カンテラ時評28(811~840) |
(最新見直し2010.07.21日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
れんだいこの丹精こめた珠玉の発言集「カンテラ時評」をここに保存しておくことにする。絶えず繰り返されるアラシの中で、意に介さず怯まず、れんだいこが発信したくなった事案に対するれんだいこ見解が披瀝されている。何度読み返しても、れんだいこ自身が面白い。字句の間違いの訂正、文意の修正もやっておこうと思う。 2007.3.24日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評811 | れんだいこ | 2010/09/26 12:04 |
【れんだいこの山田方谷論その1】
ここで、れんだいこの山田方谷論を論ずることにする。ロッキード事件で最有能政治家・田中角栄を政界追放して以来の今日まで至る日本政治の貧困に堪りかねており、戦後世界政治の手本足り得ていた在りし日の日本政治を偲ぶ為である。現下の日本政治は国際金融資本帝国主義の仕掛けた土壺に嵌まっており、為政者が身も心も頭脳まで捕捉されている限り容易なことでは抜け出せない。少なくとも頭脳だけでも催眠術から抜け出す為に、政治の軌道を一から据え直す意味で幕末に関心を寄せ、ここでは山田方谷の立ち働きの要点を素描することにより元一日を訪ねることにしたい。山田方谷を知るにつき、思われている以上に大きな影響を歴史に遺しており、その評価は未だ定まっていないのではなかろうかと思われる。 幕末維新-明治維新は、日本史の誇って良い偉業である。日本左派運動にはこう捉える視座が弱く、講座派と労農派によっては日本資本主義論争を繰り広げたが、やれ封建内革命だのブルジョワ革命の範疇でタガ嵌めし、総じて値打ちを落とし込めるのを通例としている。その逆に専らフランス革命、ロシア革命、中国革命を手放しで礼賛し見てきたように説く手あいが多い。これが日本左派運動の頭脳水準である。そういう意味では、レーニンが日本の幕末維新を高く評価し、その後の日本の明治維新動向に相当な関心を払っていたことが却って可笑しくなる。このことは帝国主義論ノートへの書き込みで分かる。 幕末維新-明治維新を評する視座は、時に幕末志士の観点から時に幕府の側から特に新撰組の観点から語られる。革新的傾向が前者を保守的傾向が後者を賛美する傾向にある。どちらの視座も、史実を学ばないよりはそれなりに有益であろうが、この双方を両睨みする歴史観を知らない。これから確認する方谷の働きは、そのどちらでもない。その政治心情は幕末志士的回天派に属しているが、実際には末期の徳川政権を支える側で智謀を尽したと云う特殊性が認められる。運命の悪戯(いたずら)であろうが、こういう束縛からは誰も自由になれない。方谷論にはそういう面白さがある。 いずれにせよ、角栄-小沢ラインを除き現下の米英ユ同盟傘下のシオニスタンばかりの政治家の誰彼を評するのは馬鹿らしい。歴史を懐旧し偉人と対話する方がよほど有益に思われる。れんだいこの山田方谷論はこういう思いから始まっている。かの時代、日本政治はこの時代までは、シオニスタンの創生期であり今ほど跋扈していなかったことにより、その分、政治がマジメ真剣で、国を思い民族を思い、本音と建前が調和していた「良い時代」であった。今日では日本の為に働くべき政治家が国際金融資本帝国主義の為に御用聞きしている。それが為に政治が大きく歪んでいる。と思うが如何(いかが)だろうか。 方谷(ほうこく)は幕末の陽明学者であり、その力量は大塩平八郎後の当代随一の人物ではなかったかと思われる。幕末維新時、多くの陽明学徒が湧出し、それぞれがそれぞれの有能な働きをしている。このことはもっと注目されても良いのではなかろうかと思われる。陽明学の根本は学問の実践性にあり、学問期に身につけた成果を問うべく与えられた職務に取り組んでいくことを作法としている。陽明学ではこれを「知行合一」、「実践躬行」と云う。方谷の場合、松山藩時代には松山藩の、徳川幕府に招かれてよりは「政権中枢の表舞台」で知恵袋として立ち働き、これを能く為し得たと云う意味で稀有の陽明学者足り得ているように思われる。 方谷は既に幼少の身に於いて、なぜ学問をするのかと問われ、四書の一つである「大学」の重要な一節「治国平天下」と答えている。まさに方谷の一生は「治国平天下」に尽した。これが方谷の「三つ子の魂」であったと思われる。方谷の学才は早くより見出され、23歳の時より数次の藩費留学を経験している。第3回京都遊学に続いて江戸遊学に向かったが、その際の佐藤一斎門下での在りし日、後に吉田松陰の師にしてその他数多くの影響力で知られている若き日の佐久間象山と肝胆相照らし、日本の行く末などを連日論じ合った。激論を心配した塾生が一斎に問うたところ、「暫くほっておけ」とにっこりと笑ってやり過ごしたと伝えられている。方谷と象山は「一斎門下の二傑」との名声を博したが、象山がどうしても議論で勝てなかった相手が塾頭の方谷だったとも伝えられている。 その方谷が仕えたのが松山藩であった。当時の松山藩は他の諸藩同様に財政悪化に苦しんでいた。方谷を見出した藩主板倉勝職が跡継ぎを設けなかったことや凡庸過ぎることから引退させられ、代わりに迎えられたのが時に30歳の勝静であった。勝静は、江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫にして寛政の改革の主導者であった松平定信の嫡男の陸奥白河藩主(伊勢桑名藩主)の八男と云う血筋を持つ。方谷はこの時45歳。新藩主・勝静によって郷土の誇る学識者として登用され、元締役兼吟味役を命ぜられ藩政改革に乗り出す。今で云う首相権限が与えられたと云うことであろう。幕末とはいえ、農民上がりの一介の儒学者の大抜擢は藩内に衝撃を与えた。上級の武士たちは激怒し暗殺の噂も駆け巡った。「山だし(山田氏)が何のお役に立つものか。へ(子)の曰(のたまわ)くの様な元締め、お勝手に孔子孟子を引き入れて、尚(なお)この上に空(唐)にするのか」と狂歌で揶揄された。が、新藩主の勝静は「山田の事は一切謗言を許さず」として庇護し続けた。 方谷は、この時点で「「理財論上下二篇」、「擬対策」を著しており、藩政改革はその実践であった。その要言は「事の外に立ちて、事の内に屈せず」に範示されている。方谷施政の特徴的なことは、当時の主流であった朱子学派的統治学要諦の士農工商的身分社会の分限論に従う民間的営利事業に対する蔑視ないしはそれより生ずる無関心を基調とする限界を排斥しているところにあった。方谷の家系は元士族ではあったが、親の代に於いては菜種油の製造販売を家業としていた。方谷は、両親死後の7年間、この家業を引き継ぎ切り盛りしている。その経験もあって民間経済に明るかった。これにより、義に適った利までも卑しみ、民間の営利事業を否定的に捉えて偉ぶる朱子学派的士族政治の欠陥に気付いていた。この観点から村興し、町興しに取り組み、総じて殖産興業政策を手掛け、当時の幕藩体制ではありえなかった藩による商業事業を臆することなく切り開いて行った。これに対して非難の声もあったが一顧だにしなかった。その改革が成功し、5万石の石高でしかなかった松山藩の収入は20万石に匹敵すると云われるようになった。 その細々の施策は別に確認することとして藩政改革を見事に成功させた。僅か8年間の治績で、それまでの十万両の借金をなくしたばかりか逆に十万両蓄財させた。上杉鷹山公の改革が百年越しの改革であったことを思えば驚異の治績を示したことになる。かって参勤交代の折に「貧乏板倉が通る」として嘲笑され、東海道の駕籠かきから「貧乏板倉の駕籠はかくな」と敬遠されたほどであった松山藩は面目を一新させた。方谷が備中松山藩の参政(総理大臣)として藩政を任されていた20年間、藩内では百姓一揆が一度も起きず餓死者も出していない。近隣の他藩の農民たちは、備中松山藩の農民たちを羨んだと語り伝えられている。あぁ素晴らしい。この煎じ薬を目下の中央政界に届けたい。 方谷(1805-1877)は、イギリスの経済学者ケインズ(1883-1946)に生年で80年ほど先立つケインズ政策の先行者であり、日本でのケインズ革命を実践したことになる。日本の経済学者はケインズを学ぶが日本のケインズ方谷をも学べば良かろう。一部の愛好家しか注目していないのは悲しいサガではなかろうか。れんだいこには、幕末維新を学ばずにロシア革命を語る姿にダブって見える。そう云えば、最近になって二宮尊徳の徳政が学ばれるようになった。方谷がもっと注目されるのも今しばらくのことだろうか。角栄の日本列島改造論の慧眼が再評価される日はその後のことになるのだろうか。 方谷のこの時期の功績にはもう一つ兵制改革がある。長くなるので、これについては「履歴考」に記すことにする。 2010.9.26日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評811 | れんだいこ | 2010/09/26 12:05 |
【れんだいこの山田方谷論その2】
方谷はその後も新藩主の板倉勝静と二人三脚の働きをしていくことになる。これが二人の運命であったと思われる。勝静は藩政改革の治績が認められ幕閣に召される。方谷は勝静の知恵袋になる。勝静は次第に中枢にのし上がって行く。井伊直弼の「安政の大獄」時に於いては、井伊派の厳罰処断政治に異を唱えた為に罷免されている。これに方谷の指南があった。その後、井伊大老が桜田門の変で横死し、後継した安藤信正も坂下門外の変で失脚する。この難局の中、久世老中により勝静が若年寄の水野忠精(ただきよ)と共に抜擢され、寺社奉行から老中に昇格する。38歳という若さでの要職就任であった。幕政の中枢に入った勝静は主に外交と財政の二面を担当し、混迷する国事の取り扱いに日々奮闘した。異例の若さで老中職に就いたため、周囲のものから小侍と馬鹿にする者が多かったがメキメキと手腕を発揮して政局の安定化に努め、「新閣老の板倉殿、ますます世評がよろしく」と高評を博すようになる。この世評の背後に方谷の諮問があったと窺うべきであろう。 以降の勝静は、次第に倒壊していく幕府の屋台骨を必死で支え続け、将軍・家茂、家茂急死後は慶喜に仕え、幕政改革と緊迫する国事を果断に執り行った。最大の難関は攘夷に対する幕閣の対立にあった。勝静は、孝明天皇朝廷と気脈を通じ公武合体政策を押し進める方策の下での徳川政権の延命を図った。しかしながら、朝廷と幕府を離反させようとする動きの方が強く次第に形勢が悪くなり苦悩を深める。幕府は次第に攘夷派を排斥して行くことになる。元々攘夷派の方谷は、松山藩の藩主・勝静を補佐する義理に生き、攘夷派を征討する為の智略を要請されることになる。このジレンマにより、方谷はお役目御免を願いで国許に帰ろうとする。許されて帰るも又呼びよせられことが幾度となく繰り返されている。 勝静は、将軍家茂の最初の上洛時にお供し、二度目の上洛時には江戸の留守居役を命ぜられる。この時、水戸藩の尊王攘夷派が常陸の筑波山に挙兵して天狗党を旗揚げする。水戸藩家老の武田耕雲斎に鎮撫資金として三万両を渡したところ、武田耕雲斎は1万両を水戸藩の藩庫に納め、残りの2万両を天狗党に渡す。勝静は、その前の生麦事件の賠償問題の対応能力、天狗党対応の不始末、幕府内の攘夷を廻る見解齟齬に対応する能力に限界を覚え、天下の大任に当たることはできないとして老中職を辞任する。これに方谷が関与し辞表文を起草している。この時、将軍後見職の一橋慶喜や老中などの攘夷不実行の姿勢を弾劾している。 幕府は次第に倒壊への動きを余儀なくされて行く。京都の旅館池田屋で長州、肥後、土佐藩の尊王攘夷派藩士らが密議していたところを新撰組の近藤勇らに襲撃され惨殺される池田屋事件、これに激高した長州藩が挙藩出兵し京都に突入するも返り打ちされた蛤御門の変(禁門の変)、第一次長州征伐、条約勅許問題等を廻る英仏米蘭の四カ国代表による在大坂での将軍家茂との直接交渉が立て続く。将軍家茂は勝静の復職命令を出し再度呼びよせる。勝静は、「我、微力、頽運支うるに足らざるを知る。然れども臣下の分これを座視するに忍びず。むしろ出でて徳川氏と共に倒れんのみ」と悲壮の決意を固め出仕する。勝静は、覚悟に見合う幕府要職の老中首座兼会計総裁となり、名実共に幕府最高司令官となった。方谷は国許に居ながら再び政治顧問となる。 第二次征長を控え、土佐藩の坂本竜馬と中岡慎太郎の斡旋により薩長同盟が成立する。その後、松山藩のお膝元で備中騒動(倉敷浅尾騒動とも云われる)が勃発し、地元に帰参していた方谷は一隊を率いて出陣する。幕府が長州再征の幕を切り、将軍・家茂が大坂城に入城するや急死する。時に21歳。幕府は、勅命を借りて将軍の死を口実に休戦を宣言する。勝静は長州対策、将軍後継を廻り、方谷に助言を求める。方谷は、三策を用意し英明の噂の高い一橋慶喜を将軍職に就け、長州藩を寛大に許し国事への参加を許すべしとする策を授ける。これが受け入れられ、慶喜が第15代将軍職に就任する。慶喜将軍宣下の二十日後、孝明天皇が急死する。時に36歳。明治天皇が16歳で即位する。この時期に連続した将軍・家茂の急死、孝明天皇の急死、明治天皇の即位にイカガワシサを見て取る歴史論もある。 この頃、幕府はフランス公使ロッシュと結びフランスに依存し始めた。これに対し、薩長はイギリス公使のパークスと結んだ。フランスとイギリスは国別で見れば対立しているが、その背後勢力はロスチャイルド系国際金融資本であり、日本は国際金融資本の両建て作戦による術中に嵌り込みつつあった。フランスとイギリスは幕府と倒幕派の両派を競わせ、国内を内乱へ向け操作し始めた。それぞれを財政支援し、勝利した側を財政コントロールすることにより政治支配して行くのが彼らの常套手段である。世界の植民地分割はこういう頭脳戦で籠絡されて行った。日本丸危うしの兆しが強まった。 明治天皇即位と同時に追放されていた倒幕派と結ぶ親王や公卿が許され公然と政治活動を開始する。慶喜は、大坂城でロッシュと単独会見する。幕政改革の示唆を受け、責任所在を明らかにするため、老中格の大給乗謨を陸軍総裁、稲葉正巳を海軍総裁、稲葉正邦を国内事務総裁、松平康直を会計総裁、小笠原長行を外国事務総裁とした。老中首座の勝静は将軍補佐として特に分担しなかった。このことは祀り上げられたことを意味するのではなかろうか。と云うことは、ロッシュは勝静の背後に方谷を見てとり、煙たがったことを意味するのではなかろうか。 方谷は藩命に従い京に上り、今後の方針について勝静の諮問に応える。但し、意見が合わなかった。この時期、京都にいた西周を訪問している。西は幕命によりオランダに留学し、帰国後は慶喜に召されてブレーンとして京都に在住していた。方谷は次第に退けられ、帰国を願い出て許される。「時代は自分の微力ではどうにもならない。天を仰ぎ、大笑して西に帰るより仕方がない。どんな運命が待ち受けていようとも、骨をうずめる青山はどこかにあるはずだ」の詩を遺している。 政局は更に流動し始め、幕府は政権維持を困難にして行った。政局は次第に大政奉還による新公武合体政体への転換か倒幕による御一新かに煮詰まって行った。土佐藩士の後藤象二郎と福岡藤次が二条城に勝静を訪ね、藩主山内豊信名義の大政奉還建白書及び坂本竜馬の船中八策に基づいた後藤ら4名連署の公儀政体論を記した別紙一通を提出した。これには慶喜側近の若年寄の永井尚志が根回ししていた。三日後、芸州藩からも同様の建白書が勝静に提出された。慶喜は、老中以下の諸有司を二条城に召して、諸藩に諮問せられるべきところの書を示し、大政奉還の是非を諮問する。続いて、10万石以上の在京諸藩の重臣を二条城に集め、勝静より大政奉還の書を示し是非を問う。 徳川慶喜が、天皇に「臣慶喜謹テ皇国時運之沿革ヲ考候二……」で始まる「大政奉還上申書」を差し出す。この上奏文は慶喜が若年寄の永井尚志に命じて起草させたと伝わっているが、真相は方谷の手によったことが判明している。方谷から送られた矢吹家文書に「我皇国時運の沿革を観るに……」という密書が現存しており、内容はもちろん字句も上奏文と酷似している。これによれば、上奏文の作成につき慶喜から筆頭(首席)老中の勝静にご下問があり、勝静が方谷に諮問し、方谷が起草した可能性が強い。この史実が知られていない。方谷が原案を作成し、その下書きを勝静から渡された永井らが「我」を「臣」に変えるなどなど一部をへりくだった表現に変えたものが京都朝廷に差し出されていることになる。方谷から久次郎にあてた密書には決まって「早々御火中」という指示がある。読み終わったら、ただちに燃やすようにとの指示であるが、なぜかこの密書にはその文字が見当たらない。方谷は、この密書を歴史の記録として残したかったのではなかろうかと推理されている。 2010.9.26日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評811 | れんだいこ | 2010/09/26 12:07 |
【れんだいこの山田方谷論その3】 中央政局の動きは一気に加速する。大政奉還の動きに並行して偽勅とも疑われているいわゆる倒幕の密勅が下されている。正親町三条実愛は大久保利通を自邸に呼んで薩摩藩主島津忠義父子宛ての密勅を、中御門経之は、長州藩士広沢真臣を自邸に呼んで長州藩主毛利敬親父子へ宛てた密勅を授けている。形式、手続き共に問題があり、偽勅として疑われても仕方ないものであったが、この密勅が倒幕の錦の御旗の役割を果たして行くことになる。この時、京都守護職松平容保、京都所司代松平定敬誅伐の勅も下っている。 朝廷が王政復古の大号令を下す。その内容は、大政奉還の思惑を越え、1・徳川慶喜の大政返上及び将軍職辞退、2・摂政、関白及び幕府の廃止、3.総裁、議定、参与の三職設置、4・施政の大方針として神武創業の始めに復すとして、天皇を中心とする新政府の樹立が指針されていた。同夜、小御所会議で、岩倉具視や大久保利通らの武力討伐派は、山内豊信や松平慶永らの公儀政体派を抑えて、激論の末、慶喜政権の右大臣辞退と所領のうち200万石を朝廷に返す納地を決定した。 勝静は切迫した事態を迎え、公用人の神戸一郎を藩地に下し重臣及び方谷の意見を求めた。方谷は、徳川氏善後の策について正否両説の「三変の説」を朱墨に分書し、意見数十条を勝静に献じている。「第一変」では「上は尊王の為、下は万民の為と云う大乗的見地」に立って事態を処理すべきを論じ、「墨書を採用すれば徳川家安泰、天下太平、朱書を採用すれば非常に危ない」と述べている。その要旨は、大政奉還の初志を貫徹せよということにあった。万一兵端を幕府から開くことになれば先方の術中に陥るであろうとしていた。この意見を取り入れた勝静は、神戸を永井尚志の下へ、吉田謙蔵を会津、桑名両藩へ派遣して説かせた。しかし、事態は方谷の主張とは逆の方向に展開して行くことになる。 薩摩藩の西郷隆盛は、密かに江戸撹乱を狙い、江戸藩邸に浪士を集め、江戸内外で彼らに強盗、放火、陣屋攻撃をさせ幕府を挑発した。これに乗せられ、庄内藩兵が薩摩藩邸を焼き打ちする事件が起こった。その報が大坂城中に伝えられるや、城内の会津、桑名両藩の反薩感情が一気に爆発した。慶喜は、ことここに至って老中始め旧幕吏を集め、薩摩藩との開戦と京都進撃を決定した。幕府は、慶喜の名をもって草した討薩の表、別紙として薩摩藩の罪状5ケ条を列挙したものを添付し、それを大目付の滝川具孝に持たせて上京した。慶喜は、君側の奸を払うとの名目のもとに1万5千の大軍を京都へ進発させた。この日の朝、神戸一郎が勝静に成算を質したところ、「万全の見込みはないけれども何分勢いここに至っては仕方がない」と答えている。 鳥羽伏見の戦いに端を発する戊辰戦争が起こる。鳥羽・伏見の戦い後、大坂城に集結する旧幕府軍はさらなる篭城戦にて決戦すべきと訴えたが、慶喜はこれを斥け、「事が破れた上は、東帰して更に講ずべき手段もあろう」と述べ、江戸への脱出を良しとした。朝敵となって国内に争乱の火種を広げることは愚計と判断し海路で江戸へ向かった。この時、勝静も慶喜に同行する。方谷は、既に幕府の滅亡が避けられない事を察して、勝静に対してまず松山の領民の事を考えて欲しいと諫言し、国許へ帰るよう促す。だが、徳川吉宗―松平定信の血筋を引く勝静は幕府(徳川家)を見捨てる事はできないとして慶喜と一蓮托生の道を選ぶ。勝海舟が品川沖に到着した慶喜一行を迎え、勝静が鳥羽、伏見の戦いの顛末を説明している。慶喜は徹底恭順に徹し、旧幕府の全権は勝海舟に一任された。 朝廷は、京都、大坂を掌握し、慶喜の江戸敗走を追うように慶喜追討令を発し、慶喜、勝静らの官位を剥奪した。勝静が藩主の松山藩は朝敵とされ、岡山藩(藩主池田茂政)などの周辺の大名に討伐命令が下った。征討の理由を「備中松山板倉伊賀義、徳川反逆の妄挙助け候条、その罪天地容るべからざるにつき云々」とし、備前岡山藩が美袋に本陣を構えた。松山藩は抗戦か恭順か、藩論が真っ二つに割れた。 戦えば、最新西洋銃で装備した士農混成の松山藩兵が勝利する可能性が強かった。 藩主不在の状況のなかで代行決断を迫られた方谷は時局を鑑み、官軍と戦うよりも国土が焦土化するのを憂い、或いは松山の領民を救う為に無血開城を決断した。「生賛(いけにえ)が必要なら、わしの白髪頭をくれてやろう」と述べ、勝静を隠居させて新しい藩主を立てることを約して松山城開城を朝廷軍に伝えた。岡山藩内では勝静の代わりとして方谷を切腹させるべきだという意見もあったが、彼を慕う松山藩領民の抵抗を危惧した藩中央の意向でうやむやとされた。こうして備中松山城は征討軍に無血開城する。城が明け渡された直後、松山藩の剣術指南役にして年寄役にして、それまで勝静警護の任に当たって十全なる職責を果たし通して来ていた熊田拾が自刀させられている。 討幕軍が江戸に迫り、満を持して迎え討とうとする幕府軍との一大決戦が近づく。この時、勝海舟が江戸城無血開城の秘策で交渉の任に当たる。この場面は既に多く考察されているので割愛するが、要するに江戸城無血開城の意義は、日本の内戦化を企図し、その疲弊の間隙を衝いて植民地化を狙う国際金融資本の狡知との頭脳戦にあった。勝海舟派の叡智と西郷隆盛派の叡智が阿吽の呼吸で国際金融資本の仕掛ける策に乗ぜられないよう高度な政治判断をしたとする見方が欲しいと思う。部分ではともかく大局で伝来の高度な「和の政治」を具現したことになる。ちなみに勝海舟も西郷隆盛も陽明学者の系譜で捉えることができる。或いは縄文知性派とも看做すことができよう。 徳川幕府崩壊後の勝静はその後、老中の職を辞任し、家督を世子の勝全に家督を譲り、父子ともども日光山に隠遁する。勝静親子の流転が始まる。徳川慶喜が江戸城を明け渡して後、元老中の勝静は榎本艦隊と函館に渡り、維新政府に対抗し続けた。箱館戦争の帰趨が見え、がもはやこれまでの状況に追い詰められた勝静に対し、松山藩士の憂情ひとかたならず、方谷らの策でプロシア船に乗船し江戸に入って帰順した。板倉勝静と勝全父子は死一等を免れ、支藩である群馬県の安中藩に御預けの身(終身禁固)となった。 徳川幕府は最期まで賢明懸命に時代を漕ぎ、遂に倒壊を余儀なくされた。勝静は最後まで忠誠を尽した忠臣としての履歴を遺した。生前に勝静とは身分を越えた友人であった勝海舟は、「あのような時代(幕末)でなければ、祖父の(松平)定信公以上の名君になれていたであろう。巡り会わせが不幸だったとしか言いようがない」と語っている。その勝静の知恵袋に方谷が位置していた。方谷は、政局重大事の事有るごとに勝静に訊ねられ、的確な処方箋を呈示している。方谷なければ勝静なく、その方谷を活用しきった勝静の英明さが称えられるべきであろう。こういう関係において捉えたい。歴史は常に勝者の側から語られる。一時なりとも板倉勝静と方谷が処断した幕末政治は歴史の陰に隠れているが、再評価される日も来るであろう。 2010.9.26日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評811 | れんだいこ | 2010/09/26 12:08 |
【れんだいこの山田方谷論その4】
こうして三百年続いた江戸幕府が倒れ、明治新政府が創業された。幕末維新は明治維新へと永続革命された。ここまでは良い。その後の明治維新がどのように歪曲されたのかが問われねばならない。その最大の問題は、明治新政府に次第に国際金融資本のエージェントが入り込み、それと共に幕末維新派の有能士が退けられ、最終的に士族の反乱で一掃されたことではなかろうか。新政府の樹立から征韓論での下野までにつき、こういう見立てが欲しいと思う。しかしながら、通説は、士族の反乱は士族身分解体に対する抵抗と云うエゴイズムにより引き起こされ、鎮圧されたとしている。西郷の征韓論は征韓論ではなく、むしろ和韓論であった。にも拘わらず征韓論として歴史偽造され続けている。そういう通説を鵜呑みにする西郷論が流され続けている。 この説に疑問を湧かさない知能の者に説いても馬の耳に念仏でしかないが、その後の日本の帝国主義化、好戦化、台湾、朝鮮の併合に続く中国大陸への侵略、その定向進化の果てに大東亜戦争が待ち受け、最終的に日本民族ジェノサイドの危機の淵に追い込んだ背後に国際金融資本の狡知があったこと、今なお蠢いていることを見て取らねば歴史を学んだことにはなるまい。国際金融資本の奏でるシオニズムテキストをなぞって事足れりとしている事大主義では歴史の真実が見えてこない。そういう意味で西郷論の書き換えが望まれていよう。 方谷はその後、明治維新政府の度々の出仕要請を断り、郷土の子弟教育に当たった。これが方谷の陽明学者としての最期のケジメであったのかも知れない。それにしても、方谷が松山藩のレンズで眺めた日本の幕末政界絵巻はどのような万華鏡であったのだろうか。 さて、方谷の偉業を確認しておく。その白眉は藩政改革、兵制改革の功であろう。但し、それに止まるものではない。幕末政局に於ける安政の大獄に対する異議、尊王攘夷運動への好意的眼差し、家茂亡き後の一橋慶喜の擁立、大政奉還文の起草、戊辰戦争に対する対応、松山城明け渡しの決断、明治維新政府の度々の出仕要請の断り等々、随所に方谷の叡智を見て取ることができるのではなかろうか。この方面での方谷に言及しない方谷論は物足りない。 問題は次のことにある。以上の功績は幕藩体制護持の観点からの働きである。方谷は他方で幕末維新を促進している面の功績が認められる。一つは、奇兵隊創出を媒介している。一つは、その方谷が微妙に西郷隆盛と琴線を通じているように思われる。但し、両者は相まみえることなく平行にすれ違ったようである。ではあるが共に佐藤一斎の「言志四録」で精神を鍛えられた陽明学派の系譜に位置することで共通している。方谷は奇しくも西郷の最期の闘争となった西南の役の闘いの最中に逝去している。何かの廻り合わせではなかろうか。越後長岡藩の有能藩士であった河井継之助との師弟関係に触れることができなかったが、長岡藩立て直しでも的確な影響を及ぼしている。 日本政治に今、こういう策士が居れば良いのだけれども子供政治に明け暮れており、それも決まってアメリカの要請と云う名の国際金融資本ユスリに迎合しており、それと引き換えに権力を握り一時の栄耀栄華に酔いしれている。最期には唾棄されるしかない小泉亜流どもばかりが徘徊しているように見える。村木厚子厚労省局長不当逮捕事件で地検特捜部にようやくメスが入った。これにより時代が変わるのだろうか。ロッキード事件で法の番人が上からの法破りを得手として以来既に三十有余年経ている。以来、日本の法秩序は既に十分ズタズタにされている。これ以上壊れると、日本人民大衆の頭脳と精神に更に大きな損傷を及ぼすであろう。そういう意味でも方谷を訪ねる意味は大きい。国際金融資本の魔手に汚染されない以前の日本的知性の粋を知ることができよう。どの程度有効なのかは別にして知らないよりは断然知って良かったと思う。 2010.9.26日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評811 | れんだいこ | 2010/09/26 12:09 |
【れんだいこの山田方谷論その5】
最期に確認しておきたいことがある。方谷の極東アジア観即ち、沖縄、朝鮮、台湾、中国(清国)に対する態度はどのようなものであったのだろうか。国際金融資本が背後で操る西欧列強の世界の植民地分割の動きに対して、極東アジア擁護の橋頭保として日本を位置づけ東亜共栄圏構想を夢想していたのだろうか。それとも西欧列強の侮蔑意識と同様の意識をもって「バスに乗り遅れじ」として同様の侵略に向かおうとしていたのだろうか。これについて定かではなく、今後の研究が待たれている。これを確認しておく。 1861(文久元)年、「桜田門外の変」から「坂下門外の変」に至る無役時代の頃、方谷が勝静に建議を提出している。文面の趣意は、「中国が太平天国の乱と第二次アヘン戦争(アロー号戦争)により弱体化し、昨年秋には首都の北京が英仏軍により陥落させられ、皇帝が満州に逃げ、中国全土が無主の地になり、西欧列強の取り勝ちとなっている。日本も朝鮮、台湾、山東から三手に分かれて攻め入るべしである」としている。 1863(文久3)年、公武合体による攘夷決行の頃、方谷は、対馬藩の大島友之充が近年対朝鮮貿易が途絶え藩用を支えることができない旨を訴えたのに対し、「どうして朝鮮に違約の罪を言い立てて、朝鮮を征服する策に出ないのか」と述べ、征韓の方略、部署を起草している。その案は、対馬藩を先鋒として薩摩、長州などの諸藩が続くべしとしていた。これを受け、対馬藩が攘夷実行と津島防衛の観点から朝鮮進出を訴える援助要求願書を作成した際には願書の添削をしている。 つまり、西欧列強により侵略された中国、苦戦する朝鮮に対し憐憫の眼がなく、ならば西欧列強の代わりに日本が宗主国になるのが是とする観点を披歴しているように思われる。同様の姿勢を吉田松陰にも窺うことができる。松陰は、野山獄に幽因の身の時にとなり 「幽囚録」を著しているが、文中で次のように述べている。「今急に武備を修め、艦略ほぼ具わり礟(ほう)略ほぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)、隩都加(オホーツク)を奪い、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ、朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし。然る後に民を愛し士を養い、慎みて辺圉(ぎょ)を守らば、則ち善く国を保つと謂うべし」。「同士一致の意見」として兄に送った「獄是帳」は次のように記している。「魯(ロシア)、墨(アメリカ)講和一定、我より是を破り信を夷狄に失うべからず。ただ章程を厳にし信義を厚うし、その間を以て国力を養い、取り易き朝鮮満州支那を切り随え、交易にて魯墨に失う所は、また土地にて鮮満に償うべし」。 この「極東アジアに於ける宗主国意識」が後の日本の帝国主義化、海外侵略の下地を形成していたようにも思われる。この辺りの内在的論理をも切開せねばならないのではなかろうか。当時の知識階級の癖を見て取ることができるのではなかろうか。れんだいこ史観によれば、近代から現代に於いて暗躍し続ける国際金融資本論の視点を持たなかった為、かような愚見に誘われたのではなかろうかと思われる。方谷、松陰のあたら惜しい一面であるように思われる。もっとも、欧米列強の餌食になるぐらいなら日本が助け、橋頭保を築いて後に兵馬を引こうとしていたことも考えられる。この辺りの精査が未研究ではなかろうか。以上で、「れんだいこの山田方谷論」をひとまず措くことにする。 2010.9.26日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評812 | れんだいこ | 2010/09/27 17:47 |
【領土問題解決の名案方策考】
