東照宮御實紀卷九 慶長九年七月に始り十二月に終る
○七月朔日、二条城より伏見城に還御あり。井伊右近大夫直勝が近江国佐和山城を彥根に移さる。これ直勝が父兵部少輔直政が遺意をもて、その臣木股土佐守勝去年聞こえあげしによりてなり。この城は帝都警衛の要地たるにより、美濃、尾張、飛驒、越前、伊賀、伊勢、若狹、七か国の人数をして石垣を築かしめらる。松平主殿頭忠利、遠藤但馬守慶隆、分部左京亮光信、古田兵部少輔重勝、また越前宰相秀康卿、下野守忠吉朝臣、平岩主計頭親吉、石川長門守康通、奥平美作守信昌、本多中務大輔忠勝、富田信濃守知信、金森長近入道法印素玄、筒井伊賀守定次、一柳監物直盛、京極若狹守高次等に仰せて人数を出さしめらる。山城宮內少輔忠久、佐久間河內守政實、犬塚平右衛門忠次して奉行せしめられ、城中要害規畫はことごとく面諭指授し給ふ所とぞ聞えし(創業記。当代記。舜旧記。井伊畧伝。木股日記。貞享書上。寬永系図。家譜)。
○五日、平野孫左衛門呂宋国渡海の御朱印、高瀨屋新蔵に信州渡海の御朱印を下さる。福島左衛門太夫正則江戶を発程して上洛す。この日大雨、近江国佐和山に雷震す。役夫死する者十三人。毁傷三十人に及べりとぞ(御朱印帳。当代記)。
○十一日、片桐市正且元伏見に参る。右大將殿より小沢瀨兵衛忠重を御使として、井伊右近大夫直勝に御書を賜り、築城の労を慰せられ、その事にあづかりし諸有司にも御書を賜う。又吉田二位兼見卿采邑のうち、水田四十八段圃十四段をその男左兵衛佐兼治に分たしめらる。柘植平右衛門正俊が二子宮之助正勝、恨みありて小姓花井小源太某を殺害して自殺す(舜旧記。家譜。武徳編年集成。重修譜には駿府にての事とするは誤なり)。
○十七日、越前宰相秀康卿伏見の邸に渡らせ給ふ(貞享書上並びに越前家譜に、両御所渡御ありしとするは誤れり。この時、台徳院殿は江戶におはしましけるなり)。御饗応ありて後相撲を御覧にそなへ給ふ。相撲数番の後越前の相撲嵐追手と、前田家の相撲頭順礼と角力す。これを今日の関相撲とすれば、その座に居並びたる諸大名諸士腕を握り堅唾をのんで控えたり。順礼は衆にこえし大男なり。嵐はことに小男にてつがふべきものとも見えざりしが、やゝ挑みあひしにやがて嵐は順礼をとって大庭に投げ付けしかば、一座声をたてゝ褒美する。その声鳴もやまず、嵐勝ち誇り広言放って傍若無人の躰。諸有司御前なりとて制すれば、いよいよ倨倣のさま各制しかねし時、秀康卿庭上に向かい白眼給えば、一言も出されざるに嵐忽に畏縮して退く。衆人卿の威風を感ぜざる者なし。今日の御設ことさら興に入らせ給ひ、夕つげて還御ありしが、後までも秀康卿の威風を感じ給ひしとぞ。
この日、江戶にしては巳刻前、右大將殿の北方御產平らかにわたらせ給い、こと更男御子生れ給ひしかば、上下の歎喜大方ならず。御蟇目は酒井河內守重見、御箆刀は酒井右兵衛大夫忠世つかうまつる(諸書大猷院殿御誕生を十五日又は廿七日とするは誤りなり。今は御年譜。御系図による)。このほど鎌倉八幡宮御造営の折からなれば、神慮感応のいたす所と衆人謳歌せしとぞ。永井右近大夫直勝が三子熊之助直貞とて五歲なりしを召し出され、若君に附けられ小姓になさる。又稲葉內匠正成が妻(名をば福と云いとぞ)、かねて御所につかうまつりけるをもて若君の御乳母となさる。これは明智日向守光秀が妹の子斉藤內蔵助利三が女にて、利三山崎の戦に討ち死にせし後、母は稲葉重通入道一銕が娘なりしかば、母子ともに一銕が元に養われてありしが、後に正成が妻となる。男子をも設けしに、いかなる故にや正成が家をいで、この年頃江戶の後閤につかうまつりてありしとぞ。後に春日局とておもく御かへりみを蒙りしはこれなり。又腰物奉行坂部左五右衛門正重は御抱上をつかうまつりしとて廩米百俵を加へらる(御年譜。貞享書上。落穗集。慶長年録。慶長見聞書。寬永系図。柳営婦女伝。藩翰譜。寬政重修譜)。
