柳原白蓮考



 (最新見直し2014.11.10日)
 (れんだいこのショートメッセージ)
Re:れんだいこのカンテラ時評336 れんだいこ 2007/10/31
 れんだいこは、大方の評価と反して大正天皇を高く評価する。既存の歴史学の常識は、稀代のスパイ宮顕を日本左派運動の英邁な指導者として渇仰する如く逆転評価が甚だしい。大正天皇然り、この場合は逆に精神薄弱視して貶めている。こういう観点からの歴史書は読めば読むほど真に受けた方が馬鹿になり、通りで自称知識人にしてこの種の手合いが多いのもむべなるかなということになる。

 大正天皇は恐らく明治天皇、昭和天皇と違って真に英明であった。しかし当時のネオシオニズムの国際的指令に基づき日清日露第一次世界大戦へと戦争政策に狂奔化し始めた時代趨勢が大正天皇の内治政策を優先せんとする英明さを許さなかった。大正天皇は遂に押し込められ、後の昭和天皇の皇太子摂政時代へと続く。大正天皇は虚飾の痴呆人扱いされ今日に至っている。そういう大正天皇論ばかりが横行しており、サヨの天皇制論の格好教材となってからかわれ続けて今日に至っている。

 れんだいこは、そういう愚かな史観に出会うと黙っていられない。そこで「大正天皇論」をサイト化し世に問うている。
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/tennoseiron/rekidaitennokakuron/taisyotennoco/taisyotennoco.htm)

 それはともかく、ここで柳原白蓮を特別に考察する意味は、明治天皇側室二位局にして大正天皇の母・柳原愛子が、歌人として知られる柳原白蓮(本名Y子、あきこ、1885−1967年)の伯母(父の妹)に当たることを重視せんが為である。このことは存外重要で、大正天皇の歌人ぶりも知る人ぞ知るところで、柳原白蓮を知ればなお血筋のDNAとして注目されるべきではなかろうか。そういう意味と意義があり、ここで白蓮の履歴を確認することにする。

 我々は、歌人としてのDNAと性格一途純粋型のDNAを同時に認めることになろう。この特質は大正天皇論の際に踏まえねばならない点ではなかろうか。思えば、宮崎とう天家の性格一途純粋型のDNAも知られるところであり、竜介と白蓮の繋がりは、これと柳原家の同様のDNAが邂逅したことによりもたらされた歴史的恋であったことになる。理屈では如何ともしがたい歴史の奥深さを味わうべしであろうか。

 2007.10.30日 れんだいこ拝


【柳原白蓮の履歴概要】
 「白蓮の道」、「松岡正剛の千夜千冊、長谷川時雨の近代美人伝」その他を参照する。
 1885(明治18)年、白蓮は、伯爵・貴族院議員の柳原前光(さきみつ)の次女として生まれる。本名はY子(あきこ)。前光が鹿鳴館の舞踏会で踊っている時に生まれたことから「きらめく如く美しい娘になるように」との思いを込めて命名されたと云う。前光は、戊辰戦争で東海道先鋒総督をつとめたり、西南の役では勅使を務めるなどしている藤原北家の血を引く名門の公家華族であった。

 生母は、零落した武家の娘で柳橋の売れっ子芸妓であった奥津りょう(通名おりょう)。おりょうの父は、日本人として初めて咸臨丸に乗ってアメリカに渡った政府使節団の団長・新見(しんみ)豊前守正興(まさおき)。正興が日本へ帰ったときは幕末の動乱の最中で、幕臣には形勢利あらず一家は零落するよりほかなかった。その煽りで娘おりょうは芸妓に身をやつしていたものと思われる。

 大正天皇の生母である柳原愛子(なるこ)は、白蓮の父・柳原前光の妹であり、してみれば、柳原愛子と白蓮は姪の関係であり、柳原愛子の子・大正天皇と白蓮は従兄妹にあたることになる。

 後の白蓮ことY子(あきこ)は生後7日目に本邸に引き取られ、当時の華族の慣習としていったんは里子に出された後に柳原家に再び戻り、前光の正妻・初子の次女として入籍され、姫君として愛育されることになった。1888(明治21)年、生母おりょうが病死する。1892(明治25)年、麻布南山小学校に入学。1894(明治27)年、10歳の時、父の死により北小路家の幼女となる。1898(明治31)年、14歳の時、華族女学校(のちの女子学習院)に入学。

