1945年4、終戦直後の動き 敗戦とGHQの進駐、施策指令
 更新日/2022(平成31.5.1日より栄和元/栄和4).2.16日

 (参考文献)
「Household Industries」の日本占領期年表 石川寛仁
「戦後占領史」 竹前栄治 岩波書店
「昭和の歴史8」 神田文人 小学館
「昭和天皇の終戦史」 吉田裕 岩波新書 1992.12.21

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「敗戦とGHQの進駐、施策指令」を確認する。

 2002.10.20日 れんだいこ拝


8.15 【「ポツダム宣言」の受諾による終戦】正午、戦争終結の詔書放送
8.15 米太平洋方面陸軍総司令官マッカーサー元帥(当時65歳)、「連合国軍最高司令官」に任命される。
8.15 鈴木貫太郎内閣総辞職。陸軍の一部将校が終戦阻止の反乱を起こすも鎮圧される。
8.17 【東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣の成立(日本内閣史上はじめての皇族内閣)皇族の東久邇宮稔彦内閣が組閣され、終戦処理を行うことになった。
終戦直後 【闇市全盛】 
8.18 満州国皇帝溥儀が退位し、満州国消滅。  
8.18 【特殊慰安施設協会】設置。内務省、地方長官に占領軍向け性的慰安施設設置を指令する。
8.20 灯火管制3年8ヶ月ぶりに解除。
8.22 尊攘同志会会員が愛宕山で集団自殺。
8.23 ソ連による関東軍のシベリア抑留拉致始まる。
8.23 電力制限が撤廃になる。
8.25 市川房枝、山高しげり、赤松常子、河崎なつ、山室民子らが集って、戦後対策婦人委員会結成。 
8.27 占領軍向け性的慰安施設、大森海岸の小町園で開業。
8.27 連合軍の米軍先遣隊第一陣が横浜の厚木飛行場に到着したのを皮切りに連合軍の日本本土への進駐が開始された。
8.28 【一億国民総懺悔】東久邇首相は、内閣記者団との初会見で、「全国民が総懺悔することが、わが国再建の第一歩であると信ずる」と述べ「一億国民総懺悔」を説いた。
8.28 文部省は、終戦から2週間後の8.28日、「遅くとも9月中旬から授業を開始するように」との方針を、地方長官、学校長宛てに通達。多くの学校がこの通達に従い授業を再開させた。
8.30 連合国最高司令官マッカーサー元帥、厚木飛行場に到着。
9月 9月から11月頃まで、北海道.常磐などで中国人、朝鮮人らの暴動続く。
9月 文部省、学校教科書の黒塗りを指示。教科書の日本軍の戦闘賛美、軍国主義奨励、神道の教義に関する部分の削除、修正が要請された。翌46.1月にも出されてた。
9.2 【「降伏文書」調印】
9.2 GHQ「指令第1号」で、軍需生産全面停止を指令した。
9.3 イギリス人新聞記者バーチェットが「広島における大惨状(ノー・モア・ヒロシマ)」を打電。
9.6 トルーマン米大統領、「降伏後における米国の初期対日方針」を承認し、マッカーサーに指令。   
9.10 【GHQ、5項目にわたる「言論及び新聞の自由に関する覚書」発表、日本政府に指示】言論機関の自由の保障と共に、言論統制的側面も持っていた。   
9.10 在日朝鮮人連盟(「朝連」)中央準備委員会が結成された。新宿角筈の朝鮮奨学会に事務所が開かれた。「政治犯釈放促進連盟」の事務所もここに置かれた。
9.11 GHQ、東条英機元首相ら戦争犯罪人39人の逮捕を指令。東條は自殺未遂。 
9.12 府中刑務所在監中の日本共産党獄中党員は各自釈放要求書を書き、一冊に綴じて、岩田宙造法相あてに提出した。
9.14 「大日本政治会」解散。   
9.15 東京日比谷第一生命相互ビルにGHQ本部設置。 
9.17 重光外相の後任に吉田茂が就任した。戦後政治における吉田の第一歩がここに記された。 
9.18 経済団体連合委員会が組織された。 
9.19 GHQ、10項目からなる「日本新聞規則に関する覚書」(、「プレス=コード」)発表。 
9.19 教宗派管長、教団統理者会議を開催、日本再建宗教教化実践要綱を決定している。
9.20 文部省、中等学校以下の教科書から戦時教材を削除を指示。教科書の墨塗り作業が始まる。  
9.22 アメリカ政府は「占領初期の対日管理政策」を発表した。 
9.24 GHQ、「新聞の政府よりの分離に関する覚書」発表。「新聞及び通信社に対する政府の直接もしくは間接の支配を廃止する必要な措置を採る」ことを指示した。    
9.26 哲学者三木清が豊多摩刑務所で獄死したことが知らされた(享年49才)。
9.26 【出征軍人の復員開始】この日より外地軍人の引き揚げ開始。
9.27 【昭和天皇マッカーサー訪問】天皇はマッカーサーをGHQ(赤坂の米国大使館)に訪れた。
9.27 【プレ財閥解体の動き】東京.三田の三井別邸で三井財閥幹部とGHQとの財閥解体に関する第一回会談が持たれた。
9.27 言論.出版の自由抑圧の諸法令の撤廃を指示した。 
9.30 「大日本産業報国会」解散。        


【鈴木貫太郎内閣の終戦処理】
 8.14日、 終戦の前日、鈴木貫太郎内閣は、降伏決定の手続き終了後、戦後対策委員会を内閣に設置し、「軍需用保管物資の緊急処分」を指示した。この結果、軍需物資が民間に大量に出回り、政商が暗躍した。当時の価格で約1000億円相当の軍需品(米.麦.雑穀.缶詰.砂糖.ガソリン.綿布.ゴム.鉄.銅電線など)が放出された。この決定は、どうせ占領軍に接収されるなら民間に払い下げようとしたものであったが、実際にはブローカーが暗躍し、一種無秩序状態のまま軍需工場の倉庫から分散させていくことになった。この間陸軍一部将校らによる終戦阻止の反乱があったが鎮圧された。

【軍の徹底抗戦派が首相官邸襲撃】
 8.14日から15日にかけて、陸軍中央部の少佐、中佐クラスの将校若干名は、本土決戦を遂行すべく、昭和天皇と政府の、ポツダム宣言受諾の決定を破棄せんとして、軍事クーデターを開始した。8.15日、日本本土防衛軍の中のもっとも重要な部隊となっていた東部軍(関東、甲信越、伊豆七島)司令官田中大将が自決した。高嶋辰彦参謀長少将がそのあと、東部軍司令官の職を代行した。この高嶋氏は、次のような大東亜戦争観を披瀝している。
 概要「大東亜戦争の目的は、アジアの諸民族を、米英オランダ帝国主義から解放すること、そして、共産主義の拡大を阻止することにあった。日本は、同盟国と共に、この二つの目標を以て、大東亜戦争を戦った。日本は、米国に敗れた。しかし、にも拘わらず、大東亜戦争の目的は実現された。従って、我々は大東亜戦争に勝利したのである」云々。

 ちなみに、仲小路彰も、敗戦に際して、高嶋少将と、全く同じ趣旨の文書を発して居ると言う。これを「高嶋=仲小路説」と云う(「大東亜戦争は勝利した」(高嶋、仲小路)との説は正しいか?」)。

 8.15日早朝、戦争終結を阻止しようとする50人ほどの兵隊が機関銃で首相官邸を襲撃、玄関にガソリンをまいて火を放った。鈴木首相は私邸に帰っていて難を逃れた。首相不在と知って、一隊は直ちに小石川の私邸を襲い、やはり火を放つ。鈴木首相は官邸からの通報で避難し、間一髪で無事だった。鈴木首相は、「これからは老人の出る幕ではないな」と一言漏らし、即日内閣総辞職する(2002.8.31日毎日新聞、岩見隆夫「近聞遠見」より)。

【鈴木貫太郎内閣総辞職】
 翌8.15日、総辞職した。つまり、つかの間の敗戦処理内閣となった。

【「ポツダム宣言」の受諾による終戦】
 1945.8.15日、日本国天皇(昭和天皇ヒロヒト)は、「玉音放送」と云われた「戦争終結の詔書」を読み上げ「ポツダム宣言」の受諾を内外に表明した。
「米英支蘇四国に対し共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」、
「戦局必ずしも好転せず世界の大勢亦我に利あらず」、
「深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以って時局を収拾せんと欲し」
「時運の赴くところ堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を平かんと欲す」
「総力を将来の建設に傾け」

 というものであった。「敵は新たに残虐なる爆弾を使用して頻りにむこの民を殺傷し」、「(このままでは)我が民族の滅亡を招来するのみならずひいては人類の文明をも破却(する恐れがあった)」という事情による乾坤一擲の大英断であった。こうして8月下旬までには各地での日本軍の全戦闘も又解除終結されることになった。

 かくして第二次世界大戦は大日本帝国の敗戦という結果をもって終戦となった。こうして「神州不滅」を誇った大日本帝国はもろくも崩れ去った。ここから戦後は始まる。満州事変勃発から数えると8年の長きにわたる国家総力戦であり、これを戦い抜いた日本国民は疲弊の極に達していた。「1945年8月、日本帝国主義の軍事的敗北の後に残ったものは、焦土と化した国土だけであった」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)。

○、正午に「戦争終結の詔書」を放送する(通称「玉音放送」)。
 「玉音放送」は、国民にとって青天霹靂ヘキレキの「聖断」であった。局面の急展開に呆然自失の態為す者多かったと記録にある。これをやや文学的に表現すれば、国民の大多数は「泣いた」。そして大多数のものが「ホットした」。少数のものではあるが「躍り上がって万歳を唱えた」。又少数のもので「憤然とした」ものもいたかも知れない。「暗澹とし、信じれるものがなくなった闇を嗅いだ」ものもいた。

 当時、日本放送協会(NHK)は次のように「重大放送」を発表したと伝えられている。「ただいまより、重大なる発表があります。全国聴取者のみなさま、ご起立願います。重大発表であります」。この後、君が代などが流され、天皇のお言葉を録音したレコード盤が回り始めた。この後和田アナウンサーが詔書を朗読し、内閣告諭やポツダム宣言の内容、御前会議の経過説明などが詳しく放送された。37分30秒の放送だった。