○十八日、致仕故伊勢国長島の城主菅沼織部正定盈卒す。その子は志摩守定仍なり。この定盈は故織部正定村が子にて天文十一年、三河の野田に生まる。はじめ今川氏眞に属しけるが、永祿四年、当家今川と矛盾に及ばせ給ひし時、定盈並びに田峯の小法師設楽西鄕等は、多くの敵の中より出で当家に属し奉る。その九月、氏眞大軍にて野田の城を攻め囲みし時、力を尽し防戦しければ、寄手より和議を乞いしにより、城を渡し高城と云う所に砦を築き移る。氏眞またこの砦を攻めると云えども堅く防ぎて落されず。この年、牛窪の牧野等を征し給うに、定盈先登りして家人等も粉骨を尽す。五年正月より岡崎の城にて御謠初の席につらならしめらる。その六月、今川方見附の城を攻めんとて出軍する暇を窺い、夜に乗じて野田の城を攻め取り、再び旧地に復す。七月廿六日、今川勢西鄕の城を攻め取りしに、孫六郞淸員その難を逃れて野田に来る。定盈もとより従弟のちなみあれば、その旨聞え上げ西鄕の旧地に城を築いて淸員に住せしむ。今川又三河国一宮の砦を攻めるのとき、定盈淸員と共に軍功あり。七年、吉田の城攻にも戦功をあらはし、十一年、遠江国未だ帰順せざるをもて定盈謀を献じて井伊谷刑部の城を攻め落し、兵を進めて浜松の城に向かう。城兵同士軍して戦死せしかば、浜松の城をも乗っとり、いよいよ進んで敵数人を討ち取り、十二年正月、久野城主三郞左衛門宗能が一族等、今川氏眞に內応する者多かりしかば、仰せを受けて彼城を守り、三月七日、懸川堀江等の城攻めに軍功を励み、元亀元年六月、姉川の戦には、定盈病臥せしかば家人を出して戦はしめ、二年、武田が臣秋山伯耆守晴近進めて田峯、長篠、作手のともがら多く武田に属せし時も、その使いを追い返して従わず、天正元年、信玄大軍を引ゐ様々の術を尽し城の水の手をとり切りしかば、定盈一人自殺し城兵を救はんことを約して定盈出城せしを、信玄生捕りて城に籠置きて我手に従がはしめむとせしかども、かたく拒みてその詞に応ぜず。信玄もやむ事を得ず山家三方の人質と換ん事を請う。則御許容ありて互いに相かへて、定盈は野田城に帰る。七月廿日、長篠を攻め給ふとき久間中山を守り、二年、野田城は先の戦に破壞多かりしかば、大野田に城築きて移り、四月十五日、勝賴大軍にて城を囲む。家臣等籠城とてもかなふまじきよし諫めしかば、城を出で野田瀨を越え西鄕まで退く。勝賴また山縣昌景をして西鄕を攻めしむ。定盈西鄕淸員を助けて堅く防ぎて敵を追い返す。三年五月、長篠の戦には、定盈案內者として鳶巣砦が伏戶の敵を追いうち、家人等多く高名す。六月、小山の城攻めにも外郭を攻め破り、その後上杉謙信と御誼を結ばれし時、謙信よりも定盈が元に誓書を贈る。九年三月、高天神落城の時も功少からず、十年、甲斐の国にいらせ給ふとき、定盈が謀にて諏訪安芸守賴忠を帰順せしめ、乙骨の軍には自ら首級を得、今川が勢を破る。十二年四月、小牧山を守り、家人をして長久手の戦に軍忠をあらはし、十月より小幡の城を守り、関東にいらせ給ふのち野田を改め、下野国阿保にて一万石賜り、その後致仕して子定仍に家譲り阿保にありしが、庚子の乱には别の仰せを蒙り江戶の城を留守し、慶長六年、定仍に伊勢国長島の城給はりしかば、定盈も長島に移り住み、今日六十三歲にて卒せしなり(寬永系図。寬政重修譜)。
○十九日、神龍院梵舜伏見城にのぼり團扇をたてまつる。左兵衛佐兼治も出仕すべき旨仰せ下さる(舜旧記)。
○廿一日、江戶より安藤次右衛門正次御使として伏見に上り、若君誕生の事を告げ奉る。殊更御喜悅ありて若君の御小字を竹千代君と進めらせ給ふ。又下野守忠吉朝臣はこの程伏見にありて心地例ならざれば、暇を賜ひ尾張の淸洲にかへらる。又宰相秀康卿は伏見の邸に大名を招き猿楽を催さる(寬永系図。国朝大業広記。創業記。当代記)。
○ 廿二日、腰物奉行野々山新兵衛賴兼死して、その子新兵衛兼綱家を継ぐ。この廿二三日、三河国鳳来寺山鳴動すれば、衆僧本堂に会集して騷擾甚し(寬政重修譜。当代記)。
○廿三日、江戶城にて若君七夜の御祝いあり。上總介忠輝朝臣、設楽甚三郞貞代、松平伊豆守信一、西鄕新太郞庸員、松平右馬允忠賴、小笠原兵部大輔秀政。松平外記忠実、松平丹波守康長、水野市正忠胤、小笠原右衛門佐信之、牧野右馬允康成、本多伊勢守康紀、松平周防守康重、この賀莚に伺候せしめらる。水野淸六郞義忠が二子淸吉郞光綱、稲葉內匠正成が三男千熊正勝、岡部庄左衛門長綱が季子七之助永綱召し出され、若君に仕へしめらる(貞享書上。寬永系図。長綱が姉は大姥とて台徳院の御乳母の者)。