現在、日本政界は尖閣諸島問題で揺れている。菅政権の能力が試されているが、それより何より前原の行くところ何故に事がこじれ一事万事がやり捨てになるのだろう。れんだいこの眼には、尖閣諸島問題での中国船船長逮捕は偶然か故意かまでは分からないが日中間を離間させようとする前原外交の今後の号砲に見える。国際金融資本に対するゴ―サインではなかろうか。 日本が抱える大きな領土問題を見るに、ロシアとの北方領土、韓国との竹島、中国との尖閣諸島を廻って紛争が生じている。領土問題は日本特有の問題ではなく、国境を接するところ世界中でそれなりの問題を抱えているものと思われる。それぞれに微妙な問題があり、一括して論じるのは無謀かもしれないが、れんだいこには「或る案」がある。この案によりなぜ解決しようとしないのか訝っている。そこで、尖閣諸島問題で揺れる最中に一石を投じてみることにする。諸賢の賛辞なり批判を待ちたい。 れんだいこの「或る案」とは、領土問題紛争地域につき「百年凍結」の為の「領土問題紛争地域に於ける当事者国政府百年期限並立案」を云う。これは、北方領土問題の時に発想したのだが、向こう百年間を日本とロシアが共同統治し、百年後に改めて協議するなり住民投票で帰属を決めるなり更なる継続を決めるなりしたらどうなのだろう。こうすることで、両国家の友好親善の喉仏(のどぼとけ)のイガを抜き、経済協力なり文化交流なりの栓を抜いたらどうなのだろうと思っている。この案は、韓国との竹島、中国との尖閣諸島問題にもそのまま適用できる。本来なら、これは名案であり、この案に添って外交的折衝に向かうべきである。これで不審はない筈である。 問題は、何故にこの案に向かわないのかにある。恐らく偶然ではなく、意図的故意に領土問題解決に向かわせない勢力が居るのではなかろうか。直ぐに考えられるのは、軍需商人である。その意向を強く受ける国家である。彼らは、日本で云えば極東アジアの、世界で云えばそれぞれの地域ゾーンで、紛争がなくなることを一番恐れている。これを逆に云えば、領土問題で当事国がいがみ合うように仕掛け、その為の日頃のプロパガンダ、時に事件を仕掛けたりしている。 これを思えば、目下の尖閣諸島問題で息巻いている日本の政治家、評論家、中国の政治家、評論家の果たしている役割が透けて見えてくる。彼らは、紛争当事国が領土問題を解決すること自体を好まず、無責任にも紛争拡大を煽るのを商売として如何にも正義であるかのように気ままにおしゃべりしている。迂回献金が届いていると見るべきだろう。この手あいが平素「政治とカネ問題」で正義振り、揃いも揃って小沢批判に口を尖らしているのはお笑いである。 そういう訳で、この勢力の動き、論をどう掣肘するのかが問われている。では、従来これをどう解決したのか。これを見るに「棚上げ」して来たようである。当たらず障らずで紛争は紛争として残しておき将来に任せ、経済的文化的交流を優先させた。この外交芸は、日韓国交回復交渉、日中国交回復交渉でみられた。前者は佐藤政権と朴正煕政権、後者は田中角栄政権と周恩来政権の時に実現した。双方が経済的交易の拡大を優先させた政治的外交の産物であった。今日的に見て、主権国同士が直接外交により纏め挙げている点で称賛に値しよう。今日の北朝鮮との国交交渉において六カ国協議に下駄を預け少しも前進しないのがお笑いとなる。 もう一つの案が「れんだいこ案」である。「れんだいこ案」が実現した例はあるのだろうか。近い例としては香港の返還が考えられる。「返還期限までイギリスと中国の二国政府」が存在した。目下は、この二方法しか考えられない。無理矢理に案出すると、戦争で解決する方法もある。しかし、これは戦後日本の採る方法ではない。してみれば、今後光って来るのは「領土問題紛争地域に於ける当事者国政府百年期限並立案」であろう。至極真っ当と思えるこの方法がなぜ実現しないのか、これを訊ねる方が真相が見えて来よう。 米国と云う名の国際金融資本におんぶにだっこの外交ではどうにもならない。それを逆向きに饒舌するどいつもこいつもの正義ヅラ紳士を撃て。逆に国家間の平和と協調を求めて名案を考案せよ。これに汗を流せ。こう確認すべきではなかろうか。簡単ながら以上スケッチコメントしておく。 2010.9.27日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評813 | れんだいこ | 2010/09/28 20:17 |
【小室直樹氏逝去考】
2010.9.4日、政治学や社会学など幅広い分野で活躍した評論家で東工大特任教授の小室直樹氏が、東京都内の病院で心不全で死去した(享年77歳)。9.28日、東京工業大世界文明センターが発表した。 小室氏は東京生まれ。京大理学部数学科を卒業後、大阪大大学院で俄かに経済学を専攻し始め、フルブライト留学生として米ハーバード大などに留学。帰国後は東大大学院などで丸山真男、川島武宜、篠原一、京極純一の各氏らの指導を受けながら、文化人類学、法社会学などを研究し法学博士を取得した。 大学院修了後、どういう訳か教授の肩書が付かぬまま旺盛な執筆活動を開始した。1980年にソ連崩壊を予言した「ソビエト帝国の崩壊」、続いて出した「アメリカの逆襲」がベストセラーになった。ロッキード事件で被告になった田中角栄の有能性を称賛し、孤軍奮闘の無罪論の論陣を張った。他に「危機の構造 日本社会崩壊のモデル」、「日本人のための宗教原論」、「韓国の悲劇」、「信長 近代日本の曙と資本主義の精神」など多数著作している。政治、社会、経済学など社会諸科学の統合による識見で俗説を一蹴し続け、異色の学者として活躍した。この間、橋爪大三郎・東工大教授、宮台真司・首都大学東京教授、政治経済評論家の副島隆彦氏らを指導している。有能な師に有能な弟子が繋がり、逆は逆なりの好例であろう。 れんだいこは、小室直樹氏の膨大な著作のうち数典しか読んでいないが、どれも目からウロコの卓見が満ち満ちており恐れ入りやの鬼子母神的に学ばせて貰った。特に影響を受けたのは、著作名が分からなくなったが、日本の戦後民主主義を理想的な蓮華国家となぞらえている発想であった。これが如何に重要な視点であるかと云うと、日本左派運動のそれが右派が穏健的に改革改良を、左派が急進的に革命を説くにしても、共通してブルジョア体制論の範疇で説いていることとの比較で知れる。小室氏は、マルクス主義的な歴史観の呪縛から離れて、日本の戦後民主主義を世にも稀な蓮華国家であるとして称賛し、その護持、成育発展の指針を与えていた。 この指摘が、れんだいこの史観形成に大きな役割を果たしている。そういう意味で、小室氏に感謝している。れんだいこはそれまで、れんだいこ自身の生活体験や、天理教教祖中山みきの研究を通じて、戦後民主主義の有り難味を知っていた。戦後民主主義に具現したものは、幕末の中山みきを束縛していた身分制、その他諸々の抑圧的法的規制から解放していた。或る意味で戦後社会は「みきの予言」通りの世の中になった。故に、天理教に於いては、戦後民主主義は卑下するものではなく、教祖中山みきの世直し、世の立て替えの百年後の具現社会と位置づけ評価することになる。天理教では神人和楽社会を理想とするが、大いに近づいた世の中と捉えることになる。 しかしこうなると、僅かな期間と雖も学生運動を通じて脳の最も若く活動的な青年期にマルクス主義の洗礼を受けた者からすれば、天理教的戦後民主主義賛辞論とマルクス主義的ブルジョア体制論との両説のハザマでしっくりしないことになっていた。丁度その時、小室氏の戦後民主主義蓮華国家論を聞き、ハタと膝を叩いた次第である。何しろ気鋭の、敢えて在野の超博識の小室先生が確信的にメッセージしているのであるからして、もはや迷うことはなかった。以来、れんだいこは、戦後民主主義蓮華国家論を芯に据えている。それは下手クソなマルクス主義的歴史論の呪縛から剥離したことを意味する。れんだいこ史観は、他にも太田龍氏の国際金融資本帝国主義論、歴史的ネオシオニズム論、日本の縄文知性秀逸論等々から学んでいる。イエス思想、中山みき思想、陽明学等々からもエッセンスを汲んでいる。銘打ってれんだいこ史観としている。 この史観によって見立てがどう変わるかと云うと、典型的には田中角栄論に集中されることになる。世の多くの自称識者は、田中角栄政治を金権政治の元凶、諸悪の根源として捉え、これを叩くことをもって正義とする。従って、ロッキード裁判では正義の検察に対するエールしまくりとなり、角栄の抵抗を嘲笑することになる。社共系労組は御用提灯をもって角栄の住まいする目白邸宅を包囲して気焔を挙げることになる。これに対して、小室氏、太田氏、そしてれんだいこも挙げておこう、この系譜は、角栄の有能性を認め、戦後蓮華国家のひた向きな働き手として評価する。故に、そういう逸在の角栄を陥(おとしい)れたロッキード事件の負の構造を疑惑する。こういう違いとなる。 両者の見立てのどちらが正しいのか、これはこれからの歴史が実証することであろう。それにしても、ロッキード事件では立花隆、日共の宮顕、不破、上耕が異常にはしゃいだ。立花のネオシオニスト的イカガワシサ、日共の左からの国際金融資本帝国主義の御用聞き性はこれから暴かれることになろう。ワシントンから見て名宰相として評された首相は中曽根と小泉である。日本のマスコミメディアはこの論調に今も乗っている。この不正を糺さねばなるまい。むしろ強権的に葬られた政治家こそ真の有能な働き手ではなかったかと見直されるべきであろう。 この政治闘争は近くでは小沢キード事件にも関係している。日本政界は「政治とカネ問題」で小沢パッシングに興じているが、小沢パッシング派の「政治とカネ問題」には向かわない「法の不公平適用」による小沢叩きの為の方便でしかない。小沢は政治資金収支報告書に入出金を克明に記しているが、それが為に「天の声」まで詮索されている。同じトレースで測られると一体何人の政治家が潔白証明できるのだろうか。であるのに小沢ばかりが槍玉に挙げられている。ここに小沢叩きの政治性がある。小沢キード事件のイカガワシサはここにある。これからは、「政治とカネ問題」で正義ぶる者には、せめて小沢並の経理公開しているかどうかはっきりさせてからものを言わさねばなるまい。いつまでも「手前は免責、小沢有責」の得手勝手論法を通用させてはなるまい。 もとへ。小室氏が逝去した。このところ動向が聞こえていなかったので気になっていたが療養中だったのであろうか。小室氏の縦横無尽の切り口、語りにもっと触れたかったと思う故に残念である。しかしながら寿命とならば致し方あるまい。御冥福を祈る。改めて感謝申し上げる。 2010.9.28日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評814 | れんだいこ | 2010/10/01 21:39 |
【「2010.10.1日の菅首相の所信表明演説」考】
「2010.10.1日の菅首相の所信表明演説」をコメントしておく。総評として、菅首相の低能ぶりを示す稀にみる子供演説であるとしておく。こういう演説を許したとと云うことは、2009年の政権交代以来1年有余、政権交代効果がほぼ潰えたことになる。但し、それは鳩山-菅と続く党内右派によるアクセルではなくブレーキを踏み続けた結果であって、僅かの望みとして党内土着派の小沢政権であったらどうなっていただろうかと憶測し得る余地は残されている。 ここン十年、自民党もダメ、民主党もダメ、その他諸党もダメと云うダメ尽くしの政治が横行している。お陰で日本は往年の勢いをすっかり失い、米国の一州にされるのか中国の一省にされるのか、はたまた都市部は国際金融資本派に占拠され、日本人民は田舎の山岳に追いやられる悪夢のアジェンダシナリオに歩一歩近づいている気がする。ここで回天させずんば日本丸いよいよ危うしであろう。その為に何を為すべきか。発想を変えないと生き延びられないとひしひしと思う。 「2010.10.1日の菅首相の所信表明演説」は、冒頭、「有言実行内閣」を詠う。解決すべき重要政策課題として、「経済成長」、「財政健全化」、「社会保障改革」の一体的実現、その前提としての「地域主権改革の推進」、「主体的な外交の展開」の五つ問題を掲げている。問題は中身である。どういう按配のものであろうか。 第一の「経済成長」について。何と、経済成長の為の基礎的要件として何を為すべきかに触れず雇用を増やせば全部解決するかのような「雇用万能論」にシフトしている。雇用自体を自己目的化している。極めて危険な経済音痴ではなかろうか。「円高、デフレ状況に対する緊急的な対応」として、第1段階、第2段階、第3段階と分け、それぞれの効能を詠っているが具体的なキモに触れていない。総じてコマーシャルになっている。首相の意向を受けた官僚作文の原稿読みに過ぎないことが分かる。 第二の「財政健全化」について。2015年度までに基礎的財政収支の赤字を対国内総生産(GDP)比で今年度の半分、20年度までに黒字化を達成するとしている。無駄を徹底削減した来年度予算を組むと云う。事業仕分けを継続し、引き続き強力に無駄の削減を徹底すると云う。国家公務員の総人件費の2割削減を云う。国の出先機関の統廃合を含め各府省の機構や定員をスリムにすると云う。云うのは勝手だが、できもしないのに或いはヤル気もないのに云うのを無責任と云う。 第三の「社会保障改革」について。何とここで「多少の負担をお願いしても安心できる社会を実現することが望ましい」として増税策を呈示している。「社会保障に必要な財源をどう確保するか一体的に議論する必要がある」、「結論を得て実施する際は、国民に信を問う」としている。要するに、社会保障を引き合いに出して増税論をぶっていることになる。社会保障に情熱があるのではなく、増税に力んでいることが分かる。誰かが知恵を付け、こう云わせているのであろう。 第四の「地域主権改革の推進」について。中央政権と地方自治との理念的在り方論を掲げ、大綱を示すと云う作風は微塵もない。元々確固とした政治哲学がないのだろうと思われる。「ひも付き補助金」の一括交付金化に着手する、各府省の枠を超えて投資的資金を集め、自由度の高い交付金に再編すると云う。「投資的資金を集め」とはどういう意味だろう。ギャンブルでもしようと云うのだろうか。 第五の「主体的な外交の展開」について、「防衛計画の大綱の見直しに当たっては、真に役に立つ実効的な防衛力を整備するため、これからの時代にふさわしいものを、本年中に策定する」と云う。どういうステキなものがでてくるのだろうか。「日米同盟基軸論」、「日中関係一衣帯水論」、「生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)重視論」、「東南アジア諸国連合(ASEAN)環境整備論」、「北朝鮮注視論」をおざなりに述べている。補足として、「政治改革と議員定数削減」に触れ、「カネのかからないクリーンな政治の実現」、「企業・団体献金の禁止」、「国会議員の定数削減」について言及している。 一体、この首相所信表明演説は何なんだろうか。このところのそれがレベルが低いのは知られているが、こたびのそれは更に劣化させている。この内閣で第一に何を目指すのか。国内的には何を、国外的には何をと云う焦点になるものが一切ない。情況に合わせて漂う浮草政権論、つまり国家論をぶっているに過ぎないことになる。 れんだいこの予見では、こういう所信表明演説であるからして、トンデモナイおバカな政権であったことが知れる日は近いと思う。既に兆候が出ている。政治主導、官邸主導をを云いながら、それが問われる際になると官僚のしたこと検察のしたことで政府は与り知らぬと逃げの手を打っている。尖閣諸島事件では平然と「ビデオは見ていない」と云う。有り得て良いことだろうか。れんだいこには信じられない。 こうなると、問題は、国際金融資本帝国主義が、この政権をどう操作誘導しようとしているのかを窺うべきだろう。これが今後全ての政治事象、政変を説き明かすカギになりそうだ。国会質疑は一切ムダ、考証の必要なしと極論しておこう。 2010.10.1日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評815 | れんだいこ | 2010/10/03 12:48 |
【「2010最高検の現役特捜検事イモヅル逮捕事件」考その1】
検察制度始まって以来と思われる最高検による現役特捜検事のイモヅル式逮捕事件が発生している。検察内の前代未聞の不祥事であるが、臭いものに蓋をせず、これを公にした最高検の英断を拍手したい。これを仮に「2010最高検の現役特捜検事イモヅル逮捕事件」と命名する。検察が、ロッキード事件以来常習常套化している長年の検察不正腐敗に対しどこまで自浄能力を持つのか、やがて揉み消されるのか、その際に誰が出てくるのか、敵が誰であり味方が誰であるのか等々の関心を持ちながら見守りたい。ここで事件の流れをスケッチしておく。 2010.9.21日、朝日新聞が、朝刊社会面(34・35面)に社会部の板橋洋佳、野上英文の両記者による「検事、押収資料改ざんか 捜査見立て通りに 郵便不正」記事を載せた。厚労省の偽証明書偽造事件、村木厚労省局長逮捕事件に纏わる「前田検事による押収証拠物改竄事件」をスクープしていた。朝日新聞は、2010.2.12日付けの奥山俊宏、村山治記者による「ロッキード事件『中曽根氏がもみ消し要請』米に公文書」記事に続く超ど級の特ダネをものにしたことになる。さすがは朝日であろう。こうして新聞が頑張らんと世の中面白うない。そういう意味で、朝日の頭脳は何だかんだ云っても記者レベルでは健在で「腐ってもタイ」と云う訳か。毎日はアカンな。上層部の目がどいつもこいつも死んどるわ。こういう社を立て直すのは難しい。 朝日新聞朝刊がスクープしたこの日、最高検が、前田検事(43)を証拠隠滅容疑で逮捕した。最高検検事が主任を務め、東京地検の検事ら8人が加わる捜査チームが編成され、大阪府内の検事宅や地検の執務室を捜索した。こうして当時の村木厚労省局長を起訴した検事が逆に起訴されると云う異例の事件となった。この事件の経緯を確認しておく。 2004.6月上旬、自称障害者団体「凛(りん)の会」(のちの白山会、東京)が、企業のDM費用を格安料金で請け負う狙いで郵便の障害者割引制資格を取得した。その際、村木局長の部下に位置する上村係長を通じて偽の証明書を偽造した。上村係長が個人的な思惑で独断でやったのか、どういう政治圧力があったのか未だ解明されていない。これを「障害者団体向け割引郵便制度悪用事件」と云う。 検察の事件構図では、上村被告は村木局長の指示に従い、村木局長の指示の裏には民主党の石井一衆議員の政治圧力が有ったとしていた。ところが、石井議員が圧力をかけたとされる日は、石井議員の日程メモではゴルフをしていたことになっている。検察は、これを崩せていない。つまり、この件でも検察の筋書きが破綻している。別説として、政治圧力の本ボシとして「小泉元首相秘書官・飯島勲ラインの圧力」が囁(ささや)かれている。ところが、検察捜査は伝統的にシオニスタン系政治家の利権活動に対してはメスを入れない。そういう訳で、こたびも端から洗われていない。 検察は続いて「村木厚労省局長逮捕事件」に向かう。この捜査の真の指揮者は大坪弘道大阪地検特捜部長であった。大坪部長は典型的な出世主義者として知られており、こたびも東京地検特捜部への対抗心と功名心に燃え、シオニスタン系政治家の利権活動を隠蔽する為のスケープゴートとして「石井議員―村木局長犯人シナリオ」をデッチあげ、その現場指揮を子飼いの伊藤検事に取らせた可能性が強い。これを請け負った伊藤検事も又典型的な出世主義者であり、同じ穴のムジナであったと云うことになる。 これが世に云う「検察の正義」の裏にある政治主義性である。これを思えば何事も「正義ぶる者」に対しては眉つばするのが賢明であろう。これを不審がらず、「検察の正義」を後押し続けてきた立花隆、日共、メディアマスコミの口先の何たる調法なことだろうか。れんだいこには、ロッキード事件以来の検察の負の構図が見えてくる。この観点を保持しない限り検察不義の真相が見えてこないであろう。そういう意味で今こそ、法の番人が上から法を蹂躙したロッキード事件以来の国策捜査の不正義を洗い直し、ウミを出すべきではなかろうか。こたびの最高検捜査がどこまで迫ることができるのだろうか。心もとないが見守ろうと思う。 2009.4.16日、大阪地検特捜部が郵便法違反容疑で凛の会設立者の倉沢邦夫被告らを逮捕。5.26日、大阪地検特捜部が、証拠品として上村被告の自宅からフロッピーディスク(FD)を押収。5.27日、稟議書を偽造したとして厚生労働省の上村勉係長(41歳)らを逮捕。6.14日、証明書を偽造したとして村木厚子局長ら4人を逮捕。6月末、検察がFDを印刷したデータを証拠採用した捜査報告書を作成する。7.4日、村木局長ら4人を起訴。これを仮に一括して「郵便不正事件」と命名する。事件を担当した検事は、前田恒彦主任検事(43)、高橋和男副検事(51)、牧野善憲副検事(42)、坂口英雄副検事(51)、林谷浩二検事(34)、國井弘樹検事(35)である。 検察の筋書きでは、上村被告が村木被告から証明書の不正発行を指示されたのは2004.6月上旬。上村被告が証明書を作成したのはその後という構図となっていた。ところが、上村被告の自宅から押収していたFDの最終更新日時は「04年6月1日午前1時20分06秒」であった。この期日は、検察にとって都合の悪いものだった。 7.13日頃、前田検事は、検察側の構図と合わすべくFD改竄に着手した。これを「前田検事による押収証拠物改竄事件」と云う。これを前田検事が独断でしたのか、上司との相談の上での行為であったのかは今のところ定かではない。いずれにせよ、前田検事は、1・内規違反である私用のパソコンと専用ソフトを使って、2・FDの期日を「04年6月8日」に書き換えている。この時、同僚検事に対して「爆弾を仕掛けた」と述べている。その真意は定かではない。普通には、検察にとって都合の悪いFDの期日を都合のよいように改竄し細工したと窺うべきだろう。それにしても、「爆弾を仕掛けた」の表現が穏当ではない。他の意味があるやも知れぬ。 どうであろううと、前田検事は、私用のパソコンでダウンロードしたソフトを使うと云う内規違反をしている。次に、FDの更新日時データを書き換ると云う神聖不可侵である筈の証拠物を改竄している。この二つの罪で前代未聞の不祥事に手を染めたことになる。この行為は、前田検事特有の個性、資質、能力に帰因するとみなすべきだろうか。それとも、長年の検察、警察捜査の常套手法であり今に始まったことではないとみなすべきだろうか。もし後者であれば、恐ろしいほどの精神の弛緩であり、ロッキード事件以来の不正が定向進化し、遂に来るところまで落ちたと云うことになろう。検察正義の呆れた実態暴露と云うことになろう。こたび、この不正を検察内部で採り上げ、隠すことなく徹底捜査し始めていることで多少なりとも救われるが、江戸時代なら間違いなしに「関係者一同即刻切腹もの」であろう。 ところが、前田検事がそこまで危険を冒して手を染めた改竄FDは裁判資料に採用されなかった。FD改竄3日後の7.16日、このFDは上村被告側に返却されている。これはどういうことか。改竄したFDがなぜ元に戻すことなく改竄されたままの状態で返却されたのか。これがミステリアスになっている。推測するのに、前田検事のFD改竄直後に既に検察内部で問題となったのではなかろうか。担当検事団内部で問題となったのか検事団外部の注進があったものかは定かでない。こう読み解く必要がある。 前田検事は処理に困り、上司の指示に従ったものと思われる。当初は意気揚々と「爆弾を仕掛けた」と述べていたが雲行きがオカシクなった。結果的に「大急ぎで返却」したものと思われる。FD返却の際に改竄FDを再改竄して元に戻しておけば良かったが、既に私用のパソコンと専用ソフトを使うこと自体が咎められており、それもできなかったのではなかろうかと考えられる。しかし、このことが後に正真正銘の爆弾になる。「改竄FD」がブーメランのように舞い戻り、皮肉なことに前田検事に炸裂する。その前田検事をコントロールしていた大坪部長と佐賀副部長にも炸裂する。天網恢恢疎にして漏らさずの格言通りになった。 検察の構図の誤りを鋭く指摘したのは、村木氏本人であった。現役の厚労省の局長の身にして大阪拘置所に勾留(こうりゅう)される身となった村木被告人は、屈辱の中で検察の開示証拠をチェックし、FDの文書データの最終日付けが「04年6月1日午前1時20分06秒」であることに注目した。検査側の立件では上村被告が村木氏から証明書の不正発行を指示されたのは6月上旬としている。このオカシサに気づいた村木被告人は獄中から弁護団に「日時のズレ」を指摘し、「村木厚労省局長逮捕事件」の検察筋書きそのものを破綻させ、冤罪構図を明らかにさせた。にも拘わらず、破れたシナリオを継ぎはぎしつつ暴走したのがその後の大阪地検特捜部であった。何しろ厚生労働省の現役局長を逮捕しておりメンツが掛かっている。今更引くに引けなかったものと思われる。それにしても、その不当逮捕性、冤罪を告発したのは村木被告人の頭脳であったことに脱帽させられる。厚労省の頭脳が検察の頭脳に勝ったことを意味していよう。やはり頭は良くないとイケナイと云うことになる。 2010.1.27日、村木元局長は、初公判で検察の起訴状の内容を堂々と否認した。弁護団も、弁護側冒頭陳述で、FD期日のズレを咎めて「検察側の主張は破綻している」と訴えた。 裁判長がこれを認め「検察側の主張と符合しない」と指摘した。この為、検察側は捜査報告書を作成し直し、それが新たに証拠採用されると云うこれまた恐らく前代未聞の失態を演じている。 2010.10.3日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評815 | れんだいこ | 2010/10/03 12:51 |
【「2010最高検の現役特捜検事イモヅル逮捕事件」考その2】
ところで、前田検事のFD改竄問題は検察内部で燻り続けていたと推理される。1月下旬、村木氏の初公判直後、前田検事は同僚検事に電話で「(上村被告側へのFD返却直前の昨年7月に)データを変えてしまった可能性がある」と打ち明けている。と云うことは、FD改竄経緯が質されていたことを意味している。同僚検事3名と公判部検事1名の4名が、前田検事のやり過ぎに対し不退転の追及の姿勢を見せ始めようである。 1.30日、佐賀副部長が土曜日にも拘わらず執務室に呼び出された。女性検事を含む3人の検事が待ち受け、「前田検事はフロッピーディスクのデータを改ざんしたと聞きました。すぐに公表すべきです。公表しなければ、私は検事を辞職します」(女性検事)と迫っている。これに対し、佐賀部長は、「前田から話を聞く前に公表なんてできないだろう。きょう公表するのは村木公判はもとより、前田検事が応援中の東京の事件にも影響し、ひいては特捜組織を瓦解する」と述べている。当時、村木裁判は始まったばかりであった。データ書き換えの公表は検察の失態となりメンツが潰れることになる。佐賀副部長は臆面もなく真実より検察組織の保全を指示したことになる。この発言通りとすると、佐賀副部長の隠蔽工作責任は免れまい。 この時、前田検事は民主党の小沢前幹事長の秘書が逮捕された西松事件の応援で東京地検に出張中あった。小沢の当時の公設秘書にして衆議員であった大久保隆規を取り調べていた。その調書が公判に提出され、起訴後に大久保は調書を否認し、裁判官は信用性が低いとして採用しなかった。これが、小沢キード事件の裏舞台である。立花隆、日共、マスコミるディアは口を揃えて「政治とカネ問題に関わる小沢幹事長の政治責任」を追及しているが、こういう不正人士の前田検事が証拠集めした小沢キード事件の構図そのものがイカガワシイとするべきではなかろうか。 この時、「天の声」まで詮索され、何とかして容疑をデッチアゲせんとしたが、それもできなかった。これを検察審査会が幾度となく蒸し返している。立花隆、日共、マスコミメディアがこれを支援し続けている。バカバカしいと云うべきではなかろうか。その昔は「角栄的なるもの」、今は「小沢的なるもの」を排撃するたびに日本は悪くなる。逆は逆である。「中曽根的なるもの」、「小泉的なるもの」、今は「菅―仙石的なるもの」時代を迎えているが、お陰で日本は惨々たる状況に深のめりしつつある。今日では外交は無論、内政でさえ国際金融資本のお伺いなしには何もできないテイタラクに嵌められている。 もとへ。「前田検事による押収証拠物改竄事件」は自動回転し始めた。1.30日、大坪部長が東京に出張中の前田検事に電話し、前田検事が意図的にFDを改ざんしたことを認識したうえで「過失として処理しろ」と指示したことが確認されている。同日、佐賀副部長も前田検事に電話している。前田検事は意図的な改ざんを打ち明け、「どうしたらいいでしょう」と相談している。佐賀検事が前田検事に対して、「FDにまで触らせてしまうとは苦労掛けたな」と発言したことを上記4名の検事のうち2名が聞いていたことが明らかにされている。前田検事は最高検の調べに対し次のように供述している。「佐賀前副部長が再び電話をかけてきて『何かいい説明はないのか』と持ちかけられた。このため、『フロッピーディスクのデータ改ざんの有無を調べていたら、まちがって書き換わってしまった』という言い訳を提案すると、佐賀前副部長は『それでいくぞ』と言って了承した」。 2.1日午後4時半、佐賀副部長は、東京の前田検事に電話している。佐賀副部長の日誌説明では「パソコンの操作を間違えて、フロッピーのデータを書き換えてしまった可能性がある。(同僚に)『データを変えているかもしれない』と冗談で話した。そのことが誤解を生んでいるかもしれない」との説明が有ったとしている。随分のんびりとした話をしていることになる。 2.2日夕方、大坪部長は、玉井英明次席検事に対して「問題ありません」、「今回はミステイクでいく」との報告をしている。佐賀副部長の日誌説明では「女性検事が『証拠の改ざんを公表しろ』と言い出しトラブルになっている。前田検事に電話で聞いたところ、『操作を誤ってデータを書き換えた可能性がある』と説明している。ただ、フロッピーはもう返却してしまったので、調べようがない」と発言したと記されている。 この報告を聞き、玉井次席検事はこう怒った。「検事総長が西松事件でピリピリしている時に、女性検事は何てことを言い出すんだ」。これによると、玉井次席検事は、検察正義を愚直に追及していた女性検事を逆にドウカツしたことになる。玉井次席検事の逆ギレ責任も免れまい。いずれにせよ、「前田検事による押収証拠物改竄事件」は、2月上旬時点において当時の次席検事、検事正にも伝わっていたことになる。と云うことは、地検首脳部が事件を把握しながら放置していたことになる。と云うか組織を挙げて「最期の隠蔽工作」に向かっていたことになる。 2月頃、「前田検事のFD改竄問題」は更に問題化した。上層部の隠蔽工作に対し抵抗した有志の検事が居たことが窺われる。どの検事との遣り取りか派明らかにされていないが、前田検事は、「元係長がデータを改ざんしていないか調べていただけで書き換えは行っていない」と弁明している。同僚検事の一人が東京地検特捜部に応援に行っていた前田検事に電話をかけ、「FDは重要な証拠なのに、なぜ返却したのか」と尋ねている。前田検事は「FDに時限爆弾を仕掛けた。プロパティ(最終更新日時)を変えた」と明かしたと云う。 2.10日頃、前田検事は大阪に戻って大坪、佐賀部長らに上申書案を見せている。この経緯につき、最高検の調べによると、大坪部長、佐賀副部長は共謀して1~2月、前田容疑者が故意にFDを改ざんしたことを知りながら、2月上旬頃、前田容疑者に電話で「データ改変は過失によるものだと説明しろ」と指示している。大坪部長、佐賀副部長は、前田検事の上申書案を読んだ上で、「もっと過失だと分かりやすく書け」と指示している。 この頃、大坪部長らは、上司の小林敬検事正に「問題ない」と報告している。但し、修正後の上申書を見せず、前田検事に返却したという。前田検事はその後、この文書を廃棄し、文書の作成に使ったパソコンからも文書ファイルを削除した。最高検は押収したパソコンを詳しく調べ、削除されたファイルの復元に成功。前田検事が文書を修正していたことが裏付けられた。前田検事は「2人に故意だと説明したが、過失で処理するよう指示され、弁解を考えた」などと一連の経緯を認める供述をしていると云う。大坪部長と佐賀副部長は「過失だと認識していた」と容疑を否認していると云う。 4・27日、大阪地裁が倉沢被告の文書偽造について無罪の判決(郵便法違反罪は有罪)。5・11日、凛の会元会員、河野克史被告に懲役1年6月、執行猶予3年の判決。5.26日、村木元局長の公判で大阪地裁が大半の供述調書を証拠採用せず。6・22日、村木元局長の公判で検察側が懲役1年6月を求刑する。6.29日、村木元局長の公判が結審。9・10日、村木元局長に無罪判決下される。 「村木元局長無罪判決」は「前田検事のFD改竄問題」の責任追及に向かった。検察内で、どう処理すべきかが喧々諤々の議論となったものと思われる。その際のやり取りの詳細は分からない。結論から云えば、大坪派の責任が免れないとして事件の徹底解明に向けて断を下すことになった。 9.21日、冒頭の朝日新聞スクープ、最高検による前田検事逮捕に繋がる。関連法規は、第104条(証拠隠滅等) 他人の刑事事件に関する証拠を隠滅し、偽造し、若しくは変造し、又は偽造若しくは変造の証拠を使用した者は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する。第161条の2(電磁的記録不正作出及び供用) 人の事務処理を誤らせる目的で、その事務処理の用に供する権利、義務又は事実証明に関する電磁的記録を不正に作った者は、5年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。 マスコミメディアの報道合戦が始まった。当時の大坪部長は取材に対し、「(前田検事のフロッピーディスク(FD)書き換えについて)むちゃし過ぎだよ。質し、(最高検は)本人の話も聞かずにいきなり逮捕した。むごいことをする」と述べている。自身の容疑に対して「今、最高検の調査を受けてますので詳細はコメントできない。改ざんにかかわったわけではない。(問われるのは)監督責任だろう。元上司としての監督責任は痛感しています。改ざんの認識は絶対にない。徹底抗戦する」。当時の佐野副部長は、「逮捕はおかしい」、「供述だけであれば村木さんの時と同じだ」と全面的に争う考えを示している。 10.1日、最高検は、大阪地検特捜部の大坪弘道前部長(57、京都地検次席検事)と佐賀元明前副部長(49)が証拠改ざんの事実を知りながら、犯罪を隠蔽し告発しなかった犯人隠避の疑いで逮捕した。逮捕直前の取材に大坪前部長は、「副部長の日誌という証拠もある。来るなら来いだ」と自信を見せている。最高検は週明けにも地検の小林敬検事正、玉井英章前次席検事(現大阪高検次席検事)から事情を聴く方針。改ざん疑惑の報告を受けながら、調査しなかった理由などの説明を求めるとみられる。 10.3日、最高検は、消されていた前田容疑者の「上申書」を復元したことを明らかにした。大坪容疑者らによる改ざんの隠蔽(いんぺい)を裏付ける物証とみて重視している。 2010.10.3日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評815 | れんだいこ | 2010/10/03 20:19 |
