1955年通期 1955年当時の主なできごと.事件年表
「六全協」開催、宮顕派の党中央簒奪劇が開始される。



 更新日/2016.03.19日

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第3期、「六全協」の衝撃、日共単一系全学連の組織的崩壊」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2002.10.20日 れんだいこ拝


1.1 党は、「党の統一とすべての民主勢力との団結」(「1.1方針」)を発表した。「極左冒険主義」路線の破綻と徳田書記長の急死という条件が重なりここにおいてはじめて地下指導部の「自己批判」が為されることとなった。「1.1方針」に基づき、1月志田.椎野.吉田.岩本らの地下指導部は公然化の準備とその後の対策の協議を始めた。
1.18 左右両派社会党臨時大会(それぞれ同文の両社統一に関する決議を採択、統一準備委員を選出)。
1.21 志賀は大阪に姿を現し、立候補を表明した   
1月左右両派の社会党がそれぞれ統一促進委員会に関する決議を可決した。こうして統一のための基盤整備に向かった。 
1.24 衆議院解散(本会議の質問の途中で解散詔書が朗読される)⇒「天の声解散」。
2.14 日本生産性本部設立会長石坂泰三
2.19 日本ジャーナリスト会議創立議長吉野源三郎。   
2.27 第27回衆議院総選挙が行われた。党は73万3121票(1.85%)を獲得した。川上貫一と志賀の2名が当選した。民主185.自由112.社会党156(左社会89.右社会67).労農4.無所属6、諸派2。
機密文書。「日本の戦略的立地条件や、日本が有する潜在的な軍事力及び生産力は非常に重要なため、アメリカは日本の如何なる領土も敵対勢力が支配するのを防ぐ必要がある。同様に必要があれば、政府の転覆を狙った動き、あるいは反乱に対して日本政府を応援せざるを得ない。−アメリカと強固な同盟関係を結び、共産中国に対抗する重石となり、極東における自由世界の勢力に貢献できる強い日本というのが、アメリカの利益に一番かなっている」。この頃から「パ−トナーシップ」が云われだした。
3.15 アカハタは、指導体制の強化と各専門部の充実をうたい、中央指導部員として春日(正)議長.志賀.宮本.米原の4名の決定を発表した。その意味するところは、地下指導部と国際派の「合同」であった。党史上の再転換が為されたということになる。この「合同」により国際派の頭目宮本.志賀が指導部に復帰することになった。つまり、このたびの「合同」は、50年来の党分裂が徳田執行部系の敗北で決着し、地下指導部が国際派に対する白旗宣言を掲げたということであった。
3.19 第二次鳩山内閣成立。 (民主党単独少数内閣)
4月アジア.アフリカ会議(バンドン会議)が開かれた。  
4.15 日中貿易協定調印。
4.23 4..30日第3回一斉地方選が行われた。党は、都道府県議10名、市区町村議322名を当選させた。
4.30 第3回統一地方選挙(創価学会、地方議会に51名当選)。
5.8 砂川.立川基地拡張反対決起大会開催.砂川闘争始まる。
5.10 北富士.座り込み農民を無視、射撃演習開始.各地に基地反対闘争激化。
5.12 「平和と独立のために」(第407号)終刊号。指導部の「合同」に伴い、春以降になって地下党員がぞくぞく表へ現れだした。 
5.14 ワルシャワ条約調印。
5.15 民主党総務会長三木武吉と自由党総務会長大野伴睦が保守合同を目指して会談している。
5月 右派社会党、「右派綱領」(統一社会党綱領草案)発表。
6月末 軍事組織の解散と関係文書の処分が指令された。「六全協」の合法的開催の予定が特定の党員たちに知らされ、その為の予備会議が開かれた。
7.27 【 「六全協大会」開催】この大会の眼目は、統一への動きが強まってきたことを受けてここに主流派と国際派の幹部レベルが歩み寄り、50年以来の党分裂に対し党の不統一を克服することを当面の緊急最大の任務とするという立場から党の内紛的事態に決着をつけた歴史的大会となった。 講和条約締結後の新しい条件に対応して、党活動を公然化に転換させる上での重要な一段階を画した。大会は、主流派系地下指導部の従来の武闘方針を「極左冒険主義」とみなした上で誤りとして認め、公然と全面的な自己批判を行わさせ、以降ばっさり切り捨てるという方針上の根本的転換を明らかにした。
7.29 第一回中央委員会総会が開かれ、野坂参三を第一書記に選んだ。ここに野坂−宮本体制確立の端緒が切り開かれた。現在の党史では、「党の混乱と不統一を克服し、党の政治的.組織的統一と団結の基礎を築いた」とされている。故徳田書記長の追悼式を決定、中央機関紙編集委員を任命した。
8.2 「常任幹部会」が「中央委員会」の人事を決定、「常任幹部会」の責任者に宮本が治まった。以降党は、「中央委員会」自体が飾りになり「常任幹部会」主導により運営されていくことになる。その中心的指導権力を宮本が掌握していくことになる。
8.6 第一回原水爆禁止世界大会、広島で開催。
8.7 部落解放全国委員会が大会を開いて部落解放同盟と改称。
8.11 8.11日「六全協」記念演説会が東京の日本青年会館で開かれた。潜行在京幹部出席。野坂.志田.紺野の3幹部が、新調の揃いの背広で地上に姿を現す。
8.17 「第2回中総」。第一書記野坂、書記局員3名、専門部長を決定。 8月以降各地で党会議を開き、除名者の復帰、地方幹部の交代、主流派の責任追及などを進める。
8.25 から9.1日にかけて、重光外相、岸日本民主党幹事長、河野農林大臣が次々と渡米した。
9.13 立川基地拡張の為の東京.砂川町で強制測量開始される。町長を先頭にした反対闘争起こる。砂川町で警官隊と激突。以来長期の砂川闘争始まる。基地反対斗争の嵐=「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」。
9.14 党本部で、野坂第一書記、志田書記局員が記者会見を行い、「伊藤律問題」について、志田から「スパイ.挑発者であった」と発表された。
9.19 志田は、「党団結のさしあたっての問題」という自己批判を書き、中央委員会の分裂とその後の指導の誤りの決定的責任が徳田主流派にあったことを認めさせられた。他方で、宮本.春日(庄)らは自己批判を何一つしなかった。志田は、旧指導部を代表して頭を下げてまわされる役目を負わされた。
9.19 原水爆禁止日本協議会(原水協)結成。 原水爆禁止署名運動全国協議会と原水爆禁止世界大会日本準備会の統合により、原水協が結成された。吉田嘉清、事務局長常任。
そうこうしているうち、「六全協」で中央委員の一員として選出されていた志田重男と椎野悦郎らに集中した旧指導部のスキャンダルが暴露された。党分裂の地下生活時代の党生活の上で幹部としてあるまじき堕落行為を行っていたことが明るみにされた。財政上の疑い、女性関係におけるスキャンダルや待合い生活による頽廃が暴露された。
10.13 【左右社会党統一】左右社会党の統一大会が開催され、統一綱領を採択した。 綱領には、「共産主義は事実上民主主義を蹂躙し、人間の個性、自由、尊厳を否定して、民主主義による社会主義とは、相容れない存在となった」、「我々は共産主義を克服して、民主的平和のうちに社会主義革命を遂行する」と明記された。委員長・鈴木茂三郎.書記長・浅沼稲次郎.顧問河上丈太郎。
10.13 「第3回中総」。50年問題の教訓を明らかにすることを常任幹部会に委任した。各級機関の選挙規定、参議院選挙方針を決定、地区財政問題など討議。
10.14 故徳田球一書記長の党葬。
吉田の跡目を継いだのは緒方竹虎。三木武吉が緒方自由党と民主党の合同を策した。三木提案と呼ばれる。この提案に対し、民主党内は大きく割れた。歓迎派が岸や根本龍太郎。反対派は松村や三木武夫ら。財界が保守合同歓迎の意向を示していた。
11.15 【保守合同で自由民主党結成】「占領制度の是正と自主独立」をスローガンに反目し合っていた日本民主党と日本自由党の保守も又合同し、自由民主党が誕生した。総裁決定まで鳩山一郎ら4名を代行委員に選出。「強い保守党」を臨むアメリカの影響があったが、ここからが「55年体制」のスタートとなる。11月自由党と民主党が合同して自由民主党となった。こうして保守合同も為された。ここに二大政党が実現して、イギリス流議会政治ともてはやされる時期を迎えた。
11.22 第三次鳩山内閣が成立した。この自由民主党が政権与党となり、社会党が野党第一党となる構図が定着した。これを自民.社会二大政党制による「55年体制」という。    
11.27 ソ連、水爆を完成。
【袴田らによる伊藤律再査問】この頃袴田が伊藤律を訪ねて再査問している。「命が惜しかったら、一行でいいからスパイでしたと書け。そしたら命を助けてやるだけでなく、元のポストに戻してやる。自分がそうでなければ、長谷川など他の幹部のことでもいい。君の才能を惜しむことにかけては、宮本も俺も徳田に劣らない。今だから云ってやるが、ソ.中両党に手を廻し、君にこうした処置をとらせたのは、この我々だ」との発言が為されたことを伊藤自身が明らかにしている。「この取引を私は即座に拒否した」とある。
12.22 第3次鳩山内閣(改憲と小選挙区制問題で保革激突時代到来)小選挙区制の実施で、3分の2の議席を確保して一挙に改憲を狙う→党利党略の区割→かつてアメリカでは「ゲリマンダー」といわれたが、日本ではこれをもじって、「ハト(鳩)マンダー」と皮肉った。小選挙区制の法案は、衆議院は通過したが参議院で審議未了・廃案となった。小選挙区制について鳩山はその回顧録において「鳩山内閣最大の失政」と嘆いた。


