【1953年当時の主なできごと】 |
徳田書記長死去す。党中央伊藤派から志田派へ実権移動す。 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
2002.10.20日 れんだいこ拝 |
1.20 | アイゼンハワーが第34代大統領就任。アイゼンハワーは、第二次世界大戦の連合軍最高司令官であり、初代の北大西洋条約機構の軍最高司令官をも務めていた。反共主義者として名高かったジョン.フォスター.ダレスが国務長官に就任した。弟アレン.ダレスはCIA長官であった。 |
2.1 | NHKテレビの本放送開始→テレビ時代の幕開け。 |
2.28 | 【吉田首相のバカヤロー発言】吉田首相、衆議院予算委員会で、質問者は社会党右派のの西村栄一。主として国際情勢に関しての質疑の最中、西村栄一議員の「首相は国際情勢は好転しているといったが、その根拠は何か」との質問に、「−−米英首脳もいっている」と答える→西村さらに「−−日本の総理大臣に聞いている。翻訳を承っているのではない」と追及→吉田「−−日本の総理大臣として御答弁いたしたいのであります−−」→西村「総理大臣は興奮しない方がよろしい。別に興奮する必要はないじゃないか」。吉田が「無礼なことを言うな」とどなり、西村が「質問しているのに何が無礼だ−−日本の総理大臣として答弁しなさいということが何が無礼だ」とつめより、遂に「バカヤロー」となったと伝えられている。西村「何がばかやろうだ。ばかやろうとは何事か−−取消なさい−−」→吉田「私の言葉は不穏当でありましたから、はっきり取り消します」(『衆議院速記録』より)野党はこぞって懲罰会議を出し、衆議院本会議で国会史上はじめて首相の懲罰動議可決→野党内閣不信任案提出、これがとうとう可決されるという事態になった。 |
3.2 | 衆議院本会議にて野党提出の吉田首相懲罰動議を可決(自由党広川弘禅派が欠席したので可決)。 |
3.5 | スターリン没。突如スターリンの死去発表される。新書記長マレンコフの元に集団指導体制が生まれた。神山は、「同志スターリンの死去に際して一つの提案」で「スターリン大赦」による未復帰者の復党の申し出を党中央に提出。株価大暴落。 |
3.14 | 吉田内閣不信任案可決、吉田首相は解散権行使し衆議院解散=「バカヤロー解散」。 |
3.14 | 三木武吉ら院内団体分党派自由党を結成。 |
3.18 | 分党派自由党結成(鳩山一郎総裁)。 |
4.5 | 日本婦人団体連合会結成婦団連、会長平塚らいてう |
4.19 | 第26回衆議院総選挙。(自由199名、改進76名、左社72名、右社66名、分自35名、労農5名、共産1名、諸派1名、無所属11名当選)いわゆるバカヤロー解散選挙。左派社会党躍進=「拒否された再軍備」。 |
4.24 | 第3回参議院選挙。党は全国区29万票、地方区26万票、全員落選当選者無し。自由吉田46(16,30)、改進党8(3.5)、右社会10(3.7)、左18(8.10)、緑風16(8.8)、無所属3名当選。 |
4.27 | アカハタ4ページ建てで発行。 |
4月下旬 | 【第23回中央委員会】秘密裏に「第23回中央委員会」を開いた。国内の地下指導部は伊藤派と志田派の二大系統で運営されてきたが、この間主に伊藤律派と志田派の対立が発生していた。北京での徳田の回復不能の病状と伊藤律査問情報が入ることに拠り、伊藤派と志田派の後継争い.主導権争いが始まり、志田派が党内主導権を握ることになった。こうして地下指導部の人事移動が行われ、伊藤律派が機関からおろされていくことになった。 |
5.21 | 第5次吉田内閣が成立。池田は自由党政調会長、佐藤は幹事長として党務に専念。(少数与党内閣) |
合法指導部の方針混乱 基地反対闘争。内灘軍事基地反対闘争。 | |
6.7 | 全日本民主医療機関連合会民医連結成 |
