カンテラ時評33(961~990) |
(最新見直し2011.04.21日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
れんだいこの丹精こめた珠玉の発言集「カンテラ時評」をここに保存しておくことにする。絶えず繰り返されるアラシの中で、意に介さず怯まず、れんだいこが発信したくなった事案に対するれんだいこ見解が披瀝されている。何度読み返しても、れんだいこ自身が面白い。字句の間違いの訂正、文意の修正もやっておこうと思う。 2007.3.24日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№961 投稿者:れんだいこ
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【月刊誌「諸君!」誌上での渡部昇一氏のロッキード裁判批判功績考】 1984.1月号「諸君!」に渡部昇一「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」が登場した。この論文が、「始めに結論ありき」の意思統一の下で角栄有罪に向けて事を押し進める当時のロッキード裁判批判の先鞭をつけた。その論旨を確認しておく。 ところで、この時の渡部氏の立論に対するネット上での評判がすこぶる悪い。「渡部昇一の『暗黒裁判』論を読む」、「シリーズ・『田中角栄の真実』批判 」などが典型で「渡部非、立花是」からものしている。れんだいこには、その論旨の薄っぺらさに耐えられない。 渡部論文を掲載した「諸君!」でも、誰が執筆したのかは分からないが「ウィキペディア諸君」に従う限り、その沿革史においてロッキード事件論争の際に「諸君!」が果たした役割について、恐らく意図的故意に欠落させている。一事万事で、現代世界を牛耳る裏政府たる国際金融資本帝国主義批判に繫がるような言論が著しく掣肘され言論統制されているのが通り相場なのだが、ここでも垣間見られる。そこで、れんだいこが是正し、「渡部是、立花非」の観点から一文をものしておく。 その前に、これを掲載した「諸君!」について確認しておく。「諸君!」は㈱文藝春秋が発刊していた月刊オピニオン雑誌であり、1969.5月に7月号として創刊されている。当時の文藝春秋社長の池島信平氏が、「文藝春秋は売れすぎて言いたいことが言える雑誌ではなくなった、だから小数部でも言いたいことを言う雑誌を作ろう」との思いから創刊したと述べている。初代編集長は田中健五。当初の執筆陣は福田恆存、三島由紀夫、小林秀雄、竹山道雄、山本七平、江藤淳、林健太郎、田中美知太郎、高坂正尭、村松剛らであった。 その後の論客として、順不同であるが、白洲次郎、清水幾太郎、山本夏彦、石原慎太郎、古森義久、佐伯啓思、中嶋嶺雄、西部 邁、野田宣雄、秦 郁彦、平川祐弘、渡部昇一ら。他に中曽根康弘、池部 良、山本卓眞、渡邉恒雄、/勝田吉太郎、岡崎久彦、佐々淳行、曾野綾子、深田祐介、屋山太郎、金 美齢、佐瀬昌盛、山崎正和、平沼赳夫、渡辺利夫、立花 隆、黒田勝弘、長谷川三千子、山内昌之、鹿島 茂、関川夏央、阿川尚之、東谷 暁、井上章一、荒木和博、石破 茂、坪内祐三、福岡伸一、佐藤 優、福田和也、櫻田 淳らが名を列ねている。以来40年を経て、2009.6月号を最後に休刊した。 「諸君!」は、渡部論文を1月号に続いて3月号でも掲載した。1月号は「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」、3月号は「角栄裁判・元最高裁長官への公開質問七ヶ条」。同7月号で、立花「立花隆の大反論」、渡部「英語教師の見た『小佐野裁判』」が併載されている。同8月号で、匿名法律家座談会「立花流『検察の論理』を排す」、伊佐千尋・沢登佳人「『角栄裁判』は宗教裁判以前の暗黒裁判だ!」、同9月号で、立花「再び『角栄裁判批判』に反論する」、「『角栄裁判』論争をどう思いますか?」と題するアンケート特集が掲載されている。 これを見れば、当時の論壇が朝日ジャーナルを始めとして反角栄一色に染まり、角栄訴追の大合唱に明け暮れる中、「諸君!」がただ一誌、異色の「始めに結論ありき的ロッキード事件」批判の姿勢を示していたことになる。この稀有の姿勢が当時の編集部の政治能力に基づいていたものなのか単に注目を浴び売れ行きを伸ばす為のものであったのかは分からない。いずれにせよ、当時の角栄包囲網に加担しなかった栄誉に与っている。このことはもっと注目されても良い史実と思う。然るに、「諸君!」のこの栄誉の痕跡が消されている。そこで、れんだいこが一筆啓上しておく。これが本稿の意義である。 この時の渡部昇一氏の諸論は、「万犬虚に吠える―角栄裁判と教科書問題の誤謬を糺す」(PHP研究所、1994.4.1日初版)として発行されている。ここでは教科書問題はさて置き、角栄裁判を採り上げる。渡部氏は、「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」以前にも「諸君!」にロッキード事件絡みの寄稿をしているようである。その一は、1975.2月号に「腐敗の効用」、その二は1976.5月号に「公的信義と私的信義」、その三は1976.10月号に「小佐野賢治考」。計三本をものしている。 それから6、7年鳴りを潜めていたが、1983.10.12日のロッキード第一審判決に合わせての10.15日付け毎日新聞朝刊に掲載された「ロッキード事件当時の最高裁長官にして最高裁免責証書を発行した張本人の元最高裁長官・藤林益三のインタビューコメント」、10.21日付けの朝日新聞朝刊に掲載された「元最高裁長官・岡原昌男のインタビューコメント」にコチンと来て、やおら「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」を書き上げ、1984.1月号「諸君!」に掲載されたと云う経緯のようである。 ところで、この時の元最高裁長官・藤林益三、岡原昌男とは何者か。これを記しておく。両名は、本来ならコメントを自粛すべき事件関係者である。なぜなら、藤林は、1976(昭和51).2.4日、ロッキード事件が勃発し、喧騒が始まり、最高検察庁が「角栄逮捕を意思統一」し、東京地検(堀田力主任検事ら)が米国の裁判所に事件調査に出航した直後の5.25日、 最高裁判所判事から第7代最高裁長官に就任し、東京地検の「不起訴宣明書」を出すようにとの催促を受けて、藤林長官以下15名の最高裁判事全員一致による「不起訴宣明書」を提出している利害関係者であるからである。 藤林氏は根っからの無教会派クリスチャンでもあった。無教会派とは、キリスト教会の各系統の中でユダヤ教教義を重視する宗派である。何か怪しいものが臭うではないか。岡原昌男とは、1977.8.26日、弁護士出身の藤林益三長官の後を受けて、第8代最高裁判所長官に就任している人物である。両者とも、「始めに結論ありき的ロッキード事件」渦中で角栄訴追側に与して訴訟指揮した人物である。 普通、こういう利害関係者は、ロッキード第一審判決に関してノーコメントするのがマナーであろう。これを良識と云う。渡部昇一氏は、その良識のなさに呆(あき)れ、事件そのものには関心があったものの公判には門外漢として留意していなかったところ、やおら検察の論告の解析に入った。これにより、検察正義を擁護し抜く新種の御用評論家・立花隆の論調と鋭く対立し、両者間で論争し合う経緯を見せて行くことになる。 その発端が「諸君!」1月号の渡部寄稿「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」である。今これを読むのに、「渡部VS立花」どちらに軍配を挙げるべきだろうか。立花ヨイショの「渡部昇一の『暗黒裁判』論を読む」、「シリーズ・『田中角栄の真実』批判 」的評論に抗して、れんだいこが渡部ヨイショを試みることにする。 2011.7.29日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№962
投稿者:れんだいこ
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【【渡部昇一著「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」考】 1983(昭和58)年、 10.12日、東京地裁のロッキード事件丸紅ルート第一審有罪実刑判決が下された。主文と要旨のみ下され、要旨文中にはところどころ「略」とされていた。且つ正文は添付されていなかった。元首相を裁く判決文にしては随分失礼な暴挙と思われるが特段に問題にされていない。 そういう判決文によって田中元首相は、検察側の主張通りに受託収賄罪などで懲役4年、追徴金5億円、榎本秘書も有罪とされた。贈賄側は丸紅社長の檜山広が懲役2年6ヶ月、伊藤宏専務が懲役2年、大久保利春専務が懲役2年・執行猶予4年。田中は直ちに保釈の手続きをとった。 れんだいこが、ロッキード事件、ロッキード事件裁判、その判決文に注目する理由は、これがその後の国策捜査の嚆矢であると思うからである。この時の「司法の型」が延々とその後も繰り返され、主として戦後日本の在地土着系政治家叩き、潰しに悪用されて行くことになった。これが現在の小沢キード事件まで続いている。「法の番人の上からの法破り」であるが、これが公然白昼罷り通ってきた。この「検察不正」が、先の厚生労働省元局長・村木不当逮捕事件公判で満天下に明らかになり、検察内部が遂に自浄に乗り出し、現在まで揺れに揺れているのは衆知の通りである。 もとへ。かの時、毎日新聞10.15日付け朝刊が、藤林益三・元最高裁長官に、白根邦男・社会部長のインタヴュー記事が掲載された。その中で、藤林氏は次のように語っている。 概要「一審が本来のもので、一審にはそれだけの重みがある。法律家が他の雑音にとらわれず判断した結果は尊重して貰いたい。一審判決を軽く考えるのはやめて欲しい。このことは裁判の威信の問題でもある」。 朝日新聞10.21日付け朝刊が、岡原昌男・元最高裁長官のインタヴュー記事が掲載された。その中で、岡原氏は次のように語っている。 見出しは「一審の重みを知れ、居座りは司法軽視・逆転無罪有り得ない」。 概要「上級審で逆転無罪となるケースはほとんどなく、一審判決はそれほど思い。今回の田中元首相の居座りは、こうした司法軽視の姿勢をさらに強めるものであり、首相経験者として絶対に許されることではない」。 既に述べたように、両氏ともロッキード事件、ロッキード裁判渦中の最高裁長官を務めた人物である。幾ら在任中の事件として責任があったにせよ、こう云う場合には「渦中の一人」として発言を差し控えるのが嗜みであろうに露骨に角栄訴追加担コメントしている。これはどういうことだろうか。 よりによって元首相を裁く特殊な事案であると云う首相職の権威に対して配慮する姿勢が微塵もなく、逆に被告人の控訴を司法軽視と看做して「首相経験者として絶対に許されることではない」と恫喝している。察するに、この元最高裁長官二氏が日本国の最高権威である№1の天皇、№2の首相よりも、より権威のある筋からの差し金に従い、それ故に、こうも威猛々しくコメントしているのではなかろうか。これを逆に云えば、後ろ盾なしには恐れ多い裁判だったのではなかろうかと云うことになる。この推理を否定するなら他にどういう理由が考えられようか。 秦野法相は、月刊誌「文芸春秋」12月号に寄稿し、角栄の人権擁護の観点から国連の人権宣言の趣旨を援用して、「第一審判決の際の藤林、岡原コメント」を批判した。これに対し、藤林、岡原両氏は、秦野発言に対し「法律のシロウトの云うこと」と反論している。しかし、これも失礼な話である。秦野法相は元警視総監である。その警視総監を「法律のシロウト」呼ばわりする神経が解せない。警視庁が愚弄されておりメンツに関わる初言であるが、警視庁が抗議したのかどうかは分からない。いずれにせよ軽率な暴言には違いない。 当然、「第一審判決の際の藤林、岡原コメント」は、コメントした藤林、岡原両元最高裁長官だけの問題ではない。それを大々的に取り上げ、「角栄よ観念せよ」的論調を煽った毎日新聞、朝日新聞の記事姿勢も徹底的に批判されねばならない。しかし、当時のマスコミから内部批判が出た形跡がない。否それどころか「角栄よ観念せよ」的論調を競って記事にして、「権威のある筋」からの覚えめでたさを買おうとしていた:ゲスな生態ばかりが透けて見えてくる。 ちなみに、当の角栄は判決に激怒した様子を伝えている。 概要「判決では、嘱託尋問で聞いたコーチャンの証言ばかりが取り上げられている。こんな馬鹿なことがあったら、誰もがみんな犯人にされてしまう。最高裁が嘱託尋問などという間違ったものを認め、法曹界を曲がった方向に持っていってしまったんだ。この裁判には日本国総理大臣の尊厳もかかっている。冤罪を晴らせなかったら、俺は死んでも死にきれない。誰がなんといってもよい。百年戦争になっても俺は闘う」(佐藤昭子伝他)。 この日の夕刻、田中の秘書である早坂茂三が「田中所感」を読み上げた。 概要「本日の東京地裁判決は極めて遺憾である。違法な行為がなかったことを裁判所の法廷を通じて、証明することが厳粛な国民の信託を受けている者としての義務である。私は無罪の主張を貫く為に直ちに控訴した。遠からず、上級審で身の潔白が証明されることを確信している。私は総理大臣の職にあったものとして、その名誉と権威を守り抜くために、今後とも不退転の決意で闘い抜く。私は生ある限り、国民の支持と理解のある限り、国会議員としての職務遂行に、この後も微力を尽くしたい。私は根拠の無い憶測や無責任な評論によって真実の主張を阻もうとする風潮を憂える。わが国の民主主義を護り、再び政治の暗黒を招かないためにも、一歩も引くことなく前進を続ける」。 渡部氏は、この時点で、炯眼にも次のように述べている。 「田中角栄氏の主張する通り、彼は本当に5億円はもらっていないのかも知れない、と云う見地からこの判決を見てみると、つまり田中収賄という予断なしで見てみると、首をかしげたくなるような重大なカ所が幾つかあるし、裁判の様相は一転して暗黒めいてくるのだ」。 渡部氏は続いて、藤林、岡原両名に対し、法の番人の元最高トップたるものが一審の重みを語るが故に間接的に三審制の意義を否定しているところにも問題ありと批判している。これ又炯眼であろう。次のように述べている。 「元最高裁長官たちは田中裁判への予断を述べ、三審制軽視論をぶった。これは憲法の精神に真っ向から反するものであるのに、その憲法の最高の番人だった人たちが、そんなことを云っても平気な世論の動向であると考えられたのであろうか。そうとすればこれは司法の堕落であり腐敗である。二人の元最高裁長官は大新聞のインタヴューに誘われて晩節を穢したと云うべきではないか。(中略)司法の節操はここに破れたり、と云うべきであろう」。 故に、「角栄よ徹底的に争え」として次のように述べている。 「『世論』を離れて田中裁判を冷静に見ると、これは実に恐ろしい要因を含んでいる。田中氏には絶対第一審で服してもらっては困る。徹底的に二審、三審と闘い抜き、そしてこのロッキード裁判が含有している恐ろしい諸要因を国民の前に明らかにしてもらわなければならない」。 ロッキード裁判の検察司法の乱暴さは目に余る。この点については追々確認して行くことにする。渡部氏が中でも批判し抜いたのが、免責特権付きの外国人証言に対して反対尋問する機会が与えられぬまま証拠採用され、有罪とされたことに対してであった。次のように述べて結んでいる。 「それを聞いた文明国の人は、百人が百人、千人が千人、万人が万人、一人残らず日本はそんなに野番国であったのか、と仰天することであろう。我々はそんなに国の恥を世界の目に晒すことはないのである」。 こうした渡部氏の論調に小室直樹氏の識見が作用していたようである。「同氏は田中裁判に関連した本も二、三冊書いておられるし、いろいろのところで発言もしておられるから」、「小室氏が田中裁判について書かれた本を以前に読んだ時は、ただ『面白い指摘だな』と思っただけであったが、司法界に、あるいは日本全体にみなぎる『予断』という点に気付いた今では、『やはりそうだったのか』と改めて慄然とするのである」と述べており、注目していたことが分かる。 2011.7.31日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№963