【志田執行部極左冒険主義方針を自己批判】
 1.1日、党は、「党の統一とすべての民主勢力との団結」(「1.1方針」)を発表した。「極左冒険主義」路線の破綻と徳田書記長の急死という条件が重なり、ここにおいてはじめて地下指導部の「自己批判」が為されることとなった。次のように述べている。
 「このさい、われわれが過去において犯し、また現在もなお完全に克服されきっているとはいえない一切の極左的な冒険主義とは、きっぱり手を切ることを、ここで素直な自己批判とともに、国民大衆のまえに明らかに公表するものである」。
 「われわれは、断じてこのような極左冒険主義の誤りを、再びおかさないことを誓うものである」。
 この一文によって、1951年以来4カ年にわたる軍事方針路線(「悪夢のような党の歴史」)にピリオッドが打たれることになった。

【志田と宮顕の秘密会合】
 宮顕は、この頃の動きを「私の五十年史」の中で次のように述べている。
 「翌1955年の或る日、顔を知った使いの者が来て、志田重男らが会いたいと告げた。彼は、党の分裂以降地下活動に入り、徳田に近い一人と思われていた人物だった。その日、自動車をたびたび乗り換えて、郊外の大きな家に行った。志田のほか西沢隆二らがいた。徳田は北京で死んだ。極左冒険主義は誤りだった。伊藤律はこれこれの経過で不純分子であることが判明した。彼等はこういって、『六全協』の計画を提案した」。
(私論.私観)「志田・宮顕会談」について
 この記述は貴重である。宮顕本人の陳述であることに価値がある。「1955年の或る日」は不正確で、恐らくもっと以前の伊藤律失脚後の1954年のことであろうが、このような秘密会談が志田系と宮顕との間に整って「六全協」が準備されたことを知るべきである。

 問題は、この志田と宮顕を中心に、野坂、紺野、志賀ら数人の話し合いで六全協が準備されていったという史実である。他の中央委員クラスは排除されたまま秘密裡に進行していった。この過程は今日もなお明らかにされていない。れんだいこが睨むところ、ここに集結した連中が正真正銘のスパイのボス達ではなかったか。

 更なる問題は、この時期、志田と宮顕がどういう交渉をしたのかということである。これについても明らかにされていない。「両者の交渉は闇につつまれたまま、彼らとその周辺の一部の者を除いては、多くの党員には青天の霹靂のように突然、『六全協』の開催が知らされるのである」。

 「70年党史」は次のように記している。
 「53年末、徳田死後の体制や方針の相談のために、紺野与次郎・・・らが日本から中国にわたり、『北京機関』の指導部にくわわった。54年3月、野坂ら『北京機関』のメンバーは、討議してあたらしい方針の案を作成し、徳田・野坂分派の代表(野坂、紺野、河田、宮本太郎、西沢隆二)がそれをもってモスクワにおもむいた。当時モスクワにいた袴田も部分的にこれに参加した。それにたいし、ソ連側のスースロフ、ポノマリョフと中国の王稼祥が別の案をしめし、それを野坂らが討議して『第6回全国協議会』の決議原案ができた。この決議案に『51年文書』は『完全に正しい』という文句をいれることを強硬に主張したのもソ連側であった。こうして準備された『六全協』決議原案の方向にそって、55年1月1日付『アカハタ』主張『党の統一とすべての民主勢力との団結』がだされ、『一切の極左冒険主義とは、きっぱり、手を切ること』や『党内の団結と集団主義を一層つよめ』ることが表明され徳田分派がつくった機構の整理もはじまった。極左冒険主義への日本人民の拒否、党勢のいちじるしい衰退、党内の諸矛盾の激化、・・・党員や自覚的な人々の批判や実践も、この転機をうみだす底流となった。志田重男がこの問題の収拾のため、岩本巌を介して宮本顕治に会見を求めたのは、55年1月のことだった。」(「70年党史」上242ページ)

 「70年党史年表」には次の記述がある。
 「55年1・ 岩本巌を介して志田が宮本に会見をもとめ、宮本が志田、西沢隆二らと会う。志田は、『極左冒険主義もやめる』『徳田への個人家父長制もやめる』『従来の党の弊風は全部改める』などとのべ、党の統一回復と運動の転換についての協議をもちかけ、第6回全国協議会(6全協)の計画を伝える」(「70年党史年表」145ページ)(注63)

【在日朝鮮人系共産党活動と日本共産党が分離する】
 年初アカハタの「極左的冒険主義と手を切る」発表により、在日朝鮮人活動家間で二つの考え方が対立するようになった。一つは、北朝鮮支持の旗を実際に日本国内で掲げるべきという考え方。もう一つは、幅広い統一戦線をつくるために、旗は心の中に掲げるべきという日本共産党民対の考え方であった。この対立は次第に激しくなる。ここにキーパーソン韓徳銖が登場する。履歴は次の通り。1907年(明治40年)慶尚北道で生まれている。1927年(昭和2年)渡日して、日大専門部に入学(後に中退)。共産党系の労組である全協に加入し、1934年(昭和9年)、熱海線トンネル工事の争議に加わり検挙される。戦後は朝連に参加。朝連中央本部総務局長などを歴任した。後に朝鮮総連中央常任委員会議長、北朝鮮最高人民会議常任委員を歴任する。

 韓徳銖は、共産党の指導下で日本革命を共に目指したいわゆる“民対派”に対して、朝鮮や朝鮮労働党との結合を主張した。在日朝鮮人運動の路線転換に主導的役割を果たすことになる。この動きを追うと、3.11日、民戦は中央委員会を開いた。その席で韓徳銖は“在日朝鮮人運動の転換について”演説する。反対派のヤジが激しく中断せざるをえなくなったが、彼の作った路線転換への流れは変わらなかった。5.23日、浅草公会堂で最後の民戦6全大会が開かれ、翌24日解散する。翌5.25日、朝鮮民主主義人民共和国支持、日本の内政不干渉を掲げて、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が結成された。共産党に党籍のあった在日朝鮮人は一斉に離脱している。

