大正天皇の足跡履歴



 更新日/2017.4.11日
 (参照サイト) 大正天皇の御生涯追悼録(91)
 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2013.03.12日 れけんだいこ拝


【大正天皇の総履歴概要】 
 1879(明治12).8.31日~1926(大正15).12.25日(48歳)。在位期間は1912.7.30日~1926.12.25日。

 1879(明治12).8.31日、東京青山御産所にて、明治天皇の第三皇子として生まれる。母親は側室の柳原愛子(なるこ)。幼名・明宮(はるのみや)、嘉仁(よしひと)親王と名付けられた。

 1889(明治22).11.3日、立太子(皇太子となる)。1900(明治33).5.10日、公爵九条道孝の四女九条節子様(さだこ、貞明皇后)と御成婚。この年から地方巡啓として日本各地を訪問。息子に迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)、淳宮雍仁親王(後の秩父宮)、光宮宣仁親王(後の高松宮)、澄宮崇仁親王(後の三笠宮)。

 1912年(大正元).7.30日、32歳の時、明治天皇崩御により第123代目の天皇として即位、大正に改元。即位の礼は昭憲皇太后死去のため当初の予定から1年延びて1915(大正4).11.10日に紫宸殿で執り行われた。

 幼少の時に大病を患ったことなどから病弱だったとされ、即位後も公務を控えることが多く、1921(同10).11.25日に皇太子(後の昭和天皇)が摂政に就任。その後静養を続けたが、1926(同15).12.25日、死去した。死因は肺炎に伴う心臓まひとされる。

【誕生】
 大正天皇は、1879(明治12).8.31日、明治天皇の第三皇子として東京青山御産所にて生誕する。父・明治(睦仁)天皇、母・柳原光愛の次女・権典侍(ごんてんじ)・柳原愛子(やなぎわらなるこ、1855~1943)。史上最初の東京生まれの天皇となる。

 幼称は明宮(はるのみや)、御名・嘉仁(よしひと)親王、追称・大正天皇となる。明治天皇には五人の皇子がいたが成人したのは明宮嘉仁親王だけとなり、やがて大正天皇として即位することになる。

【柳原愛子の履歴、柳原白蓮との関係】
 ちなみに柳原愛子(やなぎわら なるこ)は、幕末の議奏・柳原光愛(やなぎわら みつなる)の次女で、「筑紫の女王」にして歌人として知られる柳原白蓮(本名燁子、あきこ、「柳原白蓮考」に記す)の伯母に当たる。履歴は次の通り。

 1859(安政6).5.26日(6.26)日―1943(昭和18).10.16日。1870(明治3)年、皇太后宮小上臈として出仕し、掌侍(勾当内侍)を経て、1873(明治6)年、明治天皇の権典侍となり、第二皇女・梅宮薫子内親王、第二皇子・建宮敬仁親王、第三皇子・明宮嘉仁親王を出産したが、のちに大正天皇となる嘉仁親王のみが成人できた。1902(明治35)年、典侍に任官。女房名は梅ノ井(うめのい)、早蕨内侍(さわらび ないし)など。嘉仁親王の即位後、1913(大正2).7月、正三位皇后宮御用掛・御内儀監督となり、1915(大正4).12.1日、従二位に叙された。1925(大正14).5.10日、勲一等瑞宝章を授けられた。1926(大正15).12.25日、大正天皇が崩御し、孫である昭和天皇が践祚した。1940(昭和15).2.11日、勲一等宝冠章を受章。1943(昭和18).10.16日、薨去(享年84歳)。同日、従一位に追叙。墓所は東京都目黒区中目黒五丁目の祐天寺にある。位階の正二位をもって二位の局(にいのつぼね)と呼ばれた。死後従一位を追叙されたことから一位の局(いちいのつぼね)と呼ばれることもある。

 和歌に優れ、宮中歌会始に3回撰歌したという。明治天皇の崩御後は準皇族の扱いを受け、大正天皇臨終の際、貞明皇后の配慮によって枕辺で別れを告げたという逸話を残す。ただし住まいについては宮城内はもとより赤坂御用地内にも置かれず、宮邸の扱いも受けずに四谷左門町に質素な邸宅を構えていたのみであった。

【「祭神論争」の影響】
 1880年をピークに「祭神論争」が展開されている。この論争は、国民教化の為の半公的な中央機関として、1875年に設立された神道事務局の祭神を廻って繰り広げられた。天津神系譜の伊勢派は、伊勢神宮を中心とする古事記の冒頭に登場する造化三神(あめのみなかぬし神、たかみむすび神、かみむすび神)及びあまてらす神のみを祀るべきとしていたのに対して、国津神系譜の出雲派は、出雲大社を伊勢神宮と同格で祀るべしとして、おおくにぬし命の合祀を主張した。

 この論争は、1881(明治14)年に勅裁という政治的方法で決着し、出雲派の主張が斥けられた。これにより、おおくにぬし命は、公式に「幽冥主宰神」としての権威資格を剥奪され、皇室守護の護国の神の地位へ引き下げられた。
(私論.私見) 「祭神論争」考
 日本政治史上最大の政変と思われる「国譲り」に端を発する「祭神論争」がこの時期に繰り広げられていることが興味深い。

 2007.11.1日 れんだいこ拝

【幼児時代】
 明宮(はるのみや)は生後まもなく大病を患い、其の後も百日咳や腸チフスなどにかかるなど生まれつき病弱な体質であった。このことが、後の大正天皇押し込めの遠因となる。

 12.6日
、当時の皇室の風習に従い幼少期の明治天皇同様に中山忠能邸に里子に出される。

【出雲大社祭神による守護が祈願されている】
 この間、明宮(はるのみや)の病弱身上を案じた美子皇后(昭憲皇太后)の意向で、健康を祈る為に、1883.10月に出雲大社の祭神・大国主命(おおくにぬしのみこと)の分霊と御守りを取り寄せ、中山邸内の神殿に安置させたと伝えられている。
(私論.私見) 「大国主命(おおくにぬしのみこと)の分霊取り寄せ」考
 このことは、大正天皇を取り巻く背後に国津神系の影響が認められる点で注目に値する。なお、「祭神論争」の政治的決着にも関わらず、次なる皇位継承者となる御子の精神的お守りに国つ神系の祭神を祀ったということになり、(関心の向きの者には)注目されるべきことであるように思われる。

 2007.11.1日 れんだいこ拝

【幼少時代及び学問の手ほどき為される】
 1885(明治18).3.23日、6歳のとき、中山邸から赤坂仮御所に移る。先の事情から正規の教育は行わず、1886(明治19).1月、7歳の時、御所内に御学問所が設置され、博育官(教育係)に湯本武比古が選ばれる。以降暫くの間、湯本武比古氏の個人授業を受ける。

 この頃の明宮の御気性が次のように記されている。
 「児童の時分より制約や規則というものに縛られることを極端に嫌い、思ったことを何でも率直に発言する性格の御子。
 「目にし手に触れるものに対し頻りに『これは何、それは何ゆえ』と問う御子であった」。

 1887(明治20)年、学習院初等学科に入学したが、病気のため休学。以後、一時的に箱根や熱海に療養しながら健康回復につとめ、長ずるに及び次第に壮健となる。


 1887(明治20).7.26日、8歳の時、
佐々木高行氏が明宮御養育主任となる。9.19日、学習院予備科に編入学。1888(明治21).4.5日、9歳の時、陸軍中将・曽我祐準氏が御養育主任となる。5月~8月にかけて百日咳にかかり、学習院を休学した為進級できず。

【洋学医ベルツ採用される】
 1888(明治21).8.11日、9歳の時、東京帝国大学教授・ベルツが主治医に任命され、11月までに浅田宗伯をはじめとする漢方医全員が解任されている。以後、洋医が担当することになった。

東宮御所時代】
 1889(明治22).2月、9歳の時、明宮は青山御所から赤坂離宮内の東宮御所、通称「花御殿」に移り住む。

【皇太子となる。東宮職が新設される】
 1889(明治22).11.3日、天長節の日に立太子礼により皇太子となり、陸軍歩兵少尉に任命される。同日、東宮職が新設され官制が定められている。東宮大夫(だいぶ)、東宮侍従長、東宮亮(すけ)、東宮武官、東宮侍従などの官職が置かれることになった。東宮侍従長には、中山忠能の孫の中山孝麿が任命された。

 翌日、初めての公式行事として、東京青山にあった近衛歩兵第一旅団及び近衛歩兵第一連隊を訪問し、入隊の儀を行っている。

 
「明治天皇記」は、この頃の明宮を次のように記している。
 「ときに齢11歳、既に学習院に学び、文武諸官輔導の任に当たり、学業日に進む、聡明にして仁慈性に具わる、近時身体すこぶる健なり」()とある。この「聡明にして仁慈性に具わる、近時身体すこぶる健なり」。

 この記述は、もっと注目されて良いと思われる。親王の体は次第に丈夫になり、13歳から14歳にかけての初等学科4年の時には、ついに無欠席で一年間を通している。「体質虚弱な腺病質な質で数度と無く病歴を持つが、無事成人した」ことを意味している。但し、12月に腸チフスにかかる、とある。

【ロシア皇太子・ニコライの訪日巡遊の影響】
 1891年、ロシア皇太子のニコライ(1868~1918)が訪日し巡遊している。この時、有栖川宮が接判委員長として長崎に入港したニコライ一行を出迎えており、行動を共にし、一行が各地の人々や風俗に接して和合する姿を目の当たりにしている。この巡遊は不幸なことに大津事件で中止となったものの、有栖川宮にとって得がたい経験となった。有栖川宮は後に東宮職となるに及び、この時の経験が皇太子教育に生かされ、巡啓に生かされていくことになる。