投稿者:れんだいこ
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【渡部昇一著「角栄裁判・元最高裁長官への公開質問七ヶ条」考】 「諸君!」は、渡部昇一論文を、1984.1月号の「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」に続いて3月号でも「角栄裁判・元最高裁長官への公開質問七ヶ条」を掲載している。これを確認しておく。 冒頭で、軍人勅諭の一節「世論に惑わす政治に拘らずただただ一途に己が本分の忠節を守り」云々を挙げ、日本の司法もこの伝統を守るべきところ、戦前の軍部がこの戒律を犯したと同様にロッキード事件に於いて暴走し始めていることを危惧している。 「第一審判決の際の藤林、岡原コメント」がその典型であるとして、ロッキード事件の渦中の最高裁長官が引退後に於いて判決文にコメントすることが異常かどうかを「公開質問の1」としている。岡原発言は藤林発言に比して更に露骨に恫喝的であり、これが裁判に予断を与える恐れがあるのではないかと云う点を「公開質問の2」としている。 次に、日本の刑事訴訟法、検察法にない米国式の嘱託尋問制を採用し、しかもその嘱託尋問に米国では当然視されている証人に対する反対尋問の権利を奪った上での一方的な云い勝ち云い得証言を採用していることにつき、岡原元最高裁長官の見解を仰ぐとして、これを「公開質問の3」としている。 そういう曰くつきの嘱託尋問により証拠採用するに当り、事前に検察総長の「免責宣明書」(1976.7.21日)に続いて最高裁決議(1976.7.24日)まで提出していることにつき、これが適正なものなのかどうか岡原元最高裁長官に問うとして、これを「公開質問の4」としている。 続いて、「第一審判決の際の藤林、岡原コメント」が一審判決を絶対視させ結果的に三審制を軽視している発言内容につき、元最高裁長官の識見を問うとして「公開質問の5」としている。加えて「第一審判決の際の藤林、岡原コメント」が、角栄訴追のエールと化して政治的意味合いの強い発言となっていることにつき、識見を問うとして「公開質問の6」としている。 次に、立花隆の「被告人田中角栄の闘争―ロッキード事件傍聴記」(朝日新聞社、1983年刊)の嘱託尋問を廻る記述で、概要「(嘱託尋問には適法手続きでやや問題があるが、田中被告側にも問題があり)反対尋問のテストつきの嘱託尋問を新たにやり直そうではないかという主張を本気ですることができない。それをすれば、自分たちに不利な証言が法的に完全に固まってしまうからである」と記述していることに対して、そのウソを暴いている。 渡部氏は、田中被告側が1982.2.10日付けで反対尋問請求を正式に東京地裁に提出していたこと、それが同年5.27日付で請求却下されているとして、立花式の「田中被告側が反対尋問により藪蛇になることを恐れてビビった」なる論が悪質なデマであると批判している。渡部氏はかの東京裁判でさえ反対尋問を認めていたことを伝え、ロッキード事件の捜査手法の異常性を批判している。 この下りは、デマを平然と書く立花、その立花を「知の巨人」とあがめるマスコミの知性の空恐ろしさが透けて見えてくる話である。これを踏まえて、「元最高裁長官たちにお尋ねしたい。今回の裁判で反対尋問を必要なしとして却下したひとは正当であったとお考えかどうか」として、これを「公開質問の7」としている。 最後に、違法性承知のなりふり構わぬ田中角栄訴追派の魂胆の正義性を問い、「目的は手段を神聖化する」ことができるのどうかを問うている。渡部氏は例として戦前軍部の反乱将校が引き起こした5.15事件、2.26事件を例にして是非を問おうとしている。渡部氏のスタンスは、反乱将校の決起を法治主義遵守の立場から非と論じ、ロッキード事件に於ける司法当局の手法を同様なものとして批判している。その上で、次のように述べている。 「個人的に田中角栄氏を好きであろうと嫌いであろうと、また彼が賄賂をとった可能性に対する自分の心証が白であろうと黒であろうと、それには関係なく田中氏に控訴・上告をやり続けてもらえようお願いし、明々白々な憲法違反や刑事訴訟法逸脱のない上級審の判決を期待するより仕方がない」。 これが渡部氏の終始一貫した論調である。政治的中立を重んじ、事の是非以前の問題として手続き民主主義の重要性を説いていると窺うことができる。このように説く渡部氏の論理論調のどこに非が認められようか。如何にも学者的に理路整然としていると看做すべきではなかろうか。 ここで、渡部氏が立花論法のデマゴギー性を鋭く衝いたことから、この後、「渡部VS立花論争」が始まる。これからそのサマをも見て行くが、既述したようにネット検索では「立花是、渡部非」見解のものが圧倒的に多い。れんだいこは、どう読めばそういう結論になるのかが不思議でさえある。渡部氏のどこが間違いなのか、れんだいこにはさっぱり分からない。恐らく立花派と渡部派には頭脳の配線コードで交わらない何か先天的なものがあるのかも知れない。しかし待てよ、世の中には「どっちもどっち」で済ませられる場合、済ませられない場合がある。本事案は済ませられない事案であり曖昧にする訳にはいかない。 ここでは、立花の「被告人田中角栄の闘争―ロッキード事件傍聴記」記述にある「嘱託尋問の再チェックを田中被告人側が恐れたなる論」の正否を吟味し白黒つけねばならない。これがウソであるとすると、立花は平気で詐術する異常言論士であると云うことになる。前述したが、そういう御仁が「知の巨人」なる誉れを得、自他ともに自負し通用してきたが、そろそろ地に落とさねばなるまい。「知の虚人」であることを知らせたいと思う。 れんだいこ的には、立花が角栄評価を終始デタラメにしたまま今日を迎えていることもあり、この際、立花が角栄研究をしたように、れんだいこが立花研究をしたいと考えている。立花が角栄研究を否応なくしたように、れんだいこも否応なくするハメにあっている。なぜなら、ロッキード事件以来の日本ジャーナルの変調の嚆矢が立花より始まると看做しているので、どうしてもこの関門を越さねばならないからである。 2011.8.1日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№964 投稿者:れんだいこ
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【渡部昇一著「英語教師の見た『小佐野裁判』」考】 「諸君!」は、渡部論文を、1984.1月号の「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」、3月号の「角栄裁判・元最高裁長官への公開質問七ヶ条」に続き、7月号で「英語教師の見た『小佐野裁判』」を掲載している。これを確認しておく。この時、立花の「立花隆の大反論」が併載されているが、その内容が分からない。強権的な著作権論がなければ、どこかでサイトアップされているのを見つけられると思うが出てこない。残念なことである。 冒頭、K女子から小佐野賢治氏の裁判闘争に知恵を貸してほしいと頼まれた経緯を明らかにしている。小佐野氏は20万ドル受領容疑その他で裁判に付されていたが、否認していた。クラッタ―証人が「1973年の11月3日、12時より前か後かははっきりしないが、とにかくmidday前後に小佐野氏と会い20万ドルを授受した」と証言していた。但し、小佐野氏は、この時間帯はホノルル経由でロスアンゼルス国際空港に向かうユナイテッド航空114便に乗っており、機中の人であった。到着時刻が4時18分。 第一審判決(判谷恭一裁判長)は「午後4時半頃もmiddayのうち」と解釈して有罪を宣告した。控訴趣意書で「middayは午後4時半までは及ばない」と主張。高裁で、この点が争われていた。1983.10.14日、渡部氏は鑑定証言者として高裁に出向き、概要「middayは真昼、daytimeは昼間と識別できるが、混同は許されない」と証言した。 この証言から半年余り、1984.4.27日、控訴審判決(海老原裁判長)が下り、この点について一審と同じく有罪とされた。但し、一審がmiddayを午後4時半まで拡張したのに対し、控訴審では「右供述は単なる記憶違いと見る余地がある」としていた。こうなると、裁判は付け足しでしかなく「有罪は裁判の前から決まっていた」と云うことになる。渡部氏は次のように述べている。 「有罪としていた根拠が消滅したら、その件については無罪というのが常識というものであろう。しかしロッキード裁判では常識は通用しない。裁判官の強弁と推定とキ弁が通用するのである。(中略)私が垣間見たロッキード裁判は裁判不信を起させるに十分なものだった」。 本論文は概略以上の短文である。 ことのついでに小佐野賢治論を書きつけておく。俄か拵えなので十分なものになり得ないが、足らずは追々書き加えて行くことにする。 「田中角栄と小佐野賢治の刎頚の友考」 (kakuei/sisosiseico/jinmyakuco/osanokenjico.html) 角栄と小佐野の出会いに就いて、角栄は次のように証言している。 「昭和22~23年頃、正木亮先生の紹介で小佐野氏を知った。特に小佐野氏と親しくなったのは、私が昭和25年に長岡鉄道の社長に就任、同社のバス部門の拡充に際して国際興行から大量に車両の提供を受けたことからです」(ロ事件検察官調書から)。 二人は小佐野が大正6年、角栄が7年と云う1歳違いの同年代にして、頭脳優秀ながら出自は貧乏家庭、共に苦労しながら若くして頭角を現していた点で共通していた。その後の進路は角栄が政治、小佐野は実業に向かい「畑」は違ったが肝胆相照らす仲になり生涯の刎頸の交わりとなる。両者の逸材ぶりを見抜いた正木弁護士も偉いと云うことになる。 両者は戦後日本の在地土着型の登竜者であり、現代世界を牛耳る国際金融資本が手なづけられなかった日本国産の戦後のモンスターであった。れんだいこ史観に照らせばホリエモンなどもこの部類に入る。ここを理解しないと俗流の金権批判に踊らされてしまう。 角栄と小佐野は陰に陽に提携し助け合ったことは容易に推定できる。恐らく、角栄は小佐野を政商的に利用し、小佐野は角栄の政治能力を行政的に活用したものと思われる。れんだいこの知る圧巻は、角栄がヒモつきになる財界からの政治献金を極力遠慮し、ここ一番では小佐野から用立てていたと思える節がある。当然自力調達した上での話である。今日びの政治家は法によりがんじがらめにされているので、こういう芸当はできないが、当時に於いては金力は権力の必須条件であった。 関心すべきは、両者は案外と身ぎれいに関係しあっていることである。時に虎の門事件のように(深い事情は分からないが)露骨な稼ぎを生んでいるが、それ以上のものは確認できない。互いの能力を認め合い識見を競っていたと思える節がある。世上の角栄論、小佐野論と大きく違うだろうが、れんだいこの見方の方が正鵠を射ていると思う。角栄式金権論については次のサイトに記している。 「れんだいこの角栄金権考課評」 (kakuei/sisosiseico/kinkenmondaico/rendaiconokinkenron.htm) 角栄と小佐野を利権まみれ的に見る評論が後を絶たない。しかし、それらは下種の勘ぐりと呼ばれるものであり、実態は時代の能力者が必然的に邂逅した出会いだったと思いたい。戦後日本には、こういう角栄と小佐野、ミニ角栄とミニ小佐野が全国各地に輩出したのであり、今その後裔たちが苦しめられている現実こそ嘆きたい。 2011.8.2日 れんだいこ拝 |
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れんだいこのカンテラ時評№966 投稿者:れんだいこ
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【「立花隆氏にあえて借問す」、「『田中角栄の死』に救われた最高裁」考】 「諸君!」は、渡部論文を、1984.1月号の「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」、3月号の「角栄裁判・元最高裁長官への公開質問七ヶ条」、7月号で「英語教師の見た『小佐野裁判』」に続き、1985.2月号で「立花隆氏にあえて借問す」と題して掲載している。これを確認しておく。 ロッキード事件の変調が小室直樹、秦野章、俵孝太郎、渡部昇一、伊佐千尋、石島泰、井上正治氏らにより手厳しく批判され始めると、立花が文芸春秋、朝日ジャーナルを根城にして反論に出ていた。文芸春秋の1983.12月号で「田中擁護のあらゆる俗論を排す」、以下朝日ジャーナル1984.10.12日号の「発言ねじまげるイカサマ論法」、「渡部昇一の『知的扇動の方法』」、同10.19日号の「渡部昇一の『慄然』引用術」、同10.26日号の「渡部昇一の『探偵ごっこ』」、同11.2日号の「渡部昇一の『知的不正直のすすめ』」、同11.9日号の「渡部昇一と『妄想カルテット』」、何号か明示していないが「幕間のピエロたち―立花隆・ロッキード裁判批判を斬る」がそれである。この時の編集長が誰か分からないが、「諸君!」編集長と張りあっていたことになる。 渡部氏は、次のように判じている。 「彼は我々が提出した角栄裁判批判の本質的な点には答えようとせず、デマゴーグの手法で人身攻撃することに専心しているのである。人身攻撃を続ければ、その攻撃された人間の言論も無効になるかの如き信念を持っているかの如くに」。 立花の渡部批判論文の見出しはいずれも煽情的嘲笑的である。その言を鵜呑みにすれば、渡部氏の方が詐欺師に見えよう。しかし、両者の言論内容を精査すれば、一貫して誠実なのは渡部氏の方であり、立花の如きは検察正義プロパガンダの請負人でしかなく、中身で反論できないものだから修辞レトリックで貶しているに過ぎないことが判明する。しかし世の中は妙なもので、この修辞レトリックにヤラレてその気になる手合いが多い。何度も言うが、ネット言論上の「立花是、渡部非」立論者はこの類である。 渡部氏は、この論文で、立花が朝日ジャーナルから、角栄裁判批判を斬る為に「いくらでも書きたいだけ書いて良いと潤沢なスペースを提供して貰った」ことを明らかにしている。これは朝日ジャーナルの1984.10.12日号の立花自身の弁のようである。立花とこの時の朝日ジャーナルの編集長とはよほど深い絆で結ばれていることが分かる話である。この編集長が誰であるかは追々分かるだろう。この編集長の頭脳には、朝日ジャーナル誌上で立花論文と反立花論文を併載して読者の判断を仰ぐと云う気持ちはさらさらなかったことが分かり興味深い。普通はこういう関係をグルと云う。 渡部氏は、この論文で、立花に次のように問うている。その1、角栄逮捕の際の容疑が外為法違反であったが、こういう別件逮捕を是認されるのか。その2、検察の首相権限論によると、首相が私企業の商行為に無報酬介入する権利を認めていることになるが、これを是認されるのか。その3、検察の外国経由尋問調書の証拠採用を是認されるのか。その4、最高裁の免責宣明書提出を是認されるのか。その5、免責特権付き共犯者証言の証拠採用を是認されるのか。その6、反対尋問なしの共犯者証言の証拠採用を是認されるのか。 次のように結んでいる。 「ぜひ、この次は、渡部昇一への悪罵ではなく、冷静に角栄裁判批判を法律的に斬れるものなら斬ってもらいたい。それで立花氏のリーガル・マインドの現状が万人の目に明らかになるであろう」。 渡部氏の渦中のロッキード裁判批判は一応これで終わっている。他にもあるのかもしれないが、「萬犬虚に吠える」に収録されているのは以上である。補足として「諸君!」1994.2月号に「『田中角栄の死』に救われた最高裁」を著わしている。これについて確認する。 1993.12.16日、角栄が逝去した。角栄の死は、かの有能過ぎる角栄頭脳が1977.2月にロッキード裁判に初出廷以来17年も法廷に縛られたまま、国策捜査-国策裁判により封ぜられたことを意味する。渡部氏は、解析してきた4論文で言及を閉ざしたままであったが、角栄の死に際して8年ぶりに「『田中角栄の死』に救われた最高裁」で追悼したことになる。本稿で再度、嘱託尋問の不正に触れている。渡部氏は、角栄容疑の前段階の問題として、文明国にあるまじき変調な裁判手法の不正義を告発し抜いた。「素人は黙っておれ」に対し、「素人でもこれだけは云わせて貰う」として獅子奮迅の活躍をした。渡部氏はその後発言を封じた。立花はのべつくまなくしゃべり続けた。ここに両者の鮮やかな対比が確認できる。 渡部氏は、最後に角栄批判に終始纏わりついた金権政治批判について次のように述べている。 「明らかに角栄氏は自分の政策を実行するためにおカネを使ったので、それによって彼の志は低められたりすることはなかった。(中略) 角栄氏を『金権政治』の始祖と批判するのは簡単だけど、その『金権政治』に、どのぐらいプラスとマイナスがあったのか、後世、それを冷静に見極める必要もあると思うのです。(中略) 『税金政治』と『金権政治』のどちらがいいか。その結論を私たちはまだ手にしていない。これからの問題ですが、私は『税金政治』になれば、政治家になろうとする人で、野望を持った人は少なくなり、政界はますますPTAの集まりのようになってしまうのではないかと恐れるのです。(中略) 政治は結果です。良い結果が生まれれば良い。その為にカネが有効に使われるなら、私はそれも良しとせざるをえないと考える。(中略) 金権政治は民主政治にかかるコストだという考え方を一概に否定することはできません。どんな制度にも悪いところ、危険な要素がある。むしろ、全体的に見て民主制度の下における金権政治は現実に弊害が少ないのです。むろん行き過ぎれば、結果論からみた政治そのものを左右するまでに腐敗もするけれど、そこには選挙があり、司法のチェックも効く。要するに、金権、金権と過度に神経質になるのはどんなものか。と時には考えてみる必要もあるのではないか。 渡部氏の角栄を見る眼の眼差しは温かい。この観点に真っ向から対立しているのが立花―日共理論である。この両論、果たしてどちらに軍配を挙げるべきだろうか。 2011.8.4日 れんだいこ拝 |
