六全協考 |
(れんだいこのショートメッセージ) | |
「さざなみ通信」の原仙作氏の2010.3.26日付け投稿「三重の原罪を背負った日本共産党の民主集中制(13)─党史検討への補足1─」が刺激になったので、六全協を別サイトにして単独個別に確認しておくことにする。六全協を重視する理由は、いわゆる共産党の日共化が始まった端緒であるからである。にも拘わらず否それ故にと云うべきか、ヴェールに匿われており知らされていない。こうなると、れんだいこの性分で剥がさねばなるまい。 「六全協の歴史的隠匿」について、三一書房の創業者・竹村一」の1978年発行の「運動史研究2」(三一書房)の「”分裂時代”への貴重な証言─亀山幸三著『戦後日本共産党の二重帳簿─」(235P)は次のように記している。ちなみに、竹村一・氏は、「60年安保闘争の国会デモで亡くなった女学生・樺美智子の遺稿集『人知れず微笑まん』の発行をめぐって日本共産党を除名されたと云われている。
戦後日本共産党史上非常に重要な事件であるにも拘わらず、意図的故意に抹殺されているという、この観点を確認することが重要ではなかろうか。更に云えば、それはなぜなのかと問わねばなるまい。ここまで問うのが、れんだいこ史観である。肝心なところでの思考停止は許されまい。 2010.04.01日再編集 れんだいこ拝 |
【 「六全協大会」開催】 | ||
○期日.会場.代議員数について 7.27−29日にかけて「日本共産党第六回全国協議会」(「六全協」)が開催された。このたびは合法的に開催された。旧中央.地方の幹部、その他特に召集されたもの101名が参加した。逮捕の恐れやその他の理由で、志田以下地下指導部の大半は参加しなかった。この時点での特徴は、依然として地下指導部主流派中心による大同団結であったことにあり、彼らのつくった筋書きを渡された窓口の中央指導部が大会全体を運営していくことになった。 注目すべき点として、亀山の「戦後日本共産党の二重帳簿」は次のように記している。
山辺健太郎の「その日呼ばれて出て行ったが、何のことか分からなかった」、竹内七郎の「あとで赤旗に、六全協が開かれたと大きく出たので、それではあれが六全協だったのかと思った」との伝えもあり、いかに秘密主義且つ幹部だけの手打ちであったかが知れる。 これらの証言からわかることは、「臨中」主導で全国の残存組織からそれなりの幹部クラスが指名され召集されたのであって、各地方組織の総会とそこにおける討議と選挙によって選出されてきたわけではないということである。このことを、「小山党史」は次のように述べている。
7.29日午後4時、代々木党本部の東京都委員会室で記者会見が為され、春日正一を真中に両サイドに志賀と宮顕が並ぶという恰好で始められた。他に志賀の隣に松本一三、宮顕の隣に米原が居た。席上、志賀の口から徳球の死亡が明らかにされた。噂が裏付けられた恰好であったがビッグニュースであった。鈴木卓郎氏の「共産党取材30年」に拠れば、この時既に宮顕が強権的な采配をしていとことが明らかにされている。 |
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○大会の眼目 この大会の眼目は、統一への動きが強まってきたことを受けてここに主流派と国際派の幹部レベルが歩み寄り、50年以来の党分裂に対し党の不統一を克服することを当面の緊急最大の任務とするという立場から党の内紛的事態に決着をつけた歴史的大会となった。 講和条約締結後の新しい条件に対応して、党活動を公然化に転換させる上での重要な一段階を画した。 大会は、主流派系地下指導部の従来の武闘方針を「極左冒険主義」とみなした上で誤りとして認め、公然と全面的な自己批判を行わさせ、以降ばっさり切り捨てるという方針上の根本的転換を明らかにした。「マルクスレーニン主義の理論によって全党を武装」することを強調した。 他方の意義として党内民主主義と集団指導の方向を確立した。推定党員数35000名。 |
