六全協考



 更新日/2022(平成31.5.1日より栄和元/栄和4).2.5日
 (れんだいこのショートメッセージ)
 「さざなみ通信」の原仙作氏の2010.3.26日付け投稿「三重の原罪を背負った日本共産党の民主集中制(13)─党史検討への補足1─」が刺激になったので、六全協を別サイトにして単独個別に確認しておくことにする。六全協を重視する理由は、いわゆる共産党の日共化が始まった端緒であるからである。にも拘わらず否それ故にと云うべきか、ヴェールに匿われており知らされていない。こうなると、れんだいこの性分で剥がさねばなるまい。

 「六全協の歴史的隠匿」について、三一書房の創業者・竹村一」の1978年発行の「運動史研究2」(三一書房)の「”分裂時代”への貴重な証言─亀山幸三著『戦後日本共産党の二重帳簿─」(235P)は次のように記している。ちなみに、竹村一・氏は、「60年安保闘争の国会デモで亡くなった女学生・樺美智子の遺稿集『人知れず微笑まん』の発行をめぐって日本共産党を除名されたと云われている。
 「恐らく一九五〇年一月のコミンフォルム論評から五五年七月の六全協に至る五年間ほど、党史の中で闇につつまれた時はあるまい。宮本指導部がこの期間を、党史のなかから完全に抹殺していることは改めて言うまでもないが、その他のすべてのグループも自分自身の手で、この期間を総括したものは、ただの一つもないと言ってよいだろう。・・・しかもこの時期の『指導者』のうち、徳田球一、志田重男、西沢隆二、神山茂夫、春日庄次郎など、多くの人々がすでにこの世を去ってしまった」。

 戦後日本共産党史上非常に重要な事件であるにも拘わらず、意図的故意に抹殺されているという、この観点を確認することが重要ではなかろうか。更に云えば、それはなぜなのかと問わねばなるまい。ここまで問うのが、れんだいこ史観である。肝心なところでの思考停止は許されまい。

 2010.04.01日再編集 れんだいこ拝


【 「六全協大会」開催】
 ○期日.会場.代議員数について

 7.27−29日にかけて「日本共産党第六回全国協議会」(「六全協」)が開催された。このたびは合法的に開催された。旧中央.地方の幹部、その他特に召集されたもの101名が参加した。逮捕の恐れやその他の理由で、志田以下地下指導部の大半は参加しなかった。この時点での特徴は、依然として地下指導部主流派中心による大同団結であったことにあり、彼らのつくった筋書きを渡された窓口の中央指導部が大会全体を運営していくことになった。

 注目すべき点として、亀山の「戦後日本共産党の二重帳簿」は次のように記している。

 「四全協、五全協の中央委員、その他の役員は当日の朝早く党本部に緊急召集され、春日正一から一切の全権委任を迫られ、全員が承諾した由である。それも奇怪という他は無い」。

 山辺健太郎の「その日呼ばれて出て行ったが、何のことか分からなかった」、竹内七郎の「あとで赤旗に、六全協が開かれたと大きく出たので、それではあれが六全協だったのかと思った」との伝えもあり、いかに秘密主義且つ幹部だけの手打ちであったかが知れる。

 これらの証言からわかることは、「臨中」主導で全国の残存組織からそれなりの幹部クラスが指名され召集されたのであって、各地方組織の総会とそこにおける討議と選挙によって選出されてきたわけではないということである。このことを、「小山党史」は次のように述べている。

 「すでにこれまでのひみつの会合やさいごの予備会議ではなしのついた両派幹部が、国際的指示にもとづく新しい党議をそれぞれの下部党員に説明し了解をつける場にすぎなかった。最初の動機や準備のもちかたからくる根本的限界は、六全協の非民主的なありかたを決定したのである」(「小山党史」182ページ)

 7.29日午後4時、代々木党本部の東京都委員会室で記者会見が為され、春日正一を真中に両サイドに志賀と宮顕が並ぶという恰好で始められた。他に志賀の隣に松本一三、宮顕の隣に米原が居た。席上、志賀の口から徳球の死亡が明らかにされた。噂が裏付けられた恰好であったがビッグニュースであった。鈴木卓郎氏の「共産党取材30年」に拠れば、この時既に宮顕が強権的な采配をしていとことが明らかにされている。
 ○大会の眼目

 この大会の眼目は、統一への動きが強まってきたことを受けてここに主流派と国際派の幹部レベルが歩み寄り、50年以来の党分裂に対し党の不統一を克服することを当面の緊急最大の任務とするという立場から党の内紛的事態に決着をつけた歴史的大会となった。 講和条約締結後の新しい条件に対応して、党活動を公然化に転換させる上での重要な一段階を画した。

 大会は、主流派系地下指導部の従来の武闘方針を「極左冒険主義」とみなした上で誤りとして認め、公然と全面的な自己批判を行わさせ、以降ばっさり切り捨てるという方針上の根本的転換を明らかにした。「マルクスレーニン主義の理論によって全党を武装」することを強調した。

 他方の意義として党内民主主義と集団指導の方向を確立した。推定党員数35000名。
 ○採択決議について

 「決議」.「党活動の総括と当面の任務」(中共議案).新規約草案が採択された。注目すべきは「党の統一に関する決議」で、初めて「全党の不統一と混乱」の責任を主流派が被ることになったことにあった。従来との逆裁定であり、徳球執行部系譜が白旗を掲げさせられたということであった。

 この裁定はより本質的に深められ総括されるべきであったが、この時点においては両派とも大同団結の優先こそが緊急とされるという制限を持っており、この立場から問題が持ち越されることになった。

