1950年中半期 | 朝鮮動乱勃発。党中央非合法化される。国際派が分派組織公然旗上げ。 |
更新日/2021(平成31.5.1日より栄和元/栄和3).8.29日
この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第2期、党中央「50年分裂」による(日共単一系)全学連分裂期の学生運動」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「1950年中半期」の政治動向を確認しておく。 2002.10.20日 れんだいこ拝 |
【「社会党第6回党大会」開催】 |
4.3日、社会党第6回臨時党大会が開かれ、先の分裂より2ヵ月後「手打ち式」的に左右両派の統一が回復された。しかし、これが社会党のお家芸とも呼ばれる無原則な離合集散劇の幕開けでもあった。委員長空席のまま書記長に浅沼稲次郎、会計に下条恭平が就任。右派優勢の布陣となった。この大会で、全面講和.中立堅持.軍事基地提供反対の平和三原則が決定された。 |
【池田蔵相一行(池田・宮沢喜一・白洲次郎秘書官)が訪米 】 |
4.25日、池田蔵相一行(池田・宮沢喜一・白洲次郎秘書官)が訪米。表向きドッジラインの緩和を求めて、極秘に対日講和の流れを打診することにあった。陸軍、国務省の要人、ドッジ公使を訪ね、この時吉田首相の極秘メッセージ「早期講和を達成するため、独立後も米国に基地を提供しても良いという日本政府の意向」を伝え、早期講和の根回し外交したことが伝えられている。 その後日談であるが、5.21日、池田蔵相一行は帰国し、すぐさま京都にいた吉田に報告に出向いた。その席での吉田の返答は、要約概要「君の労を多とするよ。外交というものが多少わかったろう。誰も知らんあいだに、時代を先に進める。新しい事態をつくる。これが外交の要諦だ。それは君にとって宰相学に通じていく」。 |
「最近その(日本共産党)散らばった残党は合法の仮面をかなぐり捨て国際的暴力の明瞭な部下となり、暴力政治、帝国主義的、目的破壊的宣伝の日本に於ける代理人の役目を受け持っている。共産党がそうなったことは、彼らが破壊しようとしている国家や法律の保護と利益をこれ以上彼らが受ける権利があるかどうかが直ちに問題となり、ひいては彼らが今後憲法によって認められた政治運動として認められるかどうかという疑問を生ぜしめる。かような疑問は勿論、平和と法律を重んずる社会に於いては他の反社会的勢力に対する場合と同じ考慮と防御をもって冷静に正しく解決されるべきである」。 |
【放送法公布】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
5.2日、戦前の無線電信法に代わるものとして電波法、電波監理委員会設置法とともに電波三法の一つとして、昭和25年法律第132号「放送法」が公布、6.1日より施行された。日本での公衆によって直接受信される目的とする電気通信の送信を行う者は、すべてこの法律によって定められたところにより規律される。これによって日本放送協会(NHK)は同法に基づく特殊法人と規定されて、社団法人から公共企業体へと改組されることとなった。また、NHK以外の事業者(民間放送事業者)の設置が認められて以後の放送に関する基本法となった。その後、1959年(昭和34年)に放送番組審議会の設置義務付け規定の設置や1988年(昭和63年)の全面改正、2010年(平成22年)の有線電気通信を用いる放送の法統合及び条名整理など、さまざまな改正が行われて現在に至っている。「戦争の反省から生まれた放送法 」と云われる。
放送法の冒頭の第一条で目的を次のように定めている。
また、番組編集についての通則として、何人からも干渉・規律されない(第3条)とし、義務として、公安・善良な風俗を害しない、政治的公平、報道は事実をまげない、意見が対立している問題はできるだけ多くの角度から論点を明らかにすること(第4条第1項)を定めるとともに、放送番組の種別(教養番組、教育番組、報道番組、娯楽番組等)及び放送の対象とする者に応じて編集の基準を定め、それに従い放送番組の編集をしなければならない(第5条第1項)としている。 2015.5.12日、参院総務委で、当時の首相補佐官だった礒崎陽輔前参院議員のシナリオに沿う形で、自民党議員の質問に総務相だった高市がこう答弁した。「一つの番組のみでも、国論を二分するような政治課題について、不偏不党の立場から明らかに逸脱していると認められる場合といった極端な場合は、一般論として、政治的に公平であることを確保しているとは認められないものと考える」。総務省は長年、政治的公平性は「一つの番組ではなく、放送事業者の番組全体を見て判断する」と解釈してきたが、これ以降、「一つの番組のみで判断することもある」と答弁するようになった。官邸による圧力と足並みをそろえるかのように、2015.11月、産経新聞や読売新聞に突如、TBS「NEWS23」のアンカーを務めていた故・岸井成格氏を名指しで批判する「放送法遵守を求める視聴者の会」の意見広告が掲載された。岸井氏は当時、安倍政権が推し進めていた安保法制に批判的な立場だった。「放送法遵守を求める視聴者の会」の発足当初の呼びかけ人は、すぎやまこういち、渡部昇一、ケント・ギルバート、小川栄太郎ら“保守論壇”の中心人物たち。この会がテレビ局や総務省に対し、放送法第4条を遵守するよう求める公開質問状を送り、高市は「一つの番組でも不偏不党の立場から明らかに逸脱していると認められる場合はある」などと返答。軌を一にして、「NEWS23」の岸井氏や「報道ステーション」の古舘伊知郎氏、「クローズアップ現代」の国谷裕子氏の番組降板が発表された。2016.2月、高市は、さらに国会答弁で「電波法に基づいた電波停止」にまで踏み込んだ。偏向的な放送が続いた「政治的公平性」の解釈変更に続いて、停波を命じる可能性を示唆しテレビ局を脅した。
政治評論家・本澤二郎氏は次のように解析している。
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【「講和の方式を廻っての吉田首相と南原東大総長の論争」 】 |
5.3日、吉田首相は、自由党議員総会秘密会で、「全面講和」を主張する南原繁東京大学総長らを指して「曲学阿世の徒」と酷評し議論を呼んだ。「民主党や社会党は野党連合の声明として永世中立を唱えているが、諸君、いまどきそんなことが可能だろうか。国際情勢から見て彼等の云う夢見たいな話は実現しっこないことは、自明の理である」、「永世中立とか全面講和などということは、言うべくして到底行われないことだ。それを南原繁東京大学総長らが政治家の領域に立ち入ってかれこれ言うことは、曲学阿世の徒にほかならない、空理空論だ」と極言し、これが新聞記事となって漏洩した。 これに対し、南原総長は5.6日、記者会見を開き、概要「かかる罵倒は、満州事変以来、美濃部博士をはじめ我々学者に対し、軍部とその一派によって押し付けられ来ったものである。それは学問の冒涜、学者に対する権力的弾圧以外のものではない。全面講和は国民の何人もが欲するところであって、それを理論付け、国民の覚悟を論ずるは、殊に私には政治学者として責務である。国際情勢を知らぬというが、それは政府関係者だけが知っているという官僚の独善的な態度に他ならない」、「現在のような複雑な国際情勢の中にあって、現実を理想に近接融合せしめるために叡智と努力を傾けることこそ、政治と政治家の任務でなければならない。それをはじめから空理空論と決め付けて、全面講和と永世中立を封じ去ろうとするところに、日本民主政治の危機の問題がある」等々と反論した。この論争の是非も興味あるところであるように思われる。 余談であるが、南原談話も新聞に大きく報道されたが、「新聞を、お読みになりましたか?」の注進に対して、吉田はこう答えたと伝えられている。「私は、日本の新聞は読まない主義でね。読むのはロンドン・タイムズひとつ。小説は、捕物帖だけを読んどるよ」。吉田の痛烈な学者とジャーナリズムに対する反骨ぶりが分かる。 |
