1950年下半期 徳球−伊藤律が北京へ亡命、武装闘争指令打ち出す



 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和元/栄和3).8.29日

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第2期、党中央「50年分裂」による(日共単一系)全学連分裂期の学生運動」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2002.10.20日 れんだいこ拝


【政府が閣議で公務員などのレッドパージの方針を決定】
 9.1日、閣議で公務員などのレッドパージの方針を決定。重要経営と労働組合からの万を越える共産党員と支持者の追放(レッドパージ)などの弾圧が見舞った。9月から11月10日までの間に民間主要産業342社9524名と各官庁公務員1177名合わせて1万701名がパージされた。この時大衆的な抵抗はほとんど組織し得なかった。党は活動基盤を根こそぎ失った。

【レッドパージ】

 7.25日、レッド・パージが新聞、放送関係から始まった。8.26日に電産、9.22日に映画、9.25日に全日通と続いた。 9.25−26の二回にわたって労働課長エーミスは石炭、金属、鉱山、造船、鉄鋼、自動車、電工、重機械、銀行、化学の一〇産業の労資代表をよびつけレッド・パージを命令した。10.6日、エーミスはさらに繊維、セメント、硫安、ゴム、石油、紙パルプ、冷凍業、船主協会、生保、損保、印刷出版業の代表をよびつけて命令した。レッド・パージで攻撃の矢おもてにたたされたのは共産党だったが、闘争の先頭にたって闘うことができなかった。所感派はレッド・パージに対する果敢な闘争を組織できなかった。時事通信では16名のレッド・パージがでたが、会社側はパージ組の党員と裏取引きを始めた。党員1名を含む4名の首切りを取り消し、残り12名には月収の70%を2年間支給する代りに闘争をうちきる、この解決は組合の闘争の成果であるような印象を与えない工作をするという条件だった。共産党員はこの「取引」に応じた。このような例をあげればキリがない。レッド・バージ闘争の時期、共産党の内部抗争がもっとも愚劣な形でくりかえされ、闘争を組織化するどころか大衆の闘争に水をかけとおした。 このとき中国共産党の九・三アッピールが発表されたが、それは、この点を正確に見抜いたものであった。しかし党はそれを正しく解決しなかった。私鉄総連はレッド・パージのだされる直前の大会でパージ反対を決議したが、東武、広鉄〔広島電鉄〕、北鉄〔北陸鉄道〕をのぞいて全部のんでしまった。その後ひらかれた大会で本部はどう闘ったと詰問されて、総連は単組が勝手にのんでしまったではないかと逆襲している。これは、共産党の後退がつくりだした、笑うことのできない一風景である。しかし国光製鎖のように経済的には妥協するが、政治的には妥協できないとして赤追放にたいしては断固として闘った例もいくつかはあった。

 レッド・パージは総評に対して労働運動の王座をあたえるための手段となった。民同はこれにのってクーデターをくりかえし機関を占領した。そしてみずから労務係に転化していった。この変質こそアメリカ占領者の戦争遂行のための基盤であった。企業別組合は経営協議会化した労組となった。レッド・パージは労働組合を会社の労務係にする意図をふくむものであったが、民同派諸派はこれにのった。総評はこのレッド・パージにたいして何ひとつ闘おうとはしなかった。 九月三日、総評が幹事会をひらき「共産党分子追放にたいする態度」をきめ、労働大臣に抗議書を手交している。 総評はそのなかで「合法政党であるかぎり、たんに党員たるの理由をもって馘首することは不当であるが、民主主義の社会秩序をうちたてようとする日本においては、暴力による破壊活動およびこれを準備する行為は許されない。したがって、これらに該当する者は、なんぴとたるを問わず、処分の対象とされることはやむをえない」と述べている。これでは反対しているのではなくけしかけている。


【北京機関】
 徳球に続いて11月に野坂、12月に西沢隆二が出国し、北京に日本共産党在外指導部を構築した。これが「北京機関」と呼ばれることになる。翌51年10月に伊藤律も出国。

【臨中による「在日朝鮮人運動について指令」(415号)】
 9.3日、日本共産党臨時指導部は「在日朝鮮人運動について」の指令(四一五号)をだした。

 朝鮮問題は、日本革命の当面する闘争の主要な環……朝鮮戦争を第三次大戦の口火にしようとする国際帝国主義の企画を粉砕し、朝鮮侵略に便乗して日本帝国主義を夢みている吉田を首班とする国内反動勢力を打倒し、日本人民大衆を平和擁護の旗の下に結集することは、当面する日本革命の最も重要なる環である。
 在日朝鮮人運動は、「外国の朝鮮内戦干渉反対」「朝鮮から手を引け」のスローガンのもとに日本から送られる武器の生産と輸送反対闘争へ結集している。
 党の指導を強化せよ。

 在日朝鮮人の武器生産、輸送反対闘争は、日本から帝国主義勢力を一掃し、かいらい反動どもの打倒粉砕闘争と一致するので、朝鮮青年行動隊の勇敢な行動性を、党が指導せよ。そのために、イ、日常闘争を政治闘争と結合させ、青年後続部隊を養成する。ロ、日・朝青年行動隊の連携を指導し、共同訓練をおこなう。ハ、日朝親善協会の係を各級機関におく。ニ、朝鮮人党員の規律強化と分派について、党臨時中央指導部のもとに、分派活動を粉砕し、党強化のため全力をつくすべきことを全朝鮮人党員に徹底させる。(脇田憲一「朝鮮戦争と吹田・枚方事件」

【中国共産党の介入】
 9.3日、人民日報は、「今こそ日本人民は団結して敵にあたるべきである」、「日本共産党内部の一致団結は党員全体が大局的観点から出発して、日本共産党内部の統一を断固として保持することは、現在においては如何なることよりも実に重要な最高の任務である」(「9.3声明)という社説を発表した。「9.3アピール」と云われている。1.17日、7.7日に続く三度目の勧告となった。

