ナチズム議論厳禁事情考 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
れんだいこは、ナチズムに対してもホロコーストに対しても「正確な情報」を欲している。なぜなら、「宮顕論」、「不破論」でも解析したように、ウソがいやなのだ。そのウソが通用して崇められたり、あるいは逆に「角栄論」で解析したように本来崇められる人物が落としこめられるそういうウソが嫌なのだ。そういう意味で、ホロコースト問題、ユダヤ人問題にも立ち向かっていかざるを得ない。 2005.2.10日 れんだいこ拝 |
ドイツでは、ホロコーストの見直しは論議そのものが違法ということ。つまりタブーにされている。仮に、ホロコースト見直し論者が講演に出向く予定を立てると、それを聞きつけたユダヤ人組織が横槍を入れ、プレッシャーをかけている。 そうした中で、反ユダヤ主義運動におけるユダヤ人の自作自演劇も伝えられている。 インターネット界の畏兄・木村愛二氏の「アウシュヴィッツの争点」の「(その28)「権威に弱い独マスコミ」と、ドイツという国の真相」に拠れば、1994年、東西統一後のドイツで、「アウシュヴィッツでのユダヤ人大虐殺説を虚構とする発言を処罰する刑法改正法案」が議会に上程され、9.23日に成立した。これにより、被告は「最高五年の禁固刑」に処せられる事になり、「ホロコースト物語」を論ずる自由が失われた。これを仮に、「ホロコースト・カーテン」とすれば、その幕が下ろされたことになる。こうして、「アウシュヴィッツの嘘」を嗅ぎ分ける者は地下活動を余儀なくされ、このことが逆にネオナチなどのウルトラ民族主義を誘発しつつある。 考えてみればおかしな法案である。「アウシュヴィッツ・ホロコースト」が如何に「反戦平和思想の立脚点的史実」であるとするにしても、この見解に立たない思想を取り締まるという法案は、法の原理から云って野蛮法ではなかろうか。この立脚点を政府見解の基準点にするというのならまだしも分かる。が、下々の議論までこのラインで抑制せしめるというのは、過度干渉条文ではなかろうか。悪法の極みであり、事の良し悪し以前の手法の問題として近代的民主主義原理に抵触してはいないか。残念ながら、こういうところが問題にされない。ドイツのことだから見てみない振りするというのはいかがだろうか。いずれ、その波が日本にも押し寄せてくる可能性があり、そうすると他人事では済まされまい。 かくて、「アウシュヴィッツでのユダヤ人大虐殺説」が当局お墨付きの公認見解となり学習が義務づけられていく。こうなると、「理論というより、教えられたとおりの理屈」をこねまわすものが跋扈し始め、これは当局お墨付きの通説であるからして歓迎される。学問的権威で粉飾すれば威力が増すためか学者が利用される。お調子者が居て、その権威に乗っかかって、かの泰斗が言っていることだから正しいに違いないとばかりのスタンスで疑問派を罵詈雑言指弾し始め、レッテルを貼り付け溜飲を下げるという変態作法が横行している。 この場合、疑ってみるべきは、かの先生の泰斗ぶりだろう。何のことはない、かの先生も単なるお調子者に過ぎないという事例に事欠かない。かの先生ばかりでなく、御用提灯族マスコミも例に漏れない。れんだいこは、こういうことは在り得ることだと思っている。日本のサヨ運動はけったいな事に、「アウシュヴィッツ・ホロコースト」では反政府スタンスではなく当局側の御用スタンスに位置しており、それを誰よりも熱心に鼓吹しつつ得々としている。狂っているとしか云いようが無いが、これを「正義」と任じて手前から更に狂おうとしている。 |
それはともかく、ここで、れんだいこは、奇妙な体験を綴ろうと思う。「議論が如何に大事で且つ疎かにされているのか。ならば議論を封ずることは最悪ではないか」ということを明らかにせんが為である。 |
【西欧でのニュルンベルグ裁判判決を疑う議論の刑法禁止考】 | ||
木村愛二氏の2005.2.19日付【ホロコースト信者はシオニスト同様「あら探し」と「人格攻撃」】は概略次のように述べている。
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(私論.私見)