 7.24日、共産党は民族対策部を解消し朝鮮人党員離党の方針を決定した。これにより日本共産党から朝鮮党員が分離し、日朝共同的共産党活動時代が終焉した。

【日ソ国交回復の端緒】
 1.7日、鳩山邸に、ソ連政府高官ドムニッキィが書記官のチャソブ二コフを伴って来訪。極秘会談であったが、この時ソ連政府の意向として「我がソ連政府は、日本との間に、戦争終結宣言を締結、日ソ間の法的な戦争状態を終わらせ、領土、通商、戦犯釈放、日本の国連加盟など、日ソ間の懸案解決について、交渉を持ちたいと考えます」が伝えられた。鳩山の同意を得たドムニッキィは、1.24日、「下交渉に入るための具体的準備に着手を呼びかける」ソ連政府の文書を携えて再訪問してきた。

 この動きは外相・重光と外務官僚当局との打ち合わせぬきで行われ、以降「早期妥結論」の鳩山と「慎重論」の重光という二元外交を発生させていくことになった。

【左右社会党がそれぞれ臨時党大会を開催】
 1.18日、左右社会党がそれぞれ党大会を開催した。左派の大会には右派の河上委員長が、右派の大会には左派の鈴木委員長が挨拶に出向いたり、全く同文の「社会党統一実現に関する決議」を採択するなど統一機運を盛り上げた。

 1.24日、鳩山首相が衆院を解散。「天の声解散」と云われる。左右両社会党は統一を前提にこの解散総選挙に臨んだ。

 2.2日、授業料値上げに反対して東大駒場2千名を中心とした約4千名の学生デモが都心で行われた。

【新日本文学界に内紛発生】
 2月頃、新日本文学界の大会が開かれ、宮本・蔵原対武井昭夫、大西巨人、野間宏らで、非常に紛糾した。注目すべきは、この時既に宮顕は「党権力に近いところにいる態度」であったと伝えられている。このことは、六全協以前に宮顕が党中央の一角に参入したことを物語っている。

【椎野追放の動き】
 この頃のことのようであるが、椎野悦朗は「志田からしきりに中国へ行くようすすめられている」。この椎野の外国への亡命計画は、「宮本も大いに推進していたそうである」とある(亀山「戦後日本共産党の二重帳簿」)。椎野は一時はその気になったが、伊藤律の二の舞になることを恐れ、予定日の直前になって止したようである。志田は、椎野の代わりに志田直系の吉田四郎をやろうとしたが、吉田も直前になって暗い予感がして逃げたと本人の弁で伝えられている。してみれば、党幹部の中国行き教唆の闇も深いということになるやも知れない。

 2.21日、社会党左派の理論家・稲村順三が逝去。享年54才。

【第27回衆議院総選挙】
 2.27日、第27回衆議院総選挙が行われた。「鳩山ブーム」が巻き起こり、鳩山は日ソ国交正常化と憲法改正を二大スローガンとして打ち出していた。選挙結果は、鳩山民主党は185名(←改選前124)、緒方自由党は112名(←180)、社会党は156名で、左派社会党89(←74).右派社会党67(←61).労農4(5).共産2(1)、無所属8(10)の合計467名。こうして、鳩山・民主党が、自由党に代わって第一党となった。他方、両派社会党も議席を伸ばし、野党は憲法改正を阻止するのに必要な3分の1の議席を獲得した。特に左派社会党の伸びが目覚しく、統一過程における優位が確定した。

 社会党は、左社が89、右社67となり、左社が差を広げた。いわゆる「総評=社会党ブロック」の形成が進行しつつあったことを証左している。

 党は、73万3121票(1.85%)を獲得した。川上貫一と志賀の2名が当選した。

 この時、宮顕は東京一区から立候補している。この経過について、宮顕は次のように記している。

 「私は、いわゆる『臨時中央指導部』から、東京一区から立候補してくれとの申し出を受けた。‐‐‐私は、この申し出を受けて、党の統一の促進に多少とも役立つならばと考え、恐らく戦後の党の最悪の事態とも云えるこの時期の選挙を、日本共産党の候補者として闘うことになった」(「文芸評論選集第4巻あとがき」1969.4執筆)。

 2月、緒方竹虎が情報源としても信頼され、提供された日本政府・政界の情報がアレン・ダレスCIA長官に直接報告されている。衆院選直前、ダレスに選挙情勢について「心配しないでほしい」と伝えるよう要請。翌日、CIA担当者に「総理大臣になったら、1年後に保守絶対多数の土台を作る。必要なら選挙法改正も行う」と語っている。


【第二次鳩山内閣組閣】
 3.18日、衆議院で首班指名投票が行われ、鳩山254票、鈴木茂三郎160票で、予定通り鳩山が選出された。

 3.19日、第二次鳩山内閣が発足する。 

 官房長官・根本竜太郎(留任)、副長官・松本滝蔵、田中栄一。外相・重光葵、蔵相・一万田尚登、法相・花村四郎、農相・河野一郎、通産相・石橋湛山、運輸相・三木武夫、建設相・竹山祐太郎、労相・千葉三郎、経済企画庁長官・高碕達之助、国務相国家公安委員長・大麻唯男、、行管地方自治庁長官・西田隆男ら主要閣僚は留任のまま、厚相・川崎秀二、文相・松村謙三、郵政相・松田竹千代、国務相自治庁長官・川島正次郎、防衛庁長官・杉原荒太、北海道開発庁長官・大久保留次郎が新たに加わった。

【社会党統一の機運高まり交渉に入る】
 3.2日、左派社会党和田氏と右派社会党の浅沼氏の両書記長会談が行われ、双方から10名づつの統一交渉委員による「綱領、政策、組織などについての意見の一致を期し、速やかに統一を完成する」申し合わせをした。統一交渉委員会のメンバーは、左派が委員長・佐々木更三、事務局長・成田知己ら、右派が委員長・三宅正一、事務局長・松井政吉らの各氏であった。委員会は、綱領政策と組織運営の二つの小委員会に分かれ、地方選挙の終わった5月中旬から本格的な討議に入った。この間左派の伊藤好道、右派の三輪寿壮が黒子役を引き受け尽力した。

 機密文書。「日本の戦略的立地条件や、日本が有する潜在的な軍事力及び生産力は非常に重要なため、アメリカは日本の如何なる領土も敵対勢力が支配するのを防ぐ必要がある。同様に必要があれば、政府の転覆を狙った動き、あるいは反乱に対して日本政府を応援せざるを得ない。−アメリカと強固な同盟関係を結び、共産中国に対抗する重石となり、極東における自由世界の勢力に貢献できる強い日本というのが、アメリカの利益に一番かなっている」。この頃から「パ−トナーシップ」が云われだした。
【西沢らによる伊藤律再査問】
 西沢、紺野与次郎、宮本太郎の3名が伊藤律の査問に訪れている。六全協準備のためにモスクワに行く途中の立ちよりであった。宮本が「貴様はアメ帝のスパイだったと認めれば、それでいいんだ」と机を叩いて強要している。

【 「六全協」前の動き(国際派の指導部復帰)】
 3.15日、アカハタは、指導体制の強化と各専門部の充実をうたい、中央指導部員として春日(正)議長.志賀.宮顕.米原の4名の決定を発表した。その意味するところは、地下指導部と国際派の「合同」であった。党史上の再転換が為されたということになる。この「合同」により国際派の頭目宮顕.志賀が指導部に復帰することになった。つまり、このたびの「合同」は、50年来の党分裂が徳球系執行部の敗北で決着し、地下指導部が国際派に対する白旗宣言を掲げたということであった。