 Y子は最初の結婚まで自分が妾の子とは知らなかったという。また前光には、おりょう以外に年来の妾・梅がおり、子宝に恵まれなかった梅はおりょうを妹のように、そしておりょう死後はY子をわが子のように大変可愛がっていたと云われる。

 1900(明治33)年、16歳の時、華族女学校を中退し、当時の慣習にならい家族の決めた北小路子爵家の息子資武(すけたけ)と結婚し、15歳で男児を出産した。5年後離婚し実家に戻る。この頃を詠った句として次の和歌がある。
 「ことさらに黒の花などかざしみる わが十六のなみだの日記」。

 1908(明治41)年、東洋英和女学校入学し寮生活をおくる。この時期、佐佐木信綱に師事し「竹柏園歌会」に入門する。1910(明治43)年、同校卒業。

 1911(明治44)年、Y子27歳の時、25歳年上の九州一の炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚し福岡に移る。それは、名門の家柄を必要とした伊藤家と新生活を願うY子との思惑が一致した打算結婚であった。伊藤伝右衛門は飯塚市幸袋に敷地1500坪、建坪250坪の自宅があったが、さらに別府に屋根を銅で葺いた「赤銅(あかがね)御殿」を建て、Y子を迎え入れた。Y子は「筑紫の女王」と呼ばれる身となった。

 再婚後のY子は、複雑な家族構成に悩まされた。伊藤家には妾の子、父の妾の子、妹の子、母方の従兄妹などが同居していた。また数十人もの女中や下男や使用人たちもいた。伝右衛門は何人もの妾がいた上に、京都妻のサトの妹のユウにまで手を付けた。ユウは女中見習いとして幸袋の屋敷に住み込むようになり、Y子は次第にユウを伝右衛門にあてがう形となった。後年、Y子は、夫を挟んで夫の妾と3人で布団を並べていたこともあると告白している。

 1912(明治45)年、28歳の時、Y子は、懊悩、苦悩をひたすら歌に託し句集「心の花」に作品を発表し始め、次第に歌人として注目されるようになった。1915(大正4)年、31歳の時、処女歌集「蹈絵」を自費出版。この時、信仰していた日蓮にちなんで号を「白蓮」とした(以降、白蓮と記す)。「蹈絵」の代表句は次の通り。
 「わが魂(たま)は吾に背きて面(おも)見せず 昨日も今日も寂しき日かな」
 「われは此処に 神はいづくにましますや 星のまたたき 寂しき夜なり」 
 「おとなしく身をまかせつる幾年は 親を恨みし反逆者ぞ」
 「われといふ 小さきものを天地(あめつち)の中に生みける不可思議おもふ」

 白蓮の句は浪漫的な作風で「生の軌跡を華麗かつ驕慢に」(正津勉)詠って、多くの読者を惹きつけた。白蓮は歌人として名が知られるようになり、大正三美人(九条武子と江木欣々、あるいは日向きむ子)の一人として、あるいは九条武子とともに閨秀歌人として知られるようになった。

 1916(大正5)年、32歳の時、「心の花」同人の九条武子との交流深まる。九条武子は、本願寺21代法主の大谷光尊の次女で、兄が西域の仏跡探検家としても知られる大谷光瑞。この頃、別府の赤銅御殿は白蓮を中心とするサロンとなった。そのなかで白蓮は仮想的な恋愛を楽しんだ。その一人に医学博士で歌人の久保猪之吉がいた。妻の久保より江も俳人として名を知られていた。

 1918(大正7)年、34歳の時、筑豊疑獄事件が起こり法廷に立つ(7年春まで)。

 1918(大正7)年、大阪朝日は「筑紫の女王・Y子」を連載した。「金襴鍛子の帯締めながら、花嫁御寮は何故泣くのだろう」という歌や、菊池寛の「真珠夫人」という小説は、この時期の白蓮がモデルといわれている。

 1919(大正8)年、35歳の時、詩集「几帳のかげ」、歌集「幻の華」を刊行。第二歌集「幻の華」の有名句は次の通り。
 「わだつみの沖に 火燃ゆる火の国に 我あり 誰ぞや思はれ人は」 
 「我歌のよきもあしきものたまはぬ 歌知らぬ君に何を語らむ」

