カンテラ時評34(991~1020) |
(最新見直し2011.04.21日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
れんだいこの丹精こめた珠玉の発言集「カンテラ時評」をここに保存しておくことにする。絶えず繰り返されるアラシの中で、意に介さず怯まず、れんだいこが発信したくなった事案に対するれんだいこ見解が披瀝されている。何度読み返しても、れんだいこ自身が面白い。字句の間違いの訂正、文意の修正もやっておこうと思う。 2007.3.24日 れんだいこ拝 |
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れんだいこのカンテラ時評№996 投稿者:れんだいこ 投稿日:2011年 9月 9日 |
【野田政権に対するれんだいこ書簡その3、どじょう政治考】 「野田政権に対するれんだいこ書簡その1、角栄政治の真髄を知れ」、「野田政権に対するれんだいこ書簡その2、セラード農業開発協力事業考」に続き「野田政権に対するれんだいこ書簡その3、どじょう政治考」を発信しておく。 野田首相が、如何なる意味で「どじょう政治」を詠ったのかは定かではない。民主党代表選の演説で、相田みつを氏の作品句「どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよなあ」を引用し、ここから野田式どじょう政治論が生まれているようである。これを教えたのが輿石と云われており、どじょうが取り持つ縁により野田政権発足に伴い幹事長に抜擢されている。 れんだいこは、相田みつを氏の文句よりも「どじょう」そのものに興味を抱いている。野田の「どじょう論」は「どじょう」になぞらえての「どじょう政治」として云われているが、当然「どじょう精神」、「どじょう文化」、「どじょう経済」といろんな風に使うことができる。野田が本気で、こういう意味合いを持つ「どじょう」を掛け声しているのなら面白い。 巷間、野田は、松下政経塾上がりの増税論者、反小沢として知られている。こたびの組閣を見る限り、この線からの大臣、副大臣、政務官が多数登用されている。その片方で、非増税論者、親小沢として知られている大臣、副大臣、政務官も登用されている。つまり、本来成り立ちにくい相反する二勢力を見事に混成させたのが野田政権の特徴となっている。これを仮に「どじょう組閣論」と命名する。 この技を為し得る者は政界広しと雖も目下は野田一人かも知れない。野田は、この混成を「どじょう」と表現し、天才バカボン親父の言を真似て「これでいいのだ」と自負しているように見える。理屈は合っているように見える。 しかし、こうなると、いずれ、本来成り立ちにくい相反する二勢力の衝突の日が訪れることになる。その日が近いのか遠いのか、それはまだ分からない。早くも前原系が右から揺さぶりに出ている兆候が認められる。問題は、「どじょう論」の神通力がどこまで効くかにかかっているように思われる。その効能次第で政権の長短が決まるように思われる。 「どじょう組閣論」について論ずれば、鳩山政権も相反する二勢力のバランスにシフトしていた。ただ、鳩山政権の場合にはパワーバランスとして反小沢と親小沢を並列的に取り混んでいただけなのに対し、野田政権の場合には反小沢と親小沢を混成的にしているところに違いが認められる。つまり、野田首相は混合せしめる神通力を持っており、その言葉が「どじょう」なのではなかろうかと思われる。この言葉の魔力を見染めた野田は偉いと云うことになる。 問題は、野田自身が、この「どじょう政治」をどこまで本気に育み、貫徹させるのかにあるように思われる。この元一日の日の誓いを忘れず、政治と政局を御して行けるのかと云うことになる。 興味深いことは、れんだいこの理解する「どじょう論」によれば、野田のこれまで掲げてきた政治論、政策論は「どじょう論」によって自ずから変更を余儀なくされ、野田自身が自己否定を伴う脱皮を要請されることになるだろうと予見できることである。野田は、この自己否定の道へ進むことができるのだろうか。れんだいこの興味はここにある。 れんだいこ式どじょう論によれば、「どじょう」とはまさに「土壌」であり、泥臭い土の中にまみれて生命を育む生き物である。この生き物は、見栄とか格好とかの金魚的な鑑照とは真逆の生活実利的な地味な生き物である。政治論で云えば、上部構造的大将論ではなく下部構造的兵卒論になる。野田は、「どじょう論」を口にすることで、政治の視座を下部構造的兵卒論に据えると表明していることになる。下部構造的兵卒論とは人民大衆論とほぼ等値の概念である。してみれば野田は人民大衆政治論を唱えていることになる。 加えて、「どじょう」とは河川の地底に潜み泳ぐことで在地土着精神を表象している。してみれば、「どじょう政治」とは在地土着政治を表象している。政治に於ける在地土着性の肝要さは今日ほど要請されている時はない。多くの政治家が与野党問わずジャパンハンドラ―ズの指揮指令に服し宦官化していることは衆知の通りである。つい先日、前原が日本の国政の機密情報を米国政府公館に公然と売り渡している機密文書がウィリークスにより暴露された。 これは何も前原に限る話ではあるまい。野田の「どじょう政治論」は、この売国奴政治に対する決別の叛旗となる可能性を秘めている。野田当人に果たしてその見識があるのかどうかは分からないが既に意識の基底で呟いていることになる。れんだいこが野田政治に注目する所以である。 意識と云うものは長い練磨を経て熟成されるのが普通だが、突然にひょういする場合もある。これを宗教者の場合には神がかりと云う。或いは天啓と云う場合もある。野田の場合にはどちらか分からないが、政治的マヌーバーではなしに生涯を貫く赤い糸となることを願う。 但し、最新情報で鉢呂経産相の「死の街発言」に対し、「不穏当な発言だ。謝罪、訂正してほしい」なる批判をしている。この早くも守りに入っている調子からすれば野田に期待するのは無理かもしれない。たまさかの「どじょう論」だったのではないかと思う。 2011.9.9日 れんだいこ拝 |
