真田一族の履歴考1()


 更新日/2022(平成31.5.1日より栄和改元/栄和4).6.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、武田信玄を確認する。戦国時代の数多くの大名たちの中でも武田信玄と上杉謙信が破格の扱いをされるのはナゼなのか?。日本の歴史という大きな視点に立てば、・織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑が与えた影響は極めて大きく、逆に信玄と謙信は重要な存在感を発揮しきれておりません。あくまで一地方の有力者と考えた方が自然であり、例えば受験で取り上げられるような際立った功績もない。にもかかわらず【甲斐の虎】信玄と、【越後の龍】謙信は、やっぱり別格! では、史実の武田信玄とは、どんな一生を送ったのか? 53年に及ぶ生涯を確認しておく。

 2013.08.11日 れんだいこ拝


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 信玄が生まれた頃、甲斐は混乱の真っ最中。父・武田信虎が今川勢に攻められ、窮地に陥っていた。甲斐国。大永元年(1521年)。この国を治める守護大名の武田信虎は28才。彼はこのとき、大変な危機の最中にあった。福島正成(くしままさなり)率いる今川勢に攻められ、敵軍が甲府まで迫っていた。今川義元今川氏真でお馴染みの今川。信虎は懐妊中の正室・大井夫人を積翠寺要害山城に避難させた。同年の1521年11月3日、大井夫人は避難先で無事男児を産む。幼名を太郎(or勝千代)と名付けられたこの男児がのちの信玄。信虎は領内での二度の戦いでようやく今川勢を撃退、甲斐国には平穏が戻った。信玄の幼少期については謎が多い。伝説的な話は残されているものの史料そのものが少ない。

 信玄最初の結婚は天文2年(1533年)、相手は関東地方の名門・扇谷上杉朝興(ともおき)の息女。が、この正室は出産時に母子ともに亡くなってしまう。それから三年後の天文5年(1536年)、元服して晴信と名乗る。室町将軍・足利義晴から「晴」の字を偏諱として賜り、同年七月には、左大臣・転法輪三条公頼(きんより)の二女、通称・三条夫人を継室に迎えた。扇谷上杉と京都の公家という、2人の結婚相手を見ると両家共に名家であり、信虎が嫡男を重要な位置づけとしていたことが窺える。

 信玄の初陣は甲陽軍鑑によれば元服と結婚と同じ、この年のこと。武田家嫡男としてデビューを飾った記念すべき1年と言えるう。

 信玄の父・信虎は苦労をしてきた。わずか14才で家督を継ぎ、叔父はじめ国人の叛乱を抑え、甲斐を統一。そのあとは周辺諸国に進出し、今川氏や北条氏と争いを繰り広げた。天文10年(1541年)、信虎が、信玄によって追放されるという事件が起こった。信玄の父追放は悪逆非道の行為として、上杉謙信はじめ多くの人から非難されてきた。しかし、甲陽軍鑑によれば、信虎は信玄ではなく弟の信繁を偏愛していた。廃嫡すらしかねない状況に信玄が父の追放を決めたとされている。信虎が残忍な性格で、妊婦の腹を切り裂くような悪行を重ねていた、という話も伝わっている。また、近年の研究では、百年に一度と言われるほどの飢餓が、この事件の背景にあったとも言われている。信虎追放まで数年間、凶作、災害が相次いでいた。にも関わらず戦は止むことなく、ありとあらゆる階層において高まる不満。このタイミングで信虎を追放し、強制的に領主を交替、それと同時に【交替に伴う徳政】を実施する。そうすることでクーデターに対する理解を得ようとした節がある。冷静で合理的な判断のもと、信玄は父を追放したことになる。

 天文11年(1542年)、父を追放し家督を相続した信玄は攻勢を開始する。まず攻めたのが諏訪頼重。諏訪家には妹の禰々が嫁いでおり、夫妻の間には嫡男・寅王丸が生まれたばかりだった。姻戚関係を結んだ相手を攻めるには言い分がいる。頼重は信虎追放の混乱の最中、同盟していた信玄や村上義清と無断で、敵方であった上杉憲政と講和している。先に裏切ったのは諏訪だという言い分が成り立つ。信玄は諏訪に侵攻すると諏訪頼重を切腹に追い込む。諏訪氏は寅王丸に継がせることとなっていたが、信玄はこれも反故にする。頼重の妹である諏訪御寮人を側室とし、彼女との間に生まれた男児(のちの武田勝頼)に諏訪家を継がせる。諏訪を取った信玄の信濃侵攻は止まらなかった。