5.30日、この日はアメリカのメモリアル・デーであったが、徳球書記長の「アメ公の向こうを張れ!」との指示で、皇居前広場に、200団体・1万5000名を集めて人民決起大会を開き、共産党、組合、大衆団体の幹部達による反米、反保守の演説をぶちまくった。この時、私服警官・GHQ軍人が摘発され騒動となり、MPにより救出された。MPは米兵に暴力をふるった容疑で8名を逮捕した。 |
【所感派の攻勢】 |
5月、東京都内組織は、所感派と國際派が混交して複雑な様相であったが、比較的学生細胞が多勢であった新宿地区委員会(早大細胞所属地区)、文京地区委員会(東大細胞所属地区)が解散させられている。都委員長・遠坂良一、同増田格之助が解任・除名処分に附されている。但し、両名は直ちに反対し、除名解除要求書を提出で応酬している。 |
【共産党東京都委が、東大細胞.早大第一細胞.全学連書記局細胞に解散命令】 | |
この頃の学生運動につき、「戦後学生運動第2期」に記す。 5.5日、共産党東京都委が、東大細胞.早大第一細胞に解散命令。分派活動、挑発的行動をしたというのが解散処分の理由であった。5.6日、全学連書記局細胞にも解散指令が出された。 以降反党中央派は、反戦学生同盟という大衆的活動家団体に結集しつつ、活動していくことになった。安東氏の「戦後共産党私記」では、この時期(3,4月頃)宮顕との接触が頻繁に為されていたことを明らかにしている。
つまり、別党コースに向かうのではなく、党にとどまって党中央攻撃をもっとやれと煽っていたということになる。 |
【全学連が第4回臨時全国大会】 |
5.20日、反米闘争の高まりの中で、全学連が第4回臨時全国大会を開いた。全学連指導部の学生は、この大会で、先の共産党の除名処分に対し自分たちの意見こそが正しく、共産党中央委員会の多数派は右翼日和見主義に陥っているとみなし、執行部の下での全学連の団結を訴えた。大会は、中央執行部の提案を圧倒的多数で支持し、「全面講和締結、占領軍撤退を宣伝のスローガンから行動のスローガンに発展させる。学生自治会を平和と民主主義と独立のための行動的組織とする。レッド.パージ反対闘争を強力に展開する」運動方針を採択し、中執の反帝平和路線を信任した。この時「身の回り主義と地域人民闘争主義を最終的に粉砕した」として、共産党中央の指導に対抗する姿勢を明確にさせた。 全学連指導部と共産党機関との対立は、はじめは学生運動の戦術上の意見の対立であったが、コミンフォルムの批判を契機として、政治方針上の対立になり、遂には組織上の対立になり、党機関の側では全学連の活動家を「極左的跳ね上がり」、「挑発分子」として攻撃し、全学連の側は党機関の方針を「身の回り主義の右翼日和見主義」、「ブルジョア選挙党への転落」と罵倒し、敵対的な抗争にまでなっていた。こうして、当初は戦術上の意見の対立であったものが政治方針上の対立に進み、そこにコミンフォルムの指摘が重なり、事大主義的傾向も発するというまことに複雑な条件の下での「不幸な対立」となっていくことになった。 |
【「5・30人民決起大会」】 | |
5.30日、民主民族戦線東京準備会主催による「5・30人民決起大会」。橋本金二虐殺抗議集会でもあったが、全面講和をかかげ、4万余の労働者、学生、婦人を集めて人民広場で決起大会が貫徹された。この時8名の青年.学生.市民が逮捕検束され、即日軍事裁判にかけられた。
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【 戦後党史第2期】/ 【ミニ第3期】=中央委員会の分裂、執行部非公然体制に移行 |
「第十九回中総」の最終局面を迎えた4.30日、党中央委員会は分裂し、6.6日、「GHQ」の公職追放指令が出され、これを予見していた党幹部は地下に潜行した。 翌6.7日、名代として椎野悦郎を議長とする「臨時中央指導部」が設置されることにより党の分裂時代が始まる。これより52.2.23日より開催された「第四回全国協議会(「四全協」)」で武装闘争路線が採用されるまでの期間を【 戦後党史第二期】/ 【ミニ第B期】とみなすことができる。 |
【中央委員会の分裂】 |
「第十九回中央委員会総会」では引き続き強められつつあった官僚的指導の克服が最終議題として予定されていたが、伊藤律が突然、日本共産党弾圧についての重大情報なるものを持ち込み、それを口実として急遽会議がうち切られた。会議の後、徳球は党本部近くのアジトで、野坂参三.西沢隆二.伊藤律.志田重男.紺野与次郎らを集めて、今後政治局員宮本顕治.志賀義雄を除外して、政治局員長谷川浩を加えて、非公然組織の準備をすすめることを申し合わせた。政治局内に党中央派フラクションが形成されたと云うことになる。 こうして中央委員会委が瓦解した。その意味するところは、執行部が暴力的に反対派グループを排除したと云うことである。既に組織上何らの意思疎通も存在し得ないほど対立していたということであろう。党員数23万6000名と発表。 |
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こうして政治局員宮本顕治.志賀義雄を除外しての非公然組織の旗揚げをどう総括すべきであろうか。今日の宮顕体制においては、この経過は、「これは党の組織原則に反して、党中央の内部に事実上の徳田派を分派的に形成する重大な誤りであり、政治局と中央委員会の統一的機能を破壊し、党解体、分裂の第一歩を踏み出すものであった」(「日本共産党の65年」P132)と総括されている。 この観点に調和しているのが小山弘健氏の「日本共産党史・第2章」であり、次のように記されている。概要「党中央の分裂という前例の無い事態の根因は、どこにあったか。徳田派は、なぜ民主主義的な討議を通じて解決を図ろうとせず、勝手な分裂行動に出たのか。反対中央は、なぜこれを阻止して統一確保のために全党を動かしえなかったのか。これらの根因は、前にもしてきたように、共産党としての正しい党風や指導体制や機関運営が存在せず、中央から一般党員にまで十分その点の自覚も訓練も無かったということである」。 しかし見てきた通り、徳球系と宮顕系の対立は既に非和解的であり、特に宮顕系をスパイ.撹乱者集団とみなしている観点からすれば、時局切迫の食うか食われるかの局面においては執行部のやむを得ない措置でもあった、とみなすことのほうが自然であろう。この状況認識抜きに徳球系執行部の方から分派したなぞと総括するのは形式主義の愚でしかなかろう。どこの世界に主流派のほうから分派する必要があるのだろう。 次に、小山氏の論評は、この肝心なことへの言及が一切無い点でヌエ的な云い回しに過ぎない。徳球派よりする宮顕派へのスパイ呼ばわりが適正であったのか、あまりにも馬鹿げていたのか、その見極めをへて論評せずんば何の役にも立たない一般論でしかない。小山氏の傾向として濃厚な「批判しまくり評論」は、この肝心な点を問わない点で駄弁に過ぎない。れんだいこは資料的価値のみ認める。 |
【「GHQ」の公職追放指令、 「レッドパージ」 】 | |
遂に「GHQ」は、強権による共産主義者の排除に踏み切ることになった。こうして日本共産党が非合法化されることになった。ここに、戦後直後の共産党を戦後改革の重要な担い手と考え、一翼として助長させる政策から180度転回したことになる。 6.6日、マッカーサーは吉田首相に書簡を送り、日本共産党全中央委員24名全員の公職追放を指令した。吉田内閣はこの書簡を受け、同日の閣議で即日追放を通達した。追放されたのは、徳球.野坂.志賀.伊藤律.春日正一.神山.春日庄次郎.袴田.長谷川浩.伊藤憲一.亀山幸三.紺野.岸本茂夫.蔵原.松本一三.松本三益.宮顕.佐藤佐藤次.志田.白川晴一.高倉テル.竹中恒三郎.遠坂寛.野坂龍の24名である。 この時のマッカーサー書簡の内容が、6.7日付毎日新聞の記事「社会の崩壊を煽動、日本に破滅の危険」との見出しで、次のように報ぜられている。
