1945年5、降伏文書調印以降、GHQの施策指令

 更新日/2022(平成31.5.1日より栄和元/栄和3)年2.7日

 (参考文献)
「Household Industries」の日本占領期年表 石川寛仁
「戦後占領史」 竹前栄治 岩波書店
「昭和の歴史8」 神田文人 小学館
「昭和天皇の終戦史」 吉田裕 岩波新書 1992.12.21

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「敗戦とGHQの進駐、施策指令」を確認する。

 2002.10.20日 れんだいこ拝


【「スターリンの戦勝演説」】
 9.2日、ソ連のスターリンは、戦勝演説を行い、対日参戦を日露戦争敗北の汚名をすすぐ為と合理化させた上で、「日本に対して特別なツケが有る」と公言した。

 ソ連軍は、9.2日、日本が降伏文書に調印するまで戦闘を続け、日本軍の戦死者は8万人を数えた。満州在住の民間人は逃げ惑い、飢えと寒さが襲う逃避行の中で倒れて行った。犠牲者は20万人余と云われている。残留孤児問題など、現在も続く数多くの悲劇がこの時生まれている。ソ連軍が侵攻した地域では、「無法なる発砲、略奪、強姦、通行中の自動車強盗など目に余る行為、全満州に頻々たり」(秦彦三郎・関東軍層参謀長の書簡)、「関東軍の所蔵していた食料、被服、株券、3705カラットのダイヤモンド、2100キログラムの金塊、それに工場の施設全体を撤去してソ連領内に持ち去った」(若槻泰雄「シベリア捕虜収容所」)という有り様だった。

【「山下泰文大将に死刑判決下される」】
 9.3日、日本の降伏文書の調印式に参加していたイギリスのバーシバル中将とアメリカのウェーんライト中将の二人が、調印式直後特別機でフィリピンのマニラへ飛んだ。首都マニラから北へ200キロ、バギオの高等弁務官別荘で、陸軍の山下泰文大将、武藤参謀長、海軍の大川内大将と有馬参謀長が出席し、日本軍の降伏調印式が行われた。山下大将は、かってバーシバル中将に「イエスかノーか」と迫って降伏させ捕虜にしていたはずのバーシバル中将が戦勝国として臨んでいる事に「自分はあの時、自決しようかと思った」と述懐しているほど屈辱を覚えさせられた。

 マニラ米軍事法廷は、山下大将に対し「日本軍の残虐行為64件」の責任を問い、戦争犯罪人として死刑求刑起訴した。部下の犯した行為に対して指揮官が全面的に責任を問われるという裁判となった。山下は、浜本正勝通訳の「決して責任を感ずると認めてはいけません」忠言に対し次のように述べている。
 「そりゃいかん。わしが責任を負わんで誰が責任を負うのか。そんな卑怯なことは、この山下は言えん。わしの首が欲しいなら、この首一つで片がつくなら、やるか」。

 1946.2.22日、山下泰文大将が、マニラ郊外の処刑場にて絞首刑された。

【第88回臨時帝国議会】
 9.4日、第88回臨時帝国議会が開かれ、昭和天皇が「開院式の勅語」として次のように述べている。
 概要「朕は、平和国家を確立して人類の文化に寄与せんことを冀(こいねが)い日夜しん念措かず云々」。

 敗戦国側からであったが英明な指針でもあったように思われる。この時、幣原喜重郎首相談話でも平和主義に徹して新日本を建設する意向を表明している。

 9.5日、ソ連軍が、北方領土の歯舞諸島を最終的に占領した。
 9.6日、ソウルで各界1千名を集めて朝鮮人民代表大会が開かれ、「朝鮮人民共和国」の樹立宣言が為された。が、9.9日米軍がソウルに進駐し、朝鮮半島は米ソによる分割統治支配体制に入った。これが日本帝国主義に代わる世界のパワーポリテックスであった。
 9.8日、進駐軍は、横浜から首都東京に進駐した。同時に、日本政府の意向を無視して、GHQ本部を皇居の隣に移した。マッカーサーは、この場所から、次々と日本統治の施策を実施していく。
 9.10日、昭和天皇を戦犯として裁くことが、アメリカの政策であるとの決議案が、アメリカ議会に提出された。この決議案の背景には、アメリカ本国と連合国とに沸き起こった、天皇の戦争責任を追求する世論があった。
 9.10日、GHQが検閲を始める。
 9.11日、GHQは、事前通告なしに、元首相東條をはじめ、37人を戦争犯罪人として逮捕、拘留した。
【重光外相更迭、吉田茂の登場】
 9.17日、重光葵外相は、大命を果たして後、終戦連絡事務所の所轄を廻って外務省内に置こうとする重光外相と、内閣直属機関として位置付けようとする緒方竹虎国務省が対立し、これが為に辞任となった。この両者は戦時中にも小磯国昭内閣の下で衝突しており、いわゆる肌が合わない関係であった。東久邇首相は重光更迭理由を日記に「一つは終戦連絡事務局は、重光の主張によって外務省に置き、人員は主として外務省関係の人々で組織したが、その仕事振りがあまりに官僚式で、事務が進行せず、後手後手になって、各省及び民間からも、その無能についての不満の声が高かったので、これを内閣直属として、民間人を入れて改革しようとした。重光はこの改革案に反対して外務大臣を辞任するといった(以下略)」と記している。「GHQ」の圧力説もある。

 後任に吉田茂が抜擢された。これが吉田氏の戦後史上の初登場となった。

 吉田茂の履歴は次の通り。1878(明治11).9.22日、土佐出身の自由民権家・竹内綱の5男として横浜で生まれた。この時、父・綱は新潟の監獄に居た。前年に西郷隆盛首謀の西南の役が勃発していたが、これにに呼応して土佐立志社の面々と共に決起した。長崎で貿易を営んでいた綱は、ジャーディン・マセソン商会からシュナイダー挺の購入を手配して逮捕された。綱は後に、土佐の板垣退助率いる民党=自由党の領袖となっている。