 「玉音放送」は、当然のことながら外地にいる軍人に対しての武装解除を命令する意味を持った。それまで帝国軍人は、戦局の帰趨に関わらず「戦陣訓」にとらわれ様々な悲劇を生み出していた。「戦陣訓」とは、東条英機陸相が1941(昭和16)年に発令した軍人の心得であり、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」(本訓その2の8項)と指示されていた。この心得が現地指揮官の下で拡大解釈され、敵の捕虜となった兵隊は日本軍人ではなく、そのり罪万死に値するとして「全員銃殺せよ」命令が下されたりしていた。あるいは疑心暗鬼から現地住民の無差別殺戮に駆り立てられる行為も発生していた。「玉音放送」はこうした動きを制止する意味も持った。

 「玉音放送」に続き、鈴木貫太郎内閣は、首相の名による「内閣告諭」を放送した。「国体護持」が強調された。「今や国民の斉しくむかうべきところは国体の護持にあり」、「軽挙妄動し、信義を世界に失うが如きことあるべからず」と、国民の動きを掣肘した。政府当局者は、歴史上初めての敗戦で虚脱状態に陥った。
(私論.私観) 降伏の史的意義について
 今日判明しつつあることは、敗戦後日本は奇跡の経済復興を遂げたことにより、この時の降伏が第二の開国にあたるのではないかと評価されつつある。当然のことながら、その第一の開国が幕末維新であり、現在が第三の開国期にあるという認識によっている。

【一部将校の反乱】
 8.15日、陸軍の一部将校が終戦阻止の反乱を起こすも鎮圧される。

 しかし、降伏を拒否した軍人の動きが無かった訳ではない。が、大きなうねりとはならずに終息した。例えば、進駐軍先遣隊が到着する予定地となっていた神奈川県厚木飛行場では、海軍第302航空隊(司令.小園安名大佐、定員1405名)は玉音放送後も降伏を拒否し、同基地の零戦.雷電.月光などの戦闘機を全国各地へ飛行させ、降伏反対を呼びかけるビラを撒いている。16日、直属の上官である第3航空艦隊司令長官、寺岡譲平中将の説得も叶わず、19日には同航空隊は哨戒機を飛ばし、降伏軍使としてマニラに向かう河辺虎四郎中将らの搭乗機を捕捉しようとさえしている。「海軍当局をして大いに困惑させた」(戦史叢書)とある。結局反乱兵は恭順を示したり拘束されたりして事件は解決を見る。進駐軍先遣隊が到着する二日前の8.26日のことだった。

 8.15日、満映の理事長に就任していた甘糟正彦理事長は、理事長室で青酸カリ服毒自殺した。黒板には「大ばくち、元も子もなく すってんてん」と書かれていた、と伝えられている。

 鬼塚英昭「日本のいちばん醜い日~8.15宮城事件は偽装クーデターだった」(成甲書房、2007年)は次のように記している。
 「軍人は殺され、国民は爆撃死しているとき、天皇とその一族や侍従たちは、巨大な金庫室の中で生き延びるべく闘っていた。何に対してか。アメリカに日本を売りつけ、日本の軍人や国民を戦争好みの人種に仕上げるためにだ。その手先たちが、平成の世になっても、天皇賛美の歌をうたい続けている」(P317)。

 藤田尚徳「侍従長の回想」は次のように記している。
  「やがて夜は白々と明けて8月15日。…陛下は声を落として申された。『藤田、いったい、あの者たちは、どういうつもりであろう。この私の切ない気持ちが、どうして、あの者たちには、分からないのであろうか』。暗然とした表情で、つぶやかれた」。

 昭和天皇のこの発言に対し、鬼塚英昭「日本のいちばん醜い日~8.15宮城事件は偽装クーデターだった」(成甲書房、2007年)は次のように記している。
 「天皇が藤田尚徳に語ったあの日こそは『日本のいちばん醜い日』であった。あのときの言葉こそは、『日本のいちばん醜い言葉』であった」(P354)。

マッカーサーが連合国軍最高司令官に任命される
 8.15日、トルーマン米国大統領が、フィリピンのマニラにいた米太平洋方面陸軍総司令官ダグラス.マッカーサーを「連合国軍最高司令官」(Supreme Commander for the Allied Powres)に任命した。以降、マッカーサーは元帥と呼称されることになる。連合国司令長官に米国軍人が就任したことから明らかなように進駐軍の主力はアメリカ軍となった。進駐当初は15個師団約40万人の兵力が投入された。ちなみにイギリス連邦軍の進駐は46.2.1日か5月末にかけてなされ、約4万の将兵が上陸した。

【朝鮮建国準備委員会が発足】
 8.15日、ソウルで直ちに朝鮮建国準備委員会が発足し、朝鮮共産党の朴憲永や左翼民族主義者の呂運亭の主導権で「大日本帝国臣民」の強制を拒否した建国運動が始まった。

【中国で国共合作から内戦への気運が醸成される】
 日本の降伏は、中国のそれまでの国共合作時代が終焉し、新たに国共内戦時代への突入を告げた。8.15日、国民党の指導者蒋介石は、日本の支那派遣軍総司令官・岡村寧次に、国民党軍への投降と「装備を維持し、所在地の秩序維持」に当るよう命じた。残留日本軍約100万人の武器が共産党軍の手に渡らないようにする為の措置であった。この触れにも拘わらず、中共軍は、日本軍の装備を獲得し、軍事力を増強させた。

【戦後対策婦人委員会結成】
 8.25日、市川房枝、山高しげり、赤松常子、河崎なつ、山室民子らが集って、戦後対策婦人委員会結成。

【占領軍の進駐】
 8.27日、連合軍の米軍先遣隊第一陣が横浜の厚木飛行場に到着したのを皮切りに連合軍の日本本土への進駐が開始された。首相の東久邇稔彦日記には「本日の進駐が無事に済んだことは、敗戦日本が平和的新日本建設の第一歩を踏み出すのに、さいさきよい前兆」と書かれている。

 8.30日午後2時5分、マッカーサー元帥が、愛機C54パターン号に乗って厚木基地に到着、来日した。「メルボルンから東京までの道のりは長かった」との名台詞を吐いた。シャツ姿丸腰で、コーンパイプをくわえながら降り立った。マッカーサーとその一行が宿泊地の横浜に向かう沿道には24kmにわたって、マッカーサーを護衛するための日本の憲兵が立っていた。同じ日、横須賀に、アメリカ艦隊が姿をあらわし、アメリカ海兵隊の1万3千人が上陸を開始した。

 木戸内大臣は、次のように記録している。
 「厚木へ米軍進駐の状況を聞く。事故もなく、和やかな空気の中に行われたる模様なり。厚木進駐の状況を言上す」。

 ダグラス.マッカーサーの経歴は次のとおりである。
 1880年アーカンソー州の兵営にて陸軍中佐の次男として誕生。父はフイリッピン総督を経験しあり、マッカーサーはそのお供をして日露戦争中の旅順と大連を訪れ、東郷大将や乃木大将に会い、感銘を受けている。長じてウェストポイント陸軍士官学校を、25年来という優秀な成績で卒業。第一次世界大戦では師団参謀長としてフランス戦線を駆け巡り、38歳の若さで准将に昇進。39歳という史上最年少で、若さでウェストポイント陸軍士官学校の校長となる。44歳で米陸軍史上最年少の少将、50歳で最も若い陸軍参謀総長となった。1945年夏連合国最高司令官として就任、65歳であった。

【GHQの最初の取り組みとしての「フリーメーソンロッジ」の設置】
 連合国最高司令官として来日したマッカーサー元帥は、厚木飛行場を降り立ってすぐ、GHQ本部とは別に彼が所属していたフリーメーソン(Manila Lodge No. 1, Phillipines)の東京支部用ロッジの確保を指令し、東京都港区麻布台2-4-5の旧海軍水交社の建物を接収している。屋上に定規とコンパスのフリーメーソンのシンボルを掲げた。現在、メソニック39森ビルのジとなっている。これが最初の指令であった。
(私論.私見) 「フリーメーソンロッジ」の設置について 
 通説の表歴史論からは無視されるが、裏でのこういう動きをも見ておかねばなるまい。

【GHQの2番目の取り組みとしての戦争犯罪人容疑者の逮捕指令】
 来日当夜、日米開戦時の首相だった東条英機の逮捕と戦争犯罪人の容疑者リストの早急な作成を指示した。これが2番目の指令であった。

(私論.私見) マッカーサーの治世方針
 進駐軍の主力がアメリカ軍であったことと、総責任者がマッカーサー元帥であったことの評価についてしておくことは必要な作業である。この点考察されることが少ないが、非常に重要な差異を伴っていたと愚考する。我が国を占領した連合軍の主力がアメリカ軍であり、占領統治が実質的にアメリカ軍政になったことは、その後の我が国の戦後史に重大な意味を持ってくることになった。「仮に我々が勝利者であったとしたら、これほどの寛大さで敗者を包容することができたであろうか」(加瀬俊一.外務省情報局報道部長手記)と想起されるほどの「緻密な善政」が敷かれることになった。

 このことはドイツの例と比べてみれば判る。わが国にとって、アメリカ軍政を主力としたことにより、当初の「分割占領案」が排斥され、アメリカの一元的な占領支配体制が敷かれたことはむしろ幸運であった。これを裏付けるのは連合国最高司令官マッカーサー元帥の次の言葉である。「我々は復讐をする為に日本へ乗り込んできたのではなく、新生国家再建を期して『正義と寛容の心』で臨む決意を示した」とある。占領軍が「被占領国の新生国家再建」を期した例は世界史上稀有なことである。マッカーサー元帥は自らこの珍しい「善政」に立ち向かい、これを指揮した。
 マッカーサーは、国家的成熟度として「我々アングロ.サクソンが45歳なら、日本人はまだ12歳の少年である」と認識していたようである。この12歳の少年を何とか成人に導かんとして5年8ヶ月(65歳から71歳までの間)にわたって最高権力者として君臨した、というのは紛れようの無い史実である。

 このマッカーサー発言は、1951.5.5日、米議会上院軍事.外交合同委員会聴聞会で次のように述べている。

 「仮に、アングロサクソン族が科学、芸術、神学、文化の点で45歳だとすれば、ドイツ人はそれと全く同じくらいに成熟している(ほぼ同年輩である)。しかしながら、日本人は、時計で計った場合には古いが、まだまだ教えを受けなければならない状態にある。現代文明の基準で計った場合、彼らは、我々が45歳であるのに対して、12歳の少年のようなものでしょう(日本人はまだ生徒の時代で、まず12歳の少年である)。日本人は、新しいモデル、新しい考えを受け入れることができる。日本に基本的概念を、植え付けることは可能である。彼等は、生来、新しい概念を柔軟に受け入れるだけの素質に恵まれている」。

