【新渡戸稲造「武士道」考その2】
れんだいこが新渡戸稲造の履歴及びその著作「武士道」を評すれば次のように云える。
1862(文久2)年、新渡戸稲造は、現在の岩手県盛岡市の盛岡鷹匠小路下ノ橋の邸にて南部藩士にして藩の勘定奉行を務める新渡戸十次郎と母・せきの、の三男として誕生した。その後の稲造は、明治時代初頭の文明開化の波に競って乗った欧米化ボーイの一人となった。
1877(明治10)年、15歳の時、“Boys,be
ambitious!”の名言で有名なウィリアム・クラーク博士の教鞭で知られていた札幌農学校(のち北海道大学)の二期生として入学する。内村鑑三はこの時の同期生である。1878年、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らと共に函館に駐在していたメゾジスト系の宣教師M.C.ハリスから洗礼を受けている(洗礼名・パウロ)。こうしてクリスチャンとなり、友人達とともに信仰と勉学の日々を送った。この頃、「モンク(修道士)」のあだ名を付けられている。
1884(明治17)年、念願叶って私費留学でアメリカに渡り、アレゲニー大学、ジョン・ホプキンス大学に入学し、経済、農政、歴史、英文学などを学ぶ。こうして、いわゆる西欧学問、精神、イズムを現地で吸収した。新渡戸はこうして国際日本人となった。当時、こういう日本人が少なからず居た。新渡戸が並でないのはこれ以降にある。
新渡戸は、多くの国際日本人の如く西欧文明を丸呑みしたのではない。むしろ日本との比較文明史的批評眼を持った。この観点は割合に早く獲得されていたものであるが、実際に欧米の地に住んでなお曇らさなかった。新渡戸は、西欧文明を知るにつけ徒に西欧に同化しなかった。屈服式に憧憬同化するには、幼年期に身につけていた日本学的教養が邪魔したとも云える。こういう例は史上の気骨派にまま認められる。ずっと後年になるが犬養毅なぞもその例であろう。夏目漱石辺りもこの範疇の人物であろう。
新渡戸はむしろ、西欧文明、学問を習いつつ、他方で日本が歴史的に営々と培ってきた学問、精神、イズムの高等さを逆に確認した。同時に西欧文明に比しての欠点をも確認した。その結果、日本が西欧に学ぶだけではなく、日本文明の水準も踏まえて、両者の文明的総合、架け橋を企図した。この当時、このように発想した日本人は少ないのではなかろうか。これが、新渡戸評の第一点にならなければならない。
更に注目すべきは次のことである。新渡戸の知性は、他のインテリが西欧化の波に呑まれ、西欧化の裏に潜む国際金融資本のイデオロギー且つ学問たるネオシオニズムに蕩(とろ)ける中にあって、その流れに迎合しなかった。むしろ西欧主義の流れにあるイエス教、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、在地諸教の五者鼎立を見据え、むしろ日本的精神で和合し得る西欧を求め続けた。
その結果として、キリスト教内では少数派のクエーカー教徒へと転身している。その背景には、当時主流となりつつあったユダヤ教系譜のネオシオニズムに同化せず、これと一線を画す必要を感じ続けていたと云う理由があったと推察できる。ここに新渡戸の見識の高さ、有能さが認められる。同時にネオシオニズムに身売りしなかったことによる悲劇が前途に敷かれることになる。これにどう挑んだか挑みそこなったか、これが新渡戸評の第二点にならなければならない。
このように自己形成した新渡戸のその後は栄光と苦難に満ち溢れている。暫く履歴を確認する。
渡米中、クエーカー派の集会であるモリス茶会でフィラデルフィア・クエーカーの名家の令嬢であったメアリー・エルキントンと出会う。1887(明治20)年、ドイツ留学しボン大学、ベルリン大学、ハレ大学で農政学、農業経済学、財政学、統計学などを学び、この後、マルティン・ルター大学、ハレ・ヴィッテンベルク(ハレ大学)大学にも聴講し、ハレ大学で学位論文「日本の土地所有、その分配と農業経済的利用について」を提出し農業経済学博士号の学位を得ている。1891(明治24)年、再度アメリカに渡り、ドイツ留学中にも文通により心を通わせてきたメアリー・エルキントンとフィラデルフィアで結婚する。
その後日本に帰国し、札幌農学校助教授として赴任する。1897(明治30)年、札幌農学校教授として多くの授業をかかえ、舎監なども兼任するという余りの忙しさによる過労の為に脳神経症となり退官し、鎌倉、伊香保で転地療養する。療養中に「農業発達史」、「農業本論」をまとめ出版する。
その後渡米しカリフォルニア州で転地療養する。この折の38歳の時、「武士道」(「Bushido-the
soul of
Japan」)を執筆、1900(明治33)年、英文「武士道」を出版する。今、これを読むのに、武士道のみならず武士道に通底している日本思想に対する造詣の深さに感嘆させられる。それを西欧の騎士道、西欧思想と比較対照させ、圧巻の東西思想対比に成功している。
「武士道(Chivalry)は、日本の表徴たる桜花と同じく、日本の国土に固有の花である。それは我が国の歴史の標本として保存されている古代の徳の干乾びた見本ではない」で始まる「武士道」はベストセラーとなり多くの国で翻訳され版を重ねた。英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、アラビア語をはじめとして17カ国語に訳され今も読み継がれている。
駐米英国大使のブライス卿に「英文学の珠玉」と賞賛され、後にポーツマス会議を斡旋するセオドア・ローズベルト大統領が、60冊買って知人に配りまくったと云う逸話も残されている。当然、日本でも出版され、諸氏が訳している。一番有名な版は、昭和13年(1938年)に岩波文庫版として刊行された矢内原忠雄訳の「武士道」であり、新渡戸自身が日本語で著した版は存在しない。
本来であれば、新渡戸の英文「武士道」は、和英両方を語学的にも思想的にも同時に知ることのできる必須教本となってもおかしくはないが、戦後はなおさら日の目を見ていない感がある。その理由はここでは問わない。
この年、次のような動きが並行している。夏目漱石がロンドン、日本画家の竹内栖鳳がパリ、新劇を提唱する川上音二郎は貞奴とともにニューヨークへ、長岡半太郎がパリの第1回国際物理学会議に出席をし、翌年は滝廉太郎がライプチッヒへ行った。内村鑑三が「聖書の研究」、与謝野鉄幹が「明星」、泉鏡花が「高野聖」、徳富蘆花が「自然と人生」を著わしている。政治上ではドイツの3B政策、中国で義和団事件が発生している。孫文は恵州で蜂起するも失敗。科学ではプランクの量子定数の発見、メンデルの遺伝法則の再発見、パブロフの条件反射、フロイトの「夢判断」、ヴントの「民族心理学」が著わされ、ヒルベルトが23の数学問題を提示している。
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