト教騎士の三つの魂である」とラマルティ―ヌは云っている。日本に於いても、似たり寄ったりだろう。

れんだいこのカンテラ時評№1029  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 5月12日

 【第二章 武士道の淵源(SOURCES OF BUSHIDO)】

 まず仏教との関わりから始めることにする。武士道には、運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にしたときの禁欲的な沈着さ、生への不執着、死への親近感が見て取れる。

或る剣術の達人(柳生但馬守)が、門弟に技の極意を教え終わった時、次のように告げている。「これ以上の事は余の指南の及ぶところでなく、後は禅の教えに譲らなければならない」。禅とはディヤ―ナ(Dhyâna)の日本語訳であって、それは、「言語的表現の範囲を超えたる思想の領域に瞑想をもって達せんとする人間の努力を意味する」ものである。その方法は黙想による熟考である。しかしてその目的は、私が理解する限りでは、全ての現象の底に横たわる原理、能うべくんば絶対そのものを覚知し、かくして自己をばこの絶対と調和せしむるにある。かくの如く定義してみれば、この教えは一宗派の教義以上のものであって、何人にても絶対の洞察に達した者は現世の事象を脱俗して覚醒し、「新しき天と新しき地」の境地に至る。

 ラスキンは最も心柔和にして平和を愛する人の一人であった。しかるに彼は格闘的生涯の崇拝者としての熱心さで戦争の価値を信じた。彼は、その著「野生オリーブの王冠」の中で次のように述べている。「私が、戦争はあらゆる技術の基礎であると云う時、それは同時に人間のあらゆる高き徳と能力の基礎であることを意味している」。このことを発見することは私にとって頗(すこぶ)る奇妙なことなのであるが、私は、それが全く否定し難き事実であることを知った。私は、簡単に云えば次のような信念を見出した。「全ての偉大なる国民は、彼らの言の真理と思想の力とを戦争に於いて学んだ。戦争に於いて涵養せられ平和によって浪費せられたこと、戦争によって教えられ平和によって欺かれたこと、戦争によって訓練せられ平和によって裏切られたこと、要するに戦争のなかに生まれ、平和のなかに死んだ」。

 仏教が与え損なったものを神道が豊かに提供した。武士道の主君に対する忠誠、祖先の遺蹟に対する崇敬、子としての孝心は、他の如何なる宗教によっても教えられなかったものであり、神道の教義によりて刻み込まれたものである。これによって、サムライの傲慢なる性格に服従性が賦与せられた。神道学には「原罪」教義(dogma)がない。却って反対に、人の心の本来善にして神の如く清浄なることを信じている。神託の宣べられる至聖所としてこれを崇め尊ぶ。

神社に詣でる者は誰でも観る如く、その礼拝の対象及び道具は甚だ少なく、奥殿に掲げられたる素鏡がその備えつけの主要部分を為している。鏡の存在は容易に説明できる。それは人の心を表わすものであって、心が完全に平静かつ明澄なる時は神の御姿を映す。この故に、人がもし神前に立ちて拝礼する時は、鏡の輝やく面に自己の像の映されるを見る。かくて、その礼拝の行為は「汝自身を知れ」と云う古きデルフィの神託と同一に帰するのである。

 しかし、己を知ると云うことは、ギリシャの教えに於いても日本の教えに於いても、人間の身体的部分に関する知識、その解剖学や精神物理学を意味しているのではない。この知識は道徳的であり、人の道徳的性質の内省的なものである。モムゼンが、ギリシャ人とローマ人とを比較して論ずるところによれば、ギリシャ人は礼拝する時、目を天に上げるが、ローマ人はその頭を物で覆う。前者の祈りは凝視であり、後者のそれは内省であると云う。我が国民の内省は本質的にはローマ人の宗教観念と同じく、個人の道徳的意識よりもむしろ国民的意識を顕著ならしめた。

 神道の自然崇拝は、国土をば我々の奥深き魂に親しきものたらしめ、その祖先崇拝は、系図から系図へと辿って皇室をば全国民共通の遠祖とした。我々にとって、国土とは金鉱を採掘したり穀物を収穫する土地以上の意味を有する。それは神々即ち我々の祖先の霊の神聖なる棲所(すみか)である。我々にとって天皇は法律国家の警察の長ではなく、文化国家の保護者でもなく、地上に於いて肉身を持ち給う天の代表者であり、天の力と仁愛を御一身に兼備したまうのである。ブ―トミ―氏が、イギリス王室について、「それは権威の像たるのみでなく、国民的統一の創造者であり象徴である」と云いしことが真であるとすれば、私はその真なることを信ずるものである。このことは日本の皇室に於いては二倍にも三倍にも強調せられるべき事柄である。

 神道の教義は、我が民族の情緒的生活に裡(うち)に二つの支配的特徴と呼ばれるものを衣装している。即ち愛国心及び忠義である。アーサ―・メイ・クナップは誠に適切にも次のように述べている。「ヘブライ文学に於いては、神の事を云っているのか国の事を云っているのか、天の事かエルサレムの事か、救世主の事か国民そのものの事か、これを見分けることはしばしば困難である」。同様の混同は、我が民族的信仰の語彙の中にも見られる。私は困惑しながら云う。と云うのも、その用語の両義性の為に、論理的なる頭脳の人からは混同と思われるだろう。しかしてそれは今なお国民的本能及び民族的感情の枠に根差しているものである。

 神道は決して体系的な哲学とか合理的な理論を主張しない。この宗教は、あるいはより正確には、この宗教によって表現せられたる民族的感情と云うべきだろうが、武士道の中に忠君愛国を十二分に吹き込んだ。これらは教義としてよりも内面的な衝動として作用した。けだし神道は中世のキリスト教とは異なり、その信者に対し殆ど何らの信仰箇条をも規定せず、同時に直截(せつ)且つ簡潔なる形式の行為の議事(agenda)を供給した。

 厳密なる意味に於いての道徳的教義に関しては、孔子の教訓は武士道の最も豊富なる淵源であった。孔子の「五倫の道」、それは君臣(統治する者と統治に従う者)、父子、夫婦、長幼、並びに朋友間について論述しているものであるが、経書が中国から輸入される以前から我が民族的本能の認めていたところであって、孔子の教えはこれを確認したに過ぎない。政治道徳に対する彼の教訓の性質は、平静仁慈にしてかつ処世術の知恵に富み、治者階級たるサムライには特に善く適合した。孔子の貴族主義的且つ保守的なる言は、これらの武門統治者の要求に善く適応した。

 孔子に次ぐ孟子も武士道の上に大なる権威をもって修得された。孟子の力強くしてかつしばしばすこぶる平民的なる説は、仁慈I的性質の者には甚だ魅力的であった。且つ、それは時には現存社会秩序に対して危険思想であり、反逆的であるとも考えられた。故に、彼の著書は久しい間、禁書となった。しかるに、この賢人の言はサムライの心に永久に宿ったのである。

 孔孟の書は青少年の主要なる教科書であり、又大人間の議論に於ける最高権威であった。これら諸賢の古書を知っているだけでは、しかしながら、高い尊敬を払われなかった。孔子を知的に知っているに過ぎざる者をば、「論語読みの論語知らず」と嘲(あざけ)る諺がある。典型的なる或るサムライ(西郷南州)は、文学の物知りをば「書物の虫」と呼んだ。他の或る人(三浦梅園)は学問を臭き野菜に例え次のように述べている。「学問は良き菜のようなり。能く臭みを去らざれば用い難し」。又或る人曰く、「少し書を読めば少し学者臭し。余計に書を読めば余計に学者臭し。困り者なり」。その意味するところは、知識と云うものは、これを学ぶ者の心に同化せられ、その品性に現われたる時に於いてのみ真に知識となると云うにある。

 知的専門家は機械であると考えられた。知識そのものは倫理的情動に従属するものと考えられた。人間並びに宇宙は等しく霊的かつ倫理的であると思惟せられた。武士道は、ハックスレ―の判定即ち「宇宙の進行は道徳性を有せず」とする言を容認することができなかった。武士道は、かかる種類の知識を軽んじた。知識はそれ自体を目的として求むべきではなく、叡智獲得の手段として求むべきであるとみなした。それ故に、この目的にまで到達せざる者は、注文に応じて詩歌名句を吐き出す便利な機械に過ぎざるものとみなされた。かくして、知識は人生における実践躬行と同一視せられ、しかしてこのソクラテス的教義は中国の哲学者王陽明に於いて最大の説明者を見出した。彼は、知行合一を繰り返して倦むことを知らなかった。

 この問題を論ずるに際し、暫く余論に入ることを許して貰いたい。それは最も高潔なる武士の中で、この哲人の教訓によって強い影響を受けた者が少なくないからである。西洋の読者は、王陽明の著述の中に新約聖書との類似点の多いことを容易に見出すであろう。特殊なる用語上の差異さえ認めれば、「まず神の国と義の国とを求めよ。さらば全てこれらの物は汝らに加えられるべし」と云う言は、王陽明のほとんどのページにも見出される思想である。

 或る日本人の門弟(三輪執斎)は次のように述べている。「天地生々の主宰、人に宿りて心となる。故に心は活き物にして、常に照々たり」。「その霊明人意に渡らず」。「自然より発現して、よくその善悪を照らすを良知と云う。かの天神の光明なり」。これらの言が何と、アイザック・ベニントンもしくは他の神秘哲学者らの文章と実によく似た響きを持っていることか。私は、神道の簡潔なる教義に表現せられたる如き日本人の心性は、陽明の教えを受け入れるのに特に適していたと思いたい。彼は、その良心無謬説をば極端なる超自然主義にまで押し進め、ただに正邪善悪の差別のみならず、心理的諸事実並びに物理的諸現象の性質を認識する能力をさえ良心に帰している。彼は、理想主義に徹入することバ―クレイやフィヒテに劣らず、人知の外に物象の存在するを否定するにまで至った。彼の学説は、唯我論について非難せらるる全ての論理的誤謬を含むとしても、強固たる確信の力を有し、もって個性の強き性格と平静なる気質とを発達せしめたるその道徳的意義は、これを否定し得ざるところである。

 かくの如く、その淵源の何たるを問わず、武士道が自己に吸収同化したる本質的な原理は僅かにして且つ簡潔なものであった。僅かにして簡潔ではあったが、我が国民史上最も不安定なる時代に於ける最も不安なる日々に於いてさえ、安固たる処世訓を供給するには十分であった。我々の祖先たる武人の健全純朴なる性質は、古代思想の大路小路より抜き集めたる平凡かつ断片的なる教訓の穂束から彼らの精神の十分なる糧(かて)を引き出し、且つ時代の要求の刺激の下に、これらの穂束から新しくかつ比類なき型の男らしさの型を形成して行ったのである。(これが武士道である)

 鋭敏なるフランスの学者・ド・ラ・マズリエール氏は、16世紀の日本の印象を要約して曰く、「16世紀の中頃に至るまで、日本に於いては、政治も社会も宗教も全て混乱の中にあった」。しかし、内乱、野蛮時代に帰る如き生活の仕方、各人が各人の権利を維持する必要。これらが、かの人たちを生み出した。テ―ヌの賛美するところによれば、16世紀のイタリア人を「勇敢なる独創力、急速なる決心と決死的なる着手の習慣、実行と忍苦との偉大なる能力」の持主としている。日本に於いてもイタリ―に於けると同様、中世の沃野なる生活風習は、人間をば「徹頭徹尾闘争的抵抗的なる」偉大なる動物となした。しかして、この事こそ、日本民族の原理的な資質、即ち彼らの精神並びに気質に於ける著しき多様性が、16世紀に於いて最高度に発揮せられた理由である。インドに於いて又中国に於いてさえ、人々の間に存する差異は主として精力もしくは知能の程度であるのに反し、日本に於いてはこれらのほか性格の独創性に於いても差異がある。

 さて、個性は優秀なる民族並びに発達せる文明の徴(しるし、sign)である。二イチエの好んだ表現を用いるならば、アジア大陸に於いては、その人を語るはその平原を語るのであり、日本並びにヨーロッパに於いては特にその山々によって人を代表せしめる。そう云い得るだろう。ド・ラ・マズリエール氏が評論の対象とした人々の一般的諸特性について、これから筆を進めよう。

れんだいこのカンテラ時評№1030  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 5月13日

 【第三章 義又は正義(RECTITUDE OR JUSTICE)】

 義はサムライの法典中最も厳格な掟(おきて)(precept)である。サムライにとって卑劣な行動、邪(よこしま)な請負ほど忌むべきものはない。義の観念は、それが狭隘(きょうあい)であると云う面で誤用されることもある。

 或る著名な武士(林子平)は、これを決断力と定義し次のように述べている。「義は、行為のある過程における決断力である。それは道理に基づき優柔不断を捨てた心を云うなり。死すべき場合には死し、討つべき場合には討つことなり」。

 或る者(真木和泉守)は次の如く述べている。「義は、人の体を堅固にして背筋を伸ばしめる骨の如し。骨なくんば首も正しく上にあることを得ず、手も動くことを得ず、足も立つを得ず。されば、義を欠けば、人は才能ありとても、学問ありとても、サムライとしての世に立つことを得ず。義の嗜みを欠いては何事も水泡に帰す」。

 (注)真木和泉守(まきいずみのかみ)とは幕末の尊攘派の武士。筑後久留米水天宮の祠官であったが、尊王攘夷論の影響を受け、脱藩して尊攘活動の指導者となる。蛤御門の変に敗れて自刃した人。引用文は次の一節からのものである。概要「士の重んずることは義なり。義は例えて言わば、人の体を堅固にして背筋を伸ばしめる骨の如し。骨なくんば首も正しく上にあることを得ず、手も動くことを得ず、足も立つを得ず。されば、義を欠けば、人は才能ありとても、学問ありとても、サムライとしての世に立つことを得ず。義の嗜みを欠いては何事も水泡に帰す。義あれば不骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり」。

 孟子は、「仁は人の心なり。義又は実直は、その踏む道なり」と述べている。孟子が嘆じて曰く、「嘆かわしきかな。その道を捨てて由らず。その心を放って求めるを知らず。人、鶏犬の放つあらば即ちこれを求めるを知る。心を放つあるも求むるを知らず」。「鏡を持て見る如く朧(おぼろ)ながら、ここに保持し得ざるか」。

 彼に遅れること三百年、国を異にして出でたる一人の大教師(イエスキリスト)が比喩して提起した。「既に失せし義の道を見いだす者あらんや」。論点から脱線した(もとへ)。孟子によれば、義とは、人が失われたる楽園を再び取り戻す為に歩むべき直くかつ狭き道である。

 封建時代の末期には、泰平が長く続いた為に武士階級の生活に余暇が生じ、これと共にあらゆる種類の遊興と技芸の嗜みを生じた。しかしかかる時代に於いてさえ、正直,清廉(せいれん)の人を意味する.義士なる通称は、学問もしくは芸術の堪能を意味する如何なる名称よりも勝れたるものと考えられていた。47忠臣士は、我が国民の大衆教育上しばしば引用せられるが、世間では俗に47義士の通称で知られている。詐術が軍略として通用し、正真正銘の虚偽が兵略とされる時代にありては、この実直正直なる男らしき徳は最大の光輝をもって輝いた宝石であり、人の最も高く称賛したるところのものである。

 義は勇と双子の兄弟であり共に武徳である。しかし、勇について述べるに先立ち、私は、暫くの間、義理について述べよう。義理は義からの分岐と見るべき語であって、初めはその原型から僅かだけ離れたに過ぎなかったが、次第に距離を生じ、遂に世俗の用語としてはその本来の意味を離れてしまった。義理と云う文字は正義の道理の意味であるが、時を経るに従い、世論が履行を期待する漠然たる義務の感を意味するようになった。その本来の純粋なる意味においては義理は単純明瞭なる義務を意味した。故に、義理とは、両親、目上の者、目下の者、一般社会等々に負うものを云う。これらの場合において義理とは義務である。何となれば、義理とは、正義の事由が我々に為すことを要求し、かつ命令するところ以外の何ものでもないからである。正義の事由が我々の絶対命令であるべきではないのか。

 義理の本来の意味は義務に他ならない。しかして、私は、義理と云う語のできた理由は次の事実からであると敢えて云う。即ち、我々の行為、例えば親に対する行為に於いて、唯一の動機は愛情であるべきであるが、それの欠けたる場合、孝を命ずる為には何か他の権威がなくてはならぬ。そこで人々はこの権威を義理に於いて構成した。彼らが義理の権威を形成したことは極めて正当である。何となれば、もし愛情が徳行を刺激するほど強烈に働かない場合には人は知性に助けを求めねばならない。即ち、人の理性を働かして、正しく行為する必要を知らしめねばならない。同じことは他の道徳的義務についても云える。即席の義務は厄介なものになる。正義の事由は我々の忌避を防ぐ為に作動する。義理をかく解する時、それは厳しき監督者であり、鞭を手にして怠惰なる者を打ちてその仕事を遂行せしめる。義理は倫理に於ける第二義的の力であり、動機としてはキリスト教の愛の教え(それは法である)に甚だしく劣る。

 私は、義理は人為的社会の諸条件から生れ出たものであると看做す。そういう社会では、偶然的なる生まれや実力に値せざるえこひいきが階級的差別を生み出し、その社会的単位が家族であり、年長は才能の優越以上に尊ばれ、自然の情愛はしばしば恣意的なる習慣に屈服しなければならなかった。この大変なわざとらしさの故に、義理は時を経るうちに堕落して、次にのべるようなことを説明したり是認したりする時に呼び出される漠然たる妥当感となったのである。即ち、例えば、母は長子を助ける為に必要とあらば他の子供を皆犠牲にせねばならぬのは何故か。あるいは又娘は父の放蕩の費用を得る為に貞操を売らねばならぬのは何故であるか等々。私見では、義理は正義の事由として出発したが、しばしばこじつけ論に屈服した。それは非難を恐れる臆病にまで堕落した。

 私は、スコットが、愛国心について「それは最も美しきものであると同時に、しばしば最も疑わしきものであって、他の感情の仮面である」と書いていることに言及したい。 正当事由がより以上より以下に運用される時、義理は驚くべき言葉の乱用により偽称となる。義理はその翼の下にあらゆる種類の詭弁(きべん)と偽善とを宿した。義理は、もし武士道が鋭敏にして正しき勇気感、果敢と忍耐の精神を持ちあわせていなかったなら、たやすく卑怯者の巣窟と化したであろう。

れんだいこのカンテラ時評№1031  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 5月13日

 【第四章 勇気、その勇猛さと忍耐の精神(COURAGE, THE SPIRIT OF DARING AND BEARING)】

 我々が踏み行うべきにして戻るべき「勇気、その勇猛さと忍耐の精神」を検討してみよう。勇気は、義の為に行われるのでなければ徳の中に数えられるに殆ど値しない。孔子は、論語に於いて「義を見て為さざるは勇なきなり」と説いた。その常用の論法に従い消極的に勇の定義を下している。曰く「正しきことは行われるべし」。且つ「勇の欠如の議論に耽ることをせざる勿れ」としている。この格言を積極的に云い直せば、「勇とは正しきことを為すことなり」と云うことになる。

 あらゆる種類の危険を冒し、一命を危うくし、死の顎(あご、あざと)に飛び込む。これらはしばしば勇気と同一視せられ、しかして武器を取る職業においてはかかる猪突的行為(シェイクスピアが「勇気の私生児」と命名している)が不当に喝采された。しかし、武士道の教訓上のものではない。正しき武士道に於いては、死に値せざる事の為に死するは「犬死に」と呼ばれた。

 水戸の義公曰く、「戦場に駆け入りて討ち死にするはいと易き技にて、いかなる無下の者にても為し得らるべし」。続けて曰く「生くべき時は生き死すべき時にのみ死するを真の男と云うなり」。水戸の義公はプラトンの名を聞いたことさえなかったが、プラトンは勇気を定義して「恐るべきものと恐るべからざるものとを分別することなり」と述べている。

 (注)水戸光圀(黄門)は、こう述べている。「一命を軽んずるは士の職分なれば、さして珍しからざる事にて候、血気の勇は盗賊も之を致すものなり。侍の侍たる所以はその場所を退いて忠節に成る事もあり。その場所にて討死して忠節に成る事もあり。これを死すべき時に死し、生くべき時に生くといふなり」。

 西洋に於いて、道徳的勇気と肉体的勇気との間に立てられた区別は、我が国民の間にも久しき以前から認められていた。いやしくもサムライの少年にして、「大義の勇」と「匹夫の勇」について聞かざりし者があるだろうか。剛毅、不撓不屈、大胆、自若泰然、勇気等のごとき心性は、少年の心に最も容易に訴えられ、かつ実行と模範とによって訓練され得るものであって、幼児の頃から早くに励みとせられたる、いわば最も知られたる徳であった。小児は、未だ母の懐を離れざるに、既に軍記(いくさ)物語を繰り返し聞かされた。もし何かの痛みによって泣けば、母は子供を叱って、「これしきの痛みで泣くとは何と云う臆病者よ。戦場で汝の腕が切り取られたならばどうします。切腹を命ぜられたる時はどうするのです」と励ました。

 「先代萩」の千松がいじらしくも我慢したる昔話は、人のあまねく知るところである。ドラマでは次のように云わしめている。「籠に寄り来る親鳥の、餌ばみをすれば子雀の、嘴(くちばし)さしよるありさまに、小鳥を羨む幼心にも、サムライの子はひもじい目をしてでも我慢するのが忠義じゃ」。

 我慢と勇気の話はお伽話の中にもたくさんある。しかし、少年に対し、敢為自若の精神を鼓吹する方法は、決してこれらの物語に尽きなかった。両親は、時には残酷と思われるほどの厳しさをもって子供の胆力を錬磨した。「獅子はその児を千じんの谷に落す(原文は、「熊は我が子を峡谷へ落す」)」。彼らは、サムライの子を艱難の険しき谷へ投じ、シスュポス的苦役に駆り立てた。時として食物を与えず、もしくは寒期に晒すことも、忍耐を学ばしめるに極めて有効なる試練であると考えられた。

 幼少の児童が伝言を命じられて、まったく未知の人に派遣された。あるいは日の出前に起き、朝食前に厳寒の時期に素足で師の家に通い素読の稽古に出席させられた。又月に一、二度天満宮の祭日等に、少数の少年が集まって徹夜で声高く輪唱させられた。あらゆる種類の薄気味の悪い場所、処刑場、墓場、化け物屋敷等に出掛けることは、少年が好んで為す遊戯であった。斬首の刑が公開で行われた時は、少年はその気味の悪い光景を見にやられたのみでなく、夜暗くなってから単身その場所を訪れ、さらし首に印をつけて帰ることを命ぜられた。この超スパルタ式「胆(きも)を練る」方法は現代の教育家を驚かせて戦慄と疑問を抱かしめ、人の心の優しき情緒をば蕾(つぼみ)のうちに摘み取る野蛮の方法ではあるまいかとの疑問を抱かしめるだろうか。次章で、勇気について武士道が持つ他の諸観念を観察する。

 勇気が人の魂に宿れる姿は平静即ち心の落着きとして現われる。泰然自若は平静状態に於ける勇気である。泰然自若は、敢斗が勇気の動態的なものであるとすれば、その静態的表現である。真に勇敢なる人は常に沈着である。彼は決して驚愕に襲われず、何ものも彼の精神の平静を紊(みだ)さない。戦闘の最中にあっても彼は冷静であり、大変事の真っ只中にあっても心の平静を保つ。地震も彼を震わさず、彼は嵐に遭っても笑う。

 我々は、彼を真に偉大なる人として称賛しよう。彼は、危険や死の脅威に面しても、沈着を失わない。例えば、差し迫る危険の下でも詩を詠(よ)み、死に直面しても歌を吟ずる。その筆蹟もしくは声音が従容(しょうよう)として何ら平生(へいせい)と異なるところなきは、心の度量大なることの何よりの証拠である。人はこれを「余裕」と呼ぶ。それは屈託せず、混雑せず、更に多くを容るる余地ある心である。

 信ずべき史実として伝えらるるところによれば、江戸城の創建者たる大田道灌が槍にて刺された時、彼が歌を好むを知れる刺客は、刺しながら次の如く上の句を詠んだ。「かかる時さこそ生命の惜しからめ」。これを聞いて、まさに息絶えんとする英雄は、脇に受けたる致命傷にも少しもひるまず、下の句を続けた。「かねてなき身と思ひ知らずば」。勇気にはスポーツ的の要素さえある。常人には深刻な事柄も勇者には遊戯に過ぎない。それ故、昔の戦(いくさ)に於いては、相闘う者同士が戯言(ざれごと)の遣り取りをしたり、歌合戦を始めたことも決して稀ではない。合戦は蛮力の争いだけではなく、同時に知的の競技であった。

 11世紀末、衣川の合戦はかかる性質のものであった。東国の軍は破れ、その将安倍貞任(さだとう)は逃げた。追手(おって)の大将(源義家)が彼に迫って声高く叫んだ。「汚(きたな)くも敵に後ろを見するものかな。暫し返せや」。貞任は、馬を控えた。これを見て、勝ち鬨挙げる首領の義家は大声で詠んだ。「衣のたては綻(ほころび)びにけり」。その声が終るか終らざるに、敗軍の将は従容として上の句を付けた。「年を経し糸の乱れの苦しさに」。義家は、引き絞りたる弓を俄かに弛(ゆる)めて立ち去り、掌中の敵の逃げるに任せた。人怪しみてその故を問いたれば、敵に激しく追われながら心の平静を失わざる剛の者を辱(はずかし)めるに忍びず、と答えたと云う。

 プルトゥスの死に際し、アント二ウス及びオクタヴィウスの感じたる悲哀は勇者の普遍的な経験であった。上杉謙信は、14年間に亘って武田信玄と闘ったが、信玄の死を聞くや、「最高の好敵手」の失せしことを慟哭(どうこく)した。謙信の信玄に対する態度には終始高貴なる模範が示された。信玄の国は海を隔たること遠き山国であって、塩の供給をばしばしば東海道の北条氏に仰いだ。北条氏は信玄と公然戦闘を交えていたのではないが、彼を弱める目的をもってこの必需品の交易を禁じた。謙信は、信玄の窮状を聞き、書を寄せて曰く、「聞く北条氏、公を苦しむるに塩をもってすと。これ極めて卑劣なる行為なり。我の公と争うところは、弓矢にありて米塩にあらず。今より以後塩を我が国に取れ。多寡ただ命のままなり」。これは、かの「ローマ人は金をもって戦わず、鉄をもって戦う」と云いしカミラスの言に比してなお余りある。

 二―チェが、「汝の敵を誇りとすべし。しからば敵の成功はまた汝の成功なり」と云えるは、サムライの心情を語れるものである。実に、勇と名誉とは等しく、平時に於いては友たるに値する者のみを、戦時に於ける敵として持つべきことを要求する。勇がこの高みに達した時、それは仁に近づく。

れんだいこのカンテラ時評№1032  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 5月14日

 【第五章 仁、その惻隠(そくいん)の心(BENEVOLENCE, THE FEELING OF DISTRESS)】

 愛、寛容、愛情、同情、憐憫(れんぴん)は、古来最高の徳として即ち人の魂の属性中最も高きものとして認められていた。仁は二様の意味に於いて王侯の徳と考えられた。一つは高貴なる精神に伴う多くの属性中の王侯的なものとして、もう一つは特に王侯的地位に相応(ふさわ)しいものとして。我々は、恐らく世界各国民皆がこれを知っているからして仁を感知するのに敢えてシェイクスピアを必要としない。それを記すのに彼を必要としたのである。そのシェイクスピアは次のように記している。「仁は王冠よりも善く王者に似合う。仁は王杓(しゃく)を持ってする支配以上のものである」。

 孔子も孟子も、人を治める者の最高の必要条件は仁に存することを何度繰り返したことか。孔子曰く、「君子はまず徳を耕(たが)やす。君子に徳あれば人群がる。人群がれば国となる。国あればこれ財あり。財あればこれ用あり。徳は本也。利は末也」(大学)。又曰く、「上、仁を好みて、下、義を好まざる者未だあらざるなり」(大学)。孟子は、これを祖述して曰く、「不仁にして国を得る者はこれあり。不仁にして天下を得る者は未だこれあらざるなり」。又曰く、「天下心服せずして王たる者は未だこれあらざるなり」。両者共に、王者たる者の不可欠要件を定義して次のように述べている。「仁とは人なり」(中庸)。

 封建制の政治は武断主義に堕落し易い。その下に於いて最悪の種類の専制から我々を救いしものは仁であった。被治者が「生命と肢体」を全く捧げる時、残るものは治者の自己意思のみとなり、その自然的結果は絶対主義の発達となる。これはしばしば東洋的専制と呼ばれる。あたかも西洋の歴史には一人の専制者もいなかったかの如くに。私は、如何なる種類の専制政治をも支持する者では断じてない。しかし、封建制を専制政治と同一視するのは誤謬である。