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投稿自由自在のお知らせ
投稿者:れんだいこ
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本掲示板ロムの皆さま、この掲示板はれんだいこブログ専用ではありません。どうぞご自由に登場、投稿ください。れんだいこの疑問綴りはまだまだ続きます。皆さんが投稿なさろうとなさるまいと続きます。しかし、れんだいこの寿命も限りがあります。れんだいこが生でお相手できるうちに切り結んでおくのも一興だと思うよ。一言述べてみました。 2011.8.6日 れんだいこ拝 |
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れんだいこのカンテラ時評№970 投稿者:れんだいこ
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【邪馬台国研究の新視点考】 2011年のお盆は邪馬台国研究で明け暮れそうである。かなり書き直した。サイトは以下の通り。 「れんだいこの新邪馬台国論」 (rekishi/yamataikokuco/rendaiconorituron.html) 有益な作業として、魏志倭人伝2千文字を文節毎に分解し、それぞれに№を付した。全部で68小節に区切ることができた。これは聖書研究に使われている手法である。今後は№で云えば、該当箇所が分かるようになる。次に、郡から邪馬台国までの行程を仕分けして№を付した。全部で11行程になった。今後は何行程かを云えば、どこの話かが分かるようになる。次に、れんだいこの新見解ないしは准新見解を別立てで確認した。全部で21になった。精密にすれば優に50を超すだろう。これにより議論が深まれば良いと思う。 今日発見したこととして次の見解がある。従来、邪馬台国の比定地を廻る論争が絶えないが、それに比べ21ケ国の衛星諸国家の比定が疎かにされてきた。正確には疎かにしたのではなく比定できなかったものと思われる。れんだいこの知る限り四国山上説を唱える大杉博・氏がこれに成功し胸を張ったぐらいのものである。もっとも、それが正しいかどうかは別問題である。 そこで新たな視点を提供したい。邪馬台国を廻るべ21ケ国の衛星諸国家とは実は、江戸時代の藩屋敷のようなものと考えれば良い。藩屋敷とは、参勤交代制により江戸詰め常設の出先機関として構えることになったのだが、21ケ国の衛星諸国家もこれに似たようなものではないのか。従って、本国が遠国にあったからと云って無理やりにその遠国に比定する必要はない。邪馬台国の周りのどの位置にシフトしていたかを判ずればよい。今となっては跡かたもない場合もあろうし、痕跡が残っている場合もあろう。こうすることで21ケ国比定が弾むことになるのではなかろうか。 邪馬台国研究上の新発見は時に現われる。宮崎康平氏が「まぼろしの邪馬台国」で打ち出した「海岸線の復元思考論」も然りであろう。榎一雄氏は「放射説」で有名になったが、その前の「国名記述の差異」指摘の方に価値がある。誰も気づかなかった盲点を指摘した。古田武彦氏の「邪馬『台』国ではない邪馬『一』国説」も衝撃であった。これも盲点であった。他にもいろいろあるが、その後の研究を陶冶した意味で上記の説は誰でもが首肯するであろう。れんだいこの「21ケ国の邪馬台国詰め出先屋敷論」もこれに匹敵するだろうか。それは分からないが、これで悩まなくても良くなったと云う意味では今後の研究上の手かせ足かせの一つを取り除いたことになろう。 云いたいことは以上であるが、せっかくだからもう一つ有益な論点を述べ共認を得ようと思う。一般には邪馬台国論と云われるが、魏志倭人伝上の邪馬台国の記述は一ケ所でしかない。多くあるのは女王国である。あるいは、倭人、倭、倭地が出てくる。この相互規定が曖昧な故に混乱しているので整理しておく。論者の中には、邪馬台国を女王国よりも広域圏に捉えほぼ倭に匹敵させる者もいる。正しくは、倭>女王国>邪馬台国である。女王卑弥呼の所在するところが邪馬台国であり、「21ケ国の邪馬台国詰め出先屋敷」を含むその他同盟諸国が女王国であり、それら以外の諸国も含むのが倭である。こういう書き分けがされていることを踏まえないと議論が混乱する。 最後にもう一つ。邪馬台国所在地比定論は「九州説、畿内説、その他説」の三通りで議論されていると云うのが正しい。これを「九州説、畿内説」の二大説で括るのは止めて欲しい。それらの論争の欠陥として、邪馬台国を大和王朝前の前王朝として位置づけるのは良いとしても、邪馬台国の延長線上に大和王朝が導かれたとする直接式説が主流であるが、これは百年来の謬論患いである。 邪馬台国は大和王朝派により滅ぼされたのであり、痕跡さえ消されたのである。いわゆる皇国史観は、この過程を是と説く史観である。戦後は、そういう虚の史観と決別し歴史の実像解析に取り組むべきだったが、一部の専門家に任せてしまった。戦後の学校教育で神話を教えることがなくなり、その時代の知識が白痴にされてしまった。その一部の専門家が邪馬台国論に限りロクな仕事をしていないので、れんだいこの出番となっている。こういう構図が欲しい。 2011.8.13日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№971 投稿者:れんだいこ
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【邪馬台国新国学研究の会の結成呼び掛け】 2011年お盆は邪馬台国研究で明け暮れた。恐らく突き動かすものがあるだろう。結論的に云えば、れんだいこも含めた邪馬台国研究の新段階が始まっており、これまでの研究は前史に過ぎなかったと云う地平に至っていることに感応しているのではなかろうか。「邪馬台国研究は終わった論」を奏でる者も相当に居る。だが終わったのは奏でる者自身であり、研究はこれからが本格的になるのではなかろうか。今後は眼から鱗の話、観点、発見が相次ぐだろう。自ずと従来の邪馬台国論の稚拙さをさらけ出すことになろう。 邪馬台国研究の新段階はどうも幕末時の水戸国学の果たした役割に似ている予感がする。水戸国学は尊王攘夷論に結実し結果的に皇国史観に辿り着き役割を終えたが、これに倣えば邪馬台国新研究は新国学と云う息吹を感じさせる。水戸国学が捉えそこなった地平を切り開き、日本の真の国学復権へと至るであろう。この学問が真っ当に発達すれば、皇国史観の虚妄を衝き、本来の瑞々しい日本的思想、思考、感性を呼び戻すことになるだろう。これを予言しておく。 これを機会に、れんだいこは世の研究者に新たな邪馬台国研究のネット形成を呼び掛けたい。月一の研究会を全国で催し、どんどん理論を進化発展させて行きたい。何事も一人では進まない。三人寄れば文殊の知恵と云う。全国の知者が寄ればどういう博識になるのだろうか、これを期待したい。れんだいこが世話どりするには及ばない。まずは定年退職者、学生に音頭を取って貰いたい。時に、れんだいこも顔を出したい。機関誌も出してもらいたい。れんだいこも投稿したい。レギュラー会員ぐらいは約束する。研究の方向性打ち出し当りは得意である。細かい検証は苦手である。故にいろんな個性が絆を結ぶ必要がある。 今日は、れんだいこの自著「検証学生運動下巻」を刊行したばかりである。思うに学生運動には当分期待できない。組織も理論も伝統までがズタズタにされているからである。この糸を解きほぐし新たな全学連が生まれる目はない。仮に無理やり作っても積み木崩しになる恐れが強い。真因は脳がやられていることにある。故にれんだいこが打ち出す観点に評ができない。 こういう折には、各自が銘々にこれと思うものを見つけ熱中した方が良いのではなかろうか。邪馬台国研究は日本の国体の秘密の扉を開けるものであり、歴史好きの者には堪らない分野である。既に終わったとするのではなく前史が終わったと見据え、邪馬台国新論に向かってほしいと思う。この結論を得る為に、今年の盆はどこにも行けなかった。連れ合いは嘆いている。明日近くを廻り誤魔かそうと思う。 今日は8.15、終戦記念日である。こういうトピックな日にこういう想念が生まれたことを欣としたい。正確には違うが「二千年前の二千字解読の旅」と銘打って魏志倭人伝が伝える古来日本の在り姿を訪ね、現代に活かしたい。これが念願とするところのものである。特攻青年よ、これがれんだいこ流のはなむけである。卑弥呼が見据えた時空で逢おう。 2011.8.15日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№972 投稿者:れんだいこ
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【皇紀2600年考その1】 「出雲王朝と邪馬台国を結ぶ点と線考」を愚考する。その始まりは「皇紀2600年問題」となる。これが新邪馬台国論とどう関係するのか。 戦前の1940(昭和15)年2月11日、日本政府は、皇紀2600年祝祭行事を盛大に挙行した。ここでは、これに悶着つけようというのではない。ひたすら初代天皇即位年月日の真実を探ろうとしている。余りにも史実と離れ過ぎていると思うからである。 皇紀2600年とは、日本神話上の天孫族による東征に基づく大和平定後の橿原宮での初代天皇即位(践祚)記念を云う。この栄誉を担ったのが神武天皇であり、御年52歳、神武天皇御代は76年、127歳にして崩御云々とされている。ちなみに神武天皇の即位前の名は古事記では「神倭伊波礼琵古命」、日本書紀では「神日本磐余彦尊」。「かむやまといわれひこのみこと」と訓読みされる。神武天皇は漢風諡号(しごう)であり「始馭天下之天皇」(はつくにしらすすめらみこと)とも称されている。 神武天皇即位年月日につき、日本書紀は「辛酉年春正月庚辰朔」と記している。これを西暦で計算すると紀元前660年2月11日になる。れんだいこはこれに疑問を持つ。この際、神武天皇実在、非実在は問わない。初代天皇の即位日をのみ問題にしようとしている。 記紀神話によると初代天皇の即位は大和平定後のことである。「大和平定後」がなぜ紀元前660年2月11日になるのか、これが解せない。そこで、「初代天皇の即位日=紀元前660年2月11日」の真否を確かめたい。繰り返すが、これは神武の問題ではない。大和平定後の初代天皇の即位日の問題である。初代天皇の即位日を日本書紀が何故に「紀元前660年2月」になるように「辛酉年(神武天皇元年)春正月即位日」と記したのかを問おうとしている。この辺りの日本書紀の記述はどこまでが真実でどこからが詐術なのか、これを問いたい。 思うに記紀神話の説く「大和平定後の初代天皇の即位」は史実であろう。故に、ここは問わない。問うのは、「大和平定後の初代天皇の即位」の年月日である。日本書紀の「辛酉年春正月庚辰朔」は明らかにオカシイ。なぜなら、中国史書各書が紀元3世紀に所在したと記している邪馬台国の取り扱いができなくなるからである。「辛酉年春正月庚辰朔」は、そういう難題を孕(はら)んでいる。 このことを、邪馬台国研究者はもっと大々的に指摘すべきではなかろうか。畿内大和説の側からすれば無論のこと、九州説、その他説でも事態は変わらない。なぜなら、九州説、その他説であろうとも、邪馬台国後の大和王朝建国史を前提としているからである。大和王朝建国後の邪馬台国論をぶつ者は一人として居るまい。 即ち、日本古代史の流れを検証すれば、「大和平定後の初代天皇の即位日」は必ずや邪馬台国後の即位でなければ辻褄が合わない。然るに、その邪馬台国が紀元3世紀に確かめられると云うのに、日本書紀は何故に邪馬台国史よりはるか900年も遡(さかのぼ)る昔の「紀元前660年2月11日」になるような「辛酉年春正月」に初代天皇となる神武天皇の即位を記述したのだろうか、ここが訝られねばならない。 考えられることは、「辛酉年春正月即位」の読み解きにおいて、戦前の皇国史観系政府及び歴史学会が間違っていたと云うことである。これを仮に「読み解き間違い説」と命名する。それならば今からでも改めて計算し直せば良い。然るべき論拠を添えて「新皇紀2600年」を打ち出せば良い。戦後になっても特段に動きがないと云うことは興味がない為だけではなく、読み解きが間違いなく「紀元前660年2月」になる故ではなかろうか。この場合、日本書紀が何故に900年にも及ぶ時差を記したのかを問わねばなるまい。この議論は尽くされているのだろうか。これを誰かが解明せねばならない。 考えられることはもう一つ、魏志倭人伝を代表とする中国史書各書が記す邪馬台国が捏造記載であった可能性である。こうなると、邪馬台国について記す中国史書全冊を偽書とせねばならないことになる。これを仮に「邪馬台国記述偽書説」と命名する。しかしながら、邪馬台国に関する下りの中国史書全冊を偽書とするならば中国側も黙ってはおるまい。中国歴代史家の責任問題に発展し、場合によっては日中間の国際紛争になりかねまい。現代日本の史家にそこまで主張する度胸があるだろうか。偽書説が当っている場合なら許されても、暴論ともなると謝罪が要求されることになろう。 これをどう読むべきかが問われている。れんだいこは第三説を唱えたい。第三説とは、「辛酉年春正月庚辰朔」が歴史考証的に「紀元前660年2月11日」になるならば記述間違いであるとして、初代天皇の即位日を邪馬台国平定後の何日かに訂正せねばならないとする説である。これを仮に「日本書紀記述詐欺説」と命名する。詐欺とするのは、日本書紀の記述「辛酉年春正月庚辰朔」に意図的故意の詐術を認めるからである。 これを古事記で確認したいところである。古事記では、初代天皇の即位日をどう記述しているのだろうか。これを知りたいが分からない。推定として、古事記は日本書紀が記しているような即位日を記していないことが考えられる。もし記しているのなら、日本書紀ではこう古事記ではこうとする併記が常用なところ、日本書紀の記述する即位日しか知らされないからである。 神武天皇の即位前の名前につき、古事記では「神倭伊波礼琵古命」、日本書紀では「神日本磐余彦尊」と記し、その履歴を記している。つまり、古事記は、神武天皇について記しているにも拘わらず、即位日の記載を避けているのではなかろうかと思われる。れんだいこには断言する知識がないので、その通りとか、そうではないかくかくしかじかと記述しているとする、どなたからかのレクチャーを頼みたい。 2011.8.17日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№973 投稿者:れんだいこ