 茂は、吉田家に養子として入籍。綱が逮捕された時友人として面倒見てくれたのが横浜の貿易商として成功を治めていた吉田健三であり、子供が居なかったことから生後九日で貰われた。養母・土子(ことこ)は、江戸末期の漢学者で朱子学と陽明学に通じ、昌平坂学問所で官学を興した佐藤一斉の孫娘。養父・吉田健三は茂が11歳の時病死し、巨富50万円相当額の遺産を残した。長じて1867(明治10)年学習院に入り、中等科、高等科、大学科、東京帝国大学法学部政治科へ進む。1906(明治39).7月、卒業し、外交官試験にパスして外務省に入る。同年11.15日、領事館補に任ぜられ、奉天総領事館に赴く。以降、外交官として長らく働いた。

 明治42年、明治の元勲・大久保利通の次男で外交界の大立て者であった牧野伸顕(しんけん)伯爵の長女・雪子と結婚する。数々の外交に関与するが、1931(昭和6)年の満州事変による国際連盟からの脱退時には、当時イタリア大使であったが反対している。昭和11年から14年にかけてのイギリス大使の時は、ただひとり日独防共協定に反対している。「ナチス・ドイツの実力を買いかぶりすぎている。20年そこらの期間に、永仏米を相手にして、太刀打ちできるほど回復しているはずが無い」。

 昭和14.3月、失意のうちに外務省を退官して浪人になる。大東亜戦争開戦前の動きとして、三国同盟の阻止と日米開戦回避のために努力している。戦争が始まったが、昭和20.2月頃近衛文麿から「早期和平工作」を頼まれ、上奏文を起草。憲兵隊に捉まり、数週間を獄中で過ごす身となる。

 吉田の政治的特質を考える場合、特に英国大使としてのロンドン生活の影響が大きい。土着的な武士道精神に西欧型の民主政治と教養を添えた。戦前の外務省の高級官僚であり、過ぐる日の開戦の阻止に懸命となり、戦争突入後は軍部とりわけ陸軍に睨まれ特高スパイに尾行されていたにも拘わらず終戦工作に動き、東条内閣の打倒を謀って逮捕された反軍思想経歴は、自由民権家の血筋を引いているように見える。

 敗戦を向かえて、そういう吉田の過去の働きが評価されて戦後処理の人材として登用されてきたということであり、歴史の舞台の陰陽が回ったことになる。政界の大物連が戦犯指名の悪夢におびえている時、全くスネに傷のない気持ちでのこのことお濠端のGHQに出かけてゆき、渉外事項を折衝して帰ってくるのは吉田だけだったと伝えられている。この吉田がこの後首相として戦後政治の指導者として台頭、君臨していくことになる。
(私論.私観) 吉田茂の戦後史的地位について
 今日、「吉田は他の指導者と異なって『歴史に生きる』という自覚と使命感を誰よりも強く持っていた」と評されているが、日本共産党を主力とする左翼との攻防においても、まさしく「戦後の危機」を救った功労者としての歩みを見せていくことになる。ある意味で、戦後直後から挑戦動乱までの過程は、この吉田系と徳球系との頭脳戦としても火花を飛ばしあっていたのではなかっただろうか。

【天皇とマッカーサー元帥の会談交渉経緯】 
 (「昭和天皇とマッカーサー会見の時~日本を動かした一枚の写真~」参照する)

 降伏声明前後の頃、天皇は、木戸内大臣に「自分が一人引き受けて、退位でもして収めるわけには、いかないだろうか」と漏らしたと伝えられている。

 マッカーサーに、大きい影響を与えた人物がいる。軍事補佐官ボナーフェラーズである。フェラーズは、太平洋戦争が始まる前から、日本軍と天皇について研究していた。フェラーズは、天皇は日本人の精神的なよりどころであるとして、天皇の意向を利用した統治を進言したのである。秘書官は「マッカーサー元帥が、日本に到着した当初から、日本政府が大変協力的で、天皇が出した勅令「武器を捨てて占領軍に協力せよ」が実際に、非常に効果のあることがわかったんです」。しかし、GHQにとって問題だったのは、昭和天皇がどういう人柄なのか、全くわからないことだった。「昭和天皇を呼び寄せて、面会してみてはどうか」と進言があった。マッカーサーは、答えた。「いや、私は待とう。そのうち、天皇の方から、私に会いに来るだろう」。昭和天皇とマッカーサー会見の半月ほど前のことだった。

 9.26日付け、ニューヨークタイムズに「天皇、今は戦争反対だと語る」の見出しで次のような記事が掲載されている。その頃マッカーサーは、会見を前に、昭和天皇に関するあらゆる情報を集めるよう、部下に指示していた。秘書官は、「我々は、昭和天皇について、徹底的に調べました。例えば、彼は、海洋生物学の権威でした。昭和天皇が、タバコ好きなことも知りました。そこで、マッカーサー元帥は、タバコを持っていくことにしました。こうして、元帥は、昭和天皇についての十分な知識を持って、臨むことができたのです」。

 新外相となった吉田茂。新たに外相になった吉田茂は、昭和天皇に招かれ、皇居を訪れた。昭和天皇は、マッカーサーに会いたい旨を伝えた。9.20日午後、吉田外相は、昭和天皇の意向を伝えにマッカーサーを訪れた。吉田は、マッカーサーにこう聞いた。「閣下は、陛下がお訪ねになることを、期待されていますか」。マッカーサーは答えた「天皇にお目にかかることは、私としても、もっとも喜ばしいことと考えている。しかし、私は、天皇の自尊心を傷つけたり、困らせるようなことになっては、良くないと考えている」。このあと、マッカーサーは、場所は、GHQよりもアメリカ大使公邸のほうが良いと告げた。天皇の対面を慮り、プライベートな訪問の形にしたかったからだといわれている。

 この頃の昭和天皇の考えが、内大臣の記録に残されている。
 「天皇に対する米国側の論調につき、すこぶる遺憾に思し召され、自分の意志を、新聞記者を通して明らかにする」と。このあと、昭和天皇は、アメリカ人記者2人を招き、「日本の将来は英国のような立憲君主制がよいこと、日本は、再び戦争を起こさないための、必要な手段をとりうること」。

【天皇の戦争責任に対する論議】
 (「昭和天皇とマッカーサー会見の時~日本を動かした一枚の写真~」参照)

 9.18日、東久邇首相は、外国人記者団との初会見で、天皇の戦争責任に対する厳しい質問を受け、混乱と矛盾に満ちた答弁に追い込まれた。このことは、この段階でも、政府部内で天皇の戦争責任に対する意思統一がなされていなかったということになる。