翌6.7日、マッカーサーは吉田首相に第二書簡を送り、17名(聴涛克巳主筆.高橋勝之編集局長等)のアカハタ編集委員を6.6日の追放リストに加えるよう指示した。かくて、アカハタ編集委員が公職から追われた。 |
【党幹部非公然体制に入る 】 | |||
徳球等は6月から7月にかけて地下に潜り非公然体制に入った。主流派の9名の中央委員(徳球.野坂参三.志田重男.伊藤律.長谷川浩.紺野与次郎.春日正一.竹中恒三郎.松本三益)が行動を共にした。伊藤律は、6月中旬小松雄一郎(2代目臨中議長)の手配で、東京・恵比寿の秘密アジトに潜行した。宮顕.志賀らの反主流幹部には何の連絡もせぬまま置き去りにしたままの地下潜行であった。強い不信があったということである。地下に潜った徳球党中央は後事を椎野に託した。増山太助によると、この時徳球は、「このことは宮本には云うなよ」と念を押しているということである(「運動史研究5」)。こうして非公然の「中央ビューロー」
を組織した。野坂は表向きの窓口代表に残った。 宮顕系党史論では、この時の非公然体制化を次のように批判している。「この弾圧に対して、徳田等は、正規の政治局会議や中央委員会をひらいて党中央の意志と統一をはかり戦う処置をとらず、これをやることを求めて党本部に宮顕.神山が訪れたが、徳球派はまともに対応しなかった。徳球派は、意見の違う7人の中央委員(志賀義雄.宮本顕治.蔵原惟人.袴田里見.春日正次郎.亀山幸三.神山茂夫)を排除して、一方的に地下に潜って連絡を断った」。 しかし、置いてきぼりで残された中央委員が、「孤立し自前の有効な対応を組織し得なかった」とすれば、それはまたそれでおかしなことである。 |
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袴田の「私の戦後史」によって、この時の国際派の動向が次のように明かされている。
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【臨時指導部設置される】 | |
追放命令は20日間の事務引継の猶予期間を与えていたが、党はかねてよりの手筈に従い6.7日徳球グループが地下に潜り、同時に手筈どおりにアカハタ紙上に、統制委員会名で、「共産党は人民と共に不滅である」を発表して弾圧に屈せず闘う宣言を発表する一方で、椎野悦郎を議長とする8名(輪田一造.杉本文雄.多田留治.鈴木市蔵.聴濤克巳.河田賢治.谷口善太郎)の「臨時中央指導部(臨中)」を確立し、「『臨時』指導部の任命について」を発表した。同時に「1950年6.6ファッショ的弾圧による中央委員会全員の追放に伴い、中央委員会の機能は実質的停止のやむなきにいたった」として、中央委員会の事実上の解体を是認した。 この「臨中」の下に地方委員会、都道府県委員会、地区委員会、細胞に至るまで合法組織と非合法組織の二重組織が確立されていくことになった。こうして今後は「臨中」が中央委員会に替わって時局の対応に向かうことになった。以降弾圧の下で闘う党の非公然体制を準備する方針を具体化していった。 この時期、椎野は次のような声明書を発表している。
この時か少し遅れてか不明であるが、地下指導部が形成され、志田重男が組織・人事を、伊藤律が非合法機関紙を分担することになった。小松雄一郎は機関誌部長に任命されている。 |
【朝鮮共産主義者の自律化の道】 |
レッドパージは、共産党の指導体制を混乱させた。民族対策部(民対)に依拠していた朝鮮共産主義者はこれにより独自の指導主体を確立せざるをえなくなった。これより、朝鮮活動家のそれまでの日共との蜜月時代が終わり、自律化していくことになる、という思わぬ副産物を生むことになった。 |
【宮顕、九州より帰還する】 | |
徳球らの地下潜行とは逆に、宮顕は九州から帰還したようである。宮本「私の五十年史」は次のように述べている。
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この文章から読み取れることは、宮顕がドサクサの中で東京に立ち戻り、徳球系党中央の一糸乱れぬ対応策に棹差している様子である。宮顕の云うように「二十日の猶予期間内に、政治局.中央委員会を開く」ことが可能であったか、必要であったか、「そのうち、統制委員の椎野悦郎を議長とする臨時中央指導部なるものが設けられて」の記述は虚偽であり、党中央は即刻かねての打ち合わせ通りに「臨中」を設置しているというのが史実である。 日頃、機関決定の拘束を重視する宮顕の弁からすれば、宮顕の帰還は任務放棄ではなかろうか、という疑惑も残る。ということは、万事自身のことになると適用除外という便利な規定を設けていることになろう。 |
【党中央分裂】 | |
これを他方から見れば、党の統一的機能は破壊され、党は事実上解体され、党の分裂を決定的にしたということでもあった。こうして以後5年間の分裂時代に入っていくこととなった。追放命令は20日間の事務引継の猶予期間を与えていたから、この間に政治局会議.中央委員会総会などを開いて、指導の新体制について意思統一をし、具体的に後継体制の処置をしておくことも理論的にはできた。しかし、中央委員会の分裂状況からして主流派は徹底的に宮顕グループとその息のかかるグループを排除したまま事を遂行した。こうして「この発表は統制委員会の任命という規約にない形式で為された」ことにより、反主流派の執行部批判の口実を与えることになった。 なお、統制委員会名で発表するのであれば議長だった宮顕を関与させる必要があったが、当然の事ながら宮顕に諮らず統制委員会の会議がひらかれていなかったということで「二重の意味で違法行為」として宮顕グループに執拗に攻撃されることとなった。「『臨時中央指導部』は中央委員会の解体であり、解党主義であり、分裂主義である」、「(執行部自ら中央委員会の機能停止是認する)このような見地は、マッカーサーの命令を党大会の決定、党規約に優先させるまったく明白な誤謬であり、党の民主集中制の原則に対する重大な解党主義の誤謬であった」(P134)と攻撃された。 |
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宮顕グループによるこれらの批判を状況から見れば、為にするあまりにも形式的な論拠でしかないであろう。この時執行部は既に宮顕グループと決別していたのであり、宮顕グループに相談することを意識的にしなかったのであるから、そのことを批判するということ自体無意味な批判でしかないであろう。 そのことと、既に事態は非合法化の最中である。その対応策を党の機関で公然論議すると云う手法はあり得にくい。そんなことをすれば、当局に情報が筒抜けになってしまう。つまり、宮顕グループの批判は為にするものでしかない。ちなみにこの時の党中央反対派の面々とは、志賀、宮顕、神山、袴田、春日(庄)、蔵原、亀山、遠坂良一らであった。 志賀の「日本共産党史覚え書」は次のように述べている。
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【 50当時の党の方針の特質と要点 】 |