 天文12年(1543年)、信濃国長窪城主・大井貞隆を攻め降伏させ、望月昌頼を追放。
 天文13年(1544年)、北条氏との和睦に至る。
 天文14年(1545年) 4月、伊那郡の高遠城主高遠頼継、福与城主・藤沢頼親を降伏させた。
 天文14年(1545年) 、今川氏と北条氏の対立である「第二次河東一乱」)を仲裁。
 天文15年(1546年)、佐久郡の内山城主・大井貞清を降伏させる。
 天文16年(1547年)、佐久郡の志賀城主・笠原(依田)清繁を攻撃。笠原を支援する関東管領上杉氏の連合軍も撃破する。
 天文16年(1547年)、「甲州法度之次第」を制定(26ヵ条本と55+2ヵ条本があり、今川仮名目録の影響を受けている)

 順調に見えた信玄の道のりだが、この後、二度の手痛い敗戦を喫している。最初は天文17年(1548年)。村上義清を攻めた「上田原の戦い」において、重臣の板垣信方&甘利虎泰らを失う惨敗を喫した。この敗戦による影響は甚大で、信濃経営すべてがオシャカになるほどの危機に陥るが、直後の【塩尻峠の戦い】で挽回、反武田の動きを封じる。さらに天文19年(1550年)。今度も村上義清方の城である「戸石城」を攻めるものの、一説によれば1千名もの犠牲を出し撤退。この大敗北は生涯唯一の軍配違い(作戦ミス)として知られ【戸石崩れ】と呼ばれた。村上義清の反撃もここまで。信玄は、天文20年(1551年)に戸石城を落とし、天文22年(1553年)には葛尾城も陥落させる。没落した義清は、越後の長尾景虎を頼り落ち延びた。このとき目覚ましい活躍したのが真田幸綱真田幸隆)。真田昌幸の父であり、真田信之真田信繁兄弟の祖父になる。

 天文23年(1554年)、武田信玄と北条氏康、そして今川義元の三者は互いに婚姻関係を結び【甲相駿三国同盟】を締結させた。これは今川家の軍師的僧侶・太原雪斎の発案とされている。武田、今川、北条ともに「敵を絞りやすくなる」というメリットを享受した。後顧の憂いなく信玄の目は越後・上杉謙信との激突に向かった。。義清が頼った相手が長尾景虎。信玄の永遠のライバル・上杉謙信である。天文17年(1548年)、兄・晴景を引退させて家督を継いだ謙信。彼は武田に追われた村上義清、高梨政頼らを受け入れる。謙信は、信玄との対決に挑む。両雄決戦の地は川中島。信玄は川中島より北の信濃を領有しており、この地はいわば国境線上のボーダーラインだった。この地が日本史上の戦国ロマンの川中島の戦いになる。
 第一次合戦:天文22年(1553年)は(別名):「布施の戦い」あるいは「更科八幡の戦い」。Who:武田信玄vs上杉謙信(謙信本人が出陣したかどうかは諸説あり)。天文22年(1553年)、信濃国川中島(現:長野市南郊)。武田信玄に追われた村上義清の旧領復帰を目指す。放火等はあったものの、本格的な戦闘には至っていない。武田側は、村上領が奪われることを阻止。上杉側にとって村上義清の旧領復帰は失敗したものの、北信濃国衆の離反を防ぐことができた。

 第二次合戦:天文24年(1555年)。(別名):「犀川の戦い」。武田信玄vs上杉謙信。天文24年(1555年)。信濃国川中島(現:長野市南郊)。「甲相駿三国同盟」締結で後顧の憂いをたった武田と、離反した善光寺奪回をめざす上杉の戦い。武田方は食料調達、上杉方は家臣離反といった不安材料に悩まされ、両者ともめぼしい戦果をあげられず。今川義元の仲裁により和睦。