 この時付帯決議で、「今後の党活動は綱領とこの決議に基づいて指導される。従って、過去に行われた諸決定のうち、この決議に反するものは廃棄される」とされた。この決議が後々宮顕派のご都合主義を満展開させていくことになったが、「誰もその重大な意味に気が付かなかった」(亀山「戦後日本共産党の二重帳簿」)とある。

 大会最後の日徳球書記長の死亡と伊藤律の除名が満場一致で再確認された。「51年綱領」は再確認された。大会は、まだ復帰していない旧党員に復党を呼びかけることとなった。亀山は次のように証言している。
 「会議の最中に二日目であったと思うが、突然徳田の死が発表された。それもまったく突然の発表で、私も驚くばかりであった。・・・議長席の後方の壁に高くかかげられている徳田書記長の写真に梯子をかけて黒い喪章をつけ始めたのである。二、三分でそれがつけ終わった瞬間、全参加者はその意味をさとった。会場は一瞬水を打ったように静まりかえりかえった。直ちに議事は中断され、すぐに追悼演説が始まった。・・・これで六全協決議の個々の内容に反対や修正の出る雰囲気はほとんどまったくなくなった」(亀山「二重帳簿」202P)。
(私論.私観) 不十分な総括について
 この時の決議は、レーニンの次のような言葉を引用していた。
 「誤りを公然と認め、その原因をきわめ、それを引き起こした状態を分析し、誤りを訂正する手段を細心に審議すること−これが党の任務の遂行であり、これが階級の、それからまた大衆の教訓と訓練である」。

 だが、実際の進行はこの言葉を絵空事にさせてしまう歩みを見せる。もともと六全協が「『上』で準備され、『上』から開始された」ことを思えばなりゆきであったかも知れぬ。
 基本方針の第二項目として極左冒険主義(武装革命路線)との決別が次のように宣言されている。
 一、党は戦術上いくつかの大きな誤りを犯した。この誤りは大衆の中での党の権威を傷つけ国民の総力を民族解放民主統一戦線に結集する事業に大きな損害を与えた。この誤りのうち最も大きいのは極左冒険主義である。このことは自己の力を過大に評価し敵の力を過少に評価したことに基づいている。党中央はこの一月極左冒険主義的な戦術と形態からはっきり手を切ることを決定した。当は今日の日本にはまだ切迫した革命情勢のないことを確認し、広範な大衆を共産党の側に組織する為に、民族解放民主統一戦線を築き上げる為にますます深く大衆の中に入り、粘り強い不屈の戦いを続けるであろうことを強調する

(私論.私観) 六全協の原案が重要部分で差し替えられていたことについて
 亀山の「戦後日本共産党の二重帳簿」は、「六全協の原々案、原案、決議文をめぐる怪」として、次の史実を伝えている。六全協の原案作成にタッチしたのは党の最高指導部でもごく少数で、宮顕、志田、蔵原、松本一三、春日正一辺りのところで為されたようである。しかも、決議文にいたる段階で削除されたり、挿入された部分がかなりある。

 その重要な点を見ると次のように変更されていた。情勢分析の変更は仕方ない面もあるとして、次のように変更されている。削除箇所は次の通り。
原々案  (分派問題に対して)「党は平和革命の日和見主議論を排し、新しい綱領に基づいて、党を分裂させていた党内分派闘争を停止し、党の政治的、組織的統一を回復した」
決議文  「党は平和革命の日和見主議論を排し、新しい綱領に基づいて、党を分裂させていた党内分派闘争を停止し」を削除している。
原々案  「(党は・・・各地でばらばらな冒険的闘争を始めるに至った) 吹田事件、名古屋事件等はその代表的なものである。1952年のメーデー事件は、敵の挑発と暴力にたいし、大衆が勇敢に斗ったが、党の正しくない政策の結果おきたものである」。
決議文  すっぽり削除されている。
原々案  「党は、何よりも党の組織からスパイや挑発者を追い出すために闘わなければならない」
決議文  この下りが削除されている。
原々案  「(分派側の)これらの同志らは1950年に中央委員会の多数がとった諸方針に対して、いくつかの点で正しい批判を行いながら、彼ら自身は、理論的性質を持った誤りを犯し、また党の組織原則を破って党内に分派を組織するという重大な誤りを犯した」。
決議文  この下りが削除されている。

 次のような文章を挿入している。
決議文  (党の団結に関する旧指導部の責任に言及して)「党の統一を求める総ての同志に対して無条件の支援を与えることを決議したにも関わらず、党中央はこの決議にきわめて不忠実であったことを、おごそかに認めなければならなない。そのため党への復帰と党の統一を求める多くの誠実な同志たちを不遇な状態におきざりにした。このことは党中央の重大な責任である」。
決議文  「したがって、強大な党をきずくことと、党のただしい活動こそがこの統一戦線を実現する土台である」。「この民族解放民主統一戦線は、労働者・農民を中心とする国民大衆を、綱領の思想のもとに団結させることによってのみ実現される」。