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○採択決議について 「決議」.「党活動の総括と当面の任務」(中共議案).新規約草案が採択された。注目すべきは「党の統一に関する決議」で、初めて「全党の不統一と混乱」の責任を主流派が被ることになったことにあった。従来との逆裁定であり、徳球執行部系譜が白旗を掲げさせられたということであった。 この裁定はより本質的に深められ総括されるべきであったが、この時点においては両派とも大同団結の優先こそが緊急とされるという制限を持っており、この立場から問題が持ち越されることになった。 この時付帯決議で、「今後の党活動は綱領とこの決議に基づいて指導される。従って、過去に行われた諸決定のうち、この決議に反するものは廃棄される」とされた。この決議が後々宮顕派のご都合主義を満展開させていくことになったが、「誰もその重大な意味に気が付かなかった」(亀山「戦後日本共産党の二重帳簿」)とある。 大会最後の日徳球書記長の死亡と伊藤律の除名が満場一致で再確認された。「51年綱領」は再確認された。大会は、まだ復帰していない旧党員に復党を呼びかけることとなった。亀山は次のように証言している。
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この時の決議は、レーニンの次のような言葉を引用していた。
だが、実際の進行はこの言葉を絵空事にさせてしまう歩みを見せる。もともと六全協が「『上』で準備され、『上』から開始された」ことを思えばなりゆきであったかも知れぬ。 |
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基本方針の第二項目として極左冒険主義(武装革命路線)との決別が次のように宣言されている。
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亀山の「戦後日本共産党の二重帳簿」は、「六全協の原々案、原案、決議文をめぐる怪」として、次の史実を伝えている。六全協の原案作成にタッチしたのは党の最高指導部でもごく少数で、宮顕、志田、蔵原、松本一三、春日正一辺りのところで為されたようである。しかも、決議文にいたる段階で削除されたり、挿入された部分がかなりある。 その重要な点を見ると次のように変更されていた。情勢分析の変更は仕方ない面もあるとして、次のように変更されている。削除箇所は次の通り。
次のような文章を挿入している。
文章の改変は次の通り。
これらを見れば、かなり狡猾な文書改竄劇が進行したことが分かるであろう。しかし、この改竄行為はやって良いこととやってはいけないこととの重要な基準であるにも関わらず、見過ごされていったとは、おまりにお粗末が過ぎよう。 |
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あらゆる点で、宮顕流の「度を越した定式化」が認められる。「強権統一戦線論」が丸出しされていることが分かろう。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
この問題について、「三重の原罪を背負った日本共産党の民主集中制(13)─党史検討への補足1─」の「(8)、「六全協」決議のモスクワ原案からの変更(1)」が論じている。これによれば、「六全協原案」は3種類あったという。モスクワで作られた原案(A案)、その原案に日本国内で修正したB案、実際に決議として採択されたC案である。B案とC案はほとんど変わらないがA案とB案の間には大きな変化があるという。モスクワ原案づくりに直接参加した袴田里見もつぎのように証言している。
れんだいこは思う。A案が本当にモスクワ原案かどうかは分からない。いずれにせよ執筆に宮顕が大きく関わっていることは気間違いない。それはそれとして、亀山はA案からC案への大きな変化を8項目に分けて取り上げて解説している。変化の全体を特徴づけて次のように言っている。
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【 「六全協での新執行部」考】 | |
六全協での新執行部について確認しておく。 新たに中央委員が選出された。中央機構の改変が為され政治局と書記長制が廃止された。替わりに中央委員会常任幹部会と第一書記制が採用された。スターリンの死後、フルシチョフが集団指導を強調してソ連共産党に創始した方式を採用した。 中央委員の選出に当たっては、旧主流派と国際派の合同の意義を踏まえてバランスに注意が払われた。旧主流派から野坂.志田.紺野.西沢.椎野.春日(正).岡田.松本一三.竹中.河田の10名、旧反対派からは志賀.宮本.春日(庄).袴田.蔵原の5名が選出された。10対5の割振りであった。伊藤律系の長谷川浩が外されている。 中委候補は、米原.水野進.伊井弥四郎.鈴木市蔵.吉田資治らの5名でほぼ主流派系統。 中央常任幹部会は、野坂.志田.紺野.西沢.志賀.宮本.袴田の7名で、4対3の割り振り。書記局は、野坂を第一書記として、志田.紺野.宮本の4名で、後にこれに竹中.