カンテラ時評31(901~930) |
(最新見直し2011.04.21日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
れんだいこの丹精こめた珠玉の発言集「カンテラ時評」をここに保存しておくことにする。絶えず繰り返されるアラシの中で、意に介さず怯まず、れんだいこが発信したくなった事案に対するれんだいこ見解が披瀝されている。何度読み返しても、れんだいこ自身が面白い。字句の間違いの訂正、文意の修正もやっておこうと思う。 2007.3.24日 れんだいこ拝 |
返信 | Re:4000人いたイスラエル国籍のユダヤ人二重国籍米国人が1人もいなかった? | れんだいこ | 2011/02/05 22:01 | ||
towaさんちわぁ。質問:「WTCで働いていたはずの4000人のイスラエル二重国籍者が欠勤し1人も死ななかった」のソースはどこですか?とありますが、どこの書いておりますか、逆に教えてください。今ざつと目を通しましたが、該当箇所が分かりません。 > そもそも二重国籍者の犠牲者データはどこにもありませんよね。私が「世界中の陰謀論者」と言ったのは、こういう事を根拠も示さずに垂れ流す「工作員・偽陰謀論者」という意味です。 ここの意味が理解できません。「工作員・偽陰謀論者」とはどういう意味でせうか。偽陰謀論者だから批判し、陰謀論者なら構わないと云う意味ですか。この場合の陰謀論者とはどういう論の方なのですか。逆に教えてください。 2011.2.5日 れんだいこ拝 |
返信 | Re:4000人いたイスラエル国籍のユダヤ人二重国籍米国人が1人もいなかった? | towa | 2011/02/05 22:42 | ||
>偽陰謀論者だから批判し、陰謀論者なら構わないと云う意味ですか。 そうですが、日本の陰謀論有名サイトで工作員でない人はいないでしょうから例をあげにくいですね。 以下はれんだいこさんが引用されている文章ですが、ソースはどこかで調べられましたか? >4000人いたイスラエル国籍のユダヤ人二重国籍米国人が1人もいなかった事実 >世界貿易センタービルで犠牲となった被害者の国籍別人数を調べていた長谷川浩氏は、 >本来は勤務していた筈のイスラエル国籍をも有するユダヤ人がいないということを知ってしまった。 ttp://www.gameou.com/~rendaico/gendaishi_beikokunaitero_nhkiinnohenshico.htm |
返信 | Re:4000人いたイスラエル国籍のユダヤ人二重国籍米国人が1人もいなかった? | れんだいこ | 2011/02/06 00:17 | ||
towaさんちわぁ。 > >4000人いたイスラエル国籍のユダヤ人二重国籍米国人が1人もいなかった事実 これは今確認できました。この該当箇所は引用元が出ておりません。れんだいこの地文であるようなないようなはっきりしません。今となっては分かりません。申し訳ないことですが、そういうことです。 2011.2.5日 れんだいこ |
返信 | Re:4000人いたイスラエル国籍のユダヤ人二重国籍米国人が1人もいなかった? | れんだいこ | 2011/02/06 00:25 | ||
towaさんちわぁ。今ネット検索で確認しましたら、この文言はあちこちで出ております。「4000人いたイスラエル国籍のユダヤ人二重国籍米国人が1人もいなかった事実」で捜すと、いろんなところにありました。れんだいこが、どこから引いたのかは分からなくなっております。それで一体、何が問題なのかが分かりません。 2011.2.5日 れんだいこ |
返信 | Re::れんだいこのカンテラ時評901 | れんだいこ | 2011/02/06 17:02 | ||
【日共の重大な規約改悪史考その1、宮顕時代の規約改悪考】 2011.2.4日、政治資金オンブズマンなる団体が小沢一郎氏と平野貞夫氏を政治資金規正法違反で告発した。「この事案は日本共産党が機関紙赤旗などで吹聴していたことから、同団体は共産党シンパの学者、弁護士らからなる徒党と思われる」、「(政治資金オンブズマンの代表的メンバーの一人と思われる)上脇博之氏は日本共産党と密接な憲法学者です。シンパあるいは党員学者かもしれません。日共の機関誌前衛にも堂々と登場します」とある。 ならばと、れんだいこがお返ししておく。日共が小沢どんの政治訴追を云えば宮顕問題はどうするんだとお返しする。小沢どんの政治とカネ問題をつつけば、これから述べるようにお前の党は云える柄かよとやり返すことにする。 さて、本題に入る。知らない者の為に説明しておく。一口に共産党と云っても、戦前来から戦前直後までの共産党と現在の共産党はまるで違う。理論も行動様式も感性もまるで違う。故に、現在の共産党は「日共」と蔑称的に識別されている。 どういうことかと云うと、共産党は、1955年の六全協で、戦後の共産党運動を曲がりなりにも善導していた徳球-伊藤律系党中央から最悪の野坂-宮顕党中央への宮廷革命が行われ、以来2011年の今日まで延々55年余、同一系執行部が続いている。この同一系執行部の55年余の継続は、日本政党史上不倒の記録を刻んでいる。世界的に見ても珍しいかもしれない。 その党が正成長しているのならともかくも長期低落傾向にある。こういう場合、自民党その他政党では執行部の責任が問われ執行部の有為転変を常とする。だが日共だけは例外の栄誉に浴している。こうしたことが可能なのは、れんだいこの判ずるところ、日共が戦前の治安維持法並みの党内統制を敷き、これに成功しているからであるとしか考えられない。しかしこうなると、反体制で始発した共産党が最も保守的体制的と云うことになる。これはお笑いではなかろうか。 戦後の日本共産党の規約がいつ頃どういう内容で作られたのかがそもそもはっきりしないが、徳球-伊藤律系党中央の下で常識的な内容で作成されていたことは疑いない。これが、六全協に立ち現われる宮顕独裁下で次々と改悪されて行った。 これを確認しておくと、まずそれまでは党大会選出事案の統制委員会と監査委員会のメンバー選出が中央委員会任命制にされている。チェックされる側が都合の良い委員を選出しチェックさせることになるが、これではロクなチェックにはならないのは当たり前である。統制委員会が党中央の云いなりの機関になり、監査委員会がお手盛りの形式的な審査になったことを意味する。しかし、こういうことって許されるだろうか。それこそ機関民主主義上の由々しき反動化ではないだろうか。 次に、中央委員、准中央委員の評議権、決議権、代議員権が恣意化され、「代議員に選ばれていない中央委員、准中央委員は評議権を持つが決議権をもたない」ことにされた。これは党内反対派に対する締め出し策として編み出された。後に、中央委員、准中央委員が粗製乱造されて行くことになる。 次に、党大会での党内反対派中央委員の発言を封じ込める為に、質問の事前届出制なるものを編み出した。これにより質問が事前にチェックされ、場合によっては発言ができないよう締めだすことができるようになった。徳球時代には対案が提出されることもあったが、宮顕時代になると押しつけの決議案を満場一致で採択する一枚岩儀式の場にされてしまった。 次に、中央委員が粗製乱造されたことにより、その上部機関として中央委員会幹部会、更にその上に常任幹部会が設けられというように屋上屋を重ねることになった。これにより、党大会がますます形骸化されて行くことになった。そうしておいて議長制がつくられ、規約上の地位の不明確化により権限乱用が立ち現われることになった。党大会で規約にない「議長の冒頭発言」が登場するようになり、有無を言わせぬ圧力となった。その他、党大会や中央委員会総会の開催時期や方法を廻って幹部会の恣意的な指示通りに開催運営されることになった。 他にもあるが問題はこういう改訂史が明らかにされていないことである。日共は政府の公文書公開を云うが、それを云うなら手前の党の公文書も同様に公開すべきではないのか。幹部会でどういう質疑が行われているのか、徳球系時代のそれはかなり公開されているが、宮顕時代になってからは全くの秘密のヴェールに包まれている。日共史は編纂されているが、史実偽造、ご都合解釈のオンパレードであり、党中央がいつでもどこでも正しいことを強弁するものでしかない。よって自己批判なるものない。こういう党史を読めば読むほど阿呆にされてしまうことになる。 手前の党をこういう風に運営しておきながら、世間に向かって民主主義を護れだとか、変な言い回しだが我こそが本物の野党だとか、戦前来の唯一の正義の党なる宣伝をするのは、政治サギではなかろうか。 2011.2.6日 れんだいこ拝 |
返信 | Re::れんだいこのカンテラ時評902 | れんだいこ | 2011/02/06 17:05 | ||
【日共の重大な規約改悪史考その2、監査委員会の規約改悪考】 もとへ。このうちの最悪改訂が1の「統制委員会と監査委員会が党大会選出から中央委員会による任命制」への移行と思われるので、この過程を確認しておく。 1966年の第10回党大会で、それまでの中央統制監査委員会を中央監査委員会と中央統制委員会に二分割し、中央監査委員会を党大会選出、中央統制委員会を中央委員会の任命とした。これにより、統制委員会委員が中央委員会任命制に規約改定された。 1973年の第12回党大会で、続いて中央監査委員会も中央委員会の下に置く」ことが決議された。これにより、第10回大会に於ける統制委員会の任命制に続いて監査委員会も中央委員会任命制となった。津田道夫氏の「思想課題としての日本共産党批判」は次のように述べている。 「まず10回大会は、それまでの中央統制監査委員会を中央監査委員会と中央統制委員会に二分割し、中央監査委員会はこれを大会選出、中央統制委員会は、これを中央委員会の任命としたのである。これで、中央機関の構成法にかかわる第7回大会規約の民主的規定は、その大半が崩されるところとなった。そして、今回の第12回大会は、右のように分割された中央監査委員会をも大会選出ではなく、中央委員会任命としてしまった。何の事はない、中央委員会は、自分の任命した中央監査委員会の監査を受けるということになってしまったわけである」。 更なる党中央による党私物化の流れと見ることができる。これを例えれば、党大会が国会、党中央委員会が内閣に当たり、これまで国会で審議質疑されていたものを内閣権限に移すと云うものであろう。今でいう官邸政治の先走りと思えばよい。こういう改悪を平然と居直ったまま、他党のあれこれ国政のあれこれに民主主義や道理や道義的責任を説いて得々としているのが日共である。 その日共の経理は本当に大丈夫なのだろうか。誰も関心を持たぬまま戦前来の唯一のホンマものの正義の党としての日共観が吹聴されている。その日共が最も激しく政権保守ハト派系譜の田中角栄、鈴木宗男、小沢一郎の政治訴追運動に執心している。タカ派系に対する批判もするが決まってトーンダウンしている。あるいは時に是々非々を云う。 ところで、れんだいこは日頃訝(いぶか)ることがある。日共は各地の選挙戦で当選させる意思もないのに立候補させ供託金没収を続けている。公明党の全員当選戦略戦術と鮮やかな対比を為している。ところで、供託金没収は経営でみれば純利からの負担である。これは経理上かなりのボディブローになる筈のものである。それを長年にわたって飽くことなく、いともたやすく負担し得ている日共の経理が不思議でならない。誰か精査してみてほしい。常識では考えられない。 こういうところを審査するのが監査委員会であろうが、本当にチェックしているのだろうか。話を元に戻せば、会計監査法なるものがあるであろうが、部内チェックなる会計監査の手法が許されることだろうか。この辺りは公認会計士に聞いてみたい。 党内の姿を党外に広めるのが良い作法とすれば、日共式監査法を議院内閣制に当てはめた時にはどうなるのだろうか。国家予算は政権党の思いのままに使われ、官房機密費なぞ使い放題の実質ノーチェックと云うことになるのではなかろうか。そういう恐ろしい仕掛けにしているのが日共式監査法であると云うことになる。れんだいこは会計法に詳しくはないが、これぐらいのことは分かる。 最近気になる話が出ている。「地獄への階段」の2010.2.21日付けブログ「『組織対策費』3億5千万の使途不明 共産党に説明責任」が、日共の経理疑惑に対して情報発信している。これによれば、日共は、日共党本部、各都道府県委員会、地区委員会の経理報告に於いて、「組織対策費1件5万未満の支払は、収支報告に総額さえ記載すればよく、その裏づけとなる領収書や支払先を示す書類などの提出も不要である」のを悪利用して、匿名支出ばかりの会計報告となっていることを指摘している。1円まで明記する小沢式政治資金収支報告書を批判する日共の同報告書がこういう按配だと云うことになる。同ブログは、「『政党機密費』不透明な3億5千万の使途について説明責任を果たせ!」とコメントしている。 宮地健一氏が、「共産党問題、社会主義問題を考える」の「党員数と党費収入総額とのアンバランス疑惑」(ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/touhi.htm)は日共の経理疑惑にメスを入れて、「日共政治資金の収入分の総務省宛報告」がウソ報告であることを示唆している。宮地氏は、党費納入党員数減と党費収入減の相関関係を調査し異常さを嗅ぎつけている。 そもそも日共は正確な党員数、党費収入、機関紙収入について正確な発表をしておらず、ウソの虚偽報告している可能性が強い。今日の如くな合法主義活動に於いては特段の秘密性の必要が考えられない。にも拘わらず虚偽報告する裏には、正確な情報を開示すると党中央の無能力ぶりが明らかになり、責任問題が発生することを恐れての糊塗策としか考えられない。 捜せばまだまだあるが、もうこれぐらいの指摘で十分だろう。このような党が、小沢キード事件をかなり立て、政治的道義的責任をネチこく追及したり説明責任を要求する筆頭格で立ち働くのは不正極まる不祥事と云うべきではなかろうか。我々はそろそろ、そういう不祥事まみれの日共を政界スキャンダル暴露党として都合良く利用している背後の闇勢力に関心を向けるべきではなかろうか。この党は闇勢力に飼われている党でしかない。このことに気づくべきであろう。 関心は、こういう党にいつから変質したのかの考察に向かうべきである。決して偶然ではない。用意周到に党中央を簒奪したと読むべきであろう。残念ながら、この方面の研究は進んでいない。これについては別の機会に論じたい。というか、れんだいこは、サイトで十分に切開しているつもりであるが、見ようとしない者には見えず、読もうとしない者は読まずで、相変わらず昔ながらの「腐っても共産党」なる神話が通用している。れんたいこ解析が違うと云うのなら誰か弁じてみよ。れんだいこがいつでもお相手つかまつる。 2011.2.6日 れんだいこ拝 |