@〈世界情勢に対する認識〉について この時期は「朝鮮動乱」直前の気配にあった。アメリカを盟主とする資本主義陣営とソ連.中国を盟主とする共産主義陣営の代理戦争が火を吹こうとしていた。党は、世界共産主義運動の連帯課題として、「民族の独立」の課題からアメリカ帝国主義との戦いに急転直下向かうことになった。 A〈国内情勢に対する認識〉について 完全な主権の回復という立場から全面講和を呼びかけることになった。全占領軍が撤退することを要求し、民主民族戦線政府の樹立をめざすことになった。「世界戦争体制にまきこみつつある帝国主義と、これに奉仕する国内の売国政府の政策に対して、全愛国者は、世界の平和勢力と提携しつつ、全力をあげて反対し、闘争しなければならぬ。これ以外に、わが民族の生きる道はないのである」とした。 B〈党の革命戦略〉について この時期天皇制の問題はほぼ消失した。民主民族戦線政府の樹立が課題となった。 C〈党の革命戦術〉について 急進化し始めた。 D〈党の当面の具体的な運動方向〉について 従前と異なり、議会主義が大いに糾弾された。大衆闘争に向けて党の運動が一本化されていくこととなった。 E〈党の大衆的指導理論〉について ※B.C.Dにつき但し、 F(党の機関運営について) G〈左翼陣営内における本流意識〉について G〈青年戦線.学生運動〉について H〈青年戦線.学生運動〉について I〈大会後の動き〉 |
【共産党の都委員会がトロツキスト全学連中央追放を発表】 |
6.1日、共産党の都委員会声明「全党員及び学生に訴える」でトロツキスト全学連中央追放を発表。 |
【労学ゼネスト】 |
この頃の学生運動につき、「戦後学生運動第2期」に記す。 6.3日、労学ゼネスト、青年祖国戦線参加を決定。早稲田、東大、外大、都立大など8校がスト。但し、共産党の切り崩しにあって不発となったと言われている。 |
【「全国代表者会議」】 |
6.18日、「臨中」の召集によって「全国代表者会議」がひらかれた(「第3回全国協議会」とされる)。会議の眼目は、「6.6追放」に伴う党指導部体制確立をすることにあった。会議は非常事態における措置として「臨中」設立を確認した。潜行9幹部と「臨中」との関係は裏と表に位置づけられた。伊藤律は、保坂.藤原.小松.服部らを部下に持ち、保坂が「臨中」議長椎野との連絡に当たった。 「分派主義者に対する決議」を採択し、志賀に対して「何ら党分裂と闘争する具体的証拠を示さなかった」と批判した。 拡大中国地方委員会から6.18付けの意見書が発表された。これに関東地方委員会が反撃した文書が6.27日「党活動方針」に掲載された。 |
6.22日、早大で、当局の集会禁止命令を蹴って自由と平和を守る会強行。この頃 GHQと日本警察による反戦言論の取り締まり。主に在日朝鮮人、共産党員、学生対象。逮捕者500人以上。 |
【朝鮮動乱の勃発 】 | |||||||||||||||||||||||
このように党内が大揺れしている時期の6.25日に朝鮮戦争が勃発している。当時どちらが先に仕掛けたかという点で「謎」とされた。双方が相手を侵略者と呼んで一歩も譲らなかったからである。 今日では北朝鮮側の方から仕掛けたということが判明している。「朝鮮人民は李承晩一味に反対するこの戦争で、朝鮮民主主義人民共和国とその憲法を守り抜き、南半部にたてられた売国的かいらい政権を一掃して、わが祖国の南半部に真の利人民政権である人民委員会を復活し、朝鮮民主主義人民共和国の旗のもとに祖国統一の偉業を完成しなければなりません」と、南半部全面開放を目指す戦争に、全人民が総決起するよう呼びかけた。北朝鮮軍の南下が始まりこうして全面的な内戦が始まった。北朝鮮軍は戦車と重砲を持つ人民軍部隊により韓国軍を打ち破り、たちまち38度線を突破しソウルを火の海にした。北朝鮮軍の奇襲は成功し、7.8月、北朝鮮軍が「怒涛のごとく南下」し、一挙に南朝鮮側を追いつめた。アメリカ軍は釜山周辺に追い詰められた。 この時のマッカーサーの様子が次のように伝えられている。6.25日、この日は日曜日であったが早朝総司令部の当直の将校から電話がなり、「元帥、只今ソウルからの電報で、今朝4時、北朝鮮の大部隊が38度線を越えて攻撃をかけて来たという報告であります」と知らされた。「何万という北朝鮮軍がなだれをうって国境を越え、韓国軍の前線部隊を押しつぶし、立ち向かうもの一切をはらいのけるほどのスピードと兵力で、南へ向かって進撃し始めたのだ。私は悪夢を見ているような奇妙な気分になった。丁度9年前のやはり日曜日の朝の同じ時刻に、私はマニラ・ホテルの屋上の家で、これと同じけたたましい電話の音に起こされた。あの時の悲痛な戦いの声が、又もや私の耳に響いている」と回想している。 マッカーサー元帥は、すぐさま国連の安全保障理事会に持ち込み、6.27日の安保理事会で韓国援助決議を採択。国連軍の名の下に軍事介入する国連決議を得た。こうしてアメリカの朝鮮戦争の介入が始まった。日本はその前進基地とされた。戦火は朝鮮海峡を越えていつ国内に飛び火するかも知れぬ事態を迎えていた。 6.30日、トルーマン大統領は、マッカーサーの度重なる要請に応えて、米地上軍の朝鮮への派遣を決定した。ここにアメリカの参戦が決定した。トルーマンは全面戦争を何とか避けようとして、マッカーサーは機敏な対応こそが勝敗を決するという姿勢の違いが発生していた。マッカーサーは、直ちに日本に駐留していた第8軍を朝鮮に送り込んだ。 この北朝鮮軍の勝利を手放しで喜んだのは日本共産党であったが、その他の者の大半は判断に迷った。7.6日社会党中央委員会が国連軍の名によるアメリカの朝鮮武力介入を精神的に支持することを決定。 7.7日、トルーマンはマッカーサーを「国連軍最高司令官」に任命。7.31日、マッカーサーは急遽台湾へ飛んで、蒋介石国民政府総統と会談した。「総統の共産主義の支配に対する不屈の決意は、米国の利益と共通のものである」として、「中国本土と戦っても支援する」との特別コミュニケを発表した。蒋介石率いる国民政府の擁護と台湾を守る強い意志を表明した。 マッカーサーは国連軍司令官として強力な軍事行動を主張し、「極東に共産主義の脅威が広がるなら原爆の使用をも辞さない」と発言し物議を呼んだ。しかし、この中国大陸との戦争事態も引き受けようとするマッカーサー声明は、台湾中立化政策のトルーマン大統領との軋轢を生むことになった。 8.19日、吉田首相は、「朝鮮動乱とわれらの立場」という声明書を発表し、概要「中立論も戦争不介入論も日本軍事基地化反対論もすべて共産党の謀略工作であると断定し、国連軍に許される限りの協力を行う」立場を明確にさせた。 |
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日共党史は、朝鮮動乱勃発経緯に付きその記述を何の弁明も無くくるくる書き換えている。
つまり、「何の説明もなく一八〇度かわっている」。代わるのは良いが、弁明が必要だろう、それが政治責任というものではなかろうか。 「70年史」の約半年前に、萩原遼・氏著「朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀―」(文芸春秋社、1993.12月初版)が出た。彼は元「赤旗」の国際部副部長で、ピョンヤン特派員員などを経て1989年に理由・説明ぬきで罷免された。但し、党員で有り続けている。彼は、「アメリカ政府の情報公開法によって米軍が一時占領した北朝鮮地域の各機関から奪ってきた百六十万頁という尨大な北側文書を国立公文書館で二年半かけて通覧。その結果、朝鮮戦争は北側が長期かつ周到な準備のすえに謀略的に南側に武力攻撃をくわえたものであることを判明させた」。 次のように記している。
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田中清玄氏の「田中清玄自伝」に次のような衝撃的な裏話が記されている。
これによると、その後の日共の武装闘争もこの観点から促され、「アメリカの後方支援兵站基地として軍事的に重要な役割を果たしている日本の後方撹乱工作の必要があった」ことから、それまでの徳球-野坂執行部の闘争方針の一挙的急進主義運動化への展開を指示した、ということになる。「50年問題」の裏史実として、このことは知られておいて良いように思われる。 田中氏はこの裏工作への関与を接触されたようで、これを断固として断った、とある。この時の経験も踏まえて次のように云う。