○廿四日、吉田左兵衛佐兼治伏見城に登り拜謁し奉る(舜旧記)。
○廿五日、松平右衛門大夫正綱が養子長四郞信綱召し出され、若君につけられ月俸三口給はる。時に九歲。このとし六月より久しく旱せしにこの日暴雨(寬永系図。当代記)。
○廿六日、菅沼信濃守定氏卒しければ、その子新三郞定吉家を継ぐ。この定氏は大膳亮定広が四男にて淸康君の御代より仕え奉り、永祿のはじめより元亀天正の頃しばしば軍功を励み、今日八十四歲にて失せぬるなり(寬政重修譜)。
◎この月、伏見城修築ありて西国諸大名その事を役す。こと更藤堂和泉守高虎は水の手繩手の石垣を修築せり(貞享書上。寬政重修譜には慶長七年六月とす)。
○八月三日、三河国目代松平淸蔵親家入道念誓が子淸蔵親重継ぐ。この入道は松平備中守親則より出て長沢松平の庶流なり。父を甚右衛門親常と云う。はじめ岡崎三郞君に仕へしが、若くしてあらあらしき御ふるまひありしを諫めかね、職を辞し入道して念誓と号し籠居せしを、浜松の城におはせし頃召し出され御茶園の事など命ぜられ、入道が珍蔵せし初花の茶壺を献じければ、望みのままに御朱印の御書を賜り、葵の紋用ふることをも許され、三河一国の賦稅をつかさどらせられしが、齡つもりて七十一歲にて今日沒せしとぞ(寬政重修譜。由緖書。この子孫三河国額田郡土呂鄕にすみて松平甚助と称す)。
○四日、神龍院梵舜伏見城に登り、豊明神臨時祭の日を聞えあげて本月十三日と定む。板倉伊賀守勝重、片桐市正且元と共に奥殿に於て御談話に侍し奉る。又出雲国松江城主堀尾出雲守忠氏卒しければ、その子三之助わづかに六歲なるに、原封二十四万石を継がしめられしが猶いとけなければ、祖父帯刀先生可晴をして国政をたすけしめらる。この忠氏は可晴の二子にて、右大將殿御名の一字給はり国俊の御刀を下さる。慶長三年、伏見の地騒がしかりし時、父と志をおなじくして、当家に忠節を尽し、五年、右大將殿に従い下野国宇都の宮に至る。この時、御所には同国小山に御着陣ある所、石田三成等反逆の色をあらはすのよし告げ来りければ召されて軍議あり。山內対馬守一豊、忠氏に向かい、今日御前に於て一座の思慮を御尋ねあらんにはいかゞ答え奉らんやと問う。忠氏答えて、我は居城浜松を明けて捧げ奉るべきの間、御人数を入れをかれ御上洛あるべしと言上すべしとなり。既にして会津には押の勢を残されて上方御進発に事决するにより、七月廿八日、忠氏御先手の諸將と共に小山を発し、八月十四日、尾張国淸洲の城に着陣す。廿二日、諸將岐阜城を攻む。忠氏は池田、淺野、山內の人々と共に上の瀨河田の渡に向かう。忠氏たゞちに川上より越えて一番に鎗を接し、一柳直盛と共に敵の後に回りて攻めけるが故に敵敗走す。忠氏が手に討ち取りし所の首二百廿七級なり。廿三日、諸將瑞龍寺山の城を攻む。忠氏鄕土川をわたりて大坂の援兵を追い崩し首級を得たり。このよし江戶に言上するの所、廿九日、御感状を下さる。この年、出雲隱岐両国に封ぜられ二十四万石を領し、又仰せによりて忠氏が妹を石川宗十郞忠總に嫁す。この時、右大將殿より日光長光の御刀を給ふ。八年三月廿五日、従四位下に叙し出雲守に改め、今日廿八歲にて卒す。この時、香火の銀二百枚を給ふ。この日、酉刻より大風、諸国損害多し(舜旧記。寬政重修譜。当代記)。
○五日、大風昨日の如し。申刻より雨ふり出る(当代記)。
○六日、舟本彌七郞へ安南国渡海の御朱印を給ふ(御朱印記帳)。
○八日、江戶にて若君三七夜の御祝あり。著座の輩浜松城の旧例を用らる(慶長見聞書)。
○十日、大久保石見守長安佐渡国よりかへり参りて、かの国銀山豊饒のよし聞えければ、御けしきうるはしくして、長安にかしこの地を所管すべしと面命あり。(当代記。これより先に上杉家にて佐州を領せし時は、その国より砂銀わづかに出けるが、御料となりしより一年の間に出る所万貫にいたる。又石見の銀山も、毛利家にて領せし時はわづかに砂銀を產せしを、御料に帰して後一年の間に四千貫を出すに及ぶとぞ聞えたり。天命の眞主に帰する所、これ等においても知るべきなり。佐渡記)