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れんだいこのカンテラ時評№999 投稿者:れんだいこ 投稿日:2011年 9月20日 |
【野田政権に対するれんだいこ書簡その5、増税中毒路線批判】 これまでは野田政権エールの書簡であった。これより批判の書簡に転ずることにする。9.20日、野田首相は就任後発の外遊となる米国詣でに向かった。オバマ米大統領との初の首脳会談が予定されている。その場で、かねて打ち合わせ通りの増税の言質と、その際の見返りとして相当額の資金の米国貢ぎが約束させられることになろう。「思いやり」から一気に「恩返し」へと質的に高められたものを要求され応えることになろう。この言の確かさは間もなく判明する。 こうして見れば、日本人民大衆に今課されようとしている増税は日本政治の内的必然性よりもたらされているものではなく、外圧要請によるものだと云うことが判明する。野田政権はこれに応えようとしている。その姿勢は、日本経済を壊滅させ、IMF管理に置いて後、かねてより日本熔解、解体後の日本の調理を企図するジャパンハンドラ―ズの対日支配教程に基づく指令の請負であり、邪悪な意思と意図により画策されていると云うことになる。してみれば、野田首相御一行は飛んで火に入る油虫そのものである。あるいはモグラであり強烈なモグラ叩きに遭わされるであろう。 さて、ここから野田政権批判に入る。しかしながら野田よ、「どじょう政治論」を掲げて野田政権の元一日とした以上、この信義を重んずるのが政治の筋と云うものではなかろうか。野田自身が政権公約第一号を反故にすることは許されない。しかし、野田にはこの声は届かないだろう。それはそれとして以下呼びかける。 野田は、「どじょう政治論」に従う限り従来の野田式増税論を吟味せねばならぬのではなかろうか。財政悪化、社会福祉財源の確保を理由として増税せんとしているが、その方策が本当に増税に拠るしかないのだろうか、他に有能な方法がありやなしや、かく問い、これを真剣に議論することの方が先決なのではなかろうか。かかる経緯を経て始めて政策化されるべきではないのか。これこそ政治家の眼力と胆力が発揮される舞台であり役目なのではなかろうか。 議論に費やす日時に猶予がないなどと云うのは粗脳政治家特有の言である。目下のような殆ど何の議論もないままの、仮にあったとしても上滑りの議論のままに拙速で増税が政策化されるのを危惧するのを政治家の矜持とすべきではなかろうか。れんだいこは、野田式増税論が取り返しのつかない日本経済大打撃を与え、邪悪なシナリオの袋のネズミへと追い込まれようとしていることを危惧している。 以下、れんだいこの方策を授ける。その一は、従来式の節税狙いの機構改革である。いわゆる冗費削減と云うことになるが、これはやれば良い。但し、これまで橋本政権時の省庁再編、鳩山政権時の機構改編を経てきているが何の役にも立たなかったのではないのか。 省庁再編は大蔵省を財務省にと云う具合に省庁名が紛らわしいものに代えられ、厚生省と労働省の統合による厚生労働省、運輸省と建設省と国土庁を国土交通省、北海道開発庁と環境庁を環境省と云う何の意味もない、と云うかむしろしてはならない行革をしただけに過ぎない。その後の新たな機構の続々たる創設を考えれば馬鹿騒ぎでしかなかった。それぞれの新省庁の機構改編もつけ刃でしかなかった。要するに日本経済の発展の為には余計な機構いじりでしかなかった。俗に云う「隔靴掻痒」の感がある。 節税対策に真剣に取り組むのなら余計なことをせずにズバリ軍事費、原発費に手をつけねばならない。ここを聖域にして省庁再編や小額予算のものを更に削るのは単なるパフォーマンスの政治遊びに過ぎない。これがイロハのイである。だがしかし、このイに手をつけずロハ的な機構いじりをするから、マジメそうに議論しても何の役にも立たない。 と云うか、直近の鳩山政権時の枝野―れんぼう式予算カットを見よ。必要なものの予算を削る悪質なものでしかなかった。単に大騒ぎしただけのことであった。次回の投稿で述べるが、殆ど「天下り高給与」の規制で解決するものばかりであった。それをせずに予算のみ削る方法に何の正当性ありや。かの時、何をやったのかもう一度はっきりさせる必要がある。ハンドラ―ズのシナリオに乗り国家百年の計に資するものが狙い撃ちされていたことが判明しよう。野田政権は枝野―れんぼうライン引き続き重用しているが、これまた胡散臭い。 軍事費、原発費に手をつけた後に我が社会が真に取り組まねばならないのは高額給与問題の方である。1980年代以降、国際金融資本の息のかかった中曽根系御用聞き政治の登場によって、我が社会の所得格差が格段に広がり始め、小泉時代の竹中路線により一挙に超高額所得者が雨後のタケノコのように出現し、その代わりに戦後日本が誇ってきた中産階級が壊滅させられ、低所得者層が大量発生しと云う具合で、今や由々しき事態になっている。 かく認識せねばならない。これを思えば今こそ我が社会に適正な給与体系を確立せねばならない。この問題に切り込まない財政論は全てニセモノと断じて良い。順序として給与問題の方が先であり次が冗費削減であろう。給与問題を解決すれば大方の問題が自動的に解決される。逆は逆である。 