 この社説は、事実上徳球派率いる「臨中」への結束を求めていた。このたびの社説の内容は、先の友誼的勧告後一向に効き目の無かったことを踏まえて大胆に党の針路を指針させていた。この前後、徳球.野坂らは中国に渡り、国際的支持の取り付けを計った。

 アメリカの占領下に於いて日本は再びアジアに於ける帝国主義的侵略と反動ファシストの中心となりつつある。それ故に中国及び他の世界の全ての人民は日本帝国主義の後継者でありパトロンであるアメリカ帝国主義に抗して起ちあがらざるを得ないのである。彼らは日本の情勢と日本人民の闘争に最も深い関心を示している。(中略)

 今や日本人民の前には二つの道が横たわっている。一つは日本の支配階級によって示されたものであり、他の一つは日本勤労階級の党ー日本共産党ーによって示されたものである。(中略)

 その(日本共産党)現在の最高任務は党内の緊密な団結を達成することである。(中略)日本共産党の若干の党員は最近党指導部の方針の正しさについて疑問を声明し、又はそれを認めることを拒み、「極左的」冒険主義的性格の不適当なスローガンを掲げている。彼らは現情勢のさなかに党が今やっていることを停止すべきであり彼らと非現実的な討論をすべきだと主張し、且つ若干の不適当な組織方法を採用すべきだと要求している。

 かかる考えの不正確なことはあまりにも明瞭である。これらの同志は現在の情勢を冷静に考慮し彼らの不適当な要求やスローガンを放棄し、指導的党機関と党の大多数に心からの統一を行うべきである。若干の意見の相違は統一の基礎の上に漸次的に消滅させることができる。また意見の一致は討論によって、現実情勢の許すように、且つ情勢の発展に正しさを証明させることによって漸次的に達成されるであろう。

 彼らは党の統一に有害な無規律方法を採るべきではない。さもないと情勢は却って敵に利用されることになる。(中略)

 他方日本共産党の指導機関(臨時中央指導部)は最大の忍耐と考慮をもって異見を抱く全ての真面目な党員を統合すべきであり、彼らに対して気短に残酷な組織の方法をとってはならない。思想的な事柄は残酷な方法では解決できるものではない。さもないと党内の紛争は党の統一を破壊することになり、敵や挑発者に道を開くことになる。(中略)

 これは我々が日本の同志に対する心からの提案である。

【全学連の「レッドパージ反対闘争」決議】
 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動第2期」に記す。 

 8.30日、全学連緊急中央執行委員会を開いて「レッドパージ反対闘争」を決議、各大学自治会に指示を発した。9.1日、全学連.中執は、レッドパージ粉砕を声明、「レッド.パージ阻止の為、夏休み中の学生は急遽学校へ戻れ」の檄を出した。こうしてレッド・パージ反対闘争が開始された。9〜10月にかけて各地でレッドパージ粉砕闘争と結合させて試験ボイコット闘争を展開した。

 9.6日、全学連代表、CIE ルーミス課長と会見。

【朝鮮動乱その後の経過】
 9.15日、アメリカ軍は仁川上陸作戦に乗り出し、マッカーサー司令長官が自ら艦上で指揮をとった。「5000分の1の賭けだ」といっていたこの作戦が成功し、ソウルを奪回に向けての作戦が開始された。

 9.28日、ソウル奪還。この日、トルーマンはマッカーサーに対して北朝鮮での軍事行動を許可した。国連軍は国連軍は38度線を越え、朝鮮戦争の目的は「北朝鮮軍による侵略の阻止」から「北朝鮮軍の壊滅」へとエスカレートした。戦局の転換となった。

 10.15日、太平洋上のウェイク島で、トルーマン−マッカーサー会談が行われた。

 10.19日、北朝鮮の首都平穣陥落。国連軍は直ちに中国国境に進撃を開始した。

 10.25日、林彪将軍率いる中国人民解放軍18万が「抗米援朝保衛祖国」のスローガンの下に介入、義勇軍を送り込んできた。中国軍は鴨緑江を渡り、戦局はたちまち逆転し、アメリカ軍は再び38度戦の南に押し返されてしまった。

 11.28日、総司令部が中国軍20万余が北朝鮮に侵入したとの特別声明を発表した。「この結果我々は、まったく新しい戦争に直面している」。

 11.30日、トルーマン大統領は原爆使用を考慮中と恫喝している。

 12.3日、平穣放棄。

 12.16日、アメリカは朝鮮戦争の継続の決意を明らかにし、国家非常事態宣言を発表。

 12.23日、第8軍司令官ウォーカー中将が字当社事故死。後任に米陸軍参謀次長付きリッジウェイ中将が任命された。

【全学連の「レッドパージ反対闘争」】
 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動第2期」に記す。 

 この頃世情は騒然とし始めており、朝鮮戦争の拡大、警察予備隊創設、共産党と全労連の解散、出版・報道関係のレッドパージが進む状況に直面していた。

 この頃党内情勢の分裂事態が深刻で、党非合法化に対処する過程で、徳球系執行部党主流派(所感派)は国際派の宮顕・志賀らを切り捨てたまま地下に潜行した。 この党内分裂が全党末端にまで及んでいった。党主流派の主要幹部は中国に逃れ、国内の指導はその指揮下の「臨時中央指導部」に委ねられていた。 国際派の動きはまばらの野合であったが、宮顕を中心に党統一会議としてまとめられていくことになった。全学連グループはこの流れに属したことは既述した通りである。