返信 | Re::れんだいこのカンテラ時評903 | れんだいこ | 2011/02/07 20:34 | ||
【2011.2.6日地方選挙考】 2011.2.6日、愛知県知事選と名古屋市長選、岩手県陸前高田市長選が行われた。これを確認しておく。 愛知県知事選は、農林水産省を経て、平成8年の衆議院選挙で自民党公認で初当選して以来、連続5回当選し、厚生労働副大臣などを歴任、元自民党県連会長の大村秀章(50、日本一愛知の会)氏が、自民推薦の重徳和彦、[民][社][国]推薦の御園慎一郎、 みんな公認の薬師寺道代、共産系の土井敏彦を寄せ付けず大差で圧勝した。 名古屋市長選は、元民主党衆議院議員、前職の河村たかし(62、減税日本公認)氏が、過去最多得票だった前回(09年4月)の約51万票を約15万票上回り再選された。こちらも圧勝だった。河村氏と木村氏は提携関係にあり、地域政党を立ち上げ大政党相手に見事に勝利したことになる。 民主党は、県内にある衆院の15選挙区を独占する民主王国地域で惨敗したことになるが、深手を負ったことにまたしても居直っている。こういう性悪粗脳に国政を任しておいて良い訳がなかろう。石井一も老域の往生際が悪過ぎる。 岩手県陸前高田市長選は、民主党の小沢一郎元代表のいわば「お膝元」であり且つ自民と共産が前回に続いて共闘する相手との戦いで注目されていた。結果は、自共が応援する前副市長の戸羽太(46)氏が、民主推薦の前県議の菅原一敏(66)氏を小差で破った。共産党機関紙赤旗は、自共共闘に一言も触れぬまま勝利を称えている。 興味深いことが記されているので確認しておく。陸前高田市のホームページ(HP)の開票速報に一時、候補者の順位、得票数などが誤って表示されるトラブルが起きた。市選管は「正確な情報を入力したが、システム上の問題で発生したと考えられる。原因は調査中」と話している。市選管などによると、HPに表示された開票速報(午後8時55分現在)で、候補者2人の順位を逆に表示。得票数も落選した候補が9800票、当選した候補が7300票と記載された。開票率も実際には83%だったにもかかわらず、99%と誤っていた。間もなく得票数は訂正されたが、順位、開票率の混乱は少なくとも10分以上続いた。市選管は「このような混乱を招き、大変な迷惑を掛けた。申し訳ありません」と陳謝した。 「市のHP「順位・得票数」を誤表示 陸前高田市長選」(ttp://www.kahoku.co.jp/news/2011/02/20110207t31022.htm) 高田市長選に一言しておく。共産党は、手前の支持する候補者が当選するのを称えるのは良い。しかしながら、「前回選挙と同じく自民、共産両党系の市議らが異例のタッグを組んで応援した」ことをなぜ伝えないのか。顧みて恥じることがなければ堂々とすれば良かろうに。れんだいこは、こういう姑息さが我慢ならない。 もう一言しておく。危機になればなるほど真相が現れると云う。自共共闘がそれで、平素対立しているように見えるが、反小沢の為には自ずと気脈通じていることを露わにせざるを得なかったのではなかろうか。もっとはっきりさせれば、共産党は自民党内のハト派系を叩き、タカ派即ちシオニスタンと裏提携している。ここがヒドイ。こういう目で見れば何かと見えてくることがあろう。 2011.2.7日 れんだいこ拝 |
返信 | Re::れんだいこのカンテラ時評904 | れんだいこ | 2011/02/11 21:43 | ||
【菅首相の小沢どん離党勧告なる首相権限の軽挙妄動は総辞職に値する】 2011.2.10日、菅首相は、小沢どんを首相官邸に呼びつけ、約50分にわたって二者会談した。菅首相は、小沢どんに対し、「政倫審出席と、裁判が済むまで党を離れてくれないか」と述べ、公判終了までの自発的な離党を求めた。 小沢どんは、「私が党を離れるとか、何かの形で処分するとかいう声が党の多数なら仕方ないが、健全な政党政治と民主主義の上で妥当でなく、よろしくない」の述べ拒否した。結論として、「現状のまま活動しようという結論に至った」とのことである。 れんだいこは、菅首相のこたびの離党勧告折衝が、首相権限論から見て脱法の軽挙妄動と看做し、このことだけで総辞職に値すると考える。以下、論証する。 この経緯全体に菅首相の粗脳ぶりが見える。一体、菅首相は、法治国家における権能論について分別がなさ過ぎるのではなかろうか。首相は、なるほど一国の最高権力者としての地位にあるが、それは何をしても良いと云う全能権力が与えられているのではない。あくまで法治主義上の首相権限であり、その限りでの最高権力者である。 これを端的に云えば、憲法上は明文規定はないのだけれども、最も包括的に見れば閣僚登用権(閣僚の任用、罷免、指揮監督権)、政策権(政策指針権、広布権、議決誘導権)、財政権(予算起案、運用権)の三種から構成されているものと思われる。かって、ロッキード事件で問われたのは大臣指揮監督権の内実であった。これ対する確定的な法理はまだない。即ち多義的に解釈されており異論、議論の余地が多い。 それは良いとして、菅首相のこたびの小沢どんに対する離党勧告要請は、上記の首相権限の範疇にない新種のものである。つまり、従来の首相が為さなかった聖域に踏み込み、采配していることになる。考えてみれば、首相が個々の議員の処分に逐一干渉し得るとしたら恐ろしいことではなかろうか。機関民主主義上は、これは首相権限ではなく、党員審査会辺りが任を負うべき事案ではなかろうか。それも、処分される側の抗弁権が保障された上で成り立つ。 そういう分別があるべきところ、菅は、首相ならば何でもできるのだとカン違いして首相棒を振り回していることになる。これは子供の世界にありがちな、お山の大将式暴力に過ぎない。 つまり、「2011.2.10日、菅首相の対小沢離党勧告会談」は、菅首相の罷免に値する、即ち内閣総辞職に値する軽挙妄動だったのではなかろうか。これに特段の違和感が唱えられていないが、今からでも遅くない、国会は菅首相の首相権限を廻って質疑すべきである。 首相権限には明文規定はないのだから理論的には許容論も有り得る。但し、その際には、今までの首相がかような珍奇な棒を振り回さなかったところ、何故に菅は振り回すのか、かような棒の振り回しが何故に新たに認められるのかにつき整合的な理論を創造せねばならぬ。 ここの分別を曖昧にしたまま、読売社説の如く、産経社説の如く、その他その他の社説の如く、首相権限振り回せ論に乗って棒を振り回すのは首相小児病に犯されているのではなかろうか。これを許す社会全体がお笑いのピエロ政治をしているのではなろうか。 2011.2.11日 れんだいこ拝 |
返信 | 奇怪な書き込み | こうもり | 2011/02/13 13:12 | ||
このところ、英語の奇怪な交信が増えましたな。気味の悪いことです。 どういう連中がかかわっているのか? 交信内容は何であるのか? そんなことに興味を持つと何がしかの脅しをふくむ危害に晒されるのか? 2533なぞは、読みようによっては、「テメーのことはきっちり覚えておくかんな」といった脅しにも取れる。 管理人さんは、こうした書き込みを削除したほうがよろしいのではなかろうか?こうしたものを削除してもわれわれは、言論封殺とは思わない。 |
返信 | Re:奇怪な書き込み | れんだいこ | 2011/02/13 21:31 | ||
こうもりさんちわぁ。ご心配有難う。れんだいこ掲示板には次から次と奇怪な書き込みが登場しております。確かに気味が悪いです。冗談なら良いのですが、例の秘密結社の鉄の意志のご宣託だと考えると、れんだいこの命も危ないということになるのかな。 > 管理人さんは、こうした書き込みを削除したほうがよろしいのではなかろうか?こうしたものを削除してもわれわれは、言論封殺とは思わない。 有難う。問題は削除キーを失念しており、まぁいいか証拠にもなるし、そのうち退散してくれるだろうとか思いながら今日まで来ております。しかし、それにしても手を代え品を代え執拗ではあります。歴史に命を晒しているつもりでおります。 2011.2.13日 れんだいこ拝 |
返信 | Re::れんだいこのカンテラ時評905 | れんだいこ | 2011/02/13 21:34 | ||
【最澄と空海ライバル論】 ごく最近の過日、れんだいこは久しぶりに比叡山へ向かった。相棒が行ったことがないと云うので連れて行ったに過ぎないのだが導かれたのかも知れない。30年近くもなる昔の記憶が当てにならず見るもの初めての感があった。釈迦堂へ行く山道には雪が積っておりなかなかの風情だった。親鸞修行の庵なる表示があり、こういうところで修行していたのかと改めて感慨した。詣でた印象が強いうちに閃いた「最澄と空海ライバル論」をれんだいこ式に綴っておくことにする。当然ブログ公開する。 歴史は時に空前のライバルを立たせ、両者の奮戦によって時代の歯車を回させると云う味なことをする。これはどこの世界にも見られる現象である。戦記物では川中島の合戦を廻る「武田信玄対上杉謙信」が知られている。「織田信長、豊臣秀吉、徳川家康」などもこの範疇に入るだろう。政界の近いところでは「田中角栄対中曽根康弘」、「小沢一郎対小泉純一郎」などが値する。幕末維新の「西郷隆盛対大久保利通」、「坂本竜馬対高杉晋作」も興趣が湧く。 スポーツ界の野球では「長嶋茂雄対王貞治」、「松井対一郎」。相撲界では「栃錦対若乃花」、「大鵬対柏戸」、もう少し見たかった「朝青龍対白鳳」。産業界も然りで、人物論ではないがスーパーマーケットの「ダイエー対イト―ヨーカドー」、ビール業界の「キリン対アサヒ」等々もライバル物語だろう。パソコンの世界でもあるのだろう。 宗教界では「最澄と空海」、「親鸞対日蓮」がその最たる例であろう。ここでは「最澄と空海」を問うことにする。司馬遼太郎の「空海の風景」、五木寛之の「百寺巡礼」などによると、「きちんとした密教を学んで身につけたのは空海であって、実際、最澄は空海に教えを乞うている」云々と述べ、空海に軍配を挙げる傾向が強いようである。れんだいこはこの説を採らない。その理由を記す。 いわゆるどこに目をつけるかと云うことになるが、「天台宗開祖・最澄(比叡山延暦寺)」対「真言宗開祖・空海(高野山金剛峯寺)」は同時代の比類なき能力者であると同時に、共に当時の政治経済文化の中心地だった唐に出向き、最先端の学問を仕入れて無事帰国している。命懸けの航海であったことを思えば強運の持ち主と云うことでも共通している。その後の二人は、「超秀才肌で飽くことのない理論探求派の最澄、天才肌で教学のみならず多彩な分野で活躍する空海」と云う違いを際立たせつつそれぞれに活躍している。 密教に於ける真密性を問うのは今となっては無益だろう。この点では五分と看做したい。空海が難解な古代インド語であるサンスクリット語をすぐさま習得し、密教教典や曼荼羅思想を得たのは功績として認める。但し、れんだいこ的には、空海密教を学ぶ為に序列上位の最澄が辞を低くして下位の空海に頭を下げたことにシンパシーを感じる。誰にでもできる芸当ではない。いずれにしても、平安時代初期のこの二大巨人によって、後々の日本の仏教が大きく形作られて行ったことには相違ない。修験道の役行者(えんのぎょうじゃ)以来の、日本宗教界のスーパースターであることは疑いない。 両者を活動域で見て行くと、「弘法も筆の誤り」という諺を残すほどの書の達人ぶり、四国八十八カ所巡り、温泉等々の「ゆかりの地」の多さでは断然、空海が勝る。手芸種智院、満濃池の治水工事、鉱山開発等々、空海の天才的な万能選手としての活躍ぶりに目を見張らざるを得ない。そういう意味で、空海が勝るとした「司馬遼太郎の『空海の風景』、五木寛之の『百寺巡礼』」の勝ち名乗り軍配が間違っている訳ではない。 しかし、それは表層的な見方ではなかろうか。れんだいこは、これが云いたい訳である。個人的な活動域の広さでは確かに空海が最澄に勝る。しかし、歴史的な活動域と云う視点から眺めた場合どうなるか。別の姿が見えて来る。れんだいこは、天台宗本山の比叡山修行から融通念仏宗の良忍、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮、時宗の一遍が生まれたことを重視する。 宗祖を多く輩出したのは、比叡山が高野山に比べて当時の都である京都に近かっただけではないのではなかろうか。天台教学に濃厚な理詰め傾向、且つその理詰めが開放的な未完の構造になっていたことが修行に自由自主自律性を与え、そのことが天台教学からの出藍を促したのではなかろうか。 それは、最澄式天台教学が発酵せしめた技であり即ち天台教学のしからしめた賜物だったのではなかろうかと窺う。こう理解するとき、れんだいこは最澄の方に軍配を挙げたいとさえ思う。これは何も宗教学にだけ当て嵌まる話でない、政治思想その他全般に通用するのではなかろうか。 こう見てくると、正確には痛み分けで両者に勝ち名乗りさせたい。空海も捨てがたい。れんだいこは別に空海が嫌いな訳ではない。その天才ぶりを畏敬する一人である。だがしかし、最澄教理の開放型未完教説の効能を称えたい。これを逆に云えば、空海教理は自己充足的完結型教説になっているのではなかろうか。これは長所でもあり短所でもあるのではなかろうか。空海教理をいかほども知らないので、これぐらいに止めておく。 もう一つの基準は、当人の活動がその後の歴史にどういう役割を果たしたのかであろう。開教した活動を自身がどう隆盛させたのか停滞させたのか衰微させたのか。その弟子達がどう隆盛させたのか停滞させたのか衰微させたのか。こういう歴史スペクトルプリズムの観点から見て行く必要もあろう。この点では、両者は両者の味を出しながら共に貢献し歴史に大きな影響を与えている。ここがすばらしい。これも何も宗教運動にだけ当て嵌まる話でない、政治運動その他全般に通用するのではなかろうか。 最後に。両者を褒めるべき次の基準も必要であろう。日本宗教史では、西欧宗教史の如く血で血を争う例はない。あっても極端に少ない。互いが大人の分別で自らを御しながら相互に住み分け式に暗闘している。この和合手打ちぶりがすばらしいと思う。実に、最澄と空海は、この伝統的な日本式和合手打ちぶりを弁えつつ相互に突っ張ったライバル履歴を残している。褒めるべき称えるべき大事にしたい大人の芸当ではなかろうか。 2011.2.13日 れんだいこ拝 |
