東照宮御實紀巻8巻 |
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ここで、「東照宮御實紀巻7」をものしておくことにする。 2013.11.01日 れんだいこ拝 |
【東照宮御實紀考】 |
「東照宮御實紀卷八」を転載する。(れんだいこ文法に則り書き改める) |
東照宮御實紀卷八 慶長九年正月に始り六月に終る御齢六十三 慶長九年甲辰正月元旦、右大將殿新正を賀し給ひ、次に在府の諸大名諸士江戶城に登り慶賀し奉る(御年譜。創業記。家忠日記)。 ○二日、昨夜より大雪。八日に至る(慶長見聞書)。 ○七日、若菜を祝はせ給ふ。この夜追儺(慶長年録)。 ○八日、立春。 ○十日、足利学校主僧寒松貞觀政要の訓訳を献ず。御気色にかなひ酒井備後守忠利、戶田藤五郞重宗をもて寒松に時服金を給ふ。柴田七九郞康長燒火間番頭命ぜらる。けふより京淀川の堤修築せしめらる。板倉伊賀守勝重これを監す。大坂城よりも片桐市正且元をしてこれに涖ましむ(慶長見聞書。当代記。慶長年録。寬永系図。舜旧記)。 ○十三日、天満茨木屋又左衛門、尼崎又左衛門、安南国渡海通商の御朱印を下さる(御朱印帳)。 ○十四日、京富森堤を修築せしむ。板倉伊賀守勝重これを監視す(西洞院記)。 ○十五日、松平(蒲生)飛驒守秀行に召しあづけられたる新庄駿河守直賴、その子越前守直定と共に府に召されて両御所に拜謁す。この父子庚子の乱に石田三成が催促に応じ、伊賀国上野城に立て籠りたるをもて、関が原御凱旋ののち秀行に召しあづけられ、陸奥の会津に閑居せしめらるゝといへども、反徒にくみせしはその本志にあらざる事聞き召し届けらるゝによてこたび召し出され、常陸下野の內にて所領三万三百石給ひ、常陸国麻生に住せしめられ、この後はよりより御談伴に候し、諸家へならせ給ふ時もしばしば召されて陪侍せしめらる(寬永系図。家譜)。 ○廿日、具足御祝例のことし。連歌興行又同じ。立こすや霞を松の若みどり(三益)、雨そゝぐ夜のあけぼ のゝ春、(右大將殿)月にふく風の高こちしづまりて(紹之。慶長見聞書)。 ○廿五日、榊原九右衛門正吉死す。その子大番組頭八兵衛正成家を継ぐ。この正吉は永錄三年五月、尾張国丸根城の戦に鎗を合せしを始めとし、広瀨の城攻め、一向専修の乱、姉川、長篠等の戦にいつも供奉して戦功を励みし者なり。齢詳ならず(寬政重修譜)。 ○廿七日、松前志摩守慶廣に蝦夷交易の制三章を授らる。その文に云う。諸国より松前の地に出入りする者、慶広にその旨告ずして夷人と交易せば曲事たるべし。慶広に告げずしてみだりに渡海して、夷人と通商する者あらば、速に府に訴え出べし。夷人は何方に往来するとも心任せたるべし。夷人に非義を申しかくべからず。これに違犯せば厳科に処せらるべしとなり(家譜。令条記)。 ◎この月、松平三郞四郞定綱江戶に参り拜謁す。仰せにより右大將殿に仕えしめらる。その時、本多佐渡守正信に命ぜられ、定綱その器に応じ登庸せらるべしとて、先下總国山川の地五千石賜う。故の武田七郞信吉君の家司万沢主稅助君基、馬塲八左衛門忠時、宮崎理兵衛三楽、近藤傳次郞吉久、河方織部永養、帯金刑部助君松士籍を削らる。この輩は穴山陸奥守信君入道梅雪以来の旧臣どもなりしが、信吉君年若くおはしければ、封內賦稅の事などほしゐまゝにはからひ私欲を専にせしとて、穗坂常陸介某、有泉大学某、芦沢伊賀守某、佐野兵左衛門某等 訴え出しかば、営中に召して双方対決せしめられしに、万沢等語塞がりしかばかく命ぜられしなり。又筒井伊賀守定次参覲し新年を賀し奉る(寬永系図。貞享書上。慶長年錄。筒井家記)。 ○二月四日、右大將殿の命として、諸国街道一里毎に堠塚(世に一里塚と云う)を築かしめられ、街道の左右に松を植しめらる。