【東宮武官長・奥保かたの薫陶】
 この頃、宮廷内に東宮職が設置され、その武官長として近衛歩兵第一旅団長の陸軍少将・奥保かた(やすかた)が就任している。奥は東宮大夫も兼ね、この現役バリバリの軍人が 嘉仁親王輔導の最高責任者となっていることが注目される。

 1892(明治25).7月、奥は皇太子の学業成績を明治天皇に次のように報告している。
 概要「24.6月より25.7月まで、殿下の学業成績は、読書、馬術は著しく進歩され、随って記憶力もまされ、但し、読書進歩の割には意味を解せらるること乏しい。算術は他に比較すれば困難なり」(「徳大寺実則日記」)。

 1892(明治25).12月、嘉仁親王は陸軍歩兵中尉に昇進している。

【学習院初等科卒業、中等学科へ】
 1893(明治26).7月、14歳の時、学習院初等科卒業、中等学科へ。1894(明治27).8月、15歳の時、体調が芳しくない事もあって学習院中等学科中退。これ以降、皇太子は赤坂離宮に設けられた御学問所で個人講義を受ける身となる。東京帝国大学より本居豊頴や三島中洲を招聘、彼らを東宮侍講としたが、特に三島の教える漢学に強い関心を示し、のちに優れた漢詩をいくつかのこしている。一方、皇太子の事情を憂慮した政府は沼津や葉山に御用邸を建てて皇太子を滞在させ、健康維持をはかるようすすめている。

【日清戦争勃発、その影響】
 1894(明治27)年、日清戦争勃発。11.15日、広島大本営に行啓。

 1895(明治28、16歳).1月、陸軍歩兵大尉となる。3.17日、皇居、広島大本営に行啓。 8月腸チフス肋膜炎肺炎など、重体に陥る(11月に全快)。一時重体に陥る事態となったが医師ベルツらの助力もあって奇跡的に回復、無事全快に至った。この年、陸軍歩兵大尉に任命される。

【高等教育受ける】
 1895(明治28)、16歳の時、東宮職御用掛に、東京帝国大学文学部古典講習科講師・本居豊かい(とよかい、本居宣長のひ孫)が就任し、国学(和歌、作文、歴史、地理)。翌年、川田甕江の死去の後を受けて、東京帝国大学教授・三島中州(ちゅうしゅう)が同じく東宮職御用掛に任命され、漢学(漢詩、漢文)を担当し、皇太子の個人授業に当ることになった。

【出雲派の影響】
 1896(明治29、17歳).6.12日、皇太子は埼玉県大宮の氷川神社に参拝している。原氏の「大正天皇」には次のように記されている。
 「氷川神社の祭神は、明治維新とともにスサノオ一神に定められたが、実は皇太子の参拝の直前に、その子孫であるオオク二ヌシが合祀されていた。つまりこの参拝は、出雲まで行くことのできなかった皇太子が、守護神であるオオク二ヌシに対して、重態から脱して身体が回復したことを感謝する意味を持っていたのである。

 当時の埼玉県知事は千家尊福(たかとみ)であった。千家は出雲大社の国造家の出身で、祭神論争では出雲派のリーダーとして活躍した。そして本居もまた、千家と共に祭神論争ではオオク二ヌシの合祀を主張した一人であった。皇太子の氷川神社参拝の背景に、個人的にも親しかった千家と本居が関係していたことは恐らく間違いない」。

【明宮を廻る明治天皇と伊藤博文首相のやり取り】
 1898(明治31、19歳).2月、首相・伊藤博文が、天皇に対して全部で19か条からなる皇室改革意見書を提出している。その9か目に、次のように記されている。
 概要「ひそかにおもんみるに、皇太子殿下今すでに成年に達せらるるも、玉体御弱質にわたらせられ、加えるに御重患にかからせられ、一時は頗る危険の形勢に在らせられたるも、幸いにして近時ようやく御回復に赴かせらるるは億兆の仰慶する所、然るに一時御大患の為自ら御学業等の進歩御遅延に渉らせらるるは当然のことなり。而して今日左右に侍するもの、傍観座視して之が為に憂慮するものなきが如きに至りては、まことに寒心に堪えざるところなり。伏して思うに東宮を擁護し奉る今日の急務は、一面において衛生上御健全を図り、一面においては学術に基づくところ、あるいは事実に現出するところの政治又は陸海軍事に御熟通あらせらるるようなるべく簡便なる方法により、漸次御養成あいなりたく、故に先に進言して勲臣の内より一人を簡抜して監督せしめらるる事に聖裁を賜わりしは、国家社稷の大幸とするところなり」。

 3月、明治天皇は、皇太子に概略「東宮職員の不才不能をあげつらい、全員更迭させよなどと軽々に口にすることの無きよう、発言を慎むよう」との沙汰書を伝えている。

【有栖川宮の後見を得る。「御健康第一、御学問第二」とする補導の方針を打ち出される
 1898(明治31).19歳のとき、11.30日、青山御所を東宮御所と定まり、12.4日、大隈重信邸に行啓。

 1898(明治31)年、明治天皇の意向により有栖川宮威仁親王が東宮賓友となると厚い信頼を寄せた。皇太子にとって17歳年上であったが、「頼りになる友人」的関係が築かれることになった。次いで、規律や格式を重んじる東宮職の反発を後目に、皇太子の健康状態維持優先を主張する有栖川宮が地方巡啓策を実現させるにともない、進んでこれに応じたという。11月、皇太子は陸軍歩兵少佐並びに海軍少佐となっている。

 
1899(明治32、20歳).5月、天皇の大命により東宮監督・伺候が廃止され、大山、伊藤、松方、土方は東宮補導顧問となる。有栖川宮威仁(たけひと)親王が東宮賓友となってより1年後正式に東宮補導になり、東宮を監督する全権を委任される。有栖川宮は、「御健康第一、御学問第二」とする補導の方針を打ち出し、これを徹底させていくことになる。

【伏見宮禎子(さちこ)女王との結婚騒動、九条節子と御婚約】
 1898(明治31、19歳).8.31日、皇太子妃に内定の九条節子との婚約が正式に内定。配偶者が節子に定まるまでには少し騒動が発生した。最初に候補に上がったのは伏見宮禎子(さちこ)女王で内定までしていた。しかし逆転劇が起こり、節子に決められたという経過が伝えられている。当然のことながら「皇族の婚嫁は同族または勅旨により特に認可せられたる華族に限る」との皇室典範の規定に拠って選ばれている。

 12.19日、皇太子妃に内定の九条節子参内。
1900(明治33、20歳).2.11日、九条節子と御婚約。

【御成婚】
 1900(明治33).5.10日、20歳の時、皇太子は、「日嗣ぎの御子」として、公爵九條道孝の四女・節子(さだこ・当時15歳)と結婚。宮中・賢所(かしこところ)での神前結婚式が執り行われる。

 当時の人々は概ね、皇太子の結婚を祝福しているようである。正岡子規は、「東宮御婚儀をことほぎまつる歌」を詠み新聞「日本」に掲載されている。幸徳秋水も無署名ながら、「万朝報」に「皇太子殿下の大礼を賀し奉る」という文章を載せている。

【皇太子としての最初の巡啓・三重、奈良、京都方面】
 5.23日から6.2日にかけて、皇太子ご夫妻は、伊勢神宮・神武天皇陵などに結婚奉告のため三重、奈良、京都を10日間初巡啓している。伊勢神宮、神武天皇陵、京都・泉湧寺等を参拝後に、京都帝国大学や第三高等学校を訪問し、学生の授業や運動を見学している。

 他にも、京都帝大付属病院に立ち寄り、外科病棟にいた14歳と22歳の患者に近寄って症状を尋ねいたわりの言葉をかけ、周りのものにも気安く話し掛け、「患者は絶えず感涙に咽びた」なる肉声が新聞に報じられたりしている。。明治天皇の行幸・巡幸では全くありえなかったことで、驚きを持って迎えられている。

 この巡啓を企画推進したのは、東宮補導・有栖川宮であった。「少数の東宮職関係者と相対するだけの狭く堅苦しい空間から皇太子を解き放ち、一般の人々が暮らしている世間に触れさせる」との考えに基づいていた。原氏は、有栖川宮が皇太子の巡啓を思いついた背景として、1891年にロシア皇太子のニコライ(1868~1918)が、日本巡遊した時の経験に拠るとして以下の如くに推測している。この時有栖川宮は接判委員長として長崎に入港したニコライ一行を出迎えており、行動を共にし、一行が各地の人々や風俗に接して和合する姿を目の当たりにしている。この巡遊は不幸なことに大津事件で中止となったものの、有栖川宮にとって得がたい経験となった。この時の教訓を皇太子の巡啓に生かそうとしていた節がある。

 もう一つ、皇太子の巡啓は、間天皇をアピールした戦後の昭和天皇の巡幸の先取りとなったという点でも意義が高い。なお、明治30年代より明治天皇の健康が優れなくなり、巡幸が控えめに成ったのと対照的に皇太子の巡啓が盛んとなっているという時代の流れも見ておかねばならない。
これらの巡啓を通じて、各地のインフラ整備が進んだことも銘記されるへきであろう。

【御新婚生活の様子、女官制度のしきたりを排す】
 皇太子夫妻の新婚生活は、順調に始まった。特徴的なことは、節子妃は伝統的な女官制度のしきたりを打ち破り、妃自身が皇太子の身の回りの世話を行った。このことが皇太子の健康にプラスの効果をもたらした。ちなみに、一夫一妻制は大正天皇を嚆矢とする。

