カンテラ時評29(841~870) |
(最新見直し2010.07.21日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
れんだいこの丹精こめた珠玉の発言集「カンテラ時評」をここに保存しておくことにする。絶えず繰り返されるアラシの中で、意に介さず怯まず、れんだいこが発信したくなった事案に対するれんだいこ見解が披瀝されている。何度読み返しても、れんだいこ自身が面白い。字句の間違いの訂正、文意の修正もやっておこうと思う。 2007.3.24日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評841 | れんだいこ | 2010/10/31 15:50 |
【9.26日、日中首脳会談(田中.周恩来)その1、迷惑論争】
翌9.26日午前7時、北京の迎賓館で一夜を過ごした田中首相は、歴史的な第一回の日中首脳会談がトントン拍子に進んでいるためか、すこぶるごきげんであった。朝7時、日本側代表団の朝食。和中折衷の献立てが用意され、首相も外相もせっせとたいらげた。二階堂官房長官は、「きのう夜の夕食会でもずいぶん食べたり、飲んだりしたが今朝もまた・・・。二人ともとにかく元気すぎるくらいだ」とコメントしている。外相のけんたんぶりに首相が冷やかすと、外相は「持ち来るものみな腹に納めてなお従容」と漢詩まがいの文句で応じた。10時半、田中首相は、宿舎の迎賓館で同行記者団代表を招いて懇談した。 9.26日午前10時15分、人民大会堂の「接見庁の間」で第一回日中外相会談が始まり、大平、姫鵬飛の両外相が直接交渉に入った。この時高島益郎条約局長が、復興3原則に対して、第一原則(中国を代表する唯一合法政府は中華人民共和国である)ことに合意するが、第二・第三原則の台湾との関係破棄には早急に対応できないとの立場を1時間余りにわたって立場を説明した。要旨は、1・第1項の中華人民共和国を中国の唯一合法政府と認めることには異論ない。2・第2項の台湾は中国の1省については、日本の内政干渉に関わる怖れがある。3・第3項の日華条約の廃棄はできない。自然消滅の立場を採りたい。4・中国との戦争は日華条約第1条で終結しており、賠償問題は解決済みである。 同日午後、第2回首脳会談が始まった。日本側は田中、大平、二階堂、外務省の橋本中国課長。中国側は周、姫、りょう会長、韓外務次官。この時、前日の田中首相のスピーチに於ける「迷惑」という表現が槍玉にあがった。周恩来は、次のように述べた。(矢吹晋「田中角栄の迷惑、毛沢東の迷惑、昭和天皇の迷惑」等参照) 概要「日本政府首脳が国交正常化問題を法律的でなく、政治的に解決したいと言ったことを高く評価する。田中首相が述べた『過去の不幸なことを反省する』という考え方は、我々としても受け入れられる。しかし、田中首相の『中国人民に迷惑(添了麻煩)をかけた』との言葉は、中国ではうっかり女性のスカートに水をかけたときに『添了麻煩』という軽いお詫びを意味している。中国では添了麻煩(迷惑)とは小さなことにしか使われず却って反感を呼ぶ。日本軍国主義の侵略戦争で中国人民に深い災難をもたらし、戦争では中国では数百万が犠牲となり、日本人民も深く被害を受けた『添了麻煩』を用いてお詫びの言葉とするのは中国人民として到底受け入れられるものではない。我々のこのような歴史の教訓を忘れではならない」(徐之光・編「中日関係三十年」)。 首相挨拶文は外務省が作成したものであったが、周首相は、概要「『謝罪』と云うのはあまりに軽い言葉で、中国では『道端でうっかり女性の着物に水をかけたのを詫びる』程度の意にしかならず、受け入れられない」と批判した。「不用意な文言」が許されない外交交渉の一コマとなった。 この周恩来発言を受けた田中の発言は、日本側記録では、こう書かれている。 「大筋において周総理の話はよく理解できる。日本側においては、国交正常化にあたり、現実問題として処理しなければならぬ問題が沢山ある。しかし、訪中の第一目的は国交正常化を実現し、新しい友好のスタートを切ることである。従って、これにすべての重点をおいて考えるべきだと思う。自民党のなかにも、国民のなかにも、現在ある問題を具体的に解決することを、国交正常化の条件とする向きもあるが、私も大平外相も、すべてに優先して国交正常化をはかるべきであると国民に説いている。日中国交正常化は日中両国民のため、ひいてはアジア・世界のために必要であるというのが私の信念である」(「日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉」石井明、朱建栄、添谷芳秀、林暁光編、岩波書店、2003年、57~58ページ)。 この暗誦をどう結末つけたのか経過を確認する。「ウィキペディアの添了麻煩」その他を参照する。 9.25日の晩餐会席上で田中首相が「わが国が中国国民に対して多大のご迷惑をかけたことについて、私は改めて深い反省の念を表明するものであります」と発言。それを通訳が「多大なご迷惑をかけた」の部分を「添了麻煩」と訳した。これに中国側が謝罪の言葉が軽過ぎるとして問題にした。しかし、外務省中国課長橋本恕は次のように証言している。「当時の日本の世論に配慮したぎりぎりの言葉づかい」であり、「何日も推敲を重ねて、精魂を傾けて書いた文章であり、田中首相、大平外相に何度も見せて『これでいこう』ということになった」。 結局、次のように解決した。大平外相は、「文言を変えてもいい」と中国側に大きく譲歩し、姫鵬飛外相に「過去、戦争によってもたらされた苦しみと損害に対して深く反省の意を表明する」と記した案を示した。姫外相は、「苦しみ」を削除、「責任」を追加した。「日本側が過去、戦争によってもたらした重大な損害の責任を深く反省する」。大平は、「責任」とは何の責任かと姫に問い、姫は「損害を与えた責任」と反論。日本側はこれに「痛感」の言葉を加え、「責任」という表現を受け入れ、次のように案文した。 「日本側は過去において、日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えた責任を痛感し、深く反省する」 (英訳・The Japanesr side is keenly conscious of the responsibility for the serious damage that Japan caused in the past to the Chinesr people through war,and deeply reproaches itself)。 これが最終案となり日中共同声明に盛り込まれた。「責任」と「反省」というロジックを生み出すことにより合意が為されたことになる。 この交渉経緯は、特筆されるべき日中外交史の財産ではなかろうか。なぜなら、今時の日朝外交史の如くの米国を交えての六カ国会議を通してでしか何も決められないと云うへっぴり腰の粗脳外交ではなく、日中両国が、それぞれの関係各国への根回しを済ませ上で主体的自律的外交を繰り広げ、譲るべきところは譲り押すべきところは押し、その結果としての共同声明条文の文言一つづつにこれほど脳に汗を掻き、共同で隙のない珠玉の名文を作り上げているからである。その後の日本外交史にはこのような能力は絶えてない。このことを確認しておきたい。 2010.10.31日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評842 | れんだいこ | 2010/10/31 15:56 |
【9.26日、日中首脳会談(田中.周恩来)その2、高島発言論争】 続いて、周首相は、午前の外相会議での高島発言に噛みついて、「日中国交正常化は政治問題です。それを法律論でやろうというのは間違いです」と高島条約局長を批判した。更に、高島条約局長を法匪呼ばわりし、「あの人のいる限り、まとのる話もまとまらない」と難色を示し、交渉が決裂寸前となった。この時と思われるが、周恩来の直々発言か周の意向を汲んだ取り巻きの発言かは定かでないが、高島条約局長に国外退去令が出された。要するに、賠償金放棄を梃子に三原則を認めるよう迫る中国側と、外交の一貫性を理由に譲らない日本側の言い分が平行線を辿ったということである。 「高島条約局長国外退去令」について、田中首相は次のように述べた。概要「賓客にまねかれ、供の従者を非難されたときは、主賓にも帰れと言われたことになります。それが日中共同の文化ではないのですか。そうは行きません。この男を帰す訳には行かない。この男は代表団の一員だから、帰れと云われれば我々全員が帰らねばなりません」。 この角栄の言葉で、周恩来は冷静さを取り戻し、双方の歩み寄りで再交渉が始まった。周恩来は日本軍が何年、どこの戦いで何万人殺したと、数字を際限なく上げはじめた。田中の血圧は200をこえ、鼻血を出すほどだったが、持ち前の粘り腰で望み、粘り強く交渉を続けた。 野上浩太郎氏の「政治記者」に次のように記されている。「おれは周恩来にこう言ったんだ。今はあなたにとって大きなチャンスですよ。日本では会社と交渉するときは、トップが交代して新しい社長と商売するのが、一番有利なのです。新しい社長には社内の期待もあって、大きな裁量の幅を与えるからなのです。私は今、日本という会社の新しい社長なのだから、あなたにとって大きなチャンスなんです、とね」。 この後と思われるが、2005.3.10日付け「雑記帳」の「諸君!4月号」掲載の佐々淳行「このまま対中ODAを続けたら」を参照すれば、周恩来は、戦時賠償問題を持ち出し、「北京は戦時賠償請求権を放棄していない」と主張した。これに対し、大平外相は黙りこんでしまった。が、田中首相が猛然と反論した。「国民政府から共産党政権に代っても外交継続の原則により、"一つの中国"と主張するならなおさら、サンフランシスコ条約で中国は日本の在外資産の接収とひきかえに賠償請求権を放棄した。従って北京には請求権はない」。 角栄の反論は、周恩来を黙らせた。この正論の裏で、実務的には賠償放棄の代償」として「中国が近代化するまで可能な限りの経済援助を行う」ことが口頭約束された。結果的に、共同声明には賠償放棄と書かれることになる。 二階堂官房長官が、「第1回会談に引き続き、広範な具体的問題について精力的に意見交換が行われた」と発表した。 遅い昼食となった。大平と高島は食事がのどを通らず、水ばかり飲んで考え込んでしまっていた。この時、次のような遣り取りが交わされている。 田中首相「どうしたんだい、君ら」。座を持ち上げようとしても塞ぎこんでいた。「そんなに心配してもしようがないじゃないか。だから大学出はダメだというんだ。また明日やりゃいいじゃないか」。大平外相 「だけど、どうすりゃいいんだ」。田中首相「そりゃぁ、お前ら大学を出ているんだから考えろよ」。沈黙の後、 大平外相「なあ田中君、君は越後の田舎から出て来たとき、総理になれると思ったかい」。田中首相 「冗談じゃない。食えんから出てきたんだ。お前だってそうだろ」。大平外相「俺もそうさ。讃岐の水のみ百姓の小せがれじゃ食えんからのう」。田中首相 「それなら当たって砕けても、元々じゃないか。できなけりゃできないでいいさ。このまま帰るさ。責任は俺が取る」。 午後5時、迎賓館で、第2回外相会談。 9.27日、万里の長城、明の13陵の案内を受けた後、午後4時過ぎ、第3回首脳会談。この時、高島条約局長の退去令を取り下げさせている。この会談の席上、周は、中国とソ連は既に一枚岩ではなく、矛盾と対立関係にあると懇切に解説した。周と田中が互いのソ連観を遣り取りしている。次いでアメリカ観、日米安保条約観を披瀝しあっている。最後に領有権を廻って対立中の尖閣列島(中国では釣魚台諸島)が論ぜられた。これにつき詳報はないが、決着は未来の叡智に託したのではなかろうか。更にこの時、周は田中に北朝鮮接近を要請している。この流れは帰国後稼動し始めることになる。 2010.10.31日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評843 | れんだいこ | 2010/10/31 16:07 |
【日中共同声明】
9.29日午前10時過ぎ、北京の人民大会堂の「西大庁の間」で共同声明の調印式が執り行われる。午前11時過ぎ、日本側は田中と大平、中国側は周と姫が日中国交正常化共同声明にサインをした。かくて日中間の国交が回復した。田中と周は何度も力強い握手を繰り返す。 取り決められた内容は、1・両国の不正常な関係の終了、2・中華人民共和国が中国の唯一の合法政府であることの承認、3・台湾は中国の不可分の領土であるとする中国の主張を日本が十分理解する、4・外交関係を樹立し、大使を速やかに交換する、5・中国は対日戦争賠償の請求権を放棄する、6・両国の平和関係の維持、7・両国がアジア・太平洋地域で覇権を求めない、8・両国は平和友好条約を早期に締結する、9・貿易・海運・航空・漁業などの締結交渉に合意。日華平和条約は破棄され、台湾とは国交断絶となった。 ----------------- 【日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(日中共同声明)全文】 日本国内閣総理大臣田中角榮は、中華人民共和国国務院総理周恩来の招きにより、1972年9月25日から9月30日まで、中華人民共和国を訪問した。田中総理大臣には大平正芳外務大臣、二階堂進内閣官房長官その他の政府職員が随行した。 毛沢東主席は、9月27日に田中角榮総理大臣と会見した。双方は、真剣かつ友好的な話合いを行つた。田中総理大臣及び大平外務大臣と周恩来総理及び姫鵬飛外交部長は、日中両国間の国交正常化問題をはじめとする両国間の諸問題及び双方が関心を有するその他の諸問題について、終止、友好的な雰囲気の中で真剣かつ率直に意見を交換し、次の両政府の共同声明を発出することに合意した。 日中両国は、一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している。戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は、両国関係の歴史に新たな1ページを開くこととなろう。 日本側は、過去において日本国が戦争を通して中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。また、日本側は、中華人民共和国政府が提起した「復交三原則」を十分理解する立場に立つて国交正常化の実現を図るという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである。 日中両国間には社会制度の相違があるにもかかわらず、両国は、平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である。両国間の国交を正常化し、相互に善隣友好関係を発展させることは、両国国民の利益に合致するところであり、また、アジアにおける緊張緩和と世界の平和に貢献するものである。 1、日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する。 2、日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。 3、中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基く立場を堅持する。 4、日本国政府及び中華人民共和国政府は、1972年9月29日から外交関係を樹立することを決定した。両政府は、国際法及び国際慣行に従い、それぞれの首都における他方の大使館の設置及びその任務の遂行のために必要なすべての措置をとり、また、できるだけすみやかに大使を交換することを決定した。 5、中華人民共和国政府は、日中両国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。 6、日本国政府及び中華人民共和国政府は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する。 両政府は、右の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。 7、日中両国間の国交正常化は、第三国に対するものではない。両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する。 8、日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。 9、日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の関係を一層発展させ、人的往来を拡大するため、必要に応じ、また、既存の民間取決めをも考慮しつつ、貿易、海運、航空、漁業などの事項に関する協定の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。 1972.9.29日に北京で 日本国内閣総理大臣 田中角榮(署名) 日本国外務大臣 大平正芳(署名) 中華人民共和国国務院総理 周恩来(署名) 中華人民共和国外交部長 姫鵬飛(署名) ----------------- その後、台湾派がどう対応し、田中政権が椎名を派遣し国民政府とどう裏で修復したのか等々を確認したいが又の機会に譲ることにする。 今、前原外相が如何に日中離間を策そうとも、この時の日中共同声明及び精神を抹殺できる訳ではない。日中人民大衆は、菅政権が考えているほど愚かではない。むしろ、うす汚い筋書きを見破り、歴史の彼方へ葬るすべを心得ている。我々から見れば、菅政権の愚行は単に、請負士の悪あがきでしかない。 2010.10.31日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評844 | れんだいこ | 2010/11/01 21:24 |
【角栄の文明論、石原の文明論の相似と差異考】 2010.11.1日、面白い記事に出会った。経費節減の折から間もなく購読を止めようとしている産経新聞の1面に、東京都知事・石原慎太郎の「日本よ」、「アジア製の新旅客機」見出しの寄稿文が掲載されている。面白いのでコメントしておく。こうなると止めるのは毎日の方にしようか。最近の記事は全くパッとしない。阿呆ばかりが上にいるから、こうなるのだろう。長らく付き合ってきたが来月で打ち切りにする。 石原論文のキモは、「ものごとに関わる時間の短縮が反比例して多くの利益をもたらしたというのは文明原理の証左」としているところにあるように思われる。実に卓見ではなかろうか。この文明論が気に行ったので採り上げている。 但し、この発想は石原氏のオリジナルではない。既に、田中角栄が日本列島改造論の中で次のように述べている。「人間の一日の行動半径の拡大に比例して国民総生産と国民所得は増大する。地球上の人類の総生産の拡大や所得の拡大は、自らの一日の行動半径に比例する。国民総生産と国民所得の増大は、一次産業人口比率の低下と二、三次産業人口比率の増大及び都市化に比例する」。 石原氏の場合には、この観点から航空機の性能論議に向かっている。飛行機こそ時間短縮の極致であり、その開発競争に後れをとるなと云うが如くの論陣を張っている。田中角栄の論は幅が広い。この観点から人や物資全般の流通速度論に向かうのではなかろうか。同じような発想から、石原は軍事パラノイア化しタカ派にシフトする。角栄は社会基盤整備の必要論へと向かいハト派にシフトする。違いが面白かろう。 石原論文はもう一つ、注目すべきことを書き付けている。アメリカが航空支配権のヘゲモニーを取る為に、日本やインドネシアの航空機産業を抑圧したことに触れている。為に日本は国産化の道を閉ざされ、米国産のパーツメーカーとして隷属するようになった云々。アメリカは最近になって日本の軍用機生産の国産化を認めつつあるが、最先端軍事科学を駆使した「優秀な戦闘機に関しては認めはしまい」としている。れんだいこは、この後の記述にアンテナが作動した。「それらの際に暗躍したのが後に日本でのロッキード事件に深く関与したコーチャン、クラッタ―といった人物だったそうな」。 ちょっと待て。石原は何気なく書いたのか何か意図が有るのか分からないが、これは相当に意味深い記述である。コーチャン、クラッタ―と云えば、ロッキード事件の際の角栄起訴に繋がる重要証言者である。その証言は、日本の刑事訴訟法にない免責特権付きで為されたものであった。かの時、コーチャン、クラッタ―は、日本の最高検のお墨付きだけでは不十分としてわざわざ最高裁の不起訴宣明まで求め、何を陳述証言しようと未来永劫お咎めなしの保証を得たうえで、5億円贈収賄の行く先として角栄を臭わす証言をしたとされている。問題は次のことにある。免責特権により真実が証言されたのならまだしも意図的故意に偽証していたとしたらどうなるかである。免責証言の悪用例である。 石原論文の「コーチャン、クラッタ―人物論」は、彼らがが単にロッキード社の重責役職者であったのみならず、かなり政治的に立ち回るイカガワシイ人物であることを間接的に明らかにしている。恐らくCIA絡み、ないしはCIAとも別系の国際金融資本帝国主義の世界支配アジェンダの棒担ぎエージェント要員としての素性を憶測させる。 ロッキード事件は、そういうイカガワシイ人物の証言を決定打としていた。前首相たる田中角栄を死文法化していた外為法違反と云う、しかも別件容疑で逮捕し、あの手この手で容疑を固め起訴し、角栄を死の公判闘争に磔にした。角栄は、「コーチャン、クラッタ―証言」に対し、見たことも会ったこともない人物の証言により落とし込められ、反論も許されないままに証拠採用されている検察のヤラセに猛抗議している。当然であろう。 目下、厚労省官僚不当逮捕事件で「検察ストーリー問題」が浮上し、前田、佐賀、大坪検事が逆逮捕されると云う前代未聞事件が発生しているが、その露骨な嚆矢はロッキード事件に始まっている。丸紅系の大久保、伊藤、桧山、全日空の若狭被告の供述調書は悉く「検察ストーリー」で作成されている。お笑いは伊藤調書である。贈収賄されたと云う5億円が、児玉ルートは先払いなのに対して8ヶ月遅れ払い、しかも4回分割払いにされている。1回目は英国大使館裏の路上で、2回目は伊藤の自宅に近い公衆電話ボックスの近くで、3回目はホテルオークラの駐車場で、4回目は伊藤の自宅でと云う風にワザワザ人目につきやすいところで隠れて札束入り段ボール箱を受け渡したとしている。これを受け取ったのが榎本秘書で、目白の田中邸の奥座敷に運び込んだと云う。目白邸の仕組みを知る者は有り得ないと述べて否定している。 ところが、「検察ストーリー」、「コーチャン、クラッタ―証言」こそ真実として田中角栄の政治訴追、議員辞職弾劾運動を組織したのが与野党一致の反角栄派でありマスコミメディアであった。今もこの「検察ストーリー」に浸っている者が多いが、事件から30余年後、厚生省官僚の村木局長が「検察ストーリー」のダタラメぶりを発見し、無罪放免を勝ち取った。この村木裁判は小沢キード事件のさなかで発生しており、証拠物改竄と云う失態を暴露された前田検事が両事件に被っている。 とすれば、普通なら小沢キード事件のイカガワシサにも関心が向かうべきであろう。ところが、又もや与野党一致、マスコミメディアの小沢政治訴追、議員辞職運動が組織されている。こうなると連中にとって真実なぞどうでも良くて、カネと地位で釣られて「請負お仕事」で口を回しているとしか考えられない。その連中が利権批判に首ったけになり、我こそはキレイ清潔潔癖然としてもの云うのでお笑いを通り過ぎて空いた口がふさがらない。朝日の例の口空き士とれんたいこの口と、どちらが大きく空いているのか比べて見たいのこころふふふ。 2010.11.1日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評845 | れんだいこ | 2010/11/02 20:33 |
【ばんそうこう膏薬政権食傷考】 政権交代後の民主党政権は鳩山から菅へと移行している。どちにも酷いが菅の方が輪をかけている。仙石官房長官は第二首相然として政権を仕切っているが、官房長官の役割論からすれば逸脱と云うより首相権限蹂躙であろう。それを良しとする反小沢連合の粗脳が史実に刻まれつつある。この連中には統治機構の仕組み、権限分与の識別さえできぬらしい。官邸政治とは実は政治の幼稚化子供化でしかない。 れんだいこの民主党論は小沢ないしは小沢系政権を見て評しようと思っているので早計な結論は控えるが、鳩山の遊び人政治、菅のピエロ政治なぞどうでも良い。何の興味もない。民主党が、よくも役立たずばかり集めていたことよ、小沢どんも大変だったなと思うだけである。党合同のいきさつはあったにせよ、飛び込んだ先がここまで破廉恥な「我が我が」集団だったとは。 もとへ。標語を考えた。念の為、ネットで確認すると、2010.10.1日、小池百合子・自民党広報本部長が党本部で記者会見し、「3年前の参院選で自民党は(農林水産相だった赤城徳彦氏が顔にはった)ばんそうこうが大変ネガティブなイメージになり負けた。今回は、民主党の『こうやく(膏薬、公約)』、マニフェスト違反と訴えると非常に反応がいい」と述べている。 アイデアや思想は時空を超える。れんだいこも丁度そう思った。と云うことは、今日び流行り病の著作権などクソ喰らえと云うことになろう。同じ発想が同時に場所を変え、人を変えて生まれることはままある。小池百合子はんが著作権主張するのかどうか分からないが、まさかそういう戯れなぞしないと思う。 れんだいこはどう気づいたか。それは、民主党の公約違反は実は公約違反と云うより、公約そのものが膏薬だったのであり、違反と云うより剥がしたに過ぎないのではなかろうか。そう気づいた。故に、菅政権を評するのに「膏薬政権」と云う当てつけが相応しい。これにより「ばんそうこう膏薬政権打倒」と云うことになる。 鳩山-菅政権政治がなぜ「ばんそうこう膏薬政権」なのか。それは、公約を一度でも試して後に修正するのならまだしも、一度たりとも試さず次々と公約を塗り替えているからである。その事例を逐一挙げるまでもない。全てがウソになりつつある。これに対する不快感が不快菅になりつつある。 消費税増税案がまたぞろ鎌首をもたげ始めている。民主党公約では、その前に議員定数も含め官費の冗費を徹底的に見直すとしていた。それを上面をなでただけのパフォーマンスだけの事業仕訳で済まし、財政危機を訴え始めようとしている。最も手っ取り早い消費税増税に向かおうとしているが、まるで覚せい剤中毒患者そのものである。 菅派にとって消費税増税は本音であり、「その前に議員定数も含め官費の冗費を見直す」は膏薬であった。その膏薬を剥がそうとしていることになる。これを後押しするのが与野党問わずのシオニスタンである。これを指令するのが国際金融資本帝国主義である。思うに恐らく、日本経済に壊滅的打撃を与え、君たちには統治能力なしとして直接管理に乗り出す為の仕掛けではなかろうか。日本は狙われている。れんだいこはそう察知している。 これを止めるにはどうすれば良いか。シオニスタン総出の小沢政治訴追、議員辞職運動ではなく、逆にシオニスタンに対する政治訴追、議員辞職運動に向かうべきではなかろうか。同じ基準で秤にかければ、検察が正義であれば網にかかるのはシオニスタンの方であろう。ネタに苦労はしない。よって、証人喚問するのら、同じ基準で秤にかけられた場合に無罪の議員のみ出席が許されるとしたらどうだろう。当然、小沢どんに要請される資料を手前も提出せねばならない。何人出てこられるのかが見物だ。 日共には特別に申し渡しておく。君たちは、宮顕のリンチ事件解明のための証人喚問に応じねばならない。れんだいこが指南する質問状に沿って陳述させる。君たちのウソの弁明を晒させてみよう。当然、偽証は、君たちの論理に従えば議員辞職である。出てこれるかこれないのか、それが見物だ。 2010.11.2日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評846 | れんだいこ | 2010/11/03 21:50 |