 フレデリック大帝が「王は国家の第一の召使である」と記した時、法律学者たちが自由発達の一新時代が来たと評したことは正しい。不思議にもこれと時を同じくして、東北日本の僻(へき)地に於いて、米沢藩の上杉鷹山がまことに同じ宣言をしている。その宣言で、封建制が決して暴虐圧政にあらざることを示している。曰く「国家人民の立てたる君にして、君の為に立てたる国家人民にはこれなく候」。封建君主は、臣下に対して相互的義務を負うとは考えなかったが、自己の祖先並びに天に対して高き責任を感じていた。彼は臣下の父であり、民は天より保護を委ねられたる子であった。中国の古典「詩経」に曰く、「殷の未だ諸々を失わざるとき、よく上帝に配せり」。又孔子は「大学」に於いて、「民の好むところこれを好み、民の悪(にく)むところこれを悪む、これをこれ民の父母と云う」と教えた。かくして民衆の世論と君主の意思、もしくは民主主義と絶対主義とは融合した。

 或る意味で、さほど認知されていないが、武士道は通常考えられているとは異なる意味に於いて父権政治を受け入れ且つ確認していた。それは又関心のやや薄い叔父政治(即ちアンクル・サムの政治)に相対する意味においても親父的だった。専制政治と父権政治との差は次の点にある。即ち、前者にありては人民は嫌々ながら服従するに反し、後者にありては「かの誇りをもってせる帰順、かの品位を保てる従順、かの隷従の中にありながら高き自由の精神の生くる心の服従」である。

 古諺(こげん)に云うところの次の章句は全然誤謬とは云えない。イギリス国王のことを、「悪鬼の王である。何となれば彼の臣下はしばしば君主に対して反逆、かつ奪位するが故に」。フランス国王に対しては「間抜けの王である。何となれば租税公課を無限に負わす故に」。スペイン国王に対しては「人間の王と云う称号を与える。何となれば臣民が喜んで服従しているから」。もう良かろう(これくらいにしよう)。

 アングロ・サクソン人の心には、徳と絶対権力が調和するなど不可能な語として響くだろう。ポべドノスツエフは、イギリス社会の基礎と他のヨーロッパ諸国の社会との対照を明瞭にして、大陸諸国の社会は共同利害の上に組織せられているに反し、イギリス社会の特徴は強度に発達したる独立の人格にありとした。このロシアの政治家は、ヨーロッパ大陸諸国ことにスラブ系諸国民の間に於いては、個人の人格は何らかの社会的団結、終局に於いては国家に依存すると述べた。

 このことは日本人については特に然りである。この故に、我が国民にありては、君主の権力の自由なる行使はヨーロッパに於けるが如くに重圧と感ぜられざるのみでなく、人民の感情に対する親父的考慮をもって概して緩和せられているのである。ビスマルクは云う。「絶対政治の第一要件は、治者が無私、正直にして義務感強く、精力的にして内心の謙遜を持つことである」。この問題について、なお一つの引用を為すことを許されるならば、私はドイツ皇帝がコブレンツに於いて為した演説の一句を挙げたい。曰く、「王位は神の恩恵により、且つ神のみに対する重き義務と巨大なる責任を伴う。いかなる人も、大臣も、義会も、国王からこれを免除し得ないのである」。

 仁は、柔和なる徳であって、母の如くである。真直なる道義と厳格なる正義とが特に男性的であるとすれば、慈I愛は女性的なる柔和さと説得性を持つ。我々は、無差別的なる慈愛に溺れることなく、正義と道義でこれに味付けすべきことをしないように戒められた。伊達正宗が「義に勝れば固くなる。仁に過ぎれば弱くなる」と道破せし格言は、人のしばしば引用するところである。幸いにも慈愛は美であり、しかも稀有なものではない。「最も剛毅なる者は最も柔和なる者であり、愛ある者は勇敢なるものである」とは普(あまね)き真理である。

 勇者の優しさを意味する「武士の情け」なる言は、直ちに我が国民の高貴なる感情に訴えた。サムライの仁愛が他の人間の仁愛と種別的に異なる訳ではない。しかし、武士の場合にありては愛は盲目的の衝動ではなく、正義に対して適当なる配慮を払える愛であり、又単に或る心の状態としてのみでなく、生殺与奪の権力を背後に有している。経済学者が有効なる需要と有効ならざる需要とを説く如く、我々は武士の愛をもって有効なる愛と云い得るであろう。けだしそれは相手方に利益もしくは損害を加え得る実行力を含むが故である。

 武士は、その有する武力、並びにこれを実行に移す特権を誇りとしたが、同時に孟子の説きし仁の力に対し全き同意を表した。孟子曰く、「仁の不仁に勝つは、なお水の火に勝つが如し。今の仁を為す者はなお一杯の水を持って一車薪(まき)の火を救うが如き也」。又曰く、「困窮難儀の心は仁の始めなり。故に、情け深き人は、苦しみ且つ困窮難儀している者に対して思いやりが深い」。かく、孟子は、かの道徳哲学の基礎を同情に置きたるアダム・スミスに遠く先んじて、既にこれを説いたのである。

 一国に於ける武士の名誉の法典が他国のそれと如何に密接に一致するかは、実に驚くべきものがある。換言すれば、多くの非難を浴びせられたる東洋の道徳観念の中にも、ヨーロッパ文学の最も高貴なる格言と符節を合わせるものあるを発見するのである。よく知られている詩句「破れたる者を安んじ、傲(たか)ぶる者を挫(くじ)き、平和の道に立つること、これぞ汝が技」を日本人紳士に示せば、彼は直ちにマンチェアの詩人(ヴェルギリウス)を咎めて、自国文化の剽窃者と為すかも知れない。弱者、劣者、敗者に対する仁は、特にサムライに相応しき徳として称賛せられた。

 日本美術の愛好者は、一人の僧が後ろ向きに馬に乗る絵を知っているであろう。これはかっては武士であり、盛んなりし日にはその名を聞くさえ恐れし猛者(もさ)であった。須磨の浦の激戦(西暦1184年)は、我が歴史上最も決定的な合戦の一つであったが、その時、彼は、一人の敵を追いかけ、逞しき腕に組み伏せた。かかる場合、組み敷かれたる者が高き身分の人であるか、もしくは組み敷いた者に比し力量劣らぬ者でなければ、血を流さぬことが戦の作法であったから、この猛き武士は己の組み敷ける人の名を知ろうとした。しかし、名乗りを拒むので兜(かぶと)を押し上げて見るに、髭もまだなき若者の美麗なる顔が現われた。武士は驚き、手を緩めて彼を助け起し、父親の如き声でこの少年に「行け」と云った。「あな美しの若殿や。御母の許へ落ちさせ給え。熊谷の刃は和殿の血に染むべきものならず。敵に見咎められぬ間にとくとく逃げ延び給え」。

 若き武士は去るを拒み、双方の名誉の為にその場にて己の首を討たれよと、熊谷に乞うた。老朽の熊谷が霜置く頭に振り翳したる白刃は、これまであまたたび人の玉の緒を断ちし刃であった。しかし、彼の猛き心も砕け、我が子が今日の初陣(ういじん)に貝鐘諸共に先駆けしたる姿も目の当たりに映じて、武夫(もののふ)の強き腕も慄(おのの)いた。再び落ちさせ給えと願った。敦盛(あつもり)これを聴かず、且つ味方の軍兵の近づく足音を聞いて叫んだ。「今はよも逃し参らせじ。名もなき人の手に失われ給わんより、同じうは直実が手に掛かりて後の御孝養をも仕(つかまつ)らん。一念阿弥陀仏、即滅無量罪」。その瞬間、太刀空中に閃き、その下るや刃は若武者の血に染めて紅であった。戦が終り熊谷は凱旋したが、彼はもはや勲功名誉を思わず、弓矢の生涯を捨て、頭を剃り、僧衣を纏(まと)いて、日入る方阿弥陀の浄土を念じ、西方に背を向けじと誓いつつ、その余生をば神聖なる行脚(あんぎゃ)に託したのである。

 批評家は、この物語の欠点を指摘するだろう。枝葉末節に於いては非難に堪えざるものがあるかも知れないが、いずれにしても、優しさ、憐れみ、愛がサムライの最も血生臭い武功を美化する特質なりしことを、この物語が示すことには変わりがない。「窮鳥、懐(ふところ)に入る時は、猟夫(かりゅうど)もこれを殺さず」と云う古い格言がある。特にキリスト教的であると考えられた赤十字運動が、あれほど容易く我が国民の間に地保を占めたる理由の説明は、概ねこの辺りに存するのである。

 吾人は、ジュネーブ条約(万国赤十字条約)を耳にするに先立つ数十年前、我が国最大の小説家である馬琴の筆により、敵の傷者に医療を加える物語に親しんだ。尚武の精神並びに教育にて著名なりし薩摩藩では、青年の間に音楽を嗜む風が行われていた。音楽と云っても、「かの血と死との騒々しき前触れ」たるラッパを吹き太鼓を打ちて、虎の行動の真似をするように刺激するのではなく、哀れ優しき琵琶を弾じて猛き心を和らげ、思いを血雨の外に馳せしめたのである。ポリピウスの語るところによれば、アルカディアの憲法に於いては、30歳以下の青年は全て音楽を課せられた。けだしこの柔和なる芸術によって、風土の荒涼より来たる粗剛の性質を緩和せんとしたのである。アルカディア山脈のこの地方に残忍性の見られざる理由を、彼は音楽の影響に帰している。

 日本に於いて武士階級の間に優雅の風が養われたのは、薩摩だけのことではない。白河楽翁公が心に浮かぶままを書き記せる随筆の中に次のような言葉がある。「枕に通うとも咎なきものは花の香り、遠寺の鐘、夜の虫の音はことに哀れなり」。又曰く、「憎くとも許すべきは花の風、月の雲、うちつけに争う人は許すのみかは」。これらの優美なる感情を外に表現する為に、否むしろ内に涵養するが為、武士の間に詩歌が奨励された。それ故に我が国の詩歌には悲壮と優雅の強き底流がある。

 或る田舎サムライ(大鷲文吾)の物語として、人に知られたる逸話がある。彼が俳諧を勧められ、「鷲の音」と云う題にて最初の作を試みたが、猛き心が裏切って、「鷲の初音を聞く耳は別にしておく武士かな」と云う拙作をば投げ出した。彼の師(大星由良之助)は、この粗野なる感情にも驚かず彼を励ました。遂に或る日、彼の魂の音楽が目覚め、鷲の妙音に応じて、「武士(もののふ)の鷲聞いて立ちにけり」との名吟を得た。

 ケルナ―は、戦場に傷つき倒れし時、有名なる「生命への告別」を賦した。彼の短命なる生涯におけるこの英雄的行為を我々は称賛欣慕するが、同様の出来事は我が国の合戦に於いて決して稀ではなかった。我が国の簡潔なる詩形は、特に物に触れ事に感じて咄嗟の感情を表現するのに適している。多少の教養ある者は皆和歌俳諧を事とした。戦場に馳せる武士が駒を止め、腰の矢立てを取りだして歌を詠み、しかして戦場の露と消えし後、兜もしくは鎧の内側からその詠み草の取り出されることも稀ではなかった。戦闘の恐怖の真っただ中に於いて、哀憐の情を換起することをヨーロッパではキリスト教が為した。それを日本では音楽並びに文学の嗜好が果たしたのである。優雅の感情を養うは、他人の苦痛に対する思いやりを生む。しかして他人の感情を尊敬することから生ずる謙譲、慇懃の心は礼の根本を為す。

れんだいこのカンテラ時評№1033  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 5月14日

 【第六章 礼儀(POLITENESS)】

 作法の慇懃(いんぎん)鄭重(ていちょう)さは、日本人の著しき特性として外人観光者の注意を惹(ひ)くところである。礼儀は、もしそれが単に良き趣味を損なうことを恐れて為されるに過ぎざる時は貧弱なる徳である。然るに、真の礼は、他人の感情に対する同情的思いやりを目に見える形で表現することである。それは又、事物の適合(fitness)に対する正当なる配慮を含蓄している。従って社会的地位に対して正当なる配慮をする。何となれば、社会的地位は、何ら財物にものを云わせての差別を表わすものではなく、本来は実際の功労に基づく弁えであるからである。

 礼の最高の形態は、ほとんど愛に近づく。我々は敬意をもって云い得る。「礼は、長い苦難に耐え、親切にして、人を妬(ねた)まず、自慢して高ぶらず、思い上がらず、自身の利益を求めず、誰彼に動かされず求めず、容易に人をいらまかせず、悪事を企まない」。ディーン教授が、人の性の六つの要素を挙げたる中、礼に高き地位を与え、これをもって社交の最も成熟せる果実であると看做したことも又怪しむに足りない。

 かく礼は尊ばれるけれども、私は、これを諸徳の第一位に置こうとは思わない。 これを分析すれば、我々は、礼が、より高き階級の他の諸徳と相関関係にあるを見出すことになるだろう。そもいずれの徳が孤立して存在し得ようか。礼は、武門の特殊なる徳として称賛せられ、その値する以上に高き尊敬を払われたけれども、あるいはむしろ払われたが故に偽物(にせもの)が起って来た。孔子は、虚礼の礼にあらざるは、あたかも音響の音楽に於けるが如くであることを繰り返し教えた。

 礼が社交の不可欠要件にまで高められる時、青少年に正しき社交的態度を教える為に、行儀作法の詳細なる体系が制定せらるるに至るはけだし当然であろう。人に挨拶する時には如何に身を曲げるべきか、如何に歩み着席すべきかは最大の注意をもって教えられ、且つ学ばれた。テーブルマナーは学問にまで発達した。茶を煎じ、喫することは礼式にまで高められた。教養ある人は当然、全てこれらの事に通暁(つうぎょう)せるものと期待せられた。ヴェブレン氏がその快著の中で、礼義をば「有閑階級生活の産物であり、象徴である」と云えるは誠に適切である。

 私は、ヨーロッパ人が、我が国民の詳密なる礼法を卑しめて云う批評をしばしば耳にする。曰く、「礼は我々の思考を余りに多く奪うものであり、その限りにおいて、これが厳格なる遵守は馬鹿げている」と。儀礼の中に不必要なる末節の規定があることを私は認める。しかし、西洋が絶えず変化する流行に従うことと比較して、果たしていずれが多く馬鹿げているか、私の心には甚だはっきりしない問題である。流行でさえ、私は単に虚栄の移り気であるとは考えない。反対に却って、私は、それらを、美に対する人心の絶えざる探求であると見る。いわんや、私は、詳密なる儀礼をば全然つまらぬものであるとは思わない。それは、一定の結果を達成する為の最も適切なる方式として、長きに亘って実践してきた結果を表わしているものである。

 何かを為さんとする時は、それを為すに最善の道があるに違いない。しかして最善の道は、最も経済的であると同時に最も優美なる道である。スペンサー氏は、優美を定義して、動作の最も経済的なる態度であると看做した。茶の湯の作法は、茶碗、茶杓(しゃく)、茶巾(きん)等を取り扱うに、一定の方式を定めている。初心の者には、それは退屈に思える。しかし、間もなく、定められたるその方式が、結局は時間と労力とを最も省(はぶ)くものであること、換言すれば、力の最も経済的なる使用であることを発見する。それ故にスペンサーの定義に従えば「最も優美」と云うことになる。

 社交的礼法の精神的意義は、これを「衣服哲学」の用語を借りて云うならば、礼儀作法は精神的規律の単なる外皮であると云って良いのだが、その外見が我々に信ぜしめるところに比して遥かに大である。我々は、スペンサー氏の例に倣(なら)い、我が国民の礼法についてその起源並びにこれを成立せしめたる道徳的動機の跡を尋ねてみよう。しかし、これは、私が本書に於いて為そうと努むるところではない。私の強調せんと欲するは、礼儀の厳格なる遵守の中に含まれている道徳的訓練である。

 私は、礼儀作法が枝葉末節に至るまで詳細に規定されたと述べた。そういうことで、流儀を異にする諸種の流派を生じさせることになった。しかし、これらは全て究極の本質に於いては一致しているのであって、最も著名なる小笠原流宗家(小笠原清務)の述べたる言葉によれば次のように云える。「礼儀の要は心を練るにあり。礼をもって端坐すれば、乱暴狼藉者が剣を取りて向かうとも害を加えること能わず」。これを換言すれば、絶えず正しき作法を修むることにより、人の身体の全ての部分及び機能に完全なる秩序を生じ、身体と環境とが完く調和して肉体に対する精神の支配を表現するに至る、と云うのである。フランス語のビアンセアンス(biensèance、語源で「正座」を意味する)も、これによれば、新たなるかつ深き意味を持つではないか。

 優美が力の経済を意味するとの言が果たして真であれば、その論理的結果として、優美なる作法の絶えざる実行は、力の予備と蓄積をもたらすに違いない。典雅なる作法は、それ故に、休息状態に於ける力を意味する。野蛮族のゴール人が、ローマを荒らしながら会議中の元老院に闖入し、尊敬すべき元老たちの髭を引っ張るの無礼を敢えて為した時、元老たちの態度が威厳と力を欠いていたことは非難されるに値すると思われる。しからば、高き精神的境地は、礼儀作法によって実際に到達し得るであろうか。何でできないことがあろう。全ての道はローマに通ずる。

 最も簡単なる事でも一つの芸術となり、しかして精神修養となりうる一例として、私は「茶の湯」(茶の儀式)を挙げよう。芸術としての喫茶。何の笑うべきことがあろう。砂に描く小児、もしくは岩に刻む未開人の中に、ラファエルやミケランジェロの芽があったのである。いわんやヒンズー教の隠者の瞑想に伴いて始まりし茶の飲用が、宗教及び道徳の侍女にまで発達する資格を有することは、遥かに大ではないか。

 心の平静、感情の明澄、挙措の物静かさは、茶の湯の第一本質的要素であり、疑いもなく正しき思索と正しき感情の第一要件である。騒がしき群衆の姿や音響より遮断せられたる小さき室の周到なる清らかさそれ自体が、人の思いを誘って俗世を脱せしめる。清楚なる室内には、西洋の客間にあるような無数の絵画、骨董品の如くに人の注意を幻惑する者はなく、「掛け物」は色彩の美よりもむしろ構図の雄大さに我々の注意を惹く。趣味の至高の洗練が求められたる目的であり、これに反し些かの虚飾も宗教的恐怖をもって追放せられる。戦争と戦争の噂の絶えざる時代に於いて、一人の瞑想的隠遁者(千利休)によって工夫せられたという事実そのものが、この作法の遊戯以上のものたるを示すに十分である。

 茶の湯に列なる同輩は、茶室の静寂境に入るに先立ち、彼らの刀と共に戦場の凶暴、政治の顧慮を置き去って、室内に平和と友情とを見出したのである。茶の湯は礼法以上のものである。それは芸術である。それは律動的なる動作をば韻律と為す詩である。それは精神修養の実行方式である。茶の湯の最大価値は、この最後に挙げた点に存する。茶道を学ぶ者にしてその心を他の点に専らにする者も少なくない。しかし、これは茶道の本質が精神的性質のものにあらずとのことを立証するものではない。

 礼義は例え挙動に優美を与えるものに過ぎずとしても、大いに益するところがある。然るにその職能はこれにとどまらない。礼義は、仁愛と謙譲の動機より発しており、他人の感じに対する優しき感情によって動くものであるから、常に思いやりの優美なる表現である。礼の我々に要求するところは、泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶことである。かかる教訓的要求が日常生活の些細なる点に及ぶ時は、ほとんど人の注意を惹かざる小さき行為として現われる。又はよしんば注意を惹くにしても、日本在住二十年の一婦人宣教師がかって私に語りし言によれば、「恐ろしく可笑しく」見えるのである。

 もし日中炎天下に日傘をささずして戸外にあり、知り合いの日本人に会いて挨拶したとすれば、その人はすぐに帽子を取る。宜しい、それは極めて自然である。しかし、彼が対談中、自分の日傘を下ろして炎天に立ち通すということは「恐ろしく可笑しい」仕草である。何と馬鹿げたことよ。然り、もし彼の動機が、「君は陽に晒されている。私は君に同情する。もし私の日傘が十分大きければ、もしくは我々が親友の間柄であるならば、私は喜んで君を私の日傘の下に入れてあげたい。しかし、私は君を覆うことができないから、せめて君の苦痛を分かつであろう」と云うにあるのでなければ、それは本当に可笑しいことであろう。これと等しく、あるいはもっと可笑しい小さい行為が少なくないが、それらも単なる身振りだとか習慣ではない。それらは他人のもてなしを慮(おもんばか)る思慮深き感情の「体現」である。

 我が国礼法によって定められている習慣のうちで「恐ろしくおかしい」例を、もう一つ挙げよう。日本についての多くの皮相なる著者は、これをば日本国民に一般的なる何でも逆さまの習性に帰して簡単に片付けている。この習慣に接したる外国人誰でも、その場合に適切なる返答を為すに当惑を感ずることを告白するであろう。ほかでもない、アメリカで贈り物をする時には、受け取る人に向かってその品物を褒めそやす。が、日本ではこれを軽んじたり卑しめたりする。アメリカ人の底意はこうである。「これは善い贈り物です。良い物でなければ、私は敢えてこれを君に贈りません。善き物以外の物を贈るのは侮辱ですから」。

 これに対して、日本人の論理はこうである。「あなたは善い方です。如何なる善き物もあなたには相応しくありません。私があなたの足下に如何なる物を置いても、私の行為の気持ちとして以外にはそれを受け取り給わないでしょう。この品物をば物自身の価値の故にではなく、私の気持ちの印として受け取ってください。最善の贈りものでも、それをばあなたに相応しきほどに善いと呼ぶことは、あなたの値打ちに対する侮辱になるでしょう」。この二つの思想を対照すれば究極の思想は同一である。どちらも「恐ろしく可笑しい」ものではない。アメリカ人は贈り物の物としての値打ちについて語り、日本人は贈り物を差し出す精神について語っている。

 我が国民の礼義の感覚が挙措のあらゆる枝葉末節にまで現われるが故に、その中最も軽微なるものを取りて典型なりとし、これに基づいて原理そのものに批判を下すは、転倒せらるる推理の法である。食事と食事の礼法を守ることと、いずれが重きか。これについて、中国の賢人(孟子)が答えて次のように述べている。「食の重き者と礼の軽き者とを取りてこれを比せば、何ぞただに食の重きのみならんや」。「金は羽より重し。しかし、一握りの金と荷馬車一1 台分の羽とについて言及したならば、何をどう云えばよいものか」。

 方寸の木を取って、教会堂の塔上の小尖塔(せんとう)の上に置いても、これをもって方寸の木が教会堂よりも高いと云う者はなかろう。人或いは云う。「真実を語るここと礼義を守ることと、いずれがより重要であるか」。この問いに対し、日本人はアメリカ人と正反対の答えを為すであろうと。しかし、私は、信実及び誠実について述べる頃に至るまで、これに対する評言を差し控えることにする。

れんだいこのカンテラ時評№1034  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 5月15日

 【第七章 まじめさ又は誠実さ(VERACITY OR TRUTHFULNESS)】

 礼義正しさ(Politeness)がなければ、礼は茶番且つ見世物になる。伊達政宗曰く、「礼節.(Propriety)は広々と際限がないものである。礼に過ぎれば諂(へつら)いになる」。或る昔の歌人は、ポロ二ウス(Polonius)に与えた忠告の言「心だに誠の道に適(かな)いなば、折らずとても神や守らん」に於いて、彼を凌駕している。

 孔子は、「中庸」に於いて誠を尊び、これに超自然力を賦与し、ほとんど神と同視した。曰く「誠は、あらゆるものの終始なり。誠ならざれば何もなし」と。彼は更に、誠の濃厚にして悠久たる性質を熟考し、その力が、意識的に動かすことなく変化を生み出し、無為にして目的を達成することにつき滔々と述べている。中国語の「誠」と云う漢字は、「言」と「成」との結合である。人をして薪プラトン学派のロゴス説との類似を思わしむるものがある。かかる高さにまで、孔子はその非凡なる神秘的飛翔をもって達したのであった。

 嘘をつくこと、ごまかしは共に卑怯臆病とみなされた。高き社会的地位を持っていた武士は、町人や百姓よりも高い信実の標準を要求した。サムライ言葉の「武士の一言(いちごん)」は、ドイツ語のリッターヴォルト( Ritterwort)がまさしくこれに当たるが、その言の真実性に対する十分なる保障であった。武士の言葉はかかる重みを持っていた。その約束は概して書きつけ証書に拠らずして結ばれ且つ履行された。証文を書くことは彼の威厳に相応しくないと考えられた。「二言」即ち二枚舌をば、死によって償った多くの身震いさせられる物語が伝わっている。

 信実を重んずることかくの如く高く、従って真個のサムライは、誓いを彼らの名誉を引き下げるものと考えた。この点、キリスト教徒が概して彼らの主の「誓う勿れ」と云う明白なる命令を絶えず破っているのとは異なる。武士が八百万(やおよろづ)の神を呼び、もしくは刀に懸けて誓ったことを私は承知している。しかしながら彼らの誓いは決して遊戯的形式や不敬虔な間投詞にまで堕落しなかったのである。言を強める為に折に触れて文字通り血判で証した。かかる方法の説明として、私の読者に対してはゲーテのファウストの参照を求むれば足りるであろう。

 近頃、一人のアメリカ人が書を著わして、「もし普通の日本人に対し、虚言を云うのと礼を失するのといずれを取るかと質問すれば、躊躇なく“虚言”と答えるだろう」と述べた。かく云えるビ―リ―博士は、一部分は正当であり一部分は間違っている。普通の日本人のみでなく、サムライでさえも、彼の云えるが如くに答えるだろう、と云う点に於いては正しい。しかし、博士が日本語の“ウソ”と云う語を“falsehood”と翻訳して、これに過度の重みを置いた点は誤りである。

 この言葉(「うそ」と云う日本語)は、何でも真実(まこと)(truth)でなきこと、もしくは事実(本当)(fact)でなきことを示す為に用いられる。ローウェルの云うところによれば、ワーズワースは真実と事実とを区別することができなかったと云うが、普通の日本人はこの点に於いてはワーズワースと異ならない。日本人に、或いは幾らか教養のあるアメリカ人にでも、彼が君を好まないかどうか、もしくは彼が胃病であるかどうを質問して見よ。長く躊躇することなくして、「私は君を甚だ好む」とか、「私は大丈夫です、有難う」とか虚言の答えをするであろう。これに反し、単に礼儀の為に真実を犠牲にすることは「虚礼」であり「甘言、人を欺くもの」であるとされ、決して正当化されなかった。

 私は、今、武士道の信実観を語りつつあることを承知している。しかし、我が国民の商業道徳について数言を費やすことは不当ではあるまい。これについては外国の書籍、新聞に於いて多くの不平を聞いている。締りのない商業道徳は実に我が国民の名声上最悪の汚点であった。しかしながら、これを悪口し、もしくはこれが為に今国民を早急に非難する前に、それを冷静に研究しようではないか。しからば我々は将来に対する慰謝をもって報いられるであろう。

 サムライの人生に於ける全ての大なる職業中、商業ほど遠く離れたるはなかった。商人は職業の階級中、士農工商と称して最下位に置かれた。サムライは土地より所得を得、且つ自分でやる気さえあれば素人農業に従事することさえできた。しかし、帳場と算盤(そろばん)は嫌悪された。我々は、この社会的取り決めの知恵を知っている。モンテスキューは、貴族を商業より遠ざけることは、権力者の手への富の集積を予防するものとして称賛すべき社会政策たることを明らかにした。権力と富との分離は富の分配を均等に近からしめる。ディル教授は、その著「西帝国最後の世紀に於けるローマ社会」に於いて、ローマ帝国衰亡の一原因は、貴族の商業に従事するを許し、その結果として少数元老の家族による富と権力の独占が生じたことにうると論じて、我々の記憶を新たにするところがあった。

 この故に、封建時代に於ける日本の商業は、自由なる状態の下にその到達し得べかりし程度にまで発達するを得なかったのである。この職業に対する侮蔑は、おのずから社会的評判などに頓着しないような人々をその範囲内に集めた。「人を泥棒と呼べば、彼は盗むであろう」(Call one a thief and he will steal)。ある職業に汚名を付すれば、これに従事する者はその道徳をこれに準ぜしめる。 ヒュー・ブラックの云う如く、「正常の良心は、これに対して為される要求の高さにまで上がり、又これに対して期待せられる標準の限界にまで容易く下る」ことは、けだし自然である。

 商業であれ他の業であれ、如何なる職業も道徳の法典なしに行われ得ざることは付言するを要しない。封建時代に於ける我が国の商人も彼らの間に道徳の法典を有したのであり、それなくしては彼らは、たといなお胎生的状態に於いてではあったが、同業組合、銀行、取引所、銀行、保険、手形、為替等の如き基本的商業制度の発達を遂げることさえなかったのである。しかしながら、自己の職業以外の人々に対する関係に於いては、商人の生活は彼ら階級の評判に全く相応しきものであった。

 こういう事情であったから、我が国が外国貿易に開放せられた時、最も冒険的かつ無遠慮なる者のみが港に馳せつけ、尊敬すべき商家は当局者から支店開設の要求が繰り返しあったにも拘わらず、暫くの間、これを拒否し続けたのである。しからば、武士道は、商業上の不名誉の流れを阻止するに無力であったか。その点を考えてみよう。