これにつき、鹿児島県阿久根市の竹原信一市長が偉大な貢献をした。竹原市長は、全職員の給与明細を公開し、予算に占める公務員給与の実態を明らかにし衝撃を与えた。それによると、阿久根市の年税収は2006~08年度平均として僅かに20億円のところ、職員の人件費総額は約17億3千万円、実に予算の86%強を占めていると云う驚くべき実態が判明した。他の市町村も大同小異と思われる。 この例に倣えば、都道府県公務員給与、国家公務員給与の予算に占める割合をも公開させねばならない。これを為し得て初めて適切な対策を講ずることができる。ところが、この肝腎な情報が秘匿され続けている。いずれにせよ、竹原市長が暴露した職員給与の予算に占める割合が86%強なる機密情報は、公務員給与の是正なくしては財政再建も日本再建も始まらないことを示唆している。 これに対処する為の審議会が開かれるが、粗脳の学者を使って出てくるのは決まって「一律何%カット」と云う方式である。これは小手先の誰でも答申できるおざなり改革でしかない。上から下までの一律カットは、下の側に位置する労働者にのみ苛酷で、労組の反発を生むばかりであろう。労働意欲の低下を考えると至極尤もであり、つまり功を奏さない。要するに急所を外している。為さねばならぬことは、労働の質に比して卑大な高額給与者の給与の適正化を図ることであり、これに適正な処方箋を調合しない限り事は処理されない。 ここを質して次に景気振興対策つまり持続可能な経済成長システム、現下ではこれにエコエネ問題を含めた総合対策を講じねばならない。出るを吟味し、入るを増やさない限り対策にはならない。現下の如く入るに工夫を凝らさぬままずるずる逓減し続け、他方で出るをザルにしたままの放漫財政では事態は打開できない。 これに対し、増税に次ぐ増税の中毒路線に突入しようとしているが、よほどバカげた政策と云わざるを得ない。事態がこじれるだけで却って悪化するのは火を見るより明らかである。ならばどう施策すべきか。論をこう云う風に設定すべきではないのか。今時の論には、医業の細分化の例に似て特殊分野の専門家は育成されているが、全体を束ねる医者、医院が居ない。その場は治まるが「手術は成功した。しかしながら余病を併発し患者は亡くなりました」式のトンチンカン処方が多い。 故に、名医を探せ。名医に国政の舵を取らせよと云うことになる。このことが今ほど望まれていることはない。次に、いよいよ高額給与問題の処方箋を出してみる。 2011.9.20日 れんだいこ拝 |
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れんだいこのカンテラ時評№1007 投稿者:れんだいこ 投稿日:2011年11月26日 |
【角栄答弁に対するれんだいこコメント】 「1972.10.30日、衆議院における日本社会党・成田知巳の質問に対する田中首相答弁」に下手な解説はいるまいが一応コメントしておく。 この答弁を通して、1970年代初頭の日本の国の形、国会質疑の質が確認できよう。今のそれと比べてみるが良い。角栄の質疑に対する真摯な応答、質問の内容を的確に捉えた答弁、その際の論理的弁証的な能力に敬服するが良い。駄弁や曖昧模糊なところが一切なく、見解の相違とするところ、宿題にするところ、取り組むところの別をはっきりさせている。取り組むとなると実効的な指針を打ち出しているのも特徴でもある。 その際に、角栄の施策が経済的発展を根底に据えて諸事対策しており、その果実として国民福祉に前向きであることを政治の使命としていることが分かり興味深い。現代政治の経済失速施策、その余波としての国民福祉の切り下げ切り捨てぶりに政治力を発揮せんと汲々としている政治家の姿と鮮やかな対比を為している。 70年代の日本が上り調子だったのに比して現下の日本は下り坂を転げ落ちている。その要因の解明も必要であろう。私見は、意図的故意の悪政の結果だと見立てている。これに伴い、70年代と今日では政治の在り方が根本的に違うところが分かる。そういう意味での現代政治の貧困ぶりを嘲笑すれば良い。 |
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れんだいこのカンテラ時評№1017 投稿者:れんだいこ 投稿日:2012年 3月 6日 |
【法螺と戯言氏のれんだいこ史観通底考その1】 2012.3.4日、ネット検索で「法螺と戯言」を見つけた。サイト管理人を仮にF氏と命名しておく。F氏は、れんだいこの宮顕論、リンチ事件考を踏まえた上で更に自身の見聞を加えた価値ある宮顕論を展開している。れんだいこの所説を好意的に言及しているので謝意も込めて確認する。「法螺と戯言」の全文はサイトで確認していただくとして、れんだいこに関わりのある部分、宮顕論上の秀逸な観点に特化して引用し、れんだいこコメントを付けることにする。F氏文は読み易くする為にれんだいこ文法に則り若干アレンジするものとする。腹の足しになる議論をがけている本稿は合格するだろうか。 F氏は、「2010年02月」のブログの「時事ネタ(ロッキード事件)」で次のように述べている。 「かれこれ40年近く昔の事件になります。あの頃、純粋(言い換えれば無知)な私は、『札束で頬を叩いて意のままにする宰相』についての過度の気嫌いから時の総理大臣田中角栄氏のスキャンダル失脚を好ましく眺めていました。しかし、時の経過の中で、あの事件が角栄氏の政界放逐を目論んだ一大政治陰謀の一場面であったことを知るに至りました」。 「2010年12月」の「ロッキード事件と中曽根康弘氏(3)」で、当時のF氏のスタンスを次のように述べている。 「1960年代から70年代にかけて、私は軽薄な左翼学生でありました。