○十二日、桑山久八一直叙爵して左衛門佐と改む(家譜)。
○十三日、細屋喜齋に安南国渡海の御朱印を下さる。この日雨により豊国の社臨時祭を延らる(御朱印帳。舜旧記)。
○十四日、伊勢、尾張、美濃、近江等大風。伊勢の長島は高波にて堤をやぶり暴漲田圃を害す。この日、京には豊国の社臨時祭あり。豊臣太閤七年周忌の故とぞ。一番幣帛左右に榊狩衣の徒これをもつ。次に供奉百人淨衣風折、二番豊国の巫祝六十二人、吉田の巫祝三十八人、上賀茂神人八十五人、伶人十五人。合せて騎馬二百騎。建仁寺の門前より二行に立ち並び、豊国の大鳥居より淸閑寺の大路を西へ、照高院の前にて下馬す。三番田楽三十人、四番猿楽四座。次に吉田二位兼見卿。慶鶴丸左兵衛佐兼治つかうまつる。猿楽二番終る時大坂より使いあり。豊国大門前にて猿楽一座に孔方百貫づゝ施行せらる(当代記。舜旧記)。
○十五日、相摸国鎌倉鶴岡八幡宮造営成功により遷宮あり。この奉行は彥坂小刑部元成つかうまつる(これは今年御上洛の折から、御参りありて御造営の事仰せ出されしとぞ。造営記)。京には豊国社臨時祭行はる。上京下京の市人風流躍の者金銀の花を飾り、百人を一隊として笠鉾一本づつ、次に大仏殿前にて乞丐に二千疋施行、次に騎馬の料に千貫文づゝ施行し、片桐市正且元奉行す。伏見の仰せによりて神龍院梵舜出て神事をつとむ(舜旧記)。
○十六日、片桐市正且元、神龍院梵舜伏見城に登り、臨時祭の事聞えあぐる。御けしきことにうるはし(舜旧記)。
○十七日、高城源次郞胤則死す。こは北条が麾下にして下總国小金の城主たりしが、小田原落城の後伏見に閑居せしを、今年御家人に召し加へられしに、病に伏し未だ仕えまつるに及ばずして沒せり。その子龍千世重胤未だ幼稚なれば、外族佐久間備前守安政に養はれ、元和二年に至り召し出されしなり(寬永系図。寬政重修譜)。
○十八日、唐商安当仁に呂宋国渡海の御朱印を授らる。三枝勘解由守昌、下總国香取郡にて新に采邑五百石賜ふ(御朱印帳。寬政重修譜。)
○廿三日、大島雲八光義卒す。壽九十七歲。遺領一万八千石余を分けて、長子次右衛門光成に七千五百石余、二子茂兵衛光政に四千七百十石余、三子久左衛門光俊に三千二百五十石余、四子八兵衛光朝に二千五百五十石余を給ふ。沒前の願いによりてなり。この光義、父を左近將監光宗と云う。新田の庶流にて遠祖蔵人義継が時美濃国に住し大島を称す。光義幼くて父に別れ国人と地領を争い合戦する事絕えず。しばしば武功をあらはし射芸の名世に高し。後に織田右府に属しいよいよ軍功を励み、元亀元年、姉川の戦に先駆けし、天正元年、近江の国にて越前の兵と戦ひ、長篠の戦にも功あり。やがて豊臣家に属し、慶長三年二月、豊臣家より與力同心の給地を合せて一万千二百石を給ふ。庚子の乱には小山の御供に従ひしに、石田三成叛逆の告あるにより、上方に妻子をのこせし諸士はかへり上るべしとの仰せありしかども、光義兼て当家の御恩遇を蒙る事厚きに感じたりとて、妻子を捨て関が原に供奉しければ、領地を加えられ一万八千石余になさる。光義生涯戦に臨む事五十三度、感状を得る事四十一通。今度病に臥してもしばしば御使を以てねもごろの御尋ねどもあり。今日卒したりとぞ(寬政重修譜)。
○廿五日、商人與右衛門に暹羅国渡海の御朱印を賜う(御朱印帳)。
○廿六日、細川越中守忠興封地にありて病に伏しけるが、思う旨あるにより長子與一郞忠隆、二子與五郞興秋には家譲らず、かねて質子として江戶に参らせ置きたる內記忠則を家子とせむ事を請いければ、その望みに任すべき旨両御所より御書を賜ひ、また岡田太郞右衛門利治して病を問わせられ、忠利にも帰国して看侍すべき旨御許しあり。安南国へ御書をつかはされ、先に方物捧げしをもて一文字の御刀、鎌倉広次の御脇差をつかはさる。又末次平蔵に安南国渡海の御朱印、角倉了以光好に東京渡海の御朱印、田辺屋又右衛門へ呂宋渡海の御朱印、與右衛門に大泥国渡海の御朱印、平戶助大夫に順化渡海の御朱印、林三官へ西洋渡海の御朱印を下さる(家譜。異国日記。御朱印帳)。