6月以降第一次総点検運動を展開し、志田は指導部は伊藤はを追求する。地下の査問拡大する。 党軍事委員会は引き続き武装闘争の強化を指示した。 党の指導部は、非公然体制や極左冒険主義を思い切って清算しようとはしなかった。 | |
7.10 | ベリヤ除名、のち銃殺。 |
7.27 | 朝鮮休戦協定調印。 |
7.27 | 野坂の命で藤井冠次が伊藤律処分声明の原文を西沢から口伝され、帰国。 |
8月 | ソ連の新指導部が、日本との正常化の意義を表明。 |
8.2 | ブカレストでの世界青年学生平和友好祭に日本学生代表参加。 |
8.5 | スト規制法成立 |
8−11月.三井鉱山首切り反対闘争 | |
9.15 | 伊藤律除名公告が突如為された。「伊藤律処分に関する日本共産党中央委員会声明」を発表し、伊藤律を裏切り者=特高のスパイと断定した上で除名処分としていた。2年後の「六全協」で再確認されることになる。 |
9.21 | アカハタは「伊藤律処分に関する声明」を載せた。「個々の党組織を敵に売り渡すスパイの役割」が指弾された。 |
9.27 | 保安隊から自衛隊に。 |
10.14 | 徳田書記長、亡命先北京で客死(59才)。 |
10月 | 第24回中央委員会開催。中間綱領決定。 |
10.2 | −30日池田.ロバートソン会談、MSAに基づく対日援助とひきかえに保安隊の増強。教育の軍国主義かを取り決め。 |
11.3 | 11.3日衆院予算委員会答弁で、吉田首相「戦力なき軍隊」保持宣言。吉田首相衆議院予算委員会で「自衛隊は憲法内での軍隊。しかし戦力ではない(戦力なき軍隊)」と答弁→「○○なき○○」は、この年の流行語。 |
11.10 | 分党派自由党の鳩山等自由党に復党、三木武吉らは日本自由党を結成 |
12.20 | 野坂と西沢が「徳田書記長が亡くなった」ことを伊藤律に告げに監獄を訪ねている。「全身の力が抜けるように落胆した」とある。この時「伊藤律処分声明」が掲載されたアカハタが渡された。 |
【アイゼンハワーが米国第34代大統領に就任】 |
1.20日、アイゼンハワーが米国第34代大統領に就任。アイゼンハワーは、第二次世界大戦の連合軍最高司令官であり、初代の北大西洋条約機構の軍最高司令官をも務めていた。反共主義者として名高かったジョン.フォスター.ダレスが国務長官に就任した。弟アレン.ダレスはCIA長官であった。 |
【野坂が伊藤律の幽閉先を訪れ、スパイ自白を強要】 |
この頃、幽閉された伊藤律の査問に西沢と野坂がたびたび訪れて、いわゆる伊藤律系の長谷川浩、小松雄一郎、山崎早市、安藤次郎、平館利雄の5名の名をあげ、スパイ活動をやったとの具体的な供述を為すよう迫っている。拒否する伊藤律に対して、野坂は、「日本では既に彼等がスパイだということを認めているのに、君が否定しても罪が重くなるだけだ。真剣に関係を書け」と命じている。 |
![]() |
今日、野坂が戦前からのスパイであることが判明しているが、とすればこれはどういうことになるのだろう。 |
2.4日、漁船第1大邦丸が韓国警備艇により捕獲され、機関長射殺される。当時の大統領李は、「李ライン内の出漁は敵対行動と見る」と声明。
2.16日、小岩派出所侵入事件。
2.16日、ソ連機2機北海道領空侵犯。米軍機により撃墜。
2.19日、バス車掌自殺事件発生。共産党員I子は恋仲の運転手を党活動に引き込んだが後悔、党活動にも情熱を失い批判を受けたことなどから睡眠薬自殺した。
【「バカヤロー解散」】 | ||||||||||||||||||||||
2.28日、衆議院予算委員会で、質問者は右派社会党の西村栄一氏。主として国際情勢に関しての質疑の最中、吉田が「無礼なことを言うな」とどなり、西村が「何が無礼だ」とつめより、遂に「バカヤロー」となったと伝えられている。その模様を再現する。