 原氏は次のように述べている。
 「結婚は、いうまでもなく誰にとっても、人生の大事な通過儀礼である。けれども皇太子の場合、そうした一般的な意味以上に、九条節子との結婚が生涯を変える節目となった。あれだけ病気を繰り返していた皇太子の健康が、結婚を機に明らかに回復に向っていくからである」。

 つまり、嘉仁皇太子は、結婚後一気に健康回復していく様子を見せており、これを確認する事は、後の「病弱を理由とする大正天皇押し込め騒動」が虚構の演出であったことを明白にする点で貴重である。

【2度目の巡啓・北九州一円】
 先の新婚巡啓が円滑に取り運んだことに気をよくしてか、その後も各地を視察している。明治天皇の了承を得て地方巡啓が本格化する。1900(明治33).10月から2ヶ月にわたって北九州一円を廻る二度目の行啓に出向いている。10.4日、九州巡啓に旅立つ。東京・新橋を大垣行きの普通列車で出発。地理・歴史学習のための「微行」という趣旨であった。10.14日、門司に上陸し北九州巡啓。小倉、八幡の官営製鉄所、熊本、大牟田、三池炭鉱、佐賀、佐世保、長崎、福岡などで、歩兵連隊や演習などを見学し、学校をご覧になられている。市内を人力車で回られている。舞子で体調を崩し、岡山、香川、愛媛は中止され、12.3日、還幸している。

 50日間のハードスケジュールだったが、嘉仁皇太子は壮健に日程を消化している。この時の旅行は「西順日記」と題する日記に記録されているが、「しっかりした文体」との評を得ている。

 皇太子巡啓の特徴的なことは、概要「大掛かりな奏送迎は不要、過度の歓迎を控えるよう、通御の道筋も通行の妨げにならない限り通常の通行を制止するに及ばない」と通達していたことにある。且つ、巡啓日程が容易に変更され、滞在が延びたところもあれば予定変更で立ち寄らなかったところもあるという按配であった。軍服と平服を適宜取り替えつつ巡啓が続き、軍隊司令部、名所旧跡の他に八幡官営製鉄所や三池炭鉱、三菱造船所等々殖産興業的産業施設への立ち寄りが為されているのもユニークであった。「思ったことをすぐに行動に移したり口にしたがる」、「万事に開放的な性格」が伝わっている。

 傑作は、10.22日の熊本での生徒の寒中水泳を見て、寒中水泳の意図が分からなかったと見え、「彼らはさぞ寒かるべし」と漏らしたことにより、途中で中止されている。10.28日の福岡香椎宮境内での松茸狩の際に、あまりに取れるので「殊更に植えしにはあらずや」とヤラセを見抜き、関係者を慌てさせている。その日の夕方、武術試合を見て興に入り、自分もしてみたいと木刀を借り、供の者相手に数回木刀を振り回した。しかし、これらは奇行と解すより「愛すべき稚戯」では無かろうか。

【第一皇子・迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王(後の昭和天皇)誕生】
 結婚後翌年、迪宮(みちのみや)裕仁(ひろひと)が誕生、続いてやす仁(秩父宮)、宣仁(のぶひと)(高松宮)をもうけている。これを少し詳しく見ると次のようになる。
 1901(明治34、22歳).4.29日、第1皇子迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王(後の昭和天皇)が誕生。明治天皇の第一皇孫となった。

 裕仁は宮中の古くからのしきたりより里子にだされることになった。白羽の矢が立ったのは、枢密顧問官の川村純義だった。川村は旧薩摩藩の出身の参議、海軍卿、宮中顧問官などを歴任し、高潔な人格として世に知られ、明治天皇の信頼も厚かった。里親が民間から選ばれるのは異例であったが、教育上の配慮として英断されたものと思われる。里親に軍人が選ばれたのも、将来の大元帥としての教育的配慮であったものと思われる。「お前の孫だと思って、万事遠慮なく育てて欲しい」との皇太子嘉仁の言葉が賜れている。

 こうして、裕仁は生後70日目(明治34年)で海軍大将川村純義伯爵へ預けられて養育された(明治37年秋まで)。川村大将は次のような養育方針を立てられた。1、心身の健康を第一とすること。2、天性を曲げぬこと。3、ものに恐れず、人を尊ぶ性格を養うこと。4、難事に耐える習慣をつけること。5、わがまま気ままのくせをつけないこと(甘露寺受長著「天皇さま」より)。

ベルツの日記によるこの頃の皇太子の様子
 1901(明治34)、22歳の時、ベルツの日記は次のように記している。
 (9.15日)「東宮はご機嫌よく、お丈夫らしい様子である。以前よりも、確かに元気で、生き生きとしておられる」。
 (10.4日)「もともと東宮は、幼時のご病気以来落ち着いて一つのことに専念するのを好まれない性質なのだが、近頃は旅行好きの形をとって現れてきた。特に東京を嫌われるのであるが、実のところ、次代の天皇が一年のうち少しの期間ぐらいは首都で過されるのは、何と云っても当然の話と思う」。

 皇太子の巡幸は万事首尾よく進み、さらに大掛かりなものが企図とされていくことになった。巡啓中は学事が停滞することもあって東宮職は反対したが、東宮輔導・有栖川宮威仁親王が、歴史・地理の実地見学という大義名分を押し立てて明治天皇の承認を受け、実現していくことになった。嘉仁親王は、皇太子時代の12年間に主要な行啓を9回行っている。ほぼ、1、2年に1回のペースで、しかも1、2ヶ月に及ぶ長期のものもあった。この他軍事行啓もこなしている。が、体調を崩して寝込むことはなかった。

【有栖川宮が東宮内の権限拡大】
 11.29日、有栖川宮威仁親王が、海軍軍令部出仕兼海軍将官会議議員の要職を解かれ、東宮補導専任となっている。同時に、東宮大夫の中山孝麿が更迭され、後任に宮内省内事課長・有栖川宮別当・斎藤桃太郎が就任している。これは、有栖川宮の権限拡大の動きと読める。

 有栖川宮は、自邸に大山巌、土方久元両東宮顧問、田中光顕宮内大臣、斎藤桃太郎東宮大夫らを集めて、定期的に補導顧問会議を開くようになる。

【第ニ皇子・淳宮やす仁(あつのみややすひと)親王(後の秩父宮)誕生】
 1902(明治35)年6.25日、皇太子明宮嘉仁(よしひと)親王(後の大正天皇)の第ニ皇子として、淳宮(あつのみや)やす仁(やすひと)親王(後の秩父宮)が誕生。秩父宮も川村の元で養育されることになった。

 迪宮(みちのみや)裕仁(ひろひと)、淳宮(あつのみや)やす仁(やすひと)親王兄弟の様子が次のように記されている。
 「兄弟は順調に育っていく。兄に比べて、弟のほうが性格的に活発だったらしい。川村の躾は厳しかった。裕仁がわがままな子に育たないよう、例えば食べ物の好き嫌いなど絶対に許さなかった」とある。

【3度目の巡啓・北関東・信越方面】
 1902(明治35、23歳).4月頃、約2ヶ月に渉る信越北関東大巡啓を企画。5.1日、有栖川宮は、東京の自邸に各知事を集め、全部で20カ条からなる訓示を与えている。注目すべきは、概要「行啓先各地において、平常の有様を御目撃ならせたき御趣意なれば、御趣意に背かざるよう、地方官にて厚く注意これありたき事」としていることであろう。「天皇行幸に準じた準備や規制を撤廃し、皇太子が自然に振舞うことのできる素地を作り出そう」として心を砕いてい入る様が見て取れる。これにより、天皇行幸に準じた規制が極力撤廃され、特別仕立てのお召し列車ではなく、一般の人々が乗る普通列車を利用して移動する区間が多くなった。

 5.20日、上野から出発。群馬県高崎市に到着。高崎では人力車に乗ると自分で「車夫に命じて意のまま進ませた」ので、周囲は大狼狽したことが伝えられている。信濃毎日新聞は、県民向けに次のような記事を書いている。「願わくば、殿下ご滞在あらせらるるなかはもちろん、お道筋の人々も、あらかじめ、なん時いずこよりおなり遊ばすやもはかりがたしとこころえ、謹慎もって狼狽不敬の失態に陥らざるよう注意ありたきもの」。

 碓氷(うすい)峠の熊の平で汽車を降りて、アプト式軌道を見て長野に入り、善光寺、城山公園、川中島古戦場跡などを見学。松代・妻女山登山。5.25日、村松・歩兵第30連隊見学、五泉の染色講習所、新津の熊沢油田見学。皇太子一行は新潟に入り、5.26日、新潟師範学校、小学校、高等女学校、物産陳列舘などを訪問。5.27日、長岡・宝田油田株式会社見学。5.28日、柏崎・日本石油株式会社熊沢油田、上杉謙信の春日山城。5.29日、高田中学校、高田織物会社、突如の岩の原ブドウ園。6.2日、桐生富岡・三井製糸場。6.3日、桐生・織物学校、織物工場、物産陳列舘、伊香保などを見て回った。

 関東・信越を18日間で回ったが、東北行きはハシカの流行と皇太子の体調不良で中止となった。この行啓の際、皇太子は相変わらず活発で自主的な行動に出ることが多く、特徴的なことは、明治天皇の場合に見受けられた「生の肉声をみだりに伝えるのは不敬である」という考え方は微塵も無く、「皇室と人民との接近」場面が増えたことである。多弁であり、よく質問し、話し掛けた。「面白い」、「国益だなぁ」、「至極便利なものだな」などを良く発している。皇太子は「平常の有様をお目撃なりたきご趣意」を実現しながらの旅行であった。