東海中山両道は永井彌右衛門白元、本多左大夫光重。東山道は山本新五左衛門重成、米津淸右衛門正勝奉行し、町年寄樽屋藤左衛門、奈良屋市右衛門も之に属してその事をつとめ、大久保石見守長安之を惣督し、その外公料は代官私領は領主沙汰し、五月に至て成功す(家忠日記。当代記。慶長年録。寬永系図。津軽志。町年寄由緖書。大三河志。落穗集。世に伝ふる所は、昔より諸国の里数定制ありといへども、国々に異同多かりしが、近世織田右府領国の內に堠塚を築き、三十六町を以て一里と定む。豊臣太閤諸国を検地せしめ三十六町に定め、一里毎に堠塚をきつがしむ。この時又改めて江戶日本橋を道程の始に定め、七道に堠を築かれしとぞ。その時大久保石見守に、堠樹にはよい木を用ひよと仰せありしを、長安承り誤りて榎木を植しがいまにのにれりとぞ。落穗集。武德編年集成)。 ○六日、靑山常陸介忠成、內藤修理亮淸成、大久保石見守長安、長谷川七左衛門長綱、伊奈備前守忠次奉りて、長吏(非人の長なり)弾左衛門に江戶小田原の伝馬下知状をさづく。その文に云う。江戶より小田原まで、駅馬一疋を立つべし。これは鹿毛皮白皮に製せしめられんためなれば、滞る事あるべからずと之(由緖書)。 ○十日、深夜怪音四方に鳴動する事五六度(その音はじめはどんどん後ばたばたとす)、何の怪たるを知らず(当代記)。 ○十五日、榊原式部大輔康政が二子伊予守忠長卒す、歲廿。兄国千代忠政は外祖大須賀五郞左衛門康高が家を継ぎし故に、忠長嗣子となり御一字を賜り。叙爵して伊予守と称しけるが、今日卒しければ康政は三男小十郞康勝をもて嗣子と定む(寬永系図)。 ○十六日、上杉中納言景勝北方失せぬ。これは武田晴信が女にて菊姬と云いしなり(慶長日記)。 ○廿八日、大和国布施領主桑山修理大夫一晴伏見に於て卒す。子なければ弟久八一直に遺領一万三千二十石余を襲しむ。この一晴は故の大納言秀長に仕えたる九郞五郞一重が子にて、はじめ豊臣家につかへ朝鮮の軍に彼国に押し渡り、番手の船を打破り勇戦し、慶長元年五月十一日、叙爵して修理大夫と称し、五年、祖父治部卿法印重晴と同じく関東の御味方し、紀伊国和歌山城を守り、又叔父左近大夫貞晴と共に新宮の城を攻む。城將堀內安房守氏善降を乞て大野に迯れしかば、かの地平均し、この年封を襲て和歌山二万石を領し、叔父伊賀守元晴に一万石を分ち与え、六年、和歌山を転じ大和国葛下郡布施に移り、今日三十歲にて卒せしなり(寬政重修譜)。 ○廿九日、相摸国戶塚(富塚とも記せり)の土人等彥坂小刑部元成に訴えしは、戶塚の村年頃駅馬の事つかうまつりしを、今度 藤沢程谷の両駅よりこれをはぶき、宿駅の列にあづからしめず。よて戶塚一村生產を失へば、よろしく藤沢程谷の両駅に曉諭せられ、古来の如く戶塚の一駅を立て給はん事を希ふとの事なり(案にこの後上裁ありて、藤沢程谷の間に又戶塚の一駅を置く事ゆるされしなるべし)、又小堀新助正次卒しければ、その子作助政一 をして遺領一万二千四百六十石余を襲しめ、二千石を次男次左衛門正行に分ちあたへ、父が例のことく備中の国務をつかさどり松山の城をあづけらる。 この正次は 故勘解由左衛門正房が子にて、はじめ近江の淺井家に続し、後に豊臣太閤に仕えて大和大納言秀長に付属せられ、大和和泉紀伊三国の郡代となる。その後高野山御詣りのとき、御路すがらの事を沙汰せしにより御かへりみを蒙り、秀長卒しその子中納言秀俊も世を早失せしかば、再び豊臣家に仕え五千石を領しけるが、慶長五年、上杉御追討の供奉し下野の小山に至る。