 我が国の歴史を熟知する者は記憶するであろう如く、我が開港場が外国貿易に開かれたる後、近々数年にして封建制度は廃せられた。しかしてこれと共に武士の秩禄が取り上げられ、その代償として公債が与えられた時、彼らはこれを商業に投資する自由を与えられたのである。そこで諸君は問うであろう。「何故、彼らはその大いに誇りとせる信実をば彼らの新しき事業関係に応用し、それによって旧弊を改良し能わざしや」と。多くの高潔にして正直なる武士は新しくかつ不慣れなる商工業の領域に於いて、狡猾なる平民の競争者と競争するに際し、全然駆け引きを知らぬが為回復し難き大失敗を招き、彼らの運命について、見る目ある者は泣いても飽き足らず、感ずる心ある者は同情しても、し足りなかったのである。

 アメリカの如き実業国にありてさえ、実業家の80%は失敗するということだから、実業に就きし武士にして、新職業に成功せし者が百人中辛うじて一人であっても、驚くに足りぬではないか。武士道の道徳を商取引に適用せんとの試みに於いて、幾ばくの財産が破滅したかを認めるには時を要するであろう。しかしながら、富の道は名誉の道ではないことは誰が見てもすぐに分かった。しからば、両者の差異は如何なる点に存したか。

 レツキ―の教えたる信実の三つの誘因、即ち経済的、政治的、及び哲学的の中、第一のものは全く武士道に欠けていた。第二のものも、封建制度下の政治社会に於いては多く発達するを得なかった。正直が我が国民道徳の目録中高き地位を獲得したのは、その哲学的、しかしてレツキーの言える如く、その最高の表現に於いてであった。アングロ・サクソン民族の高き商業道徳に対する私の全ての誠実なる尊敬をもってして、その窮極の根拠を質問する時、私に与えられる答は「正直は最善の秘策なり」であり、即ち正直は引き合うと云うのである。しからば、徳それ自身がこの徳の報酬ではないのか。もし正直が虚偽よりも多くの現金を得るが故にこれを守るのだとすれば私は恐れる。武士道はむしろ虚言に耽ったであろうことを。

 武士道は、「或るものに対して或るもの」(quid pro quo)と云う報酬の主義を排斥するが、賢(さか)しらなる商人はこれを受容する。信実は、その発達を主として商工業に負うとのレツキーの言えるは極めて正しい。二イチェの言う如く正直は諸徳の中最も若い。換言すれば、それは近世産業の養児である。この母なくしては信実は素性高き孤児の如く、最も教養ある心のみ、これを養い育てるを得た。かかる心は武士の間には一般的であった。しかし、より平民的かつ実利的なる養母のなかりし為、幼児は発育を遂げなかったのである。産業の進歩するに従い、信実は実行するに容易なる、否、有利なる徳たることが分かって来るであろう。

 考えてみよう。1880年11月、ビスマルクが、ドイツ帝国の領事に訓令を発して、「就中(なかんずく)ドイツの船積みの貨物がその品質及び数量とも嘆ずべき信用の欠乏を示すこと」について警告した。しかるに、今日、商業上ドイツ人の不注意不正直を聞くことは比較的少ない。20年間にドイツの商人は結局正直が引き合うことを学んだのである。既に、我が国の商人もこのことを発見した。これ以上のことについては、私は読者に対し、この点に関して的確なる判断を下せる二つの近著を薦(すすす)める。これに関連して、正直と名誉とは、商人たる債務者ですら証書の形式上提出し得る最も確実なる保証たりしことを述べるのは興味あることであろう。次に述べるような類(たぐい)の文句を記入するは、普通に行われしことであった。

 「恩借の金子御返済怠り候節は、衆人満座の前にて御笑いなされ候とも苦しからず候」、「御返済相致さざる節は、馬鹿と御嘲りくだされたく候」。武士道の信実は果たして勇気以上の高き動機を持つやと、私はしばしば自省してみた。偽りの証しを立つること勿れとの積極的なる戒めが存在せざる為、虚言は罪として裁かれず、単に弱さとして排斥せられた。事実に於いて、正直の観念は名誉と不可分に混和しており、かつそのラテン語及びドイツ語の語源は名誉と同一である。ここにおいて武士道の名誉観を考察すべき適当なる時期に到達した。

れんだいこのカンテラ時評№1035  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 5月15日

 【第八章 名誉(HONOR)】

 さて今度は、騎士道の掟の特徴について暫くの間足を止めてみよう。名誉の感覚は個人の尊厳と価値の明白なる自覚を含む。従って、かの生まれながらにして自己の身分に伴う義務と特権を重んずるを知り、かつその教育を受けているサムライを特色づけずしては措かなかった。今日では、「Honor」は「名誉」と訳され通常に用いられるているが、自由に使用されていなかった。その概念は、「名」(name)、「面目」(countenance)、「外聞」(outside hearing)等の語によりて伝えられた。

 これらは、それぞれ聖書に於いて用いられる「名」(name)、ギリシャ語の面から出た「人格」(personality)と云う語及び「名声」(fame)を連想せしめる。善き名、即ち人の名声、即ち「人自身の不死の部分、これなくんば人は禽獣である」は、その潔白に対する如何なる侵害をも恥辱と感ずることを当然のこととした。そして、廉恥心は、少年の教育に於いて養成せられるべき最初の徳の一つであった。

 「笑われるぞ」、「体面を汚すぞ」、「恥ずかしくないのか」等は、非を犯せる少年に対して正しき行動を促す為の最後の訴えであった。少年の名誉心に訴えることは、あたかも彼が母胎の中から名誉をもって奪われていたかの如く、彼の心情の最も敏感なる点に触れたのである。けだし、名誉は強き家族的自覚と密接に結ばれているが故に、真に出生以前の感化である。バルザック曰く「社会は家族の連帯を失ったことにより、モンテスキューが『名誉』と名付けし根本的の力を失った」と。実に、羞恥の感覚は、人類の道徳的自覚の最も早き兆候であると、私は思う。

 「禁断の木の実」を味わいし結果、人類に下りし最初且つ最悪の罰は、私の考えでは、子を生む苦しみでもなく、荊(いばら)と薊(あざみ)とでもなく、羞恥の感覚の目覚めであった。最初の母(イブ)が騒ぐ胸震う指もて、憂いに沈める夫の摘みて与える数葉のイチジク(無花果)の葉の上に粗末なる針を運ぶ光景に優りて、悲しき歴史上の出来事はない。この不従順の最初の実は、他に及ぶものなき執拗さをもって我々に固着している。人類のあらゆる裁縫技術も、吾人の羞恥感を有効に蔽(おお)うに足るエプロンを縫うのに未だに成功していないのである。

 或るサムライ(新井白石)の言や然りである。彼は、その少年時代に於いて軽微なる屈辱による品性の妥協を軽蔑し、「不名誉は樹の切り傷の如く、時はこれを消さず、却ってそれを大ならしめるのみ」と述べている。孟子が、カーライルの言「恥は全ての徳、善き風儀並びに善き道徳の土壌である」と言ったことをば、彼に先立つ数百年にして、ほとんど同一の文句「羞恥の心は、義の端(はじめ)也」をもって説いている。我が国文学には、シェイクスピアがノ―フォークの口に吐かしめたる如き雄弁は、これを欠くが、それにも拘わらず恥辱の恐怖は甚だ大であって、ダモクレスの剣の如くサムライの頭上に懸(かか)り、しばしば病的性質をさえ帯びた。

 名誉の名に於いて、武士道の掟上、何らの是認を見出し得ざる行為が遂行された。極めて些細なる否想像上の侮辱によっても、短気なる慢心者は立腹し、たちまち刀に訴えて多くの無用なる争闘を惹き起こし、多くの無辜(むこ)の生命を奪った。或る町人が、一人の武士の背にノミが跳ねていることを好意を持って注意したところ、立ちどころに真っ二つに斬られたと云う話がある。けだしノミは畜生にたかる虫であるから、尊き武士を畜生と同一視するのは許すべからざる侮辱であると云う簡単且つ奇怪の理由による。

 が、かかる話は余りに馬鹿馬鹿しくて信じかねる。しかし、かかる話の流布したことには三つの意味が含まれている。1・平民を畏怖せしめる為に作られたこと。2・武士の名誉の身分に実際に乱用があったこと。並びに3・武士の間に極めて強き廉恥心が発達していたこと。これである。不正常なる一例をとって武士道を非難することの明白に不公平なるは、キリストの真の教訓をば宗教的熱狂及び妄信の果実たる宗教裁判及び偽善から判断するのに異ならない。しかし、凝り固まりの宗教狂にも、酔漢の狂態に比すれば、何ものか人を動かす高貴さのある如く、名誉に関するサムライの極端なる敏感性の中に、純粋なる徳の潜在を認め得ないだろうか。

 繊細なる名誉の掟の陥り易き病的なる行き過ぎは、寛大及び忍耐の教えによって強く相殺された。些細な刺激によって立腹するは、「短気」として嘲(あざけ)られた。諺に曰く「ならぬ堪忍するが堪忍」と。偉大なる家康の遺訓の中に次の如き言葉がある。「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。(中略)堪忍は無事長久の基い。(中略)己を責めて人を責めるな」。彼は、その説きしところを自己の生涯に於いて実証した。或る狂歌師が、我が歴史上著名の三人物の口に各々の特徴を示す次の句を吐かせた。信長には、「鳴かざれば殺してしまえホトトギス」、秀吉には「鳴かざれば鳴かせてみようホトトギス」、しかして家康には「鳴かざれば鳴くまで待とうホトトギス」。孟子も又忍耐我慢を大いに推奨した。或る場所に於いて、彼は、「汝、裸体となって我を侮辱するとも、我に何かあらん。汝の乱暴によって我が魂を汚す能わず」との意味のことを書いている。又他の所に於いて、「小事に怒るは君子の恥じるところにて、大義の為の憤怒は義噴である」ことを教えた。

 武士道が如何なる高さの非闘争的非抵抗的なる柔和にまで能く達し得るかは、その信奉者の言によって知られる。例えば、小河(立所)の言に曰く、「人の誹(そし)るに逆らわず、己が信ならざるを思え」と。又、熊沢(蕃山)の言に曰く、「人は咎むとも咎めじ。人は怒るとも怒らじ。怒りと欲とを捨ててこそ常に心は楽しめ」と。今一つの例を、彼の高き額(ひたい)の上には「恥も座するを恥ずる」西郷(南洲)から引用しよう。曰く「道は天地自然のものにして、人はこれを行うものなれば天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛したもう故、我を愛する心を持って人を愛するなり。人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己を尽くせ。決して人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」と。 これらの言は、吾人をしてキリスト教の教訓を想起せしめ、しかして実践道徳に於いては自然宗教も如何に深く啓示宗教に接近し得るかを吾人に示すものである。以上の言は、ただに言葉に述べられたるに止まらず、現実の行為に具体化された。

(注)西郷(南洲)の言は次の通り。「道は天地自然の物にして、人はこれを行なふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」

 寛大、忍耐、仁恕(じんにょ)のかかる崇高なる高さにまで到達したる者の甚だ少数であったことは、これを認めなければならぬ。何が名誉を構成するかについて、何ら明瞭且つ一般的なる教えの述べられなかったことは頗(すこぶ)る遺憾であった。ただ少数の知徳秀でたる人々だけが、名誉は「境遇より生ずるのではなく」、各人が善くその分を尽すにあることを知った。けだし、青年は彼らが事なき時に学びし孟子の語をば、行動に熱する時、極めて容易に忘れてしまった。この賢哲曰く、「名誉を愛するは全ての人の心にあり。しかし、本当に名誉的であるものは彼自身に宿っており他にはどこにもない。人が授与する名誉は善き名誉ではない。趙孟(ちょうもう)の貴くするところは、趙孟能くこれを賤(いや)しくす」。概して、侮辱に対しては、直ちに怒りを発し、死をもって報復せられたことは、後に述べるが如くである。

 これに反し、名誉は、しばしば虚栄もしくは世俗的称賛に過ぎざるものも、人生の至高善として尊ばれた。富にあらず、知識にあらず、名誉こそ青年の追い求めし目標であった。多くの少年は、父の家の敷居を越える時、世にい出て名を成すにあらざれば再びこれを跨(また)がじと心に誓った。しかして、多くの功名心ある母は、彼らの子が錦を着て故郷に帰るにあらざれば再びこれを見るを拒んだ。恥を免れ、もしくは名を得る為には、武士の少年は、如何なる欠乏をも辞せず、身体的もしくは精神的苦痛の最も厳酷なる試練にも耐えた。少年の時に得たる名誉は、齢(よわい)と共に成長することを、彼らは知っていた。

 大阪冬の陣の時、家康の一人の若き子(紀井頼宣)は先鋒に加えられんと熱心に懇願したるに拘わらず、後陣に置かれた。城の落ちし時、彼は甚だしく失望して激しく泣いた。そして、一人の老臣があらん限りの手を尽して彼を慰めんと試み、「今日御手に御あいなされず候とも、御急ぎなさるまじく候。御一代にはかようの事、幾度も御ざるべく候」と諌(いさ)めしに、頼宣は、その老臣に向い怒りの眼を注いで、「我ら13歳の時の又あるべきか」と言ったと云う。もし名誉と名声が得られるならば、生命そのものさえも廉価と考えられた。それ故に、生命よりも高価であると考えられる事が起きれば、極度の平静と迅速とをもって生命を捨てたのである。如何なる生命をこれが為、犠牲にするとも高価なるに過ぎずととせられし事由の中に忠義があった。これは封建の諸道徳を結んで一の均整美あるアーチと為したる要(かなめ)石であった。

れんだいこのカンテラ時評№1036  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 5月16日

 【第九章 忠義(THE DUTY OF LOYALTY)】

 対照的なアーチ状の封建的諸道徳の中、要石を形成している徳は、他の諸徳が他の倫理体系もしくは他の階級の人々と共通して分かち合っているのに比して、この徳即ち上に立つ者に対する服従及び忠誠は特筆すべき特徴を為している。私は、人格的忠誠があらゆる種類及び境遇の人々の間に存在する道徳的結びつきであることを知っている。スリの一団もフェイギンに対して忠誠を負う。しかし忠誠が至高の重要性を得たのは、武士的名誉の法典に於いてである。

 ヘーゲルの批評即ち「封建的臣下の忠誠は、個人に対する義務にして社会に対するものではないから、全然不当なる諸原理の上に立てられたる絆(bond)である」との言に拘わらず、「人格的忠誠はドイツ人の徳である」と誇った偉大な同胞、ビスマルクがこれを誇りしには善き理由があった。しかしそれは。彼の誇りし忠誠が、彼の祖国もしくはいずれか一国民又は一民族の専有物であるからではなく、騎士道のこの麗しき果実が封建制度の最も長く続いた国民の間に最も遅くまで生きながらえていた故である。

 「どの人も皆他の人と同等である」とし、アイルランド人が付けたして云うところの「他のものより随分勝る」と思っているアメリカに於いては、我々が我々の君主に感じるが如き忠誠観念の崇敬なる概念は「或る基盤内に於ける優れたもの」ではあるが、我々の間で奨励されているようなものに対しては不合理であると思われているかも知れない。モンテスキューは、久しき前、ピレネー山脈のこちら側にて正しい事があちら側に於いては誤謬であると嘆じた。そして最近のドレフェス事件は彼の言の正しさを証明した。即ち、その言は、ピレネー山脈が孤高の国境ではないこと、その彼方ではフランスの正義が如何なる和合をも見出し得ないことを含意している。

 同様に、我々が抱く如き忠義は他の国では多くの賛美者を見出さないかも知れない。それは、我々の観念が間違っている故ではなく、忘れているからではないかと危惧する。且つ又我々が他の如何なる国にても達せられざりし程度にまでそれを発達せしめたからである。グリフィスは全く正しく次のように述べている。即ち、「然るに、中国では、儒教倫理が親に対する服従をもって人間第一の義務としたのに対し、日本では、優先的なものとして忠が第一に置かれている」と。私は、我が善良なる読者に呆(あき)れられる危険を顧みず、シェイクスピアの言える如く、「零落の主君に仕えて艱難辛苦を共にし、物語に名を残せる」人について述べてみよう。

 その物語は、我らが歴史上最大人物の一人たる菅原道真に関するものである。彼は、嫉妬と誹謗中傷の犠牲となって都から追われた人である。これをもって満足せず、無慈悲なる敵は、彼の家族を絶やそうとし始めた。未だ幼なかりし彼の息子に対する厳しい探索により、道真の御子が道真の旧臣の源蔵なる者によって密かにとある村の寺小屋に匿われている事実が明らかにされた。或る日、幼き科人の首を引き渡せとの命令が下り、寺子屋の師匠源蔵の下に役人が派遣された。彼がまず思いついた考えは、適当なる身代わりを見つけることだった。彼は、寺小屋の生徒の名簿を思案し、子供らをば注意深く精査した。子供たちは教室内をぶらぶしていた。しかし、田舎生まれの児らの中には彼の匿える若君と似通う者はいなかった。

 しかしながら、彼の絶望は暫時であった。見よ、器量卑しからぬ母親に連れられて、寺入りを頼む一人の児が現われた。主君の御子と同じ同じ年頃の上品な少年であった。幼き君と幼き家来が似ていることに気づくのは容易で、母も少年も理解した。我が家の奥間にて二人は祭壇に身を供えた。少年は生命を、母は心を。しかし、その気配(sign)を外にはおくびにも漏らさなかった。彼らの間に何が進行したのか気づかないまま、師匠源蔵は示唆されるままの人となった。ここに、犠牲の山羊が盛られた。

 (注)「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅ てならいかがみ)」の「寺子屋の場」の悲話。物語の舞台は平安時代で、藤原時平の讒言によって失脚した菅原道真は、左遷先にされた九州(大宰府)で怒りとともに死没した。藤原時平の追及は菅原道真の実子「菅秀才(7歳)」に及び、その身代わりとして小太郎が犠牲に供される。首実検に来るのは松王丸。松王丸は菅原道真の元家臣でありながらも、今は敵方・藤原時平についている。身代わりとなった小太郎は実は松王丸の実子であった。松王丸は菅原道真への恩に報いるために自らの子供を差し出した。

 物語の後は簡単に述べよう。定めの日が約束され、検視の使者が若君の首を受け取りにやって来た。偽首で彼を欺き得るだろうか。哀れなる源蔵は、刀の柄に手を掛け、もし計略が見破られたなら、検視の役人にか己自身にか、一撃を加えんものと固唾を呑んだ。役人は、彼の前に置かれしぞっとする首を引き寄せ、静かにためつすがめつした後、落ちついた事務的な調子で紛いなしと言い放った。その夜、寂しき家にて母が待ち続けていた。彼女は己の子の運命を知ったのだろうか。彼女は、子の帰りを待っていたのではない。戸口の空くのを熱心に見守っていた。

 彼女の舅(しゅうと)は、久しき間、道真の恩顧を賜った。しかし、道真の島流し以来、彼女の夫は事情余儀なく一家の恩人の敵に随身するようになった。彼自身は、彼の残酷な主人に不忠たることはできなかった。しかし、彼の子は叔父の主君に縁を持ちお役にたつことができた。道真の流浪の家族を知る者として、若君の首実験の役目を命ぜられたのは彼であった。今その日の、然り一生の、辛き役目を為しおおせて、彼は家に帰り、敷居を跨(また)ぐや否や妻に呼びかけ言った。「女房よ喜べ。我々の勇気ある倅は主人のお役に立ったわ」。

 「何と云う残酷な物語り」と、読者が叫ぶのが聞こえる。「両親が相談の上で、他人の生命を救わんが為に罪もなき我が子を犠牲にする」。しかし、この子は、納得の上で、且つ甘んじて犠牲となったのである。これは、身代わりの死の物語である。意味深長さでは、アブラハムがイサクを献げようと思った物語と同様の唾棄すべき話であるが、それ以上でも以下でもない。双方ともに、いずれにせよ義務の召命に対する従順、上より来たる声の命令に対する完き服従があったのである。目に見えるか見えざるかの天使からか、肉の耳によりてか心の耳によりてか分からねども。しかし、私は、説教するのを差し控えよう。

 西欧の個人主義は、父と子、夫と妻に対して別々の利害を認めるが故に、人が他に対して負う義務を必然的に著しく減ずる。しかるに武士道に於いては、家族その成員の利害は一体であり、一にして分かつべからざるものと為す。この利害を、武士道は、自然に、本能的に、不可抗的に愛情と結びつけた。それ故に、もし我々が、動物でさえ持つところの自然愛によりて愛する者の為に死すとも、それが何であるか。「汝ら、己を愛する者を愛すとも、それが何であるか。取税人でさえ同じくするにあらずや」。

 頼山陽は、彼の偉大なる歴史書「日本外史」に於いて、父の反逆行為に対する平重盛の胸中の苦闘をば、感動的な言葉で述べている。「忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれば忠ならず」。哀れむべし重盛よ。我々は見知っている。重盛は後に魂の全てを傾けて天に死を祈り、純潔と正義の住み難きこの世より解放せられんことを願った。重盛は幾度も義務と人情との衝突により心を砕かれた。実に、シェイクスピアにも旧約聖書にすらも、孝に当たる適切な訳語が含まれていない。孝とは、子の親孝行と云う我らの概念である。然るに、そのような衝突の場合に於いて、武士道は忠誠を選ぶのに決して逡巡しなかった。婦人も又、その子を励まして、君の為に全てを犠牲にせしめた。寡婦(かふ)ウィンダムと彼女の有名な配偶者に劣らず、サムライの妻女は、忠義の為とあらば我が子を投げだすことにためらいはなかった。

 武士道は、アリストテレス及び近世の二、三の社会学者と同じく、国家は個人に先んじて存在し、個人は国家の部分及び分子として、その中に生れて来たるものと考えたが故に、個人は国家の為もしくはその正当なる権威の掌握者の為に生き又死ぬべきものとしていた。「クリトン」の読者は、ソクラテスの逃走の問題について、ソクラテスが国法と論争陳述している議論を記憶するであろう。その中で、彼は、国法もしくは国家としてかく言わしめている。「汝は我が下に生まれ、養われ、且つ教育されたのであるのに、汝は、汝も汝の祖先も我々の子種及び召使でないなどと敢えて云うのか」と。これらの言葉は我が国民に対し何ら違和感を与えない。何となれば、同じ事が久しき前から武士道の唇にのぼっていたのであって、ただ我が国ありては国法と国家は人格者によりて表現されていたと云う差異があるに過ぎない。忠義は、この政治理論より生まれたる倫理である。

 私は全然知らぬ者ではない。スペンサーの見解即ち政治的服従(忠義)がただ過渡的機能を賦与せられたるものに過ぎないとする説を。それはそうかも知れない。「その日の徳はその日に足る」。我々は、安んじてこれを繰り返そう。ことに我々は、その日というのが長き期間であって、我が国歌に曰く「さざれ石の巌(いわお)となりて苔の蒸すまで」とあることを信ずるにおいてをや。

 我々はこの継ぎ目を想起するが良い。即ち、イギリス人の如き民主的国民の間に於いてすら、ブ―トミ―氏が近頃言えるが如く、「一人の人並びにその後衛に対する人格的忠誠の感情は、彼らの祖先たるゲルマン人がその首領に対して抱きたるところであり、これが多かれ少なかれ伝わって、彼らの君主の血統に対する濃厚なる忠誠となり、それは王室に対する彼らの異常なる愛着の中に現われている」と。スペンサー氏は予言して曰く、「政治的服従は良心の命令に対する忠誠によって代わられるであろう」と。彼の推理が実現せられると仮定しても、忠義並びにそれに伴う尊敬の本能は永久に消滅するであろうか。我々は、我々の服従を一の主より他の主へ、しかもいずれにも不忠実たることなくして移す。現世の王権を司る支配者の臣民たることから、我々の心の至聖所に座したもう王の召使となる。

 数年前、邪路に陥れるスペンサー学徒によって提起された極めて馬鹿らしい論争が、日本の読書界に恐慌を巻き起こした。皇室に対する不可分の忠誠を擁護する熱心のあまり、彼らは、キリスト者を大逆の傾向ある者として非難した。それと云うのも、キリスト者は彼らの主に忠実を誓う者であるからと云う理由によった。彼らはソフィストの機知なくしてソフィスト的詭弁的議論を構え、そのスコラ学的な屈曲説はスコラ学徒としての洗練を欠いていた。彼らは知らなかったのである。我々が、或る意味に於いて、「これを親しみ、他を疎んじることなくして二君に仕え得ること」、「カエサルの物はカエサルに、神の物は神に納むる」ことを。

 ソクラテスは、彼の鬼神(daemon)に対する忠誠に於いて一点の譲歩をも不退転に拒否しつつ、同様の忠実と平静とをもって地上の主たる国家の命令に服従したではないか。彼は、生きては彼の良心に従い、死して彼の国家に仕えた。国家がその人民に対し良心の指令権を要求するまでに強大となる日こそ悲しむべきである。武士道は、我々の良心を主君の奴隷と為すべきことを要求しなかった。トマス・モ―ブレ―の次の詩は善く我々を代弁している。「恐るべき君よ。我が身は御元に捧ぐ。我が生命は君の命のままなり。我が恥はしからず。生命を捨てるは我が義務なり。されど死すとも、墓に生ける我が芳しき名を、暗き不名誉の用に供するを得ず」。

 主君の気紛れの意志、もしくは妄念邪想の為に自己の良心を犠牲にする者は、武士道の掟の評価に於いては低き地位しか与えられなかった。かかる者は、「佞(ねい)臣」即ち良からぬお世辞をもって追従する奸徒として、あるいは「寵臣」即ち卑屈なるごますりによりて主君の愛を盗むお気に入りとして卑しめられた。これら二種の臣下はイアゴ―の語るところと正確に一致している。即ち、一人は「我が身を繋ぐ首の綱を押しいただき、主が厩(うまや)の驢馬(ろば)同然にむざむざ一生を仇(あだ)に過ごすはいつくばいの愚か者」であり、他は、「陽に忠義らしき身ぶり業体を作り立て、心の底では我が身の為ばかりを図る者」である。

 臣が君と意見を異にする場合、彼の取るべき忠義の道は、リア王に仕えしケントの如く、君の非を咎める為にあらゆる手段を尽すにあった。容れられざる時は、主君をして欲するがままに我を処置せしめた。かかる場合に於いて、サムライの常としたるところは、彼の血を漱(そそ)いで言の誠実を表明し、これによって主君の明智と良心に対し最後の訴えを為ことであった。生命はこれをもって主君に仕うべき手段なりと考えられ、しかしてその理想は名誉に置かれた。従って、武士の教育並びに訓練の全体はこれに基づいて行われたのである。

れんだいこのカンテラ時評№1037  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 6月 5日(火)21時02分42秒

 第十章 武士の教育および訓練(EDUCATION AND TRAINING OF A SAMURAI)

 武士訓育の第一は人格形成に置かれ、賢明さ( prudence)、知性(intelligence)、弁論術(dialectics)等の緻密な才能はさほど重んぜられなかった。審美的な嗜みが武士の教育上重要なる役割を占めていたことは既に確認したところである。賢明さ、知性、弁論術等は教養ある人には不可欠ではあったが、サムライの訓練上必須というよりもむしろ付属的なものであった。勿論、知的優秀さは尊ばれた。しかし、知性を表現する為に用いられる「知」と云う言葉は主として叡智を意味したのであって、知識そのものには極めて付随的地位が与えられたに過ぎない。武士道の骨組を支える鼎(かなえ)の三脚は、「智、仁、勇」であると称せられた。智とは銘々の分別(respectively Wisdom)、仁とは善行(Benevolence)、勇とは勇気(Courage)のことである。

 サムライは本質的に行動の人であった。科学的学問(Science)は彼の活動の範囲外にあった。サムライは、武士の職分に関係する限りに於いて、これを利用した。宗教と神学は、聖職者(僧侶、神官)に委託されていた。サムライは、勇気を養うのに役立つ限りに於いてそれらに関与したに過ぎない。或るイギリスの詩人の歌えると同じく、サムライは、「人を救うは信仰箇条ではなく、信仰箇条を正当化するは人である」ことを信じた。哲学と文学がサムライの知的訓練の主要部分を形成した。しかも、それらを修得するに於いても、努力して求めたのは客観的真理ではなかった。文学は主として慰み(pastime)として追及された。哲学は、何らかの軍事的もしくは政治的な問題の解明の為か、しからざれば品性を形成する上での実践的な助けとして追求された。

 以上述べしところにより、武士道教育の教科目は主として剣術、弓術、柔術もしくは柔(やわら)、馬術、槍術、兵法、書道、倫理、文学及び歴史で構成されていたことに気づくも驚くに足りないだろう。これらのうち、柔術と書道については説明の数語を要するだろう。優れた書に重きを置く所以は、恐らく我が国の文字が絵画の性質を帯び、従って芸術的価値を有したるが故であり、又筆跡が人の個性的な人格を表わすものと認められていたからであろう。柔術はこれを簡単に定義すれば、攻撃及び防御の為に解剖学的知識を応用したものと云えよう。それは筋肉の力に依存しない点に於いてレスリングと異なる。又、他の攻撃の型と異なり何らの武器をも使用しない。その特色は敵の身体の或る個所を掴み、もしくは打ちて麻痺(まひ)せしめ、抵抗する能わざらしむるにある。その目的は殺すことでなく、一時活動する能わざらしむるにある。