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【「アカハタが30日間の発行停止処分」される】 |
6.26日、朝鮮戦争を南朝鮮の侵略行為(李承晩側の越境事件)として偽りの報道をしたという理由で、アカハタを始めとする党機関紙の30日間の発行停止が指令された。「民主主義の破壊者」、「彼らの弾圧的な方法は、過去における軍国主義的指導者が日本国民をあざむき過誤を起こさせたところの方法と非常によく似ている」。 6.27日、マッカーサー書簡により、党国会議員の追放が始まった。第一回は7名が追放された。この頃より党内対立が露骨化する。 |
【戸塚秀夫(元東大細胞指導部責任者)、武井昭夫以下38名の除名処分発表】 |
6.27日、臨中統制委員会は、戸塚秀夫(元東大細胞指導部責任者)、武井昭夫以下38名を悪質な分派主義者、党破壊を企てた者たちとして、東大12名、早大10名、中大6名、法政3名、商大、教育大各1名の除名処分を発表した。 |
【共産党の朝鮮戦争事態対応】 |
6.28日、日本共産党本部で民族対策部(民対)中央会議を開き、祖国の防衛と組織の防衛強化のため軍事活動の機関として祖国防衛中央委員会を組織し(責任者慮在浩)、委員は民対部員が兼任し、各地方に祖国防衛委員会(祖防委)と祖国防衛隊(祖防隊)をつくり、祖防委が祖防隊を指導することとした。 7.1日、朝鮮戦争の緊急事態に対処する「祖国防衛委員会」と「祖国防衛隊」が結成された。 |
【吉田内閣第一次改造】 |
6.28日、吉田内閣第一次改造。 |
【電波3法が施行】 |
6月、電波法、放送法、電波監理委員会設置法の電波3法が施行された。これにより、政府は、電波を占有していた状態を改め、一部を民間に開放した。これが放送局の開局ラッシュに繋がる。 |
【住宅金融公庫設立】 |
6月、政府は、GHQの勧告も有り、住宅金融公庫を設立した。公庫の出資金には、一般会計のほか米国の対日援助物資の売上代金から100億円が充てられた。第1回の融資受付は、公庫の設立から3週間後、東京都や神奈川県、大阪府など都市部を対象とした。申込み数は3万件弱となり予定枠通りになった。住宅の建設資金を借りるには、月収が毎月返済額の7倍以上、住宅延べ床面積が30u以上、返済期間は木造で15年以内、耐火構造で30年以内とされていた。貸付金利は5.5%弱で、73年まで同水準が維持された。翌年度以降応募が殺到し、抽選倍率が数十倍に達することもあった。 公庫は、2005年度までの55年間に国内で着工された6千万戸の住宅のうち3割に融資してきたが、小泉構造改革により、2006年度待つまでに直接融資を原則禁止、2007.4月からは独立行政法人住宅金融支援機構に移行し、民間銀行の住宅ローン債権を買い取って証券化する業務に軸足を移す。 |
【日本労働組合総評議会(総評)結成】 |
7.11日、東京三田の東交会館で、労働組合内の「民同派」が中心になって、労働戦線における諸単産が結集した労働組合中央組織としての産別会議に対抗する日本労働組合総評議会(総評)が結成された。(高野実事務局長)が、「日本共産党の組合支配と暴力革命的方針を排除し」、「自由にして民主的なる労働組合によって労働戦線統一の巨大なる礎を据えた」と宣言した。日本社会党を支持する態度を決定した。 事務局長・島上善五郎は、「労働組合は政府、企業経営者など外部からのいかなる支配干渉をも絶対に排すると同時に、政党からも完全に独立自由でなければならない」と強調し、階級協調路線、自由労連加盟のすみやかな実現をうたっていた。具体的には、「当面の闘争方針」の中で、「我々の賃金闘争は企業経営の合理化、資本の技術構成、労働力の再編成(完全雇用)などの問題をめぐって、極めて頭脳的な闘いとして、取り上げられるべき段階であり、これまでの単純な『よこせ』運動、『くわせろ』運動式の賃上げ闘争は、当然止揚され、日本経済再建の課題と結びついた多角的な闘争形態へ発展すべきである」としていた。 結成大会では、「18組合、370万4400名の組合員」(正式参加17組合、377万5000名、オブザーバー参加17組合、63万5000名)を擁して発足したと報告されている。議長・武藤武雄(炭労)、副議長・長谷武麿(全逓)、松浦清一(会員)、事務局長・島上善五郎を選出した。 GHQは、この大会を「許可」したばかりではなく、「祝福」メッセージを与えている。大会には自由労連極東視察団が出席している。こうしたことから見るのに、GHQの指導の下に結成されたことが分かる。 |
7.13日、全学連、都学連など全国50カ所一斉捜索。戦後最初の全国的規模に及ぶ全学連傘下の大学の家宅捜査となった。東大、早大などで前夜相当量の書類を焼いた痕跡があったと報道された。〃軍事基地の実態を見よ !〃の勅令311号違反容疑であった。 |
7.14日、吉田首相は、施政方針演説で次のように述べている。
これが、朝鮮戦争勃発、7.8日のマッカーサーによる警察予備隊設置命令を受けての吉田政権による憲法9条解釈改憲の始まりとなった。警察予備隊はまもなく保安隊に変わり、自衛隊に変わる。その後、日本の軍事力は、第1次から第4次に至る「防衛力整備計画」によって急成長する。1次防は1958年から60年度までで総額4532億円、2次防は62年から66年で1兆1500億円から1兆1800億円、3次防は67年から71年で2兆3400億円、4次防は72年から76年で4兆6300億円で倍々の成長を遂げて行くことになる。ちなみに、4次防の水準を中曽根防衛庁長官は「大学生から社会人のレベルに達した」と満足した。 |
6.26日貴下に差し上げた余の書簡は共産党の扇動的欺瞞的破壊的宣伝を解体させようとしたものであるが、日本共産党と結びつく国際勢力は平和の維持と民主主義社会に於ける法の支配の優位性に一層激しい脅威を与え、あらゆる国々の自由なる人民に対し暴力をもって自由を奪い取ろうとする彼らの目的を明らかにしている。かかる情勢の下に於いては公の報道機関の自由にして無制限なる使用がかような目的の宣伝撒布の為に少数者に許されるとすれば、それは自由の概念の悪用であり、社会的責任に忠実な大多数の自由なる日本新聞に対し不公平となり、且つ一般の幸福を危うくすることになるであろう。 現在自由世界の軍隊が戦いつつある偉大な闘争に於いて全ての人々は彼らの責任の分担を忠実に引き受け且つ遂行しなければならぬ。かかる責任の分担の中で社会の報道機関に与えられたもの以上に大きなものはない。何となればそこには真実の報道を保証する完全な責任がかかっており、また真実の上には知識的に啓蒙された世論の発展がかかっているからである。歴史は自由の新聞がこの責任の遂行に失敗して自らの破滅を免れなかった例を記録していない。 余は日本の責任ある市民大衆の上に与えられた共産主義宣伝の破壊的影響に就いては心配していない。なぜならば日本の市民の正義と公平への献身と共産主義者の虚偽の仮面を暴く能力については既に充分な証拠があるからである。しかしながらこれまでの事実は社会的報道機関が共産主義によって破壊と暴力主義の宣伝の為に用いられること、また無責任且つ不法の少数分子を扇動して法に反対させ、秩序を乱し、社会の幸福を破壊する手段として用いられ危険のあることを警告している。それ故日本に於ける共産主義がかかる無法律の扇動によって発表の自由を悪用し続けるならば、彼らによる社会報道機関の自由なる使用は公共の利益の為に否定されなければならない。 従って余は貴政府が余の既に述べた書簡の実行についてとられつつある手段を更に強力に続行せられ、日本に於いて扇動的共産主義宣伝に従事しつつある「赤旗」及びその後継紙又は同類の発行の上に課した停止命令を無期間に維持せられんことを命ずる。 |
