【1953年当時の主なできごと】
徳田書記長死去す。党中央伊藤派から志田派へ実権移動す。
 更新日/2017(平成29).4.25日

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第2期、党中央「50年分裂」による(日共単一系)全学連分裂期の学生運動」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2002.10.20日 れんだいこ拝


1.20 アイゼンハワーが第34代大統領就任。アイゼンハワーは、第二次世界大戦の連合軍最高司令官であり、初代の北大西洋条約機構の軍最高司令官をも務めていた。反共主義者として名高かったジョン.フォスター.ダレスが国務長官に就任した。弟アレン.ダレスはCIA長官であった。 
2.1 NHKテレビの本放送開始→テレビ時代の幕開け。
2.28 【吉田首相のバカヤロー発言】吉田首相、衆議院予算委員会で、質問者は社会党右派のの西村栄一。主として国際情勢に関しての質疑の最中、西村栄一議員の「首相は国際情勢は好転しているといったが、その根拠は何か」との質問に、「−−米英首脳もいっている」と答える→西村さらに「−−日本の総理大臣に聞いている。翻訳を承っているのではない」と追及→吉田「−−日本の総理大臣として御答弁いたしたいのであります−−」→西村「総理大臣は興奮しない方がよろしい。別に興奮する必要はないじゃないか」。吉田が「無礼なことを言うな」とどなり、西村が「質問しているのに何が無礼だ−−日本の総理大臣として答弁しなさいということが何が無礼だ」とつめより、遂に「バカヤロー」となったと伝えられている。西村「何がばかやろうだ。ばかやろうとは何事か−−取消なさい−−」→吉田「私の言葉は不穏当でありましたから、はっきり取り消します」(『衆議院速記録』より)野党はこぞって懲罰会議を出し、衆議院本会議で国会史上はじめて首相の懲罰動議可決→野党内閣不信任案提出、これがとうとう可決されるという事態になった。
3.2 衆議院本会議にて野党提出の吉田首相懲罰動議を可決(自由党広川弘禅派が欠席したので可決)。
3.5 スターリン没。突如スターリンの死去発表される。新書記長マレンコフの元に集団指導体制が生まれた。神山は、「同志スターリンの死去に際して一つの提案」で「スターリン大赦」による未復帰者の復党の申し出を党中央に提出。株価大暴落。
3.14 吉田内閣不信任案可決、吉田首相は解散権行使し衆議院解散=「バカヤロー解散」。
3.14 三木武吉ら院内団体分党派自由党を結成。
3.18 分党派自由党結成(鳩山一郎総裁)。
4.5 日本婦人団体連合会結成婦団連、会長平塚らいてう  
4.19 第26回衆議院総選挙。(自由199名、改進76名、左社72名、右社66名、分自35名、労農5名、共産1名、諸派1名、無所属11名当選)いわゆるバカヤロー解散選挙。左派社会党躍進=「拒否された再軍備」。
4.24 第3回参議院選挙。党は全国区29万票、地方区26万票、全員落選当選者無し。自由吉田46(16,30)、改進党8(3.5)、右社会10(3.7)、左18(8.10)、緑風16(8.8)、無所属3名当選。
4.27 アカハタ4ページ建てで発行。
4月下旬 【第23回中央委員会】秘密裏に「第23回中央委員会」を開いた。国内の地下指導部は伊藤派と志田派の二大系統で運営されてきたが、この間主に伊藤律派と志田派の対立が発生していた。北京での徳田の回復不能の病状と伊藤律査問情報が入ることに拠り、伊藤派と志田派の後継争い.主導権争いが始まり、志田派が党内主導権を握ることになった。こうして地下指導部の人事移動が行われ、伊藤律派が機関からおろされていくことになった。
5.21 第5次吉田内閣が成立。池田は自由党政調会長、佐藤は幹事長として党務に専念。少数与党内閣)
合法指導部の方針混乱 基地反対闘争。内灘軍事基地反対闘争。
6.7 全日本民主医療機関連合会民医連結成
6月以降第一次総点検運動を展開し、志田は指導部は伊藤はを追求する。地下の査問拡大する。 党軍事委員会は引き続き武装闘争の強化を指示した。 党の指導部は、非公然体制や極左冒険主義を思い切って清算しようとはしなかった。
7.10 ベリヤ除名、のち銃殺。
7.27 朝鮮休戦協定調印。
7.27 野坂の命で藤井冠次が伊藤律処分声明の原文を西沢から口伝され、帰国。
8月 ソ連の新指導部が、日本との正常化の意義を表明。
8.2 ブカレストでの世界青年学生平和友好祭に日本学生代表参加。
8.5 スト規制法成立
8−11月.三井鉱山首切り反対闘争
9.15 伊藤律除名公告が突如為された。「伊藤律処分に関する日本共産党中央委員会声明」を発表し、伊藤律を裏切り者=特高のスパイと断定した上で除名処分としていた。2年後の「六全協」で再確認されることになる。
9.21 アカハタは「伊藤律処分に関する声明」を載せた。「個々の党組織を敵に売り渡すスパイの役割」が指弾された。
9.27 保安隊から自衛隊に。
10.14 徳田書記長、亡命先北京で客死(59才)。
10月 第24回中央委員会開催。中間綱領決定。
10.2 −30日池田.ロバートソン会談、MSAに基づく対日援助とひきかえに保安隊の増強。教育の軍国主義かを取り決め。
11.3 11.3日衆院予算委員会答弁で、吉田首相「戦力なき軍隊」保持宣言。吉田首相衆議院予算委員会で「自衛隊は憲法内での軍隊。しかし戦力ではない(戦力なき軍隊)」と答弁→「○○なき○○」は、この年の流行語。
11.10 分党派自由党の鳩山等自由党に復党、三木武吉らは日本自由党を結成 
12.20 野坂と西沢が「徳田書記長が亡くなった」ことを伊藤律に告げに監獄を訪ねている。「全身の力が抜けるように落胆した」とある。この時「伊藤律処分声明」が掲載されたアカハタが渡された。


【アイゼンハワーが米国第34代大統領に就任】
 1.20日、アイゼンハワーが米国第34代大統領に就任。アイゼンハワーは、第二次世界大戦の連合軍最高司令官であり、初代の北大西洋条約機構の軍最高司令官をも務めていた。反共主義者として名高かったジョン.フォスター.ダレスが国務長官に就任した。弟アレン.ダレスはCIA長官であった。