 文章の改変は次の通り。
決議文  その他、50年分裂以来の経過に関して、党中央の指導と分派に走った者たち双方が反省すべきことがうたわれていた部分を改変し、専ら「当時の党指導部に『も』責任があった」と言い換えている。
原々案  「党の組織からスパイや挑発者を追い出すために、たえず闘わなければならない。しかしこの活動は1954年1月に発表された統制委員会の決定に述べられている様な、党の下部組織から始める大衆的清掃と云う手取り早い方法で行われてはならない。このようなやり方では、慎重な審査もしないで、党から根拠のない除名をしたり、或いは敵に党内を攪乱する機会を与えるおそれがある」。
決議文  「全党にたいする審査、点検の方法は、高い原則性と慎重な態度をもって上級機関から順次おこなうべきである。この場合、思想的弱さや政治的未熟さから誤りをおかした党員と、本当のスパイ・挑発者とを混同してはならない」。
原々案  「党の誤りは、党が国民大衆に広い支持をもたないで、また、大衆獲得のための永続的な活動によらないで、統一戦線を実現しようとしたことにある」
決議文  「強大な党をきずきあげることことなしに、また、党が大衆を思想的にかくとくすることなしに、民族民主統一戦線は決して発展しない。民族民主統一戦線をすすめるうえで、党がおかした第一の誤りは、この基本的な問題をおろそかにしたことである」。

 これらを見れば、かなり狡猾な文書改竄劇が進行したことが分かるであろう。しかし、この改竄行為はやって良いこととやってはいけないこととの重要な基準であるにも関わらず、見過ごされていったとは、おまりにお粗末が過ぎよう。 
(私論.私観) 「六全協」決議の原案書き替え考
 あらゆる点で、宮顕流の「度を越した定式化」が認められる。「強権統一戦線論」が丸出しされていることが分かろう。
 この問題について、「三重の原罪を背負った日本共産党の民主集中制(13)─党史検討への補足1─」の「(8)、「六全協」決議のモスクワ原案からの変更(1)」が論じている。これによれば、「六全協原案」は3種類あったという。モスクワで作られた原案(A案)、その原案に日本国内で修正したB案、実際に決議として採択されたC案である。B案とC案はほとんど変わらないがA案とB案の間には大きな変化があるという。モスクワ原案づくりに直接参加した袴田里見もつぎのように証言している。

 「この草案(モスクワ原案のこと─引用者注)は国内に持ち帰られてからも、もう一度、化粧直しが施されている。」(袴田「昨日の同志宮本顕治」202ページ、新潮社1978年11月)

 れんだいこは思う。A案が本当にモスクワ原案かどうかは分からない。いずれにせよ執筆に宮顕が大きく関わっていることは気間違いない。それはそれとして、亀山はA案からC案への大きな変化を8項目に分けて取り上げて解説している。変化の全体を特徴づけて次のように言っている。

 「第一は、軍事方針、武装闘争を極左冒険主義という言葉に緩和し、その具体例を除き、党勢力の減退の理由を出来るだけ抽象化することによって、志田の責任を逃れさせ、第二は、第二次総点検運動(「臨中」による反「臨中」派の組織的排除策動のこと─引用者注)は誤りであったという部分を削ることによって神山除名をそのまま引き継ぎ、志田、竹中、岩本、椎野らの責任を免れさせ、第三は、分派を結成したのは誤りであった、ということを取り除くことによって、ついでに分派をやった人々が自己批判したということも削除して、宮本を救済し、そのヘゲモニーを全面的に認めることであったのである」(亀山「二重帳簿」221ページ)。

【 「六全協での新執行部」考】
 六全協での新執行部について確認しておく。

 新たに中央委員が選出された。中央機構の改変が為され政治局と書記長制が廃止された。替わりに中央委員会常任幹部会と第一書記制が採用された。スターリンの死後、フルシチョフが集団指導を強調してソ連共産党に創始した方式を採用した。

 中央委員の選出に当たっては、旧主流派と国際派の合同の意義を踏まえてバランスに注意が払われた。旧主流派から野坂.志田.紺野.西沢.椎野.春日(正).岡田.松本一三.竹中.河田の10名、旧反対派からは志賀.宮本.春日(庄).袴田.蔵原の5名が選出された。10対5の割振りであった。伊藤律系の長谷川浩が外されている。

 中委候補は、米原.水野進.伊井弥四郎.鈴木市蔵.吉田資治らの5名でほぼ主流派系統。

 中央常任幹部会は、野坂.志田.紺野.西沢.志賀.宮本.袴田の7名で、4対3の割り振り。書記局は、野坂を第一書記として、志田.紺野.宮本の4名で、後にこれに竹中.春日(庄)が追加された。4対2の割振り。統制委員会は、春日(正)を議長に、岩本.蔵原.松本惣の4名で、2対2の割振り。この会議には、志田以下地下指導部の大半(野坂.志田.紺野.西沢.椎野.岡田.河田)は参加しなかった。袴田も中国に滞在中で参加していなかった。この時宮顕はアカハタの編集責任者のポストを握った。

 中央の人事から主に伊藤律系とみられる長谷川浩.松本三益.伊藤憲一.保坂浩明.岩田英一.小松雄一郎.木村三郎らの名前が消えていた。

 日本共産党行動派の見方では、「徳田球一が死亡するや宮本・志賀ラインは党中央の指導権を奪い取ってしまった。プロレタリア幹部は「六全協」に反対して闘ったが、その多くは指導機関から排除されてしまった」とみなしている。大武礼一郎議長は当時関西地方委員会の幹部として闘ったが、同じように指導機関から排除された。大武議長は、「生産点と職場に入り、下から、大衆の中から闘いを開始した」とある。

 こうして見れば、中央委員人事は全体としてみると旧徳田主流派系が優位を保っていたものの、中委常任幹部会.書記局.統制委員会の重要職においては旧統一会議系国際派と完全に対等になっており、それだけ国際派の食い込みが功を奏していたことになる。