答弁を終え首相席に戻りつつ吉田は売り言葉に買い言葉で「バカヤロー」とつぶやいた。この言葉をマイクが拾った。西村「国民の代表をつかまえて何がばかやろうだ。ばかやろうとは何事だ。取り消しなさい」。この後、吉田首相が、「私の言葉は不穏当でありましたから、はっきり取り消します」と謝罪し、西村栄一もそれを了承した。(「衆議院速記録」より)。(そのため議事録にも載っていない) |
3.3日、警察爆破の陰謀発覚として共産党員3人が検挙される。警察は岡谷市署川岸村の旧防空壕に隠してあったダイナマイト50本、導火線10mなどを押収した。 |
【スターリン死去】 | |||
3.5日、スターリンが謀殺され、突如スターリンの死去が発表された。新書記長マレンコフの元に集団指導体制が生まれた。スターリン死去の前後、チェコスロバキアのゴットヴァルト党首の死亡、スランスキー党書記長がスパイとして処刑されている。前南朝鮮労働党書記長で、北へ移り金日成政府の副首相格の外交部長であった朴憲永らが、日本当局及びアメリカのスパイであったとして処刑されている。ソ連から北朝鮮に派遣されていた政治顧問2名も処刑されている。ソ連でも内相ベリアが突然これもスパイとして処刑された。いずれも「帝国主義の手先」、「裏切り者」のレッテルによる問答無用の処刑であった。 神山は、「同志スターリンの死去に際して一つの提案」で「スターリン大赦」による未復帰者の復党の申し出を党中央に提出。 3.9日付けアカハタは編集局名でタ一面に「スターリンの遺志受け継がん」、「平和独立の大業」、「日本国民は闘い進む」の大見出しで、次のように弔辞している。
3.15日付けアカハタは日本共産党中央指導部声明として次の一文を発表している。
3.6日、スターリンの死に当たって、共産党員にして北海道・室蘭の日本製鋼所室蘭製作所労働組合の若き指導者が書いた日記はこう記している。(「人生学院2投稿bX96」の一夫氏の2009.4.30日付け投稿「日本共産党のスターリン崇拝(「左翼運動の歴史」第1章) 」より)
|
【この頃の北京機関の様子】 | |
この頃、北京機関で伊藤律が権限を奪われつつあったことが次のように伝えられている。元NHK職員で北京機関詰めしていた藤井冠次氏の回顧録で次のように触れられている。
|
【第26回衆議院総選挙】 |
吉田辞任の目論みが外れた三木らは自由党を脱党して日本自由党(鳩山自由党・鳩自党)を結成し闘った。かくして、自由党は吉田派と鳩山に分裂した。吉田首相は、中央突破を図った。 4.19日、第26回衆議院総選挙総選挙。選挙結果は、「自由199名、改進76名、左社72名、右社66名、分自35名、労農5名、共産1名、諸派1名、無所属11名当選」。吉田首相率いる自由党は分裂して、過半数を大きく割る23名減の199議席となった。但し、引き続き第一党を確保した。鳩山自由党も振るわず35名(←37)名、重光改進党(民主党と協同党が合同)も振るわず76(←89)議席。 左派社会党は72議席(←56)に躍進し、右派社会党もやや伸び66議席(←60)となった。社会党138名の進出。労農党が4から5へ、共産党も1議席を復活させた。無所属11。ちなみに、社会党はこの時をピークに、以降長期低落傾向に陥ることになる。ここに拮抗から左派優位の構図が生まれた。左派社会党躍進=「拒否された再軍備」。 共産党は当選1名当選、大阪の川上貫一ただ一人であった。衆議院65万5989票(1.89パーセント)過去の選挙戦での最低。 この時社会党左右両派は、自派勢力の拡大目指して相競った。左派社会党は、鈴木茂三郎委員長を中心に、総評を足場にして勢力を増大させ、右派に勝った。太田薫(合化)、岩井章(国労)、宝樹文彦(全逓)、平垣美代司(日教組)ら民同左派の率いる総評と結び付き、選挙では資金的にも人的にも総評に丸抱えしてもらって勢力を拡大していった。右派社会党は、河上丈太郎を委員長に据え、総同盟、日農主体性右派、農民協同党などを結集していた。右派社会党は、西尾のテコ入れで、総評の急進組合主義に反発する海員、全繊や総同盟系の右派組合が集まって全労(全日本労働組合会議、同盟の前身)を結成、右社はこれを組織的な基盤とするに至った。選挙後、左派からの院内共闘の申し入れに応じた。指導権は左派が握った。 |
