昭和天皇の履歴



 1901(明治34)年4.29日皇太子明宮嘉仁(よしひと)親王(後の大正天皇、当時21歳)の第一皇子として誕生。生母は節子(さだこ妃)当時16歳、明治天皇の第一皇孫となった。名を裕仁(ひろひと)と名づけれらた。

 裕仁は恒例により里子にだされることになった。白羽の矢が立ったのは、枢密顧問官の川村純義だった。川村は旧薩摩藩の出身の参議、海軍卿、宮中顧問官などを歴任し、高潔な人格として世に知られ、明治天皇の信頼も厚かった。里親が民間から選ばれるのは異例であったが、教育上の配慮として英断されたものと思われる。里親に軍人が選ばれたのも、将来の大元帥としての教育的配慮であったものと思われる。「自分の孫のつもりで育てて欲しい」との皇太子嘉仁の言葉が賜れている。

 1902(明治35)年6.25日皇太子明宮嘉仁(よしひと)親王(後の大正天皇)の第ニ皇子として、淳宮やす仁(あつのみややすひと)親王(後の秩父宮)が誕生。秩父宮も川村の元で養育されることになった。

 「兄弟は順調に育っていく。兄に比べて、弟のほうが性格的に活発だったらしい。川村の躾は厳しかった。裕仁がわがままな子に育たないよう、例え
ば食べ物の好き嫌いなど絶対に許さなかった」とある。


 1905(明治38)年1.3日皇太子明宮嘉仁(よしひと)親王(後の大正天皇)の第三皇子として、光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王(後の高松宮)が誕生。

 ところが、川村は明治38年8月に病死する。裕仁、3歳3ヶ月の時だった。川村の子息・鉄太郎は『自分には力がないから』と、養育の継続を断わった。そこで兄弟は川村家を去り、暫く沼津の御用邸で過ごした後、翌年東宮御所に帰ることになった。東宮御所の一画に、皇孫御殿が新築され、ここに住まうことになった。この皇孫御殿に移ってきてからは両親が近かったので、その情愛に接することができるようになった。

 1908(明治41)年4月、裕仁は学習院に初等科に入学する。院長は陸軍大将・乃木希典であった。乃木は明治天皇の期待に応えるべく、皇孫の教育に意を尽くした。4年後、乃木は天皇の後を追って殉死するが、彼の人格的な薫陶が裕仁に与えた影響は軽視できない。後年、裕仁は、自分が尊敬する第一の人物として乃木の名をあげていることからしても推定できる。

 1912(明治45、大正元年)年7.30日明治天皇崩御。父嘉仁(よしひと)親王が大正天皇となり、裕仁親王は皇太子となる。大正と改元された。

 9.9日明治天皇の大葬が執り行われ、この日乃木希典夫妻が殉死。

 1924(大正13)年1.26日久爾宮良子女王と御成婚。


 1926(大正15)年12.25日大正天皇崩御。皇太子裕仁親王が第124代の皇位就任。これより昭和の御世が始まった。この時裕仁親王は25歳で昭和天皇となった。













(私論.私見)