 なお、旧主流派内の伊藤派.国際派の神山.中西.亀山.西川らは除かれていた。神山は旧中央委員であり除外された経過は不明朗であった。この経過を勘案すれば、「六全協」は徳球系地下指導部と宮顕系国際派の両派の折衷、打算、駆け引きに終始して運営されたということであり、両派以外の各グループや下部における大衆的討議が一切抜きにされていたことになる。これらが「六全協」の限界と弱点であった。真の意味での党の統一でもなければ、大衆的責任の上に立った自己批判でもなかった。

 小山弘健氏は「戦後日本共産党史」の中で次のように評している。

 「六全協までの話し合いの主体が、伊藤派を除いた旧主流派と神山・中西・亀山・西川らを除いた旧反対派との二つであったことを、明らかにしていた」。

【野坂−宮顕体制の確立】
 7.29−30日、第一回中央委員会総会が開かれ、野坂参三を第一書記に選んだ。ここに野坂−宮顕体制確立の端緒が切り開かれた。現在の党史では、「党の混乱と不統一を克服し、党の政治的.組織的統一と団結の基礎を築いた」とされている。この時野坂は、「責任をとってやめるということは、ブルジョア政党のやり方である」と述べているようである。故徳田書記長の追悼式を決定、中央機関紙編集委員を任命した。

 「六全協」における執行部体制は一見すると旧徳球派と国際派のバランス体制であったように思える。しかし、党の最高執行権力は書記局にあり、この書記局を握ったのが野坂と宮顕であったことを思えば、「六全協」において野坂−宮顕体制が確立されたとみなして差し支えがないであろう。

 鈴木卓郎は「共産党取材30年」の中で次のように評している。

 「まことに、この六全協こそ今日の宮顕体制への胎動期で、宮顕が党内権力を掌中におさめる発信台であったから、戦後の共産党史を記述する上で特筆すべきものがある」。

 以降野坂−宮顕体制は、宮顕を機軸としながら党内純化を遂げていくことになる。この純化の過程について、「日本共産党の65年」は次のように記している。

 「党が、50年以来の混乱を根本的に解決し、正しい政治路線を確立し、真に党的な団結を回復する為には、六全協で選ばれた党中央の一定の団結を足がかりに、新しい大会−第7回党大会を準備する、その後3年間にわたった全党的な努力が必要であった」。

 「五十年党史」は次のように記している。

 「『六全協』は、党分裂以来の歴史的制約を残した不正常な会議であることを免れなかったが、いくつかの点で党の転換への重要な一歩となった」。

 以上、淡々と記載している。以降、実際に行われたプロセスは、最初旧執行部の徳球派を放逐することに専念する。次に党の指導に従わない全学連執行部の除名とトロツキスト呼ばわりすることにより左翼戦線からの排除を指導する。これに成功するや構造改革派の追い出し、続いてソ連派、次に中国派を排除する。この間いつしか野坂−宮顕体制は宮顕−野坂体制へと主客逆転し、続いて宮顕独裁体制へと収斂していくことになる。この後に起こったことは学生運動の一元的統制化と文化人・知識人の整風化であった。後は我が世の春で、社会党壊滅作戦、田中角栄壊滅闘争を経過してその他諸々で最後の仕事を終えた。

 宮顕指導の特徴は、「挑発に乗るな」が座右銘となることにある。党勢拡大と組織の温存が自己目的に追求され始め、大衆闘争はこれに従属して管理・調整されることになる。その様は、異常なまでに執拗である。 
(私論.私観) この頃の「宮顕神話」について

 こうして宮顕が党中央に登場してくる際に「宮顕神話」が決め手となっていたことが分かる。この「宮顕神話の心情」について、安東氏は「戦後日本共産党私記」の中で次のように明らかにしている。
 概要「私のこの確信−宮本崇拝は頑なまでに固かった。戦前の獄中12年に屈しなかった完全非転向−宮本は徳田、志賀と違って予審調書にも完全黙秘で押し通した唯一の指導者であると教えられてきた。戦後の徳田、伊藤律、志田重男らが支配した党内にあっても不遇に堪えて信念を変えず、国際派の内部においても志賀や春日庄次郎らの無原則的傾向と闘い、51年のコミンフォルムの国際派断罪にも坊主懺悔を排して歴史の審判を確信している指導者、これが東大時代に吹き込まれた宮本崇拝であり、抱き続けていた宮本像であった」。

 この「宮顕神話」の虚構は、れんだいこが目下解明しているところであるが、あまりにも遅すぎた観がある。
(私論.私観) 袴田の登用について
 この時袴田も7名の幹部会員の一人に選出されている。ところが、この時期袴田はソ連に滞在の身であり、宮顕が片腕懐刀として引き上げたことが分かる。袴田が帰国するのは1957(昭和32年)の暮れであり、以降翌1958(昭和33年)7月の第7回党大会で幹部会員、書記局員。1961(昭和36年)の第8回党大会で党内bQの地位を確立する。

(私論.私観) 「六全協」をどう見るか 】
 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」では次のように分析されている。
 「こうして労働者人民からすっかり浮き上がり、孤立を深めていく中で、54年に入り所感派が軍事方針を転換し始めたことから両派の間に『統一』の気運が生まれ、55年7月の第六回全国協議会で『党の統一』が回復されることになった。

 しかし、この『統一』も社会党の『統一』に劣らず両派の無原則な妥協による『手打ち式』に他ならなかった。武力方針を除き『五一年綱領』は『完全に正しい』と国際派も認め、宮本顕治は六全協直後のアカハタで『この(六全協の)決議にある日本の革命運動の基本方針はあの輝かしい(51年)新綱領が示した道がまったく正しかったことを証明しています』と書き立てた。そして、この立場は宮本の手になる六一年綱領へと引き継がれていくのである」。