 自由闊達でその会話の端々には判断力と知性のあることを示されている。一例として挙げれば、岩の原ブドウ園を突然訪問した際に、川上善兵衛に「ブドウ酒はアメリカにもあるか」、「如何にして醸造するや」、「日本人が己れ一箇の資力にしてこれだけの事業を成せしは感心の至り成り」。高田中学校で、「英語の教授は不完全と思うがいかがか」と質疑し、知事が「洋人を雇い置きますれば完全致しまするなれど」と答えたのに対し、すかさず「それなら雇えばよいではないか」なる遣り取りが伝えられており、「能く御下問遊ばす皇太子」を髣髴とさせている。

 この時、各地で意表の行動を為され、その分自由に振舞う姿があった。新潟滞在の際には、深夜供の者が寝静まったのをみはらかってそっと抜け出し、付近の白山公園散歩に出ている。警備の者が必死になって捜索し、ようやく見つけて近寄ると、皇太子は平然と「なにこっそり出たのだから心配には及ばぬ」と話されている。こうしたことが何回かあるも、知事や警部長の責任問題は発生させていない。

【有栖川宮威仁親王が意見書提出し、東宮輔導を辞任】
 1903(明治36、24歳).2.2日、有栖川宮が参内して明治天皇に会い、次のような東宮補導廃止の意見を述べている。
 「皇太子の御近状を拝するに、御学問も進み、御自学の御精神も養成せられしのみならず、御性向上の御欠点も矯正せられ、御病勢は漸次減退して、誠に慶すべき御状態に在り。この際、断然補導を廃止し、独立心の御養成を図るを以って、最も急務なりと信ず。況や、内外人をして、なお補導を要するが如く観察せしむる事は、帝室の為に好ましからざるにおいてをや。各顧問も既にこれに同意したれば、謹んでここに聖断を仰ぐ」。

 有栖川宮はこの間心身ともに疲れきっており、5.26日、大坂で開かれていた第5回内国勧業博覧会見学に皇太子と同伴したのを最後に休養に入る。
 
 1903(明治36、24歳).6.22日に、皇太子から厚く信頼されていた有栖川宮威仁親王が、東宮輔導を辞任している。後任として斎藤桃太郎が取り仕切るようになり、有栖川宮は静養のため伊香保、次いで葉山に長期滞在する。
(私論.私見) 「有栖川宮の東宮職辞任考」
 非常に開明的な指導を為してきた有栖川宮に対する陰に陽に圧力が加わり、遂に辞任をもって小正義を貫いた構図が見えてくるように思われる。

【4度目の巡啓・和歌山、瀬戸内海方面】
 1903(明治36)10.6日、皇太子24歳の時、和歌山紀淡海峡、瀬戸内海方面に向かい、10.10日、香川の高松に到着し、10.13日、琴平・金刀比羅宮、10.14日、愛媛・松山、(広島糸崎)、10.17日、岡山・後楽園、10.18日、第六高等学校で行われた各学校連合運動会を見学。この時、生徒は整列し、皇太子の面前で君が代を二度にわたり斉唱している。和気閑谷学校。10.19日、津山。24日間かけて回った。

 特徴的なことは、 有栖川宮時代の自由さが失われたことであり、天皇行幸に準じた規制が再び敷かれるようになる。予定コースが外れないようにスケジュールが厳格になり、鉄道は全行程にわたって特別仕立ての御召列車となり、ホームでは入場者が厳しく制限された。沿線や沿道での最敬礼の仕方も細かく定められるようになった。但し、皇太子の気さくな発言は相変わらず続いている。

 旅行の天皇! 大正天皇で次の逸話が紹介されている。松山の城山では知事や旅団長に「かの山は何というぞ」、「かの地はいかなる歴史を有するぞ」、「余が通行せしはいずれぞ」、「この山の眺望はすこぶる余が意にかなえり。今回の行啓、余は未だこれほどの景色に接せず」、道後温泉では「この菓子はこの地の名物なりや」等々の御言葉が伝えられている。「率直にして探究心の厚い性格」が披瀝されている。

【日露戦争】
 1904(明治37、25歳)に日露戦争が勃発。天皇だけでなく皇太子にも軍事的役割が期待されるようになる。11.3日、皇太子は天皇とともに天長節観兵式に初めて参加している。

【第三皇子・光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王(後の高松宮)誕生】
 1905(明治38、26歳)年1.3日、皇太子明宮嘉仁(よしひと)親王(後の大正天皇)の第三皇子として、光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王(後の高松宮)が誕生。

【皇太子の子煩悩振り】
 迪宮裕仁も淳宮やす仁も川村純義邸に里子にだされたが、その河村は1904(明治38).8月に病死する。裕仁、3歳3ヶ月の時だった。川村の子息・鉄太郎は「自分には力がないから」と重責に耐えかねる旨を告げ、養育の継続を断わった。そこで兄弟は川村家を去り、暫く沼津の御用邸で過ごした後、翌年東宮御所に帰ることになった。東宮御所の一画に、皇孫御殿が新築され、ここに住まうことになった。皇孫御養育掛を拝命したのは、宮中顧問官・東宮侍従長の木戸孝正侯爵であった。木戸孝允(たかよし・前明桂小五郎)を養祖父とする信任厚い臣官であった。この皇孫御殿に移ってきてからは両親が近かったので、その情愛に接することができるようになった。11月からは光宮も皇孫御所に移られ、5兄弟3人が共に養育されることになった。

 皇太子は子煩悩で、3人の子供達と和気藹々の団欒を楽しんでいる。ベルツは日記は、次のように記している。
 概要「今では東宮一家は、日本の歴史の上で皇太子としては未曾有のことだが、西洋の意味で云う本当の幸福な家庭生活、すなわち親子一緒の生活を営むようになった」。
 1905.3.31日には「皇子たちに対する東宮の、父親としての満悦振りには胸を打たれる」と記している。

 9.26日、丸尾錦作、裕仁親王・擁仁親王の御養育係となる。

【本格的な軍事行啓】
 1905(明治38、26歳).11月、皇太子が陸海軍少将に進級。天皇と皇太子が相次いで戦勝報告の為に伊勢神宮を参拝している。この時、文部省は、「天皇陛下伊勢神宮へ行幸の際における奉送迎の学校生徒の敬礼の仕方」なる3か条を定めている。これは、学生生徒の敬礼の仕方に関するはじめての統一的な規定であった。

 1906(明治39、27歳).10月、名古屋を訪れ、愛知・三重・岐阜三県で行われた陸軍大学校参謀旅行演習を見学。これは、皇太子にとってはじめての本格的な軍事行啓となった。11.2日、横浜根岸競馬場に行啓。3日、稔彦王に東久邇宮の称号を授ける。12.28日、東宮御所竣成。

【5度目の巡啓・鳥取、島根方面】
 日露戦争後は天皇の名代としての公式なスケジュールとなる。この頃から、巡啓に地方視察の意味が付与されるようになり、軍事演習見学が必ず加わるようになる。

 1907(明治40)5~6月には、鳥取、島根を回った。天皇の名代としての初の公式地方旅行となった。京都、大阪、福知山、天の橋立、舞鶴から軍艦鹿島で境港、米子、鳥取、おり返して安来、途中、学校で3泊、濱田から軍艦鹿島で隠岐へ、舞鶴に上陸、帰路につく。詳細は割愛し主だったところを追うと、5.27日、出雲大社参拝。6.4日、隠岐島は予定外であったが皇太子の強い意向で突然立ち寄っている。後醍醐天皇の行宮の跡を見て回られている。

 この時の皇太子の様子として、概要「皇太子は御召列車に乗っても、名所旧跡等につきその由来を御諮問あり、先から先へとお尋ねとなるより時としては知事が拝答に困らしめるも少なからず」とある。相変わらず多弁、質問多発。

 特徴的なことは、このたびの巡啓から明治天皇の「御真影」に相当する皇太子の「御写真」が下賜されるようになる。同時に、各地で奉迎行事が大々的に行われている。なお、皇太子の訪問にあわせて鉄道が開業し、電気の点灯、電話、舗装道路など社会資本の整備が進んでいくことになった。「この旅行から、歓迎行事の出し物にに大掛かりな郷土芸能を見せることも恒例となった」(「旅行の天皇! 大正天皇」)とある。

【伊藤博文が皇太子の韓国行啓を強く求める】
 1907(明治40)年.8月、伊藤博文が帰国し、天皇に面会して皇太子の韓国行啓を強く求めている。当時の日韓関係は次の通り。1905年に第二次日韓協約締結。これにより、ソウルに日本政府の出先機関である統監府が置かれ、伊藤が初代統監となって以来、韓国は日本の保護国になっていた。

 1907.7月、反日的な初代皇帝・高宗(コジョン、1852~1919。在位1897~1907)が、オランダのハーグで開かれていた万国平和会議に日韓協約の無効を訴える密使を送ろうとして事前に発覚し、強制的に譲位させられた。直ちに第三次日韓協約が結ばれ、統監府の権限が一層強められ、韓国の軍隊は解散を命じられた。高宗に代わって即位した二代皇帝・純宗(スンジュン、1874~1926.在位1907~10)は、伊藤に対して従順であった。

 伊藤は、純宗即位を機に、日韓親善を図ろうとし、皇太子となった李うん(イウン、1897~1970)の日本留学を思い立ち、引き換えに皇太子の韓国行啓を発案した。明治天皇は当初、韓国内の反日義兵運動による治安悪化を理由に難色を示したが、伊藤が説得に努めた結果、皇太子が全幅の信頼を置いていた有栖川宮の同伴を条件に承諾を与えた。