 1月、佐藤栄作が再び自由党幹事長に就任し党務に専念。
【野坂が伊藤律の幽閉先を訪れ、スパイ自白を強要】
 この頃、幽閉された伊藤律の査問に西沢と野坂がたびたび訪れて、いわゆる伊藤律系の長谷川浩、小松雄一郎、山崎早市、安藤次郎、平館利雄の5名の名をあげ、スパイ活動をやったとの具体的な供述を為すよう迫っている。拒否する伊藤律に対して、野坂は、「日本では既に彼等がスパイだということを認めているのに、君が否定しても罪が重くなるだけだ。真剣に関係を書け」と命じている。
(私論.私見)
 今日、野坂が戦前からのスパイであることが判明しているが、とすればこれはどういうことになるのだろう。

 2.1日、NHKテレビの本放送開始→テレビ時代の幕開け。

 2.4日、漁船第1大邦丸が韓国警備艇により捕獲され、機関長射殺される。当時の大統領李は、「李ライン内の出漁は敵対行動と見る」と声明。


 2.16日、小岩派出所侵入事件。


 2.16日、ソ連機2機北海道領空侵犯。米軍機により撃墜。


 2.19日、バス車掌自殺事件発生。共産党員I子は恋仲の運転手を党活動に引き込んだが後悔、党活動にも情熱を失い批判を受けたことなどから睡眠薬自殺した。


【「バカヤロー解散」】
 2.28日、衆議院予算委員会で、質問者は右派社会党の西村栄一氏。主として国際情勢に関しての質疑の最中、吉田が「無礼なことを言うな」とどなり、西村が「何が無礼だ」とつめより、遂に「バカヤロー」となったと伝えられている。その模様を再現する。
西村  「総理大臣が過日の施政演説で述べられました国際情勢は楽観すべきであるという根拠は一体どこにお求めになりましたか」。
吉田  「私は国際情勢は楽観すべしと述べたのではなくして、戦争の危険が遠ざかりつつあるということをイギリスの総理大臣、あるいはアイゼンハウアー大統領自身も言われたと思いますが、英米の首脳者が言われておるから、私もそう信じたのであります」。
西村  「私は日本国総理大臣に国際情勢の見通しを承っておる。イギリス総理大臣の翻訳を承っておるのではない。イギリスの総理大臣の楽観論あるいは外国の 総理大臣の楽観論ではなしに、日本の総理大臣に日本国民は問わんとしておるのであります。やはり日本の総理大臣としての国際情勢の見通しとその対策をお述べになることが当然ではないか、こう思うのであります」 。
吉田

 「ただいまの私の答弁は、日本の総理大臣として御答弁いたしたのであります」。(ステッキを握りしめて立ち上がるなど次第に怒りが表情に出てくる)

西村

 「総理大臣は興奮しない方がよろしい。別に興奮する必要はないじゃないか」。

吉田  「無礼なことを言うな!」。
西村  「何が無礼だ!」。
吉田

 「無礼じゃないか!」。

西村

 「質問しているのに何が無礼だ。君の言うことが無礼だ。翻訳した言葉を述べずに、日本の総理大臣として答弁しなさいということが何が無礼だ! 答弁 できないのか、君は……」。

吉田  「ばかやろう」。(吉田は非常に小さな声で席に着きつつ「ばかやろう」とつぶやいたのだが、たまたまその声をマイクが拾った)
西村  「何がバカヤローだ!国民の代表に対してバカヤローとは何事だ!!」。

 答弁を終え首相席に戻りつつ吉田は売り言葉に買い言葉で「バカヤロー」とつぶやいた。この言葉をマイクが拾った。西村「国民の代表をつかまえて何がばかやろうだ。ばかやろうとは何事だ。取り消しなさい」。この後、吉田首相が、「私の言葉は不穏当でありましたから、はっきり取り消します」と謝罪し、西村栄一もそれを了承した。(「衆議院速記録」より)。(そのため議事録にも載っていない)

 この失言を鳩山一郎と三木武吉ら自由党非主流派が利用し、右派社会党をたきつけ次のような展開になる。

 3.2日、野党はこぞって懲罰会議を出し、自由党広川弘禅派が欠席したことにより可決されるという事態になった。前代未聞の首相懲罰が勃発したことになる。この時幹事長は佐藤栄作に代わっていた。この時、三木武吉の根回しにより鳩山民同派30名、改進党の大麻派30名、吉田後継と目されて野心を募らせてきていた広川弘禅農相を抱き込み、広川派30名が欠席するという事態が生まれ、懲罰動議は賛成191票、反対162票で可決された。

 3.13日、右派社会党が内閣不信任案を提出、民主化同盟22名は自由党を脱党して賛成に投票に廻った。3.14日、野党提出の吉田不信任案が、賛成229票、反対218票で可決され、衆議院はわずか半年にして解散となった。世に「バカヤロー解散」といわれる。第26回総選挙となった。吉田は後に「取るに足らぬ言葉尻」をとらえての「多くの奇怪事の中でも最大のものとして私はこれを忘れることは出来ない」(「回想10年」)と述懐している。


 3.3日、警察爆破の陰謀発覚として共産党員3人が検挙される。警察は岡谷市署川岸村の旧防空壕に隠してあったダイナマイト50本、導火線10mなどを押収した。

【スターリン死去】
  3.5日、スターリンが謀殺され、突如スターリンの死去が発表された。新書記長マレンコフの元に集団指導体制が生まれた。スターリン死去の前後、チェコスロバキアのゴットヴァルト党首の死亡、スランスキー党書記長がスパイとして処刑されている。前南朝鮮労働党書記長で、北へ移り金日成政府の副首相格の外交部長であった朴憲永らが、日本当局及びアメリカのスパイであったとして処刑されている。ソ連から北朝鮮に派遣されていた政治顧問2名も処刑されている。ソ連でも内相ベリアが突然これもスパイとして処刑された。いずれも「帝国主義の手先」、「裏切り者」のレッテルによる問答無用の処刑であった。