 これに先立つ4.19日上下両院合同会議の席上演説で、次のように述べている。
 「私は日本ほど安定し、秩序を保ち、勤勉である国、日本ほど人類の前進のため将来建設的な役割を果たしてくれるという希望の持てる国を他に知らない」。

 「老兵は死なず、ただ消え行くのみ。あの歌の老兵のように、私は今軍歴を閉じて、ただ消え行く。神の示すところに従った自分の任務を果たそうと努めてきた一人の老兵として。さようなら」とも語っている。
(私論.私観) マッカーサーの治世的意義について
 今日判明しつつあることは、敗戦後日本は奇跡の経済復興を遂げたことにより、この時の降伏が第二の開国にあたるのではないかと評価されつつある。当然のことながら、その第一の開国が幕末維新であり、現在が第三の開国期にあるという認識によっている。

 ちなみに、この連合軍とは云うものの実質的にはアメリカ軍政による「善政」は、当然のこととして「アングロサクソンの代表者である米国」の立場から、「しかし、この革命の底には『アメリカの利益』という動かすべからざる原則が横たわっていた」が「日本人自身の手でおこなったら、百年はかかったかも知れぬ破壊と創造-少なくとも創造の前提を実現した。確かに『革命』の一種であった」。つまり、ある種「アメリカ的政体を下敷きにした」、「革命の輸出」ではなかったのかとさえ思われる。日本が奇跡的な経済的復興を成し遂げた頃から表明され始めたわが国の排外主義的民族主義者による「不快感」の淵源は、戦後の諸改革にまつわるこの「輸出され押し付けられた革命」に対するリバウンドではなかろうかと思われる。国民の多くは「善政」を支持しており、私もその一人ではあるが、「輸出された革命」であったことには異論はない。この辺りを以下見ていくことにする。
 
 更に付記すれば、マッカーサー元帥ならではの特徴も加味せねばならないように思われる。マッカーサー元帥は、在任中カリスマ的権威で臨んだ。「在任中のマッカーサーは、天皇と政府の上に高くそびえて、帝王以上の帝王、神以上の神の如くふるまった。彼の荘重きわまる演技は朝鮮戦争につまずいて、解任召還されるまで続いた」(林房雄「吉田茂と占領憲法」)とある。マッカーサーのこの毅然とした態度は、彼が私利私欲を図る権力者ではなく名誉と栄光を求める精神と結びついていた。多分に理想主義者であり、そうした彼の政治手法が当然に占領政策に反映することにもなった。マッカーサー元帥は、約5年8ヶ月の治世を振り返って次のように述べている。
 「私が一貫して、時には自分の代表する諸大国に反対してまでも日本国民を公正に取り扱うことを強調していることがわかってくるにつれて、日本国民は私を征服者ではなく保護者とみなし始めた」(マッカーサー回想記)。

【「GHQ」の設置】
 戦後憲法の制定過程は、GHQの治世の考察から説き起こさねば正確が期し得ない。という訳で、まずGHQについて考察する。ジェームス三木氏の「憲法はまだか」(角川書店・2002.4.30日初版)は新憲法制定過程検証の格好貴重本である。従来の資料に取り込みながら、書き直すことにした。
 日帝の大東亜戦争の敗北によって戦後日本は、当然のことながら敗戦国の憂き目を味わうことになった。連合国軍総司令部(GHQ=General Headquarters of the Supreme Commander for the Allied Powers、以下、単にGHQと記す)が占領統治権力としてやってくることになった。
(私論.私見) 「GHQの性格規定」について
 略称「GHQ」の正確な用語は、「連合軍(the Allied Powers)最高(Supreme)指揮官(Commander)の総(General)本部(Headquarters)」であり、連合軍占領政策遂行総本部という意味である。当時、ジャーナリズムがこれを進駐軍と表記したが、正しくは占領軍であろう。マスコミは専ら言葉のあやで本質を隠すところがある。

 2005.5.4日 れんだいこ拝
 10.2日、GHQ本部が東京日比谷の第一生命相互ビルを接収してここに設置された。GHQの組織構成は、米太平洋陸軍総司令官・D.マッカーサーを最高司令長官にして頂点に据え、参謀長(R.K.サザーランド中将)他が補佐し、この下に参謀部が4部(G-1=人事.G-2=情報・ウィロビー小将.G-3=作戦.G-4=補給)構成され、更にマッカーサー最高司令長官直轄機構として五局(民政局GSホイットニ局長.天然資源局NRS.経済科学局ESS.民間情報教育局CIE.民間諜報局CIS)の他民間通信局CCS.法務局LS.統計資料局SRS.公衆衛生福祉局PHWの9幕僚部から構成されていた。

 民政局GSは、ホイットニ局長を責任者として、占領行政の中枢部に位置して、憲法改正を始めとする数々の政治の民主化政策を担当した。経済科学局ESSは、経済.産業.財政.科学の諸政策を担当したが、財閥解体.労働改革など経済民主化政策を推進した。天然資源局NRSは、農林水産業.鉱業を担当したが、特に農地改革を推進していくこととなった。民間情報教育局CIEは、日本人の思想的再編成、マスコミ.宗教.教育の自由化を推進した。民間諜報局CISは、公職追放.政治犯釈放を担当した。公衆衛生福祉局は、進駐直後の防疫、衛生管理、保健行政を推進した。

 こうした中央のGHQの下に、地方軍政機構が設けられた。当初は直接に軍政を敷くという前提により、各府県に軍政中隊をおき、これらを統括して軍政グループが置かれた。46.7月占領支配の実情に合わせる為編成替えが行われ、軍政中隊を軍政チームとし、その上部機関として北海道、東北、関東、東海、近畿、中国、四国、九州の8管区に、地方軍政部司令部を設置した。都道府県の行政の監視という役目も担った。ちなみに、この8管区管轄制は、日本政府が戦争末期に本土決戦に備えて設置した地方総督府の管轄制をそのまま踏襲したことになる。
(私論.私見) 「米太平洋陸軍総司令官・D.マッカーサーのGHQ最高司令長官就任」について
 米太平洋陸軍総司令官・D.マッカーサーがGHQ最高司令長官に就任した。このことは、日帝と直接的に且つ最も激しく闘った経緯からすれば当然であったのであろう。しかし、米国が占領軍のトップを占めたということは、占領行政が米国のご都合方式で遂行されるということであり、ここに戦後日本の性格が定められた、と云うべきであろう。

 2005.5.4日 れんだいこ拝
(私論.私見) 「GHQの組織構成」について
 GHQの組織構成を見れば、占領権力の基本構造が見て取れる。「最高司令長官、参謀部」の二体系の下で、最高司令長官の直属機関として「民政局、天然資源局、経済科学局、民間情報教育局、民間諜報局、民間通信局、法務局、統計資料局、公衆衛生福祉局」の9幕僚部が列なり、参謀部は「人事、情報、作戦、補給」の4局から構成されている。これが、一国を占領統治する機構であることになる。数百年の植民地行政から生み出された智恵なのであろう。その能力高しと云うべきではなかろうか。

 2005.5.4日 れんだいこ拝

【連合国軍による三統治方式の導入】
 敗戦後の日本領土は、対日占領管理機構上3分割され、それぞれ異なる方式で統治されることになった。
第1型 間接統治  連合国軍最高司令官兼米太平洋陸軍総司令官マッカーサー元帥による日本本土(北海道.本州.四国.九州)の占領であり、GHQが担当した。GHQは、ドイツや朝鮮の例にみられたような直接の軍政を敷かず間接統治手法を採用し、最高司令官の指令.勧告に基づいて日本政府が政治を行うことになった。
(私論.私見) 「GHQの日本本土間接統治制導入」について
 これは同じ敗戦国となったドイツの例に比べて何とも寛大な措置であった。事象を相対化させて見なければならないように思われる。

 2005.5.4日 れんだいこ拝
第2型 直接統治  米太平洋方面海軍総司令官ニミッツ提督による琉球列島、小笠原諸島の占領である。これにより、琉球列島、小笠原諸島は本土と切り離され直接統治されていくことになった。
第3型 占領  ソ連極東群総司令官ワシレフスキー元帥による北方領土樺太.千島の占領である。これは統治と云うより島民日本住民の強制送還による領土割譲された形になった。当時のソ連の指導者スターリンは、北海道の北半分釧路と留萌を結ぶ線以北の占領を要求していた。これに対してはトルーマンが拒否したことにより実現しなかった。

【ソ連の介入とGHQとの関係】
 ソ連は、GHQの指揮下に入らず、独立した権限を持とうとしていた。この時のソ連軍代表はデレビヤンコ将軍だった。本国のスターリンの指令を受けて、GHQ権力と駆け引きしていった。「日本分割論」、「2.1ゼネスト中止」をめぐって、このデレビヤンコ将軍とマッカーサー元帥との逸話が有名である。公的な記録では、常に二人は対立して議論を戦わせているが、本当は中が良かったようである。
(私論.私見) 「GHQにおけるソ連の位置」について
 GHQにおける米国とソ連の関わりを見るのに、要するに米国側の能力のほうが高く、ソ連は頭脳戦でヤラレテイルことが分かる。このことは運外重要なのであるが、ここではこれ以上触れない。

 2005.5.4日 れんだいこ拝

【GHQの治世方針】
 GHQの治世方針は、ポツダム宣言に記載されていた「日本国の再戦争遂行能力の徹底除去(要約)」、「日本国民の間における民主主義的傾向の復活強化」、「日本国民の自由に表明せる意志に従い平和的傾向を有し且つ責任ある政府が樹立せらるる」ことにあった。これらの方針は連合国間の総意で実施されていくのが本来の取り決めであったが、実際にはアメリカが牛耳りその意向に左右されていくことになった。

 その実施は、国際情勢の流れとの関連において強められたり弱められていくことになったが、GHQを掌握したアメリカ軍の政治目的は、太平洋に独占的支配権を自らが確立し、日本を二度と危険な競争相手になり得ない様に社会改変することにあった。これを文章で表現すれば、「日本国が再び米国の脅威となり又は世界の平和及び安全の脅威とならざる事」、「他国家の権利を尊重し国際連合憲章の理想と原則に示されたる米国の目的を支持すべき平和的且つ責任ある政府を究極に於て樹立すること」にあった。つまり、軍政ではあるが「間接軍政」を採ろうとし、「軍政は敷かない」と明言していた。