 この発表に応じてこれまで徳球系とみなされる中央指導委員だった田中松次郎.松本三益.風早八十二.岩間正男などが各専門部の責任者に転じることとなった。この橋渡しをしたのが春日(正)であったことも注目されるであろう。春日(正)はこれ以降徳球系の立場から転じて宮顕系の地盤固めの過渡期におけるキーパースンとなっていく。

 しかし、この地下指導部の白旗宣言は、志田.椎野.岩本巌.吉田四郎.水野進らの国内地下指導部の命脈を保った形での「合同」劇であり、地下指導部から見れば国際派との団結の道を取り付けることに成功したともみなされるものであった。地下指導部は、この方針転換後における宮顕系の台頭を予見できず、引き続き主導権を確保する為何度も秘密の会合を持ち準備工作を行っていくこととなった。以降暫くの党史は、この地下指導部と復帰した国際派(特に宮顕系)との丁々発止の闇試合が繰り広げられていくことになる。

【 バンドン会議】
 これを転機にして植民地体制の崩壊がはっきりした形となる。

 4月、伊藤律系の長谷川浩が逮捕されている。

【日本生産性本部が発足】
 春頃、日本生産性本部が発足した。「生産性向上3原則(1・失業防止、2・雇用増大、3・労資強力・協議、公正な成果分配)」を掲げ、左派系労働運動に代わる労資協調路線を模索し始めた。「戦後日本の労働運動史を振り返ると労組を政治主義から離れさせ、経済主義それも現実的な労使協調路線の方向に導くのに生産性本部の運動は大きく貢献したと考えられる」(2005.5.13日付日経新聞「私の履歴書」の「加藤寛、bP2・生産性本部」)とある。

 加藤寛・氏は、日本生産性本部の活動について概略次のように述べている。「私が話すのはこういうことだ。生産成果の公正な分配と福祉の増大を図るには、経済体制は、市場経済でなければならない。現状では社会主義経済は早晩行き詰る。企業が労使協調して労働生産性を向上させ収益を上げ、公正な分配をすれば、労働者も社会も豊かになれる、と。つづめて言えば、会社側には社会への貢献と労組との協調を、労組には左翼的思想への決別と会社との協調を説いた」。

【保守党統一の機運高まり交渉に入る】
 4.13日、民主党総務会長の三木武吉氏が、保守合同をぶちあげた。民主党結成後まだ半年も経っておらず、第二次鳩山内閣発足から僅かに1ヶ月のこの時「保守結集の為なら、鳩山内閣は総辞職しても良い。民主党も解党しても良い」と言い切り、まさしく爆弾発言となった。「大目的の為には、昨日の敵は今日の友、自由党総裁緒方はもとより、吉田といえどもだ、今度は手を握る努力をせねばならん。保守の総結集は、わしの最後の政治目的だ」が、本意であった。

 「自民党派閥の歴史」は次のように記している。
「先に鳩山政権実現に奔走した三木武吉は、社会党の躍進に強い危機感を感じ、保守合同という新しい目標に向かって走り始めた。はじめ三木は自由党の緒方総裁にこの話を持ち掛けたが緒方は乗り気でなく、相手を大野伴睦に乗り換えた。大野はもともと鳩山の第一の子分を自任しており、鳩山が追放になったときには『鳩山先生のために座布団を暖めておく』と称して自由党に残った。ところがいざ鳩山が追放解除になってみると、三木や河野らが側近としてすでに居座っていたため、大野は弾き出されてしまった。大野が三木らに良い感情を持っていようはずはなく、三木は大野をなだめるのに相当苦労したようだが、保守合同という大義名分を盾に会談に引きずり込む」。

 5.15日、民主党総務会長三木武吉と自由党総務会長大野伴睦が保守合同を目指して会談している。この二人は30年来の政敵であったが、「救国の大業を成就させたい、保守合同が天下の急務」との思いで極秘会談した。この時、大野は、「絶対多数を取れなかったから、与党に取り込みたいだけだろう」と突き放した。これに対し、三木は、概要「この大業を為し遂げる為に必要とあらば、鳩山内閣の一つや二つ、ぶっ潰しても良い。問題は、鳩山内閣がどうのこうのということではない。今や政敵の関係を離れて国家の現状に心を砕くべき時期だ。日本はこのまま放っておいたら赤化の危機にさらされること、自明の理だ。天地神明に誓って私利私欲を去り、この大業を成就させる決心だ」。「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人」との名文句の生みの親大野はこれに応えた。「伴睦殺すにゃ刃物はいらぬ、お国のためじゃと云えばよい」と歌になったシーンである。

【保守党統一の動きを読売新聞社主・正力松太郎が支援】
 この動きを、読売新聞社主・正力松太郎が支援している。「貴君らが画策している、自由・民主両党の大同団結には、ワシも大賛成だ。ついては運動資金に不自由していることだろう。これを使って、偉業を成就して欲しい。―衆院議員・正力松太郎は、こう云って、現金1千万円、今の金に換算して約10億円をポンと、テーブルの上に出した」、「鳩山一郎政権下の30年春、三木、大野の『政敵二人』は密かに自由、民主両党の合同による、保守新党の結成を目指して動いていた。だが、運転資金で動くに動けない状態だった。そこに、一千万円もの運動資金だ。これで、保守合同の動きに弾みがついた」(「別冊歴史読本「昭和秘史歴代総理と財界巨頭」のP57「正力松太郎―一千万円の代償は伴食大臣」.1987.11.15日発行」)とある。

 5.7日、右派社会党はそれまで綱領を持っていなかったが、左派社会党との統一機運に合わせて、練り合わせの為か綱領を作成し、この日中央執行委員会で承認された。草案は、当時30歳そこそこの河上民雄と藤牧新平の二人が、箱根の「奈良屋」旅館に泊まりこんで書き上げた。これを見るに、民主主義制度を機能させた社会主義の建設を目指すこと、ソ連型の一党独裁と永久政権方式を排除すること、前衛党的指導を目指さず国民諸階層の結合体運動に向かうこと、自由制度を保障した議会闘争による多数派工作に注力すること等々としていた。総じて「民社社会主義」の立場を敷衍していた。
 5.12日、「平和と独立のために」(第407号)終刊号。

 指導部の「合同」に伴い、春以降になって地下党員がぞくぞく表へ現れだした。6月末には軍事組織の解散と関係文書の処分が指令された。「六全協」の合法的開催の予定が特定の党員たちに知らされ、その為の予備会議が開かれた。

 5.17日前後、正力の斡旋で、高輪の料亭「志保原」で、自由党総務会長の大野伴睦と民主党総務会長が秘密会談。大野の回想録によれば、数日前に後のアラビア石油社長・山下太郎邸で会談している。続いて、三度目の会談には、日本商工会議所会頭で原子力利用懇談会の中心的メンバーであった藤山愛一郎も加わる。

 5.26日、鳩山内閣の仕事始めとして、第5次選挙制度調査会を発足させる。


 5.27日、民主党の岸幹事長、三木総務会長、自由党の石井幹事長、大野総務会長の四者会談が開かれ、その流れで6.4日、鳩山・緒方両党総裁会談が実現した。会談後、「両党総裁は、保守勢力を結集し、政局を安定することに、意見の一致をみた。これが実現には、両党の党機関をして当たらせる」声明を発表した。6月末難交渉を経て、両党より10名ずつの政策委員が選ばれ、政策協定づくりに向かうことになった。この時の委員は、民主党側から福田赳夫、中村梅吉、井出一太郎、早川崇、堀木謙三。自由党から水田三喜男、船田中、塚田十一郎、灘尾弘吉らの面々であった。
 6.3日、ロンドンで、日ソ外交交渉が始まった。日本側全権は松本俊一外務省グループ、ソ連側全権はマリク駐英大使他。数次の会談を経て、@・国交回復、A・漁業協定、通商協定の締結、B・相互の主権尊重、内政不干渉の約束、C・相互に賠償請求権利を放棄する、D・日本の国連加盟をソ連が支持する、ことなどについて基本的な合意を得た。但し、北方領土問題、在ソ抑留邦人の釈放と帰還問題については見解が対立したままで終わった。