【角栄と早坂秘書の邂逅譚、二人三脚政権取り考】 早坂秘書は、1987.1.20日、「オヤジとわたし」(集英社、週刊プレイボーイ特別編集)を刊行している。れんだいこはなぜだか、この本を読み落としていた。こたび手にして新しい合点があったので書き付けておく。れんだいこは、日共の本質右派性、偽装左派性と対比的な田中角栄の本質左派性、偽装保守性に言及して来た。「オヤジとわたし」を読んで、その思いを強くした。 と云うのも、早坂秘書は1930年生まれ、北海道函館市恵比須町出身、早大政経学部入学の学生運動家である。こういう履歴を持つ早坂氏と角栄がどういう経緯で邂逅し、終生の友誼を結び得たのか。ここに大きな政治ドラマが有ると思うので確認しておく。以下、単に早坂と敬称させていただく。 早坂は、れんだいこが生まれた年の1950(昭和25)年に早稲田大学政治経済学部新聞学科に入学している。たまたま先輩になる。れんだいこは法学部だけれども。民主主義科学者協会早大班サークルに入り、ほどなく共産党に入党している。丁度この頃、共産党は徳球―伊藤律党中央派(所感派とも云う)と宮顕、春日(庄)、志賀、神山らの反党中央派(国際派とも云う)に分裂する「1950年党中央分裂」期であった。 興味深いことは、早坂が徳球―伊藤律党中央派に属していたことである。党中央の指針する武装闘争に参加し、有能なオルガナイザーの一人として各地の大学にオルグに向かっている。次のように記している。「朝鮮戦争勃発の1周年のときには、火炎瓶をつくり、新宿駅頭にデモを組織して、今は新しくなった東口の交番や機動隊に火炎瓶を投げつけたりもした云々」。この情報は、「オヤジとわたし」で初めて知った。角栄と早坂の終生の友誼を観る時、これはかなり重要な意味を持つ。これについては後で触れようと思う。 早坂のその後の概略履歴は次の通りである。1955年、早稲田大学政治経済学部卒業、東京タイムズ社に入社。政治部記者として掛けだし次第に頭角を現す。1962年、角栄が大蔵大臣に就いた時、秘書官となる。以降23年間、角栄と共に政界を二人行脚し、角栄の政権盗りの手足、頭脳となる。その後の金脈追及、ロッキード事件、公判闘争の日々の逆風下にもたじろがず政策担当の秘書を務め抜く。1985年、角栄が脳梗塞で倒れたのを機に政治評論家に転身する。角栄政治擁護の論陣を張り続け、数多くの「角栄もの」を著作している。2004.6.20日、肺ガンのため死去(享年73歳)。 この早坂と角栄の出会い、秘書入りの経緯は次の通りである。入社後の早坂は、東京タイムズ社の政治部記者として自民党、社会党番を務めていた。60年安保闘争時代には社会党の「安保7人委員会」の裏方を務め、国会質疑の原稿書きなどしている。安保闘争で岸政権が倒れ、池田政権が誕生する。早坂はこの波に乗り、自民党佐藤派、池田派の番記者を務めるようになる。東京タイムズ社は少数世帯なので一人で何役もこなすことになった模様である。池田首相に認められ自宅へ自在に出入りするようになる。「こらぁ、新聞記者の低能児ども云々」から始まる座談の相手を務め、経済論、政治論を聞く間柄になる。 1962(昭和37).2.6日、アメリカのロバート・ケネディ司法長官(ケネディ大統領の実弟で、後に暗殺されることになる)が来日し、東京六本木の国際文化会館で自民党の若手代議士たちと非公式に懇談した。これに政務調査会長の角栄が出席し、「沖縄返還の前提として米国が日本に憲法改正と再軍備することを提案してはどうか」と遣り取りした。この時の角栄の語り全文の大意に対して曲解であるが、この情報を掴んだ早坂はすぐさま原稿を書き上げ、これが翌日の東京タイムズの1面トップに載った。いわゆる特ダネ、スクープをものにした。 「田中が、さすがにしょげていると聞いた」早坂は、「私は彼に恩もなければ怨みもない」として目白の田中邸に名乗りを挙げに行った。早坂が「あの記事を書いたのは私です」と告げると、角栄は、「君なら顔を知っている。新聞記者は書くのが商売、政治家は書かれるのが商売だ。こんどの勝負は君の勝ちだ。しかし心配するな。騒ぎはじきに片づく。野党が俺の首など取れるはずがない。それにしても、よく来てくれた。お互いに友達になれそうだ。田中は全身で笑い、顔で笑い、眼まで笑った。そして二人は握手した」。 こうして、早坂は角栄にも認められ、角栄邸にも出入りするようになる。この頃の角栄を、「滅法イキがいい。それに頭の回転が早い。エネルギーに溢れている」と評している。同年7月、池田内閣の改造の際、田中角栄が大蔵大臣、大平正芳が外務大臣に抜擢された。早坂は逸早く「自民党に“新しい波(ヌーベル・バーグ)”」見出しのH署名入り解説記事を書き、改造人事が発表された翌日、東京タイムズの一面トップに載り注目される。 1962(昭和37).12.2日、角栄蔵相は、早坂に秘書話を持ちかける。早坂は、学生運動歴を持つ自分でも構わないかと問う。この時、角栄は次のように答えている。「俺はお前の昔を知っている。しかし、そんなことは問題じゃない。俺も本当は共産党に入っていたかも知れないが、何しろ手から口に運ぶのに忙しくて勉強するひまがなかっただけだ」、「俺は十年後に天下を取る。お互いに一生は1回だ。死ねば土くれになる。地獄も極楽もヘチマもない。俺は越後の貧乏な馬喰の倅だ。君が昔、赤旗を振っていたことは知っている。公安調査庁の記録は全部読んだ。それは構わない。俺は君を使いこなせる。どうだ、天下を取ろうじやないか。一生一度の大博打だが、負けてもともとだ。首までは取られない。どうだい、一緒にやらないか」(早坂茂三「鈍牛にも角がある」106P)。 角栄と力強い握手を交わした早坂は、学生運動上がりの早坂を承知で拾ってくれた恩義ある東京タイムズ社の岡村二一社長(元、同盟通信、後の共同通信社の社会部長)に、「田中角栄のところへ行きたい」と相談する。岡村社長は次のように述べている。「角さんは面白い男だ。俺のところで苦労するよりも、やりがいがあるだろう」、「角さんにとことん尽くせ。可愛がってもらえ。いいな」。12.10日、早坂は、「喜んでお受けします」と返答する。こうして、早坂の角栄番秘書生活が始まった。最初の教育がお辞儀をして見せろだった。早坂がお辞儀をしたところ、角栄は、「それは会釈だ。お辞儀はこうやるんだ」と、隣に立って「腰っ骨を直角に折り曲げ、ひと呼吸入れて、ゆっくり頭を下げた」。 その時の初訓示が次の通り。「新聞記者は、お辞儀をされるのが商売だ。しかし、世間の人がなんでお前たちにペコペコするか。新聞記者は世の中を知らず、役に立たない知識、理屈を頭いっぱいに詰め込んで、気位ばかり高い。ぞんざいに扱えば、すぐ逆恨みして悪口を云う。云うだけでなく書く。印刷して、頼みもしないのに日本じゅうに配って歩く。そうされたんじゃかなわないから、世間の人たちはお前たちに会えば、お辞儀をする。あ、貧乏神が来た。腹の中で舌を出し、足早に通り過ぎる。わかったか。お前は今日から、お辞儀をされる側でなく、お辞儀をする側に来たんだ」云々。 れんだいこには、この邂逅が興味深い。まさに政治ドラマではなかろうか。特に、角栄が、学生運動上がりと云うだけでなく、日本共産党分裂期の徳球―伊藤律系の履歴を持つ早坂を拾ったところが面白い。日本左派運動史では、旧左翼も新左翼も口を揃えて徳球―伊藤律系の運動を罵詈雑言するところから書き起こすのを通説としている。れんだいこは違うと申し上げている。徳球―伊藤律系の運動こそ評価されるべきであり、その後の宮顕―不破系運動こそニセモノとしている。これの論証は省くが、日本左派運動失速、低迷、お蔵入りの要因は、この不正にあると考えている。もとより、徳球―伊藤律系を全肯定しようと云うのではない。引き継ぐとしたら紅い心の徳球―伊藤律系の方であり、白い心なのに赤く偽装している宮顕―不破系運動ではないと申し上げている。その他諸派のそれも然りであり、徳球―伊藤律系の運動を罵詈雑言する限り、永遠に有益な軌道に乗らないだろうと申し上げている。 その点で、角栄が、徳球―伊藤律系の運動上がりの早坂を秘書に抱えたのが面白い。これを、角栄を徳球―伊藤律系運動との琴線の繋がりを見ることなく解けるであろうか。角栄は、駄文駄弁に耽ることなく一瀉千里に権力盗りに向かった。当初は進歩党、次に民主党、その後紆余曲折しながら1955年の党合同により自民党入りし、以降真一文字に政権奪取に向かった。もとより政権自体が狙いではない。議員立法時代を経て郵政相、大蔵相、通産相、幹事長の要職を歴任し、行く先々で有能に職務を遂行し、その総仕上げとして自己の信ずる教条に則る政治を開花させる為に政権取りに向かった。早坂は、その角栄政治に心底惚れ、これこそ有能にして真の左派政治ではないかと気づかされ教えられつつ追っかけて行った。 早坂は、ロッキード事件以来全くの逆風下に置かれ、そんじょそこらの弱虫で有れば寝返るところ、終生にわたって角栄を愛し褒め称え、孤軍奮闘力戦した。「オヤジとわたし」の末尾はこう結んでいる。「政治家・田中の復活が仮に奇蹟であるとしても、それはオヤジの不名誉ではない。すべては神の思し召しにある。私たち人間は自然の摂理に従うしかない。それでも日本原人・田中角栄は、わが日本の風土と人々の心の中で永遠に生き続ける。昭和37年12月から60年6月までの23年間、オヤジの不肖の弟子であった私は、不死鳥・田中角栄の栄光を確信しています」。 この言、その生きざまや良しとすべきではなかろうか。れんだいこが講談師なら一節ぶつところである。 2010.10.3日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評847 | れんだいこ | 2010/11/04 19:58 |
【イソップ物語「北風と太陽」譚考】
ふと、イソップ物語「北風と太陽」譚の重要性に気づいた。既に「ろばを売りに行く親子の話」を考察している。続いて「北風と太陽」譚の比喩的意味と意義について確認する。 イソップ物語の重要性はどこにあるのだろうか。思うに、イソップ物語、ギリシャ神話、西欧各地の土俗神話等には、近現代世界を席巻するユダヤ教的ネオシオニズムとは違う別系の叡智が散りばめられていることにあるのではなかろうか。ユダヤ教的ネオシオニズムは、その知の源をユダヤ教聖書、タルムード等に由来させている。これを原書とするユダヤ教的ネオシオニズム系テキストが近現代世界の知を領導している。それは背理知であり、それまでの豊壌な知恵が逼塞させられいるのではなかろうか。 このことを知らず西欧学と云う名のユダヤ教的ネオシオニズム系テキストを鵜呑みに学ぶから、学んで却ってバカになる自称知識人ばかりを輩出しているのではなかろうか。テレビに出で来る政治評論家のバカヅラを思うたびに、この思いを強める。そういう訳で、ユダヤ教的ネオシオニズム以前の、あるいは又ユダヤ教的ネオシオニズムに対抗する知恵をも学ばねばならないのではなかろうか。こう考えた時、イソップ物語の「北風と太陽」譚が、見事にユダヤ教的ネオシオニズムの欠陥と限界を示唆していることに気づいた。イソップの人となりを知らないが、よほどユダヤ教的ネオシオニズムの偏狭性を知りつくしており、寓意で見事に反論しているのではなかろうか。この観点から愚考することにする。 イソップ物語「北風と太陽」譚の原書を知らないので流布されている通説に従うことにする。それによると、題名は「北風と太陽(The Wind and the Sun)」であり、次のような話になっている。 「北風と太陽が、どちらの力が強いか勝負しようということになりました。そこへ一人の旅人が通りかかりました。旅人の服を脱がせたほうが勝ちということにしました。北風は、簡単なことだと言って、風を激しく旅人に吹きつけました。旅人は、しっかりと服を押さえたので、さらに一層、強く吹きました。たまらなくなった旅人は、もう一着服を着込みました。ついに北風は吹きつかれてしまいました。次は太陽です。太陽は初めおだやかに照らしました。すると旅人は、よけいな服を脱ぎ捨てました。するとこんどはもっと強く照りつけました。とうとう旅人は暑くてたまらなくなり、服を全部脱ぎ捨てたのでした」。 (英訳) The Wind and the Sun were disputing which was the stronger. Suddenly they saw a traveller coming down the road, and the Sun said: "I see a way to decide our dispute. Whichever of us can cause that traveller to take off his cloak shall be regarded as the stronger. You begin." So the Sun retired behind a cloud, and the Wind began to blow as hard as it could upon the traveller. But the harder he blew the more closely did the traveller wrap his cloak round him, till at last the Wind had to give up in despair. Then the Sun came out and shone in all his glory upon the traveller, who soon found it too hot to walk with his cloak on. Kindness effects more than severity. (れんだいこ和訳による意訳) 風と太陽がどちらが強いか言い合っていた。不意に彼らは、ある旅人が通りかかるのを見た。太陽が云った。「我々の論争に決着付ける案が浮かんだ。我々のうちどちらがあの旅人のマントを脱がすことができるか。脱がした方がより強いということにしよう」。あなたからどうぞ、そう云って太陽は雲の中へ隠れた。風が旅人にあらん限りの力で吹きつけた。しかし、風を強く吹きつければつけるほど旅人はマントを強く掴(つか)み体に巻き付け始めた。北風は顔を真っ赤にして一層強く吹きつけたが、旅人は益々マントを強く巻き付けて離さない。遂に風は根負けしてあきらめねばならない破目になった。今度は太陽の番である。太陽が旅人に日を降り注ぎ、おだやかに照らし始めた。するとまもなく旅人は暑くてたまらなくなり、マントを脱いで歩き始めた。やさしさは苛酷さよりも効果がある。 イソップ物語の中でも有名な寓話で、「やさしさは苛酷さよりも効果がある」、「強制より暖かさが人間を動かす最上の手段である」と云う諭しとなっている。これを「力で人を屈伏させるよりも、言葉で納得させるほうが有効だ」と解説する向きもあるが矮小過ぎよう。この童話は、子供諭しの寓意に止まらず大人の世界をも諭しているのではなかろうか。仕事、世間づきあい、政治、経済、文化、教育その他諸々の世事全般に教訓的な寓意を垂らしているのではなかろうか。 そこで思うことは、近現代世界を席巻する国際金融資本主義ネオシオニズムのイデオロギーと教説は、北風論理論法そのものではなかろうかと云うことである。近現代世界のエリートは、こういう北風論理論法を習熟させられ、その習熟度に応じて学位を得ている。或いは見出され政治家として雇われ、ポストを与えられている。しかし、その北風論理論法のみを学ぶことにより元々の阿呆が始末に悪い阿呆になっている。今日びの学者、政治家に対する不快さは、これに由来しているのではなかろうか。実践的にも、北風論理論法で脳内を形成した者は使い物にならない。本当の賢さは、北風論理論法を一たびは学ぶも良し、されど抜け出る賢さを持たねばならない。これにより漸く使い物になる。こう悟るべきではなかろうか。 れんだいこは、これをどのようにして発想したのか。それは宇沢弘文氏の経済論、政治論を聞き及んだからである。宇沢理論は太陽論理論法である。これが、れんだいこのインスピレーションである。今、宇沢弘文・内橋克人著「始まっている未来」(岩波書店、2009.10.14日初版)を取り寄せ、今日から読み始めることにしているが期待を裏切らないであろう。思えば、世事全般の諸々の戦線で太陽派と北風派が争っているのではなかろうか。これをハト派とタカ派とも云い換えることができよう。 分かったようで分からない階級闘争論棒を振り回すより、太陽派対北風派、ハト派対タカ派闘争論棒の方がよほど有益ではなかろうか。それが証拠に、階級闘争論棒はあらゆる分野で空を切り始めているのではないか。太陽派対北風派、ハト派対タカ派闘争論棒なら自在に振り回せるではないか。この観点から階級闘争論棒を改組すべきではなかろうか。と云うような気づきをイソップ物語「北風と太陽」譚でさせて貰った。イソップの慧眼に感謝したい。 思索ノート集 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/ronpyo/tetugakunote/tetugakunote.htm) 2010.11.04日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評848 | れんだいこ | 2010/11/05 21:19 |
【ウェブテレビ歓迎考】
2010.11.3日、民主党の小沢一郎元代表が、ニコニコ生放送の特別番組「小沢一郎ネット会見~みなさんの質問にすべて答えます!」に出演した。これは、政治家が既成メディアに代わる新媒体を利用したと云うことに於いてとても重要な史実になると思う。後世、さすが小沢どんと評されることになろう。 れんだいこは遅まきながらニコニコ動画なるウェブテレビの存在を知った。その気になって検索してみると、ニコニコ動画のみならず政治ポータルサイト「リアル・ポリティクス・ジャパン」、「デジタル化でもうすぐ可能に!ひとりでも開設できるジャーナリスト放送局」等の動きが始まっていることが分かった。ユーチューブに続く新しい波のこの動きを歓迎したい。遂に待ちに待った既成マスコミメディアの解体、革命的再生の具体的対抗手段が現れたとみなす。この動きは止まらないのではなかろうか。もし止める者が有るとするならまさしく反動派のそれであり、それも空しい企てに終わるだろう。 ニコニコ動画は、2006.10月、戀塚昭彦氏が基本システムを開発し、同年12.12日、サービスを開始して以来、今日までバージョンアップし続けている。2008.5月、ロンドン大学の Goldsmiths Media Research Programme の研究グループが、ニコニコ動画を「情報社会における新しいメタデータのあり方」として研究する為に来日し、長期の調査を行ったとのことである。と云うことは、ニコニコ動画は世界のネットに先駆けて日本でウェブテレビ化に成功しつつあると云うことであろうか。すばらしいことではなかろうか。 阿修羅情報によると、「デジタル化でもうすぐ可能に!ひとりでも開設できるジャーナリスト放送局」の動きが伝えられている。これができれば、これまたすばらしい。れんだいこも「れんだいこ放送局」を持ちたい。朝夕深夜のニュース番組の時間帯に合わせて「れんだいこニュース」を届けて、多くの視聴者を引き寄せたいと思う。なぜか。それは、現下のようなネオシオニズム被れの御用聞きコメントばかりが一斉に流されている現実が耐えられないからである。それが証拠に、「検察による検察の為の検察逮捕」と云う前代未聞の珍事が起きているのにパタッと鳴りを潜め伝わらないではないか。所詮どうでも良いことをあの手この手で大袈裟に論ってばかりしているではないか。 これ以上、既成メディアの電波ジャックが続いたら、オヤジが現実の世間で格闘して生身の知恵を獲得しつつあると云うのに、妻子がテレビで捕りモノばかり見せられて、家庭内でますます話が合わなくなろう。喫茶店や居酒屋で、たまに政治論議に及んでもマスコミメディアの請け売りしかしない連中ばかりとなろう。「脳内を我々の陣営に獲得せよ!」。これはとても大事なことではなかろうか。長らく憂い煩ってきたが、今漸く新メディアが生まれつつあることを歓迎したい。 小沢どんが、なぜニコニコ動画を選んだのか? 次のように述べている。「ニコニコ動画は非常に多くの人にオープンで、(多くの人が)意見を言えるし、それに対して僕も反論できる。その意味では、多くの方に分かってもらえるからいいのではないかと思って、今回も出演の要請を快く受けた」。つまり、ニコニコ動画には生放送の直接性」と、直ちに視聴者のメールやコメントを受けてのやり取りができる双方向性に於いて画期性があり、小沢どんが逸早く政治的嗅覚で活用したと云うことになる。番組は休憩を挟まず1時間半にも及んだ。番組終了後、小沢どんは、ニコニコニュース編集部の再出演打診に対して、「(ニコニコ生放送は)自由に自分の意見を言えるし、見ている人、聞いている人の反応もすぐあるので、とてもやりやすい。またお招きいただければ行きたい」と意欲をみせた。 すばらしい。この動きが加速すれば、朝夕深夜のろくでもないコメンテーターによるニュース番組を見なくて済む。こういうことが本当に可能な時代に突入しつつある。れんだいこにはエンジニア的能力がないので、関係者諸君の奮闘を祈る。チョサクチョサクと煩い田吾作野郎によって既にイジメられているようであるが負けてはいけない。西欧では既にチョサク退治が始まっている。それを知ってか知らずでか日本では猛威を振るいつつある。せっかくの革命的進歩が日本で抑えられ、海外に「お株」を奪われるようなことがあっては絶対にイケナイ。過去何度かあったことであるが、それを危ぶむ。 2010.11.5日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評849 | れんだいこ | 2010/11/06 22:11 |
【マルティン・ニーメラーの警句考】 ここで、フリードリヒ・グスタフ・エミール・マルティン・ニーメラー (Friedrich Gustav Emil Martin Niemöller)(1892年1月14日 - 1984年3月6日)の警句を採り上げる。少々気になることがあるので、お知恵を貰いたい。 マルティン・ニーメラーの概要履歴は次の通りである。「ウィキペディアのマルティン・ニーメラー」を転載する。 ドイツの神学者、ルター派牧師。ナチスに反対し読み上げた詩「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき (First they came for the Communists)」で知られる。最初は保守派として知られ、アドルフ・ヒトラーの支持者だったが、告白教会の創立者の一人となりドイツプロテスタント教会のナチ化に強く反対するようになる。ナチの教会に対する国家管理への反対行動によって、1937年から1945年までの間ザクセンハウゼン強制収容所とダッハウ強制収容所に収容される。命からがらホロコーストをまぬがれ収容所から生還する。1950年代から平和主義者、反戦運動家として声をあげるようになる。ベトナム戦争中もホー・チ・ミンと面談し、反核運動でも活動。彼の言論には反ユダヤ的側面があったとする学者もいる。 「マルティン・ニーメラーの警句」は一般に次のように流布されている。 「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、私は共産主義者ではなかったから。社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、私は社会民主主義者ではなかったから。彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、私は労働組合員ではなかったから。彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、私はユダヤ人などではなかったから。そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」。 この警句について、れんだいこは次のように考えている。この文句を疑うことなく、「市民一人一人が今立ち上がる時とする呼びかけ」として聞ける者はシアワセである。この文章は1ケ所臭いところがある。共産主義者、社会民主主義者、労働組合員の次にユダヤ人とある下りである。果たして、ここにユダヤ人が登場する必然性があるだろうか。他のフレーズ例えば法律違反者だとか街頭デモ者とか「何らかの結社員」だとかとあれば問題ない。と云うか話の流れが合う。なぜ、ここに突如「ユダヤ人」が登場するのだろうか。マルティン・ニーメラーには、それが自然であったのかも知れない。しかし、れんだいこは不自然さを感じる。 同時に次のことを教える。「マルティン・ニーメラー的自然さ」の方が自然であったのかも知れない。なぜなら、歴史的に見て、それほどユダヤ人と共産主義者、社会民主主義者、労働組合員達の運動が近いところにあったと云う史実があるからである。では、ユダヤ人はなぜ親しかったのだろうか。この解はここでは省く。問題は、ユダヤ人だけが共産主義者、社会民主主義者、労働組合員達の運動の良き理解者だったのだろうかと云うことにある。ここに不自然にユダヤ人だけを持ち出すことにより、ユダヤ人に天賦の好意を寄せるよう細工されているのではなかろうかと云う疑念が湧く。ネオシオニズムを研究すれば、こういう細工が多いので注意しておくに越したことはなかろうと思っている。 もとへ。マルティン・ニーメラーの警句は様々に訳されている。こうなると、原文に当たらざるを得ない。ところが、ネット検索で原文が出てこない。ウィキペディアでは1976年バージョンとして独語、英語が紹介されているが、原文は1976年ではなかろう。「ニーメラーの警句の原文について」なるサイトがあるが、紹介されているのは和訳文のみである。当然の如く「正しい原文」開示が催促されている。なも拘わらず原文開示がない。 わざわざ「ニーメラーの警句の原文について」とする以上は原文開示、次に英訳、次に和訳の労を取るべきではなかろうか。しかしながら、サイト管理人の答えがない裏には原文に行きあたらないと云う事情があるのではなかろうかと思われる。とてもオカシナことである。どなたかが、恐らく原文はドイツ語であろう、それを教えて下されば助かる。れんだいこは多少のドイツ語ならできる。原文に当たらないと気持ち悪い。 それはともかく、和訳文を確認しておく。 1例。はじめにやつらは共産主義者に襲いかかったが、私は共産主義者ではなかったから声をあげなかった。つぎにやつらは社会主義者と労働組合員に襲いかかったが、私はそのどちらでもなかったから声をあげなかった。つぎにやつらはユダヤ人に襲いかかったが、私はユダヤ人ではなかったから声をあげなかった。そして、やつらが私に襲いかかったとき、私のために声をあげてくれる人はもう誰もいなかった。 2例。ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。 3例。ナチが共産主義者を襲ったとき 自分はやや不安になった けれども結局自分は共産主義者ではなかったので 何もしなかった それからナチは社会主義者を攻撃した 自分の不安はやや増大した けれども依然として自分は社会主義者ではなかった そこでやはり何もしなかった それから学校が,新聞が,ユダヤ教徒が というふうにつぎつぎと攻撃の手が加わり そのたびに自分の不安は増したが なおも何事も行わなかった さてそれからナチは教会を攻撃した 私は教会の人間であった そこで自分は何事かをした しかし、そのときにはすでに手遅れであった 4例。ナチスがコミュニスト(共産主義者)を弾圧した時,私は不安に駆られたが,自分はコミュニストではなかったので,何の行動も起こさなかった。その次,ナチスはソーシャリスト(社会主義者,労働組合員)を弾圧した。私はさらに不安を感じたが,自分はソーシャリストではないので,何の抗議もしなかった。それからナチスは学生,新聞人,ユダヤ人と,順次弾圧の輪を広げていき,そのたびに私の不安は増大したが,それでも私は行動に出なかった。ある日ついにナチスは教会を弾圧してきた。そして私は牧師だった。だから行動に立ち上がったが,その時は,すべてがあまりに遅過ぎた。 5例。ナチが共産主義者を襲ったとき,自分はやや不安になった.けれども結局自分は共産主義者ではなかったので何もしなかった.それからナチは社会主義者を攻撃した.自分の不安はやや増大した.けれども依然として自分は社会主義者ではなかった.そこでやはり何もしなかった.それから学校が,新聞が,ユダヤ教徒が,というふうにつぎつぎと攻撃の手が加わり,そのたびに自分の不安は増したが,なおも何事も行わなかった.さてそれからナチは教会を攻撃した.私は教会の人間であった.そこで自分は何事かをした.しかし,そのときにはすでに手遅れであった. 6例。彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった(ナチの連中が共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった)。私は共産主義者ではなかったから。社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、私は社会民主主義ではなかったから。彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、私は労働組合員ではなかったから。彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、私はユダヤ人などではなかったから。そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。 ドイツ語文(1976年)は次の通りである。 Als die Nazis die Kommunisten holten,habe ich geschwiegen; ich war ja kein Kommunist. Als sie die Sozialdemokraten einsperrten,habe ich geschwiegen; ich war ja kein Sozialdemokrat. Als sie die Gewerkschafter holten,habe ich nicht protestiert; ich war ja kein Gewerkschafter. Als sie die Juden holten,habe ich geschwiegen; ich war ja kein Jude. Als sie mich holten,gab es keinen mehr, der protestieren konnte. 英語訳文(1976年)は次の通りである。 First they came for the communists, and I did not speak out,(When the Nazis came for the communists, and I did not speak out,) because I was not a communist; Then they locked up the social democrats, and I did not speak out,because I was not a social democrat; Then they came for the trade unionists, and I did not speak out,because I was not a trade unionist; Then they came for the Jews, and I did not speak out,because I was not a Jew; When they came for me,and there was no one left to speak out for me. 1976年版の独語、英語に従うと、れんだいこ訳は次のようになる。 最初に、彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった(ナチスが共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった)。なぜなら、私は共産主義者ではなかったから。次に、彼らが社会民主主義者を牢獄に入れたとき、私は声をあげなかった。なぜなら、私は社会民主主義ではなかったから。次に、彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は抗議しなかった。なぜなら、私は労働組合員ではなかったから。次に、彼らがユダヤ人たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった。なぜなら、私はユダヤ人ではなかったから。彼らが、私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は誰一人残っていなかった。 しかしながら、原文開示のなきままの1976年版訳をしても何になるだろうか。とにかく不自然である。簡略文が流布されるにしても、まず原文が開示され、それからのことであろうに。著作権に煩い割には、こういうところが杜撰であるのは解せない。どなたか応援を頼む。 補足しておけば、マルティン・ニーメラーの履歴に「1937年から1945年までの間ザクセンハウゼン強制収容所とダッハウ強制収容所に収容される。命からがらホロコーストをまぬがれ収容所から生還する」とある。これは、マルティン・ニーメラーはユダヤ人と云う意味だろうか。ユダヤ人でなかったがザクセンハウゼン強制収容所とダッハウ強制収容所に収容されたのだろうか。どうも解せない。ユダヤ人であったとしたら、警句にわざわざユダヤ人を挟んだ下りが素直に読めないことになる。 結論として、「マルティン・ニーメラーの警句」には自然な名文と云うより加工されたプロパガンダ性名文の臭いがつきまとう。こう感じるれんだいこの方がオカシイのだろうか。この辺りもご批判頼みたい。 2010.11.6日 れんだいこ |