 GHQの統治は、「戦後の日本政府の形態は、自由に表明された日本国民の意思によって決められるべきだという大前提」、「日本における民主的責任政府の樹立及び日本の非軍事化」であり、GHQは、その手法を廻って日本の世論に非常に神経を使うことになった。復讐を意図した占領ではなく、敗戦国の社会改造という史上初めての実験が開始された。なお、「日本は今や大きな強制収容所のごときものとなった。占領軍は8千万日本人の看守である」という言葉も為されている。

 更に注目すべきは、GHQの陸海軍省の軍官僚追放、内務省解体の裏腹で、その他の官僚機構には手を付けず統治に活用したことである。その為、戦前来の官僚機構がそのまま残ることになった。内務省に代わって大蔵省(財務省の前身)が省庁に対する支配権を強めることになる。
(私論.私見) 「マッカーサー主導の日本統治要領」について
 「マッカーサー主導の日本統治要領」については本来もっと考察されるべきであるように思われる。仮に、GHQ最高司令長官が他の者であった時にどのような違いを生み出していたかの想定比較研究となる。れんだいこは、美化する意図ではなく「復讐を意図した占領ではなく、敗戦国の社会改造という史上初めての実験」に付き、「マッカーサー的政治理想」が大いに働いていた、と読む。その理由は一言では述べられないが、マッカーサーの対日観、対日本人観、戦争観、国家観、次期米国大統領としての凱旋観等々が作用していたと推理する。

 2005.5.4日 れんだいこ拝」

【天皇の処遇についての各国の違いについて】
 GHQの統治の最高度の難関は「天皇の処遇問題」にあった。昭和天皇の戦争責任の追及に関わる天皇制廃止かこれを利用するのかについて、連合国軍の足並みは揃っていなかった。特にソ連.オーストラリアは天皇を戦争犯罪人として処罰すべきだ。アメリカでも、9.10日に、天皇を戦争犯罪人として裁くことが合衆国の政策と宣言する合同決議案が、連邦議会に上下院合同で提出されていた。つまり、この時期、天皇の戦争責任を問う声が圧倒的に大きかった。

 ところが、マッカーサーは、「(こうした動きに)強力に抵抗した」。その理由として、マッカーサーの特異な皇室観と「戦争終結後の占領期における政治的安定策として天皇制存続のほうが効果的」とする判断があったようにも思われる。

【「ポツダム勅令」について】
 GHQが発するものには、指令.覚書.手紙等、各種の形式のものがあったが、いずれも命令であることには変わりなかった。但し、占領統治政策は間接占領方式を採用したので、GHQが直接乗り出すのは稀であった。緊急事態か重大決定の場合にのみ限られていた。これらの命令を受け、日本政府が実施にあたるも法制化が間に合わぬ場合に発せられたのが「ポツダム勅令」(新憲法実施後はポツダム政令)であった。おいおい見ていくことになる「治安維持法の撤廃」、48.7月の芦田内閣時の「政令201号」などがこれにあたる。つまり、超法規的に出動した命令として受け取ることが出来よう。

【GHQの最初の取り組み】
 9.6日、トルーマン大統領は、「降伏後における米国の初期対日方針」を承認、マッカーサーに指令している。GHQが早急に取り組んだことは、「日本が再び米国又は世界の脅威にならないようにする為の武装解除.非軍事化」であった。日本軍国主義的要素の徹底的な破壊であり、この延長上での国家再建となった。こうして軍隊及び軍事施設の解体及び戦犯の追及から着手された。

 この経過は次の通りに進行した。GHQが焦眉に取り組んだことは、戦争の主柱であった帝国軍隊の解体を手始めとする「天皇制軍国主義とその社会的基盤の解体」となった。9.2「指令第1号」は、軍需生産全面停止を指令した。続いて戦争責任者の追及に向かい東条英機以下その内閣時の閣僚を筆頭に戦争指導犯罪者として逮捕され(9.11)、以後容疑者が次々と収監されていった。東条は自らが作った「生きて虜囚の辱めを受けず」、「死して罪禍の汚名を残すことなかれ」の通り自殺を図ったが一命をとりとめた。開戦当時の陸軍参謀総長杉山元帥とその夫人、東条内閣の厚生大臣小泉親彦、文部大臣橋田邦彦らが自殺している。

 この動きとワンセットで獄中反軍国主義者の解放が指示されることになった。他方で、「基本的人権の尊重や民主主義的組織の形成が奨励、育成、指導」が為された。この流れで、GHQ指令により党の獄中幹部も又全面釈放されることになった。

【GHQ内の対立について】
 ところがGHQ内の意思統一が一枚岩であった訳ではない。ニューディラー派と反ニューディラー派が対立しており、初期対日政策はニューディラー派が取り仕切ったものの、次第に駆逐されるという過程を辿った。GHQ政治スタッフ要員の中には多くのジャパノロジストと呼ばれる日本専門家が集められていた。その中の多くはニューディーラーであった。ニューディーラーとは、1930年代のアメリカでルーズベルト大統領によって推進された幾分理想主義的な修正資本主義政策で、多分に社会主義的色彩をも持っていた。このニューディール政策を信奉する者達のことで、この連中が当初のGHQに相当数入り込んで、格好の実験場として日本改造計画に取り組むことになった。

 吉田茂は「回想十年」で、次のように評定している。
 「これらのニューディーラー達は、本物の社会主義者とまでは云わないにしても、一種の統制経済の信奉者であり、人為を以って一国の経済の在り方や動きをどうにでもできると考え、彼らが描いた青写真を基にして、平素の持論を日本で実験してみようという野望と熱意に満ちていたようであった」。

 GHQ内にはこの連中の行き過ぎを危惧する動きもあり、こうしてGHQ内の指揮系統には混乱がみられ、しばしば内部対立の起因となった。その典型は民政局「GS(ガバメント.セクション)」派と「G2(参謀第二部)」派が対立し、縄張り争いを発生させた。GS派のキャップはホイットニー少将で、配下にケージス大佐、キーレン等がいた。「民政生局にはコミュニストがいる」と云われるぐらい急進的に戦後日本の民主化を推進し、社会機構の変革を意図していた。どちらかというと社会党に対して友好的な態度を示すことになった。

 これに対し、G2派のキャップはウィロビー少将で、どちらかというと保守的な連中が配下に多く、GS派の「日本民主化政策の行き過ぎ」を懸念し、「却って混乱をもたらし、革命を誘発する」ことを危惧していた。どちらかというと自由党に対して友好的な態度を示すことになった。「G2派」は、旧特高を利用し、検察関係者を巧みに利用していた形跡がある。

 この両派の対立が昭電疑獄や経済パージに見られるように、しばしば日本の内政.パワーポリティクスに大きな影響を与えることになった。政局に大きく影響を与えた鳩山追放に関してはGS派がリードしたらしく、G2派はこれを冷ややかに眺めるという按配であったと伝えられている。但し、ニューディーラー達が活躍したのは占領初期の頃であり、次第に本国に帰還を命ぜられていった。47、48年の占領政策の転換以降は、G2派が急速に勢力を増し、戦後民主政治の抑止に大きな役割を果たした。

 他にも軍人と文官、幕僚部同士のセクション争い、ニューディーラーと反ニューディーラー、リベラル派と保守派などの対立要因があった。ワシントン国防省.国務省と在日GHQとの間にも対立が存在した。対日講和、経済集中力排除政策、反共政策をめぐって露見することになった。GHQ内親日派は、こうして陰謀策略に満ちた内部で日本の進歩的貢献策をやり繰りしていくこととなったようである。

 その一例として労働部長として来日したテオドール.コーエンの活躍が注目される。コーエンはこの時28歳であったが、労働運動の育成と規制という両面から活動した。「ストライキその他の作業停止は、これが軍事的安全のための軍事作戦を妨害するか、あるいは占領目的ないし必要を直接侵害すると占領当局が判断した場合にのみ禁止さるべきである」という観点から、次のように進言している。
 概要「占領軍当局が対日占領に際し、民主的な労働組合を組織さすことは、労働者支配の組合の成長が、日本の民主的組織と民主思想の発展に役立つ重要なきっかけになるという点で有利である。占領軍の支持があれば、日本で、真に土着の労働組合組織が、労働者の下からの盛り上がりとして芽生えてくると思われる。この芽生えを可能にするために、これを妨害するような法令、制限を停止させ、占領軍が好意をもって、独立的労働組合主義の復活を見守ることを、日本の労働者に確約すべきである」。

 米政府のニューディーラーたちは、反軍国、反封建、反独占の三本柱に基本的立場を据えて、この三本柱の占領政策を遂行していく過程の中で、日本の労働組合の意義を評価し育成していったことになる。労組育成のもう一つのねらいは、低労賃による日本経済のダンピング攻勢抑止もあったということではある。
 上記に関連して次の一文がある。これを転載しておく。
 転載元「フリーメーソンとは何か

 「占領日本を支配したダグラス・マッカーサー元帥は、CIAをその草創のころから嫌い、信用していなかった。1947年から50年まで東京のCIA支局を極力小さく弱体にして活動の自由も制限していた。元帥には同時のスパイ網があったのだ。広島、長崎に原爆を投下した直後から構築し始めたものだった。CIAはこのスパイ網を,元帥から受け継ぐことになったが、これはいわば毒の盛られた遺贈品だった。

 マッカーサーを軍事諜報面で補佐していたのはチャールズ・ウイロビー少将だった。ウイロビーの政治的立場は、米陸軍の将官の間では最も右よりであった。ウイロビーは1945年9月、最初の日本人スパイをリクルートすることで,敗戦国日本の諜報機関を牛耳ることになった。この日本人スパイは,戦争終結時に参謀本部第二部長で諜報責任者だった有末精三である。有末陸軍中将は1945年の夏、戦勝国に提出するための諜報関係資料を秘密裏に集めていた。それが,敗戦後自分自身の身を守ることになると考えていた。多くの高位にある軍人同輩と同じように、戦争犯罪者として起訴される可能性もあった。が、有末はかっての敵の秘密工作員となることを自ら申し出たのである。それはドイツのラインハルト・ゲーレン将軍がたどったのと同じ道だった。

 ウイロビーの最初の指示は、日本の共産主義者に対する隠密工作を計画し実施せよというものだった。有末はこれを受けて,参謀次長の河辺虎四朗に協力を求め、河辺は高級指揮官のチーム編成にとりかかった。1948年、アメリカの政治戦争の生みの親であるジョージ・ケナンは、日本については政治の改革よりは経済の復興の方がより重要であり、実際問題としても,実現が容易であると主張していた。日本の産業界を解体し、解体した機材を戦争保障のために中国に送る、共産主義者が今にも中国を制覇しようとしているときに、そうした措置をとることにどういう理屈があるのかとケナンは問いかけた。ケナンの力によって、アメリカの対日政策は1948年までに急転換を遂げた。日本の当局者に対する戦争犯罪訴追の脅威と占領の懲罰的な性格は緩和され始めた。これでウイロビー指揮下の日本人スパイにとっては仕事がやりやすくなった。