 軍事教育上、その存在が期待せられ、しかも武士道の教課程中にこれを見ざることによって、むしろ注意を惹くのは数学である。これは、しかしながら、封建時代の戦争は科学的精密さで行われなかったという事実によって一部分は容易に説明せられる。それのみでなく、サムライの教育全体が算用的観念を形成するに適しなかった。騎士道は非経済的である。それは貧乏を誇る。それは、ヴェンティディウスと共に、「武士の徳たる抱負心(ambition)は、利益を得て汚名をきるよりむしろ損失を選ぶ」。ドン・キホーテは黄金及び領地よりも彼の錆びたる槍、骨と皮ばかりの馬に、より多くの誇りを抱いていた。しかして、サムライは、このラ・マンチャの大袈裟なる同僚に対し衷心の同情を寄せる。

 彼は金銭そのもの、それを儲け、もしくは蓄える術を蔑(さげす)んだ。それは、彼にとっては真に汚れたる利益であった。時代の頽廃を描写する為の常用語は、「文臣は銭を愛し、武臣は死を恐れる」であった。黄金と生命のもの惜しみは甚だしく非難され、貶められ、その気前良さが称揚された。諺に曰く、「なかんずく金銀の欲を思うべからず。富めるは智に害あり」と。この故に、子供は全く経済に関心を払わないように養育せられた。経済の事を口にするのは悪趣味であると考えられ、各種貨幣の価値を知らざるは良き教育の証拠印であった。

 数の知識は軍勢を集め、恩賞知行を分配するのに不可欠だった。しかし貨幣の計算は下役人に委ねられた。多くの藩に於いては、財政は下級サムライもしくは聖職者に掌(つかさど)られた。思慮深い武士は、金銭が戦争の筋力であることを十分知っていたが、金銭の尊重を徳にまで高めることは考えなかった。武士道に於いて倹約が強いられたことは事実であるが、それは経済的理由と云うよりも節制の励行によるものであった。贅沢は人に対する最大の脅威であると考えられた。しかして最も厳格なる質素の生活が武士階級に要求せられ、多くの藩に於いて奢侈(しゃし)禁止令が励行せられた。

 我々が歴史に読むが如く、古代ローマに於いては収税吏その他財政を取り扱う者が次第にその地位を武士の階級にまで高められ、国家はこれによって彼らの職務並びに金銭そのものの重要性を認めるようになった。このことがローマ人の奢侈及び貪欲と如何に密接なる関係を有したかは、これを想像するのに難くない。騎士道に於いてはそうではなかった。それは一貫して理財の道をば卑(ひく)きもの、道徳的及び知的職務に比して卑きものとみなすことに固執した。かくの如く金銭と金銭欲とは努めて無視された。武士道は金銭に基づく凡百の弊害から久しく自由であることを得た。これが、我が国の公吏が久しく贈収賄から自由であった事実を説明する十分なる理由である。しかしあぁ現代に於ける拝金思想の増大何ぞそれ速やかなるや。

 今日ならば主として数学の研究によりて助長せらるべき種類の知的訓練は、文学的釈義と倫理学的討論によって与えられた。抽象的問題が青少年の心を悩ますことは稀であった。教育の主目的は既に述べし如く人格の確立にあったからである。単に博学なるの故をもっては、多くの崇拝者を得なかった。ベーコンが、学問の三つの効用として挙げている快楽、装飾及び能力の中、武士道は最後のものに対して決定的優先権を与え、その実用は、「判断と仕事の処理」にあるとした。公務の仕事にせよ、個人的な克己の錬磨にせよ、実践的目的を眼中に置いて教育は施された。孔子曰く、「学んで思わざれば即ち暗し、思うて学ばざれば即ち危うし」と。

 知識でなく人格が、頭脳ではなく霊魂が、教師によって為される仕事の実質的なものになり、その啓発へと向かう時、教師の職業は神聖なる性質を帯びる。「我を生みしは父母である。我を人たらしむるは教師である」。この観念をもってするが故に、師たる者の受ける尊敬は極めて高かった。 かかる信頼と尊敬とを青少年より呼び起こすほどの人物は、必然的に優れたる人格を有し且つ学識を兼ね備えていなければならなかった。彼は父なき者の父たり、迷える者の助言者であった。諺に曰く、「父母は天地の如く、師及び汝の君主は日月の如し」(実語教)。

 あらゆる種類の仕事に対し報酬を与える現代の制度は、武士道の信奉者の間では人気がなかった。武士道は、無償、無報酬で捧げられる得るような仕事に信を置いた。聖職あるいは教師の仕えるような霊的の仕事は金銀をもって支払われるべきでなかった。価値がないからではない、評価し得ざるが故であった。この点に於いて武士道の非算数的なる名誉の本能は近世経済学以上に真正なる教訓を教えたのである。けだし賃銀及び俸給はその結果が具体的になる、把握しうべき、量定しうべき種類の仕事に対してのみ支払われる。しかるに教育に於いて為される最善の仕事、即ち霊魂の啓発(聖職の仕事を含む)は具体的、把握的、量定的でない。量定し得ざるものであるから、価値の外見的尺度たる貨幣を用いるに適しないのである。弟子が一年中或る季節に金品を師に贈ることは慣例上認められたが、これは支払いではなくして捧げ物であった。従って、通常厳正なる性行の人として清貧を誇り、手を持っての労働するには余りに威厳を持ち、物乞いするには余りに自尊心の強き師も、事実喜んでこれを受けたのである。彼らは逆境に屈せざる高邁なる精神の厳粛なる権化であった。彼らは、全ての学問の目的と考えられしものの体現であり、かくして鍛練中の鍛練として普(あまね)く武士に要求せられたる克服己の生きたる模範であった。

れんだいこのカンテラ時評№1038  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 6月 6日

 第十一章  自己規律(克己)(SELF-CONTROL)

 一方に於いて勇の鍛練は、うめき声することなく忍耐することを植えつけ、他方に於いて礼の教えは、我々自身の悲哀もしくは苦痛を露わにすることにより、他の人の快楽もしくは安寧を害せざるよう要求する。この両者が和合して禁欲的心性を産み、遂に外見的禁欲主義(stoicism)の国民的性格を形成した。私が外見的禁欲主義と云う訳は、真の禁欲主義が国民全体の特性となると云うことを信ずることができない故であり、且つまた我が国民の作法及び習慣中、外国人の観察者に無情と映ずるものがあるかも知れないからである。

 然るに、我が国民は実際、優しき情緒に対する気配りが天下の如何なる民族にも劣らず長けている。私は、或る意味に於いて、我が国民は他の民族以上に、然り幾層倍も勝りて物に感じることができると考えることにしている。けだし、自然的感情の発動を抑制する努力そのものが苦痛を生ぜしめるからである。感情のはけ口を求めて涙を流したり、もしくは呻吟の声を発することのなきよう教育されたる少年、少女を想像せよ。かかる努力が彼らの神経を固くならしむるか、それとも一層鋭敏ならしむるかは生理学上の一問題である。

 サムライが感情を面(おもて)に表わすのは男らしくないと考えられた。「喜怒色に表わさず」とは、偉大なる人物を評する場合に用いられる文句であった。最も自然的なる愛情も抑制せられた。父が子を抱くは彼の威厳を傷つくることであり、夫は妻に接吻しなかった。私室に於いてはともかくも、他人の面前にてはこれを厳に為さなかった。或る機知に富んだ青年が云った言葉、「アメリカ人は、その妻を他人の前で接吻し、私室に於いて打つ。日本人は他人の前でこれを打ち、私室にありては接吻する」との言の中に幾らかの真理があるであろう。

 挙措沈着、精神平静であれば、如何なる種類の激情にも乱されない。私は、最近の中国との戦争(日清戦争)に際し、或る連隊が某市を出発した時、多くの群衆が隊長以下軍隊に決別する為に停車場に群れ集うたことを思い出す。この時、或るアメリカ人が、 騒々しい示威運動が目撃できるものと予期しつつその場所に行ってみた。全国民そのものがひどく興奮していたし、且つその群集の中には兵士の父、母、妻、恋人等もいたからである。しかるにそのアメリカ人は奇異の感を抱いて失望した。と云うのは、汽笛が鳴って列車が動き出した時、数千の人は黙って脱帽し、その頭を垂れて恭(うやうや)しく別れを告げ、ハンカチーフを振る者居らず、一語を発する者なく、ただ深き沈黙の中に耳を澄ませば、僅かに嗚咽(おえつ)の洩れるを聞くのみであった。

 家庭生活に於いても又、親心の弱さに出ずる行為を気づかれないように、襖の陰に立ちながら病む児の呼吸に終始耳を澄ませた父親を知る。臨終の期にも、その子の勉学を妨げざらんが為に、これを呼び返すことを抑えた母親を知る。我が国民の歴史と日常生活とは、プルタークの最も感動すべきページにも善く匹敵し得る英雄的婦人の実例に充ちている。我が国の農民の間に、イアン・マクマレンは多くのマーゲット・ホウを見出すに違いない。

 同じく自制の鍛錬によって、日本のキリスト教会に於ける信仰熱復興の欠乏が説明できる。男性でも女性でも、己の霊魂に感激を覚える時、その最初の本能としてその外に顕われることを静かに抑える。稀なる例に於いて、誠実と熱心との雄弁を持つ時に如何ともし難い霊によって舌が自由にされた。軽々しく霊的経験を語ることを奨励するは、第三誠(「汝の神エホバの名を妄りに口にあげるべからず」)を破ることを教唆するものである。

 日本人の耳にとりては、最も神聖なる言葉、最も秘かなる心の経験を、烏合の衆の聴衆の中にて聞かされるのは真に耳触りである。「汝の霊魂の土壌が微妙なる思想をもって動くを感ずるか。それは種子の芽生える時である。語るをもってこれを妨げるな。静かに秘やかに、これをして独り働かしめよ」と、或る青年サムライは日記に書いた。人の深奥の思想及び感情、特にその宗教的なるものに対して多弁を費やして発表するは、我が国民の間にありては、それは深遠でもなく誠実でもないことの間違いなき徴(しるし)であるとされている。諺に曰く、「口開けて、腹わた見せるザクロかな」と。感情の動いた瞬間これを隠す為に唇を閉じようと努めるのは、東洋人の心のひねくれでは全然ない。我が国民に於いては、言語はしばしば、かのフランス人(タレラン)の定義したる如く「思想を隠す技術」である。

 日本の友人をば、その最も深き苦しみの時に訪問せよ。さすれば彼は、赤き眼或いは濡れたる頬にも拘わらず、笑みを浮かべて常に変わらず君を迎えるだろう。 あなたがたは、最初、彼をひどくおかしいと思うだろう。強いて彼に説明を求めれば、あなた方は、「人生憂愁多し」とか、「会者常離」、「生者必滅」、「死んだ子の齢を数えるは愚痴なれど、女心は愚痴に耽るとしたもの」とかの二、三の断片的なる常套(じょうとう)語を得るであろう。かの高貴なるホ―ヘンツォルレルンの高貴なる語「呟(つぶや)かずして耐えることを学べ」は、我が国民の間に共鳴する多くの心を見出す。それが発せられし遥か前から。

 実に日本人は人間的性質の弱さがギリギリの試練に会いたる時でさえ常に笑顔を作る傾きがある。私は、我が国民の笑い癖については、デモクリトスその人にも優る理由があると思う。けだし我が国民の笑いは、しばしば逆境によって乱されし時、心の平衡を回復せんとする努力を隠す煙幕である。それは悲しみもしくは怒りの平衡錘(すい)である。かくの如く感情の抑制が常に要求せられし為、その安全弁が詩歌に見出された。10世紀の一歌人(紀貫之)は、「かようの事、歌好むとてあるにしもあらざるべし。唐土もここも、思うことに堪えぬ時のわざとぞ」と書いている。死せる子の不在をば常の如くトンボ釣りに出かけたものと想像して、己が傷つける心を慰めようと試みた或る母(加賀の千代)は吟じて曰く、「蜻蛉(トンボ)釣り  今日はどこまで行ったやら」。

 私は他の例を挙げることを止める。何となれば、私は、一滴一滴血を吐く胸より搾り出されて稀有なる価値の糸玉に刺し貫かれたる思想をば、外国語に訳出しようとすれば、我が国文学の珠玉の真価を却って傷つけるものとなることを知るからである。私の望むところはただ、しばしば無情冷酷、もしくは笑いと憂鬱とのヒステリカルなる混合であるかの外観を呈し、時にその健全性の疑われることさえある、我が国民の心の内なる働きをば或る程度に於いて示すことであった。我が国民が苦痛を堪え、且つ死を恐れざるは、神経が敏感ならざる故にであるとの説を為す者もあった。これは、その限りにおいてはありそうなことである。

 次の問題は、「我が国民の神経の緊張低きは何によるか」である。我が国の気候がアメリカほど刺激的でないのかも知れない。我が国の君主政体が、共和制のフランス人に於けるが如くに、国民を興奮せしめないのかも知れない。我が国民は、イギリス国民ほど熱心に「衣服哲学」を読まないのかもしれない。私一個人としては、絶えざる自制の必要を認め、且つこれを励行せしめたものは、実に我が国民の激動性、多感性そのものであると信ずる。ともかくこの問題に関する如何なる説明も、長年月に亘る克己の鍛練を考慮に入れずしては正確であり得ない。

 自己調整の修養はその度を越し易い。それは霊魂の溌剌たる流れを抑圧することがあり得る。それはしなやかな諸性質を歪め奇形なものにすることがあり得る。それは頑固を生み、偽善を培(つちか)い、情感を鈍(にぶ)らすことがあり得る。如何に高尚なる徳でも、その反面があり偽物がある。我々は、各個の徳に於いて、それぞれの積極的美点を認め、その積極的理想を追求しなければならない。しかして自己規律の理想とするところは、我が国民の表現に従えば心を平かならしむるにあり、或いはギリシャ語を借りて云えば、デモクリトスが至高善と呼びしところのエウテミヤの状態に到達するにある。

 我々は、次に自殺及び復讐の仇討制度を考察しようとするのであるが、その前者に於いて自己規律の極致が達せられ、且つ最も能く現われている。

れんだいこのカンテラ時評№1039  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 6月 7日

 第十二章  自殺および復仇の制度(THE INSTITUTIONS OF SUICIDE AND REDRESS)

(この二つの制度は、前者は腹切り、後者は敵討ちとして知られている。これについては多くの外国著者が多少詳細に論じている)

 まず自殺の考察から始める。私は、切腹もしくは割腹に限定して考察することにする。それは、俗に「腹切り」として知られているが、これは腹部を切って内臓を抜き出す自己犠牲である。「腹を切る? 何と馬鹿げたことよ!」。初めてこの語に接した者はそう叫ぶであろう。

 それは、外国人の耳には最初は馬鹿げて奇怪に聞こえるかも知れないが、シェイクスピアを学びし者にはそんなに奇異な筈はない。何となれば彼はプルトゥスの口をして、「汝(カエサル)の魂現われ、我が剣を逆さまにして我が腹を刺さしむ」と言わしめているからである。或る現代のイギリス詩人が、その「アジアの光」の中にて、「剣が女王の腹部を貫く」と語るを聴け。何人も野卑な英語もしくは礼儀違反をもって彼を責めてはおるまい。或いは他の例を取り上げよう。ジェノアのパラツォ・ロツサにあるゲルチ―ノの「カト―の死」の画を眺めよ。アディソンがカト―をして歌わしめた絶命の歌を読む者は誰でも、その腹を深く刺したる剣のことを嘲る者はないであろう。

 我が国民の心には、この死に方は最も高貴なる行為並びに最も切々たる哀情の事例を連想させる。従って、我らの切腹観には何らの嫌悪も、いわんや何らの嘲笑も伴わない。徳、偉大、優しさの変化力には驚嘆すべきものがあって、最醜の死の形式にも崇高性を帯びしめ、これをして新生命の象徴たらしめる。しからずんば、コンスタンティヌス大帝の見たる徴(しるし、十字架)が世界を征服することはなかったであろう。

 切腹が我が国民の心に一点の不合理性をも感ぜしめないのは、他の事がらとの連想の故のみでない。特に身体のこの部分を選んで切るは、これを以て霊魂と愛情との宿るところと為す古き解剖学的信念に基づくのである。モーゼは、「ヨセフ、その弟の為に腸(心)焚(や)けるが如く」(創世記43の30)と記し、ダビデは「神がその腸(憐れみ)を忘れざらん」ことを祈り(詩篇25の6)、イザヤ、エレミヤ、その他古(いにしえ)の霊感を受けし人々も「腸(はらわた)が鳴る」(イザヤ書16の11)、もしくは「腸が痛む」(エレミヤ記31の20)と述べている。

 これらはいずれも日本人の間に広められている腹部に霊魂が宿るとの信仰を裏書きするものである。セム族は常に肝(きも)、腎、並びにその周囲にある脂(あぶら)をもって、感情及び生命の宿るところとなしていた。腹と云う語の意味は、ギリシャ語のフレン(phren)もしくはツ―モス(thumos)よりも範囲が広いが、日本人もギリシャ人と等しく、人間の魂はこの部分のどこかに宿ると考えていた。

 このような考えは、決して古代民族に限るものではない。フランス人は、彼らの最も優れたる哲学者の一人であるデカルトが、霊魂は松果腺にありとの説を唱えたにも拘わらず、解剖学的にはあまり漠然であるとしても生理学的には意味の明瞭なるヴァントル(ventre、腹部)と云う語をば、今日でも勇気の意味に依然として用いている。同様にフランス語のアントライユ(entrailles、腹部)は愛情、憐憫の意味に用いられている。

 かかる信仰は、単なる迷信ではなくて、心臓をもって感情の中枢と為す一般的観念に比して科学的である。日本人は、「この臭骸(しゅうがい)のいずれの醜き部分に人の名が宿るか」を、僧に聞かなくてもロメオ以上に良く知っていた。現代の神経学者は、腹部脳髄、腰部脳髄と云うことを言い、これらの部分に於ける交感神経中枢は精神作用によりて強き刺激を受けるとの説を唱える。この精神生理学説がひとたび容認せられるならば、切腹の論理は容易に構成される。「我は我が霊魂の座を開いて、君にその状態を見せよう。汚れているか清いか、君自らこれを見よ」。

 私は、自殺の宗教的もしくは道徳的是認を主張する者と解せられたくない。しかし、名誉を高く重んずる念は、多くの者に対し自己の生命を断つに十分なる理由を供した。ガ―スの歌いし感情に同感して如何に多くの者が同調したか。「名誉の失われし時は死こそ救いなれ。死は恥辱よりの確実なる避け所なり」。そして、彼らの霊魂を幽冥(ゆうめい)即ち死に莞爾(かんじ)として服せしめた。名誉が絡む時、武士道に於いては、死をもって多くの複雑なる問題を解決する鍵として受け入れた。これが為に、志を持つサムライは、自然の死に方をもってむしろ意気地なき事とし、熱心希求すべき最後ではない、と考えた。

 私は敢えて言う。多くの善きキリスト者が十分正直でさえあれば、カト―やプルトゥスやぺトロ二ウスやその他多くの古の偉人が自己の地上の生命を終わらしめたる崇高なる態度に対して、積極的称賛とまでは行かなくても魅力を感ずることを告白するであろう。

 哲学者の始粗(ソクラテス)の死は半ば自殺であったと言えば言い過ぎだろうか。我々は、彼の弟子たちの筆によって詳細に語られしものを窺う時、彼らの師が、彼が逃走できる可能性があるにも拘わらず如何に進んで国家の命令に服従したのか。しかもそれが道徳的に誤謬であることを知っていたにも拘わらずである。しかして、彼はどうして自己の手に死を言い含める神酒(みき)であることが分かり切っている.毒杯をあおったのか。

 我々は、この時の彼の全ての成り行き、振る舞いに釈然としないものがある。それは或る種の自殺的行為ではなかろうか。この場合には、通常の処刑の場合に於ける如き肉体的強制はなかった。なるほど裁判官の判決は強制的であった。曰く「汝死すべし。しかしてそれは汝自身の手によるべし」と。もし自殺が自己の手によって死ぬること以上を意味しないならば、ソクラテスの場合は明白なる自殺であった。しかし、何人も犯罪をもって彼を責めない。自殺を嫌悪するプラトンは、彼の師を自殺者と呼ぶを欲しなかった。

 既に読者は、切腹が単なる自殺の方法ではなかったことを了解せられたであろう。それは法律上並びに礼法上の制度であった。中世の発明として、それは武士が罪を償い、過ちを謝し、恥を免れ、友を救う、もしくは自己の誠実を証明する方法であった。それが法律上の刑罰として命ぜられる時には、荘重なる儀式をもって執り行われた。それは洗練されたる自殺であって、感情の極度の冷静と態度の沈着なくしては何人もこれを実行するを得なかった。これらの理由により、それは特に武士に相応しいものであった。

 懐古趣味的な好奇心からだけでも、この既に廃絶せる儀式の描写をここで為したいと思う気分にさせられる。しかし、そのその一つの描写が、その書物は今日ではさほど読まれていないのだが、既に私より遥かに能力ある著者によって為されている。私は、やや長き引用をしてみたいと思う。ミッドフォードは、その著「旧き日本の物語」に於いて、切腹についての説を或る稀なる日本の文書から訳載した後、彼自身の目撃したる実例を描写している。

 「我々(7人の外国代表者)は、日本の立会人に案内されて、これから儀式が執行さるべき寺院の本堂(もしくは寺院のメインホール)に入った。それは 印象的な光景であった。本堂は屋根高く、黒くなった木の柱で支えられていた。天井からは、仏教寺院に特有な巨大なる金色の燈籠(とうろう)と装飾があちこちに垂れていた。高い仏壇の前には、美しき新畳を敷いた床の上三、四寸の高さに座を設け、赤の毛せんが広げてあった。ほど良き間隔に置かれた高き燭台は薄暗き神秘的な光を出し、まさにこれから執り行われる全ての仕置を見るに十分であった。 数名の日本の立会人は高座の左方に、数名の外国立会人は右方に着席した。それ以外には何人も居なかった。

 不安の緊張裡に待つこと数分間、滝善三郎、年齢32歳の気品高き偉丈夫であったが、麻の裃(かみしも)の礼服を着け、しずしずと本堂に歩み出た。彼の介錯人と、金の刺繍(ししゅう)せる陣羽織を着用した役人とが伴った。介錯と云う語は、英語のエクシキューショナ―(executioner、処刑人)がこれに当たる語でないことを知っておく必要がある。この役目は紳士の役であり、多くの場合、咎人(とがにん)の一族もしくは友人によって果たされ、両者の間には役人と処刑人と云うよりは、むしろ主役と介添えの関係である。この場合、介錯は滝善太郎の門弟であって、剣道の達人たる故をもって、彼の数ある友人中より選ばれた者であった。

 滝善太郎は介錯を左に従え、徐(おもむろ)に日本の立会人の方に進み、彼らに二度お辞儀を為し、次に外国人に近づいて同様に、恐らく一層の丁重さをもって同様のお辞儀をした。いずれの場合にも恭(うやうや)しく答礼が為された。静々と威儀辺りを払いつつ善三郎は高座に上がり、仏壇の前に平伏すること二度、仏壇を背にして毛せんの上に端坐し、介錯人は彼の左側に腰を低く構えた。三人の付添役中の一人はやがて白紙に包みたる脇差をば山宝(神仏に供え物をする時に用いられる一種の台)に載せて進み出た。脇差とは日本人の短刀もしくは匕首(あいくち)であって長さ9寸5分、その切っ先は剃刀(かみそり)の如くに鋭利なものである。付き添いは一礼したる後に咎人に渡せば、彼は恭しくこれを受け、両手を以て頭の高さにまで押しいただきたる上、自分の前に置いた。

 続いて坐り直し、日本的な流儀に則り膝とつま先を地面にこすりつけ、彼の体はかかとの上に乗った。慣わしとされているこの姿勢で、彼は死を迎えるまで踏みとどまった。改めて鄭重なるお辞儀をした後、滝善太郎は、痛ましき告白を為す人から期待されているに違いないような感情と躊躇を表わす声で、顔色態度は豪(ごう)も変ずることなく次のように語った。「拙者ただ一人、無分別にも神戸に居た外国人に対し発砲の命令を下し、その逃れんとするを見て、再び撃ちし候。この咎めにより切腹致す。各々方には検視の御役目御苦労に存じ候」。又もや一礼お辞儀して、善太郎は上着を帯元まで脱ぎ下げ、腰辺りまで露わにした。注意深く、古式に則り、仰向けに倒れることのなきよう両袖を膝の下に敷き入れた。そは、高貴なる日本紳士は前に伏して死ぬべきものとされていたからである。

 慎重に、前に置かれていた短刀を確(し)かと取り上げ、名残りを惜しみつつ愛着たっぷりにこれを眺め、最後を迎えての思念に精神集中を凝らした一刻を経て、左の腹を深く刺し徐(おもむろ)に右に引き廻し、又元に戻し返して少しく切り上げた。この凄まじくも痛ましき動作の間、彼は顔の筋一つ動かさなかった。彼は短刀を引き抜き、前に屈(かが)み、首を差し伸べた。苦痛の表情が初めて彼の顔をよぎったが、少しも音声に現われない。その瞬間、介錯人は、それまで側に腰を低くして、彼の一挙一動を身じろぎもせず見守っていたが、やおら立ち上がり、一瞬太刀(たち)を空に振り上げ、一閃させた。もの凄い音、倒れる響き、一撃の下に首が体から切り離された。場内寂として静まり返った。ただ僅かに我らの前に動かなくなった首が投げ出され、迸(ほとばし)り出ずる血の凄まじき音のみ静寂を破った。この首の主こそ今の今まで勇猛剛毅の威丈夫であった。恐ろしいことであった。

 介錯人は平伏して礼を為し、予(かね)て用意せる白紙を取り出して刀を拭(ぬぐ)い、高座より降りた。血染めの短刀は、仕置きの証拠として厳かに運び去られた。かくて帝(みかど)の二人の役人はその座を離れて、外国検使の前に来て、「滝善太郎の処刑が滞りなく相済みたり。検視せられよ」と呼びかけた。儀式はこれにて終り、我らは寺院を去った」。

 我が国文学もしくは実見者の物語による切腹の情景を写そうとすれば枚挙に暇ないが、今一つの例を挙げれば足りるであろう。左近、内記(ないき)と云う二人の兄弟、兄は24歳、弟は17歳であったが、父の仇討ちの為に家康を殺そうと努力し、陣屋に忍び入らんとして捕えられた。老英雄は己の生命を狙いし若者の勇気を愛でて、名誉の死を遂げさせよと命じた。一族の男子皆刑せられることに定められ、彼らの末弟の八麿は当年僅かに8歳の小児に過ぎざりしであったが同じ運命に定められた。かくて彼ら3人は仕置場たる或る寺に連れて行かれた。その場に立ち会いたる或る医師の書き遺したる日誌により、その光景を記述すれば次の如くである。

 「彼らが皆並んで最後の座に着いた時、左近は末弟に向かいて言った。『八麿よりまず腹切れよ。切り損じなきよう見届けくれんぞ』。幼き八麿答えて、『ついぞ切腹を見たることなければ、兄の為さん様を見て己もこれに倣わん』。兄は涙ながらに微笑み、『いみじくも申したり。健気の稚児や。汝、父の子たるに恥じず』。左近、内記は、二人の間に八麿を坐らせ、左近は、左の腹に刀を突き立てて、『弟これを見よや。会得せしか。余りに深く掻くな。仰向けに倒れるぞ。うつ伏して膝を崩すな』。内記も同じく腹を掻き切りながら弟に言った。『目をかっと開けや。さらずば死に顔の女に見まごうべきぞ。切尖(きっさき)淀むとも、又力たわむとも、更に勇気を鼓舞して引き廻せや』。八麿は兄の為す様を見、両人の共に息絶ゆるや、静かに肌を半脱ぎして、左右より教えられし如くにものの見事に腹切り終った」。

 切腹をもって名誉と為したることは、自ずからその乱用に対し少なからざる誘惑を与えた。全く道理に適わざる事柄の為、もしくは全く死に値せざる理由の為に、性急なる青年は飛んで火に入る夏の虫の如くに死についた。混乱かつ曖昧なる動機がサムライを切腹に駆り立てしことは、尼僧を駆り立て修道院の門をくぐらしめしよりも多かった。生命は廉価であった。世間の名誉基準によって計算される廉価さであった。最も悲しむべきは、名誉に常に打ち歩が付いていた。いわば常に正金ではなく、劣等の金属を混じらせていたことである。地獄取り巻く者のうち誰も、ダンテが自殺者を全員人身御供にして引き渡した辺りを記す第7篇に勝りて日本人の人口の周密なる密度を誇るものはないであろう。

 しかしながら、真のサムライにとっては、死を急ぎ、もしくは死に媚びるは、卑怯であった。或る典型的な武士は、一戦又一戦に敗れ、野より山、森より洞窟へと追われ、単身餓えて薄暗き木の穴に潜み、刀欠け、弓折れ、矢尽きし時には、かの最も高邁なるローマ人(プルトゥス)がかかる場合、ビリビにて己が刃に伏したのではなかったか。これに引き換え死を卑怯と考え、キリスト教殉教者に近い忍耐をもって、次のように吟じて己を鼓舞した。 「憂きことのなおこの上に積もれかし(願わくは、我に七難八苦を与えたまえ)。限りある身の力試さん」。