【「2010最高検の現役特捜検事イモヅル逮捕事件」考その1】
検察制度始まって以来と思われる最高検による現役特捜検事のイモヅル式逮捕事件が発生している。検察内の前代未聞の不祥事であるが、臭いものに蓋をせず、これを公にした最高検の英断を拍手したい。これを仮に「2010最高検の現役特捜検事イモヅル逮捕事件」と命名する。検察が、ロッキード事件以来常習常套化している長年の検察不正腐敗に対しどこまで自浄能力を持つのか、やがて揉み消されるのか、その際に誰が出てくるのか、敵が誰であり味方が誰であるのか等々の関心を持ちながら見守りたい。ここで事件の流れをスケッチしておく。 2010.9.21日、朝日新聞が、朝刊社会面(34・35面)に社会部の板橋洋佳、野上英文の両記者による「検事、押収資料改ざんか 捜査見立て通りに 郵便不正」記事を載せた。厚労省の偽証明書偽造事件、村木厚労省局長逮捕事件に纏わる「前田検事による押収証拠物改竄事件」をスクープしていた。朝日新聞は、2010.2.12日付けの奥山俊宏、村山治記者による「ロッキード事件『中曽根氏がもみ消し要請』米に公文書」記事に続く超ど級の特ダネをものにしたことになる。さすがは朝日であろう。こうして新聞が頑張らんと世の中面白うない。そういう意味で、朝日の頭脳は何だかんだ云っても記者レベルでは健在で「腐ってもタイ」と云う訳か。毎日はアカンな。上層部の目がどいつもこいつも死んどるわ。こういう社を立て直すのは難しい。 朝日新聞朝刊がスクープしたこの日、最高検が、前田検事(43)を証拠隠滅容疑で逮捕した。最高検検事が主任を務め、東京地検の検事ら8人が加わる捜査チームが編成され、大阪府内の検事宅や地検の執務室を捜索した。こうして当時の村木厚労省局長を起訴した検事が逆に起訴されると云う異例の事件となった。ところで、大阪地検、高検と云えば、検察の裏金問題を告発した「三井環・元大阪高検公安部長不当逮捕事件」、「左派系言論の砦・鹿砦社社長・松岡利康不当逮捕事件」で知られている。松岡氏によれば、10.1日に逮捕された大坪検事は「5年前の第1次弾圧の指揮を執った検事」、佐賀検事は「神戸地検特別刑事部長として第2次告訴事件の捜査の指揮を執った検事」であり、「鹿砦社の祟り」と揶揄している。この事件の経緯を確認しておく。 2004.6月上旬、自称障害者団体「凛(りん)の会」(のちの白山会、東京)が、企業のDM費用を格安料金で請け負う狙いで郵便の障害者割引制資格を取得した。その際、村木局長の部下に位置する上村係長を通じて偽の証明書を偽造した。上村係長が個人的な思惑で独断でやったのか、どういう政治圧力があったのか未だ解明されていない。これを「障害者団体向け割引郵便制度悪用事件」と云う。 検察の事件構図では、上村被告は村木局長の指示に従い、村木局長の指示の裏には民主党の石井一衆議員の政治圧力が有ったとしていた。ところが、石井議員が圧力をかけたとされる日は、石井議員の日程メモではゴルフをしていたことになっている。検察は、これを崩せていない。つまり、この件でも検察の筋書きが破綻している。別説として、政治圧力の本ボシとして「小泉元首相秘書官・飯島勲ラインの圧力」が囁(ささや)かれている。ところが、検察捜査は伝統的にシオニスタン系政治家の利権活動に対してはメスを入れない。そういう訳で、こたびも端から洗われていない。 「小泉元首相秘書官・飯島勲黒幕説」は次のことから明らかである。村木裁判で、村木被告に作成の指示をしたとされる元上司らが捜査段階の供述を覆し、村木被告の関与を否定した。関係者の取り調べを担当した検事が証人として出廷し次のように証言している。「元上司は、石井一議員からの依頼で村木被告に指示したことを自ら供述した」とした上で、「(石井議員の名を挙げたのは、)小泉元総理大臣の秘書をしていた飯島勲さんに正直に話すよう言われたためと言っていた」、「但し、元上司が拒んだため調書にはしてない」と証言した。これによると、村木局長の「元上司」は飯島に指示されて、「石井一を嵌めるために嘘の供述をした」ということになる。これは検事証言である。 検察は続いて「村木厚労省局長逮捕事件」に向かう。この捜査の真の指揮者は大坪弘道大阪地検特捜部長であった。大坪部長は典型的な出世主義者として知られており、こたびも東京地検特捜部への対抗心と功名心に燃え、シオニスタン系政治家の利権活動を隠蔽する為のスケープゴートとして「石井議員―村木局長犯人シナリオ」をデッチあげ、その現場指揮を子飼いの前田検事に取らせた可能性が強い。これを請け負った前田検事も又典型的な出世主義者であり、同じ穴のムジナであったと云うことになる。 これが世に云う「検察の正義」の裏にある政治主義性である。これを思えば何事も「正義ぶる者」に対しては眉つばするのが賢明であろう。これを不審がらず、「検察の正義」を後押し続けてきた立花隆、日共、メディアマスコミの口先の何たる調法なことだろうか。れんだいこには、ロッキード事件以来の検察の負の構図が見えてくる。この観点を保持しない限り検察不義の真相が見えてこないであろう。そういう意味で今こそ、法の番人が上から法を蹂躙したロッキード事件以来の国策捜査の不正義を洗い直し、ウミを出すべきではなかろうか。こたびの最高検捜査がどこまで迫ることができるのだろうか。心もとないが見守ろうと思う。 2009.4.16日、大阪地検特捜部が郵便法違反容疑で凛の会設立者の倉沢邦夫被告らを逮捕。5.26日、大阪地検特捜部が、証拠品として上村被告の自宅からフロッピーディスク(FD)を押収。5.27日、稟議書を偽造したとして厚生労働省の上村勉係長(41歳)らを逮捕。6.14日、証明書を偽造したとして村木厚子局長ら4人を逮捕。6月末、検察がFDを印刷したデータを証拠採用した捜査報告書を作成する。7.4日、村木局長ら4人を起訴。これを仮に一括して「郵便不正事件」と命名する。事件を担当した検事は、前田恒彦主任検事(43)、高橋和男副検事(51)、牧野善憲副検事(42)、坂口英雄副検事(51)、林谷浩二検事(34)、國井弘樹検事(35)である。 検察の筋書きでは、上村被告が村木被告から証明書の不正発行を指示されたのは2004.6月上旬。上村被告が証明書を作成したのはその後という構図となっていた。ところが、上村被告の自宅から押収していたFDの最終更新日時は「04年6月1日午前1時20分06秒」であった。この期日は、検察にとって都合の悪いものだった。 7.13日頃、前田検事は、検察側の構図と合わすべくFD改竄に着手した。これを「前田検事による押収証拠物改竄事件」と云う。これを前田検事が独断でしたのか、上司との相談の上での行為であったのかは今のところ定かではない。いずれにせよ、前田検事は、1・内規違反である私用のパソコンと専用ソフトを使って、2・FDの期日を「04年6月8日」に書き換えている。この時、同僚検事に対して「爆弾を仕掛けた」と述べている。その真意は定かではない。普通には、検察にとって都合の悪いFDの期日を都合のよいように改竄し細工したと窺うべきだろう。それにしても、「爆弾を仕掛けた」の表現が穏当ではない。他の意味があるやも知れぬ。 どうであろううと、前田検事は、私用のパソコンでダウンロードしたソフトを使うと云う内規違反をしている。次に、FDの更新日時データを書き換ると云う神聖不可侵である筈の証拠物を改竄している。この二つの罪で前代未聞の不祥事に手を染めたことになる。この行為は、前田検事特有の個性、資質、能力に帰因するとみなすべきだろうか。それとも、長年の検察、警察捜査の常套手法であり今に始まったことではないとみなすべきだろうか。もし後者であれば、恐ろしいほどの精神の弛緩であり、ロッキード事件以来の不正が定向進化し、遂に来るところまで落ちたと云うことになろう。検察正義の呆れた実態暴露と云うことになろう。こたび、この不正を検察内部で採り上げ、隠すことなく徹底捜査し始めていることで多少なりとも救われるが、江戸時代なら間違いなしに「関係者一同即刻切腹もの」であろう。 ところが、前田検事がそこまで危険を冒して手を染めた改竄FDは裁判資料に採用されなかった。FD改竄3日後の7.16日、このFDは上村被告側に返却されている。これはどういうことか。改竄したFDがなぜ元に戻すことなく改竄されたままの状態で返却されたのか。これがミステリアスになっている。推測するのに、前田検事のFD改竄直後に既に検察内部で問題となったのではなかろうか。担当検事団内部で問題となったのか検事団外部の注進があったものかは定かでない。こう読み解く必要がある。 前田検事は処理に困り、上司の指示に従ったものと思われる。当初は意気揚々と「爆弾を仕掛けた」と述べていたが雲行きがオカシクなった。結果的に「大急ぎで返却」したものと思われる。FD返却の際に改竄FDを再改竄して元に戻しておけば良かったが、既に私用のパソコンと専用ソフトを使うこと自体が咎められており、それもできなかったのではなかろうかと考えられる。しかし、このことが後に正真正銘の爆弾になる。「改竄FD」がブーメランのように舞い戻り、皮肉なことに前田検事に炸裂する。その前田検事をコントロールしていた大坪部長と佐賀副部長にも炸裂する。天網恢恢疎にして漏らさずの格言通りになった。 検察の構図の誤りを鋭く指摘したのは、村木氏本人であった。現役の厚労省の局長の身にして大阪拘置所に勾留される身となった村木被告人は、屈辱の中で検察の開示証拠をチェックし、FDの文書データの最終日付けが「04年6月1日午前1時20分06秒」であることに注目した。検査側の立件では上村被告が村木氏から証明書の不正発行を指示されたのは6月上旬としている。このオカシサに気づいた村木被告人は獄中から弁護団に「日時のズレ」を指摘し、「村木厚労省局長逮捕事件」の検察筋書きそのものを破綻させ、冤罪構図を明らかにさせた。にも拘わらず、破れたシナリオを継ぎはぎしつつ暴走したのがその後の大阪地検特捜部であった。何しろ厚生労働省の現役局長を逮捕しておりメンツが掛かっている。今更引くに引けなかったものと思われる。それにしても、その不当逮捕性、冤罪を告発したのは村木被告人の頭脳であったことに脱帽させられる。厚労省の頭脳が検察の頭脳に勝ったことを意味していよう。やはり頭は良くないとイケナイと云うことになる。 2010.1.27日、村木元局長は、初公判で検察の起訴状の内容を堂々と否認した。弁護団も、弁護側冒頭陳述で、FD期日のズレを咎めて「検察側の主張は破綻している」と訴えた。裁判長がこれを認め「検察側の主張と符合しない」と指摘した。この為、検察側は捜査報告書を作成し直し、それが新たに証拠採用されると云うこれまた恐らく前代未聞の失態を演じている。 2010.10.3日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評816 | れんだいこ | 2010/10/03 20:20 |
【「2010最高検の現役特捜検事イモヅル逮捕事件」考その2】
ところで、前田検事のFD改竄問題は検察内部で燻り続けていたと推理される。1月下旬、村木氏の初公判直後、前田検事は同僚検事に電話で「(上村被告側へのFD返却直前の昨年7月に)データを変えてしまった可能性がある」と打ち明けている。と云うことは、FD改竄経緯が質されていたことを意味している。同僚検事3名と公判部検事1名の4名が、前田検事のやり過ぎに対し不退転の追及の姿勢を見せ始めたようである。 1.30日、佐賀副部長が土曜日にも拘わらず執務室に呼び出された。女性検事を含む3人の検事が待ち受け、「前田検事はフロッピーディスクのデータを改ざんしたと聞きました。すぐに公表すべきです。公表しなければ、私は検事を辞職します」(女性検事)と迫っている。これに対し、佐賀部長は、「前田から話を聞く前に公表なんてできないだろう。きょう公表するのは村木公判はもとより、前田検事が応援中の東京の事件にも影響し、ひいては特捜組織を瓦解する」と述べている。当時、村木裁判は始まったばかりであった。データ書き換えの公表は検察の失態となりメンツが潰れることになる。佐賀副部長は臆面もなく真実より検察組織の保全を指示したことになる。この発言通りとすると、佐賀副部長の隠蔽工作責任は免れまい。 この時、前田検事は民主党の小沢前幹事長の秘書が逮捕された西松事件の応援で東京地検に出張中であった。小沢の当時の公設秘書にして衆議員であった大久保隆規を取り調べていた。その調書が公判に提出され、起訴後に大久保は調書を否認し、裁判官は信用性が低いとして採用しなかった。これが、小沢キード事件の裏舞台である。立花隆、日共、マスコミメディアは口を揃えて「政治とカネ問題に関わる小沢幹事長の政治責任」を追及しているが、こういう不正人士の前田検事が証拠集めした小沢キード事件の構図そのものがイカガワシイとするべきではなかろうか。 この時、「天の声」まで詮索され、何とかして容疑をデッチアゲせんとしたが、それもできなかった。これを検察審査会が幾度となく蒸し返している。立花隆、日共、マスコミメディアがこれを支援し続けている。バカバカしいと云うべきではなかろうか。その昔は「角栄的なるもの」、今は「小沢的なるもの」を排撃するたびに日本は悪くなる。逆は逆である。「中曽根的なるもの」、「小泉的なるもの」、今は「菅―仙石的なるもの」時代を迎えているが、お陰で日本は惨々たる状況に深のめりしつつある。今日では外交は無論、内政でさえ国際金融資本のお伺いなしには何もできないテイタラクに嵌められている。 もとへ。「前田検事による押収証拠物改竄事件」は自動回転し始めた。1.30日、大坪部長が東京に出張中の前田検事に電話し、前田検事が意図的にFDを改ざんしたことを認識したうえで「過失として処理しろ」と指示したことが確認されている。同日、佐賀副部長も前田検事に電話している。前田検事は意図的な改ざんを打ち明け、「どうしたらいいでしょう」と相談している。佐賀検事が前田検事に対して、「FDにまで触らせてしまうとは苦労掛けたな」と発言したことを上記4名の検事のうち2名が聞いていたことが明らかにされている。前田検事は最高検の調べに対し次のように供述している。「佐賀前副部長が再び電話をかけてきて『何かいい説明はないのか』と持ちかけられた。このため、『フロッピーディスクのデータ改ざんの有無を調べていたら、まちがって書き換わってしまった』という言い訳を提案すると、佐賀前副部長は『それでいくぞ』と言って了承した」。 2.1日午後4時半、佐賀副部長は、東京の前田検事に電話している。佐賀副部長の日誌説明では「パソコンの操作を間違えて、フロッピーのデータを書き換えてしまった可能性がある。(同僚に)『データを変えているかもしれない』と冗談で話した。そのことが誤解を生んでいるかもしれない」との説明が有ったとしている。随分のんびりとした話をしていることになる。 2.2日夕方、大坪部長は、玉井英明次席検事に対して「問題ありません」、「今回はミステイクでいく」との報告をしている。佐賀副部長の日誌説明では「女性検事が『証拠の改ざんを公表しろ』と言い出しトラブルになっている。前田検事に電話で聞いたところ、『操作を誤ってデータを書き換えた可能性がある』と説明している。ただ、フロッピーはもう返却してしまったので、調べようがない」と発言したと記されている。 この報告を聞き、玉井次席検事はこう怒った。「検事総長が西松事件でピリピリしている時に、女性検事は何てことを言い出すんだ」。これによると、玉井次席検事は、検察正義を愚直に追及していた女性検事を逆にドウカツしたことになる。玉井次席検事の逆ギレ責任も免れまい。いずれにせよ、「前田検事による押収証拠物改竄事件」は、2月上旬時点において当時の次席検事、検事正にも伝わっていたことになる。と云うことは、地検首脳部が事件を把握しながら放置していたことになる。と云うか組織を挙げて「最期の隠蔽工作」に向かっていたことになる。 2月頃、「前田検事のFD改竄問題」は更に問題化した。上層部の隠蔽工作に対し抵抗した有志の検事が居たことが窺われる。どの検事との遣り取りかは明らかにされていないが、前田検事は、「元係長がデータを改ざんしていないか調べていただけで書き換えは行っていない」と弁明している。同僚検事の一人が東京地検特捜部に応援に行っていた前田検事に電話をかけ、「FDは重要な証拠なのに、なぜ返却したのか」と尋ねている。前田検事は「FDに時限爆弾を仕掛けた。プロパティ(最終更新日時)を変えた」と明かしたと云う。 2.10日頃、前田検事は大阪に戻って大坪、佐賀部長らに上申書案を見せている。この経緯につき、最高検の調べによると、大坪部長、佐賀副部長は共謀して1~2月、前田容疑者が故意にFDを改ざんしたことを知りながら、2月上旬頃、前田容疑者に電話で「データ改変は過失によるものだと説明しろ」と指示している。大坪部長、佐賀副部長は、前田検事の上申書案を読んだ上で、「もっと過失だと分かりやすく書け」と指示している。 この頃、大坪部長らは、上司の小林敬検事正に「問題ない」と報告している。但し、修正後の上申書を見せず、前田検事に返却したという。前田検事はその後、この文書を廃棄し、文書の作成に使ったパソコンからも文書ファイルを削除した。最高検は押収したパソコンを詳しく調べ、削除されたファイルの復元に成功。前田検事が文書を修正していたことが裏付けられた。前田検事は「2人に故意だと説明したが、過失で処理するよう指示され、弁解を考えた」などと一連の経緯を認める供述をしていると云う。大坪部長と佐賀副部長は「過失だと認識していた」と容疑を否認していると云う。 4・27日、大阪地裁が倉沢被告の文書偽造について無罪の判決(郵便法違反罪は有罪)。5・11日、凛の会元会員、河野克史被告に懲役1年6月、執行猶予3年の判決。5.26日、村木元局長の公判で大阪地裁が大半の供述調書を証拠採用せず。6・22日、村木元局長の公判で検察側が懲役1年6月を求刑する。6.29日、村木元局長の公判が結審。9・10日、村木元局長に無罪判決下される。 「村木元局長無罪判決」は「前田検事のFD改竄問題」の責任追及に向かった。検察内で、どう処理すべきかが喧々諤々の議論となったものと思われる。その際のやり取りの詳細は分からない。結論から云えば、大坪派の責任が免れないとして事件の徹底解明に向けて断を下すことになった。 9.21日、冒頭の朝日新聞スクープ、最高検による前田検事逮捕に繋がる。関連法規は、第104条(証拠隠滅等) 他人の刑事事件に関する証拠を隠滅し、偽造し、若しくは変造し、又は偽造若しくは変造の証拠を使用した者は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する。第161条の2(電磁的記録不正作出及び供用) 人の事務処理を誤らせる目的で、その事務処理の用に供する権利、義務又は事実証明に関する電磁的記録を不正に作った者は、5年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。 マスコミメディアの報道合戦が始まった。当時の大坪部長は取材に対し、「(前田検事のフロッピーディスク(FD)書き換えについて)むちゃし過ぎだよ。質し、(最高検は)本人の話も聞かずにいきなり逮捕した。むごいことをする」と述べている。自身の容疑に対して「今、最高検の調査を受けてますので詳細はコメントできない。改ざんにかかわったわけではない。(問われるのは)監督責任だろう。元上司としての監督責任は痛感しています。改ざんの認識は絶対にない。徹底抗戦する」。当時の佐野副部長は、「逮捕はおかしい」、「供述だけであれば村木さんの時と同じだ」と全面的に争う考えを示している。 10.1日、最高検は、大阪地検特捜部の大坪弘道前部長(57、京都地検次席検事)と佐賀元明前副部長(49、神戸地検特別刑事部長)が証拠改ざんの事実を知りながら、犯罪を隠蔽し告発しなかった犯人隠避の疑いで逮捕した。逮捕直前の取材に大坪前部長は、「副部長の日誌という証拠もある。来るなら来いだ」と自信を見せている。最高検は週明けにも地検の小林敬検事正、玉井英章前次席検事(現大阪高検次席検事)から事情を聴く方針。改ざん疑惑の報告を受けながら、調査しなかった理由などの説明を求めるとみられる。 10.2日、大坪容疑者と佐賀容疑者は、接見した弁護士に「全面的に争う」としていることが伝えられている。佐賀容疑者は、「検察側のストーリーに乗らず徹底抗戦する」と息巻いているとのことである。こうなるとお笑いでもある。大坂地裁の渡部市郎裁判官は同日、大坪容疑者と佐賀容疑者の拘置を認める決定をした。期限は10.11日までの10日間。最高検は、消されていた前田容疑者の「上申書」を復元したことを明らかにした。大坪容疑者らによる改ざんの隠蔽(いんぺい)を裏付ける物証とみて重視している。 2010.10.3日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評817 | れんだいこ | 2010/10/05 12:21 |
【検察審査会決定に対する異議訴訟考】 2010.10.4日、東京第5検察審査会(検審)の「起訴議決」が公表され、小沢氏に対する強制起訴が決まった。この議決は既に民主党代表選当日の9.14日に行われていたという。それを10.4日に公表した理由は何なのだろうか。不自然に明朗ではない。 思えば、検察審査会は疑惑まみれである。どういう人選で、どういう審査が行われ、採決されたのか、その経緯が一切明らかにされない。政局がらみでの利用性で際立つ押尾事件の大アマに比して小沢事件のしつこさが際立つ。検察審査会制、裁判員制の悪用は、検察機構の腐敗と並んで「もう一つの司法危機」ではなかろうか。 れんだいこは、両制度運用に於ける異議申し立て制を考案しなければ魔女狩りの危険性が強いと考える。こたびの東京第5検察審査会(検審)の起訴議決に対する異議訴訟ができるのだろうか。できないのであれば検察審査会の存立に関わる制度的欠陥と云わざるを得ない。できるのであれば誰か直ぐにでも訴訟して欲しい。東京第5検察審査会の不正が忽ちのうちに晒されよう。 さて、現代の稀なる有能政治家「小沢どん」に対する執拗なイヤガラセが続いている。これをどう処理すべきか。れんだいこは、この間の小沢氏に対する政治訴追の動きを「小沢訴追政変」と命名したい。ロッキード事件と構図が相似しているので「小沢キード事件」とも云い換えることもできよう。例によって自民党から共産党までの翼参体制、マスコミメディアの言論大砲が敷かれている。次第に誰の目にも粗暴さを際立たせつつあり却って滑稽でさえある。ロッキード事件以降、この連中が日本政界を牛耳っており、彼らが牛耳って以来の日本は国運的に奈落の底へ転がりつつある。今日では中国はおろか韓国にも馬鹿にされつつある。ワシントンの腰巾着政治に耽り続けるサガのもたらしたものでありトガであろう。 ところで、「10.4東京第5検察審査会(検審)の起訴議決公表日の怪」を考察せねばなるまい。れんだいこは、目下進行しつつある大阪地検特捜部の前田、大坪、佐賀検事の週明けからの本格取り調べに対する牽制ではなかろうかと推理している。検察は今、長年のウミを出そうとしている。トカゲの尻尾切りに終わるのか更に上層部まで及ぶのかは別にして不退転の取組みを開始している。 これは当然、「小沢訴追政変」に対する不正義性解明にも向かうことになる。前田検事が当時の小沢秘書の石川衆議員の取り調べに当たっており、検察スト―リ―調書を取っていることでも明らかである。東京第5検察審査会(検審)の起訴議決の「「10.4公表」は、この流れに対する牽制、ドウカツではなかろうか。この裏に、現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義の圧力がある。通りで前田、大坪、佐賀検事が威猛々しい筈である。してみれば、最高検はシンドイ闘いに挑んでいることになる。しかしながら、こたびは明々白々たる証拠物改竄であり、法の正義の観点から押し切れる筈である。何を臆することがあろう。 れんだいこはもう敵の暴挙に対する逐一批判には飽いた。キリがない。逆攻勢で、こちら側の論理論法見たてを常時プロパガンダして行きたい。そういうメディアの創出に向かわない限り批判が批判に止まってしまう。誰かウェブテレビ、新聞、政論誌を開設発刊して貰えないだろうか。何度も発信しているが、この空間、磁場に四六時中浸りたい。我々の日々の労働意欲にも関係しよう。朝夕のツマラナイクダラナイ、テレビ評論聞かなくて済む。うちのカミさんなどは、れんだいこの評論の方がいつも面白いと聞いてくれてる。これをお茶の間に届けたい届けさせてくれ。 今日の新聞社説のように各社一斉の同調文を読むのは辛い。何とまぁソックリさんであることか。こうなると共通の下敷き原稿があるとしか考えられない。これを確認しておく。 読売新聞の大見出しは、検察審再議決 小沢氏「起訴」の結論は重い。小見出しは、検察の捜査は「不十分」、説明責任も果たさず、民主の自浄能力に疑問。毎日新聞の大見出しは、検審「起訴議決」 小沢氏は自ら身を引け。小見出しは、「市民」の疑問の表れ、党の自浄能力問われる。産経新聞の大見出しは、小沢氏強制起訴へ 潔く議員辞職すべきだ 「形式捜査」検察はどう応える。小見出しは、重い「市民」の判断、民主は自浄能力示せ。朝日新聞の大見出しは、小沢氏起訴へ―自ら議員辞職の決断を。日経新聞の大見出しは、検察の特別扱い疑った検察審査会。東京新聞の大見出しは、小沢氏強制起訴 法廷判断を求めた市民。 どうだろう。1・小沢の議員辞職、2・市民判断を尊重せよ、3・民主の自浄能力に期待するの三点セットになっている。こういう方向以外には書いてはいけないと云う達しでもあるのだろう。れんだいこは、これに手を染めた社説士の論説責任を問いたい。1・退職、2・釈明、3・各新聞社の自浄能力に期待したい。 2010.10.5日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評818 | れんだいこ | 2010/10/05 21:38 |
【日共の「小沢訴追政変」対応考】 日共の1010.10.5日付け赤旗主張「小沢氏強制起訴 国民参加した検審の重い判断」を論評しておく。 (ttp://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-10-05/2010100501_05_1.html) 日共は、「小沢氏強制起訴 国民参加した検審の重い判断」の見出し、「疑惑にこたえる責任」、「政治的道義的責任を」の小見出しで次のように述べている。昨日のカンテラ時評817の「検察審査会決定に対する異議訴訟考」で確認したが各新聞社の社説が奇妙に一致しており、何と日共の見解も寸分違わぬものとなっている。これは偶然だろうか。れんだいこには気持が悪い。 日共は、検察審査会制を手放しで礼賛して次のように述べている。「検察が起訴しなかった事件でも、国民が参加する検察審査会が2回起訴すべきだと決めれば裁判にかけることができる―国民参加が強められた検察審査会の制度を使って、政治資金規正法違反の疑いがもたれた小沢一郎民主党元幹事長の起訴が決まりました。国民が参加した司法の手続きの重い判断です」、「司法改革の一環で、従来起訴するかどうかの権利を独占してきた検察がたとえ不起訴と決めても、一般の有権者が参加する検察審査会が起訴相当と判断し、それでも検察が起訴しない場合は検察審査会が再度起訴相当と決めれば起訴できることになりました。昨年5月の施行以来、これまでに兵庫県明石市の歩道橋事故やJR福知山線の脱線事故で検察審査会の決定により起訴が決まっていますが、小沢氏の起訴は国民の関心の高さからいっても、きわめて重要な意義を持ちます」。 はたして、検察審査会制をこのように位置づけて良いものだろうか。裁判員制度も然りであるが、あくまでも「検察の手余り」的機能を持つ制度であって、検察並の権力を期待するのは危険とすべきではなかろうか。「免責証言」などもそうであるが、「真実の探求」に向けて機能させるべきものであって「不真実の免責証言」によって政敵追放の道具として使うことなぞ絶対あってはならないとすべきではなかろうか。現実にはそのように使われており、正義の為に使われることなぞ滅多にない。日共論法こそ独裁機関に道を開くご都合主義論法論理ではなかろうか。言葉はですます調で柔らかいが、この党が本質的に何も反省していないことが分かる。 日共は、小沢どんをどうしても政治訴追したいらしく次のように述べている。「法廷の場で追及されることになった小沢氏には、検察が起訴しなかったから潔白だなどという言い逃れは、もはや通用しません。小沢氏の疑惑を調査してこなかった、民主党の責任も重大です」、「東京地検特捜部は小沢氏を嫌疑不十分で不起訴としたため、東京第5検察審査会はことし4月起訴相当と議決しました。特捜部はそれでも起訴しなかったため、メンバーを一新した審査会が再度、起訴を決めたものです。検察は、元秘書の供述では小沢氏の共謀を立証することが困難としましたが、検察審査会は元秘書らの供述の信用性が認められると判断し、共謀を認めました。犯罪の疑いがある場合、公開の裁判で有罪か無罪か決めるべきだという検察審査会の決定は、国民からみて当然の立場です」。 こういう日共論法的検察審査会制、裁判員制、免責証言制の三点セットを押し進めれば究極的に人民裁判のようなものなものになり、得手勝手に反革命の烙印を押してはギロチンにかけることができるのではなかろうか。この党が本質的に何も反省していないことが分かる。 日共は、説明責任ありとして次のように述べている。「検察審査会で起訴が決まった以上、小沢氏が裁判を待つまでもなくみずからの疑惑にこたえ、政治的道義的責任を明確にするのは当然です。国会の政治倫理綱領では、疑惑を抱かれた議員はみずから疑惑にこたえ、国民の前に説明するよう求めています。にもかかわらず小沢氏は、みずからにかかわるこの事件について、一度も国会で説明したことがありません」、「まだ逃げ回るなら、小沢氏も小沢氏が所属する民主党も、国民に決定的に追い詰められるのを免れません」。 日共よ、よくぞ言ってくれた。れんだいこが云い換えておく。「宮顕が裁判を待つまでもなくみずからの疑惑にこたえ、政治的道義的責任を明確にするのは当然です。国会の政治倫理綱領では、疑惑を抱かれた議員はみずから疑惑にこたえ、国民の前に説明するよう求めています。にもかかわらず宮顕は、みずからにかかわるこの事件について、一度も国会で説明したことがありません」、「戦後の共産党のトップとして長らく君臨し続けた宮顕の戦前党中央委員査問致死事件に対して、まだ逃げ回るなら、彼をを最高責任者として居座り続けさせて来た共産党も、国民に決定的に追い詰められるのを免れません」。 2010.10.5日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評819 | れんだいこ | 2010/10/06 21:01 |