返信 | Re::れんだいこのカンテラ時評906 | れんだいこ | 2011/02/16 21:38 | ||
【大田龍の時事評論を読みなおそう】 転向左翼にして且つ革命的理論を営為し続けた稀代の革命浪人、晩年は専ら国際金融資本帝国主義の姦計を警鐘乱打し続けた太田龍・氏が逝ったのは2009.5.19日、まもなく2年になろうとしている。太田龍ありせば今日の国内外の政治事象を快刀乱麻に解析しているであろうが、これを後継する者なく今となっては寂しい限りである。 そうい思いに捉われてであろうふと在りし日々の時事寸評を確認したくなった。余人にはマネのできない、あの小刻みの簡潔文体にして、歯切れのよい論旨明快な、珠玉の名言集でもあるディリー時評が懐かしい。もう一度あの謦咳に耳を傾けてみたい。 時に激烈過ぎることもあった。特に同様の言及をしていると思われる論客に対する偽物と本物の仕分けが厳しかった。この辺りは太田龍的態度を良しとすべきか太田龍氏の性分の為せる技として受け止めるべきか今も分からない。この辺りはれんだいこなりに判断するしかない。この面を除けば教えられることばかりであった。 特に、ネオシオニズムに対する系統的且つ歴史的批判の質の高さは他の論者の追随を許さないものがあった。中でも「シオンの議定書」を刊行したのは大いなる功績であろう。その他西欧の反ネオシオニズム系思想家の著作を次々と翻訳刊行し、我々の耳目を洗ってくれた。大田龍が切り開いたこの方面の事業が今止まっているように思える。日本の現代思想水準の頭脳がすっぽり落ちてしまっている感がある。 大田龍は返す刀で日本思想の称揚に向かった。それは戦前の皇国史観とは別物であり、天皇制以前のいわば縄文的思想の再発見であり、その思想水準の高さを賞賛し、現代世界における日本の世界史的使命を語るものでもあった。その為に、あらゆる角度から純日本的な思想、制度、社会形態を探ろうとしていた。幕末維新から明治維新過程での偽造的歴史を告発し、この時点での歪みから直さねば日本の再生はないと指摘していた。その他その他尽きるところのない思想源泉生み出しつつあった。寿命との相談であるから欲は言えないが、あたら惜しい逝去であった。 啓発されるばかりの太田龍史観ではあったが、個々の分析では、特に古代史に於ける見方では、れんだいこ史観と違う面もある。この辺りは、太田氏が生存中にすり合わせしておきたかったところである。それは叶わなかった。一度、講演に出向き、二次会までお付き合いさせて貰い、面と向かって少々話させていただいた、あのひと時が懐かしい。印象としての太田氏の風貌は学者風でもなく政治家風でもなく熱血漢的革命家でもなかった。れんだいこには物静かな思想家のように思えた。但し、物静かなのは口調だけであり、云っている論旨は透徹した歴史偽造批判の真言であった。その言説は今も朽ちない。否むしろもっと学ぶべき光芒を放ち続けていると思う。 れんだいこは今頃になって、太田龍・氏の時事評論が恋しくなった。そこで大田龍ホームページを訪ねてみたが、逝去通知のまま棚晒しにされている。 (ttp://www.pavc.ne.jp/~ryu/cgi-bin/jiji.cgi) 時事寸評をたぐってみたが一部しか開示されていない。しかも、ナンバーがアトランダムにされており、まことに読み難い。何のためにこういうことをするのかが分からない。いずれ誰かが出版するつもりでの細工なのかもしれない。ネット検索で探すと「白金掲示板ワード」がかなり拾っていることが分かった。 (ttp://soejima.to/boards/past.cgi?room=sirogane&mode=find&page=30&word=%C2%C0%C5%C4%CE%B6&cond=AND&view=30) しかし十分とは言い難い。ひょっとして意図的故意に押し込められているのかもしれない。 そういう訳で、れんだいこの反骨精神により、れんだいこなりに収集してみることにする。バックナンバー1からの全編をサイトアップしてみたいと思う。近々公刊されると云うのなら止めても良い。公刊される気配がないのなら、れんだいこが日の目を見せようと思う。何事も手遅れと云うことがある。今この時期に大田龍の警告を確認せねばならないと思う。太田龍の時事寸評をカンテラとして日本の再生方向を指針せしめておくべきだと信ずるからである。以下取り組むが、どなたかの協力を頼みたい。みんなで手分けして全文開示させたいと思う。 こういう場合、例によって著作権を主張されるのだろうか。しかしそれは、著作権なるものが、大田龍の謦咳を世に出さない為に機能していることを明らかにすることになろう。実際、著作権なるものは、著作権者の権利を守ると云うのは付け足しの理由で、実際には情報コントロールの道具に使われている。そのお目こぼしの下で、著作権料なるおこぼれが分配されているに過ぎない。こういうことを知る必要があろう。大田龍の例は、このことを鋭く突きつけている。 今日からぼちぼち手掛けることにしたが、今読み返してみて懐かしい。かの時に読んだ知的興奮が蘇る。思うに、太田龍は稀有な政治軍師だったのではなかろうか。軍師とは一般に合戦軍師を指すが、政治軍師なる存在もあるのではなかろうか。俗に知恵袋とも云うが、大田龍のそれは特定の誰かにぬかずくようなものではない。歴史そのものに仕えた使徒のような知性を感じる。れんだいこ一人では彼の代わりはできない、その意味で御意の同志と束になって仕えたいと思う。 「太田龍・氏のネオシオニズム研究」 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/hanyudayasyugico/nihonnokenkyushi/ootaryunokenkyuco/ootaryunokenkyuco.htm) 「大田龍の時事寸評」 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/hanyudayasyugico/nihonnokenkyushi/ootaryunokenkyuco/jijisunpyo/top.html) 「時事寸評年次版」 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/hanyudayasyugico/nihonnokenkyushi/ootaryunokenkyuco/jijisunpyo/nenji/top.html) 2011.02.16日 れんだいこ拝 |
返信 | Re::れんだいこのカンテラ時評907 | れんだいこ | 2011/02/18 12:10 | ||
【日共の執拗な証人喚問要請考】 2011.2.16日、日共が又もや小沢どんの証人喚問要請質疑を行った。17日付け赤旗によれば、「小沢氏喚問決断せよ 井上議員が首相を追及」とある。れんだいこは、日共が証人喚問を云うたびに、それを云うなら宮顕問題で日共を証人喚問すべしと切り返すことにしているので再度言及しておく。 日共の井上哲士議員は、小沢どんの証人喚問について菅首相自身が決断すべきだと求めている。これに対し、菅首相は、「国会のルールにのっとって議論されるものであり、(首相の)決断うんぬんの話とは若干性格が違う」と述べ、党の代表である自身が判断するにはなじまないとの認識を示した。このやり取りは菅の方が正しい。 国会議員の身分特権を国会が自ら放棄するような内部溶解をすべきではない。この自明のことが日共には分からない。首相権力を無制限に引き出そうとしているが、よしんば日共党内には通じても、国会にそのまま通じると考えるのはお門違いであろう。気にかかることは、日共はどうやら民主主義の根幹が分からないらしいことである。一見人聞きの良いことを云うが、その先を聞けば無責任且つ無制限の権力行使に道を開いている。いわゆるスターリニズムの道である。これを何とも思わない。どこか頭脳に欠損のある連中のように思われる。 それより何より、日共には証人喚問を云々する資格がない。そういう者に限って正義を声高にする世の倣いがあるが、この連中に漬ける何か良い薬がないものだろうか。日共に証人喚問云々する資格がない理由を確認する。 それは、日共が永らく宮顕を党の最高権力者に据えてきたことに起因している。宮顕とは、戦前共産党史上、不屈の再建運動過程にあった党を最後的に瓦解させた張本人である。党内スパイの摘発と云う美名の下に、最後の労働者畑系中央委員であった小畑を査問テロにより致死せしめている。直接の死因は、逃げ切りを図ろうとした小畑を査問派の4名で取り押さえ、なかんずく宮顕の柔道技での締めあげと押さえこみが決め手となっての圧殺死である。そういう意味で、宮顕は殺人犯下手人である。 こういうイカガワシイ履歴を持つ宮顕を擁護するのに、スパイ摘発闘争過程での不幸な出来事である故に、その責任を問うのは控えめにせねばならない云々論がある。しかし、れんだいこ事件解析によれば何と、査問された小畑のスパイ容疑は冤罪であり、査問した側の宮顕派の方がスパイであると云う結論になった。宮顕こそスパイの頭目である。こういう目で宮顕履歴を確認して行くと全てが符合する。 その宮顕は戦後出獄するや、大概の者なら戦前の殺人罪を悔いて蟄居するところ、いきなり「我こそが最後の中央委員であり委員長資格がある」として党中央代表の座を争っている。しかし、誰からも相手にされず、逸早く再建活動を始め衆望のあった徳球が委員長に就任した。 宮顕はこの徳球党中央に対する反党中央運動を画策し続ける。1949年時点で戦後革命が流産し、1950年初頭のスターリン論評をきっかけに党内に大混乱が発生するや、逸早くスターリン論評絶対忠誠論を打ち出し徳球系党中央を揺さぶった。徳球系党中央はレッドパージで北京亡命を余儀なくされ、朝鮮動乱発生と共に後方兵站基地となっている日本での撹乱的役割を要請され武装闘争に乗り出した。この間、共産党は大きく見て徳球派系と宮顕派系に分裂した。徳球派系の武装闘争が失敗した。 宮顕は、4年余の不幸な党分裂を解消せんとの要請機運に乗じ、1955年の六全協で党中央入りする。直後より各個撃破で反党中央派をパージして行き、遂に宮顕独裁と云われる長期安定政権を確立した。満場一致の一枚岩式統制が常態化する。後継として不破、その後継として志位が列なっているのは衆知の通りである。これが今日まで続く日共史である。 彼らは、宮顕が党内闘争を経て最高実力者となったのは党内事情であるとして外部からの干渉を許さないとする説を唱える。しかしながら、その宮顕が参議院議員として二期務め、それなりに活動させたとなると俄然そうは行かなくなる。日共の党的責任が伴うのは致し方あるまい。 これまでも何度かこの問題が取り上げられ、特にロッキード事件勃発直前頃、宮顕の証人喚問が必至の状況であった。ところが、ロッキード事件勃発により宮顕問題が掻き消され、以来不思議と音沙汰なく今日まで至っている。つまり宙に浮いたままになっている。そういう具合にある。 日共の党的責任が免れないのは、そういうイカガワシイ履歴を持つ宮顕を参議院議員にさせていたことだけにあるのではない。不破系党中央も志位系党中央もこの間一貫して宮顕弁明をそのままに繰り返し、宮顕を擁護し続けている姿勢にある。彼らは、事件は小畑のポックリ病死だと云いなし、その小畑の床下埋葬については何ら関知していないとウソぶき、そもそも小畑はスパイであったので摘発されるのは当然であると居直り、曰くつきの復権証明書を盾に「事件は解決済み」としていることにある。 しかしながら、れんだいこ解析ではっきりしたことは宮顕弁明、日共の宮顕弁明擁護姿勢の全てが怪しい。そういう意味で証人喚問必至の一級課題として今日なお立ち塞がっていると看做さざるを得ない。こういうのど仏のトゲをいただきながら日共が今日、小沢どんの秘書寮建設問題で、あるいはもっと広く政治とカネ問題で証人喚問を要請するのは、片手落ちと云うより卒倒すべき倒錯不正義以外の何物でもない。俗に、そういうことを云える口かよと云う。 本来、日共は証人喚問問題が発生するたびに息を潜めていなければならぬところ、何食わぬ顔して一番乗りで証人喚問を云い続けている。ロッキード事件の時もそうだった。この裏に何があるのかを疑惑せねばなるまい。れんだいこの推理は、日共はこの問題で揺すられ続けており、揺すり屋の御用聞きさせられていると読む。あるいは端から黒幕の御用聞きとして送り込まれている面も考えられる。 日共のアキレス腱は何も宮顕問題だけではなかろう、数多くの不祥事が当局の手に握られており、それが故にここ一番では必ず「左」から御用聞きさせられている。日共が、国際金融資本に飼いならされている保守系タカ派と気脈通じている現象は、これにより解ける。 要するにそういうことである。これを知れば、こたびの井上議員の小沢どん証人喚問要請の裏舞台の種と仕掛けが見えてこよう。我々は鼻じらめば良いのだが、問題は日共党員の態度である。いつまでこういう党中央に唯々諾々するのか、その忍耐と我慢の限界が問われているのではなかろうか。この問題が解けぬ限り、日共党員が世間に向かって正義ヅラするのは許されない。まず手前の党内問題を処理してから顔を洗って出直してこい、と云われるのがオチであろう。にも拘わらず魔女狩り一番乗りのやり手として立ち現われてくる。その不正を関知しない。ここに日共問題の深刻さがある。 2011.02.18日 れんだいこ拝 |