 この分析に対しても、れんだいこは激しく抗議したい。気づくことは、「六全協」は「2.1ゼネスト」問題と並んで戦後直後の党運動の白眉な考究対象である。それをこのような簡略且つ中心課題を見据えない分析なぞありえてよかろうか。ここには、宮顕グーループによる党中央の簒奪というエポック性がでてこないばかりか、単なる「社会党の『統一』に劣らず、両派の無原則な妥協による『手打ち式』に他ならなかった」といい為している。仮に「党合同」に妥当性があったとしてもそれは現象面であり、地下水脈の真実はまさに宮顕グループによる党中央簒奪であったという観点に立たない限りその後の動きが分析できない。

 そういう意味では、概要「徳球時代の基本方針が『宮本の手になる六一年綱領へと引き継がれていくのである』」分析も平板過ぎる。宮顕は、自身としては基本路線を産み出す能力を持たない指導者である。党中央の簒奪こそが使命であり、そういう意味において基本方針はさほど重視されておらず表向き継承された。但し、この路線上にあった「左」的なるものを順次換骨奪胎していくことになった。党内反対派の駆逐と基本路線の右傾化が以降の流れとなった。これが正史であって、失礼ながら「日本社会主義運動史」では全くぼかされてしまっている。その他の分析では簡潔要領よくまとめているのに肝心な事項におけるこの軽さはどうしたことだろう、疑問としたい。

 田川和夫氏の「日本共産党史」は次のように記している。

 「共産党は、50年のコミンフォルム批判以来、それまでの右翼戦術から一転して極左戦術に走ったが、その破綻と共に再び右へ揺れ戻った。六全協はその右翼化を合理化し、徹底的に推し進めた。革命的政治方針のかわりに、大衆の『思想的獲得』、それによる統一戦線の結成が説教された」。

 この観点もほぼ社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」と通底している。六全協以降の宮顕グループの特異な右派性を指摘しない限り的を得ないであろう。

【宮顕と志田の蜜月ぶり】
 亀山の「二重帳簿」の209ページは次のような証言を遺している。
 概要「六全協直後、病気療養中の春日庄次郎のところへ、志田と宮本がそろって見舞いに来て、宮本が『この頃は、志田と二人で仲良くやってね、将棋をさしたりして、やっているんだ』と春日が言っていた。春日は次のように言った。『僕は”それはおかしい” 宮本はかつて志田はスパイみたいなやつだと言っていた。それが一緒に将棋なんかやって仲良くするのは、話が全くわからない。・・・おれは仲良くしない』」。 
(私論.私観) 「宮顕と志田の蜜月ぶり」について
 この証言は、「宮顕と志田の蜜月ぶり」を知るところに意義がある。春日の「おれは仲良くしない」には何の意味もなかろう。

【道徳的説教の始まり】
 宮顕の党中央登壇と共に道学者風の物言いが始まる。六全共決議では次のように云われている。
 「我が党員の中には、党内外の生活において、民主主義的気風と常識の点で、著しく欠けたところのものが珍しくない」、「党員は共産主義者としての修業につとめ自覚と品性をたかめるように努めなければならない」。
(私論.私観) 「道徳的説教の始まり」について
 この物言いは宮顕のそれである。

【55年「六全協総括」当時の党の方針の特質と要点】
 ○〈本党大会までの執行部評価〉について

 「六全協」により、「これまで存在していた党の混乱と不統一を克服し、党の政治的.組織的統一と団結の基礎」が築かれることになった。「スパイ伊藤律を放逐し、党の純化に着手した」。徳球執行部のセクト主義が批判された。その指導下の党活動が「極左冒険主義」とみなされてばっさり切り捨てられた。次のように述べている。
 概要「民族解放運動のある程度のたかまりや、労働者のストライキおよび農民闘争の増大という事実から、党は国内に革命情勢が近づいていると評価した」、「その結果、党はそのおもな力と注意を誤った方向へ向けた」。
 「党は戦術上でいくつかの大きな誤りを犯した」、「誤りのうちもっとも大きなものは極左冒険主義である」、「党中央はすでにこの一月、極左冒険主義的な戦術と闘争形態からはっきり手を切る決意を明らかにした」。
 「党は、1954年以来、情勢に対する誤った評価をしだいに克服し」、「民主勢力を統一する地道な活動にむかって一歩をふみだした」、「今日の日本には、まだ切迫した革命情勢のないことを確認し、広範な大衆を共産党の側に組織するために、民族解放民主統一戦線をきずきあげるために、ますます深く大衆の中へ入り、ねばり強い不屈のたたかいをつづけることをあらためて強調する」。

 @〈世界情勢に対する認識〉について 
 A〈国内情勢に対する認識〉について

  「六全協」声明において認識された情勢分析は次のようなものであった。国家の独立をめぐって引き続き「従属」規定が採用された。 
 「単独講和条約の締結と占領体制の形式的な廃止は日本民族の独立を回復しなかった。我が国はあいかわらずアメリカ軍の占領下にある」、「日本は発達した資本主義国であるが、アメリカ一国に占領され独立を失っている従属国である」 、「( アメリカ帝国主義者は、)我が国を再軍備させ、日本人をかれらの傭い兵とし」、「わが民族を侵略的な原子戦争の犠牲にしようとしている」。
(私論.私観) 「国家主権の『従属』規定」について
 この認識がその後の党の闘争戦略の骨格を形成したという意味で、今日においても罪深いものとなっている。
 B〈党の革命戦略〉について