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【皇紀2600年考その2】 この問題になぜ拘るのか。それは、記紀が「大和平定後の初代天皇の即位日」を意図的故意に隠蔽ないしは撹乱していると思うからである。古事記が敢えて沈黙したところを日本書紀が敢えて蛮勇を振って「紀元前660年2月」になるような「辛酉年(神武天皇元年)春正月即位」と詐術記述したのではないかと思うからである。「大和平定経緯」に知られたくない事情、それを記し難い事情があったと思うしかない。 衆知の通り、日本神話に従えば、初代天皇神武の即位は出雲王朝の国譲り後である。その後に天孫降臨している。続いて天孫族の東征が記されている。艱難辛苦の末に大和を平定し、その後の神武天皇即位と云う流れになっている。この順序に従えば、神武天皇即位日「辛酉年春正月=紀元前660年2月11日」とした場合、天孫軍の東征はそれ以前になる。天孫降臨は更にそれ以前、出雲王朝の国譲りは更にそれ以前と云うことになる。結果的に、出雲王朝の国譲りがはるか昔のことになる。 古事記は神武天皇以下33代の推古天皇(在位590―620年代)まで、日本書紀は第41代持統天皇(在位690年代)までの歴代天皇の御代の事蹟を年次毎に記述している。他方、魏志倭人伝を始めとする中国史書各書には厳然と紀元3世紀の倭国日本に於ける邪馬台国連合国を主とする当時の倭国の克明な記録を記している。 然るに、記紀は揃いも揃って紀元3世紀頃の倭国に存在していた筈の邪馬台国について言及していない。僅かに片言隻句を記している個所があるに過ぎない。それは記紀だけではない。記紀派が偽書と断ずる古史古伝各書に於いてさえ記されていない。まことに不思議なことと云わざるを得ない。ここに歴史の闇があると思う。 この闇を解明したいと思う。時の政府が、1940(昭和15)年に紀元二千六百年記念行事を挙行したのは政治の論理である故に敢えて責任を問わない。しかし史家の論理は政治の論理に屈してはならない。史家が、史家の論理を持たぬまま今日まで経緯しているのは不正、不見識なのではなかろうかとして詰(なじ)りたい。 れんだいこは、記紀が邪馬台国を記述しなかった不正、このことに関連すると推理しているが、初代天皇神武の即位日を古事記が記さず、日本書紀は記したものの邪馬台国時代よりはるか900年も昔のことにしている不正を見逃さない。この背後には、「大和平定事情」記述がウソであると云うことを裏筆法で示唆していると見る。 こうなると逆に「大和平定事情」を解き明かしたくなるのが人情ではなかろうか。そう云う意味で「大和平定後の初代天皇の即位日」を探索することは後世の史家の責務だと思う。初代天皇の即位年及び即位経緯全体を史実的に再検証せねばならない必要を感じる。 この言は、皇国史観を否定せんが為に云っているのではない。よしんば皇国史観を信奉するにせよ歴史の検証に耐える史観で構築せねばなるまいと申し立てている。戦前式皇国史観は、記紀が裏筆法で書いているところまで鵜呑みにして天孫族の聖戦を美化したイデオロギー的な歴史観であり、盲信狂気理論と断定する。史家足る者は、そういう戦前式皇国史観批判で事足れりとするのではなく、これを突き抜けて本来の皇国史観即ち国体論に向かうべしであったと思う。もとへ。これが云いたいのではない。れんだいこの真意は、記紀が語り得なかった、否意図的故意に隠蔽した「大和平定事情」をこそ解明したいと思っている。 日本書紀の「辛酉年春正月庚辰朔」とする神武天皇即位日は意図的故意の詐術記述である。故に、史実に基づいて初代天皇の即位年及び即位経緯を解明したい。なぜなら、これが邪馬台国興亡史に深く関係していると看做すからである。思えば、日本古代の政治史上の最大政変は国譲りであった。次が邪馬台国興亡史ではなかろうか。次に壬申の乱なのではなかろうか。この辺りを史実に基づいて解明するのが日本古代史の要諦であり、史家は挑まねばならないのではなかろうか。 れんだいこの邪馬台国新論は、実はこの皇紀2600年説の不実を暴くところから始まる。初代天皇即位が邪馬台国興亡史、大和王朝建国史に大いに関係していると思うからである。日本書紀が記すような邪馬台国時代より900年も昔ではなく邪馬台国滅亡後の出来事と推理するからである。これを解き明かすのがもう一つの邪馬台国論になるべきではなかろうか。 2011.8.17日 れんだいこ拝 |
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れんだいこのカンテラ時評№975投稿者:れんだいこ![]() |
【ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し考その2】 大和へ向かった後の大国主の命の履歴を確認したいが史書には全く出てこない。これは記紀然り、古史古伝然りである。代わりにニギハヤヒ(速日)の命が登場する。古事記では邇芸速日命、日本書紀では饒速日命、先代旧事本紀では天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ、あまのほあかり、くしたま、にぎはやひのみこと)、他に天火明櫛玉饒速日命、大物主とも記されている。このニギハヤヒの命の素性を廻って天孫系、出雲系、その他系の三説ある。 先代旧事本紀」によれば、ニギハヤヒの尊が、「天磐船に乗り、天より下り降りる。虚空に浮かびて遥かに日の下を見るに国有り。よりて日本(ひのもと)と名づく」、「河内国の河上のいかるが峯(みね)に天降りまし」とある。これを仮に「ニギハヤヒの命のいかるが峯降臨譚」と命名する。その後、大倭国(やまとのくに)の生駒山付近の鳥見(とみ)の白辻山(白庭山)に居を構えている。 興味深いことは、ここに「日本(ひのもと)」の命名が登場することである。これによると、日本と云う国名は天孫系を是とする皇国史観によって定まったのではなく、それ以前のニギハヤヒの尊の逸話に出てくる国名をそのまま踏襲していることになる。国旗としての日の丸、国歌としての君が代も然りと考えられる節がある。「日の丸、君が代論」の際には、こういうところも押さえておきたいと思う。 もとへ。ニギハヤヒの尊は、土地の豪族の盟主であった鳥見の豪族・ナガスネ彦(那賀須泥毘古、長髄彦、トミビコとも云う)と和議を結び、ナガスネ彦の妹のミカシギヤ姫(三炊屋媛)を娶り、戦わずして配下におさめている。政略結婚による閨閥的同盟化は大国主の命の得意とする政治手法であり、ここでも確認できる。ミカシギヤ姫は嫁してトミヤス姫(登美夜須毘売)と名乗った。先代旧事本紀には「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、天道日女命(あめみちひめのみこと)を妃とし、天上に天香語山命(あめかごやまのみこと)を生む」と記している。二人の間に生まれたのがウマシマジの命(宇摩志麻遅命)であり、物部連、穂積臣、采女臣の祖とされている。 ニギハヤヒの命は、その後、奈良盆地の東端の三輪山(当時は三諸山)麓に本拠を移して日本(ひのもと)王朝を創始する。記紀は記さず代わりに古史古伝の先代旧事本紀(旧事紀)、「秀真伝」(ほつまつたえ)その他がこの経緯を記しており、これが大和国の始まりとしている。 但し、この時代をBC101~102年頃のこととして、その時の氏族や部隊の面々の名前を克明に記している。但し、天孫族、国津族の神々を混在させており難が認められる。BC80年頃、ニギハヤヒは65才前後で大和で亡くなり、「櫛玉」を追贈されて「櫛玉(櫛甕玉)饒速日尊」と尊称され三輪山の磐座に埋葬された云々と記している。この記述に信を置けば、大国主の命が国譲り後に大和へ下り邪馬台国の卑弥呼を共立したとするれんだいこの見立てとは時期が合わなくなる。この場合、れんだいこの見立ての誤りとすれば簡単なのであるが、「ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し」にもう少し拘りたい。 れんだいこには、ニギハヤヒの命と大国主の命が二重写しになってしようがない。ニギハヤヒの命が大国主の命その人ではないとしたら、大国主の命の直系譜の者と推定したい。ニギハヤヒの命を天孫族系に捉え、神武天皇東征に先立つ先発的意味を持つ大和降臨とみなす説もあるが、この説は採らない。国譲り後の出雲王朝系の大国主の命その人か直系譜の者の大和降臨とみなした方が辻褄が合う。 ニギハヤヒの命が如何に正真正銘の皇統の者であったのかにつき「天孫族と国津族の王権誇示譚」が次のように記している。天孫軍と国津軍の両軍対峙し最後の決戦となった際の金鶏譚によれば、その後段に国津軍の代表たるナガスネ彦と天津軍の代表たるワケミケヌの命が、ニギハヤヒの命と東征神のどちらが正統の王朝なのか確かめる為に双方の神璽を見せ合う場面がある。 ナガスネ彦がニギハヤヒの命を正統とする証拠の天羽羽矢(あまのははや)と歩ゆぎ(矢箱)を見せ、ワケミケヌの命も同じように見せ譲らなかった云々。これによると、神璽比べでは決着がつかなかった即ち双方が正真正銘の皇統の証となる神璽を持っていた即ちニギハヤヒの命が相当の人物であったことになる。 「天孫族と国津族の王権誇示譚」はニギハヤヒの命が正真正銘の皇統の者であったことを示している。古史古伝はこの逸話を記しながらも、「天孫族系にして神武天皇東征に先立つ先発的意味を持つ大和降臨」と捉えている。れんだいこは、この捉え方を否定し、「出雲王朝系の大和降臨」として捉えたい。とすれば、これに相応しい者は大国主の命ないしはその直系譜の者としか考えられない。「ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し」が自然な所以である。 2011.8.18日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№976投稿者:れんだいこ![]() |
【ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し考その3】 「ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し」を、ニギハヤヒが葬られたと云う三輪山の縁起伝説から確認してみたい。 先代旧事本紀(旧事紀)は、ニギハヤヒ=大物主として奈良県桜井市三輪の大神神社の祭神であるとしている。且つ記紀が編纂される7世紀末頃までは天照大神が男神であったとした上で尊崇されていたこと、天照大御神を女神とするのは記紀編纂時における改竄であると断罪している。ここではこの吟味をしないが天照大神=男神説は大いに成り立つと見立てる。記紀は共に天照大神を天孫系の女神として記しているが、皇紀2600年問題に繫がる神武天皇即位年と同様、詐術している可能性がある。天照大御神は元々国津系の最高神であり、その称号を天津系が取り入れている可能性が強い。 もとへ。大神神社は、大物主大神、大己貴神、少彦名神を主祭神としている。識別すると主祭神は大物主大神であり、大己貴神、少彦名神を配祀していると捉えることができる。先に「大和の三輪山のオオミワの神である大トシの神」とする記述もあるので、元々は大トシの神が主祭神であり、後に大物主大神へ移行していると考えられる。大トシの神を大物主大神とする記述もあり史書間で混乱している。いずれにしても、大神神社は出雲王朝との関わりが深いことが垣間見える。 ところで、大己貴神は大国主の命の別名である。大物主大神はニギハヤヒの尊である。仮説であるが、 れんだいこは、ニギハヤヒの尊は大和へ向かった大国主の命の大和入り以降の別名ではないかと見立てている。少彦名神は、大国主の命と力を合わせて国づくりした神である。してみれば、大神神社は、出雲王朝に於いては大国主の命、その大和入り後の名のニギハヤヒの尊(大物主大神)と少彦名神を祀っていると云える。即ち、大神神社は出雲王朝の大国主の命と少彦名神を祀っていることになる。 大神神社の縁起には、イクタマヨリ姫(ヤマトトトヒモモソ姫)と「高貴なるお方」との縁結び譚が語られている。古事記の崇神天皇7年の条では、大物主大神の末裔である意富多多泥古(大田田根子)譚が語られている。それによると、崇神天皇の御世に疫病が流行り人心が定まらなかった。この時、大神神社が永らく荒んでいたらしく、その崇(たた)りとの託宣が有り、大物主神の末裔である「意富多多泥古(大田田根子)」を八方手を尽して探し出し、これを祭祀主として御諸山に迎えたところ国が平安になった云々。 この逸話は、大和王朝時代に、出雲王朝―邪馬台国の御代を粗末にして来たことによる崇(たた)りが記されていること、出雲王朝―邪馬台国系の末裔を迎えることにより人心が安定したことを知らせている点で貴重である。大和王朝史の底流に出雲王朝―邪馬台国勢力の処遇を廻る暗闘があり、これを見ないと流れが見えない。 日本書紀の崇神天皇10年9月の条では、倭迹迹日百襲媛の命(古事記では夜麻登登母母曾姫の命)譚が語られている。そこで同女の「出雲系を暗示する高貴なるお方」との縁結び譚が語られている。その逸話の結びに「姫は悔いて、どすんと腰を着いた拍子に箸で陰部を突いて亡くなられた。姫は大市に葬られ、箸墓と名付けられた」と記されている。「悔いて」、「どすんと腰を着いた拍子に」、「箸で陰部を突いて亡くなられた」は全て暗示的表現であるが、これを仔細に解説するのも一興であるがここでは触れない。末尾の「箸墓古墳の被葬者が倭迹迹日百襲媛の命」と記していることが貴重である。 その箸墓古墳が紀元3世紀頃に築造された古墳であることが現代考古学で判明しつつある。これらの神話譚を踏まえると、大国主の命即ち大物主大神(ニギハヤヒの命)と倭迹迹日百襲媛を結ぶ線が見えるように思われる。全て仮定ではあるが、こういう推論が可能と云うことである。 倭迹迹日百襲媛の命=卑弥呼とする説がある。倭迹迹日百襲媛が葬られたのが箸墓古墳であり、その箸墓古墳が魏志倭人伝に記す卑弥呼の墓であると云うことになれば、そういうことになる。この説がよしんば間違いであろうとも、倭迹迹日百襲媛と卑弥呼―その後継者台与が非常に近い関係であり、同じ出雲系政治圏のほぼ同時代の人物であることは、墓の年代論で推定できる。 少なくとも、ここに「出雲王朝と邪馬台国を結ぶ点と線」が見えると窺うべきではなかろうか。次に「日本の国体史を貫く出雲王朝と邪馬台国の点と線」を確認する必要があるが、ひとまず筆を置くことにする。 2011.8.20日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№977投稿者:れんだいこ![]() |