【東京第5検察審査会決定無効論】
2010.10.6日付け読売新聞は、「代表選当日の小沢氏審査、『議論煮詰まり』議決」記事を発信している。これは読売のヒットである。朝日ばかりにスクープされたのでは口惜しいと云う気持ちがあるのだろう。こうなると、それにしても毎日がアカンな。テレビに出て調子こいて満足と云う手あいばかりが上にいたらオワと云うことだな。 (ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101006-00000087-yom-soci) それによれば、こたびの東京第5検察審査会による小沢どん起訴議決の裏で、審査補助員を務めた吉田繁実弁護士が結論をリードしたんだと。小沢どんの容疑は、「政治資金規制法」に絡む政治資金収支報告書の「虚偽記載」であるが、吉田弁護士は、11人の市民審査員が法律に疎いことに乗じて、刑事事件である暴力団組長が組員の銃砲刀剣類所持に絡んで責任を問われた事件を例にして「小沢どん有責」議決へ誘導したと云う。第一回「起訴相当」議決を担当した審査補助員・米澤敏雄弁護士も同様の誘導を図り批判されている。性懲りもなく吉田繁実弁護士も同じ手を使ったことになる。闇勢力が何としてでも「小沢どんの政治的威力を殺ぐ狙いを持って」次から次へと執拗に工作していることが分かる。 こういうところで「共謀罪」が登場していることに注目せねばなるまい。既に暴力団対策として部分的に採り入れられているが、全面的な採用までには至っていない。小泉政権時代、個人情報保護法案と共に導入されようとしていた経緯がある。「共謀罪」が独り歩きし始めると、「暴力団の次に政治家、政治家の次に誰それ、その次に国民」がターゲットにされるとして成立しなかった。こたびの経緯を見れば、成立していようがいまいが適用されていることになる。「著作権の独り歩き」と同じである。ドイツのように法の番人が健全であれば無効とするところであろうが上から法破りする例を見せ続けている折柄、正論は通らない。 読売記事によると、東京第5検察審査会が小沢氏を「起訴すべきだ」と議決するまでの経緯は次の通りである。11人の審査員たちは、お盆休みのある8月中は隔週でしか集まれなかったが、9月に入ってからは、平日に頻繁に集まり審査を行った。9月上旬、検察官の意見聴取を行った。意見聴取では、東京地検特捜部の斎藤隆博副部長が「元秘書らの供述だけでは、小沢氏と元秘書らとの共謀の成立を認めるのは難しい。有罪を取るには、慎重に証拠を検討することが必要です」などと述べ法治主義の原則を説いた。 これに対し、審査員に法律的な助言をする審査補助員を務めた吉田繁実弁護士は、11人の審査員に対して、小沢どんを暴力団の組長と同じに見立てて、配下の組員が銃器を不法に所持した場合でも、使用者責任で「共謀」容疑で逮捕・起訴・有罪にした事例を示し、「暴力団や政治家という違いは考えずに、上下関係で判断して下さい」と結論を誘導した。これが効いたのか元々反小沢で雇われている腹に一物持つ審査員故にか、起訴議決を採決した。 この日は、よりによって民主党代表選当日の9月14日だった。第5審査会の定例の審査日は毎週火曜日で、民主党代表選日が偶然にも審査日にあたっていた。この日に議決を出すことが予定されていたわけではなかったが、議長役を務める審査会長が審査中に「議決を取りますか。それとも先に延ばしますか」と提案した。審査員らから「議論は煮詰まった」との声が上がり議決を出すことになった。多数決の結果、起訴議決が出たのは午後3時頃。代表選で開票の結果、小沢氏 の落選が決まったのは、その約30分後だった。 こういう経緯のものであれば、共産党が健全であれば、この動きを阻止する為の論陣を張るのが筋であろう。だがイケナイ。衆知の通り共産党は日共に変質しており、その日共はかってのように冤罪支援するのではなく、検察側に与して容疑者を逸早く犯人扱いし、刑事被告人として訴追運動することを得手とし始めている。既に現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義に裏から奉仕するサヨ政党化している。従って、商業新聞(昔はブル新と云ったものだが)と口を揃えて政局の節目節目でエージェントとして暗躍することになる。角栄がヤラレ、真紀子がヤラレ、宗男がヤラレ、小沢どんがヤラレようとしている。その他その他の例を挙げればキリがない。皆、日本政治上有能な日本思いの政治家であったことで共通している。 れんだいこは、十年前から「共産党の変質問題」を指摘し、その根本原因として「戦前党中央委委員査問致死」(いわゆるリンチ殺人事件)に於ける居直りがガンになっていることを解析している。本にして出版すれば良いのだが、まだオファーが来ていない。引き受け手がないのだろうか。そのうち自費出版しようと思う。それはともかく、今日なお日共弁明を信じて「査問致死されたのはスパイ」、「死因は急性心臓マヒ」、「事件は解決済み」としている者が多い。真相は違う。真実は、「査問致死させられたのは党内最後の労働者派の中央委員であり、摘発した宮顕派こそ真正のスパイグループ」、「死因は抑え込みによる圧殺死であり、主犯は柔道技で抑え込んだ宮顕」、「事件は解決済みどころか応急的な不問措置に過ぎず、解明の日が待たれている」、「殺された小畑氏及び遺族に対して冤罪証明せねばならない党的責任を抱えている」。 共産党が真っ当なら、これが採るべき態度である。事実、戦後直後の共産党を指導した徳球は、この事件に関して「やり過ぎ」であり、日本左派運動には無縁な査問手法であり、第一殺された小畑がスパイであったとする証拠がどこにあるとして宮顕派を批判している。史実は、こういう観点を持つ徳球派が、「50年代武装闘争の失敗責任」を取らされる形で失脚させられ、党中央が宮顕派に奪権され、以降、この系の党中央が今日まで続いている。同一系執行部が延々と1955年以来今日まで何と50年にわたって党中央のイスを温めている。しかも汚い手を使って。 こんな党はどこにもありはしない。これを独裁と云わずして何と言おうか。この間、似せようとしても似つかぬ共産党即ち日共ができあがり、そのことを認めた部分から順に人民大衆の支持を失い今日の衰退に至っている。先だっての参院選ではあらゆる指標で後退し、得意の詭弁も使うに使えなかった。これを真摯に反省することなく、相変わらず政局の肝心なところで決まって反革命に勤しんでいる。日本人民大衆の不幸がここにある。 これを打破する左派運動として新左翼が生まれたが今日ある通りであり無力のまま推移している。それもその筈で、「徳球対宮顕の共産党内政変」に於いて宮顕を支持する系譜の者が新左翼を創出していると云う因果関係がある。彼らは宮顕を批判するが、徳球となるともっと悪しざまに態度を硬化させる。そういう能力では所詮今日的なものにしかなるまい、と云うのがれんだいこの見立てだ。日本左派運動には、こういう課題が横たわっている。誰かもつれた糸を紐解き、共に出藍せんか。 2010.10.5日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評820 | れんだいこ | 2010/10/07 18:51 |
【日共の当局裏御用路線を弾劾せよ】 2010.10.6日、日共の機関紙赤旗は、「小沢氏の証人喚問要求 野党6党」と題して、小沢どんの証人喚問を要求する記事を掲載している。それによると、10.5日、日本共産党など野党7党が国会内で国対委員長会談を開き、社民党を除く6党が、検察審査会の起訴議決により強制起訴されることになった小沢元民主党幹事長の証人喚問を要求することで一致した。社民党は党内で結論が出ていないとして留保した。 (ttp://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-10-07/2010100702_01_1.html) 日共の穀田恵二国対委員長は会談で次のように発言している。「強制起訴されることになったことは極めて重大なことであり、偽証が許されない証人喚問しかない」、「問題の核心は4億円の土地購入原資の疑惑だ。ゼネコンからのヤミ献金ではないか、国民の税金の還流ではないのかという疑いがある。さらに東北地方を中心に公共事業受注に『天の声』を出していたのではないかなど『政治とカネ』をめぐる数々の疑惑がある。しかし、小沢氏は国会で何も語っていない」、「国会には真相究明と政治的道義的責任を明らかにする責任がある」、「民主党の責任は極めて重大だ。証人喚問に対して民主党がどういう態度をとるのかが問われてくる」。 日共のこの動きを見よ。政権交代前、あらゆる選挙区で供託金没収を意に介せず死に票候補を立て自公政権に裏協力していた正体がまざまざと蘇る話ではなかろうか。日共と自公の親密さは昨日今日に始まったものではない。自公共協定により日本の政治改革は30年遅れた。政権交代後の民主党政権のブザマさを見れば、どうでも良いことのようにも思えるが、小沢政権創出を企図する側から見れば、一貫して執拗な阻止連合が組まれていることになる。誰が味方で敵であるのかが透けて見えてくる。 れんだいこは、このブログで日共の邪悪な活動の足を止めようと思う。このブログにも拘わらず相変わらず自公共活動に勤しむのなら更に支持を失うことになろう。党中央がどちらを採るのか、党員がどう反応するのか興味を持って見守りたい。れんだいこは既に指摘しているが、小沢どん問題に限らず日共だけには「証人喚問請求」をしてもらいたくない。それを云う資格がない党であるから。それを云うなら、日共はまず自前の問題である「宮顕リンチ致死事件」を解決してからでなければならない。 れんだいこがこのことを指摘した時点では宮顕は生存していた。今は逝去してしまった。歴史に宿題を残したままとなっている。ならば、宮顕生存中、宮顕を擁護し続けてきた党中央が責任を引き継ぎ、証人喚問に応じて事件を検証すべきであろう。これが筋であろう。この問題を不問にしたまま正義ヅラして「小沢どんの証人喚問」にしゃかりきになっている姿は滑稽では済まされない。断じて許し難いものである。 この問題は、国会で宙に浮いたまま宿題になって今日に至っている。これを確認しておく。丁度、ロッキード事件が勃発する1976.2月の前年末からロッキード事件勃発の間際まで、国会は「宮顕リンチ致死事件問題」で荒れ揺れていた。ハマコー発言あり、立花研究あり、続々と「宮顕リンチ致死事件問題」に於ける新資料が発表されつつあった。民社党の春日一幸委員長、塚本三郎書記長が国会で鋭く追及し、法務局見解も「宮顕の釈放過程の疑義」に対して不可解として判断留保とするなど、これからの解明が待たれていた。自民党も特別調査委員会を発足させ、この事件の解明に本格的に乗り出そうとしていた。 このタイミングで、偶然か仕組まれてか判然としないが俄かにロッキード事件が勃発し、国会と世間の喧騒はロッキード事件に移って行った。当の疑惑の本人であった宮顕がしゃしゃり出てきて、音頭を取るようにして田中角栄の政治訴追運動に乗り出して行った。これを訝る者は居なかった。マスコミメディアがこの流れを後押しした。そういう経緯で不自然にも棚上げされたまま今日に至っている。この経緯は、れんだいこが捏造しているのではない歴史を検証すれば分かる本当の話である。 日共は「宮顕リンチ致死事件」を解決済みとして居直り、返す刀でロッキード事件より以降、国際金融資本が指示する政治家の訴追運動に乗り出して今日に至っている。これを理論的にやるのではない。得体の知れないリーク情報とスキャンダル暴露を得手とする胡散臭い手法で刑事被告人棒を振り回す癖を持つ。これを左からやるので影響力を持つ。専ら、戦後政治の二大抗争軸におけるハト派対タカ派の政争に於いてハト派系政治家叩きに狂奔する。こたび、小沢キード事件と云う順目になっている。 このふてぶてしさは異様ではなかろうか。れんだいこは、「宮顕リンチ致死事件」の致命的なアキレスけんが政治主義的に利用され、現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義の下僕として働かせられている気がしてならない。日共がロッキード事件、小沢キード事件でしゃかりきになるよう強請(ゆす)られていると見る。実際には元々が同じ穴のムジナとして自ら好んで応じているのであろうが、構図上はそうなる。この不正こそ、早急に解決せねばならない政治問題ではなかろうか。 要するに日共はニセ左翼であり、こういうものが左翼だとして活動していることにより左翼の信用がなくなり値打ちが毀損させられている。今では毀損させられてしまっている。こういう構図を踏まえねばならないのではなかろうか。日共は政治勢力としては既に小さいので看過してもよさそうではあるが、れんだいこはそうは思わない。戦前来の正義の党としてのイメージが有り、そのイメージによる影響力は小さくないと考える。次第に「現在の共産党は昔の共産党ではない」とする疑惑が広がりつつあるが、まだ一定の影響力を持っている。そういう意味で、党ではなく党中央を叩く為に、草葉の左派人士の霊に応える為に、この一文をものしておく。 2010.10.7日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評821 | れんだいこ | 2010/10/09 17:05 |
【菅式雇用論の空疎性考】
菅首相の雇用万能論の空疎性を問題にしたい。こういう政論が流行らないが、政治評論は常に政論を基軸とするべきではなかろうか。実証的に書きあげると指数を増すばかりとなるので、結論的に断じて見たい。 菅派はいま頻りに雇用万能論を唱え、補正予算まで宛がおうとしている。それは子供手当同様に底なし沼に落ち込む邪道な政策ではなかろうか。結局、財源不足論に戻り、消費税を始めその他の間接税や公共料金の負担増に道を開くばかりとなるのではなかろうか。既に「社会福祉目的の為の増税論」の合唱が始まっている。しかし、増税をすれば、我々の個人生活ばかりでなく、企業活動が更に窮地に追い込まれる。新たな企業倒産、失業が生まれ、やがて税収不足となる。それを雇用万能論で補填し、更に「社会福祉目的の為の増税論」が持ち上がる。この繰り返しとなるのではなかろうか。 この間、日中、日ソ、日韓、日朝の外交的危機が仕掛けられ、軍事防衛費が湯水のごとく垂れ流され続ける。アメリカが風邪をひいた、咳込んだと云っては支援策を講ずる。日本外交はアメリカ外交の手足となって海外支援金を注ぎ込まされる。自衛隊が常時出動させられ、次第に前線で戦闘化する。新たな要請が生まれ更に引き込まれる。こうして、当初「社会福祉目的の為の増税」であったものが間接的的に流用される。既に何度も見てきたことである。 我々は、この構図全体がオカシイことに気づくべきではなかろうか。この構図は、1980年代初頭、中曽根政権と共に始まり定式化されたものである。いわゆる大国責任論が唱えられ、国債が刷りまくられた。以降、歴代自民党政権の下で消費税が導入され、本質的にどうでも良いところに予算が使われ、必要な事業が抑制され始めた。政策が、有り得てならないことであるが或る邪悪な目的を持って「経済がうまく廻らないように施策され」始めた。既に二十年余の不況が続いているが、国策不況と云うべきではなかろうか。この間、あらゆる業界の大企業が統合され、その挙句に経営権が外資に乗っ取られている。銀行、証券、生保、損保の例は如何にも国際金融資本の得意の分野であり、日本のそれらの業界が軍門に下ったことを意味しよう。 この間、中小零細企業が倒産を余儀なくされ、或いは国内から海外への転出を余儀なくされている。この原因は何も法人税だけの問題ではなかろう。経営が成り立たないように環境づくりされていることを見据えての企業側の対応策であり、原因は国策不況政策に求められるべきであろう。国際金融資本御用系評論家は、法人税問題を理由としているが、そう云わされているに過ぎない。そういう目で見れば、どいつもこいつも阿呆ヅラしている。 以上は批判である。批判だけでは評論家の域を出ず役に立たないので処方箋を講じたい。れんだいこは、国際金融資本のシナリオに乗る形での景気対策を信用しないので、歴史の中から日本的な叡智を見出したい。ようやく見つけたのが、上杉鷹山、山田方谷、二宮尊徳、大原幽学、池田隼人、田中角栄ラインの施策である。共通して、外治よりも内治を重視し、公共事業を振興させ、中小零細企業を保護育成させている。官民一体の地域経済圏構想を打ち出している。大企業は自力で生き延びて行く資金も知恵もあるので、主眼をむしろ中小零細企業の保護育成に置いている。そして次世代社会の目的に添う新興企業の創出、成長に加勢している。この間、金融機関が旺盛な貸し付けで裏支えしている。教育を重視し、公務員の能力と見識を養い、政治が国家百年の計に誤りのないよう未来を指針させている。 廻り道なようでも、こうすることで雇用が確保され、或いは新規需要増で人手不足となり、結果的に良い方に景気循環する。政治がわざわざ雇用対策費を組む必要もなくなる。企業の経営環境を悪くし、事業を成り立たせないようにしながら、その裏で雇用補助するなどは対症療法と云うよりも悪質なマッチポンプ策に過ぎない。菅政権の雇用万能論は、仕掛けられた国策不況策に悪乗りした形で振りまかれており、政治ピエロと云うしかない。ここに菅政権の能力と悪意を見て取るべきではなかろうか。菅首相は前原―岡田―仙石―枝野ラインを重用しているが、彼らは極悪のシオニスタンであり、日本政治の為にではなく国際金融資本の御用聞き政治に勤しむことを使命としている。菅首相の政治責任は明らかであろう。と云うか、菅こそ長年育成されてきた小泉の次の玉なのであろう。 目下の政治状況を以上のように捉えることができるのではなかろうか。我々の小沢政治待望論は、こうした国策不況政治からの脱出、転換にある。個々の政策においては小沢式政治に意見、異見を持つが、日本の再生は小沢政権を通してしか始まらない。我々はそう読んだ上で待望している。これを逆に云えば、日本経済に巣くう吸血鬼はそれ故に反対派の巨隗である小沢に対する大包囲網を敷く。連中は、日本から吸うだけ吸って次は中国次はどこそこと別天地を選び出す。こういう習性を持つ。 我が日本は、そうはさせじと不退転の逆訴追運動に乗り出すべきではなかろうか。そういう意味で政治は常に権益闘争である。階級闘争論はこの闘争に於いて位置づけられるべきであり、この視点を欠く何の吟味もないままの階級闘争論は空疎でしかない。この辺りマルクス主義者の猛省を促したい。 2010.10.9日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評822 | れんだいこ | 2010/10/11 01:24 |
【依田九段の政治感性の良さを激賞する】
依田九段のホームページ「依田塾」の2010.10.8日付けブログ「小沢さんがとてもいい碁を打たれていた」を興味深く読ませて貰った。それによると、依田紀基九段は、10.7日、とあるホテルの囲碁サロンで小沢どんと碁を打ったとのことである。手合割りは小沢どんの先で30目コミもらい。結果は、「僕が2目負けました(白の盤面28目勝ち)」。「小沢さんがとてもいい碁を打たれていたので、うれしく思いました。発想の次元が変わってきた感じです」と評している。 碁を打たない者には分かるまいが実に味わい深い。小沢どんが目下政界随一の囲碁の打ち手であることは知られている。いつの日だったか、そう昔ではない確か2、3年前、当時の小沢民主党代表は、自民党の№与謝野確か財務大臣と手合わせし、小沢どんが勝った。碁好きの間で話題になった。 その小沢どんの棋力や如何にと云うことになるが、確かバリバリの女性プロ(名前なんだったっけ)と3子で打ち、確か小沢どんが勝っている。記憶が定かでないが、負けたとしても良い内容だったとちょっとした噂になった。 れんだいこはなぜ興味を持つか。それは、れんだいこが碁が好きだからである。当方の棋力は恐らく5段。ヤフー囲碁の点数で2200――2300辺りに位置している。一度小沢どんと手合わせ願いたいと思っているが、依田九段と「先で30目コミもらい」、「プロと3子の手合い」となると、小沢どんの方がかなり強いと云うことになる。れんだいこなら「プロと4子、5子、6子の手合い」となるからである。或る人に聞くと「プロと4子はきつい」と云うことなので「5子、6子の手合い」になるのかも知れない。甘い、もっとキツイと云われるかも知れない。 それはさておき、れんだいこが云いたいことは、一事万事の原則で、囲碁に於ける能力はほぼ政治における能力にハーモニーしていると云うことである。と云うことは、小沢どんがアマチュアとしては最高峯に位置している囲碁頭脳で政治を処理していることが分かり、それが嬉しいと云うことになる。これを逆に云えば、囲碁頭脳でヘボいものが政治を牛耳ったり、小沢どんを極悪非道人呼ばわりしている政治屋ばかりが調子こいているのがサブいということになる。 朝日の例の「口アングリ」社説士が碁を打つのか打たないのか分からないが、恐らく打てても大した棋力ではあるまい。文意で、れんだいこには分かる。一事万事の原則で、他の比較でも良い何か一つでもアマチュアの最高峯的なものを持っているのかと云う問いになるが、恐らく大したものを持つまい。そういう手合いが、小沢どんを訴追して正義ヅラしていることになる。何とも不快である。これが云いたかった。 もとへ。小沢どんの碁を「小沢さんがとてもいい碁を打たれていたので、うれしく思いました。発想の次元が変わってきた感じです」と褒めた依田九段の言は凄い。プロがこういう表現をする時、これは極上の褒め言葉である。小沢どんの碁の感性を通して政治の感性に信を置いていることになる。両者のこの読み合いが凄いと思う。 思えば、世が狂うと、プロの歌手がオンチから音楽指導され、横綱が幕下に相撲論を聞かされるハメになる。この狂いを何とかしたいと思っているのが、日本人民大衆の声なき声ではなかろうか。前田検事の証拠物改竄不正を辞職を賭けて告発した検事も、この狂いの是正を求めて許し難しとしたのではなかろうか。こういう声とか力が強まることを願う。これが云いたかった。 オチは定番の日共批判。こういう狂いを直すのが共産党かと思っていたら、今日びの共産党はこういう狂いをますます強める方向で正義ヅラして猫なで声する。実に気持ちが悪い。領土論も然りで、右翼も顔負けカタナシの全千島返還論を唱えて平然としている。当事国共同統治論を生みだすでもなく、ご都合主義的な論法で日本領土論を聞かせてくれる。共産党と思うから怪しさが見えてこないだけで、本質的に超右翼のサヨだと思ったら解ける。れんだいこは、こういうウソまみれの赤仮面が我慢ならない。生き方として一番下等だと思う。 2010.10.11日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評823 | れんだいこ | 2010/10/11 18:47 |
【小沢どんの囲碁能力と政治能力の話】 今日、碁会所で小沢どんの囲碁の腕を確認して見た。プロに「先で30目貰い」の手合いは4子局に相当する。女流№1の謝に3子局で勝った碁を見た人は、強いよ。しっかりした良い碁を打つ。政治では剛腕と云われるけど碁はむしろ踊らない着実な石の運びをするとの評。れんだいこと小沢どんの手合いを聞くと、「あなたが先、又は二子」とのことであった。ちょっとムッとしたんだ。小沢どんと謝女流の碁を見れば、れんだいこ自身で判断つくが見損なってしまった。見たいなぁ。 それはともかく、れんだいこは、囲碁、将棋を特別に高く評価しており、国威の先取りバロメーターとしている。そういう意味で、目下の日本のプロが韓国に負け、中国に負け、台湾と背比べ、北朝鮮よりは強いと云う順列は明日の日本の経済力を象徴していると読む。もっとも、年々行われるので、日本の復活があるやもしれない。これは、高校選手権、大学選手権、国際大学選手権の順位でも裏付けられる。囲碁に強い学校が不思議と世間で云うところの名門校と合致している。と云うことは、なるほど個人のゲームであるが、不思議と選手を神輿に乗せている台のゲームでもあると云うことではなかろうか。 それはともかく、小沢どんの囲碁能力はもっと高く評価されて良い。反動勢力が、何とかして政治訴追、議員辞職まで追い込もうとしているが、囲碁の低段級者に高段者が囲碁論で説教されているようで、何ともはがゆい。或いはマナーが悪い者が、それほどでもない者を掴まえてマナー講義しているようでうざい。昔、働き盛りの角栄を公判でハガイジメさせたことにより今日の日本を招いているが、二の舞を感じる。それが狙いなのだろう。 それはともかく、小沢どんが師の角栄を超えているとしたら囲碁、将棋の世界ではなかろうか。れんだいこは、角栄の将棋の話は聞いているが囲碁は聞かない。角栄がせめて囲碁を打つ余裕とか嗜みがあれば良かったのにと惜しむ。角栄の書は筋が良かったらしい。書道家が褒めたと云う。文も川端康成が品があると絶賛したと云う。角栄は文章を書くのも得意で、所信表明演説の草稿は角栄自身が書きあげ演説している。こういう首相はなかなか出てこない。立花―日共的諸悪の元凶論からほど遠い話ばかりである。 それはともかく、今後の政局は外治で親米反中外交、内治で財政悪化を基調とする思い付きバラマキ政策が続きそうである。自公から民主になってみたが何にも変わらない。その筈で、有料道路の原則無料化が無惨にも足踏みさせられている。郵政再改革も遠のきつつある。これは国策不作為であって意図的故意のものである。口では景気対策を云いながら実際には役た立たないものばかりの逆施策する背反政治を見せつけられることになろう。我々は何とかして自力更生で生きて行かなければならない。政治の甘さと惨(むご)さを教えられる今日この頃である。 2010.10.11日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評824 | れんだいこ | 2010/10/13 00:56 |
【囲碁の能力と政治能力の話】 小沢どんが政界1位の囲碁の実力者であることが分かった。このことが政治能力とどう関係するのだろうか。これを愚考する。いつか論じて見たいことであったので、一気に思いを吐いてみたい。 囲碁能力と政治能力の関係をあんまり関係ないと見る人もいるだろう。れんだいこは違うと思う。見解の相違ではなく間違いだと云いたい。囲碁能力と政治能力は大いに関係する。こう見立てたい。もっとも、囲碁だけではない。将棋でもスポーツでも趣味でも何でもよい。一芸に秀でることと政治能力は大いに関係すると見る。 なぜなら、一芸に費やす脳活動と政治活動の脳活動は同じ脳を使うからである。この場合、一芸脳を余興脳、政治脳を本職脳と云い換えることもできる。れんだいこは、余興脳と本職脳は大いに関係すると見立てる。つまり、余興脳で優秀な者は本職脳でも優秀、本職脳で優秀な者は余興脳でも優秀だと思う。これが普通の理解ではなかろうか。 本職脳で優秀なのに余興脳は中級、低級とすれば、本職脳が本当は優秀でないか、本職脳を使い過ぎて余興脳に単に関心を持たなかったり精進しなかったり習う時期が遅れた為であると考えられる。なぜなら同じ脳を使うのだから、一つ事に優秀な実績を持つ者は他のものに関心を寄せても同じ出来栄えを生むとするのが自然な理解だろうから。座興脳で優秀なのに本職脳でダメな者は、能力以外の資質、性格、環境に禍されるからであり、又は座興脳にのめり込み過ぎて本職脳を疎かにするからに他ならない。本当はバランスが取れていると思う。 勘違いしがちなのは次のことである。囲碁能力で優秀な者は政治能力、経営能力でも優秀かと云うと、概ねそうであるが、囲碁能力よりも政治能力、経営能力の方がもっと高等なので必ずしも相関しないと云うことであろう。つまり、囲碁能力のトップ頭脳の者が政治家になったからといっても必ずしも良い政治ができる訳ではない、政治はそうは甘くない。経営、事業も然りであろう。 これについて、れんだいこは次のように考えている。将棋は9路盤で且つ取り駒を使う幾何級数、囲碁は19路盤の幾何級数。これに対して政治は例えれば30路盤の幾何級数。人生は50路盤の幾何級数。つまり、盤の狭い方の能力で広い方の晩まで御するのは難しい。但し、双方に共通する定石だとか棋理があり、囲碁将棋で鍛えたものを政治、人生に応用するのは大いに有効ではなかろうか。他の芸能能力で補完すればなお有効なのではなかろうか。 世の中、一事万事の原則がある。これによれば、一方で能力を証した者は他方でも証する。逆は逆である。こう考えると、小沢どんが政界随一の囲碁能力を持つと云う事は政治能力でも高いと云うことを類推させる。その小沢どんを政治訴追、議員辞職させようとする者が、小沢どん後の政治において小沢どん以上の政治能力を発揮するのならともかくも、これが囲碁も政治も貧相脳だとしたらどういうことになるか。ヤブ医者論の話になる。 これが本質的な頭脳の相補関係だと思う。本質的なところでのことであるから、学歴だとか肩書だとかは関係ない。ポテンシャルのことを云っている。れんだいこは、こう見立てるから、小沢どんが碁が強いと云う事は素晴らしいと思う。検察審査会の若い方が、この辺りの事を弁えてくれていたら良いのだけれども。マスコミメディアの方が、この辺りの事を分別してくれていたら良いのだけれども。 2010.10.13日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評825 | れんだいこ | 2010/10/14 20:56 |