 神山は、「同志スターリンの死去に際して一つの提案」で「スターリン大赦」による未復帰者の復党の申し出を党中央に提出。

 3.9日付けアカハタは編集局名でタ一面に「スターリンの遺志受け継がん」、「平和独立の大業」、「日本国民は闘い進む」の大見出しで、次のように弔辞している。
 「全細胞と各地方の総・支・分局及び読者の皆さんに訴える。あれほど日本国民の平和と独立の闘いを激励してくれた故スターリン首相の遺志にこたえ、悲しみの中にも団結を強めているソ同盟国民に、哀悼の言葉と我々の闘いの決意を伝えようではないか」。

 3.15日付けアカハタは日本共産党中央指導部声明として次の一文を発表している。
 「同志スターリンの死に際して誓う」、「遺訓固く守る」見出しで、「我々は、この同志スターリンの手本に学ぼう。そして我々は同志スターりんの弟子として、彼が死の最後の瞬間に至るまで、見をもって範を示したマルクス・レーニン主義理論の発展のために精進した、不撓、不屈の努力を、我々自らの努力の手本としよう」。
 
 3.6日、スターリンの死に当たって、共産党員にして北海道・室蘭の日本製鋼所室蘭製作所労働組合の若き指導者が書いた日記はこう記している。(「人生学院2投稿bX96」の一夫氏の2009.4.30日付け投稿「日本共産党のスターリン崇拝(「左翼運動の歴史」第1章) 」より)
 3月6日 木曜日 晴

 新聞にスターリン首相の死が報ぜられらた。・・・・・現代の人類社会は、天空高く輝く巨大な英知の光を失った。人類は、まさに、この掛け値なしに、偉大な教師スターリンを失ったのだ。全世界のプロレタリアートに要求されるものは、より一層の団結と英知を備えるための勉強でなければならない。

 今までは、この偉大なる先導者スターリンが、容易に指し示してくれた。ブルジョワ新聞でさえも讃辞を惜しまなかった、同志スターリンの為し遂げた、ソ同盟(ソ連)のため、ひいては、人類のための偉業は、幾万年の人類の歴史に永久に残ることであろう。 その崇高な全生涯を、貧しい人々のために、そして、全世界人民のために、捧げつくした、今、ここに、全世界のプロレタリアートの哀悼と涙の中に、その貴い、巨大な生命の、かがり火の最後の部分をも燃焼しつくして、偉大な魂は別れを告げた。

 同志スターリン、僕は今、ここに、 あなたの、なしえた数々の偉業を偲び、労働者階級のために真実と正義の方向を指し示してくれたあなたを思い、そして、また、常に我々を見守っていた慈父の瞳が永遠に閉じられてしまったことは限りない淋しさを呼び起こしとめども無く、溢れる悲しみの涙を、せき止めることは出来ません。 永遠に去ってしまった偉大なる魂の別れに際し日鋼室蘭労働者の名においてまっこうから、哀悼の辞を捧げます。

【この頃の北京機関の様子】
 この頃、北京機関で伊藤律が権限を奪われつつあったことが次のように伝えられている。元NHK職員で北京機関詰めしていた藤井冠次氏の回顧録で次のように触れられている。
 「スターリンの死んだ53年頃から、律は私たちのところへ、顔を見せなくなりましたよ。ほとんど個室にこもりきり、党活動停止処分でも受けて、自己批判しているみたいだった。そして、放送のほうは西沢がボスになり、機関のトップには野坂がなったように感じられた」(「文芸春秋」1980.10月号)。

 3.14日、三木武吉ら院内団体分党派自由党を結成。3.18日、分党派自由党結成(鳩山一郎総裁)。
 3.24日、官房長官に福永健司が就任(←緒方竹虎)。
 4.5日、日本婦人団体連合会結成婦団連(会長平塚らいてう)結成される。
【第26回衆議院総選挙】
 吉田辞任の目論みが外れた三木らは自由党を脱党して日本自由党(鳩山自由党・鳩自党)を結成し闘った。かくして、自由党は吉田派と鳩山に分裂した。吉田首相は、中央突破を図った。

 4.19日、第26回衆議院総選挙総選挙。選挙結果は、「自由199名、改進76名、左社72名、右社66名、分自35名、労農5名、共産1名、諸派1名、無所属11名当選」。吉田首相率いる自由党は分裂して、過半数を大きく割る23名減の199議席となった。但し、引き続き第一党を確保した。鳩山自由党も振るわず35名(←37)名、重光改進党(民主党と協同党が合同)も振るわず76(←89)議席。

 左派社会党は72議席(←56)に躍進し、右派社会党もやや伸び66議席(←60)となった。社会党138名の進出。労農党が4から5へ、共産党も1議席を復活させた。無所属11。ちなみに、社会党はこの時をピークに、以降長期低落傾向に陥ることになる。ここに拮抗から左派優位の構図が生まれた。左派社会党躍進=「拒否された再軍備」。

 共産党は当選1名当選、大阪の川上貫一ただ一人であった。衆議院65万5989票(1.89パーセント)過去の選挙戦での最低。

 この時社会党左右両派は、自派勢力の拡大目指して相競った。左派社会党は、鈴木茂三郎委員長を中心に、総評を足場にして勢力を増大させ、右派に勝った。太田薫(合化)、岩井章(国労)、宝樹文彦(全逓)、平垣美代司(日教組)ら民同左派の率いる総評と結び付き、選挙では資金的にも人的にも総評に丸抱えしてもらって勢力を拡大していった。右派社会党は、河上丈太郎を委員長に据え、総同盟、日農主体性右派、農民協同党などを結集していた。右派社会党は、西尾のテコ入れで、総評の急進組合主義に反発する海員、全繊や総同盟系の右派組合が集まって全労(全日本労働組合会議、同盟の前身)を結成、右社はこれを組織的な基盤とするに至った。選挙後、左派からの院内共闘の申し入れに応じた。指導権は左派が握った。

【第3回参議院選挙】
 4.24日、第3回参議院選挙。党は全国区29万票、地方区26万票、全員落選当選者無し。自由吉田46(16,30)、改進党8(3.5)、右派社会10(3.7)、左派社会18(8.10),緑風16(8.8)。無所属3名当選。左派社会党は解散時31から40議席へ、右派社会党は31から26議席に減じた。ここに左派の右派に対する優位が確立することになった。共産党は全国区29万3855票1.01パーセント、地方区で26万4728票1.0パーセントで全員落選当選者無し。