 第三次合戦:弘治3年(1557年)。(別名):「上野原の戦い」。武田信玄vs上杉謙信。弘治3年(1557年)。信濃国川中島(現:長野市南郊)。北信進出を目指す武田を上杉が迎え撃つ。両軍とも不完全燃焼、戦果をあげられなかった。武田方が優勢であり、信玄は北信濃への進出を強める。

 第四次合戦:永禄4年(1561年)。(別名):「八幡原の戦い」。武田信玄vs上杉謙信。永禄4年(1561年)。信濃国川中島(現:長野市南郊)。関東進出を狙う上杉を、武田が迎撃、激突する。最大の戦いで、一般的に「川中島の戦い」というと、大半の人がこの戦いを連想するハズ。ただし、軍記ベースで誇張され気味で、実態は不明な点がも多い。「啄木鳥戦法」が有名で両者多数の死者(武田:4千、上杉:3千)を出すものの、決着はつかなかった。これが両雄最後の直接対決となる。Notable Deaths(主要死者):武田信繁、山本勘助、室住虎光。

 第五次合戦:永禄7年(1564年)。(別名):「塩崎の対陣」。武田信玄VS上杉謙信。永禄7年(1564年)。信濃国川中島(現:長野市南郊)。両者にらみ合い。

 一般的に最も有名なのが第四次合戦です。一騎打ちも第四次を想定したと考えられ、この戦いは信玄の弟・武田信繁や、山本勘助らが討ち死にする大激戦となった。両者ともに大きな犠牲を払った川中島の戦い。結果からいうと、実質的には武田方が勝利した。激戦を通して、北信濃の支配を固めていったのは信玄。謙信は強いけれども、地域支配のために効果的な陣地や城を得られず、足場を固めたとは言えない。善光寺にしても、謙信が仏像を奪ったのに対し、信玄は寺ごと甲府に移転させてしまっている。領地を切り取るということに関しては信玄の方が上手だった。しかし川中島の戦いが終結する頃から、信玄の身辺には別の重大な問題が起こっている。

 第三次川中島の戦いが起こった永禄3年(1560年)、駿河に激震が走った。「海道一の弓取り」と名高く、信玄にとって同盟相手である今川義元が織田信長に討たれた。いわゆる桶狭間の戦い。これにより今川家の跡を継ぐのは若輩の上、不肖の息子とされる今川氏真に決まった。嫡男の武田義信の妻は今川氏真の妹で、いとこにもあたる嶺松院。義信は義兄・氏真の治める駿河を攻めたくなかった。信玄と義信の対立は、これ以前にもありました。川中島の戦いの時点で、父子の意見が一致しなかったことが。武田・織田の同盟にも反対しており、勝頼の妻として信長の養女が嫁ぐことにも反発していた。要するに、積もり積もった反発、外交面での不一致が決定的な父子不和となった。永禄8年(1565年)正月、飯富虎昌が成敗された。義信を唆したとの理由。義信は、籠舎(牢屋に入れられる)となってしまう。この二年後の永禄10年(1567年)、義信は自害してしまう。信玄は父を追放し権力を握った人物です。義信は血統もよく、申し分のない嫡男であったはず。しかし、我が身を省みて、実子の謀叛のおそろしさを痛感していたのかもしれません。義信の死後、嶺松院は駿河に送り返された。そしてその死によって、諏訪家を継ぐはずだった四男の武田勝頼が後継者となる。窮地に立たされた今川氏真は上杉謙信と協力し、武田の背後を脅かすことを模索する。しかし、越後では上杉謙信の家臣である本庄繁長が、永禄11年(1568年)4月から翌永禄12年(1569年)3月にかけて叛乱を起こす。しかもこの年はめったにないほどの豪雪で、さしもの謙信も思うように身動きが取れなかった。信玄は織田信長に使者を送り、ある策を使う。将軍の御内書による甲・越和議の和睦斡旋を依頼していたす。川中島であれだけ死闘を繰り広げておいて、その数年後に和睦って……と驚かされますよね。これも戦国の外交。信玄の百戦錬磨の作戦の面目躍如の策。上杉謙信は簡単に首をタテには振れなかった。織田信長と足利義昭の度重なる斡旋により、永禄12年(1569年)7月には和睦が成立している(甲越和与)。ただし長くは続かず、元亀元年(1570年)、この和睦は謙信によって破棄される。