 9.4日、統制委、「分派活動について」を発表。
 9.5日、「臨中」派は「北京人民日報社説発表に際して」、「友党の批判に答えて」を発表。「全国統一委員会」派は、「『北京人民日報』9.3社説の忠告を受けて」で、双方が「9.3声明」の受け入れを表明した。
 9.7日、椎野「臨中」議長、「人民日報社説について」声明。
【宮顕の「統一委員会」文書の改竄】
 この頃の動きとして、亀山幸三は、「戦後日本共産党の二重帳簿」の中で、宮顕のおかしな動きを伝えているのでこれを見ておくことにする。大阪の全統委結成大会で、宮顕と全国統一委員(11名)で討議、決定された文書が大幅に削除又は改竄されているとのことである。削除又は改竄部分は、党改革の有益な提言に限ったところに集中しており、無闇な分裂化へ誘導していた形跡がある。

 一つは、「コミンフォルム批判以来の国際派幹部に対する下からの批判」文を削除した。一つは、野田弥三郎派、中西功派、福本和夫派に対する攻撃をことさら大きく取り上げるよう改竄した。一つは、原文に無かった「ここに全国の責任ある党機関に所属する愛党的同志によって党統一促進のための党内のコミッティとして全国統一委員会が結成された」を挿入し、全国統一委員会があたかも全党的趨勢であるかのように分裂策動した。一つは、全国統一委員会が「朝鮮侵略戦争を続けている米帝国主義並びにその番犬、日本反動勢力に抵抗して闘う」とあった部分を削除して、全国統一委員会の任務を党統一だけの問題に限定した。これらの行為は、「肝心のところだけ、かくも無残に改竄されたのである。しかも宮本一人の判断でなされたのである」。
(私論.私観) 宮顕の党文書改竄について
 今日、我々は、この時のこうした宮顕の変調な動きをどう総括すべきだろうか、亀山が明らかにするまで隠蔽されつづけてきた史実である。宮顕は何のためにこういうことをやらかすのだろう。

【北京人民日報の「9.3アピール」の扱いを廻って、「統一委員会」の足並み乱れる】
 北京人民日報の「9.3アピール」の扱いを廻って、統一委員会は足並みが乱れた。9.9日、「全統委」派が「臨中」に党統一の申し入れ。9.11日、多田.原田.遠坂.宮川.西川.松本惣一郎、戎谷春松らの指導分子が党本部で椎野「臨中」議長、輪田一造と会見し、2回目の「党の統一のための申し入れ」をした。分裂後初めての公式会見となった。9.15日、第2回目の会合が開かれ、「全統委」派は、「一切の分派の解消と主流派による既決処分の取り消し」を条件に両派の統一を申し入れたが、「ケンカ別れに終わった」。こうして9月から10月にかけて「臨中」に中央委員会の機能の回復と統一を繰り返し申し入れたが拒否された。

 この時「臨中」派はこの「全統委」派の申し出に対し高姿勢で臨んでいる。「全党を挙げて分派活動を粉砕せよ」(「党活動指針」9.20.第61号)と突っぱね、分派活動の自己批判を要求した。

 こうした経過の中「9.3声明」に対する態度を廻って全国統一委員会は三派に分かれた。一つは、志賀義雄.松本惣一郎らで、徳球らが国際的に支持されたとみて、反対派中央委員の共同行動から離れ、「臨中」の指導下に入った復帰統一派。この時志賀は、「宮本とは訣別する」と自己批判している。神山茂夫グループは独自の立場を保持しつつ、最終的に復帰統一派に転換した。一つは、宮顕と蔵原らで、全国統一委員会の立場を堅持しつつ臨中と折衝し統一を実現するという抵抗派。その他中西らの「団結派」は独自の行動を続けることになった。

 9.16日、徳球派の「平和と独立第6号」発行。極左冒険主義の論文を掲載。9.18日、「全統委」派は、北京人民日報の「真心からの団結」、「最大限の暖かい理解」を援用し「再び統一のために訴える」を発表。

 9.20日、椎野議長談話「全党を挙げて分派活動を粉砕せよ」が発表された。これが統一委員会の申し入れに対する回答となった。注目すべきは、「第二にスパイと結び党破壊のために行った策動の全てが永久に闇に葬られる」とある。つまり、「全統委」派の背後にあるものとしてこれをスパイ視していることが伺える。

 9.27日、人民日報に10.6日「恒久平和と人民民主主義のために」に、椎野の「友党の批判に答えて」が転載された。

【GHQが占領政策の大転換、軍隊復活を指示する】
 1949.10.1日、親ソ派による新中国の誕生に象徴される植民地からの民族独立運動の昂揚、1950.6.25日、体制間代理戦争ともみなせる朝鮮動乱の発生が、米帝国主義に危機感を募らせ、日本を早急に「東アジアにおける反共の砦」化する方針が決定された。ダレス特使が来日し、日本の再軍備を強く要求することになった。こうしてそれまでの「日本弱体化政策から強化育成政策」へ占領政策が方針転換することになる。

 7.8日、GHQ最高司令官マッカーサーは本国の指示に従い、吉田首相宛てに「7万5千名からなるナショナル.ポリス.リザーブを設置せよ」を指令した。「従来の国家警察、自治体警察とは別組織であり、必要に応じて随時随所に出勤し、相当規模の機動力を持つ」と規定されており、これが警察予備隊の設置の起源となる。さしあたり4個師団編成の日本防衛隊で、将来の日本陸軍の基礎としようとするもので、朝鮮有事に米軍が派遣された後の手薄になった日本の防衛が任務であった。

 GHQのこうした方針の変更にあたっては、GHQ内部でも対立があったと伝えられている。民生局のホイットニー准将は旧内務官僚と結び、日本の再軍備を阻止しようとしていた。これに対し、情報局のウィロビー少将は東条英機の秘書官上がりの服部卓四郎大佐と結んで再軍備を推進しようとした。この対立は米国本土でも国務省と国防総省の対立に起因していた。国務相は再軍備抑止派であり、国防総省は再軍備による日本の恒久基地化を望んでいた。マーカーサーでさえその間を行きつ戻りつで決断が為しえなかったようである。従来の占領政策が至上課題としていた日本の非軍事的再建に抵触したからである。