 然り。これが武士道の教えであった。忍耐と純粋なる良心とを以てあらゆる悲惨と災難に抗し忍耐と面目を保つ。これにつき、孟子は次のように説いている。「天の将(まさ)に大任を人に降さんとするや、必ずまず精神を苦しめ、その筋骨を労し、その身体を餓えしめ、彼を極度の窮乏に試練せしめ、彼の仕事を翻弄せしめる。それは、精神を鼓舞して、その性を錬磨し、その不適格なところを増益する所以である」。真の名誉は、天の命ずるところを果たすにあり。これが為に死を招くも決して不名誉ではない。これに反し、天の与えんとするものを回避する為の死は全く卑怯である。

 サ―・トマス・ブラウンの奇書「医道宗教」の中に、我が武士道が繰り返し教え足るところと全く軌を一にする語がある。それを引用すれば、「死を軽んずるは勇気の行為である。しかしながら生が死よりもなお怖ろしい場合には、敢えて生きることこそ真の勇気である」。17世紀の或る名僧が風刺して言える言に、「平生何ほど口巧者に言うとも、死にたることのなきサムライは、まさかの時に逃げ隠れするものなり」。又、「ひとたび心中奥深きところにて死したる者には、真田(さなだ)の槍も為朝の矢も通らず」。これらの語が、「己が生命を我が為に失う者はこれを救わん」と教えし大建築者(キリスト)の宮の門に何と接近していることか。これらは、人類の道徳的一致を確認せしむる数多き例証中の僅か二、三であるに過ぎない。キリスト教徒と異教徒との間の差異を能う限り大ならしめんと骨折る試みがあるにも拘わらず。

 私は、レ―ジ教授の翻訳を言葉通りに使用する。かくして我々は、武士道の自殺制度が、その乱用が一見我々を驚かす如くには不合理でもなく野蛮でもないことを見た。我々はこれから、切腹の姉妹関係たる矯正制度、それは仇討とも呼ばれるのだが、その補充的特徴を見よう。

 私は、この問題をば、数語をもって片付けることができると思う。けだし同様の制度、もしくは習慣と言った方がよければそれでもよいのだが、この制度は全ての民族の間に行われたのであり、且つ今日でも全く廃れていないことは、決闘や私刑(lynching)の存続によりて証明される。現に近頃或るアメリカ将校は、ドレフェスの仇を報ぜんが為にエステルハージに決闘を挑んだではないか。結婚制度の行われざる未開種族の間にありては、姦通は罪ではなく、ただ愛人の嫉妬のみが女子をば不倫より護る如く、刑事裁判所のなき時代にありては、殺人は罪ではなく、ただ被害者の縁故者のつけ狙う仇討ちのみが社会の秩序を維持したのである。 「地上にありて最も美しいものは何ぞ」と、オシリスはホーラスに問うた。答えて曰く、「親の仇を討つにあり」。日本人なら「主君の仇討ち」を付け加えるだろう。

 仇打ちには人の正義感を満足せしめるものがある。仇討者の推理はこうである。「我が善き父は死する理由がなかった。父を殺したる者は大悪事を為したのである。我が父もし存命ならば、かかる行為は看過しはないだろう。天もまた悪行を憎む。悪を行う者をして、その業を止めしむるは我が父の意思であり天の意思である。彼は我が手によりて死なざるべからず。何となれば、彼は我が父の血を流させたのであるから、父の血統たる我がこの殺人者の血を流さねばならない。彼は共に天を戴かざる仇である」。この推理は簡単であり幼稚である。(しかし、我々の知る如く、ハムレットもこれよりたいして深く推理した訳ではない) それにも拘わらず、この中に生まれながらの正確なる公平感及び平等なる正義感が現われている。「目には目を。歯には歯を」。我々の仇討の感覚は数理的な能力の如くに正確であって、方程式の両項が満足されるまでは、何事かが未だ為されずして残っているとの感を除き得ないのである。

 ユダヤ教に於いては妬む神を信じており、あるいはネメシスを持つギリシャ神話に於いては仇討ちは、これを超人的な力に委ねることを得たであろう。しかし、世間感覚は、武士道に対し公平な倫理的裁判所の一種としての仇討の制度を与え、日常法に従っては裁判せられざる如き事件に関与するを得しめた。47士の主君(浅野内匠頭長矩、あさのたくみのかみながのり)は死罪を宣告された。彼は、控訴すべき上級裁判所を持たなかった。彼の忠義なる家来たちは、当時存在したる唯一の最高裁判所たる仇討ちに訴えた。しかして彼らは普通法によって罪を宣告された。しかし、民衆の本能は、別個の判決を下した。これが為、彼らの名は今日まで泉岳寺の墓にあり、色緑に且つ香ばしく保存されている。

 老子は、「怨みに報いるに徳をもってす」と教えた。しかし、正義をもって怨みに報いるべきことを教えた孔子の声の方が遥かに大であった。但し、復讐は、我々の上役; もしくは恩人の為に企てられる場合にのみ正当であるとされていた。己自身の仇は、妻子に加えられたる危害も含めて、これを忍び且つ許すべきとされていた。この故に、或るサムライは、祖国の仇に復讐せんとしたハンニバルの誓いに対し、完き同感を寄せることを得た。しかし、彼の妻の墓より一握りの土を取りて帯の中に携えたジェイムズ・ハミルトンが、摂政マレーに対し彼女の仇を討たんとするを執拗に鼓舞し続けたことをば軽蔑している。この故に、或るサムライは、祖国の仇に復讐せんとしたハンニバルの誓いに対し、完き同感を寄せることを得た。しかし、彼の妻の墓より一握りの土を取りて帯の中に携えたジェイムズ・ハミルトンが、摂政マレーに対し彼女の仇を討たんとするを執拗に鼓舞し続けたことをば軽蔑している。

 切腹及び仇討の両制度はいずれも、刑法特典の発布と共に存在理由を失った。美しき乙女が、変装して、親の仇を)突きとめるようなロマンティックな冒険を聞くことはもうない。家族の仇を討つ悲劇を見ることはもはやない。宮本武蔵の武者修行は今や昔語りとなった。規律正しき警察が被害者の為に犯人を捜索し、法律が正義の要求を満たす。全国家及び社会が悪を成敗する。正義感が満足されたが故に、仇討の必要なきに至ったのである。もし、仇討ちが、二ュ―イングランドの或る神学者の評せる如く、「犠牲者の生血をもって飢えを満たさんと欲する望みによりて養われる心の渇望」を意味したに過ぎないとすれば、刑法法典中の数条がかくもそれを根絶せしめることを得たであろうか。

 切腹については、これまた制度上はもはや存在しないけれども、なお時々その行われるを聞く。過去が記憶せられる限り、恐らく今後もこれを耳にするであろう。自殺信者が驚くべき速度で世界中に増加しつつあるを見れば、痛みのない、また時間のかからぬ多くの自殺方法が流行してくるだろう。しかし、モルゼリ教授は、多くの自殺方法中、貴族的地位をば切腹に与えなければならぬであろう。教授は主張して曰く、「自殺が最も苦痛なる方法もしくは長時間の苦悶を犠牲にして遂行せられる場合は、百中九十九までは、これを狂信、狂気、もしくは病的興奮による精神錯乱の行為に帰することができる」。しかし、正規の切腹には、狂信、狂気、もしくは興奮の片影をも存せず、その遂行が成功するには極度の冷静さが必要であった。ストラハン博士は、自殺を二種に分けて、合理的もしくはそれに準じたものと、不合理的もしくは真正のものとしたが、切腹は前者の型の最好例である。

 これらの血生臭き制度より見るも、又武士道の一般的傾向より見ても、刀剣が社会の規律及び生活上重要なる役割を占めていたことを推断するのは容易である。刀を武士の魂と呼ぶは一の格言となった。

れんだいこのカンテラ時評№1040  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 6月 9日

 第十三章  刀、そのサムライ魂(THE SWORD THE SOUL OF THE SAMURAI)

 これらの血生臭き制度より見るも、又武士道の一般的傾向より見ても、刀剣が社会の規律及び生活上重要なる役割を占めていたことを推断するのは容易である。刀を武士の魂と呼ぶは一の格言となった。そして、武士道は、刀を、その力と武勇の表象と為した。マホメットが、「剣は天国と地獄の鍵である」と宣言した時、彼は日本人的感情を反響したに過ぎない。

 サムライの少年は、幼少の時から、これを操ることを学んだ。5歳の時、サムライの服装一式を着けて碁盤の上に立たせられ、これまで弄んでいた玩具の小刀の代わりに本物の刀を腰に挿すことにより初めて武士の資格を認められるのは、彼にとって重要な機会であった。武門に入る最初のこの儀式が終わりて後、彼はもはや彼の身分を示すこの徴を帯びずしては父の門を出でなかった。

 もっとも、平素に於いては銀塗りの木刀をもって代用した。幾年も経ずして擬刀を捨て、例え鈍刀にせよ、常に真正の刀を帯び、しかして新たに得た刀よりも鋭き喜びを以て戸外に進出し、その刃をば木や石に試みるべく進展させた。15歳にして成年に達し、行動の自由を許される時に至れば、いかなる用向きにも十分に足る鋭利なる刀の所有を誇り得るようになる。この凶器の所有そのものが、彼に自負と自尊心並びに責任の態度を賦与するようになる。

 「刀は伊達にささぬ」。彼が帯に挿すものは彼の精神と心に挿すものであり、忠義と名誉の象徴である。大小二本の刀、長い刀と短い刀、それは太刀と小刀と呼ばれ、あるいは刀と脇差と呼ばれるが、決して彼の身辺を離れない。家にありては、書斎客間の最も目につき易い場所を飾り、夜は容易に手の届く所に置かれて枕頭を守る。刀は不断の伴侶となり、固有の呼び名を付けて愛称せられる。尊敬の余りほとんど崇拝せられるに至る。史学の祖(ヘロドトス)は、スキタイ人が鉄の三日月刀に犠牲を捧げたことを奇聞として記しているが、日本の多くの神社や多くの家庭に於いても刀をば礼拝の対象として蔵している。ありふれた短刀に対しても、適当の尊敬を払った。刀に対する侮辱は持主に対する侮辱と同視せられた。床に置ける刀を不注意に跨ぎし者は禍なるかな。

 囲碁のゲームは、時に日本式チェスと呼ばれることがある。しかし、英国のゲーム(チェス)よりはるかに知的である。碁盤は361路より成り立っており、ゲームの目的はどちらがより多くの地(space)を占めたかを廻る戦いであり、これを実演するべく仕組まれている。かくの如き貴重なるものは名人(artists)の眼力(notice)と熟練、もしくは対局者(owner)の自尊心から逃れることを得ない。とりわけ、泰平の時代、即ち刀が僧正の杖もしくは国王の王権よりも後回しにしか使用されない時代に於いてはそうであった。柄には鮫(さめ)の皮、絹の糸を巻き、鍔(つば)には金銀を散りばめ、鞘(さや)には様々の色の漆(うるし)を塗りて、この最も恐るべき武器はその恐怖の半ばを失った。しかし、これらの付属物は刀身そのものに比すれば慰みもの(playthings)である。

 刀鍛冶は単なる工人ではなく霊感を受けたる芸術家であり、彼の職場は神聖な場所であった。彼は毎日斎戒沐浴(さいかいもくよく)をして工を始めた。もしくはいわゆる「その心魂気魄(きはく)を打って錬鉄鍛冶(たんや)した」のである。槌(つち)を振り、湯に入れ、砥石で研(と)ぎ、その一つ一つが僅かの雑念をも許さぬ宗教的行事であった。我が刀剣に鬼気を帯びしめたるものは、刀鍛冶もしくは彼の守護神の霊であったのだろうか。芸術品として完璧であり、トレド及びダマスカスの名剣を尻目に十分に対抗し得ており、更に芸術の賦与し得るより以上のものがあった。

 その氷の刀身は、抜けば忽ち大気中の水蒸気をその表面に集める。その曇りなき肌は青色の光を放ち、その比類なき焼刀(やいば)には歴史と未来とが懸(かか)り、その反(そ)りは優れたる美と究極の力とを結合している。これら全ては、我々を力と美、畏敬と恐怖の相混じりたる感情で刺激している。もしそれが美と悦楽( joy)の具としてのみに止まりしものなら、その使命(mission)は無害だったであろう。しかし、常に手の届く所にありしが故に、その乱用に対し少なからざる誘惑があった。平和なる鞘から刀身の閃(ひらめ)き出(いず)ることしばしばなるに過ぎた。時に、新たに得たる刀をば無辜の民の首に試みる悪用が為されることもあった。

 しかしながら、我々の最も関心を寄せる問題はこれである。武士道は刀の無分別なる使用を是認するのだろうか。答えは明らかである。断じてしからず。武士道は刀の正当なる使用を非常に重視し、その乱用を非とし且つ憎んだ。場合を心得ずして刀を振った者は、卑怯者もしくは虚勢をはる者とされた。心が洗練されている武士は、自分の刀を使うべき時をしっかりと心得ていた。また、その時はめったに訪れない稀であることを知っていた。

 故勝海舟に耳を傾けてみよう。勝氏は我が国の歴史上最も物情騒然としていた時期をくぐって来た人であり、当時は暗殺、自殺その他血生臭い事が毎日のように行われていた。彼は一時ほとんど独裁的なる権力を委ねられていた為、たびたび暗殺の対象とされていたが、決して自身の刀に血を塗ることをしなかった。彼は、追憶の若干を回顧して、特癖のある平民的口調で或る友人に物語っている。その中でこう述べている。

 「私は人を殺すのが大嫌いで、一人たりとも殺した者はいないよ。みんな逃(にが)して、殺すべき者であっても、まぁまぁと云って放っておいた。或る日、友人(河上彦斎)が言った。『「あなたはそうは人を殺さない。ならばあなたは南瓜(かぼちゃ)なり茄子(なす)を食べないのか。宜しい、食べぬなら食べぬで。しかし、あいつら自身が人殺しですよ』。(かく述べた河上彦斎は人を何人も斬ってきたが、最後は自分も人に斬られて殺された) 私が殺されなかったのは、私が殺しを嫌いだった故かもしれんよ。私は、刀をひどくきつく結(ゆわ)えて、決して抜けないようにしていた。私は、人に斬られても、こちらは斬らぬという覚悟だった。実に実に。連中を蚤(のみ)や虱(しらみ)だと思えば良いのさ。肩につかまってチクリチクリと刺しても、ただ痒いだけのことで、生命には関わりはないよ」(「海舟座談」)。

 これが、艱難と大業績の火炉の中で武士道修行を試みられし人の言である。諺に「負けるが勝ち」と云う。即ち真の勝者はめったやたらに敵と争わないと云う意味である。又「血を流さない勝利こそ最善の勝利」という格言がある。その他にも同様の趣旨の諺があるが、これらはいずれも武士道の究極の理想が結局のところ平和にあったことを示している。この高き理想が専ら僧侶及び道徳家の講釈に委ねられ、サムライは武芸の稽古と称揚を旨としたのは、大いに惜しむべきことであった。これにより、彼らは女性の理想をさえ勇婦的性格をもって色づくるに至った。次に、我々は、婦人の教育及び地位の問題につき数節をさくことにする。

れんだいこのカンテラ時評№1041  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 6月10日

 第14章 婦人の教育及び地位(THE TRAINING AND POSITION OF WOMAN)

 人類の一半を為す女性はしばしば矛盾の典型と呼ばれる。女性の心の直感的な働きは、男性の解析的判断力により理解するものをはるかに超えている。中国式表意文字(漢字)の神秘的もしくは不可知的な意味を持つ「妙」は、若いと云う意味の「少」と云う字と婦人と云う意味の「女」から成り立っている。けだし、女性の身体的美と繊細な発想は、男性の粗雑な心理能力では説明できない。

 しかしながら、武士道が説く女性の理想像は、神秘性が極めて乏しく外見的な矛盾があるにすぎない。私は、それを勇婦的であると言ったが、それは半面の真理でしかない。漢字の字義による妻とは、箒(ほうき)を持つ婦人を意味している。実に、それは彼女の配偶者に対する攻撃的に振りまわす為ではなく、又魔法の為ではなく、枝ぼうきが最初に発明された時に使用された如く無害な用途に於いて意味されている。かくて、その含意する思想は、英語の妻(wife)が語源的に「織る人」(weaver)より出で、娘が「乳搾り」(duhitar, milkmaid)より出でしと同様に家庭的である。現ドイツ皇帝は、「婦人活動の範囲は台所( Küche)、教会(Kirche)、子供(Kinder)にあり」と言われたと云うが、武士道の女性の理想はこれら三者に限定することなく著しく家庭的であった。この一見矛盾と思われる家庭的並びに勇婦的特性は、武士道に於いては両立せざるものではない。以下、そのことを論じよう。

 武士道は本来、男性のためにつくられた教えである故に、武士道が女性に重んじた徳目も自ずから女性的なものからかけ離れていた。ウィンケルマン曰く、「ギリシャ芸術の最高の美は、女性的であるよりもむしろ男性的である」。レツキ―はこれに付け足して「このことは、ギリシャ人の道徳観念について見るも、芸術に於けるが如くに真である」。武士道は同様に、女性に対し、自己自身を女性の有する弱さから解き放ち、もっと強く勇敢である男性にも負けない英雄的武勇を称揚した。この故に、少女は、その感情を抑制し、その神経を強くし、武器、ことに薙刀(なぎなた)と云う長い柄の刀を使い、もって不慮の事変に際して己が身を守ることを訓練させられた。

 然るに、この武芸練習の主たる動機は、戦場に於いて用いる為ではなく、むしろ一身の為並びに家庭の為なる二つの動機によった。女性は己の主君を有せざるにより、己自身の身を守った。女性がその武器をもって己が身の神聖を護りしことは、夫が君の身を護りしが如き熱心をもってした。彼女の武芸の家庭的用途は、後に述べるが如く子供の教育に於いてであった。

 女性の剣術その他の武芸は、実用されることは仮に稀であるにしても、婦人の端坐的なる習慣を補う健康上の理由があった。しかし、これらの武芸は健康上の目的のみのではなかった。有事の際には実際に用いることができた。女児が成年になれば短刀(懐剣)を与えられ、もって己を襲う者の胸を刺すべく、あるいは場合によりては己の胸を刺すを得た。後者の場合はしばしば実際に起こった。故に、私は彼らを酷に裁こうとは思わない。自殺を嫌悪するキリスト者の良心といえども、日本女性に厳しくされるべきではないだろう。自殺せし二人の婦人ぺラギア及びドミ二ナをばその純潔と敬虔の故をもって聖徒に列しているのを見れば。

 或る日本のバージ二アが、その貞操が危険に瀕するを見る時、彼女の父の剣を待つまでもなかった。彼女自身の武器が常に懐中にあった。自害の作法を知らざる事は彼女の恥辱であった。例えば、彼女は解剖学を学ばなかったけれども、喉のいずれの点を正確に刺すべきかを知らねばならなかった。死の苦痛が如何に激しくとも、死屍(しし)が肢体の姿勢を崩さず、最大の謹慎を示さんが為に、帯紐をもって己が膝を縛ることを知らねばならなかった。 かくの如き身だしなみはキリスト者ぺルぺチュアもしくは聖童貞コルネリアに比すべきではないか。私がかかる出し抜けな質問を発したには理由がある。それは入浴の習慣その他の些事に基づきて、貞操観念は我が国民の間に知られないと云う如き誤解を抱く者を見るからである。

 全く反対だ。貞操はサムライの主要な徳であって、生命以上にこれを重んじたのである。或る妙齢の婦人が敵に捉えられ、荒武者の手により暴行の危険に陥りし時、彼女は申し出た。戦によって散り散りになりし姉妹に一筆認めることが許されるならば、彼らの意に従うと。手紙を書き終わった彼女は近場の井戸に走り、身を投じて彼女の名誉を守った。遺された文の端に一首の歌があった。「世に経なば よしなき雲も おほひなん。いざ入りてまし 山の端の月」。

 読者に、男性的なることのみが我が国女性の最高理想であったとの観念を与えることは公平でない。大いに然らず。芸事(げいごと)及び生活の優雅さが彼女らに必要とされていた。音楽、舞踊、及び文学が軽んぜられなかった。我が国文学史上、最も優れたる詩歌の幾つかは女性的感情により表現されている。事実、女性は日本の純文学史上重要なる役割を果たしたのである。舞踊は、(私はサムライの子女のことを言っているのであって、芸者のことではない)、彼女らの挙措動作の節目を滑らかにする為に教えられた。音楽は、彼らの父もしくは夫の物憂き時の慰める為のものであった。従って、音楽を習ったのは、技巧即ち芸術そのものの為ではなかった。その究極の目的は、心を浄化することにあり、為に音曲の調和は演奏者の心が安らかならずんば調わずと云われた。

 ここでも、我々は、青年の教育について気づいたところの「芸道は常に道徳的価値に対し従たる地位に置かれている」と同一の観念を認めることになる。音楽と舞踊は生活に優雅さと聡明さを加えるをもって十分なものとしており、決して虚栄や贅沢.を助長する為のものではなかった。ペルシャ王がロンドンで舞踏会に案内されて、舞踏に加わることを勧められた時、自国ではこの種の仕事をして見せるには特別の女子の一団が宛(あて)がわれると、ぶっきらぼうに答えた。私は王に同情する。

 我が婦人の芸事は見せる為もしくは売り出しの為に習得されるものではない。それは家庭的気晴らしであった。社交の席に於いてその技を示すことがあっても、それは主婦の接待務めとして、換言すれば、家人が客を歓待する方法の一部としてであった。家庭的愛着が教育を導いた。旧い日本の女性の芸事目的は、性質に於いて武芸たると平和的なものたるとを問わず、主として家庭の為であったと言い得る。しかしながら、彼女らは如何に遠く離れてさまようとも、決して炉辺の光景を忘れることはなかった。彼女らは、家の名誉と威厳を維持せんが為に苦労、労役し、命を投げ出した。日夜、強く又優しく、勇ましく又哀しき調べをもって、彼女らのささやかな巣に歌いかけた。

 女性は、娘としては父の為に、妻としては夫の為に、母としては子の為に、己を献身した。かくして幼少の頃から、彼女は自己否定を教えられた。彼女の一生は独立の生涯ではなく、奉仕の生涯だった。男性の助けとして、彼女の存在が役立てば、夫と共に舞台の上に立ち、もし夫の働きの邪魔になれば、彼女は幕の後ろに引く。或る青年が或る少女を恋し、乙女も同じ熱愛をもって彼の愛に報いたが、青年が彼女に心惹かれて義務を忘れるを見て、乙女は自己の魅力を失わしめる為に己が美貌に傷つけたる如き事の起こりしも稀ではなかった。 「吾妻(あづま)」、それはサムライの娘たちが理想の妻と仰ぐ妻のことであるが、かくの如し。彼女は、己が夫の仇によって恋慕される身となった。彼女は、不義の計画に与することを装い、闇にまぎれて夫の身代りに立ち、恋の刺客の剣をば己の貞潔なる首に受けた。

 或る若き大名(木村重成)の妻が自刀に先立ちて書き遺したる次の手紙は、何らの注釈を要しないであろう。「一樹の蔭、一河の流れ、これ他生の縁と承り候が、さてもおととせの頃おいよりして、偕老の契りをなして、ただ影の形に添うが如く思い参らせ候に、この頃承り候えば、この世限りの御催しの由、陰ながら嬉しく存じ参らせ候。唐土の項王とやらんは世に猛き武士なれど、虞氏の為に名残りを惜しみ、木曽義仲は松殿の局(つぼね)に別れを惜しみとやら。されば世に望み窮まりし妾(わらわ)が身にては、せめては御身在生の中に最後を致し、死に出の道とやらんにて待ち上げ奉り候。必ず必ず秀頼公の鴻恩御忘却なきよう頼み上げ参らせ候」。

 女子がその夫、家庭並びに家族の為に身を棄てるは、男子が主君と国の為に身を棄てると同様の喜びであった。自己否定、これなくしては何ら人生の謎は解説され得ず、男性の忠義に於けると同様に女性の家庭の切り盛りの基調であった。女性が男性の奴隷でなかった。このことは、彼女の夫が封建君主の奴隷でなかったと同様である。女性の果たしたる役割は内助即ち「内助の功」として認められていた。奉仕の上向秤に於いて、女性は男性の為に己を棄て、これにより男性をして主君の為に己を棄てるを得しめ、主君は又これによって天に従う。

 私は、この教訓の欠陥を知っている。そして、キリスト教の優越ほど、生きとし生ける人間各自に創造者に対する直接の責任を要求する点に於いて宣言されているものは他にはどこもない。にも拘わらず、奉仕の教義に関する限り、自己自身即ち自己の個性を犠牲にしてより高き目的に仕えることでは、キリストの教えの中最大であり彼の使命の神聖なる基調を為している奉仕の教義に於いて、これに関する限りにおいて、武士道は永遠の真理に基づいている。

 読者は、私を、意志の奴隷的服従を称揚するとの不当の先入観を抱く者として咎めないであろう。私は、ヘーゲルの「歴史は自由の展開及び実現である」を、その思想の深遠さを学び擁護する立場で、その見解をば大体に於いて受け入れる。 私の明らかにせんと欲する点は、武士道の全教訓が自己犠牲の精神によって完璧に染められており、それは女性のみでなく男性についても要求せられたと云うことである。従って、武士道の教訓の感化が全く消失するに至るまでは、我々の社会は、或るアメリカ人の女権論代表者が「全ての日本の女性が旧来の習慣に反逆して決起せんことを」と叫んだ軽率なる見解を認めないだろう。

 かかる反逆は女性の地位を向上せしめるだろうか。かかる軽率によって獲得する権利は、彼らが今日受け継いでいるところより起りし道徳的腐敗を見れば、そういう方向へ向かう悦楽気分の喪失で報いられているのではないのか。アメリカ人の改良家は、「我が国女性の反逆は歴史的発展のとるべき真の経路である」などと説くが確言し得るのか。これは重大問題である。変化は反逆を待たずして来ねばならず、来るであろう。今暫く、武士道の制度下に於ける女性の地位が果たして反逆を是認するほど実際に悪しきものであったのか否かを見ようではないか。

 我々は、ヨーロッパの騎士が「神と淑女」に捧げたる外形的尊敬について多くを聞いている。この二語の不一致はギポンをして赤面せしめしところである。ハラムは、「騎士道の道徳は粗野であり、婦人に対する慇懃は不義の愛を含んでいる」とも述べている。騎士道の女性(weaker  vessel)に及ぼしたる影響は、哲学者に思索の糧を提供した。ギゾー氏が「封建制度と騎士道は健全なる影響を与えた」と論じているのに対し、スペンサー氏は「軍事社会に於いては(しかして封建社会は軍事的にあらずして何ぞ)、女性の地位は必然的に低く、それは社会が産業的となるに伴ってのみ改良される」と述べた。さて、日本については、ギゾー氏の説とスペンサー氏の説といずれが正しいか。答えて、私は、両者ともに正しいと確言し得る。

 日本に於ける軍事階級はほぼ約200万人から編成されるサムライに限られていた。その上に、軍事貴族たる大名と宮廷貴族たる公卿(くげ)とがいた。これらの身分高く奢侈的貴族たちは、ただ名称に於いてのみ武人たるに過ぎなかった。武士の下には平民大衆がおり、即ち職人、商人、農民がおり、これらの者の生活は専ら平和の業務に携わっていた。かくして、ハーバート・スペンサー氏が軍事的形態の社会の特色として挙げるところのものは専らサムライ階級に限られていたと云うことになるだろう。これに反し、産業的形態社会の特色は、その上と下との階級に適用せられ得るものであった。

 このことは女性の地位によりて能く説明できる。と云うのは、婦人が最も少なく自由を享有したのは武士の間に於いてであった。奇態なことには、社会階級が下になればなるほど、例えば職人の間に於いては、夫婦の地位は平等であった。身分高き貴族の間に於いても又、両性間の差異は著しくはなかった。これは主として、有閑貴属は文字通りに女性化した為、性の差異を目立たしめる機会が少なかりし故である。かくしてスペンサーの説は旧日本に於いて十分に例証せられた。ギゾーの説に関しては、彼の封建社会観を読みし者は、彼が特に身分高き貴族をば考察の対象と為したることを覚えているであろう。従って、彼の概括.は大名及び公卿に適用せられるものである。

 私は、もし私の言が武士道の下に於ける女性の地位に関し、甚だ低き評価を人に抱かしめたとすれば、私は歴史的真理に対し大なる不正なる罪を犯したことになるだろう。私は、女性が男性と同等に待遇されなかったと述べるのに躊躇しない。しかしながら、我々が差異と不平等との区別をば学ばざる限り、この問題についての誤解を常に免れないであろう。男性でさえ相互の間に平等なるは、法廷もしくは選挙投票等の例でも分かるように、極めて少数の場合に過ぎざることを思えば、男女間の平等についての議論をもって我々自らを煩わす如きは無駄と思われる。アメリカの独立宣言に於いて、全ての人は平等に創造せられたと云われているのは、何ら精神的もしくは肉体的能力に関するものではない。それは、昔、アルピアンが、法の前には万人平等であると述べたことを繰り返しているに過ぎない。この場合に於いては、法律的権利が平等の尺度であった。