Re::れんだいこのカンテラ時評850 | れんだいこ | 2010/11/08 23:18 |
【石にしがみついてもなどと云い始めたらオワ考】
2010.11.8日、久しぶりに議員定数問題に言及して見る。と云うのも、国会質疑を聞きながら思った。自民党のシオニスタンと民主党のシオニスタン同盟が、互いに見解の相違はないと何度もエールを交換しながら遣り取りしている。こういう芝居ほど臭いものはない。嫌々ながら少し聞いてみた。何のことはない、小沢の徹底訴追、日中離間、日露離間、日米同盟進化、消費税等の増税、国債累積債務対応無能化路線で阿吽の呼吸で一致しながら、締りのない遣り取りを通じて衆院解散に持って行こうとしている。菅がボロボロになればなるほど選挙有利として、その為の地均し質疑と答弁を繰り返している出来レースに過ぎない。バカバカしい。 そこで、以下の考察に入る。こんな政治をさせる為に国会議員を抱え込むのは、もはや最大の無駄である。やはり議員定数を削減せねばならない。掛け合い漫談しかできない国会なら野放図に議員貴族を抱えるに及ばない。経費削減を云うのなら、まず自らが襟を正して議員定数を削減し、次に官僚貴族の冗費削減、国家予算の上手な使途を指令すべきではなかろうか。手前らの権益をそのままにして官僚、国家公務員の懐に手を突っ込むのは無理がある。そう思った。これまでは少数野党が断固反対するので、それもそうかなと思っていたが、よく考えると現下の少数野党で値打ちのある党はない。少数野党権益の為に都市部で異常な議員定数を設定するのは却って不正、邪道である。そういう意味で、何のシガラミのない立場からの定数設定を試みて見ようと思う。 参考になるのは、島根県、鳥取県の全県2区制であろう。これを基準に、1・面積、2・人口、3・産業力、4・文化伝統力、5・都市計画の5要素から判定して行くべきではなかろうか。それを思えば、「指標2の人口比」だけで「1票格差違憲論」を弄ぶのは空理空論である。その論で行けば、今後ますます都市集中を強めるからして都市部の議員が過密化し、地方部の議員が相対的に影を薄くしよう。何のことはない、政治が都市集中、地方斬り捨てを促進していることになる。そういう意味で、「1票格差違憲論」そのものが胡散臭くなりつつある。 さて、上記の指標5基準で設定すると、ざっと次のようになる(個々の精密な検討は後日に期す)。北海道選挙区数12区→10区、比例定数8→5。同様にして東北25区→19区、14→10。北関東32区→20区、14→10。南関東34区→20区、22→10。東京都25区→15区、17→8。北陸信越20区→15区、11→8。東海33区→21区、21→11。近畿48区→30区、29→15。中国20区→16区、11→8。四国13区→12区、6→4。九州35区→29区、21→15。選挙区合計309区→207区、比例定数182→104、総議員数491→311。 これによれば、衆議院で180議席減となる。若干水増しするとしても150議席ぐらいは減ずることができる。衆議院定数は300―350議席で良いのではなかろうか。参議員定数の場合、選挙区73、比例代表48の計121議席×2=242議席となっており、これはこのままでも良いのではなかろうか。これによる節税効果は、議員給与、諸手当、秘書給与、その他選挙等の国家負担費用を勘案すれば年間で約1千億円になるのではなかろうか。この1千億円を何か上手に使う方が賢いのではなかろうか。例えば、内地振興の経済対策費に充てる等、有効な特定財源化せしめた方が賢明なのではなかろうか。税金上げなくても済むのではなかろうか。間違っても軍事防衛費に充てたり、アメリカの景気振興策に使うべきではない。 政治家の数が多いのは本来は問題ない。ところが、日本の現在と未来の為に身命を賭し、脳に汗を掻いているのなら大目に見ても良かったが、かくも公然と国際金融資本の下働きとしてのシオニスタン活動に邁進し、国家と民族の溶解政治へ向けての請負ばかりするなら要らない。手厚く待遇するに及ばない。真に有能な政治家を求める為にも一から出直さねばならないのではなかろうか。政治家が下手な政治をするので却って日本が衰退していることを思えば。 シオニスタン同盟は今後、消費税増税に向けて太鼓を鳴らすだろう。憲法改正による自衛隊の武装公然派兵、しかも恒常的な世界各地への派兵、しかも武闘化の道を敷くだろう。最終的に日本はIMF的な機関の管理統治に委ねられるだろう。なぜなら、そう云う風に仕向けられているから。それを思えば我々は、議員定数大幅減から始まり、高給与公務員規制、同天下り高給与待遇禁止、軍事防衛費削減、原子力発電政策からの撤退、官僚の権益的税金無駄遣い廃止等々を掲げてムシロ旗て応戦せねばならない。 次の問題もある。現下の不況は余りに長過ぎる。これは景気循環論で云えば有り得ないことである。つまり、国策不況化政治による意図的故意の政策によるものと云わざるを得ない。そんなことは有り得ないと思うよりも、誰が何の為にそういう政策を押しつけているのかを詮索した方が良い。例えば、前原が行くところ必ず悶着が起こり日本の国益を害しているが、これは偶然だろうか。彼は、有料高速道路の無料化をせぬまま国交相を降りたが、意図的故意に実施させなかったのではないのか。その前原が外相就任と同時に尖閣諸島の領有化問題が発生したが、これも臭い。れんだいこの眼には、日中シオニスタン合作謀略により敢えて政策的に引き起こした紛争ではないのか。なぜならアジアの緊張を高める為である。こう問う方が真相が見えて来るのではなかろうか。 尖閣映像流出は、もっと早い段階で国民に知る権利が有り、このこと自体が悪いのではない。問題は、菅政権をイタぶる形で漏洩され翻弄されているところにある。しかして、その裏には、闇勢力の仕掛けがあると見る。「sengoku 38」を名乗っているのも思わせぶりではなかろうか。菅首相は石にしがみついても延命したいとしているが、そういう言葉を使い始めると大概オワである。何のことはない、菅政権は小沢政権を阻止する為に登場し、政権交代政権効果を台無しにして、元の木阿弥に戻す為の橋渡しをしただけの話ではないか。このシナリオの根は深いと思う。 2010.11.8日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評851 | れんだいこ | 2010/11/09 19:21 |
【塚本三郎「田中角栄に聞け」を評す】
宇沢弘文、内橋克人「始まっている未来」の書評を書こうとしていたら、元民社党委員長の塚本三郎氏の「田中角栄に聞け」の書評を未発表にしていることに気づいた。これを先に投稿しておく。 元民社党委員長の塚本三郎氏が、「田中角栄に聞け」(PHP、2010.5.10日初版)を出版した。 (ttp://www.amazon.co.jp/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%A7%92%E6%A0%84%E3%81%AB%E8% 81%9E%E3%81%91-%E5%A1%9A%E6%9C%AC-%E4%B8%89%E9%83%8E/dp/4569775241) 塚本氏は、野党の民社党衆院議員として在りし日の角栄と直々の政治的交流を持った貴重な角栄証人の一人である。本書の文意は、塚本氏の性格なのだろう、角栄を褒めたり貶したり、持ち上げたり引き降ろしたり忙しく書いている。サワリを述べて容易に尻尾を掴まさない。但し、全体の論調として、「七分の理と三分の理」の例えで表象されるように角栄政治是認論にシフトしている。恐らく、角栄政治訴追後の日本政治の質の堕落を見るにつけ、政界置き土産として角栄懐旧譚を遺しておきたくなったのではなかろうか。これが本書の執筆理由であると思われる。 その内容を見るのに、塚本氏自身の政治活動歴と並走させて角栄を語っているところに特徴が認められる。部分的に取り込みたいところがあり、これにより、れんだいこの角栄研究はより値打ちを増すだろう。初見として、全日空が当初時点で購入見込みしていたDC10が後日、パリ郊外で離陸に失敗し、乗員乗客全員が死亡したこと、その中に社員研修で団体旅行していた東海銀行の社員が居たことを記している。角栄が首相になってニクソンとの初会談をハワイで行った時、中曽根通産大臣を連れて、アメリカの対潜哨戒機P3Cを大量に買い付けた云々も初見である。これらを取り込ませて貰おうと思う。 本書に特別の敬意を表しておかねばならないことがある。それは、塚本氏が、本文中に、れんだいこの角栄論から2ケ所引用して下さっていることである。巻末の参考文献の末尾でも「れんだいこ、議会政治家の申し子としての田中角栄」と記して頂いている。恐らくこれが、書物上最初のれんだいこ紹介になるのではなかろうか。ネット上では既に多くの方から引用転載したりされたりし合っているのだけれども。塚本氏より何がしかの評価を頂いていることが分かり、うれしいと思う。 こう書くと、以下の筆述が衰えるのだけれども一言しておく。塚本三郎氏の角栄伝は角栄論の空漠を埋め合わせる意味で何がしか貢献している。塚本三郎氏の角栄を視る目線は温かく、好感が持てる。但し、肝心なことは次のことにある。既に増山栄太郎氏が「角栄伝説ー番記者が見た光と影」で幾分か光を当て、れんだいこが強く放射しているところの「角栄政治の社会主義性」に対するコメントが皆無である。この辺りが角栄論としては既に遅れている。そういう意味で、この観点からの次作を期待したい。 なぜかと云うと民社党政治論と絡むと思うからである。思えば、若かりし頃のれんだいこは、民社党を一番嫌っていた。民社党は労働者階級の側から労資協調路線を生み、それを是する政治論を党是としていた。れんだいこは、これをヌエ的と評していたからである。あの頃、左派系議会主義政党としては民社党を最右翼、社会党を中間派、共産党を最左派と思いこみ、共産党的立ち位置こそ是としていた。田舎からポット出したばかりのれんだいこの20歳の政治論であった。しかしながら、あれから40年。れんだいこは今、そういう評価を全く無意味としている。社共的口先批判政治運動、その実裏協定路線こそヌエ的と評しているからである。 実際の民社党の政治的役割は評するに値しない。なぜなら、常に体制的であり、資本の側に立って労働者階級の利益を後回しにして来たからである。或いは排外主義的民族主義の見本みたいな愛国主義運動を展開してきたからである。ところが、現在のれんだいこの民社党を見る眼は温かい。なぜなら、戦後憲法体制=プレ社会主義論を生みだしているからである。 民社党政治に幾分かの正義性があったとしたなら、民社党こそ逸早く戦後憲法下政治のプレ社会主義性を見抜き、戦後体制下の日本は捨てたものではないとして体制容認し、その立場から高度経済成長しつつある在りし日の日本を客観化させ、それを是とする立場から労使協調路線を生み出し、徒な批判よりも実践力のある体制改良運動に乗り出していたと思われる節があるからである。イデオロギーに流れず、いわば本能的に戦後日本の社会体制を「よりまし」としていた分別が評されるに値すると思われるからである。 この観点は、民社党内に於いては佐々木良作に強く、春日一幸に弱く、塚本三郎は両者の中間的立場であった。佐々木良作よりは春日一幸に近かった塚本三郎は、そういう意味では凡庸過ぎる政治家でしかなかった。そういう塚本氏に「角栄政治の社会主義性」を再評価せよと願うのは、できない相談かも知れない。しかし、その塚本氏が今現に「田中角栄に聞け」を著し、「七分の理と三分の理」の例えで角栄政治を再評価せんとしている。歴史は面白いと思う。 変な話になるが、塚本氏は、れんだいこ史観による民社党政治の良質性に気づき始めたのではなかろうか。自身が何故に社会党ではなく共産党ではなく民社党に立ち位置したのか、それを自問自答し始めたのではなかろうか。戦後憲法下政治のプレ社会主義性と云う観点から体制護持に向かった民社党の見直しを引き受け、それは同時にそういう戦後体制の牽引者であった池田―角栄政治の良質性を説くことなしにはできない。そういう意味で、「敵ではなく味方に近かった角栄政治」との交流史に光を当てた党史をものしておく必要があることに気づいたのではなかろうか。 既に民社党は解党している。今となっては現実的意味は薄い。だがしかし、社会党が解党し社民党となり、共産党と揃ってかっての民社党よりもより右派的立場で議会主義政党として純化し、責任政治を引き受ける意思も能力もない万年野党の弱小政党に甘んじ、特段の苦痛を覚えていないマンネリ政治に没していることを思えば、かっての民社党の立ち位置を明らかにしておく意味がないわけではなかろう。旧社共が、戦後憲法下政治のプレ社会主義性論を獲得せぬままに、理論的に戦後体制否認のままに体制修繕運動に乗り出している腐敗を衝く意味からも、或いは又何の理論的獲得もなしにひたすらに改良運動に転じている自己批判抜きの実践的腐敗を衝く意味からも。 それはともかく、恐らくそういう感慨なぞ微塵もないままながら、2010年現在の立場から、矢も盾もたまらず角栄見直しの声を上げた塚本三郎氏の本能的政治感覚を称賛したい。その態度は、角栄生存中は諸悪の元凶金満論で落し込め、生没後は「外国からの5億円のハシタガネに手を出した論」なる困窮角栄論で二重三重に顔に泥を塗って恥じない日共不破の角栄論との鮮やかな対比を示している意味で値打ちがあろう。この言をもって締め括りとしたい。 2010.05.05日 2010.11.09日再編集 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評852 | れんだいこ | 2010/11/11 22:19 |
【「中国漁船衝突、船長逮捕尖閣事件」、「神戸海保職員による尖閣事件映像漏洩事件」の胡散臭さ考】 尖閣諸島海域での「中国漁船衝突、船長逮捕尖閣事件」(以下、「衝突逮捕尖閣事件」と云う)、「神戸海保職員による尖閣事件映像漏洩事件」(以下、「尖閣事件映像漏洩事件」と云う)の胡散臭さについて述べておく。まず「衝突逮捕尖閣事件」は、9.1日公示、9.14日投開票の民主党代表選の最中の9.7日に発生している。これは偶然だろうか。なぜこの時期に発生したのだろうか。そもそも、この時、偶然に中国漁船が現れ事件に及んだのか、平素より漁活動していたところを急に警告を発し、衝突逮捕に及んだものか、これに対する検証がされていない。中国漁船衝突事件のキーポイントはここにあると思われるのに、これを詮索しようとしていない。前者なら、中国漁船が急に現れた事由を解析せねばならない。後者なら、海上保安庁が急に拿捕含みの警告を発した事由を解析せねばならない。どちらにしても事件は工作された気がしてならない。 現在、尖閣事件の映像漏洩事件が発生しているが、それぞれの艦船が2時間に及ぶ捕りもの劇の映像を残している。この映像は、海上保安庁が常時この程度の映像能力を持つことを示していると云うことだろうか。あらかじめ事件が想定されており、しっかりと映像化した面があるのではなかろうか。れんだいこが映像を見て思うのに、海上保安庁側も中国漁船側も、これから何が起こるか予見していたような「双方の落ち着き」が見て取れる。これは、この事件が工作されたことを意味していないだろうか。 マスターテープの映像の全てが開示されたなら、中国漁船が海上保安庁の艦船数隻に包囲され、逃げることができたのかできなかったのかが判明しよう。海保は、「当初、領海外への退去を警告。逃走後はマイクや電光掲示板などを使い中国語で停船を呼びかけ、危険でない程度に前方に回り込んだり、放水も行った」と発表している。一方、漁船は危険な動きを繰り返し、逃走開始時に巡視船「よなくに」、逃走中に「みずき」と接触した。海保関係者は「意図的でないと考えられない動き」と解説している。確かに直接の衝突シーンでは誰が見ても中国漁船の方が突っ込んだ形になっている。しかしながら、突っ込むように誘い追い込んだ可能性も捨てきれない。その時の海上保安庁の艦船数隻の位置も確認しなければ不公正だろう。あるいは、端から衝突予定で現われているのかも知れない。 そういう意味で、警告活動開始から漁船拿捕までのマスターテープ映像全てが公開されなければオカシイ。下手な編集は要らない。菅政権は、何を思ってかひたすら隠そうとし、こたび漏洩された。政権交代前の「国民の知る権利擁護」と比べオカシイではないか。補足しておけば、菅政権の言動と行状は、今後野党に転落した場合、二度と政府批判できないような悪例を積み重ねつつある。一々挙げたらキリがないほどであり、「オマエモナ―」の一言で済まされてしまうであろう。問題は、なぜそういう愚行をするかである。 もとへ。全マザーテープの全公開が要望されている。菅政権の粗脳オツムで判断するより、我々の判断の方がよほど事態を正確に認識し得る。特にはっきりさせておきたいことは、件(くだん)の中国漁船が尖閣諸島周辺を常日頃から漁場としていた顔なじみなのか、突如やって来た不思議な漁船なのかの詮索である。前者なら、海上保安庁側がこの時なぜ急に拿捕含みの警告活動に入ったのか、指令があったのかどうかが追証されねばならない。後者なら、現場に珍しい中国漁船がなぜやって来たのかが詮索されねばならない。肝心のこういうことが判明しないと云うことは、マトモな報道が為されていないことを意味する。逮捕された船長、乗組員然りで本当の漁師なのか、俄か仕立ての漁師なのかも分からない。これについては一部で、中国軍人説が流されている。これも検証せねばならない。 事件は、中国漁船乗組員全員が拘束され、中国船長が逮捕され起訴された。乗組員は釈放された。この事件が速報されるや中国で反日デモ、日本で反中デモが起り、中国政府がレアアース(希土類)輸出制限を持ち出し、9.23日、中国在留の建設会社フジタの社員4名逮捕事件へと飛び火した(10.9日釈放)。9.24日、那覇地検が「政治的判断含みの独自の判断」により船長が釈放されたのは衆知の通りである。これを廻っても反日デモ、反中デモが増幅された。この反日デモ、反中デモは自然発生的なのだろうか、工作含みの面があるのではなかろうか。結果的に、外交果実として日中離間がプロパガンダされた。この事件は、いつしか起こるものが偶々この時に発生したのか、仕組まれた事件なのかはっきりさせねばならない。 れんだいこが想起するのは、1974(昭和49)年の田中政権下での田中首相一行のASEAN歴訪時の反日デモである。1.7日、田中首相が、フィリピン、タイ、シンガポール、マレーシア、インドネシアの東南アジア5カ国歴訪に出発した。1.8日、フィリピンのマルコス大統領と会談。1.9日、タイの首都バンコクで、「経済侵略反対」、「田中帰れ」と叫ぶ学生らの激しい反日デモに迎えられた。日本商品がタイの総輸入の半分近くを占め、対日赤字が毎年2億ドル(約580億円)にものぼる日本の対タイ経済政策に対する反発で、約5000人のデモ隊が首相一行の宿舎前に押しかけ、田中首相の似顔絵や日本車の模型を次々に焼いた。田中首相は、学生代表と対話集会に臨むと云う異例の外交履歴を残している。タイ国王のラマ9世(プミポン大王)が「あなたたちの使っているマイクも日本製だ。皆が持ちつ持たれつだ」と戒め、デモが鎮静化した。1.10日、タイのサンヤ首相と会談。1.11日、シンガポールのリー・クァン・ユー首相と会談。1.14日、マレーシアのラザク首相と会談。1.15日、インドネシアのスハルト大統領と会談。ジャカルタでも1万人のデモ隊が暴動化し、日本大使館の国旗が引きずり降ろされ、日本車など200台以上が焼かれる騒ぎとなった。 この時の反日デモが工作されたものであり、背後に国際金融資本帝国主義(この場合はCIA)のヤラセがあったとも伝えられている。これについてネット情報を検索してみたが詳細なものがない。確か、どなたの論文を読んだことがある。今後確認して見たいと思う。これを思えば、事件の背後には時に「国際金融資本帝国主義のヤラセ操作」があると勘繰らねばならない。れんだいこは、ロッキード事件の喧騒の裏にもこの種のものがあったとみている。この論法によれば、当然こたびの事件もこの線から洗われねばならない。口角泡を飛ばして正義ぶるのは遠慮勝ちぐらいで丁度良い。 さて、現在はユーチューブ投稿による「尖閣事件映像漏洩事件」へ転じている。この事件の臭いところは、容疑者が露見するまでは海上保安庁側か検察庁側か不明、犯人割り出しは難しいとされていたのに、読売テレビの山川友基記者が逸早く容疑者を洗い出し、事前に取材しているところにある。 山川記者は、この情報をどのように入手したのだろうか。山川記者がどうやって嗅ぎつけたのか、それとも誰かが読売テレビにリークし、山川記者が担当するよう命ぜられたものなのか説明責任があろう。容疑者の神戸海上保安部の海上保安官(43)氏も、件の映像をどのように入手したのか説明責任があろう。漏洩を義挙と看做す向きもあるが、ことは単純ではない。神戸の海上保安部で入手できたのであれば他の地域でも可能であったと云うことになる。厳重に管理されていたとするなら、どうやって入手したのだろうかか。単独犯ではないと云うことになろう。厳重管理前の入手説も胡散臭い。問題は、神戸海上保安部の海上保安官(43)氏が単独入手したのか、介在者が居るのかどうかである。それが義挙精神で為されたものかどうか、政権揺さぶりの陽動作戦なのかどうか今現在は分からないとすべきだろう。 真の問題は、この両事件を通じて悶着が起こるように起こるように誘導されていることにある。菅首相からして事件勃発の数日後に於いても「映像確認していない」と平然とのたまわってきた。それが違和感なく許されてきたが有り得てならないことではなかろうか。あきれる官邸主導政治の実態ではなかろうか。 前原外相以下他の閣僚も日本領土論をぶち上げ、ことが揉めるように揉めるように誘導して来た。仙石官房長官も同じであるが、先日は厳秘メモをわざわざ撮影されるように開いて見ていて、盗撮されたと臭い芝居をしていた。厳秘メモを開いて見ていること自体がオカシイではないか。その前には柳腰外交論をぶって顰蹙を買っている。漏洩容疑者逮捕情報が海上保安庁長官に伝えられていたにも拘わらず、国会質疑中と云う理由で三時間近く捨て置かれ官邸に伝えられなかった。これもオカシイではないか。全てが悶着が起こるように誘導されているのではないのか。 れんだいこには次第に衆院解散の足音が聞こえてくる。政権交代効果の期待で発足した民主党が、鳩山-菅政権の二代にわたってマニュフェストを徹底的に棚上げ又は変造し、消費税増税、武器輸出禁輸解禁、農産物完全自由化、自衛隊派兵、同海外援助金の大盤振る舞い等々、意図的故意に民主党はアカンとする食傷化政策を押し進め、政権交代機運をすっかり壊した揚句に衆院解散、元の木阿弥に戻そうとしているように見える。これを上からやっているところが異常である。そういう筋書きが有り、役者が踊っていると云うことであろう。 世の中何が幸いするか分からないので、与野党こぞって臭い芝居をし続けるが良かろうが、これだけは云っておく。今後、れんだいこの近くに菅及びその一派が寄ってきたら、罵声以外にないということだけは覚悟しておけ。サヨもダメだが、リベラルも同じ穴のムジナだったということが明確になり、失望するやらスッキリするやら。これが唯一の果実となった。 2010.11.11日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評853 | れんだいこ | 2010/11/12 21:49 |
【公務員の適正給与考私案】 いつか云いたかった公務員給与問題にコメントしておく。その実態はなかなかあきらかにならない。「日本の政治改革」(ttp://www.kyudan.com/)が次のように記している。「公務員の給与」として「国家公務員5兆円、地方公務員22兆円。家賃ただ同然の公務員住宅、タクシー代、飲み代、気晴らし旅行等々。管理費、経費等推計で同額の 27兆円とすると合計54兆円の国家支出」、「公務員の退職後の天下り先での収入推計で合計 30兆円」、「日本国の税収合計37兆円。日本国で徴収されている税金ではとても公務員を養えない」。 確証は取れないが貴重なデータではなかろうか。これを明らかにする職掌の省は何省なのだろうか。一刻も早く、「国の税収額に対する公務員給与額の比率」、「地方自治体の税収額に対する地方公務員給与額の比率」、「国の税収額に対する一国会議員を養う為の総支給額」、「地方自治体の税収額に対する一地方議員を養う為の総支給額」を明らかにさせねばならないのではなかろうか。民主党政権下の事業仕分けが肝心なところにメスを入れない単にパフォーマンスでしかないことがはっきりしつつある折柄、我々は本当の財政再建に向けての基礎資料を寄せねばならない。ところが、こういう肝心の情報になると途端に雲隠れしている。 「公務員の給与問題」を審議したところが、気休め的な僅かの%削減、数減らしで誤魔化されようとしている。本当に問題なのは、「公務員の給与問題一般」や「数減らし」ではない。ズバリ「高給公務員」、「高給天下り公務員」の給与が問題なのではなかろうか。碌に仕事もしないお飾りにも拘わらず、高給与、高額退職金の谷渡りを許し続けていることが問題なのではなかろうか。 この問題を俎上に上げるべき時に、一律%削減、数減らし対応は却って反動的なのではなかろうか。それは、企業の資本都合的なリストラ問題を俎上に上げて論じている時に、どこかの党が得手とする残業手当問題にすり替える例に似ていよう。れんだいこは気持ち悪い。そういうすり替え議論の場を幾ら設けても、何度議論しても、まともな話にはなるまい。昨今の日本では、こういう変な会議が流行り過ぎているように思う。 その点で、2009.2月、鹿児島県阿久根市の竹原信一市長が阿久根市ホームページで全職員の給与明細を公開したのは画期的であった。「年収700万円以上の職員が54%もいる。市の将来は人件費を適正化できるかどうかにかかっている」とコメントしている。生の資料公開であり、こういう実態が判明しただけで値打ちがある。 マスコミメディア的には竹原市長の人気が悪いようであるが、それは逆のことを意味している。日本では、ロッキード事件以来、マスコミ受けが良いほど悪で、悪いほど善だと考えた方が良い。例えば、マスコミが中曽根、小泉を名宰相と持ち上げ、角栄を諸悪の元凶と罵詈雑言する時、中曽根、小泉はワシントン受けの良い売国奴、角栄はワシントン受けしない日本思いの政治家と逆に翻訳し直した方が良い。評論家も然りで、中曽根、小泉を名宰相と持ち上げる者は同じ穴のムジナ、角栄を再評価する者は眼力ある有能士と思えば良い。時代が狂っている時には、そういう逆読みが必要であろう。そういうややこしい時代になっている。 もとへ。公務員の適正給与はどの辺に設定すれば良いのだろうか。れんだいこは考えた。2010年基準で、市町村公務員の場合、40歳前後の一般職平均で年収600万円辺りで良いのではなかろうか。なぜなら、これぐらいの収入がよく働くからである。後は役職が上がるに従い年収800万円ぐらいが適正で、それが嫌なら辞めてもらえば良い。市長は年収1200万円を上限、それ以下の役職は市長給与の9割、8割と順次差額化すれば良かろう。それと、年収1000万円以上を上席として人数制限せねばなるまい。この基準で行くと、全国の市町村給与実態はどうなのだろう。現行給与が、これ以上の場合には強制的直ちに国庫へ収納させれば良い。これを仮に「公務員給与上納金」と命名する。これをプールして内治に有益な事業の特命財源にすれば良い。 都道府県公務員の場合、市町村公務員の1.2掛け待遇とする。国家公務員の場合、都道府県公務員の1.2掛け待遇とする。これが基準になるべきではなかろうか。この逆はあってはならないのではなかろうか。田舎の地方自治体と都会のそれを調整せねばなるまいが、それは変数で処理すれば良かろう。 公務員のボーナスは廃止する。直ちに廃止は難しいので、当分の間を春秋の2度、月収の2カ月分額支給する。これ以上を認めてはならない。当然、現行給与が、これ以上の場合には強制的直ちに「公務員給与上納金」に移管する。これによる「公務員給与上納金」は年額で一体幾らプールされることになるだろうか。れんだいこには興味がある。どなたか計算して欲しい。総務省が担当省なら計算結果を公開せよ。 選挙の洗礼を受ける議員の場合には、供託金性制ありで市町村議員に限度額500万円、県会議員に同1000万円、国会議員に同5000万円の選挙資金を手当てしても良かろう。なぜなら、有能な議員を得る為である。選挙費用の心配をなくすれば、不正の贈収賄を受ける必要もなかろう。これにより政党交付金なぞなくすれば良かろう。あれは悪の温床になる。その代わり、れんだいこ的には政党、議員それぞれ企業、業界、団体、組合からの政治献金を政治資金収支報告書に絶対記載と云う条件付きで認めたい。ヒモ付き献金にならないよう政党には政党の議員には議員の上限額を定めれば良かろう。これに納得しない者が多いが、結論的には政治観の差としか云いようがない。 公務員給与をこのように按配したとすると、民間企業トップの十数億円給与問題をどのように捉えるべきだろうか。思うに、公務員給与が範を示すことにより序々に右に倣いだすのではなかろうか。各企業に高給者公開を義務付ければ良かろう。労働組合がしっかりしておれば、労資協議の場で問題にし、互いの相場感を遣り取りすれば良かろう。その企業の労働者の最低賃金の100倍以上の給与禁止規定を設けても良かろう。適正値は50倍辺りを限度とすべきではなかろうか。上は下を思い、下は上を思う日本の伝統的上下関係の倫理からすれば10倍ぐらいが慣例だったのではなかろうか。このところ、国際金融資本帝国主義の収奪経営システムが導入されて以来、格差が青天井になってしまっている。これを自律規制する雇用倫理が望まれているのではなかろうか。「公務員給与上納金」の例に倣えば、「民間人給与上納金」を設け、これをプールして内治に有益な事業の特命財源にすれば良い。 こういう観点から国家財政の無駄なあるいは邪な経費の見直しをすれば、現在民主党のやっている事業仕訳のオタク性が見えて来よう。現にある事業体の廃止を云々するよりも給与制限で済むのではなかろうか。廃止されたり大幅予算削減されようとしている仕事舘、アニメ舘、正式名は失念したが宇宙工学研究所、その他諸々の対象は、日本の明日に有益なものばかりが狙い撃ちされている気がする。国際金融資本帝国主義のシナリオ通りに振り付けしているのではなかろうか。素人が下手にイジルより適正に運用させるよう方向づけする方が有益なのではなかろうか。その点で、そういう事業体に於ける天下り官僚の高給取り、退職金の谷渡りほど腹立たしいものはない。イの一番に規制すれば良かろうに。 云いたいことは要するに、政治が掛け声ばかりで、本当に取り組まねばならないところを逃げて、当たり障りのない重箱の隅ばかりを突きだして正義ぶっていることに対して、不快であると申し上げたい訳である。忙しい忙しいと云っているが、役に立たないことを幾ら忙しくしても何ら生産的でない。数式的には0×エネルギーでしかない。シオニスタンの場合には、マイナス×エネルギーのことばかりしている。 2010.11.11日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評853 | れんだいこ | 2010/11/13 22:32 |