4.27 アカハタ4ページ建てで発行。

【第23回中央委員会】
 4月下旬、秘密裏に「第23回中央委員会」を開いた。 徳球書記長が内地を離れてから、後を任された国内の地下指導部は伊藤派と志田派の二大系統で運営されてきたが、この両派間にも対立が発生していた。この間党幹部の官僚化と特権化に伴う退廃現象や派閥党争の激化を生んでいた。日共軍事委員会は引き続き武装闘争の強化を指示した。 党の指導部は、非公然体制や極左冒険主義を思い切って清算しようとはしなかった。しかし合法指導部の方針が混乱し、基地反対闘争にも取り組めなくなりつつあった。 

 北京での徳球の回復不能の病状と伊藤律査問情報が入ることにより、伊藤派と志田派の熾烈な後継争い、主導権争いが始まった。椎野が志田に与し、それに西沢.紺野らが同調するという構図になった。こうして志田派が党内主導権を握ることになった。こうして地下指導部の人事移動が行われ、伊藤律派が機関からおろされていくことになった。

【志田派による狂気の総点検運動を展開】
 志田派は、党の軍事方針や非公然体制を再検討する方向に向かわず、党内粛正に血道をあげて、地下指導部の独占と強化に邁進した。6月以降、第一次総点検運動を展開し、主として伊藤律派他に神山派の一掃に狂奔した。伊藤派の伊藤律、長谷川、保坂、小松、木村三郎らが徹底追求され、機関から放逐され自己批判を迫られていった。志田の組織論は、党の利益のために党内の有り様を考究するという観点は一切なく、自身が辿り付いた党指導部の地位を守るために、反対派を如何に淘汰するかにあった。地下の査問が拡大し、千数百人の犠牲者が出たと云われている。党軍事委員会は引き続き武装闘争の強化を指示した。 党の指導部は、非公然体制や極左冒険主義を思い切って清算しようとはしなかった。

 この時の総点検運動の実態が暴露されている。
 「彼(志田)は日共の一切の幹部(中央から各地区細胞までの『主として専従党員』)を自分の直系で固めるために、全国の幹部を次の三色に選定させ、このリストまでつくらせた。赤−志田を積極的に支持するもの、桃色−ほぼ志田に同調するもの、白−志田に反対するもの。こうした色分けに従って、この白を追い出すために、統制の岩本(巌、志田の義弟)らと結んで利用したのが、三回にわたる総点検運動だった」。

 つまり、志田派指導部は、全国の専従党員、幹部を三色に識別し、赤(志田を積極的に支持する者)、桃色(志田系)、白(反志田系)に色分けし、白派の追い出しに向かった。統制委員会の岩本巌は志田の義弟であり、これとつるんで以降第三次総点検運動まで発展していった。その照準は主として伊藤派に向かった。

 この総点検運動とは、表向きは、党内のスパイや腐敗的要素を取り除くという目的で各級機関を中心に機関とそれに所属する各党員について行い、個々の党員の弱点がどこにあるのか、その弱さが克服されたかどうかが(問題にされるはずだったのだが)、実際にこれがどう進められたかと言えば、当時の誤った方針を『オカシイ』と考えている党員が槍玉にあげられ、点検中、白に属する意見に対して少しでも『あいつはどうも変だ』というご注進があれば、これが極めて重要視され、その党員は長い間の待機、査問、何回かの自己批判書の提出の後、機関から追われていったのである」(「真相」56.9.15日号「志田重男はなぜ消えたか」)。

 小山弘健は、「戦後日本共産党史」の中で、次のように記している。
 「ひとたび下部組織なり党員なりが誰かに告発されると、それは同時に罪状決定を意味した。同志的な調査もなければ説得もなく、罪人扱いの一方的査問の後に、処分が即決された。苛酷な査問や処罰のやり方は、その幼稚で子供じみた外見の下に、気違いじみた派閥中央の真意と目的が潜んでいた。あらゆる機関、あらゆる組織の間に、互いの不信・疑惑・猜疑心がみなぎった。査問委員会の委員長が、翌日は告発を受けて査問されると言う喜劇が生まれた」。

 袴田里見は、「私の戦後史」の中で次のように記している。
 「いうまでもなく、志田は国内の軍事組織、武装闘争を指揮した最高責任者である。徳田球一の右腕が伊藤律なら、左腕は志田といってよく、伊藤律が除名され、徳球が死亡した28年の秋以降は、党の地下組織をいいように切り回していた。火炎瓶闘争や山村工作隊など、極左的な行き過ぎがいろいろあったことはいうまでもないが、人事にも派閥主義を持ち込み、関西時代に培った『親衛隊』を、身辺や全国の要所要所に配置した。それだけでなく、志田派の主導権確立のため、志田直系以外の批判派を、何かにつけて排除し追放した」。

 この時の様子として、水島毅「人物共産党史」には次のように記している。
 「志田の党内総点検、大量粛清は全党を震え上がらせた。心有る党員は顔をしかめた。志田の無理論、実践優先、しかも傍若無人なふるまいは、おのずから党を官僚化させた。怖いものがいない。何でもやれる。極度の秘密主義、そういうところから党内に腐敗が広がっていった。昭和28年末頃から29年にかけ、腐敗はその極に達した。

 党内の人事、財政一切が志田派の人脈によって固められた。煙たい党員は不心得な党員として機関から遠ざけられた。ただ指令一下、黙々と盲従する者を好ましい党員として歓迎した。理論は無いが、実践にたけた者、そういう党員が横行し始めた。ヤクザのような風体の党員がどこの機関へ行ってもハバをきかせていた」、「その頃、志田は夜になると都内のアジトをひそかに抜け出し、たった一人で都内の待合やキャバレーを飲み歩いた。組織活動費として党から持ち出した莫大な資金は、ほとんど酒色に投じるようになっていた。都内文京区妻恋町の自宅では妻のふみ子が6歳の男の子を抱え貧苦に喘ぎながら革命化の留守を守っていたのである」。
(私見・私論) 「志田派による総点検運動」について
 この時の総点検運動の地下で志田が宮顕と通じていたとするなら、総点検運動の性格が見えてくる。れんだいこは左様なものとして認識している。この頃志田は頻繁に料亭に繰り出している。後にこの時の様子が槍玉に挙げられるが、主として誰と談合していたのか肝心なことは漏洩されていない。しかるに一挙手一動作が的確に把握されている。