 ウイロビーはその年の冬、暗号名タケマツという正式な計画を発足させた。この計画は二つの部分に分かれていた。タケは海外の情報収集を目的とするもの、マツは日本国内の共産主義者が対象だった。河辺はウイロビーにおよそ一千万円を要求し、それを手にした。スパイを北朝鮮、満州、サハリン、千島に潜入させること、中国、朝鮮、ロシアの軍事通信を傍受すること、それに中国本土に侵攻して制覇したいという中国国民党の夢を支持し、台湾に日本人の有志を送り込むことなどを約束した。

 ............CIAはその実体を知り驚愕する。日本人スパイは諜報網などというものではなく、右翼団体の復活を狙う政治活動であり、同時に金儲けのためのものというのが結論だった。『地下に潜った右翼の指導者』は諜報活動を『価値ある食いぶち』とみなしていたとCIA報告は当時の状況を要約している。

 アメリカの諜報機関が日本で行った『お粗末な仕事のやり方』の古典的な見本は、政治的マフィア児玉誉士夫との関係だった。児玉は1911年生まれ。21歳の誕生日を迎える前に、帝国議会議員に対して殺害の脅迫をしたかどで五ヶ月間投獄された。21歳のとき、暴力団・右翼反動派の集まりである天行会とともに政治家と政府当局者に対する暗殺を計画したが発覚、投獄されたが、四年と経たないうちに釈放されて極右青年運動に着手。これが戦前の日本の有力な保守派の指導者の支持を得た。戦時中は上海に足場を置き、五年間にわたって戦時の最大規模の一つと言われる闇市を取り仕切った。占領中の中国を舞台に数千人の(児玉機関の)工作員が、戦略金属から阿片に至るまで、日本の戦争遂行機関が必要とするあらゆるものを買い付け、盗み取った。戦争が終結したとき、児玉の個人財産はおよそ一億七千五百万ドルに上った。................

 児玉は1948年、アメリカ占領下の拘置所から釈放され、日本の政治の行く末に重要な役割を果たすことになる。.......アメリカがその狙いを達成するのを助ける真に強力な日本人工作員を雇い入れるまでにはさらに数年を要することになる。その任務はまさにアメリカの国益に資する日本の指導者を選ぶことに尽きていた。CIAには政治戦争を進めるうえで並外れた巧みさで使いこなせる武器があった。それは現ナマだった。CIAは1948年以降、外国の政治家を金で買収し続けていた。しかし世界の有力国で、将来の指導者をCIAが選んだ最初の国は日本だった」。(EGACY OF ASHESより一部転載、文芸春秋発行「CIA秘録」)。

【G2派のキャップ・ウィロビー少将考】
 「ウィキペディアチャールズ・ウィロビー」その他を参照する。ウィロビーの国際ユダヤの一員としての役割が全く記述できていない。これについては追々書き上げる予定である。
 チャールズ・アンドリュー・ウィロビー(Charles Andrew Willoughby)はアメリカ陸軍の軍人。最終階級は少将。ダグラス・マッカーサー将軍の情報参謀で、日本降伏後はGHQ参謀第2部 (G2) 部長として、戦後日本の進路に影響を与えた人物。「小ヒトラー」と呼ばれた反共主義者としても知られ「赤狩りのウイロビー」とも呼ばれた。

  1892.3.8日、ドイツのハイデルベルクにてドイツ人の父 (T.von Tscheppe-Weidenbach) と、アメリカ人でメリーランド州ボルチモア出身の母エマ・ウィロビー (Emma Willoughby) の間に生まれる。初め名前はドイツ語読みで Adolf Karl 「アドルフ・カール」といい、幼少はドイツ人として過ごす。地元ハイデルベルク大学卒業後にアメリカ人に帰化、母方の姓を称すようになる。「ドイツ人の父」とあるが、ユダヤ系ドイツ人と思われる。ゲティスバーグ大卒。

 1910年、にアメリカ陸軍に一兵士として入隊した。第一次世界大戦を通じて叩き上げで昇進を重ね、1941年に大佐だったウィロビーはダグラス・マッカーサーの情報参謀としてアメリカの植民地のフィリピンに赴任した。

 1941.12月、アメリカも参戦した第二次世界大戦中の日本軍とのフィリピン攻略戦では、日本軍に敗走したマッカーサーと共にフィリピンから脱出している。

 1942.6.20日、連合国軍准将に昇進している。情報を重視するマッカーサーによって連合軍翻訳通信班 (ATIS) (捕虜の尋問や命令文章の翻訳を担当)、連合軍諜報局 (AIB) (諜報・謀略担当)が設置されるとウィロビーは元締めとして辣腕をふるった。特に日系アメリカ人や現地民を駆使した諜報活動は日本軍の動きをことごとく察知した。

 1945.4.12日、アメリカ陸軍より正式に少将に昇進した。 

 1945.9.2日、戦艦「ミズーリ」での日本の連合国軍への降伏文書調印式にマッカーサーの幕僚として参加している。

 GHQでは参謀第2部 (G2) 部長として諜報・保安・検閲(特にプレスコード)を管轄した。731部隊の隠蔽工作にも関与している。労働組合活動を奨励し日本の民主化を推進する民政局長のコートニー・ホイットニー准将や次長のチャールズ・ケーディス大佐を敵視し、縄張り争いを繰り広げた。右翼の三浦義一、旧軍の河辺虎四郎らも使って反共工作を進めた。「反共工作」とあるが正確には国際ユダヤ諜報員としてのロビー活動に明け暮れたと記すべきだろう。GHQ内におけるG2の影響力からもマッカーサーの重要な側近だったがことが窺えるが、ホイットニーほどは人物的な信頼を勝ち得ておらず、ホイットニーに認められていたワンノックでマッカーサーの執務室に入れる(面会の際に秘書官を通さなくていい)権限は、ウィロビーには認められていなかった。要するに、通説は「マッカーサーの右腕にして情報責任者」と説くが実際は「国際ユダヤ組織から送り込まれたマッカーサーのお目付け役」だったと考えられる。ちなみに、マッカーサーは彼のことを「マイ・リトル・ファシスト」と呼んでいた。

 極東国際軍事裁判の折、A級戦犯の容疑者は第一次裁判で裁かれた東條英機ら28名の他に22名ほどいたが、ウィロビーはエージェント契約と引き換えの釈放甘言で誘い、配下にしていった。22名とは、青木一男、安倍源基、阿部信行、天羽英二、鮎川義介、安藤紀三郎、石原広一郎、岩村通世、岸信介、葛生能世、児玉誉士夫、後藤文夫、笹川良一、正力松太郎、須磨弥吉郎、高橋三吉、多田駿、谷正之、寺島健、梨本宮守正王、西尾寿造、本多熊太郎、真崎甚三郎、里見甫。このうち岸信介、正力松太郎、児玉誉士夫、笹川良一らがよく知られている。

 「ウィキペディアチャールズ・ウィロビー」fは次のようにも記している。

 「判決後、ウィロビーは帰国の挨拶にやってきたオランダ代表のベルト・レーリンク判事に「この裁判は史上最悪の偽善だった。こんな裁判が行われたので、息子には軍人になることを禁止するつもりだ。なぜ不信をもったかと言うと、日本がおかれていた状況と同じ状況に置かれたのなら、アメリカも日本と同様に戦争に出たに違いないと思うからだ」と、語っている」。

 GHQが許可した戦後初の渡米者で、日米文化振興会(現日米平和・文化交流協会)を興した笠井重治が、「有力な情報提供者」として親交があった事で知られる(袖井林二郎「マッカーサ-の二千日」)。また、A級戦犯においてウィロビーが釈放要求を出すのに慎重だったと言われている児玉誉士夫とは、その後児玉の通訳となり、「ロッキード事件」の最中に変死した福田太郎を、自著の翻訳者にするなど、児玉とも何らかの関係にあったと推測されている。

 1948年、極東委員会でソ連のテレビヤンコ中将は日本海海戦の意趣返しとして戦艦三笠の解体・廃棄を主張したが、ウィロビーは日本の記念物を破壊して日本人の反感を買うのは避けるべきだと反論して阻止。結果、三笠の廃棄は免れた。後にチェスター・W・ニミッツ海軍元帥が復興運動を行った関係で日本人にはこちらの方が知られているが、ウィロビーもまた三笠にとっては恩人といえる。

 1950年、朝鮮戦争の際にウィロビーは「中国共産党軍(中国人民志願軍)は介入しない」とする報告をマッカーサーに行い、マッカーサーはこれを元にハリー・S・トルーマン大統領に対し中華人民共和国参戦の可能性を否定した(デービッド・ハルバースタム「ザ・フィフディーズ <第1部>」 新潮社より)。これが全くの誤認であったことは、後に戦場で実証されることになった。

 GHQでの活動の他情報の専門家としてCIA設立に関与したのち1951年に退役、スペインに渡ると独裁者として知られたフランシスコ・フランコ将軍の非公式のアドバイザーになる。

 1968年、引退し、妻とフロリダ州ネイプルズで引退生活を初める。

 1972.10.25日、死亡した(享年80歳)。

 ウィロビーのG2がまとめた日米の人物調査ファイルは、近年の機密解除で、戦後史の研究資料として調査研究されているが、ウィロビーのおぼえがめでたくない人物に対しては貶めるための捏造された記述が多いとされている(デービッド・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』より)。

 著書に「知られざる日本占領 ウィロビー回顧録」(延禎監訳、番町書房、1973年初版)がある。
 「赤色スパイ団の全貌 ゾルゲ事件」(福田太郎訳、東西南北社刊、1953年)がどう関係するのか分からないが、「ウィキペディアチャールズ・ウィロビー」に記載がある。

【東久邇宮内閣の成立】
 8.17日、「陛下は非常にやつれておられまして、重苦しい言葉で、次期総理をやってくれ」と頼まれたことにより、東久邇宮稔彦内閣が成立した。皇族の東久邇宮稔彦内閣(45.8.17~)が組閣され終戦処理を行うことになった。初閣議で、東久邇宮首相は、「16日組閣の大命を拝した際、天皇陛下におかせられては『憲法を尊重し、軍の統制、秩序の維持に努め、時局の収拾に努力せよ』とのお言葉を賜った。このお言葉を十分に体して国難突破に邁進したい」と述べている。