【吉田首相の「不文律吉田ドクトリン」】
 時の首相吉田は、こうした事情からのGHQ指令であることを読み取り、その意を受け警察予備隊設置に向かう。しかし、言いなりになった訳ではない。日本の再軍備化の強要に抵抗した節があり、経済復興を最優先とする立場から「GHQ」と交渉を重ねている。警察予備隊を朝鮮に派遣することを憲法との絡みで明確に拒否しつつ、むしろ、国内の治安保持、破壊活動防止の観点で利用しようと謀った経過が見えてくる。

 この時吉田首相は合わせ技を使い、@・「軍事金食い虫」観点から「最小限軍隊」としての抑制、A・経済復興優先、B・1951年サ条約で戦後日本の独立、C・同時に日米軍事同盟の締結で応えている。このことは、外交官畑の吉田の眼が、戦後日本は米国を盟主とする資本主義陣営に身をおくことこそ賢明と判断させ、米国単独の占領政策を受け入れる代わりに引き続き経済援助を求め、資本主義的発展に道を開くことを良しとした。これに基づく政策の総称を「不文律吉田ドクトリン」と云う。この「防衛をアメリカに頼ることで防衛努力を最小限に抑え、経済合理性を最大限に重視する政策」が「不文律吉田ドクトリン」と呼ばれ、戦後日本の総路線的基本政策となって行く。但し、このドクトリンを吉田自身が明示したことはない。「この言葉は元々、政治学者の永井陽之助氏が、保守本流の外交路線の総称として言い始めた」ものが流布していくことになった。

 吉田首相はこの当時次のように述べている。「アメリカや国連による安全保障にただ乗りするつもりはないが、今再軍備すると日本の経済が持たない。これからの日本は再軍備ではなく経済で国を立てていくべきだ−これなら世界中大手をふって通る」、「日本の現状は、軍事上の要求のみで兵力量を決定するわけにはいかぬ。今はまず国に経済力をつけて、民生の安定をはかることが先決だ。日本は敗戦によって国力は消費し、やせ馬のようになっている。このヒョロヒョロのやせ馬に過度の重荷を負わせると、馬自体が参ってしまうと、はっきり参謀本部に伝えてくれ」。

 こういう観点から「アメリカ側の32万5千名規模の軍隊要求に対し、吉田は極力規模を押さえ7万5千名から11万までの増加に押さえた」とのことである。これを軍事防衛政策で見れば、「防衛をアメリカに頼ることで防衛努力を最小限に抑え、経済合理性を最大限に重視する政策」と云える。再軍備を促すダレス国務長官に対して述べた吉田首相の返答は、「日本は民主主義を守り、非武装化し、平和を愛し、世界の国々の意見に頼れば安全が守られる」趣旨を述べ、これを聞かされたダレスは、「まるで『不思議の国のアリス』のような気分にさせられた」とある(加瀬みき著「大統領宛 日本国首相の極秘ファイル」.毎日新聞社)。
(私論.私観)「吉田ドクトリン」の功罪について
 「吉田ドクトリン」の功罪は今日なお未決着である。政府自民党を仔細に分析すれば、ハト派とタカ派の絶妙な日本式バランスの上に成り立っている。吉田以降の政府自民党の主流派は、1980年初頭の鈴木政権まではハト派が御してきた。しかし、この間次第に自衛隊の肥大化が進み、建前と実態の乖離が激しく経過してきた。今や、この矛盾の解決が否応なく促されつつある。特に1980年代の中曽根政権以降、「大国的国際責任論」が勃起し始め、2003年現在この系譜を引く小泉政権の下で「自衛隊の国軍明記」を主眼とする憲法改正運動が組織されつつある。保守的な国防論議の中にあって、 「吉田ドクトリン」がどう浮沈していくことになるのかに興味が持たれる。

 2004.6.12日再編集 れんだいこ拝

 10.6日、「全統委」派が、党統一の為の訴え「三たび党統一のため訴う」を発表。この頃、全学連も日本帰還者同盟中央グループも統一を訴える意見書を発表した。

【党中央が武装闘争方針指令】
 10.7日付け共産党.徳球・野坂派の非合法機関紙「平和と独立」(10.12日付け「内外評論」にも掲載)に武装闘争方針の無署名論文「共産主義者と愛国者の新しい任務−力には力を以って闘え」(日本共産党の七十年−党史年表134P」では野坂の執筆とされている、真偽不明)が発表されている。これが武装闘争を呼びかける最初の論文となった。

 この論文に拠り、平和革命→武装革命=中核自衛隊による火炎瓶闘争へ向かう闘争方針が明確にされた。明らかな路線転換であった。都市における労働者の武装蜂起と農村遊撃戦争を組織し、その過程で結集された中核自衛隊を人民解放軍に発展させることによって全国的な武装革命を展開する方針を採った。実践的には、火炎瓶闘争の開始(ウラで「Y」とよばれた軍事組織の実体は不明、なぜ「Y」 と称したのかいまでもわからない)が指令された。