 5.9日、党中央指導部は、「第5次吉田内閣を粉砕し、反吉田・反再軍備統一政府をつくるために国民運動をおこそう」なるアッピールを発表。5.18に開会された第16国会の冒頭で議長に改進党の堤康次郎、副議長に左派社会党の原彪を選任することに尽力し、首相選でも改進党の重光首班実現に向けて立ち働いた。川上貫一が各党を飛び回った。
 5.17日、左派社会党臨時大会。

 5.17日、舞鶴引き揚げ援護局不法監禁事件。第三次中共帰還の際、舞鶴で援護局女子職員をスパイだとして吊し上げ、軟禁した。後に日共党員国民救援会事務局長小松勝子と都立大教授在華同胞帰国協力会総務局長阿部行蔵を検挙。


 5.19日、首班指名の決選投票。第一党自由党の吉田茂と第二党改進党の総裁・重光葵が首相指名を争い、左社は白票、右社は棄権、共産党.労農党は重光に投票した。結果、204対115で、吉田が再選された。佐藤幹事長が動き、「憲法改正調査会」を党内に設けると約束して、鳩山一郎や石橋湛山ら26名を取り込んだ。「当時、吉田は元朝日新聞主筆の緒方竹虎を重用しており、はじめ官房長官、のち副総理に登用、緒方は党内の支持を強めつつあった。鳩山は「吉田の次を狙うなら、自由党に復党しなければならない。吉田が引退した時に君が党外にいたら、政権は緒方にいってしまうよ」と説かれ、石橋湛山らとともに自由党に復党した」(「自民党派閥の歴史」)。この時、党人派の策士・三木武吉、河野一郎らは復帰の誘いを断り、8名で日本自由党を結成していくことになる。
【第5次吉田内閣】
 5.20日、第5次吉田内閣が組閣される。5.21日、認証式を経て第5次吉田内閣が成立する(1954.12.10日まで続く)。少数与党内閣となった。第26回衆議院議員総選挙で自由党は第一党の座を確保したものの、過半数を34議席下回る199議席に終わった。しかし、吉田自由党は、鳩山自由党、改進党、右派社会党、左派社会党の野党4党派の足並みの乱れをたくみについて、大麻唯男ら改進党保守連携派を取り込み、内閣総理大臣指名投票で決選投票に持ち込み、吉田首班を実現させた。吉田は、重光葵改進党総裁と党首会談を持ち、改進党を閣外協力に傾斜させることに成功した。官房長官・福永健司、池田は自由党政調会長、佐藤は幹事長として党務に専念。

 閣僚


【この頃の学生運動】
 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動第2期」に記す。

合法指導部の方針混乱 基地反対闘争。内灘軍事基地反対闘争。

 6.7日、全日本民主医療機関連合会民医連結成。


 7.6日、前年7月に火炎瓶を持って通行中の男子学生が爆発物取締罰則違反現行犯で逮捕されたが東京地裁にて火炎瓶は爆発物ではないとして無罪。広島、名古屋に続いて。広島の事件は前年4月29日安佐郡古市町巡査派出所に火炎瓶4本を投げ込んだ4人の朝鮮人が爆発物取締罰則に問われていたもの。


 7.10日、ベリヤ除名、のち銃殺。


【総評第4回大会】
 7月、総評第4回大会が開催され、従来の方針から一段と左派色を強めた運動方針案を採択した。これは高野事務局長グループの手によって推進された。社会党の「平和4原則」に加えて、「第三勢力論」、「平和勢力論」と云われるアメリカ帝国主義を戦争勢力として、中ソを平和勢力とみなし、その他先進国における民主主義的社会主義志向勢力、後進国における民族独立勢力を第三勢力と規定し、アメリカ帝国主義を中心とする戦争勢力た闘う方針を掲げることになった。

 この新方針に対し、右派系の海員組合や全繊同盟は、総評の「極左的偏向」と非難し、次々と総評から脱退していくことになった。

【朝鮮戦争集結】
 7.27日、休戦協定が板門店で調印された。3年1ヶ月続いた戦争が「和解無き休戦」となった。

7.27 野坂の命で藤井冠次が伊藤律処分声明の原文を西沢から口伝され、帰国。

 8月、ソ連の新指導部が、日本との正常化の意義を表明。


 8.2日、ブカレストでの世界青年学生平和友好祭に日本学生代表参加。


 8.5日、スト規制法成立。


 8.9日、保安庁巡視船が宗谷沖で。ソ連スパイ船を拿捕する。4人のソ連人を不法入国の疑いで慎重取り調べ。去る8月2日為替管理令違反での逮捕者関某は樺太のスパイ訓練所で訓練され密航してきた。今回の船は関を迎えに来たもの。6部の暗号解読書所持。


 8−11月、三井鉱山首切り反対闘争。


 8.23日、大阪日本出版販売会社労組員のリンチ事件の噂があり、手入れで警視庁150人の機動隊と労組員大乱闘、28人検挙。


【伊藤律除名】
 9月、藤井冠次は志田重男に会い、伊藤律処分声明を伝える。

 9.15日、伊藤律除名公告が突如為された。「伊藤律処分に関する日本共産党中央委員会声明」を発表し、伊藤律を裏切り者=特高のスパイと断定した上で除名処分としていた。2年後の「六全協」で再確認されることになる。「職場放棄の極左的な挑発行為の扇動」という件りが記されていた。今日では野坂の暗躍で進行したことが確認されている。この時徳田書記長は回復見込みの無い病状を呈しており、知る由もなかった。国内の同志に対して、徳田も参加の上での査問結果であるかのように偽装されていた。この伊藤律の失脚で、宮本の党中央登壇の舞台が回ってくることになる。