 この時、重光外相は訪米し、ワシントンで8.29日より重光・ダレス会談を開始している。こちらの方も、日本の防衛の在り方をめぐって海外派兵論にまで言及し始め、大きく不評を買う結果となった。
 6月、全国軍事基地反対連絡会議(基地連)が結成された。これは53年の内灘から始まって、54年の妙義、55年の砂川と燃え上がっていく基地闘争の流れから生み出されたものだった。しかし、党の反応は鈍く、積極的な指導は為されなかった。 

【 総評第6回大会−高野派敗れる】
 7.26日、総評第6回大会が開催された。事務局長のポストを岩井章(国鉄)と高野が争い、128票(岩井)対123票(高野)、白票8票という僅差で、高野が一敗地にまみれた。この時共産党の労働対策部は前年の高野支持から中立を決め込んでいた。

 以降岩井派が総評主流派、高野派が総評反主流派となる。この二派に共産党の流れがあり、都合この三派が労働運動内に対立していくことになる。興味深いことは、高野派の評価であり、@・総評主流派と本質は同じ左翼的改良主義者、A・総評主流派よりも戦闘的な共産党と気脈通じた同左翼的改良主義者、B・共産党よりも左派的な民族的な革命的グループ等々定まらぬところがあった。

 高野派は、本籍を社会党において新政党を目指さず、労働組合におけるグループとして自生していくことになった。有力メンバーとして、平垣美代司(日教組)・松尾喬(全国金属)・内山光雄(私鉄)らがいた。平垣氏は、著書「労働運動批判と『日共』糾弾」の中で、高野イズムについて次のように表現している。「私の理解では、いわゆる『家族ぐるみ・街ぐるみの労働運動』に象徴された条件の成熟した地域−拠点から重層・多角的に統一行動を組織し、国際的視野、とりわけ日・中・朝人民の連帯を軸とするアジア的視点に立脚した長期の戦略展望を見据えての闘争指導であったと思う」、「このことが正しかったか否かは、後世の史家の評価に任せるとして、現在もなお当時を回顧して部分的な過失や人間的な欠陥を指摘されれば一言もないが、『指導方針』が誤っていたとは毫(ごう)も考えなておらない」。


【 戦後党史第三期】/ 【ミニ第@期】= 宮顕派が党中央に再侵入する。
 この時期「六全協大会」が開催され、党内各派の大同団結となった。この時干されていた宮顕グループの執行部入りと、宮顕の書記局入りが為され野坂−宮顕執行部が確立される。宮顕は、当初は旧徳球系志田派と蜜月行脚していたが、それも束の間で本性を露にし始め、伊藤律−椎野系、志田系の旧徳球系グループの掃討戦を開始する。六全協から始まって旧徳球系グループの掃討戦を開始するに至るこの期間を【戦後党史第三期のミニ第@期】とみなすことができる。
 六全協は格別重要な意味を持つので、これについては別サイト「六全協考で考察する。

 8.6日、第一回原水爆禁止世界大会、広島で開催。
 8.7日、部落解放全国委員会が大会を開いて部落解放同盟と改称。
 8.25日から9.1日にかけて、重光外相、岸日本民主党幹事長、河野農林大臣が次々と渡米した。
【 第一次砂川闘争】
 この頃の学生運動につき、「第3期「六全協」の衝撃、日共単一系全学連の組織的崩壊」に記す。 

 5月、東京都砂川町議会は、立川飛行場の滑走路拡張に反対の決議を行い、8月には、支援労組、学生等を含めて基地反対共闘会議を結成した。これに対し、政府は9月から警官隊を導入して測量を実施し、労働者と農民が当局と激しく衝突した。これを第一次砂川闘争と云う。翌56年秋口には流血の事態を向かえることになる。

 この時、アカハタ11.5日付けで、概要「政府の挑発と分裂の政策に乗ぜられることなく、いわゆる『条件派』の人々わも含め、一切の住民の具体的要求を統一するよう」主張していた。現地で戦う労働者と農民の怒りと不信を買った。

 高見圭司「五五年入党から六七年にいたる歩み」は次のように記している。

 「この当時、私がかかわった運動らしい運動は“砂川基地拡張反対闘争”であった。このころは、五三年ごろから妙義、浅間の基地闘争、内灘の村民を先頭にした実力阻止のすわり込み闘争が高揚していた。砂川闘争は数多く起った全国各地の安保条約にもとづく基地反対闘争のなかで天目山のたたかいであった。五五年九月二二日砂川町で強制測量が開始され、警察機動隊と地元反対同盟、東京地評傘下の労働者、ブンドの指導する全学連が激突し闘った。私は、この日警察機動隊の前に坐り込み、ゴボウ抜きされ、ズボンは引きちぎられ、そのご数日間足を引きずって歩かねばならないほど機動隊に蹴られたのである。その後も何回か現地闘争に参加した」。

【志田.宮顕の「全国説得行脚】
 宮顕は、「六全協直後、九州、北海道、中国、関東等に他の同志と出席して、この問題の報告の一部を担当する」(「経過の概要」)とあるように果然活動を強めている。ここで他の同志とあるのは志田のことで、志田と宮顕は九州から北海道まで全国説得行脚に出かけている。宮顕が、「党の統一と方針転換についての基調報告」を行い、志田が「過去の路線への自己批判」を行い、それをまた宮顕が弁護するという奇妙な演説会であった。宮顕は、下部からの責任追及を煽り、志田を庇うというポンプ役を演出していた。「前向き.後向き」論で、過去の責任追及は後ろ向き、志田は自己批判したのだから前向きの論議をしようという子供だましの仕掛けをしていた。宮顕が「ズル顕」と陰口されるようになった由来がここにある。

【この頃の宮顕】
 「私は六全協後、20名の党指導部の一員として1950年以来の党の混乱の整理、文字通り正規の統一を実現するための第7回党大会の準備に活動した。本郷の義弟の家の二階から私は杉並に移ったが、百合子の元秘書で、百合子全集を手伝ってくれた大森寿恵子、現在の妻と結婚した。党は、政治的、組織的にも大きな深い傷を負っていた。過去の分裂の総括と新しい進路を打ち立てる上で、山なす困難が相次いだ。相次ぐ会議、徹夜、方針の執筆、難問題解決のための地方出張等、文字通り休息のない日々だった。中でも、東京地方組織の状況は深刻だった。50年問題の責任追及を先決として主張するメンバーが指導部に多く、中央委員会から東京の会議に出向く役目をしばしば受け持った」(宮本「私の五十年史」)。実際には、マッチポンプのマッチ役であったのではなかろうか。

【西沢が一人で伊藤律を訪ねる】
 初春の半年後のこの頃西沢が伊藤律のもとを訪れている。この時は今までの態度と異なり、悄然としていたとある。いつもの「伊藤律=アメ帝のスパイ」とする自己批判強要はなく、「僕は前に君に注意したろう。オヤジ(徳田)が生きているうちはいいが、オヤジが死にでもすれば、用心しないと宮本や袴田にやられるよと。彼等は戦前の実績がある人たちだからな。云わないことじゃない、君は用心しなかったものだから、こういうことになってしまったんだ」。この一ヵ月後に袴田が訪れている。

【伊藤律の風聞】
 9月初旬、「週刊朝日」9.11日号で、「伊藤律はどうしてる」記事が掲載され、様々な仮説が立てられていた。「共産党にとっては迷惑なことかも知れぬが、今の我々にとって、興味があるのは伊藤律はどうしているかということだ」とある。ちなみに仮説として、@・国内軟禁説、A・国内恭順説、B・国内病死説、C・国内粛清説、D・国外軟禁説、E・国外粛清説、F・米国逃亡説等が挙げられていた。