○廿八日、佐竹右京大夫義宣、去年より新築したる出羽国久保田の城成功して移り住む。よて湊城をば破却す(寬政重修譜)。
○廿九日、神龍院梵舜伏見城へまうのぼる。この日また池田宰相輝政が伏見の邸にならせられ饗し奉り、輝政に恩賜若干あり。その北方へも金二千両賜る(舜旧記)。
○晦日、金吾中納言秀秋が家司平岡石見守賴勝、讒のために金吾家を出で處士となりてありしを召し出され、美濃国にて一万石賜ふ。故宇喜多中納言秀家が臣花房志摩守正成も召し出され、備中国にて采邑五千石賜ふ。また林丹波正利が子藤左衛門勝正初見し奉る(寬政重修譜。寬永系図)。
◎この月、瀧川久助一乗幼雅なるがゆへに、一族三九郞一積とて中村一学忠一が家人なりしを召して後見すべしと命ぜらる。これはその家士野村六右衛門が、一乗わづかに二歲にて今の采邑領せんは、そのはばかり少からざれば、名代をもて何事もつかうまつらむ事を願ふ。よて一乗齡十五歲に至るまでは三九郞一積二千石の地を領し、二百五十石は一乘並びにその祖母母を養育せしむべしと仰せ付けらる。又安藤三郞右衛門定正死して子忠五郞定武家継て今年初見す。又毛利中納言輝元入道宗瑞都にのぼりて見え奉る。又江戶築城の料として十万石の額にて、百人にて運ぶべき石千百二十づゝの定制としてさゝぐべき由令せられ、その費用とて金百九十二枚給ふ。舟の数は三百八十五艘とぞ聞えし。これによて大石運送する輩は、池田宰相輝政、福島左衛門大夫正則、加藤肥後守淸正、毛利藤七郞秀就、加藤左馬助嘉明、蜂須賀阿波守家政、細川越中守忠興、黒田筑前守長政、浅野紀伊守幸長、鍋島信濃守勝茂、生駒讃岐守一正、山內土佐守一豊、脇坂中務少輔安治、寺澤志摩守広高、松浦式部卿法印鎭信、有馬修理大夫晴信、毛利伊勢守高政、竹中伊豆守重利、稲葉彥六典通、田中筑後守忠政、富田信濃守知信、稲葉蔵人康純、古田兵部少輔重勝、片桐市正且元、小堀作助政一、米津淸右衛門正勝、成瀨小吉正一、戶田三郞右衛門尊次、並びに尼崎文次郞なり。秋月長門守種長この修築の事にあづかる。また諸国に課せて大材を伐り出さしむ。諸国より運送せし材木を積置所、今の佐久間町河岸なりとぞ。岡野融成入道江雪齋の孫権左衛門英明を携て伏見にのぼり拜謁す。英明時に五歲なり。入道が采邑をばこの孫に継がしむべしと命ぜられ、入道が二子三右衛門房次は江戶にまかり右大將殿につかうまつるべしと命ぜられしが後に紀伊家に属せらる(寬永系図。寬政重修譜。覚書。町書上)。
○閏八月九日、吉田二位兼見卿、神龍院梵舜伏見城へまう登り、兼見卿より明珍の轡一具、梵舜筆数柄を献ず(舜旧記)。
○十日、近日御出京あるべしと聞えければ。公卿殿上人諸門跡皆な伏見城に登り辞見し奉る。西洞院少納言時直薰物を献ず(西洞院記)。
○十一日、商人榮任に東京渡海の御朱印を下さる(御朱印帳)。
○十二日、島津陸奥守忠恒、五島兵部盛利、並びに平戶伝助に柬埔寨渡海の御朱印を下さる。又陸奥守忠恒には暹羅國渡海の御朱印を下さる。窪田與四郞にしん洲渡海の御朱印を下さる(御朱印帳)。
○十三日、岡田太郞右衛門利治を御使し細川越中守忠興の病をとはせ給ひ、右大將殿よりも、その家司松井佐渡に御書を給ふ(貞享書上)。
○十四日、伏見城をいでゝ江戶に赴かせ給ふによて、五郞太丸長福丸の御方々をも引きつれ給ひぬ。飛鳥井参議雅庸卿御道まで送り奉る。こたびは竹千代君生れさせ給ひ、かつ伝通院御方大祥も近ければとて殊更御道をいそがせ給ふ(西洞院記。当代記。慶長見聞書)。
○九月十日、堀尾山城守忠氏が遺物とて、国次の脇指並びに素眼の筆蹟をその父帯刀可晴より献じければ、右大將殿より可晴に御書を賜ひ吊せらる(貞享書上)。
○ 十四日、井上半右衛門淸秀沒しぬ。この淸秀は元の阿倍大蔵定吉が遺子にて、大須賀五郞左衛門康高が手に属し軍功を励みしが、その子太左衛門重成は越前家に属せしめられ、三子半九郞正就は右大將殿御方につけられしが、後に次第に登庸せられ井上主計頭とて執政たりしは是なり。又杉浦彌一郞親正死してその子彥左衛門親勝継ぐ(寬永系図。寬政重修譜)。