 9.21日、アカハタは「伊藤律処分に関する声明」を載せた。「個々の党組織を敵に売り渡すスパイの役割」が指弾された後、次のように断罪されている。
 「彼の党及び国民に対する許すことの出来ない犯罪行為は、党機関の査問に対する彼の自供並びに、党中央委員会と統制委員会の調査した諸事実によってバクロされた」。
 「彼の階級敵犯罪行為は、1938年、彼が最初に検挙されたときに、敵に屈服して以来、戦前、戦後を通じて一貫して続けられてきた」。
 「戦後、彼が党内で果たした反階級的行為は、アメリカの占領という事情によって、さらに政治的となり、単に個々の党組織を敵に売り渡すスパイの役割から、党の政策をブルジョア的に堕落させ、党内において派閥を形成して、党の組織の統一を混乱に導き、党を内部から破壊し、米日反動勢力に奉仕することにあった。それは政策面においては、彼の農業理論、社共合同論、2.1スト後における新しい労働運動の盛り上がりに際して執った職場放棄の極左的な挑発行動の煽動、及びストライキ運動に対する極端な日和見主義的抑制等においてあらわれ、組織の面においては、党中央並びに地方の諸組織内に彼の個人的派閥を形成することによって、実行にうつしていた」。

 10.1日、伊藤律の妻きみの次のような絶縁声明がアカハタに掲載されている。この声明について、袴田里見は「聞くところによると、夫を採るか党をとるか、と査問された挙句に書かされたということだった」(「私の戦後史」)と伝えている。声明文は次の通り。
 「私は9.21日付アカハタ発表の党中央委員会声明『伊藤律処分に関する声明』を絶対支持し、心からの憤激をもって、今後ますます強まるであろう米日反動の政策に対して闘うことを誓います。率直に言って、事実を聞かされた時は、大きなショックを受けました。結婚してから15年間、どんなに苦しいことがあっても、彼が革命の為に生命を捨て、闘っているということが、私の支えでした。(中略)しかし、彼は自分自身の出世主義に陥り、党の集団主義の原則を破り、あまつさえ、米日反動スパイとして敵とつながり、党と国民の利益を完全に裏切ったのです。この本質を理解したとき、今まで彼に対して持っていた私の愛情と信頼は一瞬に崩れ、憎しみに変わりました。二人の子供も将来成長した時、父親としてでなく階級的裏切り分子として彼をみるようになるでしょう。(後略)」。
(私見・私論) 「伊藤律処分に関する声明」の内容について
 この声明文は誰の手になるものであろうか。私には、宮顕特有の書き方であることが分かる。となると、この時点で、宮顕が事実上党中央の一角に潜り込んでいることになる。このことから、表見的には徳球−志田系執行部時代であるが、志田執行部はその誕生時点の早くより宮顕勢力との緊密な連動によって運営されていたのではないかと言う推論が成り立つことになる。それにしても、おのれの「単に個々の党組織を敵に売り渡すスパイの役割から、党の政策をブルジョア的に堕落させ、党内において派閥を形成して、党の組織の統一を混乱に導き、党を内部から破壊し、米日反動勢力に奉仕する」役目を、そのまま伊藤律に被せているその手法と論理に辟易せざるを得ない。

 これが、中央委員.同書記局員.同政治局員.アカハタ主筆と異例の抜擢でたちまち最高指導部にのしあがり、徳球書記長に重用されて絶大な権力をふるった伊藤律の末路であった。これを宮顕系から見れば、「彼を重用した徳田の政治責任も、中央委員会の連帯責任も何ら問われなかった。伊藤律個人一切に責任を負わせる官僚主義特有の自己保身法が示されていた」とあり、なおも不満であるらしい。

 この時点で、伊藤律を庇護していた徳球が既に政治権利を失っていたことが判明する。それを測るかのように欠席裁判の下でこういう処分がされている辺りも注目したい。

 2010.11.26日再編集 れんだいこ拝

9.27 保安隊から自衛隊に。

【米韓相互防衛条約(アメリカ合衆国と大韓民国との間の相互防衛条約) 】
 10.1日、ワシントンDC で、「米韓相互防衛条約(アメリカ合衆国と大韓民国との間の相互防衛条約)」が締結されている。東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室の「日本政治・国際関係データベース」(http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19531001.T1J.html)を転載しておく。
 [文書名] 米韓相互防衛条約(アメリカ合衆国と大韓民国との間の相互防衛条約)

[場所] ワシントンDC
[年月日] 1953年10月1日作成,1954年11月17日発効
[出典] 日本外交主要文書・年表(1),578‐580頁.主要条約集,1667‐1670頁.

 この条約の締結国は、すべての国民及びすべての政府とともに平和のうちに生きようとする願望を再確認し、及び太平洋地域における平和機構を強化することを希望し、いかなる潜在的侵略者も、いずれか一方の締約国が太平洋地域において孤立しているという錯覚を起すことがないようにするため、外部からの武力攻撃に対して自らを防衛しようとする共同の決意を公然と且つ正式に宣言することを希望し、また、太平洋地域における地域的安全保障の一層包括的且つ有効な制度が発達するまでの間、平和及び安全を維持するための集団的防衛についての両国の努力を強化することを希望して、次のとおり協定した。

第一条
 締約国は、それぞれが関係することのある国際紛争を平和的手段によつて、国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決し、並びにそれぞれの国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、国際連合の目的又は締約国が国際連合に対して負つている義務と両立しないいかなる方法によるものも慎むことを約束する。

第二条
 締約国は、いずれか一方の締約国の政治的独立又は安全が外部からの武力攻撃によつて脅かされているといずれか一方の締約国が認めたときはいつでも協議する。締約国は、この条約を実施しその目的を達成するため、単独に及び共同して、自助及び相互援助により、武力攻撃を阻止するための適当な手段を維持し発展させ、並びに協議と合意とによる適当な措置を執るものとする。

第三条
 各締約国は、現在それぞれの行政的管理の下にある領域又はいずれか一方の締約国が他方の締約国の行政的管理の下に適法に置かれることになつたものと今後認める領域における、いずれかの締約国に対する太平洋地域における武力攻撃が自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。

第四条
 アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を、相互の合意により定めるところに従つて、大韓民国の領域内及びその附近に配備する権利を大韓民国は許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。

第五条
 この条約は、アメリカ合衆国及び大韓民国により各自の憲法上の手続に従つて批准されなければならない。この条約は、両国がワシントンで批准書を交換した時に効力を生ずる。