春日(庄)が追加された。4対2の割振り。統制委員会は、春日(正)を議長に、岩本.蔵原.松本惣の4名で、2対2の割振り。この会議には、志田以下地下指導部の大半(野坂.志田.紺野.西沢.椎野.岡田.河田)は参加しなかった。袴田も中国に滞在中で参加していなかった。この時宮顕はアカハタの編集責任者のポストを握った。 中央の人事から主に伊藤律系とみられる長谷川浩.松本三益.伊藤憲一.保坂浩明.岩田英一.小松雄一郎.木村三郎らの名前が消えていた。 日本共産党行動派の見方では、「徳田球一が死亡するや宮本・志賀ラインは党中央の指導権を奪い取ってしまった。プロレタリア幹部は「六全協」に反対して闘ったが、その多くは指導機関から排除されてしまった」とみなしている。大武礼一郎議長は当時関西地方委員会の幹部として闘ったが、同じように指導機関から排除された。大武議長は、「生産点と職場に入り、下から、大衆の中から闘いを開始した」とある。 こうして見れば、中央委員人事は全体としてみると旧徳田主流派系が優位を保っていたものの、中委常任幹部会.書記局.統制委員会の重要職においては旧統一会議系国際派と完全に対等になっており、それだけ国際派の食い込みが功を奏していたことになる。 なお、旧主流派内の伊藤派.国際派の神山.中西.亀山.西川らは除かれていた。神山は旧中央委員であり除外された経過は不明朗であった。この経過を勘案すれば、「六全協」は徳球系地下指導部と宮顕系国際派の両派の折衷、打算、駆け引きに終始して運営されたということであり、両派以外の各グループや下部における大衆的討議が一切抜きにされていたことになる。これらが「六全協」の限界と弱点であった。真の意味での党の統一でもなければ、大衆的責任の上に立った自己批判でもなかった。 小山弘健氏は「戦後日本共産党史」の中で次のように評している。
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【野坂−宮顕体制の確立】 | |||
7.29−30日、第一回中央委員会総会が開かれ、野坂参三を第一書記に選んだ。ここに野坂−宮顕体制確立の端緒が切り開かれた。現在の党史では、「党の混乱と不統一を克服し、党の政治的.組織的統一と団結の基礎を築いた」とされている。この時野坂は、「責任をとってやめるということは、ブルジョア政党のやり方である」と述べているようである。故徳田書記長の追悼式を決定、中央機関紙編集委員を任命した。 「六全協」における執行部体制は一見すると旧徳球派と国際派のバランス体制であったように思える。しかし、党の最高執行権力は書記局にあり、この書記局を握ったのが野坂と宮顕であったことを思えば、「六全協」において野坂−宮顕体制が確立されたとみなして差し支えがないであろう。 鈴木卓郎は「共産党取材30年」の中で次のように評している。
以降野坂−宮顕体制は、宮顕を機軸としながら党内純化を遂げていくことになる。この純化の過程について、「日本共産党の65年」は次のように記している。
「五十年党史」は次のように記している。
以上、淡々と記載している。以降、実際に行われたプロセスは、最初旧執行部の徳球派を放逐することに専念する。次に党の指導に従わない全学連執行部の除名とトロツキスト呼ばわりすることにより左翼戦線からの排除を指導する。これに成功するや構造改革派の追い出し、続いてソ連派、次に中国派を排除する。この間いつしか野坂−宮顕体制は宮顕−野坂体制へと主客逆転し、続いて宮顕独裁体制へと収斂していくことになる。この後に起こったことは学生運動の一元的統制化と文化人・知識人の整風化であった。後は我が世の春で、社会党壊滅作戦、田中角栄壊滅闘争を経過してその他諸々で最後の仕事を終えた。 宮顕指導の特徴は、「挑発に乗るな」が座右銘となることにある。党勢拡大と組織の温存が自己目的に追求され始め、大衆闘争はこれに従属して管理・調整されることになる。その様は、異常なまでに執拗である。 |
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こうして宮顕が党中央に登場してくる際に「宮顕神話」が決め手となっていたことが分かる。この「宮顕神話の心情」について、安東氏は「戦後日本共産党私記」の中で次のように明らかにしている。
この「宮顕神話」の虚構は、れんだいこが目下解明しているところであるが、あまりにも遅すぎた観がある。 |