【神武東征、神武の橿原宮即位譚その1】 れんだいこの2011古代史の旅は、出雲王朝の国譲り、邪馬台国史の書き換えへと歩を進めた。これで落着としたかったのだが、先の「ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し考」に対し、れんだいこツイッターに「miyuki」さんから次のような最上級のお誉めの言葉をいただいた。「こんばんわぁ! れんだいこさんの『古代史の旅』。画面で無くて紙の印刷物でゆっくり読みたかったのでプリントアウトさせて頂きました。明日、お茶しながら、ゆっくりまったり読ませて頂きまァーす」。これに意を強くし、邪馬台国滅亡史の裏面の流れであったと思われる高天原王朝の「神武東征、神武の橿原宮即位譚」を再確認する。 れんだいこ史観によれば、アマテラスの曾孫(4代目)の代になって高天原王朝は、「東に美(う)まし國ありと聞く。我いざこれを討たん」と宣べ、東国の美(う)まし国「葦原中国」平定遠征に向かう。この時の「葦原中国」が邪馬台国ではないかと窺っている。 古事記と日本書紀にほ、神武東征軍が日向を立って橿原に都を定めるまでのいろんなエピソードをほぼ同じ内容で記している。つまり、ここの部分の記述に相当神経が払われ規制されていたことを窺わせる。この伝説か史実か未だ不詳との論もあるが、れんだいこはある程度史実に基づいているのではなかろうか、骨格的にはほぼ間違いない史実ではなかろうかと推理している。 神武軍一行は日向を発し、大分県の宇佐や福岡県の遠賀郡芦屋に寄り豊後水道を東進し、吉備、難波、熊野と経由して大和に入る。難敵の諸豪族を討ち取った末に大和を平定して、畝傍山(うねびやま)の麓橿原(かしはら)に都を築く。こうして神武天皇は我が国最初の天皇となり、大和朝廷を建国する。この天皇家が理論上万世一系として平成の現在まで続いているということになっている。 皇国史観は、この経緯を是として、平定される側に対する平定する側の正義を説く。しかし、れんだいこは、この時、神武軍にヤラレタのが在地土着系の元々の日本の諸豪族であり、その連合国家としての出雲王朝系邪馬台国連合が理想的な神人和楽政治を敷いていたのであり、これを征伐する戦争は決して聖戦ではなかったと見立てる。 ここでは、両者の正義を平衡的に取り上げ、両派の聖戦と手打ちぶりを確認してみたい。これが国譲り譚に続く日本政治の原型即ち日本の「元々の国の形」となっており大事にしたいと思うからである。国体論を云うのなら、ここに戻らねばならない。北一輝は早熟の天才であったが、国体論に於いて皇国史観に被れており、ここの元一日に戻っての国体論を創り直すべきであった。北に後少しの余命があれば、その可能性があったのではないかと惜しんでいる。「プレ大和王朝」その他を参照する。 2006.12.4日、2011.8.22日再編集 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№978投稿者:れんだいこ![]() |
【神武東征、神武の橿原宮即位譚その2】 日向国高千穂宮に住居していた高天原王朝天孫族の東征の時の様子が次のように記されている。 「東に美(う)まし國ありと聞く。我いざこれを討たん」。 「美(う)まし國」とは、後の大和のことであり、万葉集第一巻第二首に次のように歌われている。 「大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山 登り立ち、国見をすれば、国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎(かまめ)立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は」。 万葉集第二十巻四四八七番は、次のように詠んでいる。 「いざ子ども たはわざなせそ 天地の 堅めし国ぞ 大和島根は」。 ここで歌われている大和がどこを指しているのかは議論の余地がある。但し、このように歌われる大和に向かって、高天原王朝天孫族の東征が為されたという神話的史実は間違いなかろう。 日本書紀の神武東征の下りに次のように記されている。 「昔、タカミムスビ(高皇産霊尊)とアマテラス(天照大神)が、この豊葦原瑞穂国を祖先のニニギ(瓊瓊杵尊)にさずけた。ニニギは天の戸をおし開き、路をおし分けて進んだ。そのときの倭地は暗黒の世であったが、ニニギが正しい道を開き世を治めた。以来、父祖の神々は善政をしき、恩沢がゆき渡った。天孫が降臨して一七九万二四七〇余年になる。しかし、遠い所の国ではまだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長が境を設け相争っている」。 「塩土老翁(しおつちのおじ)に聞きしに、『東に美(うま)き地(くに)有り。青山四(よも)に周(めぐ)れり。その中に又、天磐船(あまのいわふね)に乗りて飛び降りる者有り』と云えり。余(あれ)謂(おも)うに、彼の地は、必ず以って天業(あまつひつぎ)をひらき弘(の)べて、天下(あめのした)に光宅(みちお)るに足りぬべし。けだし六合(くに)の中心(もなか)か。その飛び降りると云う者は、これニギハヤヒと謂うか。何ぞ就(ゆ)きて都つくらざらむ」。 これによれば、高天原王朝天孫族は、出雲王朝系のニギハヤヒが先行して「東の美(う)まし國」とも云われる「葦原中国」に降臨し、日の本王朝を形成したのを知り、我らも向かわんとして東征に向かったことになる。 行軍したのは、皇族のイツセ(五瀬)の命、イナヒ(稲飯)の命、ミケイリ(三毛入野)の命、ワケミケヌの命、子のタギシミミ(手研ミミ)の命、護衛のミチオミ(道臣)の命、大久米、途中で随行してきたシイネツ(椎根津)彦等々であった。 この下りを仮に「天孫族の東征宣明譚」と命名する。天孫族の東征がいよいよ始まったことと、東征軍団の主領格の顔ぶれを伝えている。 かくて、天孫族は日向の浜を発す。東征の旅程は古事記と日本書紀で異なっている。古事記 では、速吸の門を通過し筑紫の豊国の宇佐に着く。ウサツ彦とウサツ姫が服属して、足一騰宮(あしひとつあがりの宮)を建てもてなした。次に、豊後水道を経て、筑紫国の岡田宮に1年、安芸国の多祁理宮(たけりの宮)に7年、吉備国の高島宮に8年過ごした。日本書紀では、速吸之門(豊予海峡)を通り筑紫国の宇佐に到る。その次に筑紫国の岡水門に到る。その次に安芸国の埃(え)の宮に到る。その次に吉備国の高嶋宮に到り3年暮らす。つまり、筑紫国の岡田宮と岡水門の違いが認められる。後のコースはほとんど同じであるが各地での滞在期間が異なっている。 速水の門(はやすいのと)に至った時、国津神のキタカネツ彦が現れ、一行を先導した。浪速の渡りを経て、河内国の難波津に到着した。この下りを仮に「神武東征軍の行路譚」と命名する。 |
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れんだいこのカンテラ時評№980投稿者:れんだいこ![]() |
【神武東征、神武の橿原宮即位譚その4】 天孫族が再度大和侵攻を画策している時、ヤタガラス(古事記で「八咫鳥」、日本書紀で「頭八咫鳥」)が現われ、その協力を得て天孫軍は熊野から大和の宇陀に至った。その時の様子が次のように記されている。 「この頃、ワケミケヌの命は夢を見た。アマテラスがワケミケヌの命に伝えた。『ヤタガラスを遣わすから、これに案内させなさい』。はたして、ヤタガラスが大空から舞い降りてきた。ワケミケヌの命は、『まさに夢の通りだ。アマテラスが私たちを助けてくれている』。ヒノオミ(日臣命=大伴氏の先祖)は、オオクメ(大来目)を率いて、カラスの導くままに山を越え、路を踏み分けて、ついに宇陀(うだ)の下県(しもつこおり)に着いた。そこを宇陀の穿邑(うかちのむら)と名づけ、ヒノオミをほめた。 『お前は忠勇の士だ。よく導いてくれた。お前の名を改めてミチオミ(道臣)としよう』」。 これを仮に「ヤタガラス帰順譚」と命名する。「ヤタガラス」をどう理解すべきだろうか。独眼流れんだいこ観点は、「ヤ」は八という数字で表徴される「かなり多くの」、「タ」は分からないが、「鳥」という言葉に表象される情報に長けた部族と解する。つまり、「ヤタガラス」に寓意されるような相当数の現地部族が靡き、道案内を買って出たということであろう。即ち、「天孫降臨譚」の「サルタ彦の水先案内」と相似している。このグループも後々神武王朝の枢要の地位を得ることになる。天孫族にとって、「ヤタガラス」の出現は有り難かったようで、「熊野の神使」即ち天皇を始め貴人を先導する霊鳥「ミサキガラス」として称えていくことになる。 ヤタガラスを豪族名と考えると、この一族とは何者か。旧事紀は、大国主命(大己貴命)と多紀理姫との間に生れた子にしてニギハヤヒの使いをしたタケツノミ(建角身命)としているとのことである。逸話の内容から判ずるに託宣系の者であろうが「大国主命(大己貴命)と多紀理姫との間に生れた子」とするのは如何なものだろうか。 延喜式神名帳に「八咫烏は賀茂県主建角身命なり」とあり、新撰姓氏録には「鴨県主と賀茂県主は同祖で、神武が大和に入ろうとして熊野山中で路に迷ったとき鴨建津見命が烏と化して先導した功によって八咫烏の称号を賜わった」とある。これよりすれば、ヤタガラスは出雲系の有力豪族である賀茂氏の一族ということになる。即ち、出雲系の有力豪族である賀茂氏の一族が寝返って、天孫系に誼を通じたことになる。この功績で、賀茂氏一族は大和王朝の重臣の一員となり命脈を保つことになる。奈良県宇陀郡榛原町高塚字八咫烏には八咫烏神社が鎮座し、祭神は建角身神である。 天孫族は、ヤタガラスを使ってシキヒコ(磯城彦)兄弟攻略に乗り出し成功する。その時の様子が次のように記されている。 「十一月、天孫軍は、師木(磯城)邑の兄(エ)シキ、弟(オト)シキのシキヒコ(磯城彦)兄弟の攻略に向かった。使者を送って兄のエシキを呼んだが返答がなかった。そこでヤタガラスを遣わした。ヤタガラスは、エシキに誘いをかけた。『天神の子がお前を呼んでおられる。さあさあ』 。エシキは、『天神が来たと聞いて憤(いきどお)っている。何の用があって呼びだすのか」 と怒声を浴びせ、弓を構えて射た。ヤタガラスは弟のオトシキの家へ行った。『天神の子がお前を呼んでいる。さあさあ』。オトシキは、『天神が来られたと聞いて朝夕畏れかしこまっていました。ヤタガラスよ、お前が呼びに来てくれて嬉しいよ』。オトシキはヤタガラスの来訪を歓迎し、平な皿八枚に食物を盛ってもてなした。 オトシキはヤタガラスに導かれてワケミケヌの命の軍営に参上した。『わが兄は、天神の御子がおいでになったと聞いて、ヤソタケルを集めて武器を整え決戦する構えです。速やかに準備されるのがよいでしょう』。ワケミケヌの命は云う。『エシキはやはり戦うつもりらしい。呼んでも来ない。どうすればいいか』。このワケミケヌの命の問いに諸将は答えた。『エシキは悪賢い敵です。まずオトシキをやり、そのときエクラジ(兄倉下)とオトクラジ(弟倉下)も一緒にやって説得すれば、いかがでしょう。どうしても従わないなら、それから兵を送っても遅くはないでしょう』。 オトシキは兄を説得したが効果はなかった。シイネツ彦は一計を案じた。『まず女軍を遣わして忍坂の道から行くのがいいでしょう。敵は必ず精兵を出してくるでしょうから、こちらは強兵を墨坂に向かわせ、宇陀川の水で敵軍の炭の火にそそぎこめば敵は驚くはずです。その不意をつけば、敵を討ち取ることができるでしょう』。 ワケミケヌの命は、シイネツヒコの計略を採用して二手に分かれる作戦をたてた。まず女軍を送った。すると、敵は大兵が来たと思い、総力で反撃してきた為、少なからずの被害を受け、甲冑の兵士も疲労した。ワケミケヌの命は、将兵を鼓舞するために歌を詠んだ。『伊那嵯(いなさ)の山の木の間から、敵をじっと見つめて戦ったので、我は腹が空いた。鵜飼いをする仲間達よ。いま、助けに来てくれよ』。強兵の男軍が墨坂を越え、手筈通りに後方から挟み討ちにして敵を破り、エシキを斬った。天孫軍は、待望の磐余や磯城の地に進出することができた」。 これを仮に「シキヒコ兄弟攻略譚」と命名する。この下りは、天孫軍の来襲により国津軍内に亀裂が入り始めたことを物語っていよう。天孫軍の計略が記されている。留意すべきは、兄(エ)シキ、弟(オト)シキのシキヒコ(磯城彦)兄弟の素姓であろう。兄(エ)シキ、弟(オト)シキと云うのは古日本語であり、アイヌ的蝦夷(えみし)語ではないかと思われることである。つまり、神武東征とは、在地土着のアイヌ的蝦夷(えみし)軍の攻略であったと云うことになる。続くウカシ兄弟、ヤソタケル(八十梟帥)も然りであろう。 天孫族がヤタガラスに導かれて宇陀(うだ)の下県に着いた時、国津神系の幾つかの豪族が帰順した。中でも、ウカシ兄弟の兄(エ)ウカシを殲滅し、弟(オト)ウカシを帰順させたのは大いなる手柄となった。その時の様子が次のように記されている。 「この時、ヤタガラスが現れ道案内することになった。天孫族は、一行荒ぶる神々のひしめく中を行軍し、吉野川の下流に着いた。国つ神のニエモツノコ、イヒカ、イワオシワクノコが恭順した。宇陀に着いた時、ウカシ兄弟と対峙することになった。ヤタガラスが説得に向ったが、兄(エ)ウカシは鳴鏑(なりかぶら)で応え敵対の意志を明確にさせた。ところが、軍勢が予期したより集まらなかったウカシ兄弟は一計を廻らし、偽りの降伏で誘って落し入れようとした。ところが、弟が内通し仕掛けられた罠を教えた。『兄は、天孫がおいでになると聞いて、兵を率いて襲わんとしています。仮宮を造り、もてなすはずですが、仮宮の中には仕掛けがしてあり、また兵を隠してこっそり襲おうとしています。この計りごとを知ってよく備えて下さい』。 事前に偽計を知った大伴の連の祖になるミチノ臣と久米の直の祖になるオホクメが、兄(エ)ウカシを呼び出し、『おのれが作り、お仕え申すという大殿の内に、おのれがまず入れ』と、太刀の柄(つか)を握り締め、矛を突きつけ矢をつがえて殿の内に追い入れた。兄(エ)ウカシは、おのれが作った落とし仕掛けに掛かって潰されて死んだ。引き出して斬ると、血が溢れたので、そこを宇陀の血原と名づけた。弟ウカシは、天津神の御子へ恭順を誓い、沢山の肉と酒を用意して天孫軍をねぎらいもてなした」。 これを仮に「ウカシ兄弟攻略譚」と命名する。この下りは、天孫軍、国津軍双方が計略、謀略の限りを尽していたことを物語っていよう。ウカシ兄弟の素姓は分からないが前述したように蝦夷(えみし)系と思われる。 |