 
閣僚の人選には近衛文麿、緒方竹虎(朝日新聞社もと主筆)、木戸幸一らがあたった。官房長官・緒方竹虎。近衛文麿が副総理格として国務大臣、外相には近衛文麿元首相らの意向により重光葵が就任した。陸相は東久邇宮が兼任、後に下村定。海相は米内光政、内務相・山崎巌(特高官僚、もと東条内閣の内務次官)、大蔵相・津島寿一(官僚)、法相・岩田百造(弁護士出身)、文部相・前田多門.厚生相・松村謙三、農相・千石興太郎(産業組合出身)、軍需相・中島知久平(中島飛行機の社長、政友会)等々の布陣となった。日本占領軍のスムーズな受け入れと引き続いての敗戦処理が目的の内閣となった。

 緒方は、日本最初の右翼団体で、明治・大正の大陸侵略政策を推進した玄洋社(首領は頭山満)の同志であった。緒方は「絶対にデマだ」と強く否定していたが、東久邇の「一皇族の戦争日記」によれば、この年のはじめ玄洋社の顧問に就任していた(231P)ことが判明する。

 東久邇内閣の政治理念は、憲法の改正の必要は夢思わず、明治憲法と五箇条のご誓文の運営を民主化していけば、ポツダム宣言の履行には何ら支障をきたさないとの見通しで万事処すことにあった。この内閣の下で、①.終戦手続き、②.内外の陸海軍の武装解除による非軍事化、③.非軍事化の徹底のための民権自由化、④.治安維持法の廃止、⑤.政治犯罪人の釈放、⑥.特別高等警察制度の廃止などが行われたが、内閣の主導で行おうとすれば行き詰まり、結局「GHQ」指令により完遂されていくことになった。

 8.17日、スカルノが、インドネシア独立を宣言した。
【特殊慰安施設協会】
 8.18日、敗戦3日後のこの日、内務省は、警保局長通達(無電)で、「外国駐屯軍慰安施設等整備要項」を、全国都道府県に発した。地方長官に占領軍向け性的慰安施設設置を指令したことになる。それは、「外国駐屯軍に対する営業行為」は、警察署長が設定する「一定の地域を限定」して「性的慰安施設、飲食施設、娯楽場」設備の急速な充実を図る、というものであった。つまり、国家公認のみならず後押しでの売春施設を事業化したことになる。政府の財源で運営された「保養慰安協会」(RAA) の援助の下に、警察と東京の業者は売春宿のネットワークを設立した。

 8.27日、占領軍向け性的慰安施設が大森海岸の小町園で開業。8.28日、東京の南隣の厚木へ進駐軍の先行隊が到着、その日の夕暮れまでに軍は最初の売春宿を見つけることになる。記録には「慰安所が開設されて以降予想通りに大繁盛だった。慰安婦たちは...昨日の敵に自らを売ることに抵抗があり、言語や人種の違いなど彼女達にも最初は大きな戸惑いがあった。しかし彼女達は高額の賃金を受け取り、徐々にその仕事を受け入れるようになった」と書かれている。RAAの情報課長だった鏑木清一氏は「私はRAA幹部と共にそこに急いで向かったが、路上に500-600人の米兵が列を作っているのを見て驚いた。アメリカの自治警察が兵達をコントロール出来ない状態だった」、「進駐軍の兵は前払いでチケットとコンドームを与えられた」と1972年の回想録で記している。最初のRAAの売春宿「小町園 - The Babe Garden」は当初38人の売春婦だったが、必要に迫られててすぐさま100人に増員した。女性一人当たりが一日に15-60人を相手にした。鏑木氏によると、1945年の末までに35万人の米軍が日本に駐留し、米兵のためにRAAは最高時7万人の売春婦を雇っていたとある。


 東京では警視庁が指導して業者にやらせる方式で「特殊慰安施設協会」を発足させ、東京銀座街頭に「新日本女性に告ぐ」と募集広告が出された。なお、新聞に慰安婦募集の広告を掲載している。
 「時有り、命下りて、かねて我らが職域を通じ戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の難事業を課せらる。命重く且つ大なり。---『昭和のお吉』幾千人の人柱の上に、狂乱を阻む防波堤を築き、民族の純潔を百年の彼方に護持培養すると共に、戦後社会秩序の根本に、見えざる地下の柱たらんとす」という意図の下、「新日本女性に告ぐ。戦後処理の国家的緊急施設の一端として進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む」。

 このようにして、かなり大々的な慰安所設置が行われ、この結果、戦後の混乱の中で食料の確保にも事欠く家庭の女性たちを売春へと走らせることとなった。アメリカ人の歴史学者ジョン・ダウアー氏の著書『敗北を抱きしめて 第二次大戦後の日本』によると、売春婦との一回が15円で、タバコ一箱の半額であり、「突然の高需要のために売春宿の運営者は、認可された売春婦でない女性をやむなく公募した」とある。慰安所はアメリカに大人気となったが、連合軍司令部は12.15日に慰安所への立ち入り禁止令を出す。つまり、3カ月で慰安所は閉鎖されたことになる。翌46年1月性病の蔓延などを理由に「GHQ」が公娼制度を廃止する。

 この間「政府の努力」で増加し1万人に達した慰安婦たちは、路頭に迷い、非公認の街娼となって行った。俗に、パンパンガールと呼ばれている。
(私論.私観) 日本政府の「外国駐屯軍慰安施設設置」について
 これを道徳的に批判する向きもあるが、逆にいえば日本支配階級の統治技術がかなり高度なものとも考えられるのではなかろうか。「従軍慰安婦問題」にも通底している施策であるように思われる。これを道徳的に批判するだけにとどまるのなら何も批判していないことになろう。支配階級をして、現実がこのような施設を必要とさせたのであり、社会秩序維持の観点から保安施設として「外国駐屯軍慰安施設設置」が為されたことを窺うべきではなかろうか。批判することはできるが、ならばさてどうすべきであったのかという対案的観点から判断せねばなるまい。

【「米軍慰安婦問題」考】
 「米軍慰安婦問題」に関しての貴重な検証記録として川島高峰「被占領心理」がある。その「第一節 己を以て他を測る」、「第5節 特殊慰安施設」を転載しておく。
 「第一節 己を以て他を測る」

 占領軍「進駐」に際して暴力的行為や略奪、特に婦女子の強姦といったことが国民の間で心配されていた。これは戦前の帝国政府による「鬼畜米英」の宣伝が民衆に徹底的に浸透していたためである。特に婦女子に不幸な事態が起こるに違いないという予測は広範な広がりを示していた。内務省は進駐軍に対する心得として、米軍の進駐は「秩序正シク極メテ平穏デアリ、彼我平和的雰囲気ノ中ニ事態ハ進行中デアルカラ一般国民ハ不安動揺ヲナスコトハ絶対禁物デアル」としていたが、その一方、「ふしだらな服装をせぬこと、また人前で胸を露わにしたりすることは絶対にいけない」と警戒を盛んに呼びかけていた。しかも、その対策となると「自分ノ權利(生命、貞操及ビ戝産)ハ飽迄自分デ主張スルコトガ必要デアル」、「婦女子は徒らに恐れるよりは毅然たる態度で、飽迄反發することが肝要であるし、又其の方が却つて難を免れることが多い」とかえって心細くされるばかりのものであった。このため早期に進駐を迎え入れる予定にあった地域では、婦女子の疎開を指導した市町村が数多くあった。(略)

 「第5節 特殊慰安施設

 RAAの誕生

 政府は占領軍「進駐」に際し「婦女子」に起こるであろう強姦等の暴力行為を未然に防ぐ手段として、占領軍専用の国家売春施設の準備にいち早く取り組んでいた。しかし、これは何も政府だけが率先した結果ではなかった。例えば、敗戦直後の東京では「異口同音最モ懸念シ居レルハ、婦女子ニ対スル暴行陵辱云々ノ恐怖ニシテ、次ニ食料問題、産業戦士ノ帰趨問題等ナルガ、就中婦女子ニ関スル問題ハ深刻ヲ極メ、速ニ疎開ノ方針若ハ敵上陸兵ニ対スル完全且大規模ナル慰安娯楽施設(特ニ接待婦)ノ確立ヲ要望スル者多キ状況」と報告されていた。また、「進駐」予定地のある三重県からも「私達がこんな事を云ふのは変ですけれども娼妓さんや芸妓なんかをうんと増して欲しい」、「アメリカ軍が民家へ来ない様な彼らを満足せしむる享楽街を早く作ってほしい」といった女性の会話が報告され「婦女子に此の要望多し」と報告されていた。このように「性の防波堤」は官民共有の発想であり、このことは他民族に残虐なものは自民族にすら残虐であることを物語っている。

 既に当局は、敗戦三日後の八月一八日には「外国駐屯慰安施設等整備要項」とする指令を内務省から各都道府県に出していた。当時これを担当した大蔵省主税局長池田勇人は予算捻出に際し「これだけの金で日本婦女子の貞操が守られるならは安い」と融資を快諾したという。かくして、東京では警視庁の音頭とりで八月二六日、特殊慰安施設協会(Recreation and Amusement Association、略称、RAA)が設立された。結成式は皇居前で行われ「『昭和のお吉』幾千人かの人柱の上に、狂瀾を阻む防波堤を築き、民族の純潔を百年の彼方に護持培養すると共に、戦後社会秩序の根本に、見えざる地下の柱たらんとす」と大層な声明が読み上げられたのであった。かくして、最初の慰安施設「小町園」が八月二八日、東京大森に開かれた。

 以上がこの特殊慰安施設設立の経緯についてこれまで明らかにされてきた点である。しかし、ここで極め興味深い事実を指摘しておきたい。それは、連合軍「進駐」に先立ち「進駐」等の手順を決めるために行われたマニラ会談(八月二〇日)において、「慰安施設」の要求が連合国側よりあった可能性である。マニラ会談の直後、八月二二日付けで内務省警保局は地方総監、各庁府県長官宛に「連合軍進駐経緯ニ関スル件」という文書を発令している。これはマニラ会談の雰囲気や今後の「進駐」日程等を、伝えたものであったが、その最後の項目につぎのように記されていた。「聯合軍進駐ニ伴ヒ宿舎輸送設備(自動車、トラック等)慰安所等斡旋ヲ要求シ居リ」。これは、会談当時の模様を伝えるいわば間接情報であり、そのことの真偽、つまり、これが会談における公式な要求としてでたのか、或いは、聯合軍側の代表の私的な会話を伝えたものなのかを判断することはできない。又、仮にこれが公式な要求であったとしても「慰安」の意味の日米間での理解の相違の可能性もある。そもそも、日本政府による慰安施設の準備は、河辺虎四郎ら日本代表が出発する以前に命令されており、この資料を以て特殊慰安施設がアメリカから強制されたものであると証明することはできない。しかし、アメリカ側がこのような施設の要求をしたことを完全に否定することもできないのである。