【6度目の巡啓・韓国、南九州、高知方面】
 1907(明治40).10.10日から11.14日までの間に韓国へ行啓。10.16日、仁川上陸。韓国訪問は、韓国統監・伊藤博文の強い要請によって実現したもので日韓親和の名目で行われた。桂太郎、東郷平八郎ら陸・海軍大将らが随行し、軍艦「香取」に乗艦、広島宇品港から10.16日、韓国仁川に上陸して京城(ソウル)に入った。韓国皇帝(高宗に代わって即位した純宗)皇太子李(イ)ウンと会見、忽ち兄弟のように打ち解け、4日間の滞在中、韓国皇太子李ウンは終始接伴するという良好な関係をつくった。10.21日、鎮海湾内巡覧。

 この後、帰路、10.20日、南九州・佐世保に上陸、長崎、鹿児島、宮崎、大分。大分から高知の須崎に上陸して高知へ、再び須崎から横浜へ。35日ぶりの帰京。、11.9日より高知へ足を伸ばし視察している。

【裕仁(ひろひと)親王が学習院入学、陸軍大将・乃木希典の薫陶受ける】
 1908(明治41).4.11日、みちの宮(裕仁)は学習院に初等科に入学する。院長は陸軍大将・乃木希典であった。乃木は明治40年1月から学習院院長になっており、明治天皇の「近々孫たち3人(大正天皇のお子さんたち)が学習院で学ぶことになる。その訓育をたくするには乃木が最適と考える」という強い要請で引き受けていた。その期待に応えるべく、皇孫の教育に意を尽くした。4年後、乃木は天皇の後を追って殉死するが、彼の人格的な薫陶が裕仁に与えた影響は軽視できない。後年、裕仁は、自分が尊敬する第一の人物として乃木の名をあげていることからしても推定できる。

 1909(明治42).4月、淳宮(秩父宮)も学習院に初等科に入学する。三年後の44年には光宮(高松宮)も入学してくる。こうして3兄弟が揃って皇孫御所から歩いて四谷尾張町の学習院初等科に通学された。

 乃木大将が重視した教育方針は「実践躬行」であった。初等科の生徒たちに行った訓辞には次のようなものがある。1、口を結べ、口を開いているような人間は心にもしまりがない。2、けして贅沢するな。贅沢ほど人を馬鹿にするものはない。3、寒いときは暑いと思い、暑いときは寒いと思え。4、恥を知れ。道にはずれたことをして恥を知らない者は禽獣に劣る(渡辺淳一著「静寂の声」―乃木希典夫妻の生涯より)。

【巡啓相次ぐ】
 巡啓はその後も続き、1908(明治41)4月に15日間で山口、徳島巡啓。

 9~10月には東北各地を約1ヶ月かけて回った。この時の様子として、次のような逸話がある。
 「丁度その折も折、明治四十一年の秋 東宮殿下(大正天皇)が奥羽史蹟御調査のため東北地方に行啓中であられたが 藤波侍従の配慮もあり御召列車が盛岡から仙台に赴かれる途中、駅でない松島村根廻新潜穴の下流橋上に一分間停車されることになった。殿下は御陪乗の寺田知事に対し『天下の大工事であるから 中途挫折等の事なく竣工せしめよ』とのお言葉を賜ったのである」(鎌田三之助翁顕彰碑)。

 東宮殿下(大正天皇)のこのお言葉によって、あわや難工事すぎて挫折かと思われた工事が見放されることなく遂行されることになった。次のように記されている。
 「元禄以来 幾度か企図して未だ果さなかった干拓工事が鎌田氏の熱誠あふれる努力により遂に貫徹したのである 殊にこの大工事は政府の補助金に頼らず 勧業銀行からの貸付金九十万円によって自力で成就したものである (組合費と新干拓地の収入で償還した) 明治四十三年十二月二十六日の通水式には知事をはじめ一千人が参列し 元禄穴川の通水以来二百十二年目の感動に満場しばし声なく 感激の涙をおさえるのであった」。

 この「1分間停車」は、干拓指導者の人々の宮内庁関係への陳情作戦が功を奏したものであろう。こういう形で政治が機能していたそういう時代の逸話として貴重であるように思われる。

 1909(明治42).9~10月には約1ヶ月かけて岐阜、北陸を巡啓。1909.11月、陸海軍中将に昇進するとともに参謀本部付きとなる。毎年4月に全国各地で行われる参謀本部参謀旅行演習の見学が半ば義務付けられる。

 1910(明治43).1.9日、、31歳の時、国技館に行啓、相撲を御覧。5月、毎週火・金曜日に参謀本部へ通う生活が始まる。皇太子はこの時軍事研究を講学されるが、「陸海軍の御用掛等が進講する軍事上のこと等は、恐れながら豪も御会得あらせらるるの実を見る事を得ざる」(東宮武官・千坂智次郎)。 9月には三重、愛知を巡啓、軍事行啓相次ぐ。

 1911(明治44).8~9月、32歳の時、約一ヶ月かけて北海道を回るなど計9回の巡啓で、沖縄を除く日本全国をくまなく歴訪された。

 1911(明治44).10月、、32歳の時、戦艦「富士」に坐乗し、豊後水道南方海面での第1第2艦隊の演習を視察。

【この頃の原敬との秘話】
 9.17日、皇太子が北海道行啓から帰ると、原敬が東宮御所を訪問している。北海道行啓の最中の8.25日に第二次桂太郎内閣が総辞職して、8.30日に第二次西園寺内閣が組閣され、原は内務大臣に返り咲いている。原は、日記に次のように記している。
 概要「殿下例の如く椅子に寄るを許され、且つタバコなど賜りて御物語あり。如何なる方針なるやとの御尋ねに付き、つぶさに言上したり。それより種々の御物語ありて退出したり。今日に始まらぬことながら殿下は毎度懇切に閣員等を遇せらるるは恐懼のほかなし。又当秋の大演習には赴くかとの御尋ねにつきその心得なる旨申し上げ、且つ殿下にも行啓あるやに御尋ね申し上げたるにその御含みらしきもこのことは秘し置きくれよと繰り返し御話しありたり」。

 原氏は著書「大正天皇」の中で、「皇太子は、気心の知れた原に思わず本音を漏らしてしまい、あわてて何度も『このことは秘し置きくれよ』と念を押したように思われる」と解しているが、この時皇太子の漏らした本音とは何であったのだろう。ここが肝心である。れんだいこが思うに、陸軍大演習を巡って論じているが、その際に強烈な軍部批判並びに当時の軍事化を強めつつある社会風潮に対して困惑の思いを吐露していたのではなかったか。

【この頃の旧友との秘話】
 1911(明治44、32歳).11月、先帝陵参拝と第4・第16師団対抗演習を目的とする京都、大坂、兵庫巡啓に出向いている。この時、11.20日突如学習院時代の旧友・桜井忠胤(ただたね)邸を訪れ、恐懼する桜井に「今度は軍人となって来たのだから恐縮だの恐れ多いだのは止めにしてくれ。そう慇懃では困る」と云い、昔語りしている。その後「桜井、演習は9時からだからその間又遊びに来た」と再度来訪し、邸内を勝手に歩きながら「桜井、今日は恐コウだなどは一切止せよ。お前は学校に居る時、俺と鬼ごっこの相手ではないか。今はここに住んで何をしているか。大層色が黒くなったではないか。子供は幾人あるか」などと語った挙句、「どうも騒がしたなァ桜井、又来るよ」と言い残して立ち去っている。この時、時計の針は既に9時を廻ろうとしており、完全に演習に遅刻している。
(私論.私見) 「旧友桜井邸訪問秘話考」
 この逸話は、皇太子が軍事演習参観を嫌っていたことを証左しているように思われる。

【巡啓相次ぐ】
 1912(明治45).3.27日、、33歳の時、ろ梨行啓。 4.22日より滋賀県と三重県を舞台に参謀本部参謀旅行演習の見学に出かけている。この時、演習の合間に蕎麦屋に入ったところを、地元新聞に報ぜられている。5.8日、東宮御所に参上した原敬に対し、皇太子は、「行啓に際し新聞紙に種々のことを登載されて困る」旨漏らしている。

 5.17日、早稲田大学に行啓。これらの巡啓を通して、事前に計画していた日程の変更を求めてみたり、率先して旅先の人々と気さくに交わったりする等、周囲に印象深い様々な逸話を残していったものの、皇太子の体調は病弱だった頃とは別人の如く丈夫になったという。

【大正天皇が愛用した碁盤、碁石考】
 大正天皇が愛用した碁盤、碁石が保存されていると云う。これを確認しておく。週間碁ウイークリーの2017.3.13日版4面の「春秋子の観戦余話100、不思議(江戸時代の碁盤)」が次のように記している。関係のある下りのみ抜書きする。
 「数年前、静岡県沼津市の古刹から、白隠禅師(江戸中期の臨済宗の僧。禅宗中興の祖と云われる)と大正天皇がそれぞれ使用した碁盤と碁石があるから見に来ないかと連絡をうけたときも飛んで行きました。大正天皇が主に皇太子時代に愛用されたという碁盤と碁石は保存状態が良く、現在のタイトル戦で使ってもいいくらいの立派なものでした。天柾の盤の厚さは五寸弱。石は那智黒と上品な三河白」。
(私論.私見) 大正天皇の囲碁愛好ぶり
 「大正天皇の囲碁愛好ぶり」が論ぜられることは寡聞である。そういう意味で、「春秋子の観戦余話100、不思議(江戸時代の碁盤)」は貴重な逸話を伝えていることになる。但し、誰が教授したのか、その棋力のほどにつき皆目不明のままである。

 2017.4.11日 れんだいこ拝

【明治天皇崩御】
 同7.18日、明治天皇重体となる。24日、お見舞いに参内。同7.29日、明治天皇崩御(59歳)。


【嘉仁親王が大正天皇として即位する。裕仁親王が皇太子となる】
 1912(明治45)7.30日、皇室典範第10条「天皇崩する時は皇嗣即ち践そし祖宗の神器を承く」に従い、皇太子嘉仁親王が34歳で践そ即位し123第の皇位に就かれた(これにより、以下皇太子改め大正天皇ないし単に天皇と記す)。裕仁親王が皇太子となった。