 永禄11年(1568年)12月、信玄は満を持して、氏真にとっては突如、武田の駿河侵攻が始まる。その猛烈さに氏真は駿府を捨てて掛川城へと逃走。氏真夫人であり北条氏康の娘にあたる早川殿は輿すら用意できず徒足裸足(かちはだし)で逃げ出す羽目になっした。これが北条氏康と北条氏政の父子を激怒させる。北条は武田との同盟を破棄し、今川に援軍を送った。北条の進軍に呼応して反抗する今川方の武将もおり、戦線はますます激しさを増してゆく。一方、信玄は、徳川家康の協力も得て両軍で今川領に攻め入つている。遠江を攻めるのは徳川軍の予定。にもかかわらず、武田軍はしばしば遠江にも圧力をかけており、家康は抗議するほどでした。家康の中には信玄への不信があった。永禄12年(1569年)5月、今川氏真はついに掛川城を開城し、徳川家康と単独講和を結ぶ。氏真降伏後、家康は遠江を支配することになった。今川氏の滅亡後、各大名は複雑な同盟関係を締結し、互いを牽制しあう。徳川家康は、上杉謙信との同盟を模索。元亀2年(1571年)、北条氏康が亡くなると、跡を継いだ北条氏政は武田との同盟を復活させる。その一方で、密かに織田信長へ危機感をもって対処をするようになる。表面的には友好を装いつつ、信長の敵対勢力に接触をはかる。さらに信玄は足利義昭、浅井長政朝倉義景、松永久秀、本願寺と一向宗門徒と次々に味方に引き入れ信長包囲網を構築していく。

 元亀3年(1572年)、準備万端整えた信玄は、いよいよ甲府を出陣し徳川領へ向かう。徳川は織田との同盟相手。今川攻めでは互いに不信感を抱いた相手でもあった。武田軍は徳川領を進撃し、ついに両軍は激突した。【三方ヶ原の戦い】。この戦いで散々に徳川方を討ち破った武田軍は、赤備えで有名な山県昌景が家康の首を討ち取る寸前まで追い込む。信玄は「徳川に援軍を送ったのは許せない」として織田に同盟破棄を通達するた。