 この記者会見に対する各界上層部の反応を内偵した警視庁の報告は次の通り。
 「大部に在りては、今次会見は、記者団側において我が国の急所とも称すべきところを大胆に質問せるに対し、総理宮殿下のご答弁は確信と自信に満ちたものとは解せられずとし、失望の念を表明しおれる状況」(「資料日本現代史2」)。

【GHQが「日本新聞遵則」(プレス・コード)と「日本放送遵則」(ラジオ・コード)を公表】
 9.19日(9.21日?)、GHQが「日本新聞遵則」(プレス・コード)と「日本放送遵則」(ラジオ・コード)が報道関係者に公表された。これを確認しておく。(「金融の仕組みは全部ロスチャイルドが作った③」)
  [日本出版法]
第1条  報道は厳に真実に則するを旨とすべし。
第2条   直接又は間接に公安を害するが如きものは之を掲載すべからず。
第3条   聯合国に関し虚偽的又は破壊的批評を加ふべからず。
第4条  聯合国進駐軍に関し破壊的批評を為し又は軍に対し不信又は憤激を招来するが如き記事は一切之を掲載すべからず。
第5条  聯合国軍隊の動向に関し、公式に記事解禁とならざる限り之を掲載し又は論議すべからず。
第6条  報道記事は事実に即して之を掲載し、何等筆者の意見を加ふべからず。
第7条  報道記事は宣伝の目的を以て之に色彩を施すべからず。
第8条  宣伝を強化拡大せんが為に報道記事中に些末的事項を過当に強調すべからず。
第9条  報道記事は関係事項又は細目の省略に依って之を歪曲すべからず。
第10条  新聞の編輯に当り、何等かの宣伝方針を確立し、若しくは発展せしめんが為の目的を以て記事を不当に顕著ならしむべからず。
 9.29日、「新聞と言論の自由に関する新措置」を発令。太平洋陸軍総司令部参謀第二部民間検閲支隊内に新聞映画放送部(PPB)が新設され、主要新聞は事前検閲、それ以外の新聞は事後検閲となった。あらゆる形態の印刷物、通信社、ラジオ放送、映画、宣伝媒体に属する他の娯楽も検閲を受けることになった。これにより、マスコミは日本国に対する忠誠義務から解放され、代わりに連合国の忠犬になった。連合国不都合な記事は全て封じ込まれた。

 「削除または掲載発行禁止の対象のもの」として30項目からなる検閲指針がまとめられた。

 ①SCAP―連合国最高司令官総司令部に対する批判
 ②極東軍事裁判批判
 ③SCAPが憲法を起草したことに対する批判
 ④検閲制度への言及
 ⑤合衆国に対する批判
 ⑥ロシアに対する批判
 ⑦英国に対する批判
 ⑧朝鮮人に対する批判
 ⑨中国に対する批判
 ⑩他の連合国に対する批判
 ⑪連合国一般に対する批判
 ⑫満州における日本人取り扱いについての批判
 ⑬連合国の戦前の政策に対する批判
 ⑭第三次世界大戦への言及
 ⑮ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及
 ⑯戦争擁護の宣伝
 ⑰神国日本の宣伝
 ⑱軍国主義の宣伝
 ⑲ナショナリズムの宣伝
 ⑳大東亜共栄圏の宣伝
 ㉑その他の宣伝
 ㉒戦争犯罪人の正当化および擁護
 ㉓占領軍兵士と日本女性との交渉
 ㉔闇市の状況
 ㉕占領軍軍隊に対する批判
 ㉖飢餓の誇張
 ㉗暴力と不穏の行動の扇動
 ㉘虚偽の報道
 ㉙SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及
 ㉚解禁されていない報道の公表

 こうして連合国批判や東京裁判批判につながる一切の言論が封じ込められた。
 これにより、占領軍批判に繋がりかねない原爆報道は検閲で厳しく制限されることになった。追って、米軍側は放射線障害による犠牲を否定し始め、被害の過小評価や隠蔽に躍起になった。

【「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム」考】
 GHQの「日本占領の指針」としてGHQ民間情報教育局(CI&E)が策定した「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(英語/War Guilt Information Program、略称:WGIP、「ウォー・ギルト」と略されることもある )は、日本人に戦争をしたことの罪を周知徹底させ、民族の誇りと自尊心を奪い、再び米国および連合国の脅威とならないよう日本人の精神破壊、頭脳改造、弱体無力化を目的とする計画である。この目論見による検閲と民間情報教育局宣伝が相乗効果を発揮し、戦前の日本人の歴史観・道徳観が変えられることになった。

 その手段の一つとして昭和20年12月8日から各新聞に連載された「太平洋戦争史」による宣伝が始まった。その翌日12月9日から週一回で十週間続いたラジオの「真相はこうだ」という番組がある。この番組は名称を変えながら1948.8.1日まで続いた。

 連合軍司令部が提供したその記事は、日本軍がいかに残虐であったか、日本の軍国主義者がかに非道であったかを強調していた。「太平洋戦争史」連載開始から1週間後の12月15日、神道指令が発令され、「大東亜戦争」という呼称が禁止された。こうして、日本人の立場による大東亜戦争史観を封印し、連合国の立場による太平洋戦争史観が植え付けられた。「八紘(ハッコウ)一宇」という標語も公刊される印刷物での使用を禁止された。「国体」という言葉も最初は禁句の中に入っていた。

 更に民間情報教育局は20年12月31日付命令で普通教育課程の修身、国史、地理の授業を即時中止させた。翌年度からはこれらの教科書をすっかり回収して、その後に「太平洋戦争史」を使用させるという文部省通達を出している。こうして太平洋戦争史観が教育現場に浸透することになった。

 ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラムの第三段階は東京裁判であった。審理過程についても厳しい報道管制下で批判を封じ、一方的に裁判の意義を宣伝した。その報道管制の強力な手段が検閲であった。昭和23年の東京裁判の結審で判決が下され、それ以後、東京裁判史観として次第に定着していった。東京裁判の示す歴史解釈への否定的な批判は、昭和27年4月の日本占領の終了、つまり、独立国家主権回復の日まで許されなかった。GHQ占領期間に「米軍による日本軍事占領」という事業が大成功を収めた。数々の占領行政は十分以上にその目的を達成した。プログラムの付録のような形で教育勅語が教育現場から奪われる。これによって日本人の伝統的な道徳の破壊にまで成功した。こうしたGHQ政策により「日本国体精神」が解体させられた。これにより独立主権国家の民としての“気概”が失われた。これがその後の日本の現状となつた。
(私論.私観) 「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム」考
 「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の本質を捉えた適訳を生み出し、共通認識を生み出さねばならない。これを直訳しても今一つ内容が伝わらない。そこで仮に「日本国體骨抜き政策」と命名しておく。戦後直後、戦勝国側の奥の院指令で「日本国體骨抜き政策」が発動され、それが次第次第に日本社会の絆を溶解して行くことになる。こう捉えないと、その後の日本の哀しさが見えてこない。

 【3R・5D・3S政策・日本人の骨抜き洗脳白痴化計画】
 「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の補完策として「3R」、「5D」、「3S」政策が採用されている。これらは日本人を騙して茹でガエルにする事を狙っている。
 「3R」はアメリカの対日占領政策の基本原則で、 Revenge(復讐)、 Reform(改組)、 Revive(復活) 。
 「5D」は重点的施策で、Disarmament(武装解除)、Demilitalization(軍国主義排除)、 Disindustrialization(工業生産力破壊)、 Decentralization(中央集権力解体)、Democratization(民主化)。
 「3S」(さんエス)は補助政策で、Screen(映画、後にテレビも加わる)、 Sport(スポーツ)、 Sex(セックス性産業や歪んだ性知識)。「3S」は、戦前期から「ユダヤの3S謀略」と呼ばれ知られている各国の国民の精神を骨抜きにして政治に関心を向けさせないようにする天啓的な愚民政策である。映画やテレビでは、人が何度も死ぬ場面が繰り広げられている。銃撃されて死んだり、 爆弾が爆発して死んだり、 ウイルスで死んだり・・・ これらを何度も何度も刷り込むことで慣れさせ、現実にそれが起こっても無反応、無感覚、無抵抗でいられるいわば奴隷化が実現する。他にも、戦前までの鍼灸等の東洋医学療法に代えて薬と手術を主とした西洋医学療法が推進されている。
 第33代アメリカ大統領トル-マンが次のように述べている。
 猿を「虚実の自由」という名の檻(おり)で我々が飼うのだ。方法は、彼らに多少の贅沢さと便利さを与えるだけで良い。そして、スポ-ツ、スクリ-ン、セックス(3S)を解放させる。これで、真実から目を背けさせることができる。猿は我々の家畜である。家畜が主人である我々の為に貢献するのは当然のことである。そのために、我々の財産でもある家畜の肉体は長寿にさせなければならない。(科学物質などで)病気にさせて、しかも生かし続けるのだ。これによって我々は収穫を得続けるだろう。これは戦勝国の権限でもある。

【GHQによる焚書坑儒政策】
 GHQは、GHQ統治に支障があると判断した日本の戦前の昭和3-20(1928~1945)年に出版された約22万タイトルの刊行物のうち7769冊の戦前の書物を国民に読ませないようにする為に秘密裏にリスト化して没収した(「GHQによる焚書は7,769冊!」)。これを仮に「焚書密約」と命名する。以降17年間続くことになった。

 この焚書活動は、書店や出版社の差し押さえだけではなく、全国の警察が出動して流通している対象書物をことごとく押収し、輸送中のものであっても奪った。没収を拒んだ者や没収者に危害を加えようとする者は罰せられるほど徹底していた。これにより、GHQにとって不都合な事実や戦前の日本人の考えが記された記録物が公的社会から抹殺されることになった。
 「国際連盟の脱退」を決め、その後「日独伊三国同盟」を進め、戦後「A級戦犯」の判決を下され、獄死させられたて松岡洋右の著書「東亜全局の動揺」もその内の一書である。
 https://kamijimayoshiro.jp/KJBURN01/ad/fb/lp01/
 「GHQ焚書図書一覧」で確認する。
 GHQ焚書坑儒」。
GHQ焚書坑儒
 紀元前三世紀、秦の始皇帝は「焚書坑儒」なる蛮行を行いました。これは、儒教の書物を焼き払い、儒者達を穴に生めて殺した事件です。戦後、GHQは日本に対して「宣伝用刊行物没収」なる指令で「焚書」を行います。

 戦勝国が敗戦国の憲法を創る事、新聞・雑誌・放送の検閲は勿論、相手国の歴史を消す事、書物の発禁、禁書も国際法上許されません。相手国の文化を踏みにじる行為は、絶対に許すことの出来ない蛮行です。然し「自由と平和」を標榜する米国は平然と行いました。昭和20年9月から占領期間中の新聞、雑誌、映画、放送内容、一切の刊行物が「検閲」されます。しかしながら「検閲」と「焚書」は別次元の行為です。日本では、昭和3年1月1日から昭和20年9月2日まで、約22万タイトルの刊行物が公刊されています。その中から9288点の単行本を選出し、審査の結果7769点に絞り、「没収宣伝用刊行物」に指定したのが、米国による「焚書行為」です。本の没収は文明社会が決して行っては為らぬ歴史破壊行為ですが、米国はこれを行ったのです。米軍の政治的意図は「被占領国の歴史を消す」事でしょう。然しこれだけの行為を、GHQ軍属と日本政府の行政官だけでは為し得ない作業です。日本の知識階級、學者、言論人の協力がなければ実行不能な事柄と思います。その協力の中心に東京大學文学部が存在したことが明白と為りました。「宣伝刊行物の没収」に関する「覚書」は、昭和21年3月から昭和23年4月までに全部で48回通達されます。奇妙な事に、14番と33番の通達以降に没収される本の種目点数が一気に増加しています。特に33番(昭和22年9月)以降は、前回の88種から500種と異常に増えて行きます。著者(西尾幹二氏)は、この時から日本人の協力者が参加したと推定します。「覚書」では「個別に存在する書物」、つまり民間人や図書館の書物は没収対象としないこと、然し指定した本は書店、出版社は元より全ての公共ルートから徹底的に調査し廃棄することを、宣言しています。「焚書」の原本中、約80~90%は、国立国会図書館(旧帝国図書館)に現存します。米軍は図書館の本は没収しなかったので当然ですが、「宣伝刊行物の没収の指定は、帝国図書館などの蔵書を基礎として行われた」と図書館側の証言を得ました。つまり、「焚書行為」の舞台は帝国図書館内で行われたのです。