 接待婦の募集

 当時、芸娼妓の間では「アメリカ兵の生殖器は非常に大きくて膝のところまでぶらさがつている」、「日本女性がアメリカ兵と交わればその身体が二つに裂けてしまう」といった噂が流布していた。特殊慰安は悲壮な決意をしいるものであった。警視庁保安課では、八月二一日、都下の遊興業者を麻布小学校に集め「進駐」軍に対する慰安接待の協力を懇請した。しかし、この前代未聞の要請に吉原の業者成川敏は「きのうまでの敵の異人に対し、身をまかせて慰安しろと、強引に命令したところで、たとえ娼妓たりとも、果して二つ返事で『ハイ、承知しました』と、ばかりにいうかどうか、まず娼妓たちの意向を確かめねば申上げられない」と難色を示した。さらに瀬谷(名は不明)尾久芸妓屋組合長は「御命令をもつて国のためだから、女たちにつとめさせろ、とあるが、御用が済んだあとは、如何様にしていただけるのか、この際しつかりした補償の言葉を承わりたい」と切り込んだ。これに大竹保安課長は「追ってご返事する」と言葉を濁した。娼妓の会合では「すすり泣く者さえあった。やがて一人がキツと形を改めて、『ご奉公いたしましょう』と、叫ぶように答えたので、あとの女たちも無言のうちに、頭を縦に振つた」という。

 同様のことは地方でも展開していた。茨城県土浦警察署管内では慰安施設の協力要請に対し、ある業者は、かつて本土決戦を前に、警察は「暴行陵辱に対しては甘んずるように見せかけて、米兵の睾丸を握ってしめ殺してしまうようにしてもらいたい。一人一殺の主義で行けば敵の上陸部隊を全滅させることができるのである、といったではないか」と反問があった。これに対し警察署長は「終戦の御詔勅をいただいた後は、大御心に副い奉り、平和のために死力を尽くさねばならない」とし、「いままでとその方法は違っていても、いずれも国に尽す道は変わっていない。」と答えていた。しかし、「特高係は杉山主任警部補以下、慰安婦になり手がないのでその説得にいそがしい。二十名は欲しいのに希望者がなく、やっと六名だけ出来たような始末」であった。同警察署では、警察合宿所を急遽、慰安施設に転用することとなった。これについて署長は「警察権逸脱のどんな問責も非難も、治安維持という大乗的見地から甘受する覚悟」であったという。

 「国に尽す道は変わっていない」との官僚的合理性は自己欺瞞に過ぎる。民族の純血を護るために、その純血を売ることが「大御心に副い奉」ることであるとすれば、これはあきらかに戦前説かれた「日本婦道」や「家の本義」と一致しえないのである。それは「いままでとその方法は違って」いるのみならず、その本質も違うのである。もし、同じ点があるならば、それは自民族に対する残虐さであり、当事者意識の欠如である。

 RAAはその声明に「幾千人かの人柱」としていたが、当初から職業的な芸娼妓だけでは「数」が足りないと判断されていた。このため新聞広告等を通じ広く一般にも募集することとなった。これには「米軍支給の食料が与えられた」ために、東京では最初の応募だけで一、三六〇人という予想外の女性が集まった。愛知県では「県内有力者」が「国際高級享楽ナゴヤクラブ(仮称)」を設立したが、そのダンサー、女給募集状況、募集者の志望動機等の調査についの報告書が提出されている。これによると九月十四日から十七日の四日間に行われた募集選考に六八〇名の女性が応募していた。その志望動機は「イ)外人に対する好奇心に基くもの 四〇%、ロ)享楽的職業に憧憬するもの 二〇%、ハ)良好なる待遇宣伝に眩惑されたるもの 二五%、ニ)家計困難に因るもの 五%、ホ)その他 一〇%」であった。この内、イ)、ロ)は「比較的年少にして未婚」の者が多数を占め「裏面的淫売行為を暗黙裡に是認しおりと認められる者約二〇%」であり、ハ)、ニ)は「既婚婦人及経験者等にして大体売淫行為」である事を自覚していた。仮にイ)の「外人に対する好奇心」がアメリカ文明に対する憧憬であったとすれば、「裏面的淫売行為」を是認していなかった八〇%の女性にとって、この募集は完全に詐欺行為である。しかも、イ)、ロ)を合わせた全体の六〇%の内の八割が慰安の意味を理解していなかったということは、つまり全体の四八%、つまり約半数は騙されて応募していたということになる。

 そもそも、政府自らが推進しながらその応募者の志望動機を「外人に対する好奇心」とか「享楽的職業に憧憬」、「良好なる待遇宣伝に眩惑されたるもの」と評価するとは、あまりに欺瞞・偽善が過ぎる。このイ)、ロ)、ハ)だけで全体の八五%、約五八〇人になるというのである。しかし、例えば、東京ではこのような調査結果は確認はされていないが、「一般からの応募者は、大体においてモンペ姿の、ボサボサ頭の女が多くて、国家への奉公というよりも生活のために身を投げて来た者」と観察されていた。名古屋の調査は、そもそも設問類型からして、どう考えても女性に対する封建的蔑視が、女性を潜在的通敵者とみなしているようにしか思われないのである。それは丁度戦争末期、在日朝鮮人が空襲激化と共にスパイのやり玉にあげられるようになったのと似通った心情である。フェミニズムにおいて、女性差別の男性心理は、しばしば、「女は最後の植民地」と表現されるがこれは女性差別の核心を衝いたものである。集めるときばかり、「国のため」とか「天皇のため」とか都合の良いことばかり述べ、実態は紛れもなく優良富裕階層の婦女子の貞操のための「性の防波堤」であった。

 運営の実際

 「進駐」初期の慰安施設は、慰安婦は勿論のこと、業者も「命を的に」運営されていた。というのは、アメリカ兵たちは慰安施設に従事する男性に対しては「いきなり鉄拳を喰らわせ、蹴飛ばしにかかる」。このため「殺され損なつた施設所の人は、一人や二人ではなかった。軽くて片眼をつぶし、足をポツキリやられるなぞ、全く業者は命がけ」であった。また、神奈川では業者が約三〇戸、接待婦約一〇〇名がいた。先の土浦警察署では管内での慰安施設の準備に際し、横浜の実態調査をしていた。その報告書によると、施設のほとんどは「バラック建にして内部を望見」できるようなものであり、「接待婦一人に対する一日接待客数最高五十人、接待婦は局部に『フノリ』又は『クリーム』を用う」とあり、特殊慰安施設の「接待」は過酷を極めた。帝国政府にとってこのような施設自体が国家の捨て石に過ぎなかった。政府は従軍慰安婦と同様、特殊慰安施設を直接、国家運営するのではなく民間業者に委託する形態をとった。岩手県からは元赤誠会岩手支部長菱谷敏夫が「進駐軍受入に関する慰安施設関係者の中に入り陣頭に立ちて遊廓地帯の上田移転問題之れが設置計画等に奔走し居る状態」と報告されていた。特殊慰安事業では裏社会に通じた右翼団体が重要な役割を果たしていた。

 国粋同盟の笹川良一はその代表例である。大阪府からの報告によると、国粋同盟は「進駐軍慰安施設を経営すべく之が準備に忙殺され」、「総裁笹川良一の実弟笹川良平を社長に旧幹部岡田太三郎、松岡三次を総務として連合軍慰安所 アメリカン倶楽部」を大阪市南区西櫓町元三笠屋に九月一八日から開業した。敗戦直後、国粋同盟は解散し当時は「日本勤労者同盟」という新組織への再編を行っており、旧幹部岡田太三郎も「新組織に積極的に参加すべく決意」していた。これに対し笹川良一は「該事業は資本百数十万円を投じたる大事業なれば運動(新組織再編)は他の適当なる人物に任し岡田は慰安施設経営に専念すべしとの命」を出していた。

 このように経営主体としては民間業者への委託がとられたが、先の池田の発言にもあるように、その資金源は政府からでていた。従って、それは常に政府の監視下にあり、半官半民の国家売春とみても差し支えないだろう。それどころか、慰安施設の管理は日米協同の下に行なわれていたのである。

 岩手県ではこの「慰安施設ノ整備促進ニ関スル事項」は県警保安課が担当していた。同文書によると、約百名の分駐隊がその管内に「進駐」した一関警察署からは、「進駐」当時の様子が報告されていた。分駐隊指揮官デュール大尉は九月二三日、一関駅到着後、部下全員を集め指示や注意を与えたが、その中には次のような「注意」も含まれていた。「酒、ビール等モ警察署長ニ頼メバ買ツテ貰ハレルダロウ(ママ)。又女モ何人カ居ルラシイ(一同笑フ)」。「一同笑フ」とあるが、これは単なる冗談ではない。九月二十五日には、「花川戸慰安施設ノ検梅状況等ニ関シ進駐軍々医ヨリ三神診療医ニ質問、状況聴取セリ」とあり、さらに九月二十六日には、「進駐軍々医大尉外三名山日村娼妓診療所ニ至リ娼妓六名(一名疾病)ノ検診ヲ了シ明二十七日ヨリ毎日午後一時ヨリ午後五時三十分迄登楼スベキニ付同時刻以外ニハ絶対ニ登楼セシメザル様注意アリ」とある。このように、特殊慰安施設の運用は警察がこれを民間業者に斡旋し、「進駐」軍はこれを公認しさらにその衛生管理に加わっていた。

 「進駐」軍関係の記録には、日本警察の連合軍将兵に対する警備活動に感謝する意の言辞が、しばしば、見受けられる。実際、警察は慰安施設の斡旋のみならず、所謂「オンリー」の世話までしていた。先に引用した土浦警察署長は「進駐」軍士官の要求により「オンリー」三名のみならず、そのための借家と、自転車まで用意する羽目となった。米軍士官は「オンリー」を「令夫人」の如くつれ歩き「まともに見られない熱愛の情景」だった。この三件の借家は、場所もあろうに管内の小学校の前にあったため、小学生の借家への投石が絶えなかった。このため、警察は学校を通じて生徒の指導を依頼した。後に士官の帰国後に生まれた女の子は、「ある公務員が、子どもがいないので、混血児をもらい受け」たという。「オンリー」は接待婦の中でも「特別待遇」だったわけであるが、小学生からは投石され、士官は子どもに何の責任もとらず帰国し、所詮、「秩序ある降伏」と「秩序ある占領」のための捨て石であった。こうして多くの下層階級の女性が「日本の良家の婦女子」の防波堤となった。高見順はこのような「防波堤」を当時次のように見ていた。「戦争は終わった。しかしやはり『愛国』の名の下に婦女子を駆り立て、「進駐」兵御用の淫売婦に仕立てている。無垢の処女をだまして戦線へ連れ出し、婬売を強いたその残虐が、今日、形を変えて特殊慰安云々となっている」。