【民主党連合政権の三番手出でよ、直ちにウォーミングアップを始動せよ】 今我々が目にしている菅政権に対して、あれこれ批評する段階は終わっていると思う。はっきり異常と断ずるべきではなかろうか。この際の異常とは、菅政権が、自分たちの立脚する民主党と昨年の衆院選来の政権交代政権を意図的故意に加虐し続けていると云う変態性を指している。 民主党及び政権交代政権が、旧政権の自公派によって引導渡されようとしているのではない。民主党及び政権交代政権の執行部が自ら上から党と政権を潰そうとしている。この異常性を異常としてそのままに察知すべきである。意図的故意にしている訳だから批評で済まされる訳ではない。それを良しと思うなら支援すれば良い。イケナイと思うなら引きずりおろさねばならない。長引けば長引くほど事態は悪化し不利になろう。 菅政権が内政的外交的に無能力を示しているのは地金であろうが、事態はそれだけでは済まされない。拙い内政、外交に添うようにして、意図的故意の民主党及び政権交代政権に対する幻滅化政策が画策され続けている。れんだいこは既に何度も指摘しているが、あと何回言えば分かって貰えるだろうか。れんだいこ史観によれば、現代世界を支配している国際金融資本帝国主義は、自公政権であろうが民主党連合政権であろうがお構いなしに、彼らの望む政策を要請し、何と鳩山政権、菅政権の方が自公政権よりも御用聞き度が強まっている。逐一政策を挙げないが、人民大衆がある程度の期待感で遇している間に、怜悧な政治が布石、履行され続けている。 我々が政権交代政権に期待したのは少なくとも小沢系政治の方であり、政権交代効果を意図的故意に毀損し続ける菅政権の方では決してない。このことを今やはっきりと確認すべきではなかろうか。 阿修羅版「政権交代も元の木阿弥 衆院解散の足音が聞こえる 「尖閣事件」「映像漏洩事件」の胡散臭さ考 れんだいこのカンテラ時評852」に対して「11. 2010年11月13日 13:56:31: WQU01HuQI6 」氏が注目されるべきコメントをしている。それによれば、「赤坂の高級お寿司店でナベツネと枝野と仙谷が定期的に会食と鳩内閣の頃から・・」、「前原君、野党のころ、民主を離党し自民党へのはずが記者会見前夜にドタキャン・・」、「枝野クン、郵政民営化廃止法案たけなわのころ住友の高級住宅地にある三井住友の迎賓館で西川社長と秘密に会食・・・」、「日テレといえば反小沢の牙城、ナベツネの黒板みたいなZEROであるが,友好的よいしょの雰囲気のなか前原君、2度ほど生出演(私が見たのは・・)」とある。 補足すれば、菅については、中村てつじ(中村哲治)民主党参議院議員がブログで次のように述べている。「ふと落選中の出来事を思い出した。アメリカ領事館から電話があった。『各国の次の世代のリーダーに3週間アメリカを訪問して頂くプログラムがあります。菅直人先生も経験されています』。私はそこまでやってもらうことに引っかかりを感じ行く決意ができなかった」(ttp://twitter.com/#!/NakamuraTetsuji/status/18412586443)。 これは、命のかかった内部告発ではなかろうか。れんだいこには、中村氏に仕掛けられたモーションはネオシオニスト特有のエージェントスポンサー活動であることが直ぐ分る。してみれば、広告灯として利用されている菅はかなり早くから籠絡されていることになる。これにより、菅の小沢政権を創らせない為にハシャギ、シャカリキの裏舞台が透けて見えて来よう。 仙石については、2010.9.15日、首相官邸でアーミテージ米元国務副長官と昼食を取りながら会談したことが報ぜられている(ttp://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010091500515)。尖閣諸島付近で海上保安庁の巡視船と中国漁船が衝突した事件や、菅直人首相が今月下旬に訪米する際に行われる見通しのオバマ米大統領との首脳会談について意見交換した、とある。何と、小泉政権下で官邸を自在に出入りしていたあのタコ入道が仙石とツーカーの仲と云うことになる。 してみれば、ポスト小泉後の自公政権が安倍、福田、麻生と次第に小泉式「改革」路線から離れて行ったのに比して、政権交代後の民主党系鳩山、菅政権が逆に小泉路線にリバイバル接近していることが分かる。どうやら、菅政権の正体がすっかり見えてきたのではないのか。ここにナベツネも登場している。「11. 2010年11月13日 13:56:31: WQU01HuQI6氏コメント」等を参考にすれば、菅、前原、枝野、仙石、岡田はどいつもこいつも強度のシオニスタンと云うことになる。酷い話ではある。 菅政権中枢の異常性がここまで明らかになっているのに、民主党はなお菅政権を戴き続けるのだろうか。れんだいこの眼には、がけっ淵に向かう集団行進自殺としか映らない。今なら立て替えが間に合うのか合わないのか分からないが、やるしかなかろう。既に用意周到に衆院解散、それによる民主党の解党的大敗のワナが仕掛けられている。後はタイミングの問題でしかない。衆院解散をやらさない為の三番手政権の登場が望まれている。直ちにウォーミングアップを始動させよ。年末までにカタを付けるのが良かろう。 菅政権の批評の段階は終わった。将棋ではツンでいる。囲碁ではオワっている。後は腐臭でしかない。小沢で行くのか、亀井で行くのか、誰でも良い、日本の政治は日本の為にやるの精神だけで良い。もはや党も関係ない。ヘッドが決まれば後は助け合いあるのみ。とにかく待ったなしで行こうや。これ以上は体に悪い。 2010.11.13日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評854 | れんだいこ | 2010/11/14 21:31 |
【略語における日本語の秀逸考、TPP問題考】
2010..11月、「降って沸いた『TPP』の謎?!」が問題になっている。まず言語的に意見しておきたい。「TPP」では意味が分からないことを問題にしようと思う。日本語では、こういう略語はない。日本語に於ける略語は、当の対象のものの意味をギリギリ分からさせ、なお且つ本質を言い当てる形で代用させるのを慣わしとする。それに較べて、アルファベット文字言語の略語の何と空疎なことだろうか。「TPP」では何も分からない。その原語の「Trans-Pacific Partnership、Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreement」(環太平洋経済協定、環太平洋戦略的経済連携協定)を知って初めて理解できることになる。 しかし、これは言語としての不完全さを意味しているのではなかろうか。略字にした場合、表意文字の漢字文化圏ならすぐさま分かるものが、表音文字の西欧文化圏の場合には分からない。日本語の優秀さを思うべきであろう。このところ、日本語の軽視政策が進められている。愚かなことであろう。 ここまでなら、言語の違いで済ませられることができる。問題なのは、政治家が、ことの意味が分からないままの略語で事態を曖昧にさせたまま政治を仕切ることにある。これは、人民大衆を騙す政治であり、背徳政治なのではなかろうか。政治学的に見て、「政治とカネ」で目クジラし、敢えて小沢どんを政治訴追するのに忙しい与野党ではあるが、事の是非を明らかにしない、議論を要しないままの拙速で処断して行く「略語政治」の方が悪質なのではなかろうか。 それが証拠に、小沢どんの「政治とカネ問題」で問われているのは秘書寮の建設であった。それは、敢えて云えば、人民大衆的にはどうでも良い話である。ところが、小沢どん追撃派の与野党諸君は、手前のことは棚に上げて、これほど悪質なものはない、「天の声」まで精査せよとカナ切り声を挙げ延々と今日に及んでいる。しかして、「TPP問題」では菅政権の専権事項かの如くに見過ごそうとしている。オカシイではないか。我々は集団催眠術に掛けられているのではなかろうか。 「TPP問題」の核心は、国際金融資本帝国主義が籠絡せんと狙いを定めた各国の食糧自給率を致命的水域まで格下げ、支配の道具にしようとしていることにある。石油を代表とする資源然り、情報然り、続いて主食糧まで完全コントロールしようとしていることにある。これにより、御用聞きしない国家に対して政治封鎖、経済封鎖、情報封鎖で締め上げることができるようになる。現に世界のあちこちでヤラれて来た話ではないか。先だってはイラクの悲劇を見たばかりでないか。 日本は戦前の1941年に既に痛い目に逢わされている。ABCD4ケ国による経済封鎖包囲網を仕掛けられ、資源を断たれた日本軍が南方作戦に向かったのは衆知の通りである。大東亜戦争の是非は別としても、日本軍が多くの内通者の手引きにより空しい戦闘を余儀なくされ、無駄死にさせられた様子も次第に明らかにされつつある。原爆の悲劇同様、こういう経験を持つ日本に於いては決して他人事ではないとすべきではなかろうか。 多少でも歴史を学べば知れるこのことを議論せず、目下の菅政権は今遮二無二に「降って沸いたTPP」に率先太郎している。幾らシオニスタンといえども許される限度が超えていよう。続いて消費税増税を仕掛けようとしている。武器禁輸の解禁は既に処置された模様である。自衛隊派兵も弾みがついている。やっていることが小泉政治よりヒドイのではなかろうか。次第に我々の我慢の限度を超えつつある。菅派の今後には小泉派同様明日はない。放逐し、彼らが親と頼み仕える母国へ強制送還させねばなるまい。 補足しておく。日本は独裁国家ではない。一応の建前上は代議員が不正のない選挙の洗礼を受けて国会に集う民主主義国家である。しかし、官邸主導政治が導入され、次第に実態が明らかになって来た。これは専権国家である。国会はあれども用を為さない。どうでも良いことを議論する場にさせ、肝心な政治は官邸で仕切り、碌な審議もせずに勝手に外交で条約調印、国内で新法化させる。その判断が粗脳な分だけ独裁国家より劣るのではなかろうか。北朝鮮を笑う者が多いが、政治能力的に見て北朝鮮より以下と云うことが分かるにつれて笑えなくなるだろう。 多くの法学者が居り、最近では法科大学院流行りだと云うのに、これを誰も咎めない。トンだ法学なことよ。そんな法学なら止めてしまえ。これは経済学者でも然り、農学者でも然りである。明日から直ちに補助金なぞ一切カットせよ。こんな程度のところへ税金を注ぐのがもったいない。博士号なぞおこがましい、一切剥奪せよ。オカシイ時にはオカシイと云う声を挙げる。王様が裸であることを正確に伝えるのが学の見識だろう。 それはそうと、最近白眉の重大事件である「最高検による地検幹部逮捕事件」のその後の様子が遮断されている。マスコミメディアは呼吸を合わせてダンマリし続けている。これもオカシナことである。れんだいこの眼には、角栄なきあとの日本が次第に劣化し、遂に落ちるところまで落ちている気がする。それともまだまだ落ちるのだろうか。我々は耐え忍ぶ以外にないのだろうか。 2010.11.14日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評855 | れんだいこ | 2010/11/17 08:37 |
【民主党内シオニスタン六人衆考】 菅政権の度し難いシオニスタンぶりが、あのヒドかった小泉政治より更に酷いものであることが露呈しつつある。外交も小泉路線であり、親米、反中、反露にシフトしている。先だってのAPECでの日米首脳会談でのオバマに対する相好、それに較べて日中首脳会談での胡錦濤主席との冷淡、日露首脳会談でのメドベージェフ大統領との喧嘩腰ぶりが実に対照的であった。これに対称的なのは角栄政治であった。親米、親中、親ソで国際協調路線を切り開いていった。角栄政治がもう数年続いていたら随分と景色が変わっていたのではなかろうか。残念ながら、その途上で金権政治批判なる名目で引きずりおろされた。なぜ金権政治批判になったのか。それは政策的に批判できなかったからであると考えられる。なぜなら最も有能にして且つ護憲的であったからである。これがれんだいこの史観である。 APECでの日米首脳会談では、来春の首相訪米時に日米同盟深化へ向けた共同声明を目指すことを申し合わせた。菅政権の日米同盟論は自公政権のそれより深のめりしつつある。れんだいこには、戦後教育のツケが出ている気がする。祖国と民族の精神を持たない教育により生まれた政治家がいかにも安逸に国際金融資本奴隷に成り下がっているブザマさが見えている。日本政府はこの先どこまで貢ぎ続けるのだろうか。国家財政、国内景気は政務の無策により引き続き悪化している。この状態で海外支援金がいつまで続くのだろうか。打ち出の小槌も底をついている筈なのに。最後には血のションペンしか出なくなるだろう。 日中首脳会談はわずか22分間だったことからも分かるように儀礼的なやりとりに終始した。胡錦濤主席は恐らく、首脳会談の場で端から目と目を合わさず原稿を読んで会話しようとする管首相に対して、どうしようもないクズとして愛想つかしたのではあるまいか。 日露首脳会談で、菅首相がメ大統領の国後島訪問について「日本の立場、国民感情からも受け入れられない」と抗議している。日本では「よくぞ云った」と評する者も居るが、オカシナ話である。北方領土を実効支配しているのはロシアである。そのロシア大統領の北方領土視察の非を咎めるのなら、ロジック的に見て、日本が実効支配している尖閣諸島への菅首相の尖閣諸島訪問に対し、中国は「中国の立場、国民感情からも受け入れられない」と抗議できるのではあるまいか。つまり、日本外交は北方領土と尖閣諸島で二枚舌を使い分けていることになる。得手勝手が過ぎるのではなかろうか。菅よ、試しに尖閣諸島を訪問してみれば良い。その時、菅が、「中国の立場、国民感情からも受け入れられない」との抗議に、どういう風に口を回すのか聞いて見よう。 領土問題につき、れんだいこは、棚上げ論、共同統治論を唱えている。これ以外の方法としては戦争解決論、話し合い解決論しかない。とはいえ戦争解決論は採用し難い。となると、話し合い解決論しかない。しかしながら、双方が互いに「我が国の領土である」と云い張り物別れになるのは外交と云えるだろうか。双方の主張を踏まえて、どう解決するのか、直ぐに解決するのか長期的交渉にするのかを探り、1ミリでも解決に近づけつつ実を取ろうとするのが外交の本義なのではなかろうか。 その点で、菅政権の外交は子供騙しの類のものである。抗議したとか、主張したとかは子供でもできよう。外交の場で単に領土論を持ち出し、これに終始するのは却ってことをまぜるだけに過ぎない。棚上げ論か共同統治論かのどちらかを打ち出し、経済交易の拡大を求めて行くのが有能な在り方なのではなかろうか。菅政権の外交は、双方に望まれている経済交易の拡大を阻止せんとして領土論を持ち出しているように見える。それが国際金融資本帝国主義の命令であり、指令国のアメリカの意向抜きには何一つ解決しないよう自ら求めて懐に入っているように思える。北朝鮮外交に於ける六ケ国会議、米国の後ろで舌を出す外交ぶりなぞ典型的であろう。 日米同盟論を振りかざし、万事をアメリカの懐で外交するだけならオツムは要らない。更に云えば外務省そのものが不要ではなかろうか。外務省の腐敗はつとに有名であるが、米奴外交により必然的にもたらされたものであろう。外務省OBの場合、シオニスタンぶりの強度に応じて御身安泰就職の世話が為されているようである。れんだいこは平素より、外務省OBの骨の髄からのシオニスタンぶりに辟易させられているが、年をとって悔い改めるのは至難の業であるからして、連中が死の床に就くまで日米運命共同体論を聞かせられるのを我慢せねばなるまい。 もとへ。菅政権閣僚のシオニスタン度が判明したので明らかにしておく。最硬度シオニスタンは前原、こ奴は鼻筋と口が曲がっている。続く硬度シオニスタンが菅、仙石、枝野、野田、岡田の順である。これを「民主党内シオニスタン六人衆」と命名しておく。このレベルは、自民党内若手シオニスタンの硬度を上回っている。これにあやかろうとして続いているのが、先だっての民主党代表選での菅候補支持者の面々である。お陰でシオニスタンの陣容を確認することができた。先の代表選効果の一つであろう。 民主党の国会議員レベルでは丁度半々と出たのは衆知の通りである。この党内半数は今後勢力を増すのだろうか、衰退するのだろうか。れんだいこは急速に影響力を落とすと見ている。なぜなら、国際金融資本帝国主義頼みのシオニスタンでは政治も政局も御せないからである。国際金融資本帝国主義内部の分裂も可能性大であり、日本国内のシオニスタンは右往左往することしかできない。何より政治、政局の厳しさが振るい払うであろう。 問題は、政治、政局の厳しさが誰を政治、政局の要に据えようとしているのかであろう。れんだいこが見るところ、小沢どんが一番資格がある。亀井もある。少なくとも、この二者を結集軸として日本再興の夢を見るべきではなかろうか。これに能く汗を掻いた者が次期政権候補であり、神輿を担いだ者、綱を引いた者、その又ワラジを編んだ者が登用されるべきではなかろうか。もはや待てない。急速に三番手政権構想論が浮上することを願う。自主独立派と米奴派の死闘戦を経ねば日本政治は変わらない。ここに日本の政治能力がかかっているのではなかろうか。 2010.11.17日 れんだいこ拝 |
れんだいこさん今日は | 高菜 | 2010/11/19 12:02 |
私も懐の広さにもかかわらず、臣米奴派5人衆の人相の卑しさが許せません。 人生学院の読解は大変為になり楽しいです。しかしめっちゃ時間に追われ、今のところ牛歩です。 最近、れんだいこ評論集「吉田松陰」に触発され、本を読みました。寺尾五郎氏の著作「草莽 吉田松陰」「中岡慎太郎と坂本龍馬」の2冊です。社会活動家の経歴を持つ著者の特質として、当時の社会分析に重点が置かれ、百姓一揆の形の変遷など分析が深く、読みごたえがありました。以前「刀狩り」(藤木久志著)という本を読んだとき、百姓が武装可能であったこと、その武力を自制していた歴史を知り、黒沢監督の「七人の侍」に描かれている百姓像が、歴史に照らして必ずしもリアルでないことを知り驚きましたが、寺尾氏の本にはそれを裏付けるものがありました。 ただ、「吉田松陰」の中で、明治維新をフランス革命と並べていることには違和感があります。フランス革命は多分に金融資本家の策略によってなされたフランス王政の転覆劇で、スローガンは「自由、平等、博愛」です。日本の植民地化への緊迫した状況の中で幕末維新があったことを思えば格段に性質が異なるものに思えます。 「中岡慎太郎と坂本龍馬」の中にあった、龍馬が後藤象二郎に書き送った「…江戸の銀座を京師に移し候ことなり。この一個条さえ行われ候えば、かえって将軍職をそのままにしても、名ありて実なければ…」幕府の財権、貨幣鋳造発行権を奪えば、実質が取れるという。――という言葉は、国際金融資本がFRB(連邦準備制度)を寝首を掻き取るような手段で創設した彼らのボスの言葉「私に一国の通貨の発行権と管理権を与えよ。そうすれば誰が法律を作ろうと、そんなことはどうでもよい。」そのものなのに驚きました。グラバーを通じて龍馬は国際金融資本家の世界観を知り、そこに価値を見出していたということでしょう。 吉田松陰を師と仰ぐ中岡慎太郎の縁の下の活躍の凄まじさに驚きつつ、龍馬像の作られたイメージの独り歩きを感じます。 中岡慎太郎と坂本龍馬がほとんど面識ないままに行き違っていたことも、竹馬の友のように描き出す小説が作り上げたイメージと異なることに気づかされました。最後の暗殺場面の推察には説得力がありました。二人は激論を交わし、闖入者への警戒がおろそかになっていた。というものです。 |
Re:れんだいこさん今日は。はぁいちわぁ。 | れんだいこ | 2010/11/19 13:00 |
高菜さんちわぁ。人生学院に対する好評価有り難うございます。これを励みに更に頑張りますので引き続きのご支援頼みます。ご紹介の寺尾五郎氏の著作「草莽 吉田松陰」「中岡慎太郎と坂本龍馬」を読みたくなりました。寺尾五郎氏は割合と良い本を出していますよね。確か親らんだったかな。他にも読んだ気がしますが思い出せません。良いイメージが有ります。「百姓一揆の形の変遷など分析」、明治維新論、龍馬論、中岡慎太郎に興味が有りますので、これはぜひとも読まんといけんかな。後日、その成果を発表させていただこうと思います。御期待御批評下さい。 このところ長らく風邪気味です。今日ぐらいから抜けたのかな、だと良いのだけれども。今年は還暦厄でなにやかや続いて起こります。一昨日は遠出しましたが追突されてしまいました。相手は90歳のおじいさんでした。激しい雨の中での不可抗力の事故だったのですが用心しないといけませんね。ではまた。 2010.11.19日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評856 | れんだいこ | 2010/11/19 19:58 |
【菅政権の変調疑惑考】 ノックアウト寸前に追い込まれつつある菅政権の批評をしておく。れんだいこは多忙故、国会中継なるものを聞き続けることはできないが、合間を縫っての観戦によってでも少々奇異な印象を感じている。これを書き付け、世の判断を仰ぎたい。 菅政権は、先の代表選の不正投票疑惑を抱えながらの出航であるからして、そもそもイカガワシイのであるが、その後の菅政権の足取りは出航時のイカガワシサに象徴されるかの如くの変調な動きを見せ続けている。何が変調かと云うと、まずは仙石官房長官が出張り過ぎて第二首相然とした答弁を繰り返しているところにある。歴代の官房長官は政権のスポークスマンであり、いわば政府と報道の繋ぎの役目であったと解したい。ところが、仙石官房長官は、首相そっちのけで「自身の判断、見解」を打ち出し続けており、時に首相をさえ押しのける形で答弁までこなし、うまくこなす場合は良いとしても火種、物議を醸し続けている。 こういう官房長官の在り方を認めるべきだろうか。これは、機関運営民主主義の観点に照らせば民主党組織論の未熟さを象徴しているのではなかろうか。三権分立から始まる議会制民主主義の上からの破壊ではなかろうか。仙石官房長官の暴走を許し続けている菅首相の無能ぶりも奇異であり、何を企んでいるのか訝(いぶか)るべきではなかろうか。明らかに政治がお山の大将式に子供化している。 第二に、菅政権下の諸閣僚の挑発、無能、失言のオンパレードぶりである。これも異常である。意図的故意のものであるなら、その片言節句を批判して事足れりとするものではなかろう。明らかに意図的故意に「挑発、無能、失言」がさみだれ式に生起しており、この裏にどういう事情、思惑があるのか詮議せねばなるまい。これにより、急速に民主党政権に対する人民大衆の愛想尽かしが始まっているが、これこそが狙いなのではなかろうか。そういう眼で見れば、菅首相、閣僚が政権護持に懸命になっている様子が見られないのも辻褄が合っていることになろう。 第三に、衆参国会質疑に於ける自民その他諸党の菅政権批判にしゃしゃり出ているのは妙に見覚えのある面々ばかりである。糸を辿ると、何のことはない小泉政権の重役たちばかりではないか。小泉政権の重役たちが久々に表舞台に立ち、敢えて無能に演出された菅政権をこっぴどく叩いている構図が読みとれる。これは偶然なのだろうか。れんだいこには、衆院解散戦略に向けた布石であり策略としか映らない。来る衆院選の解散で、民主党の壊滅的打撃、自民党小泉派の復権が用意周到に画策され続けているように思われる。その日が来れば例のマスコミメディアの言論大砲が、小沢派叩きを強めつつ他方で小泉派の面々を大物ぶりに引き上げヨイショし、元の木阿弥政界へ引き戻そうと画策するであろう。そういうシナリオができていると読みたい。 こういう動きが見えている。しかし、れんだいこの脳裏に映像すると云うことは同時に多くの方にも映像化されている訳だから、いずれ食傷されよう。つまり反作用が生まれ、執拗に繰り返されてきた小沢派叩きに対する疑惑が強まり、小沢政治待望論へと戻るであろう。この綱引きが政治の面白みであるように思われる。改めて確認しておきたいことは次のことである。菅政治が小泉派の復権を上手に促している、両者は掛け合い漫談で小泉派を水戸黄門に、民主党を悪代官に仕立て上げ、用意周到に小泉政治の再来を画策している。この下手な芝居に騙されないようにしよう。 我々は逆の動きを強めれば良い。鳩山がダメで菅がダメなら、残されたもう一つのカードである小沢で勝負するしかない。これでダメなら民主党はお仕舞いであり、今はまだあきらめきれない。小沢三番手政権を待望する所以である。菅派の粗脳が次から次へ露呈しつつある今、そういう意味で事態はシンプルになりつつある。政局が煮詰まりつつあると云うことになる。かく確認しよう。 2010.11.19日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評857 | れんだいこ | 2010/11/20 19:32 |