【志田重男.椎野悦郎旧指導部責任追及される】
 「六全協」以降の動きは、「六全協」が党の統一の為の事態の終結ではなくて、その発端に過ぎないことが明らかになった。8月頃から責任追求の嵐が党内に巻き起こった。9.14日「伊藤律問題」について、志田から「スパイ.挑発者であった」と発表された。伊藤律は国外にいると推定され、本人の自由意志で出てこない、除名した者の行動については関知しないというのが、この頃の党中央の見解であったが、志田はこの時「(伊藤律の)査問は国内でしたが場所は云えない」と明らかにウソをついていた。

 9.19日志田は「党団結のさしあたっての問題」という自己批判を書き、中央委員会の分裂とその後の指導の誤りの決定的責任が徳田主流派にあったことを認めさせられた。他方で、宮本.春日(庄)らは自己批判を何一つしなかった。志田は、旧指導部を代表して頭を下げてまわされる役目を負わされた。

 そうこうしているうち、「六全協」で中央委員の一員として選出されていた志田重男と椎野悦郎らに集中した旧指導部のスキャンダルが暴露された。党分裂の地下生活時代の党生活の上で幹部としてあるまじき堕落行為を行っていたことが明るみにされた。財政上の疑い、女性関係におけるスキャンダルや待合い生活による頽廃が暴露された。共産党系とみられていた雑誌「真相」特集号(1956.9.15日発行)に、「共産党はどこに行く」記事が掲載され、党分裂時代の志田が、料亭「お竹」を中心に、女と酒で数千万円を豪遊していたとの退廃的内容が書き連ねられていた。この問題は当時のマスコミの好餌にされた。 

 ここで補足すれば、亀山の「戦後日本共産党の二重帳簿」によれば、六全協からずっと2年間財政部長であった小田茂勝は他に囲った女性が公安部の紐付きで、ずるずると彼自身も公安とつながっていったとある。「一時期、臨中指導部の議長になった小松雄一郎は自己批判書の中に、詳しく、そういうことを自分についても他の人についても書いている」とある。勘ぐりようによれば、六全協以降そうした篭絡が一層容易に浸入したとも考えられる。
(私論.私観) 「宮顕の政敵追放手法としてのスキャンダル暴露攻勢」について
 宮顕の政敵追放手法に、商業新聞を使っての「スキャンダル暴露攻勢」があることが知られねばならない。今日に続くその後の党中央の手法になっている。

 10月、ベトナム共和国宣言。国民投票が実施され、ゴ・ジン・ジェムが、バオ・ダイ元首を破り、初代大統領に就任。
【55年体制の確立−社会党左右両派の合同】
 党の合同の影響かどうかこの年政治状況に大きな変化が見られた。まず社会党の左派と右派が合同した。10.13日、左右社会党の統一大会が開催され、右派の浅沼稲次郎と左派の鈴木茂三郎が書記長と委員長を分け合い、150議席を保つ大社会党が発足した。

 統一綱領を採択したが、左派社会党の新綱領が転じて統一綱領となった。その統一綱領には、「共産主義は事実上民主主義を蹂躙し、人間の個性、自由、尊厳を否定して、民主主義による社会主義とは、相容れない存在となった」、「我々は共産主義を克服して、民主的平和のうちに社会主義革命を遂行する」等々と明記され、共産党によるソ連型運動を否定的に総括した労農派社会主義論を満展開していた。

 統一社会党初代委員長には鈴木茂三郎がなった。書記長・浅沼稲次郎、財務委員長・伊藤卯四郎、政審会長・伊藤好道、国対委員長・勝間田清一、選対委員長・佐々木更三、統制委員長・加藤勘十、顧問河上丈太郎などの陣容が決められた。

 社労党「日本社会主義運動史」は次のように評している。
 「右社の露骨な反共主義と漸進的改良主義を盛り込んだ『統一綱領』の下に再び野合を遂げてしまうのである。『統一綱領』の無原則な折衷主義は『階級的大衆党』というわけの分からない『党の性格』規定に象徴されている」。

 高見圭司氏の「五五年入党から六七年にいたる歩み」は次のように記している。
 「この年の10.22日、分裂していた社会党は左右統一をとげた。そして私は社会党中央青年部の中央常任委員となった。当時の社会党青年部は左派社会党青年部の、党中央とは自立した大幅な運動の分野を確保する伝統を引き継いで、きわめて“戦闘的”でかつ“自由”な雰囲気に満ちていた。当時の青年部長は左派出身の西風勲氏で、彼の自由闊達な性格はそのまま当時の青年部の気風となっていた。何よりも左派出身の諸君は、かつて安保条約をめぐって右派と訣別し、その左翼バネとして右派を凌ぐ勢力にまでのし上げてきたという実績に裏打ちされ意気けんこうたるものがあり、私にとって魅力あるものであった」。 

【保守党の自由党と民主党が合同前の動き】
 吉田の跡目を継いだのは緒方竹虎。鳩山民主党の総務会長・三木武吉が緒方自由党と民主党の合同を策した。三木提案と呼ばれる。既に4月頃、大阪での記者会見の席上、「保守合同」をぶち上げていた。「今や保守勢力結集による政局安定はダ、民主・自由両党ともごく一部の感情論を除けば皆強く望んでいる。185名の少数党の民主党で政策推進を行うということ自体がダ、根本的に無理である。民主党はダな、自由党に対し、引き抜きや切り崩しなどの工作をせず、近く表玄関から呼びかけるつもりだ。保守結集の形は、合同でも提携でも構わないが、その時機は今や熟しておると言ってもいい」。

 この提案に対し、民主党内は大きく割れた。歓迎派が岸や根本龍太郎。反対派は松村や三木武夫ら。財界が保守合同歓迎の意向を示していた。三木は自由党の窓口に、やはり総務会長であった大野伴睦に白羽の矢を立て、交渉を続けた。二人はそれまで犬猿の中で、三木は大野を「雲助」と呼び、大野は三木を「タヌキ」と罵詈合っていた。都合60数回に及ぶ極秘会談が重ねられたと伝えられている。

 9.22日、「保守合同のためには、自由、民主両党議員全員で、新党結成準備会を結成する」と、民主党が党議決定を可決、9.25日、自由党もこれを可決した。

 10.3日、鳩山、岸、河野、三木が秘密会談し、鳩山続投を確認した。

 10.13日、日経連が総会で、「清新強力な政治力が急務」と決議する。10.20日、経済同友会も「速やかに保守合同を実現せよ」と決議する。

 11.6日、三木・岸・大野・石井の四者会談で、@・新党の運営は当面、総裁代行委員制とし、集団指導体制でいく。A・できるだけ早い時期に党首選挙を行ない、31年頃に総裁公選を行う。B・第三次鳩山内閣を発足させるを打ち合わせした。

【保守党の自由党と民主党が合同】
 11.15日、「占領制度の是正と自主独立」をスローガンに反目し合っていた日本民主党(鳩山)と日本自由党(緒方)の保守も又合同し、自由民主党が誕生した。こうして保守合同も為された。自由民主党に参加した国会議員は衆議院299名(298名)、参議院118名(115名)であった。衆議院では圧倒的過半数を確保したことになる。

 総裁人事は一時預けとし、「首相は鳩山。党は総裁を置かず、当分代行委員制でゆく、いずれ総裁は公選で決める」として、総裁決定まで自由、民主両党から2人ずつの鳩山一郎、緒方竹虎、三木武吉、大野伴睦の4名を代行委員に選出し、新党の運営に預からせることになった。初代幹事長は岸信介、総務会長は石井光次郎、政調会長は水田三喜男が就任した。「階級政党としての社会党に対決する国民政党」が標榜されていた。