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この時袴田も7名の幹部会員の一人に選出されている。ところが、この時期袴田はソ連に滞在の身であり、宮顕が片腕懐刀として引き上げたことが分かる。袴田が帰国するのは1957(昭和32年)の暮れであり、以降翌1958(昭和33年)7月の第7回党大会で幹部会員、書記局員。1961(昭和36年)の第8回党大会で党内bQの地位を確立する。 |
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社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」では次のように分析されている。
この分析に対しても、れんだいこは激しく抗議したい。気づくことは、「六全協」は「2.1ゼネスト」問題と並んで戦後直後の党運動の白眉な考究対象である。それをこのような簡略且つ中心課題を見据えない分析なぞありえてよかろうか。ここには、宮顕グーループによる党中央の簒奪というエポック性がでてこないばかりか、単なる「社会党の『統一』に劣らず、両派の無原則な妥協による『手打ち式』に他ならなかった」といい為している。仮に「党合同」に妥当性があったとしてもそれは現象面であり、地下水脈の真実はまさに宮顕グループによる党中央簒奪であったという観点に立たない限りその後の動きが分析できない。 そういう意味では、概要「徳球時代の基本方針が『宮本の手になる六一年綱領へと引き継がれていくのである』」分析も平板過ぎる。宮顕は、自身としては基本路線を産み出す能力を持たない指導者である。党中央の簒奪こそが使命であり、そういう意味において基本方針はさほど重視されておらず表向き継承された。但し、この路線上にあった「左」的なるものを順次換骨奪胎していくことになった。党内反対派の駆逐と基本路線の右傾化が以降の流れとなった。これが正史であって、失礼ながら「日本社会主義運動史」では全くぼかされてしまっている。その他の分析では簡潔要領よくまとめているのに肝心な事項におけるこの軽さはどうしたことだろう、疑問としたい。 田川和夫氏の「日本共産党史」は次のように記している。
この観点もほぼ社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」と通底している。六全協以降の宮顕グループの特異な右派性を指摘しない限り的を得ないであろう。 |
【宮顕と志田の蜜月ぶり】 | |||
亀山の「二重帳簿」の209ページは次のような証言を遺している。
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【道徳的説教の始まり】 | |||
宮顕の党中央登壇と共に道学者風の物言いが始まる。六全共決議では次のように云われている。
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【55年「六全協総括」当時の党の方針の特質と要点】 | |||
○〈本党大会までの執行部評価〉について 「六全協」により、「これまで存在していた党の混乱と不統一を克服し、党の政治的.組織的統一と団結の基礎」が築かれることになった。「スパイ伊藤律を放逐し、党の純化に着手した」。徳球執行部のセクト主義が批判された。その指導下の党活動が「極左冒険主義」とみなされてばっさり切り捨てられた。次のように述べている。
@〈世界情勢に対する認識〉について |
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A〈国内情勢に対する認識〉について 「六全協」声明において認識された情勢分析は次のようなものであった。国家の独立をめぐって引き続き「従属」規定が採用された。
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この認識がその後の党の闘争戦略の骨格を形成したという意味で、今日においても罪深いものとなっている。 | |||
B〈党の革命戦略〉について C〈党の革命戦術〉について
D〈党の具体的な運動方向〉について E〈党の大衆闘争指導理論〉について 労働組合運動ないし農民運動における極左冒険主義と左翼セクト主義を戒め、ますますねばり強い活動を続けるよう指示するというかって通ってきた右翼日和見主義の路線を敷いた。
社会党や労農等を反動支配と対決する民主的政党と認め、三党の統一行動による民族解放民主統一戦線の結成を打ち出した。従来の農民運動における誤りや労働組合に対する赤色労働組合主義の間違いを自己批判し、広く大衆組織の統一の為に努力することを誓った。