【菅政権の異常事態考】 2010.11月政局は「柳田法相失言問題」で揺れている。他にも仙石官房長官の「自衛隊=暴力装置発言」が物議を醸している。ここに新たに「北澤防衛大臣発言」が飛び出した。一体、菅政権は何故に次から次へこういうブザマな失言が続くのだろうか。これを偶然と看做すべきだろうか。明らかに意図的故意の民主党政権ダメ―ジ、衆院解散策動の一環として工作されている失言綴りではなかろうか。 「柳田法相失言」を確認しておく。2010.11.14日、柳田法相は、地元の広島県内で開かれた法相就任祝いの会合の席上で次のように述べている。世上では、地元発言であることを見て気の緩みを指摘する向きもあるが、マスコミを引き入れての放言で有り直ちに映像・音声つきで報道されたことを思えば、「仕組まれた失言」だったと看做すべきではなかろうか。 「9月17日(の内閣改造の際)新幹線の中に電話があって、『おい、やれ』と。何をやるんですかといったら、法相といって、『えーっ』ていったんですが、何で俺がと。皆さんも、『何で柳田さんが法相』と理解に苦しんでいるんじゃないかと思うが、一番理解できなかったのは私です。私は、この20年近い間、実は法務関係は1回も触れたことはない。触れたことがない私が法相なので多くのみなさんから激励と心配をいただいた」。 「法相とはいいですね。二つ覚えておけばいいんですから。『個別の事案についてはお答えを差し控えます』と。これはいい文句ですよ。これを使う。これがいいんです。分からなかったらこれを言う。これで、だいぶ切り抜けて参りましたけど、実際の問題なんですよ。しゃべれない。『法と証拠に基づいて、適切にやっております』。この二つなんですよ。まあ、何回使ったことか。使うたびに、野党からは責められ。政治家としての答えじゃないとさんざん怒られている。ただ、法相が法を犯してしゃべることはできないという当たり前の話。法を守って私は答弁している」。「(菅内閣について)大変評判が悪く、私もそう感じざるを得ない」。 前者の発言は、菅首相の人事能力を皮肉っており、任命責任が問われる仕掛けになっている。後者の発言は、大臣答弁のお粗末なカラクリを暴露することで、菅政権に打撃を与えている。当然の如く「柳田法相の失言問題」が政局浮上し、問責決議案提出、辞任、罷免の進退問題に発展している。しかし、これは衆院解散に誘う為の遠隔工作騒動ではなかろうか。 柳田法相の政治履歴は次の通りである(「ウィキペディア柳田稔」参照)。1990年、第39回衆議院議員総選挙に旧広島3区から民社党公認で出馬し初当選。1993年、第40回衆議院議員総選挙で再選。同年8月の細川内閣、続く羽田内閣の過程で民社党は解党し、大内や塚本三郎を除く民社党議員の多くが新進党結党に参加。柳田も新進党の結成に加わる。1996年、小選挙区制導入後初の第41回衆議院議員総選挙で広島県第7区から出馬し自民党の宮澤喜一に完敗し落選。1998年(平成10)、第18回参議院議員通常選挙に広島県選挙区から無所属で出馬し当選。後に民主党に入党し同党公認で再選。2009.9月、参議院厚生労働委員長に就任。2010.6月、民主党参議院幹事長に就任。2010.9.17日日発足の菅改造内閣で法務大臣(拉致問題担当相を兼務)に就任し初入閣を果たし現在に至っている。参院3期目、ブログ名は名字をもじったとみられる「ヤルキダくん日記」。 続いて、仙石官房長官の「自衛隊=暴力装置発言」も物議を醸している。この発言の問題性は、官房長官の職責の者が敢えて火種を呼びそうなキワモノ発言をしていることにある。官房長官たる者は火消しが役目のところ、仙石は火付けに廻る習性があることが露見し続けている。毎度のことなのでもはや誰も相手にしようとさえしていない。これも菅首相の任命責任に繋がる話であろう。 ところで、真にタマゲル発言は北澤防衛大臣の次の発言ではなかろうか。「管総理は自衛隊の最高指揮官であるが、このような指揮官の下では自衛隊は身を挺して任務に当たれない。みなさん、どう思われますか? 領土問題がこじれたのは民主党の責任。管政権は冷静と言われているが、何もしないだけ。こんな内閣は間違っている。現政権の顔ぶれは左翼ばかり。みんなで一刻も早く、管政権をぶっ潰して、昔の自民党政権に戻しましょう。みなさん、そうでしょう、民主党政権では国はもたない」。 何と現役防衛大臣が、管政権打倒、自民党政権回帰を声明していることになる。この発言が見過ごされ、「柳田法相失言問題」の方がワイガヤされている。変な話ではなかろうか。れんだいこは、「北澤防衛大臣発言の問題性」とその問題性を不問にしている問題性を告発したい。誰しも発言は自由であるべきだろうから「北澤発言」そのものは有り得て良かろう。しかしながら、辞任声明とするならともかくも大臣のイスに留まりながら内閣打倒を呼びかることなぞ有り得て良いだろうか。 ましてや鳩山-菅政権の二代にわたって大臣に治まっている職責の者である。こういうことが罷り通るなら世も末ではなかろうか。しかも防衛大臣である。まかり間違えばクーデター騒ぎとなる危険性がある。一番発言してはならない部署の大臣の内閣打倒宣言ではなかろうか。 何度も申し上げているが、こういう失言綴りが偶然である訳がなかろう。裏で糸を引く仕掛けが有り、役者が演じているに過ぎないと看做す観点を確立する必要があろう。この危機事態に対して安逸に遣り繰りしようとしている菅首相そのものが臭い。つまり、菅政権は今や明らかに上から内部から寄ってたかって意図的故意の民主党政権ダメ―ジ、衆院解散策動を仕掛けていることになろう。前代未聞の政治史が綴られており、いつまで続くかが見ものになっている。 これにどう対応すべきかが問われている。衆院解散と云う下手な策動に易々と乗せられる訳には行かない。しかしながら菅政権続行は有り得ない。ならば小沢政権創出以外にないではないか。一切はその後のことではなかろうか。これを奔流にせねばならないと思う。今後はあの手この手の逆流逆走事件が仕掛けられようが、真一文字に小沢政権誕生に向かうべきである。これは頭脳戦である。 2010.11.20日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評858 | れんだいこ | 2010/11/22 19:04 |
【とある政治学大学教授の粗脳考】 2010.11.22日付け産経新聞の正論欄に、立命館大学教授、大阪大学名誉教授の肩書を持つ加地伸行氏の「民主党は『民の主人』になったか」なる小論が掲載されている。これにコメントしておく。 (ttp://sankei.jp.msn.com/politics/situation/101122/stt1011220345002-n1.htm) 小論前段の仙谷官房長官の「暴力装置でもある自衛隊」論に対する論評、北沢防衛相の「自衛隊施設内における政権批判を許さぬ次官通達」に対する論評はくだらないので無視する。看過し難いのは次のような居直りの弁である。 曰く「選挙による議員という民選政治家と、国家試験合格による官僚という“国選政治家”とは、上下の関係ではなくて対等の関係であると論じてきた。これは私の持論であり、議員らによる政治主導なるものへの真っ向からの批判である。それを公務員研修所という公的施設内で毎年、論じてきたのである」。 加地氏は、持論陳述につき「時所構わず自由論」を述べている。これが許されないなら、「全国官公庁にある膨大な数の掲示板に貼(は)り出されている、労働組合の極めて政治的な諸反対声明文も許してはならない」とまで云う。果たして正論なりや。これを愚考する。 れんだいこが思うに、この御仁は基本的に法治主義観念が欠如しているのではなかろうか。上述の弁はこのこと自己吐露している。法治主義に従う限り最高法規に則るべきであり、戦前は大日本帝国憲法、戦後は日本国憲法がこれに位置している。まずは、この法に従うべきである。つまり、既成法の一定のタガ嵌めを甘受せねばならない。 法がオカシければ批判の自由をバネとして改正を目指すべきであり、それをも含めて政治活動の自由と云う。こういう権利が歴史的に認められてきたのが近代以降であり法治主義の精神であり原則であろう。補足しておけば「一定のタガ嵌め」を廻って、権力側の過度の強権規制は許されない。と云うか却って政権基盤を危うくするので自己規制されるべきものであろう。そういう経験智から「一定のタガ嵌め」が緩やかなのが民主主義であり、キツイのが強権政治、独裁政治又は全体主義であろう。 では、戦後の最高法規である日本国憲法はどういう「一定のタガ嵌め」をしているのか。末尾の第99条で、「憲法尊重擁護の義務」と題して「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と述べている。英文を正確に訳せば「天皇又は摂政同様に国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と云う規定になる。れんだいこには、この規制は最も緩いタガ嵌めのように理解する。これを悪用するのか善導するのかが問われているように思われる。 このタガ嵌めに照らせば、「選挙による議員という民選政治家と、国家試験合格による官僚という“国選政治家”とは、上下の関係ではなくて対等の関係である」なる持論は許容されない。憲法の主権在民規定、代議員制規定、三権分立規定、文民規定、公務員の公僕規定等々が、全体として代議員制による政治に従うよう説き分けている。これが戦後民主主義の内実であり戦後政治の最も肝要なキモの部分となっている。 加地氏が「民選政治家と国選政治家(官僚)対等関係論」を唱えるのは勝手自由であるが、憲法上そういう規定はない。人類史上未経験の法理論であり歴史に試されたことはない。当然具体的な法文もない。そう云う意味では無責任な持論を唱えているに過ぎない。加地氏が、公の席で、これに代わる持論をどうしても述べたければ、憲法ではかくかくしかじかと規定されているが、私はこう思うと云う具合においてのみ許容される。憲法との絡みに触れずに説けのは公の席では許されまい。 加地氏は、得意然として次のようにも述べている。「あえて言おう。その事件が起こった埼玉県の航空自衛隊基地の近くに、人事院の公務員研修所がある。そこの講師として、この10年近く、毎年1回、私は出講してきた。対象は中央省庁の課長級であり、まさに、我(わ)が国を背負って立つ人材群である。その講義の際、私は自民党であれ民主党であれ、批判すべきものは批判した」。 当人は新左翼が嫌いならしいが、加地氏の法蹂躙論は新左翼以上の法テロリストぶりを示しており滑稽である。思うに、加地氏の政治論は基本的に狂っている。氏が居酒屋だとか、政論会のようなところで述べるのであれば許容されようが、「人事院の公務員研修所の講習」で述べる筋の話ではなかろう。この御仁は、そういう場の弁えができないミソとクソの識別ができない質のようである。今後も「人事院の公務員研修所の講習」で述べ続けると云うのであれば当然掣肘されなければオカシイ。 そういう御仁がよりによって「そもそも民主党は民主主義を誤解している」などと云う。民主党の詮議は別にして、一体、民主主義を誤解しているのはどちらだろうか。以下、次のようなデタラメを云う。「しかし、東北アジアでは、自立した個人という思想・実践はなかなか根付かない。そのため、投票という手段だけがクローズアップされる。個人主義という前提は問わず、形式・手段だけが目的化され、投票数の多さを競うのみとなる。故田中角栄氏やその流れの小沢一郎氏らがその典型だ」。 れんだいこが、このコメントを書いたのは、ここの記述「故田中角栄氏やその流れの小沢一郎氏らがその典型だ」の下りによる。加地氏がロッキード事件以来の「諸悪の元凶角栄論」の系譜の御仁であり、今も平然と吹聴し続けていることが判明する。恐らく加地氏の立論は日共流もしくは立花流のそれであろう。こういうことが透けて見えてくる。れんだいこは、これに強く抗議したい。ここは田中角栄を論ずる場ではないので論証は差し控えるが、何でもかんでも諸悪を田中角栄、小沢一郎に結びつけるのは止してもらいたい。 当人は、「投票という手段だけがクローズアップされる。個人主義という前提は問わず、形式・手段だけが目的化され、投票数の多さを競うのみとなる」持論に正論を感じているらしい。しかしながら暴論と云うしかない。選挙は当然「投票数の多さを競う」ことになる。何とならば、「投票数の多さを競うことのない選挙」が無意味であるからである。してみれば、加地氏の投票数尺度嫌悪論は過度の選挙軽視論に他ならない。選挙は代議員制の源であるからして、この論は必然的に代議員制を軽視していることになる。この論の発展は貴族院制、元老院制を良しとする発想になる。 しかしながら、こういう類の持論を述べることを「人事院の公務員研修所の講習」で許すべきだろうか。繰り返すが、憲法ではかくかくしかじかと規定されているが、私はこう思うと云う具合においてなら許容されるかも知れない。憲法の規定を蹂躙するセンテンスで云うことは許されまい。 加地氏は云う。「だから、選挙が終わると、民はお払い箱となり、単なる愚昧(ぐまい)な存在としか見なさない。民主党がそれであり、民が民主党を批判することなどもっての外で許さない。新左翼も、もし政権を握っていれば、そうなっていたであろう。つまり、〈民が主〉人ではなく、己れが〈民の主〉人と化す。これが、左翼的民主党の民主主義理解であり、大誤解なのである」。 これもオカシイ。この論で民主党を批判し新左翼をも批判して得意がっているようであるが、ならば過去の政権党ならどう素晴らしかったかを明らかにしない限り公正ではない。透けて見えてくるのは民主党批判、新左翼批判だけであり、つまり偏向見解であることになる。そういう御仁が、「政治家にとって最も大切な心構えは、己れへの批判を感謝して受け止め生かす謙虚さである。それの方が形式的民主主義による多数決よりも価値が高いのである」と結んでいるが、何が云いたいのだろう。前段の「政治家にとって最も大切な心構えは、己れへの批判を感謝して受け止め生かす謙虚さである」は良い。後段の「それの方が形式的民主主義による多数決よりも価値が高いのである」は結びつく必然性がない。これを無理矢理に結びつけ得意然としているが、こういう論者をエピゴーネンと云うのではないのか。 この御仁が、自民党政治、自公政治、民主党政治、新左翼政治を批判し続け、よりよい制度を展望し続けているのであれば聞き流すこともできる。ところが、過去の自民党政治、自公政治をヨイショする言動の持主であったとしたら、とてもではないが食えない御仁であることになる。さて、加地氏の小泉―安倍―福田―麻生政治論はどのようなものだったのだろうか。小泉時代のブッシュ政治支援諸政策、自衛隊武装派兵に諸手を挙げて賛同する御仁だったとしたらタダでは済まされない。 それにしても、「それの方が形式的民主主義による多数決よりも価値が高い」はヒドイ。これによれば、選挙も多数決も形式民主主義と云うことになる。こういう政治学者が立命館大学教授 大阪大学名誉教授であるとしたなら、立命館大学も大阪大学も恥じねばならない。思う通りにならなければムズがり理屈をつける子供の政治論ではなかろうか。よほど昨年の政権交代が気に入らないらしい。これを厳粛に受け止める内反智が皆無ということになる。 れんだいこが何を云いたいのか。この程度の粗脳の者が立命館大学教授 大阪大学名誉教授なる肩書で、産経新聞正論欄に登場している貧相さを嗤いたい。日本政治の粗脳ぶりを示す以外の何ものでもないと云う寂寥を覚える。教授の頭脳が地に堕ちたと云うべきか、元々教授頭脳などこの程度のものに過ぎないと云うべきか。それにしても、あらゆる角度からふるいにかけて行くと、現代世界を支配する国際金融資本帝国主義の意図を嗅ぎ取り、これをスポークスして処世している世渡り上手しか残らない。そういう手合いが大挙跋扈している嫌な世の中ではある。 2011.11.22日 れんだいこ |
Re:暴力装置発言。パルタさんとわぁ。 | れんだいこ | 2010/11/22 21:25 |
パルタさんちわぁ。日本は菅政権の下で一層激しく非常に危険なワナに誘われつつあるとの危機感を覚えています。これをどう打開すべきか。もはや国会には期待できないと思います。そういう能力もないし、そもそも党中央レベルは右も左も与党も野党も国際金融資本帝国主義に雇われたシオニスタンばかりです。そう云う風に仕組まれそうなったと云うところだと思います。それでも傍観する訳にはいきません。さしあたりどうするか、何を軸に闘うのかが問われていると考えます。このことに我々の生活レベルが直結し始めているように思います。もはや余裕がないのです。 直ぐにできることは我々の論調を創り出す機関を設けることです。これだけはどうしても早急にせねばなりません。目下のシオニスタン系マスコミメディアの言論大砲に抗する草の根口コミメディアを立ち上げねばなりません。れんだいこは風邪をひいておりますが、それも日夜の苦吟の賜物ですふふふ。 ネット上に新聞、週刊紙、月刊誌ができないものか考えております。できのよいものなら例え有料でも構いません。地元新聞一紙を残し、そちらへ回せば月額5千円ぐらいなら、どうにでもなります。そうでもして我々の言論空間をつくらなければ負けます。脳がやられたら全てはお仕舞いと考えております。生きていると云う事は脳が健全だと云う意味だと考えております。 れんだいこにはアイデアはあるが技術がありません。技術はあるがアイデアに乏しい人と巡り合えればステキなマッチです。そういう出会いがないかなぁとか考えております。これを読まれた方、れんだいこと会う会わないはどうでもよく、ネット言論を立ち上げてください。れんだいこに常連投稿させてください。まずは田中角栄政治の見直し論、再興論から入ります。今も見直していますが、角栄は面白いですね。 これが分からない連中が多過ぎます。れんだいこに云わせれば、角栄―大平同盟こそ日本左派運動が生んだ唯一の奪権者です。それ故に潰されてしまいました。これを潰すのに功があったのが日本サヨ運動です。サヨと左派とはこれほど違います。れんだいこは、左派の生き残りと自称しております。その真贋を争う場が欲しいです。というようなことでまた。 2010.11.22日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評858訂正 | れんだいこ | 2010/11/23 11:09 |
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それにしても、「それの方が形式的民主主義による多数決よりも価値が高い」はヒドイ。これによれば、選挙も多数決も形式民主主義と云うことになる。こういう政治学者が立命館大学教授 大阪大学名誉教授であるとしたなら、立命館大学も大阪大学も恥じねばならない。思う通りにならなければムズがり理屈をつける子供の政治論ではなかろうか。よほど昨年の政権交代が気に入らないらしい。 これを厳粛に受け止める内反智→内省智が皆無ということになる。 |
Re::れんだいこのカンテラ時評859 | れんだいこ | 2010/11/25 19:52 |
【日共の延坪島事件論は腐りきっている】 北朝鮮軍による黄海上の延坪(ヨンピョン)島攻撃事件に対して、案の定、日共が噴飯ものの声明を発表している。これを論評する。 11.24日付け赤旗は、「北朝鮮が韓国の島砲撃 兵士2人死亡、民間人負傷 一時交戦状態」の見出しで事件報道している。その際妙な地図が添付されている。それによると、北朝鮮が主張する軍事境界線の一部がえぐれ、延坪島が韓国領であるとする形に図示されている。日共は「延坪島韓国領」を説明する義務がある。北朝鮮が、「延坪島=韓国領」を認めている形跡、経緯を示さぬまま「延坪島=韓国領」を図示するのは公正さに欠けよう。理解できぬのはれんだいこだけだろうか。 志位委員長は同日の記者会見で、韓国・延坪島を砲撃した北朝鮮を非難する声明を発表した。声明は砲撃について「朝鮮戦争の休戦協定はもとより、国連憲章にも反する無法な行為だ」と指摘。領海について南北双方の主張が異なることを指摘した上で「それを武力攻撃の理由にすることは、断じて許されることではない」と主張。「砲撃を受けた延坪島は、北朝鮮が主張する領海に囲まれた位置にあるが、『同島と同島への航路が韓国側に属することは、北朝鮮自身も認めており、北朝鮮の言い分はまったく成り立たない』」と非難している。 この論法のキモは、「同島と同島への航路が韓国側に属することは、北朝鮮自身も認めている」である。その根拠はどこにあるのだろうか。どういう経緯で「北朝鮮自身も認めている」のだろうか釈然としない。北朝鮮側は同島の北朝鮮領土論を主張しているように思われるので、日共は説明せねばならない。 次に、「北朝鮮の軍事挑発行為を厳しく非難」し、北朝鮮に対して「攻撃とそれによる被害の責任をとり、挑発的な行動を繰り返さないことを厳重に求める」とした。付け足しで、韓国をはじめとする関係各国に対しては、軍事的緊張や軍事紛争につなげることなく、外交的・政治的な努力により解決することを要請した。しかしながら、日共の論調が北朝鮮批判に偏していることは明らかであろう。こんな共産党がいつからできたのだろうか。れんだいこの知る共産党では断じてない。 想起すべきは、共産党の朝鮮動乱の時の対応ではなかろうか。かの時は、北朝鮮側が先行して侵攻したにも拘わらず韓国側の侵攻が先と主張して、「歴史の真実」に堪えない対応を見せ顰蹙を買っている。既に多くの識者が指摘しているところである。当時の対応が左派的な偏向論調であったとすれば、こたびのそれは極めつけの右派的な偏向論調であり、又もや「歴史の真実」に堪えない対応をしているのではなかろうか。そのうち失笑を買うことになるだろう。 れんだいこには、どちらも間違いと云うより、こたびの右派的な偏向論調の方が重度過失性が高いとみる。なんとならば、朝鮮動乱当時の左派的な偏向には「朝鮮民族の南北分断固定化反対、祖国統一支援」の意図があり是認できる面があったからである。それに比して、こたびの右派的な偏向論調には求めるべき何があるのだろうか。米韓日の策動を裏から支援する腹黒い魂胆しか見えてこない。正確には、骨の髄まで国際金融資本帝国主義のシナリオに乗っており、それをプロパガンダしているに過ぎない。共産党的対応は微塵もない。一体、我々は、こういう共産党をいつまで許すべきだろうか。日共党員よ怒れ。怒らないとすれば共同正犯である。この党は腐ってしまっている。 こたびの事件は一見、北朝鮮側の蛮行が際立つように思われる。だがしかし、れんだいこはそうは思わない。韓国にも北朝鮮にも怨みもツラミない。東亜の平和と安定、協調を求めるばかりである。そういう観点から疑問と見解を述べて見たい。それには延坪島問題を日本の北方領土問題に引き据えて考えてみれば良い。日本の置かれている立場がオカシな二枚舌マルチ舌に陥っていることに気づかされよう。 北方領土問題では、日本領土の目と鼻の先の歯舞、色丹島がロシアが実効支配されている。その不自然さにより、幾ら戦争に負けたにせよ不当として北方領土返還運動が始まっているのではなかろうか。或る時、ロシアが日本領土目前の歯舞、色丹島で軍事演習し、し続けたと仮定しよう。それに対して日本政府は拱手傍観すべきだろうか。挑発行為であるとして警告するのが正義であろう。然るに、ロシアの軍事演習が次第にエスカレートするばかりであったと仮定しよう。日本政府は当然、更に激しく抗議すべきではなかろうか。 「北朝鮮軍による黄海上の延坪(ヨンピョン)島攻撃事件」は、この事態に遂に忍耐の緒が切れて日本の自衛隊が軍事演習するロシア軍に対して発砲したと云う構図ではなかろうか。それが許されるかどうかは別にして、この場合、日本ばかりが国際世論から轟々と批判されるべきだろうか。ロシア軍の挑発行為こそ元凶論で立ち向かう世論も生まれるべきではなかろうか。 それを思えば、日本政治が本来為すべきは、我が北方領土問題に引き据えて、韓国の挑発行為に対しても非を咎める論調に立つべきではなかろうか。今、日本政界はこぞって激しく北朝鮮批判を奏でている。日共も然りである。せめて共産党ぐらいは、北朝鮮の非、韓国の非を同等に論うべきではないのか。こたびの志位委員長声明には、この複眼視点が一切ない。あからさまの一方的北朝鮮批判に加担している。その日共の北方領土問題は勇ましい。千島列島全域まで返せ論でラッパを吹き続けている。可能かどうかは別にして千島列島全域の返還を求める唯一の党として宣伝している。 日共は、北朝鮮の眼前の延坪島問題と日本の眼前の北方領土問題とをどうロジック的に識別しようとしているのだろうか。日共は、態度の差を整合的に説明せねばならない義務がある。ロシアが歯舞、色丹島で執拗に軍事演習を策動する時、どう対応すべきなのか説明せねばならない。これは日本政府の対応も然りである。日本政府は、日本の北方領土問題と北朝鮮の延坪島問題をどう説明しようとしているのだろうか。れんだいこには理解できない。 仮定の話ではあるが、「北朝鮮軍による黄海上の延坪島攻撃事件」に対する批判対応は、北方領土域に於けるロシア軍の度重なる挑発行為に対して日本の自衛隊が反撃したとして、日本政府自らが「許し難いものであり、日本を強く非難する。ロシア政府を支援する。対日本制裁措置を強化する」と云っている構図となるのではなかろうか。オカシな具合になる。 これは何も北朝鮮側のこたびの発砲を正論化しようとしているのではない。日本の領土問題に引き据えて考えれば、こういうロジックになると云うことを確認しようとしているに過ぎない。北朝鮮側からすれば、韓国側に実効支配されているものの、領土の目前の延坪島で度々の軍事演習は挑発行為と受け取るのは自然ではなかろうか。そもそも沿岸200カイリ論からすれば、北朝鮮側の主張する海上軍事境界線の方が整合的なのではなかろうか。日本政府の北方領土論は北朝鮮側の主張に即しているのであって、ロジック的には仲間であろう。 にも拘わらず、北朝鮮側の主張する海上軍事境界線を認めず、韓国側の主張する北方限界線を良しとするロジックが分からない。韓国側の主張する北方限界線良し論は、ロシア式領土論即ち先の大戦で勝利したことによる戦勝国側の実効支配であり何ら問題はない、敗戦国側の返せ論は虫の良い駄々っ子とする論の方が正当化されるのではなかろうか。今、日本政府は北方領土論で返還を求めている。ならば、こたびの事件に対する日本政府の北朝鮮側の主張する海上軍事境界線否定、一方的な北朝鮮軍批判は追って日本の北方領土論の首を絞めることになりはすまいか。かく外交は繋がっていると考えるべきではなかろうか。 あれこれ考えると、日本政府の領土論、外交論は、米国の後ろ盾を頼みに米国の指針する領土論、外交論を主張しているだけに過ぎないと云うことになる。国際金融資本帝国主義のシナリオに添って走狗しているに過ぎないと云うことになる。これによれば、こういう有事緊張事態に即応して更なる軍備強化が求められることになる。核武装も云われ始めているが米軍傭兵論の促進でしかない。憲法改正は無論のことである。こうして平和国家から好戦国家への転換が策動され続けている。 我々は、この傾向に悪乗りして正義ぶるべきだろうか。日本の外交は、こういう紛争に対して非軍事的、経済協調的、文化交流的促進を押し進める処方箋で処すべきではなかろうか。あるいは火中のクリを拾って平和を求めるべきではなかろうか。そういう外交こそが日本に望まれているのではなかろうか。我々が民主党政権に期待したのは、こういう外交ではなかろうか。今は全くダメで反対のことばかりしている。自公とまるで同じ対応している。何だったのだろう政権交代は。政治に芸がない能力がない。そろそろ菅―仙石の顔を見るのも嫌になって来た。 2011.11.25日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評860 | れんだいこ | 2010/11/26 19:58 |
【「読売新聞、産経新聞、赤旗連合」考】
2010.11.26日、ネットで検索するのに読売新聞、産経新聞、赤旗が一斉に小沢どんの新たな政治資金疑惑を報じている。疑惑内容を確認する前に一言しておく。こたびの「小沢どんの新たな政治資金疑惑」に対する「読売新聞、産経新聞、赤旗連合」による一斉報道こそ臭い。この連中によって小沢パッシングが組織的系統的に為されていることが分かる。この連合は今、何かと論調が揃いつつある。その昔、ロッキード事件でもこれが見られた。かの時、産経新聞は榎本秘書の自供を誘うべくニセ新聞まで拵えて検察捜査に協力し、取り返しのつかない汚点を刻んでいる。それでも平気で今日まで口をぬぐっているのが産経らしいところではある。 現在、読売新聞紙上で「時代証言者」シリーズに不破が登場連載しているが、これも「読売―日共の蜜月関係」を明らかにしていよう。保守系メディアに共産党の最高指導者が登場する時代の転変が面白い云々と評する向きもあるが、ノ―天気なのではなかろうか。 この関係がいつ頃から生まれたのか。次第にアケスケになってきつつあるが、かなり昔から始まっている。戦後読売の最高指導者・正力松太郎が戦犯指定解除と引き替えにCIAとエージェント契約を結んでいたことは既に明るみになっている。正力後の読売の最高指導者・ナベツネもいずれ暴露されよう。 そのナベツネは、戦後直後の共産党時代から宮顕と気脈通じている形跡が認められる。宮顕のその後の党中央登壇、壟断以降も、両者の関係は地下ルートで繋がっていたと容易に推定できよう。この関係は不破時代にも継承されており、こたびの「時代証言者」シリーズへの不破登場、小沢どんパッシングの「読売新聞、産経新聞、赤旗連合」の背景でもあろう。正力、ナベツネが国際金融資本帝国主義のエージェントとすれば、そのエージェントと親密な関係にある日共がどういうことになるのか、述べるまでもなかろう。 以上前置きして、取り敢えずこたびの疑惑内容を確認しておこう。 2009.7.21日、昨年8月に行われた衆院選直前のこの日、民主党岩手県第4区総支部が、政治団体「改革フォーラム21」(東京都千代田区)の解党時残余金の中から3億7000万円の寄付を受けている。同支部は寄付を受けた翌日、小沢氏の資金管理団体「陸山会」(港区)に同額を寄付している。同支部はこの年、「寄付・交付金」として3億7062万円を支出している。このことが岩手県選挙管理委員会が公表した昨年分の政治資金収支報告書の要旨で判明した、としている。 政治資金規正法は、政党や政治資金団体以外の政治団体が、同一の政治団体へ年間5000万円を超える寄付をしてはならないと規定している。「改革フォーラム21」から「陸山会」への直接寄付は、この規定に抵触するため、民主党岩手県第4区総支部を迂回(うかい)させた可能性がある。これにつき、昨年10月まで改革フォーラムの会計責任者を務めた平野貞夫元参院議員によると、改革フォーラムから同支部への寄付は、民主党の衆院選候補者に配るための資金だったという。小沢氏と改革フォーラム側が相談の上、衆院選候補者のための資金として同支部の口座に送金したという。 「改革フォーラム21」は1993年、自民党時代の小沢氏らの政策グループの政治団体として発足。小沢氏らが新生党を設立した後も存続し、歴代の代表や会計責任者は小沢氏の側近だった故八尋護氏や平野貞夫元参院議員、樋高剛衆院議員らが務めた。同党が解散して旧新進党に移行した1994.12月、「改革フォーラム21」には新生党本部と新生党岩手第4支部など10支部から、総額9億2526万円が寄付されている。その後、1995年に約2億6000万円を支出した以外は、資金の出入りはほぼ毎年数十円~数百万円で推移し、2008年末には約6億9000万円が残っていた。 以上が概要である。「読売新聞、産経新聞、赤旗連合」は、「政党資金の私物化ではないか」、「政党が使い残した“公金”をなぜ小沢氏が一人占めにできるのか」と疑惑している。これをどう評するべきだろうか。 れんだいこの解答は簡単である。小沢どんに対する「陸山会事件」同様、これを咎める直接的法文規定がない以上は罰せられるべきではない。政治的道義的責任論は仕切りがない分、魔女狩り化される恐れが強く、採るべきではない。何より、政治資金収支報告書への記載があれば大過なく、政治資金収支報告書への記載のない金銭授受こそ重責とされるべきである。もう一つ、小沢どんに対する法規制は、他の議員、他の政党の離合集散にも等しく適用されなければならない。小沢どんのみ取り締まる法規制なぞ有って良い訳がない。 もう一つ付け加えるならば、政治にはカネがかかると云う現実を踏まえ、それを個人の着服ならいざ知らず、こたびのように「民主党の衆院選候補者に配るための資金」、秘書寮の建設費、その他諸々の政治活動費に使われていたなら大目に配慮されるべきではなかろうか。法と云うものは弁えがあってこそ活きる。世の中の万事を法規制しようとするのは息苦しくなるだけのことである。 一見聞こえの良い「キレイ、清潔、潔癖」論を押し進め過ぎると際限のない統制社会に陥る可能性がある。我々は何より、そういう社会を忌避すべきではなかろうか。れんだいこが、企業献金、業界献金、労組献金、団体献金につき収支報告書に記載するならば可論、資金も活動も極力自由自主自律論を唱える理由がここにある。それぞれ限度額を設定し、受け取りできるようにすれば良い。それが政治活力を生むと思っている。 もとへ。そういう眼で見ると、「読売新聞、産経新聞、赤旗連合」による「小沢どんの新たな政治資金疑惑」は不発である。破裂したのは「読売新聞、産経新聞、赤旗連合疑惑」の方である。ブーメランが帰って来たことになる。「読売新聞、産経新聞、赤旗連合」よ、何なら君たちの資金疑惑を採り上げて見ようか。君たちは天の声捜査に耐えられるか。こっちの方がよほど裏がありそうだ。いずれにせよ敵方が揃い踏みし始めている。何かが始まる前触れだろう。 2010.11.26日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評861 | れんだいこ | 2010/11/28 10:55 |