そうした軽薄思考の学生には、田中角栄氏と正力ー渡辺恒雄―中曽根氏はどちらも反動右翼であり、抗う対象でありました。前回掲載した簡単な年表に見るように1974年に月刊誌文藝春秋上で立花隆氏が田中角栄氏の金脈に関する連載を開始した際は、『それいけ、それいけ』と喝采したものです。ところが、立花氏は、ロッキード事件が米国上院で議論されるまさにその時期に『日本共産党の研究』と題する連載を開始するのです。共産党信者であった私は、この立花氏の連載に驚くと同時に、この連載は文藝春秋誌のいわば左右バランス感覚のなせるものであったのだろうと自らを納得させたわけです。つまり右の田中を叩き、ついで左の共産党を叩くというわけです」。 これによると、1970年代までのF氏は「共産党信者であった」ことが分かる。そのF氏が共産党に失望し、のみならず疑惑を抱くようになった経緯が以下に立論されている。これを確認する。 F氏の「共産党失望から疑惑への経緯」に、朝日新聞2010年2月12日付け(奥山俊宏、村山治)記事「ロッキード事件 『中曽根氏がもみ消し要請』 米に公文書」(米ミシガン州のフォード大統領図書館所蔵 )が大きく関係しているようである。同記事は、ロッキード事件当時の中曽根幹事長の奇妙な言行を暴露している。この文書は1976年2月20日、ジェームズ・ホジソン駐日米大使(当時)から国務省に届いた公電の写しであり、米国立公文書館の分館であるフォード大統領図書館に保管されており、2008年8月に秘密指定が解除されたことから知られるようになった。この記事と共にF氏の「共産党失望から疑惑への経緯」への旅が始まる。 文書によると、1976年2月4日、ロッキード事件が米議会で暴露され、与野党いずれも政府に真相解明を要求し始めた。2月18日、三木首相は「高官名を含むあらゆる資料の提供」を米政府に要請すると決めた。 その日の晩の中曽根の怪しい行動が記されている。中曽根が米国大使館の関係者に接触し、自民党幹事長としてのメッセージを米政府に伝えるよう依頼している。 中曽根は、三木首相の事件の徹底解明方針とは逆に、「もし高官名リストが現時点で公表されると、日本の政治は大変な混乱に投げ込まれる」、「できるだけ公表を遅らせるのが最良」と発言している。 中曽根の怪しい行動は翌19日の朝にも確認できる。この日、一晩考慮した中曽根は「もみ消すことを希望する」と伝えている。文書には、中曽根氏の言葉としてローマ字で「MOMIKESU」と書かれている。文書中、依然として秘密扱いの部分が2カ所あり、大使館関係者の名前は不明にされている。 上述の朝日記事を読み流した者は多いが、F氏は、ここから中曽根疑惑の眼を点灯させる。以来、ロッキード事件論、角栄論、中曽根論、宮顕論、日本共産党論、小沢キード事件論、現代政治論へと思考の旅を続けて行くことになる。 中曽根疑惑につき、「時事ネタ(ロッキード事件(2)」で次のようの述べている。 「それにしても爆弾級の情報でした。当時、米国にロッキイード事件の調査に行った共産党代議士の正森成二氏が帰国後の談話で、『トライスタ売込みよりもっと巨大な金がP3C対潜哨戒機売込みで動いている』と語っていたことが思い出されます。その額たるや、トライスタ関連での金とは一桁違うといわれていました。この売り込みに日本側で直接に関わったのが中曽根元首相であり、児玉誉士夫であったわけです。だからこそ、中曽根氏は、自分への疑惑を追及されることを防ぐべく、田中角栄氏を人質に差し出し、自分はその罪を免れたわけです。政治とはそういうものとはいえ、その陰湿・悪質な行為は許しがたいものがあります。そして、この超大疑惑に東京地検特捜部はなんら手をつけなかったのです」。 「2010年09月」のブログの「時事ネタ(ロッキード事件)」で次のように述べている。 「私は、40数年前の若かりし頃、日本共産党を応援しておりました。この党の躍進後退にかっては、一喜一憂しておりました。この党の代議士に日本国を真に憂い、国民の僕として働くとの気概を、主観的にかぶせ思い込んでいたのです。そして、この党を支えてきた地方議会議員、医師、弁護士などにそうした人材の存在を確かに確認してきました。何人かの国会議員は温かい目を持ち、私の信頼に応える議会活動をされておられました。しかし、全体としては、この組織を束ねる指導部には、日本を米国からの隷従から解き放ち、『国民生活を安定させるための戦術・戦略を構築する』能力と、意欲がないことが判明しました。むしろ、日本を危機に追いやる勢力に『意図』的に加担することでもって生き残りを目論む姑息さを見てきました(詳しくは、いずれ、機会をみて書きます)」。 何と正確にも、「この組織を束ねる指導部には、日本を米国からの隷従から解き放ち、『国民生活を安定させるための戦術・戦略を構築する』能力と、意欲がないことが判明しました。むしろ、日本を危機に追いやる勢力に『意図』的に加担することでもって生き残りを目論む姑息さを見てきました」と証言している。先に共産党信者であったF氏を確認したが、いつしか共産党に失望と疑念を向け始めたことが分かる。 「2012年12月」のブログの「中曽根氏の宮本顕治氏についての照会」で次のように述べている。 「この書類を発見した朝日記者の手によるとおもわれるのが『世界』の論説です。この記事にまことに興味深い表現があるのです。『翌六日、東京にいた国務省ウイリアムシャーマンと自民党幹事長中曽根が接触した。事前に表敬のために予定されていた接触だったが、話題はロッキードになった。駐日大使館から国務省にその日のうちに送られた公電に中曽根の発言の概要が報告されていた。それによれば、中曽根がまず触れたのが日本共産党の『スパイ査問事件』だったとされている」。 