【小沢どん問題に見せる興味深い日共と社民の姿勢の違い考】
日本がますます総需要委縮経済化しつつある折柄、国会がこれに有効な処方箋を真剣に議論するのではなく、与野党共々の慣れ合い漫談を続けている。この構図故、れんだいこは国会中継を敢えて見ない。見なくても察しがつくから。他の人に見てもらい、やり取りの概要を後付けで教えてもらうぐらいで結構だ。それぐらい低評価している。その国会で唯一真剣なのが「小沢どんの政治訴追、議員辞職運動」であるらしい。小沢キード事件の虚構が次から次へと暴かれつつあるにも拘わらず執拗にパンチが繰り出されている。 これに対して、小沢陣営も黙ってはいない。そろそろ堪忍袋の緒が切れたのか、10.15日、小沢氏側は、先の東京第五検察審査会の「起訴議決」について、国を相手取って行政事件訴訟法に基づく無効確認などを求める訴訟を東京地裁に起こす方針を固めた。まもなく郵政事件での前田検事の証拠物改竄不正に匹敵する第五審査会の不当議決の様子が明らかになるであろう。合わせて小沢キード事件の虚構が法廷の場で解明されることになるだろう。 この間、小沢キード事件を煽りに煽ってきたマスコミメディアのどの社が一抜けたで論説転換するのだろうか。これに興味が湧く。容易に考えられるのは、読売、産経が最期まで「小沢どんの政治訴追、議員辞職運動」の旗を振り続けるのだろう。これに日経、毎日が追随し、朝日がどう出るのか。例の「口アングリ」氏のリタイヤは必定で、次の世代がどう論陣を張るのか張らないのか、この辺りに興味が湧く。週刊誌で云えば、週刊ポストが逸早く小沢キード事件の虚構を暴きつつある。週刊現代は相変わらず小沢叩きに耽っており精彩を欠いている。編集長の更迭以外あるまい。 それはそうと、日共の執拗な小沢パッシングに辟易させられる。既に何度も指摘したが、この党にだけは「証人喚問」を声高にして貰いたくない。手前の党が戦前戦後政治史上最大の「証人喚問案件」を抱えておきながら、これに口ぬぐいしたまま正義ヅラするのだけは勘弁願いたい。それほど「小沢証人喚問」を云うのなら、いっそのことこの際抱き合わせで「戦前のリンチ致死宮顕事件」をも俎上に乗せてみたらどうだろうか。れんだいこは、このことを強く主張したい。そろそろケジメを付けたらどうだ。日共は政治的決着がついていると云うが法的決着がついていない。つまり、法的決着を不問にしたまま政治主義的に不問にしているだけに過ぎない。この見立てがウソだと云うのなら、ここから議論しても良い。 日共の穀田が、小沢どんの政治倫理審査会での審査に対して「論外」と批判し、あくまで小沢どんの証人喚問を求めていく考えを強調している。検察が捜査に乗り出した時には検察をエールし、その検察が不起訴を出すや検察審査会に頼り、その検察審査会の審議内容には何の関心も示さず結論だけを鬼の首を取ったかの後生大事にしてはしゃいでいる。 仮に小沢どんの逆訴訟で無効が確認されたとしても、小沢どん追撃の手を緩めない。そう、この党は何がどうあっても「小沢どんの政治訴追、議員辞職」に狙いを定めている。これが科学的社会主義のやり方だそうだ。科学的社会主義の底の浅さが割れる話である。その昔の角栄叩き、今日の小沢どん叩きの裏に見えるのは要するに、戦後政治のハト派ライン叩きに興ずる日共と云う構図である。日共はその昔大衆闘争から召還し、議会主義を唱えてここまで来たが、変調ものがやると議会でもろくな仕事をしないことがはっきりしてきた。最近何かと自民党タカ派と姿勢が一致している。自然に仲が疑われることになる。それも気にならないらしい。相当に人民大衆をバカにした話である。 これに対して、10.13日、社民党の福島党首は、記者会見で、小沢キード事件に対して、「無罪になる確率、可能性が極めて高い事件だ。起訴になったから議員辞職や離党すべきだということには社民党はくみしない」、「野党6党が小沢どんの証人喚問を求めているが、政倫審できちっと説明することを求めていく」と述べたとのことである。福島党首がこう述べた意味は大きい。法律家としての福島氏がよほど丹念に起訴文、判決文を読み、事件を調べ直し冤罪の確信を持ったに違いない。 しかし、こうなると、日共と社民の両党の姿勢の違いが興味深い。れんだいこに云わせれば、日共が本来の共産党であれば、社民党の見解と同一歩調を取るか、社民党見解の生ぬるさを指摘し、「我が党は、本事件に冤罪の臭いを嗅ぐ。政治主義的な小沢バッシングの為の証人喚問、政倫審釈明等で国会の場を使うべきでない。むしろ小沢バッシングの政治的背景の検証の為の調査委員会を求めるべきだ」と云うところである。徳球系の共産党であれば、そう云う風に主張するであろう。しかしいけない。今は宮顕系党中央だから全てが逆さになる。 以上、日共の定向進化のなれの果ての腐敗と社民党の相対的健全さに少し言及して見た。確認できることは、日共が社民党より相当右に移行していることである。その程度は、かっての民社党より右に来ているのではなかろうか。この事実を冷厳に確認すべきではなかろうか。 補足しておけば、目下、真の護憲党がいない。これが日本の政治、経済、文化、精神を奇形化しつつある気がしてならない。日本の戦後は、護憲を基調にしていた間、奇跡の戦後復興と続く高度経済成長の波に乗っていた。改憲派が主流派になって以降の舵取りはそれまでの財産を食い潰し、今や日本の米国売り、中国売り、つい最近では韓国売り説まで出てきている。手前らの権益の為に民族と国を売ることを辞さない卑小な政治家ばかりが与野党問わずタムロした結果である。れんだいこは、この連中をシオニスタンと命名している。キリシタンよりも右のシオニズム被れと云う意味である。これを怒ろう。 2010.10.13日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評826 | れんだいこ | 2010/10/15 19:50 |
【伊藤栄樹検事総長考その3、著書「秋霜烈日」のお粗末考】
検事総長・伊藤栄樹は晩年に「秋霜烈日」(朝日新聞社、1988.7.10日初版)を著した。れんだいこは、鳴り物入りで喧伝される「ミスター検察評」に食傷し敢えて読まずに過ごしてきた。とある日、古書店で100円の値が付いた「秋霜烈日」を見つけ、ツンドクしておいた。こたび前田、佐賀、大坪検事がイモヅル式に逮捕される事件が発生したことにより、気になっていた「秋霜烈日」を読むことにした。それにしても100円の値を付けた書店主の感覚は鋭い。 伊藤氏の後半生履歴は次の通り。1976年のロッキード事件当時、最高検検事として「初めに五億円ありき」で矢面に立ち、東京地検特捜部を指揮した。その後トントン拍子に出世し法務省刑事局長、法務事務次官、次長検事、東京高等検察庁検事長、1985年に検察最高位の検事総長に就任した。ところが、権勢絶頂期の最中、体調不良を訴え診察の結果、盲腸ガンに侵されていることが判明。大手術の後、定年を1年10ケ月残して退官。1988.5.4より朝日新聞紙上で検事人生回顧録「秋霜烈日」の連載開始。1988.5.25日、盲腸癌により死去(享年63歳)。 「秋霜烈日」の帯評は次のように記している。「巨悪と闘い、がんと闘った『ミスター検察』。戦後の政財界の重大事件のすべてを見てきた硬骨漢が、迫り来る死をみつめながら綴り続けた戦後史の『真実』」。こういう触れ込みにアレルギーを示すれんだいこであるが、伊藤氏のロッキード事件に対する正義の弁明に耳を傾けようと付き合った。伊藤氏がどのように事件を捉え、揺るぎない確信を伝えているのかを知るところに興味があった。 ところが、余りにも不自然なほどに過少扱いし過ぎている。しかも、戦前史事件を造船疑獄事件から順に綴っているにも拘わらず、ロッキード事件はダグラス・グラマン事件後に綴られており、見出しを「ロッキード事件 アリバイ崩し」として僅か50行ばかりで済ませている。広告に偽り有りとまでは云えぬにせよ明らかにオカシイ。この不自然さは何なんだろうか。 その内容も、角栄の秘書榎本氏のお抱え運転手笠原氏のアリバイを廻る角栄弁護団の反証を如何に突き崩したのかを得々と語るだけの話でしかない。笠原氏の取り調べ直後の山中での変死に対しても、あっさりと自殺と記している。れんだいこの検証によれば、今や東京都副知事の猪瀬の角栄が我が消したとする逆推理論考こそ胡散臭い。真実は、ロッキード事件仕掛け人側が殺めたとしか考えられない。 それはさておき、一国の前首相たるものを死文法的な外為法と云う、しかも別件容疑で逮捕し、産経新聞の協力を得ての「角栄自供する」とのウソ刷りで榎本秘書を自供させ、その榎本調書の証拠固めにありとあらゆる脅しスカシで関連被告の調書を創作し、コーチャンの免責特権付き云いたい放題証言等々で脇を固め、無理矢理に公判に持ち込み、こうして戦後最大の有能政治家たる角栄を裁判にハガイジメし、本人死亡を待って「被疑者死亡による控訴棄却」を決定し、裁判終結とした一大疑獄事件に対して僅か50行で済ますとは。これがロッキード事件訴追の音頭取り、旗振り役として活躍した伊藤流の挨拶だと思うと許し難い。 しかし、今気づいたのだが伊藤氏の死去は1988年である。田中角榮の死去は1993年であるから、伊藤氏が5年も早く逝去していることになる。享年も63歳であり、かの当時においてもかなり若い。と云うことは、伊藤氏はロッキード事件に蛮勇を振るうことにより出世階段を上り検事総長の座まで上り詰めたものの、そのストレスでガンに侵され寿命を縮めたと思えなくもない。せっかくの著書「秋霜烈日」に於けるロッキード事件に対する記述の少なさは、裏からの詫びかも知れない。伊藤氏自身がロッキード事件に対する得心できないわだかまりを持ち続け、それをシャイな形で表現したのが順序の違うダグラス・グラマン事件の後綴りかも知れない。そう思うと、伊藤氏の胸中の苦しさを知るべきだろうか。 しかし、歴史的評価は厳然としておかねばなるまい。「検察の正義」を政治主義的に振るう契機を作ったのが伊藤栄樹検事であり、今日の「現役特捜検事・前田、佐賀、大坪検事イモヅル式逮捕事件」に繋がる検察腐敗の端緒はこの時より始まっている。正確には、それ以前の検察正義に既に胚胎していようが、伊藤栄樹検事が「初めに五億円ありき」のストーリー補強の為なら証拠捏造まで辞さぬ不退転の決意で、それまでの検察正義を大きく歪めたことは疑いない。 伊藤栄樹以降、ロッキード事件で張り切った検事の出世ぶりがやけに目立つ。検察正義を捨ててまで協力した角栄パッシングの功労でポストを手に入れたものと思われる。もう一つ、伊藤氏自身は唯一例外で天下りするまでもなく病死したが、ロッキード事件後の歴代検察総長の退任後の地位利用による民間大手企業への天下りが顕著になっている。検察上層部にこういう劣勢人士がたむろし始めたと云うことになる。これもロッキード事件後遺症の一つであろう。 「現役特捜検事・前田、佐賀、大坪検事イモヅル式逮捕事件」は、こういうロッキード事件以来の劣勢人士登用と云う検察腐敗の構図にメスを入れることができるだろうか。ここに関心がある。 2010.10.14日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評827 | れんだいこ | 2010/10/16 13:08 |
【まだ云うか日共よ恥を知れ!証人喚問狂と化している日共党中央への公開質問状】 2010.10.13日、日共の穀田恵二国会対策委員長は国会内で記者会見し、小沢どんへの疑惑究明に関して証人喚問を強く要請し、政治倫理審査会での弁明の動きについて次のように述べた。「論外だ。証人喚問を行って政治的道義的責任の追及と真相解明を行うことが国会に求められている」、「政倫審は議事録も出されず傍聴も許されないなど密室でおこなわれることが基本となっている。そのうえに、ウソをついても偽証罪にも問われない」、「(虚偽記載の対象となっている政治資金)4億円の原資が、公共事業に絡んだ国民の税金の還流ではないのかという疑惑が問われている。虚偽記載が問われていることからしても、ウソがつけない場で行う必要があり、証人喚問以外にない」。 れんだいこが云い換えておく。 「論外だ。証人喚問を行って政治的道義的責任の追及と真相解明を行うことが国会に求められている」、「政倫審は議事録も出されず傍聴も許されないなど密室でおこなわれることが基本となっている。そのうえに、ウソをついても偽証罪にも問われない」、「共産党の最高指導者として長らく君臨してきた宮顕の戦前の党中央委員査問致死事件の居直りが、政治倫理に絡む国民への最大の不正ではないのかという疑惑が問われている。現下の日共党中央が宮顕の猫ダマシ弁明を擁護し続けていることからしても、ウソがつけない場で行う必要があり、証人喚問以外にない」。 何だ、殆どそのまま使えるではないか。こうなると、日共は、手前の党の問題である宮顕問題では国会証人喚問不要、他党の問題である小沢問題では必要とする二枚舌論拠について釈明する責任があろう。それにしても日共の証人喚問好き、それも得手勝手さにあきれてしまう。れんだいこには、小沢問題のそもそもは秘書寮の建設問題であり、宮顕問題は殺人罪に絡んでいる。殺人罪の証人喚問の方が数百倍必然性があると思う。これを逆に説く赤仮面正義の化けの皮を剥いでやりたい。 日共機関紙の10.16日付け赤旗主張は、小沢どん側の行政訴訟提訴を受けて、「小沢氏証人喚問 『密室で弁明』は通用しない」の見出しで次のように反論している。漏洩しつつある検察審査会の経緯、特に審議過程のイカガワシサを何ら言及せぬまま、「検察審査会が小沢氏を起訴すべきだとしたのは当然です」と検察審査会正義論を唱えている。小沢どん側の行政訴訟提訴に対して「悪あがきそのものです」とまで述べている。こうなると、世に云う冤罪被害者は今後どう闘えば良いのだろうか。これはお上の論理論法そのものではなかろうか。 続いて、近代刑訴法の「推定無罪」の原則に対して次のように述べている。「『推定無罪』の原則を持ち出して小沢氏への追及をかわそうなどというのは通用しません。刑事責任と政治的道義的責任はもともと別の問題であり、国民の選挙で選ばれる国会議員は疑惑がもたれただけでも国民の前に説明する重大な責任を負います」。これも又何と露骨な人民裁判論法であることか。人は法で裁かれるだけでなく、「疑惑がもたれただけで重大な責任を負う」だと。相手が疑惑を持つ持たないにまで責任を持たされるなどと云う恐ろしいことがあって良いものだろうか。これについては末尾で繰り返そう。 政治倫理審査会と証人喚問について次のように説明している。「昨年問題が発覚して以降小沢氏はただの一度も国会で説明したことはありません。民主党が持ち出そうとしている政治倫理審査会は取材も許さず、記録も残らない『密室』です。議院証言法にもとづく証人喚問なら偽証に対し告発することもできます。国会での小沢氏への追及は『密室』ではなく証人喚問でおこなわれるべきです」。これについても後で触れよう。結びはこうだ。「菅首相と民主党があくまで証人喚問を拒み続けるなら、小沢氏同様、疑惑にふたをするという国民のきびしい批判を免れません」。これについても末尾で触れよう。 もとへ。宮顕は単に共産党の最高指導者として長らく君臨してきたばかりではない。参議院議員として1977(昭和52).7月の初当選から1989(平成元)年までの2期12年間、れっきとして国会議員を務めている。特に、民社党の春日委員長の参院選時の言及に端を発して以来の1976年初頭前後よりリンチ事件の真相解明を廻って宮顕自身が証人喚問される動きがあった。今にして思えば、なぜこの時期に持ち上がったのか奇妙である。れんだいこは裏に仕掛けが有ったと推理するが、ここでは問わない。そのさ中でロッキード事件が勃発した。それまで守勢の宮顕が突如、角栄徹底追及の旗頭として与野党周旋に乗り出し、その喧噪のさ中でいつの間にかリンチ事件の真相解明が不問にされ今日まで経緯していると云う不自然さがある。 いずれにせよ、宮顕は、かって殺人罪で逮捕され、それに基づく判決が下され、刑事併合犯で獄中入りしていた。終戦後、他の同志の政治犯特赦ではなく、一足早い生命危篤理由の政治主義的な釈放で刑期満了せぬまま出獄している。その後、「将来に向てその刑の言い渡しを受けざりしものとみなす」という復権証明書を手に入れているが、これはあくまで政治主義的な訴追の免責証文であって、事件の真実が解明された訳ではない。つまり、戦前のリンチ事件の真相は未だに未解明のまま歴史に遺されていることになる。 日共は、そういうイカガワシイ履歴を持つ人物を12年間に亘って国会議員に送り出していた党としての責任がある。この責任から逃げ回り続けている日共が、角栄パッシング、小沢パッシングに狂奔している姿がオゾマシイ。日共が小沢の証人喚問に首ったけになるのであれば、この際抱き合わせでリンチ事件に対して責任ある回答をしたらどうだろうか。致死せしめられた小畑党中央委員は未だスパイの汚名を着せられている。我々及び小畑氏の遺族は、それを要請する権利があると思う。 日共よ、小沢どんに対してあらん限りの罪状で責めるなら、その前に自ら宮顕のリンチ事件に対して責任ある事件報告書を提出せよ。まず我が身の潔癖を証明してから人を責めよ。これが真の政治責任、倫理道徳責任のマナーではなかろうか。万一、事件報告書に虚偽ないしはすり替え弁明が確認されたなら、相応の党的責任を問うべきである。穀田国会対策委員長は当然ながら偽証辞職を覚悟せよ。 外に向けては云いたい放題、内輪のことになると居直りは許されまい。そういう独善作法は法治主義国家では通用すまい。通用させてはなるまい。日共は、本来であれば、この問題を解決しない限り議会制民主主義政党の資質失格に相当する。然るに、これを許され、その代わりに日本の有能政治家の摘発、訴追に加担させられているとしたならイカガワシイこと極まりない。れんだいこは、日共党中央の役割はここにあると見立てている。選挙での自公候補を有利にさせる為の立候補戦略も本質的に同じである。 さて、最期に日共の物言い通りに云い換えておこう。「『推定無罪』の原則を持ち出して宮顕への追及をかわそうなどというのは通用しません。刑事責任と政治的道義的責任はもともと別の問題であり、国民の選挙で選ばれる国会議員は疑惑がもたれただけでも国民の前に説明する重大な責任を負います」、「問題が発覚して以降、共産党はただの一度も国会で説明したことはありません。政治倫理審査会は取材も許さず、記録も残らない『密室』です。議院証言法にもとづく証人喚問なら偽証に対し告発することもできます。国会での共産党への追及は『密室』ではなく証人喚問でおこなわれるべきです」、「志位委員長と共産党があくまで証人喚問を拒み続けるなら、疑惑にふたをするという国民のきびしい批判を免れません」。 リンチ事件につき更に知りたい方は次のサイトで学ぶが良かろう。 別章【小畑中央委員査問リンチ致死事件考】 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/nihon/miyakenco/rinchizikenco/rinchizikenco.htm) 宮地健一氏の「スパイ査問事件と袴田、逸見教授政治的殺人事件」 (ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/spysamon2.htm) 2010.10.15日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評828 | れんだいこ | 2010/10/18 22:10 |
【2010.10月政局考】
2010.10月政局を確認しておく。その前に、このところの政権を評しておく。小泉政権は狂人レイプ政権であった。ワシントンに中曽根以来の名宰相と持て囃され、田原らの政治評論家の多くが阿諛追従していたが、小泉はんは今頃何をしているのだろう。まさか本当の狂人になっているのではなかろうかと気になる。安倍政権は坊ちゃん丸出し政権であった。伝統的な右翼的保守政治を目指したかったらしいが、ホワイトハウスで子供扱いされ、腹下げしたままポシャってしまった。福田政権はムッツリ音無し政権であった。何をやったかさっぱり記憶がない。麻生政権は漢字読めない政権であった。愛嬌はあったのだが、選挙に勝つことだけ念願して大負けしたのがお笑いである。 鳩山政権は遊び人チャラスケ政権であった。マニュフェストのうち有料高速道路の無料化ぐらいはできそうだったのに、前原国交相が延ばしに延ばして賞味期限切れしてしまった。結局やる気がなかったのではなく、景気回復に資する政治はやらせない気が有ったと云うことになろう。腹案があるあると云いながら半年過ぎて辺野古案差し戻しとなったが、これにもあきれた。 では、菅政権はどう評されるべきか。れんだいこは、先の参院選での突如の消費税増税持ち出しによる敗北経緯が未だ解せない。結果責任を示さず落選閣僚を庇い続けた居直りも許せない。尋常な政治感覚ではないことが分かる。続く民主党代表選の不正選挙疑惑も未だクリヤ―していない。人の噂も45日で事なかれしている。菅改造内閣が始まったが、仙石、前原、岡田、北沢、枝野等々名うてのシオニスタンを重用している。一事万事口先とすることが違う。これらを考え、夢遊病政権と名付けようと思う。覇気がないのも致し方なかろう。能力的には、菅以前がケタ違いの粗脳政権だったので、菅の粗脳が特段責められる必要はなかろう。気になるのは、小泉を軸として、その後の安倍、福田、麻生の流れよりも菅の方が小泉に近いエセ構造改革路線を踏もうとしていることではなかろうか。これが菅政権の正体の気がする。 鳩山政権下で秘かに進行したのが原子力発電行政の推進であった。菅政権下で進行しようとしているのが北沢防衛相主導による「武器輸出三原則」の見直しによる「武器輸出解禁」の動きである。例によって、前原外相が後押ししている。意図的故意の日中離間外交が採用されそうである。菅政権は、相変わらずの財政破綻政策を敷いているからして、いずれこれを口実とした増税政策が待ち受けている。青年よ、職がなければ自衛隊に入れ、続いていつまでも後方守備は卑怯であるから前線に投入せよと云うことになろう。続いて東京都庁の方から核武装論が浮上し、アメリカにノ―と云える日本を掛け声しながら、日米同盟進化を目指すことになろう。中国、北朝鮮になめられるなと云いながらナメクリ論が喧しくなろう。こういう流れが容易に推理できる。 さて、思えばもう1年前になる昨年の政権交代で何が変わったか。あの時、瞬間でも日本政治に夢があった。それが鳩山政権、菅政権と続いているうちにしぼんでしまった。何も変わっていない、変わろうとしていない。変わったのは自公と違う顔ぶれの大臣が生まれただけである。イス取りではしゃぐ姿はまるで同じである。政治家主導政治を目指すと云いながら、官僚作文をうつむきながら読み続けて答弁する姿がお笑いである。事業仕訳を売りにしているが、防衛利権には手がつけられない。その腹いせに公共事業利権を採り上げては正義ヅラしている。中国、韓国のインフラ整備は着々進んでいるが、我が日本は逆走し続けている。公共事業費を社会保障費に回せの論が相変わらず盛んで、それでいて社会保障費予算食い合いの新たな利権が生まれているのに見て見ぬするのはお笑いである。 この間はっきりしていることは、政権交代選挙の前から今日まで1年有余、一貫して反小沢政治にシフトしていることである。これに対するマスコミメディアの後押しがきつい。下手に学ぶと反小沢になるよう論調が仕掛けられている。現代は下手に学んでバカになる時代なので上手に学ばねばならない。ネット言論に耳を傾けるのが良い。特にれんだいこ節を聞くのが良いふふふ。 れんだい節によると、目下の日本政治から二つの結論が出てくる。一つは、自公も民主も役に立たなかったと云うこと。一つは、最後の希望として小沢政治を見てみたいと云うこと。今後、この二つのベクトルが縄をなうようにして政争を創り出すのではなかろうか。前者に従うと、自公、民主以外の新党を捜す流れになる。これはナベツネの動きを見れば良い。後者に従うと、小沢政権待望論になる。国会が芝居小屋になり漫談が続くに応じて、政局は次第にここへ絞られて行くのではなかろうか。この動向察知が僅かな政治の楽しみになりつつある。貧相な楽しみではある。 2010.10.18日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評828 | れんだいこ | 2010/10/20 20:07 |
【戦後の疑獄政治史考】 小沢キード事件の解析の必要上、戦前戦後の疑獄政治史を確認しておこうと思う。但し、一朝一夕にはできないので始めはスケッチ風にならざるを得ない。以下のサイトに記す。 政党論 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/seitoron/) 歴代の政治家訴追又は事件史 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/seitoron/seijikasotuishi/seijikasotuishi.htm) 戦後の疑獄政治史 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/seitoron/seijikasotuishi/sengoshi.htm) ここで、戦後政治上の疑惑、疑獄事件を通史で確認しておくことにする。選挙違反を含め政治家の失脚が絡む事件を主として確認することにする。まだまだ不十分であるが、追って「検察の正義」の実態を解明する予定である。検察の捜査が及ばなかった事件も含め、どの系譜の者が逮捕され、見逃されてきているかを明らかにするつもりである。特に政治主義性が濃い事件を赤太字で識別することにする。 気づくことは、ロッキード事件以前は、それなりの大義名分が明らかなことである。よしんば指揮権発動にせよ、「高度な政治判断」と云う法理で説明がつく。ところが、ロッキード事件以降は何が正義やら分からなくなっている。つまり、免責特権導入等で「上からの法破り」が敢行された結果、政治訴追そのものが政治主義的に行われるようになってしまった。しかも、微罪的なものが執拗に追及され、悪質巨罪が見逃されるようになった。「検察ストーリー」が次第に常態化、定向進化し、こたび遂に検察側による証拠物改竄までが明るみにされるところまで来ている。 最もケシカランことは、在地土着系政治家がイジメラレ、シオニスタン系政治家が大甘で見逃されていることである。つまり、法が公正に適用されていないことである。ロッキード事件では、本当は不関与の田中角栄が逮捕起訴され、本ホシ系の児玉―中曽根ラインが免責された。検察のこのま姿勢はその後ますます露骨化し、田中角栄系ないしはもっと広い意味での在地土着系にして有能な政治家が次から次へと起訴、長期拘留される他方で、岸系、中曽根系、福田系、小泉系が見逃され、よしんば摘発されても寛大な処分で優遇されていることである。 事例では、田中角栄、佐藤孝行、橋本登美三郎、中村喜四郎、田中真紀子、鈴木宗男、村岡兼造、小沢一論が執拗に責めたてられている。これらは皆、親角栄系である。角栄に造反した金丸信も入れておこう。これらの政治家は在地土着系政治家の範疇で括れる。同じ基準で他の政治家を捜査すれば網にかかる者は多かろうに、在地土着系政治家が集中的に叩かれている。岸系、中曽根系、福田系、小泉系でも時々法網が被せられる者も居るが、派内外様組か何らかの理由で叩かれたとみなせば良かろう。このまま行くと終生の免責組は岸、福田、中曽根、小泉であろう。何のことはないワシントンイエス組ばかりではないか。こういうことになる。 問題は次のところにある。日本左派運動が、この不正国策捜査に怒らず、日共のように検察正義論を奏でながら後押しするとしたら、その罪万死に値しよう。そういう意味で日本左派運動は健全だろうか。れんだいこの見るところ、第一次ブントの連中の目線が一番高い。同派からもかなり多くのシオニスタンが生まれているが、核の部分はさすがに健全で地の塩となって今も世の不正を糺し続けている。あっ晴れと云うべきだろう。惜しむらくは、現代帝国主義論即ちネオシオニズム論がないことだろうか。レーニズム帝国主義論はもはや使えないのに未だに後生大事にしている。これでは組織だって反撃できない。しかし気づけば良い。半ば解決されていよう。 2009.3.16日、2010.10.20日再編集 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評829 | れんだいこ | 2010/10/20 21:50 |
【日共の警察―検察論理体質相似考】 2010.10.20日付け日共機関紙赤旗の主張は、「差し止め却下 検察審不信は国民への不信だ」を掲載している。これにコメントしておく。 (ttp://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-10-20/2010102002_01_1.html) 日共は、東京地裁が、検察審査会の議決の差し止めを小沢氏側が求めていた問題で申し立てを却下する決定を下したことに対して当然としている。小沢どん側の行政訴訟に対しても、「筋が通りません」と述べている。日共は、小沢どん政治訴追が既に様々な事由、角度から破綻しつつあるにも拘わらず、「強制起訴をうけ有罪か無罪かを判断するのは裁判所で、小沢氏が起訴されたことに納得がいかなければ、裁判で争えばいいだけです」と述べており、要するに田中角栄同様に刑事被告人にしたがっている。 第5検察審査会のメンバー人選、構成、審査内容、公示遅延等々イカガワシサがつとに指摘されているのを承知で、「昨年から法律が改定されて検察審が2度『起訴相当』と決めれば強制起訴されるようになったのは、司法への国民参加で審査会の機能が強化された結果です」と述べ、検察審査会権能強化を賛美している。「検察審の議決で起訴されることになった政治家は小沢氏が最初です。その小沢氏が検察審の議決を批判するのは、司法を軽んじ、司法への国民参加そのものを否定することになりかねません」とまで述べている。人民裁判の味がよほど忘れられないらしい。 圧巻は次のように述べている下りである。「一般の有権者が参加する検察審査会の議決が『素人』の判断だというなら、国民から選ばれた国会議員の選挙そのものも『素人』の判断です。『素人』の判断だと検察審の議決を批判するのは、国民の判断を軽視することであり、それは結局みずからにはね返ります」。 日共よ、意図的故意に詐術しているようなので、れんだいこが反論しておく。選挙と検察審査会を一緒にしたいらしいがどうかな。選挙は、投票するしないも含めて国民皆権利であって、これによって不利益を受ける者は居ない。検察審査会の議決は、いわば国民が国民を裁くことになるので、よほど周到に取り扱わねばならない。こういう質の違いがあるものに対して、「どちらも素人判断論」で煙に巻くのはイカガかな。ミソクソ同視の無茶な論法ではないかな。それを敢えてそう説き、「それは結局みずからにはね返ります」とも述べているが、これは脅しではないかな。当局常用の「逆らえば痛い目に遭うぞ」と似ている気がするぞ。 小沢どんの政治資金規正法違反事件に対して、次のような見解を示している。「だいたい小沢氏が問われている政治資金規正法違反事件は、政治家は政治資金を透明にして国民の評価を受けるという法の趣旨に反してうその届け出を重ねていたというものです。それ自体主権者・国民への重大な背信行為なのに、検察審から起訴相当の議決が出されてもなお従わないというのは、国民の意思を二重三重に踏みにじる態度というしかありません」。 これもダマシの詭弁でしかない。容疑を立件せんとして東京地検特捜部が血眼になって捜査した結果、不起訴となった。これは何も政治権力を使って不起訴にしたものではない。逆であろう。政治権力は望んだが、公判維持できないと判断した検察が起訴を断念したものである。それはそうであろう。「天の声」まで詮索し始めたら、大概の者はお縄頂戴になろう。そういう風に訴訟指揮した者は検察史に汚名を遺し、いずれ懲罰されよう。 そもそも日共自身が「天の声捜査」に耐えられるのか。手前のところは「あらかじる免責」では勝手が良過ぎよう。日共自身の経理不正も既に暴露されているではないか。本当に「天の声捜査」に耐えられるのか。一度やってみようか。日共よもう一つ、「うその届け出」と断じているが、識者の解析では、不動産取引上「あの届け出が正式」とも報告されているぞ。これを承知の上で、素人を騙すような「うその届け出論」を振りまく方がよほど「国民軽侮」ではないかな。今の段階で「うその届け出」と断じている政党の責任は重い。小沢側も告訴すれば良かろう。この党だけ云いたい放題が認められ免責と云うのは良くない。この悪い癖を直す為にも共産党を告訴すれば良い。 日共は執拗に小沢どんの政治訴追を画策している。その理由の詮索はこたびはしない。久しぶりに「車の両輪論」を持ち出し、次のように述べている。「司法の場での刑事的責任の追及と、国会の場での真相究明、政治的道義的責任の追及は車の両輪です。国会はまず小沢氏を証人として喚問し、真相究明にあたるべきであり、小沢氏と民主党はそれに真摯(しんし)にこたえるべきです。 これは、「権力が首根っ子を抑えている間に、我々は下の急所を蹴り上げる」なる野合論で顰蹙を買った、かの党派と論調が一緒である。「排除の論理」仲間と云う訳か。政党としての仁義も道理も節度もない党であることを暴露している。 日共と云う党は一度観点を打ちだしたら、何が有ってもその方針通りに進む体質を持っていることが分かる。しかし待てよ、検察が検察ストーリー通りに合わす為に証拠改竄した例の事件と体質が全く一緒ではないか。思わぬところでボロが出てくるものだな。頼むから共産党と云う名を変えてからにしてくれんかな。例えばパッシング請負党とか白河鯉飼党とか大日本キレイゴト党とかに変えてくれんかな。れんだいこの神経が持たん。 2010.10.20日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評830 | れんだいこ | 2010/10/21 22:02 |