 もしも法が社会に於ける女性の地位を計るべき唯一の秤(はかり)であるとせば、その地位の高い低いを告げるのは、彼女の体重をポンド、オンスで告げるのと同様容易なことである。しかし、問題はこうである。男女間の相対的なる社会的地位を比較すべき正確なる標準は何か。女性の地位を男性のそれと比較するに当り、銀の価値を金の価値と比較するが如きにしてその比率を数字的に出すことが正しいか、それで足りるか。かかる計算の方法は人間の持つ最も重要なる種類の価値、即ち内在的価値を考察の外に置くものである。男女各々その地上に於ける使命を果たす為、必要とされる資格の種々多様なることを考えれば、両者の相対的地位を計る為に用いられるべき尺度は複合的性質のものでなければならない。もしくは、経済学の用語を借りれば、複本位でなければならない。

 武士道はそれ自身の本位を有した。それは両本位であった。即ち女性の価値をば戦場並びに炉辺によって計ったのである。前者な於いては女性は甚だ軽く評価されたが、後者に於いては丸ごと評価された。女性に与えられたる待遇は、この二重の評価に応じた。社会的政治的単位としては高くはなかったけれども、妻及び母としては最も高き尊敬と最も深き愛情とを受けた。

 ローマ人の如き軍事的国民の間にありて、女性が高き尊敬を払われたのは何によるか。それは彼らがマトロネ―(matrona)即ち母であったからではないのか。ローマ人は戦士もしくは立法者としてではなく、母として女性の前に身を屈(かが)めた。我が国民についても同様である。父や夫が戦場に出て不在なる時、家事を治むるは全く母や妻の手に委ねられた。若者の教育、その防衛すらも、彼女らに託された。私が前に述べた女性の武芸の如きも、主として子女の教育をば賢しく指導するを得んが為であった。

 私は、半解の外国人の間で、日本人が俗に自分の妻をば「愚妻」などと呼ぶのを見て、妻を軽蔑し尊敬せざるものとみなす皮相の見解が行われていることに気づかされている。 しかし、「愚夫」、「豚児」、「拙者」等々の語は、日常使用されていることを告げれば、それで答えは十分明瞭ではなかろうか。

 私には、我が国民の結婚観は或る点に於いてはいわゆるキリスト教徒よりも進んでいるように思われる。「男と女と合いて一体となるべし」。アングロ・サクソン系の個人主義のもとでは、夫と妻は別の二人の人間であるという考え方から抜け出すことができない。その為、二人がいがみ合う時は、それぞれに権利が認められ、彼らが相和す時には、あらゆる種類の馬鹿馬鹿しき相愛の語や無意味(nonsensical)な阿諛の言葉のありたけを尽す。夫もしくは妻が他人に対し、互いの半身のことを、良き半身か悪しき半身かは別として、愛らしいとか、聡明だとか、親切だとか何だとか云うのは、我が国民にの耳には極めて不合理に響く。

 自分自身のことを、「聡明な私」とか「私の愛らしい性質」などと云うのは良い趣味だろうか。我々は、自分の妻を褒め、もしくは夫を褒めるのは自分自身の一部を褒めるのだと考える。しかして我が国民の間では、自己称賛は少なくとも悪趣味だと看做されている。しかして、私は希望する。キリスト教国民の間にありても同様ならんことを。自己の配偶者を社交辞令的に貶(けな)して呼ぶことはサムライの間に通常行われたる習慣であったから、私はかなり長く横道に入って論じた次第である。

 チュートン人種は女性に対する迷信的畏怖をもってその種族的生活を始め、(これはドイツに於いては実際消滅ししあるが)、又アメリカ人は女性の人口不足と云う痛ましい自覚の下にその社会生活を始めた。(アメリカの女性人口も今は増加して、植民地時代の母性の有したりし特権を急速に失いつつあるのではないかと、私は恐れる) 従って、西欧文明に於いては、男性が女性に対して払う尊敬が道徳の主要なる標準となったのである。しかし、武士道の武的論理に於いては、善悪を分かつ主要の分水嶺は他の点に求められた。それは、人をば己の神聖なる霊魂に結び、しかる後私が本書の初めの部分にて述べし五倫の道に於いて他人の霊魂に結ぶ、義務の線に添うて居所を据えた。私は、本書の初めの部分で言及した。この五倫の中、読者に、忠義即ち臣下たる者と主君たる者との関係について説くところがあった。その他の点については、ただ折に触れて付言したに過ぎない。けだしそれらは武士道に特異なものではなかったからである。それらは自然的愛情に基づくものとして、当然全人類に共通であった。

 但し二、三の特殊の点に於いて、武士道の教訓から導き出される事情により、それの強められたることはあり得る。これに関連して私は、男性相互間に於ける友情の特別なる力と優しさを想起する。これはしばしば兄弟の盟約に対しロマンチックなる愛慕を付加したのであり、しかしてこの愛慕の情が青年時代に於ける男女別居の習慣によって強められたことは疑いない。けだし、この別居は、西欧の騎士道もしくはアングロ・サクソン諸国の自由交際に於ける如き愛情の自然的流露の途を塞いだのである。デ―モンとピシアス、もしくはアキレウスとパトロクロスの物語の日本版をもってページを埋めることは困難ではない。或いはダビデとジョナサンとを結びしに劣らぬ如き深き友情をば、武士道物語の中に述べることもできよう。

 私は、少女がイングランドから輸入され、相当なるタバコのポンドを得る為に結婚させられた時の日々に言及する。 しかしながら、武士道特有の徳と教えとが、武士階級のみに限定せられなかったことは怪しむに足りない。このことは、我々をして武士道の国民全般に及ぼしたる感化の考察に急がしめる。

れんだいこのカンテラ時評№1042  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 6月11日

「第15章 武士道の感化影響力」(THE INFLUENCE OF BUSHIDO)

 我々は、武士道の徳目の連山としてそびえる多くの際立つ山脈中僅かの峰を考察したに過ぎない。それらは、それぞれに於いて我々の国民生活の一般的水準よりもはるかに抜きん出ているものである。太陽の昇る時、まず最高峰の頂をば紅に染め、それから漸次にその光を下の谷に投ずるが如く、まず武士階級を照したる倫理体系は時を経るに従い大衆の間からも追随者を産むことになった。平民主義(Democracy)はその指導者として天性の皇子を興し、貴族主義は民衆の間に皇子的精神を注入する。徳は罪悪に劣らず伝染的である。「仲間の間にただ一人の賢者があれば良い。然らば全てが賢くなる。それほど伝染は速やかである」とエマソンは言う。如何なる社会的階級もしくは制度も道徳的感化の伝播力には抵抗し得ない。

 アングロ・サクソンの自由の勝ち誇れる進軍について、どう吹聴するも可であるが、それが大衆から刺激を受けたことは稀であった。むしろそれは大地主.と紳士の事業ではなかったか。テ―ヌ氏が「海峡の彼方にて用いられるこの三綴りの語(ゼントルメン)は、イギリス社会の歴史の要約である」と言えるは、真に然りである。平民主義派はかくの如き言に対し、自信に満てる反駁を加え、問いを返して言うであろう。「アダムが耕しイブが紡いだ時、どこにゼントルマンはいたか」と。

 ゼントルマンがエデンに居なかったことは全く悲しむべきことであった。人類の始祖は、彼の不在により甚だしく苦しみ、これに対し高き代価を払った。もし彼がそこにいたなら、楽園はさらに多大の風流をもって装われたのみでなく、始祖は苦痛の経験を舐めることなくして、エホバに対する不従順は不忠にして不名誉、謀反にして反逆なることを学び得たであったろう。

 過去の日本はサムライの賜物である。彼らは国民の花たるのみでなく、又その根であった。あらゆる天の善き賜物は彼らを通して流れ出た。彼らは社会的に民衆より超然として構えたけれども、これに対して道徳の規範を定め、自らそれを守って模範を示すことで民衆を導いていったのである。私は、武士道に秘義及び対外的教訓のありしことを認める。後者は社会の安寧幸福を求める福利主義的なものであり、前者は彼ら自身の為に行う徳の実践を強調するものであった。

 ヨーロッパの騎士道の最盛期においても、騎士は数的には人口の一小部分を占めたるに過ぎない。しかし、エマスンの言える如く、「英文学に於いてはサ―・フィリップ・シドニーよりサ―・ウォルター・スコットに至るまで、戯曲の半分と全ての小説がこの人物(ゼントルマン)を描写した」のである。シドニー及びスコットの代わりに近松及び馬琴の名を記せば、日本文学史の主なる特色をきわめて簡潔に表わすことになる。民衆娯楽と民衆教育の無数の並木道、即ち芝居、寄席(よせ)、講釈、浄瑠璃、小説は、その主題をサムライの物語から取った。

 農民は、粗末な家の炉火を囲んで、義経とその忠臣である弁慶、もしくは勇ましき曽我兄弟の物語を繰り返して飽かず、色黒き腕白は茫然口を開いて耳を傾け、最後の薪(まき)が燃え尽きて余塵が消えても、今聴きし物語によって心がなお燃え続けた。番頭、小僧は、一日の仕事を終えて店の雨戸を閉めれば、一緒に集まり、信長と秀吉の話に耳を傾け、夜を更(ふか)し、遂に睡魔がその疲れたる目を襲うまで、彼らを帳場の苦労から戦場の功名へと夢中にさせた。よちよち歩き始めたばかりの幼児でさえ、鬼が島征伐を敢行した桃太郎の冒険譚を廻らぬ舌で語らされた。少女でさえ、武士の武勇と徳を慕う念厚く、デズモデモナの如く、サムライの恋愛小説(romance)に熱心に耳を傾けること尋常ならざるものがあった。

 サムライは、日本人全体の洒落た理想となった。「花は桜木、人は武士」という言葉が流行り民衆に歌われた。軍事階級は商業的利益追求を禁ぜられたので、直接には商業を助けなかった。しかし、如何なる人間活動の水路も、如何なる思想の並木道も、或る程度に於いて武士道より刺激を受けざるはなかった。知的及び道徳的日本は、直接間接に騎士道の所産であった。

 マロック氏は、その優れて暗示に富む著書「貴族主義と進化」に於いて雄弁に述べて曰く、「社会進化は、それが生物進化と異なる限り、偉人の意志の無意識的結果なりと定義して良かろう」と。又曰く、歴史上の進歩は、「社会一般の間に於ける生存競争によるものではなく、むしろ社会の少数者間に於いて大衆をば最善の道に於いて指導し、指揮し、使役せんとする競争」によって生ずる」と。氏の議論の適切さについての批評はともかくとして、以上の言は、我が帝国既往の社会進歩上、武士の果たしたる役割によって豊かに証明された。

 武士道精神が如何にすべての社会階級に浸透したかは、平民主義の天性の指導者にして「男だて」として知られる特定身分の人物の発達によっても知られる。彼らは剛毅の者であって、身体中男らしさの塊のような力に満ち溢れていた。或る時には一般大衆を代表し、その権利を守る者として、彼らは各々数百数千の子分を従えていた。子分たちは親分に対し、武士が大名に対したると同じ流儀で自分の「肢体、命、身体、財産、この世における名誉」を喜んで捧げた。過激にして向こう見ずな働きをする子分たちを多数従え、彼らの生まれながらのボスたちは、二本差しの連中が増長しすぎるのを手強く監視する阻止力を構成していた。

 武士道は、その最初発生したる社会階級より多様な道を通りて流下し、さまざまな形で大衆の間に酵母(パン種)として作用し、日本人全体に対する道徳的規準を供給した。騎士道の最初はエリート(elite)の光栄として始まったが、時を経るに従い国民全体の渇仰(かつごう)及び霊感となった。しかして、平民は武士の道徳的高さまでは達し得なかったけれども、「大和魂」は、「日本の心」として、遂には島帝国の民族精神(Volksgeist)を表象するに至った。もし、宗教なるものが、マシュー・アーノルドの定義したる如く、「情緒によって味付けされた道徳」に過ぎないとすれば、武士道ほど宗教と呼ぶに相応しい倫理体系は滅多になかろう。本居(本居宣長)は、国民の声にならない声をこのような歌にしている。「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山桜花」。

 然り。桜は古来我が国民の愛花であり、我が国民性を表す象徴であった。特に歌人が用いている鮮明なる語に注意せよ。「朝日に匂う山桜花」の語を。大和魂は、やわな栽培種の植物ではない。自然に成長したという意味で野生種である。その土地の固有種である。その偶然的なる性質については、他の土地の花と共通する性質もあるだろう。だが、その本質に於いては我が風土に固有に自然的に発生したものである。しかし、その土着性が、我々に愛情を抱かせしめる唯一の理由ではない。その洗練された美しさと優雅さが、他のどんな花よりも日本人の美的感覚に訴えるからである。

 我々は、ヨーロッパ人のバラに対する賛美を分かつことはできない。なぜなら、バラには桜のような簡素さがないからである。更にまた、バラはその美しい姿の陰にトゲを隠している。そして、生命に対する執着すること強靭なものがある。時ならず散らんよりもむしろ枝上に朽ち、もしくは死を恐れている。枝上にて朽ちるを選び、その華美なる色彩、濃厚なる香気、全てこれらは我々の花と著しく異なる特徴である。我が桜はその美の下に刃をも毒をも潜めず、自然の召しのままに何時なりとも生を棄て、その色は華麗ならず、その香りは淡くして決して人を飽かしめない。

 色や形の美しさは、外から見えるものに限られている。それは存在することにより定められる性質のものである。これに反し、香気は浮動し、命の息吹のように霊妙なである。それで、あらゆる宗教的儀式に於いて、香と没薬(もつやく、香気のある樹脂; 香料)が非常に重要な役割を果たすのである。香りには何か霊的なものがある。桜のかぐわしい香りが朝の空気を輝かせ、太陽が昇り、その最初の光が極東の島国を照らす時、この朝の空気を吸い込むほど穏やかで晴れやかな気分になるものはない。

 その空気は、いわば、その美しい一日の息吹そのものだ。創造主自身、かぐわしい香りをかいで新たな決意を固めた時(「創世記」第8章21)、桜の花が甘く香る季節、日本人はこぞってその小さな家を出て野に遊ぶのに何の不思議があろうか。その期間、人々があくせく働くのをやめ、心の憂さや悲しみを忘れたとしても、彼らを責めないでほしい。短き楽しみが終われば、彼らは新たな力と決意を抱いて再び日々の仕事に戻っていく。

 かように桜はいろいろな意味で国民の花なのである。しからば、かく甘美にして儚(はかな)い、風のままに吹き去られ、芳しい香りを放ちながら、今にも永久に消え去ろうとしている、この花が大和魂の型なのだろうか。日本の魂はかくも脆(もろ)く消えやすきものなのだろうか。

れんだいこのカンテラ時評№1043  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 6月12日

「第16章 武士道の生命力考(武士道はなお生くるか)」(IS BUSHIDO STILL ALIVE?)

 (上記のように、武士道は武士と呼ばれた階級に属した人々により形成され、その心は日本人全体に受け継がれていった。しかし、明治維新によって武士階級は姿を消し、武士道が育まれた土壌は消え去ってしまった)

 では、急速にわが国に広まった西洋文明によって、日本古来の教えはすっかり消え去ってしまったのだろうか。或る国の魂がかくも急速に死んでしまうとしたら悲しむべきことだ。外からの影響にかくも易々と屈服するような魂は貧弱な魂である。国民性を構成する心理的要素の集合体は、「魚のひれ、鳥のくちばし、肉食動物の牙の如くその種族の除くべからざる要素」の如くに粘り強いものである。

 浅薄なる独断と華美なる概括に満ちた近著に於いて、ル・ボン氏は次のように述べている。「知性に起因する種々の発見は人類共通の世襲財産である。性格の長所や短所は各国民の占有的な世襲財産である。それらは何世紀にも亘り洗われるまでは、仮に一世紀間を日夜水で洗い流したとしても、(表面のざらつきもなめらかにならない)硬い岩のようなものだ」。これは強き言葉である。しかして、極めて熟考の値打ちある言であろう。各民族に占有的な世襲財産を構成する性格の長所短所を前提としてのものだが。

 然るに、この種の公式的学説は、ル・ポン氏がその著書を書き始める遥か前から提起されており、既に久しき前にテオド―ルワイツ及びヒュー・マレーによって粉砕されたものである。武士道によって侵潤せしめられたる種々の徳を研究するのに際し、我々はヨーロッパの典拠より比較と例証を引用した。そして、その一つの特性のどれも占有的世襲財産ではなかったことを確認した。

 道徳的諸特性の合成体が全く新奇(unique)なる形相を呈すると云うのは本当である。この合成体とは、エマスンが名付けて言うところの「あらゆる偉大なる力が分子として入り込むところの複合的効果」である。しかし、ルポンの言「或る民族もしくは国民の占有的な世襲財産」の代わりに、コンコルドの哲学者の言はこうである。「各国の最も有力なる人物を結合し、彼らをして相互的に理解し同感せしむる要素である。しかしてそれは或る個人がフリーメーソンの暗号を用いずとも直ちに感知し得る程度に明瞭な何ものかである」。

 武士道が我が国民に特に武士の上に刻印したる性格は「種族の除くべからざる要素」を形成するとは言い得ないが、それにも拘わらず、その保有する活力については疑いない。仮に武士道が単なる物理力であるとしても、過去7百年間にその獲得したる運動量はそんなに急に停止することはできない。それが単に遺伝によって伝えられたとしても、その影響は広大なる範囲に及んでいるに違いない。

 試みに思えば良い。フランスの経済学者シェイソン氏の計算したるところによれば、一世紀には三代あるものと仮定して、「各人はその血管の中に少なくとも西暦1千年に生きていた2千万人の血液を持っている」と云う。「世紀の重荷に腰を屈めて」土を耕せる貧農は、その血管の中に数時代の血液を持っており、かくして彼は「牛と」兄弟である如く我々とも兄弟なのである。

 武士道は、或る無意識的なるものとして、且つ抵抗し難き力として国民と個人を動かしてきた。近代日本の建設に最も輝かしい先駆者の一人たる吉田松陰は、処刑される直前に次のような歌を読んでいる。それは、日本人の正直な気持の告白であった。「かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」。

 武士道は、きちんとした体系を持っていたわけではなく、それは現在でも変わりがないが、我が国の活動精神、原動力であった。ランサム氏は云う。「今日では各々別個の日本が併存している。一つは、未だ滅びずに残っている古き日本、一つは、漸く精神に於いて生まれたばかりの新しい日本、次に産みの苦しみのさなかにある移行期の日本である」。この見解は、ほとんどの点において非常に正しい。特に形のある具体的な制度についてはよく当てはまる。しかし、これを根本的な倫理観念に当てはめるには多少の修正が必要である。と云うのも、古き日本を作り出した武士道は、移行期の日本においても未だに指針原理であり、さらに新しい時代の形成力たることを実証するであろうから。

 王政復古の暴風(hurricane)と国民的維新の旋風との中を我が国船の舵取りし偉大な政治家たちは、武士道以外の道徳的教訓を知らざりし人たちであった。近頃、二、三の著者は、キリスト教の宣教師が新日本の建設に著大なる割合で貢献をしたと云うことを証明しようと試みている。私は、名誉を帰すべきものに名誉を帰すことにやぶさかではないが、この名誉は、未だ善良なる宣教師たちに授与せられ難きものである。裏づけとなる証拠が何もないものに要求を後押しするよりも、名誉を互いに譲り合うべしとする聖書の戒めに従うことの方が彼らの職業には一層相応しいだろう。

 私一個人としては、キリスト教の宣教師が日本の為に教育分野に於いて、又特に道徳教育の領域に於いて、偉大なる何がしかのことを為しつつあることを信じている。但し、精霊の活動は確実ではあるが神秘的であって、なお神聖なる秘密の中に隠されている。宣教師たちが行っていることは未だ間接的な効果しか生んでいない。否、未だキリスト教伝道が新日本の性格形成上、貢献したるところは殆ど見られない。否、我々を駆り立てたものは、良かれ悪しかれ単純明快、武士道そのものであった。

 現代日本を作った人々の伝記を開いてみよう。佐久間象山、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允。現に生きている伊藤博文、大隈重信、板垣退助等の回想録は言うまでもない。彼らの思想や働きに影響を及ぼしたものはサムライ道の刺激の下であったことがわかるはずだ。ヘンリー・ノーマン氏は、極東について研究し観察した後、日本が他の東洋の専制国家と唯一異なる点はとして次のように述べている。「人類が創り出した中でも最も厳格で、最も高遠で、最も細部まで行き届いた名誉の基準が、国民全体に支配的な影響を与えている」。氏は、新生日本が今ある如く作られ且つ将来なるべく運命づけられている姿に形づくっていくであろう主因に触れている。

 日本が変貌を遂げたことは、全世界に知れ渡った事実である。これほど大規模な活動には、当然のことながら様々な動機が入り込んでいる。だが最も主要な動機を挙げるとすれば、人は躊躇なく武士道を挙げるだろう。全国に外国貿易港を開いた時、生活の各方面に最新の改良を導入した時、西洋の政治や科学を学び始めた時、我々を導いてきた原動力、物質的な資源を開発して富を増やしたいという動機ではなかった。ましてや、闇雲に西洋の習慣を真似しようというものでもなかった。

 東洋の社会制度や人民を詳しく観察してきたタウンゼンド氏が次のように記している。「毎日のようにヨーロッパが如何に日本に影響を与えてきたかということが話題になる。そして、この島国で起こった変化が完全に自力発生したものだということを私たちは忘れている。ヨーロッパ人が日本に教えたのではない。日本自身が、組織や市民や軍事的な組織のヨーロッパ的手法を学ぶ選択をしたのだ。そして、今のところその選択は成功している。日本は、トルコ人がかってヨーロッパから大砲を輸入したようにヨーロッパの機械工学を輸入した。それは厳密に言うと影響ではない」。

 タウンゼンド氏は続けて言う。「中国から茶を輸入したイギリスが中国から影響を受けたというのではない限りは」と。タウンゼンド氏は又問うて言う。「日本を改造したヨーロッパの使徒、哲学者、政治家、扇動者はどこにいるのか」と。タウンゼンド氏が日本の変化を引き起こした原因は完全に日本国内にあると認識したことは誠に卓見である。そして、氏が日本人の心理について探ったならば、氏の鋭い観察眼は、この源泉が他ならぬ武士道であったことをすぐに確信したであろう。劣等国として見下されることに耐えられない名誉心。それが最も強力な動機だった。金銭的に豊かになることや産業を発展させようという考えは、改革の過程で後に目覚めたものである。

 武士道の影響は、走者も読み得るほどに容易に認められる。日本人の生活を少し覗いてみればそれは一目瞭然である。日本人の心の最も雄弁にして且つ解釈者であるハーンの著を読めば、彼の描写する心の働きは武士道の働きの一例であることを知るであろう。日本人に広く行き渡った礼儀正しさは、武士道の生き方を受け継いだものであり、こと新しく繰り返すに及ばざる周知の事実である。「ちびのジャップ」がどれほど身体的に強い耐久力を持ち、どれほど忍耐強く且つ勇敢だったかは、日清戦争で十分に証明された。「これほど忠実で愛国心あふれる国民がいるだろうか」とは、多くの人に発せられる質問である。 これに対して「世界無比」と誇りを持って答えるられるのも武士道の賜(たまもの)であると感謝せねばならない。

 他方で、我が国民の性格の欠点、短所の多くも、武士道が大いに責任があることを認めるのが公平と云うものである。我々に深遠な哲学が存在しないのは、我が国の青年には科学的研究に於いて既に世界的名声を得た者がいる一方で、哲学的方面ではそのような学者は一人もいない。このことは、武士道の教育体制下では形而上学的な思考訓練が軽視されてきたことが影響している。我々の名誉感が過剰に感情的なことや、事に激し易いことに原因がある。そして又、もし、外国人が見て非難すべき自負うぬぼれが我々にあるとすれば、それも又名誉心の病的結果のものである。

 あなた方は、日本漫遊時に、多くの若者が、蓬髪弊衣(ほうはつへいい)、大きなcaneもしくは書物を手にし、「我、世事関せず」の態度で往来を闊歩するを見たであろう。彼は書生(学生)であり、彼にとりては地球は狭過ぎ、天は高しといえどもまだ十分なものではない。彼は、宇宙及び人生について彼独自の理論を持っている。彼は、空中楼閣に住み、且つ霊妙な知の言葉を食っている。彼の眼は野望の火に輝き、その心は知識を渇望している。貧窮は、彼を漸進せしめる刺激に過ぎず、この世の財宝は彼の品性に対する視界の束縛であると看做す。彼は、忠君愛国の宝庫である。彼は、国民的名誉の番人であることを自任する。その美徳及び欠点の一切を挙げて、彼は武士道の最後の残存断片者である。

 武士道の影響力はいまだに深く強く根づいており且つ強きものがあるが、前にも述べた通り、それは無意識的且つ無言の感化である。日本国民の心は、理由がわからないまま、過去から受け継いだものに訴えて来るものには何にでも応答する。それ故、同じ道徳観念でも、新たに翻訳された言葉で表現された場合と古くからの武士道の言葉で表現された場合では、その効力に大きな差が生まれてくる。

 或る信仰の道より離れしキリスト者は、牧師の如何なる忠告も彼を堕落の傾向より救い得なかったが、彼がその主にひとたび誓いし誠実即ち忠義の念に訴えられるや、翻然として信仰に復帰した。「忠義」という一語が、微温的と成るに任せられていた全ての高貴なる感情を復活せしめたのである。

 とある学校に於いて、或る教授に対する不満を理由として、一団の乱暴なる青年たちが学生ストライキを長く継続していたが、校長の出した二つの簡単な質問によって解散した。それは、「諸君の教授は高潔なる人物であるか。もし然らば、諸君は彼を尊敬して学校に留まるべきである。彼は弱き人物であるか。もし然らば、倒れる者を押すは男らしくない」というのであった。その教授の学力欠乏が騒動の始まりであったのだが、それは校長の暗示したる道徳的問題に比すれば、取るに足らない問題となってしまったのである。かくの如く、武士道によりて涵養せられたる感情を換気することによって、極めて重大なる道徳的刷新が成就せられ得るのである。

 我が国におけるキリスト教伝道事業失敗の一原因は、宣教師の大半が我が国の歴史について全く無知なることにある。或る宣教師は言う。「異教徒の記録などに頓着する必要があろうか」と。その結果として、彼らの宗教をば、我々並びに我々の祖先が過去何世紀にも亘りて継承し来れる思索の習性から切り離してしまうのである。しかしそれは、その国民の歴史を侮辱しているのではないのか。どのような人々の経歴も、何らの記録をも所有せざる最も遅れたるアフリカ系原住民の経歴でさえも、神御自身の手によりて書かれたる人類総合史の一ページを為していることを彼らは知らないのである。

 滅亡したる種族さえも、具眼の士によりて判読せられるべき古文書である。哲学的且つ敬虔なる心には、各人種は神の書き給いし記号であって、或いは黒く或いは白く、皮膚の色の如く明らかに跡を辿り得るものである。そして、もしこの比喩を良しとするならば、黄色人種は金色の象形文字をもって記されたる貴重の一ページを成すものである。

 或る人たちの過去の経歴を無視して、宣教師らは、キリスト教は新しい宗教だと要求する。私の考えでは、それは「古き古き物語り」であって、もし分かり易い言葉をもって表現せられるならば、即ち、もし或る人たちがその道徳的発達上聞き]慣れている;語彙をもって表現せられるならば、人種もしくは民族の如何を問わず、その心に容易(たやす)く宿り得るものである。アメリカ的もしくはイギリス的形式のキリスト教、それはキリスト教創始者の恩寵と純潔よりもむしろ、より多くアングロ・サクソン的恣意的妄想を含むキリスト教であるのだが、それは武士道の幹に接木するには貧弱なる接ぎ穂である。

 新しい信仰の宣伝者たる者は、幹、根、枝を全部根こそぎにして、福音の種子を荒地に播くことを為すべきだろうか。かくの如き英雄的手法は、ハワイでは可能であるかも知れない。ハワイでは、戦闘的教会が冨そのものの大量の搾取と原住民種族の絶滅とに於いて完璧の成功を収めたと噂されている。しかしながら、かかる手法は日本に於いては全く断じて不可能である。否、それはイエス御自身が地上に彼の王国を建てるに於いて決して採用し給わざるやり口である。

 我々は、聖徒、敬虔なるキリスト者、且つ深遠なる学者(ジョエット)の述べし次の言葉にもっと耳を傾けることが必要である。即ち、「人は、世界を異教徒とキリスト教徒に分かち、しかして一方に如何ほどの善が隠されているか、又は他方に如何ほどの悪が混じっているかを考察しない。彼らは、自己の最善なる部分をば隣人の最悪なる部分と比較し、キリスト教の理想をギリシャもしくは東洋の腐敗と比較する。彼らは公明正大を求めない。しかし、自己の宗教の美点として言われ得る全てのことと、他の宗教形式を貶す為に言われ得る全てのこととを集めて、もって満足している」。