【「臨中」、「分派活動の全貌について」を発表し分派規制】 |
7.4日、「臨中」は、統制委員会の名で「分派活動の全貌について」を発表した。この文書は、志賀.宮顕.春日(庄).増田格之助(統制委員).遠坂ら執行部に批判的な組織グループや党員を分派主義者、分裂主義者ときめつけ、「憎むべき挑発者、分派主義者をうちくだかねばならない」と訴え、全国の組織に対してこれらの人々(志賀.宮顕ら7名の中央委員と3名の中央委員会候補その他)を排除する「除名カンパニア」を全党的に繰り広げた。このカンパニアに反対する者は分派主義者というレッテルを貼られ、組織的に排除されるか除名でおどかされるかした。その際「50年テーゼ草案」への賛否が踏み絵的に利用された。 これを反「臨中」から見れば、「 まさに全党員が団結し一つになって戦わねばならないそのとき党員相互の間に大きな混乱と疑心暗鬼をうみ、党の分裂は中央から地方へと拡大し、大衆団体の分裂にも波及し、大衆運動の指導にも不統一と混乱を引き起こした」と云える。 7.15日、増田・遠坂の除名が発表された。 臨時指導部内の唯一の国際派多田留治、参議院議員且つ作家の中野重治、北海道の婦人代議士・柄沢とし子、党中央委員袴田里美の妻・袴田菊江らが志賀派として報ぜられた。 |
【「臨中」と反中央派との確執 】 |
こうして中央委員会の解体と分裂は全党の分裂に発展した。党機関だけでなく、あらゆる大衆団体.大衆組織にも広がり、党員同士が相互に除名し合う混乱が生まれた。新日本文学会も揺れた。大衆運動の指導と不統一と混乱を拡大した。 このグループの中では中国地方委員会が最も戦闘的であった。同地方委の指導的幹部は原田長司、国会議員の田中暁平らであった。「右翼日和見主義分派を粉砕せよ!−党のボルシェヴィキ的統一の為に全党に訴う−」を載せた機関誌「革命戦士」を全国の県委員会以上の各機関に配布したりするという公然と反「臨中」行動を強めた。 安東氏の「戦後日本共産党私記」は次のように述べている。「反対派も関西地方委員会、中国地方委員会をはじめとして公然と旗上げをするに至った。とりわけ、原田長司、内藤知周に率いられた中国地方委員会の決起は、中国地方の党機関と党員の圧倒的支持を受けている点で、全党員に奮起を促すというアピールを発した点で画期的はであった機関紙『革命戦士』は全党に発送されたが、私たちはその堂々たる論陣に接して感動し、大いに力づけられたものである」。 「臨中」.統制委員会は、中国地方委員会常任委員の除名と委員会そのものの解散を含んだ「中国地方の分派主義者に対する決議」を発表した。地方委員会全体の解散措置というのは党史の上でも最初の事例であった。関西地方委員会も大きく揺れた。「臨中」派と反「臨中」派が相互に泥まみれの抗争を開始した。こうして主流派と国際派両派の抗争は、各地方各府県のいたるところに拡大していった。 「臨中」は、7.11日「臨中」反対声明をしていた長崎県委員会の県委員会解散指令、県委員長・宮島豊除名。7.11日茨城県委員会機関紙部連盟決議「党内に巣くうティトー主義反対」を声明していた水戸市委員会、全市細胞代表者会議、県委員会の数人を除名。その他、「臨中」の分派活動を非難声明していた福岡県筑豊委員会の解散。その理由として、「椎野が、九州地方委員会議長宮本に内密に分派結成をしたことが発覚した為」(来栖宗孝「日本共産党の50年問題と党内闘争」)とあるが、詳細不明。 |
【中国共産党の友誼的勧告】 |
7.7日、人民日報は、日中戦争13周年を記念する「日本人民闘争の現状」なる社説を発表した。「朝鮮へのアメリカの武力介入の開始に面して、これと闘う日本人民の民族統一戦線の結成の必要を強調し、統一戦線の発展の為に日本共産党の内部の団結が必要」という友党への勧告が為された。 7.14日、中国共産党は、党創立28周年記念に際して、日本共産党中央委員会に次のメッセージを寄せた。「(親愛なる同志諸君が)一つに団結し、さらに日本の民族独立、人民民主主義のために闘う愛国的日本人民のすべての層と団結することを望む」。 |
7.15日、最高検が徳田書記長、紺野、竹中、松本三益ら9氏に逮捕状を発布した。この時宮顕らには逮捕状が発せられていない。これを、概要「宮本らは地上に置き去りにされたためであり、ここでも運の強い人であった」(鈴木卓郎「共産党取材30年」)との理由付けが為されている。おかしなことであろう。 |
7.20日、香川県知事を勤めていた内務省官僚出身の増原恵吉が新設予備隊の長官に内定。
【レッド・パージの嵐始まる】 |
7.18日、マッカーサーは、共産党国会議員の追放、アカハタの一ヶ月停刊の指令に引き続き、無期限発刊停止処分を指令した。同時に後継.同類紙も同様に発行停止。以降、共産党の機関紙活動も非合法になった。 7.24日、新聞協会代表にレッドパージを勧告。これを皮切りに各分野にわたってレッド.パージの嵐が見舞うことになった。占領政策違反の名による逮捕数千名。集会デモの禁止。 |
【分派組織の旗挙げ】 |
公然と分派組織が名乗りを挙げた。7月、野田グループは「日本共産党国際主義者団」を結成した。「徳田一味」の打倒の為に反対派グループの統一を呼びかけた。中西グループは8月に「団結派」を結成した。相互に分派主義者呼ばわりするという奇妙な動きがみられることになった。 |
【「臨中」側、相次ぐ強権処分 】 |
(関西地方委員会の反「臨中」派を強権処分)関西地方委員会多数派は「臨中」の分派工作を非難し声明を発表していたが、「臨中」は、委員会議長・山田六左衛門、多田留治(「臨中」の一員)を除名、その他4名を活動停止処分に附した。 (中国地方委員会を強権処分)7.18日中国地方委員会が「臨中」反対声明を出し、「臨中」が「党活動方針」誌上で同地方委員会を非難していたが、8.16日「臨中」は、同委員会解散、指導的幹部7名(原田長司、内藤知周ら)を除名した。これにより中国地方の全組織が分解することとなった。「臨中」は、関西地方委員会内に中国対策委員会を設け、今後は関西地方委員会が島根・鳥取・岡山県各県組織を、九州地方委員会に山口県委員会をそれぞれ管轄させることを決定した。広島県委員会は放置された。地方委員会の解散は党始まって以来の措置であり、された方は「暴挙」と批判している。 (その他強権処分)8.1日東北地方委員会多数者による「臨中」反対意見が出されていたが、「臨中」は、同委員会の反対者を排除、委員会を改組した。8.5日福島県委員会の「臨中」反対声明が出されていたが、「臨中」は、反対者を排除、委員会を改組した。 |
7.25日、レッド・パージが新聞、放送関係から始まった。8.26日に電産。
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【「衆議院本会議で警察予備隊の設置をめぐって論戦」】 |
7.29日、衆議院本会議で警察予備隊の設置をめぐって論戦が行われた。マッカーサーの心変わりを捉えていた吉田とあいも変わらず平和の使者認識の社会党の論戦が興味深い。問題は、警察予備隊の組織の正確を吟味することなく創出していったことにある。吉田は従来「自衛のためといえども軍隊の保持は憲法第9条によって禁止されている」という立場を堅持しており、この時の警察予備隊の創設にあたっても客観的には再軍備である事実を糊塗し既成事実で容認させていくという手法で対応した。曰く、「治安維持の目的以上のものではない。再軍備の意味は、全然含んでいない。目的は国内治安の維持であり、性格は軍隊ではない」。 「事実を糊塗し既成事実で容認させていくという手法」と「戦力無き軍隊」論法で切り抜けている。この時の吉田首相の曖昧答弁が骨子となり継承されていくことになる。 この頃マッカーサーの「日本人は資質が高く、勤勉だ。駐留軍がいなくなっても、騒ぎ一つ起こらない。私は日本人を信用した、そのおかげで日本人のプライドは呼び戻されたのだ」発言が為されている。 |