【政局を好み政治を疎かにした粗脳の行く末考】 2010.10月現在の菅政権下の政治を見て、いやましに見えてきたことを書きつけておく。菅首相、仙石官房長官、その他云わずもがなの前原、岡田らは、長い議員生活で政局遊泳術を身につけてきたが、肝心の政治能力を学び損なっているのではなかろうか。そのツケが今一挙に噴出しているのではなかろうか。政治の矢面に立ってみて、外交も内政も結局は自公政治の延長でしか事を処理できない。スッタモンダの挙句必ずそうなる。これは何を意味しているのだろうか。 鳩山政権以来、事業仕訳で悦に浸っているが、内政上の細かなことを論い予算削減する他方で軍事防衛費予算はズルズルと水増しされている。何の事はない、節約した分を軍事防衛費予算に貢いでいるに過ぎない。結局何をやってんだと云うことになろう。これが悲願の政権交代を実現した民主党政権の生の政治能力と云うことになる。 れんだいこには対極的にかっての田中派の凄さが見えてくる。田中派は「田中軍団」と形容され、実に「量的にも質的にも最強の政治集団、政策研究、相互扶助、家族主義的な絆を持つ同志的結合」を誇り、「政治の総合病院」と号していた。この結束を「金権力」によったなどとみなすのは皮相的というより児戯的であろうが、当時のマスコミメディアは、ロッキード事件で田中逮捕後も七日会が結束し続け、田中派の結束が崩れなかったことに対し、「金権つながり」と云う下衆の勘繰りから叩き続けた。 真実はこうであろう。角栄本人が、「派閥とは何か」と訊かれて次のように答えている。「僕達のグループは昔から、ずっと本流にいて、いろいろなタイプの人が全部いるんだ」、「各省の大臣を、2、3回やったのがたくさんいる。例えば、防衛の問題なら誰だと云われたら江崎君、金丸君、山下君、今の大村防衛庁長官とくる。直ぐ間に合うんだなぁ」、「僕のグループは総合病院みたいなもんだ、眼が潰れたといっても、目医者にだけ行ってはダメなんだ。眼が潰れるということは、糖尿病かも知れない。血糖値が3百あるか4百あるかも知れないし、糖尿病ならすぐ肝臓は心臓はどうだとピシャリとやらなければならない。うちは総合病院だから、良い医者が集まっています」(「週間朝日」56.6.19日号)。 西村英一は、「そりゃ、あの男が、いざ何かやろうと云う時、仕事ができるようにしておいてやるためだ。それ以外にはない」と述べている。木村武雄氏は、「(なぜ田中の周りに我々がこうしてたくさん集まっているかというと)みんなカネだというておるが、カネばかりではないぞ。なぁ、田中にはカネ以外の何かがある」と述べている。他にも、「(なぜ田中派だけが増えつづけるのかとの問いに対して)田中先生の魅力です。具体的には抜群の決断力と実行力。スケールの大きさ、頭のよさ、人情のこまやかさ、どれ一つとっても、田中先生の右に出る人はいないからです。それに、仲間達が多士済済ですしね」というコメントが残されている。 興味深いことに、田中軍団には、旧帝大卒、官僚経験者が極端に少ないというかいない。その意味では、旧帝大卒が牛耳っていた政界構造に風穴を開けつつ新風を吹き込みつつあったことが判明する。この流れに有能と判断された官僚出身者、例えば山下元利、小長啓一、後藤田正晴、鳩山邦夫などを組み入れようとしていたことになる。この観点から考察されることは面白いと思うが、さほど為されていない。 近視眼的「田中角栄諸悪の元凶観」から一度離れて遠望すれば田中派の凄さが見えてくるのではなかろうか。田中派はまず政策集団として形成されている。個々の議員の政治能力を磨き議員立法を生みだすよう指導されていた。その政策を実行する為の頂点として権力闘争を闘い抜いた。ポスト佐藤の後継が約束されていた福田派を抑えて政権奪取に成功した。政権掌握後は約束通りに果敢にマニュフェストを履行実施した。その手始めが日中国交回復交渉であった。 政治の質で云えば、ストレートに公約を守る表裏のない良質政治を目指していたことになる。これを思えば、最近の政権交代以来の民主党政権のマニュフェストからの逃げまくりほど劣質の政治はあるまい。鳩山―菅政権は、有料高速道路の無料化マニュフェストのように景気浮揚策に繋がるものにつき、修正でも良いのに実施すること自体を「上から忌避」している。反対に財政悪化によりいずれ増税に繋がるような子供手当マニュフェストについては実施している。例の勢力の差し金ではなかろうか。 もとへ。そういう田中角栄政治の後継が小沢派であり、2010.10月現在も政治及び政局の目玉になっている。よくぞ風雪耐えて生き延びてきていることよと思う。かの時も今もマスコミメディアは、この流れを指弾し続けている。この系の御用評論家は掃いて捨てるほど居る。新聞、テレビ、雑誌に跋扈し続けている。思うに連中の虚報が逆に弾劾される日もそう遠くないであろう。これを論証するのは難しいが、世界が刻々変化しつつあり風向きが変わりつつあるからである。 菅政権下の政治を見て思うことは、菅首相及びその一派が政治の「良き師」を持たなかったと云うことであろう。「良き師」を持たぬままズルズルと議員生活を続け、念願の政権取りに成功し、いざ事に臨むや腰砕けしていると云うことになる。しかも、政権交代に小沢どんの働きが顕著だと云うのに、政権取ったら手のひらを返して用済みにせんとしている。日本政治の良心とも云える小沢派をそのように待遇して我が世の春を迎えたとして所詮ろくなことにはなるまい。数年後、誰も見向きもしない残骸を晒すだけになろう。 2004.1.29日再編集、2010.10.21日再編集 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評831 | れんだいこ | 2010/10/22 20:56 |
【小沢キード事件膠着打開のれんだいこ提案】
小沢キード事件の現段階を確認しておく。 2010.9.14日、民主党代表選の当日、東京第5検察審査会(検審)が「起訴議決」をしている。10.4日、なぜか公表が遅れ2週間も過ぎて後に発表された。既に4.27日に「起訴相当」議決が出されており、再度「起訴議決」が出されたことで、小沢どんは改正検察審査会法に基づき、東京地裁が指定する弁護士によって政治資金規正法違反(虚偽記入)で強制的に起訴されることになった。 10.15日、小沢弁護団は、東京第5検察審査会の起訴議決を違法無効として、国を相手に議決の取り消しや検察官役となる弁護士の指定差し止めを求める行政訴訟を東京地裁に起こした。10.18日、東京地裁は、「検察審査会は準司法的な機関であり、小沢氏側の主張の適否は行政訴訟ではなく刑事司法手続きの中で判断されるべきだ」として申し立てを却下した。小沢弁護団は東京高裁に即時抗告した。10.22日、東京高裁(西岡清一郎裁判長)は東京地裁決定を支持し、即時抗告を棄却する決定をした。 この間の10.21日、第二東京弁護士会が小沢氏を起訴する検察官役となる「指定弁護士」として、同会所属の大室俊三(61)、村本道夫(56)、山本健一(46)の3弁護士を東京地裁に推薦し、10.22日、東京地裁が選任した。この動きと並行して、国会の反小沢の雇われ勢力が与野党一致して、小沢どんに対する政治倫理審査会出席、証人喚問の二段構えで政治訴追せんとして策を弄している。これに対し、小沢どん側は、証人喚問や政治倫理審査会出席に関し「国会で決めた決定に従うが、事件は司法の場に移っている」として法廷での決着を目指す考えを示している。 この膠着を如何に打開すべきか。以下、れんだいこが策を授ける。 人民大衆は怒るべきである。高い税金払って養っている国会議員が本来の仕事である審議、質疑をせず、ひたすら小沢キード事件をフレームアップさせ政治遊びしている。小沢を責める者が順番に手前が責められるブザマな不祥事が相次いでいる。こうした政治遊びの裏で、国際金融資本帝国主義の対日アジェンダが粛々と進められている。景気は回復せず、と云うか国策不況を強いられ、中小零細企業の死の行進が続いている。そのうち日本が丸ごと安く売られるのではなかろうか。この道へ歩一歩誘われている気がしてならない。 人民大衆は怒らねばならないと思う。仮に60年安保闘争を領導した島―生田ラインの第一次ブントが再来したとすれば、唐牛委員長の笛の下、連日の国会包囲闘争で「政治遊び弾劾」の渦を創り出しているだろう。全共闘運動が健在なら国会解体を叫んで街頭武装闘争へ転じているかも知れない。これが、「検証学生運動」の著者れんだいこの見立てである。かっては、こういうヴィヴィッドな政治青春が有った。 もう一つ策を授けようと思う。小沢キード事件に並行して「郵政事件」、この捜査に関連して「前田、佐賀、大坪特捜検事イモヅル逮捕事件」が起こっている。この事件と小沢キード事件が妙に絡んでいる。歴史の摩訶不思議な立て合いだろう。「村木元局長逮捕起訴事件」を仕立てた大阪地検特捜部主任検事の前田検事が東京へ出張って小沢秘書を取り調べ、お得意の「検察ストーリー」で割り屋勤めしていただけではない。郵政事件で村木元局長を、小沢キード事件で小沢元民主党代表を嵌めようとしていた構図が全く一緒で同時期の流れであると云う意味で不即不離の関係になっている。 ここに真っ当な政治感覚が存在すれば、今国会が為すべきは、日共風の推定有罪論で小沢どんを政治倫理審査会責め、証人喚問責めで喧騒することではなかろう。仙石官房長官風の拙速の検事総長辞任論を説くことでもなかろう。ロッキード事件以来の検察の「法の番人の上からの法破り」を実態検証し、前代未聞の不祥事の歯止めをかけることに向かうべきであろう。つまり、検察捜査の在り方を廻る特別調査委員会の設置と審議質疑に向かうべきではなかろうか。小沢どん側は、受け身に廻るのではなく、正々堂々と検察捜査調査特別委員会の設置を求めて闘えば良い。こういう逆攻勢こそ必要な対応ではなかろうか。 この反撃にマスコミメディアがどう口をパクパクさせるのか聞いてみたい。谷垣自民党がどう出るのか見てみたい。市民主義を標榜する菅政権の舌を覗いてみたい。その対応いかんによって正義と邪悪がリトマス試験紙に掛けられ、忽ちのうちに露わになるであろう。 日共に対しては特別に申しておく。こたびの証人喚問論の論理論法で貴党の長年の患いである宮顕リンチ事件の解明の為に証人喚問に応じよ。これは党内問題では済まされない。れっきとした殺人犯を長年にわたって党の最高指導者として君臨させ、12年間にわたって国会議員にさせていた罪は大きい。君らの論理論法によれば、そういう疑いが掛けられただけで法的責任とは別の政治的道義的責任が伴う訳だろう。ならば、君らの言のままに応じたらどうだ。ウンとかスンとかヘイとか云うてみぃ。 2010.10.22日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評832 | れんだいこ | 2010/10/23 21:59 |
【在りし日の角栄の防衛論考】 田中角栄の首相前の憲法観、憲法改正論、防衛論の開陳はなかなか見当たらない。角栄の専門は国土設計に始まる経済通による正味の政治を心がけ、或る意味で避けていたと思われる。対極的なのは中曽根で、軍事防衛、原子力行政、憲法改正論を威勢よく説きまくっていた。その癖底なしの経済音痴であった。未だに重鎮ぶっているが、中曽根を引き出すメディアの粗脳ぶりが知れよう。 その角栄が、1962(昭和37).2.6日のロバート・ケネディ司法長官の来日懇談会で珍しく防衛論議している。これを確認する。出席したのは、ロバート・ケネディ司法長官、田中角栄政調会長、中曽根、江崎真澄、石田博英、宮沢喜一、山中貞則ら当時の自民党中堅であった。席上、ロバート・ケネディ司法長官が、日本の防衛力増強を持ち出した。背景に沖縄返還が日程に上りつつあったようである。この時、角栄は次のように述べている。 「アメリカが沖縄を返すに当たっては、アメリカが日本に憲法改正、再軍備を提起し、日本がそれを受け入れることが必要だ。日本の憲法が改正され、再軍備して共同の責任で防衛体制をとらねばできない」。 角栄のこの発言は、自民党籍の角栄としては無難な成り行き発言であろう。この発言が国会で槍玉に挙げられることになる。しかし、上述の発言はリップサービスに過ぎず、角栄の真骨頂は次の発言にある。 概要「なるほど、あなたの云うのは理屈だ。ただ防衛力増強と云われるが、アメリカが敗戦国である日本に押し付けた憲法は我が国に根付いてしまった。今や大木に成長している。大きな枝ぶり一本でも伐ろうとすれば、内閣の一つや二つは吹っ飛ぶ。根こそぎ倒そうとすれば、世の中がひっくり返る。しかし、我々にしても、あなたたちにいつまでも『おんぶに抱っこ』では申し訳ない。だから、どうしても防衛力を増やしてくれと云うのなら、アメリカから日本国民に対し、改めて日本国憲法の成立過程について一言あってしかるべきではないか」(佐藤昭子「田中角栄ー私が最後に伝えたいこと」)。 角栄のこの発言は、(起論)米国の対日防衛力増強要請。(承論)防衛力増強の為には憲法改正を要する。(転論)ところが同じく米国によって押し付けられた戦後憲法が根づき大木に成長している。(結論)内閣が吹っ飛ぶ。世の中がひっくり返ると述べ、困難さを述べ間接的に否定していることになる。即ち、今日風に意義を確認すれば、米国の対日要請を御用聞き的に一方的に鵜呑みにするのではなく、政治的にかなり難しい要請であると切り返していることになる。その上で、「我々にしても、あなたたちにいつまでも『おんぶに抱っこ』では申し訳ない故に協力する」と述べ、但し、「アメリカから日本国民に対し、改めて日本国憲法の成立過程について一言あってしかるべきではないか」と注文を付けている。 見事な切り返しではなかろうか。ところが、当時のマスコミメディア、社会党、共産党が最初のリップサービス発言を捉えて「日本の憲法改正・再軍備発言」であるとして問題化させた。2.9日、衆院予算委理事会で取り上げられ、角栄が「発言は遺憾であった」と釈明させられている。池田首相が次のように釈明している。 「沖縄、小笠原返還の前提条件に、仮にアメリカから憲法改正、再軍備強化などの要求を出されると大変なことになると発言したのが真意」。国語読解力的に見て、池田首相のこの理解の方が正しい。角栄は、「失言の池田と云われる俺が尻拭いするとは」と池田首相からお目玉を食らい「髭でもそるか」としょげ返る。これに対して、米国留学中の長女・真紀子が「ヤジ、ヒゲソルナ」と電報を打ってきたとの逸話がある。 以上は、角栄の希少な憲法論、防衛論である。れんだいこは、角栄が部分で憲法改正を論じたこともあろうが、彼は真底の戦後憲法擁護政治家であったと判じる。その護憲ぶりは、口先社共の及ぶところではない。角栄こそ形骸化されつつある憲法の受肉化を政治と政策で後押ししていたのではあるまいか。 付言すれば、米国即ち国際金融資本帝国主義の宗本家は、保守政党に在ってこういう異能的な政治能力を持つ角栄を早くより要注意政治家としてマークし続けていた。文芸春秋2001.8月号「角栄の犯罪25年目の真実」に発表された「国務省・電信機密文書655及び586」の「タナカ・ザ・マン」(インガソル駐日大使の詳細な「田中角栄レポート」)には次のように記されている。れんだいこが意訳要約する。詳しくは、次のサイトに記す。 「アメリカ特務機関及び国務省の角栄レポート」 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/sisosiseico/cianokakueihyo.htm) 「田中角栄は、日本のためには優れた政治家であっても、それがアメリカの利益になるかどうかは未知数である。現在、福田と首相のイスを争っている。田中は、これまでの首相と違って学歴が低い。その為に軽蔑されている。彼の政治能力は高く、人を操縦するのも上手く、主要ポストを歴任して名声を上げている。最近、アメリカとの間で長年患っていた繊維問題も巧みに処理した。こたびの総裁選は、福田、田中、大平、三木で争われている。田中以外の3人が総裁になった場合、いずれとでも上手くやっていけるだろう。田中だけが我々との絆を持たず、それどころか接点すら持っていない。何をやりだすか分からない」。 かく警戒されていた角栄が政権を取り、頭越しの日米交渉を出し抜くかの如く日中国交回復をやり遂げ、続いてソ連との交渉に向かい始めた。北方領土問題と云う難題があったが、シベリア共同開発に向けてお膳立てを整えつつあった。オイルショックに見舞われるや、日本外交上稀有の親アラブ政策を打ち出し石油資源確保に取り組んだ。続いて次世代燃料のウラン確保にも向かった。こういう逐一が、国際金融資本帝国主義の烈火の怒りを買い、キッシンジャーの断固たる指令が下された。用意万端一年後、ロッキード事件が勃発する。今で云う「鉄の検察ストーリー」が拵えられ、政財官学報司警の七者機関が総動員された。後の喧騒は承知の通りである。 もとへ。こういう角栄の政治履歴を思えば、立花、日共式諸悪の元凶論を俎上に乗せ直すべきではなかろうか。中曽根以来麻生までの歴代自民党首相の粗脳、鳩山、菅の歴代民主党首相の粗脳を見せつけられるにつけ思う次第である。如何にマスコミメディアが中曽根、小泉を名宰相と囃したてようとも、「国務省レポート」の方が正しい。公開されていないが、「派手なパフォーマンスによる政治芸能力を持つので利用するのに具合が良い。どうにでもなる機会主義者であり、我々が金玉を抑えている」と記しているのではなかろうか。 明日は小沢擁護集会が有るとのことである。れんだいこも行きたかったが諸般の事情で行けない。またの機会に出向かせて貰おうと思う。ネットで様子を確認するのを楽しみにしている。どなたかチューブを頼む。 2010.10.23日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評833 | れんだいこ | 2010/10/24 17:52 |
【角栄の文章能力評】
れんだいこは、このところ角栄に色気づいている。天理教教祖中山みきと角栄につき知れば知るほど楽しくてしようがない。れんだいこブログに興味のある方は、こたびもお付き合い願いたい。ここで、角栄の文章能力について言及しておく。近視眼的「田中角栄諸悪の元凶観」から一度離れて角栄を遠望した時、元文学青年にして文達者であった素の角栄が見えてくる。これを確認しておく。 角栄は、文章を書くのも得意で能筆家であり且つ自筆文をモットーにしていた。幹事長、蔵相などの激務のさなかでも可能な限り自ら筆をとった。やむを得ず代筆させるときでも、でき上がった原稿に納得のいくまで赤筆を入れた。簡単なインタビューでも、口述がそのまま原稿になるよう配慮していた。文体は簡潔な散文調であった。所信表明演説の草稿も角栄自身が書きあげ演説している。こういう首相はなかなか出てこない。 角栄の文才は既に、1933(昭和8)年、15歳の時に認められている。二田尋常高等小学校高等科卒業時、卒業生総代として答辞を読んでいる。この時凝りに凝った文案を作成し、立派に読み上げている。「残雪はなお軒下にうずたかく、いまだ冬の名残りも去りがたけれど、わが二田の里にも、更生の春が訪れようとしています」云々。 卒業後暫くの間、自宅の独学で中学講義緑を学んだり、漢詩を暗誦したり、書道に熱中している。余程進学したかったことと将来の進路を掴もうとして充電中であったものと推測される。「明治大正文学全集」、大衆雑誌「キング」、姉が読んでいた「婦女界」などを耽読している。新潮社の雑誌「日の出」に懸賞小説を投稿し、「三十年一日の如し」で選外佳作5円貰っている。「私の最初の収入は原稿料なのですよ。子供の頃、文士にあこがれましてね。モノを書くということでは、みなさんの先輩かな」と回顧している。 1966(昭和41)年、日経の「私の履歴書」に登場した角栄は、他の多くの者がゴーストライターを用意しているのに自ら書き上げている。「最初の5回分は口述筆記の原稿に手を入れたものを載せたが、読んで自分でも気に入らなかったのだろう、6回目からは自ら筆をとって書いた。本人の書いたものは俄然面白くて読みやすい。かなりノッて書いたようで、予定の30回では終わらず5回分を追加している」とある。 これを読んだ「近代批評の神様」と云われて名高い文芸評論家の小林秀雄が日経新聞編集局に次のような葉書を寄越した。「貴紙連載中の田中角栄氏による『私の履歴書』を愛読しております。文章は達意平明、内容また読む者の胸を打つ。筆者によろしくお伝えください」。 この葉書が編集局長から政治部を通して早坂茂三秘書の手に渡ったと早坂著「オヤジとわたし」に記されている。これにつき、れんだいこは従前、川端康成が角栄文を高く評価していたと書いていたが正しくは小林秀雄のようである。ここに訂正させていただく。川端康成の評があるのかどうかは分からない。 当時大学生の長女真紀子がそれをききつけて、「パパ、小林秀雄がパパの文章をほめてたそうよ」と云いに行ったら、角栄は「そうかい、へえー。・・・で、小林秀雄って誰だい?」と聞き返したという逸話が残っている。「オヤジとわたし」では、その遣り取りは早坂秘書と角栄で為されたものであり、それを知らされた真紀子が翌日に早坂秘書に電話を入れ、「あれ、本当に小林秀雄さん?」との確認が有った云々と記されている。 それにしても、田中角栄と小林秀雄の「一瞬の遭遇」が面白い。こう評している小林一喜著「戦後精神における近代と超近代」(文芸社、2000.5月初版 )にネット検索で出くわした。(アドレスが長い為割愛する)早速取り寄せ読むことにした。 ちなみに、れんだいこの知る小林秀雄の凄さは次のところにある。1929(昭和4)年、当時「中央公論」と並んで最も権威ある総合雑誌であった「改造」の懸賞論文に一等当選の栄誉を得たのは後に共産党指導者になる宮本顕治の「敗北の文学」で、次点が小林秀雄の「様々なる意匠」であった。当時の審査員がそう評したと云うことであって作品の優劣ではない。 共にプロレタリア文学を論じていた。宮本顕治の「敗北の文学」はマルクス主義の通俗的教条を振り回して芥川文学を評していた。次のような観点を披歴している。概要「ブルジョア・リアリズムとしての自然主義文学よりプロレタリア.リアリズムの勝利へ――この道程は、近代文学の必然的方向であり、より重大なことは、彼らの属した非プロレタリア階級の認識そのものが、既に主観客観の同一性を持ち得なかったのである」、概要「主観的認識が、同時に客観的認識足り得る歴史的必然に立ち得る文学的見地、自己の階級的主観が同時に世界の客観的認識としての妥当性を持つ者は、プロレタリア階級のみである」、概要「現代文学の先端が、プロレタリア文学の旗によって守られているということを認定することが肝要である」、「芸術が形象的思想である以上、プロレタリア芸術家は、何よりも骨の髄まで、細胞の中まで、プロレタリア的な感情によって貫かれていなければならないのである」、「芥川氏の場合、究極、労働階級を知らず、観念論の無力を自覚し得なかった」、「『社会主義の武器を持ってブルジョアジーへの挑戦を試みなかった彼の限界性。根本的批判』がなさればならない、という『批評の党派性』を身につけねばならない」、「芥川文学に『一つの彷徨時代。社会的進歩性』を認めることができても、ブルジョワ文学が、他の何物にも煩わされることなく、ひたすらに芸術的完成を辿った過程は、芥川竜之介の自殺を一転機とするブルジョワ文学の敗惨の頁によっ て、終結を告げたと見ていい」。 これに対し、小林秀雄は既にかの時点でマルクス主義の通俗的教条に批判的な論評を加えている。「私には文芸評論家が様々な思想の制度をもって武装している ことをとやかくいう権利はない。ただ鎧というものは安全では有ろうが、随分重たいものだろうと思うばかりだ」、「マルクス主義 文学、――恐らく今日の批評壇に最も活躍するこの意匠の構造は、それが政策論的意匠であるが為に、他の様々な芸術論的意匠に較べて、一番単純なものに見える」、「私は、ブルジョワ文学理論のいかなるものかも、又プロレタリア文学理論のいかなるものかも知らない。かような怪物の面貌を明らかにする様な能力は人間に欠けていても一向差し支えないものと信じている」、「私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。ただ一つの意匠をあまり信用し過ぎない為に、むしろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない」。 当時に於いてはおいては宮本顕治の論の方が鋭いように思えたのであろうが、あれから80年を経た今日では小林秀雄の批評の方こそ 「時代に媚びず阿ねず」で文芸論的な眼が確かなのではなかろうか。未だにそう思わない者も居るだろうから、「マルクス主義の通俗的教条」に対する態度の論であるとしておこう。 そういう真贋を見抜く眼を持つ当代一の文芸評論家である小林秀雄が同じく当代一の政治家であった田中角栄の文を称賛した意味は大きい。小林秀雄の孤高の精神からして、今をときめく幹事長故の角栄文激賞ではない。素の角栄文を高く評価して、その評価から幹事長地位に上り詰め、いずれ首相にまでなろうとしている政治家・角栄を首肯したのに相違ない。小林一喜氏は、「確と相通じた両者の精神の交点」と評し絶賛している。「類は友を呼び、あい親しむ」の法理の絶好例ではなかろうか。このことを教えてくれた「戦後精神における近代と超近代」を読まずにおれるか。 その角栄の書は筋が良かったらしい。端正で勢いのある字を書き、書道家が褒めたと云う。政治家に色紙や額の題字書きはつきものだ。角栄は自筆をモットーにしており、「こんなに書かされたら死ぬ」と文句をいいながらも、山積みの色紙に一切手抜きせず、真剣に筆を執った。その先に支持者のそれぞれの顔を見ていたのだろう。今こういう労を取る政治家が果たして何人いるだろうか。 2010.10.24日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評833訂正文 | れんだいこ | 2010/10/24 17:59 |
【角栄の文章能力評】