返信 | Re:二宮金次郎の精神 | れんだいこ | 2011/02/19 22:56 | ||
パルタさんちわぁ。「中曽根ら自民党や自民党化した民主党幹部、文部官僚ら」は要するに本来粗脳で、実学する能力がない。よしんば東大を出たにせよ、それは鵜呑み秀才であるに過ぎない。この鵜呑み秀才性がユダヤ式テキストにコロリといかれてしまっている。そういう景色だろうと思います。 彼らには、二宮金次郎や田中角栄の偉大さが分からない。仮に分かったとしてもジェラシーして足をひっぱるぐらいのことしかできない。仮に口先で褒めても、それだけのことで身に付かない。せいぜい道徳論にしてしまう。 > NHKの特集で長年日共系やマスコミから税金を食い潰す悪者として叩かれ続けてきた建設業者が > 実は災害復旧に必要な重機や人員、ノウハウを持っていたのだが、90年代末のゼネコン不況から > それらが経営難の為枯渇する事で市民の生活・経済が成り立たなくなっている事が報じられた。 > それ故私はこれまでのれんだいこ氏の論評を思い出して、その見識の高さを改めて評価させて頂いた次第です。 有難う。そういってくだされば本望です。くだんのテレビは見ておりませんが、日共系やマスコミは「中曽根ら自民党や自民党化した民主党幹部、文部官僚ら」よりもまだ粗脳なのです。だから、そういう連中の云うことの反対の方が正しいことが多い。これが経験的に云えると思います。 土木建設不動産について言及すれば、ホワイトカラー族が職業的に蔑視する風潮があるのがオカシイ。どんな商売も仕事も存在する理由があるから存在するわけです。むしろ、先生先生と云われながら文化的な仕事をしている者に役立たずが多い。それだけなら構わないが高給取りが多い。許せないことです。 考えてもみよ。あらゆる職業が補助金に支えられ、あるいは補助金狙いで動き始めている折柄、土木建設不動産はそういう特権のない裸勝負受注の世界です。みな健気に生きておりますよ。汚い仕事、力持ちの仕事、下積みの仕事を引き受けて、いろんな人が居りますから立派とまでは云いませんが、それはどこの世界でもあることで、比較的には分かりやすいタイプが多いのではないでせうか。この連中が理不尽にイジメられておりますね。 いろんな意味で日本の改造が必要です。改造では進まないのなら革命せねばなりません。要はどういう青写真でやるかです。これが問われている時、青写真不要論を唱える連中がいるから始末が悪い。ただただ氷嚢の世話になるばかりです。 20112.19日 れんだいこ拝 |
返信 | れんだいこさん、こんにちは | パルタ | 2011/02/20 16:19 | ||
産経・文春などのキリスト教右派・親シオニストは管内閣が倒れた後は 小渕・小泉時代のように彼らの日本改造テーゼを再び出すと思います。 2ちゃんねる・統一教会の思想とはナチス及びトゥーレ協会の人種差別思想を下敷にして、 アーリア人を日本人に、ユダヤ人を朝鮮人に変えたものでしょう。 恐らく統一教会は英国諜報機関がそうしたように、韓国では正反対の事を言っているはずです。 右派マスコミというよりマスコミ全体の方向性が、自民党や官僚の青写真とは左程変わりはない。 ただ、従来の歴史・道徳教科書に昔の偉人を水戸黄門の印籠のように載せる事で あたかも自分達もそういう事を考えているかのように見せる(実際の政策は全く別)上からのアプローチも、 学会と原理という新興宗教を使った横からのアプローチも、 更には2ちゃんねるやチャンネル桜、在特会を使った下からのアプローチも、 全て手は出尽くしているのであり、 最後は有権者に真正面から自分達の政策は正しいのだという事を主張せざるを得なくなっています。 無論、その政策の結果が全有権者に知れ渡った時には拒絶されるのは目に見えてます。 彼らのアジェンダは徹頭徹尾国際金融資本の利益に沿ったものであり、 その為に逆に強力な愛国主義・民族主義の押し出しが必要となるに過ぎないからですね。 彼らはどれほど純粋民族主義を掲げようと日米同盟第一にいきつくのであり、 主張するほどによからぬ国際金融資本のアジェンダが見えてくる。 |
返信 | Re:れんだいこさん、こんにちは | れんだいこ | 2011/02/20 22:42 | ||
パルタさんちわぁ。前段の下りは読むばかりですが、後半の > 彼らのアジェンダは徹頭徹尾国際金融資本の利益に沿ったものであり、 > その為に逆に強力な愛国主義・民族主義の押し出しが必要となるに過ぎないからですね。 > 彼らはどれほど純粋民族主義を掲げようと日米同盟第一にいきつくのであり、 > 主張するほどによからぬ国際金融資本のアジェンダが見えてくる。 このくだりがその通りですよね。今太田龍を読み直してますが、少なくともこの地平から認識を進めなければ何も見えなくなります。龍亡き今、みんなで継がなければなりません。太田龍の時事寸評出版されないのだろうか。れんだいこはサインペンで線を引くばかりです。値打ち本はやはりブックの方が良い。どこでも読めるし。 2011.2.20日 れんだいこ拝 |
返信 | Re::れんだいこのカンテラ時評908 | れんだいこ | 2011/02/23 19:53 | ||
【まだ云うか日共、それを云うなら】 日共が何回云っても聞かないで小沢どん攻撃するので、れんだいこがそのつど宮顕問題を蒸し返しておく。 2011.2.23日付け赤旗は、「小沢氏処分 お茶濁すのは許されない。市田氏会見 証人喚問が必要」なる見出しの記事を掲載している。これによれば、民主党執行部の小沢どん党員資格停止処分に対して、「それだけでお茶を濁すのなら真相隠し、疑惑隠しといわれても仕方がない」、「問われているのは国会の場で真相を究明し、政治的道義的責任を明らかにさせることだ」と述べ、「小沢どんの国会での証人喚問が必要」との党見解を改めて示したことになる。 れんだいこが返歌しておく。「日共が宮顕問題に対し、復権証明書だけでお茶を濁すのなら真相隠し、疑惑隠しといわれても仕方がない」、「問われているのは国会の場で真相を究明し、政治的道義的責任を明らかにさせることだ」、「日共に対し、宮顕問題での国会での証人喚問が必要」との見解を改めて対置しておく。 これは、日共の論法論理そのままを使っている。日共は、小沢どんに対しては証人喚問必要、宮顕問題に関しては不要論を弁明せねばならない。宮顕問題に関しての不要論を弁論せぬまま小沢どん証人喚問必要論を述べまくるのは許されない。 なぜなら、そったらことが通ると、我々は何をしても良い、同じことを他の者がすれば許さないとするまことに得手勝手論法になるからである。日共理論にはこういう恣意的なところが多々見られる。いくら志位が恣意に繫がるからと云って許されるものではない。 2011.02.23日 れんだいこ拝 |
返信 | Re::れんだいこのカンテラ時評909 | れんだいこ | 2011/02/24 20:06 | ||
【菅派、小沢派の懲りない面々考】 「菅派、小沢派の懲りない面々」についてリスト化しております。どこまで正確か分かりませんがご活用願います。ご意見賜ればどんどん゜書き加え書き直しいたします。政治家の政治行動、履歴につき、こういうチェックをしておかねば、連中の行動が軽卒になると考えおります。これをもとに各自がそれなりのものを作ればなおよいでせう。ここから日本版ツイッター革命が始まると思います。 「菅派、小沢派の懲りない面々考」 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/seitoron/minsyutoron/kanseikenco/ozawahaco.html) 2011.02.24日 れんだいこ拝 |
返信 | Re::れんだいこのカンテラ時評910 | れんだいこ | 2011/03/03 21:03 | ||
【馬弓良彦氏の「戦場の田中角栄」を評す】 元田中角栄番記者の馬弓良彦氏が、「戦場の田中角栄」(毎日ワンズ、2011.1.14日初版)を著わした。先の同じく角栄番記者であった増山榮太郎氏の「角栄伝説ー番記者が見た光と影」(出窓社、2005.10.20日初版)に遅れて5年半後に続いたことになる。本書を仮に「馬弓本」と命名したい。当時の角栄番記者の回想録をもっともっと著わして欲しいと思う。既に相当数鬼籍の者も居るだろう。健在の人士は、在りし日の角栄を歴史に遺しておくべきである。どこで役立つやら分からない。 今や虚像を膨らました上での角栄批判の時代が終わり、在りし日の真実の角栄像を確認し、角栄を再評価すべきである。せっかくの政権交代したものの相変わらずの政治のテイタラクを見せつけられている今、それ故に余計に角栄が懐かしい。 角栄の時代の日本政治には躍動感があった。対米従属ながら次第に自律せしめんとする「あすの日本」への胎動があった。その趨勢の総帥であった角栄が金脈批判、それに続くロッキード事件で政治活動を掣肘されるや、反作用として対米盲従派が政界を牛耳ることになり今日に至っている。この政治事象をそろそろ客観化すべきではなかろうか。 「増山本」の評の時にも述べたが、角栄についてはこれまであまたの著作が為されている。角栄ほどその見解が批判と擁護に分かれる人物は珍しい。れんだいこはおおかたの角栄本に目を通しているが、読めば観点が余計に歪んでくる本と為になる本がある。「増山本」は当然後者の有益本である。「馬弓本」も然りである。これがれんだいこの総評となる。 馬弓氏は、増山氏と同じく早大文学部卒である。増山氏が時事通信社の政治記者であったのに比して、馬弓氏は毎日新聞社の政治記者である。表紙カバーのプロフィールに「60年から政治部に所属し、自民党各政権を現場で取材。田中内閣発足時から番記者を担当し、その間『人間田中角栄』を著す。その後、編集局編集委員などを経て、取締役に就く」とある。 これによると増山氏の後輩のようである。れんだいこは更に一回り後輩の法学部卒である。早稲田には何でこう角栄シンパが生まれるのだろう。思うに、在野精神の為せる技ではなかろうか。権力におもねずの精神と頭脳が、角栄をそれとして評価し得るのではなかろうか。 増山氏は、添え書きで、「本書は、戦後政治の結晶として『総中流社会』をもたらし、巨悪論によって追われた田中政治を再検討・再評価するものです」、「私自身、長年の政治記者生活の総決算のつもりです」と記している。馬弓氏は、プロローグで次のように語っている。「戦後政界の風雲児である田中角栄元首相の生涯を描き、その政治家としての再評価を試みたいと思っている。(中略)テレビをはじめとするメディアには番組作りや企画に、政治家に対する相当な先入観が存在していて、むしろ虚実の距離は膨らむきらいがある。なかでも挙悪と決めつけられた田中角栄の実像と虚像のギャップは、とくに大きい。その乖離は、わが国政党政治の裏地の、見逃せない綻(ほころ)びである。政治家田中角栄を是とするか否とするかとは別の次元で、誰かがそれを繕うべきであろう。かって私が公にした『人間田中角栄』に、知り得て語らなかった真相のすべてを追加する必要があると思う」。 「増山本」は既成の角栄本と重複しないよう随所に有益な新証言、逸話を持ち込み、角栄研究本の新ページを切り開いたが、「馬弓本」これまた同様の知見を披露している。特に、幼年期、青年期、兵役期の角栄に他本に見られない光を当てており、流布されている証言、逸話に対しても真意を窺い、政治能力の検証に於いても吟味を深くしている。 著名は「戦場の田中角栄」とあるが、れんだいこなら「角栄ラブソディー」とでも命名したい。このネーミングの方が相応しい角栄愛歌論を開陳している。(ラブソディーのブはプのようである。どちらでも良いが、こういう言葉があるのかどうか知らないがラブと表記したい) 増山氏は、あとがきで、「おそらく田中氏のような天才政治家はこれまではもちろんのこと、これから二度と現われることはあるまいというのが、本書を書き終わっての私の結論である」と記している。「馬弓本」は次のように結んでいる。「私が見た田中角栄は、断固とした、そしていささか不逞の表情を見せる、得がたい闘士であった」。 見事なメッセージである。「増山本」の評の際に記したが繰り返しておく。「思えば、角栄と身近に接してその息遣いさえ知っている者ほど好意的且つ信奉的であり、角栄の人となりが偲ばれる。佐藤昭子女史の『私の田中角栄日記』、辻和子女史の『熱情ー田中角栄をとりこにした芸者』は、角栄の裏表のない生き様をいずれも称えている。秘書早坂茂三は、角栄政治の何たるかを縷々語り続け、噛めばかむほど味があった好人物ぶりと政治能力の高さを評している」。 