 概要次のような文面である。
 「我々共産主義者は、わが国の労働階級とすべての愛国者に対して、大胆に、率直に、今日まで公然と云えなかったことをはっきりと云わなければならぬ時機がきたと確信する。帝国主義の駆逐、日本反動政府の打倒、人民政府の樹立は、広大な人民の闘争と、そこから生まれ、それを守り、その先頭にたつ決死的な武装された人民の闘争なしには、実現できない、ということである」、「我々は極力、武力の行使を避け、平和的手段による政権の獲得をひたすら願望している。しかしながら、国内の支配階級が公然と武力によって、民族を奴隷化し人民の生命までも奪っているのが現実であるにも関わらず、人民の武装闘争の問題を提起して、これを真剣に準備せねばならぬことを、今なお人民に語らないとすれば、それは民族と革命への裏切りと云われても仕方が無いであろう」。
 概要「憲法の保障する言論.出版.集会.結社.デモ.ストライキ等の基本的自由が公然と奪われ、失業者がピストルによって職安から追い出され、供米と税金がジープによって取り立てられている今日、さにら国会から共産党議員が、政党の理由も無く追放され、国会自体が『翼賛議会』と化した今日、一体どうすれば我々は解放と革命の目的を達成することができるであろうか」、「存在しもしない『民主主義』を通じて、目的を貫徹することができるだろうか? 否である。明らかに否である。絶対にできはしない! ただマッカーサーから社会党幹部にいたる『民主主義者』のみが、それができるかのような虚偽と欺瞞とを、あつかましくも大衆に説教することができるだけである」。
 「敵が権力、すなわち軍隊、警察、裁判所、刑務所、反動団体等を動員して、人民に凶暴な弾圧を加えている時、人民だけに手をこまねいて右の頬を出せということは、結局、祖国の独立も基本的人権も人民政権も放棄せよというに他ならない。では、どうすればよいのか? 敵の権力に対しては、人民も組織された実力をもって対抗し、闘う以外に道はありえない」、「国会とは帝国主義の独裁を『民主主義』の偽装によって、人民の目をゴマかすための金のかかった道具に過ぎない。従って、このような国会を通じて、人民が政権を握りうるという主張は空想であるか、あるいはもっとも悪質有害な支配階級擁護の弁であることは明白である」。
 「平和と独立」紙第1号は次のように述べている。「恐らく、我が革命は、ロシア革命のように都市の労働者の蜂起と人民協議会とが主力となるが、同時に中国革命のような農村遊撃隊が蜂起を支援し、また決定的瞬間に至るまでの比較的長い準備期において、これを準備し、あるいは敵を消耗させ、牽制する重要な役割を演ずるであろう」。

【主流派の左旋回=武装闘争化】
 この頃中国共産党は、徳球派と連絡を深め、戦略戦術の指導にあたった。後に「極左冒険主義」と総括される武装闘争の道を指し示した。徳球等は北京に逃亡し、これら亡命した人々によって地下指導部「北京機関」がつくられた。この「北京機関」指令として、突如武力革命方針が提起されるようになった。「共産主義者と愛国者の新しい任務−力には力をもってたたかえ−」という無署名論文が10.7日付け「平和と独立」と10.12日付け「内外評論」に発表され、武力革命と武装闘争が指導されることになった。国内では、志田重男が徳球にかわり組織の指導にあたることになった。

 この背景には中国共産党の指示があった。中国共産党は、「武装した人民対武装した反革命は中国だけの特質ではない」という認識から日本革命の道筋を明らかにし、日本革命はロシア.中国.東欧の三つの革命の特徴を大なり小なり持っており、これら革命の諸経験を摂取して独自の進路を見いだすべきとした。現実の革命コースとしては、ロシアの都市労働者の武装蜂起と中国の農村遊撃隊の組織との結合を予想し、同時に軍事的知識の習得を要請した。こうして、10.15日号「党活動指針」は、「敵が民主主義の仮面をかなぐりすて、その支配を保持するために武力をもちいている以上、もはや平和で合法的な方法だけにたよっていることはできない」と、はじめて非合法活動の必要と武力闘争への転換の必要とを示唆した。
(私論.私観) 党の武装闘争と軍事方針について
 【註】「レッドパージの予感がつのっつてきたころ……野坂、長谷川に軍事方針の作成を依頼.長谷川が断ると紺野与次郎(戦前の風間委員長のころの軍事委員長)へ.紺野、全国の5万分の一の地図を集めて農村ゲリラ活動と根拠地建設の一大プランを作成.長谷川ほか多数が反対.志田は沈黙。

 51年の4全協.農村ゲリラとゼネスト・武装蜂起の折衷案.〃折衷案といっても、ゼネスト路線は遠い先の話だから、現実には農村ゲリラ型の地域解放= 中国流の地域解放闘争だけになってしまう〃〃戦後の日本資本主義をどうとらえるか、プロレタリアートと農民のどちらを重視するかという実に根本的な戦略論争〃.以後、軍事路線について、志田と長谷川は一貫して対立」とある。

【人事防衛委員会の設置】
 この年秋口頃、人事防衛委員会(人防)が設置された。これは統制委員会の下請け機関として活動することになり、党本部では阿部義美や中野雪雄などがそのメンバーであったが、国際派等の反対派狩りや「スパイ摘発」に猛威を振るうことになった。但し、六全協後は消滅させられ、統制委員会の事務室とか党本部総務部などに分散、配置されることになる。この「人防」についても党史上解明されていない。

【トラック部隊】
 この頃、人民艦隊の1隻、第三高浜丸は、中国からトラック部隊長・大村栄之助を連れ帰っている。大村栄之助とは、松岡洋右の次の満鉄総裁大村卓一の次男で風采も人当たりも良かった。トラック部隊とは、共産党が火炎瓶闘争を展開していた頃、中小会社から物資.財産を取り込もうとしたかなり過激な秘密行動組織隊であった。収奪、乗っ取り、破産させ、党の裏の財政活動をしていたとも云われているが、今日でも実態は解明されていない。
 
 朝鮮戦争が勃発し、共産軍が破竹の勢いで米韓軍を釜山橋頭堡に追い詰めた時期、党員達は本気で革命近しと信じ、「もう直ぐ、中国解放軍が日本解放の為朝鮮海峡を渡ってくる」、「北海道にソ連軍の降下部隊が降りてくる」といった話が呟かれていた。トラック部隊の動きはこうした状勢に連動していた。