 その夜、「御政事向きのことにつき十分に申し上げ置くこと必要なり」として、首相・西園寺公望、山県有朋が大正天皇を訪問。まず西園寺が「十分に苦言を申し上げた」のに対して、天皇は「十分注意すべし」と返答している。だが山県は「僅かに数言申し上げたるのみ」であった。その理由として、天皇が山県を嫌っているという緊張関係が介在していた。

 翌7.31日、朝見の儀が執り行われた。政府関係者の居並ぶ中、天皇皇后がお出ましになり、天皇が「朕今万世一系の帝位を践(ふ)み、統治の大権を継承す。祖宗の皇ぼに遵(したが)い憲法の条章に由り、これが行使を誤ることなく、以って先帝の遺業を失墜せざらんことを期す」と勅語を朗読。

 大正と改元された。改元の詔書として、「《朕(ちん)菲徳(ひとく)を以て大統を承(う)け、祖宗の霊に詰(つ)げて万機の政(まつりごと)を行ふ。茲(ここ)に先帝の定制に遵(したが)ひ、 明治四十五年七月三十日以後を改めて大正元年となす、主者(しゅしゃ)施行せよ」と宣べられている。

 ちなみに大正とは、五経の一つである「易経」の「大享以正、天之道也」、「春秋」公羊伝の「君子大居正」を出典としているが、公式には発表されていない。2002.3月に公開された「大正天皇実録」によれば、「大正」のほかに「天興」・「興化」の候補があり、枢密顧問が審議した結果、「易経」の「大享以正、天之道也」に由来して「大正」が選ばれたことが判明した。
(私論.私見) 「大正天皇の反軍的傾向考」
 即位に際して、山県有朋を嫌っている素振りを見せる大正天皇の性格ないし時代の緊張関係は注目されるに値する。

【元老勅語】
 8.13日、大正天皇は、山県、大山、桂、松方の5公侯に対して元老としての勅語を下した。

【大正天皇としての窮屈な生活】
 新天皇を待ち受けていたのは、生活の激変であった。践そしてからは、午前6時起床、8時半には大元帥の軍服を着用、表御所に出御し、正午まで執務した。大正天皇は、皇太子時代のように思い通りの行動がとれなくなった。明治天皇との違いが早速現われることになった。大正天皇は規制を厭い、自由を述べられ、山県有朋ら元老らが何かにつけ「先帝を云々」するという日々が続くことになった。このために病気におかされ、体調を崩すことが多くなった。

 大正天皇のこの頃からの変わり様について、秩父宮は次のように記している。
 「父上は天皇の位に付かれた為に確かに寿命を縮められたと思う。東京御所時代には乗馬をなさっているのを見ても、御殿の中での御動作でも子供の目にも溌剌としてうつっていた。それが天皇になられて数年で別人のようになられたのだから」(「思い出の明治」)。

【明治天皇の「大喪の儀」、乃木希典夫妻が殉死】
 乃木希典大将夫妻が殉死。1912(大正元年、33歳).9.13日、明治天皇の御大葬が青山葬場殿で執り行われ、翌日、伏見桃山陵に奉葬。(「明治天皇の「大喪の儀」)

 この日、大正天皇は、明治天皇に殉死した乃木希典陸軍大将を追悼する漢詩を3首詠まれている。「懐乃木希典」と題された漢詩「平生忠勇養精神  旅順攻城不惜身  颯爽英姿全晩節  淋漓遺墨々痕新」。これを見れば、大正天皇が漢詩に造詣が深かったことが判明する。

【大正天皇と明治天皇派の対立】
 9.17日、天皇は原敬に対して、「当秋大演習に行幸のはずなるが、先帝の御時代には先帝だけの御事ありしも、今回はなるべく簡単にいたし、委細は侍従長に話し置くにつき打ち合わせよ」と述べている。原はこれを受け、山県の強引な政治工作により践そ直後に内大臣兼侍従長となっていた桂太郎に会い、「なるべく諸事簡単を望ませられ、又随いて行幸の御道筋も時々変更せらるる事あるべし」と天皇の意思を伝えている。

 11.5日、明治天皇100日祭で京都・桃山行幸。天皇は、その際原敬を「汽車中にて御召しあり」、「両陛下の御前において種々の御物語をなしたり(先帝の御時代にはかくの如き事無し)」。これ以降、天皇の行幸の際に原が随行し、車中の話し相手を務めている。

 11.14日、川越、陸軍特別大演習統監。大演習の直前、天皇は念を押すように、「多人数御跡(おんあと)より付き添い来たるは面白からざるに付き、これを止むるよう」意見を述べている。しかし、この行幸随員を減らせよとの要望は叶えられなかった。道筋の変更も、取締り警備上非常に困難として認めなかった。

 こうした大正天皇の明治天皇とは異なる御意思が、軋轢を生んでいった。陸軍大将・山県有朋と海軍大将・山本権兵衛とは、前者が長州閥であり陸軍を代表し、後者が薩摩閥であり海軍を代表していたが、日頃何かと対立していたが、大正天皇を廻って気脈通じ始めている。

【大正元年の政変】
 1912(大正元、).12.5日、第二次西園寺内閣が陸軍の二個師団増設問題をめぐって陸軍と衝突し、総辞職。

 桂太郎が後継した。桂は、三度目の首相就任となった。桂は自ら政党を作り、衆議院を支配する西園寺、原らの立憲政友会に対抗。議会停会の勅令や内閣不信任案決議案撤回を命じる勅語を次々と降下させ、政友会勢力を押さえ込もうとした。しかし、この強引なやり方が反発を呼び起こし、犬養毅や尾崎行雄を中心に「閥族打破、憲政擁護」を掲げた倒閣運動となる第一次憲政擁護運動が高まり、桂内閣打倒へと繋がる。これを大正政変と云う。

【大正天皇体調崩し始める】
 1913年頃から、天皇は再び体調を崩すことが多くなった。1月に風邪をこじらせ、5月には肺炎にかかった。5.24日の東京朝日新聞は次のような記事を掲載している。
 「陛下には御年14、5歳の御時一度肺を患い給い、その時には各侍医も殆ど匙を投げたくらいであったが、遂に御全快遊ばされた。その後、陛下は日に御壮健に赴かせられ、殊に近年は御健やかに御血色も殊のほか宜しきように拝し奉っている。これ東宮時代より北海道より中国地方(九州地方の誤り)に至るまで、御見学旅行を遊ばされたる為、自然に御運動の結果だろうと思われる。然るに昨年御践そ後、政務御多端にあららるるが為、遂に運動の御不足を来された結果でないかと拝察される」。

 天皇は5月末回復し、6月より公務に復帰している。この後、明治天皇時代には無かった毎年夏の日光御用邸での長期避暑、冬には葉山御用邸への行幸が復活する。

 明治天皇の後を継ぎ皇位についた後も、歩行障害により開院式に出席できず、言語障害のため勅語を朗読する事が困難であったとも伝えられている。しかし、大正天皇の時代から女官制が改められて一夫一婦制となったことや、陛下自身がきわめて家庭的であった事などが近年明らかになっている。

【シーメンス事件で山本権兵衛内閣が瓦解】
 1914(大正3)年.3月、シーメンス事件で山本権兵衛内閣が瓦解。後継内閣の組閣は困難を極めた。2週間過ぎても新内閣が出来ないという異常事態となった。ようやく4.16日、第二次大隈内閣が成立した。大隈はしばしば天皇と面会したが、原とは不仲であった。

【皇太子裕仁親王が帝王学学ぶ】
 1914(大正3)年、皇太子裕仁親王は、学習院初等科を卒業し、東宮御所構内に開設された東宮御学問所(総裁・東郷平八郎元帥、副総裁・波多野敬直宮内大臣)で、次代の天皇となる為の帝王学に専念されることとなった。日本中学校長の杉浦重剛が倫理を担当した。その他当代一流の学者が選任され、学業を補佐していくことになった。

【第一次世界大戦勃発、山県有朋と原敬の確執が演ぜられる】
 1914(大正3).7.28日第一次世界大戦が勃発した。この時大正天皇を輔弼していた山県有朋と原敬の確執が演ぜられ、悩みを深めさせた。山県は、専制君主的な名君論を説き、中国大陸への影響を強めていく方策を進言した。国際関係についてはアメリカとの対抗を基本としてロシアとの同盟が必要であるとしていた。原は、イギリス型の議会制的君主制論を説き、中国内政不干渉方策を進言した。国際関係については対米英協調を説き、とりわけ対米関係を重視していた。

【即位式】
 昭憲皇太后薨去のため延期となっていた即位式が1915(大正4).11.10日に京都御所で正式に行われ、新天皇となった。全国各地で派手なお祭り騒ぎが繰り広げられた。が、これについても即位式をなるべく簡素にするよう度々要望していたものの結局認められなかった。

【第四皇子・澄宮(すみのみや)崇仁(たかひと)親王(三笠宮)誕生】
 1915(大正4).12.2日、第4皇子・澄宮(すみのみや)崇仁(たかひと)(三笠宮)ご誕生。皇后との間に皇位継承者を4名も授かった天皇は、歴代の中で大正天皇だけという記録を為している。

【大正天皇の内治主義的な御言葉】
 1916(大正5、37歳).4月、畝傍行幸(神武天皇2500年祭)。

 5月、東京で地方官会議が開かれ、全国の道府県の長官や知事が集まった。5.18日、宮中で午餐会が開かれ天皇が臨席。この時、皇太子時代の行啓時に顔見知りとなっていた笠井氏(東北巡啓時の岩手県知事、この時岡山県知事)に気軽に声をかけ感激させた旨伝えられている。
 概要「岡山県の教育は如何に。貧民は如何に暮らせるや。汝の管内の産業の消長はどうであるや云々」。