 この時、自由党内では吉田直系の池田、佐藤らが合同に強く反対していた。吉田は、政敵鳩山とは与せずとして、合流しなかった。これに殉じて、佐藤栄作と橋本富三郎が無所属に留まった。数ヵ月後3名とも入党している。池田隼人、田中角栄らは結局自民党に入る。

【55年体制の確立】
 この自由民主党が政権与党となり、社会党が野党第一党となる構図が定着した。これを自民.社会二大政党制による「55年体制」という。ここからが「55年体制」のスタートとなった。

 ここに「保守・革新」の二大政党が実現して、イギリス流議会政治ともてはやされる時期を迎えた。ちなみに、この時の統一社会党の議席は154、自民党は299であった。この背景には、「強い保守党」を臨むアメリカの影響もあったものと思われる。

【第三次鳩山内閣が成立】
 11.22日、第三次鳩山内閣が成立した。この時日ソ国交回復が為されることになる。

 幹事長・岸、官房長官・根本竜太郎(留任)、副長官・松本滝蔵、田中栄一。外相・重光葵、蔵相・一万田尚登、農相・河野一郎、通産相・石橋湛山、経済企画庁長官・高碕達之助、国務相国家公安委員長・大麻唯男らの閣僚が留任した。法相・牧野良三、文相・清瀬一郎、厚相・小林栄三、運輸相・吉野信次、郵政相・村上勇、労相・倉石忠雄、建設相・馬場元治、防衛庁長官・船田中、自治庁長官・大田正孝、北海道開発庁長官・科学技術庁長官・正力松太郎らが新たに加わった。

 アカハタは突如12.19日「党と大衆との結合を強めて大衆運動を発展させよう」、翌12.20日「六全協決議の全面的実践へ」という主張を掲載した。概要「まず十分な党内闘争によって『党を正し』次の段階で大衆運動に向かうことが出来る、と考えるのは誤りだと、党員の義務の積極的遂行を強調した」。

【志田重男失踪】
 年末頃から志田は党本部にでてこなくなった。野坂は「志田は自己批判を書くのに苦しんでいる。ノイローゼ気味なので、あるところで保養しながら、総括を書くことになっている」と奇妙な弁護で辻褄併せをしている。この頃、西沢、紺野らが志田調査の任を引き受け、志田の三つのアジトを調べている。「封も切られていない下部組織からの報告文書が、柳行李に三杯も出てきた。志田が組織的な任務を完全に放棄していることが明らかになった」とある。

 志田はこのときから消えた。この時点から、党中央を宮本が牛耳るようになった。が、暫くの間は志田失踪問題ははぐらかされ続けて行った。

【袴田による伊藤律再査問】
 この年の暮れ近く袴田が伊藤律を訪ねて再査問している。袴田は勝ち誇った態度を見せながら次のように述べたと、伊藤律が証言している。

 概要「キミが一行、ひとこと、アメ帝のスパイだったと承認すれば、命は助かるし、元のポストに戻してやる。自分がそうでなければ、長谷川か小松など他の幹部のことでもいい。それが君の手柄になる。君の才能を惜しむことにかけては、宮本も俺も徳田に劣らない。今だから云ってやるが、ソ.中両党に手を廻し、君にこうした処置をとらせたのは、この我々だ」。

 「この取引を私は即座に拒否した」。袴田は「死にたければ勝手にしろ」と捨て台詞を残して去ったとある。それっきり、25年間、4分の1世紀誰も来なかった。
(私論.私観) 「袴田の『今だから云ってやるが、ソ.中両党に手を廻し、君にこうした処置をとらせたのは、この我々だ』発言」について
 この袴田発言も貴重である。伊藤律が生還したことにより明らかにされた裏史実である。

 1955年に発足した経済企画庁は、「経済自立五か年計画」を立案した。
【緒方竹虎考】
 「20世紀メディア研究会第51回特別研究会 2009/07/25 早稲田大学政治経済研究所」の「 20世紀メディア研究所・特別研究会―CIA と緒方竹虎」を参照する。

 2009.7月、公開されたアメリカ国立公文書館に保管されているCIA公開資料の緒方竹虎関係ファイルを解析し、緒方がCIAから「POCAPON」というコードネームを付与されるほどCIAと深く関係していたことが判明した。朝日新聞、毎日新聞が報じており、それによると、CIAが保管していた秘密文書で、主に緒方氏の公職追放が解除される1951年から1956年の死去の後までがファイルされている。緒方氏は52年10月に衆院選に当選し、吉田内閣の官房長官を経て、吉田首相の後継者と目され自由党総裁に就任する。2大政党論を唱え、他に先駆けて「緒方構想」を発表し保守合同を提唱する。この流れが1955年の保守合同の自民党結党に繋がる。CIAは緒方を「我々は彼を首相にすることができるかもしれない。実現すれば、日本政府を米政府の利害に沿って動かせるようになろう」と最大級の評価で位置付け、緒方と米要人の人脈作りや情報交換などを進めていた。緒方の背後に米国が絡んでおり、米国が緒方を通じて対日政治工作を行っていた実態が明らかとなった。当時、日本民主党の鳩山一郎首相は、ソ連との国交回復に意欲的だった。ソ連が左右両派社会党の統一を後押ししていると見たCIAは、保守勢力の統合を急務と考え、鳩山の後継候補に緒方を期待していた。

 緒方竹虎の履歴は次の通り。
 1888年山形市生まれ。1911年早稲田大学卒業後、朝日新聞社入社。政治部長、編集局長、主筆を経て副社長。2・26事件で同社を襲った陸軍将校と対峙(たいじ)し名をはせた。国家主義者の頭山満や中野正剛らと親交があり、戦争末期に中国との和平を試みた。44年社主の村山家と対立し辞職。政界に転じ、小磯、東久邇両内閣で情報局総裁。46年公職追放、51年解除。52年に吉田首相の東南アジア特使となり自由党から衆院議員当選。吉田内閣で官房長官や副総理を務めた。保革2大政党制や再軍備が持論で、54年に保守合同構想を提唱、自由党総裁に。55年11月の保守合同後、自由民主党総裁代行委員。56年1月死去。

 占領期、GHQのマッカーサーは、CIAをその草創のころから嫌い、信用していなかった。1947 年から50 年まで、東京のCIA支局を極力小さく弱体にし、活動の自由も制限していたといわれる。CIAは1948年以降、外国の政治家を金で買収し続けていた。しかし世界の有力国で、将来の指導者をCIAが選んだ最初の国は日本だった。元共同通信ワシントン支局長春名幹男は、米国国立公文書館文書等を丹念に読み解き、アラン・ブルームを長とするCIA東京支局が1948 年夏には活動を始めていたことを、『秘密のファイル』で実証的に明らかにしている。

 CIA初代の東京支局長はポール・ブルームで48年夏着任、49年から毎週第二火曜日「8人のサムライ」(笠信太郎、松本重治、松方三郎、浦松佐美太郎、東畑精一、蝋山政道、前田多門、佐島敬愛の「国際派・リベラル」)と夕食会(火曜会、53年3月頃まで)、吉田茂とも親しい「CIA 上級代表」として滞日した。

 1952年、CIAが日本で活動を本格化する。この年、サンフランシスコ講和条約・日米安保条約が発効している。「CIAには政治戦争を進めるうえで、並外れた巧みさで使いこなせる武器があった。それは現ナマだった」。

 「内調の前身・内閣調査室が三十人ほどの人員で設置されたのは1952 年4月で、内務省採用の村井順氏が吉田茂総理、緒方竹虎副総理を熱心に説いて賛同を得た。最初の構想は雄大で「治安関係者だけでなく、各省各機関バラバラといってよい内外の情報を一つにまとめて、これを分析、整理する連絡機関事務機関を内閣に置くべきだ」と吉田総理が閣僚座談会で発言している。

