「越後の虎」として恐れられた勇将、上杉謙信。ライバルの武田信玄と何度も繰り広げた激戦はとりわけ有名だ。武神である「毘沙門天」の旗印と、“軍神”とまでいわれた戦(いくさ)上手で知られている。一方で、今川家と対立して塩を手に入れるのに苦労していたライバルの武田信玄に塩を送っている。「敵に塩を送る」のエピソードでも知られる「義」に厚い。上杉謙信は閃(ひらめ)きのある戦いの天才だった。
戦争では天賦の才を発揮したが、家臣や共に戦う武将を説得する能力で、説明責任が欠けていた。その理由は謙信の生い立ちにあった。謙信は、実父の長尾為景に内訌(ないこう、うちわもめ)にならないように、といったん寺に送り込まれた。仏門に入った謙信が身に付けたのは禅や教養だった。謙信は若いころから武芸に秀でていた。14歳の若さで元服して長尾景虎を名乗り大将となる。元服した翌年、謀反を起こした豪族を相手にした初陣を鮮やかな勝利で飾っている。その後も数々の戦いで活躍し、19歳で家督を相続して守護代になり、20歳のときには越後の国主となっている。10代にして武将としてメキメキ頭角を現し、20歳で越後の国主になるというのは、ものすごいスピード出世だった。 |
突然に失踪して、家臣たちは右往左往
謙信は、国主であるにもかかわらず急に出家すると言い出したことがある。突然逃げ出した有力武将は謙信くらいのもの。家臣たち同士の争いの調停などで、心身とも疲れ果てて、国主のすべてが嫌になった。越後は、古代から続く各地域の文化が色濃く残っており、意見調整ができる人間がいないと統制が取れず、めちゃくちゃになりがち。家臣たちは、謙信の代わりになる人物がいないので必死になって探しに行った。結局、謙信の義理の兄・長尾政景が出向いて本人を説得し帰ってきてもらった。当時、謙信は30代。謙信の性格には、ずっとそんな部分が残っている。
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北条氏を追い詰めた永禄3~4年(1560~61年)の小田原攻め。「小田原攻めは成功する」と謙信は考えていた。しかしその根拠や戦略を、味方についた武将たちに説明不足だった。信玄が背後を突こうとしていることを知ると、関東各地からはせ参じた諸将は動揺した。北条には一物あるが、謙信がいなくなったら小田原(北条)の言うことも聞く、といった日和見なスタンスの者も少なくなかった。結局、小田原城に侵攻するという謙信のプランは支持を得られなかった。成功させていたら小田原城を陥落させ、北条氏を滅ぼし、関東を支配できた可能性もあった。返す刀で信玄を討つという絶好のチャンスはこうして失われた。 |
謙信は軍神ともたたえられたほどに、戦場において輝きを放っていた。謙信はわずか数十人で北条氏の3万ともいわれる大軍勢の前を、威風堂々と駒を進め、味方の城に入ったことがある。敵は誰も謙信に手を出せませんでした。謙信は走っているわけでもなく、北条勢は仰ぎ見るように見守っていたとされます。謙信は生きているときから神様で、仏神が乗り移ったようなオーラがありました。謙信の心の支えは御仏であり、弱い自分自身を隠している部分でもありました。ひらめきの人であり、神仏がそう言っているのだ、と素直に言える感性の人でした。ただ、このような性格だったので、とりわけ人間関係に苦悩していた。深酒をしがちで、最後はアルコール中毒のようになった。コミュニケーションが下手で、結果(勝利)で家臣たちをひれ伏させていた。 |
謙信といえば、信玄との間で何度も繰り返された川中島の戦いがとりわけ有名。永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いの直前、信玄は、謙信の挑発から逃げまわりました。謙信は妻女山に陣取りました。包囲され、水を断たれたら一巻の終わりです。「えっ、登るんですか。麓(ふもと)をとられたらアウトですよね」と上杉軍の将兵は驚き、悲惨な結末を想像したことでしょう。「上策には下策を」で、これをやったら信玄が出てくると考えたのでしょう。実際に信玄はやってきた。謙信はどうしてこんな愚かなことをしたのか。きっと何かある。信玄はいったん海津城に下がります。そこで信玄は後世に流布された「啄木鳥(きつつき)戦法」を考え(実際は異なりますが)、別動隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、麓に追いやって、信玄率いる本隊と挟み撃ちにしようとした。このおりの戦いは、霧の中の遭遇戦でした。謙信は前夜、海津城でお米を炊く煙が多いことを察知。信玄が仕掛けてくると判断し、夜陰に紛れて、一気に山を下りた。武田軍は上杉軍を挟み撃ちにするにしても、どこに下りてくるのかが分からなければ、対応は難しい。さすがの信玄も、ここで地が出ました。最後まで天才謙信ならどうするかを見極められなかった。どこを横切るか、常識論で考えてしまいました。越後への最短距離であろう、と。朝になって、初めて霧が晴れたとき、武田軍の目の前に上杉軍が突如として姿を現した。謙信は信玄が思いもしなかった中央突破を考えた。常識論で考えてしまった、信玄の失敗でした。つりだすための手は失敗し、奇襲された分だけ、信玄は劣勢となった。第4次川中島の戦いは、前半が謙信の勝ちで、信玄側は大きな打撃を受けた。信玄の弟で武田家の要の役割を果たした武田信繁や足軽大将の初鹿野忠次らが討ち取られた。後半は、武田軍の別動隊が到着して、上杉軍を挟撃し、形勢は逆転した。それぞれが勝利を主張し引き分けとの見方もあるが、多数の重臣が討ち取られたという意味では武田家が受けたダメージが大きかった。優れた人材を多数失ったことが、その後の武田家の滅亡につながっていく。江戸時代の幕藩体制になっても上杉家は残りましたが、武田家は残りませんでした。
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天才の後を引き継ぐのは大変で、謙信が急死した後に家督を引き継いだ上杉景勝は、相当な苦労をした。家督を継いだ後は、日常において人前で、全くしゃべらずに無言を貫いた。その代わり、一言を発すれば全軍が動く。そんな景勝を、うまく補佐したのが直江兼続。景勝と兼続の2人合わせて、謙信一人の役割を演じている。これがうまくいきました。
慶長5年(1600年)の会津征伐で徳川家康が攻めてきたものの、関ヶ原の戦いにつながる西軍の挙兵を知り、撤退した。この際、上杉勢が家康軍に突っ込んだら、歴史は変わったかもしれません。しかし景勝はそうしませんでした。兼続が追撃を主張したものの、拒否した。「上杉は逃げていく敵は討たない」。兼続は「今を逃したら、次は大変なことになります」と主張しましたが、景勝は聞き入れませんでした。
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