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【神武東征、神武の橿原宮即位譚その5】 天孫族はヤソタケル攻略に乗り出し、遂に本格的な軍事戦に向かう。苦戦する天孫族に次々と神託が下されている。次のように記されている。 「九月、ワケミケヌの命は宇陀の高倉山に登り敵情を望見した。国見丘にはヤソタケル(八十梟帥)がいた。女坂には女軍を置き、男坂には男軍を置き、墨坂にはおこし炭を置いていた。またエシキ(兄磯城)の軍が磐余邑(いわれのむら)にあふれていた。敵の拠点はみな要害の地で、道は塞がれ、通るべきところがなかった。ワケミケヌの命は打つ手に窮し、神に祈って寝た。夢に天神が現れて神託を下した。『天の香具山の社の中の土を取って平瓦八十枚を造り、同じく御酒を入れる瓶を造り天神地祇(てんじんちぎ)を祀れ。身を清めて呪詛せよ。このようにすれば敵は自然に降伏するだろう』 。ワケミケヌの命が、夢の教えにかしこまっているとき、オトウカシが奏上した。『倭の国の磯城邑に磯城のヤソタケル(八十梟帥)がいます。葛城邑にも赤銅のヤソタケル(八十梟帥)がいます。この者らも皆、皇軍に逆らい戦おうとしています。そこで、天の香具山の赤土で平瓦を造り、天神地祇をお祀り下さい。そうすれば敵を討ち払いやすくなるでしょう』。 ワケミケヌの命は、夢の教えとオトウカシの言葉が一致したことを喜び、早速密使を走らせ、神託の通りに行動した。シイネツヒコに古い服と蓑笠をつけさせ老人の姿にし、オトウカシに箕を着させて老婆の姿にして言った。『お前ら二人、香具山に行って、頂きの土をこっそり取ってこい。事の成否はお前らにかかっている。しっかりやってこい』。しかし、道は敵兵が塞いでいた。シイネツヒコは、『わが君が、この国を定められるものならば行く道が自ら開け、もしそうでないなら敵が道を塞ぐだろう』と神意に占い、出発した。道を塞ぐ敵兵は二人の様子を見て、『汚らしい老人どもだ」とあざけり笑い、道を開けて行かせた。二人は無事、香具山について土を取って帰った。 ワケミケヌの命は大いに喜び、この土で多くの平瓦や手快(たくじり=丸めた土の真中を指先で窪めて造った土器)、厳瓮(いつへ=御神酒瓷=おみきかめ)などを造り、丹生の川上にのぼって天神地祇を祀った。そして神意を占った。『私は今、沢山の平瓦で、水なしで飴を造ろう。もし飴ができればきっと武器を使わないで天下を居ながらにして平げるだろう』。飴はたやすくできた。また神意を占った。『御神酒瓷を丹生の川に沈めよう。魚が酔って浮き流れるようであれば、私はきっとこの国を平定するだろう。もしそうでなければことを成し遂げられぬだろう』 。瓷を川に沈めると、その口が下に向き、しばらくすると魚は皆浮き上がって口をバクバク開いた。シイネツヒコはそれを報告した。 ワケミケヌの命は大いに喜び、丹生の川上の沢山の榊を根こそぎにして、諸々の神を祀った。この時から祭儀の御神酒瓷の置物が置かれるようになった。ワケミケヌの命がミチオミに命じた。『タカミムスビを私自身が顕斎しよう。お前を斎主とし、女性らしく厳媛(いつひめ)と名づけよう。そこに置いた土瓮を厳瓮(いつへ)とし、また火の名を厳香来雷(いつのかぐつち)とし、水の名を厳罔象女(いつのみつはのめ)、食物の名を厳稲魂女(いつのうかのめ)、薪の名を厳山雷(いつのやまづち)、草の名を厳野椎(いつののづち)とする』。 冬になると、ワケミケヌの命は厳瓮の供物を食し、兵を整えて出陣した。まず国見丘のヤソタケルを撃ち斬った。そして歌った。『伊勢の海の大石に這いまわる細螺(しただみ)のように、わが軍勢よ、わが軍勢よ、細螺のように這いまわって、必ず敵を討ち負かしてしまおう』 。残党はなお多く、その情勢は測りがたかった。そこでミチオミに命じた。『お前は大来目部を率いて、大室を忍坂邑に造り、盛んに酒宴を催して、敵をだまし、討ち取れ』。ミチオミは、忍坂邑の大室に強者を選んで侍らせた。『酒宴たけなわになった頃、私は立って舞うから、お前らは、私の声を聞いたら一斉に敵を刺せ』。 敵を誘いこみ、座について酒を飲んだ。 陰謀のあることを知らない敵は、心のままに飲み、酔った。ミチオミは頃を見計らって、立って歌った。『忍坂の大きい室屋に、人が多勢入っているが、入っていても御稜威(みいつ)を負った来目部の軍勢の頭椎(くぶつつ)、石椎(いしつつ)で敵を討ち敗かそう』。この歌を聞いて一斉に頭椎の剣を抜き、敵を皆殺しにした。こうして葛城邑のヤソタケル(八十梟帥)を攻め滅ぼした。 ワケミケヌの命軍は大いに悦び歌った。『今はもう今はもう敵をすっかりやっつけた。今だけでも今だけでも、わが軍よわが軍よ』。来目部が歌って大いに笑うのは、これがそのいわれである。また歌っていう。『夷(えみし)を、一人で百人に当る強い兵だと人はいうけれども、抵抗もせず負けてしまった』。その時、ワケミケヌの命が言った。『戦いに勝っておごることのないのは良将である。今、大きな敵は滅んだが、その仲間は多い。その実状は分からないから、同じ所にいては危険だ』。ワケミケヌの命軍は、その地を捨てて別の所に移った」。 これを仮に「ヤソタケル(八十梟帥)攻略譚」と命名する。この下りは、天孫軍の計略、謀略が優り、国津軍のヤソタケル(八十梟帥)殲滅経緯を物語っている。これに相当文量費やされていることは、よほどの難事であったことと、ヤソタケル(八十梟帥)征伐戦がよほど重要な地位を占めていたと云うことであろう。ヤソタケルは、漢字の八十梟帥が意をそのまま表しており、武勇ある者の集団に対して名づけたものと推定され、国津族の正規軍だったと思われる。梟帥は、「コソ」、すなわち「許曽」、「居西」などに通じる烏丸系集団の頭目の称号とする説もある。 300年前後の大和にもっとも大きな集落があったのは桜井市の初瀬川の流域即ち磯城(師木)のヤソタケルの一族が支配していた地であったとされる。葛城邑(今の御所市付近)のヤソタケルは、忍坂邑(今の桜井市付近)の俄作り大室でだまし討ちにされた。ニギハヤヒが降臨したのは哮峯は葛城山中であり、綏靖朝や孝昭朝の都は葛城であったことからも分かるように、葛城の地は二ギハヤヒ系の重要な拠点であったと思われる。その拠点のヤソタケルが滅ぼされたことになる。大和王朝史は葛城の地を押さえることに腐心しているが、元々国津族の拠点であったと云うことが関係していると思われる。 天孫族の国津族狩りは続いた。次のように記されている。 「天孫軍は、国津神族の内部分裂を誘いながら進撃し、平伏しなかった土クモ族を攻め滅ぼした。神武天皇即位前紀己未年二月、大和国(奈良県)の 新城戸畔(にいきとべ)等の土蜘蛛が帰順せず討たれた。これが土蜘蛛の初見となる」。 これを仮に「土クモ族攻略譚」と命名する。この下りは、天孫族が引き続き各地の土クモ族討伐に向かったことを明らかにしている。この時征伐されたツチグモ族とは何者か。漢字では「土蜘蛛」、「都知久母」と表記される。日本書紀は「高尾張邑(たかおはりのむら)に土蜘蛛有り、其の 為人(ひととなり)身短くして手足長し」と記し、まさに「蜘蛛」的に描いている。記紀の記述は卑しく描いているが、逆に勇猛果敢な土着勢力の姿を髣髴とさせている。 察するに、「蜘蛛」とは蔑称であり、クモを出雲の雲と読み、出雲系の流れを汲む各地の豪族と読むべきではなかろうか。ツチグモ族の最強軍団は大和葛城山を根城にしていたと思われ、葛城一言主神社には土蜘蛛塚という小さな塚がある。これは神武天皇が土蜘蛛を捕え、彼らの怨念が復活しないように頭、胴、足と別々に埋めた跡といわれる。 |
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【神武東征、神武の橿原宮即位譚その6】 ニギハヤヒの義父にして在地の豪族の盟主的地位にあったナガスネ彦(登美彦)を棟領とする国津軍の抵抗は引き続いており、決着が着かず戦線は膠着していた。 天孫軍と国つ軍の闘いは長期戦化した。この時、金鶏が飛んできて天孫軍を勇気づけたとして次のように記されている。 「遂に二ギハヤヒ―ナガスネ彦が登場し、両軍が対峙することになった。この時、急に空が暗くなり雹(ひょう)が降り始め、そこへ金色の不思議な鵄(とび)が飛んできてワケミケヌの命の弓の先にとまった。鵄は光り輝き雷光のようであった。そのため、ナガスネヒコ軍の軍卒は眩惑され、力戦できなかった。 ワケミケヌの命は、歌を歌った。『御稜威を負った来目部の軍勢のその家の垣の本に、粟が生え、その中に韮(山椒)が一本混じっている。その韮の根本から芽までつないで抜き取るように、敵の軍勢をすっかり撃ち破ろう』。ワケミケヌの命は兵を放ち、ナガスネヒコの軍勢に急迫させた」。 これを仮に「金鶏譚」と命名する。この下りは、天孫族と国津族の正規軍の最後の決戦場面を伝えている。両軍対峙で膠着する中、「金色の不思議な鵄(とび)が飛んできてワケミケヌの命の弓の先にとまった」とある。これは陰喩であろうから、天孫族によほど強力な助っ人が登場したと解すれば良い。これが誰であるのかは判明しない。 こうした局面のどの時点のことか定かではないが、天孫族のワケミケヌの命と国津族のナガスネ彦が次のように遣り取りしている。 「ナガスネ彦は使いを送って言上した。『昔、天津神の子が天磐船に乗って天より降りてきた。名を櫛玉ニギハヤヒの命と申す。私の妹のミカシギヤ姫を娶り、ウマシマデの命を生んでいる。私はこのニギハヤヒを君主として仰ぎ奉(つかえ)てきた。あなたは自らを天津神の子と称し、この国を奪おうとしているが、そうなると天津神の子が二人いることになる。なぜ天津神の子が二人いるのか。思うに、あなたは末必為信(いつわり、ウソ)をついている。どうしてまた天神の子と名乗って人の土地を奪おうとするのですか。私が思うのに、あなたは偽物でしょう』。 ワケミケヌの命は次のように返答した。『天津神の子は多く居る。もしニギハヤヒの命が本当に天津神の子であるというのなら、必ずやその印となるものを持っている筈である。それを見せてみろ』。この後、ナガスネ彦が証拠の天羽羽矢(あまのははや)と歩ゆぎ(矢箱)を見せて示した。ワケミケヌの命は、「偽りではない」と答え、ワケミケヌの命も同じように見せ譲らなかった。ナガスネヒコは恐れ畏まったが徹底抗戦の構えを崩さなかった。 これを仮に「天孫軍とニギハヤヒの命軍の王権誇示譚」と命名する。この下りは、国津系のニギハヤヒの命と天孫系のワケミケヌの命が王権の正統性誇示しあっているところが興味深い。決着がつかなかったと云うことは、ニギハヤヒの命の王権が確かなものであったことを寓意していよう。 ナガスネ彦が、ニギハヤヒの命を天津神の子として位置づけ問答している下りは脚色であろう。本当は、「なぜ天津神の子が二人いるのか」と問うたのではなく、こう問うたのではなかろうか。「ニギハヤヒの命こそ皇統の命である。あなたがたも皇統だと自称している。どちらが本当の皇統なりや」。記紀はこの真問答を記せず、ここでも捻じ曲げて記述しているように思われる。 天孫族と国津族の第二の国譲り譚が次のように記されている。この下りの神話は、物部氏の伝承「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)によれば、次のように記されている。れんだいこが意訳する。 「天孫軍と国津軍の戦闘は長期化し、天孫軍優位のまま膠着状態に入った。国津軍の実権は、ニギハヤヒの子のウマシマチに移っていた。ウマシマチは、天孫族新王朝の要職の地位の約束を得ることでナガスネ彦を殺し、抵抗を終息させた。ここに両者が大和議し、天孫軍と国津軍の合体による大和王朝が創始されることになった。『大和』の由来はこれによる。ウマシマチはその後物部氏として大和朝廷の第一豪族として枢要の地位に有りついていくことになる」。 大野七三氏の「古事記、日本書紀に消された皇祖神・ニギ速日大神の復権」は、「神武天皇とウマシマジの命の盟約」と題して次のように記している。 「ウマシマジの命は、父・ニギ速日の尊より継承した大和国の統治権を神武天皇に譲るに当たり、天皇との間に重大な盟約を交わされたことが推察される。1・宮中に皇祖神として、元大和国の大王であり、皇后イスケヨリ姫の父であるニギ速日の尊の御魂を奉斎すること。そして、その祭祀はウマシマジの命及びその子孫が司祭者として行うこと。 2・大和朝廷の歴代の皇后は、ウマシマジの命の子孫・磯城県主(しきのあがたぬし、後の物部氏)の関係者の女性から出自させること。更に、その皇后より誕生した皇子のみが次期天皇になれること。3・大和朝廷の最高職(足尼すくね、大連おおむらじ、大臣おおおみ)は、ウマシマジの命の子々孫々が永久にその職を継承すること。これらの盟約は、先代旧事本紀の物部氏系譜と天皇家系譜によって確かめることができる」。 これを仮に「天孫族と国津族の第二の国譲り譚」と命名する。この下りは、前半でニギハヤヒの子のウマシマチが「ナガスネ彦を殺し、抵抗を終息させた」としている。後段では、「神武天皇とウマシマジの命の盟約」が記されている。この盟約は記紀には登場せず先代旧事本紀のみが記しているところが興味深い。 ところで、殺されたとされるナガスネ彦は他の古史古伝の東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)では、ナガスネ彦が東北に逃げ落ち、荒覇吐(あらはばき)族を名乗って津軽地方の王となった云々と伝えている。この記述は興味深い。大和王朝が後々東北蝦夷征伐に向かう流れの裏事情が見えてきそうな話である。 古史古伝の真贋論争に願うのは、徒な入り口論としての真贋論に留まるべきではなく、よしんば偽書であったとしても内容に於ける吟味も必要ではなかろうかと思うことである。体裁等の形式的な偽書認定に止まるべきではなく、内容における偽書認定の両面から向かうべきではなかろうか。目下の偽書認定が入り口段階の話にされ、一向に中身の精査に向かわないのは疑問である。中身の精査に向かわない為のワナ理論ではないかと義憤することがあるぐらいである。 |
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【神武東征、神武の橿原宮即位譚その7】 天孫族と国津族の手打ちにより、戦争状態が集結した。天孫族は引き続き各地の豪族を平定して行った。次のように記されている。 「翌年の春、天孫軍は、諸将に命じて兵卒を選抜させ訓練させた。添県(そほのあがた)の波の丘岬(おかざき)にニイキトベ(新城戸畔)という女賊がおり、和珥(わに)の坂下にはコセハフリ(居勢祝)、臍見(ほそみ)の長柄の丘岬にはイハフリ(猪祝)という者がいて、その三ヶ所の土賊は勢力が強く帰順しなかった。ワケミケヌの命は、精兵を遣わして皆殺しにした。また高尾張邑(たかおわりのむら)にツチグモ(土蜘蛛)がいて、身丈が短く手足が長く侏儒(しゅじゅ)と似ていた。ワケミケヌの命軍は葛の網を作って覆い捕えて殺した。そこでその邑を改めて葛城とした。磐余の地の元の名は片居または片立という。天孫軍が敵を破り兵が溢れたので、磐余と改称した。ある人がいうのには、『イワレヒコが昔、厳瓮の供物を食し、出陣して西片を討った。そのとき磯城のヤソタケルがそこに屯娶(いわ)みし、天孫軍と戦ったがついに滅ぼされた。それで屯娶み、つまり兵が多いという意で、磐余邑という』」。 これを仮に「天孫族の国津族残党狩り譚」と命名する。この下りは、いわば最終戦を記していることになる。女賊が平定されたことを記している。これまで触れなかったが、国津軍には女軍が組織されており、中には女酋長の豪族も居たことが明らかにされている。如何にも卑弥呼を盟主とする邪馬台国―女王国連合にありそうな記述ではなかろうか。 第四皇子なるワケミケヌの命がカムヤマトイワレ彦命となり、初代天皇として即位した。日本書紀は月日を全て干支で記しており、「神武天皇が、辛酉の年の春正月庚辰朔に橿原に宮を建てた」と記述し、古事記には年月が記されていない。次のように通説されている。 「こうして、ワケミケヌの命が大和を平定してカムヤマトイワレ彦命となり、畝傍山東南の橿原に宮殿造営を開始した。かくて、大和朝廷を創始した。カムヤマトイワレ彦命は後に神武天皇と称名したので、神武天皇が大和朝廷初代天皇となる。神話上は、この皇統が平成の現在まで続くという事になっている」。 新唐書日本伝は次のように記している。「みな尊を以って号となし、筑紫城に居る。彦の子神武立ち、さらに天皇を以って号となし、移りて大和州に治す」。 「先代旧事本紀」、「天孫本紀」が次のように記している。 「大歳(おおとし)辛酉(しんゆう)正月(むつき)庚申(こうしん)の朔(ついたち)に、天孫イワレ彦命、橿原宮に都を造る。初めて即皇位(あまつひつぎしろしめ)す。号(なづけ)て元年(はじめのとし)と曰(い)う。皇妃、姫タタライスズ姫を尊(とうとび)て立てて皇后と為す。即ち、大三輪の神女なり。宇摩志麻治の命、先ず天瑞宝(あまのみつのたから)を献(たてまつ)る。叉神楯(かんたて)を堅(たて)て以って斎(ものいみ)します。五十櫛(いそくし)と謂う。叉は今木を布都主剣(ふつのぬしのつるぎ)に刺しめぐらし、大神を都内(みあらかのうち)に奉斎(いわいまつ)る。即ち、天璽瑞宝(あまのしるしみづのたから)を蔵(おさめ)て以って天皇(すめらみこと)の為に鎮(しず)め祭る」。 これを仮に「神武天皇即位譚」と命名する。この下りは、天孫族がやむなく迂回して紀州熊野に上陸し、国津族の内部分裂を誘いながら大和に侵入し、ワケミケヌの命が即位してカムヤマトイワレ彦命となり大和王朝を創始した経緯を伝えている。神武天皇の即位日を「辛酉の年の春正月庚辰朔」とし、それが西暦の紀元前660年に当たることへの疑問については「皇紀2600年考」で述べたので繰り返さない。 |
れんだいこのカンテラ時評№984投稿者:れんだいこ![]() |