 トラック部隊の正規の名称は「特殊財政部」であり、最初のキャップ大村は、昭和26年頃、駐日ソ連代表部のシバエフMVD(ソ連内務省)大佐らから、日共の活動資金を受取っていた暗号名「ロン」と呼ばれる人物だったとされている。つまり、トラック部隊は、当時の日本、ソ連、中国の各共産党が緊密な連携作戦の下に日本の革命工作をしていたことの貴重な史実となっている。主に志田系が関与し、豊富な財源となった。
(私論.私観) 「トラック部隊」の党史上からの抹殺について
 「トラック部隊」に関する情報はほぼ遮断されており、今日も判明しない。それを「当時の日本、ソ連、中国の各共産党が緊密な連携作戦の下に日本の革命工作をしていたことの貴重な史実」の観点からのみ見るのは方手落ちのような気がする。れんだいこの臭いとして、戦前の風間執行部下での「スパイM」による資金調達手法と酷似している気がしてならない。基本的に左派戦線に打撃を与える結果になる方向で諸悪事が画策されたのではないのか。

 後に触れようと思うが、これに宮顕が深く関わっているという隠蔽された史実が刻まれている

【「全国統一委員会」解体される】
 10.10日、ソ連.中国両共産党の支持を得ることに成功した「臨中」派は、ますます強気になった。10.10日、「悪質分子を孤立させよ」と呼号した(「10.10日5周年にさいし全党の同志諸君に訴える」)。こうなると、「全統委」派の情勢利あらず内部の足並みが乱れ始め、10.30日「党の統一促進のためにわれわれは進んで原則に返る−全国統一委員会の解消に際して−」声明を発し、「全国統一委員会」を解消した。結成後2ヶ月に満たない歴史となった。統一委員会は、この時のしこりで宮顕派と春日派に分かれることになった。

 この時の宮顕の論理が亀山の「戦後日本共産党の二重帳簿」で次のように明かされている。
 概要「宮本は、春日(庄)や亀山反対を押し切って唐突に全統委を解散させた。その際、形の上で全国統一委員会を解消するが、これは『隊列を解くのではなく、敵に口実を与えない為の方便である。現に存在する地方組織は解消せず、表面に名前の出ている全統委だけを解消するのだ』と策略を弄した。しかし下部からの突き上げがあり、そこで何やらこねあげてきたのが『ケルン論』であった。どういう意味かというと、『全統委を解消し、表向きは統一の姿勢をとるが、実質的には引き続き所感派に対抗していくケルン運動を展開する。ケルン組織は表に出さないので、批判されることは無い』というものであった」。

 こういう欺瞞論理に春日(庄)と亀山らが納得せず、「党内闘争にそういう虚偽は通用しない。宮本の云うようなケルン組織は組織原則の破壊であり、悪質な分派主義となる危険が有る」として反対した。宮顕は、「これこそが政治における名人芸というものだ」と嘯き、ケルンとしての宮顕グループ形成に力を入れていった。この経過と次に述べる統一会議での画策を見て、亀山は次のように評している。
 「このような宮本の遣り方は、常に形式論理を重んじ、外形を繕いながら内実では明らかに原則を逸脱した『分派主義、政治性の駆使』以外の何物でもない。まさに欺瞞と歪曲の連続であった。この辺りに宮本という人間の一つの『原型』が現れている」ろ。
(私論.私観) 党内対立の不毛性について
 この経過から見えてくることは、党は、朝鮮戦争が53.7日に板門店で休戦協定が調印されるまでの間を、この間後述するように日本の独立をめぐる講和問題が発生したこの時に、党の力量が最も問われている時に、党内が大混乱してその党内対策に熱中させられていたという馬鹿馬鹿しさを見せていることになる。

【全国統一委員会解体後の新指導部】
 日本共産党の指導体制は、@・北京機関》の国外指導部、A・国内の臨時中央指導部(臨中)、B・地下指導部ラインに一本化された。幹部配置は、北京機関の徳田球一、野坂参三、西沢隆二、椎名悦郎、地下指導部の伊藤律、志田重男となった。「国際派」七人の中央委員をすべて排除した主流派独占の指導体制となった。

 「党内抗争の力関係の結果というよりも、スターリンから委託された中国共産党の強力な指導がこの背景にあった。宮島義雄が党の密命をおびて持ち帰った三つの指示はそれを物語っている」(脇田憲一「朝鮮戦争と吹田・枚方事件」)。

【 公職追放解除】
 10.13日、「GHQ」の承認により戦争犯罪者の公職追放解除にとりかかり、1万余人の解除が発表された。
1949年 12.24日 「A級戦犯」容疑者を釈放する方針を決め、これに伴い岸信介.児玉誉士夫ら19名が巣鴨拘置所から出獄。
1950年 10.13日 石井光次郎・平野力三ら1万90名の公職追放が解除。
11.8日 重光葵らA級戦犯の仮出所が発表された。
11.10日 旧軍人3250名が初の追放解除となった。
1951年 6.20日 石橋湛山・三木武吉ら2958名の第1次追放解除。
8.2日 第1次・第2次教職追放解除。
8.6日 鳩山一郎ら1万3904名の第2次追放解除。
8.27日 元軍人2万1000名が追放解除。

 これ以降1952.4.27日まで、127回にわたって19万5205名が追放解除となり、残り6072名が講和条約発効と共に自動解除となる。

【「第1次早大事件」発生】
 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動第2期」に記す。 

 10.17日、この時早大で、第1次早大事件といわれる闘争が取り組まれ、全学連はゼネストを決行せよ指令を出し、全学連の呼びかけで早大構内で全都集会が開かれる。大学当局と警察は学生の「平和と大学擁護大会」を弾圧し、学生143名が逮捕された。10.17闘争は大会戦術の手違いと、予想以上に凶暴化した警察の手によって、かってない官権との大衝突事件となった。