【社会主義協会結成の動き】 |
1947.7月、山川均と向坂逸郎とが編集委員代表になって創刊された雑誌「前進」の起草メンバー(山川均、荒畑寒村、高橋正雄、稲村順三、小堀甚二、板垣武男、岡崎ニ邸、向坂逸郎ら)間に、朝鮮動乱以降の情況への対応に意見対立が発生し遂に廃刊されることになった。 論争の一つは、朝鮮戦争後の再軍備を廻る問題であった。二つは、に講和を廻る全面講和か単独講和かの対立であった。三つに、ソ連は社会主義社会であるかどうかという議論がむすびついた。論争は主として、小堀甚ニと向坂逸郎とが代弁した。向坂は、「再軍備不要、全面講和、ソ連は社会主義国である」ことを主張した。ほぼ全員が賛同し、小堀が反対し、板垣は書店主として、どちらの主張にも賛否をのべなかった。 この結果、山川、岡崎、稲村、向坂は、社会主義協会をつくることにした。高橋正雄は、この座にはいなかったが、社会主義協会にくわわった。荒畑はいずれにも属しない独立の意見をとった。 |
【分派最大組織「統一委員会」の旗挙げ】 |
排除された7人の中央委員は、宮顕を首魁として党の統一を回復する為と称しながら7月頃中国5県をはじめとする十余の府県組織といくつかの地区組織、大衆団体グループを傘下におさめ結集させ、8.31日、公然機関として「全国統一委員会」(「統一委員会」)をつくった。全国委員を指名して、機関紙「統一情報」を発行することを決めた。参加したのは、中国・関西地方委員会、長崎・茨城・福島の県委員会、筑豊・静岡中部・宮城県中部・岩手県東部の地区委員会、全労連、全金属、新日本文学会の中央グループその他であった。 「統一委員会」は、後述する分派別党コースを目指さず、徳球執行部に替わる執行部という立場をとった。全国委員として、多田留治.遠坂良一.原田長司の中央委員候補、統制委員の増田格之助、代議士の田中堯平、労組グループの津々良渉・西川彦義、地方機関の山田六左衛門.三羽嘉彦.宮島豊.宮川寅雄、作家の中野重治の12名を選んだ。機関紙の編集長に神山茂夫が就いた。 「統一委員会」は、反執行部派の公然組織旗揚げとなった。ここに党の分裂が明白となり、実質上中央から地方に至る二つの党組織が存在することになった。この「統一委」には、野田らが旗揚げした「国際主義者団」や「中西グループ」は「極左分派主義」として排除された。宮顕.袴田らの中央委員はパージを受けていた為名を連ねなかった。 「統一委員会」の結成アッピールは、「我が党に幡居している右翼日和見解党主義所感派分派は、かねて我が党の基本路線の発展を歪め、党のボルシェヴィキ的団結を妨げてきた」と述べ、「中央委員会の解体および一切の解党主義反対」と称し、「原則に基づく党の統一を実現するために全力を挙げる」ことを表明した。興味深いことは、この時点での党中央執行部側を「右翼日和見主義解党分派」と規定していることである。その他「すでに反革命的分子となりさがった悪質解党主義者の清掃」という呼び掛けも為された。 「統一委員会」結成後続々と結集し始めた。全学連中央グループ、東大.早大.都立大.法政大.中央大学.明治大学などの各細胞、日本帰還者同盟の中央グループ、新協劇団細胞などが参加した。 反対派の大半は「統一委員会」に結集したが、「国際主義者団」や「中西グループ」が排除されたことにより、別途小グループとして志賀系「国際主義者団」.中西らの「団結派」.神山茂夫グループ.福本和夫の率いる「日本共産党統一協議会」などが分立するという様相を示した。こうして日本共産党内の「50年分裂」は、全党的規模で公然化し、抜き差しなら無い抗争へと激化していくことになった。 |
【「臨中」派の巻き返し】 |
「臨中」側は、一層態度を硬化させ、合法機関と機関誌の全てを動員して「分派の撃滅」を叫んだ。この頃の裏の指導部では伊藤律が絶大な権限を持って合法.非合法の全ての機関誌とその出版活動を指導していた。彼の権限下に8.12日非合法機関誌「平和と独立」が、8.30日非合法理論誌「内外評論」が創刊された。裏の伊藤律と表の椎野、それを小松が伝える役割を果たしていた。 この時、「臨中」側は、分裂主義者たちが「莫大な経費を使っている。我々はその出所を知らない。何か手品を使わなければ、不可能である」と、資金源の供給ルートに疑念を発している。 |
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安東氏の「戦後共産党私記」は、党中央側のデマとみなしているが、あながちそうとは見なしきれまい。こういうところの解明が重要であるが詮索されていない。 |
【志田の登用について】 |
この頃、志田が登用されている。50年分裂の一年前、中央に引き上げられたとのことである。たちまち頭角をあらわし、伊藤律に次ぐ位置にのしあがった。やがて伊藤派と志田派の跡目争いへ発展していくことになる。 志田登用いきさつに関する山辺健太郎の次のような伝がある。「徳田君というのは、まわりに誰かがいないとやれない人で、それで志田を呼んで、伊藤律の替わりにしようとしたわけです。志田君は理論は別にないけれど、運動ではつぎからつぎに新しい手を考えて、闘争を組んでいくような才能はあったんですよ。頭はきれるほうなんです」、「彼の本拠は大阪ですが、大阪では周囲に人がたくさん集まりましたよ。いわゆる切れ者で、徳田君との関係もいいし、私兵を持っているタイプでしたから。これは面白いのですが、東京のほうにはそういうタイプの活動家はいなかった。労働組合の若手を養成して、それを手駒のように動かすというような人はいなかったのです。宮本君も労働者が好きではないのか、そういうのは作らないし、長谷川浩だって、そういうのはもっていませんからね。伊藤律ももちろんだし、東京にはそういう人がいなかった。ところが、志田は、組合出身の活動家を自分の子分として持っていました。ですから、彼の才能は、誰か優秀な人のふところ刀的な才能です。同時に自分の私兵を持っているから、派閥闘争にも強いわけです」。 |
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私観は、志田派進出の背景はもっと解明されねばならないと疑惑している。れんだいこは、宮顕派ないし公安筋が志田派を後押ししたのではないか、と見ている。 |
【徳球書記長他中国へ密航と直前の指示】 | ||||||||||||
8月末、徳球が北京に渡った。徳球は、日本を去る直前に開かれた政治局会議で、次のように指示している。
徳球のこの指示に基づき、伊藤律が機関紙・宣伝部を、志田が組織部を、椎野が臨中議長という分担でトロイカ体制を造った。それぞれにレポ(秘密連絡役)がつき、伊藤には小松雄一郎、志田には増山太助、椎野には諸橋某女が任命された。このレポたちの仲介で、週一回「3人委員会」が秘密のアジトで開かれていった。しかし、徳球という重しを欠いた3人組の合議はうまく機能しなかったようである。 |
【徳球日本脱出、中国北京に現れる】 |
この間に徳球は漁船で日本を脱出、北京に現れ毛沢東と会っている。この頃の毛沢東はスターリンと親交良く、徳球にスターリンと会うよう説得したと云われている。 この頃党は、中国へ脱出すべく人民艦隊の編成に着手しており、海上の秘密路線を作っていた。傘下の艦隊は15隻、主な出入港基地は関東から西の三崎、舞鶴、焼津、長崎等が使用されており、上海ルート、香港ルート、北朝鮮及びソ連ルートで、目的地は何れも中国であった。 |
【「警察予備隊令公布」】 |