【神武東征、神武の橿原宮即位譚その8】 カムヤマトイワレ彦命の即位以降を神武天皇と呼ぶことにする。神武天皇は、畝傍山(うねびやま)の麓橿原(かしはら)に都を築き、橿原宮に遷都した。この時、「掩八紘而爲宇」(「八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)と為す」)の「八紘一宇詔勅」を発令している。日本書紀巻第三、神武天皇の条(「橿原遷都の詔 皇宗 神武天皇」)は、次のように記している。 「我、東(ひんがしのかた)を征(う)ちしより、ここに六年となりたり。頼(こうぶ)るに皇天(あまつかみ)の威を以ってして、兇徒(あだども)就殺(ころ)されぬ。辺(ほとり)の土(くに)未だ清(しづま)らず、余(のこ)りの妖(わざわ)い尚あれたりと雖(いえど)も、中洲之地(うちつくに)、復(また)風塵(さわぎ)無し。誠に宜しく皇都をひらき郭(ひろ)めて、大壮(おおとの、みあらか)を規(はか)り摸(つく)るべし。而(しか)るを今、運(よ)、この屯(わか)く蒙(くらき)に属(あ)いて、民(おおみたから)の心素朴(すなお)なり。巣に棲(す)み穴に住みて、習俗(しわざ)惟(これ)常となりたり。それ大人(ひじり)の制(のり)を立つる、義(ことわり)必ず時に随(したが)う。苟(いやしく)も民に利(さち)有らば、何ぞ聖(ひじり)の造(わざ)に妨(たが)わん。まさに山林をひらき払い、宮室(おおみや)を経営(おさめつく)りて、つつしみて宝位(たかみくら)に臨みて、もって元々(おおみたから)を鎮(しづ)むべし。 上(かみ)は則(すなわ)ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまいし徳(みうつくしび)に答え、下(しも)は皇孫(すめみま)の正(ただしきみち)を養いたまいし心を弘めん。然(しこう)して後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)にせんこと、亦(また)可(よ)からずや。観(み)れば、夫(か)の畝傍山(うねびやま)の東南(たつみのすみ)の橿原(かしはら)の地(ところ)は、蓋(けだ)し国のもなかの区(くしら)か。治(みやこつく)るべし」。 八紘の由来は、淮南子(えなんじ)巻七 精神訓の「九州外有八澤 方千里 八澤之外 有八紘 亦方千里 蓋八索也 一六合而光宅者 并有天下而一家也」とされている。淮南子(えなんじ)とは、前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年―紀元前122年)が学者(劉安・蘇非・李尚・伍被ら)を集めて編纂させた思想書。日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音の「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。「淮南鴻烈」(わいなんこうれつ)ともいう。10部21篇。道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて書かれており、一般的には雑家の書に分類されている。 「八紘」は「8つの方位」、「天地を結ぶ8本の綱」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味する。「一宇」は「一つ」の「家の屋根」を意味する。「八紘を掩(おほ)ひて宇とせん」とは、天下を一家の如く覆い、家族的な和気藹々(あいあい)の絆によって諸国を統合し世界平和を建設せんとする意味の指針である。日本は昔より、こういう造語が上手い民族である。恐らく「敷島の大和の国は言霊の助ける国ぞ真幸くありこそ」(万葉集・柿本人磨呂)とあるような言霊思想と関係している。 これを仮に「八紘一宇詔勅発令譚」(略して「八紘一宇譚」)と命名する。「八紘一宇譚」は、出雲王朝の国譲りに続いて邪馬台国の国譲りにも成功した大和王朝が「八紘一宇」の建国国是とでも云うべき宣言として拝したい。 それによれば、これまでのような戦争手法によってではなく、これからは諸国家和合により国土経営に勤しむと云う誓いのようなものだと悟らせていただく。これのどこまでが本音でどこからが建前なのかは分からぬが、日本建国時の申し合わせとして確認しておきたい。 その後の日本史は、戦争政策と和合政策が縄をなうように混ざり合い、時に応じて好戦派と和合派が舵取りしつつ歴史を刻んできたと読みたい。その背後では常に天孫派と国津派、その内部でも各派が合従連衡しつつ暗闘してきたと読みたい。このようにして綾為してきたのが日本史だ拝したい。尤も、この特徴は黒船来航までの日本史までであり、黒船後は新たに西欧的ネオシズムと云う化け物が日本に吸着した。これとの調整は今後の課題であるように思われる。 補足として次のことを確認しておく。日本書紀の「八紘爲宇」につき、明治から大正、昭和初期に活動した日蓮系国柱会の田中智学が「八紘一宇」に作り直して、これを日本民族の世界戦略の大目標とすべきであると提言した。この造語が風靡するようになり、戦前の1940(昭和15).7.26日、第2次近衛内閣が基本国策要綱を策定し、大東亜共栄圏建設を指針とした際に、「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き、世界平和の確立を招来することを以て根本とし、先づ皇国を核心とし、日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」と掲げるに至った。 続く大東亜戦争で、「天皇にまつろわぬものを平らげる」精神として「八紘一宇」が称揚された。当時の皇国史観は、「尽忠報国、挙国一致、神州不滅、鬼畜米英、勇戦力闘、無敵皇軍、一億玉砕、忠君愛国、滅私奉公、堅忍持久、忠勇無双、八紘一宇、天穣無窮」等々の四字熟語を多造していた。日本人の民族性にどこか波長が合うのだろうと思われる。 締めとして一言しておけば、「八紘一宇」の本来の意味は、戦争から和合への政策転換として意味を持つ言霊であると云うことである。戦前の皇国史観は、これを戦争政策イデオロギーとして喧伝したが背教であろう。戦後は、その背教性を暴くのではなく、皇国史観用語故に一律に一掃してしまった。国旗としての日の丸、国歌としての君が代も同じ運命を辿っている。反戦平和思想としては特段には問題ないのかもしれないが、それ自体の学としては戴けないものがあると思う。 |
れんだいこのカンテラ時評№985 投稿者:れんだいこ 投稿日:2011年 8月26日(金)22時03分6秒 |
【「文系頭脳の原発批判論」その1、原発法廷を開け】 2011.3.11日の三陸巨大震災、中でも福島原発事故に際して、れんだいこが何を思ったのか「文系頭脳の原発批判論」としてシリーズで書きつけておく。理系的な原発論については既に原子物理学者・小出裕章氏他の優れた論考が出ているので、新しい観点の文系的アプローチをして見たい。「東電・原発おっかけマップ」(鹿砦社、2011.8.6日初版)その他を参照する。 文系的アプローチが最初に申しておくべき肝要事は、被災民が公然と生体モルモットにされたと云うことである。福島原発事故勃発の際の手際と今日までの経緯を見れば、こう断言せざるを得ない。どこで判断できるかと云うと、枝野官房長官のメルトダウンなし大丈夫論による被災民足止め、当初のガソリン供給制限、軍警察その他による交通規制、疎開政策の不採用その他の状況証拠による。 この判断がウソかマコトか、検証の為の原発法廷が開かれるべきである。れんだいこはマコトと考えており、事と次第によって菅政権の閣僚、原子力行政責任者、東電経営責任者が喚問され、政治責任を問われねばならないと考えている。不可抗力的な事故であり、それ故の処理であり、高度な政治判断故に司法判断に馴染まないと云うことが立証されれば免責される。 問題は、仮に不可抗力的な事故であったと認めたとしても、事後対応が余りにも粗雑、且つ逆対応であったことが判明すれば、その過失の程度に応じて有責が問われ裁かれるべきではなかろうか。そういう意味で、菅政権、保安委、原子力安全委、東電責任者の対応が俎上に乗せられ吟味されねばならないと考える。 これには福島被災民の命と生活がかかっており、全国各地の同様運命に置かれている予想被災民の命と生活が掛っているのであるからして、この審議を疎かにしてはなるまい。先の大東亜戦争につき戦勝国側の軍事裁判を許したが、何事も自国のことは自国が主体になるべきと考える。 事故調査報告書が既に策定され、今後もより詳細なものが出てくるであろう。だがしかし、これを原発推進派が作成すればロクなことにはなるまい。1985.8.12日発生の日本航空123便墜落事故の報告書と同じく、真相を隠蔽し、原因をどうでも良いようなことにすり替えて曖昧糊塗にしたものにされるのがオチだろう。こういう報告書を幾ら提出しても意味がない。原発推進派と反対派が等分の割合で委員構成した機関が報告書を作成すべきであろう。 こういう報告がないままの東電救済の為の国家予算の投入、各界への補償は論理的に杜撰過ぎる。応急手当的なものは良い。本格的な国家救済となると、その前に第一義的に東電責任、次に電力会社全体の業界責任が要請されるべきであると考える。当事者の電力会社が血反吐を吐くまで補償の責任を負い、その経緯を経て初めて足らずのところを国家が対応すべきであろう。 且つ、国家予算をつぎ込むからには、福島原発事故関係者の責任割合に応じて資産没収、逮捕、刑罰まで課せられるべきであると思う。そういうケジメに対する緊張感がない政治は堕落以外の何ものでもない。目下の政治は堕落の極みを演じているように思われる。これが常態化しているので奇異に思われないだけのことではなかろうか。以上、簡単ながら「原発法廷を開け」の弁とする。 2011.8.26日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№986 投稿者:れんだいこ 投稿日:2011年 8月27日(土)21時04分15秒 |
【「文系頭脳の原発批判論」その2、東電会長・勝俣恒久の恥部考】 東電会長の勝俣恒久(かつまたつねひさ )に対する不審を書きつけておく。この御仁は、1997(平成9).3.19日に発生した東電OL殺人事件に妙に絡んでいる気がしてならない。事件発生当時の被害者W泰子(39歳)の直属の上司が当時取締役企画部長の勝俣であった。 W泰子は慶応大学経済学部卒の才媛であり、東京電力入社後、異例の昇進続きのエリートコースを歩み女性初の総合管理職に就任していたと聞く。企画部経済調査室副長が最後の肩書である。そのW泰子が夜な夜な徘徊し渋谷区円山のラブホテル街をシマとする売春婦になっていたと云う。 ここに尋常でないものを嗅ぎ取るべきではなかろうか。彼女をそのような身にせしめた背景事情を探らねばならないと思う。上司の勝俣との対立を説く記事が出ているがヤラセ記事の可能性がある。仮に彼女が晩年時の局面で対立し始めていたとしても、それまでの異例の出世の秘密を探るべきであろう。何かあるとするのが自然ではなかろうか。 勝俣はその後もトントン拍子に出世している。1998年6月に常務取締役、1999年6月に取締役副社長、2002年10月、原発データ改竄事件で引責辞任した南直哉の後任として東京電力の第10代社長に就任。2006年末、第二次データ改竄事件を引き起こし、事故隠し工作に手腕を振う。2008年2月、柏崎刈羽原子力発電所のトラブル、28年ぶりの赤字決算の責任を取り引責辞任する。代表権を保持したまま会長就任と云う履歴を見せている。東大経済学部卒の東電花形の企画部出身であることからすれば、この出世に異常はないのかもしれないが、W泰子が売春婦に化したこととの繫がりの点と線を詮索せずんば気が済まない。 東京東電OL殺人事件の容疑者としてネパール人男性ゴビンダが逮捕され現在も収監されている。ゴビンダは、W泰子との性的関係は認めているものの殺人を強く否定している。終始冤罪であると訴え、獄中から東京高裁に再審を請求している。 れんだいこが注目するのは、法廷でのゴビンダ証言である。それによると、W泰子が金儲けで買春していたのではない様子を明らかにしている。こうなると、東電勤務中のトントン拍子の出世過程に何らかの秘密が隠されているのではなかろうか。具体的には判明しようもないが、自らを売春婦化せしめるに至る性事情が隠されているような気がしてならない。 そういう意味で、ゴビンダ裁判は、冤罪究明と同時にW泰子の売春婦化までの経緯をも究明せねばならないと考える。当然、勝俣はW泰子の性事情に関する知る限りの証言をする為に証言台に立たねばなるまい。ゴビンダ裁判はこう云う風に裁判を構成するべきであろうが司法は取り組むだろうか。聞くところによると、勝俣にW泰子の一件を質すのはタブーだと云う。ならば余計に証言台に起たせねばならないと考える。白なら堂々と弁明すれば良いだけのことではなかろうか。 もとへ。こういうことを記すのは、三陸巨大震災、中でも福島原発事故に際して見せた菅政権、原子力安全保安院、東電責任者に揃いも揃って人間資質的な意味でのお粗末さを見て取ることができるからである。異常性を訝るからである。勝俣を挙げたのは一例に過ぎない。 保安院の広報として枝野並に登場し饒舌した西山英彦審議官然りである。経済産業省の女性職員とのスキャンダルを週刊誌に報じられ失脚したが、原発事故対応、被災民救済にてんやわんやの頃の裏で進行していた密会であることを考えると尋常な神経ではなかろう。 原発推進派連中は揃いも揃って元々がトンデモな奇形人間たちであり、そういう連中によって原発が運用されているのではないかと訝るべきではなかろうか。安全でもクリーンでもない否最も危険でダーティーな原発を、その虚構を知りながら平気で安全喧伝し、行政的に推進してきた連中であり、己の立身出世と財力と権力の為に何をしでかすか分からない連中なのではなかろうか。こういう御仁に説教とか改心を願う方が無理であり、放逐と厳粛な裁判こそが相応しい。 原発は、社会的良心を持つ新人材によって運用され見直されるべきであると考える。目下のイカガワシイ連中による事後対策は無駄ゼニを天文学的に費消するだけのことであろう。アレバ社を始めとする国際金融資本系にン十兆円かすめ取られるだけのことであろう。且つどんな仕掛けをされるか分からない。こういうことを気にしない連中が経営陣や監督官に就任している。 こう云う風に思えば、この間、冷や飯を食わされてきた原発警鐘乱打派にして初めて事後処理の任に当たることができるとすべきである。政治は、こういうものを登用する為にするものであり、逆に対応する政治を何と呼べばよいのだろうか。 ちなみに、事故当日の3.11日、勝俣は中国に居た。マスコミのОB26名を引き連れての7日間の観光旅行中だった。参加者の中に元木昌彦(週刊現代元編集長、現代記事が面白くなくなったのは、こういうことか)、花田紀凱(週刊文春元編集長、マルコポーロ廃刊事件時の編集長、現在Willの編集長、論調が妙にぶれるのも、さもありなんか)、石原萌記(月刊自由発行人、昔からナベツネと気脈通じていると云う)、他に毎日、西日本、信濃毎日、中日新聞社のОBら。 こういう東電仕立てのツアーは既に10年続いていると云う。日頃公私ともに世話になっている裏舞台が露見したことになる。東電がそうなら他の電力も同じようなことをしているのではなかろうか。官僚の接待批判をする連中のこれが実態であることを確認しておこう。この系の連中がこぞって「小沢どんの政治とカネ問題」に執拗に食いついているのはどういう訳か。相当の恥知らず者とみなすべきではなかろうか。 2011.8.27日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№987 投稿者:れんだいこ 投稿日:2011年 8月28日(日)20時59分42秒 |