【第3回参議院選挙】 |
4.24日、第3回参議院選挙。党は全国区29万票、地方区26万票、全員落選当選者無し。自由吉田46(16,30)、改進党8(3.5)、右派社会10(3.7)、左派社会18(8.10),緑風16(8.8)。無所属3名当選。左派社会党は解散時31から40議席へ、右派社会党は31から26議席に減じた。ここに左派の右派に対する優位が確立することになった。共産党は全国区29万3855票1.01パーセント、地方区で26万4728票1.0パーセントで全員落選当選者無し。 |
4.27 | アカハタ4ページ建てで発行。 |
【第23回中央委員会】 |
4月下旬、秘密裏に「第23回中央委員会」を開いた。 徳球書記長が内地を離れてから、後を任された国内の地下指導部は伊藤派と志田派の二大系統で運営されてきたが、この両派間にも対立が発生していた。この間党幹部の官僚化と特権化に伴う退廃現象や派閥党争の激化を生んでいた。日共軍事委員会は引き続き武装闘争の強化を指示した。
党の指導部は、非公然体制や極左冒険主義を思い切って清算しようとはしなかった。しかし合法指導部の方針が混乱し、基地反対闘争にも取り組めなくなりつつあった。 北京での徳球の回復不能の病状と伊藤律査問情報が入ることにより、伊藤派と志田派の熾烈な後継争い、主導権争いが始まった。椎野が志田に与し、それに西沢.紺野らが同調するという構図になった。こうして志田派が党内主導権を握ることになった。こうして地下指導部の人事移動が行われ、伊藤律派が機関からおろされていくことになった。 |
【志田派による狂気の総点検運動を展開】 | ||||
志田派は、党の軍事方針や非公然体制を再検討する方向に向かわず、党内粛正に血道をあげて、地下指導部の独占と強化に邁進した。6月以降、第一次総点検運動を展開し、主として伊藤律派他に神山派の一掃に狂奔した。伊藤派の伊藤律、長谷川、保坂、小松、木村三郎らが徹底追求され、機関から放逐され自己批判を迫られていった。志田の組織論は、党の利益のために党内の有り様を考究するという観点は一切なく、自身が辿り付いた党指導部の地位を守るために、反対派を如何に淘汰するかにあった。地下の査問が拡大し、千数百人の犠牲者が出たと云われている。党軍事委員会は引き続き武装闘争の強化を指示した。
党の指導部は、非公然体制や極左冒険主義を思い切って清算しようとはしなかった。 この時の総点検運動の実態が暴露されている。
つまり、志田派指導部は、全国の専従党員、幹部を三色に識別し、赤(志田を積極的に支持する者)、桃色(志田系)、白(反志田系)に色分けし、白派の追い出しに向かった。統制委員会の岩本巌は志田の義弟であり、これとつるんで以降第三次総点検運動まで発展していった。その照準は主として伊藤派に向かった。 この総点検運動とは、表向きは、党内のスパイや腐敗的要素を取り除くという目的で各級機関を中心に機関とそれに所属する各党員について行い、個々の党員の弱点がどこにあるのか、その弱さが克服されたかどうかが(問題にされるはずだったのだが)、実際にこれがどう進められたかと言えば、当時の誤った方針を『オカシイ』と考えている党員が槍玉にあげられ、点検中、白に属する意見に対して少しでも『あいつはどうも変だ』というご注進があれば、これが極めて重要視され、その党員は長い間の待機、査問、何回かの自己批判書の提出の後、機関から追われていったのである」(「真相」56.9.15日号「志田重男はなぜ消えたか」)。 小山弘健は、「戦後日本共産党史」の中で、次のように記している。