F〈党の機関運営及び組織論〉について 「六全協」は過去の闘争方針、戦略・戦術の見直しの切開に向かうのではなく、「党員は共産主義者としての修業につとめ自覚と品性を高めるように努めなければならない」として、専ら党員の精神修養問題にすりかえていった。「一億総懺悔」的な責任回避により糊塗したということになる。 対スパイ対策として「党の審査、点検は慎重に行い、まず上級機関の団結をかため、全党の思想的武装の強化、組織的統一の強化と結合しておこなわなければならない。全党に対する審査、点検の方法は、高い原則生と慎重な態度をもって上級機関から順次行うべきである」、「党規約の軽視は党内に官僚主義とセクト主義を生んだ」という認識から、「党規約を厳格に守り、党規約に定められている民主的中央集権制の組織原則をつねにつらぬきとおさなければならない」とされた。 「批判と自己批判を無原則な分派闘争や空虚なざんげにかえてはならない。党の利益は党員すべての個人的な利益のうえにある」、「わが党内には、これまで集団指導の作風がかけていた。しかも日本に残っている半封建的な思想が党内に持ち込まれ、個人中心的な指導と結びついて、家父長的な指導となる傾向があった。党はこのような傾向と戦い、個人中心的な指導方法を断固としてとりのぞかねばならない。そして集団指導の原則を厳格に実施し、指導的中心が固く団結しなければならない。個人の権威の上に立つ指導があってはならない」。 G〈左翼陣営内における本流意識〉について H〈この時期の青年戦線.学生運動〉について 党の極左冒険主義批判の影響を受け、右翼日和見主義となり、民青団は清算主義に陥った。マルクス.レーニン主義を学ぶことさえ放棄した。解体寸前の状態に落ち込んだ。 全学連第7回中央委員会で極左傾向を批判した。 I〈大会後の動き〉 「朝鮮籍の党員の分離や後の帰国運動も取引の一環でしょう」。 |
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思えば、宮顕一派は奇怪千万な履歴を持つ。国際主義的な見地から徳球の自主路線を批判し続けていたにも関わらず、徳球の最大の功績である自主独立路線の法灯を受け継いでいるから。ここから見えてくるものは、宮顕グループにとって理論はそれ自身としての意味を持たず権力闘争の道具にしか過ぎないのではないかという見地であろう。 |
【宮顕が「常任幹部会」の責任者に就任し中心的指導権力を獲得する】 |
8.2日、「常任幹部会」が「中央委員会」の人事を決定、「常任幹部会」の責任者に宮顕が治まった。以降党は、「中央委員会」自体が飾りになり「常任幹部会」主導により運営されていくことになる。その中心的指導権力を宮顕が掌握していくことになる。 |
【潜行幹部の野坂.志田.紺野の3幹部が公然化する】 | ||||
8.11日、「六全協記念政策発表大演説会」が東京の日本青年会館で開かれた。潜行在京幹部出席。野坂.志田.紺野の3幹部が、新調の揃いの背広で地上に姿を現わす。壇上には徳田球一の写真が飾られてあったが、その徳球の大肖像の中央に宮顕が立ち、その前に志田、野坂、紺野がイスに座っているという構図の写真が残されている。政権簒奪が為されたことが分かる。 この時、宮顕が演説会を取り仕切り次のように述べている。
野坂は記者会見で、「ずっと日本にいたよ。外国になんか逃げやせんよ。まことに都合のいい今夜の大会があったから出てきたんだ。団規令は、もう無効になったんだ。もう地下になんか、もぐらないよ」と胸を張って質問に答えた(鈴木卓郎「共産党取材30年」)とある。この時、警視庁と共産党弁護士の間で、「三人は帰る時玄関前で逮捕する。但し三人に手錠はかけない」と話がまとまり、事実そうなったとも書かれている。「野坂らは団体等規制令違反の形式的な取り調べを受けた後、8.18日に釈放された」(しまね・きよし「もう一つの日本共産党」P115)とある。 |
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警察が、徳球系とはうってかわって野坂・宮顕系とはじゃれあってる様が透けて見えてくる。こういうのを「出来レース」というのだろう。こういう現象も、宮顕が党中央に潜入以来増えてくることになる。 |
8.17日、「第2回中総」。第一書記野坂、書記局員3名、専門部長を決定。 8月以降各地で党会議を開き、除名者の復帰、地方幹部の交代、主流派の責任追及などを進める。 |
【野坂談話】 | ||||
8.18日、アカハタに「野坂同志談 釈放当夜本部であいさつ」なる次のような記事が掲載されている。
野坂は前衛55.10月号紙上で、「六全協の主要な問題」というタイトルで次のように語っている。