○廿日、飛鳥井參議雅庸卿江戶へ参る。この日、勝矢甚五兵衛利政死しその子長七郞政次継ぐ(西洞院記。武徳編年集成。利政が死日を寬永系図。寬政重修譜に記さず。今は編年によりてこゝに收む)。
○廿三日、代官彥坂小刑部元成より相摸国戶塚の農民に貢稅の制を令す(古文書)。
○廿九日、永田彌左衛門重直死してその子四郞次郞重乗家を継ぎ、三子四郞三郞直時ことし初見の礼をとり召し出さる(寬政重修譜)。
◎この月、伊奈備前守忠次。谷全阿彌正次より武藏国足立郡氷川の社人へ、こたび神領を三百石に定めらるれば、後に加えられし二百石の內百石は造営料とし、百石を以て小禰宜三人巫女二人を置く。その他は例のごとく配分すべしと令す(古文書)。
◎この秋、木津川の橋を大坂より架せしめらる。長さ二町にあまれりとぞ(当代記)。
○十月五日、中根喜四郞正重死して、その子喜四郞正勝家を継がしめらる(寬政重修譜)。
○十日、伊達越前守政宗江戶へ参る(貞享書上)。
○十五日、逸見小四郞左衛門義次が二子勝兵衛忠助、右大將に初見し奉る(寬永系図)。
○十六日、右大將殿忍辺に御放鷹あり(当代記)。
○廿四日、右大將殿忍より蕨浦和辺に鷹狩し給ふ(当代記)。
○廿九日、普請奉行伏屋左衛門佐爲長死してその子新助爲次家継がしめらる(寬政重修譜)。
○十一月二日、彥坂小刑部元成より戶塚の駅に、藤沢、神奈川と同じく駅馬のことつかうまつるべしと令す(古文書)。
○三日、武蔵国法性寺に新鄕にて十五石、正覚寺に持田村にて三十石、長久寺に長野村にて三十石、淨泉寺に下河上村にて廿石、眞觀寺に小見鄕にて十石、常光院に上中条村にて三十石、幡羅郡熊谷寺に熊谷の鄕にて三十石。一乘院に上の村にて三十石。日沼村の聖天宮に同所にて五十石。上野国勢多郡養林寺に大胡鄕にて百石。源空寺に白井村にて五十石の御朱印をくださる(寬文御朱印帳)。
○ 七日、鷹師吉田彌右衛門正直に采邑百六十石余を賜ふ(寬政重修譜)。
○八日、竹千代君山王の社に御詣始あり。靑山伯耆守忠俊、內藤若狹守淸次、水野勘八郞重家、川村善次郞重久(寬政重修譜には慶長十三年とす)、大草治左衛門公継、內藤甚十郞忠重等御傅役命ぜられ供奉す。御かへさに靑山常陸介忠成がもとへ立ち寄らせ給う(慶長見聞書)。
○十日、右大將殿御放鷹はてゝ浦和辺より江城へ帰らせ給ふ(当代記)。
○十日、飛鳥井宰相雅庸卿江戶を辞して帰洛す(西洞院記)。
○廿一日、前夜大雪、この寒中信濃の諏訪湖水氷らず。世以て珍事とす(当代記)。
○廿四日、宰相秀康卿の五子越前国北庄にて誕生あり。後に但馬守直良と云うなり(貞享書上)。
○廿六日、堺皮屋助右衛門に東京渡海の御朱印を下さる(御朱印帳)。
○廿七日、松浦式部卿法印鎭信に迦知安渡海の御朱印を下さる(御朱印帳)。
○廿九日、大雨(当代記)。
◎この月、三宅惣右衛門康貞武蔵国深谷より三河国擧母に転封し、五千石を加へて一万石になさる。毛利中納言輝元入道宗瑞長門国萩の城を新築せしが、成功して山口より移り住む(寬政重修譜)。
○十二月三日、山田次郞大夫正久死して、その子小姓彥左衛門正淸家を継ぐ(寬永系図)。
○六日、江戶城にて猿楽を催し給ふ(当代記)。
○十五日、駿河国西光寺に小泉庄にて十五石の御朱印を下さる(寬文御朱印帳)。
○十六日、大黒屋助左衛門に大泥国渡海の御朱印を下さる。今夜遠江国舞坂辺高波打ちあげ、橋本辺の民家八十ばかり波と共に海に引入られ人馬死傷少からず。釣船は廿艘ばかり踪迹を失へり。その時伊勢の海浜は数町干潟となり、魚貝あまたその跡に殘りしをみて、漁人等是をとらんと干潟にあつまりしに、又高波俄に打上て漁人等皆な沉沒せり。伊豆の海辺皆なこの禍にかゝりし中にも、八丈島にては民家悉く海に沈み、五十余人溺死し田圃過半は損亡し、上總国小田喜はこと更濤声つよく、人馬数百死亡し七村みな流失す。摂津国兵庫辺は更にこの害なしとぞ(御朱印帳。当代記。崇福寺古文書)。
○十八日、六条二兵衛に柬埔寨渡海の御朱印、檜皮屋孫兵衛に大泥国渡海の御朱印を下さる(御朱印帳)。