 1919(大正8)年、35歳の時、戯曲「指鬘外道」(しまんげどう)を雑誌「解放」に発表。これが評判になった。劇団が上演を希望し、その許可を求める書状が届いた。差出人は「解放」記者宮崎龍介。もっと詳しい話を聞きたいと白蓮は記者を別府の別荘に招く。

 1920(大正9).1.31日、36歳の時、社会革命の理想に燃える帝大新人会のメンバーにして東京帝大法学部に通う傍ら雑誌「解放」の編集をする宮崎龍介が訪れた。「解放」の後ろ盾となっていたのは、東京大学の吉野作造、早稲田大学の大山郁夫らの「黎明会」で、「解放」はその機関誌だった。宮崎龍介は孫文の辛亥革命を支援するなど憂国の士として知られる宮崎とう天の息子で、白蓮より7歳年下であった。龍介は情熱を込めて社会変革の夢を語った。

 白蓮は忽ち「ねたましきかな」と詠い、「恋もつ人」になった。二人の間に文通が始まった。書簡は2年間で700通以上を数えた。この頃、新小説に「短歌自叙伝」発表。大阪朝日に「近代の恋愛観」発表。この頃の句として次の和歌がある。
 「月影はわが手の上と教えられ さびしきことのすずろ極まる」
 「君故に死も怖るまじ かくいふは魔性の人か神の言葉か」

 白蓮は春秋2回の上京の機会に龍介と逢瀬を重ねた。姦通罪があった時代であり、入獄も覚悟の命がけの恋となった。二人の中が知れ、龍介は「ブルジョア夫人との交際はまかりならん」として新人会を除名になった。白蓮から日に数通もの手紙が届く。「南無帰依仏 マカセマツリシヒトスジノココロトシレバ スクハセタマヘ」。二人の愛は燃え上がる。やがて白蓮は龍介の子を宿した。

 1921(大正10).10.20日、37歳の時、白蓮は伊藤と上京した際に東京駅から突然姿をくらました。二日後の大正10.22日、朝日新聞」が「筑紫の女王、柳原白蓮女史失踪!」との見出しで、「同棲十年の良人を捨てて、情人の許へ走る」、「青春の力に/恋の芽生え」と報じた。同日の朝日新聞夕刊に、「私は今貴方の妻としての最後の手紙を差し上げます」という一文で始まり、「私は金力をもって女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護り且培ふ為めに貴方の許を離れます」と記した公開絶縁状が掲載された。毎日新聞は、「天才的の妻を理解していた」で始まる伊藤の反論「Y子に与ふ」を載せ、世論はこの問題に沸いた。世に 「白蓮事件」として知られる。

 事件はジャーナリズムの好餌となる。柳原家は大正天皇の御生母、柳原二位局の実家であり、国家主義の黒龍会(頭山満の玄洋社の系譜を引く団体)の内田良平らは、国体をゆるがす大事件として白蓮や柳原家を攻撃した。この一件により兄義光は貴族院議員を辞職することとなった。

 1922(大正11)年、38歳の時、二人は引き離され、白蓮は再び実家の柳原家に帰り、そこで男児(香織と命名)を出産する。その後白蓮は断髪し尼寺に幽閉の身となる。

 1923(大正12)年、白蓮の離婚が、華族からの除籍と総ての財産没収で決着した。この頃関東大震災が起こり、柳原家の関係で白蓮母子を預かっていた中野家が被災した。それまでも柳原家が娘に何の援助もしないのに対し、宮崎家が定期的に白蓮のために仕送りをしていた。被災を聞きつけた竜介はY子らを迎えにいった。中野家は感服し、柳原家の承諾なしに龍介に白蓮親子を引き取らせたと云う。紆余曲折の果て結婚が成立し、親子三人の生活が現実のものとなった。白蓮は平民として生まれ変わる。

 しかし、不遇なことに竜介は結核を発症した。夫は床にあり、数多くの同志、食客が出入りする。白蓮は筆一本で必死に家計を支えた。龍介は後に「私が動けなかった三年間は、本当にY子の手一つで生活したようなもので」と回想している。

 白蓮・宮崎のかような“窮状”を人づてに伝え聞き同情した因縁の白蓮の前夫・伊藤が経済的援助を申し出た。しかし、別離の事情が事情であった経緯を踏まえ二人は断ったと云う。