【大隈首相と元老・山県との確執】
 この頃、大隈首相と元老山県の対立が進行している。山県は何かにつけ「先帝を云々」し、大隈は「先帝は先帝なり。今上陛下はその御考えによるべからず」として大正天皇を擁護した。この対立は、山県が大隈内閣を瓦解させ山県と同じ長州閥の寺内正毅内閣へと導き、大隈は加藤高明を推していくことになる。この一部始終に対し、大正天皇は反山県の立場を取りつづけている。

【裕仁親王が皇太子となる】
 11.3日、裕仁親王の立太子礼。

【皇太子裕仁と久*宮良子(ながこ)との婚約が内定】
 1918(大正7)・1.17日皇太子裕仁と久*宮良子(ながこ)との婚約が内定した。良子が東宮妃に選ばれたのは、貞明皇后(節子)の強い希望によっていたと伝えられている。6.10日婚約勅許の正式発表が行われている。

【米騒動】
 1918(大正7、39歳).7月、富山県で起った米騒動が全国に波及。大正天皇はこれを憂慮して東京府知事に情報収集を命じたりするなど、日々の公務の消化につとめる。

【政友会の原敬が、近代日本最初の本格的な政党内閣を組織】
 1918(大正7).9月、寺内内閣が総辞職。それまで国政をリードしてきた藩閥官僚勢力に替わって、政友会の原敬が、近代日本最初の本格的な政党内閣を組織することとなった。

 大正天皇にとって実懇の原敬の首相としての登壇は慶事であったが、この頃から次第に体調は悪化の一途を辿り、10年10月には宮内省も容体回復が難しい事を示唆した。
議会開院式への出席が困難な状況に陥っていた。

 
1918(大正7).10.31日、39歳の時、天長節観兵式を風邪を理由に欠席。11月、原の日記に天皇の病気を憂慮する記述が俄かに増えていく。

【大正天皇と皇太子が軍事演習親閲】
 1919(大正8).5.7日、、40歳の時、裕仁皇太子成年式。5.9日、東京奠都50年祭出席。10月、海軍特別大演習 横浜で御召艦・戦艦「摂津」に乗艦 洋上にでて演習を統制。演習終了後、横浜沖で特別大演習観艦式を親閲。11.9日、兵庫大阪陸軍特別大演習に皇太子とともに出席。

【大正天皇が、帝国議会開院式への臨席中止事態発生】
 1919(大正8).12.26日の第42回帝国議会の開院式への臨席も中止となった。理由付けとして、「まことに遺憾の次第であるが、数日来、勅語朗読を練習したものの、なにぶんにも御朗読は困難で云々」とされている。内大臣・松方正義公爵と宮相・波多野敬直男爵が原敬首相に伝えている。以後、大正天皇は他の公式行事にも出席されず、大正9年を迎える新年の儀式、紀元節の宴席にも姿を見せず、ようやく国民の間に「天皇御不例」の様子が広がっていった。

【大正デモクラシー運動活発化する】
 1920年頃より、東京市内の各所で普通選挙の促進を求めるデモが為されるようになった。5.2日、日本最初のメーデー。6.6日、3万人の市民が演説会。つまり、民衆運動の高まり。

【皇太子裕仁の摂政就任の動きが具体化し始める】
 6月この頃から、皇太子裕仁の摂政就任の動きが具体的に動き始めた。これについて最初に言及したのが内大臣・松方正義公爵で、原首相に提案が為されている。皇室典範第19条「天皇久しきにわたるの故障により大政を親(みずか)らすること能わざるときは、皇族会議及び枢密顧問の議を経て摂政を置く」の規定に基づき、裕仁皇太子の摂政につき検討するよう提議している。

 これに対する原の見解は、「遂に摂政を置かるる必要に至らん事と恐察するもそれまでにはたびたび御様子を発表して国民に諒解せしむるの必要もこれあるべし云々」と答えている。注意すべきは、摂政を置く必要があるという事態の認識では一致していたが、心身症的理由によるもので「脳の病気」的観点は見られないことであろう。

【大正天皇の病状が発表される】
 1920(大正9、41歳).3.30日、第1回病状発表。7.24日、第2回病状発表。この発表の直前に、宮内大臣が波多野氏から中村雄次郎氏に交代している。

【皇太子裕仁(ひろひと)親王の「宮中某重大事件(婚約解消問題)」が発生】
 1920(大正9)年夏から秋頃、皇太子裕仁(ひろひと)親王の后問題が発生している。既に婚約勅許の発表までされていた良子の家系的色盲遺伝の恐れが問題にされ、元老・山県、時の宮内大臣・波多野敬直らが火種元となった。これを首相の原敬が支持し、元老の西園寺公望も同調した。これに対抗したのは東宮御学問御用係の杉浦重剛とそれに繋がる玄洋社の頭山満、黒竜会の内田良平、北一輝らであった。政界が日増しに騒然と化していった。

 1921(大正10).2.8日、皇太子裕仁(ひろひと)親王の渡欧が決定された。2.10日宮内相から、先に御婚約が成立している九に宮家の良子(ながこ)妃との御成婚に変更がない旨の発表が為された。ここにさしもの騒動も一件落着し、山県は責任を取って元老を辞任した。宮内大臣の中村雄次郎が辞任し、薩摩出身で大久保利通の次男に当る牧野伸顕が就任した。この一連の経過が「宮中某重大事件」と云われている。

 牧野の登場は、大正天皇の「押し込め」への動きを加速させた。「脳膜炎ようの疾患」なる表現が公然と使われるようになり、幼少時よりの宿亜のものであるとして「やや赤裸々に御様態の公表」が為されていくことになった。

【メディアが皇太子のプロパガンダに乗り出す】
 7.24日の第2回病状発表、皇太子の外遊正式決定後より、マスメディアが一斉に皇太子をプロパガンダし始めた。新聞社に加え活動写真各社による皇太子の動静を伝える報道が為され始めた。皇太子の外遊のご様子もタイムリーに知らされ、東京の日比谷、上野、芝公園、その他各種会館、歌舞伎座で多数の市民を集めて観覧された。この動きが地方にも広がっていく。

 注意すべきは、「東京で皇太子の実像が上映された場所の多くが、日比谷公園や上野公園、芝公園など、普通選挙の実現を求めていた民衆運動の拠点であったことである」(原、「大正天皇」)。

【皇太子裕仁(ひろひと)親王が半年間の欧州歴訪の旅に出発】
 1921(大正10)..3.3日、皇太子裕仁(ひろひと)親王は、戦艦「香取」に乗船し、横浜港から半年間の欧州歴訪の旅に出発、外遊している。「それまで籠の鳥だった私が初めて自由を知った」と後年回想されている。その後の動きから見て、皇太子裕仁の欧州外遊は、摂政就任の準備行為で、広く外国の空気に接し、皇統としての心構えを早急に身につける必要から企図されたものであったと推定される。

 訪問先はイギリス、フランス、ベルギー、オランダ、イタリア(バチカン含む)の欧州5カ国、日本の皇太子が外遊するのはむろん初めてのことであった。艦上には供奉長として随行した外交界の重鎮、珍田捨巳(メソジスト派)、山本信次郎海軍大臣(カトリック)、そして澤田節蔵(クエーカー)の日本のクリスチャン・エリートが勢揃いしていた。バチカン訪問をねじ込んだのは山本信次郎だと云われている。奈良、入江、澤田も供奉していた。(萬晩報通信員・園田義明氏の2006.10.6日付け「萬晩報、薩長因縁の昭和平成史(4)」参照)。

【大正天皇のより詳しい病状が発表される】
 4.16日、第3回病状発表。この頃から風説として大正天皇の「脳の病気」説が流され始めた。5.31日、原の日記に「9月の皇太子の帰国後、速やかに皇太子を摂政にすることで山県と合意」とある。9.3日、皇太子帰国。9.8日、日比谷公園で皇太子帰朝奉祝会が開かれ、約3万四千人が集まる。この時、東京市長の後藤新平が皇太子に捧げる「奉賀」を読み上げている。9.13日、平安神宮で皇太子帰朝京都市奉祝会。

 10.4日、第4回病状発表。大正天皇のより詳しい病状が発表され、この時初めて皇太子の病気が幼少時の「脳膜炎ようの疾患」によると言及された。

 10.10日、元老松方正義公爵が摂政設置を皇后に内奏、承諾を得、続いて10.27日、裕仁親王にも摂政設置を言上して御承認を得ている。この時、皇太子が「令旨(りょうじ)」を読み上げ、熱狂されている。11.16日、神奈川東京陸軍大演習を皇太子が統監。この時も、皇太子が「令旨(りょうじ)」を読み上げ、万歳三唱で熱狂されている。

【原敬が東京駅で暗殺される】
 1921(大正10).11.4日、原敬が東京駅で暗殺される(65歳)。原敬の暗殺は、大正天皇支持基盤を瓦解させることになった。(翌年2.1日、山県が病没する。84歳)

 政治状況は変わったが、摂政設置スケジュールは何の変更も無く、牧野宮相は、裕仁皇太子に天皇の病状と、摂政設置は20日に終わる陸軍特別大演習の直後に行いたい旨、進言している。

【摂政設置、皇太子の摂政就任スケジュールが動き出す】
 この頃、牧野伸顕宮内大臣が、摂政設置やむなし、時期は皇太子が外遊から帰って後のできるだけ早い機会に、ということになった。10月頃より摂政就任スケジュールが動き出している。