 帝国図書館館長・岡田温(ならう)氏の回想録です。「昭和22年、外務省の矢野事務官来館、この件に関する小委員会が設けられた。外務省の田中政治部次長、矢野事務官、内閣終戦連絡事務局の太田事務官が担当で、専門委員として東京大學の尾高邦雄、金子武蔵(たけぞう)両助教授、それに私(岡田館長)が加わり、小委員会は主として帝国図書館館長室で、本委員会は委員長牧野英一氏主宰の下に、首相官邸内会議室で行われた」。ここに東京大學(旧東京帝国大學)の尾高邦雄、金子武蔵、牧野英一と謂う3名の著名學者の名前が登場します。尾高邦雄は戦後を代表する社会学者とされます。金子武蔵は和辻哲郎の東大に於ける倫理学講座の後継者と目され、後に東京大學文学部長を務めます。牧野英一は明治42年『刑GHQ焚書図書事学の新思潮と新刑法』で刑法理論に革命を起こしたとされ、東京帝国大學法学部教授として、戦前には学会のカリスマ的存在であると謂われます。社会科学と人文科学を代表する二人の學者が「小委員会」に参加し、背後に長老格の法律學者が「本委員会」の委員長として没収テーマを主宰する。この年が同じ昭和22年なのです。注目すべきは、牧野英一は昭和22年6月から同年23年5月まで、中央公職適否審査委員会委員を務めていた事実です。これはGHQによる公職追放に協力するための委員会です。彼は敵国側に附いて、昨日までの仲間を裁く役割を演じていたのです。更に彼は昭和23年7月から昭和33年11月まで、国立国会図書館専門調査委員を務め、「焚書」と謂う忌まわしい政策、そして全国展開された没収作業に、全期間を通して深く関与していたと推測される事実です。

 GHQの民間検閲支隊(CCD)の主な活動は、マス・メディアの検閲であり、これは私信開封まで行った非道な行為です。このCCDの一部門にプレス・映像・放送課(PPB)があり、その下部組織に「焚書」のリストを作成した調査課(RS)が存在します。彼等はリスト作成のみで、実行は日本政府にやらせています。最初は日本の警察が行いましたが、昭和23年6月以降文部省社会教育局に業務を移管します。それに伴い没収行為の責任者を、都道府県知事に定める文部省通達を出します。こうして「焚書」行為は徹底的に行われますが、GHQの意図が国民に知られぬように神経質なまでの配慮が為されています。「本件事務は直接関係のない第三者に知らせてはならない」。亦、没収官の「身分証明書」の裏面にも「本事務の施行されている事を当事者以外に知らせてはならない」と記載しています。ここまで秘密保持に固執して禁断の「焚書」行為は行われました。更には「没収の際に拒んだり、危害の恐れがある時は警察官公吏の強力を求め、任務の完遂を期すこと」を求めています。

 こうして「焚書」は7769点に絞り込んだ没収リストに基づいて、3万8330冊の収拾に成功します。但しこの数値は指令毎の点数と期間毎の没収冊数の数値であり、実際の没収冊数は文献がないので不明です。GHQから自社出版物を廃棄されたBEST3は、朝日新聞140点、講談社83点、毎日新聞81点です。現在は自虐史観の代表的マスコミが、ここに名を連ねています。日本は戦争に敗れましたが「焚書」される謂われはありません。一国の政治・思想・歴史・文明、そして宗教的な生きる源泉を、他民族から裁かれる理由などありません。戦後の日本国憲法は「思想の自由」「出版の自由」を謳っています。憲法は米国から押し付けられたものですが、占領中に大規模に此れ等の権利を侵したのは米国自身でした。
 2015.8.19日、西尾幹二「現代日本人に思想破壊をもたらしたGHQの焚書と日本人協力者」(SAPIO2015年9月号)。
 戦後、GHQによる言論統制があったことは有名だが、そこに多くの日本人が関わっていたことはあまり知られていない。かつて持っていた「壮大な視野」を失ってしまった現代日本人。その元凶であるGHQと日本政府の「焚書密約」の真相について、評論家の西尾幹二氏が迫る。
 * * *

 かつて戦前戦中の日本の中枢を担う指導層は、日本が中心となって世界をどうリードしていくかという壮大な視野と先を見通す力を、現代の人よりはるかに持っていた。ところが今、たとえばAIIB(アジアインフラ投資銀行)のように、日本がとうの昔に志向したものまで中国に奪われるようになってしまった。そうしたことがあらゆる事柄において起こっている。どうして、日本人は壮大な視野を失ってしまったのか。その原因は、戦後、GHQが行ってきた言論統制にあると考える。特にGHQが当時の日本政府との密約によって行った「焚書」の影響は大きい。焚書とは流通している書物を没収、廃棄することを意味する。GHQは自らの思想にそぐわない日本の書物をリスト化して没収し、国民に読ませないようにした。

 私の調べでは、焚書対象となったのは昭和3~20(1928~1945)年に出版された約22万タイトルの刊行物のうち、7769点だった。「皇室」「国体」「天皇」「神道」「日本精神」といった標題・テーマの本はもちろん、およそ思想的には問題ないと思われる本も含まれている。それらは「宣伝用刊行物」、つまりプロパガンダの道具として扱われ、没収の憂き目に遭った。 これだけの書物の内容を確認するには、GHQ内部だけで完結できるとは考えにくく、日本人の協力者がいたことが容易に想像できる。GHQから通達された「覚書」に記載された対象本は最初は十数点だったが、33回目の覚書を境にして500点前後に急増している。私はこのときに日本人協力者の参加が始まったと推測している。

 焚書行為の舞台のひとつは、帝国図書館(現・国会図書館)だった。当時の帝国図書館館長の回想記の記述は衝撃的だった。そこには「出版物追放のための小委員会」に、外務省幹部や東京大学文学部の助教授らが参加していたことが記されていた。東京大学文学部の委員が具体的にどう関与したのかは不明だが、日本人が焚書図書選定に関わったことは確かだ。仮に日本の知識人の協力がなければ、大量の本から焚書すべきものを選ぶことなどできない。当時は、公文書に残らない秘密会議として行われた。まさに日本とGHQの密約である。