第六条 
 この条約は、無期限に効力を有する。いずれに一方の締約国も、他方の締約国に通告を行つてから一年後にこの条約を終了させることができる。

 以上の証拠として、下名の全権委員は、この条約に署名した。

 千九百五十三年十月一日にワシントンで、英語及び韓国語により、本書二通を作成した。

 アメリカ合衆国のために ジョン・フォスター・ダレス(署名)

 大韓民国のために Y・T・ピャン(署名)

【徳球死去と伊藤律幽閉】
 10.14日、亡命先北京で客死した(享年59歳)。これにともない相互批判、自己批判が公然化することとなった。 紺野らは中立的立場。

 徳球という後ろ盾を失った伊藤律が幽閉されることになるが、その時の様子が次のように伝えられている。「もう一年も中連部に厄介をかけたし、今から別のところへ移ってもらう」の野坂の宣告と同時に鄭所長と公安職員が飛び込んできた。「律はある夜突然、一陣の風のごとき軍隊に拉致されて消えた」と伝えられているが、行く先は監獄であった。「これは日本共産党の委託によることで、中共としてはプロレタリア国際主義の義務なので、問題を日本共産党が解決するまで致し方ない」と因果を言い含められた、と後に伊藤自身が明らかにしている。

 こうして伊藤律は、裁判も、刑の言い渡しもなく、異国の獄中に呻吟する運命となった。まだ40才になるかならないかの頃であった。以来27年間を幽閉され、80年9月奇跡的な生還を遂げることになる。この経過に党の責任がないなぞとなぜ云えようか。

 日本向けの地下放送「自由日本放送」を担当していた藤井冠次(元NHK職員)の回顧によればこう書かれている。
 「人民服姿の中国軍公安部隊が着剣した銃を持って入口にずらり並んでいた。何事か−−−と思ってみていると、顔面蒼白な伊藤が、公安兵士に両腕を抱えられて引き立てられて出てきた。そして表で待っていた黒塗り乗用車に押し込められてどこかに連れ去られた。これが孫機関に伊藤を見た最後です。西沢や野坂もそれを見守っていたが、まったく無表情だった」。

 10月、第24回中央委員会開催。中間綱領決定。

 10.2−30日、池田.ロバートソン会談。吉田首相は池田を特使として派遣、ロバートソン国務次官補と会談させた。当時、米国は、MSA(相互安全保障法)に基づく対日援助とひきかえに日本の防衛力の増強を望んでいた。一ヶ月近い交渉の結果、地上軍35万人を要求していた米国に18人万人で納得させ、代わりに非軍事的経済的援助を取り付けた。池田・ロバートソン会議は、その後の日米関係の方向づけをした点で重要な意義を持つ。

 一般に「保安隊の増強。教育の軍国主義化を取り決め」た会談評されているが、精査される必要がある。

【吉田首相が「戦力なき軍隊論」を唱える】
 11.3日、衆院予算委員会答弁で、吉田首相が「戦力なき軍隊」保持宣言。改進党幹事長松村謙三質疑「自衛隊は、外国軍と戦う任務を持つ以上、軍隊と考えるべきだ」、吉田「軍隊という定義にもよるが、いかにしても戦力を持つ軍隊にはいたさないつもりであります」、「自衛隊は憲法内での軍隊。しかし戦力ではない(戦力なき軍隊)」と答弁する。これにより「○○なき○○」は、この年の流行語となる。松村「戦力とは何か」、吉田「近代戦を遂行しうる力と解釈している。戦力を有するような軍隊を持つことは憲法の禁ずるところであり、増強した結果、憲法改正を必要とする場合もあり得る。だが、現在はそれを考えていない」。安全保障を米国に頼り、米軍駐留を認め、憲法は改正せず、事実上の再軍備をするという「軽武装、経済優先」路線が敷かれていった。社会.共産両党の反対は強く、保守の側からも「日本人の国防意識を非常にスポイルした」(中曽根元首相)という批判もある。

 11.5日、高萩炭鉱所長宅爆破事件。


 11.8日夜、東シナ海に20隻以上の中共怪船団が現れ、日本漁船に猛烈な機関銃撃。水産庁生産部長談「従来もしばしばあったことだが我々にはそうした危険を防ぐだけの力を持たないのでどうしようもない」。


 11.11日、京都荒神橋事件。学生を含む800人が不法デモ。中立売署県警本部等に投石、窓ガラス破壊の乱暴狼藉。警官隊により鎮圧。警官7人学生4人が負傷。


 11.12日、新潟県で講演内容が気にくわないと県教組(日教組)が文部常任専門員を吊し上げる事件発生。


 11.12日、日鋼・赤羽争議事件。中立労組員第2組合員とピケを張って就業を阻む第1組合員との間で乱闘。就業希望者側の女性(21)ら7人に重軽傷。


 11.12日、元東大助教授の研究室占領事件。共産党千葉県委員、日本平和擁護県委員常任理事の元東大助教授が研究室をアジトとして活動をしていたが、レッドパージ後にも居座り続けたところ、生産技術研究所の職員に殴打暴行を加えたとして逮捕された。


 11.21日、共産党本部(アカハタ編集局)など19カ所全国一斉手入れ。


 出入国管理令違反。ルーマニアのブカレストで開かれた「第4回世界青年学生平和友好祭」への不法出国容疑で16人の逮捕状を取った。容疑者が遁走したため、このとき1人も逮捕できなかった。


 11.29日、分党派自由党の鳩山等35名中23名が自由党に復党した。三木武吉、河野一郎ら8名は日本自由党を結成し、吉田自由党に戻らなかった。この背景が次のように伝えられている。鳩山派が財政逼迫し始め、吉田が佐藤幹事長に命じて2000万円を融通する。それを契機として鳩山らの復党が為された。この時の資金は海運・造船業界から調達されたものであり、これが翌1954.春、造船疑惑事件として追及されていくことになる。
 12.20日、野坂と西沢が「徳田書記長が亡くなった」ことを伊藤律に告げに監獄を訪ねている。「全身の力が抜けるように落胆した」とある。この時「伊藤律処分声明」が掲載されたアカハタが渡された。