○廿日酒井宮內大輔家次下總の国碓氷を転し上野国高崎城主とせられ、二万石加へて五万石になさる(寬政重修譜)。
○廿八日、松平右衛門大夫正綱、秋元但馬守泰朝より、戶塚駅の民に賦稅の券を授く。又曾雌民部定政死して子帯刀定行継ぐ(古文書。寬政重修譜)。
◎この月、長福丸君に常陸国水戶万石を加へられ廿五万石になさる。米津淸右衛門正勝に命ぜられ三河国中を検地せしめらる。伊奈兵蔵忠公召し出され竹千代君につかへしめられ小姓となる(時に八歲)、又靑山藤蔵幸成御勘気を許さる(紀伊系図。龍海院記。寬政重修譜。寬永系図)。
◎この冬、右大將殿土方河內守雄久がもとにならせられ、来国光の御脇差を賜はり、下總国田子にて五千石加へられ一万五千石になさる(寬永系図。貞享書上)。
◎この年、加賀大納言利家卿の五男孫八郞利孝、菅沼新八郞定盈三子左近定芳は両御所に謁し奉る。赤沢貞経入道丹斎(この時、赤沢を称し後に改て小笠原と称し、台徳院殿の御代に廩米五百俵下されたり)、能勢摂津守賴次二子小十郞賴隆、大森半七郞好長、角南新五郞重義、並びにその二子主馬重勝、沼間兵右衛門淸許、由比庄左衛門宗政(後に百俵をたまふ)、同弟與五左衛門安義、仙石越前守秀久が七子右近久隆(この年、直に右大將殿小姓となる)、山下彌蔵義勝子彌蔵周勝、小長谷市兵衛時友が子四郞右衛門時元、稲富伊賀守直家。長谷川式部少輔守知子縫殿助正尙。船越左衛門尉景直二子三郞四郞永景初見し奉り、直家は鳥銃の秘術を両御所へ伝え奉り、後に右大將殿に仕ふ。
高井助兵衛貞重子市右衛門貞淸(小姓組にいり後大番になる)、宮田茂右衛門吉次が子治左衛門吉利(この年父茂右衛門吉次死す。家つぎし日詳ならず)、原田淸次郞維利(入道して宗馭と号し、茶道頭の格に召し出され現米七十石賜ふ)、小長谷加兵衛時次右大將殿に初見し、伊達庄兵衛房次、永井右近大夫直勝二子伝十郞直淸、渡辺吉兵衛定(始は村瀨と称す)、齋藤左源太利政、市橋左京長政、上杉源四郞長員(後畠山を称す)、林藤左衛門勝正、加賀大納言利長卿の質子として進まらせ置きたる橫山右近興知は(時に十二歲)、右大將殿に奉仕す。
使番米津勘兵衛由政江戶町奉行となり、采邑五千石を給ひ、島田兵四郞利正使番となり、大番朝倉藤十郞宣正、三雲新左衛門成長はその組頭となり、宣正采邑二百石を加へられ四百石になり、成長は千石を加へて千五百石となり、河島喜平次重勝歩行組の頭となる。柴田七九郞康長は火の番の組頭となり、角南主馬重勝、高井市右衛門貞淸は小姓組にいり、小長谷加兵衛時次は大番にいり、中島大藏盛直が二子長四郞盛利(時に十一歲)、船越三郞四郞永系(時に八歲)、能勢小十郞賴隆共に小姓となり、賴隆は采邑千石賜ひ、間宮若狹守綱信が四子忠左衛門重信(時に十三歲)も近侍せしめられ、菅沼左近定芳御手水番となり、松平淸歲親重は父念誓親宅が原職を命ぜられ、入道して念誓と改め、三河の代官たり。
伊澤源右衛門政信は右大將殿の小姓となり、中山猪右衛門勝政、都筑又右衛門政武は同じ御方の大番となり、政武は廩米二百俵を賜ひ、安西甚兵衛元眞燒火間に候せしめらる(寬政重修譜には今年召し出され。十二年燒火間番とあり)、又本堂伊勢守茂親は本多佐渡守正信に属し、城溝疏鑿の事をつかうまつらしめらる。秋田東太郞實季は貝塚靑松寺辺新築の助役す。松平主殿頭忠利三河国矢作川浚利をつとむ。大岡伝藏淸勝伏見城の番を命ぜらる。渡辺六蔵公綱若林善九郞某は長福丸君の方に附けらる。
又叙爵する者あり。丹波郡代山口勘兵衛直友駿河守に改め、那須太郞資晴大膳大夫と称し(ほどなく修理大夫になる)、亀井新十郞政矩右兵衛佐と称す。政矩は本多上野介正純、成瀨小吉正成を以て眤近の勤を請う。松前甚平次忠広は右大將殿に仕えん事を願いて江戶に参る。永井伝八郞尙政常陸国貝原塚にて采邑千石賜はり、渡辺忠七郞忠綱は父忠右衛門重綱が所領一万四千石を分て三千石賜はり右大將殿に仕ふ。安藤彥四郞重能、佐久間新十郞信実は千石づゝ、井関猪兵衛親義二百二十石、山高孫兵衛親重は父が所領の外二百七十石余、入戶野又兵衞門宗は本領を賜ひ、大番杉浦忠太郞親俊は三百石を賜ふ。服部石見守正就は御勘気を蒙りて岳父松平隱岐守定勝にあづけらる。上總介忠輝朝臣始て信濃国川中島に就封せらる。また本多中務大輔忠勝衰老をもて致仕を請うと云えども御許しなく、両御所よりしばしば御使せられ病を問はせらる。よて忠勝は悉くその家政をば長子美濃守忠政に譲りて世事にあづからず。牧野右馬允康成も衰老をもて勤仕を辞し、何事もその子新次郞忠成をして攝せしむ。