 この焚書という忌まわしい行為は、昭和23(1948)年7月からは全国展開されるようになり、昭和26(1951)年まで続いた。それは、民間の一般家庭や図書館の書物は没収対象にしないものの、書店や出版社からだけでなく、すべての公共ルートから探し出して廃棄する方針で行われた。国民に知られずに秘密裏に焚書を完遂するためである。なぜならGHQは、書物の没収は文明社会がやってはならない歴史破壊であることを知っていたからだ。自由と民主主義を謳うアメリカが、言論の自由を廃する行為を行っていたことが国民に知られれば、占領政策がままならないとの認識があったのである。焚書の実行にも多くの日本人が関わった。最初は警察が本の没収を行い、昭和23年6月からはこの業務は文部省に移管され、その後は文部次官通達によって都道府県知事が責任者となって進められた。通達は、知事に対して警察と協力して流通している対象書物はことごとく押収し、輸送中のものにまで目を光らせよと厳命した。そして、没収を拒んだ者や没収者に危害を加えようとする者を罰するとしたほど徹底的であった。

【近衛文麿公爵の憲法改正の動き】
 9.25日、近衛文麿公爵は、幣原喜重郎(10.5日に首相就任)を訪れて、次のように語っている。
 「先日、マッカーサー元帥に呼ばれたので、総司令部に行ったところ、マ元帥からこう云われた。『日本憲法を改正して、もっと民主的、平和的な憲法にする必要がある。そこであなたが憲法改正をやりなさい』。自分は熟慮した結果、憲法改正の大事業を引き受けることにした。近日中にその研究を開始したい」。

【出征軍人の復員開始】
 9.26日、この頃国内の軍人の復員と出征軍人の復員が開始されていた。復員第1船高砂丸、メレヨン島から1700人を乗せ別府港に到着。

 但し、満州その周辺地域にいた関東軍は国際法に違反してシベリアに連行された。長期間強制労働に服することになり、この間多大な人命が失われた。

【三木清獄死】
 9.26日、三木清獄死。

 「桜井ジャーナル」の2020.08.15日付ブログ 「戦後日本への道は戦前を経てアヘン戦争から続いている」抜粋。
 「日本が降伏した後、哲学者の三木清が獄死しているのは象徴的な出来事。疥癬という皮膚病の患者が使っていた毛布を三木にあてがい、意識的に病気を感染させて不眠と栄養失調で死に至らしめた可能性が高い。その前日、ソ連のバチェスラフ・モロトフ外相は憲兵や警官など戦前の治安体制が存続していることを批判しているのだが、その通りだった」。

【昭和天皇のマッカーサー訪問】
 「マッカーサー元帥と昭和天皇」(榊原夏.集英社新書)、「昭和天皇とマッカーサー会見の時~日本を動かした一枚の写真~」その他を参照する。
 9.27日、天皇はマッカーサーをGHQに訪れた。この日午前9時50分、皇居の吹上御文庫を出発した昭和天皇は、シルクハット、モーニングで正装し、アメリカ大使館公邸にマッカーサー元帥を訪ねた。午前10時、車は、マッカーサーの待つアメリカ大使公邸の門をくぐった。大使公邸の玄関には、マッカーサーの姿はなく、出迎えたのは、2人の副官だけだった。マッカーサーは、この時、出迎えも見送りもしないと決めていた。昭和天皇は、同行したくない大臣などと次の間で別れ、通訳と二人だけで奥の部屋に向かった。レセプションルームで出迎えたマッカーサーは、昭和天皇を部屋の奥へと案内した。この時米軍カメラマン.ジターノ.フェイレスによって写真が撮影された。

 写真撮影のあと、2人の会見が始まった。大使館の応接間で、通訳の宮内省御掛.奥村勝蔵一人だけを交えた元帥との会談は、約35分にわたって行われた。この時の会談の様子は詳らかではない。その場で、どのような会話が交わされたのか、日米両国の政府は、未だに何も発表していない。

 1977年夏、天皇は、那須御用邸で記者会見を行い、初めて戦後の思い出を語った。しかし、マッカーサーの初会見で、何を話したかについては、言えないと答えた。「マッカーサー司令官と、はっきり、これはどこにも言わないと、約束を交わしたことですから。男子の一言の如きは、守らなければならない」と。1989年1月、昭和天皇が亡くなるまで、ついにマッカーサーとの会見の内容について語ることはなかった。

 マッカーサーは、回想記にこの日の模様を次のように記している。
 概要「タバコに火をつけて差し上げたとき、私は、天皇の手が震えているのに気がついた。天皇の語った言葉は、次のようなものだった。天皇は、私は、戦争遂行するにあたって、日本国民が政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する責任を負うべき唯一人の者として、私自身を、あなたが代表する連合国の裁定に委ねるため、ここにお訪ねしました、と述べた。私は、この瞬間、私の前にいる天皇が、日本の最上の紳士であることを感じとったのである」。

 当然のことながら天皇の戦争責任について事前に相互確認が為されていたはずである。一説によると、周囲の配慮による戦争責任を東条他日本の旧軍部に負わせようとしていた動きが為されていたが、天皇は、そういう対応を却下して、「この戦争については、自分としては極力避けたい考えでありましたが、戦争となるの結果を見ましたことは自分の最も遺憾とするところであります」、「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためお訪ねした」、「今回の戦争の責任は全く自分にあるのであるから、自分に対してどのような処置を取られても異存はない」と述べたことになる。マッカーサーはその態度を評価し、「(自分の前にいる天皇が)個人の資格においても日本の最上の紳士である」と感じた。あるいは、「戦争や革命のとき難を怖れて国外に逃亡するような元首は元首ではない。首ではなく帽子である。天皇陛下こそ国民という体躯と一体をなす首である。首と帽子とはまるで違う」と感激したとも伝えられている。