袴田里見は、「私の戦後史」の中で次のように記している。
この時の様子として、水島毅「人物共産党史」には次のように記している。
|
||||
![]() |
||||
この時の総点検運動の地下で志田が宮顕と通じていたとするなら、総点検運動の性格が見えてくる。れんだいこは左様なものとして認識している。この頃志田は頻繁に料亭に繰り出している。後にこの時の様子が槍玉に挙げられるが、主として誰と談合していたのか肝心なことは漏洩されていない。しかるに一挙手一動作が的確に把握されている。 |
5.17日、舞鶴引き揚げ援護局不法監禁事件。第三次中共帰還の際、舞鶴で援護局女子職員をスパイだとして吊し上げ、軟禁した。後に日共党員国民救援会事務局長小松勝子と都立大教授在華同胞帰国協力会総務局長阿部行蔵を検挙。
【第5次吉田内閣】 |
5.20日、第5次吉田内閣が組閣される。5.21日、認証式を経て第5次吉田内閣が成立する(1954.12.10日まで続く)。少数与党内閣となった。第26回衆議院議員総選挙で自由党は第一党の座を確保したものの、過半数を34議席下回る199議席に終わった。しかし、吉田自由党は、鳩山自由党、改進党、右派社会党、左派社会党の野党4党派の足並みの乱れをたくみについて、大麻唯男ら改進党保守連携派を取り込み、内閣総理大臣指名投票で決選投票に持ち込み、吉田首班を実現させた。吉田は、重光葵改進党総裁と党首会談を持ち、改進党を閣外協力に傾斜させることに成功した。官房長官・福永健司、池田は自由党政調会長、佐藤は幹事長として党務に専念。 |
閣僚
|
【この頃の学生運動】 |
この頃の学生運動につき、「戦後学生運動第2期」に記す。 |
合法指導部の方針混乱 基地反対闘争。内灘軍事基地反対闘争。 |
6.7日、全日本民主医療機関連合会民医連結成。
7.6日、前年7月に火炎瓶を持って通行中の男子学生が爆発物取締罰則違反現行犯で逮捕されたが東京地裁にて火炎瓶は爆発物ではないとして無罪。広島、名古屋に続いて。広島の事件は前年4月29日安佐郡古市町巡査派出所に火炎瓶4本を投げ込んだ4人の朝鮮人が爆発物取締罰則に問われていたもの。
7.10日、ベリヤ除名、のち銃殺。
【総評第4回大会】 |
7月、総評第4回大会が開催され、従来の方針から一段と左派色を強めた運動方針案を採択した。これは高野事務局長グループの手によって推進された。社会党の「平和4原則」に加えて、「第三勢力論」、「平和勢力論」と云われるアメリカ帝国主義を戦争勢力として、中ソを平和勢力とみなし、その他先進国における民主主義的社会主義志向勢力、後進国における民族独立勢力を第三勢力と規定し、アメリカ帝国主義を中心とする戦争勢力た闘う方針を掲げることになった。 この新方針に対し、右派系の海員組合や全繊同盟は、総評の「極左的偏向」と非難し、次々と総評から脱退していくことになった。 |
【朝鮮戦争集結】 |
7.27日、休戦協定が板門店で調印された。3年1ヶ月続いた戦争が「和解無き休戦」となった。 |
7.27 | 野坂の命で藤井冠次が伊藤律処分声明の原文を西沢から口伝され、帰国。 |
8月、ソ連の新指導部が、日本との正常化の意義を表明。
8.2日、ブカレストでの世界青年学生平和友好祭に日本学生代表参加。
8.5日、スト規制法成立。
8.9日、保安庁巡視船が宗谷沖で。ソ連スパイ船を拿捕する。4人のソ連人を不法入国の疑いで慎重取り調べ。去る8月2日為替管理令違反での逮捕者関某は樺太のスパイ訓練所で訓練され密航してきた。今回の船は関を迎えに来たもの。6部の暗号解読書所持。
8−11月、三井鉱山首切り反対闘争。
8.23日、大阪日本出版販売会社労組員のリンチ事件の噂があり、手入れで警視庁150人の機動隊と労組員大乱闘、28人検挙。
【伊藤律除名】 | ||||