 しかし、個々人によって如何なる間違いが犯されたにせよ、彼ら宣教師の信ずる宗教の根本的原理は、我々が武士道の将来を考えるについて計算に入れねばならない強い力であることは疑いない。武士道の日は既に数えられるようになったように思われる。その将来を示す不吉の兆候が空にある。兆候ばかりでなく、恐るべき諸勢力が働いて武士道を脅かしつつある。

れんだいこのカンテラ時評№1044  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 6月13日

 第17章 武士道の将来(THE FUTURE OF BUSHIDO)

 ヨーロッパの騎士道と日本の武士道ほど適切なる歴史的比較を為し得るものは稀である。しかしてもし歴史が繰り返すものとすれば、後者の運命は必ずや前者の遭遇したるところを繰り返すだろう。サン・パレ―の挙げる騎士道衰退の特殊的地方的原因は勿論日本の状態には適用せられない。しかしながら、中世及びその後において騎士道と騎士とを覆すに与りて力ありたる、より大且つより一般的なる諸原因は武士道の衰退に対しても確実に働きつつある。

 ヨーロッパの経験と日本の経験との間における一つの注目すべき差異は、ヨーロッパに於いては騎士道が封建制度から乳離れしたる時に、キリスト教会の養うところとなりて新たに寿命を延ばしたのに対し、日本に於いてはこれを養育するに足るほどの大宗教がなかったことである。従って、母制度たる封建制の去りたる時、武士道は孤児として遺され、自ら赴くところに委ねられた。現在の整備せられたる軍隊組織がこれをその保護下に置くことになるだろう。

 しかし、我々の知る如く現代の戦争は、武士道の絶えざる成長に対してささやかな余地しか供しない。武士道の幼児に於いてこれを保育したりし神道は、それ自体既に老いた。古代中国の聖賢はベンサムやミル型の知的成り上がり者によってとって代わられた。時代の排外主義的傾向に諂(へつら)う安逸な道徳教理、しかして今日の需要に上手に適合した思想が発明され提供せられた。しかし、今日なおその黄色き声が黄色新聞(yellow journalism)の紙面( columns)に反響するを聞くに過ぎない。

 諸々の権能及び権威が陣を張って騎士道に対抗している。既にヴェブレンの説くが如く、「儀礼的礼法の衰退、もしくは産業的諸階級間の生活のブルジョア化(vulgarization)とも換言することができるが、鋭敏なる感受性を持つ全ての人々の眼には次期文明の主なる害悪の一つと映ずるであろう」。勝ち誇れる平民主義の抵抗し難き潮流は如何なる形式もしくは形態のトラストをも許容しない。武士道は、知識及び教養の予備資本を独占する人々によりて組織せられたトラストであった。道徳的諸性質の等級及び価値を定めるトラストであった。

 平民主義は、武士道の遺産を呑みこむに足る十分なる力がある。現代の社会的諸勢力は哀れな階級精神に敵対している。そして、騎士道は、フリーマンの鋭く批評せる如く或る階級精神である。現代社会は、いやしくも何らかの統一を標榜する限り、「或る特権階級の利益の為に工夫せられたる純粋に個人的なる義務」を容認することができない。これに加えて、普通教育、産業技術及び習慣、冨並びに都会生活の発達がある。よって、サムライの刀の最も鋭利なる切れ味も、武士道の最強なる弓から放たれる最鋭の矢も、如何ともし難きを容易に知ることができる。

 名誉の巌(いわ)の上に建てられ、名誉によりて防備せられたる国家、これを名誉国家もしくはカーライルに倣(なら)いて英雄国家と称すべきか。この国家は、屁理屈の武器をもって武装せる三百代言の法律家や饒舌の政治家の掌中に急速に落ちつある。或る大思想家が、テレ―サ及びアンティゴ―ネについて述べた言葉はサムライに転じて述べても適切だろう。「彼らの熱烈なる行為を生みたる生活環境は永久に去った」。ああ悲しいかな武士の徳!慟哭せよサムライの誇り!鉦(かね)太鼓の響きをもって世に迎え入れられし道徳は、「将軍と王の去る」と共に消え行かんとする運命にある。

 もし歴史が我々に何ものかを教え得るとすれば、武徳の上に建てられたる国家は、スパルタの如き都市国家にせよ、或いはローマの如き帝国にせよ、地上に於いて「存立し続ける都」たることはできないと云うことである。人の闘争本能は普遍的且つ自然的であり、又高尚なる感情や男らしき徳性を生むものであるとはいえ、それは人の全てを理解するものではない。戦いの本能の下に愛に通ずる神聖なる本能が潜んでいる。

 我々は、神道、孟子、及び王陽明が明白にこれを教えていると判ずる。然るに武士道その他全ての倫理の武的な養成所は、疑いもなく直接の実際的必要ある諸問題に没頭する余り、往々にして右の事実を正当に力説するのを忘れた。(ブルジョア的)生活が後の時代になればなるほど益々成長しつつある。今日、我々の注意を要求しつつあるものは、武人の使命よりも更に高貴にして広き使命である。増幅せられたる人生観、平民主義の発達、他国民他国家に関する知識の増進と共に、孔子の仁の思想は、仏教の慈悲思想も又これに付加すべきか、それらはキリスト教の愛の観念へと拡大せられるであろう。

 人は臣民以上のものとなり、公民の地位にまで発達した。否、彼らは公民以上であり、人である。戦雲が我が水平線上を覆うとも、我々は平和の天使の翼が能くこれを払うことを信ずる。世界の歴史は、「柔和なる者は地を継がん」との預言を確証している。平和の長子権を売り、しかして産業主義の前線から後退して侵略主義の戦線に移る国家は、何と貧相な取引をするものか!

 社会の状態が変化して、武士道に反対なるのみでなく、敵対的とさえ成りたる今日は、その名誉ある葬送の準備をする時である。騎士道の死したる時を指摘することの困難は、その開始の正確なる時を決定するの困難なるが如くである。ミラー博士曰く、「騎士道はフランスのアンリ二世が武芸試合で殺された時の1559年をもって正式に廃止せられた。我が国に於いては1870(明治3)年の廃藩置県の詔勅が武士道の弔鐘(ちょうしょう)を報ずる信号であった。その2年後に公布せられし廃刀令は、「かけがえのない優雅な人生、安上がりの国防、男らしき情操と英雄的なる事業の保母」たりし旧時代を鳴り送りて、「詭弁家、経済家、計算家」の新時代の鐘の音を鳴らせた。

 或いは言う、日本が中国との最近の戦争に勝ったのは村田銃とクルップ砲によってであると。又言う、この勝利は近代的なる学校制度の働きであると。しかし、これらは真理の半面たるにも当らない。例えエールバ―もしくはスタインウェイの最良の製作にかかるものでも、名音楽家の手によらずして、ピアノそのもがリストのラプソディもしくはへ―ト―ベンのソナタを演奏し出すことがあるだろうか。さらに、もし銃砲が戦に勝つものならば、何故ルイ・ナポレオンはそのミトライユーズ式機関銃もってプロシヤ軍を撃破しなかったのであるか。或いはスペイン人はそのモーゼル銃をもって、それよりかなり劣る旧式のレミントン銃をもって武装したるに過ぎざりしフィリッピン人を破らなかったのであるか。

 言い古された言葉を繰り返すまでもなく、士気を鼓舞するものは魂である。それがなければ最高の道具も益するところが少ない。最も進歩せる銃や大砲も、自らひとりでに弾が出るわけではない。最も近代的な教育制度が臆病者を勇士に変身させるわけでもない。否、鴨緑江で、あるいは朝鮮半島や満州で、戦勝したのは我々の父祖の英霊である。英霊が我らが手を導き、我らが心臓に鼓動しているのだ。

 これらの英霊、我らが勇ましい祖先の魂は死んではいない。見るべき目を持っている者にははっきりと見える。最も進んだ思想日本人の皮を剥いで見よ、一皮むけばサムライが見えてくる。名誉、勇気、その他全ての武徳の鋳大なる遺産は、グラム教授がまことに的確に表現した如く、「だがそれは一時的に我々に預けられているだけで、本来は死せる者たち、そして来るべき世代の人々の神聖不可侵の封土である」。しかして現在の人達に下された命令は、この遺産を守ること。そして、古来よりの精神を一点一画をも損なわざることである。未来の人達に課された使命は、その精神が及ぶ領域を広げ、生活のあらゆる活動及び関係に応用していくことである。

 封建日本の道徳体系は城や兵器庫と同様に崩壊して塵となり、新生日本の発展の道が導びかれる如くに新たな倫理が不死鳥のように現れる、とする予言の正しさが過去半世紀の出来事を見る限り証明されているようである。かかる予言が成就されることは望ましく且つ起り得ることであるが、我々は、不死鳥は自分自身の灰から蘇るのだということ、又、不死鳥は渡り鳥ではなく、他の鳥からの借り物の翼で飛ぶのでもないと云うことを忘れてはならない。「神の国はあなた型の内にある」。神の国は、どこか高い山から転がり落ちてくるのもではないし、広い海原の向こうから航行してくるものでもない。

 コーランは宣べている。「神は、あらゆる民族に、その民族の言葉で話す預言者を与え給うた」。日本人の精神によって立証され、理解された王国の種子は武士道の中で花開いた。だが、今やその時代は幕を閉じつつある。悲しいことに、実を結ぶところまでいかなかった。しかして我々は、武士道に代わる優美と光明の源、力と安らぎの源を探してあらゆる方角を見回しているが、未だこれに代わるべきものを見出していない。功利主義者や唯物論者が考える損得哲学は、魂の半分しかない屁理屈屋と誼(よしみ)を通じている。功利主義や唯物論に対抗できるだけの力を持っている倫理体系は唯一キリスト教あるのみである。告白せねばならないが、これに比すことができるのは武士道であり、但し武士道は「かすかに燃えているろうそくの芯(しん)」のようなものである。救世主は、その灯心の炎を消すことなく、煽いで焔(ほのお)と為すと宣言した。

 ヘブライの先駆者たる預言者たち、特に、イザヤ、エレミヤ、アモス、ハバククなどと同様に、武士道は、支配者や公人、国民の道徳的行為に重点を置いてきた。然るに、キリスト教の倫理は、ほとんど個人やキリストに個人的に帰依している人々に限定されており、道徳的要素の理解能力に於いて秀でている個人主義をますます実践的に適用するようになり、説得力.を増すようになるであろう。自己主張の強い独断的な、ニーチェのいわゆる主人道徳には何か武士道に似た点がある。私の理解が間違っていなければ、ニーチェが述べているところの言は、病的で歪んだ表現によって、ナザレの人(キリスト)の道徳を、みすぼらしい自己否定的な奴隷道徳と呼んでいるが、主人道徳とは、奴隷道徳に対する過渡的段階もしくは一時的な反動のものである。

 キリスト教と唯物論(功利主義をふくめて)はやがて世界を二分するだろう。あるいは、この二つも、将来は、昔からあったヘブライ主義とギリシャ主義という対立の形に還元されて行くのだろうか。劣勢な道徳体系は、生き残る為に、どちらかの陣営と同盟することになろう。武士道はどちら側に与するのだろうか。

 何ら纏まりたる教義(dogma)や守るべき定式を持たない故に、武士道は或る実体としては消失に委ね、桜のように、一陣の朝風に潔く散ることも厭わない。だが、その全てが死滅することは決してないであろう。ストア主義は死んだか? 体系としては死んでいる。だが、徳としては生き残っている。その精力(energy)と活力(vitality)は、西洋諸国の哲学や、あらゆる文明世界の法哲学に於いて、今日なお人生多岐の諸方面に感じ取ることができる。否、人が自己を高めようと奮闘する時、自身の努力によって精神が肉体を制する時、我々はそこにゼノンの教えが不滅の教訓として働いていることを知るのである。

 武士道は、或る独立した倫理規範としては消滅するかもしれない。しかし、その力が地上から消えてなくなることはない。武士道の武勇や市民的名誉心の学校的なものは解体されるかもしれない。だが、その光明と栄光は破滅後も末永く生きながらえていくだろう。武士道を象徴する桜の花の如く、四方の風に吹き散らされてしまってからも、人類を人生を豊かにする芳香でもって祝福し続けるだろう。

 はるかに時が流れて、その習慣が失われ、名前すら忘れ去られてしまっても、「路傍より彼方を見やれば」、その香気.が遠き彼方の見えざる丘から風に漂ってくることだろう。この時、クエーカーの詩人が美しい言葉で語る。「旅人は、いづこよりか知らねど、近くよりかかぐわしき香りに感謝の気持ちを抱き、立ち止まり帽子を取りて大気の祝福を受ける」。(完)

れんだいこのカンテラ時評№1045  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 6月16日

 れんだいこの近代ハワイ史論

 れんだいこがハワイ近代史即ちハワイの被植民地史を確認して得た結論は、日本政治にとって他山の石としての必須の教材ではなかろうかと云う思いである。近代ハワイが国際金融資本帝国主義ネオシオニズム(以下、単に「国際ユダヤ」と表記する)に如何に弄ばれ、最終的に米国の50番目の州にされて行った経緯は決して他人ごとではない。明日の我が身として受け止めるべきではなかろうか。

 最近読んだ新渡戸稲造の「武士道」には次のように記されている。

 「新しい信仰の宣伝者たる者は、幹、根、枝を全部根こそぎにして、福音の種子を荒地に播くことを為すべきだろうか。かくの如き英雄的手法は、ハワイでは可能であるかも知れない。ハワイでは、戦闘的教会が冨そのものの大量の搾取と原住民種族の絶滅とに於いて完璧の成功を収めたと噂されている。しかしながら、かかる手法は日本に於いては全く断じて不可能である。否、それはイエス御自身が地上に彼の王国を建てるに於いて決して採用し給わざるやり口である」。

 この経緯に日本が無関係ではなかった。否、相当深く関わっていた。幕末維新―明治維新以来から敗戦までの日本は、移民、カメハメハ大王の明治天皇との会見、ハワイ政変に於ける日本軍艦の寄港、大東亜戦争緒戦での真珠湾攻撃等々によりハワイ史と大きく関わっている。このことも知らねばなるまい。

 結果的に、ハワイは米国に属州化された。他方、日本は先の敗戦にも拘わらず大きく取り込まれながらも辛うじて主権を維持している。と云うか維持してきた。しかしながら最近の流れは暗い。「国際ユダヤ」のハワイ侵略史を学ばぬ不幸は、日本の51番目の米国属州化、否今日では中国の省化、或いは韓国による併合、或いは「国際ユダヤ」の直接支配の可能性シナリオに無警戒をもたらし、ハワイの二の舞を喰らうことになるだろう。そういう意味で、ハワイ近代史即ちハワイの被植民地史の学習を必須とせねばならない。

 そのハワイ被植民地化史の圧巻は、カメハメハ大王の抵抗であろう。カメハメハ大王(カラカウア第7代国王)は、ハワイが「国際ユダヤ」に完全制圧される行く末を眼前に認め、唯一の秘策としてアジア共栄圏構想を練った。1881(明治14)年、世界周遊旅行の名目で各国を詣でながら、特に日本に白羽の矢を立て明治天皇にこう打診した。

 意訳概要「我が国は主権を持つ独立国家です。その我が国に対し、アメリカが太平洋上の拠点にしようという野心を抱いています。今や列強諸国は利己主義に走り、相手国の立場を尊重する気持ちが微塵もありません。アジア諸国は列強の支配を受けながら、互いに孤立を深め無策です。この状況を抜け出すには、各国が一致団結して欧米列強諸国に対峙することが急務です。日本の進歩には実に驚くべきものがあります。アジア連合を起こすとすればその盟主には日本以外になく、天皇陛下こそが相応しい。日本は今、列強諸国に治外法権を認めさせようとして苦労していると聞きます。連合実現により容易にできるはずです。どうか協力してアジア諸国連合を結び、その盟主となっていただきたい。そうなれば私は陛下を支え、大いに力をお貸ししましょう。私は、その証として、姪であり皇位継承資格を持つカイウラニ(Kaiulani)王女を差し出します。日本とハワイの絆の為、是非もらってもらいたい。私は貴国の良い返事を待ち続けます」(「明治天皇紀」のカラカウア王の言葉)。

 この最高機密たる秘策は忽ちのうちに「国際ユダヤ」に伝えられ、カメハメハ大王のその後は哀れな末路を迎えることになる。大王は迂闊にも明治維新後の天皇制が「国際ユダヤ」のコントロール下にあることを知らなかった。古来よりの伝統的な天皇制が存続しているとばかり思って憧憬していたのだろう。仮にそうだとして誰が大王を責められようか。

 これにより知るべきは、明治天皇及びその側近の親ネオシオニズム性である。この逸話その他の資料の伝えるところによれば、明治天皇派が既にネオシオニズムの虜囚であったことになる。このようにして歴史の機密が暴かれる。このことは同時に明治維新以降の近代天皇制の胡散臭さを見て取るべきではなかろうかと云うことになる。そういう眼で見れば、近代天皇制下の富国強兵政策は歴史的な天皇制からはかなり異質なものであり、「国際ユダヤ」に取り込まれた結果としての好戦政策ではなかったかという仮説を生みだすことになる。

 もとへ。そういう最高機密をいとも簡単に漏洩されたカメハメハ大王のその後の運命や推して知るべしで大王は幽閉される。表へ出てきたときにはアルコール漬けの身になり果てていた。1891(明治24)年、カメハメハ大王が失意の内にこの世を去り在位17年の生涯を閉じた。日本来日から10年後のことであった。

 カメハメハ大王の意思の後継者達は、ハワイ王国の衰退を指をくわえて見ていたわけではない。頑強に抵抗を続けている。しかし、ハワイを自分達の手に取り戻すことはできなかった。それほどにネオシオニストの狡知が勝っていたということである。思えば、世界はハワイのみならず、16世紀頃より「国際ユダヤ」の餌食にされっぱなしで今日まで至っている。そういうご時勢下で日本がその悪魔の手から逃れえたのはまことに有り難いことであった。ここに幕末維新の偉業があると云うべきだろう。

 思えば、日本民族は、戦国期の「バテレン危機」を凌ぎ、幕末期の「黒船来航危機」を潜り抜け、大東亜戦争敗戦時の「国家崩壊危機」を乗り越え、稀有な独立国ぶりを獲得してきたことになる。しかし、やはり敗戦の傷跡は深い。戦後、ネオシオニストが大手を振って闊歩し始め、政官財学報司警軍の八者機関の中枢が押えられ、この支配構造が万力攻めで柵(しがらみ)化されたまま今日に至っている。八者機関の上層部はシオニスタンでなければ登用されない仕組みが作られている。日本が、このワナから抜けだすことは如何ともし難い。

 1970年代半ば過ぎ、ロッキード事件の脳震盪で旧田中ー大平連合の活動が封じ込められて以来、1980年代初頭に登場した福田ー中曽根連合のネオシオニスト・エージェント派が権勢を恣(ほしいまま)にすることとなった。中曽根-ナベツネ連合がその狂態の走りである。角栄派の小沢が自民党を飛び出した理由に自民党内のこの政変が大きく関係している。これを見ない見ようともしない政論は何の役にも立たない。

 もとへ。2000年代初頭に登場した小泉政権になって以来、狂態のスピードが増し、国家溶解が現実化を帯び始めた。その後の自公政権三代を経て2009年衆院選の政権交代により民主党政権が登場した。一番手の鳩山政権、二番手の菅政権を経過し、三番手に野田政権が登場し今日に至っている。何と民主三代政権は、この支配構造の推進者でありこそすれ立ち向かう政権ではないことを明らかにしつつある。

 しかしながら、日本民族の叡智はいつの日か縄抜けするだろう。なぜなら、「国際ユダヤ」の侵略狡知の秘術を既に知り始めているからである。まず客観的な状況把握こそが解決の前提となる。この問いを正しく掲げることができたなら半ば解決されたも同然である。歴史には法理がある。それは、どんな政体も300年の長きは続かないと云うことである。政体内部が腐敗し必ず分裂して行く。これは如何ともし難い。「国際ユダヤ」のみ例外足り得て永遠に支配階級であり続けると云うことは難しい。支配が至るところで綻び、群雄割拠が始まると思わざるを得ない。この波の過程で、日本は自ら呪縛を解くのではなかろうか。

 その為にもまずはハワイの被侵略史を学べ。今から思うに、大東亜戦争の裏面の一つとしてハワイ諸島を廻る日米の暗闘史があったかも知れない。日本帝国軍の緒戦の怒涛の進撃の背景に、原住民のネオシオニズム支配からの解放と云う熱い期待による呼応があったと考えられる。そういう事情も含めて歴史を複眼的に知ることの恰好な教材が近代ハワイ史ではなかろうか。

 肝要なことは、米国の侵略史として捉えるのではなく、米国を支配している「国際ユダヤ」のグローバルな侵略史として観ることではなかろうか。「国際ユダヤ」の動きに対して、レーニン式の各国帝国主義による争闘なる観点は正しくないと云うより「国際ユダヤ」の動きに対する煙幕でしかなかろう。こういう見立てと史観が欲しい。

 2006.9.3日、2012.06.16日再編集 れんだいこ拝

れんだいこのカンテラ時評№1046 投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 6月19日

日本列島改造論、角栄自著の「序文と結び」
 ここで、田中角栄が首相への道に至る際に掲げたマニュフェスト「日本列島改造論」のうち、角栄自身が書き上げた部分である序文と結びを確認する。時は1972年6月、今より丁度40年前のことになる。1970年代の政治の香りを嗅ぐことができる。それは同時に、この時代の政治を捨てた、と云うか真逆の現在の政治に対する穏やかにして実は鋭い批判を含んでいる。これを共に味わおう。
 序にかえて

 水は低きに流れ、人は高きに集まる。世界各国の近世経済史は、一次産業人口の二次、三次産業への流失、つまり、人口や産業の都市集中を通じて、国民総生産の拡大と国民所得の増加が達成されてきたことを示している。農村から都市へ、高い所得と便利な暮らしを求める人々の流れは、今日の近代文明を築き上げる原動力となってきた。日本もその例外ではない。明治維新から百年余りのあいだ、我が国は工業化と都市化の高まりに比例して力強く発展した。

 ところが、昭和30年代に始まった日本経済の高度成長によって東京、大阪など太平洋ベルト地帯へ産業、人口が過度集中し、我が国は世界に類例を見ない高密度社会を形成するにいたった。巨大都市は過密のルツボで病み、あえぎ、いらだっている半面、農村は若者が減って高齢化し、成長のエネルギーを失おうとしている。都市人口の急増は、ウサギを追う山もなく、小ブなを釣る川もない大都会の小さなアパートがただひとつの故郷と云う人を増やした。これでは日本民族のすぐれた資質、伝統を次の世代へ繋いでいくのも困難となろう。

 明治百年を一つの節目にして、都市集中のメリットは、今明らかなようにデメリットへ変わった。国民が今何よりも求めているのは、過密と過疎の弊害の同時解消であり、美しく、住みよい国土で将来に不安なく、豊かに暮らしていけることである。その為には都市集中の奔流を大胆に転換して、民族の活力と日本経済のたくましい余力を日本列島の全域に向けて展開することである。工業の全国的な再配置と知識集約化、全国新幹線と高速自動車道の建設、情報通信網のネットワークの形成などをテコにして、都市と農村、表日本と裏日本の格差は必ずなくすことができる。

 また、開かれた国際経済社会のなかで、日本が平和に生き、国際協調の道を歩き続けられるかどうかは、国内の産業構造と地域構造の積極的な改革にかかっていると云えよう。その意味で、日本列島の改造こそは今後の内政の一番重要な課題である。私は産業と文化と自然とが融和した地域社会を全国土に押し広め、全ての地域の人々が自分たちの郷里に誇りを持って生活できる日本社会の実現に全力を傾けたい。

 私は今年3月、永年勤続議員として衆議院から表彰を受けた。私はこれを機会に“国土開発・都市問題”と一緒に歩いてきた25年間の道のりを振り返るとともに、新しい視野と角度から日本列島改造の処方箋を書き上げ、世に問うことにした。国民及び関係者各位の参考になれば、大変、幸せである。

 なお、本書の執筆と出版に当たって、献身的な努力をいただいた日刊工業新聞社のスタッフ各位関係各省庁の専門家諸君に対し心からお礼を申し上げたい。

 昭和47年6月 東京・目白台にて 田中角栄
 むすび

 明治、大正生まれの人々には自分の郷里に対する深い愛着と誇りがあった。故郷は例え貧しくとも、そこには、厳しい父とやさしい母がおり、幼な友達と、山、川、海、緑の大地があった。志を立てて郷関を出た人々は、離れた土地で学び、働き、家庭を持ち、変転の人生を送ったであろう。室生犀星は「故郷は遠くに在りて思うもの」と歌った。成功した人も、失敗した人も、折に触れて思い出し、心の支えとしたのは、常に変わらない郷土の人々と、その風物であった。

 明治百年の日本を築いた私たちのエネルギーは、地方に生まれ、都市に生まれた違いはあったにせよ、ともに愛すべき、誇るべき郷里のなかに不滅の源泉があったと思う。

 私が列島改造に取組み、実現しようと願っているのは、失われ、破壊され、衰退しつつある日本人の“郷里”を全国的に再建し、私たちの社会に落着きと潤いを取戻す為である。

 人口と産業の大都市集中は、繁栄する今日の日本をつくりあげる原動力であった。しかし、この巨大な流れは、同時に、大都会の二間のアパートだけを郷里とする人々を輩出させ、地方から若者の姿を消し、田舎に年寄りと重労働に苦しむ主婦を取り残す結果となった。このような社会から民族の百年を切り開くエネルギーは生まれない。

 かくて私は、工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークの形成をテコにして、人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させる“地方分散”を推進することにした。

 この「日本列島改造論」は、人口と産業の地方分散によって過密と過疎の同時解消を図ろうとするものであり、その処方箋を実行に移す為の行動計画である。

 私は衰退しつつある地方や農村に再生の為のダイナモをまわしたい。公害のない工場を大都市から地方に移し、地方都市を新しい発展の中核とし、高い所得の機会をつくる。教育、医療、文化、娯楽の施設を整え、豊かな生活環境を用意する。農業から離れる人々は、地元で工場や商店に通い、自分で食べる米、野菜をつくり、余分の土地を賃耕に出し、出稼ぎのない日々を送るだろう。

 少数・精鋭の日本農業の担い手たちは、20ヘクタールから30ヘクタールの土地で大型機械を駆使し、牧草の緑で大規模な畜産経営を行い、果物を作り、米を作るであろう。

 大都市では、不必要な工場や大学を地方に移し、公害がなく、物価も安定して、住みよく、暮らしよい環境をつくりあげたい。人々は週休二日制のもとで、生きがいのある仕事につくであろう。20代、30代の働き盛りは職住近接の高層アパートに、40代近くになれば、田園に家を持ち、年老いた親を引き取り、週末には家族連れで近くの山、川、海にドライブを楽しみ、あるいは、日曜大工、日曜農業にいそしむであろう。

 こうして、地方も大都市も、ともに人間らしい生活が送れる状態につくりかえられてこそ、人々は自分の住む町や村に誇りを持ち、連帯と協調の地域社会を実現できる。日本中どこに住んでも、同じ便益と発展の可能性を見出す限り、人々の郷土愛は確乎たるものとして自らを支え、祖国・日本への限りない結びつきが育っていくに違いない。

 日本列島改造の仕事は、けわしく、困難である。しかし、私たちが今後とも平和国家として生き抜き、日本経済のたくましい成長力を活用して、福祉と成長が両立する経済運営を行う限り、この世紀の大業に必要な資金と方策は必ず見つけ出すことができる。

 敗戦の焼け跡から今日の日本を建設してきたお互いの汗と力、知恵と技術を結集すれば、大都市や産業が主人公の社会ではなく、人間と太陽と緑が主人公となる“人間復権”の新しい時代を迎えることは決して不可能ではない。一億を越える有能で、明るく、勤勉な日本人が軍事大国の道を進むことなく、先進国に共通するインフレーション、公害、都市の過密と過疎、農業の行き詰まり、世代間の断絶なくす為に、総力をあげて国内の改革に進むとき、世界の人々は文明の尖端を進む日本をその中に見出すであろう。そして自由で、社会的な偏見がなく、創意と努力さえあれば、誰でもひとかどの人物になれる日本は、国際社会でも誠実で、尊敬できる友人として、どこの国ともイデオロギーの違いを乗り越え、兄弟づき合いが末長くできるであろう。

 私は政治家として25年、均衡が取れた住みよい日本の実現を目指して微力を尽くしてきた。私は残る自分の人生を、この仕事の総仕上げに捧げたい。そして、日本じゅうの家庭に団らんの笑い声かあふれ、年寄りが安らぎの余生を送り、青年の目に希望の光が輝く社会をつくりあげたいと思う。

れんだいこのカンテラ時評№1047  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 6月20日

 日本列島改造論 目次

 ここで、「日本列島改造論 目次」を確認しておく。目次だけ読んでも為になる。角栄の内治主義者としての面目躍如が窺えるだろう。興味深いことは、内治を能くし得る者は外治にも能力を発揮したと云うことである。逆に云うと、外治の専門家が内治を能く為し得るかは未だ成功事例がないと云うことでもある。辛うじて吉田茂辺りが評価に耐えられる程度である。一事万事と云う法理は、角栄によって内治からは通用することが既に証明されている。