ここで、角栄の文章能力について言及しておく。近視眼的「田中角栄諸悪の元凶観」から一度離れて角栄を遠望した時、元文学青年にして文達者であった素の角栄が見えてくる。これを確認しておく。 角栄は、文章を書くのも得意で能筆家であり且つ自筆文をモットーにしていた。幹事長、蔵相などの激務のさなかでも可能な限り自ら筆をとった。やむを得ず代筆させるときでも、でき上がった原稿に納得のいくまで赤筆を入れた。簡単なインタビューでも、口述がそのまま原稿になるよう配慮する。文体は簡潔な散文調であった。所信表明演説の草稿も角栄自身が書きあげ演説している。こういう首相はなかなか出てこない。 角栄の文才は既に、1933(昭和8)年、15歳の時に認められている。二田尋常高等小学校高等科卒業時、卒業生総代として答辞を読んでいる。この時凝りに凝った文案を作成し、立派に読み上げている。「残雪はなお軒下にうずたかく、いまだ冬の名残りも去りがたけれど、わが二田の里にも、更生の春が訪れようとしています」云々。卒業後暫くの間、自宅の独学で中学講義緑を学んだり、漢詩を暗誦したり、書道に熱中している。余程進学したかったことと将来の進路を掴もうとして充電中であったものと推測される。「明治大正文学全集」、大衆雑誌「キング」、姉が読んでいた「婦女界」などを耽読している。新潮社の雑誌「日の出」に懸賞小説を投稿し、「三十年一日の如し」で選外佳作5円貰っている。「私の最初の収入は原稿料なのですよ。子供の頃、文士にあこがれましてね。モノを書くということでは、みなさんの先輩かな」と回顧している。 1966(昭和41)年、日経の「私の履歴書」に登場した角栄は、他の多くの者がゴーストライターを用意しているのに自ら書き上げている。「最初の5回分は口述筆記の原稿に手を入れたものを載せたが、読んで自分でも気に入らなかったのだろう、6回目からは自ら筆をとって書いた。本人の書いたものは俄然面白くて読みやすい。かなりノッて書いたようで、予定の30回では終わらず5回分を追加している」とある。それを読んだ「近代批評の神様」と云われる文芸評論家として名高い小林秀雄が日経新聞編集局に次のような葉書を寄越した。「貴紙連載中の田中角栄氏による『私の履歴書』を愛読しております。文章は達意平明、内容また読む者の胸を打つ。筆者によろしくお伝えください」。 この葉書が編集局長から政治部を通して早坂茂三秘書の手に渡ったと早坂著「オヤジとわたし」に記されている。これにつき、れんだいこは従前、川端康成と記していたが正しくは小林秀雄のようである。ここに訂正させていただく。当時大学生の長女真紀子さんがそれをききつけて「パパ、小林秀雄がパパの文章をほめてたそうよ」と云いに行ったら、角栄は「そうかい、へえー。・・・で、小林秀雄って誰だい?」と聞き返したという逸話が残っている。「オヤジとわたし」では、その遣り取りは早坂秘書と角栄で為されたものであり、それを知らされた真紀子が翌日に早坂秘書に電話を入れ、「あれ、本当に小林秀雄さん?」との確認が有った云々と記されている。 それにしても、田中角栄と小林秀雄の「一瞬の遭遇」が面白い。こう評している小林一喜著「戦後精神における近代と超近代」(文芸社、2000.5月初版 )にネット検索で出くわした。(アドレスが長い為割愛する)早速取り寄せ読むことにした。ちなみに、れんだいこの知る小林秀雄の凄さは次のところにある。1929(昭和4)年、当時「中央公論」と並んで最も権威ある総合雑誌「改造」の懸賞論文に一等当選の栄誉を得たのは後に共産党指導者になる宮本顕治の「敗北の文学」で、次点が小林秀雄の「様々なる意匠」であった。当時の審査員がそう評したと云うことであって作品の優劣ではない。 共にプロレタリア文学を論じたものであるが、宮本顕治の「敗北の文学」はマルクス主義の通俗的教条を振り回して芥川文学を評していた。次のような観点を披歴している。概要「ブルジョア・リアリズムとしての自然主義文学よりプロレタリア.リアリズムの勝利へ――この道程は、近代文学の必然的方向であり、より重大なことは、彼らの属した非プロレタリア階級の認識そのものが、既に主観客観の同一性を持ち得なかったのである」、 概要「主観的認識が、同時に客観的認識足り得る歴史的必然に立ち得る文学的見地、自己の階級的主観が同時に世界の客観的認識としての妥当性を持つ者は、プロレタリア階級のみである」、概要「現代文学の先端が、プロレタリア文学の旗によって守られているということを認定することが肝要である」、「芸術が形象的思想である以上、プロレタリア芸術家は、何よりも骨の髄まで、細胞の中まで、プロレタリア的な感情によって貫かれていなければならないのである」、「芥川氏の場合、究極、労働階級を知らず、観念論の無力を自覚し得なかった」、「『社会主義の武器を持ってブルジョアジーへの挑戦を試みなかった彼の限界性。根本的批判』がなさればならない、という『批評の党派性』を身につけねばならない」、「芥川文学に『一つの彷徨時代。社会的進歩性』を認めることができても、ブルジョワ文学が、他の何物にも煩わされることなく、ひたすらに芸術的完成を辿った過程は、芥川竜之介の自殺を一転機とするブルジョワ文学の敗惨の頁によっ て、終結を告げたと見ていい」。 これに対し、小林秀雄は既にかの時点でマルクス主義の通俗的教条に批判的な論評を加えている。「私には文芸評論家が様々な思想の制度をもって武装している ことをとやかくいう権利はない。ただ鎧というものは安全では有ろうが、随分重たいものだろうと思うばかりだ」、「マルクス主義 文学、――恐らく今日の批評壇に最も活躍するこの意匠の構造は、それが政策論的意匠であるが為に、他の様々な芸術論的意匠に較べて、一番単純なものに見える」、「私は、ブルジョ ワ文学理論のいかなるものかも、又プロレタリア文学理論のいかなるものかも知らない。かような怪物の面貌を明らかにする様な能力は人間に欠けていても一向差し支えないものと信じている」、「私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。ただ一つの意匠をあまり信用し過ぎない為に、むしろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない」。 当時に於いてはおいては宮本顕治の論が鋭いように思えたのであろうが、あれから80年を経た今日では小林秀雄の批評の方こそ 文芸論的に鋭く「時代に媚びず阿ねず」で眼が確かなのではなかろうか。そういう真贋を見抜く眼を持つ当代一の文芸評論家である小林秀雄が同じく当代一の政治家であった田中角栄の文を絶賛した意味は大きい。小林秀雄の精神からして今をときめく幹事長故の角栄の文を激賞したのではない。素の角栄の文を高く評価して、その評価から幹事長地位にまで上り詰め、いずれ首相になろうとしている角栄を首肯したのに相違ない。小林一喜氏は、「確と相通じた両者の精神の交点」を絶賛している。類は友を呼び、あい親しむの絶好例ではなかろうか。このことを教えてくれた「戦後精神における近代と超近代」を読まずにおれるか。 その角栄の書は筋が良かったらしい。端正で勢いのある字を書き、書道家が褒めたと云う。政治家に色紙や額の題字書きはつきものだ。角栄は自筆をモットーにしており、「こんなに書かされたら死ぬ」と文句をいいながらも、山積みの色紙に一切手抜きせず、真剣に筆を執った。今こういう労を取る政治家が果たして何人いるだろうか。 「田中角栄の文筆能力、話法について」 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/sisosiseico/bunphitunoryokuco.htm) 2010.10.24日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評834 | れんだいこ | 2010/10/27 16:51 |
【角栄-清玄の両田中の繋がり考改訂版】
田中角栄と田中清玄の関係についての希少な記述を得たので記しておく。「松岡正剛の千夜一冊」の「第千百十二夜【1112】2006年2月20日」の「田中清玄・大須賀瑞夫『田中清玄自伝』1993 文芸春秋」が次のように記している。 「田中角栄が首相になってからは、北海油田の開発参加権利をめぐって動いた。日本が北海油田に参加して開発して採取した石油をアメリカに渡す代わりに、アラスカのノースポール油田とBP(ブリティッシュ・ペトロリアム)とエクソンが掘っている油田に日本を参加させろというスワップ方式の提案だった。BPのアースキン卿も賛同した。これは失敗した。事前に情報が漏れたためだった。田中はその漏洩が日本精工社長をやっていた今里広記だと睨んでいるようである。〔彼はもともと株をやっていたですからね。この話を利用して一儲けを企んだんですよ。株をやる奴は当時も今も考えることは同じですよ〕。田中はこうも言っている、〔日本には政治家はだめだけれど、財界人はいいという考えがあるけれど、これは間違いです。政治家と同じです。甘さ、のぼせ上がり、目先だけの権力欲。それを脱していない〕。田中が認めた財界人は、池田成彬、松永安左エ門、経済同友会の代表幹事をつとめて新自由主義を唱えた木川田一隆、大原総一郎、土光敏夫くらいなものだったようだ」。 他にも「戦後経済史 あの時の真実」(日経社、1988年初版)に次のような記述がある。概要「田中清玄:インドネシアから石油を引いてくるのに駈けずり回っていた頃、『君は何か得るところがあるのか』、田中角栄さんはそう言ったな。『自分の活動で使った借金さえ返せればそれでいい』と言ったら、『うーん、それでいいのか。それにしても清玄さん、あんたは国士だなぁ。おれんところへ来るのは全部利権屋だ。何ぼ儲けるとか、そんなのばっかりだよ。俺はあんたのような人物を待っておったんだよ』と言っていた」。 清玄の次のような角栄評が遺されている。「(田中元首相との付き合いを聞かれて)田中さんは確かに天才的な人でしたね。今日でも田中さんに対してはいい人だし、そもそも俺はあのロッキード事件というのは、アメリカの差し金と信じているから、何とか名誉回復もしてあげたいと思っています。ただ惜しむらくは田中さんの周りには、知性のある人は一人もいなかった。早大雄弁会の竹下や、金丸程度が関の山だ」。 清玄と角栄の会話の一端が紹介されている。清玄が角栄に対して次のように鋭く財界批判している。概要「(三井物産の池田芳蔵を評して)財界人などといっても、この手合いはこんな程度ですよ。恥じということを知らん。あんな連中は利権の絡んだところ以外は、動きませんよ。同じ三井の池田だけど、成彬先生と芳蔵では全然違います。釣鐘に提灯だ。役人達はあんた(田中角栄のこと)の役所の両角良彦次官と小長啓一秘書官を除けば後はみんな敵側だ。商社に至っては、目先の利益で動くだけでとても話しにならん」。 「それから俺はもう今里という人間は一切相手にしなくなった。彼はもともと株をやっていたですからね。この話を利用して一儲けを企んだんですよ。今と同じです。今里はその後死んだが、俺が財界そのものを信用しない理由はそれだ。それが吉田四天王の一人だよ。自分のことだけだ。日本の国には政治家はダメだけど、財界人はいいという考えがあるけど、これは間違いです。政治家と同じです。甘さ、目先だけの権力欲。それを脱しきらなければ、日本人は本当の意味で世界の人たちから尊敬されません。日本になりきり、アジアになりきり、宇宙になりきる、そういう人が今政界でも財界でも、求められているんじゃないでしょうか。三井の池田成彬さん、松永安左エ門さん、それとモンペルラン・ソサイエティーでいろいろご協力いただいた木川田一隆さん、大原総一郎さん、石油の時には土光敏夫さん。いずれも第一級のエコノミストでした。私がお付き合いいただいた財界人たちは、財界人であること以前に、いずれもまず人間として大変立派な人格者であり、また豊かな知性と優れた見識を持つ知識人でした。金を儲けさえすれば良しとする昨今の財界人とは全然違います。社会は豊かに、暮らしは質素にというのが土光さんのモットーでしたが、今それだけのことを実践している人が誰かおりますか。口で言うのは簡単ですが、実行してみせなきゃ」。 これらによると、「田中角栄と田中清玄の良好な関係」ぶりが知れる。一回りも年長の田中清玄の方がへりくだっているようにも見える。あの人に媚びを売らない清玄がである。角栄の貫禄の凄さを窺うべきではなかろうか。 れんだいこは、「田中角栄と田中清玄の良好な関係」は伏せに伏せられている裏史実とみなしている。両者の親密さの確認が何故に重要かと云うと、角栄政治の左派的傾向が立証されるからである。通俗的な理解では、日共が諸悪の元凶として角栄を叩きに叩き続けたので、「戦前来の正義の党」として共産党を素朴に畏敬する系譜の者から見れば、角栄ほど悪い奴は居ないと未だに洗脳されている者が居るのも致し方ない。しかしながら、「田中角栄と田中清玄の良好な関係」のプリズムを持ちこむと、角栄諸悪元凶説は途端に曇り始める。れんだいこの言を聞けば途端にガラス細工がもろくも崩れる如くになる。 田中清玄は、戦後は民族系右翼として政界に暗躍した。専ら米奴系の児玉一派と対抗していた。この辺りを正確に知る必要がある。田中清玄とは何者か。彼は、戦前の「武装共産党」時代の日共委員長であり、弾圧に告ぐ弾圧で壊滅寸前の困難な時代に委員長を引き受け指導した。戦後は国士となり且つ資源系経済活動に活躍した。そういう中にあって60年安保闘争を領導したブント全学連運動に血が騒ぎ、良き理解者であり相談役ともなった。 これに対し、その頃日共党中央を掌握していた宮顕一派は、60年安保闘争後狂ったように清玄批判を開始する。田中清玄を右翼の親玉として描き出し、「その右翼から資金を得ていたブント運動の非」を太鼓叩いて煽っていった。60年安保闘争を領導したブント全学連運動は人民史的財産であるが、これを叩くことに狂奔した。日共はこういう悪行を諸戦線で執拗に繰り返している。こういうペテンにやられる方もやられる方であろうが。 日共史では福本時代、武装共産党時代、戦後の徳球時代が揃って否定的に記述されているが、れんだいこ史観では逆になる。福本時代は、マルクス主義の諸論説を日本左派運動が初めて土着化させようと自主的に営為し始めた時代であり、その水準も高かった。日本左派運動派には、これを下手に潰した後遺症が未だに続いており理論音痴となっている。武装共産党時代は後の党運動に重要な基盤となるタネを各所に扶植した時代であり党勢を正成長させている。戦後の徳球時代はGHQの思惑を越えて日本左派運動を名指導しGHQの強権干渉なかりせば国会内に戦後左派政権を樹立していたかも知れない時代であった。 これらの時代こそ肯定的に総括されるべきである。ところが日共党史ではこぞって罵詈雑言されている。れんだいこ史観に照らせば罵詈雑言されるべき時代が称賛され、特に宮顕の功績が喧伝されていることになる。日共党史はかように肝心なところを逆さに記述する。本当の史実を知らされていないから、党員達はいかようにもゴマかされてしまう。つまり、下手に学べば学ぶほどバカになる仕掛けにされている。故に学ぶにも学び方が必要な時代になっていることを知らねばならない。今日の日共の惨めな逼塞の背景に、こうした変調指導が介在しており、これが党勢衰退の真の原因であるように思われる。そういう意味で疎かにできない。 もとへ。田中清玄は戦前は武装共産党時代の委員長、戦後は真の民族系右翼として身すぎ世すぎした。この代わり者である田中清玄と田中角栄が妙にウマが合い地下で繋がっていたとしたら、どういうことになるか。田中角栄をも変わり者として見ようと云うのでは話にならない。田中角栄の左派的本質を認めるべきではなかろうか。 一見、反体制側の委員長、書記長の肩書にある者ともなると左派的革新的に見える。一見、政権党の総裁であったり首相であったりすれば保守的体制的に見える。しかし、肩書を字面通りに受け止め評価するのは子供の能力でしかない。大人になると正しく勘繰ることができるようになる。れんだいこ史観では、種々の事情から政治が捩れており、人は種々にカメレオン化しているので名刺や肩書だけでは信を置くに値しないとみなしている。そういう訳で、人は言葉ではなく行いを見て判断せねばならないと心がけている。本質的なところで共産党委員長が反共的、体制側の政権党首が裏真実的に左派的と云うことは十分考えられると思う。子供の頭脳ではここが解けない。大人になっても同様の者は体だけが大人になったに過ぎない。老人といえども然り。 れんだいこ史観に照らせば、「田中角栄と田中清玄の良好な関係」はカメレオン同志の左派系提携と見える。正確には左派系とか右派系とかどうでも良いところで成り立っている。そういう役に立たない西欧仕込みの仕分けではなく識別すれば、田中角栄と田中清玄は在地土着的ないわばン千年来陶冶され今日まで続いている縄文系頭脳の邂逅のように映る。これに対して、反角栄反清玄で口を尖らし悦に入る政治家の殆どが右派系であろうが左派系であろうがなべてシオニスタンのように映る。そう、日本政治は、民族系縄文系政治家と売国系シオニスタンが拮抗対立し続けて日々の政治史を刻んでいる。こう確認すべきではなかろうか。 執拗に続く小沢キード事件、小沢どんに対する政治訴追、辞職運動も、この観点に照らせばたちまち透けて見えてくる話である。誰が口を尖らすのか、エージェントなのか、これを確認すれば良い。 2010.10.27日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評835 | れんだいこ | 2010/10/29 20:52 |
【毛沢東―角栄会談秘話考その4、毛沢東の「楚辞集注」贈呈の裏意味考】
現代政治、政局の痴態に食傷するれんだいこは、その反作用であろう田中角栄と再対話している。今日も久しぶりに古本屋に立ち寄り、大概の角栄本は読んでいるつもりであるが読み落としていた早坂茂三著「オヤジとわたし」(集英社、1987.1.20日初版)を見つけた。今読み進めているが、早坂氏の角栄ものの中でも傑作ではなかろうか。読了後、れんだいこの角栄論の中に取り込み、更に充実させたいと思う。 ここでは、毛沢東―角栄会談秘話考その4として毛沢東の「楚辞集注」贈呈の裏意味を愚考してみる。 ここに一つの逸話がある。角栄は首相就任時に「決断と実行」を掲げ、その言葉通り日中国交回復交渉に取り組み北京へと飛んだ。道中の剣呑さをも見事こなして堂々と帰国したのは衆知の通りである。ところで、ここで見落としてはならないエピソードがあるので以下記す。 角栄は、この時、毛沢東主席と会談した際に、自筆の漢詩調の詩文墨書き4行詩を毛主席に手渡している。「国交途絶 幾星霜、修好再開 秋将到、隣人眼温吾 人迎、北京空晴 秋気深」 (国交が絶えて久しかったが今国交回復の機が到来した。中国人民の眼は温かく、北京の空は晴れ秋の香りがする) 毛主席が会談の別れ際に直接、そのお返しにくれたのが、詩経とならぶ中国の詩文の古典「楚辞集注全六冊」(「屈原詩註4冊」ともある)であった。世上、この毛沢東の田中角栄に対する「楚辞集注」プレゼントの意味を様々に解釈している。れんだいこを得心させるものはない。そこで、れんだいこが読み解こうと思う。「楚辞集注全六冊」の解説については「『楚辞』~中華文明の黎明期~」その他を参照する。 当時の角栄は首相就任直後の飛ぶ鳥をも落とす勢いの頃である。日中国交回復は日中共に利益のあることであったが、それを纏め上げることにはかなり難易度の高い外交問題が介在しており、日本側の田中-大平コンビ、中国側の毛-周コンビでなければ到底解決し得なかった。せいぜい先送りの糸口を作った程度で物別れに終わるのが関の山であった。それを、譲るべきところは譲り引かざるところは引かず、ものの見事に纏め上げた角栄の手腕は剋目すべきものであった。毛主席はそれらのことを踏まえた上で、角栄の尋常ならざる有能性を見抜き、最大級のもてなしを意味する会見の場を設けた。会談は1時間に渡った。田中が辞去するとき渡されたのが「楚辞集注」であった。 「楚辞集注」とは如何なる書か。れんだいこは読んではないのだが、解説本を読むのに主役は屈原である。ならば屈原とは何者か。司馬遷の史記の屈原賈生列伝に記されている屈原像、その他の文献から推定するのに、屈原の人となりは次のようなものであった。 「屈原は中国楚の時代の辺境県に頭角を著していた楚の国の王族系重臣であり且つ優れた詩人でもあった。つまり、現代で云えばトップ級の官僚又は政治家であったと云うことになる。その性は剛直で是非の分別に明るい質であった。国を憂いて度々、懐王に経綸を奏上したが、聞き入れられないばかりか却って疎んぜられた。後に懐王は秦の張儀に騙され虜囚となり新しく頃襄王が立った。屈原はこの王にも煙たがられた。 やがて党人といわれる君側の小人たちの嫉妬や讒言、これを聞きいれた君主の不明によって官位を奪われ、政界追放の悲運に遭う。屈原は憂愁と憤懣のうちに山野水辺を放浪し続けた挙句、国家の将来を案じながら汨羅江の淵に身を投げる。こうして自ら生を終えた悲運の人であった。5月5日の端午の節句にちまきを食べる風習があるが、屈原を偲ぶのが事始めの行事と云われている。屈原が当時の民衆から支持されていたからこその楚辞集注であり、風習の生まれであると思われる」。 「楚辞」のそういう内容を踏まえれば、れんだいこが何を云いたいのかもはや明らかであろう。帝国主義列強の草刈り場になり存亡の淵に陥っていた近代中国の危機を救った英傑毛沢東は、「英雄は英雄を知る」の心情によってか、角栄の中に本質的に見ての左派的気質、その有能性、それ故に待ち受ける壁を見抜いていた。目前に見るのは政権絶頂期にある角栄ではあったが、毛沢東は前途に立ち塞がる政治的な危機、政権基盤の危うさを見て取っていた。まさに角栄は「楚辞」文中の屈原であることを見抜いていたのではなかろうか。そういう警句と愛着を込めて「楚辞集注」を贈ったと考えられる。 毛沢東の予感は奇しくも当たった。その後のロッキード事件に翻弄されていく角栄は屈原そのものだった。政権を手放して後の角栄はやがてロッキード事件に見舞われ、刑事被告人として磔の刑に遭う。公判闘争を余儀なくされ翻弄された姿は、屈原が憂愁と憤懣のうちに山野水辺を放浪し続けた姿とダブルではないか。国家の将来を案じながら汨羅江の淵に身を投げ自ら生を終えた屈原は、角栄の終末そのものではなかろうか。これを予見した毛沢東の慧眼恐るべし、角栄の悲哀知るべしではなかろうか。れんだいこは、「楚辞集注」贈呈の裏意味をかく読みとる。 しかし、世の自称識者は異なる解釈で悦に入っている。毛主席が角栄に「楚辞」を渡した意図について、日本の大手新聞社記者は次のようにコメントしている。概要「(角栄が読み上げた漢詩を念頭に置いて)漢字を連ねただけでは詩にならない。少し漢詩の作り方を勉強しなさいという毛主席の皮肉を込めた返礼である」。 何とも愚にもつかぬ論評ではなかろうか。誰しも己の知の水準に合わせて政治を測るものであり多少の曲解は免れ難いが、これは酷過ぎるのではなかろうか。この記者の姿勢には、己の非力を弁えながら最高度の政治の機微とアヤを窺おうとする姿勢が微塵もない。逆に粗脳のままに粗脳的に理解し、その理解で角栄を揶揄すると云う傲慢不遜さを見せている。 あるいは、「迷惑論争」で揺れた経緯を踏まえて、中国語の用法がふんだんに使用されている「楚辞」を贈ることにより中国的文意を知らせようとの配慮から贈られたなる解釈を開陳する者も居る。これも大手新聞社記者と同水準の説教コメントでしかない。現代中国論の権威である矢吹晋・氏は、「田中角栄の迷惑、毛沢東の迷惑、昭和天皇の迷惑」でかなり長文の検証をしている。しかし幾ら読んでも、どう推理しているのかが出てこないらっきょう文になっている。 2009.5.14日付けの大金先輩情報によると、安岡正篤が「無礼、返却するのが筋」といったのは有名な話しとのことである。安岡氏の立論の構図全体が分からないが、「飛ぶ鳥を落とす勢いの角栄に不吉な屈原を重ね合わせる非礼批判」であったとしたなら、安岡氏の洞察力がさすがのもので、他の評者のそれよりはマシであることになる。しかしながら、その後ロッキード事件で倒れた角栄を知れば、毛主席の洞察力がその上を行っていたことになり、合わせて興味深い。 これらが当代一流とされるインテリの論評水準である。何とお粗末なことだろうか。この連中の末裔が目下、小沢キード事件を仕掛け、執拗に政治訴追、政界追放を策している。彼らには恥じを知ると云う知性がないことが分かる。幾ら経験を重ねても凡庸さを深めるだけの、相変わらずの「高みの説教」を重ねる幸せな生涯を経て、それを良しとするのだろう。しかし、今後どんな新解釈が生まれようとも、れんだいこ的「角栄の本質的左派政治に注目し、角栄の前途の険しさ屈原になぞらえた毛沢東の慧眼」を見ようとしない論評は的から外れることになろう。 れんだいこは、目下の政治、政局のチンドン芸に飽いた。論評するに値しない。こういう折には、在りし日の生きた政治が有った日々を追憶すべきではなかろうか。池田隼人、田中角栄、大平正芳時代の政治、あれはいったい何だったのだろう。今50年経って見えてくるのは、あの時代こそ戦後日本特有の面従腹背系の日本版左派政治だったのではなかろうか。これが徹底的に壊された現下の政治には知能がない。今こそ学生運動が立ちあがるべきではなかろうか。それが逆になっていると云うことは、学生運動の正体も随分怪しいものだったと云うことになる。ならば、メンツにかけて復権せねばならないのではなかろうか。今となっては余りにも脳がヤラレてしまっているけれども。 田中角栄論新版 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/) 田中角栄の思想と政治姿勢、資金源、人脈考 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/sisosiseico/sisosiseico.htm) 毛沢東―角栄会談秘話、角栄の悲劇性予見 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/sisosiseico/motakutokaidan.htm) 2004.7.10日再編集、2010.10.29日再編集 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評836 | れんだいこ | 2010/10/30 18:14 |
【日中最高首脳部会談考その2、秘話】 2010.10月現在、日中は菅改造内閣の前原外相の下で、日中離間外交が押し進められようとしている。アジア間の悶着を誰が差し金しているのか、請け負っているのか云うまでもない。こういう時であるからこそ、かの時の田中角栄一行と毛沢東一行の日中最高指導部の秘密会談の内容を確認して見たい。以下、「日中最高首脳部会談考その2、秘話」を愚考する。 ひと通リの挨拶と雑談が終わると、毛沢東は田中角栄の目の前で、やおら右手を頭上にあげた。その手を左右にゆっくりと振る。田中達の前で何度か同じ動作を刳り返した後、彼は視線を泳がせるようにしながら口を開いた。「田中先生、日本には四つの敵があります」。 この発言を耳にして、田中は辟易し、内心ではくど過ぎると思ったと云う。「四つの敵」という言葉は、中国を訪問する前に行われた外務省のブリーフィングで、何度も聞いていた言葉だったからである。曰く、「アメリカ帝国主義」、「ソ連修正主義」、「日本軍国主義」、「日本共産党宮本修正主義」の「四つの敵」と戦うよう、当時の中国共産党は日本に対して盛んに訴えていた。いわば、中国革命外交のキーワードだった。「日本軍国主義」については中国訪問の当日からさんざん説明し、中国側の理解も得たはずのテーマである。それを又も聞かされるのか。 だが、毛の口から出た「四つの敵」は田中の想像を裏切るものだった。毛は右手の指を一本ずつ折り始め次のように語った。「最初の敵はソ連です。親指が曲がった。二番目がアメリカです。人差し指がたたまれる。そしてEC(ヨーロッパ)です。中指を折りながら発言が続いた。最後がと言いつつ、毛の薬指が曲がった。それは中国です」。 視線は四本の指を折り曲げた自分の右手に向けられたまま、田中らを見ようともしない。その姿は、瞑想に耽っているようだった。列席した人の中からは咳き一つ聞こえない。田中だけではない。大平も二階堂もこの言葉に沈黙していた。静寂の中、毛の声だけが室内に響いた。 毛は更に話を進めた。意外な人物の名前が毛の口から発せられた。「あなた方はヒットラーをご存知ですね。今でもヒットラーは西側の一部では尊敬されていますが、私の見るところではバカな男です。彼はイギリス、フランスを敵に回し、ソ連に挑み、最後にアメリカと衝突したのです。中国人民もまた敵になったのです。彼は全世界を敵に回してしまったのです。なんと愚かな男でしょうか」。 次に槍玉に挙がったのが、日本の東条英機だった。「お国の東条も同じでした。まず最初に中国と戦いました。アメリカに戦争を挑み、イギリス、フランスとも衝突しました。最後にはソ連とも戦う羽目に陥ってしまった。世界中が日本の敵になったのです。みんなを敵にして、東条は自滅していったのです」。 彼らの名前を挙げて、毛は田中にこう聞いた。「あなた方はもう一度ヒットラーや東条の歩んだ道を歩むのですか。よく考えなくてはいけません。世界から孤立して、自暴自棄になって自滅していくのですか。アメリカ、ソ連、欧州、そして中国。この四つを同時に敵に回すのですか」。 ここから先は、れんだいこが会話を推理する。毛沢東は次のように述べたのではなかろうか。「今後の世界は、アメリカ、ソ連、欧州、中国が基軸になります。この4大国は歴史的に見てもも互いに相容れず、今後とも協調しつつ対立していくことになるでせう。さて、日本は、この4大国とどう関わりあうのか、それが問題です。4大国全てと仲良くすることはできそうでできません。それはどの陣営とも腹蔵ない関係に立っていないことを証左しているに過ぎません。奥深いところで、どちらかの陣営と連合する以外に生き延びることができません」。 毛沢東の話は続いた。「あなた方がこうして北京にやってきたので、どうなるのかと、世界中が戦々恐々として見ています。中でも、ソ連とアメリカは気にしているでしょう。彼らは決して安心はしていません。あなた方がここで何を目論んでいるのかが分かっているからです」。 二つの大国が日本と中国の接近の行方を注視している。毛はこう云うのだった。「ソ連と較べると、アメリカはまだ幾らかはましでしょう。しかし、田中先生が来たことを愉快には思っていません」。 ソ連が日中接近を警戒するのは分かる。日本と中国という、ソ連に対して友好的ではないアジアの二大国が関係を正常化することにモスクワは神経を尖らせていた。アメリカはなぜ気分が悪いのか。「ニクソンはこの二月、中国にきましたが、国交の樹立まではできませんでした。田中先生は国交を正常化したいと言いました。つまり、アメリカは、後から来た日本に追い抜かれてしまったという訳です。ニクソンやキッシンジャーの胸にはどのみち気分の良くないものがあるのです」。 毛は笑いながらアメリカとソ連の心中を解説して見せた後、こう述べた。概要「田中先生、何十年、何百年かけても話し合いがまとまらないこともありますが、たった数日で合意することもありますよ。さて、今後の世界はどうなるのか。五十年、百年先を見通さねばなりません。それを思いやれば、究極、民族的、歴史的に近いところが提携するのが一番理に適っています。どうですか、田中先生、我々と組もうではありませんか。組むというなら徹底して組もうではありませんか」。 毛沢東の口から出たのは日中同盟論だった。即答できるような話ではなかった。 漏洩されている会談内容はここまでである。れんだいこには、この「秘話」は極めて重要なメッセージを告げているように思われる。れんだいこ史観によると、稀代の戦略家・毛沢東は、田中角栄に同じ資質を見出し、恰も同志的もてなしをしている。まずこのことに気づくべきである。「角栄の左派的資質」―ここにキーワードが隠されている、とれんだいこは観る。その上で、「トップ・シークレット的百年の計」を授けようとしていると読み取るべきである。この視点によってこそ「毛沢東―角栄会談」の凄さが見えて来る。 れんだいこは、実際にはもっと突っ込んだ話があったのではないかと勘ぐっている。例えば、近代から現代の世界史の動向を語り、世界を裏から支配している国際金融資本帝国主義ネオシオニズムに対する言及が為されていたのではなかろうか。その上での対抗策としての日中同盟論がぶたれていた可能性が有ると観る。但し、この線の話は「最も危険な話」であるからして徹底的に隠されざるをえない。故に推理するしかない。 もとへ。一時間に及ぶ会見は、和やかな雰囲気のうちに終わりに近づいた。毛主席は、書棚の中から糸とじ本の「楚辞集注」全六冊を取ってくるよう服務員に言いつけ、立ち上がってそれを田中首相に手渡した。「楚辞集注」は、楚の宰相であり詩人でもあった屈原らの辞賦を集めた「楚辞」に、南宋の学者の朱熹(朱子)が注釈を付けたものである。毛沢東は、なぜ「楚辞集注」を贈ったのか。これについては別途論ずることにする。毛主席は、田中首相が強く固辞したにもかかわらず、書斎から玄関まで一行を見送りに出た。毛主席の足取りは速く、遅れまいと、林さんは小走りについて行ったという。こうして「歴史的な会見」は終わった。 和やかに終始した「毛沢東―角栄首脳会談」の成功で、日中国交正常化交渉の成功は約束されたも同前だった。時間にして一時間。しかも通訳が入るので実際の会話は30分にしかならなかった。青木直人著「田中角栄と毛沢東」は次のように記している。 「この二人の会談を契機に、それまで足踏みしていた国交正常化交渉は一気に進展し、二日後には共同声明の発表にまで漕ぎつけることができたのだ」、「1972.9.27日、両雄の一度だけの会談は僅か1時間で終わっている。それは日本と田中角栄の運命を決める長い1時間でもあった」。 毛の自宅を辞した田中は大きく息を吸い込んだ。政治抜きと伝えられた日中首脳会談は、徹頭徹尾政治的なものだった。会談終了後、二階堂官房長官が日本の随行記者団にその模様をブリーフィングした。「一切、政治的な話は抜きだった」。その記事が翌朝の新聞紙面に載った。 あれから40年、日中関係は垣根を取り払い、貿易や人の往来の面で大きく発展した。日本資本の中国市場展開も大きく進んでいる。かの時、日中最高首脳部が歴史を読み政治的決断をした「元一日」の賜物であろう。しかしながら、その後の日本政治は大きく暗転する。田中派、大平派が解体され、タカ派が専横する時代になった。中国も然り。文革期に指弾された走資派が奪権し、米中間は蜜月時代に入っている。 れんだいこ史観によれば、日中とも国際金融資本帝国主義に手玉に取られたことを意味する。国際金融資本帝国主義は、日中の親和化を許さない。離間を図り、少なくともワシントンの意向に従うよう指令しシナリオからはみ出ることを許さない。そういう事情により、日中両国は経済的交流を深めつつも、教科書問題、歴史認識、靖国神社への首相公式参拝、ごく最近では尖閣諸島の領土問題等々の政治難題で波風が立つよう仕向けられている。こう読み解くべきではなかろうか。 最後に「歴史的会見」に同席した王さんと林さんの声を聞いてみよう。王氏曰く「中日両国はどんなことがあっても戦争してはいけない。戦争で被害を受けたのは両国の人民であり、ごく少数の日本軍国主義者とは区別すべきだ。歴史を過去のものにし、前に向かって進む必要がある。そのためには、日本は過去の侵略の歴史を承認し、反省する。そこに『中日共同声明』の原点がある。教科書問題などが起こるたびに『原点に帰れ』と私は思う」。 林氏曰く「周総理は、『飲水不忘掘井人』と言われた。今日の中日関係を考えるとき、その井戸を掘った人たちの苦労を忘れてはいけない。国交正常化に到るまでも、民間交流が大きな役割を果たした。民間大使と言われた西園寺公一先生は、国交正常化が実現するまで禁煙を続け共同声明が発表されてからタバコに火をつけて、おいしそうに一服吸った。国交正常化という仕事は、容易ではなかったのです」。 2010.10.30日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評837 | れんだいこ | 2010/10/30 20:43 |