 マッカーサーは、天皇の終戦の決断につき、「終戦に当たっての陛下の御決意は、国土と人民をして測り知れざる苦痛を免れしめられた点において誠に御英断である」と称えた。これに対し天皇は次のように述べた。「私も日本国民も敗戦の現実を充分認識しておることは申すまでもありません。今後は平和の基礎の上に新日本を建設する為、私としても出来る限り力を尽くしたいと思います」、「戦争の結果現在国民は飢餓に瀕している。このままでは罪のない国民に多数の餓死者が出るおそれがあるから米国にぜひ食糧援助をお願いしたい」。

 その他「大きな風呂敷包」を持参した。皇室財産の有価証券を持参したので、国民救済費用の一部にあてて頂けば幸せであると述べたとも云われている。一身の都合をまな板の鯉に化し、国民救済を訴える美談が残されている。「かって、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に推移しているのも、これ総て陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならないことは多い。どうか、よろしくお願いしたい」、「陛下が日本の再建について、何らかの意見をお持ちであれば、いかなることでも私に云って頂きたい。陛下のご意見が連合国の政策と合致するものであれば、できるだけ速やかに実行することを約束します」とマッカーサーは答えたと云われている。この経過はこの後の天皇退位の取り沙汰との関連で興味深い。この頃、水面下で退位の準備が進められていた。マッカーサーと天皇との見事なロールプレイによって戦後の安定が作り出されていった。マッカーサーの天皇制観が深く関係していた。35分にわたった会見が終わった時、マッカーサーの昭和天皇に対する態度は変わっていた。マッカーサーは、予定を変えて、自ら昭和天皇を玄関まで送った。マッカーサーにとって、最大の好意の表れだった。

 翌日、昭和天皇とマッカーサーの会見が新聞各紙に報道された。この経過のエピソードが次のように伝えられている。対照的な雰囲気をたたえる会見写真が「天皇の尊厳が傷つけられている」と見た内務省は、写真は不敬にあたるとして旧感覚のままに新聞の掲載を禁じた。マッカーサー総司令部は、直ちに内務省の発禁措置を取り消させて、写真の掲載を指示した。既に9.10日付けで、「言論及び新聞の自由」についての指令を出していたのだが、まだ内務省は新聞に対する発売禁止を措置することが出来たということになる。追加措置を講じた。

 会見の翌々日、写真は、新聞の一面に掲載された。そして、日本中の人々に衝撃を与えた。くだけた服装のマッカーサー元帥と横並びで肩を並べる天皇の写真は、新聞紙上に公開され日本人に大きな衝撃を与えた。ゆったりと腰に手をやって構えるノーネクタイの開襟シャツにノーネクタイの軍服姿のマッカーサーとモーニング姿でいかにも緊張した面持ちで直立不動の天皇の姿が衝撃を与えた。この時天皇44歳、マッカーサー65歳。この会見写真は大々的に報道され、日本が戦争に負けたというという事実と敗戦の現実を再確認させられる出来事となった。作家高見順は「かかる写真は、誠に古今未曾有」と怒りをあらわにした。昭和天皇とマッカーサーの記念写真は、日本の国民に、あらためて敗戦を実感させるものだった。国民の多くは、「マツカサ チンノウエニアリ」と自嘲的に受け留めたと云われている。
 2002.10.17日、外務省が『マッカーサー元帥との御会見緑』を公開した。情報公開法に基づく開示請求に応じたものである。奥村謹氏の記録による漢字カタカナ文のA4判縦書きタイプ打ち9頁であるが、マッカーサー元帥と昭和天皇の遣り取りの触りが簡潔に記されている。問題は、天皇が戦争責任に言及した下りが一部削除されているのではないかとの指摘が為されており、さらに論議を呼ぶものと思われる。遣り取りのハイライト部分は次の通り。
マッカーサー  「戦争手段の進歩、殊に強大なる空軍力及び原子爆弾の破壊力は筆紙に尽くし難いものがある。今後もし戦争が起るとすれば、その際は勝者、敗者の論無く斉しく破壊され尽くして人類の絶滅に至るであろう。現在の世界には今なお憎悪と復讐の混迷が禍を捲(ま)いて居るが、世界の達見の士は宜しくこの混乱を通じて遠き将来を達観し平和の政策を以って世界を指導する必要が有る」。

 「日本再建の途は困難と苦痛に充ちて居ることと思うが、それはもし日本が戦争を継続することによって蒙るべき惨害に較ぶれば何でもん無いであろう。もし日本が更に抗戦を続けていたならば、日本全土は文字通り殲滅し何百万とも知れぬ人民が犠牲になったであろう。

 自分は日本を相手に戦って居ったのであるから日本の陸海軍が如何に絶望的状態に在ったかを充分知悉して居る。終戦に当たっての陛下の御決意は国土と人民をして測り知れざる痛苦を免れしめられた点において誠に御英断であった」。
昭和天皇  「この戦争については、自分としては極力これを避けたいと考えてありましたが、戦争となる結果を見ましたことは自分の最も遺憾とするところであります」。
マッカーサー  「陛下が平和の方向に持って行く為御*念あらせられた御胸中は自分の充分諒察申し上ぐるところであります。只一般の空気がとうとうとしてある方向に向いつつある時、別の方向に向かってこれを導くことは一人の力を以っては為しがたいことであります。恐らく最後の判断は、陛下も自分も世を去った後、後世の歴史家及び論に依って下さるるをまつ他無いでありませう」。
昭和天皇  「私も日本国民も敗戦の事実を充分認識して居ることは申すまでもありません。今後は平和の基礎の上に新日本を建設する為私としても出来る限り力を尽くしたいと思います」。
マッカーサー  「それは崇高な御心持であります。私も同じ気持ちであります」。
昭和天皇  「『ポツダム宣言』を正確に履行したいと考えて居りますことは先日侍従長を通じ閣下に御話した通りであります」。
マッカーサー  「終戦後、陛下の政府は誠に多忙の中に拘わらず、あらゆる命令を一々忠実に実行して余すところが無いこと、又幾多の有能な官吏が着々任務を遂行して居ることは賞賛に値するところであります。又聖断一度下って日本の軍隊も日本の国民も総て整然とこれに従った見事な有様はこれ即ち御稜威のしからしむるところでありまして、世界いずれの国の元首といえども及ばざるところであります。これは今後の事態に処するに当たり陛下の御気持ちを強く力つけて然るべきことかと存じます」。