【韓国軍兵士2名の合同告別式考】 2010.11.27日、北朝鮮軍による韓国・大延坪島(テヨンピョンド)への砲撃で犠牲になった韓国軍兵士2名の合同告別式が、城南市にある国軍首都病院で営まれた。告別式には、金滉植首相や大統領府の任太熙・大統領室長らのほか、与野党幹部、日本の武藤正敏駐韓大使らも参席した。追悼の辞で海兵隊の兵長が悲痛な声で故人に呼びかけると、遺族席からすすり泣く声が響いた。 我々は、この悲劇をどう受け止めるべきだろうか。これを愚考する。れんだいこが思うに、朝鮮民族は、第二次世界大戦後の冷戦構造の波をモロに被り続け今日まで至っている。南北分断がそれであり民族の悲劇であろう。いつか云いたかったことをこの際思い切って云わせて貰おう。 北朝鮮―韓国では、戦後65年経って未だこの問題を解決できないばかりか、ますます南北間対立が強まりつつある。これは朝鮮民族の結合能力の欠如を物語っているのではなかろうか。朝鮮史を紐解いても朝鮮半島が統一された時期を知らない。正確には、1392-1910年まで続いた李氏朝鮮(りしちょうせん)時代に於いてのみ統一されていたようである。他は常に分裂抗争含み史である。 こういうことは日本では有り得るだろうか。戦後日本は連合国の分割統治の危機に陥っていた。結果的に、国際的駆け引きを経て米帝一国型の統治に移行した。米帝統治を是認する訳には行かないが分断統治を免れることができたのは僥倖であったと思う。これにより、大和民族は第二次世界大戦後の敗戦にも拘わらず列島的統合を維持したまま今日に至っている。 もし仮に糸魚川線辺りで東西に分断されたとするなら、日本民族はどう対応しただろうか。一刻も早い統合を目指すべきだろうし、この論調の方が常に主流になり、これを政治の一等課題として割合早く祖国統一に向かったのではなかろうか。日本民族にはそういう政治能力があると看做したい。これに比して、朝鮮半島では祖国分断を是とする分断固定強化論調が主流になり続けており今日まで至っている。 れんだいこは、有り得てはならない論調だと思っている。そういう論調が支配的なことに対して朝鮮民族の政治的能力の欠如だと思っている。体制間差異は別にしても民族は極力統合されるべきであり、如何なる政治体制を敷くかはそれから後の話ではないかと思っている。この点で、ドイツの分離と統合史は大いに参考になる。第二次世界大戦後、ドイツは西ドイツと東ドイツに分断された。ベルリンの壁はその象徴だった。凡そ45年後の1989年、そのベルリンの壁が崩壊する。1990年、 ドイツ統一条約が調印され東西ドイツが統合されている。この経緯はドイツ民族の政治能力の高さを思うべきではなかろうか。 1998年来のキムデジュン(金大中)政権、ノムヒョン(盧武鉉)政権下の南北融和は、東西ドイツの統合に触発されて進められた太陽政策ではなかったかと思われる。だがしかし、この政策は放擲され、現在のイミョンバク(李 明博)政権は再び元の木阿弥の南北対立路線に引き戻そうとして躍起になっている。振り子が揺れ続けている韓国政治に於ける二派の抗争は相当に根深いものとなっていると窺うべきだろう。 れんだいこに云わせれば、これは民族の能力にかかっている。朝鮮半島における南北対立は、北朝鮮政治、韓国政治を論評する以前の話であり、余りにも馬鹿げている。恥ずかしい話である。これを踏まえれば、こたびの「韓国軍兵士2名の合同告別式」に流す涙は復讐を誓う涙であってはならず、民族分断の悲劇を解決する為の叡智を求める涙とせねばならない。問題は、朝鮮半島における南北分断固定化、対立激化を煽る論調にある。一体、誰が何の為に説き従うのだろうか。こう思慮を致す時、戦争屋の暗躍、コントロールを思わざるを得ない。同時に、日本政治もまたこの波に洗われていることに気づく。 日本政治は昨年の衆院選で政権交代した。その果実を世界が注視した。だがしかし、現下の民主党二番手の菅政権の対応はさっぱり要領を得ない。与野党入り乱れての国会質疑は北朝鮮制裁強化論の話ばかりである。実にクダラナイ。自公政権時の外交と全く同一軌道で、或いはそれ以上に日米同盟強化論に傾斜し有事態勢論にシフトしつつある。朝鮮半島の緊張緩和を願うのではなく米韓日の共同軍事体制を強化しつつある。その為の軍事予算の更なる計上に向かいつつある。 その癖、内治予算は削りに削り戦後最長の不況下を好景気と偽称しつつシャッタ―通り政治を促進しつつある。レンボウ派の事業仕訳のカラクリは、この路線上の芸能政治に他ならない。彼らは内治予算を削り外治あるいは軍事予算を底抜け化させつつある。消費税増税もこの動きの中にあると思うべきだろう。その彼らは、日本政治再生の唯一の契機となると思われる小沢政治を阻止する為の大政翼賛会政治を敷き続けている。黒幕の画策抜きに考えられるだろうか。 してみれば、日本政治に於ける我々の能力、朝鮮半島の政治における彼らの能力も本質的に同じところが問われており、決して他人事ではないことが分かる。これを歴史的にみるのも興味深い。日本政治、韓国政治、北朝鮮政治、中国政治、台湾政治は波動的に列なっている。片方でアクションが始まれば他方でも触発されると云うことである。その好例は60年安保闘争史であろう。かの時、日本では岸政権打倒のデモの渦が巻いたが、韓国でも同様のうねりが起こり李承晩政権が打倒されている。日本では池田政権が誕生し、韓国は朴正煕政権へと移行した。かく連動している。その意味で、日本政治の再生は独り日本だけの問題ではない。韓国政治も又同様である。かく確認しておきたい。 2010.11.28日 れんだいこ拝 |
れんだいこさんこんにちは | 高菜 | 2010/11/28 07:49 |
―れんだいこにはアイデアはあるが技術がありません。技術はあるがアイデアに乏しい人と巡り合えればステキなマッチです。そういう出会いがないかなぁとか考えております。これを読まれた方、れんだいこと会う会わないはどうでもよく、ネット言論を立ち上げてください。れんだいこに常連投稿させてください。まずは田中角栄政治の見直し論、再興論から入ります。今も見直していますが、角栄は面白いですね。― わたしは技術はありませんが、そのようなネット言論が立ち上がったら素晴らしいと期待しています。 購読料を払う読者に必ずなります。れんだいこ史観が阻まれているのは、読売新聞に共産党の不破の記事が載るーその構造の中にあるのでしょう。 先日ハワイに仕事に行く友人に、人生学院の「ハワイ諸島侵略史考」を送りました。とても為になったそうです。 |
Re:れんだいこさんこんにちは。はぁいちわぁ。 | れんだいこ | 2010/11/28 10:45 |
高菜さんちわぁ。 > わたしは技術はありませんが、そのようなネット言論が立ち上がったら素晴らしいと期待しています。 ホント早くネット言論誌が生まれたら良いと思います。ヤングの奮闘頼みます。 > 購読料を払う読者に必ずなります。れんだいこ史観が阻まれているのは、読売新聞に共産党の不破の記事が載るーその構造の中にあるのでしょう。 れんだいこ史観は或る時に命名しましたが気にいっております。確かに何から何まで観点が違うんだ。れんだいこの制る限り太鼓叩き続けようと思います。 > 先日ハワイに仕事に行く友人に、人生学院の「ハワイ諸島侵略史考」を送りました。とても為になったそうです。 有り難うね。今見直しましたら若干番号が違ったりしますので書き直します。これに限らずどんどん広めてください。今後と宜しくね。 2010.11.28日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこさんこんにちは。はぁいちわぁ。 | れんだいこ | 2010/11/28 19:39 |
高菜さんちわぁ。今急遽、「ハワイ諸島侵略史考」を書き直しました。以下に格納しました。ご確認ください。 「世界史学院」 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/sekaishigakuin/) 「ハワイ王国滅亡史」 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/sekaishigakuin/syokuminchikaco/hawai.html) 改めて思いましたが、日本の戦前の侵略行為を歴史的謝罪するのなら、米国のハワイ侵略史なぞ百倍も謝罪せねばなりません。従軍慰安婦問題で口角泡を飛ばす謝罪を要するのなら、西欧列強の植民地主義政策による民族ジェノサイドなぞはどれほど謝罪させねばならないか。ところが、これが逆になる。不正だと思いますね。れんだいこは左派を自認していますから、戦前の侵略行為、従軍慰安婦問題も、史実に基づき謝罪をせねばならないと考えますが、何事も相対化せねばならないとも考えます。現に今進行中のパレスチナの悲劇を無視して従軍慰安婦問題を熱く語る、ホロコーストを語る者の正義が信じられません。 2010.11.28日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評861 | れんだいこ | 2010/11/29 20:59 |
【森の石松曰く「だれかもう一人お忘れじゃないでせうか」考】 政権末期の様相を確実にしつつある菅政権を総評しておく。ネットサイト「木村愛二の憎まれ口」で「偽の友は公然の敵より悪い」(A false firiend is worse than an open enemy)、「公然の敵の方が偽の友より良い」(An open enemy is better than a false friend)と云う言い回しを教えてもらった。これは実にその通りで、公然の敵なら身構えることができるが、味方ヅラした仲間は背後から裏切るので余計に質が悪い、始末に困ると云う意味と解している。 これが、れんだいこの日共批判の視点になっている。ここでは日共批判は差し控える。ここで為すのは現下の民主党執行部批判である。この連中も、明らかに「偽の友」の正体を晒しつつある。ここまでヒドイとは思わなかったが、かなり性格の悪い御用聞き集団である。彼らには、歴史に申し訳ないと云う意味での歴史責任の自覚がないみたいである。あれば恥ずかしくてできない裏切りを平然と重ねつつある。 れんだいこは、菅政権の出航に当たって、「管政権出航に当たってのれんだいこ評」、「菅政権に対するれんだいこ書簡-和魂洋学に立ち戻れ。その1-5」を捧げている。現在、荒らし対策で「カンテラ時評総集版」を設け、「カンテラ時評25(721~750)」、「カンテラ時評26(751~780)」にサイトアップしている。確認していただければ有り難い。 この声が届こうが届くまいが構わないのだが、問題は、れんだいこの危惧した通りに菅政権がシオニスタン政治に邁進していることにある。菅と云えば、2009年の政権交代前に「何としてでも、とにかく一度、民主党に政権取らせてくれ。そのデキを見てほしい。期待を裏切らない」と訴え続けていた映像が脳裏に残っている。その菅がいざ政権をとって、やっていることがこのザマだ。これをどう評するべきだろうか。 今、菅は、支持率が1%になってでもやり抜く、政権にしがみつくと嘯いている。それは食事の席での支持者の発言だと云い換えようとしているが、そんなことはどうでも良い。その場で発言を否定せず許容する雰囲気であったとすれば、菅が云ったも同然だろう。下手に逃げの手を打たぬ方が良い。菅政権にはこうした卑怯な論法や対応が目に付き過ぎる。中国の首相と対談する際に、のっけからメモを読み下を俯いていたのも然りである。正々堂々としたところがなさすぎる。 菅政権になって、鳩山政権より更にヒドいシオニスタン政治に傾斜している。そんな政治を期待していた訳ではないのに、しゃにむに突進すると云うのが「支持率1%宣言」である。こうなると居直りも度が過ぎていよう。防衛費増強、自衛隊派兵、武器禁輸解禁、原子力発電推進、消費税増税、農産物全面自由化、憲法改正云々。一体どこに「官僚側ではない国民側政治」があると云うのだろう。人気を取った事業仕訳も次第にお里が知れつつある。 菅及び菅政権にタムロする連中が、ここまでヒドイとは思わなかった。その怒りが各地の選挙戦での民主党候補落選に表われている。一々挙げないが、岡田幹事長には民主党候補を当選させようとする意志がそもそもないみたいである。バカの一つ覚えで小沢問題を繰り返し続けている。反論されるなら、いつでも再反論してみせよう。問題は、菅政権のツラの皮の厚さが尋常でないところにある。参院選の敗北の時もそうだった。何の責任も取らない、落選閣僚まで居残りさせた。そして代表選に向かったが不正投票の疑惑が残った。不自然に民間委託業者に開票させ、その後の再精査もしていない。外交も、自公政権時よりヒドイ米国追随、日米運命共同体論、日米安保体制強化論、北朝鮮制裁強化論で明け暮れている。 それでも評論家は、学生運動上がり政権だと云い左傾化していると評している。れんだいこにはとんと分からない。菅、仙石、枝野に学生運動歴があるのかも知れない。しかしながら、どこのセクトでどういう働きをしていたのか問わなければ意味がない。履歴だけで云えば、ナベツネも元共産党員である。しかし、その履歴は、共産党にあって共産党の左傾運動に反対する右派系新人会運動による撹乱を企み、資金源疑惑を衝かれて除名された曰くつきのものでしかない。この眼で洗うと、菅、仙石、枝野の学生運動歴も似たようなものだったのではなかろうか。そういう履歴でも、学生運動上がりの左派政権だと批判する者の見識が疑われよう。 本当の問題は、学生運動歴にあって共通しているのは右派系運動に位置していたところであり、その後共通してシオニスタンとして取り込まれているところである。菅政権を左派政権などと評するのはピンボケ甚だしく正しくは自公よりも露骨なシオニスタン政権とみなすべきだろう。つまり、菅政権も菅政権だが、これを評する方が輪をかけて愚頓な評をしていることになる。多少ともマシな学生運動歴の者は怒らねばならない。我々にも未熟な面は多々あったが、当時の世の中に良かれと思って議論し行動した精神に偽りはない。一身の己の利益の為に精神を売り売国したことはない。一緒にされるのは迷惑至極である。 もとへ。菅政権のトンデモ性が明らかになった以上、どう成敗すべきか。これが問われている。マスコミメディアが頻りに誘い始めている衆院選に向かうべきだろうか。れんだいこは、金毘羅参りからの帰参途次、大坂から京都へ向かう千石舟に乗った森の石松の文句を思い出す。「誰か一人お忘れじゃないでしょうか。頼むから胸に手を当てて思い出して下せえ。飛びっきり強いのが後一人居るでせうが」。この方の政権を見ない限り、民主党を見限る訳には行かない。 そうさせない包囲網が敷かれている。菅政権とは、この方を登場させない任務を帯びて秘密活動している癖のある政権である。やらせてみたが全くなっていないので後は引き際を見るだけである。最強政権にバトンタッチするなら引き際として納得できるが、衆院解散に向かうことになろう。まさに「偽の友は公然の敵より悪い」の面目躍如ではなかろうか。伸子夫人もそろそろエエカゲンに連れて帰らねばなるまい。せめて立つ鳥の足跡だけは間違わないように。 2011.11.29日 れんだいこ拝 |
れんだいこさんこんばんは | 高菜 | 2010/12/03 01:33 |
「ハワイ諸島侵略史考」書き直しのお知らせ、大変有り難うございます。 国際金融資本の画策の歴史が全く表に出ない近代史なんぞ学ぶに足りない!と、れんだいこさんの「ハワイ諸島侵略史考」を再読して新に思いました。 日本の若者の政治意識の低さ、アホさ加減を嘆く声を聞くと矛先が違うゾオと、同じくドアホだった私は振り返ります。アメリカの占領政策で近代史を学ぶことを徹底的に奪われた!! 近代史は、なぜか時間の都合ではしょられて良いことになっていた。これが、回りまわった作為であったことが、米国公文書館分室所在の資料、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムで明らかとなり、イラク戦争時ブッシュが、占領政策の成功例として日本を挙げた屈辱を、いまさらのように思い出しました。 米国の日本占領政策ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの主旨は、「日本人に戦争の罪悪感を植え付け、民族の誇りと自尊心を奪い、再び米国および連合国の脅威とならないよう、無力化、弱体化させることを目的とした、民間情報教育局の計画」であり、検閲と民間情報教育局による宣伝が相乗効果を発揮し、戦前の日本人の歴史観、道徳観を変え、ドアホにすることに成功。 これでは、自国の近代史をかなりな比重をもって学んでいる、隣国の韓国や中国の青年と議論の土俵に上ることはできません。議論の土俵に上れないということは、異論の葛藤の中から真実を見出す機会を奪われます。表層の歴史の底に画策する国際金融資本の関与の歴史を知ることが相互理解の大きな鍵だと思い、元アホ青年の意地をかけて学んでいます。 |
Re:れんだいこさんこんばんは | れんだいこ | 2010/12/03 12:14 |
高菜さんコメント有り難う。これで「ハワイ諸島侵略史考」書き直しを終えます。結構肩が凝ったり首がやられてしまいます。医者曰く「もう年なんだから」と云われましたが、本人はまだまだ若いつもりです。 > 国際金融資本の画策の歴史が全く表に出ない近代史なんぞ学ぶに足りない!と、れんだいこさんの「ハワイ諸島侵略史考」を再読して新に思いました。 ホントそうですよね。 > 米国の日本占領政策ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの主旨は、「日本人に戦争の罪悪感を植え付け、民族の誇りと自尊心を奪い、再び米国および連合国の脅威とならないよう、無力化、弱体化させることを目的とした、民間情報教育局の計画」であり、検閲と民間情報教育局による宣伝が相乗効果を発揮し、戦前の日本人の歴史観、道徳観を変え、ドアホにすることに成功。 これもホントそうで、この辺りもっと客観化させる必要が有りますね。昨今のテレビが愚民化教育に一役も二役も買っていることを次第に露骨化させております。とうとう新聞を地元新聞と日経のみにしました。浮いた金で多チャンネル視聴に切り替えようとしております。これで囲碁将棋欄を家でも見えるんだうれしいな。 > これでは、自国の近代史をかなりな比重をもって学んでいる、隣国の韓国や中国の青年と議論の土俵に上ることはできません。議論の土俵に上れないということは、異論の葛藤の中から真実を見出す機会を奪われます。表層の歴史の底に画策する国際金融資本の関与の歴史を知ることが相互理解の大きな鍵だと思い、元アホ青年の意地をかけて学んでいます。 れんだいこの労作を咀嚼して、どんどん書き換えてください。期待しております。 れんだいこのやり方は、まずサイトをアップし、ネットから関連情報を見つけどんどん貼ります。文字を大きくして読み進め、次第にれんだいこ風に書き直します。そのままのところもありますが、それはデキが良かったり、改めて読みなおそうとしている箇所です。この道中で著作権違反云々とヤラレたら弱りますが、その時はその時と腹をくくっております。ブックを読まねばならない時には購入し、必要箇所を引用、転載します。又読み直し書き換えます。順次このやり方です。情報が一杯になるとサイト分けします。 それにしても、本当に必要な情報はなかなか手に入りませんね。特に国際金融資本帝国主義がらみの情報が抑えられているように思います。グーグルは重宝ですが、この縛りを受け入れていることが分かります。クーグルだけでは危険と云うことが分かります。 滑稽なのは、特段に値打ちのないものほど著作権規制している傾向にあるということです。中にはコピーできないようにしております。れんだいことしては、そういう連中の文は相手にせず、共有共認同志の圏を広めたいと思っております。その際、れんだいこサイトが大いに役立つように永遠に書き続けようと思っております。知りたいと思うが知らないこと、疑問が湧いたことに対して、かく挑戦しております。同志よ列なれ。 2010.12.3日 れんだいこ拝 |
文明の対立は人間同士だけではない | パルタ | 2010/11/29 21:36 |
ユダヤ教の旧約聖書を啓典とする西洋文明は人間帝国主義の側面がある。 文明の対立は何もキリスト教徒VS先住民のような人間同士だけで起きるものではない。 人間VS動物の間でも起こるのだ。 ハンチントンとは全く別の文明圏地図というものも必要なのだ。 それは現代文明地区、狩猟民生活様式地区、動物地区というものだ。 今、日本列島はまずい事になっている。少し前に近隣の住民が猿被害で逃げ出さざるを得ない状況になった。 生態系を守る為に一年間で殺す熊は決められているというが、人間に一生治らないような傷害を与え、 場合によっては虐殺するような恐ろしい危険動物は遭遇次第射殺するしかない。 何故なら生態系が壊れているから人里に降りてくるのであって、 それで生かして放ったら、奥地の生態系がまた壊れる。 年々射殺頭数が増えたとしても、見つけ次第殺すしかない。 その数が増えていると言うことは、それだけ年々生態系が悪化していると言うことであり、 熊だけ生かしても、より一層生態系は壊れ、人間は危険に晒される。 |
Re:文明の対立は人間同士だけではない | れんだいこ | 2010/11/29 22:37 |
パルタさんちわぁ。クマの件ですが、最近よく里に下りてくることで問題になっております。そうなのですが、「年々射殺頭数が増えたとしても、見つけ次第殺すしかない」のでせうか。何か妙案はないのかなぁ。 れんだいこは、北海道のクマ公園で、クマが犬や猫よりも身ぶり手ぶりで交信できることを経験して以来、「山の神」として畏敬されてきた謂われを信じるようになりました。なぜ里に下り始めたのかの原因を確認して、共生的見地からの対策を見出すべきだとも思っております。少なくとも、山の守神として日本全国の山地に生息できるようにして貰いたいと考えております。増え過ぎても困るのでせうが、居なければ寂しいのです。というような気持ちもあるので返信しました。 2010.11.29日 れんだいこ拝 |
Re:レスありがとうございます | パルタ | 2010/11/30 20:28 |
>
れんだいこは、北海道のクマ公園で、クマが犬や猫よりも身ぶり手ぶりで交信できることを経験して以来、「山の神」として畏敬されてきた謂われを信じるようになりました。なぜ里に下り始めたのかの原因を確認して、共生的見地からの対策を見出すべきだとも思っております。少なくとも、山の守神として日本全国の山地に生息できるようにして貰いたいと考えております。増え過ぎても困るのでせうが、居なければ寂しいのです。というような気持ちもあるので返信しました。 最近、人間が襲撃される事が多いので恐怖しか感じてなかったのですが、 本来餌が豊富なら熊は襲って来ないのですね。 襲撃が多いというのはそれだけ餌が少ないのだから、 熊の餌を増やす方で考えた方がいいかも知れませんね。 最近、朝鮮半島の動きが慌しいですが、国民の多くが無職で 兵器産業にばかりお金がいく経済は恐ろしいですね。 戦争で破壊が起きれば若者の職場が更に奪われ、失業者が増える。 熊も北朝鮮も共生的見地からの対策を見出さないといけないのでしょうね。 |
Re::れんだいこのカンテラ時評862 | れんだいこ | 2010/12/03 19:03 |
【菅政権のお粗末政治考】
2010.12.3日、第176臨時国会が閉会した。どういう法案が可決され何が先延ばしになったのか、これを詮索するのも一興であるが割愛する。どうせ、肝心なことが何一つ着手されないピエロ政治であることは論をまたないから。際立つことは、菅政権政治がいよいよ露骨にシオニスタン政治の正体を見せつつあることであろう。菅政権の取り巻きを見よ、よりによってシオニスタンばかりを寄せたもんだ。これって正気だろうかとさえ思う。 米国16代大統領リー化―ンのゲチスバーグ演説の一節「人民の、人民の手による、人民の為の政府」(government of the people, by the people, for the people)に比して、「日本の、日本の手による、日本の為の政府」ならぬ「シオニスタンの、シオニスタンによる、シオニスタンの為の政府」になっている。この疑惑を論証しておきたい。 2010.12.1日、菅政権は、民主党の政権交代目玉マニフェストの一つである高速道路の原則無料化を廻って、当面の無料化社会実験を続行し、2011年度予算案での計上額を最大1200億円程度として2010年度予算の1000億円とほぼ同水準とする方針を固めた。これにより同マニュフェストが更に先送り引き延ばしとなった。れんだいこは、これを殊のほか重視する。ここに、菅政権の反動的本質が顕著に認められるとして、既に指弾の段階ではなく倒閣を指針させたい。 高速道路の原則無料化マニュフェストの先延ばしが如何に反動的であるか。それは、やろうと思えばできるのにやらないことにある。最も容易なことをしなければ、他のことがおざなりにされるのは必至であろう。何度も述べているが、無料化でなくとも、長年煩わされて来ている宝の持ち腐れと化している高額制の3分の1ないしは5分の1料金減額でも良い。どれもやらず引き延ばし続けるところが臭い。これは鳩山政権下でもそうだった。結局やらないまま退陣した。そろそろそれが何故か問わねばなるまい。 れんだいこが思うに、これは意図的故意の国策不況政策である。国策不況政策とは何か。それは、国策で不況化させる政策を云う。まさか政府がそんなことをする訳がないと思うのは甘過ぎる。普通には信じられないが、そう受け止めないと理解できないのがバブル経済崩壊以来の長期不況である。これは政治の無能無策によってそうなっているのではなく、政治が逆に不況化政策を強いることで招いている事象と看做さなければならない。 こう理解することで初めて民主党政権の高速道路の原則無料化政策の不履行が理解できる。何とならば、高速道路の原則無料化政策は日本経済の好況化を起爆する可能性が強いからである。本来ならば、イの一番に実験的に施行すべきところ、鳩山政権下の前原国交相は頑として拒否し続けたまま外相に転じた。世間からの批判が高まるや、最も経済効果の低い形で部分的に実施したのが例の「僻地限定の無料化社会実験」だった。最も経済効果の高い期待でもってマニュフェスト化されたものが最も経済効果の低い形で部分実施されると云う逆のものに転じさせられたことになる。そのまま今日に至っている。 問題は、鳩山政権下の前原国交相が、何故にそういう変調政治に拘り続け、菅政権が引き続き、そのような政策を継続しようとしているのかであろう。これを、国策不況政策論を媒介せずに説ける者がいたら説いてみよ。れんだいこが、即反論してみせよう。ことほどさように政府の意図的故意の国策不況政策を浮き彫りにするのが「高速道路の原則無料化反故政策」に他ならない。それ故に、れんだいこは強く指弾する。 これを補強する次のような知見を得た。議論してほしいと思う。経済学者の泰斗として知られる宇沢弘文氏は早くより指摘している。宇沢弘文・内橋克人著「始まっている未来」(岩波書店、2009.10.14日初版)は次のように記している。 「日米構造協議の核心は、日本のGNPの10%を公共投資にあてろという要求でした。しかもその公共投資は決して日本経済の生産性を上げるために 使ってはいけない、全く無駄なことに使えという信じられない要求でした。それを受けて、海部政権の下で、10年間で430兆円の公共投資が、日本経済の生産性を高めないような形で実行にうつされることにになったのです。その後、アメリカから、それでは不十分だという強い要求が出て、1994年にはさらに200兆円追加して、最終的には630兆円の公共投資を経済生産性を高めないように行うことを政府として公的に約束したのです。まさに日本の植民地化を象徴するものです」。 「日米構造協議が開かれましたが、実はアメリカの商工業者の団体が原案を作成し、アメリカ政府がそれに基づいて日本政府に要求と交渉をするというとんでもないもので、一番の焦点は経常赤字と財政赤字が膨らみ、非常に混乱した時代のなかで、日本政府に対して10年間で430兆円の公共投資をしろという要求でした。しかもその公共投資は日本の経済の生産性を上げるために使ってはいけない。まったく無駄なことに使えという。信じられない要求でしたが、中曽根政権はその要求をそのまま、日本政府のコミットメントとするわけです。次の政権で実行に移されますが、国は財政節度を守るという理由の下に地方自治体に全部押し付けたわけです。地方自治体は地方独自で、レジャーランド建設のような形で、生産性を上げない全く無駄なことに計430兆円を使う。そのために地方債を発行し、その利息の返済は地方交付税でカバーするという。ところが、小泉政権になって地方交付税を大幅に削減してしまったために、地方自治体が第三セクターでつくったものは多く不良債権になって、それが自治体の負債となっていまだに残っているわけです。430兆円ですからものすごい負担です。そのときから、地方の、たとえば公立病院は非常に苦しくなっていくわけです」。 宇沢氏は専ら政府の放漫財政への警鐘として述べているが、それは穏和な受け止めようであり、正しくは「政府の意図的故意の国策不況政策」として看做すべきではなかろうか。その一手法として、わざわざ役に立たない形での公共事業への冗費政策が導入されたと知るべきではなかろうか。その上で、公共事業そのものの撲滅論へと誘導する。阿諛追従派が同論を奏でる。お陰で日本はますます立ち遅れてしまう。そういう悪の循環に乗せられているのではなかろうか。 政府がそういうことを俄かには信じられまいが、れんだいこが云っているのではない。明日のノーベル学者として評価されている宇沢氏の弁であることを知ってたじろげ。れんだいこが冒頭で、「シオニスタンの、シオニスタンによる、シオニスタンの為の政府」云々した所以である。 2009年の政権交代は、この政治と決別しなかった。否それどころかますます深のめりしている。そのように正体を露わにした菅政権を越年させ、新年を迎えそうであるが、バカげた話である。恐らく反転攻勢しようが、それまでは日本の先行きは暗い。 菅首相は、雇用雇用とバカの一つ覚えを繰り返すが、景気を回復させ、企業が前向きになれば自然と雇用が回復するではないか。相変わらず経営を難しくさせ続け失業者を生む。それに対して雇用対策費を注ぎ込む。これを繰り返せば、仮に幾ら財源があっても二乗で足りなくなるではないか。分かり切っているのに雇用一途論を説くのは政権犯罪ではなかろうか。角栄政治を見よ、小泉政治、菅政治の反対のことばかりしている。逆は逆である。 れんだいこには、角栄が角栄政治が批判される所以が分からない。学問すれば角栄政治の非が分かると云うのであれば、そんな学問はいらんわい。 2010.12.3日 れんだいこ拝 |