9月、藤井冠次は志田重男に会い、伊藤律処分声明を伝える。 9.15日、伊藤律除名公告が突如為された。「伊藤律処分に関する日本共産党中央委員会声明」を発表し、伊藤律を裏切り者=特高のスパイと断定した上で除名処分としていた。2年後の「六全協」で再確認されることになる。「職場放棄の極左的な挑発行為の扇動」という件りが記されていた。今日では野坂の暗躍で進行したことが確認されている。この時徳田書記長は回復見込みの無い病状を呈しており、知る由もなかった。国内の同志に対して、徳田も参加の上での査問結果であるかのように偽装されていた。この伊藤律の失脚で、宮本の党中央登壇の舞台が回ってくることになる。 9.21日、アカハタは「伊藤律処分に関する声明」を載せた。「個々の党組織を敵に売り渡すスパイの役割」が指弾された後、次のように断罪されている。
10.1日、伊藤律の妻きみの次のような絶縁声明がアカハタに掲載されている。この声明について、袴田里見は「聞くところによると、夫を採るか党をとるか、と査問された挙句に書かされたということだった」(「私の戦後史」)と伝えている。声明文は次の通り。
|
||||
![]() |
||||
この声明文は誰の手になるものであろうか。私には、宮顕特有の書き方であることが分かる。となると、この時点で、宮顕が事実上党中央の一角に潜り込んでいることになる。このことから、表見的には徳球−志田系執行部時代であるが、志田執行部はその誕生時点の早くより宮顕勢力との緊密な連動によって運営されていたのではないかと言う推論が成り立つことになる。それにしても、おのれの「単に個々の党組織を敵に売り渡すスパイの役割から、党の政策をブルジョア的に堕落させ、党内において派閥を形成して、党の組織の統一を混乱に導き、党を内部から破壊し、米日反動勢力に奉仕する」役目を、そのまま伊藤律に被せているその手法と論理に辟易せざるを得ない。 これが、中央委員.同書記局員.同政治局員.アカハタ主筆と異例の抜擢でたちまち最高指導部にのしあがり、徳球書記長に重用されて絶大な権力をふるった伊藤律の末路であった。これを宮顕系から見れば、「彼を重用した徳田の政治責任も、中央委員会の連帯責任も何ら問われなかった。伊藤律個人一切に責任を負わせる官僚主義特有の自己保身法が示されていた」とあり、なおも不満であるらしい。 この時点で、伊藤律を庇護していた徳球が既に政治権利を失っていたことが判明する。それを測るかのように欠席裁判の下でこういう処分がされている辺りも注目したい。 2010.11.26日再編集 れんだいこ拝 |
9.27 | 保安隊から自衛隊に。 |
【米韓相互防衛条約(アメリカ合衆国と大韓民国との間の相互防衛条約) 】 | |
10.1日、ワシントンDC で、「米韓相互防衛条約(アメリカ合衆国と大韓民国との間の相互防衛条約)」が締結されている。東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室の「日本政治・国際関係データベース」(http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19531001.T1J.html)を転載しておく。
|
【徳球死去と伊藤律幽閉】 | |
10.14日、亡命先北京で客死した(享年59歳)。これにともない相互批判、自己批判が公然化することとなった。 紺野らは中立的立場。 徳球という後ろ盾を失った伊藤律が幽閉されることになるが、その時の様子が次のように伝えられている。「もう一年も中連部に厄介をかけたし、今から別のところへ移ってもらう」の野坂の宣告と同時に鄭所長と公安職員が飛び込んできた。「律はある夜突然、一陣の風のごとき軍隊に拉致されて消えた」と伝えられているが、行く先は監獄であった。「これは日本共産党の委託によることで、中共としてはプロレタリア国際主義の義務なので、問題を日本共産党が解決するまで致し方ない」と因果を言い含められた、と後に伊藤自身が明らかにしている。 こうして伊藤律は、裁判も、刑の言い渡しもなく、異国の獄中に呻吟する運命となった。まだ40才になるかならないかの頃であった。以来27年間を幽閉され、80年9月奇跡的な生還を遂げることになる。この経過に党の責任がないなぞとなぜ云えようか。 日本向けの地下放送「自由日本放送」を担当していた藤井冠次(元NHK職員)の回顧によればこう書かれている。