 元亀4年(1573年)、信玄は正月早々動き出し、徳川方の野田城を包囲する。家康は救援のため出馬するも、武田軍とぶつかることはしなかった。謙信に出馬を促すものの雪に閉ざされ動くことのできない上杉軍。武田軍は野田城を落とすと長篠城へ。信玄の撒いた反信長の芽は今まさに花を咲かせる勢い。各勢力は、信長を相手に敵対行動を開始。まるで炎が燃え広がるように織田を苦しめる――はずが、肝心の信玄が、長篠城から動かなくなってしまう。重病に倒れた。信玄は長年、病苦に苦しめられていた。常に医者を側に置き、養生に励むも、肺結核とも癌とも推察される病には勝てる術がなかった(ちなみに侍医は御宿監物・みしゅくけんもつ)。一度は回復の兆しをみせたものの、ついに帰国を余儀なくされる信玄。そして甲府に向かう途中、1573年4月12日に亡くなった(享年53歳)。死を三年間隠すこと。戦を停止すること。それを言い残し武田信玄という巨星は墜ちた。信玄は、事前に800枚もの紙を用意し、すべてに花押を記し、諸大名からの書状に対応するように命じたとされます。花押は原則、本人のサイン。そこだけ本物を入れておき、各大名に対する返書の文章は右筆などが記した。ご丁寧に「今は病気である」というような内容で記すよう遺言で伝えられたとのことです。さらに遺言の中には、「勝頼は、あくまで陣代(当主代行)であり、息子の信勝が家督を継承するまで武田の旗も使わせない」というものもあるが、現実的には当主と認められていたと考える方が自然です。織田信長が「勝頼は強い」と認めていたように(強すぎて退けずに長篠で突っ込んだという見方はさておき)、決して無能な人ではありません。それよりも遺言で面白いのは、死後に上杉謙信との和睦を勧めていた。さすがに織田信長と徳川家康との対峙は避けられぬ――という考えだったようで、信長に対しては攻め込むのではなく防御を固めるように指示している。信玄の死はすぐさま諸国へ広まっていた。武田家としては、あくまで「病気」というスタンスを貫いていた。仮に信玄不在だとしても、この頃にはまだ山県昌景や馬場信春、高坂弾正昌信など歴戦のツワモノたちが残っている。勝頼のもとで、武田家の領土は拡大していく。その武田家を支えた武田軍。精強な騎馬隊がよく知られている。将校クラスだけでなく、身分の低い者も馬に乗って合戦に参加し、その隊が組まれていることが史料から読み取れる。ただし「武田信玄陣立書」には、【鉄砲、弓、騎馬、槍】といった順番で部隊の構成が記されており、騎馬だけが際立って凄まじいと確定したものはない。基本的に合戦は、鉄砲と弓で遠距離攻撃を仕掛け合いながら、徐々に距離を近づけて槍隊の出番となり、戦況が動き始めたところで騎馬隊がトドメにかかる――そんな流れだと考えられる。武田家の騎馬隊が凄いらしい、という記述はある。【長篠の戦い】で武田勝頼と対峙することになった織田信長が、騎馬隊を警戒している、そんな一節が『信長公記』にも記されている。実は、鉄砲隊の隊列を崩すには、騎馬で突入させて撹乱させるのが定石。そんな状況もあって、大量の鉄砲を用意させた織田信長が、武田の騎馬隊をかなり警戒していた。長篠の戦いでは、騎馬隊を次々に突入させて無駄死にさせた、ということで勝頼の能力を否定する見方が一般的だが、本当はやるべきことをやっていた可能性が高い。むしろ長篠の戦いは、兵力を少なく見せ、山を砦のように固めていた織田信長の作戦勝ち。戦後、勝頼の名馬も信長に奪われている。正妻の三条夫人。側室の諏訪御料人。三条夫人は今川義元の斡旋によって輿入れが実現し、かつては敵対関係であった武田と今川の両家に緊張の緩和をもたらした。実際、今川の家督争い(花倉の乱)では、武田信虎の長女が義元の正室にもなり、武田氏は中央貴族や京都寺院との結びつきが強くなるす。後に信玄が信長包囲網を敷くときに、三条夫人を通じて石山本願寺と連携をはかったこともよく知られている。三条夫人の妹が本願寺顕如に嫁いでおり、それぞれの妻を通じて義兄弟の関係になっていた(ちなみに三条夫人の姉は管領・細川晴元に嫁いでいる)。信長との争いの前には、本願寺(越中の一向宗門徒)を通じて、越後の上杉謙信を牽制する働きかけも行われている。なにより信玄と彼女の間には、義信、竜芳、信之、黄梅院、見性院と5人もの子供がいる。三条夫人が悪妻かつ不仲であったら、さすがにここまでの関係を築くことは不可能だったであろう。
 2020.2.22日、「戦争より宣伝が上手だった武田信玄」。
 「風林火山」で有名な武田信玄。上杉謙信との「川中島の戦い」で知られ、騎馬軍団を率いる強い武将のイメージが強い。武田信玄といえば、軍旗に書かれた「風林火山」が有名。「疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵(おか)し掠(かす)めること火の如く、 動かざること山の如し」。騎馬軍団が有名で、戦争にも強かった。しかし、息子の武田勝頼の代になって織田信長に滅ぼされ、短期間で衰退した。

 永禄4年(1561年)に武田家の兵站部門を担ってきた弟の武田信繁を、第4次川中島の戦いで失ったことが、後に響いた。

 甲州騎馬軍団といえば、「赤備え」が有名で、甲冑や旗指し物を、赤や朱で塗って目立たせていた。騎兵のみならず、歩兵も精鋭部隊だった。「風林火山」という勇壮なスローガンは、孫子から取って、信玄がつくった。