このブログの何が大事かと云うと、F氏が、ロッキード事件勃発最中に中曽根が「宮顕のスパイ査問事件」に言及していることを重大視し、中曽根が何故に「宮顕のスパイ査問事件」に触れたのかにつき正当な疑問を発しているところにある。当該論文を読んだ者は多いのに多くの者は疑問をわかさず通り過ぎている。それに比べF氏は由々しき疑問を感じたと云う訳である。F氏の謎解きの旅の圧巻部分である。 F氏は、中曽根がわざわざ持ち出した「宮顕のスパイ査問事件」に興味を覚え、同事件の再確認へと乗り出したようである。その結果、共産党の戦前の党中央委員査問致死事件の主犯として収監されていた宮顕の戦後の釈放過程に疑義を唱えている。釈放前は「わずか4ヶ月強とはいえ、宮本氏は網走刑務所に服役中でした」と正しく認識している。「わずか4ヶ月強とはいえ」は、俗説の宮顕神話「網走獄中長期収監説」を一蹴している。その上で次のように述べている。 「1945.10.4日付けでGHQの「民権指令」により10.10日期限で獄中政治犯の釈放を占領軍は指示し、事実、治安維持法絡みの被告は10.10日に一斉に釈放されました。この時の指示は純正政治犯のみを対象としており、宮顕や袴田のように刑事犯を併合している場合には適用されなかったのです。(レンダイコ氏ブログより、引用)。しかも宮本氏の釈放が一日早い10月9日であることも謎であるとレンダイコ氏は指摘しています」、「レンダイコ氏が指摘するように上記の経過には多くの胡散臭さが残っています。しかし、私が注目するのは、中曽根氏がロッキード事件の『もみけし』に先立って宮本事件に触れていることです」。 「渡邉恒雄回顧録 ( 伊藤 隆, 御厨 貴, 飯尾 潤 (中央公論新社、2004年))によれば、CIAエージェントとして、いまや日本中に知れ渡っている正力松太郎氏に中曽根氏を引き合わせたのがナベツネであると氏自ら語っています。なにせナベツネは自ら正力氏の走り使いであったと上記本で自慢げに語っているのですから。正力氏、中曽根氏のどちらも警察官僚です。私は、宮本氏にかかわる秘事は当然のことながら中曽根氏に引き継がれているのであろうと想像していました。しかし、どうもそうではなかったようです。もしかすると、CIA 下っ端エージェントの正力氏には宮本氏にかかわる真相・秘事は明かされていなかったのではないか。そして、中曽根氏は自らの鋭い嗅覚で、『宮本復権』に占領米国軍司令部・米国政府がかかわっていたであろう事を察知し、冒頭の質問となったのだろうと思います。 一方、ナベツネは正力氏との日常の接触から何がしかの感触を得ていたのではないか?それを思わせるに十分な記載が上記の本で触れられています。ナベツネは学生時代つまり東大駒場の共産党新人会で相当の回数宮本氏と遭遇していますが、二人の会話は、いつもスパイ談義なのです。それは、後日の邂逅でも再度、スパイ談義です。当時、ナベツネには不明朗な金の授受からスパイの嫌疑をかけられていました。ナベツネは自らのススパイ嫌疑にかこつけて、宮本氏の秘事を署ルんでいると暗に揺さぶりをかけていたのではないかと思われるのです。1970年代、この事件の顛末は皆さんも知るとおり、共産党の『田中角栄たたき』に結実したのです」。 ここで、れんだいこが登場している。これにより、F氏が、れんだいこの日本共産党論、宮顕論、不破論を読んでいることが分かる。その上で、れんだいこの立論に共感していることが分かる。このことが「れんだいこ検索」にヒットし、れんだいこがF氏を知るきっかけになり、れんだいこがお返しの本ブログを書いていると云う次第である。情報はかくして世界を回り戻りつ又回ると云うことが分かり興味深い。 F氏は、「時事ネタ(ロッキード事件(2))」で次のように述べている。 「前回の記事に、このブログを読んでくださっている方から質問やら、コメントやらをいただきました。まずはレンダイコとは何か?という質問です。レンダイコとは下記のホームペイジ上で鋭い政治評論をなされている方です。http://www.gameou.com/~rendaico/miyamotoron/miyamotoron.htm れんだいこ氏の本名、生い立ちについて、私は何も知りません。しかし、氏の宮本顕治論は、広い資料および文献の渉猟が窺われ、それに基づく深くかつ論理的考察には大きな説得力があり、引用しました」。 これによれば、無名のれんだいこの所説を引用する意図が訝られ質問されたようである。その返答として、「氏の宮本顕治論は、広い資料および文献の渉猟が窺われ、それに基づく深くかつ論理的考察には大きな説得力があり、引用しました」と答えていることになる。御立派である。れんだいこが有名無名に拘わらず、れんだいこ立論に値打ちがあり、値打ちがある以上紹介すると開き直っている公正さが素晴しい。今でこそれんだいこは「検証学生運動上下巻」の執筆者として知る人ぞ知るの半有名人になっているが、この当時はもっと無名である。無名の人物の所論を紹介するのは勇気のいることである。感謝申し上げたい。この後に更に素晴しいれんだいこ好評価の弁を開陳してくれているが、それはそのケ所で確認することにする。 2012.3.6日 れんだいこ拝 |
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れんだいこのカンテラ時評№1019 投稿者:れんだいこ 投稿日:2012年 3月 8日 |