 付言しておけば、日本列島改造論に指針されたマニュフェストは世界各国通用する。一言で云えば、公共事業活用プロジェクト論と云えようが、これに基づく時、その国は成長する。これを反故する時、成長が止まる、と云うか衰退し始める。それが証拠に、公共事業活用プロジェクト論を捨てたその後の日本は次第に凋落し、これを活用した韓国、中国、インドネシア等は昇り竜の勢いを見ることになった。角栄式公共事業活用プロジェクト論を活用して成長した国は今、不思議な顔をして日本を見つめている。

 サイトは、kakuei/nihonrettokaizoronco/jyobun.html
 (この掲示板では順列表記できない)

れんだいこのカンテラ時評№1048  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 6月21日

 【日本列島改造論、角栄自著の「序文と結び」の噛み締め考】

 我々は、角栄の日本列島改造論の「序文」及び「結び」から何を窺うべきか。短文ではあるが貴重なメッセージが託されていることを知ることができよう。読めば分かり、敢えて記すことでもないのだが確認しておく。

  既に、「今より丁度40年前のことになる。1970年代の政治の香りを嗅ぐことができる。それは同時に、この時代の政治を捨てた、と云うか真逆の現在の政治に対する穏やかにして実は鋭い批判を含んでいる。これを共に味わおう」と記した。以下、これに付加する。

 角栄時代、頻りに国民総生産(GNP:Gross National Product))論が云われた。高度経済成長の波に乗っており、昨年対比幾らの成長率云々と云うことが当たり前のように確認されていた。数字が強かった角栄が時代をリードしていたことによる「上向時代の特徴」だったのかも知れない。今、この作風はない。なぜか。それは、国民総生産が伸び悩んでおり、そのことを隠したいと云う思惑によってであるとしか考えられない。この一事を見ても、角栄時代が正々堂々オープンを常としていたのに対し、今は逆の姑息な時代になっていることが分かる。

 次に、日本列島改造論の目的が、「民族の活力と日本経済のたくましい余力を日本列島の全域に向けて展開すること」を通じて、その為に「工業の全国的な再配置と知識集約化、全国新幹線と高速自動車道の建設、情報通信網のネットワークの形成などをテコにして」、「ふるさと再生、都市と農村、表日本と裏日本の格差是正」を期すことにあると詠っている。続いて「開かれた国際経済社会のなかで、日本が平和に生き、国際協調の道を歩き続けられるかどうかは、国内の産業構造と地域構造の積極的な改革にかかっていると云えよう」と述べており、こうした日本の理想の国づくりこそが日本が国際的に生き延びる道だとしている。

 1970年代までの日本は、この方向に沿って国家プロジェクトが策定され実にうまく機能していた。この時代の特徴は、滅多に注目されていないがマルクス&エンゲルス共著の「共産主義者の宣言」の「プロレタリアと共産主義者」の項の「過渡的10政策処方箋」をモデルとして日本式に焼き直して政策化されていた感がある。
 (jinsei/marxismco/marxism_genriron_gensyo_sengen2_2.htm

 読まぬ者には分からないだろうし、読んでも不正確な訳文では分からないだろうし、正確な訳文でも理解能力がなければ分からないだろう。れんだいこが読めばそういうことになる。よって戦後日本は相当に社会主義的な国であったことになる。それも在地土着型の焼き直しマルクス主義と云う理想的な創造的適用であったと云うことになる。教育、医療、年金、雇用、最低限生活が保障されていたのは、こういう事情によると思えば良い。

 この政治が、中曽根政権登場とともに始まる1980年代以降、解体され強制終了させられ、代わりに真逆の政治を指針せしめ、これを定向進化させて今日に至っている。こう読むのがれんだいこ史観である。今のところ仲間が見当らないので独眼流である。角栄政治時代が1960年代から70年代までの20年間であったのに対し、中曽根政治時代はその倍の期間の40年間を越えている。角栄政治を是とすれば、その真逆の政治をこれほど長く続けると国が壊れるのも至極当然と云うべきではなかろうか。

 もとへ。「むすび」で、「私が列島改造に取組み、実現しようと願っているのは、失われ、破壊され、衰退しつつある日本人の“郷里”を全国的に再建し、私たちの社会に落着きと潤いを取戻す為である」と述べている。日本列島改造論は、都市集中型に傾斜した高度経済成長路線に対する角栄式手直しの処方箋であり行動計画である云う。

 曰く、「こうして、地方も大都市も、ともに人間らしい生活が送れる状態につくりかえられてこそ、人々は自分の住む町や村に誇りを持ち、連帯と協調の地域社会を実現できる。日本中どこに住んでも、同じ便益と発展の可能性を見出す限り、人々の郷土愛は確乎たるものとして自らを支え、祖国・日本への限りない結びつきが育っていくに違いない」、「日本列島改造の仕事は、けわしく、困難である。しかし、私たちが今後とも平和国家として生き抜き、日本経済のたくましい成長力を活用して、福祉と成長が両立する経済運営を行う限り、この世紀の大業に必要な資金と方策は必ず見つけ出すことができる」。

 この処方箋、行動計画は極めて唯物論的具体的である。即ち、ふるさと再生も、日本が平和国家として生き抜く道も、「日本経済のたくましい成長力を活用」してこそ可能であるとしている。これが「福祉と成長が両立する方途である」としている。その為の「経済運営」を指針させ、「この世紀の大業に必要な資金と方策は必ず見つけ出すことができる」としている。愛郷心、愛国心、お国の防衛も、この道を通じて自ずともたらされるものであり、この客体を無視して徒に掛け声だけして良しとするような観念的な作法は微塵もない。角栄後に登場する中曽根式大国責任論は、この対極のものであろう。

 角栄は最後にこう述べている。「私は政治家として25年、均衡が取れた住みよい日本の実現を目指して微力を尽くしてきた。私は残る自分の人生を、この仕事の総仕上げに捧げたい。そして、日本じゅうの家庭に団らんの笑い声かあふれ、年寄りが安らぎの余生を送り、青年の目に希望の光が輝く社会をつくりあげたいと思う」。事実、角栄はその後首相になり、この言葉通りに首相職を全うした。角栄政治がもう少し長く続いておれば、北朝鮮ともロシアとも現下の中国との交易の如く発展を見せていただろう。中小零細企業も逞しく自負の強い発展を遂げ、地方都市も理想的な発展を続けていたであろう。これを惜しめ。今は全てか逆である。

 角栄のその後は、ロッキード事件にお見舞いされ、周知の通りの結末を迎える。一体、誰が、このような非道を、正義ぶりながら画策したのか。ここでは述べないが、これを押し進めた末裔どもが現代政治を牛耳っている。ここに政治の貧困があると云うべきではなかろうか。

 そういう角栄政治の花粉を鼻孔に吸った小沢どんが、唯一かの政治の薫陶を思い出しながらリーダーシップを発揮しており、今や最後の決戦に向かおうとしているやに見受けられる。実に歴史は面白いと云うべきではなかろうか。

 2012.6.21日 れんだいこ拝

自民党クローン議員考  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 6月28日

 マスコミは逆に描くが、自民党クローン議員がトロイの木馬となり民主党の母屋を乗っ取ったと見る方が正しかろう。新ベンチャー革命氏の言であるが、これを支持する。更に云えば、自公民なるものの内実は、日本政治に責任を負う者ではなく、国際ユダヤ奥の院の対日解体教程に基づくアジェンダの請負人に過ぎない。と云うことは、民主党中央の正体は、自民党クローン議員のみならず対日奥の院のクローン議員と看做すべきだろう。

 その筆頭とも云うべき前原が、よりによって、小沢どん及びこたびの造反組に対し「どれだけ日本のことを考えて行動しているのか。次の選挙のことを考えて行動しているとしか思えない」、「本当の政治家は日本の将来を考えて行動する。目先の選挙で物事を決めるのは本当の政治家ではない」なる説教をしてくれるのは片腹痛いと云うか昔なら無礼千万で切り捨てに遭うところだろう。

 民主主義のソフト支配性に乗じて手前らはしたい放題言いたい放題、マスコミはクローン議員後押し放題の構図こそ天誅せねばなるまい。歴史は、おごれる者久しからずと教えている。近いうちにおごれる者が口から恥の泡を吹き出すことになるだろう。しかと見届けようぞ。

 2012.6.28日 れんだいこ拝

れんだいこのカンテラ時評№1049  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 6月29日

 れんだいこの保田與重郎論その1

「ゆめさめて うつつの花の すさまじさ 何に流しし 泪なりけむ 」(保田與重郎)

 2012.6.29日の首相官邸前デモの繰り返し叫び続ける「再稼働反対」の唱和を聞きながら、このブログを綴る。これから書きつける内容と一見関係ないように見えるが案外繫がっているかも知れない。そんな気がする。これを記すのが本題ではないので割愛する。

 れんだいこが保田與重郎を知ったのは大田龍の時事寸評の書きつけを通してであった。何時頃のことか定かでないが2005年前後のことではなかろうかと思う。確か近代中国の作家・思想家として知る人ぞ知る胡蘭成・氏と並んで日本精神を理解する有益な思想家の一人として紹介されていたと記憶する。しかし、当時のれんだいこには未知不詳の人であり過ぎ、関心を湧かさなかった。それが2006年6月、新渡戸稲造の英文「武士道」の翻訳を終えた余韻の冷めやらぬ中、ふと保田與重郎に関心を持ち始めた。きっかけが何であったのかは分からない思い出せない。

 と書いて気づいたのだが、その頃、早稲田の先輩である藤田勝久氏が卒業式での不敬不唱を宣言する不起立を主とする日の丸、君が代闘争体験記である「板橋高校卒業式事件顛末記」を贈呈して下さった。これを読み、藤田先輩のいわゆる戦闘的良心主義的見地からする「日の丸、君が代闘争」を知ったと同時に、久しぶりに「日の丸、君が代、元号問題」を見つめ直し、その成果を書きつけた。サイトは以下の通りである。

 「【「日の丸、君が代、元号」考」
 (marxismco/minzokumondaico/hinomarukimigayoco/hinomarukimigayoco.htm

 この時、恐らく左派的「日の丸、君が代、元号」闘争者が見落としているであろうと考えられる「日の丸、君が代、元号」の悠久の歴史性に言及した。未だ十分でないので、この研究については今後も継続していきたいと思う。この時、そういう国象の源基を為す日本精神に関する興味のアンテナが作動した。このアンテナが保田與重郎を呼び込んだ。こういう経緯があり、初めて保田與重郎と向かい合うことになったと云う次第である。そういう意味で、藤田先輩の「板橋高校卒業式事件顛末記」が「新渡戸稲造の武士道」と保田與重郎の橋渡しをする機縁となったことに感謝申し上げたい。藤田先輩には思いもよらぬことであろうが事実を述べ謝しておきたい。

 さて、保田與重郎とは何者か。れんだいこには何の知識もないので、こういう場合の常法として昔なら百科事典だろうが今はネット検索で間に合わせることにしている。「ウィキペディア保田與重郎」で概要を確認し、他のサイトでその他の情報も取り寄せる。こうして即席の何がしかの知識を得る。まず驚いたことは、保田は相当量以上の文章を遺しており著書を刊行していると云うことであった。全集が出されており何と全40巻、別巻5巻、付録1巻に上る。これだけの分量のものが刊行されるからにはよほどの値打ちがなければ理屈が合わない。そういう人物でありながら、れんだいこが知らなかったぐらいだから他の人も然りだろう、余りにも知られなさ過ぎる。これはとても不自然なことである。これにつき多くの者は疑問だけで終わるだろうが、れんだいこには直ぐに分かる。これには例の情報統制が利いているいるとしか考えられないと。

 ネット検索で、れんだいこのこの謂いを裏付ける文章に出くわしたので転載しておく。

 概要「普通の現代日本人は保田も日本浪曼派も名前すら知らない。他に書き手はいたものの、著作や影響で特記すべきものはない? 要するに保田與重郎の著作とそれが戦中の若者に与えた思想的影響が、十分に確かめられてない。桶谷の『昭和精神史』は本編も戦後篇も保田に捧げられている。他にも保田に触れた文章は多い。だが、桶谷はあくまでも批評家であり、書くものも評論であるために、保田の思想部分(保田が直接読者の魂に訴えた部分)が伝わってきにくい。2002年にミニ・ブームがあったが、かけ声だけ、内実が伴わない。(福田和也は『万葉集の精神』の解説を予定されていたのに書かなかった)」(「史観、詩心、状況―日本浪漫派の思想性を読み解くカギ」)。

 保田與重郎が完全に隠蔽されているのではない。生誕百年を記念して、2010(平成22)年3月12日 「ズバリ!文化批評、生誕100年、保田與重郎の世界」が放映されており、いわば細々とながら命脈を保ってはいるようである。問題は、これほどの人物の言が掻き消されるかの如く表に出てこないことにある。繰り返すが、これはとても不自然なことである。

 そこで、保田與重郎思想とはどのようなものなのだろうか、これを確認する。実はこれも驚いたのだが、保田は1910(明治43)年、奈良県磯城郡桜井町(現桜井市大字桜井)生まれの人である。れんだいこはハタと膝を叩いた。ここに秘密があるように思われる。桜井市と云えば三輪そうめんと大神(おおみわ)神社、近くに群立する古墳で有名である。目下は、大神神社付近にある箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないかと古代史研究家に注視されているホットな地域である。このことが如何に重要なのかは古代史に精通していなければ分からないであろう。これを少し解説する。

 いわゆる邪馬台国論になるが、邪馬台国の所在(比定)地を廻る諸百説の中で九州説と並んで最有力な大和説は、この大神神社地域(纏向遺跡)が邪馬台国の女王の都ではないかとしている。当然、九州説の者は認めないのだが、れんだいこもこの説を採っている。但し、通説の大和説論者との違いは、通説が邪馬台国を大和王朝の先駆的な前王朝として近親相関的に措定しているのに対して、れんだいこ説は邪馬台国は大和王朝に滅ぼされ痕跡をなくさせられた幻の王朝であるとしている。つまり、同じ大和説でも万世一系説に繫がる説と万世二系説になると云う大きな違いがある。この観点の差は、明治維新から始まる近代天皇制のイデオロギーである皇国史観とハーモニーする前者とそれを否定する後者と云う大きな違いとなって現われる。

 それはともかくとして、邪馬台国がこの三輪の地にあろうがなかろうが、大和地方(現在の奈良盆地東南部の天理市から桜井市にかけての地域)は、「やまとはくにのまほろば  たたたなずく青垣 山隠れるやまとし うるわし」(古事記)と詠われるほどに四囲を山稜の青垣に囲まれている盆地であり、昔から「敷島の大和の国」とも称されてもいる格別の歴史を持つ地域である。古代における「ヤマト」地方そのもの、「大和の中の大和」という由緒ある聖域の土地柄である。即ち、この地域が古代日本の聖地の一つであったことは論を待たない。この点については九州説論者と云えども否定できまい。

 問題は、三輪の地をして、数多くある古代日本の聖地の一つであると云う捉え方ではなく、三輪の地に邪馬台国があったとしたら、どういうことになるのかである。れんだいこ説によれば、三輪の地は、大和王朝に滅ぼされるまで当時の倭国全域に影響力を及ぼしていた中枢国と考えられる。古事記、日本書紀、風土記、その他古史古伝、記紀後の各史書を始めとする史書より読みとれば、大和王朝以前に三輪の地に育まれた政体、文化、伝統、精神こそが今日の日本人の精神の源基をなしているのではなかろうかと考えられる。これを仮に「三輪思想」、その政体を「三輪王朝」と命名することにする。三輪王朝は、当時のもう一つの大国であった出雲王朝と連合しており、この出雲と三輪を両輪とする大連合こそが大和王朝前の日本古代史を刻んでいたと推定できる。

 この時代に既に源基としての日本精神が形成され、大和王朝創建と共に始まる天皇制日本精神はその後であり、三輪王朝は滅ぼされたが三輪思想は生き残ったことにより、その後の日本史は、政体は別として精神論で見れば、天皇制日本精神と三輪思想が並走しつつ二重構造的に今日まで伝播していると考えられる。もっと分かり易く云えば、「出雲―三輪系思想と伝統、習俗」は天皇制日本精神と混ざり合いながらも地下に潜って生き延び続けたと云うことである。今日に於いても諸外国が日本を高く評価する論拠の殆どが、この「出雲―三輪系思想と伝統、習俗」に向けられてのものであることも興味深い。従来の日本及び日本人論にはこの点を捉える視点が弱過ぎる。今後は、漠然とした日本及び日本人論ではなく日本の心のまほろば(古里)としての三輪思想の解明に向かうべきだろう。

 今日、日本論を説く場合、この二鼎立の史観で捉えねば真相が見えない。明治維新以降に形成された近代天皇制は、この二鼎立の内の天皇制日本精神の方のみを是として史観形成しているところに限界と云うか不正がある。いわゆる皇国史観であるが、皇国史観は日本史を斜交いに構えて不公正的に形成したイデオロギーでしかない。戦後になって自由なる歴史研究が始まった時、本来はこの皇国史観の偏狭性を衝き、堂々たる古代史の見直しに向かうべきであった。この営為を怠り、日本古代史と云う赤子をたらいの水と共にまるごと流してしまった。

 この背景には、戦後直後の日本を支配していたGHQの占領政策があった。戦後の歴史家は、GHQの占領政策に基づき、あるいはその範疇で「歴史見直し」したに過ぎない。それは皇国史観を叩く上では「進歩的」なものであったが、「出雲―三輪系思想と伝統、習俗」の再評価まで制約したのは「反動的」であった。結果的に日本古代史の解明を却って遠ざけてしまった。戦後日本に於ける日本の歴史に対する無知はこれより起因する。してみれば、在野の日本古代史研究者の営為は、これに反発するものであり、その意義は高いと評されるべきであろう。

 もとへ。一口に日本精神と云っても、大和王朝以前に既に形成されて居た日本精神と大和王朝以降に新たに形成された日本精神の二流があると云うことが確認できれば良い。補足しておけば、日本精神は、この二者が鼎立しつつも実際には混合している面もあるので、これを識別するとなると非常に難しい。どこまでが三輪思想であり、どこからが天皇制思想なのか判定不能の様相を帯びているということも指摘しておかねばならない。それはともかく、三輪の地に生まれた保田は、天皇制精神よりもより本源的なこの太古よりの三輪思想を豊潤に嗅ぎながら育った。成人して文芸評論家として一家言を為すようになった保田の思想にこの三輪精神が息づいていることは容易に推理できることである。

 文芸評論家としての保田與重郎に特異性と斬新性が認められるのは、他の文芸評論家が持ち合わせず保田が色濃く保持していた三輪思想によるものではなかろうか、こういうことが予想できる。保田自身、「私の郷里は桜井である」としばしば誇らしくこう書いている。そういう意味で、保田が奈良県磯城郡桜井町(現桜井市大字桜井)で生まれ育ったと云うことは大いに注目されねばならないと考える。保田思想を解くカギは三輪にある。この指摘が、れんだいこの保田與重郎論の第一点である。ちなみに、三輪思想をこよなく愛する郷土の代表的知識人は、保田與重郎、樋口清之、森本六爾とのことである。

 付言しておけば、戦闘的良心主義的見地よりする「日の丸、君が代、元号問題」闘争派の方は、上記の観点に加えて、「日の丸、君が代、元号」が実は三輪王朝の御代からのものであり、大和王朝以降もこれを継承したと云う連綿性があることを知る必要がある。単純に天皇制の象徴とみなす訳には行かない。三輪王朝の政体は跡かたもなく潰されたが、三輪王朝の精神は辛うじて残り、むしろ大和王朝の御代にも継承されたと看做すべきであろう。なぜそういうことになったのか、諸外国の征服史に珍しい現象であり興味深いが、ここでは問わない。しかして、日の丸、君が代、元号に秘められたイズムは、日の丸であればその表象に、君が代であればその歌意に、元号であればその暗喩に注目せねばならない。それらは出雲―三輪王朝の善政をデフォルメ(表現)しており、むしろ皇国史観の対極にあるものである。これを習うことは有益でありこそすれ逆ではない。

 してみれば、「日の丸、君が代、元号問題」闘争の正しき活用は、「日の丸、君が代、元号」を知らしむるところにこそあり、皇国史観的に寄らしむることに反撃すべきではなかろうかと云うことになる。実際には、「日の丸、君が代、元号問題」闘争派の真意は、文部省の管理教育強権化に抗しているのであって的が外れている訳ではない。それは歴史的に是である、故にれんだいこも支援するが、「日の丸、君が代、元号」を巻き添えにするものではないと考える。文部省の教育の強権管理とは闘えば良い、「日の丸、君が代、元号問題」についてはむしろ知らしめるが良いとする、この両面からの闘争こそ本来期待されており、闘いの構図をこのように構えた時、圧倒的な支持を呼ぶのではなかろうかと思う。その他言及したいところは上記サイトに書きつけておく。

 今後、日本精神の研究を進めようと思うので以下のサイトを構築する。

 「日本の心、日本精神考」
 (kodaishi/nihonseishinco/top.html

 2012.6.29日 れんだいこ拝

れんだいこのカンテラ時評№1050  投稿者:れんだいこ  投稿日:2012年 6月30日(土)12時00分59秒

   れんだいこの保田與重郎論その2

 れんだいこの保田與重郎論その2は、れんだいこならではの気づきかも知れないが次のことにある。「太古よりの三輪思想を豊潤に嗅ぎ、その薫陶を表現又は実践した」御方にもう一人の傑物が居る。それは保田與重郎より約百年前に誕生した幕末創始宗教の一つである天理教の開祖・中山みきである。天理教が最大教派として台頭した要因には以下に述べるような十分な根拠があると思っている。

 みきも又、桜井村ではないが三輪神社に徒歩圏の三昧田村(現在の天理市三島村)に生まれ育っている。母方の血筋が同村長尾家の出で、目の前の大和(おおやまと)神社の神主を司り、或いは巫女を出してきた家系であった。記紀神話にも出て来る有名な件であるが大神(おおみわ)神社再建の詔を受けた「大田田根子」の流れを汲む「長尾市」直系の末裔であるとする説もある。その大神神社―大和神社は、伊勢神宮が天照大神を筆頭祭神とするのに対して、古史古伝が大和朝廷以前のヤマトを統治していたと記しているニギハヤヒ命(大和大国魂大神)を祭神として奉蔡している。ニギハヤヒ命は出雲王朝系に列なると考えられる。ちなみに伊勢系の本宮は神宮、出雲系の本宮は大社として識別表現されているように思われる。

 教祖みきが三輪思想との絡みで考察されることは未だないが、既に「天理教教祖中山みき伝」を書き上げているれんだいこ論によると、教祖みきが創始した天理教は三輪思想を母胎としており、その幕末―明治版であり、三輪思想をこの時代に適合させたものだったのではなかろうかと拝察させていただいている。

 もとより天理教団にはそのような捉え方はない。本部教理は、この面での考察を意図的故意に割愛しており真実像が見えてこない仕掛けにしているように思われる。ならば他の研究者が為せば良さそうだが、数多くの著書が出されているにも拘わらず、この視点から光を当てたものは未だない。これについては、れんだいこ処女作「検証学生運動」に続く二作目として予定しているので、そこで論じてみたいと思う。

 「天理教教祖中山みきの研究」
 (nakayamamiyuki/

 保田與重郎思想を説き明かすには、天理教教祖中山みきの教理を知ればなお良く分かるように思われる。なぜなら、保田與重郎思想は、三輪思想は無論のこと、みき思想にも通じていると思えるからである。れんだいこは読んではいないが、1942(昭和17)年、保田與重郎33歳の時、「風景と歴史」を天理時報社から出版している。保田の親天理教性が窺えるのではなかろうか。

 では、みきは教理をどのように説いたのか。結論から云えば、明治維新を経ていわゆる皇国史観が急速に形成されつつあった状況下、これに棹さすように「もっと深い根の教え」として三輪思想を称揚し、これをみき流に咀嚼焼き直して対置させたところに特徴が認められる。それは、皇国史観批判のみならず、その背後にあって侵潤しようとしている西欧系ネオシオニズムを視野に入れた対抗思想でもあったとも解せられる。

 これをもう少し詳しく論ずれば、みき教理は、皇国史観、西欧系ネオシオニズムは唐(から)天竺(てんじく)の国の教えであり、神の名を語りながら神の教えに背く政治主義的な教えに過ぎぬして批判していた。「元の神、実の神」の教えであるみきの教理こそ学ぶべしと云う。その教理は皇国史観と何から何まで対立していた。圧巻は人類創世記をも生み出し、皇国史観の記紀神話に基づく「国生み譚」に対して「泥海古記」と云われる世界に例のない天地創造譚で説き明かしていることであろう。この「泥海古記」は、ユダヤ―キリスト教が誇る「聖書」のエホバ神による天地創造譚と伍してひけをとらぬ、且つ神の在り方そのものが悉く対照的な見事なものとなって人類史に寄与している。これを知りたければ次のサイトに記している。

 「教義原形=元の理」
 (nakayamamiyuki/rironco/motonorico/motonorico.htm

 他にも、明治政府の欧米化に伴う資本主義的経済政策の導入に対しては、「病は気から」、「欲得の執着が諸病の元」、「貧に落ち切れ」等々で教義形成される「財物共有思想」(私有財産制否定思想とも読める)で批判している。文明開化と共に始まりつつあった競争原理の称揚に対しては「人を助けて我が身助かる」に象徴される「神人和楽の助け合い思想」で批判した。身分差別政策に対しても然りで一列平等論を対置した。男女差別制に対しても、男女の差は機能が違うだけで本質的に平等で助け合う関係とした。戦争政策に対しては「親の目には皆可愛い我が子」として反戦的な平和思想を説いた。その他その他然りであった。

 これらのみき教理は政治思想ではなく宗教的に表現されているので政治思想学的に評されることはない。しかし、みき教理を政治思想的に評することは十分可能と考える。むしろ生き方を主にしており、知行合一の陽明学的教えからすればむしろ進んでいるのではなかろうかとさえ思える。学問は未だこの域に達していないと解するべきで、狭い学問界の方が宗教的倫理的教説を卑下するのはおこがましいと云うべきではなかろうか。これは日本特有の知識人の偏狭さであって世界に誇れば恥をかくのが落ちだろう。

 もとへ。みき教理は、明治政府が押し進める文明開化と云う名の欧米主義的近代化と皇国史観の押し付けに対して激しく原理的に争い、それ故にというべきか信者が急速に増えていきつつあった。その様は、幕末維新が政治の面で明治維新によって捻じ曲げられたのに対し、もう一つの流れとして捻じ曲げられない幕末維新を継続革命していたとさえ考えられる。いわば幕末創始宗教とは民衆側の幕末維新の流れだったのではなかろうか。

 明治政府はこのことを恐怖して、断固として非合法化し弾圧を開始した。学問の世界では専ら政治運動に対する弾圧の様子のみ説くが、明治政府の弾圧は宗教運動に対する弾圧の方もひけを取らなかった。してみれば両面から考察する学問が望まれていると云うことになりはすまいか。

 教祖みきが拘引されること、78歳の時の収監を「最初のご苦労」として17、8回に及ぶ。最後の拘引は何と御年89歳にして、しかも厳寒の冬であった。みきはこの時、15日間収監され、息絶え絶えで帰還する身となった。その晩節での教弟との問答も興味深い。みきが神人和楽思想の極致として教えていた「神楽づとめ」を励行するよう促し続けたのに対し、主流派の教弟達は政府から禁止されている、既に何人かの高弟が逮捕虐待され死に目に遭っており、必死で模索しつつある公認化の道が遠ざかるとして聞き入れなかった。

 これに対して次のように諭している。「さあさあ月日がありてこの世界あり。世界ありてそれぞれあり。それぞれありて身のうちあり。身のうちありて律あり。律ありても心定めが第一やで。さあさあ実があれば実があるで。実といえば知ろうまい。真実というは、火、水、風。さあさあ実を買うのやで。価を以って実を買うのやで」。そうこうするうちにみきの余命が危ぶまれ、筆頭後継者の真柱が「もはや猶予ならない。逮捕され命を落としてもかまわないと決意する者のみ覚悟して神楽づとめに向かえ」との心定めが伝えられ、一同が応じ、そのつとめの最中にみきは逝去した。

 簡略ながらこういう経緯を持つみき思想を何の違和感もなく身近で接してきたのが保田與重郎であり、その思想的バックボーンに三輪思想とみき思想が宿されていると窺うべきではなかろうか。しかして共に護持しているのは日本の古き心、本物の日本精神である。それはどうやら、三輪の地に古くから伝承されている「この地こそ日本のまほろば」として当時の政体、風俗、精神を懐旧する元の国思想であったように思われる。明治維新以降今日まで、「この古き良き日本」が壊され続けている。保田與重郎に何がしかの反骨が認められるとすれば、こう訴える系譜の者であることによると悟らせていただく。

 とりあえず云いたいことは以上である。次に、保田與重郎の人となりを確認しておく。

 2012.6.30日 れんだいこ拝




(私論.私見)