 信玄は、織田信長よりも一回り上の世代。当時は地域の庄屋さんが部将で、百姓が足軽をつとめる時代でした。このため部隊は村単位で、田植えと稲刈りの時は戦争を避けていた。相手が来たら、小競り合いをして、メンツがたったら終わりにする。死闘になっては、農業生産者が減り、生産額が落ちて困るからです。甲斐国の守護だった信玄の父・武田信虎は、有力な国衆が台頭する中で、力づくで甲斐の統一を進めた。そのお父さんは合戦の利益を独占して、国衆たちに嫌われてしまいます。史実の信玄も、初陣がなかなかやってきませんでした。信玄の初陣は、20歳を超えてからであり、遅かった。信虎は、文弱に見えた信玄を嫌って、その弟の信繁に家督を継がせようとしていたという話もある。その後、天文10年(1541年)に、逆に国衆に担がれた信玄によって信虎は追放されてしまう。これは信玄が言い出したのではなく、「下剋上」で周りの国衆が追い出したようです。「信虎に仕えていても、俺たち(国衆)にいいことはない」と考えて、とりあえず血統上、信玄を担いだわけです。
 天文16年(1547年)に書かれた、武田氏の分国法である「甲州法度之次第」の最後には、こう書いてある。「私に何か悪いことがあれば言ってほしい」。信玄は国衆の一員となり、諜報戦に力を入れるようになる。信玄は、自分を訪ねてくるお坊さんや剣術使い、巫女さんなど、ありとあらゆる階層の人に会って、他国の話を聞き、自分なりに分析した。次がスパイ戦で、間者を送り込んで、攻めようと思う国をもめさせる。うその情報を流して、相手を混乱させることを徹底してやった。こうして狙っている国がガタガタになってきたら、合戦を仕掛けた。これが信玄の必勝法。

 天正3年(1575年)の「長篠・設楽原の戦い」で、武田軍は織田・徳川連合軍に大敗する。

――赤備えは後に大坂夏の陣において真田信繁(幸村)が編成し、徳川家康の本陣を突き崩す勇戦ぶりを示したことでも有名です。そのルーツである武田の赤備え。武田家の赤備えは、家臣団の中で、次男、三男など家を継がない者から、体力強健な人間が選ばれた。後ろには下がれず、下がれば味方から突き殺される。そうした切迫した中で、鍛え抜かれた次男、三男が選ばれた。それが赤備えで、とにかく強いと評判。武田の「赤備えが来た」と聞くだけで、相手が逃げていく。実際に騎馬隊が走って来たら、それだけで勝負が決まってしまいます。だからこそ信玄は、一番兵を損なわない人でした。
 信玄はくり返し慢心をいましめた。武田家を支えた弟の信繁が、先に死んでおり、自分の寿命にも限りがあると感じていた信玄は、元亀3年(1572年)に「西上作戦」を開始した。「三方ヶ原の戦い」で徳川家康を破り、その後、信玄の持病が悪化。結局、翌年4月に急死。死ぬ直前に信玄が残した遺言は2つ伝えられています。「わが死を3年秘すべし」と、もう1つが、京都の入り口である「瀬田の大橋に、武田の旗を掲げよ」でした。信玄の真骨頂は、兵を損ねないで上手に戦うことにありました。本人が生きている当時から無敵の最強軍団と言われたほどです。しかし信長が、予想よりも早くに力をつけました。そこで信玄は、今川領に入ります。海への出口がほしかったからです。信玄はイメージ戦略だけでは勝てないことを理解していました。この演出力は信玄の最大の長所であり、最大の弱点といえるでしょう。

 信玄の跡を引き継いだ武田勝頼は、父信玄が築けなかった城を、自ら築いてみせることで、父と競おうとした結果、人心を失った。
 伝説的な軍師ではなかった山本勘助

 謀叛の疑いで廃嫡された信玄の嫡男で武田家を本来継ぐはずだった武田義信は、信玄が孤立していたときを見ている。しかし勝頼は、完成したカリスマである信玄しか知りませんでした。勝頼は四男。苦楽を共にしていた長兄の義信は、武田家の実態を分かっていたが、勝頼は天下無敵の信玄しか知りません。勘違いをしたまま、気がついたら、長篠・設楽原の敗北で武田家が終わってしまいました。