ところで、「増山本」の時にも指摘したが、願うらくは、「世界で最も成功した社会主義国ニッポン」を底上げした要職時代の角栄の逸話をもう少し詳しく聞かせて欲しかった。今や、この水準での角栄論を為さねば新たなページは開けないのではなかろうか。「馬弓本」は、それ以前の角栄論として一つのピリオッドを打ったのではなかろうか。そういう気がする。 「馬弓本」の「増山本」に対する前進として、「増山本」がロッキード事件に拘わらず角栄の政治能力を称揚するスタンスであったのに比して、「馬弓本」はロッキード事件の冤罪性を確固とさせているところにある。これをどうしても主張したかったようで最後にわざわざエビローグの章を設け、首相権限論を法理解剖しながら「田中角栄無罪論、常識外れのロッキード裁判、ロッキード事件の謎、闇将軍の逆襲、架空疑獄の真相」と題して検察の訴追理論の空疎性を難詰している。今後は、この「馬弓本」の観点が下敷きにされるべきであろう。 欲を言えば、角栄は単に冤罪であったのではなく、児玉-中曽根系の収賄を角栄に濡れ衣させられた節がある。今後は更にここを突いて行くべきではなかろうか。児玉-中曽根系のうち児玉は始末された。ならば無傷で守られた中曽根とは何者ぞと云うことになろう。この中曽根は後のグラマン事件、リクルート事件でも逃げ延び、大将軍の名声を博して今日に至っている。誰がこれを奇異に思わないだろうか。ロッキード事件の闇の本筋はここにある。分かり易く云えば、悪玉が守られ善玉が成敗されるこの不正を許せようかと云うことになる。 れんだいこは、「増山本」の評の際に次のように記した。「角栄は不幸なことにロッキード事件で虎バサミされ、以降その政治能力が羽交い絞め封殺された。右派と左派が奇しくも連衡し、日本政界から実に惜しい人物を訴追していった。今なおしたり顔して角栄批判に興じている手合いを見るが、食傷である」、「小泉名宰相論に興じるメディアの嬌態下の今、『増山本』の素顔の角栄論は貴重である。他の角栄番記者よ、今からでも遅くないそれぞれの実録角栄像を語り伝えて欲しい。『角栄は日本政治史上孤高の座を占めている』と判ずるれんだいこは、このことを強く願う」。この言は、今なお通用する。 「馬弓本」の「増山本」に対する後退局面も指摘しておきたい。「増山本」は角栄政治の左派性に光を当てていた。れんだいこは次のように評している。「『角栄政治の本質左派性即ち土着左派性の解明』はこれからもっとも急がれるところであり、ひょっとしてロッキード事件勃発の最深部の真相かも知れない。『増山本』は、ゴルバチョフ談話『世界で最も成功した社会主義国ニッポン』を紹介しながら、この方面への関心を誘っているところに良質さを見せている。この観点は、増山氏が実際に接していた当時には見えずして、今になって遠望して気づかされた角栄観なのではあるまいか」。この方面での「馬弓本」の記述は弱い。これは、馬弓氏の政治スタンスから来る限界であろう。 実は、れんだいこの角栄評は、これからの角栄論の課題である「角栄政治の本質左派性即ち土着左派性の解明」に於いて、「角栄政治の本質左派性」解析を既にスルーしている。スルーの意味は、「角栄政治の本質左派性」解析不要と云うのではない。「角栄政治の本質左派性」解析を経て、更に次の「角栄政治の土着左派性の解明」に向かっていると云うことである。従って、「角栄政治の本質左派性即ち土着左派性の解明」を正確に云いなおせば、「角栄政治の土着左派性の解明を経ての角栄政治の本質左派性の解明」と云うことになる。こういう段階に来ている。 この段階の角栄論は未だないので、れんだいこの独壇場になろう。「増山本」、「馬弓本」、「れんだいこ本」の三冊が揃って角栄復権三部作が完結するのではなかろうか。れんだいこは、そういう使命感を深くした。そういう意味で、「馬弓本」に御礼申し上げておく。以上、簡単ながら頼まれもせぬ「馬弓本」批評を献じさせていただく。今日は日がらが良いので、書きあげた今このままブログ投稿しておく。 2011.3.3日 れんだいこ拝 |
返信 | Re::れんだいこのカンテラ時評911 | れんだいこ | 2011/03/13 22:00 | ||
【原発政策の罠考】 れんだいこが原発問題になぜ関心を持つのか。一つは、「ウソで固めた安全神話」を白日の下に晒さねばならないからである。原子力放射線はいわゆる悪魔である。この悪魔は、降灰と海洋汚染と地下汚染の三種からなる。二種で分けるとすれば表出汚染と浸透汚染という仕分けになろう。いずれも非常に危険なものであり、人体は無論生態系全体の環境に取り返しのつかない履歴を残し蝕み続けることになる。 中でも最大の問題は、核最終廃棄物処理方法の杜撰さである。現在のところ地下に埋蔵する以外に方法がなく、缶詰にしたものを地中深くに格納するという原始的やり方で処理したつもりになっている。しかし何事も耐用年数がある。いずれ腐食し、更には地震による地殻変動に見舞われたらどうなるのか。原発推進科学者は、これに対する回答を持っていない。この状態のところへ、日々核最終廃棄物が量産されており、処分場候補地の選定が急がれている。こういう状態にある。 この杜撰さが核問題の最大のポイントであろう。核最終廃棄物に対して科学処理を持たないままでの原発推進は、愚行というより取り返しのつかない犯罪的であり、断じて許してはならない。にも拘らず、世界史的に見て山紫水明の稀有な国としての誉れを持つ日本は核先進国という名の核奴隷国にされており、予見される近未来、地下水汚染が必至の状態に至っている。 世間の関心は専らこの方面にある。それはそれで構わない。この方面の研究も必要であり、れんだいこには知識がないので、その道の識者、専門家に任せたい。学ばせていただくばかりである。れんだいこが関心を持つのはもう一つの批判である。原発政策が何ゆえに如何にもたらされたのかを疑惑せねばならない。思うに、原発は、ネオシオニズムの産みの親である現代パリサイ派が食らいついた悪魔主義科学の産物であり、原発推進政策は彼らの拝金蓄財の為せる技であり、低劣な知性を証している。のみならずひょっとして彼らの世界支配政策の道具として用意周到に利用されている恐れがあるのではなかろうか。れんだいこはそう危ぶむ。 今日地球環境破壊が世界的テーマになりつつあるが、この事態は如何にしてもたらされたのか。決して偶然であったり、諸科学の発達の必然的行程ではあるまい。世界の諸民族は或る宗派民族を除いて大概のところ地球環境との共生のうちに生息してきた。科学や産業もこの叡智の中で営まれてきた。特に我が日本はこれに長けている民族である。発酵文明と呼ばれるが、それは自然素材を上手に活かして調理するところに特徴がある。それが停滞性のものであれ漸進的なものであれ、世界の諸民族は概ね万事を自然環境と調和させつつ歴史を経ていた。考えてみれば、それで何らおかしくない。そうあるべきではなかったか。 ところが、かの宗派民族の偏執教義を更に先鋭化させ、偏狭さで塗り固めている現代パリサイ派が歴史に公然登場し始めてより、近代科学の成果を彼ら流の際限のない自然支配に応用し始めてより、進歩発展の名の下に公害を意に介さない無分別な工業に手を染め、その悪魔主義と営利主義が相乗して乱開発となり、遂に地球環境破壊まで辿り着いており、今日、地球崩壊カウントが数えられる事態にまで至っているのではないのか。 地球環境破壊は、自然と共生せず支配することしか知らない現代パリサイ派主義的科学とその資本主義がもたらしたものであり、彼らは未だにこの道を驀進中である。彼らの思惟は、地球環境に為すすべを持たない。なぜなら、拝金蓄財を全ての価値に優先させる作法を維持する限り、地球環境対策はそれをブレーキさせるものでしかないからである。地球環境対策に向かえば、忽ち彼らの根本テーゼが崩れる。イデオロギッシュな彼らは、最終的に拝金蓄財の道を選ぶ。そういう訳で、彼らは今日もゴールド飽くことなくを求めて世界を渉猟し続けている。 その昔、イエスが、神の御言葉をもって対峙し激しく論難したことはゆえないことではなかった。世界は明らかに、イエスが危惧した通りにサタニズムに犯されつつある。賢明なる諸民族は一刻も早くこの仕掛けに気づき、このワナから抜け出す方法を編み出さねばならない。 そういう目で見れば、れんだいこには、日本に於ける各地への原子力発電所の配置が米軍基地の配置とダブって映る。どうやら良からぬ目的で意図的に原発が導入された節が見えてくる。今や我が日本は原発奴隷国家に成り下がっている。こうなると、大和民族は外敵にやられる危険よりも、原発で崩壊させられる可能性が高いのではないのか。 政治が真っ当なら、北朝鮮のテポドンに狂騒するぐらいなら、それ以上に危険性の高い原発問題に対してはもっと大騒ぎして万全の策を講じるべきであろう。しかるに、その昔にネオシオニズムの傭兵的立ち回りをすることで出世権力を得る秘密契約を結んだタカ派系政治家は、今もなお原発推進旗振り役として忠勤している。正力-中曽根-ナベツネラインがこの水路を創った。以降日本列島にウラン網を仕掛け始め、今や十重二十重に囲もうとしている。これが許されることだろうか。 原発問題は、かような観点からも検証されねばならないのではなかろうか。先の柏崎原発事故から学ぶべきは、目先の対策を廻る鶴首会議ではない。我が国のエネルギー政策の根本的な問い直しを諮問すべきであり、そのマニュフェストを作成することである。原発と一刻も早く決別せよ。これがれんだいこ提言となる。 こう書きあげてそのままにしていたが、2011.3.11日、東北東域巨大震災が発生し、東京電力の福島第1原発、第2原発がもろに被害を受け、福島第1原発1号機が爆発、第1原発3号機が予断を許さない状況にある。日本原発史上、最も危ぶまれていたメルトダウン事態に突入しつつある。 よしんば爆発を防げても、この間排出し今後排出する放射能の汚染は日本及びその人民大衆に甚大な被害を与えることは間違いない。日本は第二の敗戦局面に入ることを覚悟せねばなるまい。この事態に、小泉以来の名うてのシオニスタンである菅政権が国政を与っていたいたことの偶然と必然は別途精査を要するであろう。 2007.7.23日、2011.3.13日再編集 れんだいこ拝 |
返信 | 三陸巨大震災 | れんだいこ | 2011/03/15 21:24 | ||
三陸巨大震災 2011.3.11日 この日を忘れまい 1000年に一度の大地震と津波 3万人が呑みこまれた 新たな災害が加わった 経験のない原発爆発 目に見えない汚染の恐怖 被災難民50万 埋まっている人がまだたくさんいる 仏よ成仏せよ 黙祷 命からがら助かった者よ暖を取れ 寒いだろう せつないだろう 生き抜けろ 言葉で食糧で絆で暖をとれ みんな見守っている どういう助け合いができるのか 苦吟している 起ちあがっている 時間との勝負だ 難民よ災い転じて福となせ 知恵を出せ 起ちあがれ 日本の新たな再建がここから始まる 世界に微笑みかけよう 力強く生きてますと 支援に感謝しよう お返ししますと 2011.3.11日 この日を忘れまい 即興歌です。苦しいときには歌が必要です。伴奏つけて歌ってください。歌詞はどんどん代えてください。歌い繋いでください。著作権はありません。 2011.3.15日 れんだいこ拝 |
返信 | Re::れんだいこのカンテラ時評913 | れんだいこ | 2011/03/17 20:50 | ||
【「天皇陛下の三陸巨大震災に寄せる御言葉」考】 2011(平成23).3.16日、天皇陛下が、三陸巨大震災の被災者や国民に向けたビデオメッセージを発表した。天皇陛下がビデオで国民に呼びかけるのは初めて。御言葉の全文は次の通り。 この度の東北地方太平洋沖地震は、マグニチュード9・0という例を見ない規模の巨大地震であり、被災地の悲惨な状況に深く心を痛めています。地震や津波による死者の数は日を追って増加し、犠牲者が何人になるのかも分かりません。一人でも多くの人の無事が確認されることを願っています。また、現在、原子力発電所の状況が予断を許さぬものであることを深く案じ、関係者の尽力により事態の更なる悪化が回避されることを切に願っています。 現在、国を挙げての救援活動が進められていますが、厳しい寒さの中で、多くの人々が、食糧、飲料水、燃料などの不足により、極めて苦しい避難生活を余儀なくされています。その速やかな救済のために全力を挙げることにより、被災者の状況が少しでも好転し、人々の復興への希望につながっていくことを心から願わずにはいられません。そして、何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています。 自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする国や地方自治体の人々、諸外国から救援のために来日した人々、国内のさまざまな救援組織に属する人々が、余震の続く危険な状況の中で、日夜救援活動を進めている努力に感謝し、その労を深くねぎらいたく思います。 今回、世界各国の元首から相次いでお見舞いの電報が届き、その多くに各国国民の気持ちが被災者とともにあるとの言葉が添えられていました。これを被災地の人々にお伝えします。海外においては、この深い悲しみの中で、日本人が、取り乱すことなく助け合い、秩序ある対応を示していることに触れた論調も多いと聞いています。これからも皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています。 