 C〈党の革命戦術〉について

 「党の任務は、労農同盟をかため、これを基礎にすべての愛国的進歩勢力を民族解放民主統一戦線に結集することである。強大な民族民主統一戦線をつくるには、正しく強大な党の建設が必要であり、また党の強大な発展には、民族民主統一戦線を大きく発展させることが必要である」。

 D〈党の具体的な運動方向〉について  

 E〈党の大衆闘争指導理論〉について

 労働組合運動ないし農民運動における極左冒険主義と左翼セクト主義を戒め、ますますねばり強い活動を続けるよう指示するというかって通ってきた右翼日和見主義の路線を敷いた。

 「これまで党内に存在した知識人に対する偏狭な考え方をすて、独立と平和と民主のための運動の中で、知識人の果たす役割を正しく評価しその活動を積極的に援助しなければならない」。

 社会党や労農等を反動支配と対決する民主的政党と認め、三党の統一行動による民族解放民主統一戦線の結成を打ち出した。従来の農民運動における誤りや労働組合に対する赤色労働組合主義の間違いを自己批判し、広く大衆組織の統一の為に努力することを誓った。

 「青年運動は現在新しい成長のきざしをしめしている。党は青年運動のなかにめばえたあらたな気運を認め、正しい指導をおこなわなければならない。」  「宣伝扇動はインテリゲンチア風にではなく、大衆の言葉で、国民のいろいろな層によくわかるようにしておこなう必要がある。」、「党が大衆と話し合う言葉及び党の文章を改善する必要がある」。

 F〈党の機関運営及び組織論〉について

 「六全協」は過去の闘争方針、戦略・戦術の見直しの切開に向かうのではなく、「党員は共産主義者としての修業につとめ自覚と品性を高めるように努めなければならない」として、専ら党員の精神修養問題にすりかえていった。「一億総懺悔」的な責任回避により糊塗したということになる。

  対スパイ対策として「党の審査、点検は慎重に行い、まず上級機関の団結をかため、全党の思想的武装の強化、組織的統一の強化と結合しておこなわなければならない。全党に対する審査、点検の方法は、高い原則生と慎重な態度をもって上級機関から順次行うべきである」、「党規約の軽視は党内に官僚主義とセクト主義を生んだ」という認識から、「党規約を厳格に守り、党規約に定められている民主的中央集権制の組織原則をつねにつらぬきとおさなければならない」とされた。

 「批判と自己批判を無原則な分派闘争や空虚なざんげにかえてはならない。党の利益は党員すべての個人的な利益のうえにある」、「わが党内には、これまで集団指導の作風がかけていた。しかも日本に残っている半封建的な思想が党内に持ち込まれ、個人中心的な指導と結びついて、家父長的な指導となる傾向があった。党はこのような傾向と戦い、個人中心的な指導方法を断固としてとりのぞかねばならない。そして集団指導の原則を厳格に実施し、指導的中心が固く団結しなければならない。個人の権威の上に立つ指導があってはならない」。

 G〈左翼陣営内における本流意識〉について

 H〈この時期の青年戦線.学生運動〉について

  党の極左冒険主義批判の影響を受け、右翼日和見主義となり、民青団は清算主義に陥った。マルクス.レーニン主義を学ぶことさえ放棄した。解体寸前の状態に落ち込んだ。  全学連第7回中央委員会で極左傾向を批判した。

 I〈大会後の動き〉   

 「朝鮮籍の党員の分離や後の帰国運動も取引の一環でしょう」。
(私論.私観) 宮顕理論のマヌーバー性について
 思えば、宮顕一派は奇怪千万な履歴を持つ。国際主義的な見地から徳球の自主路線を批判し続けていたにも関わらず、徳球の最大の功績である自主独立路線の法灯を受け継いでいるから。ここから見えてくるものは、宮顕グループにとって理論はそれ自身としての意味を持たず権力闘争の道具にしか過ぎないのではないかという見地であろう。

【宮顕が「常任幹部会」の責任者に就任し中心的指導権力を獲得する】
 8.2日、「常任幹部会」が「中央委員会」の人事を決定、「常任幹部会」の責任者に宮顕が治まった。以降党は、「中央委員会」自体が飾りになり「常任幹部会」主導により運営されていくことになる。その中心的指導権力を宮顕が掌握していくことになる。

【潜行幹部の野坂.志田.紺野の3幹部が公然化する】
 8.11日、「六全協記念政策発表大演説会」が東京の日本青年会館で開かれた。潜行在京幹部出席。野坂.志田.紺野の3幹部が、新調の揃いの背広で地上に姿を現わす。壇上には徳田球一の写真が飾られてあったが、その徳球の大肖像の中央に宮顕が立ち、その前に志田、野坂、紺野がイスに座っているという構図の写真が残されている。政権簒奪が為されたことが分かる。
 
 この時、宮顕が演説会を取り仕切り次のように述べている。
 概要「この決議にある日本の革命運動の基本方針とはあの輝かしい新綱領が示した道が全く正しかったことを証明しています。この綱領は、今回の決議の導きの星であります。独立した平和な民主的な日本を実現する、これが我が党が民族解放民主革命を通じて実現する基本目標であります」(しまね・きよし「もう一つの日本共産党」P115)。
 「六全協決議は、党中央の自己批判として、まず党の団結の問題を挙げています。第二の問題は今年の1.1方針以来云われている極左冒険主義の問題であります。第三の問題は党がセクト主義、左翼的セクト主義の誤りをしばしば犯したということであります」(宮顕「第6回全国協議会の基本的意義」アカハタ55.8.18〜22日連載)。
(私論.私観) 宮顕の「第6回全国協議会の基本的意義」のマヌーバー性について
 つまり、右翼的見地から且つマヌーバー的に「50年問題」の総括を為していることになる。思えば、宮顕一派は奇怪千万な履歴を持つ。国際主義的な見地から徳球の自主路線を批判し続けていたにも関わらず、徳球の最大の功績である自主独立路線の法灯を受け継いでいるから。ここから見えてくるものは、宮顕グループにとって理論はそれ自身としての意味を持たず権力闘争の道具にしか過ぎないのではないかという見地であろう。

