信玄最初の結婚は天文2年(1533年)、相手は関東地方の名門・扇谷上杉朝興(ともおき)の息女。が、この正室は出産時に母子ともに亡くなってしまう。それから三年後の天文5年(1536年)、元服して晴信と名乗る。室町将軍・足利義晴から「晴」の字を偏諱として賜り、同年七月には、左大臣・転法輪三条公頼(きんより)の二女、通称・三条夫人を継室に迎えた。扇谷上杉と京都の公家という、2人の結婚相手を見ると両家共に名家であり、信虎が嫡男を重要な位置づけとしていたことが窺える。
信玄の初陣は甲陽軍鑑によれば元服と結婚と同じ、この年のこと。武田家嫡男としてデビューを飾った記念すべき1年と言えるう。
信玄の父・信虎は苦労をしてきた。わずか14才で家督を継ぎ、叔父はじめ国人の叛乱を抑え、甲斐を統一。そのあとは周辺諸国に進出し、今川氏や北条氏と争いを繰り広げた。天文10年(1541年)、信虎が、信玄によって追放されるという事件が起こった。信玄の父追放は悪逆非道の行為として、上杉謙信はじめ多くの人から非難されてきた。しかし、甲陽軍鑑によれば、信虎は信玄ではなく弟の信繁を偏愛していた。廃嫡すらしかねない状況に信玄が父の追放を決めたとされている。信虎が残忍な性格で、妊婦の腹を切り裂くような悪行を重ねていた、という話も伝わっている。また、近年の研究では、百年に一度と言われるほどの飢餓が、この事件の背景にあったとも言われている。信虎追放まで数年間、凶作、災害が相次いでいた。にも関わらず戦は止むことなく、ありとあらゆる階層において高まる不満。このタイミングで信虎を追放し、強制的に領主を交替、それと同時に【交替に伴う徳政】を実施する。そうすることでクーデターに対する理解を得ようとした節がある。冷静で合理的な判断のもと、信玄は父を追放したことになる。
天文11年(1542年)、父を追放し家督を相続した信玄は攻勢を開始する。まず攻めたのが諏訪頼重。諏訪家には妹の禰々が嫁いでおり、夫妻の間には嫡男・寅王丸が生まれたばかりだった。姻戚関係を結んだ相手を攻めるには言い分がいる。頼重は信虎追放の混乱の最中、同盟していた信玄や村上義清と無断で、敵方であった上杉憲政と講和している。先に裏切ったのは諏訪だという言い分が成り立つ。信玄は諏訪に侵攻すると諏訪頼重を切腹に追い込む。諏訪氏は寅王丸に継がせることとなっていたが、信玄はこれも反故にする。頼重の妹である諏訪御寮人を側室とし、彼女との間に生まれた男児(のちの武田勝頼)に諏訪家を継がせる。諏訪を取った信玄の信濃侵攻は止まらなかった。
天文12年(1543年)、信濃国長窪城主・大井貞隆を攻め降伏させ、望月昌頼を追放。
天文13年(1544年)、北条氏との和睦に至る。
天文14年(1545年) 4月、伊那郡の高遠城主高遠頼継、福与城主・藤沢頼親を降伏させた。
天文14年(1545年) 、今川氏と北条氏の対立である「第二次河東一乱」)を仲裁。
天文15年(1546年)、佐久郡の内山城主・大井貞清を降伏させる。
天文16年(1547年)、佐久郡の志賀城主・笠原(依田)清繁を攻撃。笠原を支援する関東管領上杉氏の連合軍も撃破する。
天文16年(1547年)、「甲州法度之次第」を制定(26ヵ条本と55+2ヵ条本があり、今川仮名目録の影響を受けている)
順調に見えた信玄の道のりだが、この後、二度の手痛い敗戦を喫している。最初は天文17年(1548年)。村上義清を攻めた「上田原の戦い」において、重臣の板垣信方&甘利虎泰らを失う惨敗を喫した。この敗戦による影響は甚大で、信濃経営すべてがオシャカになるほどの危機に陥るが、直後の【塩尻峠の戦い】で挽回、反武田の動きを封じる。さらに天文19年(1550年)。今度も村上義清方の城である「戸石城」を攻めるものの、一説によれば1千名もの犠牲を出し撤退。この大敗北は生涯唯一の軍配違い(作戦ミス)として知られ【戸石崩れ】と呼ばれた。村上義清の反撃もここまで。信玄は、天文20年(1551年)に戸石城を落とし、天文22年(1553年)には葛尾城も陥落させる。没落した義清は、越後の長尾景虎を頼り落ち延びた。このとき目覚ましい活躍したのが真田幸綱(真田幸隆)。真田昌幸の父であり、真田信之・真田信繁兄弟の祖父になる。
天文23年(1554年)、武田信玄と北条氏康、そして今川義元の三者は互いに婚姻関係を結び【甲相駿三国同盟】を締結させた。これは今川家の軍師的僧侶・太原雪斎の発案とされている。武田、今川、北条ともに「敵を絞りやすくなる」というメリットを享受した。後顧の憂いなく信玄の目は越後・上杉謙信との激突に向かった。。義清が頼った相手が長尾景虎。信玄の永遠のライバル・上杉謙信である。天文17年(1548年)、兄・晴景を引退させて家督を継いだ謙信。彼は武田に追われた村上義清、高梨政頼らを受け入れる。謙信は、信玄との対決に挑む。両雄決戦の地は川中島。信玄は川中島より北の信濃を領有しており、この地はいわば国境線上のボーダーラインだった。この地が日本史上の戦国ロマンの川中島の戦いになる。
第一次合戦:天文22年(1553年)は(別名):「布施の戦い」あるいは「更科八幡の戦い」。Who:武田信玄vs上杉謙信(謙信本人が出陣したかどうかは諸説あり)。天文22年(1553年)、信濃国川中島(現:長野市南郊)。武田信玄に追われた村上義清の旧領復帰を目指す。放火等はあったものの、本格的な戦闘には至っていない。武田側は、村上領が奪われることを阻止。上杉側にとって村上義清の旧領復帰は失敗したものの、北信濃国衆の離反を防ぐことができた。