この時より常に麾下に属し、九月、関が原の役にも従いしかば、その十二月、旧領を賜ひ、備中国の內にて一万石加へられ、すべて一万四千四百六十石余を領し、備中の国務をつかさどり松山の城を守り、また板倉伊賀守勝重、大久保石見守長安と同じく五畿七道の事を相議 し連署して、六年、伏見城作事の奉行し、七年、近江国検地の事をつかさどり、八年、備前国に赴き制法を沙汰し、今年、江戶に参るとて二月十九日、相摸国藤沢の駅にをいて卒しぬ。歲は六十五なり(鎌倉古文書。寬政重修譜。寬永系図)。 ◎この月、相摸国中原に放鷹し給ひ、高木主水助淸秀入道性順が海老名の隱宅に立ち寄らせ給ひ、鷹の取し雁を下し賜う。また遠江国中泉に伝馬の御朱印を賜う。この頃、関東辺の神祠仏宇修造せらる。また久松多左衛門定次召し出され近侍す(高木源広録。遠州古文書。創業記。寬政重修譜)。 ○三月朔日、御上洛あるべしとて江戶城を御発輿あり。五郞太丸長福丸両公子を伴なはせ給ひ、御道すがら伊豆国熱海の温泉に湯あみし給ふとて、七日、御滞留ましまし、この間御自ら御独吟の連歌をあそばさる。春の夜の夢さへ波の枕かな。あけぼの近くかすむ江の船、一村の雲にわかるゝ鴈啼きて、つきづき百韻に満しめ給ふ。こゝに陸奥国仙台に猪苗代兼如といへるは、その父兼載とて宗祇法師が高足の弟子にて名高き連歌の宗匠なり。仙台少將政宗また風月のすき者にて、これを聘召してその国につかへしが、兼如その子にて今箕裘をつぎ当時堪能の聞えありしかば、兼如にこの御連哥を見せしめ給ひ批評を命ぜられ、後にこの賞として兼如に金一枚を賜ふ(熱海御滞留の間、何日より何日に至りしと云う事は詳ならす)。又吉川蔵人広家病臥のさま聞しめされ、東条式部卿法印して、この地温泉の湯五桶を広家が元へ搬送せしめらる(御年譜。創業記。家忠日記。武德編年集成。貞享書上。大三河志。由緖書)。 ○二日、松前志摩守慶広に兼光の御脇差並び時服五領を給ふ。又武川の輩に加恩あり。小尾監物祐光に百石、柳沢兵部丞信俊に百廿石、伊藤三右衛門重次に百十八石八斗、曲淵庄左衛門正吉に八十石、曾根孫作某に五十六石四斗二升、曾民部定政に八十六石、折井九郞三郞次吉に六十石、折井長次郞次正に九十石、曾新蔵定淸に百十石、有泉忠蔵政信に五十石、山高宮內信直に七十五石、靑木與兵衞信安に八十石、靑木淸左衛門信正に二十石、馬塲右衛門尉信成に百石、折井市左衞門次忠に二百石給ふ。この余百六石七斗八升は次忠にあづけらる(家譜。貞享書上。寬政重修譜)。 ○五日、小栗庄右衛門正勝に采邑五百五十石。忍城番天野彥右衛門忠重にもおなじく五百五十石給はる(寬政重修譜)。 ○十五日、下總国相馬郡德万寺に、市川卿に於て二十石の御朱印を下さる。又武蔵国足立郡大宮の社に。高鼻村落合村にて合三百石の御朱印を下さる(寬文御朱印帳)。 ○十九日、益田伝次郞某に采邑三百三十石賜はる。この父外記某は三方が原の戦に御馬前にて討ち死にせしが、その頃伝次郞幼年なりし故この度本領を賜ふ。御朱印の券書に外家の苗字をしるされしゆへ、この後益田を改め柘植と称す。今紀邸に仕ふ。又駿河国龍泉寺に寺領二十石よせ給ふ。これは右大將殿御生母宝台院のかた御墳墓の地なるが故なり。後に龍泉寺を改めて宝台院と号す。又相摸国鎌倉郡天王の社に五貫文の地を寄せられ、常陸国東条の庄興祥寺に廿石の地を寄せられ、寺中山林竹木諸役免許の御印書を下さる(貞享書上。日記。寬文御朱印帳。慶長日記)。 ○廿日、致仕黒田勘解由次官孝高入道如水卒す。齡六十九。この孝高は父を美濃守識隆と云う。小寺藤兵衛政識に属し、その苗字を与えて小寺を称せしめしが、政識死して子なかりしかば識隆その兵卒を従う。播磨国姬路において孝高生まれしに、幼より弓馬の道に達したるのみにあらず、敷島の大和歌を嗜みける。