【志田派が、第二次総点検運動を展開】
 12月上旬、全国組織防衛会議を開き、第二次総点検運動が開始された。ここまで主として伊藤律派が次々に査問されていたが、引き続き神山派、反宮顕系國際派の連中約1200名が処分された。 この頃の推定党員数73.000名。

 伊藤律系の幹部の一人であった小松雄一郎は、1953年末から監視状態に置かれ、翌年6月から約3ヶ月間査問を受けて、「自己批判書」を書かされた。その背後に西沢隆二の影が見える。既に言うまでもないが、西沢の後ろには宮顕の意向がある。もう一人の伊藤律系幹部で当時九州地方の責任者をしていた長谷川浩も、志田指導部から「通知」を受けている。この頃椎野も党活動から排除された。
(私見・私論) 「総点検運動」の手法について
 「スパイ査問」を口実にしたリンチ、テロが呵責なく行われ、軍事闘争参加の党員の悲惨さも重なり、この頃除名、脱党、自暴自棄党員による堕落生活、自殺者、精神病者が多数輩出し、後味の悪い後遺症を党員及び党組織に刻印していくことになった。

【志田と宮顕の関係について】
 増山太助氏は、「戦後期左翼人士群像」の中で、次のように注目すべきことを明らかにしている。
 概要「『50年分裂』時の非合法活動の中で、志田と椎野は鋭く対立し、互いに譲らなかった。その問題は何であったか。重点は、いわゆる『軍事問題』(『中核自衛隊方式』か『人民軍方式』か)と、『除名した分派のリーダー宮本顕治の扱いに関する問題』であった。志田は宮本の除名を取り消し、宮本と手を組むことによって上から党の統一を実現しようとしたのに対し、椎野は『権力主義者』、『ブルジョワ思想』を党内に持ち込む宮顕の復党に反対し、宮顕を除く『反主流派』全員の除名を取り消して、下から党の再出発を図ろうと主張した。従って、椎野は『志田と宮顕の野合』による六全協を否定して党から去ったが、表面的には『女性問題』を理由に除名された」。

【統一グループとの和解】
  この情勢に応えて野坂等北京にいた幹部が新方針を作成し、ソ連側の提案を受け、野坂等が討議し、第六回全国協議会の決議原案ができた。この頃志田重男が宮本顕治に会見を求めている。
(私見・私論) 「志田と宮顕との接点」について
 この考察は重要な割には全く考察されていない。私は、志田はかなり早い時機から宮顕との地下交渉が取り持たれていたと見る。伊藤律の排斥過程は、野坂−宮本−志田系の用意周到なコンビプレーで遂行されたのではなかったろうか。この時機に「この頃志田重男が宮本顕治に会見を求めている」とあるが、公然化したのがこの時機であると考えるべきではなかろうか。

【トラック部隊のその後】
 トラック部隊の全貌は今も分からない。というより資料も含めて意図的に抹殺されている気がしてならない。一説によると西沢隆二が最高責任者であり、中小企業相手に大掛かりな知能犯的収奪行為を組織し、乗っ取りあるいは倒産させながら資金を稼いだ史実が残されている。

 この資金は志田系に流れており、後に花柳界での遊行費問題として「お竹事件」の下地をつくっていくことになる。ちなみに、六全協後に「志田の神楽坂の料亭お竹放蕩事件」を伝えた雑誌「真相」(佐和慶太郎)記事の文中の、「記者・じゃぁ、随分来てたんだね。芸者・そう5年くらい前からよ。始めは月に一回か二回だったけど。記者・去年は随分来ていたな。久子・そうね。しよっ中来るようになったのは2年くらい前からね。−−−いつも来ると二、三日は居続けしてたわ」をその通りとすれば、志田は50.6月の地下潜行の割合早い時機から料亭お竹に通っていたことになる。この時誰と何を謀議していたのか、肝心のこの辺りは伏せられたまま、やがてこの事件が志田失脚に利用されていくことになる。
 
 53.4月、太陽鋼管の踏み倒し倒産事件。太陽鋼管の踏み倒し倒産事件とは、トラック部隊所属の大江直一を社長とする太陽鋼管をつくり、いくつかの系列会社にトラック部隊所属の党員が乗り込み、融通手形を切りあい、拠点を増やしていった。53.10月に倒産し、関連した拠点企業も連鎖倒産したり傾いた事件のことを云う。資本金400万円、本社東京、営業所大阪.広島.札幌、尼崎製鋼の指定問屋、日本特殊鋼管代理店で、大江が社長兼営業部長、引揚者コミュニスト.グループの一員であった鈴木を営業次長に取り込み、事件を企画する。

 54年、葛飾ガスの金銭収奪、55.2月、丸栄商事乗っ取り(鈴木勝朗被害者)、7月、ドローイング倒産、56.1月、繊維研究事業部倒産(土肥ら従業員7、8名)、繊維研究事業部倒産事件とは、54.8月設立され、56.1月計画倒産による取り込み詐欺を働いた。9月、東芝産業デッチアゲようとして失敗、北海鋼業乗っ取り、合併問屋三社の主導権掌握騒動の失敗。代々木の関与した最悪の犯罪。

 「トラック部隊の各企業は独占企業に打撃を与え、その最大利潤を奪取する。これを革命の為の資金に転化する任務を要する。これによって各企業は資本主義機構の中の一企業たるところから転化して、前社会主義的企業に転化する」を大義名分にしていた。中小企業に対するあざとい収奪と便宜な気休め。ゼントルマン.グループを形成して暗躍。後は野となれ山となれ式の悪稼ぎ。党に協力した中小企業者が尻の毛までむしりとられた。これについては「トラック部隊考」で詳論する。

 12月、野坂と西沢が伊藤律の監禁場所にやってきている。

 1953年末、紺野与次郎、河田賢治、宮本太郎らが日本から中国に渡り、「北京機関」の指導部に加わる。
 三洋電機が「噴流式」の自動洗濯機発売。「噴流式」とは、洗濯機の底や側面で「パルセーター(回転翼)」が回り、渦巻きの水の流れを作るもので、その後の洗濯機の原型となった。他メーカーも追随し、57年普及率20%、65年68%となる。洗濯機に白黒テレビ、冷蔵庫が「三種の神器」と呼ばれるようになる。







(私論.私見)