【「文系頭脳の原発批判論」その3、理系頭脳の粗雑を嗤う】 文系的アプローチが次に申しておくべき肝要事は、原発推進派の頭脳のお粗末さに関してである。れんだいこは文系人間である。未だにテレビがどういう仕組みで映るのか、なぜ鉄の船が浮かぶのか、飛行機が空を飛ぶのか、車が走るのか、海をまたぐ橋がどういう構造計算でできるのか、パソコンの仕組みも知らない。そういう意味で理系人間を尊敬してきた。 福島原発事故は、その理系の粋であると思われる原子物理学者を大勢テレビに登場させたが、初めて理系頭脳の粗雑ぶり、社会的責任感のエエ加減さを知らせることになった。これは発見であった。 ひょっとして原発従事者、推進者は必ずしも理系人間ではないのかも知れない。そう思えば相変わらずれんだいこの理系頭脳崇拝は続く。が、否原発こそ理系頭脳を象徴的に表象していると思うこともできる。この場合は理系頭脳を嗤うことができる。以下、これについて思うところを記したい。 原発の危険性を、原子論や原発構造論の観点から専門的に述べるのは小出裕章(京都大学原子炉実験所・助教)、今中哲二(京都大学原子炉実験所・助教)氏らの良心的な理系学者に任せる。反原発活動家の広瀬隆(早大理工学部応用化学科卒)、第一次ブント活動家の藏田計成(早大)氏らも早くから警鐘運動している(藏田氏は文系かもしれない)。れんだいこは、文系頭脳で原発の非を警鐘乱打させてみたい。原発危険論は理系知識の観点からのみ語られる必要はない。文系からも次のように批判することができる。 原発がなぜイケナイものかと云うと悪魔科学であるからである。これが結論になる。こういう判断は理系頭脳の発想からは出てくまい。理系と文系にはこういう違いがある。原発がなぜ悪魔科学なのか。それは悪魔の習性を見事に備えているからである。その悪魔が纏いついているとしか思えない科学であるが故に悪魔科学と見定め、手を染めてはいけないと弁えるのが知恵と云うものだろう。原発理論の創始者とも云えるアインシュタイン自身がこのことを鋭く指摘している。 悪魔はどういう風に取りついているのか。それは、文明に便宜を与えるものとして囁きながら、便宜以上の不幸を背中合わせにして住みつき吸血していることにある。この吸血は何も原発にばかり取りついているのではない。軍事にも政治経済文化精神のあらゆる分野に見られるのが近現代史の特徴である。 原発で云えば要するに、電力生成中に地球環境に馴染まない冷却水を使用し続けねばならず、これを廃棄しようにも最早廃棄できない種類の放射能汚染にまみれており、これを承知で稼働している。その冷却水をこっそり排出しているということであろう。尋常感覚では、こういうものを商品化したり使用してはいけない。 次に、これが最も驚くべきことだが、使用済み核燃料の最終廃棄物の科学的分解処理ができず、何と地中奥深くに格納する以外に方法がないと云う極めて原始的無責任な後始末方法のままに稼働されていることにある。青森県の六ヶ所村が処分地になっているが、この地は今後とも永久に厄介な荷物を抱え続けて行く宿命を担わされており、もはや如何ともし難い。しかも、既に満杯と云うことのようである。そういうこともありモンゴル平原の地中に埋める計画が進行中とのことである。 原発がそういう不完全性のものであれば人類が手を染めてはいけない。少なくとも研究段階に止める代物である。これが文系頭脳の弁えである。ところが、原発推進系の科学者は、これを意に介さずお構いなしに今日まで原発開発を続けており、行政がこれを後押ししている。最近では輸出に精出している。将来、トンデモの国家間賠償が予見されよう。これを平気で押し進める理系頭脳のお粗末さを嗤うだけでは済まされない。子々孫々にまで害を及ぼしタタる科学を当面の利益の為に平然と導入して恥じない没倫理観、価値観を糾弾せねばならない。 思えば、理系頭脳には、手前が関わる研究が社会にどういう影響、効果、利福あるいはその逆のものなのか、これを問う能力が欠損しているのかも知れない。しかしまてよ、同じ理系でも医学の場合には生体実験、臓器移植等において生命倫理基準が課せられている筈である。最近とみに杜撰になりつつあるが、かって脳死判定を廻って各界の識者が叡智を寄せたのは衆知の通りである。 それを思えば、原発系理系頭脳と云う風に限定的に捉えるべきかも知れない。原発系理系頭脳には社会倫理が異常に欠損している。脳内にこれを顧慮するコードがないのかも知れない。これを非として強く糾弾しておきたい。 こたび初めて原発推進組の生身の姿を映像で確認することができた。テレビに次から次に登場したが、推進派の誰一人からも知性を感じ取れる者はいなかった。終始云い訳と大丈夫論を奏でていた。逆に原発批判派にこそ叡智と良心を感じた。 同じ科学者でも原発推進派と批判派を比べれば、推進派の手合いは、研究費と生活費と出世と小権力さえ与えられれば、後のことは知らんと云って容易に済ませられる精神の破廉恥漢ではなかろうか。理系頭脳の中でも極めつきの倫理観の欠如した連中なのではなかろうか。 ヒゲヅラで登場する者がかなりいたが、ヒゲを取ればかなり間抜けな顔をしていたのではなかろうか。肩書は立派だが、肩書をはずしてじっくり観察すれば驚くべく知能が低い連中なのではなかろうか。こういう連中が我が物顔で世渡りしながら、人類の前途を台なしにさせるような危険な仕事を平気の平左でしていることを弾劾せねばならない。 電力なければどうするんだとの反論が聞けそうだが返答しておく。そのロジックは、原発推進派がエコエネ開発の芽を摘み、規制し続けてきた悪事を踏まえて云わねばならない。少なくとも原発に投ずる費用と等分のものをエコエネ開発にも投じていたら、既に日本はこれほどまでに原発に偏る電力供給体制にならなかったのではないのか。否既に不要になっているかも知れない。 そういう悪事を働いておりながら、電力不足論を云うのは悪代菅の言であろう。つまり、電力をどうするんだと詰問されれば、止むをえん当座は認めよう、但し急速度でエコエネ開発に転換せねばならない、お前はこのことを認めるのか認めないのかと逆に詰(なじ)ってみたい。 2011.8.28日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№988 投稿者:れんだいこ 投稿日:2011年 8月29日(月)19時37分6秒 |
【2011.8.29日民主党代表選記】 2011.8.29日、民主党は、菅首相の後継代表を決める代表選挙を行った。民主党所属の衆参両院議員は407名。このうち党員資格停止処分を受けている小沢元代表ら9名は投票権がないため有権者数は398名となった。代表選に先立って両院議員総会が行われ、5候補がそれぞれ15分間ずつ演説を行った。 投票の結果、海江田143票、野田102票、前原74票、鹿野52票、馬淵24票、有効投票数395、無効票は0。第1位の海江田票が過半数に達せず決選投票となった。海江田、野田両氏が5分ずつのスピーチを行ったあと決選投票に入り、野田215票、海江田177票で野田氏が逆転した。新代表はただちに党役員人事に着手し、30日の衆院本会議で第95代、62人目の首相に指名される。 以下、簡単に代表選評をしておく。第1回目投票で海江田は143票で1位となったが、小沢派、鳩山派、原口派の連携の割には票が伸びていない。もう一つの注目であった野田と前原の2位決戦は野田が圧倒した。102票は予想を大きく超えた。前原の74票も予想を超えた。中間派が両派に投じたことが分かる。鹿野52票は案外伸びなかったことになる。馬淵24票はむしろ善戦と評価できる。 決戦投票の野田215票、海江田177票は、海江田票が34票しか上積みしておらず、鹿野、馬淵の76票の過半が野田票に流れたことを示している。前原票は確実に野田に流れたことも示している。菅派票も確実に野田に流れたことを示している。 注目すべきは、2010.9.14日の菅VS小沢の一騎打ちとなった民主党代表選挙では国会議員411名(衆院305、参院106)のうち409人が投票(無効票3)、菅首相206票、小沢前幹事長200票であったことを考えると、海江田177票は小沢票を大きく減じていることを示している。 これは、鳩山票がむしろ野田票に向かったことを推定させる。小沢派はまたしても鳩山派に煮え湯を呑まされたことになる。補足推理として小沢票が流れた可能性もあるが考えにくい。 さてこうなると小沢系の数値の限界が見えてきたことになる。野田政権は8.30日に発足するが、論功行賞からして菅派人事で固められる可能性が強い。せいぜい政務ではなく党務的即ち選挙対策的使われ方をすることになると思われる。こうまで2代続けて干されると、小沢系が党内に留まるのは無理ではなかろうか。今こそ身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれを地で行って欲しいと思う。 アイデアとして、小沢系はもはや党員資格停止処分の解除なぞ求めず、そのまま小沢政治塾を立ち上げた方が良い。何ら拘束を受けない自由な政治活動に向かえば良い。小沢氏自身、首相の芽を窺うことを最終的に断念し、代替わりして次の世代の育成に向かう方が賢明ではなかろうか。 こたびの代表選でも、本来は小沢派が然るべき候補を立て争うべきだった。原口でも撫子でも良かった。勝つ負けるは別として、かく闘うべきであった。ところが、小沢系の中から物色できる候補が居ない。何分干され続けていることにもよるが、これでは臨機応変に処せない。そういう限界をも露呈したのではなかろうか。 小沢派は鳩山派に寄り添うたびに裏切られている気がする。鳩山派こそ2009政権交代をダラダラ効果減にしてきた張本人であり、菅派にバトンタッチした直接の責任派閥である。小沢派にすり寄りながら本籍は宦官派であることをもっと厳しく確認すべきではなかろうか。 以上、簡単ながら「2011.8.29日民主党代表選記」を記しておく。 2011.8.29日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№989 投稿者:れんだいこ 投稿日:2011年 8月30日(火)12時45分37秒 |
【「文系頭脳の原発批判論」その4、汲み取り式トイレマンション考】 日共の不破が、原発は「トイレのないマンションである」云々と批判していた。れんだいこは違うと思う。リストラの時に残業問題を持ち出す例のすり変え論法と同じであり焦点がぼかされていると考える。そこで云い方を変える。原発とは、「汲み取り式トイレマンションである」。そういうマンションがあるのかどうか分からないが、れんだいこの見立てによれば、こうなる。原発マンションにはトイレがないのではない、汲み取り式トイレなのだ。ここが臭い。 しかも、このトイレは、汲み取りが定期に来るのは来るが自然界への放流ができない、浄化槽センターで処理することもできない、地下深くに格納するしかできない、そういう曰くつきの末代タタリのトイレである。ここに問題がある。人は果たしてこういうマンションに暮らして良いものだろうか。普通には、こういうマンションは売れないしそもそも製造できない。行政権力を使って強権的に普及させている故に存在するものでしかない。 なぜ行政が取り組むのか。そこに利権があるからとしか考えられない。これなしには推進は有り得ないと思う。いわゆる原発村は、この利権の巣窟である。どういう利権なのか。それは公共土木事業の数億、数十億、数百億なぞ比ではない一件当り5000億の商戦が介在しているところに特徴がある。イージス艦一艦の購入と同じ金額であり、これにその他諸々のオプションが上積みされる。成約報酬として1割が関係者にバラまかれたとせよ、約500億円が按分されると云う桁違いの利権を生む仕掛けになっている。この仕組みが余りにもオイシイのでフィクサーが暗躍し、政治家が口利きすることになる。この仕掛けなしにはイージス艦も原発基地も導入されなかったと思え。ちなみにこの仕掛けは中曽根政権来のものである。イージス艦購入は中曽根と小泉時代に決定されている。 人は角栄の公共事業利権を口をきわめて罵(ののし)るが、中曽根―小泉の軍事、原発利権には反応しない。れんだいこは、エエ加減にして貰いたいと思う。角栄の公共事業利権を精査すれば、案外と身ぎれいでさえあるのが分かる。来るもの拒まず届けられるもの拒まずであったが、工事の見返りとして強制したものではない。角栄はむしろ自力調達型であった。その限りで土地転がしを得意としていたが許容範囲ではなかろうか。むしろ財界からの献金を忌避している。ヒモつきになると云うのが理由であった。 この歯止めをなくしたのが竹下―金丸以降である。他方、中曽根式利権の何たる野卑なことか。大概が税金からのバックマージンを懐にしている。軍用機商戦リベートなぞその最たるものだろう。話が飛ぶが、ロッキード事件で角栄が貰ったとされる5億円は中曽根サイドへ渡っていたものがすり替えられているのが真相ではなかろうか。冤罪は充分考えられる。これが、れんだいこのロッキード事件観である。 もとへ。原発電力安価論を唱える者が居る。それにはこう答える。これまでに原発に費やした費用、現に費やしている費用、今後費やす費用、こたびの事故のような補償費用を考えても見よ。原発に費やす費用をエコエネ開発に費やせば、却ってエコエネの方が安いのではないのか。よって、原発電力安価論からする原発続投論は論理的に成り立たない。経済学者は、こういうところを解析せねばなるまい。 これをせずに増税支援の弁論ばかり奏でている。原発屋と同じ穴のムジナである。原発電力安価論をマジに唱えるのなら、電力会社の全責任で補償費用の面倒も見させる見地に立ってから云うべきだろう。これにより初めて原価対比ができる。これが普通の論理式である。都合の良い入口計算だけで安価論を奏で、その間を電力事業体が総員でオイシイところだけ取って、高給取りし贅沢三昧に耽り、いざ事故となると知らんでは虫が良過ぎるのではないのか。これは一種の経済犯罪なのではなかろうか。 更に云おう。原発行政はむしろエコエネ開発を抑制規制してきた気配が認められる。日本は割合早くにエコエネ開発に着手してきており、元々は原発一辺倒ではなかった。オイルショック後、原発に目が向かったのは史実である。だがしかし、原発一辺倒ではなかった。それが1980年代の中曽根政権の登場と共に原発行政一本化のレールが敷かれた気配が認められる。これにより現在では原発輸出国にまで成長しているが、他方でエコエネ先進国の地位を喪失している。 政治力でこう云う風にして来たのが1980年代の中曽根政権以降である。中曽根のやったことは軍事と原発の二頭立てであり、国債の乱発であり、消費税の導入の試みであった。靖国神社に公式参拝するなどして愛国者ぶっているが、正体は、正力松太郎、児玉誉士夫系譜のキッシンジャーにより育てられた国際金融資本エージェントそのものではないのか。 もとへ。今からでも遅くない、日本はドイツを見習いエコエネ大国に向かうべきである。福島原発事故を奇貨として、こう云う風に舵取りするのが政治である。世界の真の態勢は、軍事と同じく原発からの撤退へと向かっている。今や原発体制から如何に上手に転換しエコエネ開発に向かうべきかの競争が始まっている。日本人は「バスに乗り遅れるな」が得意なはずなのに、原発撤退に関してはスローモーな動きを見せている。これはどういう訳だろう。余りにオイシイ原発利権の味が忘れられないと云う理由によってしか考えられない。つまり政治が逆走しており、これによって原発続投が堅持されているとしか考えられない。こういう逆走政治をするのなら政治家は要らない。既に迷惑な存在であり半分でも多過ぎよう。 原発を廃止すると電力不足に陥るなる論は為にするものでしかなく、原発行政が抑圧してきたエコエネに転換すれば案外早く十年内にも解決するのではなかろうか。それまでの間、原発はとにかく廃止し、水力、火力の補助によらねばならないかも知れない。しかしその割合を計画的に低減させ、日本はエコエネ自立国にならねばならぬ。幸い日本は潮流発電、地熱発電、風力発電、太陽光発電等々の天然資源に恵まれている。事と次第によってはエネルギー大国になる可能性がある。これを論証し指針するのが政治家であり官僚であろう。そして、仮に技術者に社会倫理感が乏しくても、政治の指針で導けば良い。ここに文系頭脳と理系頭脳のミックスせねばならない理由がある。二種の頭脳はこう云う風に提携し合うべきはなかろうか。 なお、前稿で原発の悪魔科学性を素描したが、この悪魔科学がどういう風に登場し、現在なお威勢を振っているのかをみれば、何とこれを推進してきたのがネオシオニストどもであり、連中は宗教的に悪魔崇拝教であると云う辻褄になっている。この解析については別稿で行うものとする。 2011.8.30日 れんだいこ拝 |
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(私論.私見)