Re:「シオニスタン」規定について | れんだいこ | 2010/12/04 18:25 |
パルタさんちわぁ。パルタさんが政治学用語として「シオニスタン」を受け入れてくれていることが分かりうれしいです。この命名はキリシタンの対句として生み出されたものですが、ズバリ本質を衝いていると思います。 元祖はネオシオニズムを奉戴するシオニストですが、連中のユダヤ教義はモーゼの律法を否定するところから始まっているように思います。ユダヤ教徒内に於いては、モーゼ律法を基準として受容派、否定派、中間派の三者に分岐共存しており、現代世界を牛耳る国際金融資本は否定派の急進主義の系譜を引いていると考えられます。 日本のシオニスタンは、ユダヤ教内のそういう深刻な分裂には無知蒙昧のまま国際金融資本派の教義を受け入れていると考えられます。そういうところには関心を持たぬまま当面の自己及び一族の利益が得られれば良しとする御用聞き身売り派と考えられます。日本政治は、自公も民主もその他は共産党まで汚染されております。これに棹さすグループが小沢派、亀井派、社民の一部だと考えられます。この闘いこそが基軸であり、この政治闘争こそ見守られねばならないと考えております。 れんだいこは高菜さんの喚起によりハワイ侵略史を再考しましたが、今後の日本政治にぜひ教材にせねばならないと改めて思いました。今も日々書き換えております。ご意見聞かせてください。 2010.12.4日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評863 | れんだいこ | 2010/12/04 22:54 |
【ムネオを救え、せめて一言しておく】 北海道の地域政党「新党大地」の代表・鈴木宗男衆議院議員が、12.6日に再度収監されようとしている。「法治国家だから、間違った判断でも国家の決定には粛々と従わざるを得ない」と、ソクラテス的法理論に従い、これを受け入れようとしている。 司法当局のこの無慈悲なムネオイジメの原因は何であろうか。その昔の角栄といい現在の小沢どんといい秘書石川といいムネオといい何故にかくまで執拗に責められるのだろうか。誰か、これを、国際金融資本帝国主義ネオシオニズム論を媒介せずに説けるだろうか。 れんだいこは、日本左派運動のこの方面における無能無関心を叱責したい。ムネオ政治はミニ角栄政治である。それ故に咎められている。なぜなら、国際金融資本帝国主義の対日要請に従わず自由自主自律の国家論で政治を行おうとするからである。日本左派運動の多くが、このバッシングを是認している。そろそろこの虚構から決別すべきではなかろうか。 もっとも、れんだいこに云わせせれば、角栄、ムネオの政治こそ在地土着型左派政治であり、それ故にエセ左派が商売上がったりになるとして本物左派憎しで叩いている構図になる。だから、エセ左派に期待したり説教するつもりはない。いわゆる騙されているが客観評論能力を持つ人民大衆に訴えたい。 ムネオ議員は、2002.6月の逮捕、7.10日の東京地検特捜部により収賄罪起訴、その後史上未曽有の長期拘置を経て釈放され、公判闘争で闘うも最高裁に棄却され、こたびの収監となっている。これを細かく追跡するのは別稿に譲る。 れんだいこは、司法当局の度重なるハト派系戦後政治家への集中弾圧を満腔の怒りを込めて弾劾する。最近、満腔の怒りというのは珍しい。ムネオ拘留はそれに値する。司法当局の説くところの法の正義の虚構は既に地に堕ちている。先の大阪地検特捜部の現役トップ級三検事逮捕事件を見よ。何と検察が証拠改竄までして政治主義的に蠢いている実態が暴露された。その悪徳検事は何と自らが逮捕されるや、取り調べを可視化せよ、検事シナリオ作文には署名しないだと。性根の悪さにあきれてものが云えない。 こういう手合いによってムネオは逮捕され、酷い目に遭って来た。今また遭わされようとしている。この不正を許すべきだろうか。検察当局の云うところの受託収賄、あっせん収賄、議員証言法違反(偽証)、政治資金規正法違反(虚偽記載)なりの罪状は、分かり易く云えばどうでもなるものであり、問題は、ハト派系政治家には微罪でも重罪化され、シオニスタン系タカ派議員は重罪でもの捜査の手が及ばないところにある。この不正を許すべきだろうか。 もとより、れんだいこの政論とムネオ議員のそれは違う。だがしかし、政見の差は互いに認め合うことができる。妥協できないのは法の不正義である。それによって、日本の将来を思い、日本の為に良かれと粉骨砕身努力してきた政治家に限って訴追、逮捕、収監されている不正義である。一体、何人のハト派系議員が懲らしめられたことであろう。中には暗殺されたり自殺させられたり変死させらた者も居る。それに較べて、叩けば埃がいくらでもでる中曽根、小泉は未来永劫に安泰し続けている。こういう不正義が許し難い。 それにしても、全国会議員がダラシナイ。本来、より良い政治を機能させる為に不逮捕特権その他で議員の地位が保全されているところを、議員自らが毀損させようとしている。日共の政治訴追運動を見よ。基本的に民主主義を理解する能力がなく、独善的な正義棒で国会を魔女狩りし続けている。これが人民的議会主義論の辿り着いた痴態である。胡散臭い連中は、大衆運動から召還し国会へ出たものの相変わらず胡散臭いことばかりしていることになる。漬ける薬がない連中である。 ムネオよ。れんだいこは非力で、あなたの拘留を差し止める力はなかった。だが獄中からの発信は読み続ける。だから元気で獄中闘争頼む。角栄はもっと激しい万力攻めの中、敢えて汚辱にまみれつつ耐え生き恥を晒し続けた。その角栄が再評価される日が近いだろう。そういう良い手本がある。頑張ろうファイトー一発。このエールを贈る。 2010.12.4日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評864訂正 | れんだいこ | 2010/12/05 22:19 |
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その補強として次のような事由がある。その一つが次のようなことである。角栄の公判闘争弁護団は、弁護方針を廻って、角栄対し、→角栄に対し > こういう風に考えると、「前首相田中角栄の5億円授受説肯定派」が従うところの東京地検特捜部の立件事由がどのようなものだったのか知る必要があろう。失礼なことに、前首相たるものを、それまで発動されたことのない死文法であった外為法違反と云う別件操作→捜査 > その経緯は略すが、噴飯としか云いようのない劇画調に仕立て上げられている。何故に5度の分割払いになったのかも不自然であるが、5度→4度 |
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Re::れんだいこのカンテラ時評864 | れんだいこ | 2010/12/05 19:55 |
【郵便不正事件不当捜査を語る者がロッキード事件不当捜査へ思い至らない不思議考】 2010年現在の政治観の一つとして未だにロッキード事件を廻る「角栄5億円授受」が定説化されている。最近でも、「田中角栄の場合露見して捕まるまでの確かにやり方はおかしい。でも収賄で5億円を受け取ったのは本当なのでどうにも弁護や共感はできない」と述べている者が居る。他にも、角栄政治を擁護する者にしてなおかつこの定説を受け入れている者が居る。れんだいこは、サイト「ロッキード事件」で、定説の誤りを指摘している。角栄政治が次第に見直されつつある今もう一度繰り返して、議論を呼びたいと思う。 結論から云うと、角栄は5億円授受していない可能性の方が強い。その論拠は、当の角栄本人が強く主張し、死ぬまで公判闘争を続け、身の潔白を訴えていたからであると云えば笑われるだろうか。しかし、れんだいこは、マジで角栄の訴えこそに耳を傾けたいと思っている。 その補強として次のような事由がある。その一つが次のようなことである。角栄の公判闘争弁護団は、弁護方針を廻って、角栄に対し、いっそのこと5億円授受を認め、且つ様々な理由を付して刑の軽減を求める方向を模索するよう意見している。しかし、角栄自身が頑として身の潔白を訴え、百年戦争を鼓舞した。「角栄5億円授受説肯定派」からすれば、何と傲慢不遜な態度と映るであろう。しかし、「角栄5億円授受説否定派」から見ると、当の本人がさほどに否定している以上、貰っていない可能性を信じるべきではないかと云うことになる。しかし、これは物別れになるだろう。 もう一つの事由がある。角栄の政治履歴を確認すると、角栄は政治家活動の割合当初よりGHQに睨まれており、そういう緊張感の下で政治を司祭していることが分かる。つまり、外国のカネを貰うことにより弱みを握られることを警戒している節が認められる。これは秘書団にも徹底指示しており、いかがわしいカネの授受が入り込む余地がない。同様に、財界からの政治献金によるヒモ付き政治を嫌い、自己調達型にしている。これにより信念に基づく思い切った政治活動ができた。自己調達型の政治資金の調達内実も案外とキレイであり、自由自主自律的な政治献金を貰っており、口を利いたのだから幾ら出せと云う横柄なものではなかった。これらは、角栄の生きざま、政治哲学の倫理に基づいていたと考えられる。世に金権政治の代名詞のように云われる角栄であるが、角栄を調べれば調べるほど正々堂々とした金銭授受、その使い道も同様を特質としている。イカガワシイものには手を出さない作風が認められる点で、むしろ潔癖とさえ云える。 こういう風に考えると、「前首相田中角栄の5億円授受説肯定派」が従うところの東京地検特捜部の立件事由がどのようなものだったのか知る必要があろう。失礼なことに、前首相たるものを、それまで発動されたことのない死文法であった外為法違反と云う別件捜査から始まっている。これだけでもヒドイ捜査だったと云うことになる。当然ながら角栄は認めない。 そこで編み出されたのが、同時に逮捕された榎本秘書の自供であった。その自供も、容疑を否認する榎本秘書に対し、産経新聞の一面トップにデカデカと報ぜられた「角栄認める」を見せ、オヤジが認めているのだからお前も認めろ式に誘導されたものであった。榎本秘書は、金銭授受を認める供述調書にサインした理由について、「取調検事のトリックに引っかかったためだ」と次のように語っている。「逮捕されてまもなく、検事から『田中5億円受領を認める』という産経新聞の記事を見せられたので、おやじさんは何らかの意図があって認めたのだろう。秘書としてそれに合わせなくてはいけないのかなと思った」。 ところで、その産経新聞の一面トップ記事は、産経新聞が検察に協力して刷ったニセモノであった。角栄は頑強に否定し続けていたので「角栄認める」なる記事は有り得てならない。してみれば、検察も産経もそこまでやるのかと云う思いが禁じられないが実際に起こった話である。司法が正常であれば本来なら、この時点で、こういう捜査をした者こそ、協力した産経新聞の責任者こそ即逮捕されてしまうべきであろう。それがお咎めなしに今日までやり過ごしていると云う不正がある。ちなみに、当時の産経新聞の最高責任者であった鹿内父子はその後不審死している。口封じの感がある。よって、ニセ新聞印刷経緯が分からないままになっている。 そうやって、榎本秘書の自供調書が取られた。そうすると今度は、5億円授受の様子を陳述せねばならないことになる。それがどのようなものであったのか。余りにも不自然なことに、成功報酬の前払金もなく、後払いもないまま経緯し、やおら確か1年半後に分割で支払われたと云う。これを詳細に綴ったのが丸紅の伊藤専務の調書であった。渡した相手が榎本秘書にされたので、二人がどういう風に授受したのか口裏合わせせねばならないことになった。その経緯は略すが、噴飯としか云いようのない劇画調に仕立て上げられている。何故に5度の分割払いになったのかも不自然であるが、4度の授受の現場もその都度変えられており、1回目は英国大使館裏の路上、2回目は公衆電話ボックスの近く、3回目はホテルオークラの駐車場のホテルサイド玄関先、4回目は伊藤の自宅でと云う風にスリラー小説じみている。 事件の核心はこの部分である。果たして、伊藤調書―榎本調書は真実を弁明したものなのだろうか。榎本調書では、受け渡された段ボール入りの現金をその足で目白の角栄邸宅に届けたと記されている。多くの者は、金権代名詞の角栄の邸宅内ではこの種の現金が次から次へと運びこまれていたとして首肯するのであろうが、わざわざスリラー小説仕立ての怪しいカネである。角栄邸宅の誰に届け、どう云う風に保管されたのかぐらいまでは裏を採るべきであろうが、単に「角栄邸に運ばれた」で終わっている。当時、越山会の金庫番は佐藤昭であり金銭的管理を一括していたのに、何の連絡も打ち合わせもされていない。 伊藤調書を採ったのは松尾邦弘検事である。松尾検事はその後大出世を遂げ、検事総長になっているのは衆知の通りである。榎本調書は村田恒検事のようである。この御仁も順調に出世階段を上っている。ロッキード事件で立件に手を染めた者はみんな出世の栄誉にあずかっている。それが、その後の検察腐敗の培養土となったと思われるがいかがだろうか。 さて、この時の捜査に違法性はなかったのだろうか、と今日的に考える必要があるのではなかろうか。これを詳細に記すのは紙数を増すばかりとなるので控えるが、れんだいこなりに云えば全てがデタラメである。厚労省・村木厚子元局長逮捕事件で知られる郵便不正事件捜査で、大阪地検特捜部の主任検事・前田恒彦検事が証拠隠滅の疑いで逮捕されたが、この種のデタラメ捜査手法はロッキード事件捜査の際に満展開されたものであり、逮捕された前田他の3検事は何をいまさらの思いで臍を咬んでいると見るべきだろう。その後全く報道されていないが、ここに闇がある。 検察捜査のトンデモ性が大衆的に暴露された今、その元一日となったロッキード事件を訪ね、角栄冤罪説に光を当てることも必要なのではなかろうか。これが論の自然な展開である。ここに至らず、郵便不正事件捜査で検事の不当捜査をなじるも、今なお角栄有罪説を唱えるのは不自然なのではなかろうか。れんだいこには、そういう思考止めが我慢できない。ここを正確に踏まえれば、ムネオ事件も小沢どん事件も、その不正を理解するのは難しくない。そういう意味もあり敢えて一石を投じておきたい。 2010.12.5日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評865 | れんだいこ | 2010/12/06 12:44 |
【毎日新聞論説質の落ち目の三度笠考】 2010.12.6日付け毎日新聞の山田孝男「風知草」の「『政治とカネ』は空疎か」が落ち目の毎日新聞社に似合いの「政治とカネ論」をぶっているので、これを批判しておく。毎日新聞のみならず現下のマスコミ人の見識の相当の劣化を垣間見ることになろう。 山田「風知草」は云う。この間の「執拗な小沢パッシング」について、「小沢は陰険な金権政治家と見なされている。不当だろうか。私はそうは思わない」、「小沢については当コラムで何度も書いてきたが、金脈を問うこと自体が誤りであるかのような最近の、一部の狂った論調に反論しておかなければならない」。 これは堂々の居直りである。暫く耳を傾けることにする。 山田「風知草」は、「推定無罪で報じるべきメディアは、検察が立件もできなかった疑惑について、『政治とカネ』という空疎なスローガンを繰り返して、小沢氏を攻撃し続けた」なるもっともな批判に対して次のように反論している。「メディア批判はあって当然だが、メディアは検察が立件できなかった疑惑に立ち入るべきでないという惰弱な自制に甘んじるわけにはいかない。『政治とカネ』は空疎なスローガンでしかないという虚無的な断定も受け入れがたい」。その論拠として、リクルート事件を暴いた朝日新聞の調査報道の例を挙げている。「検察が立件を見送ったにもかかわらず、記者たちが疑惑を丹念に調べ直したところから生まれた。『政治とカネ』をめぐる国会内の化かし合いはともかく、小沢の金脈を問うことは空疎でも無意味でも偽善でもない」。 要するに、リクルート事件を暴いた例を挙げ、「執拗な小沢パッシング」を正当化しているに過ぎない。しかしそれにしても、他社の朝日新聞の例にあやからず自社の西山記者の沖縄返還に際する秘密協定スクープ記事を挙げればよさそうなものだが、わざわざ朝日新聞スクープを持ち出すところが臭い。かなり愛社心の低い御仁だと云うことが分かる。 ところで、山田「風知草」は肝心なところに言及していない。言論の自由、表現の自由、ジャーナル民主主義の原則から云って、マスコミメディアが自由に弁と筆を振るうのは良いことなのだが、それには自ずと言論責任が伴う。言論責任とは、後日の歴史の検証に耐えるものでなければならないと云う自律規定のようなものだと思えば良かろう。ここが問われている。山田式正義論はこれに頬かむりしている。 朝日新聞のリクルート事件暴露、西山記者の沖縄返還秘密協定暴露は歴史の試練に耐えた例である。その例を挙げて、歴史の試練に耐えないものまで容認せよと云うのは暴論である。もとより、歴史の試練に耐えるものであるかどうかは報道の渦中では分からない。しかしながら、そういう緊張感の中で弁と言が為されねばならないと云うことは云うまでもなかろう。 「執拗な小沢パッシング」の論拠は既に崩れている。それは検察立件上そうであるばかりでなく、ネット言論界では既に公然のことになっている。このご時勢下でしゃにむに「執拗な小沢パッシング」し続けるならば、その論拠を示さねばならない。この労を取らぬまま歴史の試練に耐えた例を挙げて「執拗な小沢パッシング」正当化の論陣を張るのは愚挙と云わざるを得ない。 山田「風知草」は、小沢氏の選挙資金の配分例、旧「新生党」解党時(94年)の政党資金の取り込み問題を採り上げ、「小沢の政党私物化は許されるかという問題だ」としている。 ところが、彼はここでも肝心なことに触れていない。批判は一般化されるべきで、批判を小沢氏だけに向けるようなことであってはならない。それは法の正義に反する。批判の尺度を政界全体に等しく適用せねばならない。これに照らす時、「執拗な小沢パッシング基準」を政界全体に当て嵌めた時、政治資金収支報告書に精密に記載した小沢氏、杜撰なその他大勢、不記載のその他大勢が居るのが現状なのではなかろうか。にも拘わらず「執拗な小沢パッシング」を続けるのは物差しが違うのではなかろうかと云うことになる。山田式正義論はこれにダンマリしている。 山田「風知草」は、海部元首相の自伝の記述を持ち出し、人格批判で落とし込めようとしている。その上で次のように云う。「剛腕待望はいいが、公平・公正・正義に期待する常識から離れて政治は成り立たない。小沢が、郵便不正事件の元厚生労働省局長や、足利幼女殺害事件の元服役囚と同列の受難者であるという非常識な宣伝にくみするわけにはいかない」。 この論法も臭いやり方である。「海部元首相の小沢人格批判」は海部氏の私見に過ぎない。細川元首相の弁をすれば違う人格になる。その他百人百様の小沢観があるところ、海部元首相の弁だけで小沢氏を計るやり方は卑きょう姑息であろう。その上、何の論拠もなく「郵便不正事件の元厚生労働省局長や、足利幼女殺害事件の元服役囚と同列の受難者」として捉えることに反対し、「非常識な宣伝」であるとまで云う。山田「風知草」の弁こそ「非常識な宣伝」ではなかろうか。 山田「風知草」は、「参院選前は謹慎した小沢が選挙後は代表選を仕掛け、就任間もない首相の追い落としを図り、政局混迷に拍車をかけた」とまで云う。朝日の社説士の「空いた口が塞がらない」と同じ観点を披歴しているが、政治の信義と信頼に於いて政権交代前マニュフェスト詐欺を許さないとして出馬した小沢政治哲学、美学の挙を落とし込める悪質な見立てであろう。現代ジャーナリズムの質の悪さを如実に示していると云うほかない。最期を「常識を見失う愚を繰り返すべきではない」で結んでいるが、これはブーメラン言辞でしかない。 れんだいこが最後に「山田風知草」に云い渡しておく。近現代史ジャーナリズム論で問題になっているのは、ジャーナリズムがどうやら現代世界を支配している国際金融資本帝国主義に操作されており、その下僕としてマスコミメディアが利用されていることに対する疑惑である。最近のテレビの愚民化丸出しぶりを見よ。今やニュースさえ客観報道を離れて御用評論家の売弁茶の間に化している。れんだいこは遂に多チャンネルに切り替え遁走せんとしている。ネットの方がまだしもだからである。新聞も地元紙と日経のみ残した。日経もかってより紙面がお粗末しきりである。 ここでは御用聞きメディア論を論証しないが、ジャーナリストは、そういう疑惑下の中での言論であることを意識しつつ言論に努めるのが責任であろう。つまり、「執拗な小沢パッシング」が良からぬ勢力の上からの意思であり、これに合わせて提灯記事を書いているに過ぎない己のお粗末言論ぶりを自問自答するのが良心と云うものだろう。残念ながら「山田風知草」には、こう問う能力がそもそも欠如しており、目にするのは悪乗りの姿である。こういう御仁のみが登用されているということであろう。それは、落ち目の毎日新聞が言論買収されているブザマな姿でしかない。それにしても毎日のみならずロクなのが居ない。 2010.12.6日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評866 | れんだいこ | 2010/12/07 14:26 |
【れんだいこの2009政権交代史試論】 2010.12.7日現在の政治動向を素描しておく。昨年の政権交代による民主党連合政権は鳩山政権、菅政権と移行し現在に至っている。これをどう総括すべきだろうか。そろそろ確認しなければならないのではなかろうか。これについて愚考しておく。 「2009政権交代」は、二つの意味で重要な示唆を与えたと思われる。一つは、自公政治と民主党政治に革命的な対立を見出し、民主党政治に期待した政権交代派にとっては「裏切られた革命」になった。政権交代後の一番手政権として鳩山政権、二番手政権として菅政権へと至っているが、自公政権と何ら変わらない否それよりヒドイ国際金融資本帝国主義追随政治を見せ続けている。これにより、「革命的な対立」が幻想であったことを教えられた。 民主党政権下の政治は、外交は無論のこと軍事防衛然りで自公政治と何ら変わらない。或いはより御用聞き性を強めている。内治の諸政策然りで、重要法案の郵政再改革法案、有料高速道路無料化マニュフェストは共にサボタージュにより先送りされ続けている。これを簡単に云えば、意図的故意の国策不況化政策を敷いており、その下での「片や増税、片や放漫」の二律背反型の財政再建論で事に処しつつある。これは財政再建どころか財政破綻政策である。本来は「景気回復による財政再建」を目指すべきで、その為に施策せねばならないことは山ほどあるにも拘わらず逆走政治に耽っている。国際金融資本帝国主義の要請する政治であり、それを請け負うことで権力安泰を図ると云う願う魑魅魍魎政治にシフトしている。 もう一つは、この間の自公政治、民主党政治過程に於いて小沢パッシングが根強く仕掛けられており、これを通じて、この国の政治が「自公政治対民主党政治」の対決にあるのではなく、国際金融資本帝国主義追随派のシオニスタンと日本政治の自由、自主、自律を求める在地土着派のハト派政治こそ真の抗争軸であることを教えつつある。この問題こそが戦後史の本質であると思われるが、これまでさほど指摘されていない。この抗争軸が紛れようのない形で露骨に浮上して来た意味は大きい。 考えようによれば、「2009政権交代」は、この二つのことを教えた重要な政治的事件であったのではなかろうか。こう捉えることにより、「2009政権交代」の意義を踏まえることができよう。このことは、日本政治が単に饒舌に流れているのではなく、政治の対決軸の構図をはっきりさせつつ次の時代の展望と課題を求めつつあると云う意味で「進歩」と云えるのではなかろうか。物事は、問題のありかを定めることで対処される。これを正しく認識すれば半ば解決されたも同然であろう。問題のありかの設定を間違えると、如何に戦闘的に闘ったにせよ徒に消耗するばかりとなる。これは学生運動史の教訓である。今、この教訓を活かすべきだろう。 以上が「れんだいこの2009政権交代史論」の要諦である。付け加えるとするならば、「2009政権交代」は元の木阿弥に戻るのか、不可逆的で戻らず「2009政権交代」線上のドラマへと移行するのかと云う興味深い読みが問われていると云う意味もある。これについて、れんだいこは、後者の不可逆的説を採りたい。もとより、それは今後の政治史が立証する訳で、元の木阿弥説が成り立たないと云う訳ではない。しかしながら、歴史と云うものは序々に進歩するものであり、序々の進歩であるが故に却って流れが強固とも云える。「2009政権交代」は現に為された以上、消しゴムで消すような訳にはいかない。歴史にはそういう重みがあり、そう簡単には崩れないだろう。れんだいこは、そう読みとっている。 留意すべきは次のことである。我々はそろそろ鳩山政治、菅政治、小沢政治の政治史的位置の確認において、その評価を正しく持つべきであろう。どうもここに大きな誤解があるように思われるので触れておきたい。この三者の政治関係を左右指標で評すると、凡庸政治家の論に従うと、左から学生運動、市民運動上がりの菅政治、次に八方美人型の鳩山政治、右に新帝国主義的な小沢政治と看做している説が流布されている。この観点から菅、仙石、枝野辺りの学生運動歴が問われ、その上で批判すると云う変則にして陳腐な構図が罷り通っている。 ところが、この俗説が謬論であることが次第にはっきりしつつある。れんだいこ論に従うと、左から角栄政治の継承者である小沢政治、次に八方美人型の鳩山政治、右に小泉政治的な菅政治と云うことになる。つまり、鳩山政治を中間として、菅政治と小沢政治の評価が正反対に分かれていることになる。菅政治が小泉政治の継承であることは驚きであったが、シオニスタン論を媒介すればいとも容易く理解できる。ここまで正体を明らかにした以上、今後の菅派の運命は小泉派との一蓮托生性を強めざるを得ない。これが吉と出るか凶と出るか、凶と出ると託宣しておこう。 で、俗説とれんだいこ説のどちらが正しいのかと云う問題になる。これは、れんだいこが一方的に力説しても無駄であろうから、いっそのことネットゴングにでもお任せしたい。そこで議論すべきではなかろうか。これには日本左派運動の見識が問われているようにも思われる。興味深いことは、れんだいこの確認では、小沢政治批判をヒステリックに叫ぶ党派であればあるほど左派運動史上、胡散臭い働きをしている史実を見せていることである。それは、その党の党中央が国際金融資本帝国主義に媚薬を嗅がされており籠絡されていることを意味している。こうなると、世上の左派系名称党派は偽りのカンバンであり、カンバンに騙されてはならないと云うことになる。この見立ての是非をも問うて貰いたい。 さて、こうなると、右派だとか左派だとかの仕切りが無意味になってしまう。れんだいこは、それで良いと思い始めている。肝心なことは、先ほど再考察したハワイ史にも露骨にでてくるが、民族と国家が自由、自主、自律的に事を処せるのか、国際金融資本帝国主義の思惑通りに併合され州化、省化されるのかが問われているのであり、左右対決はコップの中の政争に過ぎないと確認することではなかろうか。そう思わない階級闘争論一本槍の左派もんが居たとしたら、恐らく歴史に暗い「経文読みの経文知らず」の類であろう。 以上が、れんだいこの2009政権交代史試論である。役に立ったと云われれば本望である。 2010.12.7日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評867 | れんだいこ | 2010/12/11 20:46 |