|
10月、第24回中央委員会開催。中間綱領決定。 |
【吉田首相が「戦力なき軍隊論」を唱える】 |
11.3日、衆院予算委員会答弁で、吉田首相が「戦力なき軍隊」保持宣言。改進党幹事長松村謙三質疑「自衛隊は、外国軍と戦う任務を持つ以上、軍隊と考えるべきだ」、吉田「軍隊という定義にもよるが、いかにしても戦力を持つ軍隊にはいたさないつもりであります」、「自衛隊は憲法内での軍隊。しかし戦力ではない(戦力なき軍隊)」と答弁する。これにより「○○なき○○」は、この年の流行語となる。松村「戦力とは何か」、吉田「近代戦を遂行しうる力と解釈している。戦力を有するような軍隊を持つことは憲法の禁ずるところであり、増強した結果、憲法改正を必要とする場合もあり得る。だが、現在はそれを考えていない」。安全保障を米国に頼り、米軍駐留を認め、憲法は改正せず、事実上の再軍備をするという「軽武装、経済優先」路線が敷かれていった。社会.共産両党の反対は強く、保守の側からも「日本人の国防意識を非常にスポイルした」(中曽根元首相)という批判もある。 |
11.5日、高萩炭鉱所長宅爆破事件。
11.8日夜、東シナ海に20隻以上の中共怪船団が現れ、日本漁船に猛烈な機関銃撃。水産庁生産部長談「従来もしばしばあったことだが我々にはそうした危険を防ぐだけの力を持たないのでどうしようもない」。
11.11日、京都荒神橋事件。学生を含む800人が不法デモ。中立売署県警本部等に投石、窓ガラス破壊の乱暴狼藉。警官隊により鎮圧。警官7人学生4人が負傷。
11.12日、新潟県で講演内容が気にくわないと県教組(日教組)が文部常任専門員を吊し上げる事件発生。
11.12日、日鋼・赤羽争議事件。中立労組員第2組合員とピケを張って就業を阻む第1組合員との間で乱闘。就業希望者側の女性(21)ら7人に重軽傷。
11.12日、元東大助教授の研究室占領事件。共産党千葉県委員、日本平和擁護県委員常任理事の元東大助教授が研究室をアジトとして活動をしていたが、レッドパージ後にも居座り続けたところ、生産技術研究所の職員に殴打暴行を加えたとして逮捕された。
11.21日、共産党本部(アカハタ編集局)など19カ所全国一斉手入れ。
出入国管理令違反。ルーマニアのブカレストで開かれた「第4回世界青年学生平和友好祭」への不法出国容疑で16人の逮捕状を取った。容疑者が遁走したため、このとき1人も逮捕できなかった。
12.20日、野坂と西沢が「徳田書記長が亡くなった」ことを伊藤律に告げに監獄を訪ねている。「全身の力が抜けるように落胆した」とある。この時「伊藤律処分声明」が掲載されたアカハタが渡された。 |
【志田派が、第二次総点検運動を展開】 |
12月上旬、全国組織防衛会議を開き、第二次総点検運動が開始された。ここまで主として伊藤律派が次々に査問されていたが、引き続き神山派、反宮顕系國際派の連中約1200名が処分された。
この頃の推定党員数73.000名。 伊藤律系の幹部の一人であった小松雄一郎は、1953年末から監視状態に置かれ、翌年6月から約3ヶ月間査問を受けて、「自己批判書」を書かされた。その背後に西沢隆二の影が見える。既に言うまでもないが、西沢の後ろには宮顕の意向がある。もう一人の伊藤律系幹部で当時九州地方の責任者をしていた長谷川浩も、志田指導部から「通知」を受けている。この頃椎野も党活動から排除された。 |