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【 「六全協」の衝撃と諸影響】 | |||
主流派党員は、大なり小なり「六全協」の方向転換に衝撃を受けうちのめされた。今まで絶対に正しいとして、何の疑念を無く受け入れてきた指導方針や上からの通達が、突然そうでなかったといわれたのだから、仰天し混乱してしまった。彼らの内では、深刻な挫折感から戦列を離れていく者から、新方針にそのまま乗り換えていく者まで様々であった。暫くの間「六全協ショック」、「六全協ノイローゼ」、「六全協ボケ」と呼ばれる状態が続いた。 この時の気分が次のように伝えられている。
田川和夫氏の「日本共産党史」には次のように記されている。
「小山党史」は次のように記している。(186〜187ページ)
つまり、徳球―伊藤律系、徳球―志田系が打ちのめされたのに対し、旧国際派系はこぞって「六全協」の方向転換を歓喜して受け入れたということになる。彼らは屈辱的な自己批判を強要されていた事態から解放され、大なり小なりこれまでの自分たちの見解が受け入れられたと理解した。その他レッドパージや分派闘争の過程で自然に組織からはなれて「野放し状態」になった何万もの旧党員や、新参党員が歓迎した。 |
【 「下からの突き上げ」と宮顕の策略】 | ||
六全協後、一時的にではあるが自由な発言が許される雰囲気が党内に醸成され、下部党員による活発な討議が展開されたが、それは次第に党の誤謬に対する責任の取り方という組織論における基本的課題に収斂していった。それは具体的には、地下指導部において非公然面を指導した幹部に向けられた責任追及となっていった」(しまね・きよし「もう一つの日本共産党」P121)が、野坂は「指導的地位を去ることのみが責任を取る唯一の方法ではない」と調法な言い回しで居直り、残された旧主流派に向けて糾弾が組織され、政治主義的に利用されていった。 8.23日よりアカハタに「六全協決議の理解と実践のために」が連載され、一般党員の投書が連日掲載された。これは政治責任追及のターゲットを徳球系及びその一渓流である志田系を痛打することに利用された。つまり非常に政治主義的に活用されたことになる。 実権を握った宮顕の「党内の保守、反動、官僚主義の総元締めになった」変調な動きについて、亀山は「戦後日本共産党の二重帳簿」の中で、次のように明らかにしている。
これを具体的に見ると次のような対応の違いを見せた。伊藤律−椎野系に対しては「下部からの突き上げ」を放任し、促進させた。志田系に対してはこの頃は極力批判を抑圧し、以下で見るようにタイミングを計って一挙に叩くことになった。野坂と西沢隆二に対する批判に対しては、強引に抑制させる方針をとった。旧所感派系からの国際派の分派活動批判に対しては、「後ろ向きの態度」、「自由主義的行き過ぎ」、「打撃主義的誤り」などと使い分けながら宮顕派に向かう流れを押さえつつ、志賀系、春日(庄)系、野田弥三郎系に対する批判は助長した。 この経過に対して、亀山は「代々木は歴史を偽造する」の中で、次のように指摘している。
こうした宮顕の動きに対してこれを変調として抗議していったグループもあったようである。まず椎野は、「六全協は全く清算主義的決議である」、「これは六全協以前の全ての党活動、50年初めのコミンフォルム批判以後の党をすべて否定したものである」と批判している。徳球−伊藤律−椎野派としてみれば、当然の観点であった。次に、中村丈夫が「六全協は戦後党の挫折の過程であり、その仕上げである」、「六全協後の党は革命党の残骸でしかない」と批判している。金沢幸雄は、「宮本顕治、裏切りの34年」で、「六全協は党を敵に売り渡す売国の会議で、この決議は徹頭徹尾、修正主義によって貫かれている」、「六全協によって、四全協、五全協以来の革命的な原則は廃棄され、党は修正主義者宮本によって指導権を奪われた」と批判している。 |
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亀山氏は上述の見解を批判的に紹介しているが、私は肯定的に見る。徳球系運動は数々の批判されるべきものもあったであろうが、この系譜上で総括せねば党運動の教訓として生かされないからであると考える。全く異質且つ胡散臭い宮顕系論理で席捲される事態だけは避けねばならなかった。ところが、いずれ駆逐されていく自ら等の運命も分からず、志田、春日(庄)、亀山、志賀、中西功、神山、中野派らはこの時宮顕派の幻惑に騙されてしまった、と考える。 |