8.10日、政令第260号により警察予備隊令公布、即日施行した。こうして「軍隊の卵」のようなものとして「警察予備隊7万5000名の創設、海上保安庁8000名」が創設され、これが今日の自衛隊の前身となる(50年警察予備隊→52年保安隊→54年自衛隊)。 ジャーナリズムは、これを「逆コース」と喧伝した。 8.13日、隊員募集に入った。吉田首相の指示で、日給5000円、2年間の勤務の後6万円の退職金という好条件がつけられていた。合計38万人が応募し、8.23日第一陣7500名余が入隊した。この時の部隊編成の担当者が後藤田。後藤田曰く「当時の日本の人材は、内務官僚の特高警察に集まっていました。特高警察というと、一番悪い奴らだと見られていますが、僕らから見ると最も視野が広く常識的、前進的で優秀な人材の集団だった。で、こうした警察経歴者の無優秀な人材を、予備隊の幹部にしろというのが民政局のホイットニーの考えだった。ところが、GHQの意図が説明してある指令所を見たら、これがなんと米国の歩兵師団の戦時編成なんです」とある。以後10月12日まで5日毎に11回にわたって目標人員が入隊した。マッカーサー書簡からわずか3ヶ月での早業であった。 |
朝鮮戦争の勃発は、対日占領の終結を遅らせ、対日講和構想の全面的改定を予想させた。しかし、吉田首相は「これこそ天啓であり」朝鮮戦争が日本の講和条約締結の時期、ひいては独立を早める絶好のチャンスと読んだ。事態はそのとおりになった。多くの人々が長引くことになったと判断した中で、吉田首相は正しく情勢をつかんでいたことになる。
8.11日、「臨中」指導で全国労働政策会議が開かれ、議長・椎野は一般報告の中で総評結成の動きを次のように批判している。「右翼社会民主主義者(民同)は、明らかに帝国主義者の手先、社会ファシストの役割を果たすに至った。彼らは、戦争挑発の国際機関世界自由労連と結び、特に外国帝国主義及び売国政府との結合を深めた」と述べ、「戦争の火付け人」とまで罵った。 |
【在日朝鮮人が祖国防衛闘争に立ち上がる】 |
8.27日、民対全国代表者会議を党本部で開き、朴恩哲の情勢報告、鄭東文議長で次の事項を決定している。 (1)、青年行動隊、祖国防衛隊などを動員して南朝鮮に送る武器弾薬の製造、輸送を中止させる。また軍需品の輸送を妨害し、日本人労働者に朝鮮内乱の真相を伝えて理解させる行動をとる。 (2)、朝鮮動乱は純然たる朝鮮の内政問題だからアメリカその他各国の干渉を許さない。 (3)、在日同胞の生活権の防衛闘争を強化する。 (4)、在日朝鮮統一民主戦線の組織が予定よりおくれているが、早急に地方組織を推進して、中央組織大会をもつように督励する。 (5)、「解放新聞」が停刊されているので(八・三)、民対と祖防委の機関紙を早急に発行する。 以上のような方針で、在日朝鮮人は朝鮮戦争が勃発するやただちに祖国防衛闘争に立ち上がった。闘争は、はじめに米日反動のデマ宣伝が乱れとぶさなかで動乱の真相を訴え、その性格を広汎に宣伝しながら、労働者大衆に武器の製造と輸送を拒否させる活動に重点がおかれた。工作活動は全国各地の青年行動隊によって主要都市と職場で行われた。なかでも神奈川県鶴見青年行動隊の闘争はとくに勇敢であった。愛国の熱情にもゆる青年たちは、弾薬の輸送に狩りだされた労働者らたちが運転するトラックの下に体を投げだし、数時間にわたって抗議をつづけた。そしてついに弾薬の輸送に狩りたてようとする人夫募集を阻止した。この勇敢な闘争は日本の労働者を強く刺激し、京浜地区の自由労働者の各職安でのサボ、抵抗運動に拡大していった。闘争に立ち上がったのは青年だけではない。主婦や子供、老人までも「朝鮮に原爆を落とさせるな!」と、ストックホルム・アピールの平和署名運動を展開した。(脇田憲一「朝鮮戦争と吹田・枚方事件」) |
8.28日、「アメリカ帝国主義者の朝鮮戦争干渉に反対するとともに祖国人民を援助するため、あらゆる手段によって、南朝鮮向けの武器の製造・輸送を阻止する」という方針を決定した。 9.3日、日本共産党臨時中央指導部が『在日朝鮮人運動について』という指令を発し、呼応する。「武器の生産と輸送を阻止するための在日朝鮮人の闘争は、日本から帝国主義を一掃し、そのカイライ国内反動勢力を打倒する日本人民の闘争と一致する」と、これを追認した。 在日朝鮮人は北朝鮮派と韓国派に分裂して抗争し始めることになった。 |
【徳球系党中央の中国行き工作】 |
8月中旬、徳球が中国に派遣した密使が帰国して中共中央の伝言を伝えた。「日本の党は、非合法生活に入った指導者たちの安全を、完全に守りきる自信があるのか。少しでも不安があれば、自分達は、日本の指導者達を迎え入れる用意がある」(「徳田球一の日本脱出記」)。 |
これまで1950.6.6日の「レッド・パージ」以降、徳球系指導部が中国へ逃亡した経緯が不明であった。ところがこのたび、宮地氏の「共産党問題、社会主義問題を考える」の「中国密航と50年8月・周恩来との会見」サイトで、徳球系党中央の中国渡航の根回し過程が明らかにされた。本文はリンク先で確認していただくとして要点を抜書きないしコメントしておく。 |
この一連の根回しを為した人は、東宝争議の指導者であり映画撮影監督であった宮島義勇氏であったことが判明した。宮島氏は東宝争議終結後党本部詰め書記局事務員となった。日共は1950.1.6日のコミンフォルム批判後党内は大分裂していくが、宮島氏は国際派に属し「神山、野坂、宮本」と近い立場で働いていたようである。「レッド・パージ」以降幹部は地下に潜るが、日共と中共はこの幹部の受け入れを廻って交渉していくことになった模様である。この工作は安斎庫治と宮島義勇の二人が別々に推し進めることになる。最初は徳球系で安斎が動くが暗礁に乗り上げる。次に野坂系の宮島が動きこれが成功する。その経過の概要は次の通り。
或る日志田重男から声を掛けられ、中国行きを指示された。実際に指示を出した奥の院が分からないが、野坂―西沢―岡田文吉がうごめいている。中国共産党宛の信任状を野坂が書き付けたことが明らかにされている。訪中前に徳球に挨拶しているが、徳球が無愛想だったことが明かされている。つまりこの計画にタッチしていないということになる。 5.2日に日本を出発し天津着。一ヶ月近く天津に滞在し、6.10日前後北京に着く。招待所に住みながら周恩来との接見の機会を伺う。この間意見書を書き上げ、8.10日前後会談に成功する。3、4時間にわたって日本の革命運動の進め方、日本の権力問題、日本国内の階級構成の問題を討議し、最後にいくつかの結論を得る。亀山の「戦後日本共産党の二重帳簿」(現代評論社刊)によると、「一、徳田をすぐ密航させよ、二、非合法組織を作れ、三、軍事方針、武装闘争の準備をせよ」の三つの問題を持ってきたとなっているが、宮島氏に拠ればそういう漫画的なものではないとしてこれを訂正している。結論的な要点は、1・党内団結、統一こそ肝要、2・弾圧されている幹部の防衛が必要、3・武装闘争を視野に入れた革命闘争の喫急化認識の必要、という友党的勧告にあったと云う。 8.19日、横浜に帰国。8.22日、党本部へ。椎野悦朗・臨時中央委員会議長、西沢隆二と会談。西沢の指示で徳球と会う。会食会談の帰り際に「野坂にも、このことを話しておいてくれ」と言われて、徳球と別れた、とある。 その後、野坂、西沢と会談。周恩来会談の第二項であった幹部の防衛という観点から、徳球系指導部を北京へ移すという話がとんとん拍子に進んでいくことになる。北京機関を作り上げるための下準備に元朝日新聞論説委員の聴涛克巳を送ることを決定している。こうして徳球、野坂の北京亡命が用意されていくことになる。凡そ以上の経過が明らかにされている。 |
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判明することは、徳球が自ら望んだのではなく、中共側からの簡明な誘いでもなく、ここでも野坂が暗躍しているという史実である。志田、西沢、岡田らの影も見えており、何のことはない後の宮顕グループ且ついずれもスパイグループという人脈でお膳立てが為されていることが判明する。このことに気づく者はあまりいないだろうが、れんだいこには透けて見えてくる。 |
8.30日、全労連本部の解散と幹部11名の公職追放。