【法螺と戯言氏のれんだいこ史観通底考その3】 F氏は、「時事ネタ(共産党の小沢いじめの根源的理由)」で次のように述べている。 「私は、前回のブログで『殺人の責を全うせず、さらには、殺人を犯しながら復権を執拗に求めた宮本氏、そしてそれを政治的思惑のために、あえて見て見ぬ振りをした当時の日本国支配者米国占領軍の邪な思惑を推測しています』と、書きました。この文にこめた私の考えは、『宮本氏には復権が叶う』との確信があったのではないかと想像するからです。何故なら、治安維持法に加え、過失致死罪、死体遺棄罪などが併合されて獄舎に繋がれていたにもかかわらず、その殺人に関する責任を問われずに、したがってその責任を全うせずして宮本氏は出獄を許されたわけです。釈放を認めたからには、当局側には最早『復権を認めない』との論理は成立しなくなります。しかし、治安維持法下という特殊な政治環境にあったから、『殺人(実際には過失致死とは言え)事件も無かったことにし、その責任を問わない』との論理が、後世検証されるかもしれないことを決定者であった米国占領軍は注意深く検討したはずです。事実、1976年1月の国会では、まさにこのことの不明朗さが指摘され、政府に調査をせまる国会での論議がありました。実際、『治安維持法下という特殊な政治環境』という理屈が通るのであれば、治安維持法下での特別高等警察による残虐極まりない拷問と虐殺についても法的にはなんらの処罰を課せられないばかりでなく、その残虐さを後日論難する論拠も失うことになります。共産党が指弾する特別高等警察の残虐はいわば二重基準の論理といわれても仕方ないことです。 宮本氏の釈放を検討した際、米国政府と占領軍には、大日本帝国による政治犯の暴力的弾圧という犯罪を棒引きにするべく、いわば相殺を図ったとの見方はありえるのかもしれません。実際、戦後の政府ないしは米国が法的手続きにのっとって、特別高等警察による過酷な拷問・取調べを調査したとの話は聞きませんから、それなりに宮本氏の『殺人事件を記録から抹消』したことと釣り合いが取れているのかも知れません。 ところで、松本清張氏による『日本の黒い霧』などが記すところによれば、戦争直後のさまざまな謀略と思しき怪事件の数々は、終戦直後数年間での米国占領軍による占領政策のあからさまな変更に起因しています。それらの多くは「左翼勢力」による事件として当時大いに喧伝されました。しかし、これらの事件は、戦争直後ではなく、それから数年後のことです。いずれ『左翼勢力を利用する時期が来る』との分析があったとしても、それが、まさに日本国のポッダム宣言受諾からわずか数ヶ月の短期間、つまり国際情勢の帰趨も定かでないこの時期での、宮本氏釈放の主たる理由であったとは思いがたいでしょう。 とすれば、『宮本氏の即時釈放』は、占領軍のシナリオには、早くから(日本国のポッダム宣言受諾・全面降伏以前から)既に書き込まれていたと思われます。既に書いたように1945年10月、治安維持法で獄舎にあった志賀義雄、徳田球一氏らが釈放されます。彼らが直ちに疲弊した日本国民を結集して一大政治運動・闘争を巻き起こすであろう事は誰の目にも明らかでした。当然占領軍はそうした事態を深く認識・予測していました。さて、この一大政治闘争、生活と基本的人権を求める一般国民の大闘争は、大日本帝国の息の根を完全に止めるという視点からは占領軍にとって歓迎されると同時に、一方では、その大闘争が先鋭化することの危惧をも併せ抱いていたはずです。松本清張氏は、氏の著作の中で占領軍司令部内のGSとG2の対立を描いています。 もし、宮本顕治氏が文字通り、徳田球一氏らと共に疲弊国民の闘争を力づける存在であったとするなら、占領軍は、上記危惧を理由として宮本氏の釈放を決定しなかっただろうと考えます。そうした決定をしないことによって、一部左翼が抗議をしたとしても、宮本氏には『釈放を獲得できない厳然たる事由』があるからです。『殺人事件との併合罪であるから、釈放できない』との一言です。しかるに、宮本氏は釈放されているのです。つまり、宮本氏は、疲弊国民の闘争を鼓舞し、ひいては占領軍による日本国支配を危うくする存在とみなされていなかったとの推論が可能となります。 しかし、それだけの、いわば消極的な理由で、殺人事件の当事者である宮本氏を釈放したとは考えにくいことです。むしろ、占領軍側には釈放した宮本氏を『使う』意図があったのではなかろうかとの思惑があったと考えるのが自然です。殺人犯の刑期を全うせずしての釈放には占領軍内部で慎重な検討があったに違いありません。反対者も少なくなかったろうと思います。その反対を押し切り、かつ後世になされるかもしれない歴史検証への危惧も押し切って宮本氏を釈放する決断をしたことになります。とすれば、占領軍司令部内での釈放推進派には、反対派を黙らせることができる強い説得材料があったに違いがありません。宮本氏が占領軍軍支配に敵対しないとの確かな証(あかし)があったのだろうと思います」。 F氏はここで、中曽根に政治利用される宮顕その人の解析に向かっている。宮顕の戦後の釈放と復権証明書の背景にある政治的陰謀を嗅ぎ分けしようとしている。結論として、戦後共産党運動を指導することが予見された府中グループの徳球―志賀派への対抗として宮顕を政治利用する為に府中グループより一日早い出獄が用意された可能性を窺っている。「宮本氏が占領軍軍支配に敵対しないとの確かな証(あかし)があったのだろうと思います」と述べており、宮顕の胡散臭さを指摘している。 「ロッキード事件を転機とした共産党のあからさまな変節」で次のように述べている。 「中曽根氏も当然上記のような疑問を抱き、なにがしかの想像をしたはずです。あるいは、親分であるCIAエージェントの正力氏から何がしかの事前情報を得ており、その確証を得ることが日本部長との話し合いの目的の一つであったかもしれません。