 1952.12.26日15時、米側のアレン・ダレスCIA 副長官、マーフィ駐日大使らは、吉田茂首相、緒方竹虎副首相・村井順内閣調査室長、岡崎勝男外相らと30 分ほど普通の挨拶を交わし親しく懇談した。日本側のCIA担当機関を置くよう要請している。日本が独立するにあたりGHQ(連合国軍総司令部)はCIAに情報活動を引き継いでおり、そのCIAと絡む日本側のCIA機関を作るよう促していたことになる。政府情報機関「内閣調査室」を創設した緒方は日本版CIA構想を提案し尽力する。日本版CIAは外務省の抵抗や世論の反対で頓挫するが、CIAは緒方を高く評価するようになっていった。16時30分、ASCHAM と(ブルーム?)はマーフィー大使に招かれ[駐日米国]大使館の茶会に出席した。緒方と岡崎[勝男]外務大臣もゲストだった。

 1952年12月26日の吉田茂首相とCIA 副長官アレン・ウェルシュ・ダレスの会見記録、及びその直後のアレン・ダレスと緒方竹虎、村井順の会談記録は、鹿地亘・三橋正雄事件が12月初旬に発覚し、鹿地は12月10日に国会で証言、鹿地を軟禁したアメリカ軍の正体について、ニューヨークタイムスは12月11日の紙面でCIA であると報道した直後であり、かつ、アメリカ大統領選で共和党のアイゼンハワーが勝利し、次期国務長官にアレンの兄で対日講話の立て役者であったジョン・フォスター・ダレスが就任することが決まり、アレン自身もCIA 長官に内定していたもとで、きわめて重要な政治的意味を持った。事実、この直後に緒方の内閣調査室拡充案が発表され(朝日12月29日1面トップ「新情報機関の構想成る」)、朝鮮戦争停戦への一つの糸口となる吉田茂と李承晩の日韓トップ会談がセットされた(12月28日朝日1面「李大統領1月5日来日、国連軍司令官クラーク大将招待、12月30日朝日1面トップ「李・吉田会談、国交開始まず期待」。

 1953年1月、米国で民主党トルーマンから共和党のアイゼンハワー政権が誕生。アイク政権の国務長官にジョン・ダレス、CIA 長官に弟のアレン・ダレスが任命され、後に対立したとされる国務省とCIA がトップレベルで緊密に連携できた時期となる。米国の対日情報活動も、マッカーサー、ウィロビーのGHQ・G2からCIAへと受け継がれ、転換された。朝鮮戦争のさなかにサンフランシスコ講和条約・日米安保条約が結ばれる。同7月の朝鮮戦争停戦を受け、新たなアジア戦略を打ち出そうとしていた。それがCIAの積極的な対日工作を促し、日ソ接近を防ぐ手段として55年の保守合同に焦点をあてることになった。CIAが目をつけたのが緒方であった。CIAの暗号名を持つ有力な工作対象者は他にもいた。例えば同じ時期、在日駐留米軍の施設を使って日本テレビ放送網を創設するため精力的に動いていた正力松太郎・読売新聞社主(衆院議員、初代科学技術庁長官などを歴任)は「PODAM(ポダム)」と呼ばれていた。有馬哲夫教授が「正力ファイル」で明らかにしている。暗号名は、CIAが工作対象者に一方的につける。山本武利・早稲田大教授(メディア史)は「CIAは、メディア界の大物だった緒方と正力の世論への影響力に期待していた」と分析する。

 朝日新聞出身で戦時中の情報局総裁をつとめたこともある緒方さんは「外務省、国警(いまの警察庁:筆者注)などの同種機関とは全く独立し、総合的な情報活動を行う。各官庁からの情報を収集し内閣調査室の集めた情報はすべて関係各省に流す」と抱負を語っている(毎日新聞・1953 年1月10 日)。内閣調査室の運営をめぐって内務省系(警察)と外務省との間で激しい主導権争いが闘われ、結果は初代室長村井順さんの失脚にまでおよんだ。

 1954.1.5日、緒方竹虎副総理の招待で、ジョージ・ガーゲットCIA日本DRS文書調査部長は緒方及び村井と夕食を共にした。夕食の名目は、緒方が、中国及びソ連からの日本人引き揚げ者について、米国側の情報上の関心がどうであるかの明瞭な構図を得たいということだった。ガーゲットの解釈によれば、この会合の本当の目的は、村井の最近の内閣調査室長の地位からの更迭問題への対処にあった。結果的に村井は転勤させられる。1月29日、ラストボロフ事件発覚。緒方は単身でCIA に協力し造船疑獄対処しなければならなくなった。

 1955年、CIAは緒方に「POCAPON(ポカポン)」の暗号名を付け緒方の地方遊説にCIA工作員が同行するなど政治工作を本格化させた。同年10〜12月にはほぼ毎週接触する「オペレーション・ポカポン」(緒方作戦)を実行している。CIAは、「反ソ・反鳩山」の旗頭として首相の座に押し上げようとした。緒方は情報源としても信頼され、提供された日本政府・政界の情報はアレン・ダレスCIA長官(当時)に直接報告された。緒方も55年2月の衆院選直前、ダレスに選挙情勢について「心配しないでほしい」と伝えるよう要請している。翌日、CIA担当者に「総理大臣になったら、1年後に保守絶対多数の土台を作る。必要なら選挙法改正も行う」と語っている。結果的に自民党は4人の総裁代行委員制で発足し、緒方は総裁になれず2カ月後急死する。CIAは「日本及び米国政府の双方にとって実に不運だ」と報告している。ダレスが遺族に弔電を打った記録もある。結局、さらに2カ月後、鳩山が初代総裁に就任。CIAは緒方の後の政治工作対象を賀屋興宣(かやおきのり、後の法相)や岸信介幹事長(当時)に切り替えていく。

 1955.11月の報告書によると、緒方は「POCAPON」という暗号名で記されており、関係者と面会した日本の情報活動を拡大する意向を示し、米国の情報機関について説明を求めた。米側は「情報にかかわるすべての国家機関の報告を集約する必要がある」と説明している。文書は、緒方氏が首相候補として取りざたされる中で、「保守的でソ連圏と政治的親交を持つことはないだろう」と期待を示す記述もある。

 1956.1.28日、緒方竹虎が急死する。

  米国国立公文書館所蔵の米国中央情報局(CIA)の「ナチス・日本帝国政府戦争犯罪情報」によれば、 第一次公開は788 人(日本人名は土肥原賢二、今村均、石井四郎、大川周明の4 人のみ)。圧倒的にドイツ・ナチス関係が多い。アルファベット順でHitler の直前にHirohito.Higashikuniが載っている。第二次公開は約1100 人。日本人らしい名前は、秋山浩、有末精三、麻生達男、福見秀雄、五島慶太、服部卓四郎2冊,東久邇稔彦、昭和天皇裕仁、今村均、石井四郎、賀屋興宣、岸信介、児玉誉士夫2冊,小宮義孝、久原房之助、前田稔、野村吉三郎、緒方竹虎5 冊,大川周明、小野寺信2冊,笹川良一、重光葵、下村定、正力松太郎3冊,Shima Horia 2冊,辰巳栄一、辻政信3 冊,和知鷹二、和智恒蔵の29人41冊である。おおむね戦犯ないしその容疑者である。「緒方ファイルEEZ18-B96-RG263,CIA Name File, box 94&95, folder: Ogata Taketora」は5分冊あり、日本人のCIA 個人ファイルでは群を抜いて大きい。緒方が自覚的な「スパイエージェント」であったかどうかは分からないが、「CIAの特定工作・作戦目的にとって格別に有益な(情報が得られる)ターゲット」であったことは間違いない。





(私論.私見)