 この時の、全学連中執の指導が疑惑されることになり、次のように証言されている。これが1952.2.14日の国際派東大細胞内査問・リンチ事件の遠因となる。
 「夜おそく早大に駆けつけた私は、腰紐で文字通り数珠つなぎにされた同志たちを見て容易ならざる状態であることを知った。木村とともにこの日の無理な〃突撃〃を命じた戸塚の指導が後の査問の理由のひとつとなる」。

【マッカーサー元帥が東京裁判は誤り発言】
 10月、マッカーサー元帥が、トルーマン大統領とのウェーク島会談で、「東京裁判は誤りだ」と告白したという。翌五一年五月の米議会聴聞会で次の証言も、近年注目されている。
 「原料の供給を断ち切られたら、一千万人から一千二百万人の失業者が日本で発生するだろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」。

【臨中、全国統一委員会の統一申し入れに対する拒否】
 11.1日、臨中、全国統一委員会の統一申し入れに対する拒否回答を発表。その後、排除された中央委員を代表して宮顕が統一促進の為の具体的方策を「臨中」に手渡す。

【「人民文学」創刊される】
 11月、反党中央派的であった「新日本文学」に対抗する為に、党中央派は「人民文学」を創刊している。江馬修を中心に除村吉太郎、藤森成吉、島田政雄、来栖継の5名が中心になり、創刊後は豊田正子が来栖と交替し、徳永直、岩上順一らも結集していた。高倉が巻頭論文「人民に仕える文学」を書いている。53.12月(37号)まで続いた。

【 朝鮮戦争特需】
 この朝鮮動乱は突如として日本に特需景気をもたらし、ドッジ.プランのデフレ政策に苦しんでいた日本経済に、時ならぬ利益をもたらすことになった。戦争遂行に必要な物資やサービスが日本から調達されることになったことによる。こうして、後方兵站基地として機能した日本に米軍発注の特殊需要が創出され、この年だけで1億8200万ドル、1950.6月からの一年間で3億4000万ドル(1200億円)に達し、動乱発生前の滞貨推定額1000億円を上回った。以後1955.6月までの5年間の累計は16億2000万ドルに達した、と云われている。

 日本経済は思わぬ恩恵を受けることとなり、金偏、糸偏景気といわれた動乱ブームに沸いた。開戦後一年間で、鉱工業生産は46%増え、輸出が60%以上増加し、国際収支も50年下半期より輸出超過に転じた。まさに起死回生の「干天の慈雨」となった。以降日本の独占資本は、戦争が生んだ特需景気に活路を見いだしていくことになった。

 これを証する次の資料がある。昭和9年〜11年を100とした製造業の生産指数は、22年35.1、23年52.5、24年68.9、25年82.0、26年115.1、29年173.8、32年262.5となっている。「近代日本総合年表第三版」(岩波書店)によれば、1951年度の鉱工業生産指数、製造工業生産指数は戦前の1934〜36年を1000とした場合、いずれも127.7、114.8と大幅な伸びを見せた。また、1952年度の個人国民所得は戦後7年目で戦前の水準にまで回復している。日本経済が、この間に見事に復活と再起を遂げていることが分かる。

【池田蔵相「貧乏人は麦を食え」 発言で物議】
 12.7日、第3次吉田第1次改造内閣下の池田勇人蔵相が、参議院予算委員会の国会答弁で、社会党の木村禧八郎議員が高騰する生産者米価に対する蔵相の所見をただした際に、概要「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持って行きたいというのが、私の念願であります」と発言。新聞マスコミがこれを「貧乏人は麦を食え発言」として喧伝していった。
(私論.私観) マスコミの「貧乏人は麦を食え発言」報道について
 この時のマスコミの「貧乏人は麦を食え発言報道」の公正さが問われている。前後の発言経緯が分からないが、オーバーな発言捻じ曲げ報道の疑いがある。れんだいこは、「れんだいこのカンテラ時評617 マスコミの発言歪曲記事報道考」は次のように述べている。

 「貧乏人は麦を食え発言」については、「第009回国会 予算委員会 第9号」で確認できる。(ttp://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/009/0514/00912070514009c.html)
今、これを読み取ると、1950(昭和25).12.7日、池田蔵相は次のように発言している。「御承知の通りに戰争前は、米100に対しまして麦は64%ぐらいのパーセンテージであります。それが今は米100に対して小麦は95、大麦は85ということになつております。そうして日本の国民全体の、上から下と言つては何でございますが、大所得者も小所得者も同じような米麦の比率でやつております。これは完全な統制であります。私は所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたいというのが、私の念願であります」。

 この池田蔵相発言に対し、質疑者の木村禧八郎・社会党議員が、「所得の多い者は米を食え、所得の少い者は麦を食え、例えば農村に例をとればお百姓さんは昔のように稗です粟でも食え、米を食うのは主食の統制の結果だ。それだから食習慣を昔に戻すためにこういう食糧の価格体系を考えたのである。こういうような答弁でありましたが云々」と意訳させて問題発言化させた。

 このやり取りを、「池田蔵相の『貧乏人は麦を食え』発言」として報道して行ったのが当時のマスコミであった。果たして正確であったであろうか。事実は「貧乏人は麦を食え」とまでは述べておらず、「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような経済の原則」についての池田流発言とみなすべきであり、さほど目くじらするほどのことではない。むしろ、前後のやり取りを読めば、当時の国会質疑の互いの真剣さ、質問内容の質の良さ、答弁の質の良さが見えてくる。こういうところを踏まえねばならない。この池田蔵相食言報道は為されたものの、これによって池田蔵相の問責にまでは発展していないので、多少は茶目っ気として許されるかも知れない。

【 分裂下の党の戦い】
 党は、この時期党として最も大切な職場の基盤がつぶされつつある時、党内闘争の方はますます深刻化させていき、全党のエネルギーがほとんどこの内争にそそぎ込まれる有様であった。