十七歲より常に戦場に臨み、眞先かけて功名をあらはす事並々ならず、天正元年、織田右府上洛のとき、孝高も都に上り謁見す。右府頼もしき者に思はれ、吾中国を征伐せん時は心汝を以て先手に用ひんと約せらる。その後羽柴筑前守秀吉右府の命を蒙りて中国へ伐ちて下るとき、孝高使いを出しこれを迎ふ。秀吉悅びなゝめならず兄弟の契りを結ぶ。八年、秀吉别所長治が三木の城を攻め落し、こゝを居城とせんとありし時、孝高姬路は国の中央にして、ことに船路のたよりよければとてその城を譲り、その身は国府山城に退去す。秀吉いよいよその志の私なきを感ぜられ、始めて一万石を授けらる。十年、毛利を攻られしとき、孝高がはからふ事ども少からず、しかるに京にて右府逆臣明智光秀が為に弑せられし告あるにより、秀吉毛利と和睦し京都へ打ちて上られしに、孝高、毛利宇喜多が旗数十流借り受けて秀吉の先隊に進み、光秀誅に伏す。十一年、秀吉柴田勝家と中違い矛楯に及びしにも、孝高又秀吉の味方して先登りせしかば、千石を加へられ近江国山崎城に移り、長曾我部を征せられし時には軍監として四国に発行し、阿波、讃岐の城々を攻め落し、筑紫の軍に従い豊後、日向を経て薩摩国に攻め入りしにより、その軍功を賞せられ豊前の六郡をさき与えられ、十六年五月、従五位下に叙し勘解由次官と称す。 孝高が豊臣家の為に忠ある事かくの如しと云えども、秀吉これに大官大国を与えられざりしは、孝高が勇略終に人の下風に立つべからざるを察して忌れしものなり。孝高またその意を知りければ、早く所領を長子吉兵衛長政に譲り、その身はなお太閤に近侍し軍事をたすく、このとき入道して如水と号す。このゝち小田原の軍に従い、朝鮮に渡海し軍勢を督しける。慶長三年、太閤薨ぜられし後、かの家の奉行等やゝもすれば烈祖をかたぶけ奉らんとせしに、孝高かねて御恩遇の厚をかしこみしかば、常に家臣を具して伏見の御館を守護し、福島、加藤等をすゝめ御味方となし、五年、上杉御追討のため奥に下らせ給ふに及んで、長政は御供に従い、入道は所領中津にありしに、石田三成謀叛し上方また乱るゝと聞きて、隣国の敵いまた蜂起せざる先にこれを討ち従えて、関東の忠勤に備へんと豊後に至り、敵の要害ども見廻りて中津川に帰る。この頃、大友義統が三成に与し、細川忠興が木付の城を攻め囲む。孝高は速に中津を発し同国竹中源助重利を味方に属し、 兵を分かちて木付の城をすくはせしに、この兵ども石垣原にて大友が兵と大いに戦いて、名あるものども数多く討ちとる。その後如水着陣して義統を生擒りし、又垣見和泉守一直が富来の城、熊谷內蔵允直陣が安喜等の城々攻め落し、九州半は既になびき従う。かくて豊前に帰るとて居城に立ち寄りもせず、香春が嶽小倉城等を攻め抜き、 筑後に入りて久留米の城柳川の城を請けとり、九州の城々皆な平らぎ法制を定め、これより薩摩国に攻め入らんとせしに、関が原既に御凱旋ありければ、御書を給はりてその大功を御感淺からず、又薩摩国に攻め入り事はしばらくこれをとゞめらる。 長政は関が原の軍功を賞せられて筑前国を給う。六年、如水今度九州平均の功莫大なれば、官位封国望みのまゝに賜はるべき旨仰せありしかど、入道齡既に傾たり、長政既に大国を賜はりし上は、かしこに隱遁して老を養はまほし、この外更に所願なきよし申して致仕し、今日終をとりしなり。(寬政重修譜。致仕の人はその致仕の日に終身の事業をしるすといへども、如水当家の御ために忠勤せしはみな致仕後の事なれば、今别例をもて卒去の日にその伝をしるさゞる事を得ず。又世に伝ふる所は、この入道死に臨みその子長政に遺言せしは、汝は吾に生れまされし事五条あり。その一は吾は織田豊臣の二代に仕え、三度その旨に違い閉居せり。