被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、さまざまな形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体(からだ)を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者とともにそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています。 要旨を確認しておく。1・一人でも多くの人の救出、2・事態の更なる悪化の回避、3・食糧、飲料水、燃料などの調達による救済を要請している。次に、被災者の自力自活の姿勢を賛辞している。次に、自衛隊、警察、消防、海上保安庁等々の公務的挺身活動、諸外国の救援隊、国内のボランティア組織の労を謝辞している。次に、世界各国の元首からの見舞い電報に御礼している。最後に、日本国民の一億一心の復興を呼びかけている。 平成天皇のこの御言葉は素晴しい。この文章を平成天皇自身が書き上げたのか、ライターがいるのかどうかは分からない。しかし、一党一派に偏せず全体を満遍なく見渡し、それぞれの要点を明確にメッセージし、且つどういう方向に舵取りして行くべきか指針している点で申し分のないメッセージとなっている。我々は、この御言葉を噛みしめるべきである。尊く拝するべきであろう。 れんだいこがかって属した左派者の中には、天皇と云うだけで打倒対象、批判対象にしている者も少なくなかろう。しかし、れんだいこが反論しておく。天皇制は既成の左派理論では解けない。日本の歴史が育んだン千年来の制度であり、歴史財産であり、護持すべきものである。特に「上が下を思い、下が上を思う王朝楽土」を志向している点で出色のものとなっている。 諸外国の諸王朝にして、ここまで「上が下を思い、下が上を思う王朝楽土」を志向している例はないか少ないのではなかろうか。それらの王朝は、ネオシオニズム式西欧革命の中で次々と打倒され共和政治に移行した。或いはネオシオニズム勢力に籠絡され変調利用されて今日に至っている。その時勢下で、奇しくも日本の天皇制だけが辛くも維持されて今日に至っていると考えるべきではなかろうか。 今その皇室が危機に瀕しているいるのは衆知の通りである。これを安易に慶賀する者はネオシオニズムに籠絡された徒輩に過ぎない。そう考えるべきである。これを論証する機会は別稿に譲る。 興味深いことは、平成天皇は、明治天皇から始まる近代天皇制系譜の中で大正天皇に近いことである。世上では明治天皇、昭和天皇の評価が高く、それぞれ誕生日が祝日化されている。それに比して大正天皇は受難の天皇であり、大正天皇だけ記念祝日化されていない。それは何故か。 大正天皇は皇位継承後数年にして押し込められた。その理由は、当時のネオシオニズム勢力の仕掛ける好戦的な国家主義化に抵抗したからであった。それ故に脳病を理由に幽閉された。事実は、大正天皇は英明であり、英明である故にネオシオニズム勢力と確執した。これが真相である。この真相を隠して脳病論を吹聴したのが左右両翼の理論家どもであった。この虚構を剥がさねばならない。 れんだいこが見るところ、平成天皇は、この大正天皇に親和している。親和とは最も近いと云う意味である。その能力が大正天皇に及ぶかどうかは別の問題であるが、大正天皇が目指した天皇の在り方、皇室の在り方を継承しているように思える。それは象徴天皇制であり、たまたま戦後憲法の規定に合うものとなっている。天皇の国事行為がより少なくなれば、より理想に近いだろう。 そういう意味で、象徴天皇制は平成天皇をして初めて具現していると窺うべきだろう。日本悠久の歴史における皇室の主流は、この象徴天皇制である。してみれば、平成天皇の御代になって初めて本来の天皇制を確立している感がある。ここへ来て皇室の雲行きが怪しいとすれば、せっかく具現化した象徴天皇制が再度危機を迎えていると云うことになる。かく認識したいと思う。これを論証する機会は別稿に譲る。 日本の天皇制が今後どのように推移するのかは分からない。願うらくは、こたびの天皇談話のように国と人民に温かい眼差しを見せる適宜なメッセージを送り得る主体として存続して欲しい。れんだいこは、かくみなし受け止め、一億一心の呼びかけに仲間入りしたいと思う。 2011.3.17日 れんだいこ拝 |
返信 | Re:【「天皇陛下の三陸巨大震災に寄せる御言葉」考】 | 彼岸楼 | 2011/03/18 04:12 | ||
れんだいこさん、御無沙汰しております。 >平成天皇のこの御言葉は素晴しい。この文章を平成天皇自身が書き上げたのか、ライターがいるのかどうかは分からない。しかし、一党一派に偏せず全体を満遍なく見渡し、それぞれの要点を明確にメッセージし、且つどういう方向に舵取りして行くべきか指針している点で申し分のないメッセージとなっている。我々は、この御言葉を噛みしめるべきである。尊く拝するべきであろう。 (天皇の)Addressにライターが存在することなどは公然の秘密であり、またその殆どが天皇の発意かどうかさえも疑わしく、大抵は時節柄に敏い側近官僚の上申によるものと観る方が妥当ではないかと思い、私はスルーしたのですが、 “この文章を平成天皇自身が書き上げたのか、ライターがいるのかどうかは分からない。”と、天皇の発意によるものか否かについての論証を省いたまま、“平成天皇のこの御言葉は素晴しい。”と、賛辞を惜しまないれんだいこさんの真意を量りかねています。 今回の所作については、今日までれんだいこさんのスレをロムし、時折寄稿して来た者としては少なからざる違和感を懐かずにはいられません。今までの論考の様式そのものを全否定してしまうことにもなりかねないのではと思われ、暫し落胆させられたような、そんな心地になりました。 Auf wiedersehen. |
返信 | Re:Re:【「天皇陛下の三陸巨大震災に寄せる御言葉」考】 | れんだいこ | 2011/03/18 22:08 | ||
彼岸楼さんちわぁ。レスは有難う。但し以下少々手厳しいです。 彼岸楼さんの違和感が解せません。れんだいこは、平成天皇にライターが居ようが居まいが、この文意と文章の出来栄えがすばらしいと評価しております。それに対して、彼岸楼さんはライターの存在そのものに原理的な批判を向けているように思います。れんだいは、天皇自身によるものなのかライターの手になるものかに拘る必要を感じません。あくまで文章の内容勝負です。その出来が良いと称賛しております。内容勝負評価に問題があるとは思いません。 彼岸楼さんは、天皇の政治利用の可能性を危惧し、これを批判しようとしているのかも知れません。れんだいこは気にしません。天皇自身であれ、ライターであれ、政治利用であれ、メッセージの内容が問われるべきではないでせうか。内容がオカシナものであれば、内容と形式を共に批判しようと思います。そもそも「天皇の政治利用自体」を測ろうとしても仕切りがないので、先の大戦の時の昭和天皇のように、どこまでが天皇自身の主体性のものなのか、どこから先が政治利用の類なのか判定できません。 いわゆる形式と内容の問題なると考えます。通常は何事も内容を問題とすべきです。その内容に触れず形式問題を持ち出すのは如何かと思います。そう云う作法が流行っておりますが、れんだいこの採る手法ではありません。これがれんだいこの返答です。補足すれば、こたびのメッセージの裏に美智子妃殿下が居り、美智子妃殿下との共作だったとしても、ライター問題に拘りますか。 2011.3.18日 れんだいこ拝 |
返信 | それが初期のもの(スレ)ならば... | 彼岸楼 | 2011/03/19 04:40 | ||
れんだいこさん、レスを有り難うございます。 >いわゆる形式と内容の問題なると考えます。通常は何事も内容を問題とすべきです。その内容に触れず形式問題を持ち出すのは如何かと思います。そう云う作法が流行っておりますが、れんだいこの採る手法ではありません。これがれんだいこの返答です。 れんだこさんがこのサイト(掲示板)を立ち上げてから一体何年になるのでしょうか。考察や時評も或る程度の年限を経るならば、それが論考のコンテクスト(文脈=内容)の推移を示唆するような文体、すなわち一つの様式となって結実し得ると考えるのが常理であり、それはアジェンダを受け止める場合の私の流儀とも重なっています。 少なくともそのような観点に立っていたがためなのか、故意か否かに拘わらず論証を捨象した論考(?)にたいしては一種の想い込みに囚われたアジテーション以上の意味を見出すことが難しく、それが“違和感”となって私の意識(観念)上に表出して来たのではないかと想われます。 Auf wiedersehen. |
返信 | <補足>それが初期のもの(スレ)ならば... | 彼岸楼 | 2011/03/19 14:00 | ||
れんだいこさんへ、 >彼岸楼さんは、天皇の政治利用の可能性を危惧し、これを批判しようとしているのかも知れません。れんだいこは気にしません。天皇自身であれ、ライターであれ、政治利用であれ、メッセージの内容が問われるべきではないでせうか。内容がオカシナものであれば、内容と形式を共に批判しようと思います。そもそも「天皇の政治利用自体」を測ろうとしても仕切りがないので、先の大戦の時の昭和天皇のように、どこまでが天皇自身の主体性のものなのか、どこから先が政治利用の類なのか判定できません。 何故かかる言説が成立するかと云えば、或る“権威”を認容するクラスターの存在を抜きにして考えることはできないでしょう。その広汎な浸透化のためには、例えば恒常的に電極から電流が流れている必要があり、今回のAddressはその回路の一つでもあったわけです。 内容についてはさておき、今回の文章程度のものであれば、そこそこの規模の企業に勤務する総務部長クラスの人間ならばそつがなく書き上げてしまうのではないでしょうか。それは年次の取締役会や株主総会での経営計画書の緒論に窺うことができますし、私も草案の段階のものならば何度か手習いをさせられた憶えがあります。 Auf wiedersehen. |
返信 | Re:<補足>それが初期のもの(スレ)ならば... | れんだいこ | 2011/03/20 19:20 | ||
彼岸楼さんちわぁ。こたびの平成天皇のメッセージを駄文とみなすか共鳴するかは各自の受け取り方です。れんだいこは、満遍目配りにして言語丁寧簡潔、天皇の職責としての慈愛が伝わり高く評しました。この辺りは議論不要のところでせう。 天皇制論については別途論じたいと思います。一言しておきますと、れんだいこは、れんだいこなりの歴史論を経て天皇制護持論へ転換しております。この立場に立つことにより、孝明天皇暗殺以降の近代天皇制が如何に悪しき天皇制、国際金融資本に籠絡された変態天皇制であったのかを暴くことができるようになりました。これは近代右翼の天皇制論と大きく対立しております。 既に触れましたが、近代右翼は明治天皇、昭和天皇を高く評価し、大正天皇を押し込めたことを不敬と感じない勢力です。れんだいこは逆だとする観点を打ち立てております。平成天皇は大正天皇系譜とみなしていることも既に触れた通りです。こういう天皇制の内部における暗闘史をみることが必要と考えております。 実は、この暗闘史が日本史の底流にあり、今日に至っているとみなしております。そういう暗闘史があろうとも天皇制そのもの否認という見解は粗暴理論と考えております。考えてみると、マルクス主義と云うイズムそのものがかなり粗暴なのですね。れんだいこは、その粗暴面を修復できるものならしようと思っておりましたが、そういう試みよりも新理論創造の方が生産的と思うようになりました。 新理論では、日本式天皇制は民族固有の伝統であり、護持成育させて一向に構わない、国際金融資本派の世界侵略過程に於いては、むしろ国民統合の理念的存在として必要と考えております。問題は、各天皇の治績にこそあると考えております。平成天皇のこたびのメッセージは時宜に叶い、短文名文と評しております。以上コメントしておきます。 彼岸楼さんが再コメントいただく場合は、極力外語を使わず文意平明にお願いします。時に読み取れないところがあります。 2011.3.20日 れんだいこ拝 |
返信 | 外国語解説 | 彼岸楼 | 2011/03/21 08:12 | ||
れんだいこさんへ、 >実は、この暗闘史が日本史の底流にあり、今日に至っているとみなしております。そういう暗闘史があろうとも天皇制そのもの否認という見解は粗暴理論と考えております。考えてみると、マルクス主義と云うイズムそのものがかなり粗暴なのですね。れんだいこは、その粗暴面を修復できるものならしようと思っておりましたが、そういう試みよりも新理論創造の方が生産的と思うようになりました。 何やら骨組みがガタガタになっている襖の上に、そのまま重ねて襖紙を張り替えようとするような不始末の懸念がして仕方がないのですが、それはともかく、暗闘史の起源を探る論考の下地として、例えば橋本治著『双調平家物語ノートⅠ 権力の日本人』等をおさえておいていただければ、今後の対話を多少なりとも稔りあるものにすることができるかも知れません。尚、既読でありましたら、唯々己が不明を恥じるばかりです。 >彼岸楼さんが再コメントいただく場合は、極力外語を使わず文意平明にお願いします。時に読み取れないところがあります。 上記に関し、 ※Address【《米》大統領の教書、《英》元首の勅語奉答文、政治家のものならば一般的にはStatement(声明)】 ※コンテクスト[Context]【脈絡、文脈(=内容)としたのは内容が文脈の構成要素でもある故】 ※アジェンダ[Agenda]【協議事項、現代的には論旨若しくは趣旨】 ※アジテーション[Agitation]【煽動、撹乱】 以上は些か粗雑な解説になりますが、ご容赦のほどを。 Auf wiedersehen. |
返信 | Re:外国語解説 | れんだいこ | 2011/03/21 11:08 | ||