 しかし、宮顕の「新綱領が示した道が全く正しかった」とする見地はやがて大きく修正されていくことになる。「日本共産党の50年」では次のように云われている。「一連の誤りの根源であった51年綱領について、その『全ての規定が正しい』ことを再確認し、51年綱領の承認を党の統一の基礎にするという誤まった立場を取るなど、多くの重大な問題点を含んでいた。 

 野坂は記者会見で、「ずっと日本にいたよ。外国になんか逃げやせんよ。まことに都合のいい今夜の大会があったから出てきたんだ。団規令は、もう無効になったんだ。もう地下になんか、もぐらないよ」と胸を張って質問に答えた(鈴木卓郎「共産党取材30年」)とある。この時、警視庁と共産党弁護士の間で、「三人は帰る時玄関前で逮捕する。但し三人に手錠はかけない」と話がまとまり、事実そうなったとも書かれている。「野坂らは団体等規制令違反の形式的な取り調べを受けた後、8.18日に釈放された」(しまね・きよし「もう一つの日本共産党」P115)とある。
(私論.私観) 「潜行幹部の公然化とお咎めなし」について
 警察が、徳球系とはうってかわって野坂・宮顕系とはじゃれあってる様が透けて見えてくる。こういうのを「出来レース」というのだろう。こういう現象も、宮顕が党中央に潜入以来増えてくることになる。

 8.17日、「第2回中総」。第一書記野坂、書記局員3名、専門部長を決定。 8月以降各地で党会議を開き、除名者の復帰、地方幹部の交代、主流派の責任追及などを進める。

【野坂談話】
 8.18日、アカハタに「野坂同志談 釈放当夜本部であいさつ」なる次のような記事が掲載されている。

 「私たちは5年間たって、どの党にもない二つのものを持った。一つは正しい戦略、あの新しい綱領、今ひとつは、この戦略にそってそれを実行するための戦術、六全協の決議である。この正しい戦略と戦術、これは正宗の名刀を二つ持ったようなものだ」。

 野坂は前衛55.10月号紙上で、「六全協の主要な問題」というタイトルで次のように語っている。

 「我が党と労働者階級は、正しい戦略(新綱領)と正しい戦術(六全協の決議)とをもっている。これらは我が党と労働者階級が、革命を勝利に導くための最もすぐれた武器である。全ての共産主義者と革命的労働者の緊急の任務は、この二つの武器の性能を正しく、徹底的に理解し、把握し、そして、これらを情勢の変化に応じて正しく、巧みに使いこなすことに熟達することである」。
(私論.私観) 野坂の「六全協の主要な問題」のイカサマ話法について
 この論は野坂らしい詭弁述で、非常に巧妙に徳球時代の指導者の一人としての責任を回避し免責し、且つ六全協後も指導者として立つ自身の立場を鉄面皮に擁護し、更に今後も党員一般が党中央に拝跪するよう要請している点で芸術的なイカサマ話法であろう。

【 「六全協」の衝撃と諸影響】
 主流派党員は、大なり小なり「六全協」の方向転換に衝撃を受けうちのめされた。今まで絶対に正しいとして、何の疑念を無く受け入れてきた指導方針や上からの通達が、突然そうでなかったといわれたのだから、仰天し混乱してしまった。彼らの内では、深刻な挫折感から戦列を離れていく者から、新方針にそのまま乗り換えていく者まで様々であった。暫くの間「六全協ショック」、「六全協ノイローゼ」、「六全協ボケ」と呼ばれる状態が続いた。

 この時の気分が次のように伝えられている。
 「六全協後、批判がこのような実践的な焦点(極左冒険主義と火炎瓶闘争の問題、山村工作隊や山林解放闘争の問題、総点検運動や査問の問題等々−私の注)に徹底的に集中されるように指導されず、全党的に『失敗から学ぶ』体制が組織的に組まれなかった結果、批判は個人的問題に集中されて、いたずらに多くの党員に自己の品性の低さと理論的無能力とを嘆かせることとなり、苦難な時期を常任活動家や工作隊員として活動してきた若い同志達に『30にして道を失った』ことを感じさせることとなったのである」(山辺健太郎「戦後日本の共産主義運動」.「中央公論」63.12月号)。

 田川和夫氏の「日本共産党史」には次のように記されている。
 「六全協に至るまで、共産党は、一つの神話によって支配されていた。それは、党の本来的革命性、本来的無謬性、そして。マルクス・レーニン主義の思想と理論を最高度に身につけた、中央委員会の絶対的権威についての神話であった。51年綱領は文字どおり神格化され、一切の批評の許されなかったことは、戦前の勅語と全く同じであった。この綱領については、『信ずるために理解することを求めるのではなくて、理解するために私は信ずる』(アンセルムス)という、中世的原則が適用された。だが、1955年の夏突然に、この一切の神学的権威は、音を立てて崩れ去った」。