汝は德川家父子の意に応じ終に一度の過失なし、第二には吾は生涯所領十二万石に過ぎず、汝は五十万石の大身になりたり。第三に我は手をおろしたる武功なし。汝は自身の高名七八度に及ぶ。第四に吾は思念をこらしたる事なし。汝常に思念深し。第五我男子は汝一人なり。汝は男子三人あり。この五条皆な汝が父に生れまさりし所なり。たゞ老父汝にましたる事二条あり。その一は我死と聞かんに、我れ召しつかふ者は云うまでもなし、汝が家士をしなべて愁傷し、力を落とさゞる者あるべからず。汝が死たる時はかく愁傷するものあるべからず。これ臣を見る事平生我に及ばざるがゆへなり。次に吾は当時博徒の隨一なり。これ汝が及ばざる所なり。関が原の時、東西の軍勝敗决せざる事百日に及ばゞ、我西国より切りて登り、勝ち相撲に入りて天下を併呑すべし。その時は一子の汝までも一局に打ち入らむと思ひしなり。その一場に臨み妻や子も顧みず、この大博奕は汝が及ぶ所にあらず。又これは汝にとらする形見の品なりとて、紫の袱子につゝみし物を授く。長政開きみるに草履一隻木履一隻と溜ぬりの飯笥なり。その時入道又、死生を一場に定むる大合戦に思慮も分别もなるべからず、草履木履かたがたはかけねば大合戦なるべからず。汝才智あまりありて何事も深念深慮すれば大功はなし得べからず。又飯笥は兵粮を蓄ふ事忘るべからず。いかにも無用の浮費を省き兵粮用意怠るべからず。この外思ひ置く事なしと云いながら瞑目に及びしとぞ(慶長見聞書)。 ○廿一日、竹內喜右衛門信重死してその子八蔵信次継ぐ(寬政重修譜)。 ○廿二日、和泉国岸和田城主小出播磨守秀政卒す。その子大和守吉政に遺領三万石を襲て岸和田に移り住ましめられ、吉政がこれまで領せし但馬国出石城六万石を、その子右京大夫吉英に譲らしめらる。秀政が長子遠江守秀家は去年卒せしかば、その子大隅守三尹に八千石を分ち給はり。旧領を合せ一万石になさる。この秀政は代々尾張国中村にすめる五郞左衛門正重が子なり。豊臣家につかへ太閤の姑にそひしゆかりをもて、諱の字を授け秀政と名のらしめらる。後に当家に従い、今日六十五歲にて卒せしなり(寬政重修譜)。 ○廿五日、越前宰相秀康卿の四子北の庄にて生る。五郞八と名づく。後に大和守直基といふ是なり。又依田肥前守信守死して子源太郞信政継ぐ(貞享書上。寬政重修譜)。 ○廿九日、快晴。伏見の城に着かせ給ふ。畿內西北国よりこれに先立ちて都に上りたる諸大名追分まで出て迎え奉る。時に鑓二柄、長刀一柄、狹箱二。御先追ふ歩行士廿人ばかり。乗輿のあとより騎馬のもの十人ばかり従へすぐる者あり。諸人定めて本多上野介正純にあらずやなどさゝやきしが、あとより来る下部に問えば、將軍家にわたらせ給ふと云うに大いに驚き、伏見辺りにて追い付けしかば御輿をとゞめられ、各これまではるばる迎へ奉りし事を謝し給ひて御入城あり。御簡易御眞率の事と驚歎せざるものなし。御旅中も御供の騎馬十廿卅騎ほどわかれかれにのりつれ、思ひ思ひに物語りし、その中には手拍子打ちて小歌をうたひ、片手綱にてさゝへの酒をのみながら参りたる事なりしとぞ。この日酉刻頃より夕陽の辺白雲飛揚する事数しらず。去年二月十五日、この正月元旦にもかくの如くなりしとぞ(御年譜。西洞院記。板坂扑齋覚書。当代記)。 ◎この月、黑田筑前守長政、父如水入道遺物とて備前長光の刀並びに茶入木の丸を献じ、右大將殿に東鑑一部をさゝぐ。こは小田原の北条左京大夫氏政、豊臣太閤との講和の事はからふとて、如水かの城中へまかりし時氏政の贈りし所にて、今御文庫に現存せり。靑山作十郞成次めし出され小姓となる。又松平庄右衛門昌利が子伝市郞昌吉召し出され右大將殿に付らる。武蔵国足立郡氷川大明神へ三百石の地を寄附せらる。その中の百石は天正十九年より寄附せられし所なりとぞ。