彼岸楼さんちわぁ。御教示により、橋本治著『双調平家物語ノートⅠ 権力の日本人』を購入手続きしました。どんなことが書かれているのか分かりませんが興味シンシンです。外語の解説有難う。Addressとアジェンダの件が特に参考になりました。 2011.3.21日 れんだいこ拝 |
返信 | Re::れんだいこのカンテラ時評914 | れんだいこ | 2011/03/24 13:40 | ||
【れんだいこの緊急提言「大疎開政策論」】 2011.3.11日午後2時46分頃、東北太平洋側の三陸沖を震源とする東日本一帯に巨大地震が発生した。気象庁は当初マグニチュード(M)8・8と発表したが、3.13日、9.0に修正した。地震は大津波を呼び、これにより岩手、宮城、福島の太平洋海岸域一帯が壊滅的な被害を受けた。 加えて福島第1原発、第2原発が小爆発炎上し、大量の放射能汚染を漏洩排出したまま現在に至っている。死者推定3万人以上、被災難民推定50万人に上る。こたびの地震の名称に混乱があるが、「2011三陸巨大震災」と命名すべきだろう。この対応を廻って、民主党菅政権の采配が智愚ぶりを見せており、混乱と第二次被害を一層助長させている。これに堪らず、れんだいこが緊急提言「大疎開政策論」を発表しておくことにする。 一般的に、平時には平時の、危機には危機の対応が要請されるのは云うまでもない。最初に確認せねばならないことは、こたびの非常事態に対する菅政権の采配が、このイロハについて今に至るまで識別できておらず、平時の法で万事処理しようとしているように思える拙さである。且つ、こたびの災害は史上初の原発事故が伴っているにも拘わらず、最悪の炉心溶融(メルト・ダウン)まで視野に入れた予見できる危機対応ができていない。 原発復旧に躍起になるものの被災民の難民化、安全地帯への避難対策につき小手先対応に終始しており、徒に避難可能日数を無駄にしている。総じて、被災対策と復興政策につき的確な見通しを持っておらず、大丈夫空言による鎮静化のみに傾注しており、何を為すべきかの有事対応ができていない。 加えて、この間強めてきた官邸主導政治が裏目に出ており、官邸の掛け声がなければ誰も何も処理できないと云う悪しき待機主義がはびこっている。従来、現場主導が先にあり、これを政府政治が支援することで難局を処してきた。菅派の政治はこれに逆行しており、中央集権化の挙句に中央が無能逆采配でお茶を濁し、ないしは采配サボタージュに明け暮れている。 更に加えて、この間災害時に次第に常用化されて来ている自衛隊の活用が貢献面と同時に規制強化面を露わにしてきており、民間的な支援活動を掣肘している負の面が窺えることである。これらが相まって、救援活動におっとり刀事態が露呈している。菅政府は10万人規模の大動員政策、続いて米軍支援を予定しているようだが、費用対効果が釣り合っているように思えない。 或る意味で、被災民50万人が棄民化させられようとしている。初動としての生存可能者の人命救助は無論のことであるが、同時に為すべきは被災民の生活救援活動である。こたびは広域災害の為に避難箇所が数千数に及んでいるが、逐一の確認と的確な補給活動につき明らかに遅れている。徐々に実態確認、支援活動が開始されつつあるが、一刻も争う緊急性にも拘わらず放置されたまま数日間を経緯するお粗末さを見せている。これが偶然ならまだしも、意図的故意な治安維持的観点からの救援法として悪しき事例にならないことを祈る。以上、素描しておく。 さて、事件発生から13日を経過した今、何を為すべきかで緊急提言しておく。れんだいこは、タイトルに記した通り大疎開政策を提起したい。先の大東亜戦争の際に同様の政策が採られていたが、こたびは温泉郷の活用を指針させたい。現在、各地方団体単位によるが公営住宅の空き室斡旋が行われつつあるが、それはそれとして進めれば良かろうが、この際の有能的対応としては、全国の温泉郷の復興を兼ねた温泉郷疎開政策を主とするべしと考えている。 衆知のように、温泉郷は日本の津々浦々に散在し癒しの場として利用されてきているが、このところの長期不況の波に洗われ、廃業旅館、空室の多い現業旅館が目立っている。この際、この社会資本を積極活用すべきだと提言したい。この動きは既に群馬県の水上温泉等を口火として全国的な民間の自主的な取り組みが始まっている。この動きを促進するのが政治の果たす役割であり、逆は逆であろう。 菅政府は現在、仮設住宅の大々的な建設を指令しているが疑義がある。こたびの復興は大規模広域被災、原発被災と云う特殊性に照らして早急な再建は難しいと知るべきではなかろうか。今後、都市計画、区画整理事業を要するかなり長期的な再建計画と経緯が予見される。してみれば、被災民に対して、故郷に残りたい者、移動困難な者は現地対応し、残りの者は疎開させるべきではなかろうか。その順序も乳幼児を抱えた母子、続いて子供、青年、老人、壮年と云う風に順序立てるべきではなかろうか。 その際、ライフライン基盤が既設してあり、且つ或る程度の規模で一括収容できる旅館の方が相応しいのではなかろうか。あらゆる観点から判ずるに、温泉郷の活用こそが最適と思う。間接的ながら村おこしにもなるのではなかろうか。医師や看護師派遣も、各都道府県単位で地元対応することができ、よりきめ細やかな支援と経費節減になるのではなかろうか。こう判ずれば、全国の温泉郷は自主的に、地方自治体の首長権限を取り付け行政の後押しを得ればなお良く、自治体の対応を待つまでもなく直ちに迎えのバスを送り込むべきである。掛け声だけでは何とも虚しい。 それを思えば、菅政府の仮設住宅政策は無能の恐れが強い。まず仮設住宅の粗末さが注目される。1Kと2Kの2種が用意されているが、牛馬小屋に畳、ユニット式の風呂兼トイレ、テーブルのおけない流し台のみの台所、薄い壁仕切りを思うと、長期滞在できるものではない。この狭小廉価な仮設住宅建築に関わる総費用はライフラインの引き込み、調度品の調達等々を考えると案外バカ高いものになるものと思われる。誰が受注し施工するのか判明しないが、利権的な動きが考えられる。政府は、仮設住宅の受注先、総費用を開示しなければならない。 日本列島全体から見て東北は随分と北方である。ここへ関係者を派遣する費用も疎かにできない。今現在、今後も含め派遣費用の総額を算定すれば、被災民を温泉郷に移転させ、そこへ要員を派遣した方が合理的実効的実践的ではなかろうか。そういう意味においては、各都道府県が押し進めている公営住宅の空き室供出対策より、温泉郷疎開政策の方が断然優れていると判断せざるを得ない。全国からの物資救援も、現地配送から引き続き温泉郷配送へ転ずればよい。現地配送でセンターに積まれながら配達されないと云う痴態は失せよう。 問題は、この良案をなぜ取り組もうとしないのかにこそある。一つは、菅派政府の無能、一つは利権の介在、一つは棄民政策、一つは過剰管理政策のツケではなかろうかと愚考する。以上。 大急ぎで提案したので中身が練れていないが、趣旨は十分書きあげたつもりである。この政策を真摯に行う政権が次の政権となるべしである。事態は一刻を争うと思う。福島原発も爆発事態が終息しているのか小康しているのか定かでない。いずれにしても放射能汚染問題がますます深刻化するはずであり、疎開政策こそが望ましいと信ずる。 万一、メルトダウンしたとして、天文学的な被災が再発した場合、菅政権の政治責任は言語に尽くし難い。詫びて済む話でもない。最悪の事態を想定し最良の案で危機対応すべきではなかろうか。恐らく復興資金は100兆円を軽く越すと思われる。問題は、粗脳政権に采配させると、この100兆円も大幅に無駄に使われる可能性が高いと云うことである。ここは何とか田中角栄的な有能国士に登場して貰い、総力で国難に当たるべしである。 2011.3.24日 れんだいこ拝 |
返信 | Re::れんだいこのカンテラ時評915 | れんだいこ | 2011/03/27 18:25 | ||
【れんだいこの緊急提言「大疎開政策論」その2】 先の2011.3.24日付けブログ「大疎開政策論」で温泉郷疎開論を提言したが、ぼちぼちながら流れが始まっているようである。この動きをもっと強めねばならないと思う。被災地の国会議員はぼやぼやせず率先して受け入れ先の地方自治体と折衝し「脱被災地」に向かわせねばならぬ。財源は後から取ればよい。以下、改めて別の角度から提言しておく。 今、福島原発事故の応急対応が関係者総員の手で懸命になされている。日本全国のみならず世界中が見守っているが、肝腎なことはメルトダウンによる爆発前の小康状態なのか、終息するのかである。識者の見解も分かれており両論が飛び交っている。れんだいこは門外漢なので、爆発するとも終息するとも断言できない。但し、これまでの事故によっても既に相当の放射能汚染が始まっており、今後ますます深刻化するであろうと見立てするぐらいの予見は許されるだろう。 問題は、菅政権の対応が余りにも無責任杜撰無能なサマを見せつけていることである。その場対応に終始しており、今後の見通しを立て国民に呼びかけ、英明に諸事処理して行く姿勢そのものを放棄していることにある。被災後2週間を経過しているが、いつまでも「置き去り」が許されることではなかろう。 恐らく、原発行政を引き続き維持せん為に不都合、不利益なことを言及すまいとの立場に汲々しているのだろう。仄聞するところ、菅首相の采配で目立ったところは、東京電力を難詰し、現場死守による修復命令したぐらいのところである。代わって枝野官房長官が矢面に立ち記者会見に臨んでいるが、専門外なのに大丈夫発言を繰り返しているに過ぎない。これも限界とみるや自主避難を云い渡し始めたのが最新の流れである。 もう一つ、本来の被災担当と思われる総務相の動きがやけににぶい。片山総務相の無能ぶりが浮きだっている。この御仁の政治的背景も疑わねばならない。決して普通の対応ではない。自衛隊が鳴り物入りで10万人体制の功罪についても言及したいが、現場に精通している訳でもないので控えることにする。 以上から判断すると、菅派は、凡そ中央政府としての政治責任を放棄していると断じてよい。為すべきことに対してまともな指揮をしておらず、することと云えば臭いものに蓋する姿勢が目立つばかりである。この姿勢は今後とも改まりそうにない。こういう手合いは、情況がさらに悪化しても何らかの気休めを云い続け、最後には想定外の一言で口を拭うであろう。御身は常に高みの見物を決め込み、いざの時には脱兎のごとく逃げ出す手合いだろう。今に至るも原発行政推進を問いなおす姿勢は見られない。 こういう按配であるので、我々が見通しを立て生き延びる対策を講ぜねばならない。そこで発案したのが温泉郷疎開案であるが、この発案に思いを凝らすと良案であることをますます確信するようになった。その一つに、山間部の温泉郷が立地する森林が放射能汚染対策として効果があるのではなかろうかと思うからである。当然、温泉浴自体の効果もあろう。この両面に於いて、温泉郷疎開が講ぜられるべきだと確信する。これは今のところ科学的知見に基づいてはいないが、後から証明されることもある。今は立派なカンではなかろうかと思っている。 もう一つ、仮設住宅、医療チームや自治体職員の被災地派遣等を含め政府が今後支出する膨大な出費を考えると、日本全国の温泉郷避難の方が却って安上がりになるのではないかと算定する。にも拘わらず、なぜ疎開政策に向かわないのだろうか。れんだいこには解せない。 仮設住宅の例と比較すると、これから用地確保、インフラを整備する必要もないし、既設の旅館を使えるのは思わぬ利点ではなかろうか。医療チームや自治体職員も勝手を知ったところでの派遣の方が効果的なのではなかろうか。この際、仮設住宅、医療チームの被災地派遣等に費やす費用の一部で、温泉郷旅館の施設整備、廃業旅館の活用も行えば一石二鳥三鳥だろう。 温泉郷の収容能力はほぼ500名単位で可能であろうから、被災地住民がある程度まとまって住むことが可能と云う利点もある。いわゆる市街地の空室利用より勝るのではなかろうか。間接的な村興しにもなるのではなかろうか。そういう訳で、緊急予算の一部を温泉郷立て直しに注ぎ込んだ方が賢明と判断したい。 もう一つ、顧慮せねばならないことは、菅派政治の救援対策が、被災地難民を救援するよりも、治安維持的な観点から閉じ込めようとしている気配が窺えることである。救援物資の滞貨が云われているが、被災後1週間経っても被災地への補給線が確保できないなどということが有り得て良い訳がない。石油、灯油等の過少割当制限、医薬品の供給不足等も本来の救援ならば有り得ない事態である。 被災地に入る為の交通制限、規制も道路陥没だけの理由によるとは思えない。政府が被災地救援優先を打ち出せば、石油不足で往来できないなどという事態は起こらない筈である。こういうことが有り得ているのは、菅派政治の救援対策が逆指揮に向かっているとみなす必要があるのではなかろうか。れんだいこには、被災民が棄民化されようとしているとの疑念が消えない。 被災地難民は自らが置かれている状況を客観化させ、ここは冷静に判断すべきではなかろうか。菅派政治に運命を委ねる愚だけは避けるべきだろう。岩手、宮城の被災民の避難は或る程度の期間で済むかも知れない。但し、こたびの被災を奇禍として、いっそのこと思い切った都市計画に基づき土地区画整理事業で復興させた方が良いかもしれない。 他方、福島の原発汚染難民は相当長期間の離村が予想される。地下水汚染、作物汚染がより深刻化し、現地も立ち入り禁止区域にされる恐れが強い。これを思えば、江戸時代の大名再配置の転封的事態も考慮せねばならないと思われる。 そういう総合的な見通しの中で、被災地の自治体の長、住民は身の振りどころを判断せねばならないところに置かれているのではなかろうか。この際、残る者は残り、移住する者は移住し、行き来する者は行き来するという柔軟な対応策が望まれているように思われる。何も残るべきか残らざるべきかで深刻に悩むことはない。空家の管理は、それこそ警察、自衛隊、役人の仕事だろう。壮年自警団も組織すれば良い。 自治体は最低限直ちに被災住民証明書を交付し、被災住民の移動の自由を保障せねばならない。被災住民は移転先の自治体に被災住民証明書を提出すれば生活給付金が受けられる仕組みを確立せねばならない。この動きが全くないのは政治災害である。 政府は当然これを財政的援助する必要があろう。問題は、政府が被災地復興資金を創出するのなら、こういう必要なところに手を回し、利権の為の利権的事業に費やさないことである。そう云う意味でも有能な政府が今ほど望まれていることはない。膨大な補償が予想されるが、これも今後の電力事業の総体的な見直しと被災業者の再起に資するものでなければならない。経団連企業や外資系企業の餌食にされたら堪ったもんではない。 根本認識として、迫りくる危機が本当なのか謬言なのかの見極めにある。この点では東電、保安院、学者の弁に待たざるを得ない。その際は、危機でもないのに危機を煽るのは不謹慎であると同じように、危機なのに危機ではないと云うのも輪をかけた政治犯罪と心得ねばならない。全ては、この見立てにかかっている。誰か論ぜよ。常に肝腎なところから論ぜよ。 2011.3.27日 れんだいこ拝 |