 帰国後一気皇太子摂政の動きが強まった。但し、当の大正天皇は強く拒否している様子が伝えられている。引退推進派の宮内大臣牧野伸顕日記によると、摂政を置くことを奏上しても、「聖上陛下には、ただだアーアーと切り目切り目に仰せられ、御点頭遊ばされたり」とある。しかし重大な要件なので、改めて宮内大臣・牧野と内大臣・平田東助より同じ説明をしたところ、「恐れながら、両人より言上の意味は御会得遊ばれざりし模様と両人とも拝察し奉りたり」(1921.11.22日)とある。

【皇太子裕仁(ひろひと)親王が摂政に就任】
 原死去の直後、皇太子の摂政就任となる。

 10.25日、皇族会議が開かれ、摂政を置くことが決められ、「朕久しきにわたるの疾患により大政を親(みずか)らすること能はざるを以って、皇族会議及び枢密顧問の議を経て、皇太子裕仁親王摂政に任ず」との大詔を受ける形で、東宮(皇太子裕仁親王→昭和天皇)がその職に就く事が議決された。続いて枢密顧問が開かれ、満場一致で裕仁親王の摂政就任が了承された。以降、皇太子が公務を代行することになり、大正天皇は実権を完全に喪うに至り、一線を退くことになった。

【大正天皇の病状経過が同時発表される】
 この時、宮内省から大正天皇の病状経過として次のような発表が為されている。第5回病状発表。

 「天皇陛下は御誕生後間もなく、脳膜炎様の御大患に罹らせられ、その後病患多く云々」、「御壮年期に入らせたまいたるにより以来12、3年間は格別の大病も無く、動作も活発になった。然るに天皇になってからは政務の多忙によって心労が重なったのか、大正3、4年ころより起居が以前のようにならず、姿勢は端正を欠くようになり、歩行が安定せず、言語も渋滞をきたすようになった」。

 11.26日付け東京日日新聞を参照すれば次のように報道されている。

 「大正8年以後は万機御親裁あらせらるる外、帝国議会の開院式にも臨御あらせにれず、御避暑、御避寒の期間はこれを延長し、務めて御静養あらせたまうも、御軽快に向わせられず」、「御脳力は日をおいて衰退あらせらるるの御容態を拝するに至れり。しこうして御姿勢その他外形の御病状も末梢機関の故障より来るものにあらず、すべて御脳力の衰退に原因し、御脳力の衰退は御幼少の時御悩み遊ばされたる御脳病に原因するものと拝察することは、拝診医の一致するところなり」。

 別文では、意訳概要「天皇陛下におかせられては、記銘、判断、思考らの諸能力が漸次衰へさせられ、殊に記憶力に至りてはご衰退の兆し最も著しく云々」(宮内省公表文「聖上陛下御容体書」)と記されているのもある。

 原敬日記によってもこのことは次のように裏付けられている。

 概要「(御位後4、5年目で体調が勝れなくなり、)御心神に幾分かご疲労の御模様あらせられ」、要約概要「実に恐懼に堪へざる事ながら、御年を召すに従て御健康に御障あり。就中(なかんずく)御朗読ものに御支障多く、既にこの間の天長節にも、簡単なる御勅語すら十分には参らず、臣下として、殊に余当局として、国家皇室の為に真に憂慮しおれり」(大正8.11.8日付け原敬日記)。

 この経過に少し疑問が発生する。この宮内省発表文に拠れば、逆に、大正天皇は親王時代も含め結婚した20歳から即位するまでの32歳頃までの皇太子時代には元気であったことが読み取れる。この実像研究について、原武史著「大正天皇」(朝日新聞社・平成12.11月刊)が克明な調査で、「髄膜炎によって病弱で影が薄かった説のベールを剥がして、行動的で活発、多弁な全く別人のような大正天皇像を明らかにしている」。

 特に、精神状態に問題あり説の最大の根拠とされてきた「遠眼鏡事件」についても、最近になって次のような真相が明らかにされている。

 「(大正天皇から直接聞いたというお付きの女官証言によれば)、ある時、議会で勅語が天地逆さまに巻きつけてあったので、ひっくり返して読み上げ、随分恥ずかしい思いをした。このようなことがないよう、詔書を筒のように持って中を覗いて間違っていないことを確かめて読み上げようとしたものだ」(平成13.3.14日付け朝日新聞)。

【大正天皇が皇太子摂政に不快を表明す】
 11.22日、牧野は内大臣の松方と天皇に会い、皇太子の摂政就任を告げ、概要「誠に恐懼限りなき事ながらこの段申し上げ御許しを願い奉る旨言上に及びたところ、天皇は、ただあぁあぁと切り目切り目に仰せられ、御点頭遊ばされた。恐れながら両人より言上の意味は御会得遊ばされざりしよう我々両人とも拝察し奉り」とある。牧野の倉富に会い述べた処は、「今日松方とともに御前に伺候し、摂政を置かるべきことを奏したるもついにご理解あらせられず。まさに退かんとする時、松方を呼び留めたまいたるも、御詞は全く上奏に関係なきことなりしなり。実に畏れ多きことなり」とある。

【大正天皇が強制的に閉居させられる】
 大正天皇は、この強制的引退に抵抗した模様である。11.25日、侍従長・正親町(おおぎまち)実正が天皇の使う印鑑を摂政に渡したいと取りに行くと、天皇は不快感を露にし、いったんは拒んだ。その後、侍従武官長が天皇の元に出ると、「さきほど侍従長はここにありし印を持ち去れり」と云ったという(四竈孝輔(しかまこうすけ)「侍従武官日記」)。

 原氏は云う。「天皇は自らの意思に反して、牧野をはじめとする宮内官僚によって強制的に『押し込め』られたというのが私見である」。

【皇太子の巡啓、行啓再開する】
 1922.7月、裕仁皇太子は巡啓、行啓再開し、北海道を訪問する。この時、注目すべき変化が起っている。大正天皇の皇太子時代の時と比べて、「日の丸を振り、最敬礼して君が代を斉唱し、万歳を叫ぶ」というその後敗戦時まで続く光景のひながたが現出している。この「規律と秩序を重んじる政治空間」が、全国レベルに波及していくことになる。


【その後の大正天皇の御姿ぶり】
 以降、崩御までの5年間を、天皇は葉山や日光、沼津の御用邸を行き来し、幼い崇仁親王と遊んだり、葉山では岩崎家の別荘や油壷の臨海実験所などを見学している。毎晩のように2時間ほど四竈らを相手にビリヤードを楽しんでいた。脳に障りのある人ができる競技ではない。

第6回病状発表
 1922(大正11、43歳).10.7日、第6回病状発表。

【関東大震災】
 1923(大正12、44歳).9.1日、関東大震災が発生し、焼失家屋24万戸、崩壊家屋2万4千棟、死者5万9千人の被害が発生した。これにより関東一円の商工業地区が壊滅的大打撃を受けた。被害総額は約100億円(当時の一般会計の6.5年分)と推定される。直後、朝鮮人、中国人、社会主義者の大量虐殺事件発生。事件は、無抵抗の者を陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが一方的に撃ち殺したところに特質がある。正力は、秩序維持の責任者の地位にあったから、事件発生に責任がある。

【虎ノ門事件】
 1923(大正12、44歳)・12.27日、難波大助、摂政宮裕仁に発砲(虎ノ門事件)。

【裕仁皇太子と久爾宮良子の御成婚儀が挙行される】
 1924(大正13、45歳).1.26日、皇太子裕仁親王と久爾宮良子の御成婚儀が挙行された。3.16日、第7回病状発表。

【大正天皇の憂鬱】
 1925(大正14、46歳).2月、感冒のため体温が38℃まであがるが、まもなく全快。5.10日、銀婚式奉祝会。5.27日、第2皇子秩父宮擁仁親王、約2年の予定で英国に留学。6.19日、第8回病状発表。7.7日、日光にて避暑。12.6日、第1皇孫照宮成子内親王誕生。12.19日、脳貧血で卒倒し、沼津行幸を延期。

【大正天皇病床に伏す】
 1926(大正15、47歳).2.10日、第9回病状発表。5.11日、第10回病状発表。8.15日、避暑のため、原宿駅から葉山御用邸へ出発。9.17日、第11回病状発表。10月、感冒で発熱。11.11日、御不例発表。明治神宮へ御平癒祈願の礼拝客が引きも切らぬ。11.18日、摂政宮裕仁、葉山御用邸へお見舞に参内。11.28日、3000人あまりの女学生が皇居前広場に参集して御平癒祈願。12.10日、生母柳原二位局、若槻首相などがお見舞いに参内。このころより皇族や大臣など葉山御用邸への往来が増える。12.15日、これ以降、御容体を官報にて発表。

【大正天皇が葉山御用邸で崩御】
 1926(大正15)12.25日午前1時25分、家族に看取られながら、大正天皇が葉山の御用邸で崩御、47歳であった。

 同日、御用邸で剣璽渡御の儀、皇居賢所では、新天皇代拝として掌典長が践祚の奉告を行い、ここに新天皇裕仁が誕生。昭和と改元。大喪使官制公布。
(私論.私見) 大正天皇毒殺論考察
 大正天皇毒殺論が存在する。真偽不明ながら、この論が成り立つ素地はある。

【皇太子裕仁親王が昭和天皇として即位する】
 12.26日、昭和と改元され、皇太子裕仁親王(当時25歳)が第124代の皇位を就任し、昭和天皇となった。これより昭和の御世が始まった。

【大正天皇の埋葬】
 1927(昭和2).1.20日、「大正天皇」と追号。2.7日、新宿御苑にて大葬。2.8日、多摩御陵(東京府下南多摩郡横山村、現・東京都八王子市長房町)に葬る。





(私論.私見)