 「小山党史」は次のように記している。(186〜187ページ)
 概略「六全協の方向転換を、もっとも歓喜してうけいれたのは、旧反対派の党員たちだった。屈辱的な自己批判を強要されて無条件にそれをうけいれ、ひたすら主流派指導部の意にそおうとつとめてきたものから、非公然に分派的活動をつづけていたものまで反対派のありかたはいろいろだったが、かれらは、大なり小なりこれまでの自分らの主張がみとめられたものとみなした。みぎと対照的なのは、地下指導部の統制下にうごいてきた主流派の党員たちであった。いわゆる主流派党員たちは、大なり小なり六全協の方向転換に衝げきされうちのめされた。かれらのうちでは、深刻な挫折感から戦列をはなれていくものから、度しがたい権威主義から新方針にそのままのりかえていくものまでいろいろだった。後者の分子は、自己批判も新方針の意義にたいする評価も、これを最小限度の線にひきよせてしまった。そこから過去のあやまちにたいする責任のとりかたや区別については、きわめて自覚がうすかった」。

 つまり、徳球―伊藤律系、徳球―志田系が打ちのめされたのに対し、旧国際派系はこぞって「六全協」の方向転換を歓喜して受け入れたということになる。彼らは屈辱的な自己批判を強要されていた事態から解放され、大なり小なりこれまでの自分たちの見解が受け入れられたと理解した。その他レッドパージや分派闘争の過程で自然に組織からはなれて「野放し状態」になった何万もの旧党員や、新参党員が歓迎した。

【 「下からの突き上げ」と宮顕の策略】
 六全協後、一時的にではあるが自由な発言が許される雰囲気が党内に醸成され、下部党員による活発な討議が展開されたが、それは次第に党の誤謬に対する責任の取り方という組織論における基本的課題に収斂していった。それは具体的には、地下指導部において非公然面を指導した幹部に向けられた責任追及となっていった」(しまね・きよし「もう一つの日本共産党」P121)が、野坂は「指導的地位を去ることのみが責任を取る唯一の方法ではない」と調法な言い回しで居直り、残された旧主流派に向けて糾弾が組織され、政治主義的に利用されていった。

 8.23日よりアカハタに「六全協決議の理解と実践のために」が連載され、一般党員の投書が連日掲載された。これは政治責任追及のターゲットを徳球系及びその一渓流である志田系を痛打することに利用された。つまり非常に政治主義的に活用されたことになる。

 実権を握った宮顕の「党内の保守、反動、官僚主義の総元締めになった」変調な動きについて、亀山は「戦後日本共産党の二重帳簿」の中で、次のように明らかにしている。

 概要「宮本は、六全協以前の党活動の大きな誤りに直接の責任を負う立場に無かったことを意識して、この頃巻き起こった『下部からの突き上げ』を、巧妙且つ自派勢力に都合よく恣意的に利用した。『過去の誤りに対して打撃主義は正しくない』と云いながら、打撃の使い分けをした」。

 これを具体的に見ると次のような対応の違いを見せた。伊藤律−椎野系に対しては「下部からの突き上げ」を放任し、促進させた。志田系に対してはこの頃は極力批判を抑圧し、以下で見るようにタイミングを計って一挙に叩くことになった。野坂と西沢隆二に対する批判に対しては、強引に抑制させる方針をとった。旧所感派系からの国際派の分派活動批判に対しては、「後ろ向きの態度」、「自由主義的行き過ぎ」、「打撃主義的誤り」などと使い分けながら宮顕派に向かう流れを押さえつつ、志賀系、春日(庄)系、野田弥三郎系に対する批判は助長した。

 この経過に対して、亀山は「代々木は歴史を偽造する」の中で、次のように指摘している。

 「このような悪質極まる陰謀によって宮本は党内ヘゲモニーを握ったわけであるが、党内には志田につながる軍事委員会のメンバーや、第二次総点検をやった人防メンバーが沢山いるから、宮本はその志田派との合体、それらのメンバーを全て自分の傘下に収めることで党内第一の地位を確保したわけである。こういう一連の長期的陰謀に−その全体像は判らないが、個々の現れに−抵抗した人はすべて党からはじきだされたと見ていい」。

 こうした宮顕の動きに対してこれを変調として抗議していったグループもあったようである。まず椎野は、「六全協は全く清算主義的決議である」、「これは六全協以前の全ての党活動、50年初めのコミンフォルム批判以後の党をすべて否定したものである」と批判している。徳球−伊藤律−椎野派としてみれば、当然の観点であった。次に、中村丈夫が「六全協は戦後党の挫折の過程であり、その仕上げである」、「六全協後の党は革命党の残骸でしかない」と批判している。金沢幸雄は、「宮本顕治、裏切りの34年」で、「六全協は党を敵に売り渡す売国の会議で、この決議は徹頭徹尾、修正主義によって貫かれている」、「六全協によって、四全協、五全協以来の革命的な原則は廃棄され、党は修正主義者宮本によって指導権を奪われた」と批判している。
(私論.私見) 六全協直後の党中央批判について
 亀山氏は上述の見解を批判的に紹介しているが、私は肯定的に見る。徳球系運動は数々の批判されるべきものもあったであろうが、この系譜上で総括せねば党運動の教訓として生かされないからであると考える。全く異質且つ胡散臭い宮顕系論理で席捲される事態だけは避けねばならなかった。ところが、いずれ駆逐されていく自ら等の運命も分からず、志田、春日(庄)、亀山、志賀、中西功、神山、中野派らはこの時宮顕派の幻惑に騙されてしまった、と考える。








(私論.私見)