 1925(大正14)年、長女、宮崎蕗苳(ふきこ)が誕生。龍介の結核は回復して、その後弁護士として活躍した。1928(昭和3)年、47歳の時、自伝小説「荊棘の実」を発表。1931(昭和6)年、52歳の時、夫妻は中国を旅行している。

 1945(昭和20).8.11日、61歳の時、学徒出陣中の長男の香織が鹿屋空軍基地で戦死した。白蓮は悲しみのあまり1年で髪の毛が真っ白になったと云う。夫妻はその後平和運動に従事した。白蓮は平和団体「国際悲母の会」を結成し、その後世界連邦婦人部の中心となり活躍する。 

 1946(昭和21)年、62歳の時、NHKラジオを通じて訴える。「悲母」への反響はものすごいものだった。彼女の主導で「万国悲母の会」が結成される。

 1947(昭和22)年、63歳の時、伝右衛門、死亡。

 1949(昭和24)年、65歳の時、4月、「婦人民主新聞」は白蓮と宮本百合子の紙上対談を掲載している。

 1956(昭和31)、72歳の時、歌集「地平線」を刊行している。「地平線」は「万象」、「悲母」、「至上我」、「人の世」、「旅」、「去来」などの小題をもつ317首からなる。その内の「悲母」60首が戦死した吾が子、香織を偲ぶ歌群である。

 1961(昭和36)年、77才の時、白蓮は、緑内障(そこひ)で両眼失明する。龍介の介護のもとに歌を詠む日を送る。やがて波乱の人生も終幕となる。「月影は わが手の上と教へられ さびしきことの すずろ極まる」。

 1967(昭和42).2.22日、白蓮逝去(享年83歳)。辞世の句は次の通り。

 「そこひなき 闇にかがやく 星のごと われの命を わがうちに見つ」

 Y子の死後竜介は次のように述べている。
 「私のところに来てどれだけ私が幸せにしてやれたか、それほど自信があるわけではありませんが、少なくとも私は伊藤や柳原の人々よりは、Y子の個性を理解し援助してやることができたと思っております。波乱に富んだ風雪の前半生をくぐり抜け、最後は私のところに心安らかな場所を見つけたのだと思います」。

 4年後の1971(昭和46).1.23日、龍介逝去(享年79歳)。二人が最後まで暮した家は西武池袋線旧上屋敷(あがりやしき)駅近くにあり、いまも子孫が暮していると云う。

【柳原白蓮の歌綴り】
 中西洋子著その他参照。
 この犠牲が 世界平和の 道しるべ わがをとめ等よ 泣くのでないぞ
 人の世に あるべきものか 原爆の いくさは遠く 根の国へゆけ
 静かなり 遠き昔の 思出を 泣くによろしき 五月雨の音

 「悲母」より

 焼跡に 芽吹く木のあり  かくのごと 吾子の命の かへらぬものか
 蒼空に 一片の雲 動くなり 母よといひて 吾をよぶごとし
 秋の日の 窓のあかりに 亡き吾子が もの読む影す 淋しき日かな
 夜をこめて 板戸たたくは 風ばかり おどろかしてよ 吾子のかへると
 英霊の 生きてかへるが ありといふ 子の骨壺よ 振れば音する
 かへり来ば  吾子に食はする 白き米 手握る指ゆ こぼしては見つ
 もしやまだ かえる吾子かと 脱ぎすての ほころびなほす 心うつろに
 かたみなれば 男仕立をそのままに 母は着るぞも 今は泣かねど
 しみじみと 泣く日来たらば 泣くことを 楽しみとして 生きむか吾は
 戦ひは かくなりはてて なほ吾子は 死なねばなりし 命なりしか
 身にかへて いとしきものを 泣きもせで  何しに吾子を 立たせやりつる

 巡礼の 心してゆく旅 なれば 北のはてにも わがゆくものか
 どこの国の 誰がぬれ居る 雨ならむ とほくに見ゆる 雨雲低し
 ききほれて しづかに涙 たるるなり 山河草木 みな声放つ
 遠つ祖の なみだに見たる 秋の空 佐渡はけぶりて 小雨となりぬ

 眼を病めば 思い出をよぶ 声のして 今を昔の 中にのみ居り
 なべて皆 物音たえし 真夜中は 声ならぬ声の なにか聞こゆる
 そこひなき 闇にかがやく 星のごと われの命を わがうちに見つ









(私論.私見)