返信 | れんだいこさん今日は | 高菜 | 2011/03/31 15:56 | ||
今年は学生運動論後編出版予定とのこと、大いに期待しております。もちろん予約です。 震災のことであちこち情報を集め、現状把握しようと努めました。れんだいこさんの温泉地や大型客船の避難場所案はすぐにでもできる妙案だと思います。 今日になって稲恭宏(いなやすひろ)氏の講演動画を見、福島第一原発の状況にまた混乱が生じました。彼の言う、低線率放射線効果で福島は何も問題がないどころか、野菜も水もかえって体に良い作用を及ぼす範囲のものである。原子力安全委員会のメンバー5人は原子炉の専門家4名と、米国研究所の統計データの研究者一人のチームであって、人体に及ぼす知識が全くなく、誤った判断で人々を苦しめている。チェルノブイリと同等に扱う事故ではない。というものです。今回の地震、津波、原発事故、腑に落ちないことがたくさんありますが、時間と能力が…。動画は次のところで見ることができます。 福島原発事故の医学的科学的真実 東京大学 稲 恭宏博士 緊急特別講演 低線量率放射線効果。 |
返信 | れんだいこの稲説考 | れんだいこ | 2011/03/31 20:29 | ||
高菜さんちわぁ。「福島原発事故の医学的科学的真実 東京大学 稲 恭宏博士
緊急特別講演 低線量率放射線効果」を聞きました。奇説を唱えているように思います。稲説に従えば、今後の原発は青天井で原子炉を稼働させればよいということになるのではないでせうか。冷却水も堂々と海洋投棄すれば良い、最終核廃棄物も地下深くに隠匿せず野天に山積みして行けば良いということになりますか。 この奇説が真実なら、我々の心配は杞憂になります。問題は、どちらの説が正しいのかになります。一つの実証は、稲氏がこれから原子炉コントロールセンターに缶詰めになり作業員にエールを送り続けることです。福島原子炉が復旧し、稲氏が元気な姿をせめて十年間見せてくれたら稲説の真実性が実証されでせう。稲説に従い無防備の結果、甚大な二次被害が生まれたとしたら、取り返しがつかなくなります。この見極めがポイントだろうと思います。 れんだいこは科学的知見はありませんが文系的知見ならば自負しております。この自負からすれば、暴論それも極化していると思います。何でも超過激にすれば面白味が増します。しかし、現実的に有効な対応ができるかどうかは別です。 れんだいこは大疎開政策を提起していますので稲説と真っ向から対立します。稲説によれば、人は争ってでも原発近くに住み続ければ良いと云うことになるのでせうか。却って健康になるらしいです。天然路地野菜にわざと放射能をふりかけして食べた方が賢くなると云うことのようです。ド迫力で云いますから、その気にさせられます。普通は、こういう言論をデマゴギーと云うのではないでせうか。 プロフィールは次の通り。「東京大学 大学院 医学系研究科病因・病理学/免疫学 専攻 博士課程修了。博士(医学)。東京大学 医学博士で病因・病理学、免疫学者」。肩書から見れば最高頭脳の一人ということになるのでせうか。何やら「幸福の科学」の大川隆法に臭いが似ていますね。部分的には良い指摘しているようにも思いますが全体が支離滅裂です。東大系頭脳の一つのパターンではないでせうか。そんな印象です。 2011.3.31日 れんだいこ |
返信 | れんだいこさん今晩は | 高菜 | 2011/03/31 22:15 | ||
はっと目を覚まされました!! 放射能ふりかけごはんは御免です。研究室の放射線治療環境と、福島第一原発周辺の環境が同じものと断言できない!と今思いました。放射性物質プルトニウムの検出の説明はなかったですね。 断固とした口調、困難な状況下の救い主、ド迫力で、その気にさせられかかりました。そうか、枝野の名が出たところで気づくべきだった。 れんだいこさんの大疎開政策をあつく支持します。 |
返信 | Re:れんだいこさん今晩は | れんだいこ | 2011/03/31 22:36 | ||
高菜さんちわぁ。東大より早稲田の在野の頭脳を信じてくださいふふふ。稲説は、福島や茨木の農家の現状の救済と云う点で意義を持たせようとしている面がありますが、尋常ではないと思います。かの理論によれば、現在50基の日本各地の原発を更に都道府県市町村の隅々まで敷設して行けば良いと云うことになります。実践的にとても危険な理論ということになります。 2011.3.31日 れんだいこ拝 |
返信 | れんだいこさん再度今晩は | 高菜 | 2011/03/31 23:36 | ||
原発推進の方向性がはっきりと見えてきました。原発利権シオニストは、三層五層の仕掛けをしてきますね。 この多重構造の解析をれんだいこさんの頭脳に学んでいます。今後ともよろしくお願い致します。 |
返信 | Re::れんだいこのカンテラ時評916 | れんだいこ | 2011/04/07 20:42 | ||
もう一首、歌を献じる。 つち音高く(三陸巨大震災に寄せて) 廃墟にたたずみ 涙ぐむ 運命のいたずら 嘆くがよい 深い絶望 深い決意 心に刻もう 三陸巨大震災 友よ つち音高く絆を結べ 家が流され 役場も失い 船が壊され 道路も割れた 死に人(ひと)三万 難民三十万余 語り伝えよう 三陸巨大震災 友よ つち音高く絆を結べ 百年先を見据えよう 千里の道に歩を進めよう さぁふるさとを興せ 子供が祖父になり祖母になり その時の子供が祖父になり祖母になる頃 ふるさとが蘇るだろう 忘れるな 三陸巨大震災 友よ つち音高く絆を結べ 2011.4.7日 れんだいこ拝 現代は異常に歌が失われている。あるのかも知れないが心に響かない。歌がなければ心がすさむ。歌があれば命が励む。命が励めば何事か為し得る。心に響く歌を生み出し口ずさめ、語り合え。そして静かなひと時を持て。そのどれもが大事。この大事なことが疎かにされ、嫌な知識が頭と身体を蝕んでいる。偏狭な著作権が歌を閉ざそうとしている。云いたい者は云うが良い。汚い手を出すが良い。我々は歌い合い語り合う歌を持つ。著作権偏狭時代に抗して、この歌を捧げる。著作権フリーのこの詩に誰か曲をつけて欲しい。 三陸巨大震災 2011.3.11日 この日を忘れまい 1000年に一度の大地震と津波 3万人が呑みこまれた 新たな災害が加わった 経験のない原発爆発 目に見えない汚染の恐怖 被災難民50万 埋まっている人がまだたくさんいる 仏よ成仏せよ 黙祷 命からがら助かった者よ暖を取れ 寒いだろう せつないだろう 生き抜けろ 言葉で食糧で絆で暖をとれ みんな見守っている どういう助け合いができるのか 苦吟している 起ちあがっている 時間との勝負だ 難民よ災い転じて福となせ 知恵を出せ 起ちあがれ 日本の新たな再建がここから始まる 世界に微笑みかけよう 力強く生きてますと 支援に感謝しよう お返ししますと 2011.3.11日 この日を忘れまい 即興歌です。苦しいときには歌が必要です。伴奏つけて歌ってください。歌詞はどんどん代えてください。歌い繋いでください。著作権はありません。 2011.3.15日 れんだいこ拝 |
返信 | Re::れんだいこのカンテラ時評917 | れんだいこ | 2011/04/11 21:35 | ||
三陸巨大震災1カ月経過に寄せて 三陸巨大震災から1カ月が経過した。報道が次第に少なくなりつつあるが事態は何ら変わっていない。仮設住宅が少し建てられ、抽選入居が始まったぐらいが最新の動きで、その他は余りにもゆったりし過ぎている。原発事故も一見小康状態のように思えるが、爆発前の静けさかもしれない。仮に封鎖し得たとしても、地下水、土壌汚染がこれから本格化する訳で、なんにも解決していない。と云うか解決する訳のものでもない。原発の恐ろしさに全く無知のサマを見せつつ推移している哀しい現実が見て取れる。 それにしては被災民は穏やか過ぎる。これが噂に聞く東北気質なのだろうか。確かに無限の助け合いが各地で生まれ、多くのボランティアが駆け付け、日本的思いやり、相身互いの精神が如何なく発揮されている。全国各地からの救援物資が次々と送られた。義援金も史上最多の額となり感動を呼んでいる。原発コントロールセンターでは決死隊がお国の一大事に駆け付け、今も懸命の修復工事に挑んでいる。これら全てがすばらしいと云えば云える。 しかし、話をそう簡単に終わらせる訳にはいかない。人民大衆レベルで、これだけ草の根式和の政治を実現しているのに対し、最高権力体の日本政府の政治は何をしたのだろうか。不自然過ぎるほどににめぼしいものがない。と云うか、救援よりも日米初の合同軍事実地訓練している形跡が認められる。ここを主にしており、よって救援が後回しになっている気がする。これが菅派政治の正体であろう。こういうところに馬脚が現れるとしたものだろう。 思い出すのは、のっけからの自衛隊の10万人動員、計画停電、俄かに登場した頻繁過ぎるACジャパン広告、米軍のともだち作戦、菅の現地入り等々。しかし、これらが本当に必要なものだったかどうか疑わしい。逆に、それらの裏で本当に必要な手当てが殆ど何もできていないように思われる。この落差が何とも、れんだいこの気分を損ねている。 こたびの事故は、地震と津波と原発の3種からなっている。それぞれに必要な手当てをすることが必要と思われるのに、政府の指揮は原発対策に専念しており、被災民の救援については後回しにされている気がしてならない。灯油、ガソリン制限もイカガワシイ。被災地優先を指示すれば解決する筈なのに、あの寒気の中に放置した感がある。交通規制にも疑問がある。道路陥没の注意を促す為の規制であったのかどうか疑わしい。多くのボランティアが足止めされ、救援物資を滞貨させる始末になった。 菅が表に出ず、枝野が一人奮闘して刻々の状況説明を行った。しかし、東電、保安院、原子力委が行うべきところを代弁しているに過ぎず、要するに大丈夫を繰り返しただけに過ぎない。本当は、政府のやることは他にあるのではなかろうかと、れんだいこは思っている。本来は、被災現地対策、被災住民の救援、震災復興の展望、原発の爆発対策に仕分けして向かうべきところ、原発事故の状況をマルチ舌で劇画的に解説して見せただけに過ぎない。 そういうことをいろいろ解説なり批判してもキリがないので、以下、云いたいことを書きつけておく。れんだいこなら、こういう陣頭指揮をする。どうぞ新政権で参考にしてほしい。何なら、れんだいこを任命して欲しい。 その1として、被災住民の救援として被災証明書を直ちに発効し公布する。全国各地の温泉郷疎開を斡旋措置する。これがなぜ適宜なのかは論をまたないので割愛する。被災民は被災証明書を持って家族単位、町内単位、市単位で移動すれば良い。この方が却って安くつくし被災民も体育館暮らしから抜け出せる。 その2として、震災復興として総合復興計画を策定する。その責任者を任命しプロジェクトチームを作り大権委任する。片付け費用は最も合理的方法で経費節減する。多少荒っぼくともこの際は仕方ない。なぜなら富を生まないからである。その為に、可燃ごみの現地焼却即ち野焼きを認める。震災より1カ月経過して放置のままの現状は異常である。これは法律の過剰規制でしかない。 この際、復興都市計画青写真を策定し、大胆に土地区画整理事業に乗り出し市街地整備を図る。道路も極力碁盤の目状に造り変えてみたらどうだろうか。土地所有者間の調整に汗を流し合理的な再配分する。 その3として、原発推進政策から撤退し、代替エネルギーの開発に取り組む。その為に電力事業の公営事業体を創設し、民間電力会社と競合化させる。既存の民間電力会社は原発に傾斜し過ぎており、容易なことでは転換が難しかろう。電力会社は業界挙げて農林漁業補償に向かうべきである。政府のテコ入れ資金導入を極力少なくし、電力会社の全金融資産を吐き出させねばならない。役員の高給報酬はもはや許されない。年収1千万円上限ぐらいでちょうど良い。 他にもいろいろあるが最低これぐらいの見通しを持つべきではなかろうか。要点は、カネの使い方のある。粗脳政治が使うと死にゼニになる。有能政治が使うと後々に効果が出てくる使い方をする。禁物は、死にゼニに利権を絡ませ大盤予算化することである。これを厳重に取り締まらねばならない。れんだいこの診断によると全治15年と見る。早ければ10年ぐらいで回復するだろう。 長文は饒舌化するので、以上簡単にスケッチしておく。 2011.4.11日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)