 「申しあぐるまでみなく陛下ほど日本を知り日本国民を知る者は他に御座いませぬ。従って今後陛下におかれ何らご意見ないしお気づきの点(opinions and advice)も御座いますれば、侍従長その他申聞け下さるようお願いいたします。それは私の参考として特に有り難く存ずるところで御座います。勿論総て私限りの心得として他に洩らすが如きことは御座いませんから、何時なりとも又如何なる事であろうと随時御申聞け願いたいと存じます」。
昭和天皇  「閣下の使命は東亜の復興即ちその安定及び繁栄を齎(もたら)し世界平和に寄与するに在ることと思いますが、この重大なる使命達成の御成功を祈ります」。
マッカーサー  「それ(東亜の復興等々)はまさに私の念願とするところであります。只私より上の権威(オーソリティー)が有って私はそれに使われる出先(エイジェンシー)に過ぎないのであります。私自身がその権威であればと言う気持ちが致します」。
昭和天皇  「閣下の指揮下の部隊による日本の占領が何らの不祥事無く行われたことを満足に存じて居ります。この点においても今後閣下のご尽力にまつところ大なるものがあると存じます」。(以下略、この間約37分)

 天皇とマッカーサーの会見は、この後マッカーサー元帥が離日するまで計11回半年に一度のぐらいのペースで会談することになった。

 写真掲載の3日後、マッカーサーは軍事補佐官から、天皇について進言を受けた。「もしも天皇が、戦争犯罪人のかどで、裁判にかけられれば、統治機構は崩壊し、全国的な反乱が避けられないだろう」と。この年11月、アメリカ政府は、マッカーサーに対し、昭和天皇の戦争責任を調査するよう要請した。マッカーサーは、「戦争責任を追及できる証拠は一切ない」と回答した。
 「マッカーサー回想記訳文」を転載しておく。(本文は、1964年に出版された、Douglus MacArthur著 Reminiscencesの中で昭和天皇との最初の会見の様子を記した、P288を和訳したものである。訳文は、昭和39年1月25日付け、朝日新聞より引用している。傍線は、本稿筆者が付した)
 天皇は落ち着きがなく、それまでの幾月かの緊張を、はっきり顔に表していた。天皇の通訳官以外は、全部退席させた後、私達は、長い迎賓室の端にある暖炉の前に座った。私が、米国製のタバコを差し出すと、天皇は礼を言って受け取られた。そのタバコの火をつけて差し上げたとき、私は、天皇の手が震えているのに気がついた。私は、できるだけ天皇のご気分を楽にすることにつとめたが、天皇の感じている屈辱の苦しみが、いかに深いものであるかが、私には、よくわかっていた。

 私は、天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴え始めるのではないか、という不安を感じた。連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろと言う声がかなり強くあがっていた。現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、天皇が筆頭に記されていたのだ。私は、そのような不公正な行動が、いかに悲劇的な結果を招くことになるかが、よく分っていたので、そう言った動きには強力に抵抗した。

 ワシントンが英国の見解に傾きそうになった時には、私は、もしそんな事をすれば、少なくとも百万の将兵が必要になると警告した。天皇が戦争犯罪者として起訴され、おそらく絞首刑に処せられる事にでもなれば、日本に軍政をしかねばならなくなり、ゲリラ戦が始まる事は、まず間違いないと私は見ていた。結局天皇の名は、リストからはずされたのだが、こういったいきさつを、天皇は少しも知っていなかったのである。

 (昭和天皇のお言葉)

 「私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する、全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした」。私は、大きい感動にゆすぶられた。死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする。この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても、日本の最上の紳士である事を感じ取ったのである。

 (付記)

 マッカーサー元帥は、側近のフェラーズ代将に、「私は天皇にキスしてやりたいほどだった。あんな誠実な人間をかつて見たことがない」と語ったと言う。(当時外務大臣であった重光葵氏が、1956年9月2日、ニューヨークでマッカーサー元帥を尋ねたときの談話による) 他にも、「一言も助けてくれと言わない天皇に、マッカーサーも驚いた。彼の人間常識では計算されない奥深いものを感じたのだ」(中山正男氏、日本秘録98項)。「この第一回会見が済んでから、元帥に会ったところ、陛下ほど自然そのままの純真な、善良な方を見た事がない。実に立派なお人柄である」と言って陛下との会見を非常に喜んでいた」(吉田茂、回想十年)などの記録がある。 

 マッカーサー元帥は、陛下がお出での時も、お帰りのときも、玄関までは出ない予定であった。しかし、会見後、陛下がお帰りの際には、思わず玄関までお見送りしてしまい、慌てて奥に引っ込んだ事が、目撃されている。〈吉田茂、回想十年104項以降〉。

(私論.私観) 「2002.10.17日公開『マッカーサー元帥との御会見緑』」について

 9月、ベトナム民主共和国樹立。
 9.27日、GHQ、日本政府による検閲を停止させ、新聞等を自らの支配下に置く。
【プレ財閥解体の動き】
 9.27日、天皇が初めてマッカーサー元帥を訪問していた丁度この日、東京.三田の三井別邸で三井財閥幹部とGHQとの財閥解体に関する第一回会談が持たれた。アメリカ側代表は経済問題担当のレイモンド.C.クレーマー大佐で、経済科学局局長であった。クレーマー大佐は次のように述べた。
 概要「我々は日本経済を破壊しようと思っているのではない。日本経済を立て直そうと思っているのだ。基本的には日本に民主的な経済活動を回復することだ。但し、その際軍国主義につながるあらゆる要素を徹底的に排除しておく必要がある。これがアメリカ政府の基本的方針だ。わかりますか?」。

 これを補足すれば次のように説明し得る。財閥解体政策担当者の一人エリノア.ハードレイ女史は次のように記している。
 「日本の財閥解体政策を遂行した米国の決断を、私個人としても誇らしく思っています。この解体は経済的理由よりも政治的理由から行われたものです。民主主義を育てることは米国の安全保障上、重要なことだと考えられたのです。財閥形成の在り方は日本と欧米では違いますが、まず手をつけなければならないのは、財閥の影響力です。どうすれば、経済的機会の平等が達成できるかということでした。米国の安全の為には、日本の民主化が必要と考えられていたのです」。







(私論.私見)