かくして、中曽根氏は、1976年2月6日の米国大使館での会談で、宮本氏釈放決定に関する米国占領軍内部での検討経緯、および宮本氏の『出自』にたんぽされたものについて照会したのでしょう。当時の中曽根氏の主要な関心は、P3Cでの自らに降りかかってくるやも知れぬ醜聞攻撃を田中角栄氏の金脈醜聞にすり替えることであったはずです。そして、中曽根氏の政治的スタンスは『田中角栄氏の政治スタンスとは真反対』です。正力松太郎氏の側近としての立場からしても、それは、米国の意向に強く沿ったものであったはずです。 以前にも書きましたが、この大型スキャンダルを田中金脈問題にすり替えるにあたって、当時昇竜の勢いにあった共産党の追求力を利用することを、中曽根氏は目論んだのです。実際に中曽根氏が米国大使館で宮本問題でどのような情報を得たのかは定かでありません。しかし、共産党にしてみれば、中曽根氏から『米国国務省日本部長と宮本事件のことで話したよ』と、耳打ちされるだけで、それの重大性は、震え上がっるような衝撃であったと思われます。とりわけ、当事者たる宮本氏にとっては。かくして、以後、共産党を率いる宮本氏は、田中角栄追及を先鋭化を党の主要方針とさせてゆきます。共産党の売りの一つとして、『金にきれい=清潔』であることが強調されるようになります」。 F氏はここで、中曽根が宮顕のリンチ事件、戦後の釈放と復権証明書過程の胡散臭さを嗅ぎ取り、これを強請(ゆすり)の種として「当時昇竜の勢いにあった共産党の追求力を利用することを、中曽根氏は目論んだ」と推定している。宮顕は中曽根の強請(ゆすり)による角栄糾弾請負の取引に応じ、「かくして、以後、共産党を率いる宮本氏は、田中角栄追及を先鋭化を党の主要方針とさせてゆきます」と分析している。 「ロッキード事件と共産党」で次のように述べている。 「前回、不破氏が、『60年余の間に支配勢力が共産党の前進を3回に亘って妨げてきた』と語ったことを書きました。氏はそれを反攻と呼びます。50年代の反攻については説得力があります。松川事件、三鷹事件、菅生事件など不可解な事件が発生し、それらを共産党になすりつけるキャンペーンが張られたからです。しかし、残る二つにはそうした背景を見ることができません。1980年の反攻に先立って、月刊誌『文藝春秋』での立花隆氏による連載『日本共産党の研究』(1974年)あるいは、1976年の民社党委員長(当時)春日一幸氏による国会質問などで宮本事件が大きな話題になりました。これらは『共産党のイメージを著しく損なった』のであり、まさにこれぞ反動勢力による反攻であると不破氏は語ります。実際、創価学会などは『人殺しの共産党委員長』といったビラを夜陰に乗じて配布することがありましたが、当時の大手新聞、朝日、毎日、そして読売新聞ですら、『治安維持法を容認するような議論は謹まねばならない』との論陣をはり、立花氏、春日氏の主張に乗じて『暗黒の戦前を是認』する論調には批判的でありました。 今にして思えば、当時の大手報道機関は『宮本問題をあえて大騒ぎしないこと』でもって、共産党に貸しをつくり、共産党を国際金融資本の意向に従わせる戦略をとったのではないかと思えます。何故なら、『暗黒の戦前の容認』と『宮本氏による殺人の贖罪』とはまったく次元の異なる話であったにもかかわらず、当時はその違いを峻別せず、むしろ意識的に混同させることで、いわば恩を共産党に売ったのではなかったか」。 ここも黙って拝聴することにする。続いて次のように述べている。 「さて、共産党の側からあからさまに国際金融資本への屈服表明をしたのが2001年の夏の共産党創立79周年での講演でした。『共産党は、“唯我独尊”“党利党略”か?」と題する下記の投稿で、不破氏が行った講演の概要が紹介されています。 (引用開始、http://www.asyura2.com/09/senkyo61/msg/455.html) 共産党に好意的な人々は、共産党が『純粋すぎる』ので、結果として傍から見ると唯我独尊、党利党略に映るのだと、この批判を『美化』する。『純粋すぎるのか否か』を判断するのに格好の資料が下記である。2001年7月のK党創立79年記念講演会で、不破委員長(当時)は、衝撃的な演説を行った。『ロックフェラと家族ぐるみの付き合いをするほどに緊密な関係にあった盛田昭夫氏を、資本家の鑑であると礼賛し、ホロコーストについて、“ユダヤ人、ジプシー、ポーランド人、ロシア人、チェコ人、スロバキア人を はじめとする何百万という人々が、人間の頭にかつて浮かんだことのないような最大の絶滅行動〔大虐殺〕の犠牲となった”と言及した上で、その責任を未だに言及し続けるドイツ政府を褒めちぎった』。 世界の富の半数以上を占有しつつ、一層の金儲けのために世界を戦争に駆り立てる国際金融資本勢力への戦闘放棄を高らかに宣言した瞬間が、2001年7月なのである。当然の帰結として、歪んだシオニズムが言論の自由を奪っていること、さらには、常に戦争の火種を作っていることなどの厳然たる事実について一切言及せず、むしろ彼らのスピーカとなることを高言した瞬間でもあった。共産党の唯我独尊、党利党略は、大多数庶民の利益・要求に背を向けて、国際金融集団に唯々諾々付き従う実態を隠蔽するポーズなのである。とすれば、今回の小沢問題での足場は、政権交代阻止勢力の一翼たることを、ご主人様に認めて頂く事の上にある。そうしてこそ、迫り来る総選挙でも細々と生きながらえ、後退すれども幹部連の首はご褒美としてつながりつづける。(引用おわり) この講演をきっかけに、共産党はせっかくの社会党票の受け皿足りえず、一気にもとの右下がり傾向に落ち込んだのです。実は大変興味深いまさに具体的な、労働者を犠牲にして国際金融資本に仕えんとする事例があり、それが、下記のHPに詳述されています。