 第4次川中島の戦いで死んだ信玄の弟・信繁は、武田家の縁の下の力持ちでした。こうした人物がいることの大切さを、若い勝頼は分かっていませんでした。しかも勝頼は、信長とは違って、新参者を幹部に抜擢・登用できませんでした。

 ちなみに武田家の家臣といえば、信玄の伝説的な軍師とされた山本勘助が有名ですが、“伝説的な軍師”はウソです。史料では軍師として確認できません。実際には勘助は手紙を持って行って返事をもらう役割の人だった、と考えられています。勘助は「甲陽軍鑑」に軍師として登場しますが、これは江戸時代に書かれたもので、事実ではありません。城も家臣も持たない他国者がいきなり軍師に抜擢されるなどということは、今も昔もありません。


 【武田信玄や真田幸村が兵装に「赤」を採用した理由 】
 戦国乱世を駆け抜けた武将たち。彼らが身にまとう兵装もただ漫然と考えられたものではなく、そこには、人の視覚や心理を巧みに利用し、自軍の軍略を有利に運ぶための「カラー戦略」が存在した。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康――。戦国時代に活躍した武将たちは、身にまとう甲胄(かっちゅう)や武具、のぼり旗などで、自軍の個性や精強さをアピールしていた。戦国武将に最も人気があったとされる色は「赤」で「赤備え」(あかぞなえ)。「赤備えとは、戦国時代の軍団編成における統一色の一つ。戦国時代の戦法は、槍や鉄砲を携えた歩兵の大群による集団戦であったため、戦場での識別性を高める工夫として甲胄や旗指物(はたさしもの)を赤で統一する部隊が存在した」。この赤備えを採用した武将として最も有名なのは、「武田の赤備え」と呼ばれ名をはせた武田信玄。ほかにも真田幸村や、「赤鬼」と呼ばれる部隊を従えた井伊直政も赤備えを取り入れていたことで知られる。当時は『青備え』や『黒備え』などの部隊も存在していた。赤は、前に出ているように見える『進出色』であり、また、実際よりも大きく見せる『膨張色』でもあるため、戦場において青や黒より非常に目立ち、実数以上に多くの軍勢を率いているように見せる効果があったと考えられる。そして、興奮や士気を高めたり、見る者に注意を促したりする心理効果を持つ赤に身を包むことで、軍の精強さを誇示し、敵を威嚇(いかく)する作用も期待されていた。

 甲胄のほかにも、戦場を赤く彩った装いがあります。戦場での防寒着として鎧の上から着用されていた「陣羽織」(じんばおり)。戦国武将は、南蛮人によって日本に渡ったとされる羅紗(らしゃ)や天鵞絨(びろうど)などの染織物を陣羽織に仕立てて着用していた。この陣羽織に使われていた中で最も貴重な色が「猩猩緋(しょうじょうひ)」と呼ばれる日本の伝統色です。「猩猩緋は、黄みのある鮮やかな赤色のこと。スペインやポルトガルとの南蛮貿易によって日本にもたらされた室町時代後期以降に流行した。色名は、中国古典に登場する猿に似た霊獣『猩々』の赤い血が材料だと信じられていたことに由来するが、実際の染料はコチニールカイガラムシやケルメスといった虫を原料に抽出され、非常に珍重された」。猩猩緋の羅紗や天鵞絨は極めて希少価値が高く、信長や秀吉などの有名な武将がこぞって陣羽織に仕立て、権力や富を誇示していた。豪華絢爛な意匠に加え、強く鮮やかな原色と異色の組み合わせがふんだんに使用されていた戦国時代の陣羽織からは、平安時代の貴族とは異なる色彩感覚が垣間見える。