 GHQは一月二一日、公娼の廃止を日本政府に命じ特殊慰安施設は短命に終わる。解散時、「五万人余」いた特殊慰安婦は国家から何の補償も受けることがなかった。その多くは「パンパン」と呼ばれる洋娼となったのではないか。敗戦後、「道義の退廃」が頻繁に指摘され、「進駐」兵に「ぶら下がって歩く」「パンパン」はその典型として国民から侮蔑の対象とされた。しかし、道義の退廃は戦前の「残虐」の連続に過ぎない。国家のために要請され、その窮乏のため生きる術を他に求め得なかった彼女達は、「敗戦後の非国民」と指弾され、「見えざる地下の柱」として過去へと葬りさられたのである。敗戦後五十年、「肉体の戦士RAA」への国家賠償は未だ行われていない。

【全面降伏使節団がマニラに赴く】
 8.19日、河辺虎四郎陸軍中将を団長とする全面降伏使節団がマニラのニコラス・フィールド飛行場に着陸。会議が執り行われ、占領軍の進駐の要領、降伏文書の調印日、日本軍の武装解除等々の打ち合わせをした。「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、本降伏条約を実施するため適当と認める措置を執る連合国軍最高司令官の制限の下に置かれるものとす」とされた。制限の下に置かれるは「be subject to」。

【闇市全盛】
 敗戦直後、東京新宿に関東尾津組尾津親分の仕切りによる露天商マーケットが誕生した。軍需物資を引き取り生活用品に改造して「新宿マーケット」で販売し始めた。誰も生活に目鼻のつかない時期に早くも「光は新宿より」と銘打って活動し始めた露天商のしたたかさが知れる。東京では、上野(ノガミ).新橋(バシ).新宿.銀座(ザギン).有楽町(ラクチョウ).池袋(ブクロ).浅草(ロック)等主要な駅にはどこにも闇市ができ賑わっていくこととなり、やがて闇市全盛期に入っていった。

【関東軍のシベリア抑留開始】
 8.23日、スターリンは、モスクワ・クレムリン・国家防衛委員会議長・ヨシフ・スターリンサインによる内務人民委員(内相)ベリア宛て「日本軍捕虜50万人の受け入れ、配置、労働利用について」(第9898号決定)指令を出した。指令は14項目と19項目にわたっており詳細なものである。次のように指示していた。1、極東、シベリアの環境下での労働に肉体面で適した日本人捕虜を50万人まで選別する。2、ソ連への移送に先だち、捕虜からなる千人単位の建設大隊を編成する。3、内務人民委員部捕虜問題総局は、日本人捕虜を以下の労働現場に派遣する。

 9月初旬、関東軍のシベリア抑留が開始された。ソ連軍占領下の満州、朝鮮北部などで武装解除された日本軍将兵は、建設大隊に再編成され、貨車で連行された。厚生労働省統計に拠ると、抑留された日本人総数は57万5千名、うちモンゴル人1万4千名で、そのうち5万人(モンゴル人2千名)が死亡した。実数はもっと多いとする説も有る。この機密資料は、1993.6月、ソ連崩壊後に、読売新聞社古本記者が、ロシア大統領直属の「クレムリン文書保存館」で発見した。その全文は、高木一郎氏が『征きて還りし兵の記憶』(岩波書店、1996年、P.10~17)に載せている。(「『異国の丘』とソ連・日本共産党」参照)。

【一億国民総懺悔】
 8.28日、東久邇首相は、内閣記者団との初会見で、「国体護持ということは理屈や感情を超越した、かたい我々の信仰である」と言明して、あらためて「国体護持」を内閣の基本方針に据えていることを表明した。

 この時東久邇首相は、「一億国民総懺悔」を説いた。「この際私は軍、官、民の国民全体が徹底的に反省し、懺悔しなければならないと思う。全国民総懺悔することが、わが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩であると信ずる」と述べた。
この「一億国民総懺悔」は少々意味深であり、今日よりすれば戦争指導者の責任を曖昧にしたままの戦後再建への決意宣言とみなせるが、当時の国民心情としては「国を守れなかったことを天皇にお詫びするという気持ちが込められた天皇への国民的謝罪」という意味も込められていたようである。「当時の自分の心境にぴったりくる言葉だった」と云う者もある。

 朝日新聞が8.30日の社説で、「まさに一億総懺悔のとき、しかして相依り相たすけて民族新生の途に前進すべきときである」と呼応した。こうして戦争責任の追及に向かう流れがマスコミリードで阻止されていった形跡がある。それを良しとする国民の一般的気分があったとも云えるのかも知れない。新聞は国体の自尊心と体面を考慮してか、敗戦という表現を使わずに終戦と報道していた。占領軍は進駐軍と表現される等新用語が発明された。 

【インドシナのベトナムで、ホ・チミン率いる共産軍が決起】
 9.2日、インドシナのベトナムで、ホ・チミン率いる共産軍が決起した。民族統一戦線組織べトミンがハノイなど各地で決起し、この日ハノイのバディン広場で約50万人の民衆の前でベトナムの独立を宣言した。

 これに対して、インドシナ全土の再支配を目論むフランスは、英軍の協力を得て南ベトナムでの支配権確立に向かい始めた。べトミンはこれに激しく抵抗していくことになる。

【トルーマン大統領が、「降伏後における米国の初期対日方針」を承認、マッカーサーに指令】
  9.6日、トルーマン大統領は、「降伏後における米国の初期対日方針」を承認、マッカーサーに指令している。GHQが早急に取り組んだことは、「日本が再び米国又は世界の脅威にならないようにする為の武装解除.非軍事化」であった。日本軍国主義的要素の徹底的な破壊であり、この延長上での国家再建となった。こうして軍隊及び軍事施設の解体及び戦犯の追及から着手された。この動きとワンセットで獄中反軍国主義者の解放が指示されることになった。他方で、「基本的人権の尊重や民主主義的組織の形成が奨励、育成、指導」が為された。この流れで、GHQ指令により党の獄中幹部も又全面釈放されることになった。

 この経過は次の通りに進行した。GHQが焦眉に取り組んだことは、戦争の主柱であった帝国軍隊の解体を手始めとする「天皇制軍国主義とその社会的基盤の解体」となった。9.2日付「指令第1号」は、軍需生産全面停止を指令した。

 続いて戦争責任者の追及に向かった。11.10日、米国は、東条らのA級戦犯を国際法廷で裁くようマッカーサー司令長官に通達した。9.11日、マッカーサーは、東条英機以下その内閣時の閣僚だった外相・東郷茂徳、海相・嶋田繁太郎、蔵相・賀屋興宣、商工相・岸信介らを筆頭とする戦争指導犯罪者43名の逮捕指令を出した。以後容疑者が次々と収監されていった。

 東条は自らが作った「生きて虜囚の辱めを受けず」、「死して罪禍の汚名を残すことなかれ」の通り自殺を図ったが一命をとりとめた。開戦当時の陸軍参謀総長・杉山元帥はピストル自殺し、その夫人が後追い短刀自決した。東条内閣の厚生大臣小泉親彦、文部大臣橋田邦彦らも青酸カリによる服毒自殺している。12.16日、元首相の近衛文麿が出頭期限の12.16日未明、青酸カリ自殺を遂げた。

 戦犯逮捕命令は、11.19日、12.2日、12.6日と出され、A級戦犯容疑者だけで約100名に達した。

【ソ連の介入とGHQとの関係】
 ソ連は、GHQの指揮下に入らず、独立した権限を持とうとしていた。この時のソ連軍代表はデレビヤンコ将軍だった。本国のスターリンの指令を受けて、GHQ権力と駆け引きしていった。「日本分割論」、「2.1ゼネスト中止」をめぐって、このデレビヤンコ将軍とマッカーサー元帥との逸話が有名である。公的な記録では、常に二人は対立して議論を戦わせているが、本当は中が良かったようである。

 9.1日、週間東洋経済の主筆・石橋湛山が「更正日本の進路」を発表。
【「降伏文書」調印】
 9.2日、マッカーサー到着の3日後のこの日の午前9時4分、日本政府は東京湾上横須賀の沖合い29キロに停泊する米艦ミズーリ号上で「降伏文書」に調印した。法的な意味での終戦がここに完結したことになる。日本全権は重光葵外相と梅津美治郎参謀総長他文官4名.武官7名が任に当たった。この随員選考は、東久邇宮首相が近衛文麿国務相、木戸幸一内大臣、緒方竹虎書記官長と相談して為されたとある。

 マッカーサーの約3分の演説の後、重光と梅津、連合国代表としてマッカーサー、次いで連合国各国代表8名が署名して式は終わった。米、中、英、ソ、豪、カナダ、仏、蘭、ニュージーランドの順に署名して調印式は終了した。この時、92年前にペリー提督が日本に開港を迫ったとき、戦艦ミシシッピー号に掲げられていた星条旗が式場に運び込まれていたといわれている。

 文書には、「連合国に対する無条件降伏を布告す」、「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施する為適当と認むる措置を執る連合国最高司令官の制限の下に置かるものとす」と記載があり、こうして日本は連合国軍占領統治下に国家主権が置かれ、天皇の権限もマッカーサー元帥の制限下に置かれることとなった。敗戦の帰結であり、こうして以後正式に連合軍「GHQ」が超法規的に戦後日本の君臨と統治にあたることになった。


 9.3日、調印式の翌日、重光外相がマッカーサーを訪ね、GHQの日本直接統治は混乱を招く恐れが強く、政策の実行は、日本政府を通して行うよう申し入れた。重光の作成した文書によれば、マッカーサーの答えは次のようなものであった。
 「自分は、日本国を破壊し、国民を奴隷にする考えは全くなし。要するに、政府と国民の出方一つにて、この問題はいかんともなるものなり」。

 マッカーサーは、日本の政府を介した間接統治を行うと約束した。この報告を聞いた昭和天皇の様子を伝える重光の手記には、「陛下より、それは誠に良かったねと、一方ならず、お言葉があり」と記されている。







(私論.私見)