 党は、不幸な分裂状態におかれていたが、それぞれの当機関と組織や党員はアメリカ帝国主義の朝鮮戦争介入に公然と反対し、たたかった。党中国地方委員会は、核兵器反対運動を展開した。平和署名運動、基地闘争が展開された。統一的な運動が組織できず、闘争を発展させることができなかった。レッドパージその他の弾圧にも有効な戦いが組織できなかった。経営支部の大部分が破壊され、労働組合運動に対する指導力も弱められた。

【 「臨中」派の勝利宣言とその後】
 「統一委員会」の解体を見た「臨中」派は一層威たけだけとなった。11.1日、「臨中」と統制委員会連名で「統一委員会」派に結集した党員の復帰要項を発表した(「分派組織よりの『申入れ書』に対する回答」)。概要として、組織としての話し合いは一切受け付けず、各個人が徹底的な自己批判を行って「臨中」への忠誠を誓って活動するなら復党させても良いというものであった。「臨中」派の勝利宣言であった。「統一委員会」派に拠らなかった他の国際派グループ(「国際主義者団」.「統一協議会」.「中西派」など)は、両派の交渉ぶりを見守る態度をとった。
(私論.私観) 「臨中」派の勝利宣言について
 「臨中」派の勝利宣言も、それが党内的に解決しえず中国共産党の威を借りてようやく決着したというお粗末さであったことを「臨中」派はわきまえるべきであったと思われる。常に肝要なことは、原則であり有頂天になることではない。実際に、立場が替わって宮顕グループが執行部に座るようになった際に倍した報復を受けることになる。
(私論.私観) 中国共産党の影響力の強さについて
 ここで注意しておくべき点は、この時点で党に与える影響力について中国共産党の方がソ連のそれよりも大きなっていたということであろう。この傾向はこの後もますます強くなり、次第に中国共産党のイニシアチブの下に党が動かされていくことになる。

【 椎野「臨中」議長の「地域人民闘争プラス民族闘争プラス武装闘争」の呼びかけ】
 椎野「臨中」議長は、前衛50.12月号で「民族の危機と我が党の緊急任務」で次のように述べている。「我々の闘争は権力をとることを目的に発展させられなければならない。この観点に立てば、労働者階級の当面の要求は、直ちに農民・市民の要求と結合され、闘争は労働者階級を中軸として広範な人民闘争、権力闘争へと拡大するのである。日本の解放闘争は、この地域人民闘争を基礎とする全国的な闘争によって達成される」見解を披瀝している。

 同じくこの号で、宮田千太郎なる名で「権力獲得への基礎」で次のように論ぜられている。「地域闘争はその本質において、我が国における権力獲得の中心戦術である。それは我が国の諸条件に適用され、具体化されたマルクス・レーニン主義である。労働者階級が全人民の先頭に立ち、民族を解放し、反動支配を打破し、新しい支配形態を創造していく道がすなわち地域人民闘争である」。

 これを見れば、当時の指導部が、地域人民闘争プラス民族闘争プラス武装闘争という戦術を立てていたことが分かる。

【 宮顕が新たな分派組織の旗揚げ策動】
 「統一委員会」派は、12月頃になって、先の 「統一委員会」の解散が時期尚早であったことを確認していくことになった。こうして12月中旬には再び全国的な統一組織をつくろうとする筋書きが纏まり、年末にかけて宮顕.蔵原.春日.袴田.亀山.遠坂.原田らの旧「統一委員会」指導分子が中心となり、新たに全国的機関としてビューローを設けること、機関誌「解放戦線」、理論誌「理論戦線」、「党活動」などを発行することなどを取り決めた。志賀、神山は除かれていた。

 年末には中国共産党に理解を得ようと袴田里見を送り込んだ。
(私論.私観) 蔵原について
 ここで宮顕の次に名前の挙がっている蔵原は札付きの胡散臭い人物であることが注目されて良い。戦前のプロレタリア文化運動の大御所であったが、戦時中逮捕されているにも関わらず病気を理由に仮出獄しており、同じく転向仲間であった中本たかと結婚している。詳細は資料が入り次第に綴ることにするが、この観点はほぼ間違いない。

 この当時の宮顕グループを精密に考察することには意味があると思われる。「臨中」派がスパイ呼ばわりをしていた根拠のある人士が結集しているように思われる。

【 この頃の宮顕の動静】
 この頃の宮顕の動静を伝える次のような逸話がある。

 「征きて還りし兵の記憶」(高杉一郎著 岩波書店 平成8年)の著者高杉氏は、敗戦後シベリアに強制連行され、4年間の奴隷労働の後昭和24年に帰国した。戦前雑誌「改造」の編集者でもあったことから、その時の記録集として「極光のかげに」を出版した。作家宮本百合子と付き合いがあり、昭和25年(1950年)12月末宮本夫妻宅を訪問した。その時の逸話が次のように伝えられている。
 (「征きて還りし兵の記憶」187−8頁からの引用)

 宮本百合子が私のシベリアの話を聞きおわったころ、…階段を降りてくる足音が聞こえた。…引き戸がいきおいよく開けられた。…戸口いっぱいに立っていたのは、宮本顕治だろうと思われた。…宮本百合子が、坐ったままの場所から私を紹介した。雑誌「改造」の編集者だった、そしてこのあいだ贈られてきた「極光のかげに」の著者としての私を。すると、その戸口に立ったままのひとは、いきなり「あの本は偉大な政治家スターリンをけがすものだ」と言い、間をおいて「こんどだけは見のがしてやるが」とつけ加えた。 

 (「征きて還りし兵の記憶」206頁からの引用)

 自分は一度もシベリアに行ったことのない集団が、まる四年間そこで働かされてきた人間を突然呼び出して、おまえの見てきたシベリアの「事実」は「事実」ではないと断定するばかりか、その報告はゆるしがたい犯罪行為であるかのように攻撃するのである。





(私論.私見)