【甲斐源氏の流れ】
 甲斐源氏19代。平安時代から続く武家の重厚な血脈。 信玄の“血”の面から掘り下げる。浮かんでくるのが【名門・甲斐源氏】。実際、信玄が関東の佐竹氏に助力を求める時、書状に「ご先祖様は一緒でしょ」という一節を入れている。では、そのご先祖様とは誰なのか?源義光です。甲斐源氏は、もともと清和源氏を祖として甲斐に根付いた源氏一族の一つで、その始祖が源義光。この源義光は源義家の弟でもあり、源義家の子孫には源頼朝がおる。つまり武田家は、将軍家と親戚にあたることになる(ただし頼朝に一族を誅殺されたりしている)。源義光を初代として考えると、信玄は第19代当主であり、甲斐武田氏としては16代になる。
1代 源義光 1045-1127 (甲斐源氏の始祖・甲斐守)
2代 源義清 1075-1149 (常陸国“武田”郷の地から甲斐へ)
3代 源清光 1110-1168
4代 武田信義 1128-1186 (甲斐武田氏の始祖)
5代 武田信光 1162-1248 源頼朝と共に挙兵)
6代 武田信政 1196-1265
7代 武田信時 1220-1289
8代 武田時綱 1245-1307
9代 武田信宗 1269-1330
10代 武田信武 1292-1359
11代 武田信成 不明-1394
12代 武田信春 不明-1413
13代 武田信満 不明-1417
14代 武田信重 1386-1450
15代 武田信守 不明-1418
16代 武田信昌 1447-1505
17代 武田信縄 1471-1507
18代 武田信虎 1494-1574
19代 武田信玄 1521-1573
20代 武田勝頼  1546-1582

※源義光の子・源義業が初代佐竹氏(信玄とはかなり遠い親戚です)

【側室と子どもたち】
 武田信玄には、正妻・三条夫人の他に側室がハッキリしたところで3名、他に数名いた考えられている。それは以下の通り。
諏訪御料人(諏訪姫) 側室 実父の諏訪頼重と弟・竜王丸を信玄に殺されながら、武田勝頼という跡継ぎを産みました。自身は二十代の若さで亡くなっています。勝頼の息子・信勝が当主候補で、勝頼は代行に過ぎなかったという指摘(上記の通り甲陽軍鑑に記された信玄の遺言)もありますが、いずれにせよここで滅びてしまったので致し方ない話でしょう。
油川夫人 油川夫人の出身・油川家は、もともと武田家とは同族の名門です。信玄の祖父である武田信縄(のぶつな)。その弟・油川信恵(あぶらかわのぶよし)が祖となって甲府の南部に勢力を張っておりましたが、信虎との争いに敗れて同家は滅亡しました。家柄が良いだけでなく子宝にも恵まれ、 仁科家を継いだ五男の盛信 、葛山氏の養子に入った六男の信貞、木曽義昌に嫁いだ真里姫、信長嫡男の織田信忠と婚約した松姫、上杉景勝の妻菊姫などがいる。
禰津夫人 禰津夫人は、信濃の高遠一族の出身です。七男・信清を産んだこと以外は知られておりませんが、この信清は武田家滅亡後、姉である菊姫のツテで上杉景勝に仕えた。

 信玄は、黄梅院を北条氏政の嫁に送るとき、実に10,000以上の騎兵を伴わせたと言う。仮にその1/10だとしても1,000を超える。調度品も相当な品揃えだった。ただ……。駿河侵攻で黄梅院は離縁で甲府に戻され、失意のうちに急死した。信玄は大泉寺に所領を寄進してまで彼女の魂を弔ったと伝わる。
勝沼氏の娘ほか数名(詳細不明)
◆男 三条・義信(廃嫡した嫡男)
三条・竜芳(海野二郎)
三条・信之(夭折)
諏訪・勝頼 - 信勝(孫)
油川・盛信(仁科五郎盛信)
油川・信貞(葛山十郎信貞)
禰津・信清(安田三郎信清)
◆女

三条・黄梅院(北条氏政室)
三条・見性院(穴山信君室)

油川・真理姫(木曽義昌室)
油川・菊姫(上杉景勝室)
油川・松姫(織田信忠と婚約)






(私論.私見)