又三条曇華院を大坂の秀賴より造営せしめらる。又この頃膳所が崎へ伊勢の御神飛来らせ給ふとて、詣る男女雲霞の如し(寬政重 修譜。寬永系図。寬文御朱印帳。当代記)。 ○四月、朔日この日日蝕す。広橋大納言兼勝卿、勤修寺宰相光豊卿伏見城へ参向せられ御対面あり。やがて京へわたらせ給ひて、上達部殿上人には御対面ましますべしと仰せださる(西洞院記)。 ○五日、伏見大坂にありし諸大名、皆な伏見城にまうのぼり歲首を賀し奉り、各時服かつげらる。近藤織部佐重勝が遺領一万石をその子信濃守政成に賜ふ。この重勝は織田家の臣間見仙千代に仕えし彌五右衛門重鄕が子にて、重勝も間見が家人たりしが、間見天正六年、伊丹の城にて討ち死にせしとき、右府もとより重勝が武名をしられしかば、召して堀久太郞秀政に属せらる。秀政卒して後その二男美作守親良に属し、慶長三年、豊臣家堀が所領を越前より越後に移さるゝに及んで、重勝には親良が封地の內にて别に一万石を分ち与えらる。その後重勝養子七郞太郞政成を携て大坂に参り、はじめて拜謁しける時、その先祖の事を問わせ給ふに、たゞ尾張国に住める九十郞と云う者の孫に候へども、稚くて父に別れ候へば詳しき事は知らざるよし聞え上げしに、汝が祖父は尾張国高圃の城を守り当家に忠ありしものなり。汝が子を召し出さるべしとの仰せを蒙りしかば、政成を奉りし時に、政成十三歲。小姓に召し出されぬ。重勝は京に住みてこの正月廿四日失せぬ。年は五十二なりとぞ(創業記。当代記。寬政重修譜)。 ○六日、昨日におなじ。 諸大夫以上時服かつげらるゝもの、昨今すべて九十八人なり(舜旧記。当代記)。 ○十日、神龍院梵舜まうのぼり春日八幡宇都宮等の事跡を御垂問あり。この日、松前志摩守慶広に鷹並びに駅馬の券を賜う(舜旧記。家譜)。 ○十一日、市人西野與三に占城国渡海の御朱印を下さる(御朱印帳)。 ○十二日、代官長谷川七左衛 門長綱卒す。その子久五郞某と云う(寬政重修譜。この家絕しゆへ家つぎし事詳ならず)。 ○十四日、昵近の公卿伏見城に参向して拜謁あり(西洞院記)。 ○十 八日、松前志摩守慶広滞府の料として月俸二百口給ふ(家譜)。 ○廿日、越前宰相秀康卿江戶へ参り、右大將殿御気色伺むた発程あり。雨の為に遅引し廿九日に淸洲までおはしぬ。右大將殿あらかじめ目付の輩に令せられ、諸駅の道路茶亭等洒掃おごそかにせしめ、又鷹師等を途中に出迎へしめ心任せに鷹狩りせしめ、江戶へ着かせらるゝ時は右大將殿御自ら品川の宿まで迎えさせ給い、直に伴い給ひて二丸に宿らせられ、僕従の類は大手門前大久保相摸守忠隣が家に宿らせられ、卿滞留の間は市に本城に召して饗宴を開かれ、実に家人の礼をとらせ給ひ友干の情を尽させ給ふ。衆皆な感ぜざるものなかりしとぞ。又南部信濃守利直が家人北尾張に右大將殿御自書並びに縮布三十反下さる。これは奥の馬度々御廐に引かれし事をつかうまつりしによれり。この後、桜庭兵助にも同じ事により、御自書並びに鞍鐙を賜う(越前年譜。落穗集。貞享書上)。 ○廿一日、淺野紀伊守幸長が家にならせ給ふ(御年譜)。 ○廿三日、関東大風雨洪水(当代記)。 ○廿五日、下野国板橋領主松平五左衛門一生卒しければ、その子松千代成重に所領一万石をつがしめらる。この一生は故五左衛門正近が子にて、天正十三年十一月十六日、浜松にをいてはじめて見え奉る(時に十六歲)。慶長五年、父近正伏見城にて忠死せしかば、その遺領を継ぎ上野国三蔵に住す。ほどなく上野国の所領を下野国板橋に移され、加恩ありて一万石を領す。七年、佐竹右京大夫義宣が封地を移さるゝにより、五月八日、松平周防守康重、由良信濃守貞繁、菅沼與五郞某、藤田能登守信吉等と共に水戶の城を勤番す。