【政界徘徊ボケ老人の御用聞き菅政権シオニスタン派を一網打尽に放り出せ】 2010年末の政治情勢に鑑み、れんだいこの私信を発表しておく。 昨年の2009政権交代は、長年の自民党体制、その補完としての自公体制を突き崩し、民主党政権を誕生させた。ところが、一番手政権の鳩山政権がもたもたし続け、その後継として菅政権が登場したが小泉政権以来のシオニスタン政治に耽り続けている。これでは国が危うい。もはや一国の猶予もならない。かく共認したい。 菅首相は、無能を隠すイチジクの葉として小沢パッシングを政治利用し年末を乗り切ろうとしている。どうせ、民主党政権に幻滅を与えるよう指令している「その筋」のシナリオに基づくものであろうが、それにしても、これを請負う菅政権の魂胆がサブい。愚劣と云うほかない。菅派の小沢派に対する態度は同じ政党の者のものではない。敵を見る眼差しである。そういう者に政権を与らしめるのは政治犯罪である。これ、れんだいこが云い渡しておく。 明日の茨城県議選は、開票を待つまでもなく民主惨敗の八卦が出ている。なぜなら、人民大衆がお灸を据え続けているから。菅政権は、これを、小沢どん問題のせいにして逃げ切りを図ると思われるが、我々は断固として受け付けない。各地の地方選で民主惨敗が相次いでいる現象は、鳩山政権以来の「上からの逆走政治」に対する怒りであって他の理由によるものではない。人民大衆は今、反吐(へど)が出るほどマニュフェスト詐欺政権に対して怒り失望している。何度も云うが、一度試して手直しした結果の不履行ではない。やるやると云いながらやらずに、やらないままに反故にして恥じないヤルヤル詐欺に対する怒りが充満している。 菅政権が、我々の失望と怒りを小沢どん問題のせいにするなら、もはや退陣あるのみである。問題をそのようにしか受け止められない政治能力の者に、一国の政治を与る資格と資質がないことを意味するからである。政権運営するなど無茶な話である。なぜなら一事万事であり、内政も外交も軍事防衛も須く「その程度の粗脳」で遣り繰りしていることになるからである。もはや日本にはそういう余裕はない。 菅首相には、不徳の致すところとして三番手政権に下駄を預けるしかない。物事とか事象を客観的に受け止める意思と能力がない卑劣漢の延命は許されない。いっそのこと首相不在のままの年明けの方が清々として気持ち良い。この道を開かずに延命を図る菅政権は、小沢政治阻止を指令された請負政権でしかない。長引けば長引くほど、そのことをあからさまにしてエンドするであろう。 それにしても、菅政権に群がるシオニスタンの面々を見よ。どいつもこいつもアポヅラしている。身も心も国際金融資本帝国主義に売った見返りに出世と権力を得て、一時の栄華に酔いしれているドアホウばかりである。それぞれが、叩けば埃の出る脛に傷を持つ身の売国奴ばかりである。身売りのお陰で叩かれないのを良いことに手前たちは免責の云いたい放題政治論を奏でているが、追ってブーメランが戻って来るだろう。 それにしても余りに露骨過ぎて、国際金融資本帝国主義が如何に小沢政権を煙たがっているか、恐れているかがよく分かる。政財官学報司警の七者機関+軍の八者機関を総動員させて小沢政権阻止の悪知恵を働かせているが、世の中は既にインターネット時代である。汚い手口はまたたくうちに暴かれる。公然白昼の下手な芝居に対する観客の飽きは早い。そうは易々と問屋が卸さない。 日本は今、経済再生、財政再建に叡慮を寄せて手を打たねばならない大事な時期である。何事も時機を失すると対価が高くなる。れんだいこ史観によれば、1980年代初頭の中曽根政権の登場と共に日本は正常な国家機能を失い始めた。あれから30年にもなろうとしている。さすがの日本も沈没寸前である。あらゆる指標で日本の先行きの暗さが出ている。それでもまだ我々は忍耐せねばならないのかが問われている。一生懸命に舵を取っても大変な折柄なのに、これ以上の逆走政治を許すわけにはいかない。これを許せば、許した方も狂人と云われるであろう。 中曽根とナベツネがまたぞろ登場しつつある。ウンザリすべきのところ、政界とマスコミメディアの提灯が続いている。これをどう評すべきだろうか。れんだいこには、政界徘徊ボケ老人の言に唯唯諾諾する御仁の恍惚ぶり共々が痛々しい。これを解決するには新しい皮袋しかない。新年の話はまだ早いが皮袋だけは用意しておきたい。後二十日しかないが、政界ボケ老人と、これに群がる菅政権シオニスタン派のサマを見させられることになりそうだが、いい機会だ、一網打尽にして放り出せ。罪状証文付けて好きな本国へ強制送還させればよい。 2010.12.11日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評868 | れんだいこ | 2010/12/13 19:51 |
【菅政権の醜悪な越年闘争を粉砕せよ】 2010.12.12日、茨城県議会議員選挙で又もや惨敗した夜、菅首相は、東京都内であった支持者との年末交流会で、「これまでいろいろあったが(首相就任から半年間の)仮免許を経て、これからが本番だ。自分がやりたいことを出していきたい」などとあいさつしたと云う。要するに、「石にしがみつく(かじりつく)」ことを何度も表明していることになる。これが菅式越年闘争論である。 翌13日午前、自民党の石原伸晃幹事長は、首相の「仮免許」発言について、党本部で記者団に対し「そんな人たちに(政権を)お任せするわけにはいかない。一刻も早く辞めていただきたい。衆院解散・総選挙を目指す」と反発した云々。これは出来レース漫談である。 菅政治の問題性はどの辺にあるのだろうか。もう一度確認しておく。れんだいこは、鳩山政治が八方美人型の遊び人性にあったのに比して私物化型の遊び人性にあると見立てている。どちらも遊び人政治ではあるが若干質が異なる。悪質さで云えば、私物化型の方が八方美人型を上回ることは云うまでもない。補足すれば、菅政権の官邸政治とは政治の私物化を意味しており、それは即ち議会政治を内部から壊すものでしかないことも云うまでもない。政治の子供化とも云い換えることができよう。要するに相当レベルが低いと云うことである。 菅政治の問題性はもう一つ、手の内が読め過ぎるところにある。諸事ごり押しを特徴としているが、これが何故問題なのか。それは国際金融資本帝国主義の指令のままに蠢いていること、内政、外交、軍事とも露骨な云いなり政治に忠勤していることを意味しているからである。脳に汗を掻いていないので政治が扁平になり、それが手の内を晒し続けることになる。その代表例が延々と続く小沢どんパッシングである。その裏で、次から次へと対日攻略請負政治が進められている。目指すところは一日も速い日本の溶解、解体の如くである。 彼らが何故に意図的故意の日本の溶解、解体政策を請け負うのだろうか。れんだいこには、特殊なカルトに被れている故にとしか思えない。近現代の代表的な結社はフリーメーソン、イルミナティーを主流としているが、間違いなくこれに繋がっていると推定している。その特殊な教条を優先させることにより日本の自律的主体的な政治を売り渡している。こうなるとこれはれっきとしたカイライ政治である。菅政権の愚劣さはここにある。ここまで露骨な動きを見せるのは小泉政権以来であろう。 こう云えば、自称識者は好んで陰謀論だと云う。れんだいこが反論すれば、そのもの云いで事足れりとしているところが粗脳である。粗脳なのに識者ぶっているところが可笑しい。我々は、現に今、菅政権のカルト政治を見ている。このカルト政治は裏からの仕掛け人に操作されている。普通、これを陰謀と云う。ならば陰謀論で良いではないか。堂々と陰謀論をぶってどこがオカシかろう。見ても見えず聞いても聞こえずの者に漬ける薬はない。 こうなると、同じ陰謀論を廻って、これを実在とする者と非実在とする者に見解が分かれていることになる。ならば実証的に解析すれば良いだけの話である。ところが、自称識者はこの解析に入ろうとするのを阻止しようとする。こうなると、陰謀論非実在論者は陰謀論側の廻し者でしかあるまい。そういう眼で見ると、連中が就職的に陰謀側陣営に与していたり近いところに居ることが分かる。存在が意識を決定するとするなら、そういう意味で、この連中の性根は治らないと割り切るべきだろう。 もとへ。秘密結社の陰謀政治が今、民主党政権の登場によって着々と押し進められていることを厳然として見つめねばならない。秘密結社の陰謀政治の総本山中枢は国際金融資本帝国主義であるが、昨年の2009政権交代を彼らなりに上手に操っていることが分かる。彼らは今、民主党政権を、自公政治より云う事をよく聞き、何でも云いなりになる粗脳集団と看做して操作している。これが民主党政権登場のもう一つの歴史的意味であったことになる。 こうなると、民主党政権登場に期待しエールした我々の歴史責任が問われねばならないのではなかろうか。我々は今、民主党政権に期待した政治の反対物を目にしている。これを指をくわえて見過ごすことができるだろうか。断じてできない。こういう政権をこれ以上のさばらせるのは恥以外の何ものでもない。既に小泉政権を史上3位の長期政権とさせた不名誉を遺しているが、菅政権の延命はこれに続く不祥事である。 れんだいこは、そういう意味で、民主党三番手政権を期待している。これを引き受けるのは小沢-亀井-田中真紀子-原口辺りに収斂しつつあるように思われる。誰が首相、副首相、幹事長、官房長官になっても構わない。この三番手政権による政治を見ずんば日本政治の夜明けはない。このことがますますはっきりして来ているのが現下の政治情勢である。菅政権の仙石、前原、岡田を前面に押し立ててのシオニスタン政治が露わな分、却ってやり易い。 菅政権下の各地での選挙戦での惨敗は、人民大衆が三番手政権を期待してのエールと解したい。それは至極真っ当な政治感性ではなかろうか。問題は、三番手政権登場が何故に執拗に妨害されるのかにある。結論は、国際金融資本帝国主義の意向があり、これをを挺する者が居るからである。してその正体は、政財官学報司警軍の八者機関上層部である。政治危機が深まればその分、彼らは余裕をなくし正体を露わにする。却ってやり易くなったと思うべきだろう。 対策は至って簡単である。売国奴どもをリスト化し、彼らの論法をそのまま彼らに当て直せば良い。政治資金で云うのなら彼らの政治資金を暴露すれば良い。政治倫理で云うのなら彼らの政治倫理を問えば良い。小沢どんを追撃する同じ物差しで、彼らに当てるだけで良い。陰謀論者の致命的欠陥は常に少数というところにある。故に八者機関上層部とその郎党を炙り出し本国へ強制送還すれば良い。 問題は、暴力革命の前には言論戦が大事と云うところにある。衆知のように、言論メディアが国際金融資本帝国主義に取り込まれており、彼らの走狗ばかりが売文売弁し続けており、人民大衆の一部が洗脳、マインドコントロールされている。まずは、ここから転換せねばならない。迂回のようではあるが言論戦に勝利することが突破口となるだろう。幸いなことにネット言論が生まれ、ウェブテレビが生まれ、ニコニコ動画が生まれと云うように次第に言論メディア規制が及びにくくなりつつある。どこからでも良い、我々の言論メディアを立ち上げれば良い。案ずるより産むが易しではなかろうか。機は熟しつつある。 2010.12.13日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評869 | れんだいこ | 2010/12/14 21:00 |
【菅派の粗脳丸出し「思いやり予算交渉史」考】
2010.14日、菅政権は、小沢どん政治訴追に対する強硬策で世間の気を引きながら、その裏技で、「思いやり予算」対応で新たな米奴ぶりを歴史に遺した。これを確認するのに菅派の粗脳が丸出しとなっている。許し難いので、これを確認しておく。 「思いやり予算」とは要するに、米国の対日防衛負担費の別枠負担を云う。それまでの負担を仮に通常負担とすれば、新たな負担が強いられ、これを受け入れた第二負担である。歴史的に見て米軍駐留と同時に始まったものではない。1976年ロッキード事件で田中-大平同盟が解体されて以降、国際金融資本の増長により産み出されたものである。 国際金融資本は、1978年頃より、田中派解体の引導役を果たした金丸-竹下派を上手に持ち上げ、米国による対日防衛費の日本側負担増を求め始めた。当時の金丸防衛庁長官が、ブラウン国防長官に対し、「駐留経費の問題について、思いやりの立場で地位協定の範囲内でできる限りの努力を払いたい」と返事をし、ここから「思いやり予算」なるものが創出されることになった。同年、「特別協定」を締結した。これが「思いやり予算」誕生のいきさつである。 つまり、「思いやり予算」は極めて政治主義的に導入された違憲違法なものであるということになる。故に別枠の特別協定によって無理矢理に導入された。「思いやり予算」は、アメリカ本国でも「Omoiyari Yosan」と呼ばれている。「思いやり予算」を直訳すると「Sympathy Budget」(同情予算)となる。しかし、Sympathyには「憐れむ」というニュアンスがあるため具合が悪いとして公式な英訳としては「Host Nation Support」(駐留国受け入れ支援)が使われている。 日本側が「思いやり予算」を出し始めると、味をしめたアメリカ側は毎年にわたり経費の増額を要求してきた。「軍事的支援の代わりに資金援助を」との要請が為され、日本政府はズルズルとこれに従い始めた。この間、1987年度の防衛費が初めてGNP比で1%を超えている。その後、防衛費予算は膨張し始めGNP比5%に達し、やがて聖域となって現在に至っている。 「思いやり予算」の1978年に於けるそもそもの始まりに於いては基地従業員の人件費を対象としていたが、1979年からは米軍の施設建築費用を賄い始めた。1991年からは電気代・水道代など光熱費の施設維持費用などにも使われ始めた。1996年からは訓練移転費(日本側の要請によるアメリカ軍の訓練移転のための経費)などを含むようになった。「思いやり予算」はかく湯水の如く打ち出の小槌でバラ撒かれつつ今日に至っている。 現在、「思いやり」予算を使った施設建設は66基地でおこなわれ、その項目は「家族住宅」、「学校」から「航空機掩体(えんたい、耐爆シェルター)」、「桟橋」などの戦闘作戦支援施設まで64項目にわたっている。1979年度から始まった基地建設費(提供施設整備=FIP)が2000年度までの22年間で1兆6000億円、2008年度までの30年間で約2兆1283億円に達すること、全国66の米軍基地で1万2872件の施設が建設・改修されていること等々が判明している。 ところで、米軍駐留を受け入れている同盟国で、かような「思いやり予算」を支出しているのは日本だけである。当然、これを税金で賄っている。他にも在沖縄海兵隊訓練移転費が1997~2008年度までに109億円。「思いやり予算」以外のものとして、1・SACO(沖縄に関する特別行動委員会)経費が1996年度より、在日米軍再編経費が2009年度より計上され屋上屋を重ねるように新たな費目を次々と生み出している。他にも防衛省以外の他省庁予算があるが実態不明となっている。これが日米運命共同体論の裏舞台である。 この間、田中派解体の功により重用され、「思いやり予算」導入の立役者となった金丸は、1992年、東京佐川急便からの5億円ヤミ献金問題で失脚する。例によって東京地検特捜部が動き、政治資金規正法違反で略式起訴され、東京簡易裁判所から罰金20万円の略式命令を受ける。これをマスコミが激しく糾弾し、1993年、東京地検が金丸を脱税容疑で逮捕する。自宅へ家宅捜索を行ったところ、数十億の不正蓄財が発覚する。捜索の中、時価1千万円相当の金塊が発見されたと云う。1996年、失意のまま脳梗塞で死去している。要するに、用済みで使い捨てにされたと云うことになる。竹下は死して「その罪、万死に値する」なる文句を遺した。これが角栄政治訴追に呼応した裏切り派の末路である。 竹下-金丸連合の使い捨てをほくそえみつつのうのうと大勲位の座を維持し続けているのが中曽根である。お調子者の中曽根のお株を奪う米奴盲従派で奉公し続けたのが小泉である。この功績により、中曽根と小泉は名宰相の誉れを得ている。マスコミメディアがこれを喧伝し続けている。今日、この勢力が日本政治を牛耳っている。 対照的なのは鈴木善幸であった。暗愚の宰相と云われた。戦後保守系ハト派政治は善幸で終わる。1950年代半ばから1980年代初頭までの25年間、戦後保守系ハト派が日本政治を舵を取ることにより戦後日本は未曽有の正成長を遂げた。これを逆に云えば、1980年代以降から今日までの30年間にわたる日本は、戦後保守系タカ派に日本政治が牛耳られることにより正成長時代の国富をすっかり食い潰してしまった。それどころか、先進国中随一の国債累積債務をしょい込み、更なる債務増の道へ誘われつつある。日本の経済構造を下支えしてきた中小零細企業がバタバタとなぎ倒されている。現代は、こういう狂気の時代の渦中にある。 もとへ。2000年代の小泉政権時代、「思いやり予算」を含めた防衛費、戦争支援金が湯水の如く使われたのは周知の通りである。この時期、「思いやり予算」自体は2000億円強で高目安定で推移しているが、他にも地位協定分の負担額等があり、全体額の全貌は明らかにされていない。2004年度の在日米軍駐留経費負担額は約2441億円となり、額の多さから、日本は「世界一気前のいい同盟国」、「重要な戦略的貢献となっている」と褒められ、「日本の良い子ぶり」が評価されている。 「思いやり予算」は1999年の2756億円が最高額で、その後は毎年削減され続けた。しかし、2004年度の思いやり予算は2441億円であるが、他に地位協定分の負担額として1820億円計上されているので、この時点が実質的なピークと思われる。2006年度予算では2326億円(内、特別協定分1338億円、前年度比2.22%減)が計上されている。米国防総省の「基地構造報告」2007年版によると、在外米軍基地の資産価値で、在日米軍基地は上位3位までを独占している。訓練施設や航空機、艦船の修理機能、米兵の居住環境など、どれをとっても最高水準にある。「思いやり予算」効果であろう。 小泉政権下の日本政府は、米国政府の要請を受け、更に米領グアムでの海兵隊基地建設費を負担しようとし始めた。背景に米軍再編に絡む沖縄からの移転があったが、これにより「思いやり予算」が国外の米軍基地建設費用まで及ぶことになった。「思いやり予算」には歯止めがないと云うことが分かる。この計画の内訳を見ると、件数で家族住宅1万1363件、兵舎230件と住宅関連が約9割を占めている。家族住宅は建築費だけで1戸あたり約4800万円で日本の平均的な住宅よりはるかに割高なものになっている。狭いものでも約100㎡、最大で約230㎡に達する家族住宅になっている。その他学校や娯楽施設、病院、運動場、艦船や航空機などの修理施設、戦闘機の格納庫や耐爆シェルター、滑走路、原子力空母が接岸できるバース(係留施設)など68項目に及んでいる。2009年度予算で初めて建設費346億円が計上された。 2006.1.23日、麻生太郎外務大臣とゼーリック国務副長官が、「思いやり予算」の期間を5年から2年に短縮した新特別協定に署名した。同年3.14日、衆議院本会議で承認され参議院に送付された。これにより、暫定的に内容を変えず2年毎に延長することになった。 2006.4.25日、在日米軍再編の米側担当者であるローレス国防副次官は、ワシントンにある国防総省で記者会見し次のように声明している。概要「日米間のこれまでの調整により、米国の沖縄海兵隊のグアム移転に関する在日米軍の再編にかかわる日米分担額が確定した。経費の総額が約300億ドル(約3兆4300億円)、そのうち日本側負担が計約260億ドル(約2兆9900億円)、米側負担分は41.8億ドル(約4800億円)に上る見通しである。100億ドルのグアム移転経費については、23日の日米防衛首脳会談で、日本側の負担が59%とすることで決着した。公平にまとめられた取引だと思う。米軍普天間飛行場移設経費など日本国内の再編・移転費は今後6~7年で約200億ドルとなり、全額が日本の負担となる。これに23日の日米防衛首脳会談で決着した海兵隊グアム移転費の日本側負担60.9億ドルが加わる。同盟に対する日本側の投資は膨大な金額だ。日本側は海兵隊のグアム移転費だけでなく、かなりの出費をする。財政支出上の義務は多くが2012年までの時期に入っている」。 要するに、「思いやり」レベルではなく「至れり尽くせり」であることを、ローレス国防副次官が自慢げに語っていることになる。 これに、沖縄の普天間飛行場移設問題が絡み始める。米軍キャンプ・シュワブ沿岸部の代替施設建設案が浮上し始め、「至れり尽くせり予算」で賄うことが確認された。かくて、日本は、当初見込んでいた2兆円超を大幅に上回る3兆円近くの負担を強いられることになった。ローレス国防副次官発言は、国内分の具体的な内訳には触れていない「控えめな試算」としており、日本側負担の総額は3兆円を超える可能性がある。当時の安倍晋三官房長官は、記者会見の席上、米軍再編に伴う日本側の負担が計約260億ドルにのぼるとの見通しをローレス米国防副次官が示したことについて次のように述べている。「どのような内容か承知していない。印象としては途方もない金額なのでコメントを差し控える。国内の費用については基本的にしっかり精査していく」。しかし、安倍がどう述べようと「至れり尽くせり」は進行中である。 こういう「思いやり予算史」に対して、民主党はどういう立場で臨んでいるのだろうか。2008年、野党時代の民主党は、米軍基地を抱える他国より日本の負担水準が高く、ゴルフ場など娯楽施設への支出があることを問題視し、思いやり予算の根拠となる現行特別協定の国会承認に反対した経緯がある。ほんのささやかな抵抗でしかないが、反対の姿勢だからまだ良いと云うべきかも知れない。 2009年政権交代の二番手政権として登場した菅政権の「思いやり予算」政策を確認しておこう。2010.8月末の11年度予算概算要求で、防衛省が思いやり予算を一般国民の意見を参考に予算配分を決める「政策コンテスト」の対象とした。これに対し、米側は「重大な懸念」を表明。防衛省は、思いやり予算が「聖域」として全額確保されるとの見通しを伝えたが米側は疑心暗鬼に陥った。ここから、米側の巻き返しが始まる。我々は、いとも簡単にねじ伏せられる菅政権を見ることになろう。 同年11.4日、日米両政府は外務省で外務・防衛当局の審議官級協議を行った。思いやり予算改定をめぐり、日本側は在日米軍基地のエコ対策に伴う費用増を受け入れる一方、光熱水費を削減して総額を現行水準(平成22年度で1881億円)に維持する方針を伝えた。だが、総額で上積みを求める米側の姿勢はなお強硬で、協議は平行線をたどった。あらましの合意ができ、11.13日、菅首相とオバマ大統領会談が設定された。米側は「最大の成果だ」と共同発表を求めたが、日本側は国内の調整が済んでいないことを理由に拒否した為、共同発表には至らなかった。11.22日、政府は、平成23年度予算案に盛り込む1兆円超の「元気な日本復活特別枠」に関する要望事業を絞り込む「政策コンテスト」の対象となっている思いやり予算について4段階評価で最上位の「A」とする方針を固めた。これにより、防衛省の要望額1859億円に対し、菅首相の最終判断を経て満額回答となる見通しとなった。 この間並行して、北朝鮮による韓国哨戒艦沈没事件、尖閣諸島の漁船衝突事件、北朝鮮の延坪(ヨンピョン)島攻撃事件が発生し、日中関係の領土紛争、朝鮮半島情勢の緊迫化が始まる。菅政権は、日米同盟重視の御旗を高く掲げ、思いやり予算丸のみに舵を切る。2011(平成23)年度以降の思いやり予算について、2010(平成22)年度の水準(約1881億円)を2011年度から5年間維持することで米国と合意したと発表した。現行の3年間は5年間延ばし「5年間現状維持」となった。官房長官は、記者会見で、「在日米軍は日米安保体制の抑止力の中核だ。日米同盟を一層安定的に運用していくという両国のメッセージだ」と述べ意義を強調した。北沢俊美防衛相は、記者会見で「日米とも極めて厳しい財政状況の中、同盟の趣旨をしっかり理解しながらやっていくためには総額維持は妥当だ」と述べた。政府は来年1月にも負担に関する特別協定に署名した上で、22年度中の国会承認を目指す。 菅政権は、小手先の小細工を弄している。米軍施設従業員労務費のうち、バーテンダーやゴルフ場など娯楽施設で働く430人分を削減することで「民主党らしさ」(首相周辺)を演出した。しかし、労務費削減には民主党支持の全駐留軍労働組合だけでなく、仲井真弘多沖縄県知事も反対しており、日米のもう一つの懸案である米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)移設問題にも微妙な影響を与える可能性もある。米軍施設の光熱水費も現在76%の日本側負担割合を72%に削減することで合意した。この減額分を、在日米軍の隊舎や住宅への太陽光発電導入や、冷暖房の効率を高める断熱材改修などの「エコ対策費」に振り向け、全体で総額を維持する云々。 少々長くなったが、「思いやり予算」なるものがどういうものなのか、菅政権が米側に如何に軽くあしらわれているかが確認できれば良い。レンボウの事業仕訳が何の意味もないヤラセでしかないことが分かれば良い。日本よ、本当に大丈夫なのか、首相不在の正月でこたつに入って暫し黙考した方がよいのではなかろうか。 2010.12.14日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評870 | れんだいこ | 2010/12/16 20:42 |
【大林宏検事総長退任意向報道考】 2010.12.14日の菅政権下での露骨なシオニスタン政策「思いやり予算5年継続決定」がテレビニュースで全く報道されず、例の大阪地検特捜部の名物3検事逮捕事件が報道されずと思っていたら何と、2010.12.16日、検察トップの大林宏検事総長(63歳)が、任期を約1年半残して年内にも辞任する意向を固めた云々と報道されている。これは奇怪なり。れんだいこのアンテナが作動したのでコメントしておく。 65歳定年の検事総長が任期半ばで引責辞任するのは極めて異例とのことである。大林総長は6月に就任。村木厚子・厚生労働省元局長が逮捕された郵便不正事件の決裁に関わっておらず、一連の事件の処分対象とはなっていなかった。と云うよりも、郵便不正事件の証拠改ざん事件での前田元主任検事、大坪特捜部長、佐賀副部長の3検事逮捕の指揮を執り、「検察への信頼を一刻も早く回復しなければならない。問題を受け止めて抜本的な改革を行い、検察のあるべき姿を取り戻すことが私の責任だ」として、当面の間は続投する考えを示していた。柳田稔法相(当時)から信頼回復に向け努力するよう異例の指示を受けて謝罪した際にも、引責辞任については否定的な考えを示していた。 となれば、この逸早い退任劇の裏に何があったのか。マスコミメディアは、前田元主任検事、大坪特捜部長、佐賀副部長の3検事逮捕事件後、今日まで緘口令を敷いたかの如くその後の捜査動向を伝えぬまま今日に至っているが、久しぶりに報道したとなると何と、大林総長退任だと。余りにも臭い話である。この間、検察内部で何があったのか。逮捕拘留中の3検事が臍を咬んでいるのか高笑いしているのか、非常に興味の湧く動向ではなかろうか。肝心のこういうところの報道は一切ない。 代わりに聞かせてくれるのは、後任には笠間治雄(かさま・はるお)東京高検検事長(62歳)を軸に検討が進められているとのこと。来週中の閣議決定を経て、27日にも正式に発令される見通しとのこと。最高検は郵便不正事件などの検証結果を今月24日に法相の私的諮問機関「検察の在り方検討会議」に報告、公表する予定とのこと。大林総長は、公表を契機に、大阪地検特捜部検事による証拠改ざん・隠蔽(いんぺい)など一連の特捜部をめぐる事件を受け責任を取り、体制を一新すべきだと判断したもようだと判断したとのこと云々である。 これが本当の話なら良いのだけれども、問題3検事の逮捕以来の検察の暗闘に於いて大林検事総長派が追い詰められ、問題3検事派が逆襲に転じていた可能性はないのか。これに例のロッキード事件以来の闇の勢力が大きく関与し、内政干渉していた可能性はないのか。残念ながら、れんだいこには、そのように問う姿勢はあるが、それを調べる権限と能力がない。情報も入らない。どなたか、適宜な方が情報公開するべきではなかろうか。 云えることは、松岡農相変死事件でもそう、官房機密費言論買収事件でもそう、民主党代表選不正投票事件でもそう、問題3検事逮捕事件でもそう、「思いやり予算5年継続決定」事件でもそう、本当に肝心な事件はマスコミメディアが一斉にシャットアウトすると云う白昼公然の情報統制が敷かれていると云うことである。従って、朝昼夕に大袈裟に報道されている事件は、闇の勢力側から見て報道する方が都合の良い宣伝であるか、愚民に相応しい愚昧ニュースのおしゃぶりを与えているネタなのかのどちらかであると云うことになる。一体、ジャーナル界をこんな貧相なものにしたのは誰なんだろう、決して偶然である訳がなかろう。 だから、れんだいこは、我々のメディアを立ちあげよと云っている。その為に人とカネが居るのなら合法的手段で手当てせよと云っている。個人献金限定論なぞウソ臭いと申している。今や企業も、生き延びる為に大きく政治に関与しなければイケナイ時代に入っている。政治が国策不況政治を敷いている折柄、中小零細企業経営者は手前の事業だけを見ていても生き延びられない。内治にカネを使うよう政治に働き掛け、これを請け負う政治家を養わなければならない。国際金融資本が、子飼いの政治家を養って着々とシオニスタン政治を敷設している以上、それに対抗する救国民族共同戦線を立ち上げ、一つ一つの政策にイエスの―をはっきりさせないと生きていけない。そういう時代に入っている。 既存の政党では全く間に合わない。れんだいこの見るところ、民主党-国民新党-社民党の一群の在地土着派政治家連が何とかマシで、後はとてもではないがお話にならない。日共と公明党との対立なぞウソばちである。それが証拠に、最近は自公共体制が目につくではないか。この連中は気脈通じていると看做すべきだろう。何でもない時は対立しているように見えるが、ここ一番となると裏から表から口裏合わせているではないか。ロッキード事件、小沢キード事件なぞその良い例だろう。と云う訳で、誰か一刻も早く朝昼夕だけでも良いから和製アルジャジーラ放送局を立ち上げてくれ。そこで、見れば賢くなる情報を聞かせてくれ。 もとへ。大林総長退任劇はオカシイ。れんだいこのアンテナが作動している。誰か、本当の情報の追情報頼む、何が起こっているのか聞かせてくれ。菅のバータレでは何の役にも立たない。逆漕ぎばかりしている。今度会ったらタダではおかない。選挙区が違うが徹底批判で追いまくってやる。覚悟しておけ。こ奴の顔を見るのも嫌になった。賞味期限もとっくに終わっている。 2010.12.16日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)