![]() |
「スパイ査問」を口実にしたリンチ、テロが呵責なく行われ、軍事闘争参加の党員の悲惨さも重なり、この頃除名、脱党、自暴自棄党員による堕落生活、自殺者、精神病者が多数輩出し、後味の悪い後遺症を党員及び党組織に刻印していくことになった。 |
【志田と宮顕の関係について】 | |
増山太助氏は、「戦後期左翼人士群像」の中で、次のように注目すべきことを明らかにしている。
|
【統一グループとの和解】 |
この情勢に応えて野坂等北京にいた幹部が新方針を作成し、ソ連側の提案を受け、野坂等が討議し、第六回全国協議会の決議原案ができた。この頃志田重男が宮本顕治に会見を求めている。 |
![]() |
この考察は重要な割には全く考察されていない。私は、志田はかなり早い時機から宮顕との地下交渉が取り持たれていたと見る。伊藤律の排斥過程は、野坂−宮本−志田系の用意周到なコンビプレーで遂行されたのではなかったろうか。この時機に「この頃志田重男が宮本顕治に会見を求めている」とあるが、公然化したのがこの時機であると考えるべきではなかろうか。 |
【トラック部隊のその後】 |
トラック部隊の全貌は今も分からない。というより資料も含めて意図的に抹殺されている気がしてならない。一説によると西沢隆二が最高責任者であり、中小企業相手に大掛かりな知能犯的収奪行為を組織し、乗っ取りあるいは倒産させながら資金を稼いだ史実が残されている。 この資金は志田系に流れており、後に花柳界での遊行費問題として「お竹事件」の下地をつくっていくことになる。ちなみに、六全協後に「志田の神楽坂の料亭お竹放蕩事件」を伝えた雑誌「真相」(佐和慶太郎)記事の文中の、「記者・じゃぁ、随分来てたんだね。芸者・そう5年くらい前からよ。始めは月に一回か二回だったけど。記者・去年は随分来ていたな。久子・そうね。しよっ中来るようになったのは2年くらい前からね。−−−いつも来ると二、三日は居続けしてたわ」をその通りとすれば、志田は50.6月の地下潜行の割合早い時機から料亭お竹に通っていたことになる。この時誰と何を謀議していたのか、肝心のこの辺りは伏せられたまま、やがてこの事件が志田失脚に利用されていくことになる。 53.4月、太陽鋼管の踏み倒し倒産事件。太陽鋼管の踏み倒し倒産事件とは、トラック部隊所属の大江直一を社長とする太陽鋼管をつくり、いくつかの系列会社にトラック部隊所属の党員が乗り込み、融通手形を切りあい、拠点を増やしていった。53.10月に倒産し、関連した拠点企業も連鎖倒産したり傾いた事件のことを云う。資本金400万円、本社東京、営業所大阪.広島.札幌、尼崎製鋼の指定問屋、日本特殊鋼管代理店で、大江が社長兼営業部長、引揚者コミュニスト.グループの一員であった鈴木を営業次長に取り込み、事件を企画する。 54年、葛飾ガスの金銭収奪、55.2月、丸栄商事乗っ取り(鈴木勝朗被害者)、7月、ドローイング倒産、56.1月、繊維研究事業部倒産(土肥ら従業員7、8名)、繊維研究事業部倒産事件とは、54.8月設立され、56.1月計画倒産による取り込み詐欺を働いた。9月、東芝産業デッチアゲようとして失敗、北海鋼業乗っ取り、合併問屋三社の主導権掌握騒動の失敗。代々木の関与した最悪の犯罪。 「トラック部隊の各企業は独占企業に打撃を与え、その最大利潤を奪取する。これを革命の為の資金に転化する任務を要する。これによって各企業は資本主義機構の中の一企業たるところから転化して、前社会主義的企業に転化する」を大義名分にしていた。中小企業に対するあざとい収奪と便宜な気休め。ゼントルマン.グループを形成して暗躍。後は野となれ山となれ式の悪稼ぎ。党に協力した中小企業者が尻の毛までむしりとられた。これについては「トラック部隊考」で詳論する。 |
12月、野坂と西沢が伊藤律の監禁場所にやってきている。 |