これより先、康成が女をもて御猶子となされ、福島左衞門大夫正則に降嫁せらる。大番橫山彌七郞一吉が二子半左衛門一政、代官下山彌八郞正次が子平右衛門重次、並びに小姓加藤茂左衛門正茂が子伝兵衛正信、皆な父死して家を継ぐ。又右大將殿水谷伊勢守勝俊が元にならせられ、勝俊御茶を献ず。また長曾我部土佐守元親が伏見の旧邸を松平隱岐守定行に賜ひ、又仰せにより島津陸奥守忠恒が女をめとらしめらる。その上に島津は久しき名家なれば、婚礼の儀式も厳重なるべしとて、一位の局その外女房数十人をしてその儀をとり行はせられ、又村越茂助直吉日下部兵右衛門定好をしてその事を監せしめらる。又金森兵部卿法印素玄狩塲にて鶴とる事を許され、蒼鷹一連黄鷹二連賜ふ。次の日、その鷹もて鶴をとりて奉る。山內土佐守一豊に四聖坊の茶入を賜ふ。又埼玉郡增林村の御離館を越谷駅に移され、浜野藤右衛門某に勤番を仰せ付けらる(この御殿は明暦三年の災後江戶城にうつされかりやに用らる。今も御殿跡と云う地名あり)、また京の知恩院を御造営あり。その莊厳天下無双と称す。また中村一学忠一参観するといへども。去年家臣橫田內膳を誅し国內を騷がしける事により、江戶に入る事を許されず、よて品川駅に於て籠居せしが、日数経て後召を蒙り登営して拜謁す。
又朝鮮の僧松雲孫文彧金孝舜対馬に来る。これは宗対馬守義智江戶に参観せし時、先に豊臣太閤朝鮮を伐ちしより、両国の通信永く断ちたり。しかりと云えへども当家に於てはかの国に於て更に恨みとする事なし。彼隣好を結ばんとならば、その請所を許すべし。我よりあながちに請うべきにはあらず。汝よくこの旨をもて朝鮮国王に諭すべしと仰せありしかば、義智帰国し朝鮮に使いを立てゝその御旨を諭すといへども、朝鮮王半信半疑して更に决せず。こたび三僧を使し日本の和儀その実ならんには、江戶伏見に至り両御所に拜謁して、我国の情実を聞こえあぐべし。もしさなからんには速に帰国すべしとて来らしめしなり。義智はその家司柳川豊前調信を江戶に参らせてその由を告げ奉る。然るに明春は両御所共に御上洛あるべければ、義智調信はかの三僧を伴ひ、都に上りその期を待ち奉るべしと仰せ下さる。よて義智は三僧を具して都に上り、板倉伊賀守勝重にはかりて大徳寺を旅館として三僧を饗し、御上洛の時をぞ待ちにける。
又近江国蒲生郡佐々木の神社は、少彥名命を一座とし仁徳、宇多の両天皇、敦實親王をもて配祀したる社にて、佐々木家代々の尊崇する所なりしが、天正の比佐々木六角承禎入道が観音寺の城沒落せし後、社頭荒廃極まり祭田も皆な烏有となりぬ。しかるに庚子の乱に御祈願の事ありて、御凱旋の後社領百石を寄附せられたりしが、今年又社前に鰐口を寄附せらる。又江戶市谷久宝山万昌院(今牛込に移る)、品川専光寺(今淺草六軒町)、赤坂松泉寺矢倉蓮妙寺(今浅草六軒町)、神田東福寺(今麻布本村)に寺地を給う。又関東の国々永楽錢を通貨とし鐚錢を用ひず、今より後は鐚四錢をもて永楽一錢にあてゝ通用すべしと令せらる。
又長崎の湊に於て始て訳官を設けらる。この時、帰化の明人馮六と云う者よく国言に習へるをもて、はじめてこの役を命ぜられしとぞ。又藤堂和泉守高虎猶子宮內少輔高吉が家士亡命し、加藤左馬助嘉明が弟內記忠明が采邑伊予の松山の下邑林村と云うに潜居せしをもて、高吉討手を差し向けてこれを討ちはたさしめしより事起り、その地を騷擾せしむ。よて高虎よりその事を訴へしかば御けしき良からず、高吉は京都へ逃げ上り薙髮して東福寺に閑居す。(寬永系図。寬政重修譜。貞享書上。家譜。松平由緖書。信府記。家忠日記。浜野書上。創業記。当代記。家忠日記追加。落穗集。慶長日記。近江輿地志。大三河志。長崎実録。高名記) |