佐竹が旧臣車丹波等一揆をおこし、城をうかゞひし時、密に忍び入らんとせしを、一生が番所にて見とがめていけどり、その懷をさぐりて一揆の廻文を得たり。この夜一揆は三丸の八幡小路までよせ来るといへども、一生かねてその心して防ぎしかば一揆利を失て退く。翌日一生城番の人々と同じく謀り、丹波をはじめ酋賊ことごとくとらへ、江戶へ訴え誅戮せしめたり。今年三十五歲にて卒せしなり(寬政重修譜)。 ○廿七日、內藤修理亮淸成。靑山常陸介忠成。伊奈備前守忠次●相摸国藤沢の里正をめして戶塚駅訴論の事を裁断す(古文書)。 ◎この月、島津少將忠恒薩摩国を発して上洛せり(寬政重修譜)。 ○五月朔日、右大將殿御使(この御使の名伝わらず)筑前国博多へつかはされ、黑田筑前守長政が父如水入道が死をとはせられ御自書を賜り、香銀二百枚下さる(家譜)。 ○二日、神龍院梵舜伏見城に登る。御尋問により豊国明神臨時祭の事を聞え上る(舜旧記)。 ○ 三日、本多上野介正純、板倉伊賀守勝重より長崎舶来の白糸の事を令す。唐船着津の時かねて定めらるゝ所の父老等会議し糸価を定むべし。その価いまだ定まらざる間は、諸商長崎の港へ入る事を許さず、糸価治定の後は心まかせに商買すべしとなり。これは先に長崎へ唐船入津せし時、白糸若干積み乗せ来りしに、これを買いとる者なければ既に積み帰らんとせしとき、京堺の商人来り費をいとはず、その糸をことごとく買いとり、その翌年もまた若干のせ来りしにも、京堺の商人あまさず買い取りしかば、その賞としてこの後白糸はみな京堺のもの並びに長崎の土人買い取りて後、その余の諸物は諸国の商人買いとるべしとて、その制は糸百丸は京商、百丸は長崎商と定め、堺商は百廿丸と定めらる。これ先に積み来りたる糸多くは堺商買いとりし故とぞ聞えし。この時より糸割符の者十人と定めらる。諸国の商人輻湊する時、これを頭領するものなければ、混乱する事多きが故なり。又松平飛驒守忠政江戶へ参覲す(京監拔書。当代記)。 ○七日、下野守忠吉朝臣、攝津国有馬の温泉に浴せんがため淸洲を発程あり(創業記)。 ○十三日、程谷駅に駅馬の事を命ぜらる(古文書)。 ○十六日、三河国賀茂郡長興寺の住職を義超に命ぜられ御朱印を賜う。また神龍院梵舜伏見城にまう登り、僧承兌幷に水無瀨宰相親具入道一齋も拜謁す。吉田二位兼治に淸心圓を賜ふ(古文書。舜旧記)。 ○十八日、吉田二位兼治に御判物を賜うその文に曰く、豊国明神社家の事、左兵衛佐旣に吉田院を相続すれば、当社の事は先令の如く慶鶴丸に、二位の弟神龍院梵舜教導して何事も令すべし、明神御倉代官等の事異議すべらず、社中役人社頭以下の事社法の古例をみだるべからず、社務進止永く相違あるべからずとなり(舜旧記)。 ○ 十九日、吉田慶鶴丸神龍院梵舜伏見城へのぼり、昨日御判物たまはりしを謝して、慶鶴丸より単物十太刀馬代を献じ、梵舜より錫鉢二、権少輔某より扇十柄献じ、 豊国大明神臨時祭一番は狩衣三十騎、二番は田楽廿人、三番は上下京の市人造花笠鋒、四番申楽たるべき旨建白す(舜旧記)。 ○廿八日、松前志摩守慶廣從五位下に叙し伊豆守と改む(家譜。慶広今までは叙爵せずして私に志摩守と称せしの者)。 ◎この月、先に右大將殿より命ぜられたる諸国堠塚ことごとく成功す。徳永式部卿法印壽昌が二子式部昌成召し出されて近侍せしめらる。靑山藤蔵幸成は御勘気を蒙る。仏郞機工渡辺三郞太郞に豊後国葛城村にて采邑百石賜り、御名の一字を御自ら給ふ。この後御用器械にも皆な康の字を銘とすると云う(家忠日記。寬永系図。貞享書上)。 ○六月、朔日江戶城修築はじめあり (創業記。当代記)。 ○二日、福島左衛門大夫正則右大將殿御けしきをうかゞはんとて封地を発程す(当代記)。 ○四日、神龍院梵舜伏見城にのぼり豊国大明 神臨時祭の事建白す(舜旧記)。 ○六日、近江国彥根に新城築かるゝによて、役夫粮米運漕の事を板倉伊賀守勝重、日下部兵衛門定好、成瀨吉右衛門正一連署して、菅沼伊賀守定重をよび三河の代官松平淸蔵親家入道(一に親宅に作る)並びに東意等に伝う。この構造奉行は犬塚平右衞門忠次、山本新五衞門重成なり。また伊丹宗味へ呂宋渡海の御朱印を下さる(古文書。御朱印帳)。 ○十日、伏見城より二条へわたらせ給ふ。昵近の月卿雲客御道にむかへ奉る(西洞院記。御年譜並びに伊達家貞享書上に、今日、右大將家御入洛としるせしは誤なり。台德院殿この時は江戶にましませしなり)。 ○十二日、片桐市正且元、山內土佐守一豊、神龍院梵舜、二条にまうのぼり豊国社臨時祭の事を議せらる(舜旧記)。 ○十三日、松前伊豆守慶広御参內の時供奉すべしと命ぜらる(家譜)。 ○十五日、神龍院梵舜まうのぼる。この日、六鄕弾正道行卒す。その子兵庫頭政乘は是より先に、常陸国府中に於て一万石を賜りて别に家を立てたり(舜旧記。寬政重修譜)。 ○十六日、御参內あるべしとて嘉定の式を止めらる。然るに雨降りしかば御参內ものべらる。江戶にしては山田次郞大夫正久が子彥右衛門正淸、初めて右大將殿にまみえ奉り小姓となる(西洞院記。寬永系図)。 ○十七日、聊暑気におかされましまして御薬の事あり(創記業。当代記)。 ○十八日、御不豫によて御参內をのべ給ふ(西洞院記)。 ○廿日、相良左兵衛佐長毎老母を証人として江戶へ参らするにより、駅路人馬の御朱印を給ふ。これ西国大名の江戶へ証人を参らする権輿なりとぞ(寬永系図)。 ○廿二日、御平快により御参內。御直垂にて御輿にめさる。月卿雲客ことごとくまいり唐門の前にて迎え奉る。內にて御三献、女院の御方にて二献、長橋の局にて一献あり。この日、叙爵十六人。松平又八郞忠利は主殿頭、松平勘四郞信吉は安房守、水野三左衛門分長は備後守、水野新右衛門長勝は石見守、安藤五左衛門重信は対馬守、三淵彌四郞光行は伯耆守、三好爲三一任は因幡守、三好新右衛門房一は丹後守、佐々喜三郞長成は信濃守、森宗兵衞可政は対馬守、能勢總右衛門賴次は伊予守、東條某長賴は伊豆守、西尾某教次は信濃守、遠藤左馬助慶隆は但馬守、分部龍之助光信は左京亮、佐久間將監實勝は伊予守と称す(西洞院記。寬永系図。続武家補任。貞享書上)。 ○廿三日、攝家はじめ大臣公卿殿上人ことごとく二条城に参向して拜謁あり。参議以上太刀目録をさゝぐ。この日、堀尾帯刀可晴従四位下にのぼせらる。安藤次右衛門正次常陸国水戶の監使にさされ暇給ふ。下野国宇都宮明神の社御造営の事仰せ出さる。よて靑山常陸介忠成、內藤修理亮淸成、伊奈備前守忠次連署して材木の事を令す。大河內金兵衛秀綱は造営の奉行す(西洞院記。寬政重修譜。寬永系図。古文書。慶長五年、関が原の逆徒御征伐の時、当社に御奉幣ありしにより、同七年、社領を増加せられ、今年社を御造営ありしの者)。 ○廿四日、二条城にて猿楽を催 し給ひ、故豊臣太閤北政所高台院の方を招き饗せらる(西洞院記)。 ○廿五日、相国寺にならせられ僧承兌に五色五十給ふ。この日、坪內惣兵衛家定に与力十騎預けらる(舜旧記。寬政重修譜)。 ○廿七日、承兌が学舍へならせ給ふ。囲棋の御遊あり。今日暑甚し。黄昏雷雨(西洞院記)。 ○廿八日、松前伊豆守慶広帰国の暇を給ふ(家譜)。 ◎この月、大旱、摂津国昆陽池の鯉鮒等多く死す。島津少將忠恒仰により陸奥守と称す。又近衛左大臣信尹公病臥の由聞しめして御薬贈り給ふ。又相良左兵衛佐長毎が老母証人として江戶に参りければ、月俸五十口賜い、長毎にも備前の実長の御刀を賜う(当代記。寬政重修譜。西洞院記。貞享書上)。 |
(私論.私見)