http://kinpy.livedoor.biz/archives/51506769.html 上記は、石川島播磨重工を舞台とした共産党員の戦いを共産党中央が押さえ込んだという信じ難い話です。ここでは、読者に上記を読んでいただくことで持って、記事内容を紹介することは致しません。いずれにしても、富を独占し大多数の国民を貧困と生活苦に追い込んでいる支配勢力との戦いをやめてしまったことが、深刻な後退の理由であって、それは反攻とは言いません。一般庶民とはかけ離れた現状認識、それに基づく党の方針が庶民からは見放されたことが、低落の重要な一要因なのです。しかし、それにとどまらないもっと深刻な後退理由があるのですが、それは後刻書きます。 ホロコーストに関してはすでに繰り返し書いてきました。600万ものユダヤ人をガス部屋で殺害したとの『お話』は、物理的に不可能であり、文字通り荒唐無稽であることを繰り返し書いてきました。これが国際金融資本の背後で世界支配を操るための道具であったことも書いてきました。しかし、不破氏はその筋書きにあえて抗弁せず、それを是認する歴史観をここで表明したのです。昨今、性懲りも無く、自らを『清潔な党』として売り込みつつ、小沢氏を『政治を金まみれにした張本人』として共産党は、大手マスコミ産業と口を揃えて、小沢氏を激しく非難しています。これで、支持の回復を図りたいとの主観的希望が見て取れますが、それは、実は支配勢力(国際金融資本)に対する忠誠の証をたてる示威でもあるのです」。 ここも黙って拝聴することにする。「(時事ネタ)中曽根氏の照会(3)」で次のように述べている。 「終戦直後、殺人事件の犯人として獄舎につながれていた宮本顕治氏を、一介の政治犯として釈放する決断に際し、占領軍が担保したものは何であったか? 多分、米国政府公文書館に関連する資料が秘匿されているのだろうと思います。そして、中曽根氏が1976年2月6日に、敢えて米国担当官に尋ねたことからわかるように、米国CIA日本人エージェントである正力松太郎氏ですら、その資料には触れることができていなかったようです。1974年―76年当時の大方の論調は『宮本氏が共産党を守りたいとの一心で心ならずも小畑氏の殺害にいたってしまったのであり、そのこと自体は誠に不幸な事件であった』というものでした。現在の共産党もその論調に乗じて、宮本事件と聞くとヒステリックに反共攻撃というセリフで以って反応します。したがって、中曽根氏から傷害致死をチクチクと突かれようと真っ向から反撃できるはずでしたが、すでに書いたように共産党の反応そして対応はまったく異なっていました。中曽根氏は上記共産党の表向きの主張とは異なる『何か』を得ようとして、米国大使館日本部長に宮本事件を照会したのです。2009年7月ごろであったでしょうか、中曽根氏は不破氏と対談しています。紙上に掲載されなかった対話でこの事が話題になったか否かはさだかでありません。現時点では、この『何か(something secret)』を知ることができません。 しかし、それを推察するに格好の考察がHPで閲覧できます。marxismco/nihon/miyakenco/rinchizikenco/rinchizikenco.htm このレンダイコ氏の考察は誠に衝撃的です。1945年10月に釈放される以前、つまり獄中にあった時期、宮本氏は既に官憲が左翼に送り込んだスパイであったというのですから、まずは眉唾と思う人も少なくないようです。しかし、上記HPはその考察に膨大な資料文献を渉猟・読破しており、読後には強い説得力で、その結論に納得させられます。実際、このように考えると、殺人罪との併合罪で獄舎に繋がれていた宮本氏が治安維持法犯としてのみ釈放され、半年後には、その殺人犯としての罪も復権証明の発布でもって消滅してしまうことの謎が、まずは氷解します。そして、であればこそ、1976年、事情を薄々感知していた中曽根氏が米国政府からあわよくば真相証拠を得て、宮本氏と氏が率いる共産党に揺さぶりをかけた事情も呑み込むことができます。実際、中曽根氏の思惑通り事は進んだのです。繰り返しますが、共産党はその際の出刃包丁にひるみ、P3C追及をやめ、以後は中曽根氏の仇敵である田中角栄氏とその思想的系譜に繋がる小沢一郎氏の追及にまい進するのです。そしてこのことが、中曽根氏とその背後にある国際金融資本への忠誠の証しともなっているのです。いずれ、書きますが共産党の検察糾弾忌避にもそのことがまざまざと見て取れるのです。 それはさておき、このレンダイコ氏による考察が私に与えた衝撃は、1995年1月の雑誌『マルコポーロ』廃刊事件に匹敵するものでした。この廃刊雑誌の一記事では、第二次世界大戦の末期ナチスがしでかしたとされる「ユダヤ人600万の虐殺、とりわけアウシュビッツでの大量ガス虐殺」は物理的にありえないことを論証したものでした(西岡昌司氏)。宮本事件とマルコポーロ事件が私に教えてくれたことは、『巨大な虚偽は、真実としてまかり通る』、というかってヒトラーが言ったとされる歴史の真実でした。ここでは、この考察を裏付けると思われる一二の出来事を検討してみたいと思います。それらは、宮本氏の釈放から21世紀初頭までの氏の活動履歴からとりだした事柄です」。 F氏はここで、れんだいこの宮顕論、日共論の観点に賛意を表し、「このレンダイコ氏による考察が私に与えた衝撃」は、西岡昌司氏の通説ホロコースト論批判に匹敵すると激賞している。当事者のれんだいことして、この評に感謝申し上げておく。 2012.3.8日 れんだいこ拝 |
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(私論.私見)