【【日中最高首脳部会談考その3、同志的眼差し】 関連して補足しておけば、「秘話」は角栄の左派的資質を窺わせるのではなかろうか。なぜなら中共政権首脳の毛沢東、周恩来が見せた眼差しが恰も同志的であるからである。毛沢東はそれまで日本共産党指導者の徳球、野坂、宮顕と会談している。この時の態度の差が興味深い。これを結論から述べると、毛沢東の徳球観は同志的であった。徳球も毛沢東を革命遂行の先達の大指導者として仰ぎ見た。その親密さは、徳球が1953(昭和28).9月に北京で客死(享年59歳)し、その遺骨を妻の徳田たつと志賀義雄が持ち帰る為に訪中した際の1955.9.13日、北京で3万人が参列する追悼大会が催され、毛沢東主席が「徳田球一同志 永垂不朽」と称えたことでも知れよう。 野坂に対しては相手にしていない。野坂が親交があったのは後の走資派ばかりである。とかく胡散臭い。宮顕に対しては毛嫌いしており敵性的である。日中共産党の蜜月時代に於いてさえ、まともな会談が一つさえない。宮顕は二度ほど病気療養名目で訪中し大名旅行しているが、「何があれが革命家か」と不評を買っている。これを勘案すれば、角栄―大平に対して見せた同志的態度をどう理解すべきだろうか。一度しか相対せずとも肝胆相照らす仲になっている。 これはどういうことであろうか。れんだいこには何ら解せないものがない。毛沢東は、感性的にも政治的にも徳球、角栄、大平に対して同志的であった。これに引き替え、野坂、宮顕に対しては敵性的であった。つまり左派圏内に闖入して来た異分子と看做していたと云うことであろう。ところが、日本左派運動史では逆に徳球が罵倒され、野坂、宮顕を名指導者とする論調を通説としている。野坂は晩年、モスクワ在住時の同志売りが露見し除名されたが、宮顕の地位は不動である。角栄は諸悪の元凶視されている。宮顕の後を継いだ不破の地位も動かない。その後釜の志位の評価はこれからであるが、宮顕―不破―志位と云う同一系党中央が55年有余に亘って牛耳っている。戦後日本の政党史上不倒の長期政権となって党勢をジリ貧化させている。 もとへ。日中の左派戦線で田中角栄の評価が割れていることになるが、これはどういうことだろうか。れんだいこは、毛沢東の観点の方が正しく日本左派運動の観点の方が歪んでいると見る。但し、毛沢東を絶対視するつもりはない。れんだいこの毛沢東論は建国前に於いて最も有能であり、建国後において経済指導に失敗し凡庸になったと見立てている。その点で、戦後日本を名指導し高度経済成長する日本を牽引している田中角栄を畏敬し、一目も二目も置いていたのではなかろうかと思われる。そういう意味で、毛沢東の建国後の経済政策は失敗したけれども人物論は終始概ね正鵠であったと見る。 この観点に立つと、日本左派運動の貧相な見識こそ恥ずべきと云うことになる。宮顕系日共党中央を始めとする日本左派運動の見識たる反福本論、反田中清玄論、反徳球論、反伊藤律論、反角栄論ほど有害なものはない。彼らは、終始反革命を指導し日本の人民大衆を騙し続けていることになる。これが、日本左派運動失速の過半の原因ではなかろうか。日本を裏で支配する勢力が日共をを始めとする日本左派運動勢力各派を上手に操っていると云うことにもなる。通りで政局のここ一番で自民党内タカ派と日共が論調を一致させる筈である。その他の左派運動勢力各派がこれにダンマリする訳である。このことが何ら不思議ではなくなる。誰かこの認識を共にせんか。 毛沢東のその後の田中角栄に対する眼差しも確認しておこう。毛沢東はその後の角栄に並々ならぬ関心を持ち続け、角栄の動向に慈愛を注いでいた様子が青木直人著「田中角栄と毛沢東」で次のように明らかにされている。概要「1976(昭和51).2.4日、突如ロッキード事件が発覚した。この時既に毛は最後の闘病の日々を送っていた。その後日本の政界は未曾有の政治危機に直面していくことになった。同年7月、毛は中国を訪れたタイのククリット首相に、『私が実際に会って褒めた人は、国に帰るとみな災難に遭っている』と云いながら、ウォーターゲート事件に巻き込まれたニクソンと金脈追及で辞任した田中角栄の名を挙げた」。 『私が実際に会って褒めた人は、国に帰るとみな災難に遭っている』の下りは、毛沢東の客観評論としてではなく、それほど角栄を気にかけていたと窺うべきだろう。 もう一つのエピソードが次のように明かされている。毛は最晩年まで身辺から書籍を離そうとしなかった。病床にあっても意識はまだはっきりしていた。身辺の看護を担当していた愛人の張玉鳳は、毛が選んだ本を朗読することが日課になっていた。では、毛が人生の最後に接した書籍は何であったか。諸説有るが「三木武夫」であったという説がある。 これは何を示唆しているのか。これを読み解くのに、毛は、田中角栄逮捕となった日本のロッキード事件に並々ならぬ関心を持ち、角栄訴追の急先鋒を勤める政治家三木の分析に向かおうとしていたのではなかろうか。決して「クリーンでもないのにクリーン三木」として売り出す三木を評価して三木を知ろうとしていたのではあるまい。青木氏の言をそのまま借りれば、「毛は田中をロッキード事件で追い詰めている三木という政治家の経歴や思想からロッキード事件それ自体の政治的構造を推理したかったのだろうか」ということになる。これが死の前日のエピソードであり、毛は翌日の1976.9.9日に生涯を閉じている。 思えば、毛沢東の評価も、田中角栄の評価も棺を置いてなお定まっていない。政治の最高度のところのものは皆、かような運命にあるのかも知れない。林彪将軍となると闇に消されたままになっている。歴史はかく偽造され、愚昧な通説ばかりが流布される。心して参ろう。自称左派運動研究家にして在家歴史学者のれんだいこが覚束ないながらも歴史の真史に挑む。誰かエールしてくれカンパしてくれふふふ。 2010.10.30日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評837 | れんだいこ | 2010/10/30 20:43 |
【【日中最高首脳部会談考その3、同志的眼差し】 関連して補足しておけば、「秘話」は角栄の左派的資質を窺わせるのではなかろうか。なぜなら中共政権首脳の毛沢東、周恩来が見せた眼差しが恰も同志的であるからである。毛沢東はそれまで日本共産党指導者の徳球、野坂、宮顕と会談している。この時の態度の差が興味深い。これを結論から述べると、毛沢東の徳球観は同志的であった。徳球も毛沢東を革命遂行の先達の大指導者として仰ぎ見た。その親密さは、徳球が1953(昭和28).9月に北京で客死(享年59歳)し、その遺骨を妻の徳田たつと志賀義雄が持ち帰る為に訪中した際の1955.9.13日、北京で3万人が参列する追悼大会が催され、毛沢東主席が「徳田球一同志 永垂不朽」と称えたことでも知れよう。 野坂に対しては相手にしていない。野坂が親交があったのは後の走資派ばかりである。とかく胡散臭い。宮顕に対しては毛嫌いしており敵性的である。日中共産党の蜜月時代に於いてさえ、まともな会談が一つさえない。宮顕は二度ほど病気療養名目で訪中し大名旅行しているが、「何があれが革命家か」と不評を買っている。これを勘案すれば、角栄―大平に対して見せた同志的態度をどう理解すべきだろうか。一度しか相対せずとも肝胆相照らす仲になっている。 これはどういうことであろうか。れんだいこには何ら解せないものがない。毛沢東は、感性的にも政治的にも徳球、角栄、大平に対して同志的であった。これに引き替え、野坂、宮顕に対しては敵性的であった。つまり左派圏内に闖入して来た異分子と看做していたと云うことであろう。ところが、日本左派運動史では逆に徳球が罵倒され、野坂、宮顕を名指導者とする論調を通説としている。野坂は晩年、モスクワ在住時の同志売りが露見し除名されたが、宮顕の地位は不動である。角栄は諸悪の元凶視されている。宮顕の後を継いだ不破の地位も動かない。その後釜の志位の評価はこれからであるが、宮顕―不破―志位と云う同一系党中央が55年有余に亘って牛耳っている。戦後日本の政党史上不倒の長期政権となって党勢をジリ貧化させている。 もとへ。日中の左派戦線で田中角栄の評価が割れていることになるが、これはどういうことだろうか。れんだいこは、毛沢東の観点の方が正しく日本左派運動の観点の方が歪んでいると見る。但し、毛沢東を絶対視するつもりはない。れんだいこの毛沢東論は建国前に於いて最も有能であり、建国後において経済指導に失敗し凡庸になったと見立てている。その点で、戦後日本を名指導し高度経済成長する日本を牽引している田中角栄を畏敬し、一目も二目も置いていたのではなかろうかと思われる。そういう意味で、毛沢東の建国後の経済政策は失敗したけれども人物論は終始概ね正鵠であったと見る。 この観点に立つと、日本左派運動の貧相な見識こそ恥ずべきと云うことになる。宮顕系日共党中央を始めとする日本左派運動の見識たる反福本論、反田中清玄論、反徳球論、反伊藤律論、反角栄論ほど有害なものはない。彼らは、終始反革命を指導し日本の人民大衆を騙し続けていることになる。これが、日本左派運動失速の過半の原因ではなかろうか。日本を裏で支配する勢力が日共をを始めとする日本左派運動勢力各派を上手に操っていると云うことにもなる。通りで政局のここ一番で自民党内タカ派と日共が論調を一致させる筈である。その他の左派運動勢力各派がこれにダンマリする訳である。このことが何ら不思議ではなくなる。誰かこの認識を共にせんか。 毛沢東のその後の田中角栄に対する眼差しも確認しておこう。毛沢東はその後の角栄に並々ならぬ関心を持ち続け、角栄の動向に慈愛を注いでいた様子が青木直人著「田中角栄と毛沢東」で次のように明らかにされている。概要「1976(昭和51).2.4日、突如ロッキード事件が発覚した。この時既に毛は最後の闘病の日々を送っていた。その後日本の政界は未曾有の政治危機に直面していくことになった。同年7月、毛は中国を訪れたタイのククリット首相に、『私が実際に会って褒めた人は、国に帰るとみな災難に遭っている』と云いながら、ウォーターゲート事件に巻き込まれたニクソンと金脈追及で辞任した田中角栄の名を挙げた」。 『私が実際に会って褒めた人は、国に帰るとみな災難に遭っている』の下りは、毛沢東の客観評論としてではなく、それほど角栄を気にかけていたと窺うべきだろう。 もう一つのエピソードが次のように明かされている。毛は最晩年まで身辺から書籍を離そうとしなかった。病床にあっても意識はまだはっきりしていた。身辺の看護を担当していた愛人の張玉鳳は、毛が選んだ本を朗読することが日課になっていた。では、毛が人生の最後に接した書籍は何であったか。諸説有るが「三木武夫」であったという説がある。 これは何を示唆しているのか。これを読み解くのに、毛は、田中角栄逮捕となった日本のロッキード事件に並々ならぬ関心を持ち、角栄訴追の急先鋒を勤める政治家三木の分析に向かおうとしていたのではなかろうか。決して「クリーンでもないのにクリーン三木」として売り出す三木を評価して三木を知ろうとしていたのではあるまい。青木氏の言をそのまま借りれば、「毛は田中をロッキード事件で追い詰めている三木という政治家の経歴や思想からロッキード事件それ自体の政治的構造を推理したかったのだろうか」ということになる。これが死の前日のエピソードであり、毛は翌日の1976.9.9日に生涯を閉じている。 思えば、毛沢東の評価も、田中角栄の評価も棺を置いてなお定まっていない。政治の最高度のところのものは皆、かような運命にあるのかも知れない。林彪将軍となると闇に消されたままになっている。歴史はかく偽造され、愚昧な通説ばかりが流布される。心して参ろう。自称左派運動研究家にして在家歴史学者のれんだいこが覚束ないながらも歴史の真史に挑む。誰かエールしてくれカンパしてくれふふふ。 2010.10.30日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評838 | れんだいこ | 2010/10/30 21:11 |
【日中最高首脳部会談考その1、秘密会談】 1972(昭和47).9.27日午後7時半、北京の迎賓館でくつろいでいた田中首相一行のもとへ、中国外務次官の漢念竜から電話がかかってきた。日本外務省の橋本中国課長が取り次ぐと、「毛沢東首席がお会いします。田中総理と大平外務大臣にお越しいただきたい」という電話の内容であった。それを聞いた田中は即座に云った。「二人だけというのはダメです。二階堂官房長官も一緒に来ているのだから、行くのなら一緒に参ります。そう応えてくれ」。 午後8時、周恩来首相が「先ほどは失礼しました」と云って、姫鵬飛外相と共に迎えに来た。この時、ちょっとした悶着が起った。田中の護衛官が必死の形相で、「私を連れて行ってた下さい。そうでないと日本からついて来た私の職責が果たせません」と田中の袖にとりすがって再三哀願した。田中は、「いいんだよ」と軽く振り払おうとするが、護衛官はそうはさせじと頑張った。田中は彼の顔を真正面から見据え、概要「いいんだよ。分かっている。ここまで来れば煮て食われようと焼いて食われようと、いいじゃないか」と云ってニッコリと笑った。こうして三名のみが出発したが、突然の予定変更であった為、二階堂の車にはホストが不在だった。車は毛主席の住まいする中南海に向かった。 午後8時、田中首相の一行が到着した。「毛主席は田中首相を迎えるため、部屋の外に出て、立って待っていました。田中首相は顔の汗をハンカチで拭きながらやってきました。二人はしっかりと握手し、それを中国のカメラマンがフラッシュをたいて写しました。撮影は一回だけでした」と王効賢さんは回顧している。田中首相は毛主席に大平外相を紹介し、二人は握手を交わした。その時、毛主席が「大平」を「太平」にかけて「天下大平」と云った。林さんはこれを「天下泰平ですね」と訳した。この当意即妙のユーモアに笑い声が起こった。最初は厳粛な顔をしていた田中首相の顔がほころび、それ以後、和気あいあいとした雰囲気となった。テーブルには杭州の竜井茶が入れられた。愛煙家の毛主席だったが、タバコに手を出さなかった。暑がりで有名な田中首相も、このときばかりは愛用の扇子を取り出さなかった。 午後8時半、毛主席の書斎で日本側首脳と毛沢東主席(78歳)との会見が始まった。日本側は田中首相、大平外相、二階堂官房長官。中国側は毛主席、周総理、姫鵬飛外相、廖承志中日友好協会会長、これに通訳・記録係として王効賢(外務省アジア局所属)と林麗雹(共産党中央連絡部所属)の二人の女性が加わった。日本側の事務方は出席していない。会見は約1時間にわたった。田中が辞去するとき、毛は用意していた「楚辞集注」大巻を贈った。 青木直人著「田中角栄と毛沢東」は次のように記している。「この二人の会談を契機に、それまで足踏みしていた国交正常化交渉は一気に進展し、二日後には共同声明の発表にまで漕ぎつけることができたのだ」、「1972.9.27日、両雄の一度だけの会談は僅か1時間で終わっている。それは日本と田中角栄の運命を決める長い1時間でもあった」。 会談の冒頭、毛の方から口を開き、田中首相のスピーチにあった「多大な迷惑」を廻る周首相との鞘当を話題にして「チャオ(口に少)完架了マ?総是要チャオ一些的。天下没有不チャオ架的嘛」(周首相との喧嘩はすみましたか。喧嘩は避けられないものですよ。世の中には喧嘩がないわけはないのです)と切り出した。「喧嘩はしなきゃ駄目ですよ。互いに云うべきことを主張し喧嘩してこそ仲良くなれるものです」と続けた。 田中答えて曰く、「ええ少しやりました。問題は解決しました。今は周恩来首相と円満に話し合っております。いいたいことは一つ残さずに話したつもりです」。毛曰く「そう、それで結構、喧嘩をしてこそ仲良くなれます。本当の友情が生まれます」の遣り取りが為された。 毛主席は、大平外相と姫外相を見やりながら、「ト續c他打敗了ーノ」(あなたが相手を打ち負かしたのですね)とユーモアをこめて尋ねた。大平外相はあわてて答えた。「いいえ、打ち負かしてはいません。我々は対等に云いたいことを云い合いました」。こう云い終わるや、大平、姫両外相は声を合わせて笑った。周総理がこの会話をひきとって「両国外相很努力」と云った。「両国の外相はともに大変よくがんばった」とその労をねぎらったことになる。田中首相もこれに続けて「両国の外相は、大変努力して、多くの仕事を成し遂げました」と称えた。 この道中のどこかで次のような遣り取りがされている。れんだいこが、現在漏洩されている情報から類推して再現してみる。 毛主席曰く概要「迷惑をかけたという問題はどう解決しましたか。若い人たちが、ご迷惑をかけたという表現は不十分だと云って拘っております。それも無理は有りません、中国では女性のスカートに水をかけた時に使う言葉ですから」。田中首相曰く概要「日本語の迷惑は中国の意味と少し違います。日本語の中で使われている漢字は元をただせば中国から入っておりますが、その後日本的用例も生まれております。日本語的意味では万感の思いを込めてお詫びする時にも使います。すべて水に流そうという時、非常に強い気持ちで反省していると云うことを表わす為に使う場合もあります。いずれにせよ、このことに拘られるのであればここで揉めても仕方ないので中国の習慣的解釈に添って改めるよう準備を進めております」。毛主席曰く概要「わかりました(明白了)。迷惑の言葉の使い方は、日本の首相の方が上手なようです。いろいろ困難は有りますが歴史的大義に向って邁進しませう」。 思いがけぬ騒動となった迷惑問答は、毛主席の「わかりました(明白了)」でケリがついた。続いて雑談が少々続き、毛は、「いろは、アイウエオ。平仮名とカタカナを創り出した日本民族は偉大な民族です。今日本語の勉強をしています。日本に留学したいと思っているのですよ」と述べている。これについては別に論じたいと思う。これも、毛主席の慧眼ではなかろうかと思う。もとへ。大平外相が、「では、私たちはどうやってあなたの世話をしたらいいのですか。難しいですよ。やはり他の国に留学してください」と茶化し、毛主席曰く、「大平先生は友好的でないですね」と応えた。会談時の友好ムードが伝わる逸話である。 その他、中国の伝統墨守的弊害、日本の選挙制度等々にも話題が及んだと伝えられている。能力のある者同士が外交やればこういう風になり、逆は逆になると云う見本のような会談内容ではなかろうか。 2010.10.30日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評839 | れんだいこ | 2010/10/31 15:38 |
【日中最高首脳部会談考その5、政治的意味】 興が乗ったのでもう少し書いておく。 2010.10.31日、新聞各紙朝刊は一斉に30日の東アジアサミットに於ける菅首相と大きく距離を空けて佇むベトナムのグエン首相、中国の温家宝首相の寄りそう写真を掲載している。日中離間の様子を報じていることになるが、如何にもわざとらしい。新聞各紙が一斉に報じているところを見ると、国際金融資本帝国主義の要請によりヤラセと云うことになる。そのわざとらしさを好んで請け負う菅首相とは何者か。真の政治家なら、離間の様子を探られまいとしてワザと接近したり工夫して写真に収まるのが芸である。それをあからさまにする菅首相の政治芸とは何ぞ。鳩山の遊び人政治と似ているが少し違う、小泉と近い劇場型政治であり、小泉がレイプ政治とするなら菅のそれはピエロ政治とみなすべきではなかろうか。いやはや我が日本はトンデモな御仁を代々首相に据えるものである。 バカバカしくて付き合いきれない。もとへ。今日から見て「毛沢東―角栄会談」をどう読みとるべきだろうか。時代は大きく変わった。日本に角栄-大平同盟に象徴される戦後保守系ハト派が居なくなったように、中国にも文革派が一掃され、文革用語で云う走資派の天下となっている。日中が争って国際金融資本帝国主義の総本山である米国との親密さを競うと云う変な時代になってしまっている。時代は大きく変わったことになる。こういう時点から見れば「毛沢東―角栄会談」は幻影的な昔のことになる。しかし、こういうテイタラクだからこそ捉え直すのも一興ではなかろうか。 日本が対中親和政策を押し進めたのは如何なる政治判断によったのだろうか。その理由として、戦時中の贖罪、中国市場の魅力、経済低迷する社会主義中国に対するテコ入れ支援、日本頭越しの米中国交交渉に対する焦りからのバスに乗り遅れるな等々が考えられる。では、中共政権は如何なる政治判断によったのだろうか。思うに、毛沢東政権は、建国後20年余のこの時点において建国革命に失敗し続けていた。建国以来ソ共の指示に従った政策のことごとくが失敗に帰し、その経緯から根っからソ共を嫌悪していた。その背後に潜む国際金融資本帝国主義の左からの干渉に疑問を抱き始め云々、そういう諸々のことを思案した結果、ソ連を油断のならない社会帝国主義国家であると位置づけ訣別せんとしていたのではなかろうか。これが中ソ対立の背景事情考になる。これについては機会があれば別に論じたい。 中国は、日中国交回復交渉のこの時点で既にソ連を明確に敵性国家とみなしていた。この中ソ離間を察知し、米国が食指を伸ばし始めていた。中国は、これまで最も激しく批判して来たアメ帝といっそのこと直接的に向き合った方が賢明と考え路線転換に向かったと考えられる。そうすると、どの程度まで関係修復するのかが国策課題となるが、やはりイデオロギーが違いすぎるので何かと難しかった。しかし、カードとしてこの切り札を切り始め、キッシンジャーの訪中、続いてニクソン訪中が実現した。 注目されていないが、その結果、毛沢東派は文革遂行上、最も親密な盟友関係にあった林彪派を左派性ゆえに粛清している。恐らく、米中親和化の前提代償としてキッシンジャー戦略に基づく「文革の左バネたる林彪派粛清」が要請され、これに応えたのではなかろうか。これにより文革は左バネを失った。このことが毛沢東政権の基盤を危うくすることになった。毛沢東は臍をかむが時すでに遅かった。以降、文革は斜陽化し、四人組逮捕を経て遂に破産する。 毛沢東政権は、そういうしんどい米中交渉の裏腹で、奇跡の復興を遂げつつあった日本に熱い視線を送っていた。日本は、アメ帝との軍事同盟下にありながらも、戦後の平和的国際協調的憲法精神に則り没イデオロギー的に未曽有の経済発展を遂げつつあった。そういう戦後日本を羨望していのではなかろうか。歴史的に繋がりが最も深い日本と提携していくことが中国のためにもなり、日本のためにもなるという国家百年の計による文明的判断を確立し、日中ブロックを形成して、近現代世界を席巻する国際金融資本帝国主義の世界支配計画に対抗して行くべしとする青写真を構想していたのではなかろうか。 しかし、このシナリオは当の中国でも日本でも困難があった。なぜなら、既に両国とも国際金融資本帝国主義のエージェントを政権上層部に抱え過ぎていたからである。その後の流れを見ると見えてくるが、このエージェントの暗躍によって両国とも、日中同盟化シナリオの徹底的破壊方向に向かっている。国際金融資本帝国主義の魔手が暗躍したものと思われる。 これにより中国には走資派の鄧小平政権が誕生し、文革派が潰され、以降この親米親シオニズム系譜が代々政権を司(つかさど)ることになる。この過程で数次の天安門事件が発生している。日本も同じで、ロッキード事件が引き起こされ、田中派が解体され、大平派も分裂させられる。ハト派政権に代わってタカ派政権が登場する。以降この親米親シオニズム政権が代々政権を司(つかさど)ることになる。こうして今や日中両国とも、国際金融資本帝国主義の陣営に与し、その意向を媒介せずには内政も外交も施策できないところまで楔を打ち込まれている。要するに、煮て食おうが焼いて食おうが太らせて食おうが絞りとろうが自在の「カゴの鳥」にされている。 話を戻す。1970年代前半のかの時、日本に田中政権が登場した。田中首相、大平外相、二階堂官房長官の布陣となったが、戦後日本政治史上ハト派系の勢威が頂点に達していたのがこの時ではなかったか。考えて見れば、よりによって角栄、大平ともが貧農出身にして戦後秩序ならでは頭角を現すことのできた政治家であった。存在が意識を決定するとしたなら、その政治が左派系になるのも理が叶っていよう。三者の生き様も良い。れんだいこは、この勢力を日本の在地土着型プレ社会主義、あるいはもっと遡って縄文系社会主義に基づく「近代天皇制イズムに拠らなくとも成り立つ縄文系民族主義者団」ではないかと推定している。この観点から戦後史を見ていくと、既成の政治史論ではさっぱり役に立たないことが分かる。どんな党派のものであろうと権威大御所のそれでも納得できるものがない。 れんだいこ史観によれば、かの時の毛沢東ー角栄の最高首脳会談とは、中国の土着型社会主義者と日本の土着型社会主義者が邂逅した後にも先にもない一回こっきりの歴史的意義深いものであったということになる。緊張し且つ緊迫した中にも旧知の間柄の肝胆相照らす同志的雰囲気が漂っていたのもむべなるかなであろう。面白いことに、時のニセ左翼がこれに如何に対応したか。ニセモノ度の強さに応じて金切り声を上げ罵倒している、あるいは陰に陽に価値を貶めるよう策動している様が見えて来る。後日勃発したロッキード事件で誰が最も執拗に反角栄的動きをしたか云うまでもない。そして、その正義が未だに語られ通用している。そろそろそういう不義を撃たねばなるまい。通史を書き替えせねばなるまい。 もとより、時代は動いている。かの時代に戻せば良いと云う単純なものではない。かの時代から何を拾いだし継承するのか、何を吐き出し否定するのか現代水準で諮らねばなるまい。これを思う時、れんだいこの眼には、小沢政治がまだしも良質ではないかと思っている。小沢政治の先に日本の未来があると思っている。これに引き替え、反小沢標榜組の政治は名目の党派、派閥、グループが違えども皆シオニスタンに見える。仮面正義集団でありシオニズム奴隷の売国奴である。誰が幾ら民族主義者ぶろうとも口先だけであり、実際にやっていることを見ればシオニズムの請負興業師、手配師ばかりである。こういうシオニスタン勢力を排斥し、小沢政治を左から自己否定して行く永続革命の内に唯一の日本の再生の道が有ると思っている。 こう構図ができたら、半ば解決されたも同然であろう。新日本創出に向けて歩一歩参ろう。日本人民大衆の叡慮を信じ連帯しよう。マスコミメディアの反動的な親シオニズム言論に抗して、まずは頭脳戦で勝利しよう。朋輩は幾らでも居る。シオニスタンは一見威勢が良くても、その陰謀性故に常に少数にならざるを得ない。ここに彼らの欠陥が有り我々の勝利のカギあると思う。目指せ大衆路線。大衆を信じて邁進し草莽ネットワークを構築せよ。 2010.10.31日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評840 | れんだいこ | 2010/10/31 15:44 |
【9.25日、日中首脳会談(田中.周恩来)】
1972.9.25日、田中首相一行が羽田発で北京に向かった。日航特別機JA8019(DC-8)に乗り、戦後初めて東京-北京間3千キロの空路を直行した。田中訪中団のメンバーは、田中角栄首相、大平正芳外相、二階堂進官房長官、吉田健三アジア局長、高島利郎条約局長、橋本恕アジア局中国課長、栗山尚一条約局条約課長ら外務省職員、警護の警察関係者36名、16名の報道関係者で、都合52名であった。田中首相の隣には読売新聞記者・中野士郎が坐った。「田中政権889日」は、「なぜ、あなたは北京へ行くのか」の問いに、田中首相が、一瞬苦しげな表情を走らせた後、「時の流れだからだよ」と答えたことを披露している。 到着した北京空港では、「全世界のプロレタリア階級、被抑圧人民、被抑圧民族は団結せよ」と書かれた大きな横断幕と毛沢東の肖像画を背景にして、周恩来首相(74歳)、葉剣英国防長官、姫鵬飛外相(外交部長)、郭沫若中日友好協会名誉会長、寥承志外交部顧問(中日友好協会長)ら最高指導部の面々が出迎え、田中首相と周首相が握手した。歓迎式典が行われ、この時中国側は、「佐渡おけさ」、「金毘羅船船」、「鹿児島小原節」を演奏し、熱烈歓迎振りと気配りを見せている。この後、田中首相(54歳)と周首相(74歳)が「紅旗」に同乗し、魚釣台の迎賓館に向かった。 午後3時から人民大会堂で数次の会談が積み重ねられた。 人民大会堂の「安徽省の間」で第一回首脳会談。日本側の出席者は、田中・大平・二階堂の他吉田アジア局長、高島益郎条約局長、橋本恕中国課長らの面々であった。中国側は周総理、姫外相(外交部長)、りょう・外交部顧問(中日友好協会長)、韓念竜外務次官(外交部副部長)、陸維けんアジア局長。会談は、「日中間の戦争状態終結問題」で、真っ向から対立した。高島条約局長は、「日本と中国との戦争状態は既に1952年に台湾との間で結んだ日華平和条約によって法的には終結している」との公式見解を悪びれず主張した。中共政府を正統とする中国政府は、「台湾との条約」に固執する日本政府に激怒した。 日米安保条約に対して、日本側の「日中国交正常化には日米安保条約の堅持が大前提である」と日米安保条約を堅持した上での日中交渉であるという原則の主張につき、中国側を代表して周総理があっさり、「それで結構です」と受け入れた。更に、先の戦争に対する賠償権問題について、周は、「(このたびの会談で)国交正常化問題が解決するなら、両国人民の友好の為に賠償金を放棄することも考えている」と表明している。それまで、「人的被害は1千万人以上、財産損失額は数百億米ドル」の賠償請求権があるとしてきていた。しかし、台湾問題については譲ろうとせず暗礁に乗り上げた。この経過に対して、以降、秘術を尽くしての外交が積み重ねられていくことになった。 二階堂官房長官は、次のようにスポークスコメントした。概要「驚くべき率直に、双方の基本的立場や考え方について、意見が交換された。非常に有意義だった」。互いに云うべきことを言い合い、火花を散らしたようである。以降、秘術を尽くしての外交が積み重ねられていくことになった。 午後6.30分(日本時間7時半)より、晩餐会が人民会堂で開かれた。周首相が次のように挨拶した。「1894年から半世紀にわたる日本軍国主義者の中国侵略によって、中国人民は、極めて酷い災難をこうむり、日本人民も大きな損害を受けました」。 このあと、日本国歌「君が代」が人民解放軍軍歌部隊によって演奏され、乾杯した。約20分後、今度は田中首相が挨拶を答礼した。首相は盛大な歓迎を謝したうえで「過去数十年にわたって、我が国が中国国民に対する多大のご迷惑をおかけしたことについて、私は改めて深い反省の念を表明する」と述べた。 この時の発言「迷惑」という表現を廻って悶着が発生することになる。中国側は、田中首相の挨拶の途中、一区切りごとに拍手を送っていたが、「中国国民に対する多大のご迷惑をおかけした」のくだりで拍手が止んだ。「日中双方が合意に達することは可能であると信じます」の結びで拍手が戻った。 2010.10.31日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)